古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

松永神社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市松永1-3-21
            ・ご祭神 天香香背男命 須佐之男命(推定)
            ・社 格 旧松長村鎮守 旧村社
            ・例祭等 元旦祭 1月2日 地神様 3月10日 春祭り 4月15日
                 お日待 10月15日 甘酒祭り 12月1日
 佐間八幡神社の北側を通る国道125号線(及び埼玉県道3号川越栗橋線との重複路線)を北東方向に700m程進んだ先にある「佐間東」交差点を左斜め方向に進路変更する。その後、松永地域の中央部を東西に分けるように縦断している道を600m程進行した先の丁字路を左折し、暫く道なりに進むと進行方向右手に松永神社の鳥居が見えてくる。
 地図を確認すると、埼玉県立栗橋北彩高等学校の道を隔てた南側に社は鎮座している。
        
                  松永神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「松長村」の解説
 伊坂村の南に位置。松永とも書く。村の東を古利根川が流れ、川沿いに古堤がある。日光御廻(おまわり)道のほか、鎌倉街道であったという古道が通る。「風土記稿」によれば、天正年間(一五七三―九二)紀州から来た慶長という者が開発したと伝える(その子孫七郎右衛門は名主を務める)。田園簿に村名がみえ、田高一石余・畑高一三八石余で、幕府領。元禄郷帳では一七二石余で幕末まで変わらない。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。
 今日の松永地域は、住宅地として他所からの転入者も多くなってきているのだが、この社周辺は、昔懐かしい雰囲気が今なお残っている。まさに地域の鎮守様といった第一印象。
        
                参道左側に見える建物は松永会館
 当社は『新編武蔵風土記稿』において、村の鎮守と記載されているには「熊野神社」であった。
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡松長村』
 熊野社 村の鎭守なり、名主七郎右衛門が先祖、慶長本國紀州より寫して勧請する所なり、寶藏院持下四社持同じ、
 〇星宮明神社 〇天神社 〇香取社 〇稻荷社
 寶藏院 新義眞言宗、下總國香取郡前林村東光寺末、醫王寺と云、本尊不動、開山賴存寬永十六年二月十八日寂す、
 その後、当社は星宮神社を母体として香取神社が合祀され、社名も「星宮神社香取神社合殿」と改称され、明治6年に村社となっている。このような社名等の変遷の理由は、熊野神社は名主である鈴木家の氏神としても性格が強く、同時に、当社に比べ、社としての規模も小さかったためと考えられる。因みに『郡村誌』松永村の項には、村内の神社について「星の宮社」一社しか記載されていないようだ。
        
                    拝 殿
 松永神社  栗橋町松永三四五(松永字星之宮)
 松永の開発について、古老は「はじめ草加、村上、倉橋の三人が開拓を行い、次いで永正二年(一五〇五)に紀伊の国から郷氏鈴木三郎慶長という者がこの地にやってきて村を開いた」と伝えている。  (※)『風土記稿』は天正二年(一五七四)としている。
 更に古老は、「草加・村上・倉橋の三人を祀ったのが現在当社の境内にある地神尊で、その後、鈴木三郎慶長が、開村の年の十一月に、古くから祀られていた土地の神である地神尊の傍らに氏神として熊野神社を奉斎し、次いで村内に、星宮神社・香取神社・天神社を創建した」とも伝えている。ただし、現存する地神尊の石祠は再建されたものらしく、天保二年(一八三一)と刻まれている。また、熊野神社をはじめとする四社は、『風土記稿』によれば、いずれも、真言宗の宝蔵院持ちの社であり、熊野神社が鎮守であった。
 当社は、この四社のうちの星宮神社が母体となっており、幕末にそこに香取神社が合祀されて、星宮神社香取神社合殿とよばれるようになり、明治六年には村社となった。
また、同四十三年には、熊野神社・天神社・稲荷神社の三社を境内に合祀した(ただし稲荷神社は旧地に復している)。その後、大正三年に社号を松永神社と改め、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿の手前で参道左側に祀られている雷電社
 雷電宮は、元禄十年(一六九七)の創建で、かつたは水の神として厚く信仰され、近郷の者が雨乞いのために正装で参拝したものであったという。なお、同社の社殿内には神輿があり、古くは神輿渡御を伴う祭りも行われたともいう。
        
