古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

田部井町鹿嶋宮

 不思議な事だが、群馬県にかつて複数の東村(あずまむら、あづまむら)が存在していた。一つの県に同名の市町村があることは珍しいことであるようだが、群馬県では1889年の町村制施行に伴い、5ヶ所の「東村」が新設された。群馬・利根の2郡にあった東村は1950年代の昭和の大合併によって廃止されたが、佐波・勢多・吾妻3郡にあった東村は20052006年の平成の大合併で廃止されるまで存続していた。
・群馬郡東村 1954年(昭和29年)41日の前橋市への編入に伴い廃止された。今日の市の南西部、JR新前橋駅から南の一帯にあたる。
・利根郡東村 1956年(昭和31年)930日に利根郡赤城根村と合併し利根村(2005年に沼田市と合併)となり廃止された。
・佐波郡東村 2005年(平成17年)11日に伊勢崎市との合併により廃止された。
・勢多郡東村 2006年(平成18年)327日に山田郡大間々町、新田郡笠懸町と合併しみどり市となり廃止された。
・吾妻郡東村 2006年(平成18年)327日に吾妻郡吾妻町と合併し東吾妻町となり廃止された。読み仮名は「あづまむら」と表記された。
 このように多数の東村が設立されたのは、ヤマトタケルが東征の帰路で「アズマハヤ(わが妻よ)」と亡き妻を偲んだ伝説に由来すると考えられている。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市田部井町11126
             
・ご祭神 建御雷之男神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭等 例祭 410日 1017
 旧東村は群馬
県のやや南東部に位置し、伊勢崎市・前橋市など県内の主要な都市の通勤圏内にあり、発達した交通網と田園風景の広がる良好な居住環境を背景に、平成10年度には人口2万人を超えてなおも増加が続いていて、村としても全国で5番目に人口の多い村であったという。土地利用は雄大な赤城山の裾野に抱かれた平坦な耕地が多くを占めるが、最近では大規模小売店舗の出店も目立つ。
 2005年(平成17年)11日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、境町と共に合併し、伊勢崎市となり消滅した。
        
                 
田部井町鹿嶋宮正面
 市場町八坂神社から南下し「市場町1丁目」を左折、群馬県道102号三夜沢国定停車場線に合流後、南東方向に進み、JR 両毛線国定駅に至る。この国定駅より550m程南東方向に田部井鹿嶋宮は鎮座している。
社の境内西側には広い駐車スペースがあり、そこの一角を利用して参拝を開始。因みに東隣には「田部井上区会議所」が併設されている。
        
                手入れの行き届いた境内
 鹿嶋宮が鎮座する「
田部井」の地域名は「たべい」と表記する。詳細な時期は定かではないが、「たべい」と読むようになってからはむしろ日が浅いとのことだ。「田部井」は鎌倉時代に記録のある古くからある地域名で、鎌倉から室町期に「田部井郷」、又は「田部賀井郷」とも書かれたりしていた。古くは「ためかい・ためがい」と発音されていて、この「ためかい」は「溜が井」であり、水を溜めておく場所のことといい、昔から水に恵まれた場所であったようだ。難読地名の一つともいえよう。
『日本歴史地名大系』 「田部井(たべい)村」の解説
 村のほぼ中央を早川が南流し、東は新田郡田部村、北は佐位郡国定村、西は同郡上田村。村の北東部に小字水殿(ずうどの)があり、湧水地磯沼からの流水が早川とほぼ並行して南流し、水田地帯をなす。地元では現在も「ためがい」という人が多い。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「たへかいの郷 田一町七反廿たい 畠一丁」とある。応永二二年(一四一五)八月一〇日の称光天皇即位要脚段銭催促状(同文書)によると、当郷は公田二町七反二〇代分の段銭を負担しており、前掲目録の田畠合計反別に一致している。建保三年(一二一五)三月二二日岩松時兼に与えられた地頭職の一つに「田部賀井郷」がある(「将軍家政所下文写」同文書)。
        
