古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山河伊奈利大神社

   
               ・所在地 埼玉県深谷市山河636-1
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 祈年祭 227日 例祭 1015日 新嘗祭 1127
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。
 山河伊奈利大神社は、国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部」交差点を左折、北武蔵広域農道を南下する。高崎線と交わる高架橋を越えてから最初の交差点を右折。コスモス街道・正式名称は深谷市道岡5号線というらしいが、その道路を1.3㎞程進むと埼玉県道353号針ヶ谷岡線と交わる交差点があるので、そこを左折し、そのまま600m程進むと、交差点付近手前右側に山河伊奈利神社の境内が見えてくる。
 
社に隣接した社務所兼山河会館があり、会館手前には広大な駐車スペースも確保されており、そこに停めて参拝を行う。
        
                     
山河伊奈利神社正面
 深谷市「山河」地区は現在「やまが」と読むが、柏合村明治十三年八海山講碑には「山カハ」と見え、新選武蔵風土記稿にも「山川(ヤマカワ)」村との記載がある。
 
     道路沿いにある一の鳥居            案内板も設置されている。
 伊奈利大神社 
 所在地 岡部町大字山河六三六番地の一
 祭神  倉稲魂命
 沿革    当社の創建年代は明らかではないが、約0.7km西方の字茶臼山に位置する伊奈利塚古墳の上に祭られていたものをいつの頃か現在地に移したと伝える。
 当社の周辺には中世の館跡があり、だんだら山、または馬場屋敷と称されていた。現在は、わずかに痕跡をとどめる程度であるが、かつては、空堀を巡らしていたと伝えられている。この館は、山河村が戦国時代に深谷上杉氏の領地であった時、上杉氏により設置されたもので伊奈利神社は、この館の鬼門除として、館の丑寅(東北方)の位置に存在する。鬼門とは反対側に寺院(昌楽寺)が置かれた。
 当社は、嘉永二(一八四九)年、二月に燈明の火により全焼しているが、神殿は塗替のため長養寺に移されていたため消失をまぬがれている。
 現在の社殿は、嘉永五(一八五二)年に再建されたものである。
                                      案内板より引用
 
 参道は2本あって、左より伊奈利大神社への社殿に向かう正面道と、その右側に末社である八坂神社(写真右)へ向かう脇道(同左)があり、八坂神社の左隣には大国主命の石祠。さらにその右側は社務所兼山河会館、また火の見櫓も含めた広い駐車場がある。
        
                                   朱色の二の鳥居
                 参道の先には社殿が見える。
        
                                        拝 殿
 山河伊奈利大神社正面鳥居脇にある「県営土地改良竣工記念碑」によると、この山河区域は、嘗て耕道らしい道路もなく、屈曲も甚だしく、幅も狭い野道を利用し、また排水路も皆無の状態で、雨期や豪雨には野道が排水路化してしまう状態であった。また水資源にも乏しく、干ばつによる被害は甚大で、一部水田耕作する場所も天水による以外なく、種付不能箇所が所々に点在した状態であったという。
 そこで昭和411112日に岡部土地改良区が設立認可され、地域住民の一同の多年の願望であった道路並びに用水路排水路の新設、同時に土地改良基盤整備の施行となったとの記載がある。

 つい560年前の話ではあるが、嘗てのこの国の農業基盤はほとんど自然の恩恵による作物の出来高次第で決まる時代が長く続いていたのだという事がこの句碑からも分かる。
        
                  拝殿 向拝の龍
 
 拝殿の所々には見事な彫刻が施されている(写真左・右)更に極彩色豊かな素晴らしい本殿もあるという。案内板によれば、嘉永二年の火災の時には、偶々塗り替えの為に隣の長養寺に移されていて、焼失を逃れたそうだ。
 
   社殿奥に鎮座する石祠。詳細不明           富士御嶽塚か
        
                  境内社蚕影山神社
       近年まで養蚕倍盛の神として山河地区氏子の信仰が厚かったという。

 日本に養蚕が伝わったのは弥生時代とされている。今から約 1,700 年前に書かれた、卑弥呼の記述で有名な『魏志倭人伝』には当時の倭で養蚕が行われていたことが記されている。絹織物は上流階級の衣服として生産が続けられたが、庶民階級にまで普及されたのが江戸時代で、幕府は国内での養蚕を奨励し、埼玉県内でも秩父絹や小川絹、川越絹など、地名を冠した商品としての絹織物の産地が生まれる。
 安政 6 年(1859)、ペリーの来航によってそれまでの鎖国を解いて開港すると、諸外国との貿易が盛んになり、日本からの主な輸出品は蚕種(蚕の卵)と生糸、茶で、政府は重要な輸出品目を生み出す養蚕を奨励、埼玉県内でも村々へ桑を植えるように勧めるなど、養蚕を奨励した。

 山河伊奈利大神社では、養蚕がほとんど行なわれなくなった現在でも、当時の名残で、春季例大祭の祭典のときには「言別(ことわ)きて白(もう)さく」と蚕影山神社の神に祈願が捧げられるという。

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