古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

河内金鑽神社

 本庄市児玉町河内地区は、上武山地の二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央を小山川(旧身馴川)が流れ、小山川に沿って埼玉県道44号秩父児玉線が通っている。因みに河内と書いて「こうち」と読む。この地区の北側は山を隔てて元田・高柳・稲沢地区と接し、東側は小平地区、西側は稲沢地区、南側は太駄(おおだ)地区と、峠を隔てて長瀞町野上地区と境を接している。
 河内の地名に関しての由来は資料もなく不明だが、まず河川の地名が連想されるため、身馴川との関係が第一に考えられるが、別説では、嘗てこの地に移住した武蔵七党・河内氏の祖である河内権守家行やその子孫である家弘、忠家の官職名にちなむ地名とも考察される。
 歴史的には河内の地名が資料上に登場するのは、江戸時代に入ってからであるが、児玉党の系図の『武蔵七党系図』では、庄氏の一族である庄三郎忠家の注記に「河内」とあり、忠家の孫の友定の注記には「金沢」とあることから、「河内」は児玉町河内であり、金沢は隣地区・太駄に接している皆野町金沢と考えられている。
*「武蔵七党系図」
「有貫主遠峯―家行(児玉、武蔵権守、河内権守)―家弘(児玉庄太夫、河内守)―(庄三郎、河内)―家綱(小三郎)―友定(小太郎、号金沢)
              
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町河内25-1
             ・ご祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1687332,139.0999529,16z?hl=ja&entry=ttu  
 河内金鑽神社は、埼玉県道44号秩父児玉線を本庄市旧児玉町市街地から南側の皆野町方向に進み、小山川を越える新元田橋の手前を右折し、小山川に沿って通る道路を西行する。この道路は道幅が狭いので、道路周辺の安全を確認しながら1㎞程進むと、道路沿い右側に河内金鑽神社の鳥居が見えてくる。山の斜面に沿って石段が続いており、その先に拝殿・本殿と配置されている。拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。
 
武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社でもある。
               
                            道路沿いに鎮座する河内金鑽神社
     小山川(旧身馴川)が南西から北東方向に流れ、その左岸段丘上に鎮座する。
         山間の鬱蒼とした森の間にポツンと鎮座する社という印象。
     
      鳥居の両脇には秋葉神社(写真左)、社日神・石祠(詳細不明)が鎮座する。
              
   山の斜面は思っている以上に勾配は急であり、角度のある石段を仰ぎ見ると拝殿が見える。
               
                                       拝 殿
 参道を登り終え、すぐに拝殿が設置されているような配置。一旦石段を少し下ってから拝殿方向にシャッターを切る。先人の方々もさぞや境内を整地するのが大変だったのだろうと想像される。
              
                                       案内板
 金鑽神社 本庄市児玉町河内二五‐一
 □御縁起(歴史)
 河内は、小山川(身馴川)の上流に位置し、江戸時代に村の名主を代々努めてきた木村家の先祖の次郎五郎が永禄年中(一五五八~七〇)に開墾した所であるという。当社の境内は、河内の北端にあり、背後(北側)にそびえる三角形の山は、神川町に鎮座する武蔵国二宮金鑚神社の神体山に尾根が続いている。こうした立地からは、神川町の金鑚神社との関係の深さがうかがわれるが、氏子の間には、二宮金鑚神社よりも古いといわれている。
 社伝によると、当社は永禄年間(一五五八~七〇)の兵火により、社頭並びに吉什旧器のすべてを失い、元亀二年(一五七一)に木村次郎五郎が再建したとある。これは『明細帳』によれば、永禄年間に木村次郎五郎が開墾を行った際、諸種の困厄が生じたため、延喜式内社である金鑚神社に祈願したところ、速やかに奏功なったことにより、元亀二年に報賽として金鑚神社の分霊を勧請し、村の鎮守として祀ったのが当社の始まりであるという。『風土記稿』も、当社について「金鑚明神社、村鎮守なり、元亀中の鎮守と云、村持 末社 稲荷愛宕」と記している。
 その後、慶応元年(一八六五)には、神祇管領卜部(うらべ)良義の許可を経て、児玉大元神社と改称した。『郡村誌』に「児玉社」と記されているのはそのためであるが、明治三十二年に社号を旧に復した。
 □御祭神
 ・天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額       奉納されたのであろう「日露戦争」の油絵
              
                        社殿のすぐ右側にある神楽殿
               金鑽神楽が奉納されるのであろうか。
               
                         特徴的な河内金鑽神社の幣殿・本殿
  拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。

 ところで河内地区には変わった字名(小字)が存在する。「本庄市の地名② 児玉地域編」を原本のまま引用する。
・神子沢
 身馴川(現小山川)に注ぐ沢の名前の一つに由来しますが、昔に帰化人の神戸氏が土着したとする説もあります。鉱山関係、つまり羊大夫伝説に関係するかもしれません。また山の神を祀っているのでこれに由来するかもしれません。
・経塚山
 羊大夫伝説とも関連し、鉱山の採掘成功を祈願して経を奉読したことに因むといわれています。
・つじ山
 群馬県西部から秩父郡内に伝えられている羊大夫伝説からきた呼び名と思われます。「つじ山」は「羊山」から来たもので、付近には金場や金仏などの地名があり、鉱山の採掘場に因むものでしょうか(『児玉の民話と伝説』上巻・『児玉風土記』ほか)

 伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある。
              
                           拝殿側から見た鳥居の様子。
          山の斜面の勾配が急である事がこの写真でも分かる。

 河内地域が上記のように「羊伝説」関連の地域であるかどうかは現状何とも言えない。資料等があまりに少ないからだ。但しこの河内地域は南方に位置する「太駄」地域と共に、嘗ては交通の要衝地であったことは確かである。
 現在では、国道140号線や秩父鉄道が秩父と関東圏を結ぶ主要交通となっているが、嘗てはこの道路は荒川最大の難所であり、歴史的に近代に入り、開削されたものであり、前橋長瀞線や秩父児玉線が古代における交通の主体を成していたという。
 古代における児玉郡と秩父郡、さらに上野国との関係は密接で、政治・経済・社会の多方面での繋がりが考えられる。


参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」武蔵七党系図」Wikipedia」
「境内案内板」等

拍手[2回]


小平石神神社

 神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象であった。
 いわゆる神道に属する多くの日本国内の神社も、元々はこのような神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えら、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られる。
 中には本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。

 
本庄市旧児玉町小平地区に鎮座する石神神社は、まさに山林の中の「森」に鎮座する社。残暑が残る10月中旬に訪れたが、境内に入った瞬間ひんやりとした涼しさを体一杯に感じた。
 昨今人口増加傾向にようやく歯止めがかかった埼玉県ではあるが、多くの自治体が今までの行政指導による宅地造成政策や、海外投資家による土地買い占め等により、多くの貴重な自然を損失する中、この小平地域周辺にはまだ自然と共生する文化が残っている。神川町に鎮座する金鑚神社同様に、規模は小さいながらも、この社にも社一帯から溢れ出す、どこか神秘的で、威厳のある空間は、まさに別次元だ。
先人たちが長い年月をかけて作り上げ、それを子孫が継承し、現在に至るまで熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちになった。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町小平1
             ・ご祭神 石神大明神(せきじんだいみょうじん)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 33日 例大祭 1017日 新嘗祭 1123

 小平石神神社は本庄市児玉町小平地区東側の山麓中にあり、まさに静かな山林の中の鎮守の森と言う印象。南児玉カントリ-クラブの西側小平地区の奥、小山川支流小平川の上流域付近にひっそりと鎮座する。
 埼玉県本庄市児玉町から県道287号線を南下し、小平川にかかる秋平橋を渡って暫く進むと、「左 総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の案内板があるY字路を左折する。1㎞程進み、T字路にぶつかるのでそこを右折すると、山間の細い道路となるが、そこを道造に直進すると、右側に小平石神神社の鎮座する場所に到着する。
 正面鳥居の先には、駐車できる空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
              
                               石神神社 社号標柱
                     当社の住所確認をすると、「本庄市児玉町小平1」。
                       小平地区の中心にこの社は位置するのだろう。
        
                 小平石神神社 鳥居正面
         この周辺一帯に広がる空気感。何かが違うものを感じる。
 
            参道風景             参道を進むと左側にある神楽殿

 この小平石神神社では、秋の祭典の行事として小平獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。
 日光東照宮完成後、元禄 12 年(1699)に皆野町に伝わった獅子頭は彫刻の名人としてその名を知られる左甚五郎が彫ったという言い伝えのあるものを成身院覚桑上人が譲り受け小平に持ち帰ったとされている。
 獅子舞については、成身院の寺男が舞や笛の仕方などを考え、村の衆に習わせたことが始まりだと言われている。また皆野町椋神社の獅子舞から伝わったものだとも言い、疫病の厄払いと雨乞い祈願で舞われる。現在は春と秋の祭典の行事として春は日本神社に、秋は石神神社に奉納されるそうだ。

 また石神神社に奉納される神楽は「金鑽神楽」と言われ、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された13組の神楽組による神楽の総称であり、本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 5組の神楽」は、本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西・モクサイ)、杉田組(四方田・シホウデン)、根岸組(小平・コダイラ)、太駄組(太駄・オオダ)がある。
 その中で根岸組は、明治初年に石神神社の社掌根岸虎平が大里郡用土村より神楽面と装束等を譲り受けて始まり、後に金鑚神楽に属したという。
        
