古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

堤根伊奈利神社・樋上天満天神社

堤根伊奈利神社
        
               
・所在地 埼玉県行田市堤根742
               
・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
               
・社 格 旧堤根村鎮守
               
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1119305,139.4734587,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市旧吹上町内の下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北東方向に進み、新忍川を過ぎて最初の信号のある十字路を左折、200m程北上すると進行方向右手に堤根伊奈利神社が鎮座する場所に到着する。但し社が鎮座している場所から道路はやや離れていて、丁度民家が数件建っているので、やや目視しづらい場所にはある。
 社の北隣には「堤根農村センター」があり、その脇には駐車可能なスペースもあるので、そこに停めてから参拝を行う。
 渡柳常世岐姫神社とは南北に流れる武蔵水路を挟んで北西方向、直線距離にして700m程で、比較的近い位置関係にある。
        
                               
堤根伊奈利神社正面
『日本歴史地名大系』 「堤根村」の解説
 北から東へは渡柳村、北から西は樋上(ひのうえ)村、南は袋村(現吹上町)。古墳時代後期の円墳と集落遺跡がある。「風土記稿」は編纂当時、当村の属した郷庄名が不明であり、慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「向箕田郷ノ内忍領堤根村」と書かれたものがあったので、古くは足立郡であったかとする。
 村の西側にある古堤は天正一八年(一五九〇)石田三成が忍城を水攻めにした堤で、それが村名になった(風土記稿)。三成は「樋上邑・堤根村ヘ新堤ヲ築、袋・鎌塚・門井・棚田・大井村ノ古堤ヘ築合」(武蔵志)したという。石田堤として県の史跡に指定される。
        
『新編武蔵風土記稿 堤根村』には村名の由来として、「
村内の西方に古堤あり、袋村より起り樋上村に續けり、此堤は天正十八年石田三成忍城を水責にせんと、久下堤を切て荒川の水を堰入し時、新に築し所なりと云、後この堤の下に村落をなせし故、たゞちに村名とせり」と記されていて、石田三成が忍城を水攻めにした際の「堤」下に集落が形成され、その「堤下」が「堤根」に名称が転訛したという。
        
                              石段上に鎮座する拝殿覆屋
 周辺は元荒川流域周辺の低地帯であり、洪水対策の為の盛り土上に鎮座しているのであろう。

『新編武蔵風土記稿 堤根村』
 稻荷社二宇 一は本村にあり、一は新田にあり。共に鎭守とす。永徳寺の持、
   
 伊奈利神社
 当社は、往古より堤根の鎮守として祀られている。「明細帳」によれば、元禄期に堤根村が本村と新田に分かれたことにより、当社もまた両村に分かれ、本村のものは本田鎮守、新田のものは新田鎮守と称して祀られていたという。共に永徳寺を別当とし、享保1032日に神祇管領兼敏より正一位に叙され、この時贈られた神位の入った神璽筈は現在も両社に祀られている。
 明治初めの神仏分離によって永徳寺の管掌から離れたため、創建以来永徳寺の境内にあった本田鎮守を新田鎮守の境内に移し、新たに覆屋を造り、その中に両社の本殿を納め、今日の形となった。本殿は両社とも同一のもので、享保2年に建築された一間社流造りである。
 また、覆屋の中にはこの両社のほかに、天神社がある。この天神社は享保2年に、伊奈利神社の新築を契機に合祀されたものというが、資料を欠くため、元はどこにあったのかは不明である。
 現在、境内に樹木は少ないが、かつては鞍・櫓の大木が鬱蒼と茂っていた。しかし、昭和23年の永徳寺新築の際、これらの樹木を資材として提供し、その後植林した樹木も相次ぐ台風で倒れてしまったため、往時の面影はない。昭和53
年、境内地を利用した堤根農民センターの建設に伴い、境内の整備が行われ現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 石段を上った境内左側で、狛犬の右手には塞神の石碑がある(写真左)。またその石飛の右並びには、石碑二基(宇賀神・塞神、塞神)を祀っている屋根付きの「囲」、その隣には境内社がある(同右)。境内社の詳細は不明。

