古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

篠津須賀神社

 須賀神社と篠津の天王様
 白岡市大字篠津字横宿
 須賀神社の起源は定かではないが、遅くとも江戸時代の十九世紀初めには祭祀されていたようである。祭神には素盞嗚尊祀られている。
「篠津の天王様」は、当社の祭礼として行われるものである。天王様とは、夏季に流行する疫病の退散を祈願したのが始まりといい、現在では五穀豊穣などの願いも込められている。 祭礼は七月十五日に近い日曜日に行われ、当社で祝詞をあげた神輿の一行が、先導—高張り提灯—神輿の順で列を組み、横宿・上宿・馬立・神山・下宿・宿の篠津各耕地内を渡御する。また、馬立を余く各耕地からは壮麗な彫刻で飾られた山車が出され、耕地内を巡行する。それぞれの山車の上では囃子が演奏される。
 山車は江戸時代末期から明治時代にかけて造られたたもので。特に横宿・宿の山車には元治元年(一八六四)の銘がある。いずれも華麗な彫刻が施され、神輿とともに町の指定文化財となっている。
 平成十年二月 白岡町教育委員会                       案内板より引用

        
              
・所在地 埼玉県白岡市篠津1834
              
・ご祭神 素戔烏尊
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 例祭・天王様 715日に近い日曜日
 篠津久伊豆神社の北方200m程の地に篠津須賀神社は鎮座している。篠津地域は白岡市の中央部に位置し、『日本歴史地名大系』による篠津村の解説によれば、「
東は爪田ヶ谷堀・庄兵衛堀で野牛・高岩・寺塚の諸村と境を画し、南は白岡村。西側を元荒川・星川、中央部を隼人堀川が流れる。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定される(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。正保四年(一六四七)川越藩松平氏が検地を実施(風土記稿)、田園簿によると田高四一六石余・畑高六一三石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一千八二石余、反別は田方五五町九反余・畑方八五町四反余、ほかに新開高二九〇石余、田方一四町九反余・畑方二二町八反余。国立史料館本元禄郷帳、「風土記稿」成立時にも旗本徳永領で、幕末まで同家領であったと考えられる(改革組合取調書など)」と載せている。
        
                  篠津須賀神社正面
               街中に鎮座するこじんまりとした社
 当社の氏子区域は元来大字篠津全域であったが、近年では戦後の区画整理でできた西九丁目・西十丁目の二町内も氏子区域に加わり、現在では氏子数は一千戸を越えたいるようだ。大字篠津の地域内には、上宿・横宿・宿・中妻・下宿・神山・馬立の七耕地があり、社が鎮座する横宿からは三名、他の耕地からは一名(宿と中妻は合同で一名)ずつ、計八名の総代が出て社の運営に当たるほか、各耕地から六名ずつの計四二名の当番が出て、祭事の世話に当たるという。
 篠津須賀神社の例祭である「天王様」は、神輿の渡御と全山車五台の巡行が行われる大規模な祭りゆえに、このような大人数の総代・当番が必要なのであろう。
       
        境内にある天王様の案内板(写真左・右 案内板拡大写真)
       
                    拝 殿
 須賀神社(しのづのてんのうさま)  白岡町篠津一八三四(篠津字横宿)
 当社は「篠津の天王様」の通称で親しまれている。その創建は享保十一年(一七二六)のことで、合わせて神輿が作られたと伝えられている。この神輿は、後に元治元年(一八六四)-明治二十七年(一八九四)-昭和五年(一九三〇)の三度修理が行われ、普段は本殿に奉安されている。神輿内には、享保十一年の「津嶋天王宮鎮座略記」が納められており、その伝承を裏付けると共に、尾張国(愛知県)の津島牛頭天王社から勧請されたことを物語る。
『風土記稿』によれば、当社は真言宗西光院の境内社であった。しかし、神仏分離で明治四年に西光院は廃寺となり、その後は地元の横宿耕地で管理するところとなった。ところが当社は無格社であったため、明治末期に村社の久伊豆神社に合祀しようとの動きが起こった。しかし、間もなく地内に赤痢が流行し、住民の間に「これは天王様の祟りだ」との声が高まったため、合祀は中止になり、当社はそのまま残されることに決まった。その後、昭和五十年ごろに至って、再度、久伊豆神社への合祀の計画が持ち上がったが、この時も反対の声が強く、実現には至らなかった。しかも、この計画は、逆に当社の存在を篠津の人々に再認させることにつながり、それまでは横宿だけで行ってきた当社の管理も篠津全体で行うようになった。こうして、当社は「篠津全体の神様」となり、昭和六十二年には社殿も再建された。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              拝殿上部に掲げられている扁額等
 当社の神輿は平成5年に文化財に指定されたため、これを機に氏子有志で「篠津須賀神社神輿保存会」を結成し、神輿の管理・保存に万全を期するようになった。更に、各耕地には山車があり、神輿の渡御の際には宿(中妻と合同)・横宿・下宿・神山・上宿の順(馬立は山車を廃止している)で、神輿に従って久伊豆神社の境内に入り、そこで囃子の競演を行う。大字全体で当社を祀ろうとの気運の高まりにより、昭和六十年ごろからは現在のように、毎年山車の巡行を行うようになった。
 このほか、例祭(本祭り)に合わせて、「お獅子様」の村回りもあり、午前830分ごろから、社頭でお祓いを受けた獅子頭が、上宿・宿・下宿・神山・馬立・横宿の順に巡回し、悪疫を祓う。この「お獅子様」は、現在は各耕地の集会所に各々40分ほど安置され、参拝を受けるだけであるが、昔は氏子の家々を一軒ずつ回ったものであったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
        

