古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

飯野長柄神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字飯野555
            
・ご祭神 事代主命(推定) 
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 水神祭(燈明あげ、水害封じ)619日・819日・919
                 
夏祭 715日に近い日曜日 祭礼引継式 9月最終日曜日
                 
お日待 1015
 高鳥天満宮から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を2.6㎞程西行、谷田川排水機場の150m程東側で、利根川左岸の堤防が目の前に見える場所に飯野長柄神社は鎮座している。
 この社は、グーグルマップや群馬県神社庁のHPでは「長柄神社」になっているのだが、板倉町HPでは「長良神社」となっていて、今回、群馬県神社庁を尊重して長柄神社として紹介する。
        
                 
部落を背に利根川の堤防に向って鎮座している飯野長柄神社
『日本歴史地名大系』 「飯野村」の解説
 利根川と谷田川の間に立地し、東は大久保村・高鳥村、西は斗合田村(現明和村)、北は谷田川を挟んで板倉村・岩田村。天正一二年(一五八四)一二月二一日の北条氏照禁制写(松雲公採集遺編類纂)は飯野郷に宛てて出されている。「関八州古戦録」によると、豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、飯野の領主淵名上野介は北条氏にくみして館林城を守っていた。
 飯野城は飯野地域の集落南部にあり、北・東・南は低湿地であった。東西約200m、南北約170mで、現在は耕地整理によって完全に消滅していまっている。館林に属した淵名上野介の居城であり、「北越軍記」に永禄3年(1560)上杉景虎(謙信)飯野城を屠るとある。
 天正12年(1584)小田原北条氏が攻め込んできたときには下野国足利城を守り、天正18(1590)豊臣秀吉の小田原征伐では館林城を守っていたという。
        
                    拝 殿
 板倉町・飯野地域は、高鳥天満宮が鎮座する大高島地域と同様に大箇野地区に属している板倉町でも南部にあり、利根川左岸に接している地域である。
 飯野長良神社は旧飯野新村鎮守社で、旧村社。部落を背に利根川の堤防に向って社殿がある。その境内の水神様(水天宮の文字あり)は初め利根川の堤防の上にあったが、明治43年の洪水では水神様のところで水が止まったといい、年3回の祭をする。年3回の祭りが6月・7月・8月と相ついでそれぞれ19日・20日に行われるのも、これらの月が最も洪水の出やすい月でもあるからという言い伝えもある。
 かつて神祇道管領當長上従二位ト部朝臣なる人物より正一位大明神として認めるという認定書が確認されている。また、この地方では葦毛の馬を養うことと竹の箸を作ることも禁じられていたが、許可されたことが享保10116日祝詞奉上の際の一文に記されている。明治43年の大洪水には目前の利根川の決壊により神社も押し流されたとのことである。
 
        社殿の近くにはご神木のような巨木が聳え立つ(写真左・右)
 この社には獅子舞も奉納されていた。
流派は「助作流」と称している。一人立ちの風流獅子である。道ゆきの構成は旗・弓・柏子木(六人)・万燈二人・笛五人・獅子三人の順序で進み、曲目は「かんむり 弓がかり 三本づくし 社切り すがわき」の五種目になっている。獅子の扮装は籾谷地域と似ているが動作では小掛けに両手を通して、パッパッと勇壮にやる点がよく似ている。実演は鎮守の境内で行われたが、最初道ゆきから見た。ここでは「すり込み」と称している。「ささらをする」というのが獅子を舞うという意味であるからそれから実演に移るということで「すり込み」とよぶ。
         
                   境内にある力石
      神社前には力石 (約20貫)があり戦前まで若者による『新村のササラ』
           (力比べ)が盛大に行われていたとの事だ。

 この獅子舞は、定時の上演は毎年六月十五日であるが、昔は厄病除けに舞われた。曲目のうちの「かんむり」では、雌獅子が後に出、雄獅子二が前に並んで演じられた。腰太鼓は雌獅子だけがバチで打ち、雄獅子はバチで調子をとるだけ(叩くまね)であるが、そのかわり小掛の両端を持って、すばらしくダイナミックな動きを見せる。三組の中でも最も力の入ったもののようである。次ぎの「三本づくし」という曲目では、ボンゼン(梵天ともいうが御幣束のこと)を三本社前に立てておき、これを三頭の獅子が代わる代わる奪いとろうとするドラマである。最初近寄ると幣束の神威ではね返えされ、モンドリ打つ真似さえある。二回三回と奪いとろうと掛るとこが見もので、最後にはこれを手にし、共に喜び合うという筋であるが、笛と腰太鼓のリズムによって演じられるだけになかなか興味ふかいものがあった。その間の激しい動作は驚くべきもので、よほどの体力がない限り堪えられないと見えた。歌詞は全然使われず、古老から聞いても昔からなかったといってた。曲目が少なくなっているのは、長い間に省略されてきたためであろうと思われる。夕暮の黒い帳がシットリと降りかかった境内でみたこの獅子舞はたしかにすばらしい獅子舞本来の降魔の一面を伝えるはげしいものだったという。
 この地域の獅子舞は、昭和40年以降は踊り手の後継者が無く現在では中止されているとの事だ。
        
             社殿の左側に祀られている石祠・石碑群
板倉町HP」では、水天宮(天明7年)・大杉神社(文化4年)・八大龍王神(弘化3年)・琴平宮(明治36年)・愛宕山(文化2年)・仙元大菩薩の石祠が祀られているとのことだが、実見したところでは、左から2番目が愛宕山、3番目が琴平神社と分かる以外は解読不可能であった。



