古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

天狗山雷電神社

 下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬあそんこまろ 生誕不詳~死没709)は飛鳥(あすか)時代の官吏。10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の後裔を称する皇別氏族である下毛野君を出自とする貴族で、下野国河内郡を本拠地とした。この下毛野君一族が下野河内郡に下野薬師寺を建立し氏寺としたと云われる。
 古麻呂が初めて史料に登場するのは、『日本書紀』の持統
3年(68910月が最初で、この時すでに中央貴族である直広肆(じっこうし・大宝律令では従五位下に相当)の地位にあったという。その後大宝律令の撰定に参画し,藤原不比等,粟田真人らとともに,その中心となって活躍した。701(大宝1)3月に大宝令の一部が施行されると,その翌月古麻呂は右大弁として諸王・諸臣に同令を講じている。その時古麻呂は「式部卿大将軍正四位下」の地位で、文官としてだけでなく武官としての立場ももっていたことを示していて、「大将軍」とあるのは、この下野国という地が、対東北政策上きわめて重要な位置にあり、任地に赴く武官の長としての技量も持ち合わせていたのだろうと推測される。和銅2年(709)1220日死去。
        
            
・所在地 栃木県下野市薬師寺1509
            
・ご祭神 賀茂別雷命
            
・社 格 不明
            
・例 祭 天狗山雷電神社祭 427日 1117

 天狗山雷電神社は下野市薬師寺地区にあり、薬師寺郷鎮守八幡宮の参道脇に鎮座する。下野市の国道4号バイパス「薬師寺」交差点沿いに、「道の駅しもつけ」があり、その交差点から栃木県道310号下野二宮線、通称「砂ヶ原街道」に合流して200m程西進する。最初の押しボタン式の信号の右側角にはガソリンスタンドがあり、その交差点を右折しると「薬師寺八幡宮」の看板が見えるので、そのまま300m直進すると薬師寺郷鎮守八幡宮と天狗山雷電神社の鳥居が正面に見える。
 鳥居の手前には「八幡宮駐車場」が道路沿い右側にあり、そこに停めてから最初は薬師寺郷鎮守八幡宮、その後天狗山雷電神社の参拝を行った。
        
                 天狗山雷電神社正面鳥居
 当所は薬師寺郷鎮守八幡宮に合祀されていたが、明治100年を記念して、昭和44年に神徒らが集いて再建、現在は八幡宮の別宮となっている。
 創建時期は不明とのことだが、京都賀茂別雷電神社より御察神を勧請し、以後、五穀豊穣をはじめ殖産の守神として尊崇されてきた社。信心深い農夫の前に天狗に姿を変えた大神が現れ、雷を起こさないように誓ったという伝説が言い伝えられている。創建当時は、雷(いかずち)の雷電宮(らいでんぐう)と称されていた。
        
                                       拝 殿
「天狗山」という称号だけあって、拝殿上部にある扁額の周囲には天狗の面が飾ってある。
 扁額の右側にある奉納額には
「平成十八年一月をもって、我が町南河内町は、国分寺町・石橋町との三町合併により、新たに下野市となる。
 茲に悠久の歴史を秘めたる地名の消失を鑑みつつ新たなる下野市の地名に敬意を表し、記念の額を奉納して永く顕彰する。
 平成十七年十一月十七日 天狗山雷電神社 氏子総代会」
 と書かれている。
        
                    拝殿内部
        
              境内には案内板も設置されている。

 天狗山雷電神社
 御祭神 賀茂別雷命(カモワケイカズチノミコト)
 祭日 四月二十七日 十一月十七日
 御神徳 殖産の神 雷除 災難除 電気の守護神
 由来沿革

 往古、鎮守八幡宮の参道入口に鎮座すと伝える古社。
 京都賀茂別雷神社より、御祭神を勧請。以後・五穀豊穣を始め殖産の守り神として厚く尊崇されてきた。其の当時は雷(イカズチ)の雷電宮(ライデングウ)と称していた。明治百年を記念して、昭和四十四年氏子、神徒ら集いて鎮守八幡宮に合祀されていた雷電神社を再建した。
 伝説

 其の昔、この地は鬱蒼とした社で、その森深くに雷電宮が鎮座していた。
 ある日、一人の農夫が雷電宮に願いを捧げていると、天狗に姿を変えて顕れた大神が「其の願い聞き届けられたり」と申し、此の地には雹等の災害を起こさないと誓ったとされ、それ以来雷の雷電宮を、天狗山雷電神社と改め大層厚く崇敬されたと伝えられています。
                                      案内板より引用

