古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

仲町愛宕神社

 慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康のもと、江戸幕府が創立され、江戸と京都、大阪などを結ぶ交通網の整備は領国経営の上でも重要な施策となった。内陸を通る中山道の整備もその一つである。そして、かつて本庄に城下町を創った新田氏家臣の末裔と言われる人々(戸谷、諸井、森田、田村、内田、今井、五十嵐等)も慶長年間頃より中山道沿いに移り住むようになった。
 寛永10年(1633年)に本陳が設置された。寛永14年(1637年)には人馬継立場となり、寛文3年(1663年)には榛沢郡榛沢村で開市していた定期市を本宿に移転し、宿場町としての形態を整えた。そして、元禄7年(1694年)に助郷村制度が確定された。
 本庄城(慶長17年に廃城)に最も接近して創られたのが本宿であり、本庄宿の中では最も歴史が長い。本宿より西方で、京都よりには上宿ができ、両者の間には中宿が成立した。三つの宿は、その後、「本町」「仲町」「上町」と呼ばれるようになった。
 その後、西国や日本海方面より、江戸に出入りする時の内陸の中継点として、宿の機能は年々拡大されていき、3町より始まった本庄宿も、天保14年(1843年)には、宿内人口4554人、商店など全ての家数を合わせ1212軒を数える中山道最大の宿場町として発展する事になる。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市中央152
            ・ご祭神 愛宕大神 天手長男大神 子安稲荷大神 
            ・例祭等 祈年祭 315日 例祭 424日 祇園祭 715
                 新嘗祭 1124
 国道17号線を本庄市街地方向に進み、「日の出四丁目歩道橋」のある交差点を左折する。その後、旧中山道で埼玉県道392号勅使河原本庄線を西行すること1.7㎞、本庄駅前通りとの交点である「本庄駅入口」交差点を直進し、240m程先の丁字路を右折し、暫く北行すると、進行方向左手で、住宅街の一角に愛宕神社の小さい鳥居が見えてくる。
 社のすぐ北側には「仲町会館」が隣接しているのだが、事前リサーチによる駐車スペースの確保が確認できなかったので、そこから150m程先にあるホームセンターの駐車場の一角をお借りしてから参拝を開始した。 
       
                 小じんまりとした鳥居
   民家が建ち並ぶ細い路地の先にこんもりとした森に囲まれた古墳上に社は鎮座している。

 当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せている。神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、現在も同寺で大切に祀られている。 
     
 社殿に至る石段の左手にある2本立ちとなっているケヤキはご神木とされており、今尚樹勢は旺盛。
           市の天然記念物に指定されている(写真左・右)
 本庄市指定文化財 天然記念物  指定年月日 昭和431023日。
 仲町愛宕神社のケヤキ
 愛宕神社は古墳上に祀られ、社殿に至る石段の左手に神木として所在しています。ケヤキは南北に2本立ちとなっていて、南樹は目通り周囲4メートル、北樹は目通り周囲4.3メートルです。
「本庄市HP
」より引用
             
              古墳の墳頂上に鎮座している社殿
   古墳の回りを覆う社叢林が旺盛のため、昼間の参拝にも関わらず、この一帯はほの暗く、
              神秘的な雰囲気を醸しF出している。
 当社で行われる「祇園祭」は仲町が本庄の中でも先駆となって始めたもので、戦後は一時期廃れたが、昭和24年に神輿渡御を復活したところ、商店街活性化の一助として他の町内でも次々と神輿を出すようになり、今は「本庄祇園祭」と称する大イベントに成長した。昼は子供神輿、夜は大人の神輿が威勢よく渡御するこの祭りは、本庄の夏の風物詩ともなっている。
 
