古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

今市瀧尾神社

 2006年(平成18年)320日に、今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の「日光市」が発足した。2006年以後の日光市役所本庁は旧今市市役所(今市本町)であり、合併後最初の日光市長は元今市市長が務めていた。この合併により、「門前町」日光は元より、日光江戸村など周辺の観光地も「日光市」に含まれることとなった。
 面積は関東地方で最大、全国の市でも岐阜県高山市、静岡県浜松市に次いで全国第3位となり、栃木県全体の約22%を占めている。
 ところで体裁上、「日光市」という名称は残っているが、市町村合併後の日光市街とは、旧今市市の中心市街を指している。
 筆者も知らなかったことだが、20063月、合併前旧日光市の人口は、16,301人で、同じ時期の今市市の人口(61,998人)と比べて少なく、また旧足尾町(人口3,220人)、旧藤原町(人口10,545人)、旧栗山村(人口1,916人)と、旧藤原町を上回る程度の人口規模だった。市町村の経済的な基盤は基本的には人口数で決まる。国際観光都市として「日光」は認知されている反面、旧日光市の人口は減少傾向にあり、「消滅可能性都市」のひとつに挙げられていたという。
 どちらにせよ、新たな日光市の中心地域は紛れもなく今市地域であり、現在の日光市役所の西側に、嘗ての今市総鎮守である今市瀧尾神社がどっしりと鎮座している。
               
             
・所在地 栃木県日光市今市531
             
・ご祭神 田心姫命 大己貴命 味耜高彦根命                   
             
・社 格 旧今市総鎮守 旧郷社
             
・例祭等 節分厄除け祭 23日 例祭 4月第2土・日曜日
                  八坂祭 77日~14 
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.7253236,139.6862282,17z?entry=ttu
 森友瀧尾神社から一旦南下し、国道119号線との交点である「森友」交差点を右折する。その後国道119号線を西行し、3.8㎞先の「今市小前歩道橋」に到着すると、ほぼ正面に今市瀧尾神社の立看板と社号標柱が見えてくる。地図を確認すると東武日光線・上今市駅の南側に位置し、社の南側に今市小学校がある。専用駐車場は神社左側にあり、十分なスペースが確保されている。古社の貫禄を醸し出している旧今市市の総鎮守である。
        
               風格すら漂う今市瀧尾神社正面。
              文化財の石鳥居が壮大にそびえ立つ。
『日本歴史地名大系』 での「今市市」の解説では、「県中央から西北寄り、日光山塊南東麓に広がる。北は塩谷郡栗山(くりやま)村・藤原町、東は同郡塩谷町・河内(かわち)郡上河内村、南は宇都宮市と鹿沼市、西は日光市。塩谷町との境界を鬼怒川が東流する。栗山村との境は赤薙(あかなぎ)山・大笹(おおざさ)山など標高1,0002,000mの女峰(によほう)連山東端部にあたる。栗山・日光・今市三市村境界赤薙山(2,010m)が最高点で、市域は南東に下る一方の広い傾斜面にある。中央部は東へ横断して流れ鬼怒川に入る大谷(だいや)川の形成した今市扇状地、北部は女峰連山の東端から渓谷を流れて鬼怒川に入る板穴(いたな)川と、それに合流する小百(こびやく)川・砥(と)川のつくる狭い河岸段丘と扇状地。南東部は今市扇状地の南側面から湧水して南東へ流れ、鬼怒川へ合流する田川とその支流赤堀川などの形づくる河岸段丘、南西部は行(なめ)川の沖積小平野。気候は夏冬の気温差は大きいものの、七―八月でも平均気温摂氏2122度と冷涼で、夏期には雷雨が多く、局地的豪雨や、降雹をみることもある。市域の60%は山林・原野で、農地は20%、宅地は三分足らずにすぎない。なおかつて市域西半は都賀(つが)郡、東半は河内郡に属していた」との地形多岐な特徴を解説している。
              
                国道沿いに建つ今市瀧尾神社社号標柱 
         因みに「たきお」ではなく「たきのお」と読むそうである。
        
          鳥居近郊に設置されている「今市瀧尾神社 案内碑」
 今市総鎮守 瀧尾神社
 御祭神 -大己貴命(大国主命)田心姫命 味耜高彦根命
 天応二年(七八二) 勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るに始まる その後 人皇第百弐代 後花園天皇寛正元年(1460) 正月十五日改築 今日の神域整う。
 明治十年七月 近郷十八ヶ村(現在の日光今市市)の郷社に列せらる。(以下略)
        
                西方向に伸びている参道
 国道沿いに鎮座しているにも関わらず、境内は静寂に満ちていて、とても穏やかな雰囲気の中、気持ちよく参拝することができた。正面には朱を基調とした神橋が見える。「叶願橋」という。
 
 参道途中左右に祀られている石祠群・境内社(写真左・右)。左手にはお稲荷さんの狛犬があることから一基は稲荷社であろう。右側の境内社は不明
 
   参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎には、花がたくさん飾られていた(同右)
        
