古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金原稲荷神社(保食社)


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町金原43
             
・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧百間金谷原組鎮守
             
・例祭等 例祭(稲荷神社の祭礼) 720
 金原稲荷神社(保食社)は、山崎地域に鎮座する重殿社から直線距離にして1㎞程南にあり、真言宗智山派金谷山遍照院のすぐ西側に鎮座している。
 山崎重殿社から一旦東行し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に達した十字路を右折する。その後、1.3㎞程進んだ「中」交差点を右折し、300m程先にある丁字路を右折すると左側に社は見えてくる。
        
                
金原稲荷神社(保食社)正面
 当社の祭神は倉稲魂命であるが、社頭に掛かる明治18年の社号額には「保食社」とあり、この保食神が祭神として意識された時期があったことをうかがわせる。もともとは西光院の末寺である宮崎坊の境内社であった。安永4年(1775)に京都の伏見稲荷大社から正一位の位階を与えられたことがわかる文書が残されている。本殿は慶応3年(18675月の再建で、内陣には全高25㎝の白狐に乗った荼枳尼天像が納められている。
        
      鳥居を過ぎて当初はそのまま参道を進むが、途中で直角に右に曲がる。
             その先に社殿がある配置となっている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 百間村』
 一は百間金谷原組新田と云、享保九年の新開とのみ傳へて、検地は詳ならず、
 遍照院 金屋山と號す、天正九年造立せり、開山祐源と云ふ、 地藏堂 宮崎坊 稻荷山と號す、 稻荷社 雷電社

 稲荷社  宮代町金原四三(百間村字金谷原)
 百間村は大落古利根川の右岸に沿って位置する。「風土記稿」によれば、古くは太田庄百間領に属し、村の鎮守であった姫宮神社の応永二十一年(1414)の鰐口には「大田庄南方百間」とあり、足立郡鴻巣宿の農民が来て、切り開いた土地であるという。
 当社は、この百間村の金谷原に鎮座する。金谷原とは鋳物師に関係の深い地名で、この辺りに鍛冶屋がいたことから付いたという。ちなみに当社の南三○○メートルほどの所に鍛冶屋屋敷跡があり、当地では「川口の鋳物師の本家」であるといわれている。
 口碑によれば、江戸初期に金谷原の「七郎名主」と呼ばれた関根家では金山大神を鎮守としていた。村には上の上寺(宮崎坊か)と下に遍照院があった。当時村では上下の対抗意識が強く、名主の関根家は下に居を構えていた。安永年間(一七七二〜八一)以前に、名主が関根家から上の折原家に替わるや、上では金山社を鎮守として祀るのを嫌い、新たに京都の伏見より稲荷を勧請した。そこへ下の金山神社を合祀したという。また、社伝には「安永四年(一七七五)羽倉摂津守が山城国伏見稲荷より五穀豊穣を願い勧請した」とある。「風土記稿」に見える上の寺と思われる宮崎坊は稲荷山と号し、遍照院は金谷山と号し、稲荷社・金山社それぞれの別当であったことが推測される。
                                  「埼玉の神社」より引用
 現在の金原は、「金谷原」を継承する地域名で、上・下・新田の三つの地区に分かれている。明治九年の『郡村誌』には、当地の地味について「色赤野土なり質悪しく稲麦に宜しからず茶甘藷に適し水理便ならず時々水旱に苦しむ」と記され、昭和十年代ごろまで旱魃に見舞われるたびに雨乞いを行っていたといい、その祈願は群馬県板倉町の雷電神社に「お水」をもらって祈願をしたという。
 
     拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部
        
                     本 殿
 かつて金原では、ムラの鎮守である稲荷神社の祭りを二月の初午に行い、この時甘酒を造る。この日には、稲荷神社に各家で藁のコモに豆腐を二丁くらい入れて供える。また、事前に当番の家で造っておいた甘酒を稲荷様の境内に置き、参拝者に振る舞った。この甘酒は、稲荷様の田んぼからあがる小作の米の一部を、糀と交換して造るものである。甘酒を造った当時は、当番が一〇軒くらいで、当番の家で造り、神社に運んで神主に拝んでもらった後に振る舞うのであった。男の人たちは、御神酒で宴会を行った。この行事は、第二次世界大戦後もいくらか行ったが、現在は行われていないとの事だ。
        