  社殿に掲げてある「愛宕山」の社号額    石段の頂上部付近に設置されている案内板
 愛宕神社 所在地 本庄市中央15
 愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。
 天正19(1591) 本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
 神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根元から南北二樹に分れている。
 南樹は目通り周囲3.7メートル、枝張り東西約16メートル、北樹は目通り周囲4メートル、枝張り東西約20メートル、一本で社叢(しゃそう)を形成している。このケヤキは、昭和43年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
             社殿付近に設置されている社の御由緒
 愛宕神社 御由緒  本庄市中央152
 □ 御縁起(歴史)
 本庄城の城跡から見て、南西500メートルほどの所にある愛宕山と呼ばれる古墳の上に当社は鎮座し、石段の脇には神木の大欅(おおけやき)が枝を広げている。この古墳は、愛宕山の西方500メートルほどの所にある古墳と夫婦塚であるといわれ、彼方の古墳の上には寺坂町の天神社が建つ。
 当社の位置は、臨済宗妙心寺派の寺院である開善寺の旧寺領の南東端に当たる。開善寺は、天正18年(1590)に本庄城主の小笠原掃部大夫信嶺によって開かれ、慶安2年(1649)に三代将軍家光から一五石の御朱印を賜ったことで知られており、歴代将軍から拝受した朱印状を納めた漆塗りの箱は市指定文化財になっている。当社は、『風土記稿』本庄宿の項にも開善寺の境内社として記載されているところから、寺の鎮護のために創建されたものとも思われ、『児玉郡誌』は「天正十九年城主小笠原掃部太夫信嶺の勧請せし社なりと伝ふ」と載せる。
 神仏分離の後は、開善寺の管理を離れ、地元仲町の人々によって祀られるところとなった。社格は無格社であったが、氏子の厚い信仰と「由緒ある社である」との誇りにより、明治末期にしばしば要請のあった村社等への合祀の話も退け、独立した社を維持してきた。なお、神仏分離の際、本地仏として本殿内に安置されていた勝軍地蔵木像は開善寺に預けられることになり、 現在も同寺で大切に祀られている。
                                      案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 本庄宿』
 開善寺 同宗臨済派、京都花園妙心寺末、疊秀山と號す、寺領十五石の御朱印は、慶安二年十一月十七日賜へり、開山球山は時の領主小笠原掃部信嶺の室、久旺尼院の兄にて春日局の叔父なり、信濃國伊奈郡川路村開善寺に住し、天正十九年こゝに來り、一寺を草創し、則彼寺號を襲ひ且住職せりと、この僧は寛永三年八月十二日示寂、開基小笠原信嶺は慶長三年二月十九日卒す、則開善寺徹州道也と號す、
 九條袈裟一領 表紺地赤金欄、裏は白綿地なり、久旺尼院及春日局二人手親縫ひしものと云、箱の裏に星霜既久理破壊せる故、寛政年中小笠原相模守長敬改製せることを記せり、この外信玄出陣の畫像等あり、 鐘 寛延年中再鑄の銘あり 愛宕社 稻荷社
 当社には天手長男神社と子安稲荷神社の二社が末社として祀られていたが、両社共に本殿内に合祀された。そのため、昭和十二年ごろまでは、「愛宕大神」「天手長男大神」「子安稲荷大神」の三種の神札があったが、現在はこれらをまとめて「愛宕三神神璽」として頒布しているとの事だ。
        
                 石段上からの一風景
 本庄市中央地域は、本庄駅がすぐ南東側にあるため、住宅街や近代的なオフィスビル類などが多い地域なのだが、かつて、徳川幕府の政策の都合から宿場町として栄え、商人の町として発展し、18世紀には中山道で最大の宿場町となり、その後、明治以降は生糸・絹織物の産地として栄えたためか、嘗ての宿場町の古きよきまち並みが多く残り、特に中山道を通ると、蔵や商家、寺院など当時の面影を残す風景に出会え、市としての文化度や成熟度が非常に高い地でもある。
 但し、本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けたともいい、江戸時代当時の面影を残す建物は少ない。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されていて、これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。というのも、火事になった時に「防火帯」の役目を果たしたからであり、商家の資産を保管していた蔵々が火災の時に防火拡大を防ぐ「盾」となったという。
 これも近世当時の建物が少ない理由である。
 
このような歴史的な背景を推察するに、この地に「火防の神」の意味合いも強い愛宕神を祀ったのも、創建された理由の一つとして挙げられるのではなかろうか。実際氏子の間では「愛宕様のおかげで、中山道からこっち(北側で当社のある方)は古くから火事が少ない」という。慶応元年(一八六五)の開善寺所蔵の御朱印地図面を見ると、現在の仲町会館の東の辺りに湧水があり、愛宕山を巻き込むように沼が形成されていたが、この沼の水が防火用水としての役割を果たしていたことがうかがえる。但し、この沼は町の発展に伴って埋め立てられたらしく、大正時代末には既に姿を消している。
        
           ご神木の根元には三基の庚申塔と仏像がある。
 周囲が自然に恵まれた中で、ご神木が旺盛に根を台地に下ろして聳え立つ風景は度々見ることはあるのだが、このような住宅街の一角、特に路地幅が狭く、民家が密集している中で、このように立派な巨木が聳え立つ姿は威厳さえ醸し出している。地域の方々が如何に大切に守ってきたのであろう。

 
       仲町愛宕神社のすぐ東側に鎮座している戸谷八稲荷神社(写真左・右)
         鳥居扁額にはうっすらと「正一位稲荷大明神」と刻印
        
              社の傍らに聳え立つケヤキの御神木

 
    
