古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

黒浜久伊豆神社

 8世紀の奈良時代には、『奈良の大仏』に象徴される大規模な国家的事業が推し進められ、諸国には国分寺や国分尼寺が建てられ、各地に瓦(かわら)や須恵器(すえき)を焼く窯などが作られた工房が設けられた。蓮田市内でも、鉄の生産が行われていたことが荒川附遺跡や椿山遺跡などで判明している。市内では奈良時代の遺跡が9ヶ所、平安時代の遺跡が18ヶ所、貝塚2ヶ所も確認されているが、その多くは『製鉄』に関連した遺跡である。出土している鉄の分析結果では、砂鉄を原材料とした製品であると判明していて、全国的な鉄生産と同じ形態であることがわかっている。市内で発見されているのは小鍛冶(こかじ)工房跡が多く、砂鉄から鉄の塊(かたまり)を作る大鍛冶(おおかじ:製鉄炉)や、燃料となる木炭を焼く窯などは多くは発見されていない。この砂鉄は台地が洗われ流れ出た砂鉄が蓮田の地の川辺で堆積し、これを活用していたものと考えられる
 因みに、市内の製鉄集落でも椿山遺跡は、平将門の乱が起こった頃にピークがあり、勢力下にあったことから、その時期には武器製造の一翼を担っていた事も推測 されている。
「黒浜(くろはま)」の地名の発祥は、砂鉄の黒に由来するとも考えられるという。発掘では「金屎(かなくそ)」と呼ばれるものが多く出土するが、小鍛治精錬の際に発生するもので、実際には『ゴミ』である。一部は再利用され、製品の形状を整える際の台座として利用されているものもあるようだ、また、この時代には土錘(どすい)と呼ばれる土製の錘(おもり)が出土し、玉状と管状に分類される。漁労用や編み物用と考えられ、ここにも水の恩恵が推察される。市内で出土する多くは、玉状を中心に小型のものが大部分を占めるが、荒川附遺跡(あらかわづけ:関山34丁目)では流れの速い上流域で発見されるような大型の土錘も出土している。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜1346
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧黒浜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春季例祭 415日 天王祭 714
                                    十五夜祭 915日 秋季例祭 109日 他
 蓮田駅東口から駅前通りを東行し、川島久伊豆神社の先にある元荒川に架かる宮前橋を越え、更に道なりに進む。その後、「藤ノ木坂」交差点のある路地を右折、埼玉県道162号蓮田白岡久喜線を500m程南下すると、「黒浜南小学校(南)」交差点に達するその手前で進行方向右側に黒浜久伊豆神社の鳥居や社号標柱が見えてくる。
        
                 
黒浜久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「黒浜村」の解説
 城(じよう)村の南、元荒川左岸に位置する。東は長崎村など、西は同川を隔てて上蓮田村、南は笹山(ささやま)村。村の南東に上沼(二〇町余)と下沼(五〇町余)がある。下沼は笹山・長崎二村にまたがり、溜井としても利用された。元荒川には水除堤があり、南の川島村に通じる道に土橋が架けられている(風土記稿)。戦国期頃に成立したとみられる市場之祭文写(武州文書)に「武州崎西郡黒浜市祭」とみえる。小名に堀ノ内があり、野口氏館があったと伝える。永禄七年(一五六四)太田資正が国府台合戦で小田原北条氏に敗れた後、資正の郎党野口多門が帰農して居住したといわれる(岩槻巷談)。
江戸時代初期には笹山村・長崎村を含んだといわれ(風土記稿)、元禄期(一六八八―一七〇四)までに両村が分村したと考えられる。
 
   鳥居の左側に設置されている案内板        文化財の標柱も設置されている。

 左側の文化財には「円空作佛像」と記されている。
この円空(16321695)は、江戸時代前期、美濃国(岐阜県)に生まれた僧侶であるが、詳しい生い立ちについては、いまだに多くの謎が残されている。彼は不幸な人々を救うため、12万体の仏像を残すことを誓い、旅に出て数多くの仏像を彫り続けた。
 岐阜を出発した円空は、青森を経て北海道に渡る。そして北国の旅を終えて故郷に戻り、40代半ばを過ぎるまでの10数年間、更に仏像づくりに打ち込んで、ごつごつした彫り痕を特徴とする、一刀彫り(いっとうぼり)の手法を確立した。独自の手法を確立した後は、岐阜、滋賀、愛知などに活動範囲を広げ、さらに関東に足を延ばし、日光を訪れる。関東地方にはおよそ4年間滞在する。この際、蓮田の黒浜、江ケ崎にも立ち寄り、仏像を残した。市内には今も24体の像が残されていて、そのうちの観音菩薩立像など18体が、久伊豆神社の宮司である矢島家で発見された。矢島家の円空仏は、埼玉県の指定文化財(「矢島家円空仏群(やじまけえんくうぶつぐん)」)になっており、大部分が埼玉県立博物館で保管されている。
 円空の手による仏像は、今のところ全国で4,500体あまりが確認されていて、埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿いの地域で集中的に見つかっているという。
        
