古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

筑波山神社(2)

『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。
 元明天皇の詔によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。
 編纂者は不明。現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合であるという説もあり、また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説もある。
 因みに、現在各令制国で編纂されたであろう風土記は、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ伝わっているが、いずれも原本ではない。
       
                拝殿の右側にあるご神木のマルバクス(丸葉楠 写真左・右)
 マルバクスはクスノキの変種で、葉が著しく丸く、この木をもとに牧野富太郎博士により命名され、昭和15年『実際園芸』二六巻十一号に発表された。このマルバクスは当神社の他に福岡県太宰府に一本確認されているという。標本木として、市指定天然記念物に指定されている。

 常陸国風土記における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。
「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
 また、『常陸国風土記』が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。
 ところで『常陸国風土記』筑波郡には、登る人もなく供物もない「福慈の岳(富士山)」と、人々が往き集い舞い踊る「筑波岳(筑波山)」が、対比的に語られる説話が収録されている。当然、この対比の背景には、常陸国の「筑波岳」を積極的に賛美する編集側の意図があるわけであるが、比較の対象を「福慈岳」を持ち出すところに、当時の律令官人が東国における代表的山が「福慈岳」「筑波岳」であるという認識が見て取れよう。
        
  筑波山神社の拝殿のすぐ右側隣に鎮座する春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)の拝殿
        
                拝殿の奥に祀られている春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)
 この春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)及び拝殿は、寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされる。春日・日枝両社本殿は規模・構造とも同一の三間社流造で、間口2間・奥行2間。向背中央の蟇股には、それぞれ日枝神社は猿、春日神社は鹿の神使が彫られている。拝殿は割拝殿形式、桁行5間・梁間2間の入母屋造で、正面と背面に軒唐破風がつく。両社本殿と拝殿は合わせて茨城県指定文化財に指定されている。
       
 筑波山神社境内にはご神木である大杉や夫婦杉のみならずの多くの巨木・老木が屹立している。
春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)の脇道を進むと、一際目立つ巨木があり(写真左・右)、注連縄等はないようだが、林に群生している樹木とはかけ離れた威容であったので、写真に納めてしまった。

『常陸国風土記 筑波郡』の条には、遠い昔、諸国をめぐり歩いていた神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は、「…天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになったという。

『常陸国風土記 筑波郡』原文
古老の曰へらく、昔、神祖の尊、諸神の処に巡り行でまししに、駿河の国福慈の岳に至りたまひて、卒に日暮に遇ひ、寓宿を請欲ひたまひき。此の時、福慈の神答へて曰へらく、「新粟の初嘗して、家内諱忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ。」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひしく、「即ち汝が親ぞ。何ぞも宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極、冬も夏も雪霜ふり、冷寒重襲り、人民登らず、御食を奠るものなけむ。」とのりたまひき。更に筑波の岳に登りまして、亦容止りを請ひ給ひき。此の時、筑波の神答へて曰へらく、「今夜は新粟嘗すれども、敢へて尊旨に不奉ひまつらじ」とまをしき。爰に、飲食を設けて、敬拝み祇承へまつりき。是に、神祖の尊、歓然びて謌ひたましく、愛しきかも我が胤巍きかも神宮天地の竝斉日月と共同に人民集ひ賀ぎ飲食富豊に代代に絶ゆること無く日に日に弥栄え千秋万歳に遊楽窮らじとのりたまひき。是を以ちて、福慈の岳は、常に雪降りて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往き集ひ、歌ひ舞ひ、飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(以下略く)。

 有名な話だが、古事記・日本書紀(以下記紀)には、武内宿禰(たけうちのすくね)の東国見聞やヤマトタケルの東征など、東国に関する描写がいくつか見られるが、巨大な独立峰である富士山の記述が全くない。富士山は圧倒的な存在感を放つ山であり、旅人の目印としてはこの上なく、東国に足を踏み入れた者がこれを目にしないというのは、むしろ不自然とも言えよう。事実、記紀より少し後に編纂された「万葉集」には、約130年間に詠まれた約4,500首の和歌のうち、11首に富士山が登場していて、万葉集編集以前から当時の人々に深く根付いた存在だったことが伺える
 その原因として、まことしやかに謂われている説(遠距離にあった地形上の理由、大和王権により意図的に削除された説、大和王権側の神話に融合できず、削除された説)に関して、一々論じはしない。論点からずれるからである。