                    拝 殿
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』による当社の創立・由来として、文治2年(1186)源頼朝の家臣安達藤九郎盛長が上野国守護となり太田市森田の吉沢に鹿嶋神宮の御分霊を奉遷し祠宇を創建した。その後、早川岸台、観音山などに移され、慶長(15961615)の頃和泉昭四郎氏宅地内に移り、寛文9年(1669)に現在地に造立され本日に及ぶ。この地には本殿だけがあったが、後に拝殿と幣殿が建造された。拝殿に関しては明治11年(1878)に作られた佐位那波郡神社明細表に記載されているものが現在のものと同規模である。しかし、明治43年の神社の合祀の際に拝殿と幣殿が建造された可能性もある。昭和25年(1950)に拝殿を萱葺から瓦葺に改修し、本殿も修理をしたという。
 
 拝殿に掲げてある「鹿嶋大明神」の扁額      拝殿の左側にある
出羽三山石塔や五輪塔等
        
                    本 殿
     令和元年(20198月に本殿の傾きを修理し、床下の耐震補強をしたとの事。
 修復前の本殿は、一間社流造で、組物は身舎が出三斗、向拝が連三斗である。中備は身舎側面と向拝が板蟇股で、身舎正面と背面が実肘木付の間斗束である。妻飾は虹梁大瓶束笈形付で鰭付の拝み懸魚と、降懸魚がつく。虹梁の唐草紋様は17世紀代の特徴があるものの、海老虹梁の形態から建造年代は江戸中期と推定。

 本殿の奥にある石製の社号標や末社・石祠等   末社・石祠等の右側隣にある巨木の切り株
                         かつてご神木の類であったのだろうか
       
          正面入り口の鳥居の右側手前にある猿田彦大神と石祠
 猿田彦神は、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。この石碑もその類いであろうか。


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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市場町八坂神社


        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市市場町11593
            
・ご祭神 速素盞鳴命
            
・構造・形式 一間社流造、向拝付、柿葺
 西久保町大雷神社のすぐ西側には市場地域を縦断するように通る群馬県道73号伊勢崎大間々線に交わる十字路があり、そこを左折し200m程進むと、進行方向右手の県道沿いに市場町八坂神社の鳥居が見てくる。駐車スペースはないようなので、北側路地に急遽路駐して急ぎ参拝を行う。
        
                 
市場町八坂神社正面
 赤堀村は明治22年(1889)に、今井・五目牛・下触・堀下・市場・野・西久保・曲沢・間野谷・香林・西野(以上佐位郡)、磯村(勢多郡)の12ヶ村が合併して成立。はじめは佐位郡、村役場は大字西久保字田宿645に置かれる。その後、明治29年(1896)からは佐位郡と那波郡の合併に伴い、佐波郡に所属する。200511日に旧伊勢崎市、境町、東村と市町村合併を行い、伊勢崎市となったため、消滅した。
 「赤堀」の地名は鎌倉期から見え、赤堀氏の来歴は『上野国誌』によれば、「赤堀氏は、田原藤太秀郷の末葉であり、足利又太郎忠綱の弟、足利二郎泰綱4代の孫にして、孫太郎と称し、佐位郡赤堀を領し、初めて赤堀氏を称す」とある。
 当社が鎮座する「市場」という地域名は、中世から市が立っていたことを示していて、この市は江戸時代になっても続き、明治になっても雛市や桑市が、近在の人々を集めて開かれていたそうだ。
        
                    拝 殿
 当社の創立・創建に関する資料は、残念ながら調べてみても詳しい記事等ない。
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』には僅かに「当社は、赤堀十郷の領主が定まった頃(江戸時代中頃)、郷民相謀って市場を創立するに当たり、市場守護神として創建したものという(社伝による)」と載っているだけである。
        
                    本殿
覆屋
        
                    本殿内部
 上記『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』によると、本殿は、一間社流造、向拝付、杮葺の小振りな社である。土台上に身舎丸柱と向拝角柱を立て長押を廻し、柱上に直に妻虹梁、丸桁を載せる。妻飾は虹梁笈形付大瓶束である。向拝は柱頭に水引虹梁を渡し、木鼻に象頭と獅子頭を付ける。柱上連三斗出組で丸桁と海老虹梁を受け身舎柱と繋ぐ。
 当本殿は装飾性が少なく、身舎では虹梁の渦と離れている若葉の唐草絵様、大瓶束に付く笈形、脇障子の嵌込彫刻、大瓶束上組物(出三斗)のみに彩色がある程度で組物もない。向拝では水引虹梁のやはり渦と離れている若葉の唐草絵様、彩色された獅子と象の木鼻と三巴に雲の本蟇股程度である。海老虹梁の段差湾曲は小さく、唐草には渦のみで若葉はない。このような特性から、当本殿は創建当時の建築と考えられ、18世紀初期から中期の装飾性が高くなる以前の建築と推定する。古式を伝える貴重な建築であるとの事だ。



