古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下手子林豊武神社


       
             
・所在地 埼玉県羽生市下手子林959
             ・ご祭神 伊弉諾尊伊弉冉命天照大神国常立尊等二十三神
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 秋祭り(獅子舞) 914
 羽生市下手子林地域は、市内の南東部に位置し、羽生市下手子林を一級河川の起点とし、中川と午の堀川の間を東西に直線的に流れている「手子堀川」が北側境となっていて、地域一帯加須低地の沖積平野に位置し、流域の周囲は水田などの農地や集落などが主である。
 因みに「
下手子林」と書いて「しもこてばやし」と読む。なかなか特徴のある地域名だ。 
 東武伊勢崎線南羽生駅の東側にある「羽生手子林郵便局」を東行し、北西から南東方向に通じる埼玉県道129号加須羽生線が交わる信号を直進したすぐ先に「手子林公民館」があり、その北側向かいに下手子林豊武神社は鎮座している。
       
                 下手子林豊武神社正面
『日本歴史地名大系』 「下手子林村」の解説
 上手子林村の東に続く。古くは同村と一村であったと考えられる。田園簿によると幕府領、田高一千五二石余・畑高七三七石余、ほかに野銭として鐚一九貫文があった。元禄郷帳では高二千一四三石余、幕府領と旗本六家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。一部と考えられるが延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。
        
     鳥居を過ぎたすぐ右手に祀られている庚申塔や毘田羅(金毘羅か)大権現、
                 一番右側は二十三夜塔。
             その手前には稲荷大明神と若宮八幡宮の小さな石祠が祀られている。
        
                    拝 殿
 豊武神社  羽生市下手子林九五九(下手子林字合羽)
 当社は下手子林地区の高台、観音山に鎮座する。観音山には古くから馬の信仰を受ける観音堂があり、明治四三年の大水の時には銘々、馬を引いて、この高台に避難したという。
 当社は下手子林・上手子林・神戸(ごうど)・町屋の四地区内に祀られていた二三社の神社を、政府の神社合祀政策により手子林村大字下手子林字合羽(かっぱ)九五九番地の地へことごとく移転合祀して創建され、社号を豊武神社とした。社名は日本国の世界に飛躍する事を祈り、併せて当地の隆昌を念じて付けられたといい、移転合祀地は観音堂境内の一部と個人持ち地所の買収によって整備された。合祀は明治四四年三月二日から始められ、合祀の終了した大正二年四月一五日には盛大な遷座祭が斎行された。
 このように当時の村指導者によって一方的に合祀された各社は、その後しばらくして旧氏子が盗むようにして神像等を旧社地に持ち帰ったといわれ、再び神社を建立奉斎することが相次ぎ、大正十年ころまでには半数以上が旧社地に戻っている。なお、合祀されたままになっている神社は、経費負担の問題から旧社地に戻せなかったという。
 以上のような過程は、合祀が各社を護持してきた氏子の信仰を全く考慮せずに行われたことを如 実に示す一例といえよう。
                                 「埼玉県の神社」より引用
 
     拝殿に掲げてある扁額           社殿右側奥に聳え立つご神木
        
   境内に設置されている「指定文化財 獅子舞」の案内板と「豊武神社改築記念碑」
 指定文化財 獅子舞(下手子林地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 平成891日追加)
 王獅子、中獅子、角獅子の3頭で構成されます。他に霧島眞陰流と称する棒術があります。81718日から101415日へ、さらに91415日となり現在の914日へと変遷されています。
 獅子舞は笹良新田の人たちが、棒術は竹田の集落の人たちが役割分担して行っています。以前は八人師と称する家が宿を務めていましたが、現在では両集落で世話役を隔年交代で務めています。
 観音堂の前の橋では「橋掛かり」を舞い、豊武神社と観音堂では「平庭」を奉納します。他の演目には「華」「辻」「鐘巻」「武運伝」「綱掛かり」「弓掛かり」などがあります。
「埼玉の神社」によりますと、昔若者の娯楽として獅子舞が良いということになり、笹良新田の八軒の者が稲子より習いうけたのが始まりといわれています。棒術は発戸から伝わったといわれています。
  平成14320
日  羽生市教育委員会
                豊武神社改築記念碑(裏面)
                  平成元年十月吉日
               当社豊武神社は祭神(二十三神)
         伊弉諾尊伊弉冉命天照大神国常立尊大己貴命大日孁貴命
         建御名方命宇迦御魂命火雷神少彦名命興田別命市杵島姫
         命〇依賣命菊理媛命軻遇突智命宗部御子命熊野史須美命
         速玉男命大山祇命岐神八衛比古命八衢比賣命菅原道長公
                            (古文書写)
         右記手子林地区内各社を氏子一同協議の上一社に移転合          

