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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

谷郷春日神社

  谷郷春日神社は、忍城主成田下総守親泰(天文14年、1545年没)が忍城を攻め落として忍領主となった際、成田氏の祖藤原氏の氏神大和春日大社を勧請、創建したと伝えられる。ちなみに「谷郷」は「たにごう」ではなく「やごう」と読む。「熊谷、深谷」をそれぞれ「くまがや、ふかや」と読むようにこの「谷」は東日本では「や」と読み、関西等西日本では「たに」と読み方が違うそうだ。
 谷郷春日神社は、江戸時代には谷之郷村鎮守になっていた他、明治5年に旧村社に列格、明治41年には堀の内町の愛宕社、上谷町の神明社、飯倉町の白山社、新田町の天神社を合祀している。

所在地   埼玉県行田市谷郷395
主祭神   武甕槌命、齋主命、天児屋根命、比売神。 (相殿) 菅原道真
社  挌      旧谷之郷村鎮守、旧村社
例  祭   8月19日


       
地図リンク
 谷郷春日神社は、国道125号バイパスを羽生方面に向かい、行田総合公園前交差点を右折してそのまま道なりに真っ直ぐ進み(かすが緑道という)、約5分くらいで右側にこんもりとした社叢が見えてくる。駐車場は神社の北側隣に社務所があり、そこに一時駐車し参拝を行った。
            
          
 
          谷郷春日神社参道                    鳥居の前にある神橋
 
 忍城主成田下総守親泰(天文14年1545年没)が忍城を攻め落として忍領主となった際、成田氏の祖藤原氏の氏神大和春日大社を勧請、創建したと伝えられる。この谷郷地区と少々はなれた佐間地区の天神社の二つ地は、忍城の堀の水管理の上で重要な場所であり、さらにここ谷郷春日神社の地は城の守備の面からも、絶対死守が求められる最重要地点であったため成田氏の重臣正木丹波守がこの地に邸宅を構えていたという。
           

 埼玉県神社庁「埼玉の神社」による谷郷春日神社の由緒

 当社は忍城主成田下総守親泰が、氏神として大和の春日神社から勧請したもので、成田氏は遠く藤原氏の流れをくむ家柄と伝える。親泰は成田氏15代目で、児玉重行が居斌する忍妹を文明年間に攻め、児玉氏を追い本拠を成田館から忍城に移している。そのため、当社の創建もこのころかと思われる。社の裏の森陰には大樋が設けられ、これを閉めると忍城の堀と沼の水源が断たれ、佐間の天神社の沼尻の樋を開放すれば水は放出されやはり城の回りの水は干上がる。このため、この地には成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えて、城を守護していたのである。このように春日神社は、成田氏の氏神ばかりでなく忍城の守りの要であった。
祭神は武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神の四柱である。本殿は一間社流造りで、内陣中央には宮型の厨子があり、向かって右側に木造の神像(表面磨滅のため碑名等不明)、左側に正徳元年10月吉祥日の柴燈護摩供社中安全札がある。これには法王山定院とある。山道院は本山派修験で春日山勝軍寺と号し、神仏分離まで当社の別当を務めていた。

 春日の神の神使は鹿で、成田氏が藤原の家筋であることから、当社勧請以来毎年二頭ずつ神鹿が春日から送られてきて、村人は神の使いとして大切に鹿を育てた。この鹿については次のような話が伝わる。ある時、いつものように畔を通り春日様の鹿がやって来た。この時、近くで田を耕していた青木某が鹿を捕らえてやろうと悪戯心を起こして手に持っていた鋤を、走る鹿にめがけて投げつけた。鹿は血を流しながら、神社の杜に逃げ込んだ。翌朝、鹿が杜の中で死んでいるのを発見した村人は、手厚くこれを葬り墓石を立てた。その後、青木家に夜盗が押し入り、乱暴な青木はこれに立ち向かったところ、賊は恐れをなして逃げ出し、青木は刀を抜いて後を追いかけた。この時、小溝を飛んだ拍子にどうしたわけか転び、はずみで持っていた刀で脇腹を刺し落命した。不思議にも鹿の傷ついた所と同じ場所なので、村人は鹿を殺した神罰だと語り合い、奈良からの鹿も来なくなった。現在社殿右手にある鹿社の祠には「御使鹿」とあり、宝暦12年4月と刻まれている。

 拝殿の奉納額を見ると、天明6年の柳川儀助奉納の大絵馬「酒造りの図」があり、また、伊勢参宮もよく行われたらしく、嘉永3年と安政4年の「伊勢参宮の図」の大絵馬がある。

 明治に入り、当社は山定院より離れ神職が奉仕するようになり、明治5年には村社となった。合祀は明治41年に実施され、堀の内町の愛宕社、上谷町の神明社、飯倉町の白山社、新田町の天神社を境内に合祀した。