                      雷電社の並びに祀られている石祠・石碑群
         
左から(?)・天神宮・稲荷大明神・熊野大権現・地神尊
 当社では、元旦祭(1月2日)・地神様(3月10日)・春祭り(4月15日)・お日待(10月15日)・甘酒祭り(12月1日)の年5回祭りが行われている。そのうち、宮司によって祭典が奉仕されるのは、春の祭りとお日待だけで、他の祭りは、お神酒を供えて氏子だけで参拝するとの事だ。
 地神様とは、境内にある地神尊の祭りで、これは、先住者に感謝の意を表す祭りといわれ、お神酒を供えて、氏子銘々が参拝するという。
   
   社殿の左側に祀られている境内社       社殿の右側に祀られている境内社
       日枝社・日枝社               天神社・秋葉社
 また、12月1日に行われる「甘酒祭り」は、元来はその名の通り、実際に甘酒を作り、神前に供え、行事終了後はそれを皆で飲むという祭りであった。しかし戦後の農地改革により社有田が没収され、原料となる米が取れなくなったことから、名称だけは存続されたものの、現在のような参拝するだけの祭りとなっているという。
        
           松永会館の手前で道路側にある力石2基など
        
            正面鳥居のすぐ右側にある宝蔵院跡の観音堂



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等

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狐塚氷川鹿島大神宮


        
             
・所在地 埼玉県久喜市狐塚217
             
・ご祭神 素盞鳴尊 武甕槌命
             
・社 格 旧狐塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭礼 4月15日 秋祭礼 10月15日
 国道125号線から「佐間」交差点を直進し、埼玉県道316号阿佐間幸手線を南東方向に3.6㎞程進むと、県道沿いに狐塚氷川鹿島大神宮が見えてくる。鳥居から社殿に至る参道の両側は、樹木もなく、開放感のあるのどかな場所に社は鎮座している。
        
                
狐塚氷川鹿島大神宮正面       
『日本歴史地名大系』 「狐塚村」の解説
 中里村の南西に位置し、東を島川が流れる。川沿いに堤防(島中囲堤)がある。元亨四年(一三二四)二月八日の下河辺荘公事注文案(金沢文庫文書)に「キツ子ツカ」の地名がみえ、称名寺(現神奈川県横浜市金沢区)領であったことがわかる。田園簿に村名がみえ、田高一八石余・畑高一七九石余で、幕府領。元禄郷帳では高一六五石余。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも幕府領。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
 
社の入口付近で参道右側に設置されている案内板    参道右側周辺にある高秀寺の墓地 

 
               参道途中に建つ鳥居(写真左)。
      鳥居の社号額には「氷川大明神・鹿島大神宮」と刻まれている(同右)。
 当地には幾つもの沼がある。これは、利根川の氾濫により生じたものであり、水損地帯であることを物語っている。
 当社の神威を語る話も、水害にかかわるものが多い。明治四十三年、他社に合併することになり、幣束を持ち出したところ大水が出たので中止した。また、昭和二十二年の大洪水の折には、中川の昭和橋付近で逆流した水によって神社周辺が最も水勢の激しい所となったが、神様のお力で社は流されなかったという。
 このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
このように当地は、水害を受ける場所であったが、同時に常に水利も悪い地でもあり、朝の三時から夜の十時まで、「水けえ」といって水車を踏み続けたものであった。このような苦労も多い作業から解放されたのは、昭和三十年代に「バーチカルポンプ」が、更に同四十四年にパイプラインが設置されてからである。
 
