古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

和泉磐裂神社


        
               
・所在地 栃木県日光市和泉914
               
・ご祭神 (主)磐裂神・根裂神 配神 王位神
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 例祭 113
 七里生岡神社から一旦国道119号線に合流後、今市方面に進路をとる。といっても七里生岡神社から国道まで分かりやすい道はないので、来た道を引き返すように戻るルートを選択、結果的にはかなりの遠回りとなるが、あまり地理に詳しくないので、そこは慎重に対応。その後、国道を3㎞程進み、「杉並木公園」の西端近くで、国道と旧日光街道と合流する信号のある交差点の一つ手前の路地を右折する。丁度コンビニエンスとガソリンスタンドとの間の道であるので分かりやすい。
 右折した道路は丁度南方向に進行する。途中「天台宗・月蔵寺」を右手に見ながら更に南下、まもなくJR日光線の線路を越えるが、そのまま直進を続ける。300m程進むと十字路に到達、そこを右折して、そこからまた300m程進んだところにある丁字路を左折する。そして暫く道幅が狭く、道路の両側には杉林が生い茂げ、寂しさも漂う上り傾斜面の道路を道なりに進むと、その道は行き止まりとなるが、その手前右側に和泉磐裂神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居がある場所から先の行き止まり地点手前に確保されている。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
*追伸として、
道路を進む中では全く気づかなかったが、和泉磐裂神社に向かう途中に「磐裂の霊水」があったとの事。迂闊にも通り越してしまったことは、残念極まりない。やはり余裕のあるプランを事前に立てなければいけないと深く反省した。
        
               斜面上に鎮座する和泉磐裂神社
 日光は歴史も古く、日光権現を祀る山々が知られるようになった宗教地域である。その後。江戸時代に徳川家康および徳川家光などの江戸幕府の初期の将軍によって徳川家の廟地となった。明治以降は観光地・景勝地として日本における代表的な地域の一つとなり、日光東照宮や中禅寺湖・華厳の滝、日光連山、日光湯元温泉など、国際観光都市として多くの観光客で賑わいを見せている。
 ただ個人的な好みである点を最初にお断りするが、筆者は観光地の神社も勿論好きではあるが、現在は閑散としていて、目立たない場所であっても、昔からその地域を見守って下さっている社や祠を参拝したり、その地域の歴史を考察することが何より好きであるその地域に住む人たちの何気ない生活の時を、社は静かに、そして長い間絶えず見守ってきてくれている。生活の一部に社はしっかりと根付いていて、密着度が違うのだ。
 この地に降り立ち、社の鳥居を見た瞬間に、そのような思いが脳裏をよぎった。
 
 鳥居前で一礼し、参拝を開始する。鳥居にもたげるようにかかるモミジの紅葉が美しい。参拝当初は石段を登り(写真左)、その後緩やかな上り斜面先の二の鳥居まで真っ直ぐな参道が伸びている(同右)。参拝時、雨は止んでいたが、路面は濡れていたので、足元には注意しながら社殿方向に進む。適度に長い石段・参道。そして参道両側に聳える杉林の先に見える小さな鳥居とのコントラストが不思議と美しい。
        
                 参道途中にある庚申塔
『日本歴史地名大系』 「和泉村」の解説
南東へ流れる大谷(だいや)川南岸段丘上にあり、田川が南東へ流れる。西は野口村、南は山久保村、東は平ヶ崎村(現今市市)。泉村とも記される。村名は丘陵裾に湧泉があるからとも、和泉国から移した薬師如来を上泉(じようせん)寺(廃絶)に祀ったことにちなむともされる(「薬師如来略縁起」如来寺文書)。
慶安郷帳に泉村とみえ、畑高一四八石、日光領。同領となった時期は不明。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では和泉村とあり、高二九二石余。天保八年(一八三七)の神領組売木仲間規定帳(星芳夫文書)では当村から一人が加わっている。また朝鮮種人参が栽培されていた(日光道中略記)。
        
                 二の鳥居から境内を望む。
                鬱蒼とした森に囲まれ、昼間の参拝にも関わらず薄暗い境内
        
                   境内の一風景
 天長三年(826)九月創建。嘉祥元年(848)頃の慈覚大師円仁作と伝わる虚空蔵尊が月蔵寺に祀られた。宝暦三年(1753)五月に日光山星宮の御分霊を勧請して村の鎮守とした。
 江戸期には虚空蔵尊,妙見天童と称し,維新に際し磐裂神社と改称し現在地に遷宮した。
     