         祀し社号改稱の儀明治四十三年十月四日出願 明治四十
       四年三月二日指名地等第七三五五号の六を以て埼玉県知事島田
                  剛太郎より許可 社号を御神徳に因み豊武神社と改稱す
         大正八年九月神饌幣帛指定社に昇格せらる  先人氏子の
         皆さまの崇敬の念厚く地域の守護神として護持維承され
         て参りましたが 昭和五十九年十二月二日不慮の火災に
                   より全焼しました
          この度氏子一同の総意と多額の寄付金のご協力を得て
                        ここに改築整備が成ったのであります
                         よって工事の概要を記し記念とする
        「指定文化財 獅子舞」の案内板と「
豊武神社改築記念碑」より引用
        
               境内西側に隣接している観音堂
 
 観音堂正面には「伊勢太々御神楽」(写真左)、「獅子舞保存会」関連の奉納額等(同右)が掲げてある。観音堂は古くから「下手子林の観音様」と呼ばれ、下手子林の守護神として、厚く信仰されている。
 社の秋祭りは、観音堂の10月15日の祭りに合わせて10月14日・15日に定められていたが、農作業の機械化に伴う収穫の早期化により、現在は9月14日に変更している。祭り当日には、神職と住職が祭典・法要をそれぞれ行い、境内では獅子舞が奉納されるという。


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板・記念碑文」等
        

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羽生神明社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市中央432
              ・ご祭神 大日孁貴命
              ・例祭等 大祭 417
 羽生八雲神社の右隣りに並立して社殿が建っている羽生神明社は、一見社の敷地内に鎮座しているのでどちらかの境内社のように見えるが、それぞれに独立した社である。安政3年(1856)、羽生領74ヶ村が協議のうえ伊勢神宮を勧請して現・羽生市中央公民館の地に創建され、昭和25年(1950)に現在地へと遷座したという経緯がある。
 現在の氏子区域は社の鎮座する上町のみ。神社運営は上町委員会の手によって行われ、隣接する八雲神社の役員と重任しているという。
        
            羽生八雲神社の境内に鎮座する羽生神明社
         境内は子供の遊具やベンチ等もあり、小さな公園ともいえ、
         まさに羽生在住の方々にとって憩いの空間ともなっている。 
       
                羽生神明社 両宮遙拝所
 神明社  羽生市中央四-三(羽生字街並)
 当地は『風土記稿』に「町場町は馬次の地にして、行田市・騎西町、下総国古河道・上大越村、上野国舘林・道上新郷及加須村、同国邑楽郡川俣村等へ人馬を継送れり、宿駅をなせし所は村の中腹にて、長二十三町余、路幅七八間、民戸二百四十、毎月四九の日市を立て、木綿類を鬻(ひさ)げり、江戸よりの行程十六里、太田庄に属す、当村は羽生領の本郷にして、昔城下町として発展し、町場村と称していた。また、当時は七四ヵ村の本郷であったことが知られる。
 祭神は大日孁貴命である。創立は『明細帳』に「安政三辰年九月羽生領七十四ヶ村協議ノ上郷中安全ノタメ伊勢神宮ノ御分霊ヲ勧請ス」と記す。また、昭和三年の『神明社修理之碑』の一節に「茲に今を去る七十余年前我が郷の篤志者十二名月参講を組織して、深く大神宮を崇敬し、遂に近く此に其の御威霊を仰ぎ奉るに至れり」とある。
 昭和二五年、境内が手狭なため、八雲神社敷地の現在地に移転した。旧社地には現在中央公民館が建っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                両宮遙拝所内部の社号額
「御師(おし、おんし)」とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣する者や信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった。
 江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達し、例えば伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の講(伊勢講)の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図ったらしい。
 その後、明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、御師側はこうした動きに抗議したものの、明治4年(1871年)7月には御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入され、御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになったという。 
        