 参道を進み境内に入ると左側に「
狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑」があり(写真左)、右側には御嶽山座王大権現・八海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮と刻まれた石碑、その右側手前には山口数馬霊神と刻まれた石碑がある(同右)。
 狐塚氷川・鹿嶋神社改築記念碑
 一、名 称  氷川神社 鹿嶋大神宮
 一、所在地  栗橋町大字狐塚四番二一七番地
 一、所有者  埼玉県神社庁
 一、祭 神  素盞鳴尊 武甕槌命
 一、創立沿革 往古より之あり、元禄十丁丑年除税地と相
        成り、及々大破した
ので天保十四年中、氏
        子力を協せて再建せり。明治六年
村社と許
        可。同四十三年
三月二十五日、同村同字四
        番無格社御嶽
神社を合併す。大正五年九月
        十四日、本殿改造許可。同年十一月
十五日
        工事落成
        昭和二十二年九月 洪流により鳥居流失(中略)
 一、行事祭礼 四月十五日、十月十五日
           
春秋二回の祭礼を行なう。
        部落三班に分れ輪番制で祭礼を行なう。
 一、地 勢  字のほぼ中央を南北に貫く県道幸手杓子木
        線の東側に位置し、南は中川
堤塘北方には
        内池が清澄な水を湛えているが、西方は水
        田が開けている。
社殿の後方に杉は鎮守の
        森を形成していたが近年公害により枯死し
        現在は
数本を残すだけとなって居る。
     以上が昭和六十四年迄の元神社の概況であり、
        町の資料による。(以下略)                  
記念碑文より引用 
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡狐塚村』
 島川 村の東を流る、川幅十二間、川に傍て堤あり、又此川に渡船場あり、水原のことは嶋川村の條に辨す。
 鹿島社 村の鎭守なり、泉福寺持、
 泉福寺 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、月光山藥王院と云、本尊藥師を置、


 氷川神社  栗橋町狐塚五八二(狐塚字五番)
 当地の地名狐塚は、古いころ田の神として狐を祀った塚があったからと伝える。地内には、高秀寺と当社の別当であった泉福寺の二寺があり、『風土記稿』高秀寺の項に、「鐘楼 延宝三年(一六七五)鋳造の鐘を懸く」とあり、また、泉福寺は「鐘楼 延宝九年の鐘を懸く」とある。現在、両寺とも鐘は見られないが、当社の隣にある清澄な水を湛える内池には、お寺の鐘が沈んでいるとの話が伝わっている。これにより、当地の開発年代は不明ながらも、延宝のころには鐘を懸ける寺が二か所もある村であったことが知られる。
『明細帳』に「往古ヨリ是アリ、元禄十年(一六九七)ノ検地二除税ノ旨ガアル、社殿ハ天保十四年(一八四二)再建」とある。
『風土記稿』には、氷川神社の記載はなく鹿島社として載る。これには口碑によると、昔当地が下総国に属していたころは、一の宮香取神社を祀り、次に常陸国から当地へ入植があり、その国の神である鹿島神社が祀られ、江戸期に入って武蔵国へ編入されるに及んで武蔵の氷川神社を勧請したものであるという。そのため、氏子は社名を鹿島社とも氷川社とも呼ぶ。なお、社号額は「鹿嶋大明神・日川大明神」と二神を併記し、二間社の本殿に二社の金幣が祀られている。
『明細帳』に「明治四十三年三月二十五日、同村同字四番無格社御嶽神社ヲ合併ス」とあり、現在拝殿内に祀られている。 
                                                「埼玉の神社」より引用
        
              拝殿の足元に置かれている嘗ての社号額
        
                     社の東側にある「狐塚ヘルシーパーク」
      地域名「狐塚」からきているのであろうか。何気に狐の銅像があったりする。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板・記念碑文」等

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間鎌稲荷神社


         
             
・所在地 埼玉県久喜市間鎌159
             
・ご祭神 保食命
             
・社 格 旧間鎌村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
 間鎌八幡神社から北西行すると500m程、「間鎌稲荷会館」の東側隣に間鎌稲荷神社は鎮座している。
        