        
                                        本 殿

参考資料 
Wikipedia」等
                                  

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薬師寺郷鎮守八幡宮

 嘗て日本国には「天下三戒壇」と呼称される三師七証による厳格な授戒を行う戒壇が3か所建立されていた。その3カ所とは「奈良 東大寺」「筑紫 観世音寺」それに「下野薬師寺」である。
 下野薬師寺が建立されたのは、天武天皇の白鳳8年(680年)といわれている。皇后(後の持統天皇)がご病気になられた為、薬師如来のご威徳をもって病気平癒を祈念するために勅願により建立され、祚蓮上人が下野国のこの地を選び、伽藍配置の図式を奏上したと伝えられている。
 下野薬師寺が東国仏教文化の中心として特に隆盛を誇るようになったのは、天平宝字5761)年に鑑真和上によって戒壇院が建てられてからであり、この時代には、東山道足柄以東坂東10カ国の僧侶となる者は、全てこの下野薬師寺で修行し、授戒をしなければならない定めになっていた。
 加えて宇佐八幡宮神託事件の後、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)が死去すると道鏡禅師は後ろ盾を失い失脚し、宝亀元(770)年に造下野国薬師寺別当(総責任者)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている。道鏡は772年に当地で没し、龍興寺に墓が伝わっている。
 下野薬師寺は平安時代には、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。鎌倉時代には一時的に復興し、慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという。
 その後戦国時代には後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて、七堂伽藍をはじめ全ての建物が焼失したと伝えられていて、以後威容を取り戻すことはなくなる。
 慶長年間(15961614)年の頃佐竹家家老渋江内膳政光により、薬師堂(本堂)と戒壇堂が再建されたが、明治35(1902)年、台風のため本堂が倒壊、3年ほどかけて使える古材を活用して再建されたのが現在の本堂である。

 仏教の正式な戒律を授けるための戒壇は、国策である鎮護国家思想を象徴する場である。そのような重要な国家機関が、なぜ朝廷から見れば遠く離れた東国の下野国に置かれたのだろうか。
 その謎の多い
下野薬師寺跡に隣接して鎮座しているのが薬師寺郷鎮守八幡宮である。
        
             ・所在地 栃木県下野市薬師寺1505
             ・ご祭神 誉田別命・玉依比売命・息長帯比売命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 節分厄除祭 23日 祈年祭 211日 祖霊祭 318日
                                                      例祭 112日・3日 新嘗祭 1124

 薬師寺郷鎮守八幡宮は、栃木県下野市薬師寺にある神社で、下野薬師寺跡に隣接して鎮座する。下野薬師寺は古くより朝廷から重要視されていた寺であり、当社はその鎮守としての役割を担ったとされる。社伝によれば、貞観17年(875年)に清和天皇の勅定により京都・石清水八幡宮から勧請されたのが創祀とも、また一説には下野薬師寺の鎮守神として天平宝字元年(749年)に大分・宇佐神宮から勧請されたのが創祀ともいう。
 また天喜4年(1056年)には源頼義が前九年の役の進軍途上に当地で合戦となり、社殿は焼失したと伝えている。頼義と子・義家は、その帰路で当社に寄り、鉄弓・鏑矢(社宝)を奉納し、ケヤキ(市天然記念物)を手植えしたという。
        
              薬師寺郷鎮守八幡宮正面。隣には別宮 天狗山雷電神社が鎮座する。
        
                薬師寺郷鎮守八幡宮一の鳥居
        
          石畳の参道の脇には赤い灯篭が長く整然と並んでいる。
              
               参道左手にケヤキのご神木が在る。

市指定天然記念物 薬師寺八幡宮のケヤキ
指定  平成2313
所有者 八幡宮
樹高約20m、目通り周囲4,8m
推定樹齢 600
地元の人たちから八幡宮の御神木として親しまれ大切に保護されてきたこのケヤキは、一説によるとその昔源頼義が奥州平定の帰路当八幡宮に参宮し自から植えた木と伝えられてきたもので、本町内に存在する数多いケヤキの中でもとりわけ大きく、堂々とした姿はまさに名木と言えよう。 平成33月   下野市教育委員会
                                      

梟(ふくろう)
其の昔、このご神木に梟が住み着いていました。森を見張る番とも、森の賢者とも称えられる梟は、福郎とも福来郎とも吉宇を当てられ縁起の良い鳥として崇敬されています。
                                      案内板より引用
        
                          二の鳥居から社殿を望む。
 
 鳥居を過ぎて左手には手水舎(写真左)。右隣には夢福神がいる。夢福神とは架空の妖怪バグの化身とされ、悪い夢を食べていい夢を見させてくれる神様という。夢福神は、栃木県内九ヶ所の神社で祀っているようで、それぞれ特徴があり、九種類の御利益が得られるとの事。境内右手には神興庫、その並びには神楽殿がある(同右)。
        