参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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西久保町大雷神社

 淵名荘(ふちなのしょう)は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになった。
 西久保町大雷神社は、平安時代の中頃、足利又太郎兼行が淵名荘を領有するに当たり、「雷電宮」として社殿を造営したことに始まると伝えている。
        
           ・所在地 群馬県伊勢崎市西久保町3859
           ・ご祭神 大雷命 高龗命 大山祇命
           ・社 格 旧赤堀十二郷総鎮守 旧郷社
           ・例祭等 元旦祭 春季例祭 45日 秋季例祭 105
 国道50号を桐生から前橋方面に向かと「西久保」交差点がある。主要地方道伊勢崎大間々線が交わっている。その昔、あかがね街道の桐原宿にあかがね街道大原宿方面と伊勢崎街道の分岐点があり、伊勢崎方面に進んだ道である。西久保町大雷神社は西久保の交差点から400m程伊勢崎方面に向かった東側に西久保町大雷神社は鎮座している。
 現在は市町村合併で伊勢崎市西久保町となっとぃるが、当社はかつての赤堀十二郷の総鎮守であった。
        
               
西久保町大雷神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「赤堀郷」の解説
 秀郷流藤原氏の末裔で、のちに東上野の有力国人に成長する赤堀氏の本拠地。文和二年(一三五三)七月一三日の足利尊氏下文(赤堀文書)によると、赤堀三郎左衛門入道が代々の証文に任せて「上野国赤堀郷、同貢馬石村」などの地頭職を安堵されている。この時期の赤堀氏は二流があったが、東上野における反上杉勢力の一翼を担っており、宇都宮氏・新田氏などと結んでいた。享徳の乱で「深須・赤堀・太胡・山上」など東上州が戦場となった時にも(享徳四年三月一五日「足利成氏書状写」正木文書)、初期には足利成氏方に参じていたが、時綱の子政綱はのち上杉方に転じた(年欠一〇月一七日「足利成氏書状」穴沢吉太郎氏所蔵文書)。
『日本歴史地名大系』 「赤堀町」の解説
 
佐波郡の北端に位置。東は新田郡笠懸村、北は勢多郡新里村・粕川村、西は前橋市、南は伊勢崎市・東村。東方を早川・岡登用水が、西方を粕川が支流鏑木川・蕨沢川・桂川を集めてそれぞれ南流する。赤城山の南麓、渡良瀬川がつくった扇状地の西端にあたり、小丘陵地と畑地が広がる。国道五〇号が中央を東西に通る。西半部には古墳群が分布し、南方には女堀の跡が残る。近世は勢多郡の磯村、新田郡の間野村を除き佐位郡に属し、御改革組合ではほとんどが伊勢崎の組合に属した。
        
                 参道途中にある二の鳥居
 二の鳥居の先の参道右側に土俵が見える。
4月の例祭時には、子供相撲なども行われるようだ。
        
           三の鳥居の先の石段上には社殿が見えている。
        
       旧赤堀の総鎮守で、旧郷社の社格らしく重厚な雰囲気がある拝殿
 当社の
創立・沿革として、平安時代の中頃、藤原秀郷5世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行(藤姓足利氏)が淵名荘を領有するに当たり、社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝える(雷電宮)。後に淵名氏が滅亡し由良氏の領地となり、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府追討の 挙兵の際、当社に戦勝を祈願したと伝える。さらに 元亀2年(1571)領主の崇敬篤く、市場に鎮座していた当社を現在の西久保に遷座したという(『赤堀村誌』『伊勢崎佐波の神社誌』)。
        
                    本殿覆屋
 この
覆屋の中に納められている本殿は、『赤堀村誌(下)』によると、建造年代として「寛政10年(179812月領主加納氏、本殿・拝殿共に改築し、更に昭和5年(1930)に今の本殿様式に改築した。」とある。昭和3年(1927)の改築前の古写真に以前の拝殿(覆屋)が写り、内部に当本殿があったものと思われる。腰から胴、軒廻りまで嵌め尽くされた彫刻の数々や装飾性を見ると、江戸後期の神社建築の様相を伝えるが、極彩色が組物以外のすべての部材に施されており、素木造が流行する前の江戸後期の建築として、その建築様式から、18世紀後期の建築と推定する。棟札等の古資料が無く工匠は不明との事。
        