                            境内前に建つ二の鳥居。一の鳥居と共に市重要文化財である。
        
                二の鳥居の左側にある案内板
 日光市指定文化財 今市瀧尾神社石造明神鳥居
 種  別・・有形文化財(建築物)
 員  数・・二基
 規  模・・「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ
             「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ
 材  質・・石造
 建築年代・・未詳
 旧瀧尾権現社の鳥居、制作年代については、鳥居そのものの表面がかなり風化しているために、刻銘が判読できず、特定できない。しかし、日光二荒山神社との関連などから、約四〇〇年~五〇〇年前と推定される。「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ。
「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ。鳥居の形式は、明神鳥居の典型で格調高い。また、鳥居上部の「貫」上下端切込面は類例を見ない。石材は地元大谷川から採取したものと思われる。
平成七年三月十日  日光市教育委員会
                                      案内板より引用
 重要文化財として指定されている鳥居は、
「二の鳥居」「三の鳥居」と記されている。つまり当然「一の鳥居」があったはずである。どこにあったのであろうか。
        
                  重厚感のある拝殿
 今市総鎮守 瀧尾神社 勝道上人 御創祀の古社
 天応二年(七八二)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀るに始まる。その後、人皇百弐代後花園天皇寛正元年、正月十五日に改築、明治十年七月に近郷十八カ所(今の日光市の一部と今市)の郷社に列せられる。
 例大祭は四月十四日に神輿を中心に氏子区内十八カ町を供奉、約二百五十人により盛大に執り行われる。また、この祭の期間には氏子町内の屋台の引回しがある。桜花が咲き誇る中、大鳥居前には山岡鉄舟筆の関東一の大幟が奉掲され、まさに春迎えの先駆けの祭りである。
 また七月七日~十四日には当社、末社八坂神社の八坂祭が執り行われる。この祭りには関東一とも言われる神輿が氏子青年会多数の奉仕により奉舁され日光街道に御神威赫々、幻想幽玄の世界が現出し多くの氏子崇敬者に感動を与える。
                                「栃木県神社庁HP」より引用

        
             拝殿前にある賽銭箱。
神紋は「左三つ巴」。
        
 社殿の左手前には、ご祭神の大己貴命(父・大黒さま)、田心姫命(母)、味耜高彦根命(子・恵比寿さま)の石像がある。
        
                      本殿。彫刻や彩色はなく、シンプルな造りである。
 
 社殿左手奥には鳥居の先にある小さな石祠が一基。今市瀧尾神社の奥社という(写真左)。またその隣には木々に囲まれた中に境内社が並んで祀られている。天候も雨は上がったが、決して良いわけでもなく、また夕方でやや薄暗い参拝時間で、また境内社のある辺りは木に覆われ、少し独特な雰囲気を醸し出していた(同右)。稲荷神社・菅原神社・雷電神社・琴平神社・八坂神社・宇佐八幡宮・正八幡宮等。
        
                              静まり返った境内

*追伸
 実は去年11月に家族旅行を兼ねて日光方面の神社を参拝したのだが、この「今市瀧尾神社」の掲載を忘れてしまい、今になって気づいて紹介した次第である。かなり唐突の登場となったことをお詫びしたい。


参考資料「日本歴史地名大系」「栃木県神社庁HP」「Wikipedia」「境内案内板等」等
 

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日光二荒山神社中宮祠

 日光二荒山神社は、江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していて、今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという。
 広大な社地故だろうか、「日光山内(さんない)」と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する「本社」の他に、男体山山頂に鎮座し、勝道上人により天応2年(782年)に創建された「奥宮」、そして、本社と奥宮との間には「中宮祠」がそれぞれ鎮座している。
 日光二荒山神社中宮祠(にっこうふたらさんじんじゃちゅうぐうし)は中禅寺湖のほとりにご鎮座する。奥宮創建後の2年後(784年)に「中禅寺」とともに創建された古社名刹である。元々は中禅寺と神仏習合していたが、明治時代の神仏分離令により独立している。
 この社は霊峰・男体山の中腹にあるため、中宮祠の背後には男体山が間近に見え、古くより男体山をご神体山と仰ぐ社と同時に山岳修験のの一拠点であったというのにも納得できる。
 またこの社は中禅寺湖畔に鎮座し、男体山から南北ライン上に中宮祠、中禅寺湖が位置していて、正門にあたる国の重要文化財の神門「八脚門」から見る中禅寺湖は神秘的で、神々しさも感じられるまさに絶景の一言
 日光二荒山神社とは別項にて紹介する理由はまさにそこにある。
        
             
・所在地 栃木県日光市中宮祠2484
             
・ご祭神 二荒山大神(大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命)
             
・社 格 式内社(名神大社)論社 下野国一宮 旧国幣中社 別表神社
             
・例祭等 武射祭 14日 男体山登拝大祭 73187

 奥日光のシンボルと言うべき男体山(二荒山)は、二荒山神社のご神体で、奈良時代から山岳信仰の霊峰である。山頂に二荒山神社の奥宮があり、山麓の中禅寺湖畔には、奥宮と本社を結ぶ中宮祠が鎮座する。
 
