大黒部愛宕神社
・所在地 埼玉県東松山市大黒部12
・ご祭神 軻遇突智命(推定)(本地)本地仏勝軍地蔵
・社 格 旧宮鼻村大黒部鎮守・旧無格社
・例祭等 天王様 7月15日 例祭 7月24日
東松山市大黒部地域は、都幾川と越辺川に挟まれた台地上に位置する。この地域は嘗て『新編武蔵風土記稿 宮鼻村』の項において、小名として「大黒部」が載り「隣村毛塚村と入合の地なり」のただし書きがある一方、毛塚村の項にも「大黒部」の小名と「宮鼻村の地と犬牙なり」とあった。この「犬牙」とは、犬の牙が入りくんでいるように、土地の境などが互いに入りくんでいるさまという。現在、大黒部地域は南北520m程、東西120m程度の南北に細長い長方形の地形であるのだが、開発当時はどの程度両村の人々の移住等による土地の割り振りがあったのであろうか。
大黒部愛宕神社正面
東武東上線高坂駅東口から駅前通りを東行し、「高坂郵便局」のある十字路を右折する。川越児玉往還を600m程南下し、十字路を左折すると右手に大黒部愛宕神社が見えてくる。地図を確認すると、丁度高坂神社の南側で、直線距離にすると約500mのところに鎮座している。
拝 殿
愛宕神社 東松山市大黒部一二(宮鼻字大黒部)
当社は大黒部の鎮守として祀られている。『風土記稿』宮鼻村の項には「大黒部」の小名が載り「隣村毛塚村と入合の地なり」のただし書きがある。一方、毛塚村の項にも「大黒部」の小名が載り「宮鼻村の地と犬牙なり」とある。これらの記述は、大黒部の地が宮鼻・毛塚両村の出作地として開かれたことを物語る。その後、両村から人々が移り住むようになると、一村として意識されるようになり、当社が鎮守として祀られるに至ったのであろう。
同書によれば、毛塚村の檀那寺であった真言宗愛宕山竜円寺の境内に愛宕神社が祀られており、恐らくこの社を勧請したものであろう。創建は、『武蔵志』の大黒部の項に「寺社ナシ」とあるが、『風土記稿』には一社として載ることから、享保二年(一八〇二)から文政十一年(一八二八)にかけてのことと推察される。
明治初年の社格制定に際し無格社となった当社は、明治四十一年に宮鼻の本村にある村社八幡神社に合祀となった。これにより社殿は八幡神社に移され、愛宕山と呼ばれる小高い社地は切り崩された。この時、土中から金環が出たと伝えられる。その後、年を経るにつれて旧氏子の中から愛宕神社を再び鎮守として祀ろうとの気運が高まり、ついに昭和三十九年に遷座が行われた。更に同五十二年には社殿の新築がなされ、名実ともに大黒部の鎮守としての再興が果たされた。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
宮鼻八幡神社との合祀当時は、八幡神社の祭事の度に大黒部の代表が参列していたが、愛宕神社への信仰は、従来の祭日に地元の公民館に旧氏子が集い、掛け軸を掛けて祭事を行うという形で存続された。 この根強い信仰が社の再興へとつながっていったのであろう。
なお、掛け軸は文政六年(1823)に大黒部村中によって奉納されたもので、愛宕大権現の本地仏勝軍地蔵とその眷属が描かれているという。
左から境内社・八坂神社と愛宕大神の石碑 境内にある「記念碑」
記念碑
当地区は古墳時代より開拓され、此の地は愛宕山と称され、愛宕神社を奉斎し、崇敬の誠を捧げて来たるも明治四十二年一月神社振興の国策により宮鼻八幡神社境内に合祀となる。
然るに氏子総意により昭和三十九年三月六日旧地大黒部に再び遷座す。其後氏子は益々発展するにより、社殿新築をなし祭儀を厳修し、神社本然の姿にすべしと、本殿、幣殿、拝殿、鳥居を建て、昭和五十二年三月六日御遷宮奉祝大祭を執行す。
然るに氏子総意により昭和三十九年三月六日旧地大黒部に再び遷座す。其後氏子は益々発展するにより、社殿新築をなし祭儀を厳修し、神社本然の姿にすべしと、本殿、幣殿、拝殿、鳥居を建て、昭和五十二年三月六日御遷宮奉祝大祭を執行す。
大黒部愛宕神社遠景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内記念碑文」等