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下大崎住吉神社

 白岡市は、埼玉県の東部に位置し、東西 9.8km、南北 6.0km、総面積は 24.92km2ほどの東西に長い市である。1889年(明治22年)41 - 町村制施行により、上大崎村、下大崎村、柴山村、荒井新田が合併し南埼玉郡大山村が成立。その後大字下大崎・柴山・荒井新田は篠津村・日勝村と合併し、白岡町となる。大字上大崎は菖蒲町・三箇村・小林村・栢間村と合併し、菖蒲町となった。現在、この旧大山村は白岡市の中において、市東部に位置し、行政区画上「大山地区」と称されている。
 大山地区は、柴山沼を中心とする元荒川や星川の形成した沖積地や後背湿地に立地し、下流を埋没ロームで閉ざされているため排水が悪く、湛水に苦しめられてきた。柴山沼を囲む柴山、荒井新田の家々では「水塚」が築かれ、水害に備える風土が形成されてきた。この地域の水塚は、元荒川や星川側より柴山沼側に発達し、沼側の塚の方が高い傾向が見られることから、河川氾濫以上に柴山沼の内水氾濫に備えたものと思われる。
 柴山沼や皿沼周辺には「掘上田」が発達し、掘り潰れの水路は集落内まで引かれ、田畑との往復や作物の運搬などに使われていたようで、水害時にはこの舟が物資の輸送や避難に使われたという。 また、沼周辺の入会権に関する争論裁許絵図などが残されていることから、古くから、周辺各村が 利用することのできる範囲などが決められていたことがうかがえる。 特産の梨栽培が盛んな理由も、地下水位が高くみずみずしい梨がとれることによる。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市下大崎1340
             ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命) 神功皇后
             ・社 格 旧下大崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 灯籠祭り 722日 他 
 久喜IC付近で交差する国道122号線を南下し、「下大崎」交差点を左折、その後500m程先にある旧国道122号線との十字路を右折すると、すぐ左手に下大崎住吉神社の社叢林が見えてくる。
        
