中閏戸久伊豆神社
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸3292
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧中閏戸村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭り(おしっさま) 5月6日
上閏戸愛宕神社から国道122号線、途中から分岐する旧国道122号線を800m程南下し、「蓮田北小学校入口」交差点を右折し道なりに進み、旧別当福正院跡に建てられた蓮田北小学校の南側に隣接する、社叢林に囲まれた中に中閏戸久伊豆神社は鎮座している。
中閏戸久伊豆神社正面
地図を確認すると、見沼代用水がすぐ西側裏手に流れ、北側にある小学校以外は集落からも離れ、目立たない場所に社は位置していて、当地の人々の生活圏から一線を画する地に社を祀る配置が却って神聖性ある雰囲気を醸し出している。
『日本歴史地名大系』「中閏戸村」の解説
上閏戸村・貝塚村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川左岸に位置する。西は同川を境に足立郡小貝戸(こがいと)・柄山(がらやま)村(現伊奈町)、南は下閏戸村。閏戸郷に属したという(風土記稿)。旧家与兵衛家は黒須氏を称しているが(同書)、永正一六年(一五一九)四月二日、先祖の黒須平内五郎が「長渭」なる人物から感状(写、武州文書)を、また黒須八郎左衛門尉が氏綱から四月七日付の判物(写、同文書)をそれぞれ与えられているが、いずれも検討を要する。
社の入口付近に設置されている案内板
「閏戸の久伊豆神社」 蓮田市閏戸三二九二
蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。
したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
この「閏戸の久伊豆神社」は、かつて二社ありました。「武蔵風土記稿」に「久伊豆神社二宇村内ノ鎮守ナリ」と記されており、旧一二二号道を挟んで向き合うように「東の宮」「西の宮」が祀られていました。現在の神社は西の宮です。境内には、三嶽社、疱瘡神社があり、石の獅子頭、力石が残されています。当社の祭事は、一月一日の元旦祭、五月五日の春季祭ですが、春季祭では「お獅子様」が行われ無業息災を祈る行事があります(以下略)。
案内板より引用
しっとりとして雰囲気ある参道 参道右側に祀られている疱瘡社・三嶽社
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中閏戸村』
久伊豆社二宇 村内の鎮守なり、共に中古騎西町に立る、久伊豆を勧請せしと云、
久伊豆神社 蓮田市閏戸三二九二(閏戸字北原)
『風土記稿』によれば、当地は古くは閏戸郷に属し潤戸村と称したが、元禄十一年(一六八九)に閏戸村が六か村に分村したため、それ以降は中閏戸村と称したという。また、旧家黒須与兵衛家の先祖平内五郎が永正十六年(一五一九)に「長渭」なる人物から謝状を、八郎左右衛門尉が氏綱から四月七日付けの判物をそれぞれ与えられたと記されるが、検討を要する。
『風土記稿』中閏戸村の項に「久伊豆神社二宇 村内の鎮守なり、共に中古騎西町に立る久伊豆を勧請せしと云」と載るように、地内にはかつて久伊豆神社が二社祀られていた。一社は「西の宮」と称し見沼用水を背にして鎮座し、もう一社は「東の宮」と称し「西の宮」と現在の国道一二二号を挟んで向き合うように祀られていた。この「西の宮」が当社のことである。往時は当社北に真言宗福正院が隣接し、当社との関わりをうかがわせるが、明治初期に廃寺となり明らかではない。なお騎西町の久伊豆とは現在の玉敷神社のことである。
明治七年に上閏戸村・中閏戸村・下閏戸村の三か村が合併して閏戸村となり、同九年に当社は村社となった。
明治四十一年に「東の宮」を合祀したのに続き、同四十三年には村内の九社を合祀した。なお、昭和二十年の宗教法人法施行に伴い、上閏戸の愛宕神社と下閏戸の伊夜彦神社は旧社地に戻された。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
当社が5月5日に行っている「春季祭」は災害除けと豊作を祈願する祭りで、古くから獅子回しの行事があることから「おしっさま」と呼ばれている。若衆がこの獅子回しの行事を中心となって担い、かつては迎え組・持ち回り組・送り組の三班が分担して行ったという。
拝殿前にある藤棚と、その手前には椎のご神木がある。
春季祭当日未明に迎え組が騎西の玉敷神社から獅子頭を納めた筥(はこ)を借りて来て神前に奉安し、午前9時から神職が祭典を執り行う。祭典終了後、持ち回り組が、天狗面を被り剣を持つ天狗役、獅子の筥を持つ獅子役、太鼓を担いで叩く太鼓役に分かれ、掛け声も勇ましく、走って神社を出発し地内を一軒ずつ回る。家数も多いこともあり、少しでも回る時間を短縮しようと、途中、随所で田畑を突っ切るなど近道をして、神社に戻るのは午後2時過ぎとなる。その後、迎え組が獅子を返しに行く。このように、持ち回り組の担当の人たちは、村中を走り抜くために足腰が痛くなり、まともな農作業に取り掛かるには大体1週間が過ぎてからであったという、と「埼玉の神社」は解説している。
因みに、この村回りも家数の増加と共に若衆の負担が増えたため、昭和40年代には取りやめて、祭典に続いて拝殿で参列者を祓う形となったという。
若衆は、地内の18~42歳の男衆で構成されている。「おしっさま」行事に関して、古くは、よそから地内に来た婿はこの行事の際には重労働の太鼓役になるのが慣例となっていたようで、次の婿入りがあるまで幾年も交替できなかったという。
社殿の右側には、石の獅子頭が四基並んで置いてある(画像が小さくてすいません)
幟竿を固定する際にこの石を用いたという。
境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「はすだ観光協会HP」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