                参道途中にある二の鳥居
 蓮田市の黒浜の地は、元荒川の左岸に位置する農業地域で、元荒川に面する台地上には「黒浜遺跡…縄文時代の貝塚群および環状集落の遺跡」「雅楽谷(うたや)遺跡…埼玉県の縄文時代後期・晩期(約40002500年前)を代表する遺跡のひとつ」「椿山遺跡…古墳時代末期、7世紀ごろのものと思われる古墳があり、直刀や勾玉などが数多く出土」など、考古学上重要視されている遺跡が数多い。また、字堀ノ内は、永禄7年(1564)の国府台合戦で小田原北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門が帰農して居住した所といわれ、更に、戦国期ごろに成立したと推定される「市場之祭文写」にも「武州崎西郡黒浜市祭」と載るところから、室町時代後期には相応の村落が形成されていたことが推定されている。
        
        蓮田市の指定を受けた保護樹林の参道の先に社殿が見えてくる。
          保護樹林 指定番号 第3号 指定年月 平成2年4月
        地域の方々にとっても大切な鎮守の森として保存されている。

『風土記稿』にも記されているように、江戸時代の初期までは笹山村・長崎村も黒浜村のうちであった。黒浜村の鎮守であった当社の氏子区域は、かつての黒浜・笹山・長崎の三か村にわたっているが、このことは、笹山・長崎の両村が分村する前から当社が黒浜の鎮守として信仰を集めていたことを示すものといえよう。元来は農業地域であったこれらの地域も、今では住宅地として開発が進み、多くの転入者を受け入れるようになった。そのため、三地域合わせて世帯数は三千戸を超えるが、氏子に入っているのは旧家を中心とした九百戸程である。但し、長崎では歴史的な経緯もあり、諏訪神社を祀っており、黒浜の中でも八貫野は南新宿の稲荷神社の氏子に入っている。

   参道沿いに設置されている社の案内板      参道右側に祀られている稲荷神社
                        稲荷神社の左側にある富士登山記念碑

 参道左側には「伊勢参宮記念碑」が4基あり(写真左)、対する参道右側には奉納碑や伊勢参宮記念碑、富士登山記念碑、甲子待講碑等(同右)がある。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 黒濱村』
久伊豆社 寶藏院持、下同じ、末社 稻荷社 〇天神社 〇神明社二 一は同寺持、一は村民持、 〇稻荷社 村民持
 寶藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、花盛山と號す、開山隆意享祿四年十二月二十七日寂す、此隆意は上總國に住せし眞里谷三河守信重が子孫、勝頼母介常秋が子にて、信濃守景勝と云、後修驗となりて當所に住せし由、所藏の系圖に見えたり、

 久伊豆神社  蓮田市黒浜一三四六(黒浜字天神前)
『明細帳』によれば、当社は室町時代の享禄年間(一五二八-三二)に、本山派修験の大泉院が騎西町の玉敷神社から分霊を勧請したことに始まる。大泉院は、文明十三年(一四八一)に上総国久留里城主勝(すぐれ)信濃守源景勝という者が修験者となり、当地に土着して花盛山神宮寺と号したが、その子俊正の代に大泉寺と改めた。その後、大泉院は江戸時代に宝蔵院と再度寺号を改めた。また、慶長十六年(一六一一)に、右の勝俊正ほか五八名が願主となって社殿が建立されたという。以上の記録から、創建当時の当社は大泉院の一角に祀られた小祠であったが、慶長十六年に現在地に鎮守にふさわしい社殿を設け、村全体で祀るようになったと思われる。その後、宝暦二年(一七五二)に神祇管領ト部兼雄から「久伊豆大明神幣帛」を受け、数度の再建・営繕を経て、明治維新を迎えた。ちなみに、現在の本殿は、棟札によれば天明八年(一七八八)九月に竣功したものであり、昭和五十八年には市の有形文化財に指定された。
『風土記稿』黒浜村の項に「久伊豆社 宝蔵院持」と載るように、江戸時代の当社は宝蔵院が別当であったが、明治になると神仏分離によってその管理を離れて村社となり、明治四十三年には字天神前の菅原神社と字前原の神明社を合祀した。一方、廃寺となった宝蔵院は勝姓を名乗って復飾し、その後は氏子として神社運営に協力している。
                                   「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
        
              境内に設置されている本殿の案内板
 蓮田市指定有形文化財 建造物
 黒浜久伊豆神社本殿
 昭和五十八年四月一日指定
 黒浜久伊豆神社は、室町時代の享禄年間(一五二八年頃)に騎西町の玉敷神社を勧請したといわれ、その祭神は大己貴命である。
 流造り銅板葺の本殿は、保存状態がたいへん良く、江戸時代後期の神社建築の様式がよく分かる貴重な資料となっている。また、その一部に施された彫刻も優れた作風を示すものである。
 この流造りというのは神明造り・大社造りなどといった神社建築の中で、正面の屋根だけを長く伸ばすもので、全国の神社に多く見られるスタイルである。
 本殿の大きさは、幅二m、奥行き一・八m、五段ある正面階段は、幅二m、奥行き一・六五mを測り、その基礎は、江戸時代後期の亀腹式の礎石である(以下略)。
                                       案内板より引用
        