                        拝殿手前に聳え立つ巨木(写真左・右)
              
                                 「震災復興記念碑」
「震災復興記念」
 昭和二十四年十二月二十六日午前八時十七分、突如として激震に襲われ山は崩れ大地は裂け、社殿や家屋は傾きあるいは倒れ、甚大な被害を受ける氏子は一体となり三神社の復興に努め社資と氏子の奉仕により磐裂神社雷神宮を復興し、磐裂神社に拝殿を新築して王位神社を合祀し復興奉告祭を昭和二十六年四月三日執行し、この未曾有の災禍を銘記し碑を建て永久に記念す。
 昭和二十八年四月三日 氏子中
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                     本 殿
 和泉磐裂神社の御祭神である磐裂神(イワサク・イハサク)・根裂神(ネサク)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記されている。
『古事記』の神産みの段で伊邪那岐神が十拳剣で、妻の伊邪那美神の死因となった火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)の首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。
『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、第七の一書では磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。
「石折神(古事記)」は、「磐裂神(いわさく・日本書紀)」とも表記され、岩を裂く神であり、また、岩を裂くほどの切れ味をもった剣の威力そのものを神格化した存在であるといわれている。また「根折神」も上記と同様で、堅い木の根すらも切り裂くほどの威力という意味となる。磐石(いわむら)の神である「石筒之男神」と共に生まれたことから、この二柱の神も素直に磐石の神であったと解釈することもできよう。
        
                               拝殿からの眺め
 この磐裂・根裂を祭神とする神社はさほど多くないものの、栃木県に集中しており、県内に磐裂根裂神社や磐裂神社、根裂神社が何社もある。
 これは奈良時代の735年に下野国芳賀郡で生まれたとされる勝道上人(しょうどうしょうにん)が日光山登頂を三度目にして成功させたときに盤裂神の助けによるとしたことから盤裂神に対する信仰が始まったようだ。
 神仏習合時代は盤裂神の本地仏は「虚空蔵菩薩」とされ、栃木県日光市の磐裂神社は、かつて「星の宮」と称して虚空蔵菩薩を祀っていたとされている。「虚空」は広大無辺の宇宙を表しており、そこには無限の知恵があるとされ、そこから「星神」と結びついていったと考えられている。勝道上人が日光山で虚空蔵菩薩を感得したことで日光修験の本地仏が虚空蔵菩薩とされ、結果として栃木県に磐裂根裂神社が多くなったのだろう。
        
       
和泉磐裂神社の鳥居から北側道路沿いに並んで置かれている石仏像群


 ところで、この「星神」「星の宮」「星神社」は大きく分けると妙見菩薩信仰系と虚空蔵菩薩信仰系、それと天香香背男(アメノカカセオ)または天津甕星(アマツミカボシ)を祀る神社の3系統になる。
 この天香香背男、ないし天津甕星に関して、筆者は非常に高い関心を持っている。以前から疑問に思っていたことがあるのだが、日本神話には「星神」の話が極端に少ないのはどうしてなんだろう、ということだ。神話ではアマテラスを太陽神、月読尊(ツクヨミ)を月の神とする以外では、この天香香背男が唯一の「星の神」であり、その他星に関する話がほとんど書かれていない。
 嘗て日本人は古代ギリシャやローマ、メソポタミアは勿論、隣国の古代中国にも星座に関する知識や思想はあり、当然その考え方は日本にも入ったはずである。
 日本人が星について無関心だったわけではなく、四方海に囲まれている海洋国家でもあり、古墳時代には高松塚古墳やキトラ古墳の天井画には多くの星座が描かれているし、旧石器時代以降、多くの人たちが大陸や半島から海を渡ってやっていて、彼らは星の知識が当然あったはずだ。そうでなければ長い航海はできない。

 色々と考えることが多いが、本件には直接関係ないので、いずれ項目を設けてじっくりと考察したい…そんな神である。



参考資料「栃木県㏋」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内震災復興記念碑文」

      
           
                 

  