                                         拝 殿
 
     拝殿各所の彫刻は見ごたえあり            拝殿上部に掲げてある扁額
        
                                        本 殿 
        
               拝殿左手前に掲示されている案内板

 石神(いしじん)神社 御由緒  本庄市児玉町小平一
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、小平の開発は天正のころ(一五七三-九二)に越後国から来住した根岸家三軒により行われ、この三軒は兄弟で、長男の家が後に名主職を務めたという。
 当社は小平の鎮守とされ、野鳥の森として知られる静かな山林の一角に祀られている。その創建には草分けの根岸家のかかわりが考えられるが、明らかでない。『明細帳』には「天正十九年(一五九一)社地ヲ開キ慶長元年(一五九六)九月二十九日創立」とあり、『児玉郡誌』には「天正十九年里人当地を開拓し、同時に社殿を建設して二柱大神を勧請せりと云ふ、御内陣に大なる石器二基を安置し(中略)其後地頭安藤家の崇敬厚く、神田若千を寄附せり。神階は明和五年(一七六八)に正一位を授けられ、神霊を御内陣に奉安す」とある。現在本殿には、石捧三体(全長八二センチメートル・九二センチメートル・一一〇センチメートル)と明和五年に神祇管領吉田兼雄より受けた「石神大明神幣帛」が奉安される。
『風土記稿』小平村の項には「石神社二宇 共に村の鎮守にて村民持」と二社の石神社が記され、この内の一社が当社であり、明治五年に村社となった。もう一社の石神社は無格社とされ、明治七年に神武神社(現日本神社)に合祀された。江期の祭祀状況については明らかでないが、明治期の祀職は吉野萬次が務め、その後を旧名主家で長を務めた根岸周平が継ぎ、更に根岸虎平-根岸俊雄と襲っている。
 □御祭神と御神徳 石神大明神…国土守護・五穀豊穣(以下略)
                                      案内板より引用
        
                社殿の左側に並ぶ境内合祀社
    左より雷電神社・山神神社・愛宕神社・東照宮・琴平宮・天手長男命・稲荷神社・八幡神社
       
                     社殿と合祀社の間に聳え立つ杉のご神木
       
             社殿右側にもケヤキのご神木があり、文化財指定の標柱が立っている。

本庄市指定文化財 石神神社のケヤキとスギ
石神神社は慶長元年(1596年)創立と伝える古社であり。社殿の右側のケヤキは目通しで5mあり、御神木とされている。また、社殿左側のスギは目通し4,6mを測り、ともに近隣では希な巨木である。
                                      説明文より引用


 
           ケヤキのご神木の右側に鎮座する境内社・天満宮
        
                    境内を撮影

 境内周辺に広がるこの威厳ある空気感は、もしかしたら社殿の両サイドに聳え立つご神木が与えたものかもしれない。但しこの感覚は決して筆者にとって、むしろ心地よい。


 私たちの祖先がずっと大切に守ってきた鎮守の森は、日本人の自然観と文化、豊かな日本の『こころ』を育んできた。また、鎮守の森で行われてきたお祭りは、地域の人々の心を纏め、コミュニティーの中核を担ってきたといえる。

 日本列島に遠く先史古代から祭られてきた神々の佇まいは、ほぼ等しく緑ゆたかな森に覆われていた。いわゆる神社は「鎮守の森」と言われているが、日本各地には人里近くに神社や御神木と呼ばれる大きな木を囲むようにして、こんもりとした大小の森が多く存在していた。また森そのものが鬱蒼とした畏敬の念を抱かせるもので、その存在自体信仰の対象でもあったろう。


参考資料 「
本庄市HP」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

拍手[2回]


秋山(風洞)天神社

 秋山天神社が鎮座するこの地域は嘗て「風洞(ふとう)」と呼ばれていて、『新編武蔵風土記稿』には「天神社二宇 上天神下天神ト云上ノ社ハ元龜年中ノ勸請ト云下ノ社ハ詳ナラス其後二社トモニ慶長三年田又兵衞再興ス 東照宮 上社ノ社地ニアリ勸請セシ來由詳ナラス 上社 末社 白太夫社 八幡 赤司明神 子ノ神 稻荷 神職 吉野伊豫 吉田家配下ナリ先祖ヲ掃部ト云元龜年中ノ人(那賀郡秋山村枝郷風洞分)」と記載されている。
 この地域には「風洞」地名の由来に関する昔話(民話)があり、坂上田村麻呂による大蛇退治の話がある。長文で、時代背景が細かく、時代設定がしっかりしている事も特徴である。