 巨木の奥にある楠木正成の孫の楠木正勝の墓   楠木正勝の墓の右並びに祀られている愛宕神社

『常陸国風土記』編集・成立時点で、富士山は「不二岳」「福慈の岳」と表記されている。この風土記を編集する時点での元ネタ(書簡・書物)があったことは確かだろうし、その書簡等は、その地域に住む人々の普遍的な常識や習慣を記述しているであり、伝承・伝説の類はもっと古いであろう。(但し部分的に後年に書き換えられた可能性は否定できないが、その主文に関しては、そのまま記述されていると思われる。)
 つまり、『常陸国風土記』の説話は、風土記成立時期より、少なくとも数百年単位前の現地で語られていたものであろうと考えられ、それは所謂「記紀」成立時点前の、当地では当たり前の伝説を載せたものと推測できよう。 
 それは、この風土記に載せている倭武天皇や土蜘蛛等といった人物や集団についても同じであろう。筆者のいつもの妄想の類で失礼するが、何となく、大和王権中心の歴史史観からは外れたというか、嘗てこの地に先住していた人々・集団の歴史的認識がこの説話に生き生きと描かれているようにも思えて仕方がない。
       
                随神門から見た境内の様子

 主祭神である「筑波男神」「筑波女神」も実をいうと、ハッキリ分からないという。現在は伊弉諾尊・伊弉冊尊二柱に比定していて、その理由が、筑波山は男体山・女体山からなる双耳峰で、峰が相並ぶ山容から、自然と男女柱の祖神が祀られるようになったともいわれるのだが、この二神の人格神をあてる説が江戸時代から散見される。
一社者日本武尊、一社者弟橘比売也、俗に陰陽二柱尊 (『神祇宝典』)
伊弉諾尊在陽峯、伊弉冉尊在陰峯 (『常陸国二十八社考』)
陽峯埴山彦神、陰峯埴山姫神 (『神名帳考証』)
祭神不詳とし、伝に「伊弉諾尊在陽峯、伊弉冊尊在陰峯、通謂筑波大明神」 (明治12年(1879年)の『筑波山神社明細調書』)
 その後、六国史の記載に基づき、明治42年(1909年)1月に祭神名は「筑波男神」「筑波女神」と定められた。そして大正11年(1922年)に交替した社司により、「筑波男神・筑波女神」に「伊弉諾尊・伊弉冊尊」を併記することが定められている。なお、伊弉諾尊・伊弉冊尊とする伝承の起源・経緯に関しては詳らかでないという。
        
              筑波山口バスターミナル近辺の鳥居
        
          平野地の多い茨城県にあって一際目立つ筑波山の威容



参考資料「常陸国風土記」「筑波山神社HP」「つくば市HP」「茨城県教育委員会HP
    「茨城県神社庁HP「茨城県生活環境部生活文化課HP「茨城県観光物産協会HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」「現地案内板」

拍手[0回]


筑波山神社(1)