             境内にある稲荷神社二百年祭記念の石碑
 稲荷神社二百年祭記念
 保食社は安永四年九月本宮正官攝津守によって分社、現在の地に鎮座された氏神樣です。
 約六百坪の境内には杉の大木が茂り百間杉と愛称されておりましたが大東亜戦争の供木になり放置されておりましたが幸い町当局の好意により公園と集会所が完成し社殿補修工事は氏子一同の協力によってなされたものであります。(以下略)
                                      石碑文より引用

        
              境内西側に祀られている境内社四基
       左より金山大神・天満宮・雷電宮・金谷権現神社が祀られている。
 因みに金山大神は、明治41年に字金谷原前から移転したという。この社は鍛冶屋集団が信仰する職業神を祀る社である。金谷または金屋(原)と称する地名は、かつて鍛冶・鋳物師の居住地であったことを示す場合が多い。金原という地域名や、境内社に金谷権現社や金山大神を祭ってあるところから、近隣で製鉄、あるいは金属加工が行われていたらしいことが伺えよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」
    「境内石碑文」等
     
        

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蓮谷稲荷神社

 宮代町百間地域の「百間」は「もんま」と読む。なかなかの難解地名である。この百間の地名については、行基(ぎょうき)菩薩が当地を舟で訪れた際に、上陸した地に地蔵尊を安置し、ここから神外(じんが)の地(聖域)までの距離をはかったところ一〇〇間あったことによる(高野村誌稿)といったような伝承が残っている。また、西光院の西の神外堀までを陣内といい、そこには百軒の家があったので「百間」という名が付いたという。
 さらに、行基が船でこの地を訪れたとする記述が着目される。現在でも百間地域には川島・平島・松の木島といった小名が残っており、周囲が川に囲まれていたことが容易に想像できる。また、百間の字逆井(あざさかさい)も、その語源は「百間記」によれば、若狭国からの船着場があり、その船頭が井戸を掘ったことに由来すると云う。古代には「万葉集」に「埼玉の津」がうたわれていることもあり、百間の地が古来から利根川水上交通の要所であったことがうかがえよう。
 一方、『埼玉県地名誌』では、アイヌ語との関連記述があり、「百間の名は湖沼よりおこるとみられる。マがアイヌ語の湖沼の意であることは柳田国男氏がすでに指摘したところである。(中略)北海道地名の紋別(モンベツ)のモンはアイヌ語の「モ」、静かなの意である(「地名アイヌ語小辞典」)。このように解するとき紋別が静かな川であるのに対して、百間は静かに水をたたえた沼の意となろう。」と載せている。
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町百間1093
            
・ご祭神 宇迦之御魂命
            
・社 格 旧蓮谷村鎮守 旧村社
            
・例祭等 元旦祭 2月初午祭 例祭 722日 お日持 1019
 宮代町役場の南側で、東武動物公園東園門や宮代町立笠原小学校のすぐ北側に鎮座している。当地はかつて蓮谷村として一村であったが、明治22年に百間村大字蓮谷となり、続いて昭和5年の大字の廃止に伴い、字百間に含まれた。この旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形であるという。
        
                 
蓮谷稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「蓮谷(はすや)村」の解説
 百間村の北西、古利根川右岸に沿って位置。南部を姫宮落堀川が流れ、台地と低地が錯綜している。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。田園簿によると田高六八石余・畑高三四石余、旗本水野領。元禄三年(一六九〇)代官八木仁兵衛長信らにより検地が実施された(風土記稿)。
 
 参道左側にある皇太神宮参拝記念碑と力石     参道左側には三基の記念碑等がある。
                          真ん中には「
新築記念」の石碑
                    新築記念
         蓮谷稲荷神社の創建年代は詳かでないが樹齢凡そ五百年の神
         木があった事でも古くから当地の鎮守であったと推定される
         明和三年に神階を授けられたが旧社殿はその頃の建設であろ
         う之は年を経たので朽損しておった たまたま境内の巨松が
         枯損した際に之を資材として改築の議が起り氏子一同が協賛
         して数年間資金を蓄積し労力を奉仕して遂に総工費金五拾萬
         圓を以て瓦葺の神殿拜殿を完成し旧観を一新した之は神徳の
          加護によって平和な郷土を築こうとする努力の結晶である
          工事は総務鈴木清吉吉岡勇吉会計加藤佑輔補佐加藤旭委員
         加藤平次郎加藤豫鈴木相三が担当した 茲に父祖三代に亘り
            て奉仕する宮司服部誠一欣然文を作りて書く

