古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上閏戸愛宕神社

 「閏戸」という地名は、湿地や湧水地を意味する古語「うるい(湿)」と、港・津や場所を表す「つ/と(津・処)」が結びつき、 「湿地の湧水地・水に潤う場所」 を指す地名として生まれたとされている。
 この地名由来を証明するように、綾瀬川と見沼代用水に挟まれる当地域は農地を中心に水と緑の豊かで長閑な田園風景が今もなお残っている。
『日本歴史地名大系』 「上閏戸村」の解説
 蓮田台地の中央部にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。西は同川を隔てて足立郡大針村(現伊奈町)、南は中閏戸村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。永仁二年(一二九四)一一月一一日伊賀光貞は父頼泰から「ひきの郡之内うるうとの村」などを譲られ、元亨二年(一三二二)一〇月二九日幕府より外題安堵を受けた(永仁二年一一月一一日「伊賀頼泰譲状案」飯野八幡宮文書)。「うるうとの村」は比企郡とあるが、当地と考えられる。
 古くは上・中・下の閏戸村、貝塚村・根金村・根金新田村の地域を含み閏戸村と称した(風土記稿)。寛永七年(一六三〇)岩槻藩阿部氏の検地があった(同書)。

        
             
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸2935
             
・ご祭神 伽具土命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 秋祭り(閏戸の式三番) 10月第2土曜日
 蓮田市閏戸は、蓮田台地の中央部に位置し、西は綾瀬川を隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡市に接する南北に長い地域である。江戸時代には閏戸村と呼ばれていて、岩槻藩領に属し、その広大な村域は、元禄11年(1689)以前は上閏戸村・中閏戸村・下閏戸村・貝塚村・根金村・根金新田村の6つの村に分かれていた。因みに「閏戸」と書いて「うるいど」と読む。
『新編武蔵風土記稿 上閏戸村』
「當村古へは上中下の三村及び貝塚・根金・根金新田の村々を合して一村となし、たゞ閏戸村とのみ呼ぶて岩槻城に附せし地なりしを、元禄十一年旗下の士に分ち賜りし時、分村して今は六村となれり」
 この地内は、かつて北から上閏戸・中閏戸・下閏戸の三地区に分かれ、下閏戸は伊夜彦神社、中閏戸では久伊豆神社、上閏戸では愛宕神社すなわち当社を祀っている。
        
                 上閏戸愛宕神社正面
 南北に長い閏戸地域にあって、北部に当たる国道122号線と埼玉県道77号行田蓮田線が合流する「閏戸」交差点の西側奥で、上閏戸自治会館に隣接した塚上に閏戸愛宕神社は鎮座している。
        
              塚らしき盛り土の上に鎮座する社
 愛宕神社  蓮田市閏戸二九三五(閏戸字湿気)
 伽具土命を祀る当社は、木深い林に覆われたおよそ二メートルほどの盛り土の上に鎮座している。こぢんまりしたその本殿には、白幣一体を奉安している。また、本殿の左手には「稲荷社」の石祠、右手には「辨天社」の石祠がそれぞれ祀られており、いずれも「明治十一寅八月閏戸村中セハ人斎藤又市」と刻まれている。当社の盛り土と並ぶように上閏戸自治会館(昭和六十年三月建設)の大きな建物がある。その正面には二二畳敷の舞台を併設しており、十月十四日の秋祭りにはこの舞台で県指定無形民俗文化財の「閏戸の式三番」が奉納される。
 口碑によれば、当社は宝永年間(一七〇四-一〇)に秀源寺の僧が愛宕明神を祀ったのが始まりで、その時に五能三羽の舞を復活したという。これが、現在の「閏戸の式三番」である。
 江戸期には、閏戸は上・中・下の三か村に分かれていて、当社は『風土記稿』上閏戸村の項に秀源寺持ちの愛宕社として載る。また、当社の一〇〇メートルほど北にある秀源寺は、もと蒼梧寺と号し、大源派であったが、中古火災によって全山を焼失した。その後、絶えていた法灯を、伊奈備前守忠次の家人、富田吉右衛門が主人忠次(慶長十五年・一六一〇年没)追福のため再興し、忠次を中興開基とし、本寺であった秩父郡下吉田の清泉寺第二世長山賢道に請うて中興開山とした。
 明治三十年に当社は秀源寺と共に焼失したが、後に再建された。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
  社殿の左側に祀られている稲荷社の石祠    社殿の右側に祀られている辨天社の石祠
        
