古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

井椋神社、畠山重忠史跡公園

  井椋神社が鎮座する荒川中流域一体は櫛引台地、江南台地が南北に展開し、荒川南岸の台地上には鹿島古墳群、出雲乃伊波比神社、塩古墳群、小被神社、鉢形城、稲乃比売神社等、多数存在する。荒川は「荒い川」と古来からの呼称だが、この中流域南岸は比較的平穏な場所だったようで、名社、式内社が点在し、古代において発達した地域だったと思われる。
 郷土の歴史上の人物が少ない埼玉県内にあって、井椋神社は畠山重忠ゆかりの神社であり、畠山重忠は日本史上燦然と輝く人物である。この深谷市川本地区ではこの人物が郷土を代表する歴史的有名人であることに違いなく、坂東武士の鏡として今日まで崇敬され、忠義に篤く、質素を好み、礼儀正しく廉直、桁外れの怪力、先を読み機を見るに敏な知略、頼朝の大きな進軍の先陣をことごとく務めた風格、資料からは欠点など微塵も見当たらない正に伝説の名将である。この人物が生まれ、成長した場所が深谷市「畠山」なのだ。
所在地    埼玉県深谷市畠山942
主祭神    猿田彦大神他四柱(武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神)
社  格    旧村社 
       
由  緒    江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定
例  祭    10月15日 秋祭り 、浦安舞

  
地図リンク
 井椋神社は県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、荒川を超え、最初の信号を右折する。そして約500メートル位道なりにまっすぐ進むと、右側に井椋神社の鳥居が見えてくる。深谷市(旧川本町)畠山にある畠山重忠ゆかりの神社だ。駐車場は周辺を見回してもなかったので、鳥居の脇の農道に一時駐車して参拝した。

 ちなみにこの「井椋」という神社名の由来は本社である秩父市下吉田にある椋神社に関連している。

 景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越え、この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。ゆえに現在、井椋様と呼ばれ親しまれているという。
 
   一の鳥居は満福寺の東側にあり、そこから二の鳥居まで北方向に300m程参道がまっすぐ伸びている。この満福寺は白田山観音院満福寺といい、真言宗豊山派のお寺で、鳥羽天皇の御代に弘誓房深海上人が開いたと伝えられていて、後に畠山重忠が寿永年間に再興して菩提寺としたという。畠山重忠の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若教、御朱印状等が伝えられているそうだ。この井椋神社と満福寺両社寺は神仏習合の時代には神宮寺、境内社の関係にあったものと思われる。

              二の鳥居の横にある案内板
井椋神社(いぐらじんじゃ)
 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。
 初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。
 祭神は、猿田彦大神のほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。
 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。

 荒川のすぐ南岸に位置する地形のためか、洪水対策のための石垣が至る所に組まれている。が、拝殿には特に頑丈な土台はない。

                     拝   殿
 畠山重能が秩父から畠山に移ったとき、秩父市吉田にある椋(むく)神社を勧請したと伝えられていて、椋神社は代々の秩父氏の守り神として尊敬され、井椋神社も畠山氏の守護神であったと推定されている。
 また境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神さまである蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社などがある。
 
         境内社:蚕影山神社              八坂神社、天神社、日吉神社、諏訪神社
                                               八幡大神
  
              白旗八幡神社              社殿裏手右側にある浅間神社。奥に小御嶽神
                                           社と食行身禄霊神の石碑あり。
  また神社の社殿の裏の荒川断崖には、「鶯の瀬」の碑が建っている。重忠が家臣の元へ出掛けてその帰路、雨に逢い洪水で荒川を渡れずに困っていると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれて、無事に河を渡ることが出来たと言い伝えられている。その浅瀬がこの辺りで、「鶯の瀬」と呼ばれてきたという。
 
鶯の瀬

 荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。
 ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。
  時ならぬ岸の小笹の鶯は
   浅瀬たずねて鳴き渡るらん
 また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。
              


畠山重忠史跡公園
 地図リンク
  井椋神社から南東に1km弱、満福寺から斜めに行くとほぼ2,3分足らずで畠山重忠史跡公園に到着する。大里郡神社誌には「五輪塔 六基あり。その一は重忠の墓にして、その他は家臣隷属の墓なり。傍に嘉元二年(1304)卯月九日の建造に係る追福の碑あり。また明治二三年、里人 重忠公の智勇兼備の徳を追慕し、相謀りて記念碑を建つ。所謂 畠山重忠の館跡と称するものこれなり。今なほ残塁を存す。大正一三年二月二五日、埼玉県より古蹟保存を指定せられたり」と記載されている。

  秩父郡の吉田町を本拠地とする秩父氏の嫡流である一族が男衾郡畠山に居を構えたのは、武蔵国留守所総検校職である秩父権守重綱の孫に当る重忠の父畠山庄司重能の代とされている。重忠は当初はこの地を本拠地としていたが、その後菅谷の館に本拠地を移すこととなったようであり、討ち死にを遂げることとなった二俣川の合戦の際には元久2年6月19日菅谷館から出陣したと吾妻鏡には記されている。

一ノ谷の合戦で活躍したとされる馬を背負う畠山重忠の銅像が駐車場の正面に位置

     畠山重忠がが生まれた時につかったという井戸が残されている。

畠山重忠公産湯ノ井戸

 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(元大里郡川本町畠山)に館を構えました。のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります

             
畠山重忠公の墓
 鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(一一六四年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に秩父庄司次郎重忠となった。
 剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(一二○五年)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
 この畠山館跡には、重忠公主従のい墓として六基の五輪塔がある。
 また、館跡には嘉元二年(一三○四年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている

        板石塔婆(昭和三十九・八・三十一指定)
  主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)
 記年銘 嘉元二年甲辰(一三○四年)卯月(四月)九日
 周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
 畠山重忠公が元久二年(一二○五年)六月二十二日、横浜二股川で戦死の後、百年忌に当って供養のため建立されたものと伝えられる。


拍手[2回]