古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秋山新蔵人神社

 秋山地区は児玉町児玉の南部に位置し、上武山地の東緑、陣見山の北側に広がり、小山川(旧身馴川)で境界となる。陣見山から秋山川他幾筋の河川が流れて、小山川に合流し、これに伴う谷戸田(丘陵地の谷あいの地形のことを「谷戸」と呼び、その地形を利用して作られた田んぼのこと)が発達されている。
 地区南部は山地とそれに続く丘陵地帯で、北側に緩い斜面と宅地があり、小山川に迫り、北東部には水田や畑が広がる。尚北東部の小山川氾濫原と丘陵上には秋山古墳群が存在する。
 秋山の地名はほぼ全国的に存在するが、旧甲斐国(山梨県)の秋山が特に有名である。中世でも武田支族・秋山氏が存在し、南北朝の動乱期には秋山新蔵人光政が加茂河原で丹党安保直実と一騎打ちをしたことは『太平記』に記載されている。
 埼玉県寄居町にも秋山という地名があり、児玉の秋山とよく似た位置関係にあるという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山242
             ・ご祭神 秋山新蔵人光政
             ・社 格 不明
             ・例 祭 祈年祭 315日 例大祭 015日 
                  新嘗祭 
1123日

 秋山新蔵人神社は本庄市児玉町秋山地区のほぼ中央部に鎮座する。埼玉県道175号小前田児玉線経由で美里町・広木みか神社を目指し、その後大きな右カーブに差し掛かり、左側に
「鎌倉街道上道の案内板」が見える手前のT字路を左折する。
 暫くはこの道を西行すること約1.2㎞、小山川支流秋山川の端を越えたところから細いY字路を左折し、更に南下。600m程進むと右側に秋山新蔵人神社の社叢と、白い鳥居が見えてくる。近郊には児玉カントリー倶楽部があり、そこを目指して行けば分かりやすい。
 駐車スペースは境内にある様子だが、鳥居を越えなければないようなので、一旦通り過ぎて、秋山川を越えた西側にお寺(本覚院)があり、道路沿いに駐車場があるので、そこの一角に駐車し、社の参拝を行う。
        
                          静かに佇む社。鳥居正面を撮影。
 
  撮影する角度にもよるが、鳥居の正面は    社殿等は、鳥居正面ではなく、やや西側に
  どうやら社日神、石碑が設置されている。     設置されている配置となっている。
        
                                     拝殿覆屋
        
                           拝殿覆屋の右側に設置されている案内板

 
新蔵人神社 御由緒  本庄市児玉町秋山二四三
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の秋山は、小山川(身馴川)南岸に位置する農業地域であり『太平記』などにその名を残す秋山新蔵人光政ゆかりの地である。『西武南朝功臣事蹟』によれば、この秋山新蔵人光政は、南北朝期に桃井直常の部下として各地で転戦し、驍勇無双の猛者として知られていたが、正平六年(一三五一)九月に同僚の多賀某と私闘し、敗死したという。
 当社は、その社号が示すように、この秋山新蔵人公を祀った神社で、『風土記稿』秋山村の項には「光政社 秋山新蔵人光政の霊を祀れりと云、この人当所に集住せしよりかく唱へしなるべしといへど、其詳なることをしらず、昔甲州秋山邑に住し、在名をもて、秋山太郎光朝といひ、右大将頼朝に仕へしものあり、この光政もその子孫なるにや」と記されている。ただし『明細帳』によれば、当社の創建は天和三年(一六八三)のことと記されているため、光政の没後すぐに創建されたものではなく、その遺徳を讃える後世の人々が社を建立して、光政の霊を祀ったものと思われる。
 
内陣には、甲冑を付けた武将の騎乗の像が安置されているが、これは祭神の秋山新蔵人光政公の像である。この像には銘が入っていないため、いつごろ作られたものかは定かではないが、少なくとも明治以前のもので、穏やかな表情をしている。
 □御祭神 秋山新蔵人光政
                                       案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額          拝殿覆屋左側には神楽殿か

