古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栗坪諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市栗坪293
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧栗坪・梅原両村產土神 旧村社
              
・例祭等 元旦祭  例大祭(獅子舞)828日に近い土・日曜日
 埼玉県道15号川越日高線の「カワセミ街道」との交点である「高麗本郷」交差点を東方向に進むところは、栗坪厳島神社と全く同じであるが、同県道を900m程東行した丁字路を左折すると栗坪厳島神社に達し、そのまま直進するとすぐ左側で県道沿いに栗坪諏訪神社が見えてくる。
        
                  
栗坪諏訪神社正面
 この日高市を東西に横断する埼玉県道15号川越日高線、特に川越市連雀町から西側は、かつて「川越秩父線」だったように「川秩線」とか「秩父街道」と呼ばれていて、川越市内やさいたま市(特に旧・大宮市域)方面と日高市、飯能市、秩父市方面を連絡する道路でもあったようだ。
 
慶長2年(1597)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失し、新たな陣屋を梅原村との境に近い栗坪村地内に移したところ、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。このような経緯があり、高麗町の名称は梅原・栗坪二村の通称と移り、旧陣屋所在地は高麗本郷と称されるようになったといわれている。
        
                    拝 殿
    以前は県道沿いに社殿は鎮座していたが、つい最近、埼玉県道15号川越日高線の
         道路整備の為、奥に移動し新しい社殿が造営されたようだ。

『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 諏訪社 栗坪梅原兩村の産神なり、宮を造營するは神慮に叶はずとて、村の往還の傍に笹竹をもて屋根ともに打樊へり、例祭七月廿八日にて、其時かの笹竹の覆ひを改め營むと云、村持、

 諏訪神社  日高町栗坪に九三(栗坪字町)
 当社は高麗川の南岸に位置している。栗坪の地名は、古くから栗の産地であり、ここの栗は、壺に貯えれば春になっても味が変わらないことからきているという。『風土記稿』によると、慶長二年に災厄があったため高麗本郷にある陣屋と高麗町の民家を当地に移したところ、それがやがて梅原村にまで軒を連ねるほどの宿に発展し、一時は四日と八日を市日としてにぎわったという。
 当社は、この宿を通る川越・秩父街道に面して鎮座し、口碑によると信州の諏訪神社から勧請されたものであるという。
 祭神は建御名方命である。社殿の造営について『風土記稿』に、「宮を造営するは神慮に叶はずとて、村の往還の傍に笹竹をもて屋根ともに打樊へり、例祭七月二八日にて、其時かの笹竹の覆ひを改め営むと云」と載せる。これは現在でも続けられ、神社建築としては珍しい形を残している。本殿の規模は高さ一・三メートル、間口一・一メートル、奥行一・一メートルで、茅(かや)と竹で造られている。これは、毎年七月二六日の「お宮造り」の時に氏子の中の宮師と称する者が造り、材料の茅は通称松山と呼ぶ山の麓から刈って来る。なお、覆屋及び拝殿は、明治四四年に神社として社殿なきものは村社に合祀するとの命令を受けたため、氏子一同が協議して、一○年余りの間、積み立てを行い、大正一二年七月に現在の社殿を竣工した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿の右側に建つ白壁調の獅子舞道具庫   獅子舞道具庫の前に設置されている案内板

