古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

吉羽千勝神社

 久喜市吉羽地域は、久喜駅の東側に位置していて、『久喜市HP』によれば、久喜市吉羽地域の中でも特に吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 345 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域であるようだ。この土地区画整理事業の効果の推進増進、並びに快適な住宅環境の形成、維持、保全することを目標とすると記述されている。
 この吉羽地域の住宅街区の一角に静かに社は鎮座している。鑑みるに、戦後、時代の推移に伴い久喜市が特に首都圏域内の市街化区域との指定を受けて以来、急速に都市計画化が進められ、住宅地の開発、土地区画整理事業の実施に伴い、昭和五十年から二年余にわたり神社々殿、境内諸施設および参道の石鳥居の移設等々の工事、整備が行われ、現在に至っているという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市吉羽131
             
・ご祭神 千勝大神(大己貴命)八幡大神 鷲宮大神
             
・社 格 旧吉羽村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初午 221日 青屋祭 7月第一日曜日 他
 JR東日本鉄道及び東武伊勢崎線が乗り入れ、接続駅となっている久喜駅の「東口大通り」を700m程東行した先にある交差点を左折、その後、通称「太田小通り」を北上するように進むと、「吉羽公園」の南側手前に吉羽千勝神社は見えてくる。
        
                  吉羽千勝神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉羽村」の解説
 野久喜・古久喜・青毛の三ヵ村の南にある。南は中落堀川を境に和戸・国納(現宮代町)の二村。現群馬県勢多郡富士見村萩林(しゅうりん)庵所蔵の銅造阿弥陀如来立像の応永三四年(一四二七)五月一五日付背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」とみえる。永禄一三年(一五七〇)正月六日の梶原政景書状(三戸文書)にみえる「吉場」は当地と考えられ、梶原政景から三戸駿河守に宛行われている。百間領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によると田高三六六石余・畑高三二八石余、幕府領。
『日本歴史地名大系』 「西村」の解説
「風土記稿」に「吉羽村ノ内に差入リタレハ、村ノ広サ及四境ノ村々別ニイヒカタシ」とあるように、吉羽村の中に点在する。百間もんま領に所属。検地は吉羽村に同じ(同書)。田園簿によれば田高八二石余・畑高八七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本三上領で、同領として幕末まで続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
『日本歴史地名大系』 「吉羽西村新田」の解説
 吉羽・西両村地先の古利根川西畔にあった。三方が吉羽・西の二村に接し、両村と複雑に入組んでいた。当村は寛延二年(一七四九)茨島村(ばらじまむら・現杉戸町)の佐右衛門が開発、同一一年神尾若狭守春央が検地のうえ流作場新田と称した。吉羽・西の両村の持添新田であったが、安永元年(一七七二)久保田十左衛門が再び検地を実施して一村として村立てし、幕府領に組込まれた(風土記稿)。
        
             鳥居の左側手前に設置されている社の掲示板
 吉羽千勝神社の歴史
 いつの時代に造られたかは不詳ですが、吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村・西村の人々によって祀られてきました。
元来は千勝・八幡・鷲宮三社合祀のため「三社大明神」と号していましたが、神仏分離を経た明治3年に「千勝神社」となり明治6年に村社となりました。
 1946年(昭和21
年)の「神社の国家管理解除」により無格となりましたが、現在も地域住民の心の拠り所として崇められています(以下略)。
                                    「掲示板」より引用
        
             手入れも行き届いていて広々とした境内
 千勝神社はかつて埼玉郡吉羽村(明治合併以後は大字吉羽)の村社であり、所在地は吉羽土地区画整理事業が行われる以前は大字吉羽字西1545であったが、2002年(平成14年)1026日の町名変更により吉羽1丁目311と改められた。吉羽土地区画整理以前の境内地面積は1948年(昭和23年)の時点で1042坪を有していた。神社は本来現在地よりも南に位置し、参道も100m以上あったが、1970年(昭和45年)頃の神社東側道路の拡幅工事や周辺開発などで、神社そのものを北方へと移動させるなどの工事が行われたという。
 