参考資料「日本歴史地名大系」「板倉町HP」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」
    「ぐんま地域文化マップHP」等

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高鳥天満宮

 当社の創建は不詳であるが、同神社の縁起によれば、延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷となったとき、臣で出羽国の人岩下勝之丞が、大宰府への随行を許されず、止むなく道真の自画像を賜り帰国した。のちに文暦元年春、後裔の岩下勝之進がその画像を携えて京都北野天満宮に参詣の帰途に投宿し鳥が飛来してやまない此の地に、一社創建を発願し国主に請いて高鳥の地に建立し、公の自画像を安置したと伝えられている(『板倉町史通史下巻、上野国郡村誌17』)。天正一八年(1590)頃天徳寺了伯(佐野城主宗綱の弟)の発願により、例大祭に能楽が行われたが、昭和初期には中止となっている。戦前まで身体の弱い子は当社に詣で、天満宮の弟子として五歳から七歳まで天神奴となった。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大高嶋1665
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧高鳥村鎮守・旧郷社
            
・例祭等 節分祭 23日 例大祭 2月最終日曜日 夏越大祓 7月下旬
                 
新嘗祭・七五三詣 10月第4土曜日 他
 板倉町大高嶋は、南境には日本最大の流域面積である利根川が、また北境には谷田川が流れ、豊かな水資源と自然環境に恵まれた平坦地である。斗合田長良神社から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を3.5㎞程東行すると、進行方向左手に令和23月をもって閉校となった「板倉町立南小学校」が見え、その先の信号のある交差点には「高鳥天満宮」「天神池公園」の看板が見えるので、そこを左折し暫く進むと正面に高鳥天満宮の一の鳥居が見えてくる。
 実際には、2025121日に海老瀬一峯神社から高鳥天満宮に行ったのであるが、その経路説明がややこしいので、分かりやすい斗合田長良神社からの説明となった次第である。
        
                
高鳥天満宮正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高鳥村」の解説
 谷田川右岸にあり、北は谷田川を挟んで海老瀬村、東は下五ヶ村、南は島村・大久保村、西は飯野村。当村南東方の宇那根(うなね)集落について、明徳二年(一三九一)七月二日の藤原氏女譲状写(正木文書)によれば「上野国さぬきの庄うなねの郷たての村ニ、在家仁間、はたけ弐町弐反、あら田弐町」が松犬御前に譲り渡されている。うなねは高鳥の宇那根と下五箇の宇奈根と二集落あるが、宇那根と宇奈根は隣接し一集落と同様である。江戸時代の石仏には、集落名の下に宇那根・宇奈根の村名が刻まれているものが多く、往古独立村であったと思われる。
 
         朱を基調とした一の鳥居を過ぎ、参道を進み(写真左)
           階段を登ると正面に二の鳥居が見える(同右)
        
             石段を登った先で参道右側にある神楽殿
 神楽殿は入母屋造瓦葺妻入で、境内の南東に西向きに開いて建つ。基礎は自然石を並べ、その上に土台を廻し、床を3尺ほど上げる。差鴨居で柱を固め、軒はせがい造にして庇を深く出す。彫刻は差鴨居に渦と若葉と梅の木の絵様、縁の持送に施す。建造年を示す資料はないが『明治8年社寺便覧』に現神楽殿と同規模の建物を記す。また、『上野名蹟図誌』に、姿が描かれている。このことから、江戸末期に建てられていたと考えられる。
 神楽殿では神話をもとにした「高鳥天満宮太々神楽」や、郷土色豊かな「里神楽」が、元旦祭や例大祭、夏越の大祓に奉納される。例大祭に舞う「高鳥天満宮太々神楽」は、町の指定重要無形民俗文化財である。神楽殿を保存し御神楽が継承されることは、歴史的文化を伝える上で非常に重要なことである。
        
                    拝 殿
 拝殿は入母屋造平入、正面に1間の向拝を付ける。組物を出組、柱頭の木鼻は獅子・獏の彫刻を施し、中備も出組とする。縁を三方に廻し、腰組は縁束の上に台輪を置き出三斗組で支え、縁葛の下に詰組の斗を設ける。天井は格天井とし、百人一首の天井画が99枚描かれている。絵師は上田正泉、小林悦道、堀江柳泉の名が墨書きされ、すべての絵に寄進者名が記されている。
 拝殿は嘉永元年(1848)の棟札があり、棟梁、彫工が記されている。大工棟梁・仕手方は邑楽郡内の職人が中心となり建築し、彫刻は栃木市の渡辺喜平次宗信やみどり市花輪の彫刻師石原常八重信が手掛けている。向拝柱や水引虹梁の梅の浮彫は美しく、中備の龍の彫刻や手挟の籠彫、海老虹梁の丸彫龍は見事な彫刻である。
当社には、彫刻雛形帳が残っている。表紙に「弘化5年(1848)正月」と「天満宮拝殿 彫物雛形帳」の記載があり、同年(嘉永元年)拝殿建立時の彫刻雛形である。平成12年(2000)に社殿と共に、町の重要文化財に指定されている。
 室内には社殿を建築した時の様子を描いたとされる絵馬(天満宮本殿建築図)が飾られている。嘉永元年(1848118日上棟と記されているという。現在、経年でくすみ、絵の詳細は確認できないが、上棟の職人の様子など細かく描かれた珍しい絵馬で、北尾重光作である。この絵馬は携わった棟梁などが、上棟を祝して奉納したとものであると伝わる。
        
