古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下高野御所宮神社・下高野熊野神社・下高野厳島神社

 足利 輝氏(あしかが てるうじ)は、安土桃山時代の武士。第4代古河公方・足利晴氏の四男とされる。
 天文13年(1544年)もしくは天文14年(1545年)頃に生まれた。永禄年代末期までの動向は詳細不明であるが、兄の義氏とともに北条氏に庇護されていたと考えられている。永禄元年12月から翌年正月の間に、13代将軍・足利義輝より偏諱を受け、輝氏と名乗った。
 当初は義氏の後継者的立場にあったが、天正4年(1576年)に義氏の嫡男・梅千代王丸が誕生すると、後継者から外れることになった。翌年(1577年)、幸手一色氏が輝氏を領内の「高野台」に迎えて守護するようになった。その後、天正12年(1584年)、沼尻の合戦に巻き込まれて死去した。
 杉戸町下高野地域の佐内新田に鎮座する御所宮神社はこの足利輝氏の霊を合祀したという。
【下高野御所宮神社】
        
           ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町大字下高野1735
           ・ご祭神 神倭磐余彦命 五処大権現
           ・社 格 旧佐内新田株鎮守
           ・例祭等 初お神酒 11日 夏祭り 710日〜15
                秋祭り(お歩射) 99
 杉戸香取神社から埼玉県道372号下高野杉戸線を北西方向に650m程進み、「万願寺橋」交差点を右折、その後2番目先の十字路を左折すると、豊かな社叢林の中に下高野御所宮神社が見えて来る。
        
                 下高野御所宮神社正面
 社が鎮座している地は佐内新田株である。この字の氏子の生業が現在に至るまで、稲作を中心とする農業であることから、氏子は当社にコメの豊作を第一に祈願するのを例としている。また、近年までは、稲作のほかに副業として養蚕を行い、農家の現金収入としていたことから、養蚕倍盛を願う氏子には、よくできた繭を額に入れて奉納する信仰もみられたという。
        
                    拝 殿
 御所宮神社  杉戸町下高野一七三五(下高野字佐内新田前)
『高野村志稿』に載る当社の由緒を要約すると次のようになる。

日本武尊が当地に来訪したことにより、尊を祀る社を建て社名を「御所宮」とした。下って天正十二年(一五八四)三月、御所の足利公方の血筋を引く領主足利輝氏の霊を合祀した。元禄三年(一六九〇)熊野五社権現を新たに勧請して社名を「五社権現」と改め、佐内新田株の鎮守となった。更に享保六年(一七二一)、名主の間宮長左衛門は由緒が社名変更により失われることを憂いて再び「御所権現」と改めた。
一方、社蔵の棟札から当社の歴史を振り返ると、次のようになる。まず、元禄十一年(一六九八)の棟札には、「奉勧請五処大権現」とあり、この年、当社が勧請されたことが確認できる。この時の遷宮導師は、別当長福寺の尊映法印であった。
 次いで、享保二年(一七一七)の棟札には、「新建一宇五処権現」とあり、遷宮導師は、別当永福寺の浄栄法印であった。「新建一宇」と棟札にあることから、この年、恐らく小祠から規模の大きな社殿に建て替えたのであろう。別当寺の寺名については、元禄と享保の棟札の記録が相違するが、これは、長福寺が享保年間に永福寺と改めたからである。
 なお、『風土記稿』には「御所権現社 永福寺持」とある。
                                   「埼玉の神社」より引用

 
        境内に祀られている稲荷大明神・天満宮の石祠(写真左・右)
         
     社の境内にひときわ聳え立つ巨木(写真左・右)。ご神木の如きその威容。


下高野熊野神社】   
        
                        ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町大字下高野872
                        ・ご祭神 伊弉冉尊 速玉男命 事解之男命
            ・社 格 旧下高野村下株鎮守
            ・例祭等 春祭り(おくまんさま) 25日 秋祭り 99
 下高野御所宮神社から直線距離にして200m程南側に下高野熊野神社は鎮座する。当社が鎮座する字は下高野の集落の一つである下株で、当下株地区は、現在行政上隣接する佐内新田と一つにあり杉戸町四区を構成しているが、この二地区は古くから何らかの関わりがあったようで、佐内新田の鎮守御所宮神社の祭礼が当社の「九日(おくんち)と同じ日で、佐内新田の人が甘酒を作り当社に供えたことがあったという。 
        