東照宮手前の「神橋」から国道122号線、その後「細尾大谷橋」交差点より国道120号線を直進し、有名な「第二いろは坂」を越えて中禅寺湖湖畔に到着。そのまま国道を道なりに進むと、二荒山神社の朱の大鳥居が見えてくる。大鳥居を越え800m程中禅寺湖北岸に沿って進むと、青銅製の東鳥居が見えてきて、50m程進むと参拝用の無料駐車場が進行方向右側にあるので、そこに車を停めてから参拝を行う。全国的に有名な日光地方にあり、当然駐車場は有料と考えていた筆者にとって、この無料駐車場はありがたい。「神橋」から「二荒山神社中宮祠」までは20㎞弱程の距離がある。
        
               
二荒山神社中宮祠 正面青銅鳥居
           
正式ルートである中禅寺湖に面した青銅鳥居から参拝を行う。
 昨日は東照宮、二荒山神社等雨交じりの天候での参拝であったが、本日は雲もあまり見えない程の澄み渡った晴天。但し風がやや強く、肌寒さも感じる。海抜高度1,269m故だろう。事前に防寒着であるジャンバーを着込んでから参拝を開始する。
 
 中禅寺湖の美しさに暫し参拝を見合わせる。   鳥居の右手には社号標があり、その奥に
  ただこのひと時が貴重な時間にも感じる。   「水神」と刻印された石碑が祀られている。
                            御祭神・水波能売神
 中禅寺湖は、約2万年前に男体山の噴火でできた堰止湖であり、人造湖を除く広さ4km2以上の湖としては、日本一標高の高い場所にある湖である。また栃木県最大の湖である。1周は約25kmであり、歩くと9時間ほどかかる距離である。湖のすぐ北には男体山がそびえ、北西には戦場ヶ原が広がる風光明媚な地である。
 この湖は、現在は観光地として知られるが、日光山を開いたとされる勝道上人が発見したとされる湖であり、かつては神仏への信仰に基づく修行の場として知られていた。
        
     青銅鳥居から石段を登ると、正面に国の重要文化財の神門「八脚門」が見えている。
        
            境内に入ってから逆方向から「八脚門」を撮影
              門の間から僅かに青銅製の鳥居が見える。
    天候が良すぎて、アングル的に逆光状態で撮影したため、暗く見えてしまった。
        
                            「八脚門」から「唐門」を撮影。
            「唐門」の右奥には霊峰・男体山が見える。
 
        唐門も国指定重要文化財         境内には朱を基調とする手水舎がある。
        
                    拝殿内部
         参拝時、拝殿は改装中で器材やテントが覆っていた。少し残念。
 日光二荒山神社中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。
 二荒山神社の創建は天応2年(782)勝道上人が男体山頂に社殿(現在の奥宮)を建立したのが始まりと伝えられていて、延暦3年(784)に参拝が困難な事から麓に中宮祠を建立したという。この時、同時に中禅寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。古くから中禅寺と神仏習合し「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、永長元年(1096年)、久寿2年(1155年)、永暦2年(1161年)の社殿造営が確認されている。その後、現在の社殿が元禄12年(1699年)に造営された。
 当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(55-1025日)のみ門が開く。731-88日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される。
        
        二荒山神社中宮祠の本殿・掖門・透塀 各重要文化財に指定。
       
                     本殿に隣接して設置されている案内板
 中宮祠本殿
 本殿は二荒山大神様の鎮座する建造物で、拝殿と同じく元禄十四(一七〇一)年に建てられ、御神体山である男体山の山岳信仰における中心的な役割を果たしている。
 毎年七月三十一日から八月七日まで執行される男体山登拝大祭の期間中は、日本で唯一御神像を直接お参りできる御内陣入り特別祈祷祭が執り行われる。
 建築様式は三間社流造で、屋根は総銅葺きになっていて、耐候性に優れた総弁柄塗りの重厚な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
 中宮祠拝殿
 拝殿は儀式や参拝など、拝礼するための建造物で、本殿よりも一回り大きな造りになっている。
 江戸時代中期の元禄十四(一七〇一)年に建てられ、古くから御神体山である男体山の山岳信仰における様々な儀式が執り行われる。
 建築様式は入り母屋、反り屋根造りで屋根は総銅葺きになっていて、耐候性に優れた総弁柄塗りの重厚な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
                                      案内板より引用

        
                     登拝門
        本殿のすぐ東側には男体山頂・奥宮への唯一の登拝口がある。
  当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。
           登拝口鳥居は国の重要文化財に指定されている。
        
              男体山山頂への登山口である登拝門

 登拝門の石段下にある鳥居の左側には、「霊峰二荒山 開山碑文の礎石」や「大国主命」の石像があり、右側には「男体山大蛇の御神像」「さざれ石」等が設置されていて、それぞれ説明版もある。