開善寺正門の向かいにあった          小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 「小笠原掃部太夫信嶺夫婦の墓」の案内板
 本庄市指定史跡  小笠原掃部太夫信嶺公夫妻の墓
 公は徳川氏の家臣で、もと信州松尾城主、天正十八年 (一五九〇年)豊臣氏の関東攻めにより、本庄氏滅亡の後当城を賜わり、同年九月入城し本庄領一万石を領した。慶長三年(一五九八年))二月十九日、五十二才にして逝去した。法名徹抄道也大居士、なお公の墓石宝篋印塔は古墳上に築かれている。
 昭和三十三年三月二十八日  本庄市教育委員会                               案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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下真下金佐奈神社

『児玉飛行場』は、嘗て埼玉県児玉郡児玉町(現本庄市)・上里町にあった陸軍の飛行場であり、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月に完成。1944年(昭和19年)10月に児玉基地と改称し、各分科飛行部隊および特別攻撃隊の基地となった。帝都防衛と硫黄島への攻撃を担った。現在大部分が児玉工業団地となっており、一角には飛行場の記念碑と第四教育飛行隊鎮魂碑が建っている。また、当時の兵舎をそのまま流用した立野南公民館にも児玉開拓農業協同組合による石碑が建つ。2016年までは排水路の遺構も残っていたが、撤去された。
 下真下金佐奈神社の旧社地は現在地から西北に1km程行った、小字「金佐奈」にあったようで、昭和17年、陸軍児玉飛行場の開設にあたって現在地に遷座されることになったという。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町下真下149
             
・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             
・社 格 旧下真下村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 43日 例大祭 1015日 新嘗祭 1210
                  
大祓 1225
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2137175,139.1406306,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・児玉町下真下地域は、上真下地域の北東部に位置する。「真下」を共有するこの地域は、児玉党真下氏の名字の地とされ、元々は一村であったが、のち真下が当村と上真下村に分村した。その経緯は不明ながら、本庄市・今井の鈴木家文書によると、「真下左京亮」と「下真下新六郎」の名前が見られ、戦国時代には児玉党真下氏の系譜を引く武士がいて、この時期には既に「下真下」の名称があり、また分村していた事を示唆させる書き方をしている。
『日本歴史地名大系 』「下真下村」の解説
上真下村の東に位置し、北は賀美(かみ)郡立野(たての)村(現上里町)・原新田(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、のち真下が当村と上真下村に分村。慶長一六年(一六一一)の検地帳写(下真下地誌)では田方一四町二反余・畑屋敷二〇町七反余。元和五年(一六一九)佐久間府官(正勝か)の知行地となる(下真下地誌)。田園簿によると田方二三七石余・畑方一四八石余、旗本日向領二八六石余・同加藤領一〇〇石。国立史料館本元禄郷帳では旗本加藤・大岡の二家の相給。

 途中までの経路は蛭川駒形神社を参照。蛭川駒形神社の東側隣にある「平重衡の首塚」から北方向に伸びる脇道を進み、女堀川を過ぎた一本目の十字路を左折し、350m程進行、その後丁字路を右折してそのまま道なりに進む。周囲一帯長閑な田園風景を愛でながら2㎞程北上すると、斜め左方向に進路が変わり、そのまま進行すると、左側に下真下金佐奈神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
                 
下真下金佐奈神社正面
 下真下地域には古代末期から既に児玉党。真下氏が存在していた。真下氏の館は上真下地域の字東と中内而付近にあったと考えられるが、下真下地域にも数カ所の館跡が存在し、児玉工業団地造成の際の発掘調査でも中世の遺構が検出されている。下真下地域内字石橋にある観音堂は真下氏が建立したとの伝承がある。
一の谷合戦で真下基行が乗っていた馬に平家方の放った矢が当たり、基行は最後と観念したところ、突然馬は空を飛び、安全なところまで飛んでいき基行は命拾いをした。これは日頃より金鑚神社を深く信仰していたためのご神徳によるものと思い、所領に観音堂を建立した
 嘗てこの地域にあった小字名である「金佐奈」は、現在工業団地内に入っており、消滅している。昭和18年(1943)の陸軍児玉飛行場の造成以前はこの地に金佐奈神社があったが、非工場の造成に伴って南部の現在地に移転した。尚江戸時代の名寄帳には「金皿」「かなさら」と記載されていることから、昔は「かなさら」と発音していたかもしれない。
 
     鳥居に掲げてある社号額         境内の様子。
規模は大きくはないが、
「金鑚」ではなく「金佐奈」と表記されている。  手入れはしっかりとされていている様子。
        