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七里生岡神社

 日光山輪王寺の強飯式(ごうはんしき)は、日光修験の名残をとどめるもので、日光三社権現とその応化(おうげ)たる大黒天・弁財天・毘沙門天から御供(ごくう)を戴く儀式である。42日、三仏堂では紋服裃姿の強飯頂戴人(ごうはんちょうだいにん)が大盃の酒や三升の飯を高々と盛り上げた椀を山伏に強いられる。その姿は、とてもユーモラスとの事だ。
 ほかに、平成812月に国指定重要無形民俗文化財に指定された「鹿沼市上粕尾の発光路(ほっこうじ)強飯式」(13)、昭和382月に市指定重要無形民俗文化財に指定された「日光市生岡神社の子供強飯式」(1125)が知られている。
        
              ・所在地 栃木県日光市七里1862
              ・ご祭神 (主)大己貴命 (配)田心姫命 味耜高彦根命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭・子供強飯式 1125
 清瀧神社から国道122号に戻り、東行して日光市街地方向に進む。さすが観光名所である日光。東照宮付近には多くの観光客で賑わいも見せている。特に海外から来た観光客の人々の多さ。あらゆる国籍の方々が国道沿いの歩道を歩いている光景を見ると、ここ3年間コロナ騒動で自粛傾向にあった海外旅行も本年度から解禁となったことで、多くの方々が旅行を楽しむことができるようになり、この日光にも活気が出てきて来たのだろうと、肌で感じた次第だ。
 国道122号線を進むこと4㎞程、「神橋」交差点を右折し、東武日光線・JR日光線の各日光駅を左手に見ながら暫く直進、人通りの賑やかな街中を過ぎると、正面には巨大な杉が両側に列を成して並ぶ風景が飛び込んでくる。さすがに国道は綺麗に舗装され、所々に民家が立ち並んで杉並木がない所もあるが、それでもこの杉並木は歴史を感じるビジュアルであろう。特に「神橋」交差点から3㎞先にある「七里」交差点から先は多くの杉並木が国道沿いに見られるようになる。
 その後「七里」交差点から1㎞強先に路地があり、そこを右折し、この細い道路を道なりに進む。 当日は雨交じりの天候、賑やかな日光市街地とはがらりと変わって農道のような道路を進む心細さを感じつつも、ここは我慢して進行、日光宇都宮道路の上を進む先には開けた場所があり、そこには民家が立ち並ぶ場所の一角に七里生岡(いきおか)神社は鎮座している。
        
                  
七里生岡神社正面
『日本歴史地名大系』には 旧「七里村」の解説を載せている。
 南東へ流れる大谷(だいや)川右岸にあり、今市扇状地の扇頂部にあたる。村域の大部分を山地が占め、北部を志度淵(しどぶち)川が流れて大谷川に注ぐ。同川段丘上を日光街道が東西に通り、集落は街道沿いに続く。西は日光東町、東は野口村。村名は、村内生岡から日光山神橋(しんきよう)までが六町を一里として数えると七里であることによるとされる(堂社建立記)。南東部の生岡を含む上野(古くは上野口ともいう)は、弘仁一一年(八二〇)空海によって創建されたと伝えられる大日堂を中心に開け、中世には信仰の一拠点であった。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高七三石余。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では二〇〇石余。
        
               鳥居の手前に設置されている「
生岡神社強飯式」の案内板
 日光市指定文化財
 生岡神社強飯式
 種別…年中行事
 生岡神社は、弘仁十一年(820)弘法大師が来山し、この地に大日如来を祀った時をもって開基とする。大日堂は明治の神仏分離令により「生岡神社」の名の下に、昔ながらの氏子や信奉者の崇敬を集めている。同社に古来より伝承する神事に「強飯式」「お飯食」「春駒」の三種があり、総称して「上野の強飯式」と呼ばれている。昔は正月八日に行われたが現在は十一月二十五日に執行される。「強飯式」は子供が主役となって演じられる。
 行事の次第は、拝殿の祭典終了後、拝殿正座に太郎坊、側座に次郎坊の両名が白衣装に目籠笊をかぶって膳の前に着座する。
(強飯式)法螺貝の合図で山伏が太郎坊前に進み、目籠笊の上に藁注連をかぶせ、「コリャ、御新役、当山の作法七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう(以下略)」と口上を述べて立ち去る。つづいて独特な衣装の強力が登場して生大根で床を打ち、「コリャ、中宮祠の木唐皮(中略)生岡神社の生大根」「(前略)一杯二杯に非ず七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう」と述べて退去終了する。
(お飯食)新役両名の前に里芋を高盛りした高杯が置かれ、別当職が前に跪き、芋をつまんで新役の口元に差しだし、「お飲食に案内もん」と唱えながら三回ほど回して口にねじ込む。これを両名に三回ずつ行って神事が終了する。
(春駒)まず、木彫りの馬頭で馬身が青竹の春駒に脇別当がまたがり、別当は幣束を持って手網を取って、床を右大回りで三回跳ね回る。次ぎに太郎坊、次郎坊が春駒にまたがり、手網は脇別当が取る。最後に神前に拝礼して式が終了する。
昭和三十八年二月十三日指定 日光市教育委員会
                                      案内板より引用 
        
