古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

寿諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市寿2121
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 祈年祭 43日 祇園祭 715日に近い土・日曜日
                  
例祭 1017日 新嘗祭 1217
 国道17号線を本庄市街地方向に進み、「寿三丁目」交差点を右折、通称「南大通り」と称する埼玉県道23号藤岡本庄線を800m程進行し、コンビニエンスストアが右側に見える交差点を右折する。その後、すぐ先の「寿1丁目」交差点を右折し、暫く進むと進行方向左手に寿諏訪神社が見えてくる。
 社と社務所らしき建物の間には駐車可能なスペースもあり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  
寿諏訪神社正面
 氏子区域は、近世の諏訪新田の範囲を継承する地域であり、明治以降は本庄町の小字となり、昭和20年代に「諏訪町」と称するようになった。昭和45年と47年に町名変更が実施され、諏訪町は「寿」「日の出」「東台」に分散されてしまったが、諏訪町自治会の組織は、そのまま継承されており、氏子組織の基盤となっているという。
 
鳥居には「諏訪大明神」と刻まれた社号額あり   鳥居の左側には案内板が設置されている。
        
                              境内にある立派な神楽殿
 当地には古くから神楽が伝わり、金鑽神楽本庄組と称する神楽師の組織を作っている。神楽の始まりは、上野台村(深谷氏上野台)の八幡神社に古くから伝わる神楽が、岡村(岡部町岡)の森田組を経由して、江戸後期に当地に伝えられたといわれている。
 文政八年(一八二五)の神祇管領長上家御役所から本庄宿の金鑽神社総代と宿役人あてに出された文書が現存し、その内容は、願いにより金鑽神社神前での太々神楽執行を許可したもので、この文書により、本庄組の起こりは文政八年まで遡ることが証明されている。
 その後、明治に入ってからは、児玉・大里地方に伝わる神楽が、大宮住吉神社(坂戸市塚越)の神楽を伝承したといわれる金鑽神楽を中心に統一され、本庄組もこの一つに加わったという。
 また本庄組は、当社の春秋の祭りに奉納するのはもちろん、本庄市内をはじめ群馬県尾島町(現太田市尾島町)の八坂神社等十二の社に頼まれて奉奏しているとのことだ。
 
           境内の真ん中付近に手水舎があり、その脇に
            立派なご神木が聳えている(写真左・右)
        
                    拝 殿
 諏訪神社  本庄市寿二— -—二一(本庄町字諏訪新田)
 当地は、本庄台地北端に位置する。 本庄は、古くは若泉庄に属しその本荘(本郷)の地であったことから、この地名が起こったという。弘治二年(一五五六)に児玉党庄氏の末裔に当たる本庄宮内少輔実忠が、現在の本庄市北堀字東本庄から館(後の本庄城)を当地内に移した。天正十八年(一五九〇)には新しい城主として徳川家康の家臣小笠原信嶺が配置され、本庄領として一万石を領した。この信嶺は、江幕府が中山道を整備する一環として本庄宿の屋敷割りを行い、以後中山道の両側には急速に人々が住み着き、町並みを形成していった。本庄宿は周辺の村々とは異なり「町内」という自治組織に近い寄り合いを作った。諏訪新田も、このころには集落を形成していたという。
 当社は、諏訪新田の北西端にある小高い丘の上に鎮座する。すぐ裏手には、「道満窪」と呼ばれる湧水池があったというが、現在は見られない。このことから、新田開発の早い時期に、田畑を潤す湧水池の傍らに耕地の守護神として諏訪神が勧請され、集落が形成されていくなかで、諏訪新田の地名が付けられたものと推測される。
『風土記稿』本庄宿の項には「諏訪社村持」と載る。
 明治に入り、社格制定に際して当社は無格社とされた。昭和四十七年には、社殿新築奉賛会が設立され、翌年には本殿外宇・幣殿・拝殿が新築された。