                    拝 殿
        
             赤い鳥居の右側に設置されている案内板
 金佐奈神社 御由緒  本庄市児玉町下真下一四九
 □御縁起(歴史)
 下真下は、古くは隣接する上真下と共に一村であったが、天正のころ(一五七三-九二)二つに分かれたものと推測されている。下真下の字石橋五六四には真下氏の館跡があるように、この地は武蔵七党児玉党の真下氏の本貫地であり平安・鎌倉のころから開発が行われていた古い村であることがうかがえる。『児玉郡誌』が、「元暦元甲辰年(一一八四)八月十五日・児玉党支族にして当地の豪士真下太郎基行の勧請せし社なりと云ふ(中略)其後永禄元亀の頃(一五五八‐七三)・下真下新六郎と云ふ人あり、社殿を再興して崇敬せりと云ふ」と記しているのも、当社とこの真下氏との関係の深さを示すものである。
 当社の境内は、元来は現在地から西北に一キロメートルほど行った所(字金佐奈)にある金佐奈山(平山ともいう)にあった。ところが、昭和十七年、彼の地が陸軍の児玉飛行場開設に当たり、その用地となったため当社は移転を余儀なくされ、新たな社地を検討した結果、中屋敷の中央部に近いこと、桑畑で造成も容易であることを理由に、中島隆治家から有償で土地の譲渡を受け、現在の場所に遷座した。
 江時代には、『風土記稿』下真下村の項に「金鑽神社 村の鎮守にて、竜泉寺持」とあるように、臨済宗の竜泉寺が当社の別当であった。同寺もまた真下太郎基行を開基とする古い寺院で、明治三十年に火災で堂宇を焼失したが、間もなく復興され、現在に至っている。(以下略)
                                      案内板より引用


 社殿の左手には「猿田彦」と刻まれている石碑が一基。またその奥には合祀社が二社、中に二基の石祠が祀られ、その右手にも石段上に二基の石祠が祀られている。
             
                 社殿左手にある石碑。
        読みづらかったが「猿田彦」と刻印されているように見えた。
        
              社殿奥で、一番左側にある合祀社。
     二基の石祠は、左側は「大年神」、その隣には「伊勢神社」の看板があり。
 年神(としがみ、歳神とも)・大年神(おおとしのかみ)は、日本神話・神道の神で、「とし」は、元々穀物などの実り、収穫を意味したが、その収穫に1年を要するところから年を意味するようになった。よってこの神名は本来豊かな実りをもたらす神の意。国津神に属する。
『古事記』には、須佐之男命と神大市比売との間に生まれ、また伊怒比売,香用比売などの女神との間に多くの子をもうけた神と伝えられている。また『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
 生まれたすぐあとに、穀物神である宇迦之御魂神が生まれていることや、この神の子として御年神が生まれていることなどに、稲のゆたかな稔りをもたらす穀物神としての性格がよく表れている。
 民俗学者である柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
 
  真ん中に祀られている合祀社・石祠二基     一番右側に祀られている石祠二基
左側は「天神社」その隣は墨が薄くて解読不能     こちらも墨が薄くて解読不能



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「朝日日本歴史人物事典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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上真下金鑚神社

 九郷用水は、群馬・埼玉県境の神流(かんな)川から取水する用水。埼玉県北部を灌漑(かんがい)する。開削の時期は不明だが,古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがある。
 神川町新宿字寄島から分水した九郷用水は、神流川の河岸段丘縁辺を神川町小浜付近から等高線に沿って徐々に段丘上に導き、神川町中新里地域付近で東方向に向きを変えて、本庄台地面の植竹集落(南)、児玉町保木野(北)を流下し、児玉町上真下地域を通り、上真下金鑚神社から東方向350m先で、北東方向に流れる女堀川と合流する。
 江戸時代、上真下村は九郷用水の南北分流点の地に位置していることから、922ヵ村用水組合の割元村を蛭川村と共に務めていた。この流域での石高は7,817石で、全長は約8,640間とされていて、この膨大な石高を生産し、尚且つ用水の管理や維持するため、ほぼ一手に引き受けたのがこの用水でもあり、割元村である当村と蛭川村の苦労は計り知れない。
 現に嘉永6年(1853)に九郷用水組合内で大きな水争いが起きているなど、たびたび水争いが発生していたというのも想像に余りあることであろう。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町上真下186
             ・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             ・社 格 旧上真下村鎮守・旧村社 
             
