奴伊奈利神社
かつて、当社には、「稲荷様の奴(ご家来)」と称し、病弱な子供は三年とか五年とかの期限を決めてその間月参りを欠かさず行えば必ず丈夫になるといわれ、その期間中は稲荷様に奉仕している印としてもみあげ(当地ではこれを奴と呼ぶ)を伸ばし、満期になるとそれを切って奉納する習慣があった。大東亜戦争以後この習いは廃れてしまったが、奴稲荷の名の起こりとして覚えておきたいものである。
「埼玉の神社」より引用。
・所在地 埼玉県熊谷市仲町43
・ご祭神(主)倉稲魂命 (合)徳川家康公
・社 格 旧村社
・例祭等 祈年祭 3月8日 例祭 4月8日 新嘗祭 12月8日
*祭日に関しては『大里郡神社誌』を参照。
熊谷では老舗の百貨店で、創業から2017年には実に120年を迎えたという八木橋百貨店は、埼玉県内初の百貨店として、また熊谷市内では最大の店舗面積を持つ。まさに地域密着型の百貨店と言って良い。
この八木橋百貨店の裏手で、熊谷寺に隣接して鎮座しているのが奴伊奈利神社である。
奴伊奈利神社二の鳥居
一の鳥居は隣接している熊谷寺に近すぎて正面から撮影できず。
不思議と参道は駐輪所として数多くの自転車が置かれている。
奴伊奈利神社は、熊谷次郎直実の守護神(弥三左衛門稲荷)として、元久2年(1205)熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に創建した。江戸時代には徳川家康より三十石の朱印があり、享保4年(1719)には、正一位の神階を受けている。その後、明治2年(1869)の神仏分離令により熊谷寺から離れ、同じく熊谷寺にあった東照宮を合祀の上、鎌倉町八坂神社境内に遷座したが、明治31年(1898)旧社地である当地に再び遷座し、村杜(明治7年申立)として厚く信仰されるようになったという。
昔から熊谷三社参りと称して、稲荷木伊奈利(銀座)・高城神社(宮町)・当社の三社を巡拝することが盛んに行われた。現在でも篤信家により行われている。
「埼玉の神社」によると、国道17号号の新道開通によって交通量が激増したため、「交通安全稲荷」として崇められるようになったというのも、自転車置き場として開放されている理由の一つであろうか。
「熊谷奴稲荷大神」と刻まれている石碑
よく見ると石碑の上の神狐の像の頭部分が無い。
境内の様子
『新編武蔵風土記稿 熊谷町』
熊谷寺 稻荷社 熊谷弥三左衛門稻荷と号す。境内の鎭守とす
『大里郡神社誌』
伊奈利神社 大里郡熊谷町大字熊谷字仲町乙三千五百三十三番地鎭座
・神社所在地
大里郡熊谷宿字旅籠町熊谷寺境内にありしを明治二年九月神佛混淆改正に依り東照宮(熊谷寺境内)を合祀して同町大字熊谷字鎌倉町愛宕神社境内に遷座し同七年二月村社申立濟同三十一年字仲町(舊社地)乙三千五百三十三番準市街地百六十九坪を神社地として遷座大正十一年社殿改築の際隣地十二坪四合五勺を增加す
・神社名稱
舊名稱熊谷彌三左衛門稻荷又は奴稻荷大明神と稱せり明治二年九月伊奈利神社と改稱す 崇敬者は今尙ほ奴稻荷と通稱す
境内に設置されている趣ある手水舎 奴伊奈利神社の由来等が記された案内板
拝 殿
伊奈利神社(やっこいなり) 熊谷市仲町三五一一-二(熊谷字仲町)
奴稲荷もしくは熊谷弥三左衡門稲荷の名で知られる当社は、市の中央部で、本町に続く商業地域である仲町に鎮座している。仲町は、地内に熊谷直実開山の熊谷(ゆうこく)寺があることで知られ、その近辺は門前町として発展してきたといわれており、当社の境内はこの熊谷寺の山門のそばにある。
社記によれば、当社の創建は元久二年(一二〇五)で、次のような話が伝えられている。日ごろ稲荷神を深く信仰していた熊谷直実は、戦場で危難に遭っても、必ず熊谷弥三左衛門という武士によって助けられ、勝利を得た。余りの不思議さに直実が弥三左衛門にその素姓を尋ねたところ「吾は汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがため熊谷弥三左衛門と現じける」と言い、忽然と姿を消した。その霊威に感じた直実公は、帰陣の後、祠を熊谷寺境内に設け、これを祀った。当社は弥三左衛門稲荷と呼ばれるようになったという。
その後、慶長年間(一五九六- 一六一五)に熊谷寺中興幡随意上人が社殿を再建し、享保四年(一七一九)には正一位の神位を受けている。明治に入ると、神仏分離によって熊谷寺の管理を離れ、明治二年に鎌倉町の愛宕神社境内に一旦移転したが、仲町有志の奉賛と協力により、同三十一年には現在の境内が整備され、再び仲町に迎えられ、村社として人々から厚く信仰されるようになった。
「埼玉の神社」を引用
本殿(写真左・右)
「埼玉の神社」によると、当社は繁華街にあるため、商売繁盛の神としても古くから信仰されており、とりわけ花柳界の人々から信仰が厚かった。往時は毎月八日が縁日で、旧中山道から拝殿の前までずっと紅白の提灯を付けて、多くの人出があったものであるが、関東大震災の後は街並みが大きく変わったため、縁日は次第に行われなくなったという。
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等