  参道左側に祀られている境内社・八坂神社   八坂神社の並びに祀られている雷電宮の石祠
        
                    拝 殿
 千勝神社(さんじゃさま)  久喜市吉羽一五四五(大字吉羽字西)
 吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村及び隣接する西村の人々によって祀られてきた当社は、元来は三社大明神と号していたが、神仏分離を経た明治三年、社名を現行の千勝神社と改め同六年に村社となった。
 そのため比較的若い人や戦後に他所から転入して来た人は、当社を「千勝様」と呼んでいるが、年配の人は「三社様」と呼んでいる。こうした経緯にも示されているように、当社は、実際は千勝神社・八幡神社・鷲宮神社の三社合殿なのである。
『風土記稿』吉羽村の項の「千勝八幡鷲宮合社 三社合祀ゆへ三社大明神とよぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持」という記事は、このような当社の祭祀状況を端的に示しており、本殿の内陣には今もこの三社の神像と宝暦十三年(一七六三)十二月に神祇官領吉田家から受けた三社の幣帛が安置されている。神像は、墨書によれば三体共に氏子によって文化十年(一八一三)六月に奉納されたもので、千勝大明神像と鷲宮大明神像は座像で、八幡大明神像は騎乗の像である。
 また、江戸時代に当社の別当であった密蔵院は、真言宗の寺院で、当社の東側に隣接していたが、神仏分離後は廃寺になった。その後、密蔵院の堂は焼失したといわれ、その跡地には太田村の役場が置かれていた。久喜市への合併後は役場も廃され、跡には、現在の太田集会所が建設され、地元住民の集いの場として活用されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 祭礼は7月最初の酉の日とされている。酉の日に行われる理由として、この吉羽の千勝神社に鷲宮神社が合祀されていることに由来し、「昔、鷲宮神社の祭神が沼の向こうから賊に追われ、逃れる途中で千勝神社に宿泊し、この日が酉の日であったため酉の日に祭事が行われるようになった。」という伝承もある。行事としては大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)の各家で朝に赤飯を炊き、それを子供が親戚の家に配り、昼には小麦饅頭を作り、夜にはうどんを打ち食す、晩には神社の境内および周辺の家々の道沿いに当番の人が作った灯籠が立てられ明かりがともされる、というものであった。
 この祭礼の翌日に、大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)では「ナイダー」という行事が行われており、流行病が地区に入らないよう悪魔除けを目的にした行事である。午前10時に男手が集まり、神社より長い数珠を皆で運び、高輪寺に置かれている鉦を先頭に叩きながら「ナイダー ナイダー」と唱え耕地を巡回するというものである。1979年(昭和54年)頃までは名主・地主・大尽の順に廻り、その後は道なりに全戸を巡回していたが、次第に戸数が増えた関係上、全戸巡回は取り止め、8か所の辻を回り最終的に中落堀川に至り行事の終着地とするようになったという。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社  稲荷神社の右側並びに八王子大権現の石祠あり
        
          雷電宮に対して参道の向かい側に祀られている妙見宮
        
                    妙見宮近郊に聳え立つご神木の如き巨木




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「社前掲示板」等


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下手子林豊武神社


       
             
・所在地 埼玉県羽生市下手子林959
             ・ご祭神 伊弉諾尊伊弉冉命天照大神国常立尊等二十三神
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 秋祭り(獅子舞) 914
 羽生市下手子林地域は、市内の南東部に位置し、羽生市下手子林を一級河川の起点とし、中川と午の堀川の間を東西に直線的に流れている「手子堀川」が北側境となっていて、地域一帯加須低地の沖積平野に位置し、流域の周囲は水田などの農地や集落などが主である。
 因みに「
下手子林」と書いて「しもこてばやし」と読む。なかなか特徴のある地域名だ。 
 東武伊勢崎線南羽生駅の東側にある「羽生手子林郵便局」を東行し、北西から南東方向に通じる埼玉県道129号加須羽生線が交わる信号を直進したすぐ先に「手子林公民館」があり、その北側向かいに下手子林豊武神社は鎮座している。
       
