古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

毛塚神明社


        
            
・所在地 埼玉県東松山市毛塚349
            
・ご祭神 天照皇大神(推定)
            
・社 格 旧毛塚村鎮守
            
・例祭等 元旦祭 春祈祷 43日 お日待 1017日
                 
新嘗祭 1217
 東松山市毛塚地域は越辺川の左岸に沿った低地や自然堤防から高坂台地の南斜面にかけて展開していて、同川の下流域にある宮鼻地域の西側に接している。この二つの地域にはどちらも小規模の飛び地があり、『新編武蔵風土記稿 毛塚村』に記載の如く「犬牙の地」として、宮鼻地域は東武東上線西側に一カ所と九十九川付近に複数、毛塚地域は越辺川沿いで、島田橋のすぐ東側に一カ所とお互いの地域内に入り込んでいる。
 途中までの経路は宮鼻八幡神社を参照。社を南行し、300m程先の丁字路を右折、越辺川左岸に広がる周囲一帯の田畑風景を愛でながら西行し、東武東上線の踏切を過ぎて300m程先にある十字路を左折する。田んぼの畔のような道幅の狭い農道を300m程、車一台分しか道幅がないので、暫く対向車が来ないことを祈りつつ安全に進むと、目の前に密集している民家が見え始め、進行方向左手に、社務所兼集会所と毛塚神明社の朱色の鳥居が見えてくる
        
                  
毛塚神明社正面
『日本歴史地名大系』「毛塚村」の解説
 [現在地名]東松山市毛塚・大黒部・元宿
宮鼻村の西、越辺川の左岸にある。村域は同川に沿った自然堤防・低地から高坂台地の南斜面にかけて展開し、日光脇往還が通る。松山領に属した(風土記稿)。現岩殿の正法寺に残される天正三年(一五七五)一〇月二一日書写の舎利口決奥書に「小代之郷ケツカノ村」、同五年閏七月一二日書写の寛正六年(一四六五)記奥書に「小代ケツカの村」、同月一五日書写の松橋流印信奥書に「小代之一門毛塚之村」などとみえ、中世には小代(しようだい)郷のうちであったと思われる。

『埼玉苗字辞典」によると、嘗て武蔵七党・児玉党の一派である一族が当地に移住し、「毛塚氏」を名乗っていた。
 ・紀州熊野那智山米良文書(室町時代)
「児玉の在所の御名字の事、おうかい(利根郡利根村追貝)、しまなき(高崎市島名)、たかい(前橋市高井)、ゆつりはら(鬼石町譲原)、うけつか、わかいつみ(本庄市若泉)、おうかふら(鏑川)」
・岩殿村正法寺天正三年奥書
「岩殿山修善院住持栄俊は、俗名武州児玉之一門、小代之郷ケツカの村新井主計助清泰末子也」
天正五年奥書
「法名栄俊、俗名小代之一門毛塚之村新井主計助清泰三男也」
正法寺伝
「新井主計介清泰の由来を尋るに、村上天皇第六の皇子赤松則景と云人、安芸国に居住し治承年中右大将頼朝公豆州より義兵を興し給う時、東国に下向して味方に属す。則景に二子あり、嫡子を定範と云う、赤松氏を継ぎ也。二男を秩父の彦流児玉庄左衛門氏行と云、彼の末流武州新井の所なり、居住す因を以て家の称とする。故有て世を遁れ、名を隠し、武州小代の郷毛塚村に閑居しける。児玉の一門、新井主計介清泰と云えり。日頃観音信仰の人なれば、住観房・俗姓は松山の城主上田家の家臣比企藤四郎の一族也。と心を合せ、千手院の跡を継、清信と名を改め、両人にて隣郷の民家を勧進して、天正元年に観音堂再興成就仕給う。清信は住観房の姉を閨守として男子三人あり、嫡子を正覚坊源清と云、千手院を継ぎ、次男を信栄と云、岩本坊を継ぎ、三男を栄俊と云う」
 本来の姓は新井氏であり、移住した際に在地名を苗字としたのではなかろうか。
        
                            ひっそりと静まり返った境内
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 毛塚村』
 神明社 村の鎭守なり、田木村慈眼寺持、
『新編武蔵風土記稿 田木村』
 慈眼寺 新義真言宗、入間郡上野村醫王寺末、普門山知勸院と云、本尊不動を安ず、中興の開山を秀榮と云、元祿四年示寂す、
 鍾樓 正德四年、鑄造の鐘を掛く、

 神明社  東松山市毛塚三四九(旧毛塚字八木沼)
 口碑によると、当社は寛永五年(一六二八)に岩殿村の真言宗正法寺境内に創建され、寛政三年(一七九一)にこの地に移された。その移転には氏子の金子家の先祖がかかわったと伝えている。ちなみに、同家の先祖で寛政八年(一七九六)に寂した「権大僧都法印慧日」は正法寺の僧侶であったとの伝承も残されている。
 この地に祀られた当初は、越辺川沿いの低地である字八木沼に鎮座していた。高さ一メートルほどの盛り土の上に南を向いて建てられ、傍らには榧(かや)の大木がそびえていた。
また、周囲は水田が広がることから、遠くからでもこの榧を望むことができ、当社のよい目印となっていた。
 氏子の集落もこの字八木沼の地にあって生活を営んでいたが、度重なる水害によって苦しめられ、いつしか人々はこれよりもやや高台の字川辺の地に移り住むようになった。こうして当社は氏子の集落と隔たり、参詣に不便を来すようになった。その後、長い間集落の近くに当社を移すことが氏子の懸案であったが、ついに昭和三十四年の土地改良事業を機に現在地への移転が果たされた。従来七三坪であった境内地は一五六坪に広げられ、社殿修繕と社務所建設が行われ、更に鳥居・参道が設けられるなど、その姿を一新した。更に平成二年の御大典を記念して、社務所の改築が行われた。
 なお、往時の別当は、隣村の下田木にある真言宗慈眼寺であった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 毛塚神明社は、寛永5年(1628)岩殿正法寺境内に創建、寛政3年(1791)当地に遷座、毛塚村の鎮守社として祀られていたという。
 当社は、大字毛塚の集落の一つである川辺の鎮守として祀られている。当社とかかわりの深いといわれる金子家では、かつて祭りの祝宴の宿の役割を担っていたほか、獅子頭や幟旗などの祭礼具の保管も行っていたという。また、同家で当社の正月飾りを奉仕したり、節分に境内に来て豆打ちを行うなどの習わしもあった。これらの事柄は、初め当社が金子家の氏神として祀られていたことを物語っているのかもしれないとの事だ。
        
                  昭和4年の伊勢参宮記念略記を刻む石碑が左側に建つ。

 
4回行われる祭りの他に、3月中旬にはお獅子様の行事がある。これは、当番が獅子頭を持って氏子の家々を祓って回るもので、今は玄関先までであるが、元は土足のまま座敷を通り過ぎて行ったという。また、7月中旬には「お獅子様の土用干し」と称してこの獅子頭を公会堂に飾り、その前で酒宴を催しているという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等    

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