 甲斐源氏秋山氏は武田支族で、巨摩郡秋山村(山梨県)より起ったという。秋山系図(続群書類従)に¬加々美次郎遠光―光朝(秋山太郎)―光季(常葉次郎)―光家―時信―時綱―光信―光助―光政(秋山新蔵人太夫)、弟光房(蔵人次郎、兄討死之時、属桃井、帰于甲州)―光延―光盛―光方―光季―為光(大炊助、寛正六年二月十一日被誅、法名妙秋。弟彦九郎昌光・法名妙山)―光利―信利―信房―光任―信任―信藤(平十郎、伯耆守、仕信玄勝頼、後仕神君、天正十三年卒)
 
 
秋山氏は清和源氏武田氏の分かれで、名字の地は甲斐国巨摩郡秋山村である。すなわち、武田氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見清光の二男加賀美遠光の長男光朝が、秋山村に居住して秋山氏を名乗ったこと始まるとされている。累代の居城地は中野村にあった。初代の光朝は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に応じ、平家追討の戦いには源義経の指揮下に入って、屋島、壇の浦の合戦に参加した。その西征の途中に平重盛の娘を娶ったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれることになる。
 
     拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社       鳥居正面にある社日神と石碑
         詳細不明

 平家を滅ぼしたあと、頼朝は甲斐源氏の勢力拡大を恐れ、武田氏一門の武将たちを次々と謀殺していったのである。武田一門に連なる光朝も重盛の娘を娶ったのは平家再興の下心があるとのいいがかりをつけられて、鎌倉において処刑されてしまった。甲斐に落ち延びた遺児や秋山一族らは鎌倉幕府の追及を恐れ、加々美の荘に籠って武具を隠して農耕に務めたという。

 没落していた秋山一族が「承久の乱」で尼将軍北条政子の下知に従い、ふたたび武装して官軍追討の東山道軍の総大将に任じられた武田石和信光の幕下に従って上洛、戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、武田氏一門は安泰を迎えたのである。秋山光朝には数人の男子があり、常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖になったという。新蔵人光政は光季から数えて7代目の子孫であり、光政の弟光房(蔵人次郎)の子孫には、戦国時代に信玄に仕えて活躍する秋山伯耆守信友がいる。

 甲斐国出身の甲斐源氏・秋山光政がなぜ秋山地区に館を構えたと伝わるのかは不明。「承久の乱」において活躍した秋山氏が、本貫地である甲斐国の回復と共に、この地に所領を得ていたのだろうか。
 秋山地区と山を隔てた南方反対側には長瀞町があり、そこに伝わる伝説で『信仰利生観』という古書に、秋山に秋山城主秋山新九郎続照(つぐてる)なる人物がいて、長瀞町小坂の仲山城主阿仁和兵衛直家との確執があったといい、新蔵人館は新九郎館の転訛ではないかともいわれるが、詳細は不明だ。
        
                         
秋山新蔵人神社遠景


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名(児玉地域編)」「続群書類従(秋山系図)」等

       

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飯倉住吉神社


        
            
・所在地 埼玉県児玉町飯倉836
            
・ご祭神 底筒男神、中筒男神、上筒男神
            
・社 格 不明
            
・例 祭 歳旦祭 19日 春祭り 315日 秋祭り 1015
                 
新嘗祭 129日

 飯倉住吉神社は、本庄市児玉町飯倉地区に鎮座する。途中までの経路は、塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を更に西行1.5㎞程。左側道路沿いに梨直売所が見え、そのT字路を左折、道路に沿って南下し、女堀川を越えて更に進む。なだらかな上りで緩やかなカーブの道路を進むと「住吉神社」のやや小さめな社号標柱が見え、そこを右折すると正面に社の鳥居が見えてくる。
 社号標柱までは、周囲長閑な田畑風景が広がっているが、標柱を右折すると、道路両側には目新しい建物や施設が並び、その奥に社が鎮座しているという、不思議な感覚。
 鳥居の左隣には駐車スペースもあるので、そこに数台駐車可能であり、一角に停めてから参拝を行う。
 後に確認すると、塩谷諏訪神社・
飯倉住吉神社・宮内若宮神社の3社は国道462号に沿って一線上に並んでいるような位置関係にある。
        