                 静まり返っている社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「蓮田市HP
    「はすだ観光協会HP」「境内案内板」等

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川島久伊豆神社

 蓮田市川島地域の「川島」の地名は、周囲を川に囲まれた島のような低地であったことに由来すると考えられている。というのも、昭和56年ごろの元荒川の大改修が行われるまでは、俗に「水っ場(みずっば)」とか、「蛙が小便しても水が出る」といわれるほどしばしば水害に悩まされ、台風が来ると一日くらい水が引かず、子供は舟で学校に通ったものであったらしい。従って、日常の生活でも舟に頼ることが多く、『郡村誌』に「戸数四十三戸(中略)伝馬船二十一、水害予備船二十一、漁船十四」とあるのも、そうした状況をよく物語っている。
 また、祭事が簡素なものとなっている理由も、こうした度々の水害による村の疲弊と深い関係があるという事だ。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市東3910
             ・ご祭神 大己貴命
             ・社 格 旧川島村鎮守 旧村社
             ・例祭等 初祈祷 1月 春祈祷 415日 例祭 725
                  お日待 109日 新穀感謝祭 1123日 大祓 11
 JR蓮田駅東口ロータリーから駅前通りを進み、埼玉県道154号蓮田杉戸線合流後東行し、元荒川に架かる「宮前橋」手前に社は鎮座する。この川島久伊豆神社は、江戸時代後期(1800年代)に創立されたもので、地域の人から農業の安全や豊作を祈る神である「作神」として信仰をあつめている。
        
 社は県道沿いに鎮座しているが、実際に当地に到着すると、丁度背を向けた配置となっている。宮前橋の手前の交差点を右折、元荒川沿いに境内は広がり、入口もこちら側からとなっている。また、道路沿いに社号標柱や案内板が設置されている。
 
        
                 川島久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「川島村」の解説
 蓮田台地の南東部に位置し、元荒川右岸の自然堤防上にある。東は元荒川を隔てて笹山村。同川に沿って水除堤があり、川島橋という土橋が架けられていた(風土記稿)。寛永期(一六二四―四四)に岩槻藩阿部氏の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高六五石余・畑高八五石余。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によれば高三一六石余、この間新田開発が盛んに進められたことがわかる。延宝八年(一六八〇)の人数は一七五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
 当地川島は、江戸時代の始めは岩槻藩領であったが、幕府領を経て、延享4年(1747)からは御三卿の一家一橋領となった。そのため、村民は自分たちの村に誇りを持ち、苦境にも負けずに農業に励んだという。

   参道左側に祀られている三宝荒神と並びに設置されている案内板、伊勢参宮記念碑。
 川島・久伊豆神社
 蓮田市東三丁目八百六十二の一
 この久伊豆神社は、江戸時代後期(一八〇〇年代)に創立されたもので地域の人から農業の安全や豊作を祈る神(作神)として信仰をあつめている。祭神は大己貴命である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、「久伊豆神社、村の鎮守にて地蔵院持」と記載されている。
 久伊豆神社は、元荒川流域にのみ分布しており、東の「香取」、西の「氷川」圏と並び一祭祀圏をなしている。
 市内には、久伊豆神社七社、系列の根金神社一社を加え合計八社が現存している。
「久伊豆」の読み方については、「ヒサイズ」と「クイズ」の両方があるが、この地方では、ほぼ「ヒサイズ」と読んでいる。
 また、近郷の人には当社を「ぬすっと宮」と呼ぶ人が多い。この由来については諸説あるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだ。慈悲深い神は、これをかくまい、追手から逃がしてやったという。以来だれとはなしにこう呼ばれるようになったといわれている。
 現在の拝殿は、昭和三年に改築されたものである。当時の工事費は八二五円であった(以下略)。
                                       案内板より引用
        
           境内社 左から稲荷神社・稲荷神社・雷電神社
 当社は、近隣の人々から「盗人(ぬすっと)宮」と呼ばれていたという。この呼称については諸説があるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだところ、慈悲深い神がこれを匿って追手から逃がしてやったとか、お供物が片っ端から盗まれてしまい、ついには御神体まで盗まれてしまったなどと言い伝えられてきたが、実際のところはよく分からなかった。
 ところが、平成41月にになって、ブラジルに住む当地出身の二世の方が、「家族に病人が出るのは、先祖が昭和8年に出国した時に御神体を無断で持って来たためと思われるのでお返ししたい」と、訪日する友人に託して像高11.5㎝の不動明王のような木造の立像を返しにきた。そこで、当社では壊れた光背と足先を新しく作って本殿に納め、御神体帰還祝いとして、久しぶりに神楽を奉納するなど、にぎやかに祭典を行った。なお、この話は、「五十九年ぶり神体里帰り」として同年四月十七日の『毎日新聞』で報じられたという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 川島村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、地藏院持、末社 天神 荒神 稻荷 雷電、
 地藏院 新義眞言宗、太田新井村安樂寺門徒、花德山延命寺と號す、本尊延命地藏を安ず、