       並立して鎮座している間に孤高に聳え立つ巨木。ご神木ともいえよう。

 江戸中期から後期にかけて、伊勢の御師(おんし)による檀回(だんかい)が盛んになり、各地で伊勢参りの信仰が高まってきた。このような中で、当地では伊勢神宮の分社を祀ろうとの気運が高まり、羽生領七十四ヵ村の檀那衆合議の上、分霊を受け、両宮遙拝所として祀ったものであ る。
 鎮座祭の折には、伊勢の神主により霊代(みたましろ)が奉じられ、荘厳な祭典が執行されたと伝え、以来明治維新のころまで、毎年伊勢の御師が来て奉仕した。
 その後、祭祀は途絶え、社殿は荒廃を見るに至ったが、昭和初め、町民有志が敬神愛郷の念を振起して、社殿の修復と境域の整備事業を行ったという。


参考資料「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」等
 

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羽生八雲神社

 当社は天禄3年(972)の創建で、江戸時代に編集された『新編武蔵風土記稿』において「牛頭天王社」として載り、明治2年(1869)に八坂神社に改称した。古くは羽生領の総鎮守で、厄神除けの神札を領中に頒布し、領内七十四ヵ村からは御供米として献穀が行われたが、明治初頭に廃されたという。
 江戸期まで「宮元」と呼ばれていた上町・本町地区が社経営に参画し、以来、羽生市の発展に伴い当社祭礼にも商工観光祭に組み入れられたが、慣例として、神社行事の中心となる上町・本町は社負担金を支出し、現在も社護持の任に当たっている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市中央432
             
・ご祭神 素盞鳴命(牛頭天王)
             
・社 格 旧羽生領七十四ヶ村鎮守
             
・例祭等 例大祭(羽生夏祭り) 7月第二週目 土日
 羽生八雲神社は羽生護国神社のすぐ南側に鎮座する。
『日本歴史地名大系』によると、この地域は「町場村」と呼ばれ、羽生市の中央やや北西寄り、旧利根川の乱流低地に位置し、旧利根川の河道にあたる葛西用水と会の川に挟まれた埋没台地上にあるという。
『日本歴史地名大系』 「町場村」の解説
 現羽生市の中央やや北西寄り、旧利根川の乱流低地に位置する。旧利根川の河道にあたる葛西用水と会の川に挟まれた埋没台地上にあり、東は上藤井村・下藤井村と北袋村、南は上羽生村・桑崎村、北は小須賀村・蓑沢村。村名は慶長一九年(一六一四)に廃された羽生城の町場であったことによる(風土記稿)。羽生城跡地は寛永八年(一六三一)関東郡代伊奈忠治が検地を行い、城中部分を見取場として耕地化した。承応三年(一六五四)南条金左衛門の検地により高入地になったという(風土記稿)。田園簿には羽生町場とみえ、田高四七六石余・畑高三五九石余。幕府領で、ほかに古城跡見取場(田方四町一反余・畑方一七町五反余)があった。
        
               
羽生八雲神社入口  一の鳥居
                       鳥居上部には「八雲神社」と表記されている。
  羽生市の大通りである「プラザ通り」の民家が並ぶ狭い路地の間に社に通じる参道がある。
     羽生市街地で一番大きな社という印象で赴いただけに、この狭い路地は意外。
『新編武蔵風土記稿 町場村』
 町場村 當村は羽生領の本鄕にして、昔城下に屬せし町の蹟なれば名となれり、町の入口に昔は木戸門ありて備とせし由、今はそこを番屋蹟と呼べり、(中略)按に當所は昔利根川に添たる地なりし由、今も近村小沼新鄕等の間に會川と云あり、これ古利根川の流なりといひ、【萬葉集】埼玉の津などよみ、且近き邊岩瀬村も古歌に入たる岩瀬の渡などゝいへば、古江もこゝのことなるべし、又羽生の唱の起る所は、古き書にはいまだ見ざれど、上羽生村正覺院に藏する永祿九年の文書に、武州太田庄羽生云々とあり、この餘成田分限帳に、永樂百五十貫文埴生大膳亮長員、同六十貫文埴生出雲守、同三十貫文埴生助六郎とのす、これも在名をもて呼べる者ななるべく、既に村君村鷲大明神天正十八年の神鏡に、太田埴生庄と載たれば、羽生の唱はこれより前起りし事にて羽生埴生とも書し事しらる、且當村正保の頃迄は、羽生町と呼び、元祿改定の圖には、町場村とのせたり、