                    拝 殿 
『新編武蔵風土記稿 下高野村』
 御所權現社 永福寺の持、下同じ、 〇熊野社  〇稻荷社
 永福寺 新義眞言宗、平須賀村寶聖寺末、龍燈山と號す、小名堂の下にありて年代は傳へず、本尊彌陀は行基の作、長五尺七寸の坐像なり、開山詳ならず、後圓融院の御宇僧覺宥中興せり、明德三年七月廿三日第三世日尊、己が父因幡か罪業消滅の爲に施餓鬼供養の法を修せしより以來、今も其法修せり、その日參詣の人群集するをもて、土俗施餓鬼寺とも稱せり、境に因幡池とて小池あり、日尊始て施餓鬼の法を修せしとき、龍燈現せしより 當寺の山號とせりと、今按に因幡池は當時因幡か屋敷のにて、日尊施餓鬼を修せし奇瑞ありしにより、寺を移して龍燈山と名付しなるべし、當寺施餓鬼の緣起、及び閻魔王日尊に示すの偈等あれど、妄誕怪異取に足らず、觀音堂 閻魔堂 地藏堂 位牌堂 鐘樓 新鑄の鐘をかく、


 熊野神社  杉戸町下高野八七二(下高野字熊野面)
 当地は、古利根川の中州に積もった砂が強い西風に飛ばされ、自然堤防上に堆積して出来た「高野砂丘」と呼ぶ砂丘上にある。
 高野の地名は、行基が開山したと伝える地内永福寺の『竜灯山伝灯記』によると、昔武総国境の真間(まがま)の入江に薩天(さつて)ヶ島という島があり、日本武尊が東征の時、舟をこの島に着けて富士山と筑波山を眺め、両山の麓まで見渡せるところから高野と名づけられたという
 日本武尊の伝説はともかく、当地は古くから開けた所で、『吾妻鑑』に、治承五年(一一八一)二月二十三日に下川辺行平、同弟四郎政美が古我・高野等の渡しを固めて余兵の遁走を討ち止めたとあるが、この高野の渡しは当地のことであるといわれ、交通の要衝であった。
『高野村志稿』に当社は「伝灯記・昔話等に拠れば、領主一色式部大補直為(一説に頼直)幼時脆弱なりしかば乳母深く之を慨き、乳母が産土神熊野権現に祈りて霊験あり、依て父一色式部大輔満直奉賽の為に祠を建てて之を祭り、後祠堂頽破せしかば元禄三年(一六九〇)二月下株の住民之を再建すとありて下株の鎮守なり、幕時は永福寺持、維新後は東大定の所管なり」とある。現宮司の東家は、高野にあった本山派修験東大寺の末である。東大寺は文治元年(一一八五-九〇)に西行が開基と伝え、中興を菅原道秀といい、新田義貞に従い鎌倉を討った後当寺を守り、子孫が維新に際し復飾して東を名乗った。
                                   「埼玉の神社」より引用


下高野厳島神社】
        
            ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野2757
            ・ご祭神 市杵島姫命(推定)
            ・社 格 旧小谷堀鎮守
            ・例祭等 春祭り 2月初巳 お歩射 1018
 旧日光街道である国道4号沿いに鎮座。帰路の途中であったのだが、社殿や鳥居の赤が非常に目立ち、これも新たな出会いと感謝しながら立ち寄り参拝を行う。
       
                 下高野厳島神社正面
       
      遠くからでも目立つ赤を基調とした鳥居とその奥に鎮座している社殿 
        
                    拝 殿
 厳島神社(べんてんさま)  杉戸町下高野二〇八九(下高野字大堀向道下)
 鎮座地を、古くは小谷堀村と呼んでいた。当社の歴史を『高野村志稿』は「高野昔話」「竜灯山伝灯記」などによるとして、次のように述べている。慶長年間(一五九六-一六一五)のころより小谷堀の開拓に従事した武士に高橋・野口・上原・小林・鈴木・日下部の各氏があった。このうちの一人野口太郎左衛門親澄が氏神として祀っていたのが当社である。
 下って寛文年間(一六六一-七三)に村の鎮守を決めることとなり、籤引きの結果、当社が鎮守となった。これを機に当社を村の中央である現在地に移し、同時にかつて当地を支配していた足利輝氏の夫人の霊を合祀した。
 この続きを所蔵史料により跡付けてみる。内陣に、弁才天像・毘沙門天像・十六童子像を安置するが、このうち弁才天像には「干時元禄十四年(一七〇一)辛巳十二月大吉日」と記した胎内文書があり「弁天造立施主谷中新田鎮守本尊」と題し、領主前嶋勘三郎重次の名前が連名中の首座に書かれている。また、所蔵の洪鐘には「享保二歳(一七一七)二月十五日、葛飾郡小谷堀村」の銘がみられる。更に旧本殿の棟札には「寛政二年(一七九〇)二月吉祥日、奉造立大弁才天社頭氏子長久攸、葛飾郡下高野村谷中二十一家産子、別当東大寺」とある。なお、これら史料にみる地名の変遷についたは不明である。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
 