 諏訪神社の獅子舞  市指定文化財 無形民俗文化財
               昭和57128日指定
 諏訪神社(諏訪社)は、信州諏訪神社から勧請されたと伝えられ祭神に建御名方命を祀っています。本殿は、竹の骨組みに茅で屋根を葺き、周りも茅で囲う神社建築として珍しいものでした。
『新編武蔵風土記稿』に「宮を造営するは神慮に叶はずとて、村の内往還の傍らに笹竹をもて屋根ともに打樊へり、例祭七月二十八日にて、其時かの笹竹の覆いを改め営むと云」と記され、毎年茅が葺き替えられていましたが、平成9年を最後に現在の本殿に替えられました。
 獅子舞は五穀豊穣、家内安全を願い、例大祭で奉納されます。演目は、宮参り、村回り、雌獅子がくし、村回り、竿がかりの順で行われます。村回りは、始めに下宿(高麗宿の東側・大字栗坪地区)、次に上宿(高麗宿の西側・大字梅原地区)を回ります。豪壮で荒々しい舞は「高麗宿の喧嘩獅子」と言われています。(中略)
                                      案内板より引用
 獅子舞が奉納される例大祭は、豊作祈願と疫病除けの祭りで、「高麗の待」とも呼ばれ、宿の街道沿いが祭り一色となって賑わう。また、ここでは、江戸時代信州下諏訪から伝承された獅子舞が上演される。
 これはもともと同地域の竜泉寺で行われていたが、明治6年から当社で舞われるようになった。特に、当地の獅子舞は“狂う”といい、先獅子・中獅子・後獅子の三頭で行われ「竿掛(ささがかり)」などは豪壮で荒々しい舞は「高麗宿の喧嘩獅子」と言われていて、日高市指定無形民俗文化財に指定され、こうして今に受け継がれている。
        
             社殿の左側後方に祀られている三峰社
 当地で結成されていた講としては、三峰講・御嶽講・榛名講・大山講があったが、現在でも代参を行っているのは三峰講だけである。三峰講は、当社境内に御眷属の祠を祀り、講員は火防、盗賊除けの神札を三峰神社から受け取るのが通例となっており、
代参は秩父神社の夜祭りに合わせて行っているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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栗坪厳島神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市栗坪129
              
・ご祭神 三姫命(湍津姫神 田心姫神 市杵島姫神)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 元旦祭 大遊び 310
 埼玉県日高市栗坪地域は、同市南西部にあり、曼珠沙華の名所として知られる「巾着田」の東側で高麗川右岸に位置する。「栗坪(くりつぼ)」という地名の由来には、当地は栗の名産地で、栗を坪の中に保存したことによるか(新編武蔵風土記稿)という説と、坪には村落の意がある(日本の地名)ので栗を産する村の意であろう(地名誌)という説とあり、また条里制に由来する地名とも考えられるという。
 *参照 『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 高麗領高麗鄕に屬せり、村名の起る所はさだかならぬと、當村の栗は名産にして、是を坪内に貯れば、翌年仲春に至りても其味かはらざれば、それより起りしならんと云、(中略)

        
                  栗坪厳島神社遠景
 途中までの経路は高麗本郷九万八千神社を参照。「巾着田」のすぐ北側で、日高市を東西に横断する埼玉県道15号川越日高線の「カワセミ街道」との交点である「高麗本郷」交差点を東方向に進む。その後、進行方向左側に「高麗公民館」、右側には「高麗郵便局」を見ながら900m程東行した丁字路を左折、そのまま道なりに進むと小高い山が見え、その山頂付近に栗坪厳島神社の鮮やかな赤色の社殿が小さく見えてくる。
        
               遠目からでも目立つ赤色の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗坪村」の解説
 梅原村の東、高麗川右岸にあり、東は野々宮村・楡木(にれぎ)村。西方高麗川対岸は高麗本郷。東から西へ川越から秩父への道が通る。高麗郡高麗領に属した。村名は栗の名所で、壺内に蓄えた栗が翌春まで味が変わらないことに由来するという(風土記稿)。慶長二年(一五九七)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失したため、当村内梅原村境近くに移った。同様に市も当村内に移転したことから町場化し、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。これにより高麗町の名称も当地に移り、同町のうち下町が当村内にあった。陣屋諸用向・割元は高麗町名主に命じられ、慶長二年・寛文八年(一六六八)の検地の際の案内も町名主が勤めた(文化二年「市再興諸書物控并訳」堀口家文書)。近世中期までは人別五人組帳などは高麗町分は村分とは別になっていた(元禄一四年「高麗町人別・高之儀ニ付口上書下書」同文書)。田園簿では田二一石余・畑一三四石余、幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり、翌四年幕府代官からの引渡しが行われた(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書)。 