        
            この狭い参道を進むと二の鳥居が見えてくる。
        
  二の鳥居を過ぎると子供が遊べる遊具やベンチ等が設置された広い境内が見えてくる。
 社が二社並列にて鎮座している。手前が羽生神明社で、奥に見えるのが羽生八雲神社。「埼玉の神社」によると、羽生神明社は、昭和25年(1950)、境内地が手狭なため、現在地に移転したという。但し祀職は、羽生八雲神社と同じ宮司が奉仕しているとの事だ。
        
           境内に設置されている文化財指定「八雲神社御輿渡御等行事」の案内板
 八雲神社御輿渡御等行事   (無形民俗文化財 羽生市指定第64号 平成19年3月19日)
 八雲神社の祭礼で御輿渡御が行われるようになったのは、棟札写によれば寛永2年(1625)とされています。かつては旧暦6月7日の御輿渡御にはじまり、6月末日の芋の輪くぐり行事までが祭礼の期間でした。現在は7月7日に近い土曜日に催されています。
 御輿渡御は午後2時頃から始まり、お旅所を出発した御輿は八雲神社へ向かいます。その後往来を渡御したあと、再びお旅所へ戻るというものです。シンボルである大御輿(通称おんな天王)は、天井板に書かれた記録によると享保8年(1723)に新調されました。
 渡御は、先導、神職、稚児、幟、太刀持ち、太鼓、獅子、七五三持ち、榊、賽銭箱、来賓、巫女、提灯が行列をなします。往来では神官が紅白の紙片、続く稚児が塩をまきながら進みます。
 午後5時頃から、各町内の御輿及び山車が曳き回されます。この祭礼の主体は、近隣が屋台(山車)なのに対し、江戸時代当社から御輿であることに特色があります。
 平成30328
日                                    案内板より引用
        
            細い参道と二の鳥居の正面先にある神興庫
             神興庫の左側にある古い建物は祭器庫
        
                 羽生八雲神社 本殿
 八雲神社(てんのうさま)  羽生市中央四-三(羽生字町並)
 当社の創立は、例祭祝詞に「清和の御宇悪疫国内に猖獗(しょうけつ)、天皇御心を悩まし給い、山城国八坂の郷に素盞鳴命の神霊を斎き祀り、疫病退散の祈願を籠め給う。験し現れければ国内に素盞鳴命鎮祭を奨め給う。僻遠の当地なれば凡百年を経し天禄三年命により京の公卿隼人正下向し箕沢の地に社殿を造営、羽生領七十四ヶ村の鎮守とす」とある。
 また、社記の棟札写には「当社勧請は天禄三年壬申六月七日也是人皇六十四代圓融院の御宇也其時柳隼人正箕沢町ヱ奉勧請其後慶長年中当町場ヱ奉遷座從其時厄神禦(ふせぎ)之札羽生領中へ引来祭體御輿町内ヲ渡ル事寛永二年乙丑六月七日ヨリ始ル者也 神主柳喜内藤原清治」とあるが、棟札は所在不明のため、年号等を確認することができない。
 古くは牛頭天王との称したというが、前記の社記には八雲大神棟札写とあり、このように称した時期もあったのかと思われる。明治二年一月に八坂神社と改称した。
 境内に「利根川水害防護堤謝恩碑」がある。これは享保年中当地を支配した代官安藤惟泰が利根川の水禍を防ぐため、上羽生新田裏に堤防を築いて被害を少なくした恩を感謝して、明治二三年に地区民が建立したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用 