                                     飯倉住吉神社 正面鳥居
 
鳥居を越えると参道右側に社の石碑が立っている。   東西に延びる参道。社殿は東向き。

住吉神社
児玉町大字飯倉八三六番地に鎮座する(飯倉字地下谷)明治前半期は 飯倉村字下ノ谷であった
飯倉の名は 中世源頼朝が伊勢内宮に武蔵の国飯倉御厨を寄進しそれに因むと言われております
創立年代もその当時までさかのぼることも推察されます
「明細帳」によると
明治四十年二月五日に 字八幡裏の八幡神社 字山路の稲荷神社 字日向の豊受神社を当代の境内社として移転している
「風土記稿」によると
住吉明神社 村の鎮守 法性寺持 下同 八幡社 稲荷社
「郡村誌」によると
飯倉村の頃には 住吉社 村社 中筒男命を祀る 
勧請年月日不詳
祭神は
底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命の三柱を祀る 
この三神は 本来海神であったが 転じて水神となり さらに農耕神として厚く信仰されるようになりました
境内社は
北野神社 八幡神社 稲荷神社 豊受神社の四社
一年を通して 里人たちが三三五五と参拝されています
江戸時代には 真言宗の法性寺社務を兼帯していました
祭りは
歳旦祭 春祭り 八坂神社祭 秋祭り 新嘗祭
子供御輿は昭和四十八年頃に造られました
七月十五日前の土日曜日に村を字を巡回します
御輿の中には 須佐之男命がまつられております
この神さまは天照大御神の弟君にあたります
天照大御神は日本の神さまの先祖とされております
御輿が里の家々をまわり巡回しますことは神さまが無事を確認するためだと伝えられております里人のすぎこしの日々が平安でありますようにと清めてまわっているという意味もあります
                                      境内碑から引用
        
                          拝 殿
         拝殿に対して南側(左側)は斜面となり、
社の周囲は森林に覆われている。
        
                 拝殿前にも案内板あり。

住吉神社 御由緒  児玉町飯倉八三六
□御縁起(歴史)
飯倉は、中世の飯倉御厨にちなむといわれる。『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)五月三日条によれば、源頼朝が朝家安穏・私願成就のために伊勢内宮に「武蔵国飯倉御厨」を寄進した。『神鳳鈔』には、内宮の長日御幣を負担する御厨として五十町の田数があると載る。現在、地内には「飯倉御厨跡」として県指定旧跡がある。なお、飯倉御厨を現在の東京都港区麻布飯倉に比定する説もある。
『児玉郡誌』には「当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されている。
当地は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあることから、口碑にあるように村人が水神として当社を勧請したのであろう。そして、飯倉御厨が当地に実在したとすれば、当社の創建年代もその当時までさかのぼることも推測される。なお、『風土記稿』飯倉村の項には、「住吉明神社 村の鎮守なり、法性寺持」と載る。
                                      案内板より引用
 
 社殿の左奥に鎮座する境内社・石祠群(写真左、右)。詳細は確認できなかったが、「石碑」等から推察すると、八幡社・稲荷社・豊受社の三社は
明治40年2月に移転され、合祀されているので、これなのどれかであろう。
        
                                    参道の一風景

 住吉神社は航海守護神の住吉三神を祀る神社である。全国には住吉神社が2,300社以上あり、大阪府大阪市住吉区の住吉大社が総本社とされることが多いが、『筑前国住吉大明神御縁起』では、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社が始源とされていて、大和政権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰されたという。
 祭神は「住吉三神」と謂われる底筒男神、中筒男神、上筒男神で、『古事記』『日本書紀』において2つの場面で登場する。1つはその生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら、檍原)で禊をすると、綿津見三神(海三神)とともにこれら住吉三神が誕生したという。次いで神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神は皇后に神憑りして神託し、皇后の三韓征討に協力することで征討は成功する。『日本書紀』では朝鮮からの帰還に際して神託があったとし、住吉神の荒魂を祀る祠を穴門山田邑に、和魂を祀る祠を大津渟中倉長峡に設けたとする。
 住吉三神を構成する底筒男命・中筒男命・表筒男命の「ツツノヲ」の字義については、諸説がある。ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ、夕方の月、宵の明星、星を指し、星は航海の指針に用いられることから、海神を示す説、「津の男」に見る説、「ツツ」を船の呪杖に見る説、船霊を納める筒に見る説、対馬の豆酘(つつ)に関連づけて「豆酘の男」に見る説、航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説などである。
        