   鳥居の左側に設置されている案内板     鳥居をすぎてすぐ右側にある庚申塔と
                       その左側には龍泉寺住職の墓石もある。
       
    小高い山のようだが、よく見ると所々むき出しの岩盤(チャート)が見える。
      山頂に向かう足元の石段もこのように岩盤を利用して削って造られているようで、
           岩肌が荒々しく、意外と急勾配であるため、手すりが設置されている。
       
             山頂手前に祀られている三峯社の石祠
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 辨天社 龍泉寺の持、下同,
 龍泉寺 高岡山と號す、新義眞言宗、新堀村聖天院末なり、當寺はもと高岡村にありしが 何の頃かこヽに移せしと云、慶安年中高岡村にて、地藏堂領三石の御朱印を賜ふ、この堂は今も高岡村にあり、開山詳ならず、中興開山承慶は延享三年九月廿三日寂す、本尊不動を置、

 厳島神社  日高町栗坪一二九(栗坪字御蔵)
 栗坪は古くから栗の産地であることから付けられた名であるといわれる。『風土記稿』には、慶長二年に大久保石見守が高麗本郷にあった陣屋を当村に移した時に、民戸も移り、二町余りも家居をつらねて高麗町と唱え、毎月四・八の日に市を開くようになったが、元文二年に陣屋が廃され、延享年中、一橋家の領地の時、陣屋跡が開墾されるに及び市も寂れ、ついに廃されてしまったことが記されている。
 当社は、神仏分離以前は真言宗高岡山竜泉寺内に、村社であった諏訪神社と共に祀られていたが、以降それぞれ独立した社となった。竜泉寺は山号が示すように隣村である高岡村にあったといわれ、火災のために現在の地に移転したと伝えられている。現在も高岡には慶長年中三石の朱印を受けた同寺持ちの地蔵堂が残る。
 祭神である市杵島姫神は市神として祀られることが多く、当社も、とくに竜泉寺内に祀られていた当時は市神として信仰されたことが推察される。しかし、江戸中期に市が廃されると、市神の信仰から技芸神と信仰が移り、また、神仏習合時に水の神である弁財天と凝せられたことから、神仏分離時に高麗川に近い当地に祀られたと考えられる。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 山上から眼下を望む。

 ところで、社の北側は断崖絶壁となっていて、高麗川がすぐ近くを流れている。当社は、水に関係の深い場所の岩場に建てられ、水の神である弁財天に関係があることから、地元では古くから弁天様の名前で親しまれているという。
  
   社から高麗川沿いには遊歩道が整備され、   高麗川の流れが社が鎮座する岩場で遮られ
  参拝中も数名散歩をする様子が見られた。    折れ曲がるように流れが変わっている。

 栗坪地域は高麗川右岸という地形でありながら、実は昔から旱魃に悩まされていた地で、大正時代末期までは、日照りが続き作物に被害がでるようになると「雨乞い」が行われたという。その際には、青梅の「タカミズサマ」へ若者が水をもらって行き、神前に供えて雨乞い祈願を行った。その後、高麗川の弁天淵という所で、村の男たちが川に入り、竜泉寺にある大きな数珠を持ちだして、川の中でこの数珠を皆で回したという。
 このあと、字の者たちで集まり、お日待ち(庚申待ともいう。村の人たちが一ヵ所に集まって食事や談笑しながら、共同祈願をするという習俗)を行ったということだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「角川日本地名大辞典」
    「境内案内板」等

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日吉神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市日吉町1028
             
・ご祭神 大国主命 大山咋命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 春季例大祭 4月初旬 秋季例大祭 9月第1土曜日
 埼玉県東松山市にある灌漑用水のため池を再生した公園が「下沼公園」で、その650mほど北にある「上沼公園」と共に、東武東上線・東松山駅に近い市街地内にあり、周囲に桜が植栽され、絶好の散策・お花見スポットになっている。
        
