古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

忍東照宮

 東照宮は、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。
 江戸幕府によって建立された栃木県日光、静岡県久能山などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。
 当初は東照社、東照大権現などと称していたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、以降は東照宮と称するようになった。その後明治時代以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。
 忍東照宮は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した頃に創建されたとも伝えられている。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座、明治期には村社に列格した。
所在地   埼玉県行田市本丸12-5
御祭神   徳川家康公、松平忠明命、八幡大神
社  挌   旧村社
例  祭      4月17日

       
地図リンク
  忍東照宮は国道125号を熊谷市から行田市方向に進み、忍城、及び行田市郷土博物館の国道を挟んで北側、道路沿いに鎮座している。但し国道沿いには専用駐車場はなく、忍東照宮の北側「諏訪曲輪御紋跡」の石碑のある場所に十数台停めることが可能な専用駐車場はあるが、細い道を通るので初めての方には分かりづらいかもしれない。またこの北側の駐車場は社の裏手に位置するため、そこから参拝するためには一旦行動沿いにある正面にあたる鳥居まで遠回りをしなければならない。時間があまり無かったので今回は失礼ながら境内を突っ切り一旦正面にあたる鳥居まで小走りに通り、改めて参拝を行った。
          
                         忍東照宮正面一の鳥居 
                    
                  鳥居の先やや右側には御神木が聳えている。
 当社の鎮座は後鳥羽天皇の建久年間(1190)に忍三郎ら忍一族が創建したという。成田親泰が忍城を構築した際に当社を城鎮守とした。
 文政6年(1823)に松平忠堯が伊勢桑名から移封するにあたり東照宮と桑名鎮守の多度・一目連社を勧進。これらは明治6年に当社境内に移されるとともに、その他の社を配祀した。
 社殿は昭和26年の造営。村社。
 照宮祭神: 徳川家康命・松平忠明命・八幡大神
 忍東照宮は家康の娘、亀姫が父の肖像を頂き、それを子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山城で社殿を造営したことに始まっており、のちに当社に合祀された。
            
                      
                         二の鳥居から拝殿を撮影
  忍東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座した。代々100石の社領を拝領していたが、明治維新に伴い、明治7年当地へ移っている。
                                  
          
                             拝   殿
             社頭の扁額は、芝東照宮と同様に、16代徳川家達公筆。
忍東照宮
 当社は、家康公の娘、亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦の折、大坂蔵屋敷内の東照宮を、当社に合祀した。
 社領は、郡山当時より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は、埼玉古墳群の辺りであったと・伝えられている。
 明治4年(1871)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士ら相計り、同7年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の忍東照宮境内一隅に本殿を移し、同33年に藩祖、松平忠明公を配祀した。現在の拝殿は昭和五年の造営である。
                                                    境内案内板より引用
                               
  案内板によると忍東照宮は、家康公の娘・亀姫が父の肖像を譲り受け、それを自分の息子・松平忠明公に譲ったものを安置するため、1625年(寛永2年)大和国郡山城内に社殿を造営したことがはじまりであると伝えられている。それ以降、東照宮は藩主によって祭祀され、松平家が移封されるたびにその都度遷座され、1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦いの折、大坂蔵屋敷にあった東照宮を忍(おし)城内の下荒井に合祀した。
 1871年(明治4年)松平家が東京に移住することになり、廃社の憂き目に遭ったが、旧藩士たちの尽力により、1874年(明治7年)下荒井から本丸の一部であった諏訪郭(くるわ)内の諏訪神社の境内に本殿を合祀することで難を免れたという。つまり、もとからあった諏訪神社の境内に、東照宮が移された、ということのようだ。
                
                     諏訪神社に隣接した二の丸稲荷社
 
          多度社・一目蓮社                  多度社・一目蓮社の案内板
境内社多度社・一目蓮社
 御祭神 天津彦根神、天目一固神
現在の場所より西北に200m程の所に文政6年(1823年)、松平忠堯は、伊勢国多度山より城内に勧請。当時の境内は300坪程あり、例祭(5月5日)には神楽殿で「能」が演じられたという。
忍藩は忍宝正の名があり、宝正流の能が盛んだった。
明治6年、現在地に遷座。
折雨や海上の風難、水火の災いに霊験あるとされる。
                                                        案内板より引用


 
  

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