      上閏戸自治会館の駐車場付近に設置されている「閏戸の式三番」の案内板
 
 埼玉県指定無形文化財 閏戸の式三番
 昭和30111日指定
 毎年、十月十四日の暁に行われる、この日は鎮守愛宕神社の秋祭り〇ある。以前は九月十四日に行われてきたが、農作業が多忙なため変更されたものである。
 式三番というのは能楽の翁(おきな)のことで、たいそうめでたい曲である。翁と千歳(ちとせ)と黒い面をつけた三番叟とが、次々に出て舞うもので初めに翁が演じる儀式的な舞を、あとで三番叟がわかり易く説明する意味で、くだけておもしろく演じて見せる、謎の文句のなかにも天下泰平・国土安穏・護国豊穣を祈る意味がこめられている。閏戸の式三番は、秀源寺の僧が宝永年間(17041710
)に愛宕神社を祀り、その時に五能三番の舞を復活したものだと伝える。普通、式三番は能楽系統のものであるが、この閏戸のものは、歌舞伎系統の古い形が伝承されたものであろうといわれている。三番叟の舞のなかには種蒔き、烏(からす)飛び、叶書き等の名称が残り、古い舞いのテを伝えており、大勢の囃子方(はやしかた)が鼓を打ちながら、つねに「ハンヤアンヤ」という掛け声で舞うところなど、いかにも農村の三番叟らしい素朴な感じが溢れている。三番叟の舞は芝居や万作などいろいろ各地に存するがこのように村の神事芸として式三番を伝承するところは、全国的にもめずらしい(以下略)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
蓮田市HP」「埼玉の神社」
    
「境内案内板」等

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所久喜八幡神社


             
             
・所在地 埼玉県久喜市所久喜145
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧所久喜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 例祭 915
 江面地域の西側で、備前堀川の左岸に位置する久喜市所久喜地域は、江戸時代初期までは江面村と一村であったが、慶安年代に分村した経緯がある。因みに北方1㎞程先に「小河原井(こがわらい)」と呼称する飛地がある。この地域は長さ35町(約3.8km)・横16町(約1.7km)の広大な沼であった河原井沼(現在の久喜菖蒲公園にある昭和沼といわれている)の北東方向にある低湿地地帯で、農耕には適さない場所であったようで、当時開発に携わった方々の苦労は如何ばかりであったと思わずにはいられない。
 江面久伊豆神社から北西方向で直線距離にして700m程という近距離に鎮座している北所久喜八幡神社。地図を確認すると久喜インターチェンジの西側に社は位置している。
        
                 
所久喜八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「所久喜村」の解説
 江面村の西にあり、南から西は同村と河原井沼新田。北方の六万部村と中曾根村に囲まれた所に小河原井(こがわらい)とよばれる飛地がある(郡村誌)。騎西領に所属(風土記稿)。古くは江面村の一部であったが、慶安三年(一六五〇)に分村し(寛政一〇年「江面村明細帳」慶応義塾大学蔵など)、同年の年貢割付状(内田家文書)から「江面村之内所茎村」として当村分だけの割付状となる。
        
                   境内の様子
 当社の創建年代は不明であるが、ただ所久喜村の新田開発の際に創建されたものと推測される。近くの善徳寺が別当寺であった。現在の社殿は幕末期に建てられたもので、精密な彫刻が施されている。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 所久喜村』
 所久喜村はもと江面村の内なりしが、正保四年松平伊豆守檢地の時、今の如く別村となれり、戸数六十餘、東は江面村、西は臺村、南は原村、北は六萬部村、坤の方河原井沼新田なり、東西七町、南北十二町(中略)
 八幡社 村の鎭守なり、江面村善德寺持、