 蓮谷では、毎年米一俵、麦一俵と一〇年間くらい積み立てをして、積み立てをした全員で伊勢講を行ったものである。近年では、昭和二五年や昭和四五年に伊勢講で伊勢参りをしている。こうした伊勢参りをしてくると、記念として蓮谷の鎮守・稲荷神社に常夜灯や敷石、石碑などを奉納するものであった。現在、稲荷神社境内には、嘉永五年四月吉祥日建立の常夜灯があるが、これには「伊勢太々連」と刻まれている。これは、伊勢講による参宮記念の奉納物とみられる。また、昭和五年一二月二六日建立の伊勢太々記念碑もある。これによると、参宮は大正七年二月一五日に行われ、その後昭和三年二月一〇日、稲荷神社に敷石一七枚を奉納したことが刻まれている。
 昭和二五年の伊勢講は、昔ながらの伊勢講で、旅行会社などを頼らずに一〇日~二〇日くらいの旅をした。行き先は伊勢だけでなく、お金の続く限り、旅を続けたもので、関西を皮切りに九州の別府まで行って帰ってきたという。これに対して、昭和四五年の伊勢講は、旅行会社に手配をしてもらったもので、それでも四国を一廻りしてきたという。なお、この昭和四五年の伊勢講の際の「皇太神宮参拝記念」の碑が鎮守の稲荷神社境内にある。
        
                    拝 殿
        
          拝殿に掲げてある社の由緒が記述されている奉納額
 蓮谷稲荷神社  南埼玉郡宮代町百間一〇九二鎮座
 祭神 宇迦之御魂神 (穀物の神)(稲の精霊)
 縁起 
 旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形である。当社の鎮座地は姫宮落川の北の辺りの低地で、現在は東武動物公園の駐車場や民家に囲まれているが、かつてこの地は笠原沼を開拓した水田地帯であった。
当社は「風土記稿」蓮谷村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、村民持」とあり、その創建については二つの説がある。
 一説は口碑によるもので、豊臣家の家臣であった加藤外記(加藤壽一家の祖)が大阪城落城の後、京都の伏見稲荷神社の分霊を自らの守護神として受け、当地まで落ち延び帰農して開拓するに当たり、その守護神を作神として祀ったという。もう一説は「明細帳」によるもので、元禄三年(一六九〇)に伏見稲荷神社の分霊を遷し祀ったという。村の草分けである加藤家の子孫は、江戸時代を通じて村の名主であった。当社は初め加藤家の氏神として江戸の初期に創建されたが、その後、村人から厚く信仰されるようになったため、村の鎮守として祀るために元禄三年に再勧請されたのであろう。
当社は更に明和三年(一七六六)に名主の加藤平右衛門が願主となり、伏見稲荷神社から「正一位稲荷大明神」の神璽を拝受した。当社は明治六年に村社に列した、
 信仰
 祭事は元旦祭、二月の初午祭、七月二十二日の例祭、十月十九日のお日持の年四回である。初午祭は昭和三十年頃までは三月に行われていた。その当時は小学生の子供たちが朝から各戸を回り「油っこください」と言ってお金を集め、灯油の油、お供え、食料を買い、神前に明かりを灯し、「お籠り」と称して拝殿に一晩泊まり込んだ。翌朝は朝早くから大人たちが参拝し、赤飯や五目飯を供え、子どもたちはそれを食べて学校へ行った。現在は火災等の心配から行われていない。
                                      掲示板より引用
 
    社殿の左側奥に祀られている雷電宮      鳥居を過ぎたすぐ右側に
祀られている天満宮
 蓮谷の稲荷神社の境内には、雷電社がある。この雷電社では、特に祭りは行われないが、雷電様の祠を沼の水で洗うと雨が降るという。昔、雨が降らないので、笠原沼の船着き堀に雷電様を落として見つからなくなってしまった。すると雨が降りすぎて困ったという。その後掘上田で土を上げていて、見つかったとのこと。
        
                さ殿から見た境内の様子
        
               社の右手に祀られている庚申様


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
     HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
  