                     拝 殿
 七里地域・北東部の上野(うわの)に鎮座する。祭神は大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命。神護景雲元年(七六七)の創建とも伝え(旧県史)、明治初年に廃絶した生岡大日堂の鎮守であった。大日堂のある地は勝道が日光開山前に修行した地と伝え、神出現の地であるので生岡とよばれるようになったとされる(日光道中略記・堂社建立記)。「日光山滝尾建立草創日記」によれば、弘仁一一年(八二〇)二荒山に初めて登拝した空海は、九月一日「野口生岳」にとどまって大日遍照像を刻んだという。
       
         社殿奥に聳え立つご神木である「生岡の杉」(写真左・右)
        
           「栃木県指定天然記念物 生岡の杉」の案内板
 栃木県指定天然記念物  生岡の杉
 所有者 生岡神社
 昭和三十二年十二月十五日指定
 スギ科 目通周囲 約七メートル
 枝張り 東  西 約十二メートル
     南  北 約十四メートル
     推定樹齢 五〇〇年
 地上約3メートルより木末に至る間に落雷による焼胴が見られるが、樹勢は旺盛であり、県内有数の巨木である。
 この神木は非常に旧く、祭神は日光二荒山神社と同じであり、主祭神は大己貴命で、神護景雲元年(七六七)正月八日に創建されたという。
 現在の神殿は天正十八年兵火にあい改築されたものである。
 栃木県教育委員会 生岡神社
                                      案内板より引用
       
 ご神木の「
生岡の杉」の奥手には、日光市指定天然記念物である「生岡神社のエゾエノキ」もある(写真左・右)。1994811日指定。案内板に「幹・根元に見られる板状あるいは盾状の襞(ひだ)は他に例を見ない特異なもの」と記されているように、凹凸の幹が独特の陰影をこの木に与えているようだ。
        
               社殿奥に祀られている石仏像等
        
                境内に祀られている石像物群

 
生岡神社はもともと生岡大日堂という寺で、江戸時代までは日光山輪王寺の僧侶が強飯式を行っていた由緒あるお寺だったが、明治期の神仏分離令により、生岡大日堂は廃され、生岡神社のみ残った。いわば神仏習合の名残りが、この石像物等、この社の雰囲気全体に残されているようにも感じた。


参考資料「日本歴史地名大系」栃木県公式HP」「
Wikipedia」「境内案内板」等
      

  


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清瀧神社

 湯立(ゆだて/ゆたて/ゆだち)とは、神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかりの状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後に自身や周囲に振りかける儀式で、古くは神意をうかがう方式であったと思われるが、後世には湯を浄め祓う力のあるものとみなし、舞と結合して芸能化した。
 その釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称を湯立神事(ゆだてしんじ)という。ゆだち,湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)ともいう。古くは神憑り,託宣する神事であったが,現在では湯による祓禊の意味が濃くなっている。
 日光市・清瀧神社には古くから湯立神事が行われている。弘法大師が同神社を創建した820(弘仁11)年から続く伝統行事で、当初は修験者の荒行の一つとされていた。大釜で塩湯を沸かし、それに笹の葉を浸して塩湯の滴り落ちる熱湯を神職が頭上より受けるもので、この笹の葉は、家内安全と無病息災のご利益があるとされている。
        