 八幡神社  久喜市所久喜一四五(所久喜字用水内)
 鎮座地の所久喜は所茎とも書き、かつては江面村の一部であった。慶安三年(一六五〇)の年貢割附状には「寅歳江面之内所茎村年貢納割付之事」とあり、このころ江面村から分村したのであろう。その開発には折原家や真田家がかわわったと伝えられている。当地は元々河原井沼の北東に隣接する低湿地で、農耕には適さない土地であったため、開発は困難を極めたものと思われる。当社の創建もこの新田開発が進められる中で行われたと推測されるが、その経緯は明らかではない。『風土記稿』所久喜村の項には「八幡社 村の鎮守なり、江面村善徳寺持」とある。別当の善徳寺は、寛弘年間(一〇〇四-一二)に法印隆盛によって開山され、江戸期には、江面村の鎮守の久伊豆社をはじめ白山社・神明社・第六天社・女体権現社の別当も兼ねていた。
 当社は文久二年(一八六二)から慶応二年(一八六六)にかけて社殿が新築され、現在の社殿はこの時に建立されたものである。本殿の外壁には昇り竜・降り竜をはじめ秀麗な彫刻が四面に施され、所々に「真田忠四郎」「折原政八」など、建立に尽力した村の有力者一二名の名が刻まれている。
 明治初年に行われた神仏分離によって、当社は別当の善徳寺から離れ、同六年に村社に列した。
 本殿内には、元禄十五年(一七〇二)銘の金幣が奉安されている。
                                   「埼玉の神社」より引用

  拝殿に掲げてある「八幡宮」の扁額            本 殿
             
                 本殿内の精巧な彫刻 
 当社の氏子区域は、近世の所久喜村を引き継ぐ大字所久喜と河原井町の一部で、総代は、本田と飛び地である小ヶ原井(小河原井 こがはらい)の二つの村組から、それぞれ二名ずつの計四名を選出し、任期三年で神社運営に当たっているという。
 また、氏子の間では「八幡様の祭りは静かにやる」という習わしがあり、915日の例祭には、他社に見られるような奉納芸能や余興などは行われないという。
 かつては百度参りが盛んで、回数を数えるための「数取り札」が設けられていたが、昭和後期より廃れ始め、現在では数取り札は取り外されている。それに反比例するかのように年始の初詣は盛んになっている。

   境内社 左から弁天社・稲荷社         境内東側にある青面金剛の石碑
       
                                  社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等 
       

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江面久伊豆神社

 久喜市江面、この「江面」は「えづら」と読み、地名由来として、 「川・入り江などの水面(江)のほとり・広がり」を意味する語から生まれたとされ、特に埼玉県久喜市江面などでは低湿地の水辺地形を表す地名と考えられている。
 この地は、新川用水路と備前前堀川の間に位置する農業地域で、その地内は、北部の本田と南部の新田に二分される。かつては、本田と新田の間には水田が広がっていたが、東北自動車道の久喜インターチェンジがこの水田の中に建設されたため、景観は大きく変わってしまっている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市江面1345
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧江面村鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 120日 白山様燈籠 7月第2日曜日 
                  秋季例祭(お日待) 
1018日 大被式  1228
「久喜菖蒲公園」から久喜・菖蒲公園通りを東行し、東北縦貫自動車道に達する信号のある丁字路を右折、その後すぐ先にある右斜め方向に伸びる路地を進むと、ほぼ正面に江面久伊豆神社の入口である一の鳥居が見えてくる。
        
                 江面久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「江面村」の解説
 北は新川用水を境に上早見村、南から西は河原井沼新田、台村(現菖蒲町)および所久喜村。騎西領に所属(風土記稿)。寛永九年(一六三二)の年貢割付状(内田家文書)によると、田方二四町七反余・畑方三六町一反余・屋敷一町七反余(以上新田分を含む)、幕府領。同一六年川越藩領になり(同年「年貢割付状」同文書)、田園簿によると田高三〇八石余・畑高一五二石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高九七六石余、反別は田方六一町三反余・畑方三二町九反余、ほかに新開高三九〇石余、田方二四町五反余・畑方一三町一反余があった。

 
          二の鳥居                       きちんと手入れされた参道
 当社は、加須市騎西の玉敷神社を総本社とし、元荒川流域に分布する久伊豆神社の一社で、大己貴命を祭祀とし、創建以来、江面の鎮守として祀られてきた。古くは、本社の玉敷神社、岩槻と越谷の久伊豆神社と共に四大久伊豆神社の一つに数えられたという。
 創建年代は不明であるが、当地の旧家は平家の落人で、秩父地方から来て土着したという伝説を持っており、これらの旧家によって創建されたものと推測される。近くの善徳寺が別当寺であった。
 明治6年(1873)近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、同41年(1908)の神社合祀により、周辺の5社が合祀された。なお、その内2社は後に旧地に戻されている。また合祀された神社に「白山社」があり、その例祭を引き継いでいることから、別名「白山様」とも呼ばれている。
       
