古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

舎人稲荷神社・与左衛門八幡神社・内蔵稲荷神社

 杉戸宿は後世の記録や伝承によると、元和 2 年(1616)に日光道中の人馬継ぎ立ての宿場として命じられ、上町・中町・下町が出来たと考えられている。また、寛永2 (1625) には、新町が清地村から編入され、寛永4 1627)には上町の上手に河原組ができ、寛永 10 年(1633)には、上杉戸の住民が新町南側へ入植した。正保 4 年(1647)には、それまで上杉戸から下高野に向かい日光御成道に合流する道を、横町から大島方面に向う新街道に変更した。
 その後、万治元年(1658)には杉戸宿近在の新田(舎人・与左衛門・雅楽・内蔵)の住民が杉戸宿に入植し横町がつくられたという。
 この横町の舎人・与左衛門・内蔵各組に祀られている社が現在でも鎮守社として鎮座している。
舎人稲荷神社】
        
             
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸7581
             
・ご祭神 宇迦之御魂神
             
社 格 旧杉戸宿舎人組鎮守(推定)
 杉戸香取神社から北東方向で、住宅街から離れた一面の畑と一部民家が点在する中に杉戸舎人稲荷神社はポツンと鎮座している。
        
                 
杉戸舎人稲荷神社遠景
        

                 
杉戸舎人稲荷神社正面
        鳥居の碑狩り側にある「稲荷神社改修趣意書」と刻まれた石碑
 創建時期等は、境内に建つ「稲荷神社改修趣意書」によれば、天明8年(1788)京都伏見稲荷神社より勧請したとの記述があり、社の「舎人」という名称は、旧杉戸宿の耕地集落名であると考えられる。
 舎人(とねり/しゃじん)とは、ヤマト王権時代に既に存在していた皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者、またはその役職といい、なかなか歴史的にも奥深い名称といえよう。何故このような東国の一地域にこのような地名がついているかは不明だ。因みに『埼玉苗字辞典』によると、嘗てこの地域には、「日奉(ひまつり)舎人部」という職業集団がいて、養老五年下総国葛飾郡大島郷戸籍に「日奉舎人部真島」と載り、大島郷(杉戸町)付近の日奉氏配下の舎人部と思われ、その残証が、この小さな一地区にひっそりと残されていたのであろうか。
       
                    拝 殿
 稲荷神社改修趣意書
 稲荷神社は今から百八十七年前天明八年京都伏見稲荷神社より御勧請申し上げ爾来舎人組地域の氏神として深く敬虔なる祈りをする者は延寿福楽の栄華を授くと言われ、住民に崇敬され今日に至っている。現在の社殿は既に六拾数星霜を経ており、この間二拾年前に小規模の修繕をした儘であり、最近土台が腐朽し、屋根の破損も甚だしく神霊の社として放置しがたい状態である。氏子の方々から修復してはとの声あり、この度氏子世話人慎重審議した結果この期に社殿を大改修し荘厳の美を復元し参拝の心を増進神明の加護により氏子住民各位の安楽をはかることになりました。
 ついては、氏子並住民各位の絶大なるご信助によりこの大願を成就したいと存じます。どうぞ進んで浄財をご喜捨賜りますよう世話人一同ご懇願申し上げる次第です。

与左衛門八幡神社】
       
            ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸2637
            ・ご祭神 誉田別命  
            ・社 格 旧杉戸宿与左衛門組鎮守 旧無格社
            ・例祭等 例祭(天王様) 715
 杉戸舎人稲荷神社から北東方向にある大型家具ショッピングモールを左手に見ながら、その先の南北に縦断する日光街道を直進、その後、150m程先で進行方向正面左側に与左衛門八幡神社の境内が見えてくる。
        