              拝殿上部に掲げてある奉納額・扁額等
        
                    本 殿
 本殿は、一間社流造(1.65m)、1間向拝付、側面1間(1.61m)、瓦棒銅板葺である。自然石切石を4段積みにした基壇に切石基礎を敷き、亀腹石の上に土台を廻し、柱を立てる。三方に廻らす縁は、身舎の柱からの持送材が組物を受けて支えている。側面と背面の木鼻は彫刻の獅子とする。虹梁の絵様や獅子の木鼻より江戸末期の様式が伺える。よって拝殿と同様の時期に建造されたと考えられるという。
        
   「板倉町指定重要文化財 高鳥天満宮社殿 付棟札・彫物雛形帳・絵馬」の案内板
        
        本殿奥に祀らてている境内社 左から
浅間神社・六社合祀社
 六社合祀社は、長良神社・琴平神社・稲荷神社・厳嶋神社・八雲神社・多賀神社六社の合祀社である。一間社流造(1.07m)、側面1間(0.8m)、1間向拝付銅板平葺である。全体は朱塗であった痕跡が見られる。切石の上に土台を敷き丸柱を立て腰貫・頭貫で固め、切目・内法長押を廻す。正面に浜縁を置き木階5級を設け、縁を三方に巡らし、逆蓮柱の高欄を付ける。側面と背面に嵌め込まれた彫刻は、全体に力強い彫である。当建物は17世紀後期の特徴を残しながら、木鼻が漠や獅子の彫刻へと変わっていく過渡期の建物で18世紀前半頃の建物と考えられている。
 
      本殿奥にある宝篋印塔            宝篋印塔の奥には心字池
                       冬時期故に水は抜かれているのであろう。



参考資料「日本歴史地名大系」「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「群馬県邑楽郡板倉町の民俗高鳥天満宮HP」「境内案内板」等

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海老瀬一峯神社

 板倉町海老瀬は、嘗て室町時代中期に戦国時代の幕開けとなる、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した「享徳の乱」という大乱の中での激戦の一つといわれている太田庄の戦いの舞台となった地である。
 長禄3年(1459年)、関東管領上杉房顕は、五十子に城砦を築いて持朝・房定・教房・政藤ら一族の主だった者たちを結集させた。これを知った足利成氏は五十子に攻撃を加えようとして出撃した。1014日、両軍は近くの太田庄で交戦した。この結果、上杉教房が戦死するなどの打撃を受けた。
 その後、上野の岩松家純・持国が上杉軍に加勢するとの報を得た上杉房定・政藤は翌日利根川を渡って上野側に陣地を張る古河軍を羽継原(現在の群馬県館林市)・海老瀬口(同板倉町)にて攻撃をかけるが、再度敗戦した。上杉軍は大打撃を受けたが、古河軍も撤退したため五十子は上杉軍の手に確保され、以後房顕はここを拠点として長期戦の構えを見せ始めたという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字海老瀬885
             ・ご祭神 天津児屋根命 大日孁命 大物主命 大山咋命
             
・社 格 旧海老瀬村総鎮守・旧郷社
             ・例祭等 例祭等 例祭 919日(*板倉町の民俗参照)
 加須市の小野袋八幡神社の東側で、渡良瀬遊水地のそばを南北に通じる栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線を北上する。利根川上流河川事務所管内で一番新しい排水機場であるという「谷田川第一排水機場」が進行方向左手に見え、その先にある丁字路を左折、その後500m程進んだ先の路地を右折する。広大な田畑風景が続く長閑な地にある車幅の狭い農道を北上すると、民家が密集している地となり、更に道なりに進むと海老瀬一峯神社の入口が見えてくる。
        
                海老瀬一峯神社入口正面
                参拝日 2025年1月21日
『日本歴史地名大系』 「海老瀬村」の解説
 現板倉町東端に位置し、北は篠山村(現栃木県下都賀郡藤岡町)、東は旧渡良瀬川を隔てて内野村・下宮村(現藤岡町、旧谷中村)、南は谷田川を挟んで下五(しもご)ヶ村・高鳥村、西は板倉沼を挟んで板倉村。大正一一年(一九二二)渡良瀬遊水池が完成する前は、渡良瀬川は当村北部の北集落と本郷集落の間を貫流し、東端は「海老瀬の七曲り」とよばれ、大きく曲流していた。東部の藤岡台地を除くと低地であり、嘗て水害に悩まされた地域である。標高約一八メートルの谷田川の旧堤防の高さに土盛した上に建てた、水塚(みつか)とよぶ水防建築や、水害時に使用する揚舟が設備されている。長禄四年(一四六〇)の足利義政感状写(御内書案)に、前年一〇月の海老瀬口ならびに羽継(はねつぐ)原(現館林市)での合戦が記され、上杉系図に犬懸上杉家庶流四条上杉家・上杉持房の子である教房(武州太田庄海老瀬に於て討死)と載せている。
 旧渡良瀬川の左岸に立地していた北集落は、嘗て下野国都賀郡に属していた時は北海老瀬村といった。このことは薬師堂跡にある寛文六年(一六六六)建立の延命地蔵銘に「下野国都賀領海老瀬村」とあり、また延宝元年(一六七三)建立の四方仏銘に「下都賀郡北海老瀬村」とあることでわかる。
 群馬県邑楽郡板倉町は群馬県の東隅の平坦地にある。利根川と渡良瀬川に囲まれた地域であって、しかもその中に谷田川が流れ、板倉沼や洪水がおき忘れた内沼等を湛え、全村水に浮いたような、いわゆる陸の孤島である。それで一度大雨になると、これらの河沼は氾濫し、たちまち洪水の危険にみまわれる。今日でこそ赤麻沼の遊水池はじめ治水池の功がその愁いを少くしているとはいえ、それでも尚永い間の歴史的な愁いと宿命から全く脱し切ることはできない。いったん洪水になると水はなかなか引かない。ひとくちに「蛙が小便しても水が出る」といわれる程の水場である。
 明治以降十数度に及ぶ大洪水の記録は今尚残されていて、特に明治43年のそれは生ま生ましかったという。三つの川が一つになったとか、小高い丘の上に鎮座する当社である一峯神社(権現様)の石段の下二段まで水が押し寄せたというのだから、自然の力は科学が発達した現在でも管理することはまず不可能なのであろう
        
