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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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小島唐鈴神社

 那波八郎伝説は利根川左岸中流域を限定した一区域内の民間伝承・伝説の類であるが、利根川右岸にもその痕跡は残っていて、本庄市小島地区に鎮座する唐鈴神社という一風変わった名前の社の伝承にも那波八郎に関する記述が存在する。
 本庄市小島地区から真北には利根川を挟んで伊勢崎市堀口地区があり、地区内には那波総社飯玉神社が鎮座する。共に那波八郎の伝承を共有する社同士で、地形的に見ても南北同線上に鎮座しているこの事実から、何かしらの関連性が伺わせる。
 規模も小さく閑散として何となく寂れた社、という第一印象であったが、調べてみると歴史も古く、決して侮れない、そんな社をまた一つ発見してしまった思いだ。
所在地   埼玉県本庄市小島5-433
御祭神   大国主命・素戔嗚尊・宇迦之御魂神
社  挌   旧村社
例  祭   不明

       
 小島唐鈴神社は国道17号を上里町方向に進み、本庄市街地を抜けた小島交差点を左折するとすぐ左側に見えてくる。丁度交差点の脇に社殿が鎮座しているので、小島交差点からよく見える為場所は解りやすい。ただそこから一の鳥居までの参道は数百m程あり、しかも一の鳥居付近には適当な駐車場や駐車スペースがない為、近隣にある長松寺の駐車場に置かせてもらい参拝を行った。
           
               道路沿いにある唐鈴神社一の鳥居とその先にある参道。

       一の鳥居に掲げている社号額              一の鳥居からの参道が結構長い。
              
          一の鳥居から参道を進むと二の鳥居があり、その先右側に案内板がある。

唐鈴神社
 所在地 本庄市小島五‐四
 唐鈴神社の祭神は、大国主命・素盞鳴尊・倉稲魂命である。
 社伝によれば、遣唐使として唐国に渡った大伴宿根古麿が、天平勝宝年間(749~757)に帰国の折、唐国の玄宗皇帝より渡海安全のため金鈴を授けられた。
 その後、古麿は武蔵野国武州小島郷皇坂(現在の長松寺境内)に館を築く。その子古佐美、さらにその子良麿三代がこの地に住んだ。この時、良麿は五穀豊穣のため秘蔵の唐鈴と、出雲国氷川の杵築大社(現出雲大社)を分霊し二柱を祀り社を創立した、後に、良麿は帰京を任ぜられたが、その際に神宝の盗難を恐れ石函に入れ、社の下に埋めた。
 そして幾歳月がすぎ、戦乱の世に社も破壊された。これを嘆いた近在の人々が再興のため社跡を掘ると石函が出土し、中に五つの金鈴があったと言う。石函には、大伴宿根古麿が玄宗皇帝から賜った唐鈴であることが記されていたと伝えられる。これが唐鈴神社の由来である。
 なお、社殿裏の交差点一帯は、小島本伝遺跡で、古墳時代の住居跡が発掘されている。また、西方には、県選定重要遺跡の旭・小島古墳群があり、その中の八幡山古墳など数基は、本庄市の文化財にも指定されている。
 昭和六十一年三月
                                                          案内板より引用

 この案内板に登場する大伴宿根古麿とは、大伴宿祢古麻呂のことであろう。この人物の生年は不詳であり、没年は天平宝字元年7月4日(757年7月24日))と言われている。
 大伴氏は古来から続く名族で,天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天津神系氏族である。「大伴」は「大いなる伴部」という意味で、朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む名称。古来から物部氏と共に朝廷の軍事を掌握していた軍事氏族という一面を持つ。両氏族には親衛隊的な面を持つ大伴氏に対して、国軍的な意味合いの強い物部氏との違いがあるといわれて、大伴氏は朝廷の警護を任されていた近衛兵のような存在と言われている。が古代よりそのような機構が整備されていたかどうかは正直言ってハッキリとは判明していないのが実情だ。
 大伴氏は5世紀雄略天皇の頃中央での葛城氏に代わって覇権を確立し、大伴室屋は大連に任命されるころからその孫金村に至る時期がその全盛期にあたり、特にこの金村は平群真鳥の乱を平定し、さらに継体天皇を担いで王位継承戦争を戦い勝利するなど政略的能力を如何なく発揮し、物部氏や蘇我氏と共に朝廷内で重きをなしたが、任那割譲問題の失政が原因で勢力を急速に縮小する。しかし大化改新後の金村の孫である右大臣長徳やその兄弟である吹負や馬来田が壬申の乱に際して活躍し復権。天武天皇の御代に宿禰を賜姓され、奈良朝には宮廷人として相当栄え参議以上の官職ににおいてる者もかなり見られた。
           