                  広々とした境内
             拝殿の右側手前の建物は
江面新田集会所で、元神楽殿。
       
                    拝 殿
「新編武蔵風土記稿 江面村」
 小名 石神井 前谷 合ノ谷 河島 原 小谷 志部 橋爪
 久伊豆社 村の鎭守とす、社傍に庵を結び、社を守る者居れり、〇白山社 〇神明社 〇第六天社 〇女體權現社 以上五社善德寺持、 〇稻荷社 寶光院持ち
 善德寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、安養山彌陀院と号す、本尊阿彌陀、鐘樓 天明三年の鐘を掛、

 
  拝殿に掲げてある「久伊豆大明神」の扁額      境内に設置されている案内板

 久伊豆神社(はくさんさま)   
久喜市江面一三四五(江面字宮前)
 越谷・岩槻の久伊豆神社、騎西の玉敷神社と共に「四大久伊豆神社」の一つと並び称されるという当社は、大己貴命を祭神とし、創建以来、江面の鎮守として祀られてきた。江面の旧家は、名主であった伊呂原家をはじめとしていずれも平家の落武者を先祖に持ち、秩父から当地に来て土着したと伝えられており、当社の創建にはこうした家々が大きくかかわっているものと思われる。
「風土記稿」江面村の項を見ると、当社について「久伊豆社 村の鎮守とす、社傍に庵を結び、社を守る者居れり」と記されている。この庵についての詳しいことや、庵のあった位置については今ではわからなくなっているが、現存する文化十年(一八一三)の本殿及び拝殿の再建時の棟札に「別当善德寺住法印来賢代」と記されていることから、江戸時代の当社の祭祀には真言宗の善徳寺の僧が関与していたものと思われる。なお、当社の南側の畑は、この善徳寺の土地になっているため、その土地の一角に庵が営まれていた可能性は高い。
 神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となり、村内にあったその他の社は無格社となったため、政府の合祀政策に従って明治四十一年にはそれらの無格社が合祀された。合祀された神社は、字小谷の白山社、字相野谷の神明社、字中河原の厳島社、字川島の第六天社、字志部の女体社の五社で、第六天社と女体社はその後旧地に戻された。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社の氏子区域は、この江面の全域で、本田には上根・橋川(橋詰・川島)、新田には小谷・大原・社宮司といった集落がある。氏子は全体で400戸程。
 古くは、氏子の間では「神様が嫌うから」という理由で、小豆や麻を作る事、昆布を料理に用いることが禁忌とされていたが、江戸時代半ばごろからこの禁忌は一般生活の支障を来すようになり、延享二年(1745)正月に吉田家から発給された宗源祝詞の中に、この禁忌の解除を求める文書が記されていて、当時の氏子の生活の一端が伺えよう。
 
 社殿の左側に置かれている奉納石(力石か)  奉納石の奥に石碑等三基が祀られている。
       
        石碑三基の奥に祀られている石祠。左側から女
體宮・社宮神・志羅山。
 
  社殿右側に祀られている稲荷・〇・天神宮     境内北側奥に祀られている弁天社
                          弁天社の左側にある石祠は不明
        
                              社殿からの一風景

 氏子の間で行われる大きな行事に、「お獅子様」がある。これは、疫病除けとして春の伝染病を防ぐ目的で行うもので、騎西の玉敷神社から借りて来た獅子頭と、当社で古くからある獅子頭の二つを持って地内を回るものである。この祭りは、江面が本家と言われており、420日に行われている。また、白山様燈籠 (夏祭り)には、「江面祭囃子」や演武等が奉納されているという
 当社の祭事の中で78日に行われる「白山様」は、当社に合祀された白山社の例祭を引き継いだもので、田植え後に行う豊作祈願の祭りである。当社が久伊豆神社であり、白山社は一合祀社であるにも関わらず、「白山様」と呼ばれるこの祭りが村一番の賑やかな行事で有名であったためであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
 

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青毛五柱神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市青毛1140
             