      境内西側にある釈迦堂           社殿前に祀られている天満社 
  奥に池があるが、水は溜まっていない。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
  

拍手[0回]


舎人稲荷神社・与左衛門八幡神社・内蔵稲荷神社

 杉戸宿は後世の記録や伝承によると、元和 2 年(1616)に日光道中の人馬継ぎ立ての宿場として命じられ、上町・中町・下町が出来たと考えられている。また、寛永2 (1625) には、新町が清地村から編入され、寛永4 1627)には上町の上手に河原組ができ、寛永 10 年(1633)には、上杉戸の住民が新町南側へ入植した。正保 4 年(1647)には、それまで上杉戸から下高野に向かい日光御成道に合流する道を、横町から大島方面に向う新街道に変更した。
 その後、万治元年(1658)には杉戸宿近在の新田(舎人・与左衛門・雅楽・内蔵)の住民が杉戸宿に入植し横町がつくられたという。
 この横町の舎人・与左衛門・内蔵各組に祀られている社が現在でも鎮守社として鎮座している。
舎人稲荷神社】
        
             
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸7581
             
・ご祭神 宇迦之御魂神
             
社 格 旧杉戸宿舎人組鎮守(推定)
 杉戸香取神社から北東方向で、住宅街から離れた一面の畑と一部民家が点在する中に杉戸舎人稲荷神社はポツンと鎮座している。
        
                 
杉戸舎人稲荷神社遠景
        

                 
杉戸舎人稲荷神社正面
        鳥居の碑狩り側にある「稲荷神社改修趣意書」と刻まれた石碑
 創建時期等は、境内に建つ「稲荷神社改修趣意書」によれば、天明8年(1788)京都伏見稲荷神社より勧請したとの記述があり、社の「舎人」という名称は、旧杉戸宿の耕地集落名であると考えられる。
 舎人(とねり/しゃじん)とは、ヤマト王権時代に既に存在していた皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者、またはその役職といい、なかなか歴史的にも奥深い名称といえよう。何故このような東国の一地域にこのような地名がついているかは不明だ。因みに『埼玉苗字辞典』によると、嘗てこの地域には、「日奉(ひまつり)舎人部」という職業集団がいて、養老五年下総国葛飾郡大島郷戸籍に「日奉舎人部真島」と載り、大島郷(杉戸町)付近の日奉氏配下の舎人部と思われ、その残証が、この小さな一地区にひっそりと残されていたのであろうか。
       
                    拝 殿
 稲荷神社改修趣意書
 稲荷神社は今から百八十七年前天明八年京都伏見稲荷神社より御勧請申し上げ爾来舎人組地域の氏神として深く敬虔なる祈りをする者は延寿福楽の栄華を授くと言われ、住民に崇敬され今日に至っている。現在の社殿は既に六拾数星霜を経ており、この間二拾年前に小規模の修繕をした儘であり、最近土台が腐朽し、屋根の破損も甚だしく神霊の社として放置しがたい状態である。氏子の方々から修復してはとの声あり、この度氏子世話人慎重審議した結果この期に社殿を大改修し荘厳の美を復元し参拝の心を増進神明の加護により氏子住民各位の安楽をはかることになりました。
 ついては、氏子並住民各位の絶大なるご信助によりこの大願を成就したいと存じます。どうぞ進んで浄財をご喜捨賜りますよう世話人一同ご懇願申し上げる次第です。

与左衛門八幡神社】
       
            ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸2637
            ・ご祭神 誉田別命  
            ・社 格 旧杉戸宿与左衛門組鎮守 旧無格社
            ・例祭等 例祭(天王様) 715
 杉戸舎人稲荷神社から北東方向にある大型家具ショッピングモールを左手に見ながら、その先の南北に縦断する日光街道を直進、その後、150m程先で進行方向正面左側に与左衛門八幡神社の境内が見えてくる。
        