                 与左衛門八幡神社正面
 
  参道左側に祀られている庚申塔二基        庚申塔二基の並びに祀られている
                            庚申塔と稲荷神社の石祠
        
                    拝 殿
 八幡神社  杉戸町杉戸二六三七(杉戸字与左衛門)
『風土記稿』杉戸宿の項に見える小名のうち、「与左衛門」とあるのが当社の鎮座地で、古くから与左衛門組の鎮守として祀られている。
 創建の年代については明らかでないが、その存在が最初に確認できるのは、文政十一年(一八二八)に稿を終えた『風土記稿』の記載と、拝殿に奉納されている「文政十一年歳次戌子秋九月仲澣日」の年紀のある絵馬である。
 ところで、文政年間に先立つ万治三年(一六六〇)、与左衛門及び与左衛門前・雅楽(うた)・舎人のそれぞれの住民の一部が日光街道沿いの横町(現杉戸一丁目)に移住して表組が成立した。この表組のうち、与左衛門出身と思われる家が代々当社の氏子となっていることから推察すれば、当社は遅くとも万治三年以前から鎮座していたことが考えられる。往時の管理状況は、『風土記稿』に「村民持」と記される。
 明治初年に当社は無格社となったが、明治期の合祀政策の際に合併されることなく、現在に至っている。
 なお、農地改革以前までは、神社の土地として境内の周囲に約二一〇坪の水田があり、その模様から「腰巻き田」と呼ばれていた。神社の運営費は、この土地を小作に出した収益で賄われていた。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 与左衛門八幡神社遠景
 当社の祭神は誉田別命であり、氏子の方々は「八幡様」と呼び、五穀豊穣・子供繁栄・家内安全の神として崇めている。また、祭神が武神とされることから、戦時中は武運長久の神としての信仰もあった。
 一方、当社で行われる祭りは、715日の例祭で、「天王様」と呼ばれる。この日は、京都の八坂神社の祇園祭りび当たっており、各地に散在する八坂神社や天王社もこのころを祭日とする所も多く、疫病・怨霊除けの祭りとするのが普通である。ところが、当社の場合は、豊作祈願の祭りとされ、本来の意味が忘れ去れ、なおかつ、誉田別命を祭神とする当社の祭典が、なぜ素戔嗚命ないしは牛頭天王を祭神とする神社のものと結びついたかは不明とされる。まあ、このような現代の我々には一見論理的でない矛盾や曖昧さを、全て包み込む事も社の懐の広さといった所かもしれないが。
 因みに当地では、八坂神社の神紋「木瓜」が、きゅうりの切り口の模様に似ていることから、天王様の日まではきゅうりを食べてはいけないとされていたという。

内蔵稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸2854
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧杉戸宿内蔵組鎮守 旧無格社
             ・例祭等 秋祭り 9月第1日曜日
 与左衛門八幡神社の東側に接する道を北東方向に400m程進んだ丁字路上に鎮座している内蔵稲荷神社。
        
                  
内蔵稲荷神社正面
        
            境内に設置されている「
金付田耕地改修碑」
 金付田耕地改修碑
 金付田耕地は大字杉戸字十八丁にある水田地区の通称で池や沼が多くそのうえ排水の悪い低湿地でした。
 したがって収穫も少なく、金を付けなければ耕作するものがなく、そのため「金付田」の名がついたと伝えられています。
 そこで渡辺勘左衛門氏は、この耕地の改修を土地所有者に呼びかけ、大正十三年四月に耕地整理組合を作り工事を始めました。
 ところが、その頃は物価や工賃などが高騰して、工事は一時中止になりましたが関係者の努力により昭和五年ごろから再開され、幾多の困難を乗り越えて昭和七年六月に工事は完成し良田が造成されました。
 この事業を後世に伝えるため昭和十五年十月にこの碑は建てられました。(以下略)
        
      内蔵稲荷神社と境内に設置されている「杉戸町耕作地整理竣功記念碑」

 稲荷神社(ごとういなり)  杉戸町杉戸二八五四(杉戸字拾八丁)
 当社は杉戸町の北部、水田の広がる字拾八丁に鎮座している。この字名は、日光街道の杉戸宿から一八町の距離にあることに由来する。また、古くからの氏子の集落は、拾八丁の東南に位置する字与左衛門前である。このように鎮座地と氏子の集落が離れた形になった理由は、拾八丁には池や沼が多く、その上、排水の悪い低湿地であったため、居住に適しなかったことによると考えられる。
 境内に建つ「杉戸町耕作地整理竣功記念碑」によると、拾八丁は金付田耕地(かねつきだこうち)とも称し、池や沼が多く、しばしば水害があって耕作者を悩ませた地であった。これを憂えた地主渡辺勘左衛門は、当地の土地改良を提唱し、大変な苦労の末、昭和七年にその事業を完遂した。ちなみに金付田耕地の名称は、地主が耕作費を出さなければ田を耕す者がいないほどの地であったことに由来するという。
 このような低地であることから、当社の創建についても水害にまつわる話が伝えられている。これは、昔この辺り一帯が大水に見舞われた際、栗橋方面から流れ着いた御神体を奉斎したことに始まるというものである。また、一説には、常陸国の笠間稲荷神社の流れを汲むともいうが、確証を得ない。
 明治初年の社格制定に伴い、当社は無格社となったものの、その後の合祀政策に際しては、その対象から免れて、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用 

