古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八町河原稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町八町河原468
             
・ご祭神 倉稲魂命 他十柱
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社 格 旧八町河原村鎮守・旧村社
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「延喜式神名帳 武蔵國賀美郡 今木青坂稲実荒御魂神社」比定社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春季例祭 43日 例大祭 113
 上里町石神社から北東方向に通じる道路を直進し、1.2㎞程先の十字路を左折し、利根川堤防方向に進むと、その手前付近に八町河原稲荷神社は鎮座している。
地図を確認すると、利根川と烏(からす)川の合流点南岸の低地帯にあり、埼玉県最北部に位置している社のようである。
 この社の寛永四年(1627)銘をもつ石祠には「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していた時期もあったらしい。神川町の肥土廣野大神社の例もあるが、河川流域付近の社には、洪水等の自然災害は近代史前では、不定期に起こること自体宿命的な出来事ともいえよう。八町河原稲荷神社も、自然災害から地元住民を守る為に建立されたお社なのであろう。
        
                                八町河原稲荷神社
          正面からの撮影は禁止という事で、やや斜めからの風景
『日本歴史地名大系』 「八町河原村」の解説
八丁河原とも記す。利根川と烏(からす)川の合流点南岸に位置し、烏川の対岸は上野国那波郡沼之上(ぬまのうえ)村(現群馬県玉村町)、東は児玉郡新井村(現本庄市)、西は忍保(おしぼ)村。八町河岸(八丁河岸)および上野国に至る三国街道の渡船場(八町河原渡)があった。北条氏邦領について記録した鉢形北条家臣分限録(埼玉叢書)に「本国山城、千貫、随臣、加美八町河原住、桑原玄蕃」とみえる。地内にある稲荷神社の寛永四年(一六二七)銘をもつ石祠に「上州那波郡八町河原之持」とあり、当時は烏川・利根川の流路変更によって上野国に所属していたらしい。近世初期には本庄城主小笠原信嶺の知行地とされる(享保一二年「庄田三郎兵衛覚書」庄田家文書)

       
             社号標柱               趣のある手水舎
        
              鳥居近辺に設置されている案内板
 稲荷神社 御由緒  上里町八町河原2266
 □御祭神

 ・倉稲魂命 ・誉田別尊 ・罔象女神  ・菊理媛命
 ・伊弊諾尊 ・伊弊冉尊 ・天照大御神 ・豊受姫命
 ・迦具土命 ・大物主今 ・菅原道真公
 □御縁起(歴史)

 当社は八町河原の小字の一つである本村の北端に鎮座する。創建年代は、「児玉郡誌」に宝徳年中(西 一四四九-五二〉、「郡村誌」に天文年中(西 一五三二-五五)、「風土記稿」には天正年間(西 一五七三-九二)とそれぞれ載せられており、遅くとも中世後期には勧請されたことをうかがわせる。鎮座地については、「郡村誌」に「往昔は鳥川の畔にあり、其後安政6己未年(西 一八五九)八月中洪水に罹り社地崩壊せり、同年十一月本村の中央に仮宮建立遷座す」と記されている。
 本殿には、「稲荷大明神」「享保四己亥(西 一七一九)霜月吉祥日京稲荷社愛染法院暁雄」}と墨書された神璽筥が奉安されており、京都の伏見稲荷神社から拝受したことが知られる。
 明治四〇年二月十三日、八幡神社(植竹)、水神社(水神前)、白山神社(前河原)及び境内の神明愛宕、琴平、北野の各神社を合祀している。
 本殿右の大欅の元には、寛永四年(西 一六二七)上州那波之郡、八町河原之持と刻まれた石祀があり、その他境内には寛永四年建立の雷電神社や江戸期に栄えた八丁河原の舟運利用の永の神である大杉神社などが祀られている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』
 稻荷社 村の鎭守なり、天正の頃觀請すと云、宮守を關口和泉と云、先祖は要人とて、是もその頃の人なりと云、觀音寺持、下七社同じ、〇雷電社 〇水神社 〇天神社 〇神明社 〇愛宕社 〇大杉社 〇八幡社、
 觀音寺 新義真言宗、京都智積院末、中興僧快〇寶永五年修理すと云、本尊大日を安ぜり、
『新編武蔵風土記稿 八町河原村』に記載がある「関口氏」は他にも、『武蔵国児玉郡誌』に「寛永三年神主関口丹波、正徳三年神主関口左馬之助、其後関口和泉神主となる」と見える。因みにこの関口姓は武蔵国、上野国等に多く存在するようだ。
        
                     本 殿
 別当の観音寺は真言宗の寺院で、延宝元年(1673)に開創されたと伝えられるが、明治初年の神仏分離により観音寺から離れた。明治5年村社に列する。明治40年4月23日八幡神社(字植竹鎮座、祭神誉田別尊、慶長13(1608)創建、祭日815日)、水神社(字水神前鎮座、祭神美津和売命、天保元年(1830)創建)、白山神社(字前河原鎮座)及び境内の神明神社、愛宕神社、琴平神社、北野神社の各神社を本社に合祀しているという。
       
                       社殿西側には豊かな社叢林が広がる(写真左・右)
           この林は位置的に見ても防風林の役割もあるようだ。
 
  境内西側奥にある鳥居の笠木・島木部         社殿右側にある神興庫
以前あった鳥居を大切に保管しているのであろう  地域の祭りの山車(?)が保管されている
       
       ご神木(写真左・右)とその幹部分に祀られている寛永4年(1627)銘をもつ石祠。
        
                   社殿からの風景
        
                         境内南側隅に祀られている庚申塚、仏様等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「上里 菅原神社HP」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等
 

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