 その後仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰も、更には時代が下るにつれて禊祓・産業・貿易・外交・農耕神と厚く信仰されるようになる。

 境内案内板にも「
当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されていて、この地域は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあり,実際飯倉地域南方には多数の溜池があることから、村人が水神・農耕神として住吉神社を勧請したと考えられる。


参考資料
「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等

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宮内若宮神社

 本庄市(旧児玉町)宮内は金屋地区の西部に位置し、神川町二ノ宮と境を接している。宮内の大半は山地と谷間の谷戸田よりなり、東部にかけて児玉丘陵が続いている。宮内地区から現在の女堀川(旧赤根川)が流れ、東部塩谷地内へ流れる。集落は女堀川の両側の平場と丘陵部の両側に広がっている。北寄りで女堀川に沿って国道462号線が東西に通っている
 宮内の名の由来は、神社の存在から来ているといわれている。宮内地区内の小字天田には若宮神社が鎮座しており、その隣町の二ノ宮は旧金鑽村と云い、延喜式にもその名が見られる金鑽神社がある。この金鑽神社の東部国道わきには元森神社があり、金鑽神社の元の鎮座地とも言われている。金鑽神社は現在地に移るまでに、三度程移転しているといわれており、宮内地区の若宮神社も旧鎮座地ではないかと考えられている
 宮内の地名が歴史上始めて確認されるのは、暦応3年(1340)の安保光阿(光泰)譲状(『安保文書』)で、「児玉郡植松名内宮内郷」と見える。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町宮内1010
            ・ご祭神 田心姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 17日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                 新嘗祭 1210日

 宮内若宮神社は旧児玉町宮内地区に鎮座する。途中までの経路は塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を神川町方向に2㎞程進み、児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折する。200m程南下し、T字路を右折すると正面にのぼり幟ポールが見え、すぐ右側に宮内若宮神社が見えてくる。
 駐車スペースは、社の正面鳥居の道を隔てた反対側に数台駐車可能な空間が確保されており、そこの一角に停めてから参拝を行った。
        
                                                       宮内若宮神社正面

 児玉郡宮内村(児玉町)は暦応三年安保文書に児玉郡枝松名内宮内郷と見え、児玉党宮内氏は児玉郡宮内村より起こる。武蔵七党系図に「塩谷平五大夫家遠―太郎経遠―児玉二郎経光(奥州合戦討死)―四郎経高―宮内太郎左衛門経氏―児玉新三郎信経(弟に六郎光氏、七郎忠氏)―三郎光信(弟太郎光経)」と記載され、宮内氏は塩谷一族から分家した一族ということになる。塩谷地区と宮内地区は距離的にも近く、同じ一族というのも頷けるというものだ。
 若宮神社の創建年代等は不詳の事だが、当地は金鑚神社の旧地だとも伝えられ、また「若宮」の社号は、田心姫命が武蔵国二ノ宮金鑽神社の大神の娘であることによると云い、田心姫命が父神と喧嘩した時の云々から、当地では椿を植えることが禁忌という伝承もあり、金鑚神社と関わりの深い神社で、古くより鎮座しているものと思われる。
 
     宮内若宮神社 朱色の両部鳥居         鳥居の左側にある案内板

若宮神社  児玉町宮内一〇一〇
▢御縁起

宮内は、武蔵七党丹党の一族である安保氏の所領として既に南北朝期の文書にその名が見え、古くは若泉荘に属し、江戸時代には児玉郡八幡山領のうちであった。一方、天正十九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)よれば村柄(生産力の高さ)は「上之郷」と評価され、地味に恵まれた土地であったことがわかる。
当社は、この宮内の鎮守としてられて祀られてきた神社であり、『風土記稿』宮内村の項にも「若宮明神社 村の鎮守也、遍照寺持」として記されている。祭神は田心姫命で、「若宮」の社号は、この神が武蔵国二宮の金鑚神社の大神の娘であることによるものという。また、当社の鎮座地付近を「天田」というが、この地名については、昔、田心姫命が父神と喧嘩をした時、父神が椿の校を手に「このアマダ、アマダ」と打ちかかりながら田心姫命を追いかけて当地までやって来たことに由来するとの言い伝えがある。したがって、当社の氏子の間では椿を植えることが禁忌とされ、もし植えると神の怒りに触れて疫病がはやるとか、植えた家は身が立たないなどといわれている。
更に、『明細帳』には由緒として享保十三年(一七二八) 二月に正一位の神位を受けたこと、明治五年に村社となったこと、明治四十年に字滝前の六所神社を合祀したことが載る。
御祭神 田心姫命…厄災除け、五穀豊穣
                                      案内板より引用
       
