新田市野井町神明宮
・所在地 群馬県太田市新田市野井町3060-1。
・ご祭神 天照大御神(推定)
・社格 例祭等 不明
反町館跡の北側に鎮座している生品神社から群馬県道322号新田市野井線を北上し、同県道39号足利伊勢崎線と交わる交差点を左折する。その後500m程先の十字路を右折し、暫く進むと、「市多村新田多目的ホール」と同じ敷地内の一角に新田市野井町神明宮は鎮座している。
新田市野井町神明宮正面
『日本歴史地名大系』 「市野井村」の解説
大間々扇状地藪塚面の扇端部から、その南方の沖積低地を占め、東は村田村、北は市村、西は金井村。北部を足利街道が東西に通過する。当村付近を「和名抄」新田郡駅家(うまや)郷に比定する説がある。元久二年(一二〇五)八月日の源実朝下文写(正木文書)に、新田義兼が継目安堵された一二ヵ郷地頭職のうちに「一井郷」とある。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(同文書)に「一井の郷 田二十町八反十たい 畠二町 在家十一う」とある。その後の伝領関係は不明であるが、室町時代新田岩松氏の下で、室町幕府奉公衆で「京都祗候」の大館教氏が「大館郷四ケ村・一井郷四ケ村」を知行しており、庶子方所領として位置付けられた(年月日未詳「新田庄内岩松方庶子方寺領等注文」正木文書など)。新田庄域には、大間々扇状地上の標高六〇メートル線を中心に六〇余の湧水が分布しているが、そのうち一七が現市野井の中に集中している。元亨二年(一三二二)には一井郷の大館宗氏と田島郷(現太田市)の新田下野太郎入道(岩松政経)との間に相論があった。同年一〇月二七日の関東下知状写(同文書)によれば、田島郷の用水は往古から「一井郷沼水」を引いていたが、宗氏が用水堀を塞いだため水が来なくなったと田島郷側が訴え、幕府から認められている。
社叢林に囲まれた境内 境内にあるご神木の切り株
御神木根保存由来
この巨大な杉の根は参百数拾年の昔当時の氏子により奉納そして境内に植樹されたものと伝承され以来歴代氏子の手厚い保護のもと成長を続け御神木として大切にされてきましたが昭和三十年頃より成長が止り成長芯が徐々に枯れ始め心配されていた
偶々昭和四十年九月本州を襲った記録的な台風に依り隣りの杉の木が倒れるに当り危険の為協議の結果昭和五十七年十一月二十七日伐採され後世に伝える為保存するものなり
昭和五十八年四月吉日 神明宮氏子一同
拝殿内宮
創建や由緒は案内板等がないため不明。因みに奥に見える社は外宮。
新田市野井町神明宮が鎮座している当地は、大間々扇状地藪塚面の扇端部から、その南方の沖積低地を占めている地域で、大間々扇状地の東部扇端湧水帯には昭和43年(1968)当時で大間々扇状地上の標高60m線を中心に60余の湧水が分布しているが、そのうち17が現市野井の中に集中している。
この地域には、湧水に纏わる逸話がある。元亨2年(1322)の「関東裁許状」によると、新田氏一族の大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れ出た「用水堀」を巡って争いを起こしたことに対して、鎌倉幕府が判決を下したという。
この争いは、大館宗氏が一井郷沼水(現在の国指定史跡新田荘遺跡の一つ重殿水源)を塞いだことによって、岩松氏の所領田崎郷の耕作が不能になったというものである。田嶋郷は一井郷招水によって成り立っており、水を再び流すべきことを鎌倉幕府に訴えた。大館氏は、岩松政経の代官謁海と散しく争ったものの、結果的に岩松氏の勝訴に終わった。大館氏側が本当に用水を塞いだのかどうかは不明であるが、この訴訟の勝利から、岩松氏の新田荘内での勢力拡張の一端を垣間見ることはできる。
このように大館宗氏側は岩松政経の代官藷海と争ったものの、敗訴している。新田荘の開発が進んだことによって、農作業の命ともいえる用水の確保という問題が、深刻になっていたことを指摘できる。大間々扇状地の東部扇端湧水帯には昭和43年(1968)当時で60近い湧水が分布し(新田町誌)、市野井のほかにも新田町には金井・小金井、太田市には寺井など井のつく地名が帯状に並んでいて、水にまつわる多くの地名が残り、水利に乏しかった扇状地に住む人々の水に対する執着を伺わせよう。
外宮裏手に祀られている末社三基。詳細不明 内宮手前右側に祀られている天神宮
胴部側面に「天明三癸卯年二月二十五日」と刻印
境内に祀られている八坂神社
神明宮よりこちらの社の方がより立派に見えてしまう。
八坂神社内部(写真左・右)
社の内部には本殿(写真左)の他に、祭り用の神輿(右)が見える。
八坂神社の奥に祀られている石祠等
八坂神社に隣接している山車の保管庫。その隣には薬師堂がある。
鎌倉時代、この市野井地域には、源姓新田氏流一井(イチノイ)氏が居を構えていた地であった。
〇新田族譜「新田政義ー大館次郎家氏(住新田郡大館)―一井孫三郎貞政(延元二年金崎自害)―一井左近将監政家(弟金谷刑部少輔重氏)―一井兵部少輔氏政(興国四年本国上野討死)―一井兵部大輔義時」
〇永禄二年新田家臣祖裔記「市野井兵部大輔義時、本国越後頸城郡に蟄居したが暦応年中の後、新田義宗・義治兄弟に組して再び信州上州へ帰住、末流金山の勇士市野井左兵衛と申也」
一井氏は「一井郷沼水」から流れ出た「用水堀」を巡って争いを起こした新田氏一族の大館宗氏の親戚筋にあたり、鎌倉時代末期から南北朝時代前期、この一族から一井貞政が登場する。
一井貞政は、元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉攻めに加わる。後醍醐天皇の建武の新政では、武者所一番頭人新田義顕のもとで寄人になっている(『建武記』)。新田一門の中では堀口貞義(武者所二番頭人)、江田行義(三番頭人)、脇屋義治(五番頭人)らに次ぐ高い地位を占めていたと考えられる。
新田義貞は建武政権下で上野・越後・播磨の守護に任ぜられたが、貞政はこのうち越後の守護代を務めたとされる。建武2年(1335年)に越後国内の武士に対して軍勢催促状を発していることから、貞政は義貞の持つ越後守護としての権限を代行していたと思われる。
建武政権崩壊後は義貞に伴い北陸に移り、越前金ヶ崎城に拠った。しかし同城は足利方の斯波高経、高師泰らの大軍に包囲されて孤立し、延元2年/建武4年(1337年)3月6日、尊良親王、新田義顕、そして子息・政家と共に自害したという。
社殿からの一風景
参考資料「日本歴史地名大系」「日本歴史地名大系ジャーナル」「ウィキペディア(Wikipedia)」
「埼玉苗字辞典」「境内石碑文」等
