古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瀬戸井長良神社

 藤原長良(ふじわら ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。
 家督は同母で次男の良房が継いでいるとはいえ、名門藤原北家の長男という毛並の良さからか、高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。
 不思議な事に、藤原長良は、加賀権守(834年)、相模(権)守(843年)、讃岐守(846年)、伊勢守(850年)と幾多の国守に任命されているが、上野国の国主を務めたという事実は無く、またその国守に任命されている場所も、ほとんどが西日本であり、唯一相模(権)守のみ。またこの翌年承和11年(844年)に従四位上・参議に叙任され、公卿となっているので、たとえ相模国に赴任したとしても、せいぜい1年程度しかいなかったことになろう。
『日本歴史地名大系 』には「長良神社」の解説を載せている。
 瀬戸井(せどい)の西端、字宮下(みやした)にあり、祭神は藤原長良。この地方がしばしば乱れたとき、藤原長良が鎮撫したという。帰京して没したが、その恩徳を慕い神として祀るようになった。当社は貞観一一年(八六九)邑楽郡赤岩(あかいわ)城主赤井良遠が勧請し、社殿を造営、遷宮の式を行い郡中総鎮守としたのが祭祀の始まりといわれる。
 長良神社は邑楽・新田両郡一帯に二八社存在しているが、長柄(ながら)神社と同一とみる、つまり長良は長柄の誤りとする説もある。
『日本歴史地名大系 』によると、「東国平治の為、当地に下向し、衆庶を憐み仁恵を施し 任満ちて帰京」したとするが、現実の史実にそのような官歴はない。何とも不思議な社である。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町瀬戸井7971
            
・ご祭神 天照皇大神 藤原長良公
            
・社 格 旧佐貫荘宮付十二ヶ村総鎮守邑楽郡長良社本宮・旧郷社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.203088,139.4433439,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を2.3㎞西行すると、県道から少し離れた奥に見える社叢林と共に瀬戸井長良神社の石製の鳥居が見えてくる。
 正直一見派手さはない。しかしながら旧郷社の格式が示すように、県道から見ても社叢林は奥まで広がり、社全体の規模は大きく感じる。周囲には社の看板があるわけでもなく、時にお約束事ではないが、登り旗等で意識的に自らの存在をアピールする様子もない。それでいてその地にしっかりと根付いているような風格や存在感を漂わせているような重厚感ある社である。
        
                                 瀬戸井長良神社正面
      鳥居の右側に社号標柱が建ち、その手前には「猿田彦太神」の石碑がある。
         社殿は南向きで、鳥居の目の前には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「瀬戸井村」の解説
 南に利根川が流れ、東は上五箇(かみごか)村、西は赤岩村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・北河原村(現埼玉県行田市)、北は赤岩村・萱野(かやの)村。休泊(きゆうはく)堀の用水が赤岩村から当村の中央を東流して上五箇村に入る。「吾妻鏡」に記す宇治橋渡河にみえる藤原秀郷の後裔佐貫広綱の子瀬戸井五郎が当村に住したと伝える。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)は、小泉城(現大泉町)の城主冨岡氏の所領を示しており、そのなかに「館林領之内」として瀬戸井がみえる。近世は初め館林藩領。正保元年(一六四四)から寛文元年(一六六一)までの大給松平氏が藩主の期間は幕府領。
        
                               真っ直ぐな参道が続く。
     以前の参道の両側には桜並木となっていたようだが、今は伐採された模様。
千代田町 HP」には、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来であるという。
        
       拝殿までの参道左側には途中三本の脇道があり、境内社や石碑等が祀られている。
 一番手前の脇道に祀られている「御嶽三柱大神」、その両側にはそれぞれ「豊斟渟尊・国狭槌尊」「天御中主神」の石碑が祀られている。
「御嶽三柱大神」なる神はともかく、天之御中主神・豊斟渟尊・国狭槌尊は日本神話における「天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に生まれた別天津神(ことあまつかみ)、並びに神代七代のうちの二柱の神である。
 
