古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野氷川神社・野久伊豆神社

 野氷川神社
        
              
・所在地 埼玉県行田市野8851
              
・ご祭神 素盞嗚尊
              
・社 格 旧野村鎮守
              ・
例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1049547,139.4912071,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社正面鳥居前の埼玉県道77号行田蓮田線、通称「古墳通り」を鴻巣市方向に進行し、2.6㎞程先にある十字路を右折し暫く進むと、正面に野氷川神社の社殿が見えてくる。但しよく見ると社殿は背を向けているので、右回り方向に迂回して正面鳥居方向に進まなければならない。
 正面の鳥居がある右側には「野文化センター」があり、参道とセンターの間は大きな広場になっていて駐車可能なスペースは十分にある。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                    野氷川神社正面
 野地域は行田市南部に位置し、鴻巣市と境を接している。この「野」という名前の由来は、『新編武蔵風土記稿』によると、「慶長年中(15961615)広野を開発したことに由来する」と伝えている。
 野氷川神社の創建年代は不詳だが、境内碑文によると天文年間に荒川が氾濫しないよう願い氷川様を勧請して創建したと伝えられ、野村原組の鎮守社であったという。明治41年には、野村に鎮座していた他の天神社(野天満大自在天神)・八幡社・新明社(野神明社)・諏訪神社を合祀、野村の鎮守となったという。
        
                   参道の様子
        
                    拝 殿
 野地域の伝統芸能として、行田市指定民俗文化財・無形民俗文化財(指定年月日:平成21730日)に「野の獅子舞」が奉納されている。
「行田市HP」
 野のささら獅子舞は市内野地区に伝わる民俗芸能で、現在は野村ささら獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、疫病退散、天下泰平、家内安全を祈願して、久伊豆神社、諏訪神社、聖天様(満願寺)、氷川神社などに奉納されています。
 起源については不詳ですが、確認されている最も古い記録には、諏訪大明神の「祭礼入用覚帳」の中で江戸時代後半の文政4年(1821)に「簓(ささら)」という言葉が記載されており、言い伝えでは約300年位前から始まったと言われています。
 獅子は太夫獅子(だゆうじし)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に先達(法螺貝)、幣束、万灯、面化(めんか)、歌、笛、獅子、花籠(はなかご)などで構成されています。
 ひとり立ち3頭のささら獅子舞とよばれ、獅子は腹に太鼓を結わえて叩きながら舞い、そこに4人の花籠がささらを持って舞いに加わります。曲目は「雌獅子隠し(めじしかくし)」で、3頭の獅子が花籠の周りを舞っているうちに雌獅子が隠れてしまいます。太夫獅子と雄獅子が探し回り、一方が先に見つけて楽しく遊び始めます。それを見た一方の獅子が怒って争いを始めるという筋書きです。一曲形式で勇壮な舞に特色があります。
 現在は10月下旬(第4
日曜日)に実施されています。
        
                拝殿の手前にある「力石」
 
                             本 殿             社殿左側に設置されている石碑。                  
 氷川神社
 当地は元荒川の左岸に広がる農業地帯である。この元荒川は寛永六年に関東郡代伊奈半十郎忠道が河川改修を行うまでは、荒川の本流であった。それまでの荒川といえば、その名が示す通りの暴れ川で、四年に一度は必ず氾濫していたといわれている。そこで、こうした度々の災害に困窮した村人たちが川の神様であるという氷川様を祀り、川が荒れないように願ったのが当社の創建であると伝えられ、境内にある「氷川神社の碑」の碑文によると、それは天文年間のこととされている。祭神は素盞嗚尊で、本殿は「風土記稿」に載る「元和二年再建」のものと思われ、美しい彫刻が施されている。
 当社は元来、野村全体の鎮守ではなく、その一耕地である原組の鎮守であり、ほかの耕地では各々の鎮守を祀っていた。ところが、明治四一年の合祀により、周りの耕地の鎮守であった天神社・八幡社・新明社・諏訪神社を合祀したことから、村鎮守として祀られるようになった。ただし、合祀した諸社の社殿はそのまま旧地に残され、今もそれぞれの耕地の人々の手で祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
             社殿の右側奥にある石碑群(写真左・右)
        
                                  社殿からの一風景

 野久伊豆神社
        
               ・所在地 埼玉県行田市野647
               ・ご祭神 大己貴命
               ・社 格 不明
               ・例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
        野氷川神社から南方400m程の場所に鎮座している野久伊豆神社。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系』 「野村」の解説
 北は埼玉・利田(かがた)・渡柳・堤根(つつみね)の四村、南は元荒川を隔てて足立郡川面(かわづら)・箕田(みだの)両村(現鴻巣市)。洪積層微高地上にあり、地域内に縄文・古墳時代の集落遺跡が数ヵ所残る。地名は慶長年中(一五九六〜一六一五)広野を開発したことに由来すると伝えるが(風土記稿)、村内の正覚寺・満願寺とも開山は戦国期の僧であり、また満願寺には元亨四年(一三二四)建立の板碑がある。
 寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高六五七石余で、かつて忍おし城番であった旗本高木領。田園簿によれば田高四三〇石余・畑高五五四石余。
        
                                      拝 殿
 久伊豆神社
「風土記稿」によれば、当地は元は広い野原であったが、慶長年間開発し、野村と称したという。
 当社は天台宗正覚寺持であり、村鎮守は氷川社で、これも正覚寺持、元和二年の棟札が残っている。
 当地は、市の最東南端に当たり、戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させたと伝えられ、当時の記録を失った現在では、この迷路のような道が、唯一往時をしのばせるものとなっている。
 文久二年四月二五日付けで、伯家から正一位久伊豆大明神の神階を受けている。
 祭神は大己貴命であり、祭神について口碑はせっつぁま(久伊豆様)の鎮まる所を中耕地という。これはせっつぁまが情け深く、人の面倒みのよい神様で、そのお蔭で今まで耕地内でもめごとが起こったことがなく、仲がよい耕地ということで中耕地と呼ぶという。また中耕地の旦那寺満願寺は、妻沼聖天様の本家で仲がよい仏様であるから名付けられたともいう。
 拝殿を兼ねた覆屋の中に、一間社流造りの本殿と末社雷電社がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」によると、「戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させた」と記載され、実際地図を確認すると、野地域自体、円形の集落を成していて、その中心部に野久伊豆神社は位置している。
 確かに、埼玉の神社が解説したことも一因として考えられるが、この地は嘗て荒川本流が幾重にも乱流していた地域であったことは忘れてはいけない。この地形を鑑みれば、荒川氾濫後にできた自然堤防を道として人々は利用し、それが後に、忍城の防御線として、道を迷路のように屈曲させたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
  

拍手[0回]