                                  「埼玉の神社」より引用
        
         北側にある広い空間である境内地より本殿方向を撮影
        
              社殿の左側に祀られている末社七基
           「埼玉の神社」に載せられている社は「天神社」
         「天手長男社」「琴平社」「養蚕社」「稲荷社」の五社
        
            社殿の右側に祀られている境内社・八坂神社
 当社の祭りの中で一番盛大なものは、715日に近い土・日曜日の2日間かけて行われる末社八坂神社の祭礼である「祇園祭り」である。本町・台町・朝日町にも八坂神社が鎮座し、嘗ては15日に各神社が独自に祭礼を行っていたものを、市観光協会が主導して市を挙げての祭りとして統一し、更に、より多くの人たちが参加できるように、祭日を15日に近い土・日曜日に変更したという。
        
                  社殿からの一風景



      

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栗崎金鑽神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市栗崎152
             
・ご祭神 天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊
             
・社 格 旧栗崎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 225  例祭 1019  新嘗祭 1215日 他
 本庄早稲田駅北口から北陸新幹線沿いに走る埼玉県道86号花園本庄線を東行し、550m程進んだ信号のある交差点を右折、「マリーゴールドの丘公園」のある緩やかな高台を過ぎたすぐ右手に栗崎金鑽神社の木製の鳥居が見えてくる。地図を確認すると、本庄早稲田駅から東側の浅見山丘陵の東端に位置している
 鳥居のすぐ右手に数台分駐車可能な専用駐車場が完備されていて大変ありがたい。
        
                  栗崎金鑽神社正面
『日本歴史地名大系』 「栗崎村」の解説
 浅見山(あざみやま・大久保山)丘陵と台地を開析する沖積低地および集落が立地する微高地にまたがる村。北東流する小山川の南岸は水田地帯、西部は丘陵となる。東は榛沢郡榛沢村(現岡部町)、南は小茂田村(現美里町)、西は下浅見村(現児玉町)、北は東から北堀村・東富田村・四方田(しほうでん)村に接し、小茂田村との境界は古代の条里線上にあたる。栃木県日光市輪王寺が所蔵する応永三年(一三九六)一〇月一八日の大般若経巻四四七奥書に、「於西本庄栗崎有勝寺書写了」とある。天正八年(一五八〇)一二月一日、鉢形はちがた城(現寄居町)城主北条氏邦は長谷部備前守に上野の武田方への塩荷を押えることを命じているが、その範囲のなかに栗崎が含まれている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)。
 
          鳥居の左右に設置されている社の案内板 (写真左・右)
        
  浅見山丘陵地端部に位置している為、緩やかな上り斜面となり、社殿へと続いている。
「本庄の地名(本庄地域編)HP」によると、社が鎮座している「字」は「東谷」といい、大久保山(浅見山丘陵)沿いにある地名であるが、この周辺にはそのほかに「谷(やつ)」「西谷(にしやつ)」もあり、この丘陵地にある幾筋の谷が由来となっている。そして、西よりの谷を西谷、東側の谷を東谷と呼んでいるという。この中には栗崎から下浅見に通じる古い道路があり、中世においては児玉党の庄氏一族である庄氏・本庄氏・四方田氏・阿佐美氏等が行き来をしたのであろうと推測される。
        