 風洞の地名
児玉の風洞には、余り知られていない大きな穴があり、その洞穴から常にゴウゴウと嵐の様に不気味な風が吹き出し、止まる事がなかった。このゴウゴウと言う音は、身馴岸沿岸を荒らしていた大蛇が、川の入江の近くの洞穴に隠れ住んで呼吸をする息が風となって吹き出したものであった。
この大蛇、女、子供はもとより、人だけでなく家畜まで喰うなど数限りなく悪事を重ね、また農作物を荒らしまわり、人々は嘆き、悲しみの底にうち沈んでいた。しかし、この話が時の天皇であった平城天皇の耳に入り、大蛇の退治を坂上田村麻呂に命じた。将軍田村麻呂は早速この地方に出向き、大蛇退治の準備にとりかかった。まず北向きに五社(沼上、小茂田、新井、十条、古郡の五ヵ村)の大明神を勧請し、また八仏薬師を安置するほか、数多くの神仏に祈念した。特に自分の守りの本尊である大日如来とゆかりのある十二天に登り、霊地を選び、ここに山籠りをして、秘密に僧を招き、37日間、夜の護摩修行をなし、大蛇退治の願いをかけると共に、これより568万年の後まで、この山より身馴川の末まで守り給え、との願をかけた。また、小平に入江の様になっている所があり、江の浜と呼ぶ場所に、一本の大きな柳の木があった。将軍はこの柳の木に向かって静止し、「われ願わくば、この地の大蛇を退治して、人々の災難を救い給え、もしこの願いが届くなら、すぐにこの柳に花を咲かせ給え。もし、この願いがかなわなければ、この柳をたちどころに切り倒し、たきぎとしてしまうものなり」と虚空に向かって大声に呼ばわると、ありがたいことか、恐ろしいことか、虚空がにわかに振動して、しばらく暗夜の如くにうち変わり、やがて明るくなると、不思議な事に柳は桜となって、満開の花が咲いた。よって将軍は、この地に虚空蔵菩薩を建立した。柳の木が化して枝垂れ桜となり、現在も栄えているが、柳の大木があった所から地名を「高柳の虚空蔵」と言い、霊験あらたかな霊場となっている。
このようにして、大蛇の住む洞窟に田村麻呂が出向くと、殺気を感じたのか、オスメス二匹の大蛇がものすごい眼光を放ちながら出て来た。驚くことにこの大蛇は、それぞれ二つの頭を持ち、太さ3m、長さ20m余りもあった。しばらく将軍達と睨み合いの末、戦いが始まり、一匹を現在の東小平の地に追い詰めたが、田村麻呂に次ぐ勇者椚林小平成身と言う者がこの大蛇の毒気にかかり、遂にこの世を去ってしまった。この事を知った武士達は、この勇者の名をとって椚林と言い、成身院は小平が名乗り、字名を院号とした。やがてメスの方は、田村麻呂の神変通力仏意自在の弓矢によって、射とめられた。一方、オスの大蛇は、川上に身を隠して潜んでいたが、将軍は夜になって舟を出し、大蛇が出て来るのを待った。現在、その場所を待屋と言い、舟をつないで置いた所を船山と呼び伝えられている。夜明けと共に出て来た大蛇は、将軍に追われ、間瀬峠に逃げ延び、峠の頂上から将軍を振り返り、まんじりと見つめた事から、この峠をまんじり峠と呼んだ(後世、間瀬峠と言い伝えるようになる)。こうして児玉の山麓一帯には、平和が訪れた。
将軍が退治した大蛇の骨は百駄あり、この骨を埋めて長泉寺が建立された。よって寺の境内を骨畑と呼び、百駄あった骨にちなんで山号を百駄山と呼ぶようになった。大蛇の住家の風の吹き出た洞穴は埋められ、この地に神を祀って、次来地名を風洞と呼ぶようになったが、その昔は単に洞(あな)と呼んでいたとされる。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山2813
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 祈年祭 225日 例大祭 1015
                  
下天神祭並びに新嘗祭 1125

 秋山天神社は本庄市児玉町秋山地区西側、小山川の一支流である小平川の東側に鎮座している。埼玉県道287号長瀞児玉線を児玉町から長瀞方向に進み、小山川を越える。その後「総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の看板が見えるY字路を左折する。300m程進み、最初のT字路を左折すると道幅の狭い道路となるので、対向車量等に気を付けて暫く進むと左側に舗装されていない道があり、そこを左方向に進むと正面に秋山天神社が鎮座する場所に到着できる。
        
                     秋山天神社 正面
 境内の規模は思った以上に広く、手入れも行き届いている。参拝の途中では、近郊に住んでおられる方とも気軽に挨拶を交わすことも出来て、気持ちも安らぐひと時を味わえた。

 案内板によれば、鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきたという。
             
                鳥居の右側にある社号標柱
 
     鳥居の手前で左側にある社務所       木製の鳥居。社号額には天神社と表記。
        
                              秋山天神社 案内板

 天神社 御由緒 本庄市児玉町秋山二八一三
 □御縁起(歴史)

 鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五) に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきた。
 この当社の創建の年代は不明であるが、『明細帳』によれば、神職であった吉野家の系譜に、久安三年(一一四七)正月宮居再建とあり、その後しばしば修造や建て替えが行われた旨が記されている。 また、文政五年(一八二二)に、林大学頭の諮問に対して神主吉野伊予が提出した文書には、当社の神体は一尺二寸の木像で、古くから天満宮森に鎮座していたが、慶長三年(一五九八) に地頭の田又久が宮を建立し、更に後年、漢長老賛の天神の絵像を奉納したこと、寛永十三年(一六三六)には、田三平が宮を建立したこと、田美作守の代にも度々修繕がなされたことなどが記してある。
 現在は、棟札や「漢長老賛の天神の絵像」は見当たらないが、右の文書で神体として林大学頭に報告された木像は現存しており、かなり朽ちて手足も欠けている状態であるが、冠を被り、装束を付けた立姿の神像二体が内陣に安置されている。なお、神像はこのほかにも、像高十七、八センチメートルという小振りな座像二体と、それより一回り小さい漢人風の像四体及び像高六八センチメートルの随身像二体がある。
 □御祭神 菅原道真公…学問成就、家内安全、五穀豊穣

                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 
 拝殿上部に掲げてある「風洞天神社」の扁額   向拝部位にも凝った彫刻が施されている。
        
        
                色鮮やかな風洞天神社 本殿

 冒頭でも紹介した「風洞」の地名由来の伝承・伝説は幾つかの段落に分かれていて、時代背景、周辺地域の坂上田村麿呂伝承、地域の名称由来も交えて構成されている。

①昔このあたりを荒らしまわっていた大蛇がその洞穴に住み、その息が嵐のような音をたてたから、「かざあな」から風洞と呼ばれるようになったという。この大蛇は人畜を喰い、田を荒らす悪蛇の主で、困窮した民の話を聞き、平城天皇がこの退治を坂上田村麿呂将軍に命じた。