                 拝殿左側にある鳥居
 
      並んで石積上にはたくさんの末社石宮が立ち並ぶ(写真左・右)。
        
                  境内の一風景
 社の創立は平安時代中期まで遡り、時の領主が雷除けや農耕神として雷電宮を祀り、その後も領主の篤い信仰により守られてきた古社である。そして何よりもその装飾性の高さが目を惹く。軸部を構成するほぼ全ての直線材には、網代や紗綾紋、組亀甲など、さらに身舎丸柱にはグリ紋の地紋彫が施される。また腰から胴、軒廻りに多くの彫刻が嵌め込まれ、その全てが極彩色で彩られる。彫刻の細やかさだけでなく、彩色も手が込み、古くから覆屋で守られ良くその色味を残す。建造年代のさらなる究明を含め、江戸後期の当地における神社建築の装飾性の高まりや変遷を探る上で貴重な建物であるとの事だ。


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」等

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倉賀野浅間山古墳

 倉賀野浅間山古墳が所在する前橋・高崎台地は、火山性泥流堆積層(前橋泥流)により形成された台地で、北西から南東へ緩やかに傾斜している。台地は榛名山南麓に沿って東流する烏川、榛名山南東麓斜面に発し東流する井野川等の河川や支流の影響を受け開折された自然堤防が発達した幅広い微高地や後背湿地を形成し、微高地には集落跡や古墳・館跡などが立地し、後背湿地には水田跡などが数多く点在する。
 当古墳は烏川左岸段丘上にあり、烏川の形成した崖線から800m北方に位置し、西側を烏川の支流である粕沢川に東側を無名小河川に画された北西から南東に伸びる幅300mほどの微高地上に立地している。
 国指定史跡に指定されている当古墳は全長約171.5mの前方後円墳で、標高85mの平坦地上に立地している。築造は4世紀後半から5世紀初頭と推定され、県内最大の太田市天神山古墳(全長210m5世紀中頃)に次ぐ規模を誇り、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳で、築造された当時は東日本最大の古墳であった
        
             
・名  称 浅間山古墳
             
・所 在 地 群馬県高崎市倉賀野町313ほか
             
・形    状 前方後円墳
             
・規    模 墳丘長171.5m 高さ14.1m
             
・指定種別 国指定史跡 昭和248日 令和3326日(追加指定)
                                
令和31011日(追加指定)
 大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の北西方向に位置する全長171.5mの前方後円墳。一旦上記2古墳から北上し、「上町西」交差点を左折、群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流後し350m程進んだ丁字路を左折すると、進行方向正面にこんもりとした林の囲まれた当古墳が見えてくる
 因みに「浅間山」の名称は、明治時代まで墳頂に富士浅間社を祭っていたのがその由来となっているようだ。
『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』において、この古墳は『県下では太田天神山古墳に次ぐ大前方後円墳で、墳丘全長一七四㍍、後円部径一〇八㍍、同高一四㍍、前方部前幅七八㍍、同高七㍍、幅三〇㍍の周堀をめぐらせており、形は大変優美な姿をしている。主体部は未発掘だが、五世紀代の古墳と推定されている。前述の大鶴卷・小鶴卷古墳等と共に、千数百年以前にこの地方に君臨した大豪族の墳墓と考えられる。あるいは、山ノ上碑等にその名を見せる「佐野三家」一族に関係あるかと思われるが、今後の研究に俟つ』と、この古墳の規模について若干の差異はあるものの、上記のような説明文を載せている。
        
                倉賀野浅間山古墳後円部正面
              
 令和4年度から令和6年度までの調査成果により、浅間山古墳の外堀はほぼ全周することが確認された。形状は墳丘の東西側の幅が狭く、後円部の西側が大きく外に広がっていた。外堀の一部が広がる理由については、墳丘を構築する際に追加で土が必要になったため余分に掘削したことなどが考えられるが、今後の検討課題となっているという。いずれにしても、4世紀後半頃において二重の周堀は全国的にも最先端の構造であり、墳丘の規模や形状も含めた研究から、ヤマト王権と深い関わりがあったことが推察されているという。
        