                     境内には由緒等を記した案内板が設置されている。

薬師寺郷八幡宮由緒略記
・鎮座地 栃木県河内郡南河内町大字薬師寺一、五〇九番地
・神 紋 菊花
・ご祭神 
配神  息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト)
     主祭神 誉田別命(ホンダワケノミコト)
     配神  玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
「由緒沿革」
 人皇五十六代清和天皇の御勅定により東北守護の大神として、京都石清水八幡宮 の御分霊を下野仮夷国大内山郷磯坂朝日ヶ丘に、貞観十七己未歳(西暦八七五年)九月鎮座した。この時より関東北の総社となる。時に小島物部連邦詩朝臣大神主を拝し神主一名、禰宜五名と社家十一、下社家二十三、神戸五十五、神領五五〇町歩を賜る。
 天喜四歳乙申八月、源頼義 奥賊追討の勅を拝し出向の砌り当社に、参宮祈願をなし進発したが、源公の後続軍と賊軍が当社郷において合戦し、その兵災により御社殿・御神楽殿・御神門・御酒殿・御饌殿をはじめ神主、社家等も全く廃燼に帰した。
 源頼義、義家公等奥賊安倍一族を平定し帰路奉賛、特に鉄弓三張、鏑矢六本を奉納したという。後伊奈備前守 支配領内となるに及び、神社収領の手数を省く意味で五五〇町歩余の神領を上地し直接石高を以って奉献と決まり社の収入はここに大減するに至った。その後領主の変わる毎に石高は減少し、神社経営は極度に窮迫した。当時薬師寺郷内拾余の寺院も閉鎖、院領も没収せられ二、三の寺院を残すのみの大変動があった。その後佐竹右京大夫の支配領となるに及び寛文二年壬寅歳御本社、御石間再建、翌歳御拝殿、御玉垣の修理奉納があって漸く旧御社殿形態の幾分かを備うるに至った。
 長い参道では、昭和初期迄流鏑馬神事が行われていたが。今は桜並木として親しまれている(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                         拝 殿

 貞観17 年(875)創建と伝えられ主祭神は誉田別命で、配神として玉依比売命と息長帯比売命の二神が祀られている。一説には下野薬師寺の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとも伝わり、清和天皇により創建された源氏の氏神としての伝承や、日本三戒壇「下野薬師寺」の守護神として鎮座したという伝承が、伝え継がれている古社である。
 旧村社らしく長い参道と広い境内を有し、社殿の周りには神楽殿のほか、祖霊社、八坂神社、千勝神社、天満宮、猿田彦神社、天照皇大神宮、豊受大神宮、熊野神社など数多くの境内社がある。
        
                     本 殿

 本殿は一間社流造、銅板葺で、全体に装飾も少なく彩色も控えめである。この地を支配していた佐竹氏による再建と伝えられ、棟札より寛文2年(1662)に建てられたものとされる。拝殿は、本殿建築の翌年に玉垣とともに建てられたと伝えられ、桁行5件・播磨3間入母屋造、銅板葺で木部および彫刻にはすべて彩色がみられる。現在の社殿は、平成 14 年(2002)度に部分修理が行なわれた。

 なお薬師寺郷鎮守八幡宮本殿及び拝殿(建造物)は平成10年(1998年)116日に栃木県有形文化財に指定されている。
 
        
薬師寺郷鎮守八幡宮の右隣に鎮座する摂社・八坂神社(写真左・右)

 由来書によれば、古くは「祇園社」と称し、祇園原に鎮座していたが、昌泰二年(899)に薬師寺地内に遷座したという。現本殿は宝暦六年(1756)に再建されたが、東日本大震災により被害を被り、本殿再建二百六十年を節目に、社殿を修築し、八幡宮境内に遷座したとの事だ。
        
 
八坂神社の右側奥に境内社が3社並ぶ。右手前から千勝神社、五條天満宮、三十三社稲荷大明神。それぞれ八心思兼命、菅原道真公、倉稲魂命を祀っている。
 
    社殿奥には奥宮・金精様が鎮座。          社殿左隣に鎮座する祖霊社。
案内板にはご祭神は弓削道鏡(伝)との事らしい。      日露戦争にて戦没者を祀る。
       
          境内に聳え立つ
ご神木である垂乳根銀杏(写真左・右)
 樹齢約300年、樹高約20mの古木は別名「垂乳根銀杏」とも言われ、下野市名木30選に選ばれている。
        

「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる。
 天武天皇の発願とされる下野薬師寺の創建年代は諸説あるが、発掘調査で出土した7世紀末頃に用いられた可能性のある最も古い軒瓦の形式、その他の関連史料などから7世紀後半から8世紀初頭と考えられる。その創建には当時中央政界で活躍し、下野国河内郡出身の下毛野朝臣古麻呂が深く関わったとされている。

