大田天神山古墳
この地帯は、利根川のしばしばの氾濫により、常に被害を受けた為、旧郷社で、旧榛沢郡総鎮守社である島護産泰神社をこれらの守護神として信仰したことにより「島護」の名がついたという。地名にはその土地の歴史が刻まれていて、風土や歴史を物語るという。大事にしたいものである。
女体山古墳や太田天神山古墳(男体山古墳)がある地域名も「内ヶ島」といい、かつては渡良瀬川や利根川、またその各河川の支流等が入り乱れていた地域であったと推測できる。そして、その一帯の水運流通(経済)を一手に管理する集団のトップがこの古墳に埋葬されている人物であったのかもしれない。
・所在地 群馬県太田市内ケ島町1606-1ほか
・形 状 前方後円墳
・規 模 墳丘長210m
後円部径120m 高さ16.5m 前方部幅126m 高さ12m
・築造時期 5世紀前半-中期頃(推定)
・史 跡 国指定史跡 年月日 昭和16年1月27日
平成22年8月5日(追加指定)
※参拝日 2026年1月11日
大田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅の東約1.2kmにある古墳で、女体山古墳のすぐ南西側にあり、両古墳はほぼ同じ時期に造られていることや、同じ方向を向いて造られていること、設計企画に同じ尺度を用いている可能性があることなどから、2つの古墳の葬られた人たちの間には密接な関係があったと考えられている。
太田天神山古墳中央部東側にある入口道からスタート
写真左側のくびれ部付近には鳥居が見える。
入口に対して左側が前方部 同じく入り口に対して右側は後円部
さすが墳丘長210㍍の大きさを体感できるスケールのある古墳。東日本では最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳で、東日本では墳丘長が200㍍を超す唯一の古墳として知られている。また、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされているが、他の説もあり明らかではないとの事だ。
東側のくびれ部に建つ目塚天満宮の鳥居
鳥居の左側に設置されている当古墳の案内板
史跡 天神山古墳
・所 在 地 太田市大字内ケ島字天神1606ほか
・指定年月日 昭和16年(1941)1月27日
別名男体山とも呼ばれ、東日本最大、全国でも27.8位の規模を誇る大前方後円墳である。
墳丘の全長210m、後円部直径120m、同高さ16.8m、前方部前端幅126m 高さ12mである。
周囲には二重の周堀が巡らされ、墓域は長さ364m、幅288mに及ぶ。また北東と西に陪塚を持つ。
墳丘は三段築造で、表面を渡良瀬川系の川原石で葺き上げている。
主体部は堅穴式であるが、既に盗掘を受けており、後円部南鋸付近に大型の長持形石棺の一部が露出している。
墳丘部及び中堤帯には円筒埴輪が、また後円部墳頂には器材埴輪が樹立していたと考えられる。
築造時期は5世紀中頃と推定され、被葬者は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
平成元年3月31日 案内板より引用
天神山古墳
平地ニ營造セラレタル前方後圓墳ニシテ略西南ニ面シ封土全長約六百九十三尺、後圓部徑約五百十四尺、前方部幅四百三十二尺ヲ有シ群馬縣下ニ於ケル最大ノ古墳ナリ表面ニ葺石存シ周圍ニ幅約百二十尺ノ環隍阯アリテ現在水田ヲナシ其ノ外側ニモ環隍阯ノ一部存シ二重隍ヲ示セリ封土ハ少シク毀損セラルル所アリト雖尚ヨク舊態ヲ保テリ
「文化遺産オンラインHP」より引用
くびれ部頂上付近に鎮座する目塚天満宮 天満宮近くに祀られている石祠等
くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の古墳名は同神社に由来するとの事だ。
因みに当古墳は、1938年(昭和13年)の『上毛古墳綜覧』では「九合村69号墳」として登載されていたが、1941年(昭和16年)1月27日に「天神山古墳」として国の史跡に指定されている。
目塚天満宮から一段高い後円部を望む。
上毛野地域(かみつけの 現・群馬県域)では、太田天神山古墳登場以前までは東毛の首長(別所茶臼山古墳)と西毛の首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが個々に存在したが、やがて東毛の首長が伸長し、女体山古墳や天神山古墳が出現するに至り、上・下毛野地域のみならず北武蔵地帯に及ぶ支配を確立して築造した古墳と筆者は推測している。
参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「文化遺産オンラインHP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等
