古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

籠原南諏訪大神社

 JR高崎線の熊谷駅と深谷駅の間には「籠原駅」がある。熊谷市の西部に位置し、深谷市との境界地にも近い所に立地している。この駅には車両基地(籠原運輸区および高崎車両センター籠原派出所)があり、この駅を基点として「上り」の際の連結、「下り」の際には切り離しを行う利便性のある駅でもある。同時に籠原駅始発の車両も多く、籠原駅近辺の住民の方々、特に行政上深谷市に居住している方々も、深谷駅よりこの駅を利用する方が多いのも事実である。
 不思議な事だが、この「籠原」という名称は、駅名であって、つい最近まで地域名としては存在していなかった。というのも、開業当初の所在地名である大里郡玉井村大字新堀から「新堀駅」と名づけられる予定であったが、同じく貨物駅を兼ねてあった東京都の日暮里駅と混同される恐れが出てきたため、付近の小字名を取って籠原駅と名づけられたという経緯がある。但し、正式に言うと小字名の「籠原」は、「こもりはら」と読む。
 開業以来長らく(表に出る)地名と駅名が合致しない状態であったが、熊谷市民や近隣住民は駅一帯を指して「籠原」と意識してきた。そこで、2007年(平成19年)10月、籠原中央第二土地区画整理事業により当駅南口ロータリー以南の一定区域の地名が「籠原南」(1 3丁目)に変更され、初めて「籠原」が市名の直後に来る表の地名となったという。
 この籠原駅南口を降りたすぐ右側に籠原南諏訪大神社は静かに鎮座している。駅南口繰りの再開発により綺麗に整えられた景観の中に、この社はうまく調和している。それどころか、まるでこの地域の方々のみならず、駅を利用する人々に対しても「守り神」の如き存在感がそこにはある。そういう意味において、この社がそこに存在するだけで、筆者としては畏敬と感謝の念を感じずにはいられない。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市籠原南1200
             
・ご祭神 建御名方神 菅原道真 建速須佐之男命
             
・社 格 旧新堀村鎮守 旧村社
             
・例祭等 四方拝 13日 節分祭 23日 例祭 415
                  
八坂祭 719日~20
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.1755138,139.3287224,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線籠原駅南口手前のすぐ左側に鎮座する。通勤、通学で多くの乗降客がこの駅を利用していて、かくいう筆者の居住地もこの籠原地域である。当然籠原駅は通勤で利用させて頂く中で、この社の存在も当然知っているし、何度か参拝もしているが、ブログという形で今まで紹介していなかったことを反省している。灯台下暗し、とはこのことだ。
 専用駐車場はないので、早朝散歩がてら、自宅から徒歩にてこの社に参拝を行う。
        
                           
籠原南諏訪大神社正面
          この写真のすぐ左手には籠原駅南口の自由通路がある。
 籠原南諏訪大神社が鎮座する地は嘗て「新堀村」と呼ばれ、『日本歴史地名大系』によれば、≪北は中山道を境に玉ノ井村・東別府村・西別府村。東の高柳(たかやなぎ)村との境となっている荒川の旧河道は古堀(ふるぼり)といわれ、地内には同名の小字も残る。「郡村誌」に「慶長の頃村の中央奈良堰用水新に成を以て新井堀村と改称し、後新堀村と改称す」とあるように、古堀に対して奈良堰(ならぜき)用水を新堀と称したのが村名の由来であろう≫と記載されている。
 
 正面入り口を過ぎてすぐ左手に庚申塔・青面     庚申塔等の石碑の右並びには
     金剛・弁才天等が並ぶ。        この社の年間祭事表も掲示されている。

『籠原』という字名の由来に関して、「新編武蔵風土記稿」によると、籠原は新堀村の小字であり、当時は「かごはら」ではなく、「こもりはら」と呼ばれていた。こもり原の「こもり」は、沼地の意味があり、一帯が湿地であったことから、この地名がおこったと推測されている。
        
                           参道を進む途中にある手水舎と鳥居
 境内は決して規模が大きいわけではない。しかし、冬でも落葉しない常緑樹の多い社叢林が境内に日陰部をつくり、それ程奥にはない社殿を覆い隠すシェルター的な作用を引き起こしていて、目を凝らさなければ暗くて奥の社殿は見えない。それが多く社叢林のある社の神秘性、神聖性を醸し出す一つの要素でもある事だともいえよう
       
          鳥居のすぐ先に聳え立つイチョウのご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 往古、諏訪神社を祀った当地は沼の岸であった。『古事記』に、長野県の諏訪湖は「州羽海」と書かれている。州は浅瀬を、羽は端を表している。八ヶ岳から諏訪湖に流れ入る土砂が造った沃地が諏訪である。また、諏訪神社の祭神建御名方神の御名方は水潟であり、水の神様である。土地開発は水によってなし遂げられる。
 古代の当地は、恐らく諏訪に似た所であり、当社は諏訪地方から当地に入り、開発を進めた人たちにより祀られたものであろう。これを、草分けの森田家では、後世、武田信玄の盛名によってだろう、「森田は、武田家ゆかりの家」であるとして今に伝えている。
 当地は、古くは畑村と称していたが、慶長年間(15961615)に奈良堰用水が新設されて、新堀村と改称している。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
           拝殿手前には樹勢良好なシイの御神木が天空を覆い、
           早朝にも関わらず陽光を遮断している(写真左・右)。
        
 ブログ編集時に気付いたが、拝殿前に立つ二本の巨木が、意図的に寄り添い社殿を覆い、まるで隠しているようにも見える。
        
                   拝殿前にある「諏訪大神社の沿革の沿革」の案内板
 諏訪大神社の沿革
 一、村社諏訪大神社の創立 不詳
 二、村社として届出 明治四年四月七日
   大里郡玉井村大字新堀字諏訪前七五六番地
 三、無格社で八坂神社、菅原神社、山神社、明治四十二年四月一日合祀
 四、祭神
 一、建御名方命(たけみなかたのみこと) 稲、水の神 諏訪神社
 二、建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと) 武芸に猛けた勇ましい神
 三、菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 学問の神 天満宮
 四、山神社
 昔、当社の地形は恐らく長野県の諏訪地方とよく似たところであり、諏訪地方から当地に移り住んだ人達が開発を進め、祀ったものであろうと言われている。昔、当地方は畑村と称し、農学が盛んに行われていた。たまたま慶長年間に奈良堰用水が新設されて新堀村と改称された。
 又、拝殿に掲げてある社号額の裏に「坊こう嬢疫」と記された稲の神としても祀られ広く親しまれてきた。
                                      案内板より引用

 
  拝殿の向かい側にある万燈神輿庫と神輿殿     万燈神輿庫と神輿殿の並びに建つ社務所
 
   境内社・天満宮、その脇に石祠あり。     天満宮の左並びにある石碑・燈籠等。
        
                               社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「籠原公民館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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