*下毛野古麻呂
 飛鳥
(あすか)時代の官吏。下毛野朝臣は崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔と称する名族だが,古麻呂までの系譜は詳しくは分からない。古麻呂が初めて史料に登場するのは、『日本書紀』の持統3年(68910月が最初で、この時すでに中央貴族である直広肆(じっこうし・大宝律令では従五位下に相当)の地位にあったという。その後大宝律令の撰定に参画し,藤原不比等,粟田真人らとともに,その中心となって活躍した。701(大宝1)3月に大宝令の一部が施行されると,その翌月古麻呂は右大弁として諸王・諸臣に同令を講じている。その時古麻呂は「式部卿大将軍正四位下」の地位で、文官としてだけでなく武官としての立場ももっていたことを示している。

 

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那須温泉神社境内社 愛宕神社


        
           
・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182 那須温泉神社内
           
・ご祭神 火産霊命
           ・社 格 不明
           ・例 祭 例祭 424日

「那須温泉神社」の参道を進み、二の鳥居を越えたすぐ左側に「愛宕神社」が鎮座している。温泉神社の一境内社であるにも関わらず、社の入口手前に「ご神水」が流れているためなのか、別世界に入り込んだような何とも言えない神聖な雰囲気が辺りを漂う。
                  
                                                                  愛宕神社 正面
              
  社の階段手前左側脇の登り口には「愛宕福神水」と呼ばれる湧水の採水場がある。その湧水は清々しく、まさに「神水」というのにふさわしい。しばしその流れている様子を眺め、気が付くとその清らかな水を手で触れ、口に含む。とても冷たくて口に含むと爽やかで疲れや汚れが浄化されるような気がするから不思議だ。
 因みにその湧水をお水取りをする人は、その前に社務所で
1,000円の初穂料をお支払いし、記帳をしなければならない
 
 社まで一直線の急勾配の階段が200段程続いていて、石段の半分辺りには鳥居がある(写真左)。また一段一段の石が狭く、また階段に手すりがない、加えて石も劣化していて滑りやすい感じだったので気をつけながら登る。天候も雨交じりで、平日の為か参拝客も少なく、また愛宕神社の石段を登る方もいなかったので、無理はしないで時間をかけてゆっくりと上る(同右)。

 愛宕神社は境内社ながら、那須温泉神社や同じ境内社である見出神社とは違う神秘的な雰囲気をもった社である。やはり神水の力は計り知れない。
                
                                                  愛宕神社 拝殿
 社はかなり小さく、質素な造りである。ただ参道入口の「愛宕福神水」や、入り口から石段を登り、到着するまでに感じた神秘的な雰囲気を肌で実感すると、この社にも逆にある種の威厳と趣きすら感じてしまう
                
             愛宕神社の隣には水琴窟が置かれている。
 湧水を注ぐと、水琴窟の中から驚くほど美しく澄んだ金属のような音が響きわたる。森の中にかすかに響く音は神々しく幻想的でもある。
 水琴窟
 水琴窟は手水鉢や蹲踞の排水部に造られた一種の音階装置で江戸時代中期の考案と傳えられる。
 地中に埋めた甕の内部で水滴が水面を打つごとに琴を奏でるような音色を発することからこの名が生まれ日本庭園の音を楽しむ絶妙の芸術として称賛されている。
                                      案内板より引用



 日本人は「音」に対して繊細的な感性を持った民族と言われている。例えば「虫の音」である。8月も半ばを過ぎると、夜は秋の虫たちが鳴き出す。その虫の音(ね)を聴いて、理由は分からないものの、しんみりと感傷にふけるのが日本人の心情である。この感受性は人類共通のものかと思っていたら、実はそうではなく、どうやら日本人特有の感性らしく、虫の音を雑音として聴いてしまう外国人とは随分違うとのことだ。
 人間の脳は右脳と左脳とに分かれており、左脳は言語や論理性を司り、右脳は感性や感覚を司る。世界のほとんどの民族は虫の声を右脳で認識するが、日本人とポリネシア人だけは左脳で認識してる。そのために多くの民族には虫の声は「雑音」にしか聞こえない一方、日本人とポリネシア人には「言語」として認識される。
 そして、この「虫の音」を日本人が言語脳で処理し、他の多くの民族圏の人が雑音として処理するのは文化的な違いによるものという。多くの西洋人は、虫=害虫という認識があり、その鳴く音も雑音だと認識するが、日本人は「虫の声」に聞き入る文化が子供のころから無意識に親しまれているので、「虫の音」を人の声と同様に、言語脳で聞いているのではないかということのようだ。
              