              社に向かう道路の途中に設置されている「一峯神社由緒」の石碑
            
         社の入口付近にある「一峯貝塚」の案内板等(写真左・右)
 海老瀬(藤岡)台地の先端部分(標高22m)に位置する、径が12mの地点貝塚である。主となるヤマトシジミの他にハイガイなどの貝類や、縄文時代早期(茅山式)の土器が見つかっている。約6000年前の縄文時代に地球温暖化で海水面が上昇し、関東平野の奥深くまで海が入り込んだ現象という「縄文海進」時のもので、当時、海がこの地近くまできていたことが考えられるという。
 板倉町指定史跡。昭和四十四年五月二十九日指定。
        
      
一峯貝塚」の案内板等の近くには「一峯神社社叢」の案内板もある。
 一峯神社社叢
【指 定】平成十六年十月二十五日
【所在地】板倉町大字海老瀬八八五
【所有者】一峯神社
 一峯神社境内には、縄文時代早期の貝塚があり、歴史的にも貴重な地域である。北側にはスギが植林されており、大きなものは胸高で周囲が二〇三センチメートルの高木が林の上部を覆っている。
 当初は植栽されたが、社寺林のため樹木の伐採が長い間行われなかったため、遷移によってその地域の環境に適した本来の自然植生に発達したものである。
 平地林として一地域に照葉樹林が集中して生育している貴重な林である。
 高木層にはモミ、スギ(植栽)などが上部を覆い、この低木層には、ヒサカキ、アオキ、などの常緑広葉低木が茂り、草木層にはキチジュウソウ、ベニシダなどの常緑構成要素の植物が多い。その中にアカメガシワ、イヌシデなどの夏緑広葉樹が混生している。
 神社の西側にはリュウキュウチクが群生している。琉球諸島の原産で、関東地方以西に栽培されているもので、北関東としては極めて珍しい。
 林の木の実も豊富のため、多くの野鳥の類も見られる。
 神社の北側にある権現沼の緑にはシラカシが優先し、ヤブツバキ、シロダモ、ヒサカキ、アオキ常緑広葉樹が密生しており、より暖地性植物の景観が見られる。
 なお権現沼にはヨシ、マコモの挺水植物、湿地に多いカサスゲ群生があり、魚介類も棲息している。
                                      案内板より引用 
       
            豊かな社叢林に覆われた中に社は鎮座する。
「海老瀬」の地名由来として伝承では、弘仁十二年五月、弘法大師が二荒山詣の折、勝道上人の遺跡を慕ってこの地に来た時、アマンジャクに谷をかくされたので、 渡良瀬川が余り広くて越せなかった。暫く川辺で薬師如来を心に念じていたところ、二匹の海老が出て来てその背中にのせて、今の頼母子の辺から藤岡の方へ渡れたという。そこで一峯山内に土壇を設け護摩御修行したところ、炉跡の灰がかたまり瓦のようになったので、それまでの名称である「八谷郷」を改め、「エビのセ(海老瀬)」としたという。
       
              鳥居に掲げてある「一峯山」の社号額
                     山岳信仰色が濃厚に残る印象が強い社号である。
       
                    拝 殿
一峯神社由緒
 第四十七代淳仁天皇天平宝宇八年三月(紀元七六二年)勝道上人により此の地を清浄無垢の地として二荒権現を勧請し峯の権現と称したり然るに上野下野の領主川辺左大臣藤原魚名により祖先天津児屋根命を祀り地域開発武運長久の守護神として奉斎し一峯神社と称したりその後天慶年中(紀元九四七年)藤原秀郷平を討つ時此の所に道城を構えて将門調伏を祈願修行せりと言ふ明治三十九年十二月二十八日海老瀬村の総鎮守として郷社に列せられ勅令九十六号に依り神饌幣帛料供進神社として指定せられ明治四十五年三月字間田に鎮座せる日枝神社神明宮の二社を合祀さらに大正十二年一月字頼母子に鎮座せる浅間神社を其の筋の許可を得て合祀し今日に至り平成五年六月徳仁親王御成婚の御慶事を併せて石に銘み後世に伝へる(以下略)
                                      石碑文より引用
 由緒によれば、第四十七代淳仁天皇の天平宝宇八年三月(672)上野国大導師である勝道上人が下野国二荒山に詣でを行った際に、この地を清浄無垢の地として日光・熊野・青龍三社大権現を勧請し、峯權現社(みねごんげんしゃ)としたという。その後、この地の領主であった藤原魚名(ふじわらのうおな)により藤原氏の祖先神である天津児屋根命(あめのこやねのみこと)が奉斎され一峯神社と改称されたという。弘仁5年(814)には弘法大師が勝道上人の遺跡地を巡錫の折この地を訪ね真言道場を設けたとされ、現在も弘法大師と伝えられる石仏塔がある。天慶年中(946)には藤原秀郷が当地に道城を築いて将門調伏の祈願を行ったとされている。
       
