山崎浅間神社
初山は初山参り・浅間様などといわれ、生まれて初めて七月一日を迎えた子供が浅間神社にお参りする行事である。浅間神社の多くは、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社を勧請したもので小高い丘の上に祀られている。この丘は富士山を模しているもので富士塚ともいう。昔は自然の塚の頂上に神社を祀っていたが、江戸時代後期になると富士信仰の高揚により、塚を造ることが流行した。赤ちゃんが「初めて山に登る」ことから、その名前が付けられたといわれるこの行事では、その年に生まれた赤ちゃんのおでこに赤い神社印を押して、その健やかな成長を祈るとの事だ。
子供の額に印を押してもらって御札とうちわをいただく地域の伝統的な行事だが、このほのぼのとした行事は大切に受け継いでもらいたいと真に願う次第だ。
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎744
・ご祭神 木花之佐久夜毘売
・社 格 不明
・例祭等 浅間様(初山行事) 7月1日
山崎重殿社の北側には、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林が存在し、その場所一帯は「山崎山の雑木林(緑のトラスト保全第5号地)」として、宮代町と埼玉県が購入し、さいたま緑のトラストボランティア第5号地支部(里山守り隊)を中心に、保全活動や自然観察会が行われているという。この雑木林を含めた里山の風景を愛でながら東行すると、進路左手にこんもりとした社叢林が見え、道路沿いには神明系の鳥居が見えてくる。
山崎浅間神社(赤間浅間神社)正面
神社というよりこんもりとした古墳か塚のようなこじんまりとした社だ。後日調べたところでは以前、赤松の大木が多数あった事から赤松浅間社と呼ばれ、江戸時代後半に造られたものという。
鳥居の先で参道右側に設置されている案内板 案内板の並びに祀られている二十三夜塔
の石碑と小宝仙元宮の石祠
山崎浅間神社
浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落(かさはらおとし)を眼下に見る築山の頂上に祭られていまる。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
祭神は木花之開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(一八四三)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
また、当社の西方には山崎の村社である重殿社があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡である山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいたことが知られている。(以下略)
案内板より引用
境内に設置されている赤松浅間池生類供養塔
「埼玉の神社」によると、かつて参道の南側には30坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のような景観であったようだが、昭和57年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。
石階段の右側下にある石碑等
参道を進んだ先には石階段があり、その先頂上には「浅間大菩薩」の石碑がその代わりとなっている。(写真左・同右)
浅間神社(あかまつせんげん) 宮代町山崎七四四(百間村字山崎)
当社が鎮座する山崎は、江戸時代における百間村の南部に相当し、笠原沼落の右岸に位置する農業地域である。その村落の北端に鎮座する当社の境内は、かつては大人でも一人では抱えきれないほどの太い赤松が十数本も生い茂り、参道の脇には三〇坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のようであった。しかし、赤松は神社の賄いに充てるために昭和五十年ごろまでに順次伐採され、池も昭和五十七年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。ちなみに、「赤松浅間」の通称は、この境内の赤松にちなんだものである。
当社には建物がなく、塚の上に建立された「浅間大菩薩」の石碑が社である。(中略)境内に文化十一年(一八一四)建立の「小御嶽再建同行中」碑があり、当時既に富士講が行われていたと推測される。
一方、氏子の間では、境内にあった池は、当社で祀られている塚を作るために土を掘った跡であると伝えられている。このことと、『風土記稿』百間村の項に当社についての記述がないことを考え合わせると、当社が現在のような姿を整えたのは、文化年間(一八〇四〜一八)以降のことと思われる。
「埼玉の神社」より引用
塚上からの眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「「宮代町HP」「さいたま緑のトラスト協会HP」
「埼玉の神社」「境内案内板」等