             
・所在地 栃木県日光市清瀧 1-626-26
             ・ご祭神 (主)大海津見神
                  (配)高龗神 大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 節分祭追儺式 23日 例祭(湯立神事)515
                  秋祭り 1015日 他
 大間々町塩原貴船神社から国道122号経由にて日光方向に48㎞程進む。途中草木ダムや足尾地域の風景を愛でながら、休憩を挟んだり、のんびりとしたドライブを楽しむ。中でも草木ダム手前の桐生市黒保根町付近では、「メロディーライン」という道路に溝を作り、その上を一定の速度(制限速度)で走ると、走行音がメロディーを奏でるようにした道路があり、大体50㎞で走行すると童謡「うさぎとかめ」が聞こえてくる。このメロディーライン設置の目的は、
 ①制限速度で走らないと聞こえないから、スピード抑制効果あり。
 ②居眠り防止。
 ③土地にちなんだメロディーで、観光地をイメージアップ。
 童謡「うさぎとかめ」の曲の作詞者は、みどり市出身の石原和三郎(1865-1922)氏との事。童謡作詞家としての石原氏の業績に対し、童謡ふるさと館が開館。資料は旧花輪小学校記念館にも展示してあるというが、今回は残念ながらそこには寄らなかった。
 その後華厳滝から東方向に日光・今市の両市を流れて鬼怒川に合流する大谷川を越えたすぐ先にある「細尾大谷橋」交差点を直進し、国道122号線から離れ、北東方向に進路を取り2㎞程進むと、左手に清瀧神社が見えてくる。因みにこの「大谷川」は「だいやがわ」と読む。後日地図を確認すると、日光道・清滝ICのすぐ西に鎮座し、日光東照宮といろは坂登り口の中間に位置しているようだ。
        
           広々とした空間の中に静かに佇むというイメージ
 
  やはり世界的にも有名な観光地「日光」           入り口近くにある社号標柱
 英語表示もされ、案内板にも投資の仕方が違う。
        
             参道入り口付近に設置されている案内板
 清瀧神社
 御祭神 (主)大海津見神
     (配)高龗神 八坂神 八荒山三神 稲荷神
 祭 日  例祭 五月十五日 秋祭 十月十五日

 御神徳  延命長寿、病気平穏、厄除開運、家内安全
 特殊神事 古式 湯立神事 五月十五日
 由緒沿革
 古伝に依れば弘仁十一年(820)弘法大師空海が来晃し滝尾・寂光・生岡等と共に当社を創建した。社名は、社殿背後のお滝を含めた地形が中国大鷲山の清滝に似ているところから命名されたという。
 往時は、二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えた。お滝の御神水は、古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又社前の池は、応永十二年(1406)鎌倉官領の追討を受けた常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗面したところから、“照手姫の化粧池”と伝えている。
                                      案内板より引用
 案内板に記載されている「小栗 満重(おぐりみつしげ)」は、室町時代前期から中期にかけての武将で、常陸国真壁郡小栗を領した常陸小栗氏の当主。通称は孫次郎。官途名は常陸介という。
 小栗氏の所領は関東にありながら室町幕府の御料所となっていた中郡荘と近接しており、早くから幕府中央と関係を結んでいた。この満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後に鎌倉公方の足利持氏から所領の一部を没収されていた。これを恨んだ満重は、応永25年(1418年)・応永28年(1421年)に鎌倉府に反抗的な動きを見せている。応永29年(1422年)に宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が応永30年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てたという。

 但し小栗満重は歴史上の人物より、伝説上の人物(小栗判官伝説)として有名で、特に江戸時代には人形浄瑠璃や芝居などで一躍有名になった。
 小栗落城後、満重は実は死なず、脱出して落ち延びたという。そのとき、相模の旧知である横山大膳という人物を頼った。このとき、横山の娘・照手姫と恋仲になった。ところが横山は小栗の首を差し出して褒美を得ることを目論んでいた。そのため、宴会を開いて酒を勧めたのだが、これが毒酒だった。小栗とその部下は何の疑いも無く飲んでしまい、そして命を落とし、持っていた金品も略奪された。
 ところが満重だけは虫の息ながら生きており、部下と共に遺棄された場所で僧侶に助けられて手厚い看病を受けた。特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったという。恋仲になっていた照手姫は父の所業に悲嘆して家を出たが、追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた上で追放された。そして下女として働くことになる。
 本復を果たした満重は常陸に戻って再起を果たし、裏切った横山を討ち、下女になっていた照手姫を見つけ出して約束どおり夫婦になった。そして幸せに暮らしたという。

 史実と案内板の年代がかなりの隔たりがあるが、それは「小栗判官伝説」の説話の一つである『説経節』がその元ネタではないかと考える。
 当時僧侶や巫女たちは、一般庶民への布教のため、特に室町時代以降には譬え話や因縁話が取り入れられ、芸能化しつつ発展し『説経節』となったという。これは説経浄瑠璃とも呼ばれ、近世には語り物芸能として独立し発展した。
 この説教節『小栗の判官』には「日光山の申し子で美貌の娘である照手姫」という一文があり、そこを参照して案内板に加筆したのではないか、と思われる。
 但しこれはあくまで筆者の勝手な推測ではある
        