                 下手子林豊武神社正面
『日本歴史地名大系』 「下手子林村」の解説
 上手子林村の東に続く。古くは同村と一村であったと考えられる。田園簿によると幕府領、田高一千五二石余・畑高七三七石余、ほかに野銭として鐚一九貫文があった。元禄郷帳では高二千一四三石余、幕府領と旗本六家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。一部と考えられるが延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。
        
     鳥居を過ぎたすぐ右手に祀られている庚申塔や毘田羅(金毘羅か)大権現、
                 一番右側は二十三夜塔。
             その手前には稲荷大明神と若宮八幡宮の小さな石祠が祀られている。
        
                    拝 殿
 豊武神社  羽生市下手子林九五九(下手子林字合羽)
 当社は下手子林地区の高台、観音山に鎮座する。観音山には古くから馬の信仰を受ける観音堂があり、明治四三年の大水の時には銘々、馬を引いて、この高台に避難したという。
 当社は下手子林・上手子林・神戸(ごうど)・町屋の四地区内に祀られていた二三社の神社を、政府の神社合祀政策により手子林村大字下手子林字合羽(かっぱ)九五九番地の地へことごとく移転合祀して創建され、社号を豊武神社とした。社名は日本国の世界に飛躍する事を祈り、併せて当地の隆昌を念じて付けられたといい、移転合祀地は観音堂境内の一部と個人持ち地所の買収によって整備された。合祀は明治四四年三月二日から始められ、合祀の終了した大正二年四月一五日には盛大な遷座祭が斎行された。
 このように当時の村指導者によって一方的に合祀された各社は、その後しばらくして旧氏子が盗むようにして神像等を旧社地に持ち帰ったといわれ、再び神社を建立奉斎することが相次ぎ、大正十年ころまでには半数以上が旧社地に戻っている。なお、合祀されたままになっている神社は、経費負担の問題から旧社地に戻せなかったという。
 以上のような過程は、合祀が各社を護持してきた氏子の信仰を全く考慮せずに行われたことを如 実に示す一例といえよう。
                                 「埼玉県の神社」より引用
 
     拝殿に掲げてある扁額           社殿右側奥に聳え立つご神木
        
   境内に設置されている「指定文化財 獅子舞」の案内板と「豊武神社改築記念碑」
 指定文化財 獅子舞(下手子林地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 平成891日追加)
 王獅子、中獅子、角獅子の3頭で構成されます。他に霧島眞陰流と称する棒術があります。81718日から101415日へ、さらに91415日となり現在の914日へと変遷されています。
 獅子舞は笹良新田の人たちが、棒術は竹田の集落の人たちが役割分担して行っています。以前は八人師と称する家が宿を務めていましたが、現在では両集落で世話役を隔年交代で務めています。
 観音堂の前の橋では「橋掛かり」を舞い、豊武神社と観音堂では「平庭」を奉納します。他の演目には「華」「辻」「鐘巻」「武運伝」「綱掛かり」「弓掛かり」などがあります。
「埼玉の神社」によりますと、昔若者の娯楽として獅子舞が良いということになり、笹良新田の八軒の者が稲子より習いうけたのが始まりといわれています。棒術は発戸から伝わったといわれています。
  平成14320
日  羽生市教育委員会
                豊武神社改築記念碑(裏面)
                  平成元年十月吉日
               当社豊武神社は祭神(二十三神)
         伊弉諾尊伊弉冉命天照大神国常立尊大己貴命大日孁貴命
         建御名方命宇迦御魂命火雷神少彦名命興田別命市杵島姫
         命〇依賣命菊理媛命軻遇突智命宗部御子命熊野史須美命
         速玉男命大山祇命岐神八衛比古命八衢比賣命菅原道長公
                            (古文書写)
         右記手子林地区内各社を氏子一同協議の上一社に移転合          

         祀し社号改稱の儀明治四十三年十月四日出願 明治四十
       四年三月二日指名地等第七三五五号の六を以て埼玉県知事島田
                  剛太郎より許可 社号を御神徳に因み豊武神社と改稱す
         大正八年九月神饌幣帛指定社に昇格せらる  先人氏子の
         皆さまの崇敬の念厚く地域の守護神として護持維承され
         て参りましたが 昭和五十九年十二月二日不慮の火災に
                   より全焼しました
          この度氏子一同の総意と多額の寄付金のご協力を得て
                        ここに改築整備が成ったのであります
                         よって工事の概要を記し記念とする
        「指定文化財 獅子舞」の案内板と「
豊武神社改築記念碑」より引用
        