                             拝     殿

       拝殿手前左手側にある天王宮        拝殿の右側には国常立神・国狭槌神・豊斟渟神
                                              の石碑
 案内板に記されている大伴宿祢古麻呂は奈良時代の官人で、第十回遣唐使の副使を拝命されたくらいであるから学識もあり容姿も端麗な人物であったらしい。それに加え軍事氏族大伴一族の気風を受け継いでいてかなりの硬骨漢だったようだ。この第十回遣唐使、天平勝宝5年(753年)正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席し、古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている逸話がある。また天平勝宝6年(754年)の帰国の際には、唐朝、揚州出身の鑑真和上とその弟子24人を便乗し帰国する。この鑑真の来朝も実は密航で、鑑真和上は渡航を希望していたが、時の唐の官憲が鑑真和上の渡航を禁止しているのを無理やり独断で鑑真一行を自分の乗る第二副使船に乗せたという。後に事実が露見して外交問題に発展するのを恐れて大使である藤原清河は渡航を禁止したほどだったから、いかにこの人物が反骨があり、義を重んじる人物だったかわかるだろう。
 当時の大伴氏の中心人物は大伴旅人で、最終階位は従二位・大納言。政治的には長屋王に組していたといわれる。時は藤原鎌足を祖として藤原不比等の時代にのし上がってきた新興氏族・藤原氏が台頭していた時代で、藤原氏はこの旅人を目障りな存在として映っていたのか、遠い九州に2度赴むかさせている。天平2年(730年)6月に旅人が危篤になった時、旅人は腹違いの弟・稲公(いなきみ)と甥の古麻呂に遺言を告げたという。古麻呂は大伴氏の将来を託すに足る人物と旅人に認められていたことではなかろうか。
           
                             拝     殿
 長屋王は、藤原氏の陰謀により神亀6年(729年)2月に自害し、大伴旅人は前出の危篤状態から一旦は回復し、京に呼び戻されたが、ほどなく天平3年(731年)7月に病没。藤原氏も天然痘により四兄弟が相次いで病没し、橘諸兄等、非藤原氏が政治の中心となったが、聖武天皇の皇后光明皇后の信頼が厚い藤原南家・藤原仲麻呂の台頭により大伴古麻呂は橘奈良麻呂の乱に連座、拷問の末に絶命したという。

 案内板には大伴古麻呂が当地に館を築いたと書かれているが、古麻呂自身は遣唐使以外はほぼ京にいて、東国に赴いた記事はない。僅かに天平宝字元年(757年)6月に鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられたとの記述はあるが、翌月には橘奈良麻呂の乱に連座されていて、時間的に厳しい。ただ大伴氏は歴史もあり、大伴氏に関連した氏族がこの地に移住、統治したことはあながち間違いではあるまい。正倉院庸布墨書銘に「天平勝宝五年十一月、武蔵国加美郡武川郷戸主大伴直牛麻呂、戸口大伴直荒当が庸布を貢納す」とあり直姓の大伴氏の存在が近隣に存在していたし、児玉郡には桧前一族の配下に「大伴国足」という人物がいたことが飯倉村字山崎遺跡の銘に残っているという。

       社殿裏手に一列に並ぶ末社群              社殿の手前道路側にある社日

 しかしそれよりこの本庄市小島地区に「那波八郎」に関する伝説があること自体注目に値する。
 伊勢崎市角渕に鎮座する角渕八幡神社の伝説によると、嘗て貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。更にこの時、はねられた魔物の首を祀ったのが、本庄市小島にある唐鈴神社とされている。
 この説話から見えてくることは、この小島地区は、ある時期那波八郎伝説を共通する文化圏に属していたということだ。属するというのは文化的とも、経済的とも取れるし、もっと深く推測すると那波氏の支配下地域だったのともいえる。自分たちにとって安心できる地域だからこそこの地に祀ったと考えた方が自然だ。

 ところで案内板では唐の帰国の際に贈られた金鈴が御神体とも言われ、伝説では魔物の首を祀っている・・・何故相反するものが共存して祀られているのか、それとも魔物=鈴なのか、伝説の中に面白い真実が隠されているような気がしてならない。

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