             長い参道の先には2基の石製の鳥居が立つ。
        参拝時は雨交じりの天候であったので、境内は全体的に薄暗い。
 また筆者の技量不足から、今回カメラの手振れ、また編集の失敗等で、ピンボケが多かった。

   一の鳥居のすぐ右側にも案内板がある。    一の鳥居と二の鳥居の間には手水舎あり。
  日本語表示の他に、英語表示もされている。
        
                     拝 殿
   
     拝殿の左側には池がある。         拝殿手前に設置されている案内板
 案内板に記載されている「照手姫の化粧池」か。

 日光市指定文化財 清瀧神社のサワラ
 種別 天然記念物
 員数 一本
 樹高 三十五.五メートル
 目通周囲 五八八センチメートル
 枝張り 東(六・五)西(六・五)南(六)北(五・六)*単位はメートル
 推定樹齢 約五〇〇年
 清瀧神社のご神木として清滝地区の人々に昔から崇められている大木である。日本のサワラの分布は福島県より岐阜・福井県の本州中部各地に自生し、さらに熊本・長崎などにも僅かな自生が知られている。サワラはヒノキに似ているが、鱗状の葉先が尖るなどの特長で見分けられる。川沿いの湿潤な土地を好む性質があり、清滝下のこの場所はふさわしい生育環境となっている。
この木は、環境省が集計した北関東の巨樹巨木調査記載の上位3本を上回る大きさであり、本県では最大のサワラと見られる。
 サワラの名は、ヒノキより材が「さわらか(軽くてやわらかい)」なことから起きたとする説がある。材は水湿に強いことから、風呂や桶などの利用に優れている。サワラはヒノキより園芸品種が多く、葉が黄色で、全国の生け垣に盛んに使われている。ニッコウヒバ(オウジンシノブヒバ)も、サワラを原種として育てられた品種である。
 平成十五年七月二十三日指定  日光市教育委員会
                                      案内板より引用

        
     社殿の後方は崖となっていて、その崖面には一筋(すじ)の滝が流れていた。
      神社の後ろに滝があるとは驚きであり、これこそご神体といえるものだ。


参考資料「栃木県神社庁HP」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「精選版 日本国語大辞典」
    「ぐんラボ」「ぐんまメロディーラインHP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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露垂根神社


        
                                                  ・所在地 栃木県佐野市富士町1007
              ・ご祭神 市杵嶋姫命 (配神) 天照皇大神 素盞嗚命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 4月第3日曜日(例祭)

 露垂根神社は栃木県道141号唐沢山公園線を佐野市市街地から唐沢山方向に北上すると、唐沢山神社の一の鳥居が見え、この一の鳥居のすぐ右手前隣に上記社の鳥居がある。ちなみに「露垂根」は「ツユシネ」と読む。鳥居のすぐ隣に唐沢山神社の一の鳥居が建てられているため、こちらはあまり目立たないのが残念で、この社も意外と立派な鳥居、長い参道、そして中々風格のある社殿があり、見どころも多い。
 駐車スペースは参道脇に数台分確保されており、そこに停めて参拝を行った。
        
                                                             露垂根神社正面鳥居
 唐沢山の登山口に鎮座している神社で、藤原秀郷が厳島神社を勧請して、この社を建立したと伝えられている。
        
                  
参道の回りは杉林があり、山水画に出そうな風景が広がる。
        
                     拝 殿
 主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)配神として天照大神(あまてらすおおかみ)、素盞鳴命(すさのおのみこと)が祀られている。
 藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐澤山に勧請。大永時15211528に笠松山の中腹に奉移し、慶長時15961615に現在の所に遷座された。明治5年、露垂根大明神を露垂根神社と改称した。
        
                     本 殿
      本殿の東、北、西側の壁には彩色鮮やかな「竹林の七賢」の彫刻がある。
        
                                境内に設置されている案内板

 露垂根神社 
 天慶5年(942年)、藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐沢山に勧請。大永時に笠松山の中腹に奉移し、慶長時に現在の所に遷座された
 明治5年、露垂根大明神を露垂根神社と改称し、村社に加えられた
 大正8年、神饌幣帛料指定村社となった
 本殿の東・北・西の三壁に「竹林の七賢」の彫刻がある
【主祭神】市杵嶋姫命  (配神)天照皇大神・素盞嗚尊       
                                    境内案内板より引用