 久伊豆神社御由緒   蓮田市川島八六二(川島字宮面)
 □御縁起(歴史)
 元荒川にかかる宮前橋のそばに鎮座する当社は、大巳貴命を祭神とし、川島の鎮守として奉斎されてきた。落ち着いた雰囲気の境内には松がよく茂り、その中の一本には、珍しく「宿り木」が寄生している。昔から見れば、松も随分少なくなったといわれるが、それでも元荒川の水面に影を映す美しい社叢は、神の坐す所にふさわしい景観であるように感じられる。
 また、明治初期までは、川島の集落から社殿に向かって、八〇メートルほどの一直線の長い参道がついていた。そのころは鳥居の手前(南側)には堀があり、太鼓橋が架かっていた。しかし、参道の辺りにも民家が増え始め、ついには参道そのものも住宅などの敷地になってしまい、昔の面影は失われてしまった。元荒川の揚水機小屋のある、境内南側の低くなっている所は、かつての堀の跡である。
『風土記稿』に「久伊豆社 村の鎮守なり、地蔵院持、末社 天神 荒神 稲荷 雷電」とあるように、当社は地内の地蔵院の持ちであった。神仏分離後、地蔵院は廃寺となり、その草葺きの建物は村の集会所として各種の会合の場として長い間使われ、太平洋戦争中は疎開者の住居にもなっていたが、老朽化が進んだために取り壊され、昭和四十年に公民館として生まれ変わった。公民館の中には、地蔵院の名残として本尊の延命地蔵が祀られている。
                              「埼玉の神社」「案内板」より引用
 
         本 殿                  境内社・天神様
 当地はJR蓮田駅からも比較的近く、地内を東北自動車道も通ることから、近年住宅地として再開発が進んでいる。多くの転入者を迎え、昔からの集落である上(かみ)・下(しも)に加え、団地と呼ばれる新しい地区ができ、200戸程の住民の過半数が氏子となっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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下蓮田八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県蓮田市東6917
            ・ご祭神(主)応神天皇 (合殿)仁徳天皇
            ・社 格 旧下蓮田村鎮守 旧村社
            ・例祭等 初拝み 115日 春祈祷 4月上旬 祭礼 725
                 新穀祭 1123日 大祓 12月中旬 
 蓮田市の南部に位置する東(ひがし)地域は、蓮田駅に近く交通の便もあり、また、太平洋戦争後の宅地化推進により、かつてこの地域周辺に広がっていた「鎮守の森」は徐々に消えていき、景観も大きく変わってしまったという。
 蓮田駅の南西部にある「蓮田市立蓮田南小学校」のすぐ西側に鎮座している社。確かに周囲は開発によって多くの住宅街等に囲まれているが、社の入口から参道周辺にはまだこんもりとした社叢林は今尚健在で、氏子の方々の日々の崇敬の厚さを感じずにはいられない。
        
                 下蓮田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「下蓮田村」の解説
 上蓮田村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。古くは上蓮田村と一村であったとみられ、同村の久伊豆神社は両村の鎮守となっている。寛永年間(一六二四―四四)検地があり(風土記稿)、田園簿では田高二一〇石余・畑高二〇九石余、岩槻藩領。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高四七七石余。延宝八年(一六八〇)の人数は二一〇、新田の家数一四(うち本百姓九)、人数九四(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。
 
    比較的長い参道を進むと一の鳥居(写真左)、その後二の鳥居(同右)に達する。
        
           二の鳥居の右側に祀られている境内社・金刀毘羅宮
この金刀毘羅宮は、古くから境内社として祀られている。かつては、毎年2月10日に、社の前に浅敷を作り、紅白の幕を張って盛大に祭りをして、当社の祭りより人出が多かったというが、戦後には衰退してという。
        
             二の鳥居近くに設置されている案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下蓮田村』
 八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稻荷社 以上の神社慶福寺持、
 慶福寺 天台宗、入間郡古尾谷村灌頂院末、中應山蓮臺院と號す、開山慶蓮は慶安年中寂せしと云、本尊三尊の彌陀を安ず、地藏堂二宇 一は立像、丈二尺許、定朝の作、一は秘佛にして見ることを許さず、