・ご祭神 天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命
             
・社 格 旧青村鎮守
             
・例祭等 元旦 御影供養 425日 大洲(おおや) 7月初酉日
                  
夏祭り 725日 祭礼 1019
 久喜市青毛地域は、栗原諏訪社が鎮座する栗原地域と埼玉県道153号幸手久喜線を境として北側にあり、北東方向に流れている葛西用水路の右岸に位置する東西に長い地域である。栗原諏訪社から一旦北上し、上記県道に戻り久喜市が一方向に西行、「青葉公園」の先にある「青毛橋」交差点を右折し、300m程進んだ突き当たり付近に青毛五柱神社は鎮座している。
 東西に長い青毛地域にあって、県道沿いは宅地化が進んでいるのに対して、社が鎮座する地域西側は葛西用水路がすぐ北側に流れ、周囲一帯長閑な田園風景が広がる地域でもある。
        
                  
青毛五柱神社正面
 久喜市青毛(あおげ・おおげ)地域は、葛西用水路(旧:古利根川)沿いに自然堤防や河畔砂丘(青毛砂丘)などの微高地がみられ、平沼などはその後背湿地の低地となっているが、概しておおむね平坦である。中島と川原に挟まれた低地(流作)は自然堤防と対を成す形で形成されており、古利根川(現:葛西用水路)の旧流路を示している。
              
          一の鳥居の手前で参道右側に建つ「五柱神社改築記念碑」
        
             鬱蒼とした社叢林の中に建つ一の鳥居
 久喜市青毛、この『青毛』の読み方は、今日において行政・郵便などでは「あおげ」が用いられているが、旧来からの住民の間では「おおげ」という発音が定着していて、米作を主体とした農業地域として発展してきた。そのため、地内では農業用水が縦横に走っていて、このうちの一本は当社の境内を横切っている。大字の中には当社のある上育毛をはじめ中村・中島・川原・本郷の五つの耕地があり、現在の氏子数は旧家を中心とした200戸余りである。神社運営も、耕地を単位として行っており、各耕地から総代は一名ずつ、年番は五名ずつ出るという。
 社名を示すように、当社には天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命の五柱の神々が祀られている。本殿には、元々当社の神像であった鷲宮明神像(天穂日命)と天満天神像(菅原道真公)及び弓矢を持った随身像二体と共に、字川原の稲荷神社から移された京都伏見稲荷神社別当愛染寺祈祷札と幣帛を納めた厨子も安置されている。
 
   一の鳥居の先にある青面金剛二基      神橋を越えた先に朱色の二の鳥居が見える。
 左側の青面金剛は寛文12年と刻まれている。     神橋の下には
農業用水が横断している。
       
 神橋を渡った先が境内となり、日を浴びた明るい境内の中に二の鳥居・社殿が見えてくる。

 当社はかつて鷲宮神社・天満宮・八幡様・猿田彦・稲荷神社という5つの神社が、当地域に所在していたものを含め、集められ合祀されているために「五柱」という名称がついた。このうち八幡様(字中村)・猿田彦(字中村)・稲荷神社(字川原)は1907年(明治40年)51日に合祀されている。こうした経緯から、青毛五柱神社は五柱神社(ごはしらじんじゃ)・五柱社(ごちゅうしゃ)・青毛神社(おおげじんじゃ)とも称されている。

      境内南側にある旧本殿           境内北側には社務所があり、
                        その傍に道祖神が祀られている。 
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 青毛村』
鷲宮天神合殿 村の鎭守なり、常樂寺の持、
常樂寺 葛飾郡内國府間村正福寺の末、護摩山光明院と號す、本尊大日、開山弘賢慶長十七年十月朔日示寂、當寺元は阿彌陀堂にて、行基菩薩彫刻の本尊を置き、大同二年の造立といへど、定かなる傳へはなし、堂の軒に享保三年鑄造の鐘を掛く、 十六羅漢堂

 青毛五柱神社  久喜市青毛一一四〇(青毛字上青毛)
『風土記稿』青毛村の項に「鷲宮天神合殿 村の鎮守なり、常楽寺の持」とあるように、当社は 鷲宮神社と天神社の合殿であったが、明治四十年に地内の無格社三社を合祀したのを機に、現在の名称となった。参道の脇に立つ「五柱神社改築記念碑」には、青毛の村の歴史と当社の由緒が刻まれているが、それを要約すると次のようになる。
 青毛の地名は、この地が古利根川に沿った沃野で、農耕に適し、穀物が青々とよく育つことに由来する。伝説によれば、氏を異にする一七戸の人々がこの地を理想の郷と定め、相互に協力して開拓したのが村の始まりであった。この人々は、古来、敬神の念が厚く、神社を中心としてあたかも一家のように親睦を深めていた。当社の母体となった鷲明神社は、この育毛の村の総鎮守として祀られてきた社で、その創建は鎌倉時代初期以前のことであり、文治年間(一一八五-九〇)に源義経がこの地を通過する際、利根の激流に阻まれて川を越えられなかったため、弁慶に護摩を焚かせて当社に祈願したところ、波が静まり、無事に渡りきれたという。その後、享保五年(一七二〇)三月に荘厳な社殿を建立したのを機に天満社を勧請して鷲宮天満社と改称した。更に、明治四十三年五月一日に字中村の八幡社と猿田彦社、字川原の稲荷社の三社を合祀し、これに伴って社号も青毛五柱神社と再度改められ、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用

