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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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下忍神社

 
 下忍神社が鎮座する行田市下忍地区は、その昔、忍城の下(外れ)といい戦国時代以前からの名称であったそうで、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
 この「忍」という地名は戦国時代以前よりかなり古くからこの地方で使用されていたようだ。その由来として忍は磯辺(オシベ)の転化とか、鴛(オシドリ)がすんでいたからであるといわれ、河川や沼地が多かったこの地らしい口伝がある。また文献上では鎌倉時代の東鑑という本に忍五郎、鴛三郎が活躍していることが出ているから、その当時から用いられていたのだろう。そして1050年頃、忍氏がこの地域を開拓し、「忍荘」として交通の要路となったと言われている。
 またこの社は古くから久伊豆社と称して鎮座していたと伝えられ、旧下忍村の鎮守となっていた。明治2年村社に列格、高畑の塞神社、東谷の天神社をを合祀、明治42年に下忍神社と改称、さらに同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を合祀したといわれる。
所在地   埼玉県行田市下忍1160
御祭神   大己貴命
社  挌   旧村社
例  祭   不明
 

         
 下忍神社は下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北方向に進む。道なりに進み、途中県道と別れる変則的な十字路を直進する。そのまま北上すると4,5分くらいで左側に下忍神社が鎮座する場所に到着する。駐車スペースは神社の南側にあるのだが、入口付近は鎖で塞がれていていたので、北側に路上駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                            下忍神社 正面
 
            右側には手水舎                                           拝殿の手前にある力石
           
                              拝    殿
 
  拝殿上部にある「久伊豆神社」と書かれた扁額                拝殿内部
           
                             本    殿
下忍神社の由来 
 「武蔵志」には「下忍、境地ノ南ニテ士町足軽町アリ」と載せ、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
当社の創始は、口碑に「下忍神社は晋、久伊豆社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党の氏神で、私市城の鎮めに祀った社である」というが、私市城との関係は明らかにできない。また「明細帳」には「昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々」とあり、「風土記稿」には「久伊豆社 村の鎮守とす、明光寺持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治2年に村社となり、同3年高畑の塞神社を境内に合祀し、同42年には東谷の天神社を本殿に合祀して、社号を下忍神社と改める。更に、同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を境内に合祀する。
合祀社のうち塞神社は、古くは道六神と称し、既に「慶長13年検地水帳」(島崎隆家所蔵)にその名が見えることから古社であることが分かる。また、琴平神社は、旧別当明光寺の本山、行田遍照院の金毘羅大権現であり、神仏分離により下忍飯田萬吉家に移され、次いで当社に合祀したものである。内陣に、「弘化四年開眼供養」の墨書がある金毘羅権現像(24cm)を安置している。
                                         埼玉県神社庁 「埼玉の神社」より引用

 この下忍神社の隣には明治2年に合祀した高畑の琴平神社が二社並列という形で鎮座している。
          
                        合祀社 琴平神社正面
            
                           琴平神社 拝殿
 

   下忍神社と琴平神社の間にある石祠群        琴平神社の拝殿手前にある「新川早船絵馬」 
                                               の案内板
新川早船絵馬
  本絵馬は明治6年に琴平神社に奉納されたもので、江戸時代から明治初頭頃にかけて賑わった新川河岸に関わる人々が奉納したものである。
絵師は岩田霞岳で、中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれ、下半部には奉納者の名前と国・村名が列記されている。当時の荒川舟運や新川河岸の様子、金比羅信仰の様相等を示す貴重な資料である
                                           行田市教育委員会掲示板より引用
   
 この絵馬は、明治6年(1873)に琴平神社(下忍神社境内)に奉納されたもので、作者は絵師の岩田霞岳(かがく)、願主は芝崎鉄五郎です。桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。新川とは新川河岸(かし)の事で、寛永6年(1629)の荒川開削以降に開かれ、主に忍藩の年貢米や御用荷物の運送で賑わいましたが、鉄道の開設により衰退し、大正末頃には消滅してしまいました。
 画面中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれており、船、問屋の家屋、波頭が見事な筆致で描かれています。下半部には本絵馬の奉納者の名前と国・村名が列記されていますが、その構成は埼玉県の外、栃木、千葉、茨城、群馬県にまで及んでいます。奉納者は、問屋仲間や船頭仲間として新川河岸とつながりのあった者と考えられ、彼らが商売繁盛と航行の安全を祈願して、船運の神として信仰されていた琴平神社に奉納したものと思われます。当時の船運、新川河岸の様子や金比羅神社信仰の様相を示す貴重な資料です。
                                           行田市教育委員会掲示板より引用

 新川早船絵馬は荒川の新川河岸の様子を描いた絵馬であり、行田市指定文化財(歴史資料)となっている。
 新川河岸とは現在の熊谷市久下付近の荒川に明治初期まであった、河岸場(やっちゃば、舟運の荷降しのための中継所)である。荒川からはかなり遠方である下忍村にまで、舟運関係者が在住していたようで、この絵馬は当時の新川河岸の規模の大きさと賑わいぶりを示している。

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