・例祭等 祈年祭 414日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1214
                  大祓 1225
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2091225,139.1298314,17z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市児玉町上真下地域は、旧児玉町共和地区内にあり、北部は児玉工業団地があり、南部から東部にかけては条里水田地帯で、上真下地域の中央を女堀川が東西に流れ、地域一帯は低地帯となっている。また中央西寄りを南北に嘗て「本庄道」と呼ばれた埼玉県道131号児玉新町線が通っている。
 途中までの経路は保木野御霊稲荷神社を参照。この社から北東方向に2㎞程進行し、上記県道131号線に達した後、右折するとすぐ先に「上真下」交差点があり、交差点右側に上真下金鑚神社は鎮座している。
 残念ながら周辺には駐車スペースはなく、正面鳥居の近くに路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                               上真下金鑚神社正面
『日本歴史地名大系 』での「上真下村」の解説によれば、「吉田林(きたばやし)村・八幡山町の北に位置し、北は下真下村、西は賀美(かみ)郡八日市村(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、かつては当村および下真下村一帯は真下と称されていたとみられる。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。建久元年(一一九〇)一一月七日の源頼朝入洛の際に真下太郎、暦仁元年(一二三八)二月一七日の将軍藤原頼経入洛の際には真下右衛門三郎が供奉した(吾妻鏡)」との事だ。
 因みに「真下」と書いて「ましも」と読む。
        
                   境内の様子
 真下地域は武蔵七党児玉党に属していた真下氏の本貫地である。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。
『新編武蔵風土記稿 上真下村』では、真下氏に関して以下の記載がある。
 眞下は古く聞えし地名にして、當國七黨の枝流眞下二郎弘忠等の住せし地なり、【七黨系圖】に兒玉當の祖、遠峯有大夫弘行の三男、基行の子眞下二郎弘忠とみえたり是當郡に住せし兒玉氏の屬なれば、此地を領して在名を名乗しこと知らる、又【東鑑】に眞下右衛門三郎・同太郎等あり、且前村舊家忠右衛門所藏天正十八年の文書にも眞下左京亮・眞下新六郎など見ゆ、これによれば上下に分れし年代も大抵推て知べし、
『風土記稿』に記載にある「天正18年の文書」の他に、本庄市今井の「鈴木家文書」には、「眞下左京亮・下眞下新六郎」という名が見え、どちらにしても、児玉党真下氏の系譜を引く武士がこの地にいたことは確かである。上真下には古代末期から既に児玉党・真下氏が存在し、治承4年(1180)源頼朝が石橋山合戦で敗れたとき、平家方に「真下四郎重直」という武士がいたことが『平家物語』に見える。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿』以外での真下氏の記述は以下の通り。(*埼玉苗字辞典参照)
『武蔵七党系図』
「有大夫別当弘行―真下五郎大夫基行―三郎有弘(兄太郎弘忠、弟四郎弘親・其子中務丞弘常・其子小太夫)―弘長―兵右衛門尉重盛―太郎成胤―弥太郎成氏(弟胤氏)―又太郎成実。成胤の弟三郎某―重親―孫太郎重延(直延トモ)」
『平家物語』
「篠原合戦。平家方に長井斎藤別当実盛・浮巣三郎重親・真下四郎重直、我等は東国では皆人に知られて名ある者でこそあれ」
『吾妻鑑巻十』「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に真下太郎」
『同巻三十二』「嘉禎四年二月十七日、真下右衛門三郎」
『典籍古文書』
「建治元年五月、武蔵国・真下右衛門尉跡四貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷』
「滝上十郎道信(正応年中の人)は、児玉党に真下の五郎太郎と闘論す」
        
               境内に設置されている案内板
 金鑽神社 御由結  本庄市児玉町上真下一八六
 □御縁起(歴史)
 真下は武蔵七党児玉党に属した真下氏の本貫地で、天正のころ(一五七三~九二)に上下に分かれたものと推測されている。真下氏の館跡は下真下の字石橋にあり、下真下の鎮守である金佐奈神社は真下太郎基行が元暦元年(一一八四)に勧請したものと伝えている。したがって、下真下と元は一村であった上真下の当社は、その時期は明らかでないが、この金佐奈神社から分 かれた社であると考えられる。
 当社の境内は上真下の集落の中心地にあるが、元来は村の北端の丘の中腹(字金鑽西)にあった。この丘は、神川町に鎮座する武蔵二宮の金鑚神社が遥拝できる所である。『児玉郡誌』によれば、宝永年間(一七〇四~一一)に社殿が炎上したため、字神西の日枝神社に一旦合祀され、宝暦年間(一七五一~六四)に至って、社殿を再興し、旧社地に戻ったという。この日枝神社が、現在の社地に元からあった神社で、無格社であった。ところが、一村一社を目指して行われた政府の合祀政策に基づき、この日枝神社に明治四十一年をもって村社であった当社が合祀され、その結果、日枝神社は社号を金鑚神社と改め、村社となった。このような経緯をたどって、当社は現在のような形になったのである。
 本殿は、日枝神社が春日造りで明和四年(一七六七)
の造営、金鑚神社が流造りで宝暦年間の造営である。(以下略)
                                      案内板より引用
 