五柱神社改築記念碑」の内容も基本「埼玉の神社」と変わらないのだが、追加事項として、大正12年9月1日、南関東(震源地は相模湾北西部)を中心に発生した巨大地震である「関東大震災」において、当社の社殿が倒壊したため、震災の後の数年間は境内も荒廃する一方であったが、人心も落ち着いた昭和11年に再建の準備に取り掛かり、翌年には早くも拝殿の竣功、14年には本殿、15年には幣殿や社務所なども竣功し、盛大に遷座式が執り行われた、という事側も刻まれている。
 氏子の間では、当社は心の拠り所として信仰され、大切にされていたのであろう。このように、短期間で大きな事業を全うすることができたのは、氏子の方々の敬神の念が強かったからなのであろう。
五柱神社改築記念碑 原文一部抜粋」
 大正十二年九月一日午前十一時四十八分突如トシテ関東一帶ノ地大ニ震ヒ本社モ其ノ災害ニ遭フ爾來十有餘年今ヤ著ク荒廢シテ復昔日ノ観ヲ呈セズ氏子一同粛然トシテ神徳ヲ黷サンコトヲ恐レ爰ニ皇紀二千六百年記念トシテ再建ヲ企圖シ昭和十一年三月之ガ資金ノ募集ヲ開始ス遠近傳ヘ聞キ浄財ヲ寄進スルモノ踵ニ接シテ到リ〇ニシテ所要ノ金額ヲ調達スルコトヲ得タリ是ニ於テカ翌十二年二月着工奉告祭次デ地鎮祭執行五月拜殿竣工十三年境内擴張記念植樹并神橋改修十四年二月本社建築ニ着手十二月竣工十五年三月幣殿玉垣等ノ建築ヲ終リ續テ社務所改築更ニ舊本社ヲ改修シテ寶物殿ト為シ貴重品ヲ奉安ス其ノ他御神苑内ノ整備改善ヲ終リ爰ニ本月十五日ヲ以テ盛大ナル正遷座祭ヲ擧行スルコトヲ得タリ
        
                    本 殿
        
              二の鳥居から参道入口方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内改築記念碑文」等

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栗原諏訪社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市栗原242
             ・ご祭神(主)建御名方命
                 (合)伊弉冉命 速玉男命 事解男命 菅原道真公 市杵島姫命
             ・社 格 旧栗原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 421日 例祭(甘酒祭り) 1027
 久喜市栗原地域は、JR東日本・東武鉄道の2路線が乗り入れている久喜駅から東側に在り、北東方向に流れている葛西用水路が右方向に楕円を描いて南側方向に流路を変える右岸側に位置する平均標高9m程の低地帯地域である。この地域は久喜駅から近いこともあり、大部分住宅街が建ち並んでいるのだが、地域南部は住宅地が途切れて「栗原なかよし広場」というグランドゴルフに適した広場や、その周囲には田畑等の農地が未だに広がっている場所もある。
       
                  栗原諏訪社正面
               すぐ北側が住宅街とは信じられない程静かで雰囲気のある社
 因みに社の左側にあるのは嘗ての別当であった多門院の墓地。今でも寺院と社は隣接している。

久喜駅東口の北側に久喜から幸手方面へと伸びる埼玉県道153号幸手久喜線がほぼ東西に走り、幸手方向に東行し、青毛堀川、青葉公園を過ぎて700m程進んだ十字路を右折、その後は道なりに真っ直ぐ南下すると、それまでの軒を連ねていた住宅街から田畑風景が主となり、進行方向左手に栗原なかよし広場と同時に「諏訪神社入口」の看板が見えてくる。その看板通りに左方向に舗装されていない路地を進むと、広場に対して反対側にこんもりとした社叢林が見えて来て、その中に社がポツンと鎮座している。
 
