宿根山神社
・所在地 埼玉県深谷市宿根826-2
・ご祭神 大山祇神
・社 格 旧宿根村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月10日 厄神除け 7月1日 八坂祭 7月27日
JR高崎線の南側を走る市道沿いに約3kmにも渡って続く「コスモス街道」。その街道と、埼玉県道265号寄居岡部深谷線が交わる「成徳高校(東)」交差点を県道沿いに南西方向にして550m程進むと、進行方向右側に宿根山神社が見えてくる。
宿根山神社正面
宿根地域は上唐沢川左岸の台地に位置する。地域名は「スキのネ」の転訛で、「スキ」は小石と砂混じりの土、「ネ」は岡・台地の意という。『郡村誌』にも「地味黄色淡黒鬆(しょう)土にして或いは砂礫を錯(まじ)ゆる者あり」と記している。
かつて宿根は、本村である宿根地区と新田である中通地区の二つの村組(むらぐみ)に分かれる。このうち、中通地区の一八〇戸が当社の氏子である。
すっきりと整備された参道 境内に設置されている「山神社改築記念碑」
山神社改築記念碑
当社の創立は享保十四年(一七二九)に山の神(大山祇神)を祀る社として崇られた。当時の社地は現在地より西南方に二・五キロメートル程離れた畑地の一画にあり明治十四年に従来の社地から当所に遷座された。
その後社殿は長い歳月を経て破損甚だしく今度伊勢皇大神宮御鎮座二千年を記念し敬神の念厚い氏子崇敬者多数の寄進により大改修を行なう。
平成八年十月二十七日復元竣工遷座祭が厳かに斎行された。
茲に山神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う。(以下略)
記念碑文より引用
拝 殿
山神社(やまのかみ) 深谷市宿根八二六-二(旧宿根字拾三墳)
氏子所蔵の享保十六年(一七三一)「山神社取極メ議定書」には、当社の創建について次のようにある。
宿根村と宿根新田の人々は、猪・山犬による被害から逃れるために山の神の奉斎を切望していたが、当時新規の寺社祭礼等が禁じられていたため、念願かなわずにいた。折しも享保十四年(一七二九)櫛引野原の検地が行われたことから、役人に山の神の奉斎を願い出たところ、期せずして社地の選定が認められた。早速、本村と新田が相談の上、古来より小名を「山の神通り」と称する地の一画に社地を定め、祠を建立して山の神を祀った。
別当は真言宗正応寺であった。当社と正応寺との関係については、氏子所蔵の「山之神社地面伐木についての一件(閏五月五日)」の中で「神体入替神酒灯明法楽正応寺二而相勤諸懸り等モ正応寺ゟ(より)差出」と記されている。また、弘化三年(一八四六)に類焼した正応寺を再建するため、同寺持ちの山の神社地面の松雑木等を伐採し普請木として充てたことも述べられている。
明治初年の神仏分離により当社は正応寺の手を離れ、明治七年に村社となった。次いで、十四年には従来の社地から当所に遷座した。
旧社地は現在地から西南方に二・五キロメートルほど離れた畑地の一画にあり「奥の院」と呼ばれて雑木林の中に今も小さな祠が残されている。
「埼玉の神社」より引用
また、享保十六年の「山神社取極メ議定書」では、当社境内地について氏子の間で取り決めがなされ、「右の場所雑木出来候ても上木の儀は申すに及ばず枝葉下草等にても修復祭礼の入用の外隈りに(みだりに)刈り取り苅り取り申さず候定」とある。これは、新田開発による燃料や肥料の需要増大に伴う濫伐から当社境内を保護することを目的としたものであろう。
本 殿
当地は『郡村誌』に「水利不便にして時々旱に苦しむ」とあるように、水利の整備されるまでは旱損の地で、雨乞いが重要な行事とされていた。昭和三十年代に行った雨乞いは、群馬県の榛名神社から頂いた「お水」を神前に供え、境内の立木の頂に梵天を立て、氏子一同で太鼓をたたきながら雨雲の到来を祈った。この時は、暫くして雨が降り、お湿り祝いをしたという。
本殿の左側奥には遙拝所の石碑と 本殿の右側奥に祀られている
八坂社の石祠が祀られている。 弁財天・天神社の石祠
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内記念碑文」等