   社殿左側に祀られている石祠三基           社殿右側にも境内社。

         詳細不明              
内部に石祠二基と三体の御幣あり。
 社殿右側に鎮座する境内社の中に二基の石祠があるが、向かって右側の石祠の屋根正面部に「八坂・大〇」と刻印されているようにも見える。
       
              境内に屹立するご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
             

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保木野御霊稲荷神社

 わが国における視覚障害を有する者の生活手段確保の原点は「当道座」にあるといわれている。当道座とは、盲人の自治的相互扶助組織であり、その起源は古代に遡り、平安時代前期、仁明天皇の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えたのがその起源であるという。
 鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。その後、室町時代に足利尊氏の従弟で、検校明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。
 江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれはさらに細分化されており合計73個の位があった。さらに地方の出先機関として「仕置屋敷」があり、その末端に組が置かれたという。
 官位を得るためには京都にあった当道職屋敷に「官金」と呼ばる多額の金子を持っていく必要があり、官金は高官たちに配分され、低官者は吉凶に際して施し物を受け、その配当を貰うことが慣行として公に認められていた。昔テレビで放送されていた「座頭市」のような物語の背景もそこにあったようだ。
 但し、江戸幕府は、当道座を組織させることで、それを統括する惣禄屋敷の検校(惣禄検校)に自治の権限や一定の裁判権を認めたが、当道座は男性のみが属することが出来る組織であり、盲目の女性のための組織としては瞽女座があり、また、盲僧座とよばれる別組織も存在し、しばしば対立することもあったらしい。
 当道座は江戸時代になっても幕府より庇護され、寺社奉行の管轄下に置かれていて、組織もしっかりと整備され、京都に職屋敷が置かれ、総検校が当道座を支配した。のちに6派に分かれたらしいが、それぞれ「座」として存在し、「検校・別当・勾当・座頭」の4官、内訳は16階と73刻みの位階で構成される当道制度が確立したが、官位はあくまで私官であった。この組織は明治4年(1871年)に廃止された。
 江戸時代中期、失明のハンデを負いながら学問の道に進み、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」等散逸する恐れのある貴重な文献の校正を行った塙保己一も、同時に当道座社会の最高位である「総検校」に就任している。その保己一の故郷がこの現本庄市・保木野地域であり、生家に近い場所にその地域の鎮守社である保木野御霊稲荷神社がある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町保木野314
             
・ご祭神 素盞鳴尊 倉稲魂命
             
・社 格 旧保木野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 初午祭 211日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
新穀感謝祭 1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1977266,139.1184574,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・保木野地域は旧児玉町「金屋地区」に属し、地区内最北部に位置している。途中までの経路は金屋白髭神社を参照。国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、「金屋保育所」交差点を直進し、450m程先の信号のある十字路を右折、そこから北方向に約1.4㎞道なりに進むと、一面田畑風景の中、正面方向にポツンと保木野御霊稲荷神社の社叢林が見えてくる。
        
                                                    保木野御霊稲荷神社の社叢林
 保木野地域は北を九郷用水、東を赤根川に挟まれていて、一帯は概ね平地である。集落は地域中央部にあって南部には「金屋条里水田」が広がっていて、現在はこの条里地帯も農地の区画整理、農道の整備、農業用用排水路等の整備を総合的に行われ、嘗ての土地区画は変化しているという。北側に九郷用水が東西に流れていて、保木野地域の水田もこの用水を用いている。
『本庄の地名②・児玉地域編』によれば、保木野の地名由来として、広がっていた野原とそこに映える自然林から起こったと推測され、保木野の「ほき」は植物がよく茂る(ほきる)様をあらわした言葉の意味との事だ
        
                保木野御霊稲荷神社正面
 日本歴史地名大系 「保木野村」の解説
 八幡山町の北西に位置し、東は賀美(かみ)郡八日市(ようかいち)村(現神川町)。文永一一年(一二七四)一一月の大嘗会雑事配賦(金沢文庫文書)によると、大嘗会に際して「保木野村」に布三丈六尺・白米六升八合・酒二升・秣一束・菓子一合が賦課されている。
「風土記稿」は新義真言宗(現真言宗豊山派)龍清(りゆうせい)寺境内に応永三二年(一四二五)銘をもつ「妙西尼」と刻された石碑があったと記す。永禄六年(一五六三)二月二六日、用土新左衛門尉に旧領である「保木野之村」などが宛行われた(「北条氏康・同氏政連署判物写」管窺武鑑)。天正一九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)によれば村柄は下之郷で、田方一一町八反余・畑方一〇町五反余(うち屋敷四反余)、俵高三一六俵余。
        