                 下大崎住吉神社正面
『日本歴史地名大系』 「下大崎村」の解説
 東は星川を隔てて篠津村と樋ノ口村(現久喜市)、南は元荒川を画す。中央の微高地は埋没ロームの台地、台地西側の低地は皿沼の沼沢地である。菖蒲領に属し、西の荒井新田村、北西の上大崎村(現菖蒲町)と一村であったが、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に分村した(風土記稿)。田園簿では大崎村として高付されている。元禄一〇年上野前橋藩酒井氏の検地があり(風土記稿)、元禄郷帳に下大崎村とみえ高三三九石余。幕府領、旗本五家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。「風土記稿」成立時、幕末の改革組合取調書ともに旗本伊藤・川副・加藤の相給。化政期の家数は七五(風土記稿)。
 上記解説に載せている「皿沼(さらぬま)」は、埼玉県白岡市の下大崎地域に嘗て所在していた沼である。大山地区のほぼ中央に位置している柴山沼の東方、下大崎と荒井新田の境界付近に所在していた。
 名称は沼の底が浅く、皿状であったことに由来する。皿沼は江戸期に新田開発が開始された。井沢弥惣兵衛により1728年(享保13年)、皿沼の排水路を整備し、それまで元荒川に排水されていた流路を栢間堀(今日の隼人堀川)に排水されるよう新規に沼落堀を開削した。この農業排水路は今日では柴山沼からの沼落へと流下している。こうして皿沼新田は拓かれたが、皿沼の中央は水深があったために約30町の水面が残された。この江戸期の時点で拓かれた農地が掘り上げ田であったかは確認されていない。その後明治期になると小久喜の山崎礼助と東京府日本橋の岩波長蔵が中心となり、1881年(明治14年)に江戸期の開発時に残された沼の中央部を掘り上げ田形式による開墾・整備を開始した。しかし1890年(明治23年)の水害により土が流されてしまい、整備前の沼地の様になってしまった。
 整備事業はその後再開され、1897年(明治30年)頃に竣工した。時代は下り、1977年(昭和52年)になると埼玉県営圃場整備事業で柴山沼と同時期に圃場整備がなされ、現在掘り上げ田は通常の水田(乾田)へと姿を変えた。皿沼の掘り上げ田は沼田(ヌマタ)あるいはヌマと称され、掘り潰れも同様にヌマと称されていた。掘り上げ田の用水には雨水または上田用水および柴山沼からの悪水を、沼落堀の堰(逆門)によって掘り潰れの水位を調整し、水田面に合わせ利用していた。掘り潰れの水位は逆門の堰板を調整することにより約1.5m増減した。
 周辺には縄文時代の皿沼遺跡が確認されており、1977年(昭和52年)の秋から1978年(昭和53年)の春にかけて、上記の圃場整備事業に先んじて発掘調査が実施された。この発掘調査では縄文時代中期より後期にかけての住居跡が9軒、並びに古墳時代前期の住居跡2軒など発掘された。
特に縄文時代後期の住居跡からは東北地方の土器の模様につけられた注口土器(ちゅうこうどき)が出土しており、当時の人々の交流を知る材料となっているという。
 
     鳥居に掲げてある「住吉社」の社号額      鳥居の左側に設置されている案内板
        
       鳥居を過ぎて参道すぐ左手の大杉の根元に置かれている力石二基 
       
                静まり返っている境内
『新編武藏風土記稿 下大崎村』
 皿沼 村の南にて荒井新田村と入會の地にて、廣狹錢等の事は荒井新田村にいへり、
 住吉社〇雷電社 此二社を鎭守とす、村持、
 全龍寺 禪宗曹洞派、三ヶ村長龍寺末、大崎山と號す、彌陀を本尊とせり、鐘樓 寬永五年の鐘を掛く、
『新編武藏風土記稿 上大崎村』
 上大崎村は菖蒲庄と唱ふ、古へは騎西領に屬せしと云、當村もとは上下及荒井新田を合て一村なりしを、慶長年中荒井新田を分ち、又元祿以前に上下二村に分れたり、
       
                     拝 殿
 下大崎住吉神社    白岡町大字下大崎字屋敷廻
 下大崎住吉神社は慶長元年(一五九六)に創立され、享保五年(一七二〇)に再興されたという。祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后で、明治四十年(一九〇七)に天神社、琴平神社、雷電神社を合祀している。
 拝殿内には「六歌仙」、「源平の合戦」をはじめ、「神功皇后三韓征伐」、「釣舟」や「大井川渡川」、「桜花」などを描いた九点の大絵馬が奉納されている。いずれも江時代から明治時代にかけてのもので、町の指定文化財となっている。
 拝殿正面の「住吉大明神新田源道記」と刻まれた石額は、以前は鳥居に掲げられていたものである。ところが、 不思議なことに馬に乗った人が鳥居の前を通ると落馬してけがをするといったことが何度も起きるため、石額を拝殿に移し替えたと伝えられている。
 
平成十一年一月 白岡町教育委員会                                           案内板より引用
              
       拝殿前に掲示されている「下大崎住吉神社の奉納絵馬」の標柱
 下大崎の住吉神社は慶長元年(1596)の創建と伝えられる。絵馬の初見は元文4年(1739)の「釣舟」、このほか「六歌仙」「桜花」「直実と敦盛」「那須の与一」「安徳天皇入水」「神宮皇后の三韓征討」「大井川渡河」がある。拝殿内に掲げられているので、風雨の影響も少なく、絵師の手になると思われる美しい絵馬も残されていて、比較的色彩等良好な状態なものが多いという。
 種   別           市有形民俗文化財
 指定年月日           昭和55111
 
  社殿の左手隅に祀られている石祠二基        社殿右手に祀られている
   左から
稲荷大明神、庚申・稲荷神社          境内社・秋葉神社
                                                   本 殿
 ところで、地域名「大崎」の「崎」は「浦」の意味でもあり、海洋民が定住した地と考えられる。住吉神社の創建は慶長年間ではあるが、それ以前に住吉系の住民の居住地であった可能性があると筆者は推測している。
 坂戸市塚越に鎮座する大宮住吉神社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っている。この社は、かつて北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめていたという。武蔵国北部の住吉神社の総纏め的な存在であったのであろう。
       