 氏子区域は元来、字与左衛門にある内蔵(くら)組と呼ばれる集落であった。しかし、万治三年(一六六〇)の日光街道開設に伴い、当地及び周辺の与左衛門・雅楽(うた)・舎人の各地区の住民の一部が、街道沿いの横町(現杉戸一丁目)に移り住んで表組の集落を形成した。この中で、内蔵組の出身の人たちは当社氏子にとどまったため、現在の氏子区域は内蔵組と表組の一部の二地域となっている。
 祭神は倉稲魂命で、氏子は「ごとう稲荷」あるいは氏神様と呼び、家内安全の神として信仰を寄せている。「ごとう」の意味は既に忘れられてしまっているが、恐らくは稲の美称である「御稲(みいね)」の音読であると思われる。したがって、元来は五穀豊穣の神として祀られていたものと考えられる。
 また、当社は子供の夜泣きを治す御利益があるとされ、かつたはこの信仰に伴う習慣があったという。この信仰は昭和15年頃迄盛んであったが、先の大戦を機に廃れてしまったとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町郷土資料館 杉戸宿と百間領の村々」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・石碑文」等
               

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杉戸香取神社


        
            
・所在地 埼玉県北葛飾郡杉戸町杉戸592
            
・ご祭神 経津主命
            
・社 格 旧杉戸宿鎮守 旧村社
            
・例祭等 お元日 初午 お神酒 41日 祭礼 717日 他
 東武動物公園駅東口から駅前通りを北上、大落古利根川を過ぎた「東武動物公園駅前」交差点を左折する。埼玉県道372号下高野杉戸線に合流後、杉戸の街中を西行すること1.5㎞程、上杉戸集会所の奥に杉戸香取神社は鎮座している。
        
                  
杉戸香取神社正面
 当社が鎮座する上杉戸は、中世に鎌倉街道の通った所で、その当時は杉戸村の本村として下高野と共に繁栄していた。ところが、元和二年(一六一六)に、それまでは人家もまばらであった下杉戸に日光街道の宿駅が置かれ、町屋が形成されると、村の中心は下杉戸に移ってしまい、上杉戸は寂れてしまつた。そのため、上杉戸の住民の多くは宿駅近くの湿地を開いて移り住んでいった。こうして開発された地が、住居表示実施前の新町と横町であるという。
        
       参道の先には石段があり、そこを登った左手に社殿は鎮座している。
        石段の手前左側には、「伊勢太々奏上紀年玉垣奉納碑」があり、
      その左側には厄除大師・子育地蔵が安置されている祠が祀られている。

 こうした経緯から、当社の氏子は旧来の氏子区域である上杉戸の住民と、新町・舎人の住民のうち先祖が上杉戸から出た者であり、その数は現在一四〇戸となっている。しかし、このうち、地元である上杉戸の氏子は、わずかに一三戸と少ないとの事だ。
 この少ない上杉戸の氏子が一戸ずつ順番で努める行事に、当社の祭り以外で「庚(かのえ)講」がある。一三戸の氏子が順番に努める宿に集まって、床の間に祀った庚申様の掛軸の前で酢の物や刺身などを肴に飲食するもので、元来、庚申の日に行われていた。その後、生活様式の変化から今では二か月に一度、任意の日に行うようになり、肴もほかに天ぷらや奴豆腐などが加わって、豪華になってきているという。
 