 その先に祀られている境内社。詳細不明。   一番先に祀られている「千勝大神」の石柱
本来は二社あったのであろうが、今は右側のみ。
 
   境内社・石碑等の先にある神楽殿         境内に設置されている由緒板
        
                                   拝 殿
                  主 神 天照大神
                  御祭神 藤原長良公
          藤原長良嘗て東国平治の為め 当地に下向あり 衆庶を
         憐み仁恵を施し 任満ちて帰京後薨去し 貞観十一月三月
         十八日大和国春日神社の末社に列祀す 時に上野の住人赤
         井良遠なる者 長良公の餘徳を慕い之を本国に勧請せんと
         浴し 其の旨を奏聞しけるに叡感浅からず 即ち上野国佐
         貫荘本村に社殿造営の勅許あり 因りて翌年九月九日遷宮
         式を行なう 爾来佐貫荘の人民一向に信仰して宮附十二ヶ
          村の総鎮主とす 其の後文明年間より分社するもの多く
                             之を邑楽郡長良社の本宮と稱する
                            「境内 由緒板より引用」

        
                         拝殿向排部に精巧に施されている彫刻
 
         本 殿           本殿奥にポツンと祀られている一基の石祠
        
                  社殿からの一風景
 群馬県千代田町瀬戸井地域に鎮座している長良神社は、邑楽郡下や一部旧新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十二ヶ村の総鎮守であったという。長良神社はご祭神を藤原長良公としており、冒頭に述べたように、東国平治のためにこの地域に来て善政をしたので、土地の人々はその徳を慕って、既に春日神社の本社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。
 しかしそもそも東国とは無縁な藤原北家の長男が、この地に祀られていること自体、歴史的な事実ではないことであるので、実際は別の伝承が根底に隠されている可能性が高い。
「長良」は「長柄(ながら)」と同名ともいう。奈良市御所市名柄の旧名は大和国葛上郡長柄庄といい、同じ「長柄」を共有していて、『延喜式神明帳』に葛上郡長柄神社を載せている。『姓氏録・大和国神別』には「長柄首、天乃八重事代主神の後なり」と記載がされていて、ここのご祭神は「事代主神」である。事代主命の子孫が大和国葛上郡吐田郷長柄(現 奈良県御所市長柄)に移り住み、氏神として式内長柄明神を祀ったと云う。
 ところで、群馬県邑楽郡邑楽町には「長柄神社」が鎮座している。この社は、事代主命を祭神といるのだが、社伝によると、長柄一族が1400年前の飛鳥時代に利根川北岸の邑楽郡西南部に長柄郷を開発し、氏神の長柄明神を祭り草創したのがこの長柄神社という。
 この長柄神社には「長柄神社由緒」が設置されている。内容は以下の通りだ。
「長柄神社由緒」
当社は千四百年前、大和から邑楽郡に来て長柄郷を開発した長柄氏が始祖事代主命を祭神として草創しました。上野国神名帳に「正一位 長柄明神」と記された邑楽郡一ノ宮がこの社です。元慶五年(881
)に藤原長良公を合祀し、近郷の首社として崇拝され(以下略)
        
            利根川の度重なる洪水被害から身を挺して人々を守ろうと
          あえて河川堤防のすぐ北側に鎮座しているようにも見える。

 利根川中流域沿いに数十社点在する長良神社。鎮座地域が限定されているこの社は埼玉県元荒川左岸に鎮座している「久伊豆神社」と同様に、ある特定の一族で信奉されたお社である可能性が高い。そう考えると、事代主命の子孫である「長柄氏」の渡来地を「長柄」「長良」「永良」と称し、社をつくり、祖神の事代主命を祀った。
 本来は「長柄氏」のいずれかがこの地域に善政をした事項、恐らく利根川治水関係で業績を上げた人物と思われる(瀬戸井北の大沼の大蛇伝承を参照)が、時代が下るにつれて、年代が比較的近く、また藤原北家という毛並の良さも手伝って、いつの間にか「藤原長良公」が鎮撫したと書き換えられたのではなかろうか。
 何となく、この邑楽町の長柄神社由緒に記されている内容のほうが、筆者にはよりリアルに感じるのだが、如何であろうか。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田町 HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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