「露垂根」という神社名の由来を調べようとしたが、どうしても分からなかった。どちらか知っている方はいないだろうか。
 
   社殿の左側にある神興庫(?)と         境内社 四十九勝神社
  その周囲には数々の石祠が鎮座している。         詳細等不明。

      

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太平山神社

 太平山(おおひらさん)は、栃木県南部の栃木市にある山で、標高は341m程の所謂低山である。太平山は「太」と書くのに対し、行政区画上属する旧大平町(現在の栃木市大平地域)は「大」と書く。これは、旧大平村が合併発足した際に、画数が4である「太」の字を忌避したためと言われている。
 栃木市の中心街から西へ約5㎞の場所に位置する太平山は、桜やあじさいの名所として親しまれている。頂上近くの謙信平からは関東平野が一望でき、眺めの良い場所からは、晴れていれば東京スカイツリーや西新宿高層ビル群、富士山を眺めることもでき、地上が霧になると霧の上から島のように付近の山々がみえることから「陸の松島」とも言われている。
 また民間の組織である日本夜景遺産事務局が選定する日本の夜景地の中で、特に芸術的価値を有すること、土地柄が表れていること、所在地に大きな文化的影響を与えていること等の8つの基準に基づいて選定されている日本夜景遺産には大平山も認定されている。
 当社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったのであろう。
        
             
・所在地 栃木県栃木市平井町659
             ・ご祭神 瓊瓊杵命・天照皇大御神・豊受姫大神
             ・社 格 旧県社  創建 827年(天長4年)
             ・例 祭 例大祭日 1018日 他 

 太平山神社(おおひらさんじんじゃ)は、栃木県栃木市、太平山(341m)の中腹にある神社で、春の桜、6月のあじさい坂の紫陽花、秋の紅葉で知られる。
『延喜式』巻910神名帳 東山道神 下野国 都賀郡「大神社」に比定される式内社(小社)の論社であり、近代社格では県社。
『諸神座記』などによれば、第11代垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現 太平山)に鎮座したのが創祀と言われている。
 古くより太平山の頂上から栃木市を見守る 1,000段に及ぶ長い表参道の石段を登ったところにある神社である。『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827年)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」という。後代、武門をはじめ多くの人から信仰を集め、特に徳川将軍家の信仰が極めてあつかったことから、社運は隆盛し、今日に及んでいる。
 神社拝殿の傍らにはたくさんの境内社があり、交通安全、安産、豊作など沢山の神様が祀られている。
                    
                    県道沿いに聳え立つ大鳥居
 栃木県道269号大平山公園線の永野川を越え、西行すると、すぐ太平山神社の大鳥居を間近くに仰ぎ見ることができる。
 この通りをそのまま直進し、國學院大學付近から右折して山間を進みながら最終的に社の近郊の無料駐車場に停めてから参拝を行った。
        
                        無料駐車場付近にある鳥居

 近道で社の近郊に到着することは出来たが、やはり正当な参拝を行うことに拘りがある為、一旦社殿等を素通りして、長い石段を下り、青銅鳥居まで到着後、改めて参拝を行った。
(本来は一の鳥居からが正しいのだが、あまりに長く、また足腰の状態も完治していなかった為、青銅鳥居からスタートした。それでも十分に険しい行程だ)
        
             青銅鳥居。その右側には社号標柱あり。 
  傾斜はさほど出ないが、長い石段が続く。   石段を上る途中には、清らかな清水が流
                        れる所があり、紙垂も添えられている。
             
                         参道途中、手水舎付近に屹立するご神木
   太平山神社の御神木(杉)。樹高 35m  目通り幹囲 5.7m 推定樹齢 1,000年。
        
                                      隋神門

 ご神木を越えると石段の傾斜が急になり、道路に面した先に隋神門がある。太平山神社への入口 太平山神社の少し下にある門。1723年、太平山神社の下に寺院があった時に仁王門として建てられたもので、 明治の神仏分離令によって寺院は別の場所に移ったが、門はそのまま残された。
 栃木市指定有形文化財 指定十六号  昭和三十六年十二月二十一日指定。
       