               境内西側に隣接している観音堂
 
 観音堂正面には「伊勢太々御神楽」(写真左)、「獅子舞保存会」関連の奉納額等(同右)が掲げてある。観音堂は古くから「下手子林の観音様」と呼ばれ、下手子林の守護神として、厚く信仰されている。
 社の秋祭りは、観音堂の10月15日の祭りに合わせて10月14日・15日に定められていたが、農作業の機械化に伴う収穫の早期化により、現在は9月14日に変更している。祭り当日には、神職と住職が祭典・法要をそれぞれ行い、境内では獅子舞が奉納されるという。


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板・記念碑文」等
        

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羽生神明社


        
              
・所在地 埼玉県羽生市中央432
              ・ご祭神 大日孁貴命
              ・例祭等 大祭 417
 羽生八雲神社の右隣りに並立して社殿が建っている羽生神明社は、一見社の敷地内に鎮座しているのでどちらかの境内社のように見えるが、それぞれに独立した社である。安政3年(1856)、羽生領74ヶ村が協議のうえ伊勢神宮を勧請して現・羽生市中央公民館の地に創建され、昭和25年(1950)に現在地へと遷座したという経緯がある。
 現在の氏子区域は社の鎮座する上町のみ。神社運営は上町委員会の手によって行われ、隣接する八雲神社の役員と重任しているという。
        
            羽生八雲神社の境内に鎮座する羽生神明社
         境内は子供の遊具やベンチ等もあり、小さな公園ともいえ、
         まさに羽生在住の方々にとって憩いの空間ともなっている。 
       
                羽生神明社 両宮遙拝所
 神明社  羽生市中央四-三(羽生字街並)
 当地は『風土記稿』に「町場町は馬次の地にして、行田市・騎西町、下総国古河道・上大越村、上野国舘林・道上新郷及加須村、同国邑楽郡川俣村等へ人馬を継送れり、宿駅をなせし所は村の中腹にて、長二十三町余、路幅七八間、民戸二百四十、毎月四九の日市を立て、木綿類を鬻(ひさ)げり、江戸よりの行程十六里、太田庄に属す、当村は羽生領の本郷にして、昔城下町として発展し、町場村と称していた。また、当時は七四ヵ村の本郷であったことが知られる。
 祭神は大日孁貴命である。創立は『明細帳』に「安政三辰年九月羽生領七十四ヶ村協議ノ上郷中安全ノタメ伊勢神宮ノ御分霊ヲ勧請ス」と記す。また、昭和三年の『神明社修理之碑』の一節に「茲に今を去る七十余年前我が郷の篤志者十二名月参講を組織して、深く大神宮を崇敬し、遂に近く此に其の御威霊を仰ぎ奉るに至れり」とある。
 昭和二五年、境内が手狭なため、八雲神社敷地の現在地に移転した。旧社地には現在中央公民館が建っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                両宮遙拝所内部の社号額
「御師(おし、おんし)」とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣する者や信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった。
 江戸時代には百姓と神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達し、例えば伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の講(伊勢講)の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図ったらしい。
 その後、明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、御師側はこうした動きに抗議したものの、明治4年(1871年)7月には御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入され、御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになったという。 
        
       並立して鎮座している間に孤高に聳え立つ巨木。ご神木ともいえよう。

 江戸中期から後期にかけて、伊勢の御師(おんし)による檀回(だんかい)が盛んになり、各地で伊勢参りの信仰が高まってきた。このような中で、当地では伊勢神宮の分社を祀ろうとの気運が高まり、羽生領七十四ヵ村の檀那衆合議の上、分霊を受け、両宮遙拝所として祀ったものであ る。
 鎮座祭の折には、伊勢の神主により霊代(みたましろ)が奉じられ、荘厳な祭典が執行されたと伝え、以来明治維新のころまで、毎年伊勢の御師が来て奉仕した。
 その後、祭祀は途絶え、社殿は荒廃を見るに至ったが、昭和初め、町民有志が敬神愛郷の念を振起して、社殿の修復と境域の整備事業を行ったという。