                   上沼公園北側入口付近
 この2つの沼には伝説があり、それがそのまま「松山の女沼男沼の由来」ともなっている。
=戦国時代の永禄12年(1569)、与四郎が戦場から逃げて家に帰ったら、与四郎の母と新妻は下沼に身を投げていたので、自身も上沼に身を投げて死んでしまった。以後、それぞれを女沼・男沼と呼ぶようになったという『女男沼伝説』があり、桜のライトアップ時には、両方の沼をつなぐ遊歩道1600mに灯籠が灯される『東松山夢灯路』も行なわれているという=
 同じ東松山市で高坂地区には「大沼」「小沼」があり、そこにも『高坂氏息女の悲恋物語』として、恋慕う仲を裂かれた二人は大沼・小沼に身を投げてしまうという悲しい伝説が今でも語り継がれていて、真偽の程は不明であるが同じ形態の伝説として残されている。
 この上沼公園の道路を隔てた西側に日吉町日枝神社は鎮座している。
        
                   
東松山市の中心街である日吉町に鎮座する日吉神社
        
 
 鳥居のすぐ左手に祀られている弁財天の石祠     鳥居の右手に設置されている御由来の案内板
 日吉神社  一御由緒一
 祭神 大国主命 大山咋命
 創建
 江戸時代文化一五年二月(一八一八年)近江国日吉山に鎮座する地主神・安産子育て・家内安全・学業成就の守護神日吉山山王大権現を当地に勧請、社殿を建立する。
 *日吉町の地名はここより始まる。(中略)
 祭典日  毎年
 元旦祭
 春季例大祭 四月初旬
 秋季例大祭 九月第一土曜日
 *神社の呼称を日枝から日吉に改める。(以下略)                案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 松山町』
眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
 松山日枝神社  東松山市日吉町一〇—二八(松山町字日吉町)
 旧松山宿の北部に位置し、「職人の町」として知られる日吉町に当社は鎮座している。町場の神社らしく、境内の両脇には家が建て込んでおり、神木に準じた扱いを受けている銀杏を除いてはこれといった樹木もないが、向かい(南側)が上沼公園という大きな池を中心とした公園になっているため、環境は比較的よい。
 日吉町は、江戸時代の中ごろに、染色に関係した職人が住み着くようになったことから発展した。当社は、神仏分離まで境内の西隣にあった天台宗の真福寺の守り神として勧請され、それが日吉町に住み着くようになった人々によって町内の守護神として護持されるようになったものであろうといわれている。ただし、この真福寺の開山については伝えられていない。また、内陣には、金幣のほかに、「文化十五戌寅年(一八一八)二月吉祥日 山王大権現 松山住人山王産野村主計久信」と記された木札が納められている。あるいは、近江の日吉神社に参詣し、その記念のためにでも上げられた納め札であろうか。
 この木札にもあるように、当社は元来は「山王大権現」と称していたが、明治に入ると神仏分離によって真福寺の管理を離れると同時に、社号を現行の日枝神社に改めた。しかし、改称の後も住民の間では「山王様」の通称で呼ばれることの方が多く、現在でもなお、「日吉町の山王様」として市民に知られている。                             「埼玉の神社」より引用                              

    
 当地名「日吉町」は、日枝神社から(日吉神社とも呼ばれていた)名付けたとの事の様で、近くに湧き水もあり、その為に地域近郊には染色業や織物業に関連した職人の住居が多くあったという。日枝神社は天台宗系の山の神を祀る神社でありながらも、同時に水の守り神でもあった。また、近くには湧き水からの上沼があり、湖畔の北側には松山神社が鎮座する。境内には水の神である弁財天も祀られており、当地が水利の便が豊かな地域であった証しでもあったのであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」郷土の民話を探して - 東松山市」

    「境内案内板」等


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本町八雲神社


        
            ・所在地 埼玉県東松山市本町158
            ・ご祭神 倉稲魂命
            ・社 格 旧無格社
            ・例祭等 例祭(天王祭) 7月最終土・日曜日
 東松山市役所の東側で、本町地域を南北に縦断する埼玉県道66号行田東松山線沿いで、「上沼公園」交差点を直進し、松山宿上宿(上町)の上沼公園を過ぎたすぐ右手に社は鎮座している。
 旧松山宿の総鎮守として創建された氷川神社(現在は松山神社に改称)の末社として、安政6年(1859)再建のために金品を募り、明治7年(1874)に再建されたという。
        