                    拝 殿
 金鑽神社  本庄市栗崎一五二(栗崎字東谷)
 当地は浅見山丘陵の東端に位置し、地内を小山川(身馴川)が貫流している。
『風土記稿』によると、当社は真言宗宥勝寺の項に記載され、「金鑽明神社 是を村内の鎮守とす(以下略)」とあり、同寺の東北約二〇〇メートルに鎮座することから、寺の鬼門除けに二宮金鑚神社を勧請したとも想定される。同寺の開山法印良運は建仁二年(一二〇二)示寂と伝えることから、寺の創建は鎌倉初期と思われる。また、同寺は慶長元年(一六四八)に徳川家光より朱印十石を与えられている。
 金鑚神社は九郷用水沿いの村々に分布し、農耕・利水の神として祀られ、児玉党とのかかわりが深い。ちなみに、当地は児玉党庄氏の本貫地で、宥勝寺には一ノ谷合戦で戦死した庄小太郎頼家の墓 (県指定旧跡))がある。また館と思われる遺跡が当社の東約五〇〇メートルに在る。
 社伝によると、明和七年(一七七〇)に地内の御料分が川越城主松平大和守の所領となってより、特に崇敬が厚く社殿改修の折に金品の奉納があったという。また、古くから雨乞いが行われ、干ばつ時には代官を派遣して祈雨祭を実施したとされる。
 祭神は天照大御神・素盞鳴尊・日本武尊の三柱である。境内社は、天神社・琴平社・八坂社・蚕影社などである。天神社と琴平社は明治四十一年四月二日に境内神社として村内より移転されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                   拝殿にも社の案内板が設置されている。
神社由緒書
埼玉県児玉郡北泉村大字栗崎一五二番地鎮座
金鑽神社
祭神 天照大御神 素盞鳴尊 日本武尊
由緒 當社ハ栗崎ノ総鎮守ニシテ社格ハ村社ナリ 當社ノ創立古老ノ口碑ニ曰ク往古延喜式名神大社金鑽神社ヲ奉還セシ所ナリト 中世児玉等ノ宗家庄太郎家長當地ニ築城以来崇敬最モ深カリシト 下ッテ德川時代ニ至リ諸侯交々所領セラルヽモ能ク尊信セラレタリ 次テ明和年中ニ至リテハ松平大和守外三家ノ所領トナリシカ崇敬厚ク改造ノ都度金品ノ寄進アリ 社格ハ明治五年旧入間県ヘ申立済
大祭日 祈年祭 二月二十五日
    例 察 十月十九日
    新嘗祭 十二月十五日
 
                                      案内板より引用  
 
 社殿の左側に祀られている境内社・天神社    天神社の左並びに祀られている琴平社
       
         天神社・琴平社の奥で斜面上に祀られている石祠・石碑群
 一番手前で左側に見える石碑は「猿田彦大神」。その奥で、右側にある石碑は「蠶影大神」。一番奥に見える石祠二基及び石碑は、左から「諏訪神社」「石神井神社」の石祠、「摩利支天」と刻印された石碑。 
「蠶影大神」に関しては、413日の蚕影祭があり、この祭りは養蚕倍盛を祈る祭りで、各家庭に五色の祓串で蚕室を祓い、蚕の大当たりを願った。昭和60年ころから養蚕農家が皆無となり、祭典中止の意見もあったが、今までのお礼の意味を込めた祭りとして続けられている。境内の石碑の前で祭典を行う。供えた五色の祓串は、祭番の班長が戸数分ずつ各班長に渡して配布するという。

 社殿の奥で、諏訪神社・石神井神社等の石祠や石碑の右側並びに祀られている石祠等もある。

一番左側の石碑は「御嶽山三社太神」、右並びに祀られている石祠は「八幡神社」「戸隠神社」「雷電神社」(写真左)。更にその右側には「愛宕神社」「八坂神社」等の石祠が、一番右側には「富士仙元大菩薩」と読める石碑が祀られている(同右)。
 八坂神社の祭りもあり、7月15日の八坂神社祭は「お祇園」とも呼ばれる夏祭りで、子供神輿が地域内を練り歩く。昭和50年代中ごろから15日に近い土曜日に実施されている本庄市全体の神輿パレードに参加するようになったので、祭日を変更している。子供神輿の渡御は、男女の小学生を中心に保護者の子供会役員・自治会長・総代など地域の役員が参加するという。
       
            社殿奥に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
        
               社殿から斜面下の鳥居を望む。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄の地名(本庄地域編)HP
    「境内案内板」等
                
      
             
        
  