 筑波山は、日本の関東地方東部、茨城県つくば市北端にある標高877 m(メートル)の山。筑波山神社の境内地で西側の男体山(標高871 m)と東側の女体山(標高877 m)からなる。雅称は紫峰(しほう)で、富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称されている。日本百名山・日本百景の一つ
 古くから「霊山」として信仰され、『万葉集』にも詠まれる。筑波山は『常陸国風土記』に見える頃より神の山として信仰が深く、その神霊を祀る筑波山神社は公家・武家から崇敬が深い神社であった。山中には巨石・奇石・名石が数多く散在し、それぞれに名前がつけられ、多くの伝説を生み、それらに対する信仰が今日でも受け継がれ、山そのものが「神域」として崇められている。
 山名「筑波」の由来に関しては、『常陸国風土記』にある、筑箪命(つくはのみこと)という人物に由来するというものが一番古い説である。筑波周辺は紀国(きのくに)と呼ばれていたが、美麻貴天皇(みまきのすめらみこと。後の崇神天皇)の治世に、国造に任命された采女臣氏の友属(ともがら)の筑箪命が、「我が名を国につけて、後世に伝えたい」と筑波に改称したという。同書はまた、筑波が俗に「握飯筑波」とも呼ばれたと記している。
        
             
・所在地 茨城県つくば市筑波1
             ・ご祭神 筑波男ノ神(伊弉諾尊) 筑波女ノ神(伊弉冊尊)
             ・社 格 式内社(名神大1座、小1座)旧県社 別表神社
             ・例祭等 年越祭 21011
                  春・秋の御座替祭 41日・111日 他
 筑波山神社は、筑波山を神体山として祀る神社であり、平安時代中期の延長5年(927年)にまとめられた「官社」に指定する神社一覧である『延喜式神名帳』における式内社(名神大社1座、小社1座)、旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
       
                 社殿に通じる正面鳥居
 筑波山神社の由緒は古く、第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残る。奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかる。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列した。
 奈良時代末から平安時代初め頃には、法相宗僧の徳一が筑波山寺、のちの筑波山知足院中禅寺を開いた。これにより神仏習合が進み、筑波山は有数の修験道の道場に発展していく。この神仏習合の時代には「筑波両大権現(両部権現)」とも称されていた。
       
                   鳥居を過ぎると、正面に神橋が見えてくる。

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では常陸国筑波郡に「筑波山神社二座 一座名神大 一座小」と記載され、筑波郡では唯一の式内社に列しているが、うち名神大社が筑波男神、小社が筑波女神とされる。その後、治承4年(1180年)には正一位に達したという。
 鎌倉時代初期には常陸国守護の八田知家(小田氏祖)の子の八郎為氏が筑波国造の名跡を継ぎ、筑波別当となった。この筑波為氏(明玄)の子孫は以後筑波氏を称し、筑波神奉斎者かつ中禅寺別当を担った。中世の動向は明らかでないが、慶長5年(1600年)に徳川家康により筑波氏が外されるまで、筑波神・中禅寺は筑波氏の統率下にあったとされる。
 江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じた。また、幕府は中禅寺を篤く保護し、中禅寺境内には多くの堂塔が建立され、筑波山は神仏共立から仏教中心の霊地へ性格を変えていく。
 幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏分離により中禅寺は廃寺、筑波山神社は復興し、その主要部は中禅寺の跡地を踏襲して形成される。その後、明治6年に県社となり現在に至るという。
       
                  筑波山神社神橋
 桁行4間・梁間1間・切妻造・柿葺・妻入りの反橋(そりはし)で、筑波山神社の神事である御座替祭(おざがわりさい)の時、神輿と随従の人々がこれを渡る。両妻の太瓶束(たいへいづか)の左右に妻面を覆いつくすようにのびる唐草の笈形(おいがた)や虹梁上の板蟇股に、安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる。
 制作時期としては、江戸時代初期で寛永10年(1633)三代将軍家光公の寄進。
 県指定 有形文化財 建造物  指定年月日           昭和54111
       
             神橋を過ぎて随神門に通じる石段を上る。
              
                   石段左側で中腹附近に聳え立つ「夫婦杉」
       
                    随神門

      案内板が掲示されている。         門を過ぎてから後ろ側を撮影
 間口52尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模である。古くは寛永10年(1633年)に3代将軍徳川家光により寄進されたが、宝暦4年(1754年)に焼失、再建されるも明和4年(1767年)に再度焼失した。現在の楼門は、その後の文化8年(1811年)の再建によるもので、神仏習合時代には「仁王門」として仁王像(金剛力士像)を安置したが、神仏分離後は「随神門」とされた。仁王像は神仏分離の際、桜川から筏で流され、つくば市松塚の東福寺に運ばれた。このことから同時では現在「流れ仁王」と呼ばれている。現在の随神門では、拝殿向かって左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を安置している。
 この随神門はつくば市指定文化財に指定されている。
             