               鳥居の先左側に聳え立つご神木
 
      参道左側に立つ社日神            社日の隣にある謎の石組
五穀豊穣を願う日本の社に比較的多い五角形の碑。
        
                                     拝 殿

 ところで本庄市児玉町宮内地区には、古くから『雨乞屋台』と言われる民話・伝説が存在する。宮内若宮神社にも関連する昔話である。

雨乞屋台
千年も前のこと。平安の時代、阿久原に牧があり、京から来た別当がいた。任期を終えた別当は京に帰ったが、時代が変わり扱いがひどく居場所がないので、阿久原に戻り、ここを一族の拠点とすることにした。息子の若宮の家をつくり、そこを宮内として開墾に精を出した。
ところが、先住の大蛇(ながむし)の一族が反対し、邪魔をするので難儀した。そこで若宮と別当は、尊敬する田心姫の力を借りることにした。田心姫は天下り、協力を約束した。金鑽様も面会に来たというその美しさには大蛇族も歯が立たず、和睦を模索した。そして、開発に協力するが、田心姫を大蛇族の司と結婚させてほしいと申し入れた。若宮たちは撥ねつけようとしたが、姫は笑顔で、術を比べて、天より持ち来た小さな手箱に入る術を司が示せば、結婚を承知しましょう、と言った。大蛇族は思わぬ朗報に夜通しのお祝いとなった。
あくる朝、姫への誠意と、美男子の司はただ一人指定の沼のほとりへ来、さっそく身を縮める術をもって、姫の手箱に入って見せた。しかしこれは計略で、姫は手箱に鍵をかけると、若宮に手箱を沼に放り入れさせてしまった。さらには、これは天の神の作戦であり、沼を埋め立てよ、と言う。
大蛇族は司が沼に沈んだのは神をおそれなかった結果仕方がないとしたが、せめて日照りのときは司の霊を呼び戻し雨を降らせるから、埋めるのは許してほしいと懇願した。そこで池を埋めるのをやめ、その周りを息をつかずに七まわり半できたら姿を現し司の霊を慰めよう、と田心姫は約束し、天へ帰ったという。
時代は過ぎ江戸のこと。大日照りが続いた。大蛇の話は皆したが、司の霊を呼び戻す方法が分からなかった。そこである年寄が、大八車に大蛇の姿を作って載せ、手箱池の周りを回ったらどうか、と思い付き、そのようにした。それで雨が降ったらお礼に若宮様へ雨乞屋台を奉納しよう、と。
そうして池を五回も回るともう雨が降り出し、大八車も操れぬほどになり、空だった手箱池も、たちまち道まで水浸しになった。村人たちはすぐに雨乞屋台を作り若宮に納めたという。今も御宝蔵にある雨乞屋台はこうした何百年もの物語を秘めて出番を待っている。

*児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会 『児玉郡・本庄市のむかしばなし 続』参照

 「雨乞屋台」と同じ昔話が「児玉風土記」にもあり、昔「てばこ」と呼ばれる小さい池があり、てばこ池(手箱池)の水が満ちた時に、池の周りを左回りに7回半、息をしないで回ると美しいお姫様が池から現れると言い伝えられていた。しかし実際には息をしないで7回半回れる人はいなかった為、お姫様を見ることはなかったようだ。
 本庄市児玉町宮内に鎮座される若宮神社と想定される「雨乞屋台」という民話。社の南方向には溜池のような池が沢山あるが、手箱池がどこに該当するか、そもそも現存するのかも不明だ。
 
