和戸宇宮神社
『東武鉄道HP』による「和戸」の地名由来によると、「和戸には、上河原があり、その名のとおり磔地または川床等の意味があります。地質図でみると、入河内と沖野山の間に川の流路跡がみられ、かつては古利根川と合流していた事がわかります。」と載せ、『埼玉の神社』によると、「烏戸宮(和戸神社の改名前の名称)の社名は、ウドが川岸の窪んだ所を示す言葉であり、古利根川がこの辺りの台地をえぐるように曲流していることから、このように称したのであろう」と記述されている。本来「和」は「輪」の佳字で、川の曲がりくねった. 土地で、やや広い丸みのある平地と表すといい、一方「戸」は「土」とも書き、昔入りくんだ地で河岸のあった所という、どちらも河川が関連した地域名であることには変わりないようだ。
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町和戸846
・ご祭神 天穂日命
・社 格 旧和戸村鎮守 旧村社
・例祭等 祭礼(天王祭) 7月15日
東武伊勢崎線和戸駅前通りを北上し、「和戸駅入口」交差点を左折、埼玉県道85号春日部久喜線を北西方向に進行する。備前堀川に架かる「和戸大橋」を渡り、更に650m程進んだ押しボタン式交差点を右折し、その後西方院の墓地を右手に見るように北上し暫く進むと、正面に和戸宇宮神社の鳥居が見えてくる。
和戸宇宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「和戸村」の解説
国納村の北にあり、もとは同村と一村であったという(風土記稿)。東は古利根川を境にして葛飾郡下高野村(現杉戸町)と対し、西は太田袋村(現久喜市)。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)に岩付領「和戸之内」とみえ、二貫文の地が鷲宮神社(現鷲宮町)領で、北条氏より同宮甲斐守・同満寿に安堵されている。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達家の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。
入り口付近に設置されている案内板 趣のある鳥居付近の景観
宇宮神社・本覚院跡
所在地 宮代町大字和戸字本郷
字宮神社は旧和戸村の鎮守で、創建については明らかではないが、『新編武蔵国風土記稿』によると文明一六年(一四八四)に再建したと伝える古い社である。祭神は、天穂日命ほか三柱を祀る。かっては烏戸宮明神と称していたという。別当(神社を管理する寺)は、本山修験で字宮山宮本寺と称されていた本覚院である。明治初期に廃寺となったが、今も江戸初期に諸国遊行した僧円空によって刻まれた「円空仏」が伝わる。
この宇宮神社のある本郷地区は、江戸時代和戸村に属しており、和戸村は江戸時代初期に国納村から分かれた。このため、両村が飛地状に入り交じっており、今も大字としてそうした状況が残っている。
本郷地区周辺は、宇宮神社の他に愛宕社や胡録社、平安時代の創建と伝える西方院、観音堂(廃寺)などがあり、久喜道沿いに古くから開けたところであることがうかがえる。
案内板より引用
緑豊かな長い参道の先に社殿が見える。
宇宮神社は文明十三年(一四八一)に再建されたが、いにしえは「烏戸宮明神」と称していたといい、正徳(しょうとく)三年に神位を進めしときに、今のように改めたという。土地の人々は「明神様」「天王様」と称されていて、村の鎮守として氏子の方々に崇敬されたという。
参道左側に祀られている石祠と境内社 参道の挟んだ反対側にも境内社が祀られている。
左の石碑は〇〇大明神、境内社は稲荷諏訪神社 真ん中の境内社は主夜神
拝 殿
『新編武藏風土記稿 和戶村』
宇宮明神社 村の鎭守とす、文明十六年再建ありと云、社地に元享三年の古碑あり、是を勸請の年代といへど覺束なし、古は烏戶宮明神と呼しが、正德三年神位を進めしときより、いかなる故か今のごとく改むと云、 末社 守夜神 安永二年地頭、山本某勸請せりと云、
別當本覺院 本山修驗葛飾郡幸手不動院配下 宇宮山宮本寺と云、本尊不動、
宇宮神社(みょうじんさま) 宮代町和戸八四六(和戸字本郷)
鎮座地の和戸は、天正十八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状に「弐貫文岩槻領和戸之内」(鷲宮神社文書)とあるのが初見で、中世末期に既に開発され、鷲宮神社の神領となっていた。『埼玉県地名誌』によると、ワドは谷間の意味で、当地の地名の由来も古利根川右岸の大宮台地の谷間にあるためであるという。
当社は『風土記稿』和戸村の項に「字宮明神社 村の鎮守とす、文明十三年(一四八一)再建ありと云、社地に元亨三年(一三二三)の古碑あり、是を勧請の年代といへど覚束なし、古へは烏戸宮明神と呼しが、正徳三年(一七一三)神位を進めしときより、いかなる故にか今のごとく改むと云、末社守夜神、安永二年(一七七三)地頭、山本某勧請せりと云」とある。但し、元亨三年の古碑は現存しない。当地が中世より鷲宮神社の神領であり、当社の祭神が鷲宮神社と同じ天穂日命であることから、当社の創建は中世に鷲宮神社の分霊を当地に勧請したものであろう。また、烏戸宮の社名は、ウドが川岸の窪んだ所を示す言葉であり、古利根川がこの辺りの台地をえぐるように曲流していることから、このように称したのであろう。別当の本覚院は葛飾郡幸手の本山修験不動院配下で、当社の東に隣接していた。
神仏分離により、本覚院は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列せられた。
「埼玉の神社」より引用
拝殿上部に掲げてある「正一位宇宮大明神」の扁額
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