              県道沿いに鎮座する
本町八雲神社 
『日本歴史地名大系』 「松山町」の解説
 現市域の中央やや東寄り、東松山台地上にあり、北部・東部は市野川低地、南部は都幾川低地によって区切られる。東は根小屋(ねごや)村・流川村(現吉見町)、西は石橋村、羽尾村(現滑川町)、南は柏崎村・野本村、北は市ノ川村・平村・野田村。古くから交通の要地で、中世には松山本郷とよばれていた。戦国期には、武蔵八王子・河越、岩付(現岩槻市)などと鉢形(現寄居町)や秩父地方・上野国方面とを結ぶ街道の宿駅、また東方に位置した松山城(現吉見町)の城下として発達し、町場も形成されていた。慶長五年(一六〇〇)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、引続き日光脇往還・川越秩父道の宿場町として賑いをみせ、江戸時代も比企郡域の商業・交通の中心地であった。
        
                 正面一の鳥居より撮影
                鳥居前には鉄鎖が張られ中に入りにくい雰囲気がある。
 現在の市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、元を辿れば1333年に上杉氏麾下の上田友直によって築城されたとされる松山城の城下町として発展した街である。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。室町時代から戦国時代にかけて扇谷上杉氏が松山城一帯を支配するが、上杉朝定が川越夜戦で敗死すると、松山一帯は北條氏の領土となる。
 慶長5年(1600)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、江戸幕府によって五街道と脇往還といった主要道路の整備が進められ、当市域でも、八王子から日光に至る日光脇往還道の宿場として松山宿と高坂宿が八王子千人同心によって整備され、また江戸から上州に至る川越児玉往還(川越道)の宿場として高坂宿が江戸幕府・川越藩合同によって整備され、その中でも川越・熊谷を結ぶ「本町通り」が商業の中心地として、発展し栄えた。
 現在の埼玉県道66号線沿いの「上沼・下沼」区間に「本町通り」を形成し、江戸時代から明治・大正・昭和30年代後半まで、中心的な役割を担ってきた商店街として、現在でもその町並みはその面影を留めていて、大正・昭和初期は全盛期であったという。
        
               
市指定文化財の本町八雲神社社殿
        
       指定年月日 昭和321129    
          
本殿保護のため屋根を掛けて保存が図られているようだが、
   周囲からの風雨や車両の排煙等に晒されてしまっていて、その点だけはやや残念。
        
                  八雲神社由来書
『新編武蔵風土記稿 松山町』
 天王社 眞福寺持
 眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
『埼玉の神社 日吉松山神社』
 八雲神社は、無格社であったのを大正三年一月十九日当社の境内社に編入したもので、市の文化財にも指定されているその社殿は、天保六年(一八三五)の再建時に河原明戸(熊谷市)の棟梁飯田仙之助とその弟子が精魂込めて造り上げたものであるという。

 八雲神社 市指定文化財
 社殿は、間口二・六m、奥行三・六m単層切妻で正面軒は唐破風となり、その下に千鳥破風がおいてあります。社殿は切妻の面もすべて彫刻で飾られています。正面は花鳥及竜と唐獅子・左側は神功皇后新羅征伐凱旋の場、右側は須佐之男命大蛇退治の場、背面は天照大神の天岩戸の場が刻まれています。
 他の神社の彫刻と異なり、伝統的なものに取材し、豊かな民俗的色彩を有する特色をもっています。
 昭和三十三年一月 境内より左記の銘文が発見されました。
 惟時安政六年四月奉再勧進者也
 法王祈願現住権律師亮覚敬白
 祇園牛頭天王
 この彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助が三人の弟子に技を競わせたものといわれています。                          案内板より引用
        
                   境内の様子
 この神社は元「天王社」と称し祇園牛頭天王を祀っていて、その後の明治期の神仏分離で八雲神社に改められているのだが、当初筆者はご祭神を素戔嗚尊であろうと普通に考えていたのだが、調べてみると、なぜか祭神が倉稲魂命というのが興味深い。
どのような経緯でご祭神が倉稲魂命となったのか、知っている方がいるのであれば、是非ともご教示願いたく思います。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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境百々飯玉神社


