古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上川俣天神社

『日本歴史地名大系』 「上川俣村」の解説
 [現在地名]羽生市上川俣
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、西方を会(あい)の川が流れる。桑崎(くわさき)村の北にあり、古くは東隣の本川俣(ほんかわまた)村と一村であった。天正六年(一五七八)三月七日、木戸元斎は上野国三夜沢(みよさわ)大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に羽生城回復を祈願し、祈願成就の際には埼玉郡河俣郷など三ヵ郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している(「木戸元斎願文」奈良原文書)。

        
              
・所在地 埼玉県羽生市上川俣1401
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧上川俣村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.188196,139.5185383,16.71z?hl=ja&entry=ttu
 羽生市北に鎮座する大天白神社、及び大天白公園から一旦国道122号線に戻り、右折し利根川方向に1.4㎞程進行する。「埼玉用水路」を越えた直後の信号を左折し、用水路沿いに進むと、斜め右方向に曲がる道幅の狭い路地があり、その先に上川俣天神社の白い石製の鳥居が見えてくる。
        
                 上川俣天神社 一の鳥居
          とにかく長い参道で、朱色の二の鳥居が小さく見える。
 実は十数年前にこの社は参拝したことがある。当時筆者は業務の関係で、南羽生駅付近に勤務し、時折「道の駅 はにゅう」にも出入りしていた関係で、その南東に鎮座していたこの社の存在は知っていたので、今回参拝に当たって、大体のイメージはついていた。
 この社の大きな特徴は、社の規模に対して、230m程の長い参道が真っ直ぐに続いていることにある。石製の一の鳥居から130m程参道を進むと朱の両部鳥居である二の鳥居にたどり着くが、そこから尚100m歩かなければ社殿に到着することができない。社の規模を考えると、この長い参道は普通ではない。
 苦労した点はまだある。社の場所は特定できたのだが、周辺に適当な駐車スペースが全くないことだ。確かに社に隣接して「上川俣地区集会所」があり、当初国道からのアプローチにて、北方向から試してみたのだが、集会所まで、車一台がやっとの道幅しかない路地を通らなければならず、結局そこから進むことを諦め、南側の埼玉用水路沿いから社に通じる路地を右折して臨んだ。やはりここも道幅は狭いのだが、そのまま直進して、二の鳥居近郊にあるごみ集積場付近の広い空間に駐車させてから、やっと参拝を開始することができた。ただし、そこから一旦東方向にある一の鳥居に戻らなければならず、また一苦労である。
 
  一の鳥居から僅かに見える二の鳥居        二の鳥居の前には神橋もある。
 羽生市上川俣地域は、東武伊勢崎線の西側、利根川南岸の自然堤防上に位置しており、写真を見て分かる通り、豊かな水田地帯である。
 この地には昔「藤原姓佐野氏流」から出た「川俣氏」が出ている。
『田原族譜』「佐野実綱(弘安九年没)―戸室七郎四郎親綱―重行―重正―出羽守親久(武州埼玉郡騎西城主)―親元―親邦―川俣左京進親義(川俣祖)」
        
             主を基調とした両部鳥居の二の鳥居
 一の鳥居の社号額には「天神社」と刻印されているが、この二の鳥居の社号額には「正一位 雷電宮 天満宮」と記されている。元々この社は住吉社・八幡社・天神社・白山社・愛宕社の五社に分かれていたが、慶安二年(1650)に統合して「天神社」という名称となったという。
        
            二の鳥居を過ぎて、また再度参道を進む。
    参拝日は夏本番の晴天。この地に立っているだけでも汗が全身に噴出す陽気。
        
                参道途中に設置されている「作詞家 関口義明先生の顕彰碑」
 関口義明氏は、昭和15年羽生市上川俣で生まれで、地元・川俣中学を出て羽生実業高等学校を卒業後、県内の銀行に勤務。その傍ら作詞に興味を持ち、ざっち「家の光」に投稿したところ一位に入賞し、東芝レコードに採用されて、昭和三十九年(1964)作詞した「あゝ上野駅」が大ヒッ トした。
日本の高度経済成長期、集団就職列車が上野駅に到着した時の、就職者の気持ちを歌った「あゝ上野駅」は郷愁を誘う人生の応援歌として、今なお若い人にも愛され歌われている。
 氏は、作詞家人生の五十年で三百を超える詩を作り、数多くの歌手にその詩が歌われ、この詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建立したという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上川俣村』
 上川俣村は元川俣村と一村の地なれば、すべてのこと前村(本川俣村)と異なるなし、民戸八十餘、東は本川俣村、南は桑崎村、西は小須賀・上新郷の二村にて、北は利根川を境として上野国邑樂郡梅原村なり、東西十三町、南北八九町、檢地は貞享四年甲府殿領知のとき糺せり、
 高札場 村の西にあり
 小名 寄居耕地 佐畑耕地 柳根 大門耕地
 利根川 北の境を流る、川幅三百間、水かさ増れるときは四百八十間に及べり、當村内にも龍藏川岸と云江戸運漕の河岸あり、川路二十六里、
 住吉社 〇八幡社 〇天神社 〇白山社 〇愛宕社
 以上村の鎭守なり、慶安二年五社合して、社領十五石五斗餘の御朱印を賜ふ、
 別當西照寺 新義眞言宗上羽生村正覺院末、住吉山淨土院と號す、本尊彌陀立像にて丈ニ尺三寸、運慶の作と云、
 大日堂 塔天神社 〇赤城社 二社共に西照寺持、
 
  拝殿の扁額には「天満宮」と記されている。            本 殿
 
  社殿左側に祀られている赤城大神の石碑     社殿右側に鎮座する境内社。詳細不明。
 
   境内右手方向に祀られている石碑群        並びに祀られている石碑等。左から愛宕社・
   左より住吉社、八幡社、武塔天神社    白山社、河伯水神・大杉明神、右側の社は不明。 
        
                  広々とした社の空間


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市自治会連合会だより」
    「境内碑文」等

 




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