参考資料「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」等
 

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羽生八雲神社

 当社は天禄3年(972)の創建で、江戸時代に編集された『新編武蔵風土記稿』において「牛頭天王社」として載り、明治2年(1869)に八坂神社に改称した。古くは羽生領の総鎮守で、厄神除けの神札を領中に頒布し、領内七十四ヵ村からは御供米として献穀が行われたが、明治初頭に廃されたという。
 江戸期まで「宮元」と呼ばれていた上町・本町地区が社経営に参画し、以来、羽生市の発展に伴い当社祭礼にも商工観光祭に組み入れられたが、慣例として、神社行事の中心となる上町・本町は社負担金を支出し、現在も社護持の任に当たっている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市中央432
             
・ご祭神 素盞鳴命(牛頭天王)
             
・社 格 旧羽生領七十四ヶ村鎮守
             
・例祭等 例大祭(羽生夏祭り) 7月第二週目 土日
 羽生八雲神社は羽生護国神社のすぐ南側に鎮座する。
『日本歴史地名大系』によると、この地域は「町場村」と呼ばれ、羽生市の中央やや北西寄り、旧利根川の乱流低地に位置し、旧利根川の河道にあたる葛西用水と会の川に挟まれた埋没台地上にあるという。
『日本歴史地名大系』 「町場村」の解説
 現羽生市の中央やや北西寄り、旧利根川の乱流低地に位置する。旧利根川の河道にあたる葛西用水と会の川に挟まれた埋没台地上にあり、東は上藤井村・下藤井村と北袋村、南は上羽生村・桑崎村、北は小須賀村・蓑沢村。村名は慶長一九年(一六一四)に廃された羽生城の町場であったことによる(風土記稿)。羽生城跡地は寛永八年(一六三一)関東郡代伊奈忠治が検地を行い、城中部分を見取場として耕地化した。承応三年(一六五四)南条金左衛門の検地により高入地になったという(風土記稿)。田園簿には羽生町場とみえ、田高四七六石余・畑高三五九石余。幕府領で、ほかに古城跡見取場(田方四町一反余・畑方一七町五反余)があった。
        
               
羽生八雲神社入口  一の鳥居
                       鳥居上部には「八雲神社」と表記されている。
  羽生市の大通りである「プラザ通り」の民家が並ぶ狭い路地の間に社に通じる参道がある。
     羽生市街地で一番大きな社という印象で赴いただけに、この狭い路地は意外。
『新編武蔵風土記稿 町場村』
 町場村 當村は羽生領の本鄕にして、昔城下に屬せし町の蹟なれば名となれり、町の入口に昔は木戸門ありて備とせし由、今はそこを番屋蹟と呼べり、(中略)按に當所は昔利根川に添たる地なりし由、今も近村小沼新鄕等の間に會川と云あり、これ古利根川の流なりといひ、【萬葉集】埼玉の津などよみ、且近き邊岩瀬村も古歌に入たる岩瀬の渡などゝいへば、古江もこゝのことなるべし、又羽生の唱の起る所は、古き書にはいまだ見ざれど、上羽生村正覺院に藏する永祿九年の文書に、武州太田庄羽生云々とあり、この餘成田分限帳に、永樂百五十貫文埴生大膳亮長員、同六十貫文埴生出雲守、同三十貫文埴生助六郎とのす、これも在名をもて呼べる者ななるべく、既に村君村鷲大明神天正十八年の神鏡に、太田埴生庄と載たれば、羽生の唱はこれより前起りし事にて羽生埴生とも書し事しらる、且當村正保の頃迄は、羽生町と呼び、元祿改定の圖には、町場村とのせたり、

        
            この狭い参道を進むと二の鳥居が見えてくる。
        
  二の鳥居を過ぎると子供が遊べる遊具やベンチ等が設置された広い境内が見えてくる。
 社が二社並列にて鎮座している。手前が羽生神明社で、奥に見えるのが羽生八雲神社。「埼玉の神社」によると、羽生神明社は、昭和25年(1950)、境内地が手狭なため、現在地に移転したという。但し祀職は、羽生八雲神社と同じ宮司が奉仕しているとの事だ。
        