              保木野御霊稲荷神社 一の鳥居
 塙 保己一(はなわ ほきいち、延享355日(1746623日)~文政4912日(1821107日))は、江戸時代後期に活躍した全盲の国学者。武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。姓は「荻野」。武蔵七党横山党の一族で、荻野氏の後裔といわれている。
 7歳のとき、病気がもとで失明したが、15歳で江戸に出て、学問の道に進む。多くの困難の中、驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版する。
 48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てる。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだという。
 そして、文政4年(18212月、盲人社会の最高位である「総検校」につき、同年9月に天命を全うした。享年76歳。
        
                                                            境内の様子
 保己一の幼名は丙寅にちなみ「寅之助(とらのすけ)」、失明後に「辰之助(たつのすけ)」と改める。また一時期、「多聞房(たもんぼう)」とも名乗る。雨富検校に入門してからは、「千弥(せんや)」、「保木野一(ほきのいち)」、「保己一(ほきいち)」と改名した。「保木野一」という名前は、自身が宝暦13年(1763)、18歳にして「衆分」の位に昇格した際に、名を中国の故事と共に、自らの出身地である「保木野」に因んだからといわれている。
 因みに「塙」の苗字は、保己一が江戸に出て修行を積み、当時の師であった須賀一の本姓「塙」を名のり、塙保己一を称したという。
*衆分…当道座の73もの階級の内、大きく分けた検校・別当・勾当・座頭の4官の座頭に相当し、衆分は15の階級に分かれている座頭の一番下の位という。
        
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額           境内に設置されている案内板
 御霊稲荷神社 御由緒    本庄市児玉町保木野三一四
 □御縁起(歴史)
 保木野は、北を九郷用水、東を赤根川で限られた平地である。文永十一年(一二七四)の「大嘗会雑事配賦」(金沢文庫)に保木野村の文字が見える。
 御霊稲荷神社の名が示すように、当社は御霊神社と稲荷神社の合殿である。御霊神社は新里村との村境に鎮座した神社で、『風土記稿』保木野村の項によれば、往時の村鎮守で、龍清寺の持ちであった。「文政六癸未歳(一八二三)十一月吉祥日、別当東方龍清寺」と墨書された再建時の棟札が伝わる。ちなみに、龍清寺は、境内に応永三十二年(一四二五)の石碑がある古刹である。一方、稲荷神社は元々現在地に祀られ、『風土記稿』によれば福泉院の持ちであった。『児玉郡誌』によれば、貞治年中(一三六二-六八)に福泉院の開祖道栄が当地に居住して修験道を修行し、当社を勧請したという。本殿には「奉納稲荷大明神守護、元禄十六年(一七〇三)癸未天九月吉旦、願主武州児玉郡保木野村法印袋等」と刻まれた金幣や「正一位稲荷大明神、安永九年(一七八〇)子二月」と墨書された神璽などが奉安されている。
 明治初年の神仏分離により両社はそれぞれの別当から離れ、明治五年に稲荷神社が村の中央に位置することから村社となり、御霊神社は無格社とされた。同四十年には御霊神社を稲荷神社に合祀し、これに伴い社名を御霊稲荷神社と改めた。(以下略)

 また御霊稲荷大明神に奉納されている「塙保己一の奉納刀」があり、天明31783)年、塙保己一が検校(けんぎょう)に就任した時に奉納されたもので、糸巻き太刀拵えと呼ばれる形式の「飾り太刀」だそうだ。

拝殿左側手前に祀られている石祠群・詳細不明      社殿右側に鎮座する境内社
                             こちらも詳細不明
     
            境内には巨木・老木が聳え立つ。(写真左・右)
     左側は入り口付近で、鳥居の右側にある巨木。右側は社殿の右側にあるご神木。
   これら巨木・老木・ご神木の存在は、この社の歴史の深さを証明する生き証人でもある。
  境内入口付近左側にポツンとある社日神    鳥居の右側に並んで建つ庚申塔・石碑等
       
               社殿から見た秩父山系の風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県HP」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「本庄の人物誌① 盲目の国学者 塙 保己一の生涯」「Wikipedia」「境内案内板」等
   



 