                               愛宕神社近くにある案内板
 
  愛宕神社の並びに鎮座する祖霊社の鳥居            祖霊社

 更にこの言語の処理様式の違いが、日本人の遺伝的特徴によるものなのか、つまり日本人として生まれながら資質なのかどうかの確認も行ったところ、両親が日本人でなくても、日本に生まれた子が日本語で育てば日本人と同じ処理様式を示すし、両親が日本人であっても、海外で生まれた子が日本語以外の国で育てば日本人以外の処理様式を示すということが分かった。
 つまり、日本語で育つかどうかが決め手であったというわけで、特に
9歳くらいまでに身に付けた言語が大事ということになる。
 幼少時から日本語を話すと自然と日本人が持つ感性が養われる。すなわち、日本語を話せば日本人になるということの基本が、「大和言葉」という大陸文化が伝来する以前の、日本列島で話されていた言語にあるのではないかと筆者は考える。人類言語の祖型を残している大和言葉=原日本語が、動植物や自然と融和し易くさせる「日本人の言語の処理様式」を育んできたものではなかろうか。
                
     愛宕神社、水琴窟、祖霊社の並びに鎮座する「琴平神社・神明宮・山神社」等の石祠

 八百万の神という言葉があるように、日本人は古来より自然を愛で、森羅万象を尊ぶ思想が根付いている。虫の声を雑音ではなく自然の声として認識し、季節の移り変わりを楽しむ姿勢が、こういった脳の違いを育んでいったに違いないと考える。
 現代は都市の開発が進み、子どもたちが虫の声を聞く機会も少なくなってきていると言える。近い将来は日本人も、虫の声を雑音としてしか認識できなくなってしまう可能性もないとは言い切れない。
 筆者もキャンプ場などで涼やかな虫の声、または川のせせらぎを聞きながら眠りにつくのが好きなので、今後もこの文化や感覚を日本人に受け継がれていくことを願ってやまない。
 今回境内社でありながら愛宕神社を紹介した理由はまさにそこにある。

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那須温泉神社境内社 見立神社


        
            ・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182 那須温泉神社内
            ・ご祭神 天児屋根命 狩野三郎行広
            ・社 格 不明
            ・例 祭 例祭 527日

 那須温泉郷は、那須町の北西部にそびえる茶臼岳の山腹に散在する温泉群の総称である。那須連山の主峰・茶臼岳は、那須火山帯が最後に形成した山といわれ、標高は1,915m。栃木県唯一の活火山で、福島県南部を含む那須地方のランドマーク的存在。今なお白い噴煙を上げながら、広大な山麓一帯に豊富な火山性温泉を自然湧出させている。
 那須温泉の開湯は古く、その発見は第34代舒明天皇の御代(630年ごろ)に遡る。茗荷沢村(みょうがさわむら:現在の那須町高久乙)に住む郡司の狩野三郎行広が狩りの途中、射損じた白鹿を追いかけ霧雨が谷(現在の鹿の湯あたり)という深い谷に分け入ったところ、自らを温泉の神と告げる白髪の老翁が現れた。老翁の進言に従って三郎は鹿を探し、温泉に浸かって矢傷を癒している白鹿を見つけた。三郎はこの温泉を鹿の湯と名付け、温泉の杜(現在の那須温泉神社)を建立し、射止めた鹿角を奉納したといわれている。
 こうして開湯された鹿の湯は、温泉発見において日本で32番目に古く、栃木県では塩原、日光を抑えて最古、同じ関東の熱海、修繕寺、草津、伊香保らとともに、古い歴史を持つ日本の名湯として全国にその名を知られている。
        
                 境内社 見出神社正面
 見立神社は那須温泉神社の境内社であるのだが、社務所・儀式殿の先にある二の鳥居から正面右側に鎮座していている。境内社でありながらその創建由来でも分かる通り、温泉を発見して神社を建立し、歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくした狩野三郎行広を今なお周辺地域の方々から「那須温泉開発の祖」として大切に祀られていることが、この配置からも分かる
 那須温泉神社の由来等を確認するにつれ、本来の社はむしろこの社ではなかったかと疑いたくなる。
 
      見立神社鳥居奉納碑文          鳥居を越えて石段を登る先に社殿等
東日本大地震の際に、鳥居や灯籠などが破損した          が見える。
         そうである。
        
                                    拝 殿
 260年間余り続いた江戸時代中期の寛政年間、その当時歌舞伎役者の人気を相撲の番付風に格付けした、「見立て番付」が流行し、同じようなものが数々のジャンルに対して作成され、温泉番付もその中の1つとして作成された。
 温泉番付とは、温泉地を大相撲の番付に見立ててランキングしたものである。初めて作られたのは、江戸時代の安永年間(17721781)ごろといわれ、東日本の温泉地を東方、西日本の温泉地を西方に分け、人気ではなく温泉の効能の高さを元に、全国100ヵ所近くの温泉が番付されていた。
 温泉の番付は、作成された地域や年代により多少の違いがあるが、最高位(大関)は常に共通で、東は草津、西は有馬となっていた。文化14年(1817)に発行された「諸国温泉効能鑑」によると、東方の関脇が那須、西方では城崎で、那須温泉が東日本で草津に次ぐ二番手に格付けされている。那須温泉の番付はどの番付表においても総じて上位にランクされていて、江戸時代から那須温泉が湯治場として高く評価されていたことを窺い知ることができる。
        