                 与左衛門八幡神社正面
 
  参道左側に祀られている庚申塔二基        庚申塔二基の並びに祀られている
                            庚申塔と稲荷神社の石祠
        
                    拝 殿
 八幡神社  杉戸町杉戸二六三七(杉戸字与左衛門)
『風土記稿』杉戸宿の項に見える小名のうち、「与左衛門」とあるのが当社の鎮座地で、古くから与左衛門組の鎮守として祀られている。
 創建の年代については明らかでないが、その存在が最初に確認できるのは、文政十一年(一八二八)に稿を終えた『風土記稿』の記載と、拝殿に奉納されている「文政十一年歳次戌子秋九月仲澣日」の年紀のある絵馬である。
 ところで、文政年間に先立つ万治三年(一六六〇)、与左衛門及び与左衛門前・雅楽(うた)・舎人のそれぞれの住民の一部が日光街道沿いの横町(現杉戸一丁目)に移住して表組が成立した。この表組のうち、与左衛門出身と思われる家が代々当社の氏子となっていることから推察すれば、当社は遅くとも万治三年以前から鎮座していたことが考えられる。往時の管理状況は、『風土記稿』に「村民持」と記される。
 明治初年に当社は無格社となったが、明治期の合祀政策の際に合併されることなく、現在に至っている。
 なお、農地改革以前までは、神社の土地として境内の周囲に約二一〇坪の水田があり、その模様から「腰巻き田」と呼ばれていた。神社の運営費は、この土地を小作に出した収益で賄われていた。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 与左衛門八幡神社遠景
 当社の祭神は誉田別命であり、氏子の方々は「八幡様」と呼び、五穀豊穣・子供繁栄・家内安全の神として崇めている。また、祭神が武神とされることから、戦時中は武運長久の神としての信仰もあった。
 一方、当社で行われる祭りは、715日の例祭で、「天王様」と呼ばれる。この日は、京都の八坂神社の祇園祭りび当たっており、各地に散在する八坂神社や天王社もこのころを祭日とする所も多く、疫病・怨霊除けの祭りとするのが普通である。ところが、当社の場合は、豊作祈願の祭りとされ、本来の意味が忘れ去れ、なおかつ、誉田別命を祭神とする当社の祭典が、なぜ素戔嗚命ないしは牛頭天王を祭神とする神社のものと結びついたかは不明とされる。まあ、このような現代の我々には一見論理的でない矛盾や曖昧さを、全て包み込む事も社の懐の広さといった所かもしれないが。
 因みに当地では、八坂神社の神紋「木瓜」が、きゅうりの切り口の模様に似ていることから、天王様の日まではきゅうりを食べてはいけないとされていたという。

内蔵稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸2854
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧杉戸宿内蔵組鎮守 旧無格社
             ・例祭等 秋祭り 9月第1日曜日
 与左衛門八幡神社の東側に接する道を北東方向に400m程進んだ丁字路上に鎮座している内蔵稲荷神社。
        
                  
内蔵稲荷神社正面
        
            境内に設置されている「
金付田耕地改修碑」
 金付田耕地改修碑
 金付田耕地は大字杉戸字十八丁にある水田地区の通称で池や沼が多くそのうえ排水の悪い低湿地でした。
 したがって収穫も少なく、金を付けなければ耕作するものがなく、そのため「金付田」の名がついたと伝えられています。
 そこで渡辺勘左衛門氏は、この耕地の改修を土地所有者に呼びかけ、大正十三年四月に耕地整理組合を作り工事を始めました。
 ところが、その頃は物価や工賃などが高騰して、工事は一時中止になりましたが関係者の努力により昭和五年ごろから再開され、幾多の困難を乗り越えて昭和七年六月に工事は完成し良田が造成されました。
 この事業を後世に伝えるため昭和十五年十月にこの碑は建てられました。(以下略)
        