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和戸宇宮神社

 宮代町の北西部に位置する和戸地域は、『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代に国納村と一村であったのが、正保期(164448)以前に分村したという。但し、和戸地域の北部を中心に国納の飛地が大小複数個所存在していて、地域として和戸のほうが遙かに面積が広いのであるが、地図上では遙かに狭い国納地域に南北が挟まれている上、中央部にも国納の飛び地が何カ所点在する、独特な特徴を持つ地域となっている。
『東武鉄道HP』による「和戸」の地名由来によると、「和戸には、上河原があり、その名のとおり磔地または川床等の意味があります。地質図でみると、入河内と沖野山の間に川の流路跡がみられ、かつては古利根川と合流していた事がわかります。」と載せ、『埼玉の神社』によると、「烏戸宮(和戸神社の改名前の名称)の社名は、ウドが川岸の窪んだ所を示す言葉であり、古利根川がこの辺りの台地をえぐるように曲流していることから、このように称したのであろう」と記述されている。本来「和」は「輪」の佳字で、川の曲がりくねった. 土地で、やや広い丸みのある平地と表すといい、一方「戸」は「土」とも書き、昔入りくんだ地で河岸のあった所という、どちらも河川が関連した地域名であることには変わりないようだ。
        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町和戸846
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧和戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 祭礼(天王祭) 715
 東武伊勢崎線和戸駅前通りを北上し、「和戸駅入口」交差点を左折、埼玉県道85号春日部久喜線を北西方向に進行する。備前堀川に架かる「和戸大橋」を渡り、更に650m程進んだ押しボタン式交差点を右折し、その後西方院の墓地を右手に見るように北上し暫く進むと、正面に和戸宇宮神社の鳥居が見えてくる。
        
                  和戸宇宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「和戸村」の解説
 国納村の北にあり、もとは同村と一村であったという(風土記稿)。東は古利根川を境にして葛飾郡下高野村(現杉戸町)と対し、西は太田袋村(現久喜市)。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)に岩付領「和戸之内」とみえ、二貫文の地が鷲宮神社(現鷲宮町)領で、北条氏より同宮甲斐守・同満寿に安堵されている。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達家の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。

   入り口付近に設置されている案内板        趣のある鳥居付近の景観 
 宇宮神社・本覚院跡
 所在地 宮代町大字和戸字本郷
 字宮神社は旧和戸村の鎮守で、創建については明らかではないが、『新編武蔵国風土記稿』によると文明一六年(一四八四)に再建したと伝える古い社である。祭神は、天穂日命ほか三柱を祀る。かっては烏戸宮明神と称していたという。別当(神社を管理する寺)は、本山修験で字宮山宮本寺と称されていた本覚院である。明治初期に廃寺となったが、今も江戸初期に諸国遊行した僧円空によって刻まれた「円空仏」が伝わる。
 この宇宮神社のある本郷地区は、江戸時代和戸村に属しており、和戸村は江戸時代初期に国納村から分かれた。このため、両村が飛地状に入り交じっており、今も大字としてそうした状況が残っている。
 本郷地区周辺は、宇宮神社の他に愛宕社や胡録社、平安時代の創建と伝える西方院、観音堂(廃寺)などがあり、久喜道沿いに古くから開けたところであることがうかがえる。
                                      案内板より引用 

       
             緑豊かな長い参道の先に社殿が見える。
 宇宮神社は文明十三年(一四八一)に再建されたが、いにしえは「烏戸宮明神」と称していたといい、正徳(しょうとく)三年に神位を進めしときに、今のように改めたという。土地の人々は「明神様」「天王様」と称されていて、村の鎮守として氏子の方々に崇敬されたという。
 
  参道左側に祀られている石祠と境内社    参道の挟んだ反対側にも境内社が祀られている。
左の石碑は〇〇大明神、境内社は稲荷諏訪神社        真ん中の境内社は主夜神
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 和村』
 宇宮明神社 村の鎭守とす、文明十六年再建ありと云、社地に元享三年の古碑あり、是を勸請の年代といへど覺束なし、古は烏宮明神と呼しが、正德三年神位を進めしときより、いかなる故か今のごとく改むと云、 末社 守夜神 安永二年地頭、山本某勸請せりと云、
 別當本覺院 本山修驗葛飾郡幸手不動院配下 宇宮山宮本寺と云、本尊不動、