②坂上田村麿呂将軍が来てみると、被害は大きく人心は動揺し、何も知れないので、まず十条沼周辺の古都・新井・小茂田・十条・沼上に産生神と赤城に向って北面する末社を建て、また八つの薬師を安置し、他にも多くの神仏を祀り、まず村人を安心させ、悪蛇に向かった。

③将軍はなお大日如来に祈願し、十二天神の加護を得ることになり、共に祈祷を行っていた高僧に、霊示があった。曰く、江の浜というところに神木があり、これに申し上げるように、と。そこで将軍はそこへ赴き柳の大木に、願いを通すならすぐ花を咲かせよ、さもなくば直ちに伐り倒さん、と宣言した。するとただちに花が咲き、意を強くした将軍は洞穴に向かった。するとそれぞれ二つの頭をもつ二頭雌雄の大蛇が襲いかかってきた。このとき、その毒息にかかって将軍第一の勇将・椚林小平成身が死んだ。

④夜明けとともに再度現れ出た大蛇は、将軍の弓で一頭の目を射抜かれ、戦意をなくし、追われて馬瀬峠(今の間瀬峠)から甲州へ逃げた。峠からまんじりと将軍を見据え、助けをこうたことから、まんじり峠と言っていたという。

解説すると、①では平城天皇の御代にこの伝説が成立したと記載されている。この平城天皇の在位期間は806年から809年(9世紀初頭)と短く、設定年代が曖昧な伝承が多い中でも、明確な昔話と言えよう。
②児玉地域には坂上田村麻呂が大蛇を退治する民話がいくつか伝えられて、ここでは現美里町、十条沼周辺の「北向神社」の創建に関しての伝承も交えている。
③更に「十二天神の加護を得る」「椚林(くぬぎばやし)小平成身」では秋山十二天社を登場させ、更に秋山地区に隣接する「小平」地区の地名の成り立ちをも紹介している。因みに「椚林」は秋山地区の小字の一つでもある。
④結局のところ、此の大蛇は征伐により、戦意を失い、甲州(現山梨県)に逃げる。この説話は、本庄市宮内・若宮神社の「雨乞屋台」大蛇族の説話にも似ている。
 
「風洞」の地名由来となった説話ではあるが、上記以外のもこの地域周辺の地名の由来に関しても細かく記載されていて(骨波田・間瀬峠等)興味深い伝承・伝説でもある。
 
     拝殿手前で左側には神楽殿        神楽殿の並びには数多くの境内社が並ぶ。
 
 社殿右奥にも境内社や石碑、石祠が鎮座する。   立派な石組みの上には石祠が1基鎮座。
                  
                「村社 天神社」境内碑

村社 天神社
本社殿創立年代不詳然藏近衛天皇御宇久安三年正月宮殿再興古文書及元龜二年改造棟札其古社可證爾後屡加修理慶長三年地頭戸田又久再建寛永十三年有地頭戸田三平改造之擧云王政復古庶績咸熙至明治三十九年被勅定神社神饌幣帛料供進之事四十五年三月十八日本社亦從本縣知事被指定神饌幣帛供進村社之叙其概要以傳後人云爾
大正二年十一月 埼玉縣兒玉郡長從五位勲四等白倉通倫撰并題字 
        秋平尋常小學校訓導吉川鍋六謹書
                                   境内碑 碑文より引用

       
                社殿右側に聳え立つご神木



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「埼玉の神社」等

拍手[1回]


秋山十二天社

 日本人の多くはその時々の行事を通じて多種類な信仰を持つ不思議な民族だ。例えば子供が生まれた時には「宮参り」と称して神社(神道)にお参りするのに、お葬式はお寺(仏教)で行うという人が多数派だ。クリスマス(キリスト教)を祝ったかと思うと年末はお寺に除夜の鐘をつきに行き、翌日の新年は神社に初詣でをする。そのくせ、何故か自分のことを無宗教と思っている人が多い。逆に無宗教だからこそ、複数の神や仏を拝むことに何の違和感を覚えないのかもしれなし、それを不思議なことと感じる事すらない。
 こうした日本人の信仰に対する特性を育んだ背景の一つには、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた「神仏習合」の歴史があったからではないかと考えられる。
 神社とお寺は、ご承知の通り神道と仏教という、それぞれ異なる宗教であるが、私たちは神と仏の区別をそれほど意識することなく信仰の対象として生活に取り入れ、見事に融和させながら過ごしてきた。これはいわゆる「神仏習合」、又は「神仏混沌」ともといわれる信仰だが、このように異なる二つの宗教文化を、1000年以上にわたり共存させている国は世界でも類をみない稀有の国柄といえる。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山3566
              ・ご祭神 天部十二柱
              ・社 格 関東10霊場 第7番霊場
              ・例 祭 不明