 八幡神社  蓮田市東六-九(蓮田字神原)
 JR蓮田駅の東口を出て、南西に約一〇分ほど歩くと、当社の境内がある。この辺りは、元来は「鎮守の森」の言葉がふさわしいような山林であったが、交通の便がよいため、太平洋戦争後は宅地化が進み景観は大きく変わった。また、当社の境内の東側は蓮田南小学校に隣接しているため、子供たちからも「八幡様」の通称で親しまれており、境内で遊ぶ子供たちの姿もよく見受けられる。
 当社の創始については明らかではないが、古くから下蓮田の鎮守として祀られてきた。西南西四〇〇㍍ほどの所には、中世武士の城館跡を示す「堀の内」の地名があり、武神とされる八幡神の勧請に、この城館に居住した武士がかかわっていたとも推測される。
 祭神について『明細帳』は「祭神応神天皇、合殿仁徳天皇」としており、一間社流造りの本殿には金幣が大小一体ずつ安置されている。また、鎮座地付近は当社にちなんで「若宮」と呼ばれ、鳥居に掛かる社号額にも「若宮八幡宮」と刻まれていることから、当社は古くは「若宮八幡」を号していたことがわかる。
 明治四十一年七月十八日、政府の合祀政策に従い、下蓮田では、村社であった当社に字桑原の無格社神明社と字綾瀬附の無格社稲荷社の両社を合祀した。しかし、旧氏子の強い要望によって両社共昭和十年ごろ旧地に復し、合祀前のように祀られるようになった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿内部                   本 殿
 現在では、行政上は大字蓮田及び御前橋一と末広一丁目と東六丁目の各一部となっているが、当社の氏子区域である下蓮田は、江戸時代には独立した一村であり、「前口」「桑原」「新田」という現在も存続する三つの村組からなっていた。『風土記稿』下蓮田村の項では、村内の神社について「八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稲荷社 以上の神社慶福持」と載せている。文中の慶福持は、阿弥陀三尊を本尊とする天台宗の寺院で、古くから下蓮田に住む人々の檀那寺でもある。
        
                        「大神宮 出雲大社 太々記念碑」
『風土記稿』にみえる諸社のうち、天神社は前口、神明社は桑原、稲荷社は新田で祀る社である。下蓮田では、村全体の鎮守として当社を祀ると共に、このような小規模の社を組ごとに祀ってきた。神社運営も、これらの組を単位として行われており、各組から年番が二名ずつ出て、祭典の世話役を務めるほか、総代も各地区から一名ずつ適任者が互選で選出されるという。
        
                  社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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立石新田伊勢島神社

「群馬県気象災害」をみると県下では近世江戸期、頻繁に水害が起きている。特に寛保2年(1742)の水害は広範囲に大きな被害をもたらした。その時の模様が埼玉県の「中瀬村誌」に記されている。
 寛保二戌ノ年八月朔日の大満水は七月廿七日申刻より大雨降続、同廿九日卯ノ刻より水増酉刻には畑並居屋敷迄押開、戌ノ刻より風強く吹出し、家或は四五尺に余る廻りの,木とも所にて吹たおす事其数多し(中略)西上州山川の咄筆紙に尽しがたく、新町在立石新田、家数五十七軒の所七軒残皆押流され死おびただし、村々に止り命助かる人も有よし也。(後略)
 この時の新町宿大洪水の被害は、流出家屋九十七軒、半潰百十四軒、大破家七十七軒、合計二百八十八戸が大被害を受け、流死人五十四人と大変な状況であった。
 この寛保二年(一七四二)の大洪水の折、温井川の増水が早く、橋も流出し逃げ場を失って立石新田の婦女子が多く死亡した。そして二十一年後の宝暦十三年(一七六三)、寺や村人達等によって立派な石橋が架けられその橋の供養をした。昭和五年コンクリート橋に架け替えられた時に石橋の石は立石新田に返され、神社や寺の境内に保存されているとの事だ。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市立石新田3
              
・ご祭神 天照皇大神 素盞嗚尊 月読命
             
・社 格 旧立石新田村鎮守
             
・例祭等 春祭り 3月 秋祭り 1016日に近い日曜日
 新町八幡神社の北側を通る中山道を北西方向に進み、温井川に架かる弁天橋を渡ると藤岡市立石新田に入る。間もなく三差路となり、左への広い道は昭和5年(1930)に造られた道である。しかし昭和40年(1965)バイパスが造られたため、現在は群馬県道178号中島新町線となり静かな通りとなった。
 右の道が中山道でやや右へヵーブし間もなく集落に入る。ここが通称「砂原」と言われる70戸程の立石新田であり、道なりに進むと、地域
の中程東側に立石新田伊勢嶋神社の鳥居が見えてくる。
        