                  随神門の右側には巨大な大杉であるご神木が聳え立つ。
                樹齢約800年・樹高32m      
        
          
随神門から更に石段を上ると正面に拝殿が見えてくる。
        
                拝殿に通じる石段には踊り場があり、そこを左方向に進むと、
                            境内社・厳島神社が祀られている。
 この厳島神社本殿は、方一間、妻入正面に向拝を設けた、いわゆる春日造である。江戸時代初期の寛永1011月(1633)三代将軍家光公寄進。琵琶湖の竹生島より御分霊を祀ったという。
 向拝蟇股に蛇の彫物があり、同じ境内社の春日神社・日枝神社と同様に、神使をもって神名を表現している。向拝と身舎は水平な虹梁でつなぎ、その中央に優美な蟇股を置いている。
 県指定 有形文化財 建造物  
指定年月日           昭和54111
        
        石段踊り場右側に設置されている「筑波山神社御造営由来記」
        
                    拝 殿
 筑波山神社御造営由来記
筑波山は、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神御降臨の霊山で、西峰に男大神、東峰に女大神を祀り、筑波山神社と崇め奉る。世々筑波国造が奉仕し 嵯峨天皇の弘仁十四年正月官社となり、延喜式内名神大社に列す。
 慶長の初め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍家第一等の御祈願所と定め、寛永十年十一月三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を悉く寄進造営し輪奐その美を尽す。御神領千五百石。元治元年の筑波山義挙を経て、明治元年三月、神化分離の令により当山は神体山信仰の古制に復し、明治八年拝殿を造営す。
 その後、昭和三年四月文部省古社寺保存課安間立雄技手の設計監理にて唐破風千鳥破風付銅板葺入母屋造りに改修し、昭和三十年五月男体山御本殿を改築す。
 昭和五十一年五月二十四日・二十五日の両日 天皇・皇后両陛下 当山に御幸啓遊ばされ、 全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。越えて昭和五十四年五月御本殿御造営奉賛会を結成して、 六十五年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し、更に記念事業として九十五年前建築の社務所に代え、「人民集賀」と御神徳を称えた常陸風土記緑りの参集殿を建立して千手堂に三重塔を配した。江戸時代の結構の再現、及び百年前に亜鉛板で仮葺きした随神門屋根の改修をはかり、氏子崇敬者からの浄財寄進により左の事業を行い明治以来の宿願を達成す。
女体山御本殿 守札授与所改築
神明造銅板葺    昭和五十五年五月竣工
参集殿    新築 昭和五十七年四月竣工
裳階屋根唐破風付銅板葺入母屋造り
随神門屋根銅板葺替 昭和五十九年八月竣工
明年 筑波研究学園都市に於いて開催される世紀の祭典科学万博つくば85を迎えるに当り
御造営の由来を録して広大無辺なる神明の御加護を深く感謝し、天下泰平国家安全、万民弥栄を精祈するものである。(以下略)
                           「筑波山神社御造営由来記」案内板より引用

        
               拝殿の前にある「さざれ石」
 
      拝殿の左側奥の斜面上には朝日稲荷神社・稲荷社が鎮座している(写真左・右)。

 この朝日稲荷神社は「出世稲荷」の別名があり、嵯峨天皇第四皇子・常陸国太守忠良親王の創建とされている。




参考資料「筑波山神社HP」「つくば市HP」「茨城県教育委員会HP」「茨城県神社庁HP
    「茨城県観光物産協会HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」「現地案内板」等
              

拍手[0回]