      男体山の「大蛇」御神像       男体山の「大蛇」御神像に関しての説明文
 男体山の「大蛇」御神像
 日本昔話に「戦場ヶ原の伝説」があります。
 むか〜し、むかし、男体山の神が大蛇に、赤城山の神がムカデに変じて領地争いを行ったといわれます。
 赤城山のムカデに攻め寄られた時、弓の名手「猿丸」の加勢を受けて、男体山の黄金の大蛇は赤城山の大ムカデを撃退し、勝利した話。
 戦いが行なわれた所を「戦場ヶ原」、血が流れた所を「赤沼」、勝負がついた所を「菖蒲ヶ浜」、勝利を祝い歌った所を「歌ヶ浜」、と言い奥日光の地名となっています。
 負傷したムカデは退散して、弓矢を地面に刺したところ、湯が噴き出しその湯で傷を癒したので「老神温泉」と言われております。
 大蛇を「オロチ」とも言いますが、「オ」は峰・「ロ」は助詞、「チ」は神霊を意味し、古代人は蛇のとぐろを巻いた姿が山に見えることから、オロチを山の神と称えたと言われます。
 勝利した男体山の大蛇は「勝運」・「金運」の守護神とされます(中略)
                                      説明文より引用
       
                              境内にある「さざれ石」
 この「さざれ石」にも説明文が掲示されている。この石の正式名は「石灰岩磔岩」と言い、岐阜県境の伊吹山が主要産地であるという。
 石灰岩が長い年月の間に雨水で溶解し、その際に生じた粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝固して段々巨石になったものである。
 文献でも古くから記されており、8世紀に編纂された日本書紀には「以砂礫(サザレイシもしくはサザレシ)葺檜隈陵上」とあり、同じく8世紀に成立した万葉集でも「佐射礼伊思(サザレイシ)尓古馬乎波佐世弖己許呂伊多美安我毛布伊毛我」や「信濃奈流知具麻能河泊能左射礼思(サザレシ)母伎弥之布美氐婆多麻等比呂波牟」と詠われている。
「子持ち石」とも言われ、子孫繁栄の縁起の良い石と言われている。
 
      拝殿拝殿手前、左手には境内社・稲荷神社が祀られている(写真左・右)
        
                参拝終了後、東方向に伸びている参道を通り、東鳥居に至る。
 正式ルートである中禅寺湖に面した青銅鳥居とは違って、明るい雰囲気のある場所に鳥居は立っている。

*追伸として
今回日光二荒山神社中宮祠に参拝したわけであるが、反省点が一つ。拝殿が改装中でテント等覆われていたとはいえ、事前のリサーチが十分とはいえず、また当日も案内板を見ていたにも関わらず、当日予定がかなり多くあった(基本家族旅行がメインの中での参拝)気持ちの余裕の無さからか、拝殿から左側方向に祀られている「神楽殿」「中宮祠のイチイ」「山霊宮」らの参拝ができなかったことが非常に残念。やはり予定は余裕のあるスケジュールにしなければいけなかったとつくづく痛感した。
        
                           中禅寺湖、及び男体山の風景。
        
           「華厳滝」のすばらしい景観もしっかりと満喫した


参考資料「日光二荒山神社HP」「Wikipedia」「境内案内板・説明板等」

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日光二荒山神社

 日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にある神社で、式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社であり、現在は神社本庁の別表神社である。
 宗教法人登記上の正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。因みに宇都宮市の二荒山神社は「ふたあらやまじんじゃ」と読む。
 関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社であり、境内は次の3ヶ所からなる。
・本社(栃木県日光市山内)
 本社 - 日光の社寺最奥に鎮座
 別宮本宮神社 - 日光の社寺入口、女峰山登山口入口
 別宮滝尾神社 - 女峰山登山口入口奥
・中宮祠(栃木県日光市中宮祠) - 中禅寺湖畔。男体山表登山口入口
・奥宮(栃木県日光市中宮祠二荒山) - 男体山山頂
 日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、伊勢神宮に次ぐ広大な神域を有し、その神域には「華厳滝」や「いろは坂」も含まれる。
        
              
・所在地 栃木県日光市山内2307
              
・ご祭神 二荒山大神(大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命)
              
・社 格 式内社(名神大社)論社 下野国一宮 
                   旧国幣中社 
別表神社
              
・例祭等 武射祭・蟇目式(ひきめしき)神事 14
                   
弥生祭 413日~417日 417日の例祭含む)他

 日光二荒山神社の参拝で最初に紹介しなければいけない場所は「神橋」である。この神橋は日光二荒山神社の神域に属し、二荒山神社が管理している。日光の社寺の入り口にあり、日光のシンボルとも、日光の表玄関とも称され、栃木県で最も美しい橋と讃える人もいる。
        
                神橋の看板と神橋渡橋受付所
          この橋の通行料300円が必要。また橋の対岸に抜けられない。
 この神橋は「渡る橋」というよりも「眺める橋」と云われる。実際、国道119号線・通称日光街道と122号線との合流地点にある「神橋」交差点に架かる橋から見る朱色の神橋を含む周辺の景観は大変美しい。当然大勢の観光客が集まり、この神橋を眺めたり、撮影をしている。またこの橋の下を流れる大谷川が美しく、光の加減で水色にも見えるのだが、清流の澄んだ川の色に心癒される気分である。
        