 秋山十二天社は本庄市児玉町秋山地区南部、上武山地の北東端に位置し、十二天山頂に鎮座する。十二天山の南西には陣見山(531m)があり、北東側には松久丘陵、児玉丘陵、本庄台地の稜線が広がる。途中までの経路は秋山河原神社秋山新蔵人神社を参照。丁度秋山河原神社から秋山新蔵人神社に通じる道路をそのまま南下するように直進。秋山新蔵人神社から秋山十二天社駐車場のある十二天池まで約1㎞強だが、道幅は狭くなるため、対向車線の車両には注意が必要だ。
 
 十二天池(写真左・右)は治水用の池であり、山懐に静かに佇む小さな池。秋の紅葉を感じつつ、暫し休憩する。
 
十二天池脇に車を止め、秋山十二天社に徒歩で参拝。山頂への石段の中段のところまで細い林道があり、狭い道に自信のあるドライバーなら車で行けるようだが、筆者にはそのような自信はなく、素直に徒歩で参拝する。
        
                 秋山十二天社 参道正面
 
 十二天池南側には社務所(写真左)ががあり、社務所の手前並びには石祠(同右)があるが、詳細は不明。道を隔てた反対側には鬱蒼とした草木に隠れてしまった鳥居もある。社務所入り口には「社務所掲示新聞記事」が張り付けてある。

 社務所掲示新聞記事
 秋山十二天は、JR八高線児玉駅の南方約5キロ、364メートルの十二天山頂にあります。文献には1204年前の平安時代始めの創立と記されています。現在の社殿は212年前の1799年に建てられました。本庄市の文化財に指定されています。
 ご神体は毘沙門天、帝釈天、閻魔天など古代インド 12の神々(十二天)で、仏教の護法神として八方・上下など12の方向を守っています。
 社殿は権現造りの神社様式ですが、鐘楼もあり、祭典にはお経を唱えるなど、神仏混合の形を残しています。 関東10霊場の第7番霊場で、戦後間もないころの春の祭典には、参詣する人 々で行列ができたほどです。
 いまでは社殿の近くまで道路ができ数台の駐車場もありますが、時間があれば十二天池の駐車場から30分ほど歩いてお参りするとよいでしょう。境内から本庄市街地が一望できます。空気が澄んでいる日には東京スカイツリーもかすかに見えます。
 来年の元旦察には、スカイツリーの左背後から昇る初日の出を拝み、家族の幸せなどを祈願してみてはいかがでしょうか。
                                   掲示新聞記事より引用

        
 参道を徒歩にて出発。参拝当日は天候も良く、正にウォーキング日和であったが、鬱蒼とした参道に入った瞬間からヒンヤリとした温度差、また適度な湿度も体感した。
        
 徒歩にて数分進むと見えてくる石製の鳥居。社務所前にある鳥居があるので、これは二の鳥居か。
この鳥居を越えてから第一の目標である「寺戸の樫(かし)」に向けて進む。
       
      歩く事数分後にたどり着いた「「寺戸の樫(かし)」。行政区域上では美里町となる。
            
                  左脇にある案内板
 寺戸の樫 町指定文化財昭和55725日  推定樹齢700年
□由来
この樫の木は、アカジタの
伝兵衛樫*とも呼ばれている。
地元の伝承によると、
昔、榛沢村(現深谷市榛沢)に住んでいた伝兵衛という若者が神様に力を授けてもらいたいと考え、秋山十二天社へ21日間の丑の刻詣りをした。お参りをする際、一反(約10mほど)のさらしの端を鉢巻にして、長い布を後になびかせ、その先が土につかぬように走り続けた。満願の日、神様のお告げがあり、伝兵衛は太刀を授けられた。彼は大悦びで下山したが、樫の木のところまで下りてきたとき、自分がまだ鉢巻をしたままでいるのに気づき、その鉢巻を解いて、大樫の幹に巻きつけて帰った。以来、この木を伝兵衛樫と呼んでいる。
*「アカジタ」とは、字寺戸の一部の地名で樫の木周辺のことをいう。樫の木の周辺で大蛇が出たことから「赤舌」と呼ぶようになったといわれている。(以下略)

                                      案内板より引用
 
 寺戸の樫の撮影等を終了し、水分補給後、改めて出発。正直言うとこの時点で足の疲労はかなり来ている。車を使用しなかったことへの後悔を押し殺して進む(写真左)。そしてやっと「十二天参道」の標識(同右)までたどり着くことができた。
        
                         秋山十二天社 木製の三の鳥居
 
鳥居を過ぎると参道の両脇に石碑等が立ち並ぶ。    社殿に通じる石段にたどり着く。
    左側には松尾芭蕉の句碑もある。     体力的にはかなり限界。残りは精神力のみ。

 参拝終了後、編集時に知ったことだが、この石段は163段高低差26mあるそうだ。中々の勾配でもある為、踊り場も数カ所利用し、何度も休憩を入れながら登る。
 
 よく見ると石段正面には鐘撞堂(写真左)が見え、登り切った場所から左側にまた道があり、そこからまた社殿に通じる石段(同右)がある。
        
                                       拝 殿
          参拝時は昼過ぎで逆光。また疲れもある為、やや傾いてしまった。

 標高364mの山頂にある秋山十二天社。秋山十二天社社殿は、神仏混淆の神社でもあることから、十二天堂とも呼ばれた。江戸時代に度重なる火災に見舞われたが、寛政11年(1799)になって杮葺き権現造りの社殿として再建されたという。現社殿の屋根は、1979年(昭和54年)に修築で銅板葺きに改修された。創建は平安時代初期ともいわれ、古い歴史をもつ。