貝塚神社

 埼玉県は、海なし県と今では言われるが、嘗て縄文時代は、東京湾から北へ海が広がっており、埼玉県にも内海が広がっていた。最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇現象は、7000 年前頃までには奥東京湾の最奥部付近まで達し、この頃の海水面は、現在に比べて23m高くなる。いわゆる「縄文海進」と呼ばれる現象が日本列島各地に起きていて、この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られたという埼玉県周辺では、中川低地や荒川流域にそって内陸深くまで海が入り込み、奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されていた。特に、古利根川を含む中川流域の海進は大規模なもので、現在の栃木県藤岡町付近にまで及んでいたと考えられている。
 埼玉県指定史跡である綾瀬貝塚は、貝塚神社付近一帯に広がる縄文時代前期の貝塚で、淡水産ヤマトシジミを主体とする主淡貝塚(神社周辺)と海水産貝類を主体とする主喊貝塚の2つで構成され、対岸の白岡町正福院貝塚とともに元荒川流域の最奥部に位置する貝塚としても知られている
 この綾瀬貝塚の存在を昔の人々は知っていたのだろう、『新編武蔵風土記稿』には、この地を「貝塚村」と呼称している。現在この貝塚は、貝塚神社の境内になっており、境内には当時のものと見られる貝殻も見られる。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市大字貝塚799
             ・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧貝塚村小名貝塚鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 初午祭 2月初午 合社記念祭 314
                  しっさま 422日 お日待 1015
 根金神社のすぐ西側にある「根金」交差点を左折して国道122号線に合流後、1.6㎞程南下し、「閏戸」交差点を左折する。その後コンビニエンスストアのある三叉路を右折し、300m程先にある「貝塚共同集荷所」を右折、暫く進むと、「荒瀬貝塚」の案内板と共に、貝塚神社の鳥居が見えてくる。
        
                  貝塚神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「貝塚村」の解説
 蓮田台地の北東部にあり、元荒川の右岸に位置する。西は上閏戸(かみうるいど)村、南は中閏戸村、東は元荒川を隔てて白岡村(現白岡町)。村内に山ノ神沼と称される五町ほどの池沼がある。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると、臨時助人馬指定村として「かいつか村」があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。
        
       鳥居の右側に社号表柱と並んで設置されている綾瀬貝塚の案内板
 
      綾瀬貝塚の案内板         案内板の足元には3基の力石が置かれている。
 埼玉県指定史跡 綾瀬貝塚
 蓮田市貝塚八-六-一ほか  大正十一年三月二十九日指定
 綾瀬貝塚は、大宮台地、岩槻支丘の上にあり、元荒川に面している。標高約十三メートルで、水田との比高は約四メートルあるが、元荒川右岸において現在知られるかぎり最も奥に位置する貝塚である。縄文時代前期(約5500年前)の貝塚としては規模は比較的大きく、三箇所からなっている。貝類はヤマトシジミを主体とし、若干の海水産の貝を含んでいる。
 このことは、縄文時代前期に現在の元荒川流域の低地帯に海が奥深く入り込んでおり、貝塚附近が干潟であったことを示している。市内にある黒浜貝塚などとともに、縄文時代前期の海進を研究する上で極めて貴重な遺跡である。
 なお昭和三年大山史前学研究所によって小発掘が行われている(以下略)。
                                       案内板より引用
        
                   境内の様子
 当社の創建年代は不明である。ただ貝塚村が成立したのが江戸時代前期であることから、その頃に創建されたものと推測される。後に「綾瀬貝塚」として埼玉県の史跡に指定される貝塚の上に建てられており、当初は「稲荷社」と称していた。「神宮寺」が別当寺であった。神宮寺は阿弥陀如来を本尊とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1869年(明治2年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1913年(大正2年)の神社合祀により、周辺の4社が合祀された。その際に、「貝塚神社」に改称された。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 貝塚村』
 小名 山ノ神 羽山 貝塚
 八幡社 〇稻荷社 〇十羅刹社 以上の神社、村内小名三ヶ所の鎭守にて神宮寺持、
 〇雷電社
 神宮寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院末、八幡山と號す、本尊彌陀、