                  日光街道「神橋」交差点前に架かる橋から神橋を撮影
 伝説によれば、日光を開山した勝道上人は、7歳の頃に明星天子(虚空蔵菩薩)から受けたお告げを実行するため、天平神護2年(766年)に補陀落山(男体山)を目指すも、大谷川を渡れず難儀した。この時勝道は護摩を焚いて神仏に加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて赤と青の2匹のヘビを投げ、その上に山菅を敷き詰めて橋とし、勝道の渡河を助けた。この伝説から、神橋は「山菅の蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれる。
        
         神橋の先に輪王寺・日光東照宮・日光二荒山神社へ通じる参道がある
 尚、神橋から輪王寺・日光東照宮・日光二荒山神社(二社一寺)へ通じる参道は、嘗て「旧日光街道」と言われている。緩やかな上り斜面の参道の両側には、悠久な歴史を感じさせてくれる杉等の巨木・老木が聳え立ち、自然と厳粛な気持ちに誘ってくれた。
        
                        「二社一寺」の一つである輪王寺に到着。
 輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されている。
 輪王寺(りんのうじ)は、天台宗の門跡寺院であり、比叡山や東叡山と並ぶ天台宗三本山のひとつに数えられ、日光山全体を統合している。この門跡寺院とは、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことであり、寺格の一つとされる。元来日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 
        
                天台宗日光山輪王寺 
三仏堂 
 輪王寺の創建は奈良時代と言われ、もともとは日光二荒山神社と共に山岳信仰の社寺として創建されたと言われている。当時は「満願寺」という名前で、1655年に後水尾上皇より「輪王寺」の寺号が下賜される。近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めるが、特に三代将軍家光公の信仰は厚く、大雪で倒壊した本堂が家光公の命で再建されたり、没後は家光公を祀った大猷院霊廟が置かれるなど、その関係の深さが感じられる。
        
                  
輪王寺門跡と社号標
                       門を出ると東照宮ヘと至る南北の参道となる。
 日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺があり、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社であるが、一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
 つまり日光二荒山神社と天台宗日光山輪王寺には創建等に共通の歴史があり、別項にて語ることができない間柄となろう。寺社を同じ項として紹介している理由はそこにある。
 
       東照宮に至る参道           参道を進むと右手に見える
相輪橖
 杉林の中に紅葉樹も見え、趣ある風景美を演出。         と大護摩堂

 東照宮に関しては前項にて紹介。そこで東照宮の参拝終了後、北西方向に伸びる道を進み、日光二荒山神社に到着する。
        
                  
日光二荒山神社正面
 日光二荒山神社の神体山は男体山(2,486m)である。この男体山は奈良時代には補陀洛観音浄土に擬せられて「補陀洛山(ふだらくせん)」と呼ばれていたが、後に「二荒山(ふたらさん)」という字が当てられたと言われる。「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。因みに男体山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代には既に山岳信仰の聖地だったことは確かである。
        
                         
日光二荒山神社 正面鳥居
「日光」が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降である。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ、また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる。
       
                            参道途中右側にある「縁結びのご神木」
        
              参道の先にある木造四脚切妻造の神門
 
       
                       神門のすぐ左手にあるご神木「親子杉」
      根部分のつながった木は、縁結びや夫婦・家庭円満に御利益があるという。
       
        神門の右手で「親子杉」とは対象側にある「夫婦杉」のご神木
        
                                  境内にある手水舎
        
                              朱が鮮やかな神楽殿
        
                     拝 殿
 山岳信仰の地、修験修行の霊場として信奉を集め、鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。戦国時代、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条氏の味方をしたことで、領地を没収されるなど一時衰退したが、江戸時代に入ると状況は一変。徳川家康から家光までの3将軍が帰依した僧・天海が日光山の貫主となり、1617(元和3)年には家康をまつる日光東照宮が創建。東照宮の西隣に移転となった二荒山神社にも、豪華な社殿が造営される。以後も天海開山の徳川家菩提寺・上野寛永寺によって管理され、その威光もあって江戸時代を通じて繁栄が続いた。
 
          境内には案内板(写真左・右)が設置されている。

 ところで輪王寺本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築であり、日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られている。三仏、三山、三所権現、祭神(垂迹神)及び寸法は以下の通りである。
・千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと) - 総高703.6cm(本尊335.4cm
・阿弥陀如来(女峰山)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと) - 総高756.3cm(本尊306.3cm
・馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 総高744.7cm(本尊301.3cm
 このように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されているため、輪王寺本堂(三仏堂)に三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
        
                                 楼門手前にある東鳥居
           1769年に造営され、30年後の1799年に再建された青銅製の鳥居。
            1944年に国の重要文化財に指定されている。
        
      日光二荒山神社東鳥居から東照宮の五重塔へと向う東参道途中にある楼門。
 この道は「上新道」といい、参道として巨大な杉の木と石灯籠が整然と並んでいて、日光二荒山神社正面にある神門とは違った趣ある建築物である。