                       
                                                        谷郷春日神社の御使鹿
 地方にある春日神社の中でも格式が高く、明治前まで『御使鹿』が、奈良の春日神社から贈られ、放牧されていた。

 
                                   神楽殿 脇障子には、雄雌一対の鹿が彫刻されていた。

           
                              拝   殿
 谷郷春日神社に関して伝承があり、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されている。熊谷市千代地区に鎮座する飯玉神社同様、日本国に点在する片目伝説と関連したものだろうか。とするとここにも古代鍛冶集団の影を感じてしまう。

           
           綺麗に修復された谷郷春日神社 境内社 八幡社、天神社、白山社、神明社、愛宕社等


 ところで2002年2月に埼玉県吉見町で発見された古代官道と思われる西吉見条里2遺跡が朝日新聞の西埼玉版に紹介された。この古代官道は道幅は10mほどもあり、東山道武蔵道ではないか、とも言われる。発見された場所が南吉見という低湿地であり、そんなところを主道が走るのは常道に反しているとしてこれは支道ではないか、との説もある。どちらにしてもこれといった定説もなく現在に至っている。

 東山道武蔵路のルートとして、東京都府中市から埼玉県川越市までは発掘調査等により、ほぼその推定ルートが固まっているようだが川越市以北から利根川を渡るまでの間は推定ルートの調査はあまり進んでいない状態だ。中でも坂戸市から熊谷市までのルートは、専門の研究者の方々にも国道407号線と並行するような漠然としたルートとしか想定されていないようだ。

 この西吉見条里2遺跡の道路跡は国道407号からは東寄りで、更に遺跡を見た限りにおいて主軸が北北東を目指している。その方向の延長線上はなんと熊谷ではなく行田の埼玉古墳群へ向っている。

 また東山道武蔵路の駅家に関する資料としては、平城京、長屋王邸宅跡で出土した霊亀三年(717年)菱子貢進木簡に、「武蔵国□□郡宅□駅菱子一斗五升」「宝亀三年十月(717)」と記すものがあり、寺崎保広氏がこの木簡を解読し、「武蔵国策覃郡宅子駅」と解読した。「策覃」は埼玉郡で「宅子」は「ヤカゴ」と読み、埼玉県行田市谷郷に比定している。つまり吉見町で発見された道路跡は行田市谷郷方面に向かっているという。この説は大変魅力あるものだが、残念なことに谷郷地区には古墳時代の遺跡が全く発見されていない。今後の展開に期待したい。


 ちなみに谷郷の地名は「新編武蔵風土記稿」では「谷之郷」と記載されており、江戸時代の忍藩の公文書である「阿部家文書」には「谷村」「谷乃村」が使用されている。つまり、谷郷の本来の地名は「谷」であり、「郷」は主語を強調するための助詞ということになる。冒頭「谷郷」と書いて「やごう」と読むと紹介したが、「谷」は「や」となり、奈良時代の佳字変更前の名は「矢」であった。この「矢」はどのような意味となるだろうか。「埼玉苗字辞典」には次のような記載がある。

矢 ヤ 日本書紀・神武天皇即位前紀に「饒速日命の天羽羽矢一隻(ひとつ)と歩靫(かちゆき)とを取りて、以ちて天皇に示せ奉る」と見ゆ。天羽羽矢(あまつははや)の天(あま)は海(あま)で海人(あま)族、即ち渡来人の意味。羽羽(はは)は古語拾遺に「古語、大蛇(おろち)を羽羽と謂ふ」とあり。物部氏を祀る石上神宮旧記に「素戔鳴尊の蛇(おろち)を斬りたまひし十握剣、名を天羽々斬と曰す」と見ゆ。羽羽矢は大蛇をもよく射殺す威力ある矢の意味で物部氏のシンボルである。物部氏は、矢の先の鏃に鉄製を用いた鍛冶集団で「矢(や)」と別称す。祖神の饒速日命は韴霊(ふつのみたま)で布都(ふつ)は鍛冶神なり。三代実録に近江国物部布津神と見ゆ。聖徳太子伝暦に、物部守屋は最後に「物部の布都の大神…矢ッ…」と唱えて絶命したと云う。布都大神は饒速日命のことで「矢」と別称す。矢田、矢作、矢部等参照。また、佳字に谷を用いて、ヤツと称し、二字の制により谷津、谷之、矢野とも称す。

 7世紀前半聖徳太子の舎人に物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)がいた。物部宗家は約四半世紀前に滅亡した物部守屋で、兄麻呂はその一派と言われ、『聖徳太子伝暦』によれば633年に武蔵国造に任じられ小仁を賜っている人物である。関東の石舞台と言われている八幡山古墳が行田市藤原町にあるが、昭和52年から54年の発掘調査で東国では珍しい最高級の棺である漆塗木棺(うるしぬりもっかん)の破片や銅鋺(どうわん)など豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られた人物がかなりの権力者であったと考えられることから、この兄麻呂の墓と推測する説もあるそうだ。

 谷郷の近郊に大型古墳を造り出す同族の有力者(物部連兄麻呂)がいたとして、そして谷郷の「谷」=「矢」つまり物部集落であり、同時に武器としての「矢」鏃を製造する製鉄の物部系鍛冶集団がこの谷郷に存在していた、ということだろうか。

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