 貝塚神社  蓮田市貝塚七九九(貝塚字塚本)
 当地は元荒川沿いに位置する。地名は付近に貝塚が多いことに由来する。『風土記稿』によれば、元禄年間(一六八八-一七〇四)に上閏戸村から分村したというが、寛文五年(一六六五)の「上尾宿助馬調」には「かいつか村」と見え、当時既に分村が進んでいたとみられる。また、口碑では「当地の開発は“六軒百姓”が行った」とある。
 当社は、元は稲荷社と称し、地内でも高台に当たる貝塚の上に祀られている。古くから元荒川の氾濫を幾度となく被ってきた地域であることから、水害を避けてこの地が鎮座地に選定されたことが推測され村の開発を進める中で、農耕の神である稲荷神に耕地の安泰を期待したものであろう。
『風土記稿』貝塚村の項には「八幡社・稲荷社・十羅刹社 以上の神社、村内三ヶ所の鎮守にて、神宮寺持」と記される。この村内三ヶ所とは、小名山ノ神・貝塚・羽山を指し、貝塚で祀られていたのが当社である。一方、神宮寺は「新義真言宗、足立郡倉田村明星院末、八幡山と号す、本尊阿弥陀」と載る。
 明治初年の神仏分離により別当の神宮寺から離れた当社は、明治二年に村社となり、翌年に神宮寺は廃寺となった。大正二年には、字羽山の山神社(旧、十羅刹社)とその境内社の稲荷社、字山神の雷電社と同字の山神社の計四社を合祀し、社名を貝塚神社と改めた。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
             境内に祀られている境内社・天満宮
  石祠が三基並んで祀られているが、真ん中のみ天満宮と刻印されており、その他は不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「宮代町デジタル郷土資料 宮代町史 通史編HP」
    「蓮田市 HP「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等


拍手[0回]


根金神社

 顕彰碑
 私達の郷土根金は根金村と称し、寛永七年上関戸から三十余戸で分村し、十羅利社を氏子の象徴として、凡そ三百五十年の長きに亙って今日に至った。元来矢水の地で、米作に恵まれず、そのため村は経済的基盤が弱く、神社も幾度かの変遷を経た。折しも昭和七年敬神の念厚き大久保伝吉は、村民有志に働きかけ、境内の設置に尽力し、自から一二六坪の土地を寄進、続いて杉山与次郎も二十五坪を寄進、茲に根金神社発祥の地が決り爾来幾歳の永きに及び村民信仰のところとなった。その後村民の協力で昭和廿一年に拝殿を昭和五十五年には公民館を相ついで建設し、文化的面目を施した。いま私達は大久保伝吉・杉山与治應の先人に心から敬意を表し、其の行跡を偲び地域発展の礎とし之を永く後世に伝える(以下略)
                                *句読点等は、筆者加筆による。
        
            
・所在地 埼玉県蓮田市大字根金1006
            
・ご祭神 大己貴命
            
・社 格 旧根金村鎮守
            
・例祭等 春祭礼 426日 大祓 630日・1231日 例祭 718
                 
秋祭礼 1019日 例大祭 1130
 根金新田稲荷神社から一旦北上して埼玉県道87号上尾久喜線を西行し、国道122号線との交点である「根金」交差点手前の狭い路地を右折すると根金神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
                   根金神社正面 
『日本歴史地名大系』 「根金村」の解説
 蓮田台地の北部にあり、元荒川の右岸に位置する。南は上閏戸村、東から北は根金新田村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)に臨時の助人馬指定村として「新根金村」と記されており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。岩槻藩領で、同一二年の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると根金村の高一四六石余。延宝八年(一六八〇)には家数二一(うち本百姓二〇)、人数一一一(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。国立史料館本元禄郷帳では旗本万年・米津・会田の相給。