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小島智方神社

『日本歴史地名大系』 「小島村(おじまむら)」の解説
本庄台地の末端から烏(からす)川・利根川の沖積低地にかけて位置し、東の本庄宿から続く中山道が台地の末端部を通る。「和名抄」にみえる賀美郡小嶋郷の遺称地とされ、中世には小嶋郷に含まれていた。村域の北部を元小山川が東流し、北部の低地部と西の下野堂(しものどう)村地内に複雑な小字境界が入交じっている。下野堂村のなかに飛地がある一方、北側の低地には同村・杉山村・新井村の飛地があり、飛地の中にさらに飛地があるなど、それぞれ村の成立からみて分村を繰返した結果であると考えられる。
『新編武蔵風土記稿 小島村条』
「小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる」

 古代賀美郡は、新田郷・小島郷・曽能郷・中村郷の4郷で構成されていた。『和名抄』に賀美郡小島郷を載せ、「乎之万(おしま)」と訓じていて、現在の小島地域とその周辺地域が古代の小島郷にあたると思われる。
 また古代末期頃に出現した武蔵七党丹党一族に小島氏があり、この小島地域周辺を書領していたという。
*丹党小島氏 武蔵七党系図
「秩父黒丹五基房―小島四郎重光―五郎光成―六郎光高―五郎左近光頼(弟光泰)―五郎左衛門経光―六郎光重(弟に五郎光綱、二郎光行、四郎経定)―六三郎末光(弟六郎入道宗光)。光高の弟四郎俊光―四郎二郎光村―小三郎信俊(弟経時)―孫六郎光経(弟七郎季光)」
 道興准后の文明十八年廻国雑記に「をしまの原」と見える。嘗て児玉郡小島(尾島とも記す)は賀美郡石神・七本木各地域に接していたので、この地のことであろう。
        
               
・所在地 埼玉県本庄市小島179
               
・ご祭神 天児屋根命
               
・社 格 不明
               
・例祭等 春祭り 423日 大祓式 720日
                    
秋の大祭 1123日 奉告祭 125日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2555494,139.160708,17z?hl=ja&entry=ttu
 田中一之神社から一旦南下し、国道17号に合流後右折し、上里方向に進む。その後上里町との境近くにある「万年寺」交差点を右折、200m程先にある元小山川に架かる橋を渡る手前の路地を左折する。元小山川沿いの道を進み、農業用ハウスを左手に見ながら暫く進むと、浄水場付近で周囲が田畑風景に代わり、左側遠方に小島智方神社が見えてくる
 駐車スペースはないので、社号標柱北側の路肩に停めてから急ぎ参拝する。
        
                                小島智方神社正面 
 鳥居前面には、正面の社殿が見えない位に、欅の大木が聳え立つ。樹齢は想像もつかない位に古そうで、まさにご神木そのもの。他のサイトを確認すると700800年ともいう。幹の中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためのベルトが締められている。但し周りの枝葉は元気に伸ばしていて、その生命力には驚きを感じる。年鳥居前で一礼して、更にご神木にもお礼せざるをえない程の貫禄と存在感がこのご神木にはある。
            
                         小島智方神社・大欅のご神木 
                   
               大欅のご神木の近くにある「智方神社新築記念碑」
 智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                               境内に設置されている案内板
 智方神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  本庄市小島一七九
 聖護院門跡道興が、『廻国雑記』に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ愛におしまか原をきてとへはわか松しまは程そ遥けき」と詠んだのは、文明十八年(一四八六)のことであった。この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
 当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白幣の幣串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
『風土記稿』小島村の項に、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。字の名称の起こりにもなっている万年寺については、『風土記稿』にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。(以下略)
                                      案内板より引用
 道興准后(どうこうじゅごう)は室町時代の僧侶で、関白近衛房嗣の子である。文明18年〜19年(148687年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国(若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国、其の後武蔵国、甲斐国、奥州)を廻国し、後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。
 当時小島地域は上野国に属していて、「おしまの原」という所で休んだという。この「おしまの原」が本庄市小島地域といわれていて、冒頭紹介した『新編武蔵風土記稿』にもそのことは記載されている。
 因みに案内板に記載されている「茂木氏」は、児玉郡誌に「字万年寺の智方神社は徳川時代に至り、豪士茂木伊賀守・社殿を改築せり」と記載されている。
 
      拝殿左側に石祠が二基           拝殿右側にも石祠が二基
            これらの境内社・石祠の詳細は不明である。
        
                            社殿右側奥にある御嶽社
 塚頂の石碑には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が、その右側の石碑に不動明王が祀られている。左側の石祠は詳細不明。
        
                  御嶽神社遷座記念碑
 御嶽神社遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
 創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年327日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
 しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林1391番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。 

                                     記念碑文より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄市の地名」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
  

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