                                     本 殿

 見立神社(祭礼日、527日)
 温泉発見者、狩野三郎行広(人見氏始祖)の創建、天児屋根命を祀る。後温泉発見の功により狩野三郎行広合祀される。慶応元年6月正一位を授けられ更に昭和29
年温泉神社と合併、境内社となる。

 見立神社のご祭神である天児屋命は、天岩戸(あめのいわと)神話のなかに登場する神で、中臣(なかとみ)氏・後の藤原氏の祖神である。中臣氏は古代に宮廷の祭祀を司り、主に祝詞を唱える役目を受け持った一族で、「古事記」「日本書紀」によれば、天岩戸にこもった天照大神を引き出すために、神々が神事を行った際、祝詞(のりと)を奏している。また天孫降臨にさいしては、布刀玉(太玉)命や天鈿女命などと共に、瓊瓊杵尊の天降りに際しては五部神(いつとものおのかみ)の一神として随行した。
 合祀されている狩野三郎行広は、那須温泉神社の由緒書によれば、「人見氏」の始祖と記載されている。現在でも「人見」姓は栃木県に一番多く(3,000人程)、その中でも栃木県北部の那須塩原市や那須郡那須町周辺だけで2,000人程存在する。前出した由来書でも、那須温泉神社の宮司は「人見」姓である。
        
              見立神社 拝殿から参道風景を望む。

 伊王野氏(いおのし、いおうのし)は、藤原氏長家流那須氏の一族で下野国那須郡伊王野発祥の氏族である。伊王野氏は那須頼資の二男資長が伊王野を分知され伊王野館を構えて居城とし、伊王野次郎左衛門尉資長と名乗ったことに始まるとされ、那須六家の一つとされる。
 この伊王野氏が摂政太政大臣・藤原道長の六男である藤原長家からの系統である詳細な文献資料が、筆者の調べた限りにおいて見いだせなく、この点はやや不透明な点が気になるところだが、もしこの系統が正しいのであれば、那須地域には間違いなく「藤原一族」の一派が存在していたことになる。

 そしてもう一人のご祭神である「狩野三郎行広」。出身地も都から遣わされた郡史とも、茗荷沢村の住人とも書かれていて、生まれた場所も特定できない人物である。加えてこの人物が活躍した時代背景も、欽明天皇のご時世(630年代)と途方もなく古い、非常に謎に満ちた人物である。

 ただ見立神社のご祭神が中臣氏・藤原氏の祖神である「天児屋命」であることは、この社の創建に少なくとも藤原一族が関与しているという箏は確かであり、筆者の愚考で恐縮ではあるが、もしかしたら狩野三郎行広」という人物も、この藤原系の一派だったかもしれない。

*追伸
 この「人見」姓は埼玉県深谷市人見地区とも関連の深い苗字でもあり、起源(ルーツ)であるともいう。この深谷市人見地区は、江戸時代以前、武蔵国榛沢郡人見村として、武蔵七党・猪俣党人見氏が同地に移住し、土着した一族である。
 今回見立神社を掲載するに際して、「人見氏」が出てきたので、その起源に共通するものがあったかどうか非常に関心があり、このような長々とした考察となってしまった事をお断りしたいと思う。

 
参考資料 「那須温泉旅館協同組合HP」「Wikipedia」等        

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那須温泉神社

 栃木県那須地域は雄大な自然に囲まれた日光国立公園に位置する那須高原が広がる地であり、牧場やテーマパークが中心のお洒落な観光地でも有名である。筆者も最低年に1回は、必ずこの地に観光を兼ね、自分へのご褒美として、また自分を常日頃から支えてくれている家族への感謝の気持ちも併せて旅行することを楽しみの一つとしている

 ところでこの那須地域は、観光地としての面ばかりクローズアップされがちであるが、実は古き歴史を彩る土地でもある。特に那須温泉郷は1300年以上の歴史を誇っており、源頼朝など歴史上の重要人物も数多く入湯したと伝えられている。
 世界有数の火山国である日本は、温泉の数も多く、加えて那須温泉神社のように温泉の存在が創祀に関わる神社がいくつも存在する。しかしその中で、平安時代の法律書である延喜式に記載された温泉に関わる延喜式内社は、全国でもわずかに十社のみであり、この那須町の那須温泉神社もその一つである
        
             ・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182
             ・ご祭神 大己貴命・少彦名命・誉田別命
             ・社 格 旧郷社 延喜式内社 旧那須郡総領
             ・例 祭 節分祭 23日 例大祭・湯汲祭・献湯祭 108日
                  例大祭・献幣祭・神幸祭 109日