                倉賀野浅間山古墳の案内板
 国指定史跡 浅間山古墳
 浅間山古墳は、烏川左岸の台地上に位置する四世紀後半から五世紀初頭に築造された前方後円墳です。墳丘は前方部が二段、後円部が三段の築造で、斜面には葺石があります。墳丘周囲には内堀と外堀の二重周堀があります。内堀は馬蹄形で、その外側に葺石を持つ中堤(ちゅうてい)が築かれ、さらにその外側に外堀が廻っていることが確認されています。
 同一段丘上には、前方後円墳の大鶴巻古墳・小鶴巻古墳、円墳の大山古墳・庚申塚古墳などの古墳及び方形周溝墓が多数築造されており、浅間山古墳周辺地域が古墳出現期から五世紀後半にかけて充実した墓域を形成していたことがわかります。
 浅間山古墳は築造時、東日本で最大の前方後円墳でした。現在も太田市に存在する太田天神山古墳(墳丘長210m)に次いで県内第二位の規模を誇り、高崎市内で最大規模のものです。
 浅間山古墳の規模
 墳丘長 :171.5m
 前方部 :長さ66.3m、高さ5.5m
 後円部 :長さ105.0m、高さ14.1m
 内堀の幅:30.8m(前方部)、31.3m(後円部)
 中堤の幅:910m
 外堀の幅:5665m
 全  長:南北332m、東西210m(外堀を含む古墳の全体の規模)
 ※ 令和35月現在の調査結果による推定規模(以下略)
                                       案内板より引用
 
            後円部(写真左)から前方部(同右)を望む。
 倉賀野浅間山古墳は、大和の佐紀楯列古墳群の佐紀陵山古墳(奈良市・全長209m)と親和性の高い類似形の平面形を呈しており、また、近郊の下佐野遺跡群などで滑石や緑色凝灰岩を用いた玉造製作工房跡が確認されたことによって、当古墳の築造時期とほぼ同時期の、倉賀野地域に早い段階で玉造集団が移住・定着し、新たな祭祀体制への備えが存在していたことが考えられているとの事だ。
 どちらにしても、当古墳は、現在の群馬が古墳時代において「ヤマト」との関係をより強固に結び付ける歴史を物語る古墳であり、それが一地域の力の結集によって具現化された大型前方後円墳の一つである。このような重要な古墳が、その全貌を今もほぼ形状を保ったままで残存していることに大きな価値がある。市街地化が急速に進む現代にあって、これだけの大型古墳が周堀の形状も綺麗に地割として残っている点は、群馬県でも稀有といい、古墳時代からの歴史を如実に伝えることのできる歴史文化遺産といえよう。 


参考資料「
高崎市文化財調査報告書429:倉賀野浅間山古墳HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「遺跡案内板」等   
                     

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大鶴巻古墳・小鶴巻古墳

 かつて古墳時代、高崎市東南部の烏川流域の下佐野町地域から倉賀野町地域にかけての左岸段丘上には、300基近い大型の前方後円墳・円墳が広く分布しており、特に烏川左岸の粕沢川流域には『倉賀野古墳群』と総称される古墳群が形成される。近接する東方井野川下流域の古墳群ともあわせると、付近一帯は古墳時代のほぼ全期間にわたるきわめて大規模な古墳分布地帯である。
 この大規模古墳群には、突出した規模を誇る前方後円墳である倉賀野浅間山古墳を盟主墳とし、粕沢川左岸に築造時期が近接する前方後円墳である大鶴巻古墳が、右岸には同じく前期円墳と考えられる庚申塚古墳・大山古墳等が築造されている。古墳時代前期において大型墳が集中する現象は稀有であり、倉賀野古墳群の優位性が際立っているのだが、古墳時代中期になると、5世紀後半に築造されたと推測される主体部に舟形石棺を有する小鶴巻古墳等幾らかの遺跡は確認できるが、倉賀野浅間山古墳周辺において遺跡数は大幅に減少し、烏川左岸縁辺部においても同様な傾向となる。
        