参考資料「日光二荒山神社公式HP」「神橋HP」「Wikipedia」等 

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日光東照宮

 日本を代表する「日光の社寺」はユネスコ世界遺産に登録されており、その中でも最も有名な日光東照宮は江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀り、日本全国の東照宮の総本社的存在である。
 創建は奈良時代にさかのぼる天台宗の門跡寺院(皇族・公家が住職を務める特定の寺院、その後鎌倉時代以降は位階の高い寺院の呼称)である輪王寺や下野国一之宮で旧国幣中社の社格をもつ日光二荒山神社と隣接していて、この東照宮、二荒山神社、輪王寺を総称して「二社一寺」と呼んでいる。
 東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
「日光東照宮」は日本屈指の観光スポットとして国内外から人気が高く、また55棟の建築物のうち8棟が国宝、34棟が重要文化財に指定されていて、多くの豪華絢爛な社殿群が訪れた観光客を魅了している。
        
              
・所在地 栃木県日光市山内2301
              ・ご祭神 (主)徳川家康公(相殿)豊臣秀吉公・源頼朝卿
              ・社 格 別格官幣社
              ・例祭等 春季例大祭・神事流鏑馬 517
                   渡御祭「百物揃千人武者行列」 518
                   秋季祭・渡御祭「百物揃千人武者行列」 1017日 他

 2025年度を飾る1番目の社は「日光観光の中心地」として、 徳川初代将軍・家康公を御祭神に祀る社・日光東照宮と当初から決めていた。当ブログでも紹介している、忍東照宮や世良田東照宮、徳川東照宮等、「東照宮」と呼ばれる神社は全国各地にあるが、ここ日光の東照宮は、全国の東照宮の総本社的存在である。他社との区別のために「日光東照宮」と俗に呼ばれてはいるが、正式名称は当然「東照宮」である。
 日光の人気観光スポット「日光東照宮」は1617年に、徳川家康を祀る神社として、2代将軍徳川秀忠により建てられた。その後、1634年~1636年にかけて、3代将軍徳川家光による「寛永の大造替」で建て替えられたものである
 現在そのほとんどの建築物などが、 国宝や重要文化財に指定され、1999年には、世界遺産にも登録されている。
「豪華絢爛」という言葉はこの社に対して使うのに相応しい。日本の伝統的な技術や芸術性の高さを示した建築目当てに、国内はもとより、海外からの観光客でも連日賑わっている
        
     早速日光東照宮に参拝。長く玉砂利が敷かれた参道先にある鳥居を目指す。
 当日は平日で雨交じりの天候であったが、多くの国内外の観光客・参拝客で賑わいを見せている。
        
              参道の先にある高さ9m程ある石鳥居
 この石鳥居は江戸時代に造営された鳥居では日本最大規模の鳥居であり、元和4年(1618年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたもので、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られたという。
            
              石鳥居を過ぎ、すぐ左側に見える五重塔 
        
                                        表 門
 五重塔を抜けると、正面に表門がある。表門から先は有料となるので、事前に拝観料を購入し、それから改めて参拝を行う。
        
 表門を抜け、正面には「下神庫・中神庫・上神庫」が並ぶ。参道自体は左に曲がるが、その左手には神厩舎(しんきゅうしゃ)があり、そこには有名な「三猿」の彫刻が見られる。因みに神厩舎とは、神馬(しんめ)をつなぐ厩(うまや)で、古来、猿は馬の病を治したり、馬の世話をするなどされているという。猿の彫刻が描かれているのも、その由来から来ているのであろう。神厩舎には猿の彫刻8面が描かれているが、これは人間の一生が風刺されているとの事だ。
 神厩舎の建物は、絢爛豪華な日光東照宮の社殿では唯一の素木造。
 有名な場所だけに、多くの観光客・参拝客がいて、撮影をしていたので、待ち時間がかなりあった。
        
 神厩舎に描かれている「三猿」撮影終了し、青銅製の鳥居の先に見える陽明門へ進む。雨交じりの天候に加えて、周囲には霧が立ち込めているその雰囲気が、逆に神聖さや荘厳さを高めているようにも見える。
        
          陽明門に通じる石段を登り終え、一旦振り返り撮影。
   「三猿」の彫刻が描かれている神厩舎に多くの観光客が集まっているのが分かる。
        
            日光東照宮のシンボル的な存在である陽明門
 この陽明門は、日光東照宮のほぼ中央に位置し、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。国宝。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建っている。 
 日光東照宮の建物を代表する陽明門は高さ11.1m2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4mである。その名称は、宮中(現・京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名を頂いたと伝えられている。江戸時代初期の彫刻・錺金具・彩色といった工芸・装飾技術のすべてが陽明門に集約されている。陽明門に描かれている故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500を超える彫刻は見事で、それら彫刻には一つ一つ意味があり、これを探ることで家康公の平和への願いや教訓を知ることができる。
 2017年に平成の大修理が行われたことで、黄金の輝きを取り戻したこの陽明門は、この門と本殿を直線でつないだ先に北極星が見えることから、別名を「北辰門」とも呼ぶ。
 