 境内はもう一段高台があり、再度石段を登ると社殿が祀られている区域に達する(写真左)。
   元々自然堤防上に鎮座されていた社なのか、土塚を盛ったものなのかは不明。
       また、石段の右手には二基の力石が置かれている(同右)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 杉戸宿』
 小名 上杉戸 當所に街道より西に分れて、上高野村に達する一條あり、古道と唱ふ、此傍に枝さし俺たる一樹あり、土人這松と呼べり、
 香取社 東福寺持〇神明社 神明院持 〇愛宕香取合社 寶性院持、以上の三社は宿の鎭守なり、〇大六天社 同院の持、下同じ、〇天神社〇稻荷社二 一は寶性院、一は村民持〇荒神社 村民持 下同じ〇八幡社
 寶性院 新義眞言宗、埼玉郡百間村西光院末、杉戸山と號す、本尊胎藏界の大日を安せり、當寺は古郡中幸手宿の城主一色宮内少輔義範建立して不動坊と號せしが、元和二年教識と云僧今の院號に改しとのみ傳へり、一色氏のことは幸手宿を始、近村居蹟の條々其傳散出たれば、合せ見るべし、
〇神明院 同宗、東大輪村密藏寺門徒、普照山と號す、寛永八年能音と云僧造立すと傳へり、本尊胎藏界大日、〇東福寺 同宗、内國府間村正福寺末、香取山と號す、榮眞と云僧元和九年草創し、其頃は門徒なりしが、文化十一年僧祐教法流相續せしより、寺格改り今の如く末寺となれり、本尊不動、

 香取神社  杉戸町杉戸五九二(杉戸字上杉戸)
 杉戸は、古くは杉門と書き、この辺りがまだ海であったころ、日本武尊が東征の際に、薩天ヶ島の南岬に当たる当地に上陸したところ、老杉が鬱蒼として水門を覆っていたことから名付けられたという。
 当社の由緒は、昭和七年に当時の社掌加藤貞学が執筆した「香取神社社殿造営費勧募趣意書」に詳しい。それによると、天智天皇の御代に下総国から当地に移住して来た孔王部(あなほべ)一族が、その産土神の香取神宮を日本武尊の旧跡に祀ったことが当社の始まりであるという。下って文治年間(一一八五-九〇)には、領主河辺荘司行平によって社殿が再建され、その崇敬を受け、その後、寛正二年(一四六一)と天文二十三年(一五五四)に二度にわたって兵火に罹り、社殿消失の憂き目に遭ったが、田宮城主一色氏によって再建されたと伝える。
 また、中世・近世と当社の別当であった東福寺は、明徳二年(一三九一)に建立された真宗の寺院で、元は当社の参道の入口にあり、その境内には開山の月誉が当社の長久を願って植えた松が茂っていた。東福寺が寛永六年に新町に移転した後もこの松は這松(はいまつ)の名で親しまれていたが、やがて枯死し、今はその跡地だけが名残を留めている。
 明治になると神仏分離によって東福寺の管理を離れ、明治六年に杉戸宿の村社となった。更に同二十六年には字河原から無格社大六天社と稲荷社の合殿を境内に合祀したことが『明細帳』に記されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『明細帳』による祭神は、経津主命一柱であるが、当社の本殿は三間社流造りであり、その内陣には香取大明神・春日大明神・鹿島大明神の三柱の名と本地仏の種宇を記した享和二年(一八〇二)銘の木製神鏡形が幣束と共に安置されている。
 また、拝殿には、加藤清正の虎退治を描いた弘化二年(一八四五)の絵馬をはじめとして、見事な絵馬が何枚も奉納されており、氏子の信仰の厚さがうかがわれよう。
 
  境内に祀られている大六天神の石碑     社殿の右側に祀られている稲荷大明神の石祠
    及び香取大明神の社号額
        
                  境内からの一風景
        
            県道沿いの入口付近に設置されている社の案内板
 香取神社
 祭神 経津主命
 祭儀 例祭 七月十七日
 当社は下総香取の香取神社の末社である。当町内の地域は、もと下総国に属していたので多くの香取神社が鎮座している。
 創立年代は不詳であるが相当古いと思われる。江戸時代は東福寺が管理していた。明治六年に村社となった。
 境内には、木・石造りの鳥居(明治四十一年)各一基、手水石(安永七年)一、石灯籠(天保五年)一、狛犬一対のほか力石がある。拝殿には絵馬もある。
 なお、稲荷、大六天の二社が合祀されている
。(以下略)
                                       案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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樋ノ口八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市樋ノ口502
             ・ご祭神 応神天皇
             ・社 格 旧樋ノ口村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 二月初午 騎西の獅子 422日 大祓 630
                  例祭 914日 二百十日 9月1日 お日待 1019
 原日枝神社の南側に面する東西に流れる道を東行し、400m程進んだ三叉路を左折する道路沿いで右手に樋ノ口八幡神社は鎮座している。道を挟んだ反対側には真言宗三寶寺があり、江戸時代期の神仏習合の名残が寺社の配置からも垣間見られよう。
 