      内蔵稲荷神社と境内に設置されている「杉戸町耕作地整理竣功記念碑」

 稲荷神社(ごとういなり)  杉戸町杉戸二八五四(杉戸字拾八丁)
 当社は杉戸町の北部、水田の広がる字拾八丁に鎮座している。この字名は、日光街道の杉戸宿から一八町の距離にあることに由来する。また、古くからの氏子の集落は、拾八丁の東南に位置する字与左衛門前である。このように鎮座地と氏子の集落が離れた形になった理由は、拾八丁には池や沼が多く、その上、排水の悪い低湿地であったため、居住に適しなかったことによると考えられる。
 境内に建つ「杉戸町耕作地整理竣功記念碑」によると、拾八丁は金付田耕地(かねつきだこうち)とも称し、池や沼が多く、しばしば水害があって耕作者を悩ませた地であった。これを憂えた地主渡辺勘左衛門は、当地の土地改良を提唱し、大変な苦労の末、昭和七年にその事業を完遂した。ちなみに金付田耕地の名称は、地主が耕作費を出さなければ田を耕す者がいないほどの地であったことに由来するという。
 このような低地であることから、当社の創建についても水害にまつわる話が伝えられている。これは、昔この辺り一帯が大水に見舞われた際、栗橋方面から流れ着いた御神体を奉斎したことに始まるというものである。また、一説には、常陸国の笠間稲荷神社の流れを汲むともいうが、確証を得ない。
 明治初年の社格制定に伴い、当社は無格社となったものの、その後の合祀政策に際しては、その対象から免れて、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用 

 氏子区域は元来、字与左衛門にある内蔵(くら)組と呼ばれる集落であった。しかし、万治三年(一六六〇)の日光街道開設に伴い、当地及び周辺の与左衛門・雅楽(うた)・舎人の各地区の住民の一部が、街道沿いの横町(現杉戸一丁目)に移り住んで表組の集落を形成した。この中で、内蔵組の出身の人たちは当社氏子にとどまったため、現在の氏子区域は内蔵組と表組の一部の二地域となっている。
 祭神は倉稲魂命で、氏子は「ごとう稲荷」あるいは氏神様と呼び、家内安全の神として信仰を寄せている。「ごとう」の意味は既に忘れられてしまっているが、恐らくは稲の美称である「御稲(みいね)」の音読であると思われる。したがって、元来は五穀豊穣の神として祀られていたものと考えられる。
 また、当社は子供の夜泣きを治す御利益があるとされ、かつたはこの信仰に伴う習慣があったという。この信仰は昭和15年頃迄盛んであったが、先の大戦を機に廃れてしまったとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町郷土資料館 杉戸宿と百間領の村々」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・石碑文」等
               

拍手[0回]


杉戸香取神社


        
            
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸592
            
・ご祭神 経津主命
            
・社 格 旧杉戸宿鎮守 旧村社
            
・例祭等 お元日 初午 お神酒 41日 祭礼 717日 他
 東武動物公園駅東口から駅前通りを北上、大落古利根川を過ぎた「東武動物公園駅前」交差点を左折する。埼玉県道372号下高野杉戸線に合流後、杉戸の街中を西行すること1.5㎞程、上杉戸集会所の奥に杉戸香取神社は鎮座している。
        
                  
杉戸香取神社正面
 当社が鎮座する上杉戸は、中世に鎌倉街道の通った所で、その当時は杉戸村の本村として下高野と共に繁栄していた。ところが、元和二年(一六一六)に、それまでは人家もまばらであった下杉戸に日光街道の宿駅が置かれ、町屋が形成されると、村の中心は下杉戸に移ってしまい、上杉戸は寂れてしまつた。そのため、上杉戸の住民の多くは宿駅近くの湿地を開いて移り住んでいった。こうして開発された地が、住居表示実施前の新町と横町であるという。
        
       参道の先には石段があり、そこを登った左手に社殿は鎮座している。
        石段の手前左側には、「伊勢太々奏上紀年玉垣奉納碑」があり、
      その左側には厄除大師・子育地蔵が安置されている祠が祀られている。

 こうした経緯から、当社の氏子は旧来の氏子区域である上杉戸の住民と、新町・舎人の住民のうち先祖が上杉戸から出た者であり、その数は現在一四〇戸となっている。しかし、このうち、地元である上杉戸の氏子は、わずかに一三戸と少ないとの事だ。
 この少ない上杉戸の氏子が一戸ずつ順番で努める行事に、当社の祭り以外で「庚(かのえ)講」がある。一三戸の氏子が順番に努める宿に集まって、床の間に祀った庚申様の掛軸の前で酢の物や刺身などを肴に飲食するもので、元来、庚申の日に行われていた。その後、生活様式の変化から今では二か月に一度、任意の日に行うようになり、肴もほかに天ぷらや奴豆腐などが加わって、豪華になってきているという。
 