「八坂ヨ―八坂祭はソレ羽生の誇りソレ勇み若衆とサー舞の花車ヨイヨイヨシコノ舞の花車」と羽生音頭に歌われる当社の例大祭は、八雲祭・八坂祭・羽生の夏祭りなどと呼ばれて賑わうという。
 社記によると、例祭に神輿の渡御が行われた始めを江戸時代初期の寛永二年(1625)とし、当時は祭礼の期間が二四日間であったと伝えていて、その後、昭和三〇年代までは七月七日から三日間行われていたという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市観光協会HP」「埼玉の神社」
        「境内案内板」等
       

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羽生護国神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市北1517
                
・ご祭神 日清戦争から大東亜戦争までの羽生地区出身
                                    戦没者の方々

             
・例祭等 祭日 43
        
                         羽生護国神社の鳥居
        社名は護国神社だが、社号標柱には「忠魂社」と刻まれている。
 大天白公園から徒歩にて南下、その後「プラザ通り」と接する歩道橋の脇に羽生護国神社は鎮座。
        
          護国神社本殿、その右側に祀られているのは厳島神社 
 護国神社  羽生市北一-七(羽生字大道)
 日清戦争以来、全国的に戦没者を顕彰、慰霊する気運が興り、各地で神社境内や小学校内に忠魂碑を建立し招魂祭が行われた。
 当地においても日清・北清・日露の各戦役で、七名の戦没者を出し、これらの英霊に対し、帝国在郷軍人会羽生町分会の主催で毎年招魂祭と墓参が行われていた。この御霊(みたま)を迎え、子々孫々に至るまで守り仕え奉らんと、遺族をはじめ在郷軍人会、住民らが英霊の誠忠を偲び、永遠に亀鑑として敬迎すべく社殿の奉建を画した。
 昭和七年一月一三日、起工の運びに至り、四月二九日、天長節の佳日を卜して厳かに鎮座祭が挙行された。社地は明治四十一年一一月八日古城天神社に合祀された厳島神社の跡地があてられ、現在、昭和三二年七月二日に厳島神社が氏子の総意により旧地に遷座したため、二社並立の形となっている。厳島神社は弁天様と称し、社記に「寛永年中該町悪水堀四円空地ヲ見立テ弁財天ヲ勧請ス」と伝える。護国神社は元来、忠魂社と称していたが、昭和一四年に政府は指定・無指定護国神社制を定め、当社はこれを機に、現社名に改めた。
 祭神は先の七名に加え、太平洋戦争に至るまで、各地で戦陣に倒れた羽生地区出身者であり、その名を名簿に記して奉安する。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                  合祀社 厳島神社
        
           道路沿いに設置されている厳島神社の由緒と起文
 由緒
 寬永年中羽生町市街ノ西北隅悪水四方ヲ圍統スル一空地ヲ見立弁財天ヲ勧請ス明治四年神仏混淆御取分ノ節嚴島社ト改稱シ無格社タリ
 明治四十一年政府ノ勧誘ニ基キ信徒等相謀リ村社天神社へ合祀出願同年十一月廿八日許可翌明治四十二年三月廿五日合祀セリ
 備考本文中ノ悪水四方ヲ圍統スル一空地ハ現今ノ字大道壱番地ナリ(以下略)
 起文
 昭和三十二年三月三日午前二時頃高橋工業有限会社足袋工場ヨリ出火池浦内田大沢川野辺長谷川五月女ノ六世帯類焼浅井小火偶々浅井義松氏ノ夢枕ニ弁財天ノ存立ニ思ヲ致サレ宮司柳八重氏ニソノ旨報告確ニ天満社ニ合祀トノ事種々協議ヲナシ直ニ獨立安置サル可キ気運ヲ主張サレ上町委員会ニ上申上町氏子中挙ツテ社殿建立ヲ決議宮大工入江瀧治郎氏ニ依頼シ昭和三十二年七月二日由緒アル現位置ニ厳島神社ヲ鎮座イタシ毎年五月九日ヲ祭日トシテ町内安泰財宝護持火災除トシテ御守護セラル(以下略)
                                      案内板より引用
        