     樋ノ口八幡神社正面鳥居          鳥居の手前に建つ社号表柱
『日本歴史地名大系』 「樋ノ口村」の解説
 原村の西にあり、北は姫宮落川を境に野牛村(現白岡町)、東は篠津村(現同上)、南は星川を境に同村と下大崎村(現同上)。篠津村に飛地がある。天正一八年(一五九〇)八月の徳川氏関東入国後、柴田康忠が菖蒲五千石を領し(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)、当村に陣屋を置いたという(風土記稿)。騎西領に所属。
        
                 白を基調とした拝殿
『新編武蔵風土記稿 樋ノ口村』
 八幡社 村の鎭守なり、此處は今の末社稻荷の地なりしが、萬治三年当社を勧請してより、稻荷は却て末社となれり、三寶寺の持、 末社 稻荷
 三寶寺 新義眞言宗、戸ヶ崎村吉祥院の門徒、阿彌陀山と號す、開山秀範寛永二年三月寂せり、本尊阿彌陀、
 八幡神社  久喜市樋ノ口五〇二(樋ノ口字表)
 当社の「樋ノ口」は「樋口」とも書き、庄兵衛堀川右岸の台地低地からなる村で、古くからの集落は、地内中央の台地上にある。『埼玉県地名誌』によれば、地名の由来は、当地が星川から引いた用水路の樋の口に当たるためであるという。
 当社は古い集落の中央に鎮座しており、『風土記稿』樋ノ口村の項には「八幡社 村の鎮守なり、此辺は今の末社稲荷の地なりしが、万治三年(一六六〇)当社を勧請してより、稲荷は却て末社となれり、三宝寺の持、末社 稲荷」とある。口碑によれば、当社は元々小田原北条氏の家臣で永禄年間(一五五八-七〇)に当地に土着した岡安兵庫介の孫である岡安三右衛門が万治三年に村の鎮守として、稲荷社の境内に勧請したのが始まりであるという。岡安家は江戸期を通じて代々当村の名主を世襲した。別当の三宝寺は、戸ヶ崎村(菖蒲町菖蒲)真言宗吉祥院の門徒で阿弥陀山と号した。
 神仏分離により、当社は三宝寺の監理下を離れ、明治六年六月十三日に村社に列した。社殿の屋根は元々草葺きであったが、老朽化したため、氏子の間から改修しようという声が上がった。しかし、工事資金が不足したため、氏子が協議した結果、やむなく末社である稲荷神社の神木の欅を伐採し、売却して資金の一部とすることになった。工事は昭和三十八年に行われ、瓦葺きの屋根に改修された。
                                   「埼玉の神社」より引用 
 当社の行事に「騎西の獅子」がある。この行事は古くから当地を挙げて行われてきた疾病除けの祭りで、当日は、早朝に当番が車で騎西の玉敷神社へ行き、「お獅子様」と称される筥を借りて当社へ帰り、拝殿に「お獅子様」を安置して詰める。氏子は銘々で灯明料を納めて参拝し、「お獅子様を頂戴します」と言って、当番から「お獅子様」でお祓いを受けるとの事だ。かつては、当番が「お獅子様」を持って各戸を回り、縁側で土足のまま家に上がり悪魔祓いをしたが、新築の家が増え、土足では上がりにくくなったので、昭和50年頃に現在の形と改められたという。
 また、かつては914日の例祭の余興として万作踊りが行われていた。しかし太平洋戦争勃発で、出征兵士が増加し万作踊りを行う男性が不足したため、こちらの行事は中止となった。
 拝殿の前面には適度な空間があるのだが、このような行事のために使われるスペースなのではないかと勝手に想像してみた。
        
                    本 殿
 
社殿の左側奥に祀られている三峯大権現の石祠    社殿右側奥に祀られている稲荷神社
                          赤い鳥居の脇には旧稲荷社がある。
 当地で古くから行われている年中行事に「初午」がある。初午は、昔から作神として地元の人々から崇敬されている境内社の稲荷神社の祭りで、当日、早朝から各戸でスミツカリを作り、藁苞(わらつと)に入れて銘々で稲荷神社の神前に供えて参拝する。午前11時からは神職の奉仕による祭典も執り行われるという。
        