 新編武蔵風土記稿 那賀郡秋山村
 十二天社 村ノ南ノ方ニアリ大同年中ノ勸請ト云那賀郡十四カ村惣鎭守ナリコノ社アルヲモテコヽヲ十二天山ト呼ヘリ今モ護摩所籠堂二天門□ノ宮等ソナハレリ 鐘樓 寬永四年造立ノ鐘ヲカケシカ寬政七年野火ノ爲損シテ未タ再興ニ及ハス
 
別當本覺院 新義眞言宗小平村成身院末聖德山光政寺ト號ス本尊不動ヲ安ス

 十二天とは東西南北、東北・東南・西北・西南、天地、月日の十二の天をお守りする神様だそうだ。言い伝えによると坂上田村麻呂がこの地で暴れていた大蛇を退治するために十二の天に祈ると十二人の神々が現れて大蛇を退治したという。
             
      
本庄市指定有形建造物 秋山十二天社社殿 昭和六十三年一月一日指定碑
 秋山十二天社は山頂に鎮座していて、同時にその山頂に至るまでに、かなりの体力を必要とするにも関わらず、このような荘厳で凝った建築、彫刻(写真左・右)が施されている。
        
                     神仏習合が色濃く残されている
鐘撞堂

 神道とは、山川草木など自然の生命にも霊的な存在が宿る、いわゆる自然神への信仰を起源とする日本独自の宗教だ。日本人はあらゆるものには生命が宿るという、八百万(やおよろず)の神という考え方を古くから持ち、自然の恵みに感謝する収穫祭や豊作祈願などの祭事を行ってきた。
 一方の仏教は、2500年ほど前に北インドで釈迦(ブッダ)が創始し、中国を経て6世紀ごろに日本に伝来。教祖である釈迦像などをご本尊として、聖典として大蔵経(お経)を唱え、厳しい修行を行うことで悟りを開き来世で救われるという思想を持つ宗教だ。教祖も経典も無く、拝むことで現世での救いを求める神道とは、その由来も思想も大きく異なる。
 仏教伝来当初は、古来より崇められてきた神道に対して、新たな仏教を受け入れるかで政治的な対立もあったが、もともと明確な戒律や教義を持たない柔軟性のある神道と、体形的な考え方を持つ仏教は、それぞれの特徴をいかしながら、一体のものとして考えられるようになり、仏が神という仮の姿で現れる=権現という考え方なども生まれ、「神仏習合」という、独自の宗教観に結びついていく。
        
                        
秋山十二天社 社殿からの見事な眺め

 現生人類が日本にたどり着いた約4万年前から縄文時代、そして現在に至るまで海に囲まれたこの日本は後に「日本国(大和国)」と形成するわけだが、どこの国からの侵略も受けずに今に至っていて、そのような国は世界どこを探してもない状態の中で、奇跡の国ともいえる。
 その淵源とした日本人の心の奥底に活き、受け継がれ、日本文化を形成する大きな要因となってきている「自然宗教」といえる神道。そこから6世紀以降から派生し市民生活に受容された、死後の世界の保証を求める「仏教」を日本人は神道に入れ込み、「神仏習合」として信じているのである。それらを「宗教」であると意識せずとも「習慣」として日常的に行っている日本人のことを「無宗教」であると言い張ることは出来ないのではないだろうか。

 一般的な日本人の捉える「宗教」はキリスト教やイスラム教等の所謂「創唱宗教」であり、「自然宗教」は「宗教」として捉えられていない傾向がある。しかし、現実には日本人は何万年という歳月で積み重ねられ、幾重にも醸造された「自然宗教」という「宗教」の信者なのであり、決して「無宗教」ではないのである。
 先祖代々受け継いできた「奥深い宗教心」を知らず、何の躊躇もなく「無宗教だ」と答えることは、自らの存在や日本という国について知らないということと同じではないだろうか。

 世界はグローバル化が進み、今後私たちはますます多くの外国人と接する機会があるだろう。外国文化に興味を持ち、留学を志す学生も多くいる。しかし、自らの国の文化を作り上げる上で非常に大きな要因になっている宗教について知らずして外国人と接すれば知識の欠如によって恥をかくことになりかねない。外国文化を学ぶ前にまずは自国の文化を形成する大きな要因となっている宗教について知るべきではないだろうか。自らの思想、文化、信条を作り上げている「宗教」という存在をもっと身近なものとし、その本質を捉えること。日本人を名乗って生きていくならば、知っておくべき教養なのではないだろうか。
 難しい話となってしまったが、今回秋山十二天社を参拝して、改めて「神仏習合」の成り立ち等を学び、その中でふと感じた日本という国形成の奥深さを改めて感じた次第だ。

参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「社務所掲示新聞」等

拍手[1回]