            中山道沿いに鎮座する立石新田伊勢嶋神社
 烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から通称である「砂原」といっていたが、この名の通り、この地域は洪水の常襲地帯であった。古くはお伊勢の森から付いたのか、「伊勢島村」とも呼ばれていた。度重なる水害から村民が離散し廃村となり立石村に合併された。その後、立石村や烏川左岸の八幡原や角渕の人々が再び開拓して天和年間(16811683)には立石新田が開発されたという。
『日本歴史地名大系』 「立石新田」の解説
 北境を烏川が東流し、東から南は新町宿(現多野郡新町)、南から西は立石村・中島村、北は群馬郡八幡原村(現高崎市)・同郡宇貫(うぬき)村・那波郡角淵(つのぶち)村(現佐波郡玉村町)と接する。古くは伊勢島村・砂原村と称したが、烏川の度重なる水害を避け他村へ移住、延宝年間(一六七三―八一)に立石村の人々が再開発したという。
 元禄郷帳では前橋藩領、後期の御改革組合村高帳では幕府領、家数四九。中山道新町宿の助郷高一四四石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御両懸人足割入場に人足三一人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。寛保二年(一七四二)八月の大洪水では田畑残らず永川砂入となり、民家六〇軒ほどが流れ、残るは一〇軒余という有様で、流死八〇人余、流馬三〇疋余の大被害を受けた(「大洪水被害記事」須賀文書)。
 
  社の入口である鳥居の両側には幾多の石造物や石祠等が置かれている(写真左・右)
 鳥居に向かって左側には、庚申塔(万延元年 1860)・二十二夜塔(慶応2年 1866)・御岳山大神(弘化2年 1845)・他巳待講等(写真左)。鳥居の右側には、社号標柱の他に猿田彦大神(慶応2年 1866)・大巳貴尊・蚕影山太〇・榛名山〇〇大神や、琴平大神入口の道標石も見える(同右)。
        
      参道を進むと左側に立石新田公会堂が境内に割り込むように建っている。
 立石新田伊勢島神社自体は明治42年(19097月、地域内に祀られていた神明宮等七社を現社地に当時鎮座していた稲荷神社社殿に合祀して、「伊勢島神社」としたという比較的歴史は浅い社である。但し、この社の創建に至る経緯は、この地域一帯の宿命といえる水害等の自然災害を抜きにしては語れないものである。
 社の西側で、地域の集落を越えて直ぐに関越自動車道が横切ったその先に広大な烏川の河川敷が広がり、その一角に「烏川緑地スポーツ広場」が、その公園の東側隅にポツンと『神明宮元宮』、別名『お伊勢の森』と呼ばれる石祠と数本の立木が祀られている。
 ※時間等の都合で、当地を見学・散策できず、写真に納めきれませんでした。
 その石祠の近くに「中山道お伊勢の森」の案内板があるのだが、その案内板によれば、この辺り一帯は、昔から砂原村と言っていて、いつの頃か伊勢島村というようになり、村の北端に、伊勢大神宮を奉斎して、神明宮社殿を建立し。村の鎮守として崇敬していたようだ。その後、寛文年間の水害により、村民が離散し廃村となり、立石村に合併、但し立石村民が再開発して、伊勢島新田村と仮称する(*天和年中 正式に分村して立石新田村となる)。
 時代は下り、明治42年(19097月、神明宮・稲荷神社・琴平社・諏訪社・菅原社・秋葉社・ 戸隠社を稲荷神社社殿に合祀して、伊勢島神社と改称し、鎮守様として専崇したという。
        
                    拝 殿
 中山道お伊勢の森
 このあたりから烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から砂原村と言っていたが、何時の頃からか年代は詳らかでは無いが、伊勢島村と言うようになり、村の北端に伊勢神宮を祀り、村の人々は大神宮さまと称して崇敬した。しかし度々の水害によって村勢が衰え、江戸時代始めの頃には隣村の立石村に合併となった。
 慶安(一六四八)から承応(一六五二)の頃、加賀藩の意向によって、中島村から新町宿に至る中山道としての新しい道が出来たので、立石村の人々により再開発され、道の両側に沿った集落が形成され、その中程に立石村の政所稲荷社を勧請し、その北隣地に教養寺を創建した。
 その時境内に建てられた石造塔には、
 西上刕緑埜郡、伊勢嶋新田 寛文十年 十一月吉日 などの文字が刻まれている。
 天和二(一六八二)年、前橋藩主酒井忠挙が村名を立石新田村改め現在に至っている。中山道は、始めお伊勢の森の北側を通っていたが、寛保二(一七四二)年の大洪水以後川の浸蝕により、文化年中に森の南側を通るようになった。
 広重の浮世絵(中山道六十九次新町宿)はこの辺りの風景を画いたものである。
 昭和元年、御神木とされていた﨔の大木の落札価格が壱千五円参銭であったことからもその大きさが想像される。現存の神明宮元宮の社殿は、昭和六十二年、村の篤志家の寄進であり、河川敷側に保存されているのは極めて稀なことである(以下略)