                    本 殿
群馬県邑楽郡板倉町の民俗」によると、社や権現沼に関して以下の伝承・伝説が残されている。
青竜権現 (一峯神)
 峯の某氏の祖先の家に美女が訪ねて来て、泊めて貰いたいと云った。泊めてくれれば家を栄えさせてくれるという。但し泊めた夜、見るなというのに見たくなって、その娘を見たら白い大蛇であり、青竜権現(一峯神)の正体であった。それからその家は栄えなくなったという。この伝説は、神婚説話が崩れたものと思われる。
 また、峯の権現様は鶏を嫌う(鶏禁忌)。崔の部落では鶏をかわない。飼うと蛇が出てのんでしまう。この部落は雀も住まない。神社にあげた散米(オサゴ)もなくならずにある。
椀貸
 峯の一峯神社の御手洗(ミタラセ)に膳棚という処がある。小さな池であるが、ここは椀、膳やお椀を貸した処で、何人前貸してほしいと紙に書いて、この池の崖から投入れると必要なだけ貸してくれたという。山口某という家で椀の蓋をとっておいた処、その後貸さなくなった。その家は火災にあったが、その椀の蓋は今も残っているという。
権現沼
 昔、大水があって、あちこちの山が崩れたり流れたりした。椿の流山はその時流れていった山で、残ったのが離れ山となり、その跡が権現沼となった。
 峯の権現沼は竜宮へ続いていた。そこの膳棚という処に大きな亀が住んで居り、膳椀の貸借りをたのむと竜宮から運んでくれた。ある家でオヒラのカサ(蓋)を記念にしまっておいたところ、その後亀が出なくなってしまったという。
オトウミョウ
 栃木県下都賀郡の明神様(野木神社)と一峯様は仲が良く、十一月二十七日にお客に出かけ、十二月三日にお帰りになる。この時、一峯権現の境内にあるモミの木の頂上にお燈明があがるという。
 
    一峰神社石碑と伊勢参宮記念碑      記念碑の奥に祀られている境内社・石祠
 
   境内にある登山三十三度大願成就碑            石祠三基と小御嶽大神石碑
        
                  社殿からの一風景

 ところで、峰部落の権現様(一峯神社)の恋人は栃木県下都賀郡野木村の明神様(野木神社)らしい、明神様は女神で七人の娘があり、毎年馬に乗って娘のところへゆく。十一月二十七日に出発(これを「オイデ」という)十二月三日に帰着する。(これを「オカエリ」という)そのオカエリの日に明神様が自分の御宮のみたらし(御手洗池)のそばに着いて馬からおりると、こちらの権現様の裏手の樅(もみ)の木の頂上にぽっかりと灯明が灯つたという。今はこの木も枯れてしまつたが、明神様のオカエリの日には権現様の氏子も明神様へお詣りにゆき、祭は賑やかであったという。
 野木神社における寒川郡七郷を神霊巡行する祭事を別名「おかえり」とも言われているのだが、明神様の七人の女神を寒川郡七郷を神霊巡行と置き換えることはあながち間違いではなかろう。一峯神社にも利根川中流域に伝承と伝わる神事が存在しているようだ。



参考資料「群馬県邑楽郡誌」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」「日本歴史地名大系」「板倉町HP」
    「境内案内板」等

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雀神社

 足利成氏 (あしかがしげうじ)は、室町中期の武将。足利持氏の子。幼名は一般に万寿王丸とされている。後に初代の古河公方(こがくぼう)となる。1440年(永享12)の結城合戦に兄安王丸,春王丸らとともに参加する。兄2人は捕らえられ上洛の途中美濃で殺害されたが,成氏は逃れて信濃に入ったともいわれる。その後数年を経て鎌倉に戻り,幕府から正式に許されて鎌倉府を再建した。49年(宝徳1)には,将軍義成(後の義政)の偏諱(へんき)を得て成氏と称した。54年(享徳3)関東管領上杉憲忠を西御門の御所で謀殺した。以後,幕府・関東管領上杉氏と対立すること約30年に及んだ。この乱を『享徳の乱』と呼ぶ。成氏は,下総古河を本拠地として北関東の伝統的豪族層の支持を得た。俗に古河公方と呼ばれ,伊豆堀越(ほりごえ)に入部した堀越公方足利政知と対峙する。71年(文明3)下総古河を一時追われたが,再び回復し,その後上杉氏勢力の分裂をふまえて幕府との和睦を図る。82年都鄙和睦が成立し,享徳の乱に終止符を打った。その後,成氏は家督を嫡子政氏に譲った。
 足利成氏の反乱の余波は京都そして全国まで及び、後の応仁の乱や戦国時代の始まりとなる。
「享徳の乱」が始まると、すぐに当時の天皇である「後花園天皇」から、足利成氏の追伐命令が正式に出され、足利成氏は朝敵(朝廷の敵)として扱われることになったが、滅亡もしくは降伏せずにしぶとく生き残り、1497930日、成氏は64歳で天寿を全うした。まさに波乱に満ちた人生であった。成氏の法号は「乾亨院殿久山昌公」。墓所は栃木県野木町野渡地域にある曹洞宗西光山満福寺で、古河公方ゆかりの寺院である。
 茨城県古河市宮前町に鎮座する雀神社は、成氏ら歴代古河公方から崇敬された神社で、長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。
        