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境百々90
             ・ご祭神 保食命
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 下武士三社神社の東方向にある「伊勢崎市境支所」を更に東行し、「境支所入口」の三叉路を左折する。群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北西方向に進行し、1㎞程進んだ右手に境百々飯玉神社の鳥居が見えてくる。後日地図を確認すると、「伊勢崎市消防本部 境消防署」がすぐ西側に見え、また社の北西方向には「境ふれあいパーク」もある。更に北東方向に目を転じれば、:境上矢島勝手大明神がそれ程遠くない場所に鎮座している。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようだ。そこで「境ふれあいパーク」の道を隔てた東側にコンビニエンスストアがあり、そこの一角に車を停めてから徒歩にて参拝を行う。
        
                境百々飯玉神社正面鳥居
                   鳥居前左側には庚申塔と地神等が祭られている。
『日本歴史地名大系』 「百々(どうどう)村」の解説
 北は新田郡矢島村、西は木島村。平坦地。村内を江戸道(現県道伊勢崎―深谷線)が走る。永禄八年(一五六五)頃には、金山城(現太田市)城主由良氏の配下、丸橋右馬助が領していた(長楽寺永禄日記)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二八石余・畑方六六石余。「伊勢崎風土記」に慶安二年(一六四九)村内に市を開こうとしたとある。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別田三町余・畑一一町三反余、ほかに新田として田五反余・畑一六町四反余、家数二九、馬八疋。
 伊勢崎市百々地域の「百々」は、なかなかの難解地名で、「百々」と書いて「どうどう」と読む。地名由来をインターネット等にて調べてみると、同じ名前の地名は全国に複数あるようで、いずれも水が盛んに流れる様子を表す擬音語である「どうどう」に由来するとされるという。
       
  鳥居から真っ直ぐに伸びる参道の先に神橋がある(写真左)。但しそこから参道は一旦
  左側に曲がり込み(同右)、その後一対の狛犬付近で元にもどるような境内配置となる。
        
                    拝 殿
 飯玉神社 采女村大字百々 祭神 保食命
 大字百々の中央に在り往古領主那波氏堀口飯玉大明神の分霊を奉遷創建したもので明治六年(1873)村社に列した
 經藏寺 眞言宗元新義派 大字百々の東方に在り世良田惣持寺の末寺なりと謂ふ本尊は虚空藏菩薩である
 妙眞寺 眞言宗新義派 大字下淵名に在り正慶二年(1333
)七月十七日淵名妙眞尼の開基に係る尼は淵名實秀の女にして嘗て北條氏に嫁き其の滅ふるに及ひ生地に歸り一庵を創立し剃髪して妙眞尼と稱す寺號は之に起因せるものなりと言ふ十二世に正空坊日昭なる者あり下野國小俣邑鶏足寺住職宥範より慈猛流を受け當寺を中興し弘化二年式色着用を許可せられ且小本寺に昇格して新田郡四格院の一となつた本尊は正觀音菩薩である若心經偈文、弘法大師眞蹟を藏すと謂ふ
 
縄に紙垂を巻いているところから神興庫と推察          本 殿
        
                    
社殿左側には境内社・高尾山神社が祀られている。
         
           高尾山神社社殿     高尾山神社の奥の小高い丘上
                        に鎮座する社。元宮か。
       
             本殿奥に祀られている石祠群。詳細不明。 

『境町の民俗』によれば、「百々(どうどう)は昔村高九四石八斗、家数二九軒、人別一〇〇人程の小村で、東端に郷蔵があり、岡崎・羽鳥姓が多かった。小村であるから経蔵寺は無住で、下淵名妙真寺が兼務する。百々という川のせせらぎを音柴する地名だが、この地区を流れる長溝川は下淵名に源をなす小川で、村の南部を流れる世良田用水は慶長十三年に掘り開かれた水流である。経蔵寺墓地には境城主小此木長光一族の墓碑があるが、由来を明らかにしない」との事だ。


参考資料「
 

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