 一の鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     周囲一帯広場や田畑風景が広がる中、
社号額の周囲には精巧な龍の彫刻が施されている     孤高な存在感ともいえる社叢林
       
            参道を進んだ先の社叢林の中に建つ二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗原村」の解説
 青毛(あおげ)村、下川崎村(現幸手市)の南にあり、東は葛西用水を境に上高野村(現同上)。騎西領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によれば田高三二石余・畑高九七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一家である一橋領となり、幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。東村境を流れる葛西用水に琵琶溜井がある。長さ四七五間・幅四七間、三分の二は当村、三分の一は上高野村の所有であった。万治三年(一六六〇)に関東郡代伊奈忠克によって幸手領用水が利根川から取水、会の川筋に合流されたが、この時に溜井が造成され、享保四年(一七一九)に伊奈忠逵・石川伝兵衛らにより掘広げられている。 

        
        二の鳥居を進んだ先で参道右側に祀られている稲荷大明神・天満宮の石碑
                 石祠の右側にある力石
 久喜市栗原に鎮座する諏訪社の創立年月は不詳だが、口碑によれば、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていて、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったのが始まりという。明治6年(18736月村社に列し、明治40年(1907530日に行われた合祀では、熊野社(字前)・天神社(字川原)が集められ、大正元年(19121213日には厳島社(字川原)が合祀された。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 栗原村』
 多門院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺末、明王山と號す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中鑄造の鐘をかく、 諏訪社 村の鎭守なり、稻荷社 阿彌陀堂


 諏訪社  久喜市栗原二四二(栗原字前)
 栗原の村の開発にすいては明らかでないが、慶安二-三(一六四九-五〇)の『田園簿』には、既に一村として記されている。
 当社は『風土記稿』栗原村の項に「多門院 新義真言宗、葛飾郡内国府間村正福寺末、明王山と号す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中(一七七二-八一)鋳造の鐘をかく、諏訪社 村の鎮守なり、稲荷社 阿弥陀堂」と記されており、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていたことがわかる。その創建の年代は明らかでないが、口碑によれば、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったという。高橋家・宮崎家はいずれも当主で一一-一二代を数える。
 本殿には甲冑を着けた神像が奉安されている。これは「諏訪□(大カ)明神 奉納主 武蔵葛飾郡幸手領栗原村 施主大久保惣右衛門・同汰良兵衛・勧施伊藤吉之蒸 元禄十四年辛巳(一七〇一)九月卄七日」の墨書が見られる。また、境内の石碑には「天下泰平五穀成就 鎮守安政四丁巳(一八五七)季再建四月吉祥日 武州埼玉郡栗原村」と刻まれ、この年に社殿が再建されたことがわかる。
 明治初年の神仏分離により多門院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。更に同四〇年には字前の無格社熊野社と字川原の無格社天神社を合祀し、大正元年には字川原の無格社厳島社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
    社殿の手前で「天下泰平五穀成就 鎮守安政四年(1857)」と刻まれている石碑
        
                      本 殿
             
              精巧な彫刻が施されている本殿
       
                    社の遠景
 当社で1027日に行われる祭典(例祭)は「甘酒祭り」とも呼ばれ、この行事は前日から当番に当たった耕地(村組)では各戸から米を集めて麹屋から麹を購入し、四斗樽二本に甘酒を仕込む。こうして出来上がった甘酒を神社へと運び、神事の後、夕刻4時頃に鉦を叩き氏子を集める。氏子はお参りをした後に当番の家で甘酒と大豆・鰌・蒟蒻の煮物をいただくというものである。

 また、氏子の間では、春秋の祭りのほか、元旦のお神酒・オオヤ(七月初酉の日)・二百十日のお神酒(9月1日)・晦日お神酒(12月31日)がある。
 特にオオヤは、当番が社頭に二基の行灯を立てて神前にお神酒を供える行事であるが、元は境内に五〇ほどもの行灯を飾り付けたという。また、この日は、氏子の各家ではうどんを打って葦(よし)の箸で食べるのが習わしであったという。その由来は、昔ある侍が戦に敗れて当地の葦の生い茂る中に逃げ込んだ際、村人がこの侍にうどんを食べさせた。その時に箸を忘れたので、そこに生えていた葦を折って代用とした。以後、七月初酉の日に氏子は葦の箸でうどんを食べるようになったと伝えられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内石碑文」等

  

            

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