 塞神は、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神という。別名「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」といい、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
        
                       社殿から見た参道周辺の風景


樋上天満天神社
        
              ・所在地 埼玉県行田市樋上187
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧樋上村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1181384,139.4717502,17.33z?hl=ja&entry=ttu
 堤根伊奈利神社から南北に通じる道路を450m程北上すると、樋上天満天神社に到着する。『新編武蔵風土記稿 樋上村』においても、「正保の頃堤根村と一村なりしに、元祿の改めに分て二村とせり、されば領主の遷替、檢地の年代、用水等凡て堤根村に同じ」と記載され、元禄年間(16881704)前までは堤根村と一村であったという。
 それにしても昔から日本人は記録を小まめに残す几帳面な民族であったことが、このような文書一つ取ってみても分かる。そのおかげで、現代に生きる我々にも、祖先が辿った歴史の原風景が少しは分かるので大変ありがたい。
        
              道路沿いに鎮座する樋上天満天神社
『日本歴史地名大系 』「樋上村」の解説
 北は佐間村、西は下忍村、南は堤根村に接している。村域には古墳・方形周溝墓を含む集落跡の鴻池(こうち)・武良内(むらうち)の二遺跡がある。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に「堤根樋上」とみえ、幕府領で役高九一七石余。同一六年忍藩領となり、幕末まで変わらず。田園簿によると「樋上堤根村」の村高は高辻帳と同じ、反別は田方六九町二反余・畑方三五町二反余。元禄郷帳では樋上・堤根・堤根新田の三村に分けられ、いずれも三〇五石余に三等分されている。

 行田市下忍・樋上地域には、「高畑遺跡・武良内遺跡・鴻池遺跡」と呼ばれる古墳時代前期の遺跡が発掘されている。国道17号バイパスの建設に伴って昭和50年(1975)から翌年にかけて発掘された。北から南に三遺跡は並び、この順に調査は行われた。高畑遺跡は微高地上に立地し、古墳時代前期の住居跡や方形周溝墓などが発掘されている。武良内遺跡は忍川に接した自然堤防上に立地し、古墳時代前期の住居跡、方形周溝墓、埴輪をもつ古墳跡などが発掘されていて、早くから人の手による開発が進められた地であることが分かる。
        
                    拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿』
 天神社 村内の守なり、寶珠院持、

 天満天神社
 樋上の地名は、用水の樋に由来するというが詳細は不明である。地内に古墳後期の集落遺跡がある。
 社記に「慶長十三申年十二月本村検地帳二天神前或ハ天神後、天神キワト載セタリ然レバコレ以前ノ勧請ナルべシ」とある。
 また、口碑に「樋上天神社は、寛永年中家数も少なかった氏子が厚い信仰心から、高いお金を出し合って造ったもの」とあり、昭和52年に本殿覆屋の屋根替えをした時、寛永と宝暦の年紀がある棟札が見つかった。その後、棟札は再び棟に納められている。
「風土記稿」に「天神社 村内の鎮守なり、宝珠院持」とあり、真言宗宝珠院が別当であったことが知られる。
 本殿の床板は張られていない。これは当地が日光街道聖裏街道に当たり博徒の往来が多く、氏子もこの影響を受け当社に集まっては博打をした名残である。本殿は手入れを受けた時の逃連用抜け穴の入日であった。幣芯を失った金幣が、穴の上に一枚の板を置いて祀ってある。
 本殿前に置かれた石製の牛像一対は「享和元年酉五月吉日」の銘があり、佳作である。
 境内社に、大己貴命を祀ると伝えられる松社と、少彦名命を祀るという梅社があるが由緒は不詳である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        境内社・梅社               境内社・松社 
       
                          境内東側隅にある石碑等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
       

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