 宇宮神社(みょうじんさま)  宮代町和戸八四六(和戸字本郷)
 鎮座地の和戸は、天正十八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状に「弐貫文岩槻領和戸之内」(鷲宮神社文書)とあるのが初見で、中世末期に既に開発され、鷲宮神社の神領となっていた。『埼玉県地名誌』によると、ワドは谷間の意味で、当地の地名の由来も古利根川右岸の大宮台地の谷間にあるためであるという。
 当社は『風土記稿』和戸村の項に「字宮明神社 村の鎮守とす、文明十三年(一四八一)再建ありと云、社地に元亨三年(一三二三)の古碑あり、是を勧請の年代といへど覚束なし、古へは烏宮明神と呼しが、正徳三年(一七一三)神位を進めしときより、いかなる故にか今のごとく改むと云、末社守夜神、安永二年(一七七三)地頭、山本某勧請せりと云」とある。但し、元亨三年の古碑は現存しない。当地が中世より鷲宮神社の神領であり、当社の祭神が鷲宮神社と同じ天穂日命であることから、当社の創建は中世に鷲宮神社の分霊を当地に勧請したものであろう。また、烏戸宮の社名は、ウドが川岸の窪んだ所を示す言葉であり、古利根川がこの辺りの台地をえぐるように曲流していることから、このように称したのであろう。別当の本覚院は葛飾郡幸手の本山修験不動院配下で、当社の東に隣接していた。
 神仏分離により、本覚院は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列せられた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            拝殿上部に掲げてある「正一位宇宮大明神」の扁額
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
     HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
 

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和戸浅間神社


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町和戸24
             
・ご祭神 木花之咲耶姫命
             
・社 格 旧和戸村和戸宿鎮守
             
・例祭等 初山(ウラ浅間) 630
 国納雷電神社から一旦北上し、埼玉県道65号さいたま幸手線に合流後、東武伊勢崎線の踏切を越えたすぐ左側に社に通じる道幅の狭い路地がある。民家も立ち並び、また路地自体も目立たないので、そのまま通り過ぎてしまう可能性もあるが、その路地の両側には幟ポールが左右一対建っているのでそれが目印となっている。路地を進むと、そこは同時に社の参道ともなっていて、赤い鳥居を進んだ先の塚上に和戸浅間神社は鎮座している
        
                 
和戸浅間神社入口付近
 社の
創建年代は明らかではないが、個人持ちであった社を、文化14年(1817)に富士信仰の集団である富士講持ちの神社としたと伝えられる。また、昔、和戸村に疫病が流行り、これを鎮めるために浅間様を迎えて祀ったという伝承がある。
 明治32年の東武鉄道の敷設に伴い、現在の場所に移転している。毎年630日の祭礼には「ウラ浅間」と呼ばれ、赤ちゃんの健やかな成長を願って、赤ちゃんとその親が山に登り、赤ちゃんの額に神社のはんこを押してもらう「初山(はつやま)」の行事として多くの参詣者で賑わうという。
        
             路地の途中に設置されている社の案内板
 和戸浅間神社
 所在地 宮代町大字和戸字宿
 和戸浅間神社の創建は明らかではないが、江戸時代の始め個人持ちの社であったものを、文化十四年(一八一七)に富士信仰の集団である富士講持ちの神社になったと伝えられている。明治三十二年東武鉄道の敷地となったため、現在地に移転した。
 祭神は木花之咲耶姫命を祀る。祭礼は六月三〇日で「ウラ浅間」と呼ばれ、文化十二年旧暦五月三十日に初めて行われたという。以来、子供の成長を願う初山の行事として毎年参詣者でにぎわう。祭礼当日には参道に灯籠が飾られ、大正時代の始めから昭和四十五年まで山車も曳かれている。また、当社では十一月初旬に七五三の行事も行われている。
 富士信仰は、富士山を中心とする山岳信仰の一つで古代よりあったが、特に江戸時代後期には庶民の間にも広がり絶頂を極め、各地で小富士も築かれた。天保十四年(一八四三)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村敷控には「和戸、西粂原、東粂原」等の村名もみられ、信者の分布の様子を知ることが出来る。
                                      案内板より引用
        