            社の西側で、道路を挟んである真言宗三寶寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                    

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原日枝神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市原222
             ・ご祭神 大山咋神
             ・社 格 旧原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 夏祭り(灯籠) 714日 秋祭り 1018
 久喜市除堀地域の東側で、埼玉県道78号春日部菖蒲線沿いに鎮座する七社神社を過ぎた次の十字路を左折、県道から中にある東西に伸びる道に入ってすぐ先に原日枝神社は鎮座している。
 当社の創建年代は不明であるが、別当寺だった東雲院は、菖蒲城の城主佐々木氏の家臣によって創建されたものであり、佐々木氏発祥の地である近江国(現・滋賀県)の日吉大社から分霊を勧請したものと推測される。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により、「稲荷神社」が合祀されたという。
        
                   原日枝神社正面
        境内は決して広くはないが、手入れはしっかりとされていて、
         地域の氏子の方々から崇敬されていることが見て取れる。

『日本歴史地名大系 』「原村」の解説
 北は笠原用水を境に下早見村の飛地、南は星川を境に下大崎村(現白岡町)。菖蒲領に所属。正保年中(一六四四―四八)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一一八石余・畑高一六一石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三一一石余、反別は田方一三町三反余・畑方二三町二反余、ほかに新開高一二四石余、田方五町三反余・畑方九町四反余があった。
        
                    社殿の手前で参道左手にある旧拝殿
      旧拝殿の手前にある石碑は「榛名山満行宮」で、榛名山講による建立
 
 拝殿手前で参道左手に祀られている稲荷神社   参道を挟んで右側に祀られている三峰神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 原村』
 山王社 鎭守なり、東雲院の持、〇稻荷社 村民持
 東雲院 禪宗曹洞宗派、白岡村興禪寺末、龍松山と號す、本尊は釋迦脇士文珠普賢を安ず、開山孝天存舜元龜二年三月寂せり、〇觀音堂 東雲院持

 日枝神社(さんのうさま)  久喜市原二二二(原字松場)
 当地は庄兵衛堀川と星川に挟まれた農業地帯である。
当社は『風土記稿』に「山王社 鎮守なり、東雲院の持」とある。口碑によれば、近江国の一宮日吉大社の分霊を鎮守として祀ったのが始まりであるという。別当の東雲院は、白岡村曹洞宗興禅寺末で、開山の孝天存舜和尚は元亀二年(一五七一)三月の入寂であるという。東雲院の伝えによれば、近江国の武将佐々木源左衛門氏綱は康正二年(一四五六)に武州新堀の菖蒲城に移り、その玄孫佐々木信濃守頼綱は当地に大雲庵を構えて隠居し、永正十六年(一五一九)五月十日に没した。その後、家臣たちが頼綱の菩提を弔うために大雲庵の跡地に一寺を建立し、東雲院と号したという。
 東雲院を建立したのは岡安氏をはじめとする八名で、その後、当地に土着し、村の草分けとなった。恐らく当社は、これら草分けの人々によって、かつての主君佐々木氏の出自である近江国から一宮日吉大社の分霊を勧請したものであろう。社殿に掲げられた享和二年(一八〇二)銘の「(日)吉大社」の社号額は当社が日吉大社の分霊を祀る社であることを物語るものといえよう。
 当社は神仏分離により東雲院から離れ、明治六年六月に村社に列した。その後、明治四十一年三月に字天沼の無格社稲荷神社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
 当社は、古くから「山王様」と称されると共に「山王様は霊験あらたかな地主神様である」といわれ、崇敬されている。
 氏子区域は、近世の原村を引き継ぐ大字原であり、村組は「上」「中」「新田」の三組で構成されている。総代は各組から一名ずつ計三名を選出し、任期四年で神社運営に当たる。年番も各組から家並み順で一名ずつの計三名が出て、祭典の準備などを行う。
        
           境内の一角には紙垂にて祀られている力石がある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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河原井稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町河原井140
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧河原井村氏神(推定)
             