 蓮田市の「根金(ねがね)」という地域名の由来は、ハッキリとは分からないが、一説によると、かつて当地には、江戸時代初期に矢作(やはぎ)伊賀守という刀鍛冶がいたと伝えられ、地内の沼から砂鉄が採れたという話や、集落の北側辺りから金糞(*かなくそ・鉄を鍛えるときに落ちる浮きかすや不純物)がよく出土することから、刀鍛冶のみならず、かなり以前から金属に関わる職人たちが居住していたことがうかがわれよう。
        
                    拝 殿
 根金神社  蓮田市根金一〇〇六(根金字後塚)
 根金は、元荒川の自然堤防上の集落で、かつたは閏戸村に含まれていたが、元禄十一年(一六九八)に閏戸村が上閏戸・中閏戸・下閏戸村・貝塚村・根金村・根金新田村の六か村に分村した。
 当社は、『風土記稿』根金村の項に「十羅刹社 村民持」と載り、江戸期から鎮守として祀られていた。明治七年に根金新田村と合併したことから、村社決定の際、神仏分離・廃仏毀釈の直後だけに、仏教色の強い社名の社を村社とすることをはばかり、新田の稲荷社を村社とすることになった。これに伴い、翌年に十羅刹社は稲荷社へ合祀されることになった。しかし、時の戸長杉山又右衛門は、合祀に異議を唱え、十羅刹社の木像を自宅納戸の唐櫃の中へ隠し、木像を受け取りに来た稲荷社の使者に目掛け、座敷から三俵もの豆を投げ付けて追い返したという。こうして木像は同家に残されたが、同九年に合祀の手続きが取られ、字二本木の社地を失った。よって杉山家では畑の一隅に十羅刹の祠を建て、旧根金村の人も変わらぬ信仰を続けた。
 その後、昭和七年に氏子の大久保伝吉が境内の狭さを憂え社地を寄進、これに応じた杉山与二郎も土地を寄進し、現在の境内地ができ、祠が遷された。更に同二十一年に拝殿を建設して施設を整えたが、正式に神社として承認を得るために、古くから獅子を借りている騎西町の玉敷神社から分霊を奉斎し、同二十七年に根金神社が設立された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 当社は、昭和27年に、玉敷神社より分霊(大己貴命)を奉斎して設立した神社ではあるが、氏子の意識の上では、『新編武蔵風土記稿 根金村』の項に載り、先祖より祀り伝えた「十羅刹社」の存在は大きく、かつては旧根金村の鎮守社でもあった。因みに十羅刹とは、十羅刹女といい、元来人の精気を奪う鬼女であったが、仏の説法により法華経を読誦する行者守護、又は流行病を司る神となった仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神と共に法華経を守護する諸天善神である。この辺りでは当地のほか、貝塚・下閏戸の隣接した村だけに祀られていることから、かつて何かしらの関連した信仰があったことがうかがえる。
 内陣には、頭髪をなびかせ、宝冠をかぶり、左手に宝珠を載せ、右手には鎌を持ち、岩座に立つ木像一体が奉安されている。
       
               境内に設置されている顕彰碑

 社の規模は決して大きいものではなく、当初は、根金新田稲荷神社と共に掲載する予定であった。しかし「根金」という地域名の由来といい、当社の現在の社名に至る経緯も考慮すると、独立した社として掲載したほうが良いと判断し、今回掲載した次第である。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内顕彰碑文」等 

   

拍手[0回]


根金新田稲荷神社


        
             
・所在地 蓮田市大字根金436
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧根金新田鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 二月初午 春祭り 428日 天王祭 714
                  お日待 1018日 大祓 1224
 井沼久伊豆神社の鳥居がある埼玉県道87号上尾久喜線を北東方向に進行し、国道122号線と交わる「根金」交差点を更に直進、650m程進んだ丁字路を右折して暫く進むと、進行方向斜め左側には田畑風景の中、根金稲荷神社の社叢林と鳥居が見えてくる。 
        
