古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

日光二荒山神社

 日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にある神社で、式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社であり、現在は神社本庁の別表神社である。
 宗教法人登記上の正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。因みに宇都宮市の二荒山神社は「ふたあらやまじんじゃ」と読む。
 関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社であり、境内は次の3ヶ所からなる。
・本社(栃木県日光市山内)
 本社 - 日光の社寺最奥に鎮座
 別宮本宮神社 - 日光の社寺入口、女峰山登山口入口
 別宮滝尾神社 - 女峰山登山口入口奥
・中宮祠(栃木県日光市中宮祠) - 中禅寺湖畔。男体山表登山口入口
・奥宮(栃木県日光市中宮祠二荒山) - 男体山山頂
 日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、伊勢神宮に次ぐ広大な神域を有し、その神域には「華厳滝」や「いろは坂」も含まれる。
        
              
・所在地 栃木県日光市山内2307
              
・ご祭神 二荒山大神(大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命)
              
・社 格 式内社(名神大社)論社 下野国一宮 
                   旧国幣中社 
別表神社
              
・例祭等 武射祭・蟇目式(ひきめしき)神事 14
                   
弥生祭 413日~417日 417日の例祭含む)他

 日光二荒山神社の参拝で最初に紹介しなければいけない場所は「神橋」である。この神橋は日光二荒山神社の神域に属し、二荒山神社が管理している。日光の社寺の入り口にあり、日光のシンボルとも、日光の表玄関とも称され、栃木県で最も美しい橋と讃える人もいる。
        
                神橋の看板と神橋渡橋受付所
          この橋の通行料300円が必要。また橋の対岸に抜けられない。
 この神橋は「渡る橋」というよりも「眺める橋」と云われる。実際、国道119号線・通称日光街道と122号線との合流地点にある「神橋」交差点に架かる橋から見る朱色の神橋を含む周辺の景観は大変美しい。当然大勢の観光客が集まり、この神橋を眺めたり、撮影をしている。またこの橋の下を流れる大谷川が美しく、光の加減で水色にも見えるのだが、清流の澄んだ川の色に心癒される気分である。
        
                  日光街道「神橋」交差点前に架かる橋から神橋を撮影
 伝説によれば、日光を開山した勝道上人は、7歳の頃に明星天子(虚空蔵菩薩)から受けたお告げを実行するため、天平神護2年(766年)に補陀落山(男体山)を目指すも、大谷川を渡れず難儀した。この時勝道は護摩を焚いて神仏に加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて赤と青の2匹のヘビを投げ、その上に山菅を敷き詰めて橋とし、勝道の渡河を助けた。この伝説から、神橋は「山菅の蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれる。
        
         神橋の先に輪王寺・日光東照宮・日光二荒山神社へ通じる参道がある
 尚、神橋から輪王寺・日光東照宮・日光二荒山神社(二社一寺)へ通じる参道は、嘗て「旧日光街道」と言われている。緩やかな上り斜面の参道の両側には、悠久な歴史を感じさせてくれる杉等の巨木・老木が聳え立ち、自然と厳粛な気持ちに誘ってくれた。
        
                        「二社一寺」の一つである輪王寺に到着。
 輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されている。
 輪王寺(りんのうじ)は、天台宗の門跡寺院であり、比叡山や東叡山と並ぶ天台宗三本山のひとつに数えられ、日光山全体を統合している。この門跡寺院とは、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことであり、寺格の一つとされる。元来日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 
        
                天台宗日光山輪王寺 
三仏堂 
 輪王寺の創建は奈良時代と言われ、もともとは日光二荒山神社と共に山岳信仰の社寺として創建されたと言われている。当時は「満願寺」という名前で、1655年に後水尾上皇より「輪王寺」の寺号が下賜される。近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めるが、特に三代将軍家光公の信仰は厚く、大雪で倒壊した本堂が家光公の命で再建されたり、没後は家光公を祀った大猷院霊廟が置かれるなど、その関係の深さが感じられる。
        
                  
輪王寺門跡と社号標
                       門を出ると東照宮ヘと至る南北の参道となる。
 日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺があり、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社であるが、一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
 つまり日光二荒山神社と天台宗日光山輪王寺には創建等に共通の歴史があり、別項にて語ることができない間柄となろう。寺社を同じ項として紹介している理由はそこにある。
 
       東照宮に至る参道           参道を進むと右手に見える
相輪橖
 杉林の中に紅葉樹も見え、趣ある風景美を演出。         と大護摩堂

 東照宮に関しては前項にて紹介。そこで東照宮の参拝終了後、北西方向に伸びる道を進み、日光二荒山神社に到着する。
        
                  
日光二荒山神社正面
 日光二荒山神社の神体山は男体山(2,486m)である。この男体山は奈良時代には補陀洛観音浄土に擬せられて「補陀洛山(ふだらくせん)」と呼ばれていたが、後に「二荒山(ふたらさん)」という字が当てられたと言われる。「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。因みに男体山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代には既に山岳信仰の聖地だったことは確かである。
        
                         
日光二荒山神社 正面鳥居
「日光」が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降である。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ、また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる。
       
                            参道途中右側にある「縁結びのご神木」
        
              参道の先にある木造四脚切妻造の神門
 
       
                       神門のすぐ左手にあるご神木「親子杉」
      根部分のつながった木は、縁結びや夫婦・家庭円満に御利益があるという。
       
        神門の右手で「親子杉」とは対象側にある「夫婦杉」のご神木
        
                                  境内にある手水舎
        
                              朱が鮮やかな神楽殿
        
                     拝 殿
 山岳信仰の地、修験修行の霊場として信奉を集め、鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。戦国時代、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条氏の味方をしたことで、領地を没収されるなど一時衰退したが、江戸時代に入ると状況は一変。徳川家康から家光までの3将軍が帰依した僧・天海が日光山の貫主となり、1617(元和3)年には家康をまつる日光東照宮が創建。東照宮の西隣に移転となった二荒山神社にも、豪華な社殿が造営される。以後も天海開山の徳川家菩提寺・上野寛永寺によって管理され、その威光もあって江戸時代を通じて繁栄が続いた。
 
          境内には案内板(写真左・右)が設置されている。

 ところで輪王寺本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築であり、日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られている。三仏、三山、三所権現、祭神(垂迹神)及び寸法は以下の通りである。
・千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと) - 総高703.6cm(本尊335.4cm
・阿弥陀如来(女峰山)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと) - 総高756.3cm(本尊306.3cm
・馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 総高744.7cm(本尊301.3cm
 このように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されているため、輪王寺本堂(三仏堂)に三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
        
                                 楼門手前にある東鳥居
           1769年に造営され、30年後の1799年に再建された青銅製の鳥居。
            1944年に国の重要文化財に指定されている。
        
      日光二荒山神社東鳥居から東照宮の五重塔へと向う東参道途中にある楼門。
 この道は「上新道」といい、参道として巨大な杉の木と石灯籠が整然と並んでいて、日光二荒山神社正面にある神門とは違った趣ある建築物である。


参考資料「日光二荒山神社公式HP」「神橋HP」「Wikipedia」等 

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