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下野堂二柱神社

 本庄市下野堂地域。この下野堂という地域名はなかなか特徴的だ。調べてみると、江戸時代以前は下野堂村と杉山村は一村であったようで、下野堂村の明治9年(1876)の『地誌取調書上帳』(市史資料編所収)には、「本村古時同郡小島村と一村タリト云」とあり、さらに「永禄之頃分村セシト云伝フ、本村地方ハ上二杉林アリ、下二堂アリ、故二杉山村ト称ス、文禄ノ頃、又二村トナル、下二堂アルヲ以テ下野堂村ト称ス」とある。また「今杉ノ根、堂場等ノ称残レリ、是杉山下野堂村名ノ因而起ル所ナリトゾ」と記している。つまり下野堂の由来は「下に堂」があったからとするが、「下」の意味は不明との事だ。
 大正3年(1914)に書かれた「下野堂村創業誌」(市史資料編所収)には、下野堂村の開発状況が記されている。「本村往昔ハ小島ノ原ト唱ヒ、一般ノ原野ナリ」とあり、『廻国雑記』の記述を参考にしたものと思われる。
 また、下野堂二柱神社の由緒として「鎮守聖天ハ信玄公帰依ノ尊躰ナリト云フ、勘解由四門造ノ堂ヲ建立シ安置ス、世人四門堂聖天ト云フ、是レ村名ノ起因ナリ」とあり、「下の堂」と「四門堂」が下野堂の由来としている。このことから下野堂の発音は「シモンドウ」と呼ばれていたのが、現在は漢字表記から「シモノドウ」と呼ぶようになったという
        
             
・所在地 埼玉県本庄市下野堂1212
             
・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
             
・社 格 旧下野堂村、杉山村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春の大祭 43日 天王様 715日 大祓 720
                  秋の大祭 113日 新嘗祭 125日 御手長様 1219
 小島諏訪神社から一旦北上し、国道17号線に合流後左折し、「小島(北)」交差点を左折する。「蛭子塚通り」を300m程南西方向に進んだ先の十字路を左折すると、すぐ左手に下野堂二柱神社が見えてくる。社の周囲は綺麗に区画整理され、住宅街が建ち並ぶ中に鎮座している。
        
                 
下野堂二柱神社正面
『日本歴史地名大系 』「下野堂村」の解説
 下ノ堂とも記す。本庄台地の末端、小島(おじま)村の西に位置し、畑作を中心とした村。北東部を中山道が通る。杉山村集落の中心部で三方を小島村に囲まれた杉山村の飛地のなかに当村の飛地があり、一方では村内に小島村と杉山村の飛地があることから、複雑な分村過程を示していると考えられる。塩原家創業誌(塩原家文書)は、甲斐武田家の一門と伝える塩原勘解由について「天正元年信玄卒スルニ及ビ勘ケ由子弟ヲ率ヘテ当地ニ来リ、(中略)一族帰農ニ決シ土地開拓ニ勉ム、(中略)天正十八年小笠原掃部頭ノ新領土トナレリ、勘解由ハ領主ト同族ノ故ヲ以テ更ニ地ヲ卜シ溝渠ヲ構ヒ居館ヲ経営ス、(中略)今ニ溝渠ノ跡ヲ存セリ」と記しており、勘解由の墓が現存する。
        
          鳥居近くに設置されている下野堂二柱神社の案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下野堂村』
 聖天社 本地十一面觀音を安ず、當所及杉山村の鎭守にして、杉山村日輪寺の持、
『新編武蔵風土記稿 杉山村』
 日輪寺 新義真言宗、賀美郡忍保村善臺寺末、聖天山光明院遍照坊と云、本尊不動 觀音堂