 境内はもう一段高台があり、再度石段を登ると社殿が祀られている区域に達する(写真左)。
   元々自然堤防上に鎮座されていた社なのか、土塚を盛ったものなのかは不明。
       また、石段の右手には二基の力石が置かれている(同右)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 杉戸宿』
 小名 上杉戸 當所に街道より西に分れて、上高野村に達する一條あり、古道と唱ふ、此傍に枝さし俺たる一樹あり、土人這松と呼べり、
 香取社 東福寺持〇神明社 神明院持 〇愛宕香取合社 寶性院持、以上の三社は宿の鎭守なり、〇大六天社 同院の持、下同じ、〇天神社〇稻荷社二 一は寶性院、一は村民持〇荒神社 村民持 下同じ〇八幡社
 寶性院 新義眞言宗、埼玉郡百間村西光院末、杉戸山と號す、本尊胎藏界の大日を安せり、當寺は古郡中幸手宿の城主一色宮内少輔義範建立して不動坊と號せしが、元和二年教識と云僧今の院號に改しとのみ傳へり、一色氏のことは幸手宿を始、近村居蹟の條々其傳散出たれば、合せ見るべし、
〇神明院 同宗、東大輪村密藏寺門徒、普照山と號す、寛永八年能音と云僧造立すと傳へり、本尊胎藏界大日、〇東福寺 同宗、内國府間村正福寺末、香取山と號す、榮眞と云僧元和九年草創し、其頃は門徒なりしが、文化十一年僧祐教法流相續せしより、寺格改り今の如く末寺となれり、本尊不動、

 香取神社  杉戸町杉戸五九二(杉戸字上杉戸)
 杉戸は、古くは杉門と書き、この辺りがまだ海であったころ、日本武尊が東征の際に、薩天ヶ島の南岬に当たる当地に上陸したところ、老杉が鬱蒼として水門を覆っていたことから名付けられたという。
 当社の由緒は、昭和七年に当時の社掌加藤貞学が執筆した「香取神社社殿造営費勧募趣意書」に詳しい。それによると、天智天皇の御代に下総国から当地に移住して来た孔王部(あなほべ)一族が、その産土神の香取神宮を日本武尊の旧跡に祀ったことが当社の始まりであるという。下って文治年間(一一八五-九〇)には、領主河辺荘司行平によって社殿が再建され、その崇敬を受け、その後、寛正二年(一四六一)と天文二十三年(一五五四)に二度にわたって兵火に罹り、社殿消失の憂き目に遭ったが、田宮城主一色氏によって再建されたと伝える。
 また、中世・近世と当社の別当であった東福寺は、明徳二年(一三九一)に建立された真宗の寺院で、元は当社の参道の入口にあり、その境内には開山の月誉が当社の長久を願って植えた松が茂っていた。東福寺が寛永六年に新町に移転した後もこの松は這松(はいまつ)の名で親しまれていたが、やがて枯死し、今はその跡地だけが名残を留めている。
 明治になると神仏分離によって東福寺の管理を離れ、明治六年に杉戸宿の村社となった。更に同二十六年には字河原から無格社大六天社と稲荷社の合殿を境内に合祀したことが『明細帳』に記されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『明細帳』による祭神は、経津主命一柱であるが、当社の本殿は三間社流造りであり、その内陣には香取大明神・春日大明神・鹿島大明神の三柱の名と本地仏の種宇を記した享和二年(一八〇二)銘の木製神鏡形が幣束と共に安置されている。
 また、拝殿には、加藤清正の虎退治を描いた弘化二年(一八四五)の絵馬をはじめとして、見事な絵馬が何枚も奉納されており、氏子の信仰の厚さがうかがわれよう。
 
  境内に祀られている大六天神の石碑     社殿の右側に祀られている稲荷大明神の石祠
    及び香取大明神の社号額
        
                  境内からの一風景
        
            県道沿いの入口付近に設置されている社の案内板
 香取神社
 祭神 経津主命
 祭儀 例祭 七月十七日
 当社は下総香取の香取神社の末社である。当町内の地域は、もと下総国に属していたので多くの香取神社が鎮座している。
 創立年代は不詳であるが相当古いと思われる。江戸時代は東福寺が管理していた。明治六年に村社となった。
 境内には、木・石造りの鳥居(明治四十一年)各一基、手水石(安永七年)一、石灯籠(天保五年)一、狛犬一対のほか力石がある。拝殿には絵馬もある。
 なお、稲荷、大六天の二社が合祀されている
。(以下略)
                                       案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