 那須温泉神社は「東北自動車道那須IC」を降りて栃木県道17号那須高原線、通称「那須街道」を茶臼岳方面に北上する。街道沿いにはレストランやお土産物店など、那須高原独特の華やかな雰囲気に包まれるが、そのまま20分程度車を走らせると、正面に那須温泉神社の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居の南側、「那須町観光協会」建物の向かいに十数台駐車できる場所が確保されていて(しかも無料)、そこの一角に停めてから参拝を行う。車を降りた瞬間から、「プーン」と硫黄の香りが漂う周辺環境は、温泉地そのもの。また紅葉は丁度見頃で雰囲気がとても良く、雨交じりの天候ながら、さわやかな朝の空気を体内に入れながら気持ち良く参拝できた。
 因みに「那須温泉神社」と書いて「なすゆぜんじんじゃ」と読むそうである。西暦630年頃に建立されたと言われている那須温泉のシンボル的な存在で、那須温泉神社は那須地方に存在する80社の総社。
 平安時代の末期、屋島の戦いの際には、那須与一が扇の的を射るに当たり、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え」と那須温泉神社を祈願して見事に扇を射たため、与一は名声を轟かして、那須郡の総領となり、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進し、鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇、鳥居を奉納したという。
        
                                                    那須温泉神社 正面
        
                                   『こんばいろの湯』
 那須温泉神社の一の鳥居の手前左側には、人気の足湯『こんばいろの湯』がある。12人ほどが入れる大きさで、冷え性や切り傷などに効能があるそうだ。
 尚「こんばいろ」とは地域の言葉でカタクリの花のことであり、春になると那須温泉神社でも紫色の可憐なカタクリの花が咲くという。
 しかし当日(2022・11・15)不定期の休みの為、利用できなかったのは残念。
 
   一の鳥居にほぼ隣接した「こんばいろの湯」    「那須温泉発見のいわれ」の案内板

 那須温泉発見のいわれ
 那須温泉の発見は、西暦630年代といわれています。時は三十四代舒明天皇の時代七世紀前半、那須山麓の茗荷沢の住人・狩野三郎行広という者が、ある日、狩りにでて大きな白鹿にあい、矢を射って傷つけました。
 逃げ去る白鹿を追って峡谷に至ると、傷を負った白鹿が湧き出る温泉に浸かって、傷を癒しているのを見つけたことが那須温泉の発見といわれ、その後、温泉が開かれ、温泉神社が創建されたといわれています。

 現在の元湯・鹿の湯は、このいわれにちなんで名付けられたものです。
 西暦738年の記録である正倉院文書「駿河国正税帳」の条には、「小野牛養朝臣が病気療養のため奈良から那須温泉に向かった。」とあり、奈良時代から那須温泉が広く知れわたったことがうかがえ、全国数千の温泉の中でも、最も古い温泉といわれています。
こ の彫刻は、この那須温泉発見のいわれに基づき、大きな白鹿が那須温泉に浸かっているところを表したものです。

 平成5年4月  那須町
                                      案内板より引用
 
 社の参道は長く(写真左)、社殿までの間に、多くの境内社や石祠、ご神木などの施設等が存在する。まず一の鳥居と二の鳥居の間で左側には社務所兼儀式殿があり、その並びには那須町のパワースポットとしても知られている「さざれ石」がある(同右)。
 さざれ石はもともと小さな石という意味で、それが非常に長い年月をかけ凝結し、一つの大きな岩の塊へと成長していくといい、神霊の宿る石とされていて、触れると願いが叶うと謂われている。
        
                                        二の鳥居

 那須
与一(なすのよいち)は、平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったらしい。与一という名前の由来としては、与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称との事だ。
 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承があり、弓の腕を上げようと修行を積み過ぎたため、左右で腕の長さが変わったと伝えられている。
 治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。
 何と言っても『平家物語』に記される、源平合戦の一つである讃岐国・屋島の戦いにて船上の扇を見事射落した話が非常に有名な武将であり、那須与一が弓を放つ際に、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え…」と唱えたと記され、その「那須温泉大明神」がこの那須温泉神社である。
 因みに那須氏の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが(那須資隆、那須光資等)、江戸時代以降、那須資景など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。
        
                                   三の鳥居
 この鳥居は今から800年以上前に建立されたもので、平安時代末期の武将、那須与一よって奉納された大変貴重なものである。那須与一宗隆は、源平合戦屋島の戦の際にこの那須温泉神社にて祈願をし、見事平家の建てた扇の的を射落とすことに成功、これによって日本全国にその名を轟かせたことから、以降一門を挙げて、この那須温泉神社を厚く崇敬したと伝えられている。
 