 二柱神社(しょうてんさま)  本庄市下野堂三二三(下野堂字森田)
 当地は、元々小島村の内であったが、慶長年間(一五九六〜六一五))に分村して杉山村となり、その後、延宝五年(一六七七)の検地までに分村して下野堂村となった。下野堂は下ノ堂とも書き、口碑によれば地名の由来は、当社の前身である「四門堂聖天」によるという。
 社伝によると当地の草分けである塩原家は、元々甲斐の武田信玄の家臣であった。武田信玄はかねてより聖天に帰依しており、領内より採掘された金を使って一六体の聖天像を造らせ、主立った家臣に分け与えた。塩原家の当主勘解由もその内の一体を拝受し、永禄年間(一五五八〜六九)に所領であった当地に堂を建立し、聖天像を祀った。この堂は四方に門を配置していたため、村人から「四門堂聖天」と称され、崇敬された。天正十年(一五八二)に武田家が滅亡すると塩原勘解由は四門堂に隣接して居を構え、帰農して当地の開拓に当たり、同十八年(一五九〇))にその功が認められて当地の所有を許された。その後、延宝五年(一六七七)の検地で四門堂の北西の隣接地が除地とされると、塩原家はそこを新たな境内地として、社殿を建立し、聖天像を祀って聖天社と称した。『風土記稿』によれば、当社は下野堂村及び杉山村両村の鎮守で、杉山村の日輪寺の持となっている。別当の日輪寺は、聖天山光明院と号した。
 神仏分離後、当社は二柱神社と改称し、明治五年に村社に列した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 当社のご祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱で、地元の人々から「聖天様」と呼ばれ、霊験あらたかな神様として崇敬されており、特に象頭人身の二体が抱き合う聖天像の姿から、子授けに霊験あらたかな社として近隣の村々にも知られていた。このため、古くから子供のない夫婦は当社へ参拝して子授けを祈り、更に身籠ると四方田産泰神社へ参拝して安産を祈るのが習わしとなっているという。
 また当地では「雉は聖天様の使いであるから捕ってはならない」といい、かつては沢山の雉が生息していたが、近年の開発により、生息地の宗源がなくなり、滅多に見られなくなっている。
        
             社殿の左側手前に祀られている石祠群
 左側の石碑は蚕影大神。その並びには八坂神社・天満天神宮・稲荷大明神・御手長宮を祀る。
       
               社殿左側奥にある庚申塔四基。右から二番目は大山祇命の石碑。
        
            社殿右側奥に祀られている若宮八幡宮、他。
         左から庚申塔・塩原勘解由墓・若宮八幡宮・追遠碑の石碑
            庚申塔や塩原勘解由墓の奥には奉献碑がある。
                     追遠碑
                丈慎終追遠即民徳歸厚矣是古之教人法也蓋我開蕀祖者小笠原
                長清末孫而世居甲斐有故更氏鹽原仕武田家信玄當爭覇一族皆
                在文武職就中勘解由信重歴仕信玄勝頼屢有功晩爲上州長根組
                部将劃策中遭於宗家瓦解竟不果噫時哉既来子當地偃武帰農開
                拓土地耕芸躬努諸族相頼一致協力斯業漸成焉時領主小笠原信
                嶺待勘解由以同族禮故聾望自隆焉慶長十八年五月十六日卒爾
                後襲其遺業者滋加殆作村相矣今也村民相謀建碑而奉祀事以致
                追遠之虔素是亶非闔村故而巳所以使隣里郷黨馴致醇厚之風也
                 仍作銘々曰 兵農出一 偃武躬耕 創業遺徳 諸族共榮
                             信玄十三世裔武田正樹篆額

