古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平塚新田氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市平塚新田18
             
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
             
・社 格 旧平塚村・新田鎮守 旧村社
             
・例祭等 元朝祭 12日 春祈祷 412日 
                  例祭(お日待) 
101415
 川越市の北西部に位置する平塚新田地域は、入間川と小畔川の合流点周辺の狭い区域にあり、『新編武蔵風土記稿 平塚新田村』にも「此地本村の間に攝し、北の方に一區をなせり、民家僅に九軒、田圃は本村と駁雜(はくざつ)の地なれば四境の界は本村に屬せり」と載せるように、平塚地域北端部から分けられた地が当地域であり、更に東西・南北共に1㎞程程度しかない中で、3区の飛び地で構成されている。
 下小坂白鬚神社から小畔川に沿った道路を北東方向に進み、土手を登った先にある小さな冠水橋である「鎌取橋」を渡る。今時珍しい木製の造りで、更に道幅も狭いため、通る時はゆっくりと走行したのだが、昭和生まれの筆者にとって、昔の懐かしい臭いが周囲一帯漂う風景に自分の幼少期や青年期の思い出と重ね合わせながら、時間が過ぎるのも忘れて眺めていた次第であった。
 
 昨今の橋にはみられない風情のある
鎌取橋      この橋は水面にも非常に近い。
 土手を下ると、平塚新田地域の民家が数軒見えてくる。この地域は飛び地が3カ所あるのだが、一番南東に位置するこの区域は一番狭いのだが、民家は集中しているようだ。そして、入間川方向に伸びる道を進むと、同河川土手手前に平塚新田氷川神社はひっそりと鎮座している。
        
                        
平塚新田氷川神社正面
              入間川の堤防がすぐ右手に見える。
『日本歴史地名大系』「平塚新田村」の解説
 平塚村の北東、入間川・小畔川と旧小畔川の合流点付近の低地に立地。高麗郡に属した。平塚村新田とも記す。入間郡網代(あじろ)村の百姓又左衛門が開発したと伝える(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高七五石余、反別田三町六反余・畑一二町二反余、幕末まで川越藩領。
 
  平塚新田自治会館の手前に立つ社号標柱    無駄なものがない、さっぱりとした境内

 この社の創立時期はハッキリとは分からないが、『風土記稿』によると、「入間郡網代の百姓、又左衛門なるもの来て、新墾せしと云、」また社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とあり、万治二年(1659年)の棟札があるということなので、江戸時代初期にはこの社は祀られていたことになる。
        
            参道右側に並んで祀られている境内社や石碑
         左から境内社・稲荷社、天魔大王の石碑、境内社・御嶽社
        
                    拝 殿
 氷川神社  川越市平塚新田一二(平塚新田字氷川前)
 当地は川越市の北部にある水田地帯である。口碑に、川越の殿様が松平信綱の時、武蔵野の開発が行われ、その折、山田のうち北山田の次男・三男が入り草分けとなった所であり、当時二六戸であったという。当地は古くから洪水の多い所で、小畔川・入間川・越辺川の三河川が地内落合橋の所で合流する低湿地であり、俗に「小畔のコシロ」「伊草のケサ坊」と呼ばれる二匹の大蛇が暴れた所であるという。
 当社は草分けの入職時に川越の氷川様(現宮下町の氷川神社)の分霊を受け、川を治める神様として祀ったものといわれている。
『風土記稿』に「平塚村及び新田の鎮守なり、例祭六月一五日 入間郡網代村本山修験、教学院の持なり」と載せる。
 社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とある。
 本殿は一間社流造りで、明和七庚寅年九月再営の銘がある棟札を蔵する。内陣に、「明和七庚寅年六月二十日・川越本町高田長左衛門願主」と幣芯に銘がある金幣を祀る。口碑に、この金幣は川越の氷川神社に祀ってあったものであるという。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、口碑によれば、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによるという。後に水害により新田地域の戸数は減り、平塚地域の方が大きくなっている。
 祭礼日412日は、「春祈祷」と呼び、古くは幟を立て、神楽の奉納があり賑わった。神楽師は勝呂村塚越(現坂戸市塚越)から三名頼み、太々(だいだい)神楽であった。また、山田村福田の若衆が囃子を奉納したともいう。塚越の神楽は有力者の寄附により賄ったのでハナカグラとも呼んでいた。この神賑いも戦争の激化により中止されてしまった。現在は祭典があり、同時に村境四ヶ所にフセギと称する神札を立てる行事だけである。
        
 この地は、秋のお彼岸時期になると、河川の土手周辺や水田の畔に曼珠沙華が一斉に咲き誇るという。
 埼玉で曼珠沙華の観光名所と言えば、日高市高麗本郷の巾着田や幸手の権現堂堤が有名であるが、ここ川越市平塚新田の入間川の土手の曼珠沙華も、国道254号線に架かる落合橋から平塚橋まで土手の約700mに渡って群生していて、社の境内には、「埼玉県自然100マンジュシャゲ群生地」の看板と、「堤防を 緋の帯びにして 曼珠沙華」の句碑が設置されている。
 参拝時期が5月中旬と時季外れではあったが、いずれはこの真っ赤に咲き誇る曼珠沙華の風景を堪能したいものだ。
        
                 入間川堤防の眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
   

拍手[1回]