 護国神社という特殊な社であるだけに、一般の神社と異なり、氏子区域及び氏子は存在しない。ただ、身をもって国難に殉じた英霊を祀り、国家の礎となった人々を軍神として崇め、その御霊を慰め誠を尽くすことは、神道として欠くべからざる要素である。当社を含めて全ての護国神社の拠って立つ由縁はここに存するものである。尊い生命を捧げた英霊勇士を慰霊することは、仇や疎かにできないことであろう。

 戦後も既に80年の歳月が流れ、当時の大戦を知る方々も少なくなり、遠い昔の出来事となってしまっている。今ここで再び、戦前・戦中・戦後を見直すとともに、新たに護国神社の来し方、行く末を改めて考えなければならない時であると言える。ここで、英霊のご遺族の減少や、世代交替による意識の変化なども重要な問題となっている。静かに英霊の声に耳を澄ませて聞き入る心境はいつの時代も変わらずにありたいと筆者は切に願う。



参考資料「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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藤井上組香取神社

 羽生市藤井上組地域には、曹洞宗の寺院である源長寺(げんちょうじ)がある。この寺院は、室町時代末期、羽生城主である木戸伊豆守忠朝が城主だった頃に当寺を創建したという。
 1574年(天正2年)に後北条氏の猛攻に耐え切れず退去し、その後、1590年(天正18年)、徳川家康が関東地方に転封された際に、大久保忠隣は羽生領の領主となった。ただ忠隣は羽生城には入城せず、城代として鷺坂(不得)道可を任じた。
 不得道可は俗名を「鷺坂軍蔵」といい、羽生城主木戸忠朝の家臣で、『新編武蔵風土記稿』よると、「(鷺坂軍蔵は)羽生城没落の後浪人となり、後法体して道可と云い、大久保相模守に仕へ、旧主追福の為として当寺を再興せしと云」と載せている。旧主の忠朝やその家臣の菩提を弔うべく、忠朝が創建した当寺を中興したという。

        
             
・所在地 埼玉県羽生市藤井上組778
             
・ご祭神 経津主神・武甕槌神・天児屋根命・比賣神
             
・社 格 旧上・下藤井村鎮守
             
・例祭等 お獅子様 52 
 大天白神社及び大天白公園の正面入り口から一旦北上して埼玉県道60号羽生外野栗橋線に合流後、東方向に進路をとり、1.3㎞程進んだ丁字路を右折し南下、羽生中央公園の北側に藤井上組香取神社は静かに鎮座している。
        
                 藤井上組香取神社正面
『日本歴史地名大系』 「上藤井(かみふじい)村」の解説
 尾崎村・稲子村などの南にあり、洪積台地の埋没台地と、利根川の乱流路によって形成された後背湿地からなる。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る譜代侍藤井宮内(永三一貫文)・藤井大助(永一〇貫文)を当地出身とする説がある(風土記稿)。古くは南に続く下藤井村と一村で、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに藤井村で高付される。田園簿によると田高七九一石余・畑高六七六石余、幕府領で、ほかに源長寺領二〇石があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)から下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、化政期の上・下両村の家数一六〇(風土記稿)。
 
 鳥居前にて一礼する前に、鳥居の手前で左側にこんもりとした林があり、その奥に石碑・石祠等3基が祀られている(写真左)。一番左側の石碑は御嶽霊神、それ以外は判別できない。また、その右隣には、左から石碑(富士山頂上 浅間大社 〇〇〇神社 参拝記念)・伊勢参宮記念碑がある(同右)。
        