                                                                              案内板より引用
 ※この案内板は、地域の歴史や水害等の様子を伝えているだけでなく、間接的にも立石新田伊勢島神社の創建にも関わっていると思われ、敢てこの文書を掲載している。
       拝殿に掲げてある社の扁額               本 殿
 天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、「立石新田獅子舞」が他の区より伝承されたという。
立石新田獅子舞」
 天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、他の区より伝承されたものと考えられます。流派は稲荷流阿久津派とされ、羽根獅子3(先獅子、中獅子、後獅子)、カンカチ1、花笠2、笛数人の構成に、天狗(猿田彦大神)が加わった珍しい構成です。
 継承されてきた獅子舞も太平洋戦争終戦後30年間も途絶えましたが、有志の人たちが獅子舞の復活に情熱を注ぎ、寄付金を集め、衣装も整え、昭和54年(1979)に復活されました。しかし、平成2年(1990)後継者不足で再度休止に追い込まれてしまいましたが、平成29年(2017)立石新田の伝統芸能を絶やしてはいけないとの機運が高まり、保存会準備委員会を立ち上げ、平成30年(2018)正式に「砂原獅子舞保存会」(会長 金井聡明)を発足させました。舞一人、笛一人の経験者しかいない中、参加者の募集から始め、この活動は上毛新聞に紹介されました。
 文久2年(1862)、藤岡太音次塗師により獅子頭塗替えを実施後、長期に渡り修理されていないため傷みが著しく、獅子頭等の修復作業から取り掛かり、住民の皆様、企業の方々からのご寄付により、平成30年(2018)、中獅子(女獅子)の頭を修復することが出来、令和元年(2019)の伊勢島神社秋祭りにて披露、そして令和4年(2022年)、43年ぶりに伊勢島神社秋祭りにて区内を巡行する事となりました。
                             「ぐんま地域文化マップHP
」より引用
      
           社殿の右側奥に祀られている境内社(写真左・右)
        
             立石新田公会堂の奥に聳え立つ社の御神木



参考資料群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県立文書館 目録検索HP」
    「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」等
    

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新町八幡宮

 中世の江戸期に宿場として繁盛していた新町宿は、落合新町(落合宿)と笛木新町(笛木宿)の二つが集合した宿場であった。新町宿成立の経緯と地名の由来は、『多野藤岡地方誌』に示されていて、東から南部一帯を緑野郡笛木村、西から北にかけてが下落合村であった。この地域は烏川、神流川の合流し、氾濫原であるために洪水が多く、「落合」という名称も、烏・神奈の落ち合った地域からの地名であるという。下落合に対して旧美土里村(藤岡市)に大字上落合があるが、中山道が開通してからは下落合とはいわず、単に落合といい、落合新宿または落合新町といったという。
 このように新町宿は落合村と笛木村が合体してできた宿場であったのだが、実際は江戸時代を通して、両村の独立性は高かったようだ。地元に残る古文書・古記録には、新町宿をせずに、「落合新町」「笛木新町」と区別されているものが多い。
        
              
・所在地 群馬県高崎市新町2522
               
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧落合宿産土神 旧村社
              
・例祭等 不明
 新町八坂神社から旧中山道(現埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線及び、群馬県道178号中島新町線)を北西方向に進む。この旧中山道の道幅は昔とそれ程変わらないようだが、戦後の開発により新町駅前通りが出来たりして、昔の面影を探すのは困難であるが、町割り自体は昔のままであり、昔の絵図から現在の家を探すことができるという。
 その後、1㎞程進んだ丁字路を左折すると、すぐ右手に高尾山宝勝寺が見え、その隣に「指定村社 八幡神社」の社号標柱が建っている。
        
               新町八幡神社 正面社号標柱
 社の鎮座地は、別当寺である高尾山宝勝寺と共に、江戸時代の中山道新町宿・小林本陣跡の南側奥にあたり、旧中山道という主要街道の宿場町にある鎮守社として祀られていたのではないかと想像する。因みに小林本陣跡とは、「久保本陣」「三俣副本陣」と共に参勤交代の定宿だったといい、建坪135坪あまり、玄関は20畳、つづく広間が15畳といかにも本陣らしい造りとなっていたという。
 
    社号標柱から高尾山宝勝寺の南側脇の路地が参道となっている(写真左・右)。

 新義真言宗豊山派落合山宝勝寺は、森新田にあった地蔵尊を現在の地に移し、新町宿成立以前の慶長13年(1608)に僧堯運によって開山されたといわれる。何回か火災にあっているが、宝暦11年 (1761)に造られた鐘楼門が残っている。造りの立派なものである。鐘は太平洋戦争中供出されたが、昭和28年(1953)再び鋳造された。境内に安永4年(1775)に建立され百番供養塔と六地蔵がある。また墓地には多くの著名人が眠っているが、大和郡山城主柳沢甲斐守保興の室お貞の方が大和の国より江戸へ向かぅ途中新町の本陣で急病でなくなりこの寺に葬った。立派な石塔には「貞蓮院殿貴顔妙倫大姉」「寛政六甲寅年七月初三日」と記されている。
 また柳瀬川(烏川)に初めて船会所を創立して中山道の交通を容易にした事業寒であり、俳人でもあった小林伊左衛門(17221783)、医学者大久保適斎(18401911)、西ヶ原養蚕伝習所(東京農工大前身)に学び、新町養蚕伝習所を創設した境野清衛(18451913)の墓もあるという。
        