  社殿左側で、謎の石組の隣にある石碑      社殿の隣に鎮座する境内社。詳細不明。
         
                    境内の様子

 風土記の昔の神話に近いフィクションの類と言ってしまえばそれまでの話だが、話の内容はかなり複雑であり、要約すると、大蛇(ながむし)という先住一族との抗争、そして和議と見せかけた姑息な計略でその民族を討伐する、なかなか辛辣な出来事である。今はまだこの話が正しく古代の何かを伝えるものなのか否かは断定できないが「大蛇族」というのは同児玉の南東に行って秋山(秋平)の方にも見え、一概に否定できないようにも感じる。


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「安保文書」「本庄の地名② 児玉地域編」「児玉郡・本庄市のむかしばなし 続」等                

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塩谷諏訪神社

 旧児玉町塩谷地域は、嘗ては児玉郡塩谷村と云い、承久記に「しほのや」、紀州熊野那智山米良文書に「児玉の在所の御名字の事、しをのや」、天正十九年武州之内御縄打取帳に塩野屋、高柳村長泉寺寛文七年文書に塩野谷村と見える。
 また建武三年十二月十一日安保文書に「領地武蔵国枝松名内塩谷田在家」、暦応三年正月二十四日安保文書に「児玉郡枝松名内宮内郷事(児玉町)・児玉郡枝松名内塩谷郷事」とあり、塩谷村及び隣村の宮内村は枝松名と称していた。また埼玉郡長野村長久寺所蔵の明応七年七月二十五日大般若経奥書には「武州児玉郡塩谷郷阿那志村円福寺書写之(美里町)」とあり。此地は枝松名塩谷村とかなり遠方であり、塩谷郷は相当広い範囲を唱えていたらしい。
*埼玉苗字辞典を参照
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町塩谷599
             
・ご祭神 八坂刀賣命・建御名方命
             
・社 格 旧指定村社
             
・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 630日 例祭 1015
                  
新嘗祭 1215

 塩谷諏訪神社は旧児玉町西側・塩谷地区に鎮座する。旧児玉町駅前通りを西方向に進み、国道462号線との合流地点である「児玉駅入り口」交差点を左折、すぐ先に右折する地点もあるが、国道沿いに2㎞程直進すると左側に小高い丘が見え、その斜面上に塩谷諏訪神社は鎮座している。
 国道沿いに専用駐車場も設置されており、そこには数台分停められる。旧児玉町・塩谷地区は、児玉党塩谷氏の本貫地でもあるため、厳かな気持ちで参拝を行う。
         
               斜面上に鎮座する塩谷諏訪神社 
鳥居前で一礼、石段を仰ぎ見ると社殿が見える。    石段を登ると平地面に変わる。
                           参道の先に社殿が見える。

 児玉党塩谷氏は、武蔵七党系図に「児玉武蔵権守家行―塩谷平五大夫家遠―塩谷太郎経遠―小太郎高光―右衛門尉弘忠。○経遠の弟五郎維弘(奥州合戦討死)―三郎維盛(建暦乱和田一味〆被誅。弟五郎維定)―太郎維光(建暦三年五月二日父同討死)、弟三郎盛信―新三郎茂信(弟家綱出家、義行)。○維弘の弟民部大夫六郎家経(承久三年六月十四日関東方ト〆於宇治川流死、七十一)―太郎左衛門尉家朝(弟に左兵衛尉家範、四郎盛家、五郎経盛)―新左衛門尉定朝、弟刑部左衛門尉家氏―太郎盛家―刑部左衛門尉時家(弟又太郎家忠)―太郎家重(弟五郎貞家)。○家朝の弟五郎経盛(承久賞近江国中条拝領)―六郎経直(弟光経)―中条六郎太郎経村―又太郎宗実」と見え、この塩谷地域を本貫地としてきた一族である。
 不思議と系図を見ると、塩谷家経(承久三年六月十四日関東方ト〆於宇治川流死、七十一)塩谷経遠、塩谷維弘(通称五郎、奥州合戦で戦死)、塩谷家経(民部大夫、承久の乱で溺死)でも分かる通り、武功よりも勇ましい戦死や、戦闘中の溺死等が目立つ一族である。
        