     秋葉神社のすぐ右手にご神木の如き聳え立つヒマラヤ杉の巨木(写真左・右)

 蓮田市役所が所在する黒浜地域は、かつて奥東京湾が深く入り込み台地と谷とが複雑に入り組んだ地域で、大昔の入江のなごりで、海水がひいた時(海退)に内陸に閉じ込められてできた海跡湖である黒浜沼や、縄文時代の貝塚群および環状集落の遺跡である黒浜貝塚がある。この地域の南側に鎮座する黒浜久伊豆神社は室町時代の享禄年間(1528年頃)に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後江戸時代の慶長の16年(1611年)勝利正(すぐれとしまさ)(元上総国真里谷城主<千葉県木更津市>三河守重信の子孫、小田原城落城とともに身をかくし、当地に修験者となり居を構えた)が願主となり再興したと伝えられている。
『新編武藏風土記稿 黒浜村』
寶蔵院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、花盛山と號す、開山隆意享祿四年十二月二十七日寂す、此隆意は上總国に住せし眞里谷三河守信重が子孫、勝頼母介常秋が子にて、信濃守景勝と云、後修驗となりて當所に住せし由、所藏の系圖に見へたり、
一方『埼玉苗字辞典』において、篠津地域にも「勝(スグレ)」に関しての記述がある。
勝(スグレ) 同郡篠津村(白岡町)真里谷城主真里谷和泉守武定の子・勝左近将監真勝に附会す。真勝は里見義堯に召出され五千石を賜る。観音堂に「勝真元・文化九年卒・二十六歳、其先勝将監真□乱を避け篠津村住」
文化九年に亡くなった勝真元の先祖勝将監真□は乱を避けて篠津村に移住したという。
        
                  社殿からの眺め
 そもそも「篠津」の「篠」の地名由来も、本来は地形由来と思われるものの、後代に「私ノ党」、つまり秩父七党「私市党」が移住したために在地名を党名としたとも考えられる。また、源平盛衰記に「武蔵国住人篠党に河原太郎高直、同二郎盛直、生田庄を給ふ」と載せていて、この河原氏は住吉系社と非常に関連性の高い一族とみている。
 蓮田市黒浜地域と白岡市篠津地域は元荒川を通じて近距離に位置していて、共に「勝(スグレ)」の歴史の痕跡が今でも存在する。また、下大崎は星川と元荒川の間にあり、篠津地域のすぐ西側に接していて、勝一族の一派が篠津より移住した地であると筆者は愚考する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「白岡市文化財保存活用地域計画」「白岡市観光協会HP」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
   