拍手[0回]


樋ノ口八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市樋ノ口502
             ・ご祭神 応神天皇
             ・社 格 旧樋ノ口村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 二月初午 騎西の獅子 422日 大祓 630
                  例祭 914日 二百十日 9月1日 お日待 1019
 原日枝神社の南側に面する東西に流れる道を東行し、400m程進んだ三叉路を左折する道路沿いで右手に樋ノ口八幡神社は鎮座している。道を挟んだ反対側には真言宗三寶寺があり、江戸時代期の神仏習合の名残が寺社の配置からも垣間見られよう。
 
     樋ノ口八幡神社正面鳥居          鳥居の手前に建つ社号表柱
『日本歴史地名大系』 「樋ノ口村」の解説
 原村の西にあり、北は姫宮落川を境に野牛村(現白岡町)、東は篠津村(現同上)、南は星川を境に同村と下大崎村(現同上)。篠津村に飛地がある。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国後、柴田康忠が菖蒲五千石を領し(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)、当村に陣屋を置いたという(風土記稿)。騎西領に所属。
        
                 白を基調とした拝殿
『新編武蔵風土記稿 樋ノ口村』
 八幡社 村の鎭守なり、此處は今の末社稻荷の地なりしが、萬治三年当社を勧請してより、稻荷は却て末社となれり、三寶寺の持、 末社 稻荷
 三寶寺 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院の門徒、阿彌陀山と號す、開山秀範寛永二年三月寂せり、本尊阿彌陀、
 八幡神社  久喜市樋ノ口五〇二(樋ノ口字表)
 当社の「樋ノ口」は「樋口」とも書き、庄兵衛堀川右岸の台地低地からなる村で、古くからの集落は、地内中央の台地上にある。『埼玉県地名誌』によれば、地名の由来は、当地が星川から引いた用水路の樋の口に当たるためであるという。
 当社は古い集落の中央に鎮座しており、『風土記稿』樋ノ口村の項には「八幡社 村の鎮守なり、此辺は今の末社稲荷の地なりしが、万治三年(一六六〇)当社を勧請してより、稲荷は却て末社となれり、三宝寺の持、末社 稲荷」とある。口碑によれば、当社は元々小田原北条氏の家臣で永禄年間(一五五八-七〇)に当地に土着した岡安兵庫介の孫である岡安三右衛門が万治三年に村の鎮守として、稲荷社の境内に勧請したのが始まりであるという。岡安家は江戸期を通じて代々当村の名主を世襲した。別当の三宝寺は、戸ヶ崎村(菖蒲町菖蒲)真言宗吉祥院の門徒で阿弥陀山と号した。
 神仏分離により、当社は三宝寺の監理下を離れ、明治六年六月十三日に村社に列した。社殿の屋根は元々草葺きであったが、老朽化したため、氏子の間から改修しようという声が上がった。しかし、工事資金が不足したため、氏子が協議した結果、やむなく末社である稲荷神社の神木の欅を伐採し、売却して資金の一部とすることになった。工事は昭和三十八年に行われ、瓦葺きの屋根に改修された。
                                   「埼玉の神社」より引用 
 当社の行事に「騎西の獅子」がある。この行事は古くから当地を挙げて行われてきた疾病除けの祭りで、当日は、早朝に当番が車で騎西の玉敷神社へ行き、「お獅子様」と称される筥を借りて当社へ帰り、拝殿に「お獅子様」を安置して詰める。氏子は銘々で灯明料を納めて参拝し、「お獅子様を頂戴します」と言って、当番から「お獅子様」でお祓いを受けるとの事だ。かつては、当番が「お獅子様」を持って各戸を回り、縁側で土足のまま家に上がり悪魔祓いをしたが、新築の家が増え、土足では上がりにくくなったので、昭和50年頃に現在の形と改められたという。
 また、かつては914日の例祭の余興として万作踊りが行われていた。しかし太平洋戦争勃発で、出征兵士が増加し万作踊りを行う男性が不足したため、こちらの行事は中止となった。
 拝殿の前面には適度な空間があるのだが、このような行事のために使われるスペースなのではないかと勝手に想像してみた。
        