            ・名  称 大鶴卷古墳
            
・所 地 群馬県高崎市倉賀野町661番地ほか
            
・形  状 前方後円墳
            
・規  模 墳丘長123m 高さ10.5m
            
・指定種別 国指定史跡(昭和248日指定)
 倉賀野神社の南西方450㍍ほどに大鶴卷・小鶴卷の二大古墳がある。『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』による「鶴巻」という名称の由来は、弓弦を巻く弦巻であるとか、鶴舞の転訛などの説があるが定かでない。古老の話では、この辺一帯は鶴の飛来地であったというから、あるいは「鶴舞」説が正しいかも知れないとの事だが、真偽の程はわからない。
 大鶴卷古墳は、墳丘全長123㍍、後円部径72㍍、同高さ10.5㍍で、2段築成(後円部は3段の可能性有り)で葺石・埴輪を備え、幅約25㍍の周堀をめぐらせる大前方後円墳である。4世紀から5世紀前半頃の築造と推定されている。
        
                  史跡 大鶴卷古墳
              案内板は西側前方部と後円部とのくびれ部付近に設置されている。
        
                 大鶴卷古墳の案内板
 史跡 大鶴巻古墳
 この古墳は、烏川左岸の段丘上に築かれた全長一二三mの前方後円墳で平坦地に土地を二段に盛り上げてつくられています。ただし、後円部の墳頂下五mのあたりで等高線の間隔がゆるやかになる部分が見られることから三段築成の可能性もあります。後円部の径が七二m、高さ十.mであるのに対し、前方部の長さ五一m、前端幅五四m、高さ六.mと、後円部に比較して前方部の幅が狭く、未発達という特徴を持っています。墳丘のまわりには楯型の周濠をめぐらし、地割りにその痕跡が残るなどよく原型をとどめています。墳丘の表面には埴輪や葺石として用いられた川原石が認められます。主体部は明らかにされていませんが、竪穴系の埋葬施設があったと考えられ、墳丘・周堀りの形状や採集された埴輪の特徴から四世紀から五世紀初頭にかけてつくられたことが推測されます。
 所在地 高崎市倉賀野町六六一番地ほか
 指 定 昭和二年四月八日
 高崎市教育委員会                               案内板より引用

        
                   後円部を撮影
 
  後円部の楯型の周濠も綺麗に保存されていて、よく原型をとどめている(写真左・右)。

 大鶴巻古墳の出土品として、円筒埴輪や鰭付き円筒埴輪があるが、これらは黒斑を有し突帯突出率も高いものになる。これら埴輪や墳丘・周堀の形状から、大鶴巻古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定されている。

        
             
・名 称 小鶴卷古墳
             
・形 状 前方後円墳
             
・規 模 墳丘長87m 後円部径約50m 前方部幅約40m
 小鶴卷古墳は大鶴卷古墳の北に接し、墳丘全長約87㍍、後円部径約50㍍、前方部前幅約40㍍、幅約20㍍の周堀を有する前方後円墳で、一見するだけでは87㍍という墳丘長には正直見えない程、採土のためかなり変形しているようだが、貴重な歴史的な遺物であるため大鶴卷古墳と併せて末永く保存してほしいものである。後円部墳頂において凝灰岩製刳抜式石棺が見つかっており、これを基に大鶴巻古墳に続く5世紀後半の築造と推定されている。
        
             後円部付近に設置されている案内板
 小鶴卷古墳
 この古墳は大鶴卷古墳と共に、五世紀後半のものと推定される前方後円墳で、倉賀野古墳群を代表する首長墓の一つでもあります。墳丘全長約87m、後円部径約50m、同高約6m、前方部は前幅約40m、同高約2.5mで、幅約20mの周堀を有しています。
 後円部蓋の頂上中心部に舟形石棺と考えられる凝灰岩製の刳抜式石棺が安置されております。その石棺の蓋の部分の既掘穴(盗掘の穴)から見ると、内部には赤色塗彩がなされているとの報告もありますが、詳細は不明です。
 前方部は現在、共同墓地、畑地となっていますが、後円部高と比較して低平です。周堀は在宅化で原型の把握が困難ですが、堀と墳丘を一周していることは確認できます。出土する埴輪片は窖窯(あなかま)焼成で、外面に縦ハケの調整が施されています。
                                       案内板より引用
        
               道路沿いから眺めるように撮影


参考資料「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「案内板」等

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