 三の鳥居を過ぎてから参道の右側には推定樹齢800年・樹高18m・周囲4mのご神木がある。ご神木名「生きる」。ご神木の手前にある案内板を確認するとミズナラ(水楢)の大木で、しめ縄が付けられている。杉や楠や銀杏の巨木でご神木となっているものが主流の中で、ミズナラのご神木は初めて見る。
 樹高18mと案内板には記載されているが、見た目はそんなに大きな木ではない。が800年という悠久の時を経ても未だに樹勢は旺盛であり、その生命力、力強さ等のパワーがこの木からにじみ出ているようで、多くの人々から崇められているのも納得できる。
このご神木も那須温泉神社のパワースポットの1つとして親しまれているようだ。 
 三の鳥居を過ぎるとやっと社殿が見えてくる(写真左)。最後の石段を越えると、境内が広がり、その隅には手水舎が設置されている(同右)。
 一の鳥居から長い参道を通る間には、多くの境内社、石祠等があったが、別項で紹介したい。
 ところで境内に入る前、左側奥に「芭蕉句」のある石碑がある。
 
 松尾芭蕉は奥の細道をたどる途中、殺生石見物を思い立ち、まず温泉神社に参拝したそうである。案内板によると松尾芭蕉(46歳)が、弟子の河合曾良を伴い「奥の細道」の途中、元禄2年(西暦1689)元禄21689)年418日(新暦65日)のお昼前に黒羽藩領高久を出立し、未の下刻(午後3時前後)に同藩領那須湯本に到着し、芭蕉たちはここで2泊した。翌19日の午の上刻(午前11時前後)に参詣した際に詠んだ芭蕉の句が境内に建立された句碑に刻まれている。
" 湯を結ぶ 誓いも同じ 石清水 芭蕉 "       
        
                                    拝 殿
        
                             境内に設置されている案内板

 延喜式内 温泉神社
 創立
 第三十四代舒明天皇の御代(六三〇年)狩野三郎行広、矢傷の白鹿 を追って山中に迷い込み神の御教により温泉を発見し神社を創建、 温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くした。狩野三郎行広は後年那須温泉 開発の祖として見立神社祭神として祀られる。
 祭神

 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 相殿 誉田別命(ほんだわけのみこと)
 大己貴命は別名大国主命(大国様)と申し上げ縁結び、商売繁盛、 身体健全、温泉守護、の神として信仰されています。少彦名命は国 土を耕し鉱山や温泉を開拓し薬等を作った神であり温泉の神として 広く崇敬されている。誉田別命は八幡様とも申し上げ武運の神とし て尊ばれ勝運を祈る神である。
 由緒

 正倉院文書延喜式神明帳記載(九二七年)によると温泉名を冠する神社は十社を数える。上代より当温泉神社の霊験は国内に名高く 聖武天皇の天平十年(七三八年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が載せられている。従って神位次第に高まり清和貞観十一年 (八六四年)には従四位勲五等が贈られている。
 文治元年(一一八五年)那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神 社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後一門を挙げて厚く崇敬した。
 建久四年(一一九三年)源頼朝那須野原巻狩の折小山朝政の射止めし九岐大鹿を奉納。
 元禄二年(一六八九年)俳人松尾芭蕉「奥の細道」をたどる途中温 泉神社に参詣、那須余一奉納の鏑矢等宝物を拝観、殺生石見物等が曽良の随行日記に載せられている。
 大正十三年(一九二二年)摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ那 須五葉松のお手植えを頂く。大正十一年(一九二〇年)久邇宮良子 女王殿下御参拝、那須五葉松のお手植えを頂く。(以下略)
                                      案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                                    本 殿

 本殿脇には白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)をお祀りしている「九尾稲荷神社」が鎮座する。狐の妖怪である九尾を祀ったお稲荷様で、狛狐の尻尾も九尾に分かれている。九尾稲荷明神の横は谷になっており、そこからは九尾を封印したとされる殺生石と温泉のガスが噴き出す賽の河原を一望することができる。
        
                                  境内社 九尾稲荷神社

 那須湯本に伝わる九尾の伝説とされる「殺生石(せっしょうせき)」。
 殺生石は、栃木県那須町の那須湯本温泉付近に存在する溶岩である。付近一帯に火山性ガスが噴出し、昔の人々が「生き物を殺す石」だと信じたことからその名がある。 なお伝承上、この石に起源を持つと伝えられている石が全国にいくつかあり、それらの中に「殺生石」と呼ばれているものがあるほか、那須の殺生石同様に火山性ガスが噴出する場所で「殺生石」と呼ばれる石があるとする文献もある。しかし単に「殺生石」といえば那須の殺生石を指すことが多い。
 残念ながら時間と体力の関係で、殺生石を周ることができなかったが、九尾稲荷神社から温泉のガスが噴き出す賽の河原を見下ろしただけでも、異様な空間がそこにある事が良く分かる。
        
        
               九尾稲荷神社から賽の河原を撮影


参考資料 「那須町 商工会HP」「とちぎいにしえの回廊」「那須温泉神社HP」「Wikipedia」等

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