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荒井新田稲荷神社

 柴山沼は大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川による氾濫や下浸作用によって形成された河川の痕跡である。埼玉県内の自然沼としては川越市の伊佐沼に次ぎ県内第2位の広さである。柴山沼という名称はこの地にかつて存在していた柴山村に関連し、通称として柴山では後沼、荒井新田においては前沼と称されている。柴山沼は周辺の水田への灌漑用水としても利用されている。
 この柴山沼を中心とする元荒川や星川の形成した沖積地や後背湿地に立地する大山地区は、排水が悪く、湛水に苦しめられてきた。そのため柴山沼を囲む柴山・荒井新田地域には、柴山沼の内水氾濫に備えた 「水塚」が多く残されている。元来県東部地域は水塚の多い地域だが、多くの水塚は利根川や中川などの大河川の流域にあり、柴山沼や皿沼周辺には「ホッツケ」と呼ばれる「掘上田(ほりあげだ)」という浅い湿地のままの沼底に溝を掘り、掘り上げた泥を盛り上げて田畑を作る耕作法が発達した。掘り潰れの水路は集落内まで引き込み、舟による沼との往復や作物の運搬などに使った。水害時にはこの舟で物資の輸送が行われたり、避難に使われたりしたといい、現在も軒下に舟を下げてある家々が多数あるという。
 1728年(享保13年)に井沢弥惣兵衛によって柴山沼の東方に位置している皿沼とあわせ、柴山沼の一部が干拓され、その後、1977年(昭和52年)より埼玉県営圃場整備事業で面積は12.5ha、水深約8mの規模の沼となり、周囲の「掘り上げ田」は通常の水田(乾田)へと姿を変えた。現在は平成4年度から始まった県営水環境保全事業によるビオトープ(生態系の保全、復元)などの整備により、さらに親しみやすい沼になった。また今日の柴山沼は釣り場としても多くの釣り人が年間を通して訪れているという。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市荒井新田548
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧荒井新田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭礼 412日 灯籠祭 726日〜817
                  秋祭礼 1012
 鴻巣市と白岡市を結ぶ農道である「稲穂通り」を東行し、柴山沼が見える手前の「白岡市梨選果センター」がある路地を左折、その後400m程先の十字路を右折する。この通りは荒井新田地域のメイン通りとなっているようで、民家もほぼこの通り沿いに集中している。暫く進むと、進行方向左手に「荒井新田集会所」が、その隣に荒井新田稲荷神社が見えてくる。
 地図を確認すると、荒井新田稲荷神社は当地域の中心にあるようで、まさにこの地の鎮守様の感がある。
 荒井新田集会所には数台分の駐車スペースあり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                 
荒井新田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「荒井新田村」の解説
 元荒川左岸に位置する。南は元荒川を隔てて井沼村(現蓮田市)、北は上大崎村(現菖蒲町)、東は下大崎村。中央を南東から北西にかけて台地が走り、西隣の柴山村との境は柴山沼、同沼の東部が皿沼の沼沢地。北部を隼人堀川が流れる。菖蒲領に所属。もと上・下の大崎村とともに大崎村のうちであったが、慶長一二年(一六〇七)菖蒲新田村が分立し、のちに荒井新田と改称した(風土記稿)。寛永八年(一六三一)板倉重宗による検地があった(「菖蒲新田村検地帳」江原家文書)。田園簿に村名は記されず、大崎村に続いて高のみ記載され、田高三一石余・畑高二七石余。
 隼人堀川は荒井新田地域の北境にて東西に流れ、白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部市で古利根川に合流する1級河川である。隼人堀川は、見沼代用水路の完成と共に周辺地域の灌漑用水が確保され栢間沼を干拓するにあたり、溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀と表示されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 荒井新田村』
 荒井新田村は古大崎村の内にて、慶長十二年の分村なりと傳へり、正保の國圖に新井新田と載せ元祿の改には荒井新田と記せり、後何の頃よりか村の字をつけたり、
 沼二ヶ所 一は村南にて柴山村と云、則柴山村と入會にて、大きさ五十三町許、一は東にて皿沼と呼べり、下大崎村と入會にて凡三十町餘なり、享保十三年の頃より永錢を納むと云、
 稻荷社 村の鎭守なり 華藏院持、 末社 愛宕 天神
 華藏院 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院末、瑠璃山寶鏡寺と號す、本尊は藥師なり、 地蔵藏堂 〇釈迦堂 村持


 稲荷神社  白岡町荒井新田五四八(荒井新田字荒井ヶ崎)
 鎮座地の荒井新田は、元荒川と星川の間の低地帯に位置する農業地域である。元来は上・下大崎村と共に大崎村のうちであったが、慶長十二年(一六〇七)に菖蒲新田村と称して分村し、のちに荒井新田と改称したという。
 当社は、この荒井新田の集落のほぼ中央にあり、村の鎮守として祀られてきた。勧請の年代は明らかでないが、江戸時代の初期に村の開発と相前後して祀られたものと推測され、『風土記稿』新井新田村の項には「稲荷社 村の鎮守なり、華蔵院持」と記されている。また本殿には、享保十九年(一七三四)に京都の伏見稲荷大社から受けた神璽筥(しんじばこ)の蓋らしき板と、芯に「宝暦八年(一七五八)寅十二月騎西領新井新田村花蔵院」の銘のある金幣が安置されていることから、この時期に社の整備が図られたことがうかがえる。
『風土記稿』の記事に見える華蔵院は、瑠璃山宝鏡寺と号する真言宗の寺院で、当社の約二五〇メートル北西にあり、幣芯の銘にもその名が記されているように、江戸時代には別当として当社の祭祀に密接にかかわっていた。神仏分離によって当社はこの華蔵院の管理を離れ、明治六年村社となった。その後、明治四十二年に境内社の菅原社に同じく境内社であった愛宕社を合祀し、昭和三十四年には社殿の老朽化が著しくなってきたため、これを改築し、今日に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     社殿奥に祀られている合祀社       社殿の左側に祀られている石祠三基
 愛宕社・菅原社。右側の石像は菅原道真公か。  三笠山刀利天・御嶽神社・八海山神王
        