                  
間鎌稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌村」の解説
 松長村の南東に位置する。天正一七年(一五八九)五月晦日の某印判状写(武州文書)によると、先年下総関宿(せきやど・現千葉県関宿町)で戦功があったとして巻島主水助が「間釜之内にて十貫文」を小田原北条氏(氏照か)より宛行われている。田園簿に村名がみえ、田高九石余・畑高一〇八石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一四一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。
        
             開放感のあり境内も手入れの行き届いた社 
       
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌村』
 稻荷社 村の鎭守なり、村持、

 稲荷神社  栗橋町間鎌一五九(間鎌字砂畑)
 当社は、栗橋町の中央や北西寄りの間鎌にある。間鎌の地名は、島の中の淵を表す、あるいは淵のあった所であるなどの説がある。
 神社の辺りの集落を本田と呼び、当地の草分けで「長屋門」の家号を持つ籠宮(こみや)家がある。当社は籠宮家の先祖が氏神として祀ったものを、後に本田の鎮守にしたものであるという。口碑に「籠宮本家に屋敷神がいないのは本田の鎮守に祀ってしまったからだ」とある。籠宮家については明らかにできないが、同家のある耕地は本田のうち砂畑という所で、八軒で入植したと伝えている。
『明細帳』に「元祿十丁丑歳(一六九七)十二月中除税地トナリ鎮座有之、其ノ前鎮座ノ年暦干支記録伝聞等詳ナラズ」とある。
 当社の本殿棟札に「奉再建稲荷大明神社一宇 右天下泰平国土安全氏子安隠也 天明八戌申歳(一七八八)九月 武州葛飾郡間鎌村氏子中 遷宮導師迎盛院快興」がある。これによると、当社は字本田の鎮守というよりも、大きく間鎌村の鎮守であったと思われる。
 嘉永三年(一八五〇)、当所氏子中奉納の農作業風景を描いた絵馬は、牛での耕作・田植え・草取り・刈り取り・振り棒打ち・風選(ふうせん)・懐詰めと、順序を追って描かれ、往時の様子をうかがわせる。
 なお、境内には寮と呼ぶ建物があり、阿弥陀如来と不動明王を安置している。
                                   「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」によると、当社の祭りには「おおぜいれ」と「こぜいれ」があり、各々「大祭礼」「小祭礼」の意味とも思われ、「おおぜいれ」は間鎌全体の祭りであり、「こぜいれ」は字本田のみの祭りであるという。この区別の起こりは、当社が本田の鎮守であると共に間鎌全域の鎮守としての位置付けられていることに関係するとみられるが、明治期に村社となったことによるものかそれ以前かは不明である。
「おおぜいれ」は、4月15日の春祭りと10月15日の秋祭りをいい、秋祭りは特に「秋のおおぜいれ」と呼んでいる。春秋共に本田の当番が赤飯を炊き、本田の氏子が上げる赤飯と一緒に神前に供え、これを下げて子供たちにお供物として配る。また、直会には間鎌全戸が参加する習わしがある。因みに直会の会場は、昭和34年に境内に大ケヤキを売却し、稲荷会館を建ててからは、こちらで行っている。
        
            水塚上で拝殿前左側に祀られている地神尊
   地神尊の奥に見える建物は、阿弥陀如来と不動明王を安置している「寮」であろうか。

 一方、「こぜいれ」は、初午や3月17日の地神尊をいう。初午は、子供達を集めて太鼓をたたかせ、菓子を配り、大人たちは当番を中心に、神前でお神酒上げと称して神饌(しんせん)とお神酒を供えて拝礼し、稲荷会館で直会を行うという。また、
地神尊は、境内にある石祠「地神尊」を祭るもので、作神として敬い、お神酒上げと直会をするという。
        