            
・所在地 茨城県古河市宮前町452
            
・ご祭神 大己貴命(大国主命) 少彦名命 事代主命
            
・社 格 旧古河町総鎮守・旧郷社
            
・例祭等 春祭り 48日 例大祭 81日 秋祭り 118
 野木町・野渡熊野神社一の鳥居から西行し、古河公方ゆかりの寺院である曹洞宗満福寺の門が見える路地を左折する。因みに満福寺は戦国時代の明応元年(1492年)に初代古河公方となった足利成氏が建立し、この寺に葬られているという。
 進路方向右手には渡良瀬川の堤防が見える。この道は嘗て「野渡河岸」という年貢米専用の河岸として使われていて、渡良瀬川支流である思川にあった「友沼河岸」と共に高瀬舟が行き交い、荷物の陸揚げや積み込みが盛んな地あったという。そのような郷愁に浸りながら、今では至って静かなこの道を800m程南下すると、進行方向右手に雀神社の社叢林が見えてくる。
        
                   雀神社正面
                参拝日 2025年1月21日
『日本歴史地名大系』 「古河町」の解説
 渡良瀬川東岸に所在。中世の古河町は古河城と雀神社の間、当時の奥州街道沿いにあったといわれ、宿の北は野渡(現栃木県下都賀郡野木町)に接していた形跡がある。しかし古河御城内外総絵図(佐藤洋之助蔵)などによって知ることができるのは近世に再開発された後の姿である。「古河志」の引く「小山家記」に「奥平千福代、是迄の町家侍小路となり、今の町屋は其時の替地也。元和六年庚申の事とみゆ」とあり、「古河旧記」の「同(元和)六年庚申五月より御家中町屋敷割有之、同七年酉三月家作出来」や、古河古来仕来覚(千賀忠夫文書)の奥平忠昌の項に「此の御代、長谷曲輪・辰崎曲輪出来、先年町屋敷侍小路と成ル」とあることから近世古河町の大改造は奥平忠昌が城主であった元和六年(一六二〇)五月から翌年三月にかけて行われ、中世以来の古河町は後に侍屋敷となった所にあったことがわかる。
 武家屋敷は城のある半島状の台地の根元の位置(ここが旧古河宿)と、諏訪郭(俗に出城)を取巻く位置にあり、小砂(こすな)町・桜町・観音寺町・片(かた)町・厩(うまや)町・中(なかの)町・白壁町・代官町・鳥見町・四丁屋敷(しちようやしき)・天神町・杉並町が前者内に、六軒(ろつけん)町・四軒(しけん)町・鷹匠(たかじよう)町・長谷町などの侍屋敷町が後者内にみられる。足軽屋敷七ヵ所などはいずれも町外れにみえる。
       
            社の入口に聳え立つ大欅(写真左)  鳥居の反対側にも立派な欅が
       古河市指定文化財(天然記念物)       聳え立つ
       
                 
雀神社の大欅の案内板 
 神社の入口にあり御神木とされている。2本の欅が接着・合体しており「夫婦欅(めおとけやき)」とも呼ばれている。樹高は25.0m、目通り周囲は8.8mにも及ぶ。煙草の投げ捨てによると考えられる火災で一部が焼かれ、1995年(平成7年)に樹勢回復が試みられたが、片側の1本はあきらめざるを得なくなり、強化繊維プラスチックの被覆により腐朽進行を防いでいる。
       
                  雀神社 一の鳥居
           僅かに参道の先には渡良瀬川の堤防が見えている。
       
        参道は途中で右側に曲がり、その正面に二の鳥居が見えてくる。
       
                   広大な境内
 雀神社とは、茨城県古河市宮前町(厩町)にある神社。社名の「雀」は、昔この辺りを「雀が原」と言ったことからその名がつけられたとも、「鎮め(しずめ)」が変化したものとされ、旧古河町の総鎮守である。かつては茨城県西部の猿島郡で唯一の郷社であった。
 社伝によれば、崇神天皇の御代に豊城入彦命が東国鎮護のために勧請した「鎮社(しずめのやしろ)」に始まるとされる。一方、清和天皇の貞観年間(859年〜877年)に出雲国出雲大社の分霊を祀ったことに始まるとする伝承もある。室町時代・戦国時代には、足利成氏ら歴代古河公方家の崇敬を受けた。長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。
 弘治2年(1556年)、第3代足利晴氏室の芳春院と思われる「御台様」が鰐口を寄進している。(『古河志』) 天正19年(1591年)には、第5代足利義氏の娘であり、古河足利家を継承していた氏姫が、市内駒崎の田地を寄進している。
 江戸時代も引き続き歴代古河城主に崇敬されており、現在の社殿は慶長10年(1605年)に松平康長が造営したものである。その前は古河城桜町曲輪の茂平河岸のほとりにあり(『古河志』)、かつての別当寺だった神宮寺と並び建っていたと考えられているが、康長による城の拡張に伴い現在地に移転した。慶安元年(1648年)には、幕府から15石の朱印地が寄進されている。
 