                   静かに佇む社
 当社の祭り以外にも、氏子の間で行われている大きな行事としては、3月29日の「お獅子様」と7月6日の「ナイダ―」がある。
 お獅子様は、騎西の玉敷神社から「お獅子様」と呼ばれる箱と太刀・面・剣といった道具一式を借りて来て行う村祓いの行事である。当日は、支度が整うと、まず神社でお神酒を頂き、上から下に向かって一軒一軒悪疫を祓っていくが、近年では家の中までは入らず、庭先で家の人を祓う程度である。
 一方のナイダ―も疫病除けの行事で、当日は子供たちが数珠を持って「ナイダ―」と唱えながら地内を回り、悪疫を祓う。この行事は、元来は華蔵院の行事であったが、寺が無住となったため、区の主催となり、期日も7月の第一土曜日となったという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「白岡市観光協会HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」

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飯野長柄神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字飯野555
            
・ご祭神 事代主命(推定) 
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 水神祭(燈明あげ、水害封じ)619日・819日・919
                 
夏祭 715日に近い日曜日 祭礼引継式 9月最終日曜日
                 
お日待 1015
 高鳥天満宮から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を2.6㎞程西行、谷田川排水機場の150m程東側で、利根川左岸の堤防が目の前に見える場所に飯野長柄神社は鎮座している。
 この社は、グーグルマップや群馬県神社庁のHPでは「長柄神社」になっているのだが、板倉町HPでは「長良神社」となっていて、今回、群馬県神社庁を尊重して長柄神社として紹介する。
        
                 
部落を背に利根川の堤防に向って鎮座している飯野長柄神社
『日本歴史地名大系』 「飯野村」の解説
 利根川と谷田川の間に立地し、東は大久保村・高鳥村、西は斗合田村(現明和村)、北は谷田川を挟んで板倉村・岩田村。天正一二年(一五八四)一二月二一日の北条氏照禁制写(松雲公採集遺編類纂)は飯野郷に宛てて出されている。「関八州古戦録」によると、豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、飯野の領主淵名上野介は北条氏にくみして館林城を守っていた。
 飯野城は飯野地域の集落南部にあり、北・東・南は低湿地であった。東西約200m、南北約170mで、現在は耕地整理によって完全に消滅していまっている。館林に属した淵名上野介の居城であり、「北越軍記」に永禄3年(1560)上杉景虎(謙信)飯野城を屠るとある。
 天正12年(1584)小田原北条氏が攻め込んできたときには下野国足利城を守り、天正18(1590)豊臣秀吉の小田原征伐では館林城を守っていたという。
        
                    拝 殿
 板倉町・飯野地域は、高鳥天満宮が鎮座する大高島地域と同様に大箇野地区に属している板倉町でも南部にあり、利根川左岸に接している地域である。
 飯野長良神社は旧飯野新村鎮守社で、旧村社。部落を背に利根川の堤防に向って社殿がある。その境内の水神様(水天宮の文字あり)は初め利根川の堤防の上にあったが、明治43年の洪水では水神様のところで水が止まったといい、年3回の祭をする。年3回の祭りが6月・7月・8月と相ついでそれぞれ19日・20日に行われるのも、これらの月が最も洪水の出やすい月でもあるからという言い伝えもある。
 かつて神祇道管領當長上従二位ト部朝臣なる人物より正一位大明神として認めるという認定書が確認されている。また、この地方では葦毛の馬を養うことと竹の箸を作ることも禁じられていたが、許可されたことが享保10116日祝詞奉上の際の一文に記されている。明治43年の大洪水には目前の利根川の決壊により神社も押し流されたとのことである。
 
        社殿の近くにはご神木のような巨木が聳え立つ(写真左・右)
 この社には獅子舞も奉納されていた。
流派は「助作流」と称している。一人立ちの風流獅子である。道ゆきの構成は旗・弓・柏子木(六人)・万燈二人・笛五人・獅子三人の順序で進み、曲目は「かんむり 弓がかり 三本づくし 社切り すがわき」の五種目になっている。獅子の扮装は籾谷地域と似ているが動作では小掛けに両手を通して、パッパッと勇壮にやる点がよく似ている。実演は鎮守の境内で行われたが、最初道ゆきから見た。ここでは「すり込み」と称している。「ささらをする」というのが獅子を舞うという意味であるからそれから実演に移るということで「すり込み」とよぶ。
         