           赤い鳥居を過ぎたその先の塚上に社は見えてくる。
           社のすぐ近くに聳え立つ巨木も一際目立つ存在だ。
        
                    拝 殿
 和戸宿では、和戸宿の鎮守として浅間神社を祀っている。和戸の浅間神社の祭礼は六月三〇日に行われ、「うら浅間」といわれている。祭典は午前九時から行われ、県道岩槻幸手線から浅間神社までの参道に灯籠が灯る。境内ではお札、お守り、破魔矢などが販売される。なお、この日には、昭和四五年までは山車が出た。山車には祭り囃子の囃子連が乗って祭り囃子を演奏した。囃子は太鼓三人、笛二人、鉦一人ほどで、杉戸町茨島の囃子連を頼んだ。このほか、山車の前には、島田のかつらに化粧をして女装した若い衆が歩いたりした。
 御成道を曳航したもので、露天商も多く出て賑わったものである。この祭りは、周辺地域の夏祭りの先陣をきって行われるもので、この日までに田植えを終わらせたものである。また、「和戸が山車で高野は神輿だ」とか、「和戸が雨だと高野は天気だ」と七月中旬に行われる幸手市上高野の祭りと並び称せられたという。

 ところで、和戸浅間神社から県道を挟んだ東側には「和戸公民館」が建っているのだが、嘗てこの場所には「須賀村役場」があったという案内板が設置されている。
 
       現在の和戸公民館             須賀村役場跡の案内板
 この案内板によると、旧須賀村役場は明治22年(1889)、和戸・須賀・東粂原・西粂原・国納の五カ村が合併した際に、西粂原の宝光寺に置かれた。明治44年、現在の須賀小中学校の近くに庁舎が新築されたが、立地上に問題が生じた為、大正3年(1914)に大字和戸(現在の和戸公民館の場所)に新築移転した。木造二階建てで事務室は1階のみであったそうだ。その後、昭和307月、須賀村と百間村が合併し宮代町が誕生した後は須賀支所として使用されていたが、役場庁舎の新築に伴い昭和36年に須賀支所は廃止になったということだ。


参考資料「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」「境内等案内板」等

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国納雷電神社


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町国納3422
             ・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧国納村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祭礼 125日 春の祭礼 417日 夏の祭礼 725
                  秋の祭礼 109
 東武伊勢崎線和戸駅の西側近くに鎮座する。社殿のすぐ後ろには東武伊勢崎線の線路が見え、駅からも直線距離で200mもないほど近いため、電車も比較的多く走っているのだが、不思議と社との違和感はなく、むしろ趣ある雰囲気を醸し出している。加えて、社殿を含む境内が備前堀川右岸の河川沿いにあり、参道もこの川に沿って続いていて、桜は散り始めているのは少し残念だったが、春の季節を感じさせてくれる日差しの暖かさや、青々とした新緑の鮮やかさをこの河川沿いに感じることができ、気持ちよく参拝を行う事が出来た。
        
                  国納雷電神社正面
『日本歴史地名大系』「国納村」の解説
 南東は須賀村、東は古利根川を画して葛飾郡下高野村(現杉戸町)。もとは北隣の和戸村と一村であったが、正保期(一六四四―四八)以前に分村したという(風土記稿)。分村の際に三ヵ所に分割されて一村を形成したが、和戸村との境界を分明に弁別するのは不可能であった(同書・郡村誌)。地形は、古利根川沿いの自然堤防の微高地と後背湿地、さらには台地とが複雑に絡み合う。
        
 宮代町の北西部に位置する国納地域は、備前堀と前堀の間の低湿地帯にある農業地域で、かつては土を掘り下げて田んぼを作っていたため、その地内には池と水田が交互にある特徴的な景観が見られたという。当社の鎮座地付近の字を沼端といい、そこには「国納沼」という葭(よし)が生い茂る大きな沼があって、現在の宮代台団地はこの国納沼の跡地に造成されたものである
 国納地域は南・北・八河内の三地区が飛び地のように分かれている地域である。このうち八河内を除く国納の鎮守社が雷電神社で、祭日は125日と725日である。社の総代は、国納の南と北からそれぞれ一人ずつの合計二人が選出されている。以前はいわゆるダンナ方が再任されて長くやっていたが、近年は二年任期で交代するようになっている。このほか、神社で年四回行われる行事の当番として、御神酒当番がある。これは行事一回につき二人一組で、一回交代で家並順に回るものである。
 因みに国納の八河内では、稲荷神社を八河内の15軒程で管理し、鎮守としている。3月初午、1019日などが祭日になっている。
 
