古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸谷塚諏訪神社

 
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市戸谷塚町335
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線沿いに鎮座している福島町八郎神社から300m程西方向に進むと「戸谷塚町住民センター」があり、その南側に隣接して戸谷塚諏訪神社は鎮座している。社と戸谷塚町住民センターの間には十分すぎる駐車スペースがある。
        
                 戸谷塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系 』「戸屋塚村」の解説
 利根川左岸にある。外屋塚とも記す。寛文二年(一六六二)の大水により、村の中央で南北に分断された。柴町・中町の南に位置し、東から南は下福島村、西は利根川を挟み沼之上村(現佐波郡玉村町)。寛永二年(一六二五)当村六一石余が渡辺孫三郎に、一五〇石が石丸六兵衛尉に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では高六五二石余ですべて畑方、前橋藩領・旗本渡辺領など四給。元禄郷帳では幕府領・旗本藤川・渡辺領の三給。近世後期の御改革組合村高帳では家数三七。日光例幣使街道柴宿の助郷高九二石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。
       
                            戸谷塚諏訪神社正面の両部鳥居
       
                    拝 殿
 由緒等を記した案内板は見当たらないが、建久4年(1193年)に鎌倉幕府の政所初代別当・大江広元の庶子である那波宗元(大江政広)が那波郡佐味郷を領有した際に、信濃国の諏訪大社から勧請したのが創祀といわれる。
 那波氏(なわし)は、日本の氏族のひとつ。上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市、佐波郡玉村町)によった武士で、藤原秀郷系と大江氏系の流があった。
 那波郡に先に入ったのは藤原秀郷の子孫の那波氏である。藤原秀郷の子孫で佐貫成綱の子・季弘を祖とする。保元の乱には那波太郎季弘が源義朝軍に参加したが、元暦元年(1184年)那波弘澄(広純)が源義仲にくみして戦死し、一族は衰亡する。
 その後、藤姓の那波氏に代わって那波郡を領したのが大江氏系の那波氏で、大江広元の庶子である大江政広(那波宗元)を祖とする。『系図纂要』では、藤姓那波氏の那波弘純の子・宗澄に子がなかったため、政広は弘澄の娘婿となって那波氏を称したという。
[上野國志 智那波郡]
 按二、昔時那波氏二家アリ、一家ハ藤原秀郷ノ後、淵名大夫兼行ガ二男成綱ガ子那波二郎季廣ト云、其子ヲ太郎廣澄ト云、〈泉竜寺ノ開基ナリ〉其子家澄孫景澄ノ後聞ルコトナシ、〈東鑑建久六年二、那波太郎アリ、コレ広澄ナルベシ、又那波彌五郎ト云アリ、コレラ藤氏ノ那波ナルベシ、大江氏ノ那波ハ、年代ヲ以計ルニ、コレヨリ後ノ封ナルベシ、又考ル二、大江廣元ガ三男政廣、始封ヲ那波二受ク、政廣兄弟ノ次弟二於太郎ト称スルコトナルベシ、〉一家ハ大官令大江廣元ガ第三ノ子掃部助政廣、〈始名宗元〉始テ頼朝卿ノ封ヲ受テ那波ヲ領ス、其子左近大夫政茂、関東ノ評定衆タリ、ソレヨリ子孫相続シテ那波ヲ領ス、〈又按藤氏ノ那波衰微シテ、後二大江氏ノ那波其地ヲ兼子併セシナルベシ、)
今ノ村落四拾四村、租入貳萬千八佰拾参石参斗壱升貳合、
        