           境内に設置されている文化財指定「八雲神社御輿渡御等行事」の案内板
 八雲神社御輿渡御等行事   (無形民俗文化財 羽生市指定第64号 平成19年3月19日)
 八雲神社の祭礼で御輿渡御が行われるようになったのは、棟札写によれば寛永2年(1625)とされています。かつては旧暦6月7日の御輿渡御にはじまり、6月末日の芋の輪くぐり行事までが祭礼の期間でした。現在は7月7日に近い土曜日に催されています。
 御輿渡御は午後2時頃から始まり、お旅所を出発した御輿は八雲神社へ向かいます。その後往来を渡御したあと、再びお旅所へ戻るというものです。シンボルである大御輿(通称おんな天王)は、天井板に書かれた記録によると享保8年(1723)に新調されました。
 渡御は、先導、神職、稚児、幟、太刀持ち、太鼓、獅子、七五三持ち、榊、賽銭箱、来賓、巫女、提灯が行列をなします。往来では神官が紅白の紙片、続く稚児が塩をまきながら進みます。
 午後5時頃から、各町内の御輿及び山車が曳き回されます。この祭礼の主体は、近隣が屋台(山車)なのに対し、江戸時代当社から御輿であることに特色があります。
 平成30328
日                                    案内板より引用
        
            細い参道と二の鳥居の正面先にある神興庫
             神興庫の左側にある古い建物は祭器庫
        
                 羽生八雲神社 本殿
 八雲神社(てんのうさま)  羽生市中央四-三(羽生字町並)
 当社の創立は、例祭祝詞に「清和の御宇悪疫国内に猖獗(しょうけつ)、天皇御心を悩まし給い、山城国八坂の郷に素盞鳴命の神霊を斎き祀り、疫病退散の祈願を籠め給う。験し現れければ国内に素盞鳴命鎮祭を奨め給う。僻遠の当地なれば凡百年を経し天禄三年命により京の公卿隼人正下向し箕沢の地に社殿を造営、羽生領七十四ヶ村の鎮守とす」とある。
 また、社記の棟札写には「当社勧請は天禄三年壬申六月七日也是人皇六十四代圓融院の御宇也其時柳隼人正箕沢町ヱ奉勧請其後慶長年中当町場ヱ奉遷座從其時厄神禦(ふせぎ)之札羽生領中へ引来祭體御輿町内ヲ渡ル事寛永二年乙丑六月七日ヨリ始ル者也 神主柳喜内藤原清治」とあるが、棟札は所在不明のため、年号等を確認することができない。
 古くは牛頭天王との称したというが、前記の社記には八雲大神棟札写とあり、このように称した時期もあったのかと思われる。明治二年一月に八坂神社と改称した。
 境内に「利根川水害防護堤謝恩碑」がある。これは享保年中当地を支配した代官安藤惟泰が利根川の水禍を防ぐため、上羽生新田裏に堤防を築いて被害を少なくした恩を感謝して、明治二三年に地区民が建立したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用 

「八坂ヨ―八坂祭はソレ羽生の誇りソレ勇み若衆とサー舞の花車ヨイヨイヨシコノ舞の花車」と羽生音頭に歌われる当社の例大祭は、八雲祭・八坂祭・羽生の夏祭りなどと呼ばれて賑わうという。
 社記によると、例祭に神輿の渡御が行われた始めを江戸時代初期の寛永二年(1625)とし、当時は祭礼の期間が二四日間であったと伝えていて、その後、昭和三〇年代までは七月七日から三日間行われていたという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市観光協会HP」「埼玉の神社」
        「境内案内板」等
       

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羽生護国神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市北1517
                
・ご祭神 日清戦争から大東亜戦争までの羽生地区出身
                                    戦没者の方々

             
・例祭等 祭日 43
        
                         羽生護国神社の鳥居
        社名は護国神社だが、社号標柱には「忠魂社」と刻まれている。
 大天白公園から徒歩にて南下、その後「プラザ通り」と接する歩道橋の脇に羽生護国神社は鎮座。
        