                                     拝 殿
 
    拝殿に掲げてある「諏訪神社」の扁額     拝殿左脇に「塩谷家遠略伝」の案内板あり。

 塩谷家遠略伝 金屋村役場
 塩谷家遠は児玉党の祖・家弘の弟にあたり、児玉党の勇者である。源平時代(1150年代)、当所に居館をかまえ、以来子孫代々居住していた。館址は昭和18年縣史蹟の指定を受け、昭和28616日指定文化財の標柱を建立した。家遠は守護神として信濃国の諏訪神社に勧請して居館の三方に上下諏訪・稲荷の三社を創立し、一族の安泰を祈願するとともに、居館から当社に至る乗切り馬場を作って馬術を推奨した。現在当社拝殿前から西南にのびる帯状の台地は、当時の馬場の跡をとどめている。
                                      案内板より引用
 
 拝殿手前、左側に鎮座する境内社群(写真左)。左から皇大神宮・榛名神社・手長男神社・八坂神社の石祠。また拝殿左側奥にも境内社群(同右)があり、左から稲荷神社・山神神社・八幡神社・天神神社・厳島神社・金王神社の石祠が鎮座している。
        
                                社殿手前右側にある案内板

 諏訪神社 御由緒  本庄市児玉町塩谷五九九
 □御縁起(歴史)
 当社は児玉党塩谷氏の本貫地に鎮座し、祭神は八坂刀賣命・建御名方命である。塩谷氏は児玉庄太夫家弘(児玉党の祖とされる有道遠峯の曾孫)の弟家遠が塩谷平太夫家遠と称したことに始まり、字篠に館を構えたとされる。『吾妻鏡』には塩谷一族の名が散見し、館跡も現存している。
 社伝によると、建久年間(一一九〇~九九)に塩谷氏の祖塩谷平太夫家遠が武神の祖たる信濃国諏訪神社の大神を勧請したという。当社は初め下諏訪神社と称していたが、明治四十年二月七日に字上諏訪の上諏訪神社を合祀したことにより社号を諏訪神社に改めている。また同日に上諏訪神社に祀られていた八幡神社・稲荷神社・天神社、字上ノ台の皇太神社、字篠の厳島神社を境内社として移転した。境内社の天神社には明治四十年四月八日に字天神下の北野神社を合祀し、大正七年六月に社殿を改築した。更に昭和二年十月に字大平(大平山)の阿夫利神社を合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。しかし、現在氏子は「阿夫利神社(大山様)」とのみ呼称している。このほか境内社には手長男神社・山神社・金王神社が祀られている。諏訪神社の社殿は正徳二年(一七一二)に再建され、拝殿は明治二十年に再築、外宇は大正七年に新築された。また、平成四年に社殿・拝殿等の屋根瓦葺き替えを実施している。
 □御祭神 八坂刀賣命・建御名方命
                                      案内板より引用 

      
                        境内に聳え立つご神木

 塩谷諏訪神社の南側には児玉塩谷集会所、また隣接して阿夫利神社が鎮座している。当諏訪神社の境内社にあたる社である。
 
        
                   
阿夫利神社拝殿
 
         阿夫利神社 扁額          社の左側にある「阿夫利神社」石碑

 阿夫利神社
當社ハ古来ヨリ字大平ノ山頂ニ祀レルヲ大正七年諏訪神社境内ニ移轉ス山林九段二畝二十九歩ハ当村大場丈八氏管理ナリシヲ諏訪神社ニ寄進セリ
 昭和四年三月十七日  大字塩谷一同
                                      案内板より引用
        
                      国道沿いに静かに鎮座する社



参考資料 「埼玉苗字辞典」「新編武蔵風土記稿」「本庄市刊行・本庄市(旧児玉町)の地名」「武蔵七党系図」等。 

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本堀田諏訪神社

 本庄市北堀田地域は、元は武蔵国榛沢郡滝瀬郷とあり、戦国時代までは武蔵七党丹党の滝瀬氏の本貫地だったそうだ。滝瀬氏は丹党安保氏の支族。安保氏は、鎌倉時代以後早くに党と言った血族集団(同族意識を持った武士団)から独立した氏族であった為、党(本宗家を中心とした組織)の弱体化や滅亡を共にする事はなく、結果として、丹党の氏族の中でも最も栄えた一族となった。
 本貫地である安保郷を中心に始まり、中世を通して所領は拡大していった。武蔵国内での所領は、児玉郡の塩谷郷・長茎郷・宮内郷・太田村(郷)・蛭川郷・阿久原郷・円岡郷、秩父郡の三沢村(郷)・長田郷・大河原郷・大路沢村(郷)・岩田郷・白鳥郷・井戸郷、榛沢郡の滝瀬郷・騎西部・大井郷・成田郷の箱田村、平戸村である。