秋山河原神社

 秋山川は埼玉県本庄市を流れる利根川水系の一級河川である。本庄市児玉町秋山地区の陣見山の十二天嗣付近に源を発し、児玉丘陵内を南から北に向かって流れる。源流点付近には十二天池がある。字陣街道で小山川に合流する。途中、児玉用水が伏せ越しで交差する。 水量は多くなく、川底には雑草が生い茂る。支流の水押川には川沿い1kmにわたって曼珠沙華が10万本自生しており観光地となっている。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山1401
            ・ご祭神 河原次郎盛直
            ・社 格 指定村社
            ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 630日 夏祭り 715日
                 例大祭 1015日 新嘗祭 1123日 大祓式 1225日

 秋山河原神社は秋山新蔵人神社から800m程北側に鎮座している。社に隣接して「河原神社社務所」があり、道路沿いには適当な駐車スペースも確保されていて、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
 社周辺には長閑な田畑風景が広がり、時間がゆっくりと過ぎているようで、穏やかな気持ちに包まれながらの参拝となった。
        
                                     秋山河原神社正面
    東側には「指定村社 河原神社」の社号標柱があったが、撮影はしなかった。
         社は決して規模は大きくないが、手入れは行き届いている。
        
                                         秋山河原神社に設置された案内板

 河原神社御由緒  本庄市児王町秋山一四〇一
 ▢御縁起
『風土記稿』秋山村の項では、当社について「河原明神社 元暦元年(一一八四)二月摂州生田(現神戸市)において打死せし、河原次郎の霊を祭りしと云、隣村風洞分に太郎高直を祀れる社あり、埼玉郡河原村は河原兄弟居住の地にて、其墳墓といへるものあり、夫等の因にて当所に祀りしなるべけれど、其詳なることをつたへず、日輪寺持」と記している。ここに載るように、当社の祭神は河原次郎盛直で、隣接する風洞の地には、兄の河原太郎高直を祀った同名の社がある。
 河原氏は、武蔵七党私市党に属する一族で、現在の南河原村や行田市北河原に住したといわれている。太郎高直と次郎盛直の兄弟については、『平家物語』に綴られているように、生田の森の合戦において、源範頼に従って勝利をもたらしたことで知られ、太郎が「自分が敵陣に討ち入る時はお前が残って証人になれ」と次郎に頼んだところ、次郎は「二人きりの兄弟で、白分一人だけが残っていられようか」と、兄弟共に先陣の名乗りを上げて討死した挿話は著名である。
 この河原兄弟は、当地をも領有し、牧場を管理していたといわれている。その霊を祀る神社が、この秋山及び風洞の地に祀られるようになったのは、こうした領有関係によるものであろう。『児玉郡誌』は当社の創建を文明十八年(一四八六)とし、一説に河原兄弟の縁故者が秋山に来て居住し、その主君の霊を祀ったとの伝えを載せている。
 □御祭神 河原次郎盛直…開運厄除、五穀豊穣
                                      案内板より引用
        
                          拝 殿
 
   境内の西側に隣接している社務所      社務所の並びには石碑や石祠群が並ぶ。
               
                     境内にはゆったりとした時間が流れているようだ。

 この本庄市児玉町秋山地区は、南方の十二天山、陣見山からなだらかな稜線が広がり、北側で境となる小山川、その支流である秋山川等の水資源も豊富な丘陵地帯であり、古くから拓かれていたらしく、縄文時代や古墳時代の集落跡など古跡が多い。

 秋山古墳群は、埼玉県本庄市児玉町秋山にある古墳群で、本庄市指定史跡に指定されている。現在、前方後円墳2基を含む43基の古墳が現存し、墳丘を失った古墳跡を含めると100基近い古墳があったと推定されている。古墳の分布は秋山地区の塚原・塚間・宿田保に多く所在し、1965年(昭和40年)31日付けで児玉町(当時)指定史跡に指定された。

この秋山河原神社から東側近郊に「秋山庚申塚古墳」が存在する。残念ながらこの古墳を知ったのは、参拝終了し、自宅で編集中であり、写真等で収められなかったことは残念だ。

秋山庚申塚古墳
秋山庚申塚古墳は、直径約三十四メートル、推定高五メートルの規模をもつ円墳で、 南南西に閉口する横穴式石室を備えています。 昭和三十年に横穴式石室の発掘調査が行われ、多数の副葬品が出土しました。
また、昭和六十二年には、古墳の範囲確認調査と石室の実測調査が行われ、堀の形状や埴輪の存在、石室の構造的特徴が明らかになりました。 古墳の堀は、円墳には珍しく、墳丘の周囲を二重にめぐり、墳丘の周 や堀の内部から家、人物、馬などの形象埴輪の破片が出土していま す。 横穴式石室は、埋葬空間である玄室の側壁が緩やかな曲面をなす 「胴張型」と呼ばれる型式で、大きな塊石と細長い河原石を組み合わせ て積み上げる 「模様」という技法を取り入れています。 また、石室か ら出土した副葬品には、直刀や鉄、弓などの武器類、金銅装の馬具類、碧玉製や瑪瑙製の管玉や勾玉、ガラス製丸玉、金鋼製耳環などの装身具のほか、須恵器の高杯、短頭壺、堤瓶、などがあります。 秋山庚申塚古墳の築造年代は、出土した埴輪の型式などから六世紀後半頃 と考えられていますが、石室から出土 した副葬品には、時期差が認められる。
ことから、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが推定されます。
                                      案内板より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」




        


拍手[1回]