明治 5年(1872年)、猿島郡・西葛飾郡の郷社に指定された。1912年(明治45年)、渡良瀬川の改修工事のため、古河の北西端にある悪戸新田が河川敷に変わることになり、この地域の氏神だった第六天神社が合祀された。1953年(昭和28年)の河川改修工事では、境内地が縮小され、社殿も約50m東に移転している。
        
                                       神楽殿
 当社では「悪戸新田獅子舞」が奉納されていて、毎年、7月下旬の夏祭りの際に市内を巡行している。地元では「ササラ」と呼ばれていて、室町時代に初代古河公方・足利成氏の命により始められたと伝えられている。当時流行していた悪疫の退散と平癒を祈願するため、悪戸新田の家々の長男から選ばれた子供たちに獅子頭をかぶらせ、各戸を巡り舞わせた。踊り手は3人、囃子は4人、用いる楽器は踊り手が鼓、囃子が笛である。のちには悪戸新田だけではなく、旧古河町内を巡るようになった。1910)(明治43年)に開始された渡良瀬川の改修工事により、悪戸新田は河川敷に変わり、人々は移転したため、しばらく取り止められていたが、1926年(昭和元年)の伝染病流行を機に、翌年、出身者により保存会が結成され復活した。古河市指定文化財(無形民俗)に指定されている。
 また、悪戸新田獅子舞に使用されている獅子頭も古河市指定文化財(有形民俗)。         
           神楽殿の奥に建つ神興庫らしき建物(写真左・右)
        
                    拝 殿
        
              境内に設置されている社の案内板
 武家時代文化ライン 雀神社
 雀神社の祭神は、大己貴命・少彦名命・事代主命の三神であるが、その創立は明らかでない。伝承によれば、貞観年間(859876)に出雲大社から勧請したものだという。その社名については、鎮宮が転化して雀宮になったという。その後、康正元年(1455)足利成氏が古河公方となってから、初代成氏はもとより代々の公方の崇敬が高く、また、徳川将軍家、並びに累代古河藩主の崇敬もあつく、御朱印地十五石を賜った。したがって、社殿の造営修理なども累代の藩主が行ない、現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長の造営したものである。
                                      案内板より引用

        
                                      本 殿
 流造銅板葺の本殿、および本殿の前に建つ拝殿と幣殿から構成される社殿に関して、棟札銘によれば、慶長10年(1605年)の古河城主・松平康長による造営。その後、本殿の銅板葺替え、拝殿の入母屋化、向拝(こうはい)取付けなどの改修が施されて現代に至る。建物の特徴としては、本殿には、頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)・化粧棟木の実肘木(さねひじき)・海老虹梁(えびこうりょう)などに見られる唐草絵様繰形、大瓶束(たいへいづか)に豕扠首(いのこざす)の妻飾(つまかざり)があり、拝殿には、大面取(おおめんとり)の柱、二重虹梁(こうりょう)に蟇股(かえるまた)の架構形式、舟底形の天井などがある。桃山期の特徴が見られ、当地方でも有数の古建築である。古河市指定文化財(建造物)。
 
  左から境内社・松尾社・第六天宮・楯縫社                境内社・三峯神社
 三峯神社の手前に記念碑があり、そこには「本講ハ文政年間ノ創立ニ係リ初メ御船手講ト稱シ專ラ舩戸及ビ其ノ附近ノ講員ヲ以テ組織〇〇〇アリシモ時勢ノ推移ニ〇〇改稱ノ必要ヲ認メ大正五年三峯山古河文政講ト改メ創始ノ紀念ヲ保有シ益講ノ隆昌ヲ圖リツ〇アリシガ星霜ヲ歴ルノ久〇〇遥拝所〇ル石宮ノ漸ク破〇セルヲ以テ〇ニ改築ノ議ヲ起〇タルニ偶三峯本社ニ叅詣ノ〇リ社務所ニ懇望〇タル結果御神木ヲ授與セラルゝノ好機ニ際會シ本年陽春〇季ヨリ之ガ造營ニ着手〇今日竣工ノ式ヲ舉ケ遷宮シ奉ルニ至ル是實ニ神徳加護ノ賜ニ〇テ講員一同ノ深ク感銘スル所以ナリ
茲ニ本講ノ由来ト社殿造營ノ記ヲ録シ永久ニ傳フト云爾 昭和七年十月十四日 古河文政講」と刻まれていた。
        
               旧古河町総鎮守の風格漂う立派な社




参考資料「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」「古河市観光協会HP
    「雀神社
HP「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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秩父市黒谷 和銅採掘遺跡を訪れました。

 11月下旬ですが、秋の風に誘われて、目的もなく、ぶらりと秩父路のドライブを楽しみました。長瀞の岩畳周辺の木々を鑑賞し、秩父市黒谷地域に鎮座している聖神社に参拝、その後、埼玉県指定旧跡に指定されている「和銅遺跡」を訪れました。
「和銅遺跡」は別名「和銅採掘遺跡」とも呼ばれ、埼玉県秩父市黒谷地域に所在する、銅の採掘露天掘跡を中心とする遺跡であります。