                
              ・所在地 埼玉県本庄市堀田297
              ・ご祭神 健御名方命
              ・社 格 旧無各社
              ・例 祭 春季社日祭 3月社日 祈年祭 43
                   
夏越大祓 730日 例大祭 1017日 他 
 本堀田諏訪神社は前項紹介した前堀田諏訪神社の北方600m程の距離にあり、旧中山道を北西方向に進む。小山川と備前渠に挟まれた長閑な田園地帯を300m程進むと右側に農業用資材の会社があり、その先のT字路を右折、農道の突き当たりをまた右折し、すぐ左折しなければいけないが、そこからは真っ直ぐ埼玉県道45号本庄妻沼線に交差するところまで進むと、その交差点斜め右側に社は鎮座している。
        
               交通量の多い県道沿いに社は鎮座する。
 社は県道沿いに鎮座し、手押しボタンの信号ではあるが「堀田」交差点沿いに鎮座する。周囲は長閑な田園が広がっているが、県道にはかなり交通量があり、ましてや交差点でもある為、駐車スペースを探したが、適当な場所はなく、社務所等もない。僅かに社の北側に舗装はされていない路面があったので、そこの一角に停めて、急ぎ参拝を行った。
 
      鳥居上部にある社号額           鳥居の左側にある案内板
 諏訪神社 御由緒   本庄市堀田二九七
 □御縁起(歴史)
 当地は、利根川右岸の沖積地の自然堤防上に位置し、村の南端を小山川が流れる。当地は昭和二十六年に大字堀田となるまでは、大字滝瀬の一部であった。この滝瀬は、武蔵七党の丹党に属する滝瀬氏の本貫地とされ、建武四年(一三三七)の「高重茂奉書」(安保文書)に「滝瀬郷」と見える。地内には、東方の字滝瀬とその西の字北堀田、南西の字前堀田にそれぞれ集落があり、当社は字北堀田に鎮座する。堀田は、『武蔵志』に「中山道筋 滝瀬ノ新田、別村ニアラス」とある。
 社伝によると、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際、家臣の高柳隼人及びその一族が、武蔵国榛沢郡滝瀬郷北堀田に落ち延びて土着した。そこで、もとより信仰していた信濃国の諏訪大社をこの地に勧請し、一族の祈願所としたのが当社の始まりである。以来、武門の崇敬するところであったが、慶長十八年(一六一三)に至り、北堀田の鎮守となった。その後、長い年月を経て社殿が頽廃したので、天保二年(一八三一)に北堀田の崇敬者が再興した。この時の世話人は、増岡周助・高柳仙之助・塚越平八・高柳寅松・伊藤勝三郎などであった。
 なお、当社は「中山道分間延絵図」に、中山道からしばらく北に入った所に「滝瀬村之内字北堀田、諏訪明神」と書かれている。
 明治に入り、当社は無格社とされた。平成二年には、社殿瓦屋根の葺き替え工事を行った。
                                      案内板より引用
 
 境内交差点側に鎮座する境内社。詳細不明。      境内社の右隣に並ぶ石碑等
                       
庚申塔、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音  
        
                               重厚感のある拝殿正面
 時代が下り丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝時代に南朝=新田義貞についたため、新田氏の滅亡と共に弱体化、あるいは没落していった。さらに上杉禅秀の乱では禅秀に味方したため、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されている。ただ丹党の氏族のうち、阿保氏は足利氏に属したため、その所領を永く維持した。
 戦国期の安保氏は在地土豪を家臣団として編成し、小大名的な存在にまでなっていたが、永禄
12年(1569年)、武田信玄の御嶽城攻略を最後に姿を消す事となるとある。その武田家も滅亡後の安土桃山時代になって、家臣一族がこの地に土着し、諏訪信仰が根付いたのだと思われる。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
        
                          境内社。瓦の紋から推測すると天神社か。



 

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