          拝殿向拝部、並びに木鼻部の細やかな彫刻が眼をひく。
        
                    本 殿
          本殿彫刻は武州下手計出身大谷政五郎秀国という。
 江戸の中期から後期にかけて、渡良瀬川に沿った「あかがね(銅)街道」と、「日光例幣使街道」沿いには、日光東照宮や妻沼歓喜院聖天堂の彫刻に携わった上州彫刻師集団が存在していた。その中でも上州花輪(現在の群馬県みどり市花輪)出身で、徳川家の公儀彫刻師で石原家、後藤家、石川家、小沢家などの流派を起こし徳川家ゆかりの寺院(増上寺および寛永寺)の霊廟に装飾彫刻を施したという高松又八(?~1716年)の弟子たちは、妻沼の聖天堂をはじめ、北関東を中心に多くのすぐれた作品を残している。
 大谷政五郎秀国は、深谷市下手計出身の彫刻師で、高松又八の弟子たちの一人である。秀国の他、正信とも名乗る。師匠は初代・磯辺儀左衛門信秀。埼玉県の小川町にある八宮神社では二代目・石原常八主信を大棟梁に、脇棟梁として大谷政五郎の名前が記されている。
 大谷政五郎関連の作品として、安養院地蔵堂(深谷市高島)、妙光寺本堂(深谷市下手計)、源勝寺(深谷市岡部)、平石馬頭尊堂(秩父市吉田久長)、八宮神社(埼玉県小川町)、摩多利神社(熊谷市妻沼)、慈眼寺(甘楽郡南牧村)、蛭川家の大黒天(深谷市下手計)等のほか、戸谷塚諏訪神社の本殿彫刻にも携わっている。
        
             本殿奥に祀られている末社群、庚申塔等
        
           戸谷塚町住民センターの駐車スペースから社殿を撮影   
        
       社の正面鳥居の左側には「日露戦争記念碑」が溶岩塚上に建っている。

 ところで、日光例幣使街道と利根川に挟まれた戸谷塚地域内で、戸谷塚諏訪神社のすぐ東側に「観音寺」があり、そこには、「浅間山大噴火の供養塔」や「夜なき地蔵」が祀られている。
        観音寺全景             観音寺の境内に建つ供養塔等
 1783 (天明3 )78日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った大悲惨事をひきおこした点において有史以来郷土としては最大の天災であったと言われている。急に泥流に押し流された吾妻川沿いの人々は家もろとも利根川に押し出された。局熱の泥流に加えて酷暑の夏のことだったから、その死骸はほとんど腐乱して下流のあちこちにうち上げられたものが少なくなかった。特に伊勢崎市戸谷塚区域の利根川浅瀬一帯には多くの死骸が打ちあげられた。この地区も被害を受けたが気の毒なこれらの無縁仏を手厚く葬ったそうだ。夜になると死人のうめき声がするのでよく成仏できないと思い、戸谷塚の人たちは身銭を出しあって1784 (天明4)年11月に地蔵様の供養塔を建立した。するとうめき声がしなくなったと言われている。伊勢崎市長沼町にも供養塔が、境町中島にも流死者の墓がある。
 今でも観音寺のお祭りの旧109日に供養塔の祭りもするため、被害者の多かった鎌原•長野原町から供養に見えるという。
 また供養塔の地蔵には赤いおかけがかけてある。周辺地区で泣きぐせのある赤ん坊の家はこの赤いおかけを借りて赤ん坊につけると泣くのがやんでしまうという伝承がある。 
        
              「浅間山大噴火の供養塔」の案内板
 浅間山大噴火の供養塔
 天明三年(一七八三)七月八日(新暦八月五日)、浅間山の大噴火が起こり、吾妻郡鎌原村は、一瞬のうちに埋めつくされてしまいました。火口から流れ出した火砕流は、吾妻川から利根川へと流れ下りました。
 このときの噴火で、利根川べりの戸谷塚村にも多数の遺体が打ち上げられました。村の人々は、この遺体を手厚く葬りました。
 しかし、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたので、無念の死をとげた人々の霊を慰めようと、天明四年十一月四日に地蔵尊を建立したところ、泣き声はやみました。この地蔵尊は「夜泣き地蔵」と呼ばれ、今でも大切に祭られています。
 平成十七年三月  
 例幣使道まちづくり会議
                                      案内板より引用




参考資料「上野國志」「日本歴史地名大系」「日光例幣使街道HP」「Wikipedia」
    「戸谷八商店HP」「境内案内板」等

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