          護国神社本殿、その右側に祀られているのは厳島神社 
 護国神社  羽生市北一-七(羽生字大道)
 日清戦争以来、全国的に戦没者を顕彰、慰霊する気運が興り、各地で神社境内や小学校内に忠魂碑を建立し招魂祭が行われた。
 当地においても日清・北清・日露の各戦役で、七名の戦没者を出し、これらの英霊に対し、帝国在郷軍人会羽生町分会の主催で毎年招魂祭と墓参が行われていた。この御霊(みたま)を迎え、子々孫々に至るまで守り仕え奉らんと、遺族をはじめ在郷軍人会、住民らが英霊の誠忠を偲び、永遠に亀鑑として敬迎すべく社殿の奉建を画した。
 昭和七年一月一三日、起工の運びに至り、四月二九日、天長節の佳日を卜して厳かに鎮座祭が挙行された。社地は明治四十一年一一月八日古城天神社に合祀された厳島神社の跡地があてられ、現在、昭和三二年七月二日に厳島神社が氏子の総意により旧地に遷座したため、二社並立の形となっている。厳島神社は弁天様と称し、社記に「寛永年中該町悪水堀四円空地ヲ見立テ弁財天ヲ勧請ス」と伝える。護国神社は元来、忠魂社と称していたが、昭和一四年に政府は指定・無指定護国神社制を定め、当社はこれを機に、現社名に改めた。
 祭神は先の七名に加え、太平洋戦争に至るまで、各地で戦陣に倒れた羽生地区出身者であり、その名を名簿に記して奉安する。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                  合祀社 厳島神社
        
           道路沿いに設置されている厳島神社の由緒と起文
 由緒
 寬永年中羽生町市街ノ西北隅悪水四方ヲ圍統スル一空地ヲ見立弁財天ヲ勧請ス明治四年神仏混淆御取分ノ節嚴島社ト改稱シ無格社タリ
 明治四十一年政府ノ勧誘ニ基キ信徒等相謀リ村社天神社へ合祀出願同年十一月廿八日許可翌明治四十二年三月廿五日合祀セリ
 備考本文中ノ悪水四方ヲ圍統スル一空地ハ現今ノ字大道壱番地ナリ(以下略)
 起文
 昭和三十二年三月三日午前二時頃高橋工業有限会社足袋工場ヨリ出火池浦内田大沢川野辺長谷川五月女ノ六世帯類焼浅井小火偶々浅井義松氏ノ夢枕ニ弁財天ノ存立ニ思ヲ致サレ宮司柳八重氏ニソノ旨報告確ニ天満社ニ合祀トノ事種々協議ヲナシ直ニ獨立安置サル可キ気運ヲ主張サレ上町委員会ニ上申上町氏子中挙ツテ社殿建立ヲ決議宮大工入江瀧治郎氏ニ依頼シ昭和三十二年七月二日由緒アル現位置ニ厳島神社ヲ鎮座イタシ毎年五月九日ヲ祭日トシテ町内安泰財宝護持火災除トシテ御守護セラル(以下略)
                                      案内板より引用
        
 護国神社という特殊な社であるだけに、一般の神社と異なり、氏子区域及び氏子は存在しない。ただ、身をもって国難に殉じた英霊を祀り、国家の礎となった人々を軍神として崇め、その御霊を慰め誠を尽くすことは、神道として欠くべからざる要素である。当社を含めて全ての護国神社の拠って立つ由縁はここに存するものである。尊い生命を捧げた英霊勇士を慰霊することは、仇や疎かにできないことであろう。

 戦後も既に80年の歳月が流れ、当時の大戦を知る方々も少なくなり、遠い昔の出来事となってしまっている。今ここで再び、戦前・戦中・戦後を見直すとともに、新たに護国神社の来し方、行く末を改めて考えなければならない時であると言える。ここで、英霊のご遺族の減少や、世代交替による意識の変化なども重要な問題となっている。静かに英霊の声に耳を澄ませて聞き入る心境はいつの時代も変わらずにありたいと筆者は切に願う。



参考資料「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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