             稲荷会館の南側に隣接して祀る幾多の供養塔や地蔵様
      左から念仏供養塔・地蔵様・十九夜塔・甲子待供養塔・光明真言供養塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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間鎌八幡神社・間鎌天神社

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代の間鎌(まがま)は「間鎌村」と「間鎌新田村」の二村に分かれていた。このうち、間鎌村は本村であることから本田(ほんでん)と呼ばれ、稲荷神社を鎮守として祀っていた。これに対して枝村である間鎌新田村は、八幡神社を鎮守として字前新田に祀り、更に天神社を字後新田に祀っていたという。
 この「間鎌」は「まがま」と読み、なかなかの難読地名の一つと考えられるが、この地名の由来として、「釜」や「鎌」が湾曲した土地をあらわし、津波や洪水で浸食や崩壊があった場所と言う説や、島の中の淵を表し、あるいは淵のあった所である等、河川に関連した地名であることは確かなようだ。
【間鎌八幡神社】
        
             
・所在地 埼玉県久喜市間鎌331-3
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧間鎌村前新田鎮守 旧無格社
             
・例祭等 祭典 4月・10月各15日 浅間様(初山)6月30日 他
 河原代香取神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を1.2㎞程北西方向に進み、丁字路を右折する。周囲一帯豊かな田畑風景の広がる中、農道を北東方向に進行、途中ポツンと「久喜市佐間浄水場」を眺めながら700m程進んだ民家が点在する集落に入った最初の十字路の先に間鎌八幡神社が見えてくる。因みに社の西側に隣接し久喜市立栗橋西中学校がある。
 社の東側に沿って北東方向に通じる道があり、かつて「坂東道」と呼ばれていたようだ。
        
                  
間鎌八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌新田」の解説
 間鎌村の東にある。田園簿に村名がみえ、田高三石余・畑高一三四石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一二三石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっている。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)、幕末の改革組合取調書などには記載がなく、幕末までには間鎌村に合併した新田として把握されることが多くなったものと思われる。
        
                  石段上に建つ拝殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌新田』 記載なし。

 八幡神社  栗橋町間鎌三六五(間鎌字砂河原)
 栗橋町のほぼ中央に位置する間鎌に当社は鎮座し、誉田別命を奉斎している。間鎌は周囲の村落より低地になっているが、それは古くは大河が当地を流れていたためで、今でも地面を四〇㌢㍍ほど掘ると、川の跡が出るという。
 間鎌には、本田・前新田・後新田の三耕地があり、当社は前新田の鎮守である。一方、本田は稲荷神社、後新田は天神社をそれぞれ鎮守として祀っており、村社は本田の稲荷神社であった。創建の年代については、確かなことはわからないが、新田の開発とほぼ同じころと考えられており、本殿とされている高さ九五㌢㍍、間口二八㌢㍍の石祠は、創建時に建立されたものと伝えている。しかし、残念なことに、銘文が全く刻まれていないで、その来歴を知ることはできない。
 戦国期の天正十七年(一五八九)、小田原北条氏が、関宿合戦の恩賞として巻島主水助に「間釡之内十貫文」を与えたという古文書があることから、本田は既に戦国期には村落を成していたと思われるが、本田と新田の旧家の間につながりがほとんど見られず、むしろ新田の開発は、江戸期に他所から移って来た人々によって行われたとみられる。したがって、当社の創建も江戸期の始めから中ごろのことではなかろうか。また、『風土記稿』には記載されていないことから、当初は石祠だけの小さな社であったと考えられる。
                                   『埼玉の神社』より引用
 当社は、無格社ではあったが、間鎌前新田の鎮守として信仰が厚く、昭和の初め頃、村社であった本田の稲荷神社に合祀する話が出た時も、氏子の反対により実現には至らなかった。但し、当社の氏子は、本田の稲荷神社の氏子にもなっていて、稲荷神社の春秋の祭典には、前新田の氏子を代表して、当社の氏子総代が参列しているという。
        