 まずは秩父市黒谷地域に鎮座している聖神社に参拝を行いました。
        
                   聖神社正面
        
                     拝 殿
        
       聖神社の石段手前には「和銅露天掘り跡と聖神社」の案内板がある。
  聖神社は和銅元年の創建といわれ、和銅献上に関係が深いと伝えられている社である。
 和銅露天掘り跡と聖神社
 和銅(自然銅)がここ黒谷で発見され、奈良の都へ献上されたのは慶雲五年(七〇八年)一月十一日のことでした。このことを非常に喜ばれた元明天皇は年号をすぐに和銅と改め、国を挙げてお祝いをし、「和同開珎」を発行しました。「和銅露天掘り跡」はこの先六百メートルほど、徒歩約十五分で到着します。
 祝典のために「祝山」に建てられたお宮を今の地に移し、聖神社と称して創建されたのが同じ年の二月十三日でした。
 和銅石十三個をご神宝として祀り、また蜈蚣が「百足」と書かれることにちなんで、文武百官(たくさんの役人)を遣わす代わりにと朝廷から戴いた雌雄一対の蜈蚣をご神宝として併せ祀りました。
 以来、里人は、黒谷の鎮守様として千三百年の長い歳月「この上なく耳聡く口すべらかな」(何を言ってもそのことをよく理解してくれ、人の心に染み入る言葉をかけてくれる)神として崇拝してきました。
 その間、今までに五回、社殿建替えが記録に残っています。現在の社殿は、昭和四十年一月二十五日秩父市有形文化財に指定されたものです。
 境内には宝物庫・和銅鉱物館があり、自然銅、和同開珎、和銅製蜈蚣、数百種の和銅関連鉱物、当地出土の蕨手刀などが見学できます(以下略)。
                                      案内板より引用

 
 聖神社から東方向に通じる山道を進むと、途中
5・6台分駐車可能な専用駐車場があり、そこに停めてから遺蹟に通じる地点に到着、そこから山道を降りるように進みました(写真左)。そこの降りる入口付近には和銅遺蹟の案内板も設置されています(同右)。
        
                             和銅遺蹟に向かう途中の様子
 最近の熊出没騒動の関係で、当初は心細く感じられましたが、聖神社の参拝客の中には、筆者と同じく、当遺跡に立ち寄る観光客も数名いたので、その点は心強かったです。
        
             和銅遺蹟に設置されているモニュメント
 飛鳥時代末の元明天皇の時代に武蔵国秩父郡(現:埼玉県秩父市)から自然銅(ニギアカガネ)が発見され、708年(慶雲5年)正月11日に朝廷に献上されました。これを大いに喜んだ元明天皇は、同日に元号を「和銅」に改元し、その後日本最初の流通通貨となる和同開珎を発行したといいます。当地には、銅の産出や献上・鋳造・運搬などにちなむとされている地名や言い伝えが多く残されているとのことです。
       
  沢沿いに岩肌があらわになった2か所の「和銅採掘露天掘跡」が見えます(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿 黒谷村』項では、「箕山 土人或は金山とよび、或は和銅山と云、往古和銅をほり出せしは、卽此山の内なり、元明天皇慶雲四年武藏國秩父郡より始て和銅を獻り、よりて改元和銅元年としたまう、此事は國史に載する所なり、さて其和銅を出せし地は、當村の箕山なりとも云へど凡千年餘の星霜を經ぬれば、其所も定に知りがたし、たゞ土人の傳へをとれるのみ、茲に銅山の形勢を見るに、東向して巖徑を〇ること八九町、盤回して頂に至る、巨岩往々に突兀として峙立せり、其色頗る赤氣を帯びて、銅色を含めり、往古〇ちしと云へる所は、盤岩の山を南北にほり盡して中斷し巨巖東西に對峙せり、中斷せし所を和銅澤とよべり」と載せていますが、現実ここの岩盤を仰ぎ見るに、嘗て1300年前の奈良時代の息吹を感じられるような不思議な感傷に浸ってしまいました。

              遺跡付近にある案内板(写真左・右)
 和銅遺跡
 慶雲五年(七〇八年)今から千三百年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都に献上されました。これを喜んだ元明天皇は年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税の免除がされたと「続日本紀」に書かれています。
 その中に、和銅発見に関係したといわれる日下部宿禰老、津島朝臣堅石、金上元(金上无とも)の名前も見られます。
 都から遠く離れた秩父が、歴史の表舞台にあらわれ、一躍脚光を浴びました。
 催鋳銭司の長官に多治比真人三宅麻呂が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」が発行されます。国家の体制が整い、都城建設を進め、通貨時代の幕開けを告げることとなった献上和銅の初めての産出場所は、ここ「和銅露天掘り跡」なのです。地質学上「出牛―黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗堀まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。
 近くには和銅元年に創建され、和銅献上に関係が深いと伝えられる聖神社があり、大小二個の和銅石(自然銅)・和銅開珎・和銅製の雌雄一対の蜈蚣(ムカデ)がご神宝として収められています。なお、付近に散在する地名に和銅献上時を偲ばせるものが多いのも歴史の深さを物語っていると思われます(以下略)。
                                      案内板より引用
 また、この地には不思議な羽をもつ家来の助けにより、飛ぶ鳥より速く毎日奈良の都へ和銅を送り届けた「羊大夫の伝説」が残されていて、歴史のロマンが今尚広がる地でもあります。
        
             和銅遺跡周辺から見た秋の風景を撮影
 奈良県の遺跡から和同開珎よりも古いとされる「富本銭(ふほんせん)」が出土し、1999年に教科書を書き換えるニュースとなって、日本最古の貨幣が和同開珎ではない可能性がでたとはいえ、古代日本において、貨幣経済の流通を広めたという意味において、和同開珎の意義は非常に大きいことには変わりはないと考えます。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」「採掘遺跡案内板」等

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