    参道左側に設置されている案内板     参道を更に進むと、右手に見える手水舎と力石
 雷電神社
 所在地  宮代町大字国納字沼端
 土地の人々に「板倉様」と称されている雷電神社は、かつて国納村の鎮守で、明治時代の『神社・寺院・堂庵明細帳』によれば別雷命を主神として、菅原道真公、猿田彦命が祀られている。 神社の裏手に東武伊勢崎線が通り、南には備前堀川が流れており、国納の東方に位置している。
 江戸時代後期に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、「雷電社、村の鎮守なり、華蔵院持、下三社も同じ。」とある。なお、下三社とは、稲荷社、天神社、道祖神社のことである。
 現在、一月二十五日、四月十七日、七月二十五日の年三回の祭礼が行われている。大正十四年四月には、大字国納字沼端の天神社、同道祖神社が合わせ祀られている。なお、現在の社殿は、大正十五年一月二十五日に建てられたものである。
 創立年月日等の由緒は不詳であるが、拝殿の正面に掲げられている額の裏に、「延享四年(一七四七)丁卯五月吉日和戸村吉岡平兵衛」とあり、江戸時代中期頃にはすでに祀られていたことが
明らかである。                               
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 国納村』
 古は隣村和戸村と一村なりしが、何の頃よりか分村せしと云、
 雷電社 村の鎭守なり、華藏院の持、下三社も皆同じ、〇稻荷社 〇天神社 ○道祖神社
 華藏院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺の末、蓮臺山安樂寺と號す、開山傳灯智正德三年十一月八日寂す、本尊正觀音行基の作にして、長一尺二寸許の坐像なり、〇庵二ヶ所 何れも地藏を安ず、一は惠心の作、長一尺六寸許の立像なり、共に華藏院の持、

 雷電神社  宮代町国納四三二—二(国納字沼端)
 別雷命を祭神とする当社は、国納の鎮守として祀られてきた社であり、『風土記稿』国納村の項には「雷電社 村の鎮守なり、華蔵院の持」と記されている。華蔵院は、当社の西約三〇〇メートルの所にある真言宗の寺院で、開山の伝灯智海は正徳三年(一七一三)の寂である。
 当社の創建の経緯は定かでないが、古老の中には群馬県板倉の雷電神社を勧請したものと伝える人もいる。この話には、裏付けとなる記録などが現存していないため確証こそ少ないが、五穀を実らせ、村を発展させるために、雷神を鎮守として祀ることによって風雨の順調なることを願った開発者の心情をうかがうことができる。また、当社の神体は像高二七センチメートルの雷神像であるが、上半身をむき出しにし、両手で連太鼓を打つ姿は、まさしく「雷様」そのものであり、当社の祭神に対する氏子の親しみが感じられるようである。
 神仏分離によって華蔵院の管理を離れた後は、明治六年に村社になり、明治三十二年の東武鉄道敷設に伴って境内の区域が変更された。大正十二年の関東大震災では本殿・拝殿が全壊したが、同十五年に復興が果たされ、その間の大正十四年には無格社の天神社と道祖神社の両社を字沼端から合祀している。昭和三十八年には備前堀の改修によって元の位置よりやや北側に社殿と鳥居を移動したが、参道が狭くなったため、境内に隣接する氏子所有の畑を買い取り、拡張を図った。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
             社殿の左側に祀られている石祠・境内社
     稲荷社・道祖神・三宝荒神等の石祠や境内社・天神社(写真一番右)が祀られている。
        
               社のすぐ南側を流れる備前堀川

 この社の祭礼、特に秋の祭礼は「初九日(はつくんち)「忍まち様」ともいい、忍城の殿様に感謝を捧げる祭りといわれ、元来は月遅れの9月9日であったが、新暦を採用してからは10月9日に行っている。
 一般的に祭りの日には幟を立てている社が多いが、この社では不思議なことに、昔から「幟立てをすると良くない」との理由から幟は建てていないという。
また、昭和三十年代までは、国納の祭礼には喧嘩が付きものといわれるほど喧嘩が多かった。というのも、年4回の祭礼の時しか酒が飲めなかったので、深酒をして暴れる者が多かったためであるというのだが、近年はその酒量もめっきり少なくなったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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