                    本 殿
 
社殿の左側奥に祀られている三峯大権現の石祠    社殿右側奥に祀られている稲荷神社
                          赤い鳥居の脇には旧稲荷社がある。
 当地で古くから行われている年中行事に「初午」がある。初午は、昔から作神として地元の人々から崇敬されている境内社の稲荷神社の祭りで、当日、早朝から各戸でスミツカリを作り、藁苞(わらつと)に入れて銘々で稲荷神社の神前に供えて参拝する。午前11時からは神職の奉仕による祭典も執り行われるという。
        
            社の西側で、道路を挟んである真言宗三寶寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                    

拍手[0回]


原日枝神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市原222
             ・ご祭神 大山咋神
             ・社 格 旧原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 夏祭り(灯籠) 714日 秋祭り 1018
 久喜市除堀地域の東側で、埼玉県道78号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社を過ぎた次の十字路を左折、県道から中にある東西に伸びる道に入ってすぐ先に原日枝神社は鎮座している。
 当社の創建年代は不明であるが、別当寺だった東雲院は、菖蒲城の城主佐々木氏の家臣によって創建されたものであり、佐々木氏発祥の地である近江国(現・滋賀県)の日吉大社から分霊を勧請したものと推測される。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により、「稲荷神社」が合祀されたという。
        
                   原日枝神社正面
        境内は決して広くはないが、手入れはしっかりとされていて、
         地域の氏子の方々から崇敬されていることが見て取れる。

『日本歴史地名大系 』「原村」の解説
 北は笠原用水を境に下早見村の飛地、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。菖蒲領に所属。正保年中(一六四四―四八)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一一八石余・畑高一六一石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三一一石余、反別は田方一三町三反余・畑方二三町二反余、ほかに新開高一二四石余、田方五町三反余・畑方九町四反余があった。
        
                    社殿の手前で参道左手にある旧拝殿
      旧拝殿の手前にある石碑は「榛名山満行宮」で、榛名山講による建立
 
 拝殿手前で参道左手に祀られている稲荷神社   参道を挟んで右側に祀られている三峰神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 原村』
 山王社 鎭守なり、東雲院の持、〇稻荷社 村民持
 東雲院 禪宗曹洞宗派、白岡村興禪寺末、龍松山と號す、本尊は釋迦脇士文珠普賢を安ず、開山孝天存舜元龜二年三月寂せり、〇觀音堂 東雲院持

 日枝神社(さんのうさま)  久喜市原二二二(原字松場)
 当地は庄兵衛堀川と星川に挟まれた農業地帯である。
当社は『風土記稿』に「山王社 鎮守なり、東雲院の持」とある。口碑によれば、近江国の一宮日吉大社の分霊を鎮守として祀ったのが始まりであるという。別当の東雲院は、白岡村曹洞宗興禅寺末で、開山の孝天存舜和尚は元亀二年(一五七一)三月の入寂であるという。東雲院の伝えによれば、近江国の武将佐々木源左衛門氏綱は康正二年(一四五六)に武州新堀の菖蒲城に移り、その玄孫佐々木信濃守頼綱は当地に大雲庵を構えて隠居し、永正十六年(一五一九)五月十日に没した。その後、家臣たちが頼綱の菩提を弔うために大雲庵の跡地に一寺を建立し、東雲院と号したという。
 東雲院を建立したのは岡安氏をはじめとする八名で、その後、当地に土着し、村の草分けとなった。恐らく当社は、これら草分けの人々によって、かつての主君佐々木氏の出自である近江国から一宮日吉大社の分霊を勧請したものであろう。社殿に掲げられた享和二年(一八〇二)銘の「(日)吉大社」の社号額は当社が日吉大社の分霊を祀る社であることを物語るものといえよう。
 当社は神仏分離により東雲院から離れ、明治六年六月に村社に列した。その後、明治四十一年三月に字天沼の無格社稲荷神社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
 当社は、古くから「山王様」と称されると共に「山王様は霊験あらたかな地主神様である」といわれ、崇敬されている。
 氏子区域は、近世の原村を引き継ぐ大字原であり、村組は「上」「中」「新田」の三組で構成されている。総代は各組から一名ずつ計三名を選出し、任期四年で神社運営に当たる。年番も各組から家並み順で一名ずつの計三名が出て、祭典の準備などを行う。
        
           境内の一角には紙垂にて祀られている力石がある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

拍手[0回]