 陽明門の東西に伸びる、神域を守る全長220mの回廊(写真左・右)。陽明門の東側の東回廊、西側の西回廊が対称的に備わり、やはり見事な彫刻が施されている。陽明門の豪華絢爛さばかり目立つが、この東西回廊も国宝に指定されている。
 回廊南面には日本最大級の花鳥の大彫刻25枚が飾られ、すべて一枚板の透かし彫りであり、一度間違えたら彫り直しがきかない究極の職人技を眺めることができる。
        
                 陽明門の先にあり、拝殿の前に立つ国宝の「唐門」
 極彩色が多い東照宮の建造物の中で、ひときわ存在感を放つ白い門は、日本画にも用いる白い顔料の胡粉(ごふん)で塗られていて、繊細でかつ荘厳な彫刻は陽明門にも匹敵。唐破風の屋根が特徴で、柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀や黒檀などを使用した寄木細工(よせぎざいく)。唐門の両脇には唐木の寄木細工で昇り龍と降り龍が描かれていて、門上には古代中国の聖賢の故事を題材に、1本の木からくり彫りした精巧な彫刻が飾られている。
 ここより先に行ける人は将軍に拝謁できる身分とされ、幕臣や大名に限られていたという。
 
 唐門の東側には奥社拝殿に通じる道があり、坂下門(写真右)手前にある本殿の東廻廊に彫られた、名工・左甚五郎作と伝わる有名な彫刻「眠り猫」(同左)がお出迎えしてくれる。
 眠り猫のある廻廊の下を潜ると、家康の御墓所のある奥宮に導く奥社参道へと続く。参道にのびる207段の石段は各段で一枚石が用いられており、この階段自体も東照宮の名所のひとつである。眠り猫から奥宮まで上るには10分程度かかり、途中踊り場で休みながら進む。
        
                             石段上に鎮座する奥社拝殿
 家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言である。「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。
 日光東照宮は江戸城(現在の皇居)の真北にあり、北の守りを固める重要な位置にある。本殿前に造られた陽明門は真南を向いていて、真北を向いている江戸城と向かい合わせになっている位置にあり、表参道を延長していくと上野の寛永寺・旧本堂(根本中堂)につながるという。

 日光東照宮には主祭神として徳川家康、そして配神として源頼朝・豊臣秀吉が祀られている。調べてみると、豊臣秀吉と源頼朝が祀られるようになったのは明治以降のことである。それまでは、山王神、摩多羅神(またらじん)が祀られていた。明治時代に神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離」が行われたが、摩多羅神というのは仏教の神なので問題となる。
 そのため、山王神を豊臣秀吉に、摩多羅神を源頼朝に変更して神道に統一したという。
        
                                 奥社 宝塔(御墓所)
 重要文化財 奥社 宝塔(御墓所)
 御祭神徳川家康公の墓所。昭和40年、東照宮350年祭を機に公開された。8角5段の石の基盤の上に更に3段を青銅で鋳造し、その上に宝塔を乗せている。当初は木造、その後石段に改められたが、天和3年(1683)の地震で破損したため、鋳工椎名伊豫(しいないよ)が製作した唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えられた。塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶からなる三具足が据えられている。
                                      案内板より引用




参考資料「日光東照宮HP」「日光市公式観光WEB」「Wikipedia」「境内案内板」等

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森友瀧尾神社


        
              
・所在地 栃木県日光市森友995
              
・ご祭神 (主)田心姫命
                   (配)大己貴命 味耜高彦根命 軻遇突知命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 節分祭 23日 祈年祭 217日 夏越の大祓 7月海の日
                   新嘗祭 1123日 例大祭 12月25日 他
 森友瀧尾神社は日光市南東側に位置する今市エリア内に鎮座する社である。JR日光駅から国道119号を南東方向に13㎞程進み、「森友」交差点を左折すると進行方向右側に「縁結び・子宝・安産の大しめ縄 ひめがみさま 森友瀧尾神社」と書かれた縦長の看板が見えてくる。地図を確認すると、国道119号線とそれに並行して北側を通る水無バイパスとの間に鎮座している。
 専用駐車場も看板付近にあり、そこに停めてから参拝を行う。
       
          道路沿いに看板(写真左)、社号標柱(同右)が立つ。
『日本歴史地名大系』 「森友村」の解説
 南を赤堀川が南東へ流れ、北は荊沢(おとろざわ)村、西は今市宿。河内郡に属する。中央を東西に通る日光街道の大沢・今市両宿から各一里の立場(宿村大概帳)。一里塚があり、中央の街道両側に集落がある。日光山往古社領六十六郷に「守友郷」がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。
「梅津政景日記」元和八年(一六二二)四月二六日条に「もりとも」とみえ、日光へ向かう佐竹義宣一行は同夜当村に宿泊したという。
        
 比較的小さめな鳥居が出迎えてくれる。それにしても鳥居の両サイドにある一対の狛犬の衣装が、その図体に対してアンバランスのように見えて、それが不思議と可愛いらしく感じてしまう。
        