                  趣きのある境内
        よく見ると一対の石灯籠の先には石製の鏡餅が奉納されている。
 
  参道左側に祀られている金毘羅大権現    金毘羅様の右並びに祀られている記念碑・
                            普門品供養碑等
        
         社殿に通じる参道途中には多くの石灯籠が奉納されている。
「埼玉の神社」によると、当地では昭和30年頃までは、同年代で気の合った者同士が積み立てをして伊勢神宮に参詣する伊勢講が盛んに行われていたようで、境内には神宮参詣を記念して奉納された石灯籠や石碑が、拝殿には絵馬や奉納額が数多くあり、当時の信仰の厚さを偲ぶことができよう。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 上藤井村下藤井村』
 香取社 上村にあり、下同じ、上下の鎭守なり、松林院の持、
 源長寺 禪宗曹洞派、上野國邑樂郡堀工村茂林寺末、大鷲山と號す、慶安元年寺領二十石の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、開基は羽生の城主木伊豆守忠朝、天正三年六月朔日卒し、法謚を久昌院源心長公居士と號す、開山正甫は永正十三年三月三日入滅す、中興開山を正道と云、元和二年八月二十六日寂す、中興開基を不得道可と云、文祿四年二月十八日卒す、此人俗稱を鷺坂軍藏と號し、木伊豆守が家人なりしが、羽生城沒落の後浪人となり、後法體して道可と云ひ、大久保相模守に仕へ、舊主追福の爲として當寺を再興せしと云、(以下略)
 松林院 天台宗、東叡山末、藤井山泉光寺と號す、本尊正觀音を安ず、開山光盛慶長十九年十二月八日寂す、〇地藏堂 村民持、

 香取神社  羽生市藤井上組七七八(藤井上組字鶴指)
 当地は市のほぼ中央に位置し、天正一九年の文書には既にその名が見え、地区内には、慶安元年に二十石の朱印地を寺領として賜った、曹洞宗源長寺(開祖羽生城主木戸伊豆守忠朝)がある。
口碑によれば、当社は弘治三年に羽生城の鬼門除けとして祀られた社であると伝え、享保一二年三月一三日には神祇管領卜部兼敬より正一位に叙されている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には香取神座像が納められている。
『明細帳』によれば、祭神は経津主神・武甕槌神・天児屋根命・比賣神の四柱で、境内社として琴平神社(文政七年建立)・八坂神社(天保八年建立)・厳島神社(文政一〇年建立)の三社が記載されているが、今日では琴平神社が現存するだけである。琴平神社は、金毘羅大権現と陰刻された石祠である。当社の拝殿には金毘羅大権現と書かれた縦四〇センチメートル、横二三六センチメートルの扁額(文政九年奉納)も残り、往時、信仰の厚かったことをうかがわせる。
 また、境内にはこのほか、当地方を治め善政を行った堀田相模守を祀った生祀、堀田宮(安政二年建立)がある。
 祀職は、神仏分離前は天台宗松林院が別当であった。現在、松林院は大日堂と呼ばれ、無住であるため、稲子の源昌院が管理している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿に掲げてある扁額             境内整備事業記念碑
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は、大字藤井上組と藤井下組の全域である。この二つの大字は、井福・上手・下手・東組(この四つを本田四組と称し、古くからある集落という)・出尾・北藤井上・北藤井下・南油ヶ谷戸・北油ヶ谷戸・前流・後流の一一耕地からなっており、それぞれの耕地から、お獅子様を行ったり境内の清掃などをする年番(世話人)が輪番あるいは推薦で一、二名ずつ出る。
 当社は昔から戦(いくさ)の神様として信仰されており、戦時中には盛んに武運長久の奇岩が行われた。その御利益からか、氏子の中からは日露戦争で戦死する者が一人もなく、その名を高め、先の大東亜戦争時にも戦死者は少なかったという。
        
                社殿の右側にある記念碑
                   左から本殿 大鳥居修復記念碑・伊勢神宮参拝記念碑
           鹿島神宮(御祓)香取神宮(御神楽奉奏)鳥栖神社(参拝)参宮記念碑

 嘗て、当社の祭りは、419日の春祭りと1019日の秋祭り(例祭)の2回あり、春祭りには小松神社から招いた神楽を奉納していた。しかし、いずれの祭日が農繁期に当たり、祭礼を行う余裕がなかったため、大正時代中頃にはやむを得ず中止し、その後は52日に行われるお獅子様の日を祭日としている。
 お獅子様は記載の玉敷神社かの獅子を借りてきて、氏子の家々を回り、悪魔を祓う行事である。獅子は一一耕地を順番に回るが、昔は一つの耕地を回り終えると、道切りと称して耕地の境に竹を二本立てて注連縄を張り、悪魔が入らないようにしていた。お獅子様は朝五時ごろから始まるが、祭典は九時から行われ、氏子の繁栄と五穀豊穣が祈願されるという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
  

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