・例祭等 元旦祭 春の祭礼 411日 夏の祭礼 629
                  
灯籠祭り 81日 秋の祭礼 1011日 大祓 1229
 久喜市菖蒲町河原井地域は、久喜市の南部にあり、菖蒲町台、除堀各地域の南側に位置し、埼玉県北東部を流れる利根川水系の一級河川である星川の自然堤防上に集落は形成されている。因みに『新編武蔵風土記稿 河原井村』では菖蒲領に載っているが、嘗ては騎西領に属する村の一つであったという。
 除堀久伊豆神社から埼玉県道78号春日部菖蒲線を東行し、すぐ先の丁字路を右折、そこから500m程南側の道幅の狭い十字路を左折すると、幸福寺の東に隣接して河原井稲荷神社は静かに鎮座している。後日、地図を確認すると、かつて参拝した白岡市・下大崎住吉神社の北側に位置していた。
        
                 
河原井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「河原井村」の解説
 星川の左岸、台村の南に位置する。菖蒲領のうちで、古くは騎西領に属したという(風土記稿)。正保四年(一六四七)川越藩の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高三六石余・畑高一三六石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一八五石余、反別は田方四町五反余・畑方一四町八反余、ほかに新開高四五石余、田方一町一反余・畑方三町六反余があった。
 
  境内南西部で丁字路角にある青面金剛     拝殿手前で左側に祀られている山王社

 『新編武蔵風土記稿 河原井村』に載る「
稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」の一社である山王社は、長く黒沼笠原用水の端に祀られていたが、昭和45年頃、社のそばに水道小屋を作る事になったため、移転を余儀なくされ、以後は当社の境内に移され、末社として祀られるようになったという。
 なお、大六天社に関しては、廃社になってしまったものか、今では社があったという話さえ残っていない。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 河原井村』
 稻荷社 〇山王社 〇大六天社 以上村民持、
 光福寺 曹洞宗、白岡村興禪寺末、天得山と號す、開山は本寺三世の僧存舜元龜二年三月寂す、本尊地藏を安ぜり、


 稲荷神社  菖蒲町河原井一四〇(河原井字川棚)
 河原井は、地元では「かわはらい」と呼ばれ、古くは騎西領に属する村の一つであった。その地名は、河原居の意であると解され、星川の自然堤防上に形成された集落であろうと考えられている。『風土記稿』河原井村の項に「稲荷社〇山王社〇大六天社 以上村民持」と載るように、河原井の村内には古くから稲荷・山王・大六天の三社が祀られていたが、その中でも当社は、村のほぼ中心にあり、村の氏神として信仰されてきた社である。
 当社は、恐らくは村の開発と相前後して祀られたものと推測されるが、勧請された時期は定かではない。しかし、当社の西に隣接する曹洞宗天得山幸福寺(『風土記稿』には「光福寺」と記載)の開山の僧である存舜が元亀二年(一五七一)に寂していることや、旧家の関根家は四〇〇年以上続いているといわれていることから、村の開発や当社の勧請は、室町時代の末期ごろのことではないかと考えられる。なお、鳥居に掛かる「正一位稲荷大明神」と刻まれた石額には、文政九丙戌(一八二六)十一月吉祥日」の銘があり、恐らくこのころに、改めて伏見稲荷より分霊を勧請したものと思われる。
 当社の境内には、かつたは鬱蒼と松が生い茂り、昼間でも薄暗いような所であったという。しかし、今では境内に河原井集会所もでき、明るく見通しのよい雰囲気に整備され、往時の面影は薄れてしまった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 河原井地域に住む五六戸程の人々が、当社の氏子である。当社のご祭神は倉稲魂命で、本殿には明治28年に納められた勾玉がご神体として安置されている。
 河原井地域は大きく川棚(かわたな)と武井(ぶい)の二組に分かれていて、武井は星川の後背湿地であるために田んぼが多いのだが、川棚は土嚢が砂質のために特産物である梨や柚子などの野菜や桑などを栽培している農家も多いという。
        
            社の道を隔てた西側隣にある曹洞宗・幸福寺 
        
                  子安観世音菩薩
                 河原井村女講中による奉納

 この幸福寺の角にある地蔵は、かつては霊験あらたかな子安地蔵として有名で、近在の諸地域では女人講が結成される程であったという。現在はこうした講こそなくなったが、安産・子育てや子授けを願って多くの参詣者があるという。
 毎年7月23日の縁日には「寺の灯籠」と称して神社の当番が祭りを行ってきたが、平成4年からは、寺の行事として寺総代と相談役が祭りを行っているとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
        

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