              拝殿の左側に祀られている石祠三基
                
左から辨財天宮、稲荷大明神、稲荷大明神・稲荷大明神
        
               拝殿右側奥に祀られている浅間宮
 浅間社の祭典は「初山」もしくは「浅間様」とも呼ばれ、生後一年に満たない子供を参詣させるとその子は健康に育つといわれ、氏子区域以外からも参詣があるという。
        
         社殿の東側で水塚下にある
地蔵尊と光明真言百万遍供養塔
       
       
               境内に聳え立つイチョウ等の巨木
           久喜市指定の保護樹木に指定されているようだ。
 氏子の間で、当社と共に信仰されてきた神仏として、「坂東様」と呼ばれる小さな祠と石祠がある。祠の中には「納経墳」と刻まれた石碑があり、石祠については「納経墳弥助 行者 天保四巳九月□日」と刻まれている。石祠については、その昔、弥助という行者が仏様を背負って諸国を巡っている途中、当地で没したため、村人が懇ろに埋葬して墓碑を立てたものであるという伝えが残っており、元は現在の場所から北東に100mほどの所にあったが、栗橋西中学校の建設に伴い近年移転したという。
        
                    坂東様
 この行者の墓が坂東様と呼ばれるのは、当社の脇を通る道が関宿に通じる「坂東道」という街道であったことによるという。しかし、行者の墓と納経墳とが、同時期のものかどうかは、判然としていない。
 坂東様には、性病や下(しも)の病に効くという信仰があり、かつては毎年四月に御真言とか縁日といい、付近の人々が太鼓をたたいて念仏踊りを奉納するなど、賑やかな行事であったが、諸般の事情からまもなく中止となり、今なお再開されていないという事だ。


【間鎌天神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市間鎌530-1
             ・ご祭神 菅原道真公(推定)
             ・社 格 旧間鎌村後新田鎮守
             ・例祭等 初参り 1月1日 春のお神酒上げ 4月15日
                  秋のお神酒上げ 10月15日 11月25日
 間鎌八幡神社から北東に伸びる道を400m程進むと、進行方向右手の道路沿いに「間鎌天神会館」が見え、その会館の奥で目立たない場所に間鎌天神社が静かに鎮座している。 
        
                  間鎌天神社正面
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌新田』
天神社 村の鎭守なり、

 天神社  栗橋町間鎌五三〇-一(間鎌字後新田)
 当社の鎮座地は、後新田の北端に位置し、境内の北端には領主佐竹氏が、国替えの折に一夜にして作ったと伝える坂東道(ばんどうみち)がある。
 当社が間鎌新田村の鎮守となったのは、本村の間鎌村から分村した後のことであると思われる。また『元禄郷帳』には、当社の除地を載せていることから、江戸時代前期には、既に当社が祀られていたことがわかる。更に『風土記稿』には「民家二十四」とあり、化政期(一八〇四-三〇)の氏子数が確認できる。
 勧請には、二つの説がある。一つは、本村である間鎌村の旧家、鈴木家邸内の屋敷神を、当地に勧請したとする説で、本村と新田の関係から当社の創建を伝えている。また、一つは、隣村の字仁蔵(にぞう)に居を構えた豪農、岡野家で祀る岡野天神を勧請したとする説である。
 なお、当社の末社である稲荷社は、本村である間鎌村の鎮守、稲荷神社から勧請されたものといわれている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿の手前で左側に祀られている末社・稲荷社
        
                  社殿からの一風景
 当社の北側を通る坂東道の沿道には、かつて「坂東宿」という宿場が置かれ、江戸初期に「栗橋宿」が整備され、当地の宿場住民がそちやへ移住するまでは、賑わいを見せた所であったという。当地に隣接する前新田には、この坂東道で行き倒れになった坂東様と呼ばれた行者「弥助」を祀ったと伝える「納経塚」が今も残されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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新井香取神社