              朱を基調と下両部鳥居 これより境内
        
                    拝 殿
 宝勝寺に隣接する新町八幡宮の創建年代は鎌倉時代初期の建久年間(11901198)といわれ、その本殿は元禄4年(1691)に再建されたもので、鎌倉時代の建築様式を残し、柱の彫刻は精巧なものである。
 社の鎮座地は、江戸時代の中山道新町宿・小林本陣跡の奥にあたり、旧中山道という主要街道の宿場町にある八幡神社として賑やかだったことがうかがえる。
 拝殿には絵馬が奉納されているが、文久3年(1862)に新町宿の遊女達が奉納した三面の大作の絵馬は町の文化財に指定されている。一面は玉村の千揮玉斎が描いた「紅葉狩」、他の二面は境町出身の金井研香作の「勿来関」と「花木図」で横六尺縦三尺の大絵馬で保存状態が良い。「花木図」中には「丸富楼」の遊女達が作った俳諧が記されており、新町宿色街の繁栄と俳諧の普及の様子が偲ばれる。
        
         拝殿側面に設置されている羅袈裟喜氏指定文化財の案内板
 高崎市指定文化財
 ①八幡宮絵馬
 一、「勿来関」(板面著色・額装)
 作者   金井 研香
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  高橋屋の遊女(7名)
「勿来関」は、郎党2名を従えた騎馬武者を中心の絵柄として、背景に桜花を配することで、華やかさと潔さを象徴している。
 一、「花草図」(板面著色・額装)
 作者   金井 研香
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  丸富楼の遊女(8名)
 遊女8人の俳句が書かれている。
「花草図」は、画面右から上部にかけて、八重かと思われる豪華な桜花でおおい、花影の下部にはひかえめに草花を配す、見事な画面構成である。
 一、「紅葉狩」(板面著色・額装)
 作者   千輝玉斎
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  絹屋の遊女(9名)
「紅葉狩」は、平維茂が鬼女を討たんとする瞬間をとらえており、逃れんとする鬼女の動きが劇的な効果を高めている。
                                       案内板より引用
指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財
名称:八幡宮絵馬 三面(はちまんぐうえま さんめん)
・指定年月日:昭和55110
 ②天神の獅子舞
 天神地区(現在の第2区周辺)の人達によって伝承されている稲荷流獅子舞で、雄2頭、雌1頭の一人立ち3頭獅子である。獅子は鳥総を飾った頭をつけ、タッツケ袴、白足袋、草鞋ばきで、腰太鼓をつける。元禄4年(1691)落合宿で八幡宮再建のおり、新町産の一本桐で獅子頭を新調したといわれている。獅子3頭のほか天狗とカンカチが加わり、笛の伴奏で舞全体をリードする。祭りの時は天神様・八幡宮を参拝し、神官に祓い清めてもらい、舞を奉納してから上三町(現在の第1区、2区、3区)の祭会所で舞を披露する。
                                       案内板より引用
指定種別:高崎市指定重要無形民俗文化財
名称:天神の獅子舞(てんじんのししまい)
指定年月日:昭和55110
        
                    本 殿
 
     社殿の右側にある神興庫         神興庫の右並びに祀られている石祠
 市指定文化財「八幡宮神輿」が大事にある。          詳細は不明
③八幡宮神輿
寛政5年(1793)宿場の大火によって焼失したものを、信仰の篤い宿場の人々の悲願によって享和元年(1801)に復元されたもので、渡御神輿と称される荘厳なつくりです。
落合宿の産土神、八幡宮の神霊を祭事に移して、宮本・仲町・橋場の各町内に御旅所を設け、年番の町内が奉仕した。神輿のほかに四神旗もあり、青龍・朱雀・白虎・玄武の信仰は中国から渡来して大和時代に定着したが、庶民に浸透したのはずっと後である。
                                       案内板より引用

・指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財
・名称:八幡宮神輿(はちまんぐうみこし)
指定年月:平成3127
        
            境内の東側隅に設置されている第一区花車庫
 八幡宮の氏子区域は宮元町(一区)、仲町(二区)、橋場町(三区)の三町から構成されていて、各区お囃子が異なるという。
「新町ふるさと祭り(山車まつり)」は、2年に1回の隔年開催の行事であり、8月中旬に町内110区の各山車・屋台が日中は地元を廻り、夕方から駅前通りに集結しお囃子の競演、叩き合いを行うものだ。
 
  帰り際に境内の一角から鳥居方向を撮影      鳥居の先にある特徴ある手水鉢
        
                   境内の様子


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県神社庁HP」「ぐんま地域文化マップHP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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