                  根金稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「根金新田村」の解説
 蓮田台地の北部にあり、元荒川の右岸に位置する。西は根金村および元荒川を隔てて荒井新田村・柴山村(現白岡町)、東は貝塚村、北東は元荒川を隔てて篠津村(現白岡町)。古くは閏戸郷に属したという。村の開発は足立郡別所村(現伊奈町か)の九十郎によって行われたと伝える(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)まで閏戸村に含まれたとされるが(風土記稿)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)に臨時助人馬指定村として「新根金村」がみえ、この頃から分村化が進んでいたと考えられる
        
                   境内の様子
 蓮田市根金地域に鎮座する稲荷神社の創建年代は不明である。ただ根金新田村が成立したのが1698年(元禄11年)であること、別当寺の「法性院」の開山の真智が1700年(元禄13年)の寂であることから、その頃に創建されたものと推測される。元々は開拓者の「九十郎」が創建した屋敷神で、九十郎の子孫である内村家が管理していたが、後に村人の信仰を集め、村の鎮守になったという。
 1876年(明治9年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 
 鳥居の脇に建つ碑は(写真左)、当地出身であんま業を営みながらも、東北の飢饉の折や地元や岩槻の学童のために寄附を続け、当社に鳥居を奉納した関口平太郎氏を、大正6年に氏子一同が発起人となり顕彰したもので、氏と親交のあった芥川龍之介が起草した一文の肉筆を刻んだ石碑となっている。全国各地に所在する芥川の石碑の中でも最古のものとされ、「自撰自筆の碑」となると唯一と言われている。そして、石碑のすぐ右側側には「関口平太郎顕彰碑」が設置されている(同右)。
 この芥川龍之介による自撰(じせん)自筆の碑文は、有形文化財・歴史資料として平成28330日指定を受けている。
        
                     拝 殿
 稲荷神社  蓮田市根金四三六(根金字東浦)
 根金は、かつて根金村・根金新田村の二か村で、いずれも元禄十一年(一六九八)に閏戸村から分村し成立した。このうち根金新田村は、足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。
『風土記稿』根金新田村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、法性院の持」とあるのが当社である。別当の法性院は、足立郡別所村法性寺末で、開山僧真智は元禄十三年寂である。口碑によれば、当社の創建は当村の草分けの九十郎が、別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初は、その子孫である内村家の氏神であったが、いつしか村人の信仰を受けるようになり、村の鎮守となったという。一方、根金村の鎮守であった十羅刹社(じゅうらせつしゃ)は、村民持の社で、創建については不詳である。
 神仏分離後、法性院は廃寺となった。その後、明治七年に根金新田村は根金村に合併され、当社と十羅刹社も『郡村誌』に「稲荷・十羅刹社合殿」とあるように合併され、当社の社殿に村の鎮守として祀られた。しかし、『明細帳』によれば、当社が明治九年に村社に列したのに対し、十羅刹社は当社の境内社とされた。十羅刹社は、元々、法華行者を守る神女の十羅刹女を祀る社である。村社に列せられるに当たって、神仏分離令をはばかり、仏教色の濃い十羅刹社を本社から分祀したのであろう。その後、十羅刹社は大正四年に境内社である天神社に合併されたが、昭和二年に旧地へ復された。
                                   「埼玉の神社」より引用
          
 社殿の手前に祀られている境内社・天神社      木製の案内板も設置されている。
        
                      本 殿
        
                  社殿からの一風景
 当社の内陣には、鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三(一七八三)癸卯九月廾□(梵字)奉造立稲荷本地十一面観世音 武州埼玉郡岩槻領根金新田村 別堂法性院法印清春代」の墨書があり、往時、内陣には倉稲魂命の本地仏である十一面観音が奉安されていたことがわかる。
 神仏分離によって、十一面観音がいずれかに移され、代わって、古くから当社に寄せられた作神の信仰にふさわしい神像を彫像し奉安したのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
                         

拍手[0回]