        
                         ・所在地 埼玉県久喜市新井272
                         ・ご祭神 経津主命 天穂日命
                         ・社 格 旧新井村鎮守
                         ・例祭等 初祭り 1月10日 春祭り 4月15日 
もや刈り 7月20日
                              
秋祭り 10月15日
 久喜市新井地域は河原代地域の南西側に位置し、埼玉県道316号阿佐間幸手線の南側に沿って接している地域で、広大な田畑風景に囲まれた農業地域でもある。その地域のほぼ中心に新井香取神社は鎮座し、地図を確認すると、河原代香取神社の南西方向で、近距離に社は建っている。一見ログハウス調の「新井集会所」に隣接していて、そこの駐車スペースをお借りしていから参拝を開始した。
        
                  新井香取神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
 島川村の東に位置し、村の南を島川が流れる。川沿いには堤防(島中囲堤)がある。田園簿に村名がみえ、田高五〇石余・畑高二一九石余で、幕府領。元禄郷帳では高三〇三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本酒井領で、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも同じ。「風土記稿」によると家数三七。助郷は日光道中中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。八甫(はっぽう)村(現鷲宮町)との間の広大な河川敷を両村で草刈場としていたが、宝永七年(一七一〇)当村はその境をめぐって訴訟に及んだものの、その訴えは退けられた(文久元年「八甫村諸記録写」霊樹寺文書)。
        
            開放感ある田畑風景の中にポツンと鎮座する社
                低地に鎮座している為なのか、水塚上に社は建っている。
 鎮座地の新井が農業地域であることから、古来、農耕神として信仰されている。また、個人的に病気平癒や災難除けなどを祈願する人もあり、特に戦時中は出征にあたって武運を祈願する人が多かったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 新井村』
香取社 村の鎭守なり、東福院持、
東福院 新義眞言宗、内國府間村正福寺末、香意山觀音寺と號す、本尊不動を置、


 香取神社  栗橋町新井二七二(新井字宮廻り)
 広々とした田畑に囲まれ、新井のほぼ中央に鎮座する当社は『明細帳』に「往古ヨリ村内鎮守二勧請シ有之元禄十丑年(一六九七)検地其以前ヨリ除税地トナリ」と記されている。

 水害から守るために築かれた水塚の上に建つ社殿は、慶応元年(一八六五)に再建されたものである。本殿は二間社流造りで、共に同じ型の幣束(高さ五七㌢㍍)が納められている。これは『郡村誌』に「香取・鷲宮社」と見えるように、二社の合殿であるためで、大正六年に香取神社と称しているが、祭神は現在でも経津主命(香取神社)・天穂日命(鷲神社)の二柱である。いつごろ香取神社と鷲神社が併せ祀られるようになったかは不明であるが、その背景には、寛永年間(一六二四-四四)以前は当地が香取神宮を一の宮とする下総国に属していたことと、鷲宮町の大社である鷲宮神社の信仰圏との関係が考えられる。
 なお、『風土記稿』新井村の項には「香取社 村の鎮守なり、東福寺持」と載り、鷲神社の名は見えないが、これは記載を漏らしたものと解すべきであろう。
 江戸時代に別当であった東福寺は、神仏分離後に廃寺となり、昭和十七年、狐塚の高秀寺に合併した。しかし、その堂宇は合併後も残され、今日も観音堂の名称で氏子に親しまれている。
                                   「埼玉の神社」より引用

 
石段途中の右側に設置されている力石の案内板  水塚上に建つ拝殿の右側に祀られる天満宮
        
            社殿の右側奥に祀られている境内社・稲荷神社
 新井という地名は、一般には新たな開発地を表すといわれているが、当地では地名起源として興味深い話が伝わっている。それは、当地に新井姓が多いところから付けられたというもので、この姓が多いのは、県内でも特に新井姓が多いといわれる秩父・本庄方面から集団で移住したためであるという。この移住は、江戸初期ごろで、その子孫の家々は、いずれも十三、四代を数えている。 
        
                 新井香取神社 遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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