 隋神門を越えてから、また急勾配な石段を登り始める。左の写真はある程度登ってから下を撮影した。また登り石段の中段には社号額に「三光神社」と表記されている鳥居(写真右)がある。
        
                        石段もここで終了し、やっと神門に到着。
             やはりこの門も神仏習合の雰囲気が漂う。
        
                               拝 殿
      
    拝殿前には「撫で石」と呼ばれる大きな        拝殿左側にある社のような
    石があり、この石を撫でると災厄が祓わ         社務所
    れ、ご利益があるといわれている。

 太平山神社の境内には、4260柱あまりの様々な神様が祀られている。交通安全、金運、子授け等、様々なご利益のある場所として大切にされている神社である。それぞれが、なかなか立派なので、本殿に近い境内社から順に紹介する。
 
      本殿のすぐ右隣にある交通安全神社                その右並びには福神社
     祭神は猿田彦之神…交通安全に御利益          祭神は天之受売命、恵比寿神、大国主命
                                               …芸能上達、商売繁盛、五穀豊作等の御利益 
        
 福神社の隣には、一見お寺のような社。神仏習合の名残りとの事だ。この一つの社殿には、三社鎮座し、それぞれ以下の神々が祀られている。
・天満宮・文章学社 菅原道眞 (配祀) 思兼命
・星宮 天加加背男命 磐裂神 
・子易神社・易産社 子易大神(木花咲耶姫命)
「星宮神社」は学問成就・雷除け・豊作・芸能上達・子授・安産・女性の守護神のパワースポットとして有名である。
 また星宮の左側に小さな石祠がある。蛇神社といい、蛇神様と言う金運守護の神様をお祀りしている。
        
 星宮神社等の社の隣には3つの稲荷社が合祀された社が鎮座する。
 太平山稲荷神社、御蔵稲荷、伏見稲荷の三社で、それぞれ豊宇気毘売神、倉稲魂命、宇迦之御魂神をお祀りしている。
 また稲荷社の隣には三輪神社…大物主大神、大己貴大神、少名彦神の3神をお祀りする。
 三輪神社の右並びには足尾神社…日本武尊がご祭神。下駄が奉納されている足の神で、天狗様としても信仰されている社。
 
 足尾神社の隣には八社が長屋状態に祀られて,「皇大神宮・稲荷神社・厳島神社・上宮神社・天満宮・大杉神社・織姫神社・浅間神社」が祀られている。(写真撮影は出来なかった)

 
 八合祀社の隣に鎮座する愛宕神社・八幡神社(写真左)。愛宕神社は、火之迦具土神を祀っていて、火除け、盗難除けに御利益があり、八幡神社は、誉田別尊、比売神、神功皇后の3神を祀る勝負運に御利益がある社である。
足尾社の参道を挟んだ展望台側には神馬社(同右)。神様の乗り物である神馬がいる社で、中には木造の馬の像が安置されている。

        
                    太平山神社の展望台からは関東平野が一望できる。

 嘗て戦国時代、関東管領上杉氏を襲名した戦国武将上杉謙信がその眺望の見事さに感嘆したことから「謙信平」とも呼ばれている。眺めの良い場所からは、晴れていれば東京スカイツリーや西新宿高層ビル群、富士山を眺めることもでき、地上が霧になると霧の上から島のように付近の山々がみえることから「陸の松島」とも言われている。


 また太平山神社の元々お祀りされた神様は奥宮(剣之宮・武治之宮)に鎮座されていて、歩いても5分程の近い場所に鎮座している。但し時間の都合上参拝は出来なかったので、案内板の紹介のみしたいと思う。

太平山神社奥宮(劔宮(つるぎのみや)・武治宮(ふじのみや))
ご祭神】天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)
ご神徳】天下太平・製鉄関係の産業の発展・諸願成就
 天目一大神は、垂仁(すいにん)天皇の御世、東国を平定するために太平山に鎮座されました。武徳を以て国土を護治する天目一大神が坐す太平山神社の奥宮は「武治宮」と呼ばれました。また、天照大神の窟隠れのときに天利霊劔を造作した神様でもあるため、劔宮とも呼ばれました。劔を作って神威を助けたところから、悪を制して善を育み、世の中を良くするご神徳があります。鋳物や製鉄関係の産業の安全・発展をおまもりする神様でもあります。
                                      案内板より引用



参考資料 「栃木県観光協会HP」Wikipedia」「日本夜景遺産 公式サイト」等
          

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