              
                       鳥居の東側に祀られている塞の神の石碑
   中央上部に大きく刻印された「久那斗神」「八衢彦神」「八衢姫神」以外の字は読み取れず。
              
                          塞の神の近くに聳え立つご神木

 ところで、当地に古くから居を構える氏子の間では、かつて当社に祀られていた聖天像について次のような口碑が伝えられている。
 氏子は武田信玄より拝受した聖天像を厚く崇敬していたが、江戸中期にこの聖天像の行方がわからなくなり、村中が大騒ぎになった。この時、別当の日輪寺から村人に元小山川の川岸に集まるようにという指示があり、村人がこぞって川岸に集まった。しばらくすると川の上流から純銀の聖天像が流れて来るのを村民の一人が発見し、川から取り上げた。村人たちは「これこそ行方知れずになった聖天像の生まれ変わりである」と言って持ち帰り、当社に祀って一層崇敬したという。後日、この聖天像は、村中の騒ぎを鎮めようと日輪寺が作らせ、元小山川に流したものであることが判明したが、村人の崇敬心は変わらず、文化五年(一八〇八)と天保十年(一八三九)に、村の重立ちが元小山川に聖天像を迎えに行く模様を描いた絵馬を奉納したという。因みに純銀の聖天像は明治初年の神仏分離により日輪寺に遷されたのだが、氏子にとって聖天像は崇敬の的であり、当社と一体不可分の存在であったため、何時の頃か木造の聖天像を作り、これを厨子に納め、本殿の屋根裏に奉安しているそうだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板・石碑文」等
  

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小島諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市小島4414
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 春祭り 43日 大祭 827
 本庄市小島地域は、元小山川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。
 この地域は、本庄市街地から西側に位置し、古代のある一時期は上里町全域と児玉郡神川町の一部を合わせた区域である賀美郡に属していたらしい。
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる、
        
                  
小島諏訪神社正面
 途中までの経路は小島唐鈴神社を参照。小島唐鈴神社の参道入口の一の鳥居から南下し、「小島4丁目」交差点を右折、埼玉県道392号勅使河原本庄線を北西方向に進む。ちなみにこの県道は、旧中山道であり、国道17号から県道に降格された路線で、起点である上里町大字勅使河原から終点の本庄市諏訪町の「日の出」交差点に至るまで、国道17号および高崎線に並行しているとの事だ。
「小島4丁目」交差点から県道沿いに300m程進み、路地を右折する。道幅の狭い道路と住宅がそれなりに並び、四方見通しがきかないため気をつけながら北上すると、正面にこんもりとした如何にも古墳らしき塚とその塚全体を囲む社叢林が眼前に広がり、その入り口には真新しい小島諏訪神社の鳥居や狛犬が見えてくる。
 
  鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     鳥居の手前で左側にある由緒の案内板
        
                            石段上に鎮座する小島諏訪神社
                    社殿前で右側には五重の石塔が立っている。
       
                  
小島諏訪神社社殿 
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 諏訪社 長松寺持 下同じ、〇稲荷社二 〇牛頭天王社 〇愛宕社 〇智方明神社 村民持、
 長松寺 新義眞言宗、江戸護持院末、唐鈴山藥師院と號す、開山宥海正保四年十月十六日化す、
     本尊藥師、

 諏訪神社 御由緒  本庄市小島四--一四
 ▢御縁起(歴史)
 小島は、利根川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。地内には、多数の古墳(旭・小島古墳群)が存在していたが、昭和三十年代後半からの急激な宅地造成によって、その数も激減してしまった。
 当社は、そのうちの一つの円墳上に祀られる。創建については伝えられていないが、地内の今井達雄家には、享保十二年(一七二七))に長松寺の住僧慶尊が新兵衛と名乗る者に宛てた文書が保管されている。その内容は、享保十二年より長松寺が諏訪大明神の別当となり、願いにより畑一反一畝一一歩の年貢上納を行うが、「神前之義」は新兵衛らが行うようにというものである。これに続いて、「寛永五年(一六二八)新兵衛ト改名ス、明暦四年(一六五八)此所へ移ル、万治二年(一六五九)此所へ諏訪大明神鎮座ス」と記されている。
 今井家には新兵衛と名乗っていた伝承はないが、同家は古くから「お諏訪様」と呼ばれている。口碑によれば、当社の氏子 の先祖たちは信州から移住した時は台地の下に住んでいたが、中山道整備に合わせて台地上に屋敷を構えるようになり、諏訪神社も今の場所に鎮座することになったという。前記今井家文書に「元禄十一年(一六九八)面地ヲ買置」と書いてあるのも注目される。
 明治に入り、長松寺の管理下を離れた当社は、無格社とされた。(以下略)
                                                                    案内板より引用
        