                    拝 殿
 拝殿前には「お百度参り」の為の「お百度石」がある。当神社は、主に安産祈願、子授け祈願などのお参りが多く参拝者に親しまれているとの事。
 当日雨も上がり、晴れ間が見えているが、路面は濡れていた。境内には砂利が敷かれているようだが、拝殿前は窪んでいるため水溜りが残っている。多くの参拝者がここを訪れていた証拠であろう。それにしても水溜まりから映し出される社殿が美しい。
 
 拝殿に掲げられている注連縄は、出雲大社の大注連繩作りをされている方の指導を受け、現在は当地の保存会にて奉製されているという。大きくて立派なしめ縄は見ていて圧巻(写真左・右)である。

 因みに出雲大社の注連縄は左右が逆に張られている。本来神社神道では、神様に向かって右方を上位、左方を下位とするため、一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方を綯い終りとする張り方となっている。
 出雲大社の本殿内には、客座五神として「天之御中主神・高御産巣立日神・神産巣立日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神」の五柱の神が祀られているが、尊貴第一の神たる「天之御中主神」が上位となる一番左に祀られている。また、江戸時代の祭事の記録では、神様へお供え物を進める際、上位のお供え物を向かって左へ、下位のお供え物を向かって右へ進める作法となっている。 このように、古く出雲大社では一般的な神社とは反対に、向かって左方を上位、右方を下位とする習わしがあり、よって注連縄を張る際には上位である左方が綯い始めで、右方を綯い終りとする張り方となっているという。(出雲大社HP参照)
        
           拝殿前にある「縁結び子宝の大注連繩」の案内板
「縁結び子宝の大注連繩」
ここに御奉納されました大注連繩は、
毎年十二月十五日の例大祭前に奉製ご奉納されます。
日光藁文化保存会会員が奉製ご奉納いたしました。
この大注連繩作りをご指導下さいましたのは、
出雲大社の大注連繩作りをされている菅恒義先生です。
先生には平成十四年、十五年とご指導を賜りました。
現在は、日光藁文化保存会独自で奉製しております。
当社は、この出雲の大注連繩作りの為に、
毎年五月末 土曜日に「おお杉青刈り祭」を行い、
青刈りし乾燥、高品質の青藁を厳選し、
確保 大注連繩を奉製します。
重さ   約三〇〇キログラム
最大周囲 一メートル七〇センチ
長さ   四メートル
二本の繩は男性・女性を意味し、ふさは
しめの子といい、三人の子供をあらわしています。
縁結び子宝の大注連繩です。
                                      案内板より引用

        
                     本 殿
 神護景雲称徳天皇の御代(1251年以上前)森友瀧尾神社の主祭神である田心姫命が旅の途中、森友森脇の腰掛の地に休憩され、建長四年(1252)後深草天皇の御代に腰掛の地に祠が建立され、田心姫命が祀られたことが森友瀧尾神社の創始という。その後大正五年(1916)現在地に遷宮した。

 森友瀧尾神社のご祭神である田心姫命(たごりひめのみこと)は、日本神話に登場する女神で、福岡県宗像市に鎮座する宗像大社を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である『宗像三女神』の一柱で、宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている。
 この女神は天照大御神と須佐之男命の誓約により誕生した三女神の一柱で、『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫(たきりひめ)と表記される。『古事記』では別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)とされているが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。『古事記』の大国主神の系譜では、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照比売(したてるひめ)を生んだと記されている。
「宗像三女神」の一柱でありながら、三女神の一柱として祀らず、田心姫命にみを独立して祀っているのが森友瀧尾神社である。
        
                         社殿の右側奥にある「腰掛石」
 
 案内板によれば、この腰掛石は、神様がお座りになる尊い石で、紙垂も巻かれているが、この石に触れたり座ったりすることは可能で、それどころか、良い御縁があり、病が癒え子宝に恵まれ、安産で家庭が円満になると、遥々栃木県内外から参拝者が訪れるという。
 腰掛石は屋根付きの建物で綺麗に整備されている(写真左)。また近くには案内板も設置されている(同右)。また建物の欄間には見事に装飾された彫刻もある。

「腰掛石」
 ここに鎮まります腰掛石は、神様がお座りになる尊い石です。
 神護景雲称徳天皇の御代(一二五一年以上前)森友瀧尾神社 主祭神 田心姫命が旅の途中、森友森脇の腰掛の地に休憩されました。
 建長四年(1252)後深草天皇の御代に腰掛の地に祠が建立され、田心姫命が祀られたことが森友瀧尾神社の創始です。
 この石に触れたり座ったりすると、良い御縁があり、病が癒え子宝に恵まれ、安産で家庭が円満になると、遥々栃木県内外から参拝者が訪れます。
 この建物の欄間に装飾されている彫刻は、「双龍栗鼠葡萄極彩色彫刻」です。
 木彫師 中井伸明氏 塗師 佐藤則武氏 彩色師 手塚茂幸氏が制作され奉納されました。
 彫刻には、子宝、安産、病気平癒は勿論、家内安全、子孫繁栄、豊穣金運等の御利益の深い意味合いがあります。
                                      案内板より引用



参考資料「出雲大社HP」「栃木県神社庁HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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