元宿天神社
・所在地 埼玉県東松山市本宿1-32-4
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 不明
・例祭等 元旦祭・初天神 春の祭礼 3月第4日曜日
秋の例祭 10月第3日曜日 冬至祭 12月3日曜日
東武東上線高坂駅西口の駅前通り「高坂駅西口」交差点を左折し、450m程南下する。コンビニエンスストアのある十字路を左折、埼玉県道212号岩殿観音南戸守線に合流し、高架橋を下るように進むと進行方向左手に元宿天神社の境内が見えてくる。
元宿天神社正面
『日本歴史地名大系』 「本宿村」の解説
[現在地名]東松山市元宿・西本宿
岩殿村の東、都幾川の右岸に位置し、松山領に属した(風土記稿)。古くは東隣の高坂村と一村で、高坂郷と称していたが、承応年間(一六五二―五五)に分村したという。また、高坂村は近世、日光脇往還の宿駅であったが、同村の宿場は古く当地にあって、このことが村名の由来ともいう(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月、徳川氏は「本宿村高四百五拾石」「五百石高坂・小代・本宿・早俣・悪戸開発地」などを旗本加々爪民部少輔(忠澄)に与えている(記録御用所本古文書)。
『新編武蔵風土記稿 高坂村』
「當所は古へ隣村元宿村と一村にして、広き地なれば鄕名にも唱へしならん、其内元宿の方は古の宿驛なりしゆへ、昔は高坂の元宿の呼びしを、後二村に分れしと云、現に郡中奈良梨村諏訪社に掛たる、延徳三年の鰐口の銘に、武州入間郡高坂郷〇王山常安禪寺と見えたり、この寺今も元宿村あれば、当時高坂と一村なりしこと明けし、」
この古くからあった「高坂の元宿」という呼び名が、後に村名となったという。
道路沿いに設置されている社の掲示板 鳥居の右側に「村社」と刻まれた社号標柱あり
元宿天神社は、学問の神、村の守り神、農業の神、そして通称を「火蕾天神」という武の神として祀られている。当地で盛んに信仰されていた北野天満宮を勧請して永享年間(1429~1441)に社殿を建立、天正年間には戦乱により焼失したものの元和8年(1622)に再建、明治維新後には龍圓寺境内に祀られていた愛宕社を当社境内に移したという。
拝 殿
天神社(からいてんじん) 東松山市元宿一-三二-四(毛塚字西久保)
東武東上線高坂駅から線路に沿って少し南に向かった所に当社の境内がある。付近は、最近区画整理がされ、住宅化が進んでいるが、境内は周囲よりも幾分高くなっており、しかも杉や檜がよく茂っているため、その位置は遠方からでもよくわかる。
言い伝えによれば、この地では、どのような理由からか京都の北野天満宮の御神徳を慕っており、村内に遥拝所が設けられ、礼拝が行われていたという。時が経つにつれて、北野天満宮に対する信仰はいよいよ高まり、ついに永享年間(一四二九〜四一)には社殿を建立し、北野天満宮の分霊を奉斎するに至った。これが当社の始まりで、のち天正年間(一五七三-九二)、戦乱のため村もろとも焼失の憂き目に遭ったが、元和八年(一六二二)には再建が果たされ、一層の信仰を集めるようになったという。
また、明治二年九月には、龍円寺の境内に祀られていた愛宕神社が当社に移された。これは、明治維新の際積極的に推進された神仏分離によって、神仏混淆が許されなくなったことに伴う措置で、愛宕神社は以後、当社の末社として祀られている。なお、『風土記稿』では、「田木村慈眼寺持」の神明社が毛塚村の鎮守とされ、当社は単に「龍円寺持」の社となっている。
「埼玉の神社」より引用
社殿のすぐ左手に祀られている愛宕社
愛宕社の奥は何やら塚のような雰囲気のあるふくらみがある。
後日地図を確認すると、やはり「高坂51号墳」であった。
この元宿天神社周辺には古墳や塚が多く存在し、「毛塚古墳群」と称する古墳群を初めとして塚が非常に多い。地域名「毛塚」由来も、髪の毛のように塚がたくさんあるという意味があるともいわれている。そのため、氏子の間でも裏庭などに塚がある家が多く、そういう家では「氏神様は自分の寝ている所よりも高い所に祀れ」と言い、屋敷神を塚の上に祀っている。また、当社の境内も塚の跡であろうといわれているほどであるという。
社殿からの一風景
昭和56年度から平成5年度にかけて行われた「高坂駅西口土地区画整理事業」に伴い、高坂駅西口が新設され、西口一帯が市街化区域と指定変更された。周囲の風景もそれまでは養蚕が盛んに行われ、桑畑と麦畑が混在する長閑な風景が残っていたのだが、その後の開発により、住宅街に大きく変貌したという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等