              社殿の左側に祀られている稲荷社
        
  鳥居の右側に並列し祀られている六基の庚申塔や二十二夜塔、一番右側には
御手長大明神。

 社の氏子は『明細帳』によれば「氏子六十七人、内戸主十四人」と載るように、古くからの一四戸が氏子であるという。ゆえに、氏子区域は、字元屋敷の中でも社の南側の一部の範囲に限られている。
 この限られた氏子を三組に分け庚申講を結成していた。一年の最後の庚申の日に持ち回りの宿に集まり、「庚申祭り」と称して床の間に猿田彦のお姿を描いた掛軸を下げ、その前にお供え物をしてから揃って手を合わせ、その後、料理を御馳走になりながら皆で酒を酌み交わす。この庚申講は歴史が古く、社の鳥居脇には享保七年(一七二二)の庚申塔をはじめとして、各年代の庚申塔が六基立っている。
 六基の庚申塔の一番右側には廿二夜塔が立っている。上記の男性が集まる庚申講に対して、氏子の女性だけで二十二夜講を結成し、かつては、毎月二十二日の日中に宿に集まり、二十二夜様の掛軸の前にお供え物を上げ、お茶を飲みながら雑談していたというが、今は春・秋の年二回だけとなっている。
 社が鎮座している地名は字元屋敷という。この字名の由来として「本庄の地名」では、中世の豪族の屋敷があった場所という。古い集落があったと思われ、江戸時代になって中山道が村内を通過すると、街道沿いに集落が移動していったのではないかと思われる、と載せている。
        
                  小島諏訪神社遠景


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

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上仁手諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市上仁手212
             ・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧上仁手村鎮守
             ・例祭等 歳旦祭 17日 祈年祭 43日 例大祭 113
                  新嘗祭 1127
 国道17号線を上里町方向に進み、「若泉2丁目」交差点を右折する。国道462号線に合流後北行し、利根川に架かる「坂東大橋」を越え、群馬県に入った最初の「坂東大橋北」交差点を右折する。群馬県道296号八斗島境線に合流後1㎞程東行し、右斜め手前方向に進む道を道なりに進むと、利根川の堤防が見える手前で、進行方向右手に上仁手諏訪神社が見えてくる。
        
              道路沿いに鎮座する上仁手諏訪神社
 本庄市の上仁手地域は本庄の最も北端に位置する地域である。現在利根川が南部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後、寛永年間の大洪水により、烏川の流路が南側に移って上仁手村は現在の群馬県側になったが、行政上は武蔵国に属している。
『日本歴史地名大系』 「仁手村」の解説
 かつては烏川の流路にあたり、慶長九年(一六〇四)代官頭伊奈忠次が同川に取水口(仁手堰)を設けて備前渠用水を開削した。寛永年間(一六二四〜四四)以前は上野国那波郡に属していたが、烏川の変流によって武蔵国所属となったとされる(上野国志)。幕末の関東川々御普請所絵図によると、利根川とみられる流路の南岸に元仁手、対岸に下仁手・上仁手があり、その北の島村(現群馬県境町)と長沼村(現同県伊勢崎市)との間に武蔵・上野の国境が引かれている。
       