                   境内にある力石
      神社前には力石 (約20貫)があり戦前まで若者による『新村のササラ』
           (力比べ)が盛大に行われていたとの事だ。

 この獅子舞は、定時の上演は毎年六月十五日であるが、昔は厄病除けに舞われた。曲目のうちの「かんむり」では、雌獅子が後に出、雄獅子二が前に並んで演じられた。腰太鼓は雌獅子だけがバチで打ち、雄獅子はバチで調子をとるだけ(叩くまね)であるが、そのかわり小掛の両端を持って、すばらしくダイナミックな動きを見せる。三組の中でも最も力の入ったもののようである。次ぎの「三本づくし」という曲目では、ボンゼン(梵天ともいうが御幣束のこと)を三本社前に立てておき、これを三頭の獅子が代わる代わる奪いとろうとするドラマである。最初近寄ると幣束の神威ではね返えされ、モンドリ打つ真似さえある。二回三回と奪いとろうと掛るとこが見もので、最後にはこれを手にし、共に喜び合うという筋であるが、笛と腰太鼓のリズムによって演じられるだけになかなか興味ふかいものがあった。その間の激しい動作は驚くべきもので、よほどの体力がない限り堪えられないと見えた。歌詞は全然使われず、古老から聞いても昔からなかったといってた。曲目が少なくなっているのは、長い間に省略されてきたためであろうと思われる。夕暮の黒い帳がシットリと降りかかった境内でみたこの獅子舞はたしかにすばらしい獅子舞本来の降魔の一面を伝えるはげしいものだったという。
 この地域の獅子舞は、昭和40年以降は踊り手の後継者が無く現在では中止されているとの事だ。
        
             社殿の左側に祀られている石祠・石碑群
板倉町HP」では、水天宮(天明7年)・大杉神社(文化4年)・八大龍王神(弘化3年)・琴平宮(明治36年)・愛宕山(文化2年)・仙元大菩薩の石祠が祀られているとのことだが、実見したところでは、左から2番目が愛宕山、3番目が琴平神社と分かる以外は解読不可能であった。



参考資料「日本歴史地名大系」「板倉町HP」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」
    「ぐんま地域文化マップHP」等

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高鳥天満宮

 当社の創建は不詳であるが、同神社の縁起によれば、延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷となったとき、臣で出羽国の人岩下勝之丞が、大宰府への随行を許されず、止むなく道真の自画像を賜り帰国した。のちに文暦元年春、後裔の岩下勝之進がその画像を携えて京都北野天満宮に参詣の帰途に投宿し鳥が飛来してやまない此の地に、一社創建を発願し国主に請いて高鳥の地に建立し、公の自画像を安置したと伝えられている(『板倉町史通史下巻、上野国郡村誌17』)。天正一八年(1590)頃天徳寺了伯(佐野城主宗綱の弟)の発願により、例大祭に能楽が行われたが、昭和初期には中止となっている。戦前まで身体の弱い子は当社に詣で、天満宮の弟子として五歳から七歳まで天神奴となった。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大高嶋1665
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧高鳥村鎮守・旧郷社
            
・例祭等 節分祭 23日 例大祭 2月最終日曜日 夏越大祓 7月下旬
                 
新嘗祭・七五三詣 10月第4土曜日 他
 板倉町大高嶋は、南境には日本最大の流域面積である利根川が、また北境には谷田川が流れ、豊かな水資源と自然環境に恵まれた平坦地である。斗合田長良神社から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を3.5㎞程東行すると、進行方向左手に令和23月をもって閉校となった「板倉町立南小学校」が見え、その先の信号のある交差点には「高鳥天満宮」「天神池公園」の看板が見えるので、そこを左折し暫く進むと正面に高鳥天満宮の一の鳥居が見えてくる。
 実際には、2025121日に海老瀬一峯神社から高鳥天満宮に行ったのであるが、その経路説明がややこしいので、分かりやすい斗合田長良神社からの説明となった次第である。
        
                
高鳥天満宮正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高鳥村」の解説
 谷田川右岸にあり、北は谷田川を挟んで海老瀬村、東は下五ヶ村、南は島村・大久保村、西は飯野村。当村南東方の宇那根(うなね)集落について、明徳二年(一三九一)七月二日の藤原氏女譲状写(正木文書)によれば「上野国さぬきの庄うなねの郷たての村ニ、在家仁間、はたけ弐町弐反、あら田弐町」が松犬御前に譲り渡されている。うなねは高鳥の宇那根と下五箇の宇奈根と二集落あるが、宇那根と宇奈根は隣接し一集落と同様である。江戸時代の石仏には、集落名の下に宇那根・宇奈根の村名が刻まれているものが多く、往古独立村であったと思われる。
 
         朱を基調とした一の鳥居を過ぎ、参道を進み(写真左)
           階段を登ると正面に二の鳥居が見える(同右)
        