                    境内の様子 
     
              境内に聳え立つご神木(写真左・右)
         ご神木の根元には戸隠神社の石祠がポツンと祀られている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 元仁手村』
 元仁手村は古當所及び上下仁手を合せて仁手村と唱り、正保の頃も楢然り、延寶五年五月中川八郎左衛門檢せし水帳に、上新田・下新田と載たれば、此頃より三村に分れしにや、既に元祿改の國圖に、仁手村及仁手村内上仁手村・仁手村内下仁手村と分ち記せり、元の字を添しは何の頃なりや詳ならず、當村及沼和田・山王堂・都島・杉山・新井等數村古上野國那波郡に屬せしが、寛永年中洪水の時、烏川の瀬替りてより當國に屬せし由、【上野國志】に記せり、
『新編武蔵風土記稿 上仁手村』
 利根川 村の南を流る、川幅近村に同じ、
 諏訪社 村の鎭守、圓融寺持、下同じ、〇稻荷社
 圓融寺 新義眞言宗、上野國那波郡堀口村滿善寺末、無量山と號す、阿彌陀を本尊とす、開山宥尊は寶永三年正月十六日示寂 觀音堂 地藏堂


 諏訪神社  本庄市上仁手二一二(上仁手字北土手)
 鎮座地の上仁手は、利根川北岸の群馬県側に位置する。かつては対岸の本県側の元仁手や下仁手と地続きで一村をなし、仁手村と称していたが、利根川の度重なる氾濫により同村が分断されて、現在のようになったという。この仁手村については、天正八年(一五八〇)に最後の鉢形城主北条氏邦が、長谷部備後守に出した「印判状」に、近くの栗崎・五十子(いかっこ)などとともに塩荷の押え所として載ることから、当時、武蔵から上野国へと至る重要な渡河点であったことがわかる。
 当社の創建については、口碑に「天正年間(一五七三〜九二)に北条氏の家臣であった茂木隼人の一族が来住し、氏神として祀った」とある。北条氏の鉢形城内にも諏訪大明神が城の鎮守として祀られていたことから、茂木氏が当地に来住するの当たり、城内の諏訪神社を勧請したものであろう。
『風土記稿』上仁手村の項には「諏訪社 村の鎮守、円融寺持」と載り、江戸期には、真言宗無量山円融寺が別当であった。この円融寺は、当社の北隣に本堂を構えていたが、明治十八年に焼失し、廃寺となった。
 本殿には、正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から拝受した「正一位諏訪大明神幣帛」の筥(はこ)や、各々に梵字の墨書きされた多数の小石を納める桶などが奉安されている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

       
             社殿の奥に祀られている養蚕神社の石祠
         よく見ると、養蚕神社の左側隅には稲荷社の石祠もある。
 氏子区域は大字上仁手で、氏子数は五〇戸余である。古くから養蚕育成の先進地として知られ、養蚕の盛んな土地であったが、昭和四十年始め、隣接する群馬県伊勢崎市八斗島に工業団地が造成されたことから、次第に工場へ勤めに出る氏子が増えてきている。
 氏子が今も続けている行事に二の午に行う「初午祭」があり、当地では、明治18年の折の大火災が、二の午の夜に起きたことから、毎年二の午に初午祭りを行う習わしになったという。かつては当日早朝から、多くの氏子が当社境内の稲荷社へ繭玉団子を供えた。また、各家の屋敷稲荷でも赤い幟を立てて祭りを行っていた。養蚕農家の中には、養蚕倍盛を祈願し、一日を農休みにして、自分の家の稲荷社へ参拝者を呼び寄せ甘酒を振る舞ったりした。但し、このような行事も、昭和四十年代半ばからの養蚕の衰微に伴い、現在は行われていないとのことだ。

        社のすぐ北側には悠然と利根川の大河が流れる。(写真左・右)
 古老の話によると、当地は水害を被りやすい位置にあり、水難者がしばしば出る事から、昭和初年までは、八月のお盆に、川施餓鬼(かえあせがき)が行われていた。氏子は、麦藁で編んだ小船や紙灯籠を作り、夕方になると、利根川の川辺から蝋燭を灯して流したものであった。川面を照らしながら静かに流れていく様子は、何か物悲しく、大変に風情があったという。 
       
               利根川の堤防から見る社の遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄の地名」「埼玉の神社」等   
        
 

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