             石段を登った先で参道右側にある神楽殿
 神楽殿は入母屋造瓦葺妻入で、境内の南東に西向きに開いて建つ。基礎は自然石を並べ、その上に土台を廻し、床を3尺ほど上げる。差鴨居で柱を固め、軒はせがい造にして庇を深く出す。彫刻は差鴨居に渦と若葉と梅の木の絵様、縁の持送に施す。建造年を示す資料はないが『明治8年社寺便覧』に現神楽殿と同規模の建物を記す。また、『上野名蹟図誌』に、姿が描かれている。このことから、江戸末期に建てられていたと考えられる。
 神楽殿では神話をもとにした「高鳥天満宮太々神楽」や、郷土色豊かな「里神楽」が、元旦祭や例大祭、夏越の大祓に奉納される。例大祭に舞う「高鳥天満宮太々神楽」は、町の指定重要無形民俗文化財である。神楽殿を保存し御神楽が継承されることは、歴史的文化を伝える上で非常に重要なことである。
        
                    拝 殿
 拝殿は入母屋造平入、正面に1間の向拝を付ける。組物を出組、柱頭の木鼻は獅子・獏の彫刻を施し、中備も出組とする。縁を三方に廻し、腰組は縁束の上に台輪を置き出三斗組で支え、縁葛の下に詰組の斗を設ける。天井は格天井とし、百人一首の天井画が99枚描かれている。絵師は上田正泉、小林悦道、堀江柳泉の名が墨書きされ、すべての絵に寄進者名が記されている。
 拝殿は嘉永元年(1848)の棟札があり、棟梁、彫工が記されている。大工棟梁・仕手方は邑楽郡内の職人が中心となり建築し、彫刻は栃木市の渡辺喜平次宗信やみどり市花輪の彫刻師石原常八重信が手掛けている。向拝柱や水引虹梁の梅の浮彫は美しく、中備の龍の彫刻や手挟の籠彫、海老虹梁の丸彫龍は見事な彫刻である。
当社には、彫刻雛形帳が残っている。表紙に「弘化5年(1848)正月」と「天満宮拝殿 彫物雛形帳」の記載があり、同年(嘉永元年)拝殿建立時の彫刻雛形である。平成12年(2000)に社殿と共に、町の重要文化財に指定されている。
 室内には社殿を建築した時の様子を描いたとされる絵馬(天満宮本殿建築図)が飾られている。嘉永元年(1848118日上棟と記されているという。現在、経年でくすみ、絵の詳細は確認できないが、上棟の職人の様子など細かく描かれた珍しい絵馬で、北尾重光作である。この絵馬は携わった棟梁などが、上棟を祝して奉納したとものであると伝わる。
        
              拝殿上部に掲げてある奉納額・扁額等
        
                    本 殿
 本殿は、一間社流造(1.65m)、1間向拝付、側面1間(1.61m)、瓦棒銅板葺である。自然石切石を4段積みにした基壇に切石基礎を敷き、亀腹石の上に土台を廻し、柱を立てる。三方に廻らす縁は、身舎の柱からの持送材が組物を受けて支えている。側面と背面の木鼻は彫刻の獅子とする。虹梁の絵様や獅子の木鼻より江戸末期の様式が伺える。よって拝殿と同様の時期に建造されたと考えられるという。
        
   「板倉町指定重要文化財 高鳥天満宮社殿 付棟札・彫物雛形帳・絵馬」の案内板
        
        本殿奥に祀らてている境内社 左から
浅間神社・六社合祀社
 六社合祀社は、長良神社・琴平神社・稲荷神社・厳嶋神社・八雲神社・多賀神社六社の合祀社である。一間社流造(1.07m)、側面1間(0.8m)、1間向拝付銅板平葺である。全体は朱塗であった痕跡が見られる。切石の上に土台を敷き丸柱を立て腰貫・頭貫で固め、切目・内法長押を廻す。正面に浜縁を置き木階5級を設け、縁を三方に巡らし、逆蓮柱の高欄を付ける。側面と背面に嵌め込まれた彫刻は、全体に力強い彫である。当建物は17世紀後期の特徴を残しながら、木鼻が漠や獅子の彫刻へと変わっていく過渡期の建物で18世紀前半頃の建物と考えられている。
 
      本殿奥にある宝篋印塔            宝篋印塔の奥には心字池
                       冬時期故に水は抜かれているのであろう。



参考資料「日本歴史地名大系」「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「群馬県邑楽郡板倉町の民俗高鳥天満宮HP」「境内案内板」等

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