古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高麗本郷九万八千神社

 巾着田(きんちゃくだ)は、埼玉県日高市高麗本郷(こまほんごう)に位置し、高麗川が南向きに大きく蛇行することで形成された巾着のような形状の平地である。地元では川原田と呼ばれている。「高麗(こま)」の地名は、716年(霊亀2年)に朝鮮半島からやって来た渡来人がこの地に移住し、高麗郡が設置されたことに由来する。
 直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようで、毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れる。
 昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ヘクタール(17万平方メートル)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに草藪の草刈りをしたところ、大規模なヒガンバナの群生が見られるようになり、報道が始まったことで、有名スポットとなった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。
 日本一の群生地である巾着田の曼珠沙華は2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出されている。
 この巾着田の北側、旧元宿の小高い丘上に高麗本郷九万八千神社は静かに鎮座している。
        
             
所在地 埼玉県日高市高麗本郷252
             
・ご祭神 八千矛命(やちほこのみこと)
             
・社 格 旧高麗本郷元宿鎮守
             
・例祭等 例祭 113
 埼玉県道15号川越日高線を西行し、高麗川に架かる「天神橋」を越えると正面に巾着田の看板が見え、そのすぐ先に「高麗本郷」交差点があり、そこを右折する。通称「カワセミ街道」に合流後、すぐ右手に「元宿公会堂」らしき建物が見え、そこから徒歩にて北側にある小高い丘に向かって進むと、立派な大杉等で形成されている豊かな社叢林の間に社の鳥居が見えてくる。
 但し、車のナビには社の場所はしっかりと表示されているのだが、まず、どこに車を駐車させるかが分からず、通り過ぎてしまうこと数度(しかも「カワセミ街道」は思った以上に交通量が多い)。偶々、公会堂の西側で、街道沿いにある適当な駐車スペースに停めることができたのは幸いであった。
        
             少し分かりずらい参道の先に見える鳥居 
『日本歴史地名大系』「高麗本郷」の解説
 横手村の東、高麗川左岸にあり、南は同川を隔てて台村・久保村。「和名抄」記載の高麗郡高麗郷を当地付近に比定する説がある。小田原衆所領役帳には小田原衆岡上主水助に蔵出分より宛行われた一五貫文は「但大高麗之内にて前引」とある。この「大高麗」を当地とする説もある。近世には高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。徳川家康の関東入国後の天正一九年(一五九一)から当地に大久保石見守(長安)の陣屋(高麗陣屋)が置かれ、当時は高麗町とよばれた。だが慶長二年(一五九七)火災に遭ったため陣屋は梅原村との境に近い栗坪(くりつぼ)村地内に移った。このため高麗町の名称は梅原・栗坪二村の通称となり、旧陣屋所在地は高麗本郷と称されるようになったといわれる(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書、「風土記稿」)。
 高麗本郷は埼玉県南部、日高市西部の地域で、秩父山地の東麓、高麗川の谷口集落である。嘗ての高麗村の中心地で、東部の旧高麗川村とともに8世紀初頭、朝鮮半島から渡ってきた高麗人が集団移住した地として知られている。この地域は江戸時代初期から市場町として発達したが、のち飯能と競合して商圏を奪われた。畑地が多く、かつては養蚕を中心としたが、現在は野菜づくりと養鶏が行われているという。
        
                
高麗本郷九万八千神社正面
 高麗本郷元宿は、元宿という名称が示すように、早くから開拓された場所といわれている。また、巾着田は高麗川の蛇行により形成された土地で、現在では東京近郊の行楽地として休日はたいへん賑わっている。
 社は元宿の北側にあり、南面して地域を見下ろす位置にある。祭礼の幟が立つと、後方の日和田山の緑に幟旗の白い布地が映え、村中どこからでも神社を望むことができるという。
  社叢林の中に入ると厳かな雰囲気となる。    参道右側に祀られている稲荷社二基。
        
                 高麗本郷九万八千神社
『新編武蔵風土記稿 高麗本郷』
 九萬八千社 高麗本郷の鎭守なり、例祭九月廿九日、梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此三郎兵衛はもと當所の民なりしが、高麗町を移せしとき、彼村に移住すと云、

 九万八千神社(くまんはっせんじんじゃ)  日高市高麗本郷二五二(高麗本郷字上ノ原)
 当社は日和田山の南麓に鎮座し、八千矛命を祀り、古来高麗本郷元宿の鎮守として仰がれてきた。『風土記稿』に「梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此三郎兵衛はもと当村の民なりしが、高麗町を移せしとき、彼村に移住すと云」とあり、更に『明細帳』に「創立詳ナラズ正中二年建立ノ棟札アリシ由口碑二伝フト雖モ棟札今存セズ。貞亨二乙丑年堀口西源同息三郎兵氏子一同シテ再建後宝永六巳丑年二月廿六日水災アリ同七寅年三月氏子中ニテ再建」とあり、察するに三郎兵衛と関係の深い神社と思われるが、同人については不明である。
 また、宝永六年の水災については、鎮座地が山麓の高地であることから古くは高麗川辺に鎮座していたものと考えられる。
 往時、別当を務めた長寿寺という寺が神社に隣接する。この寺は、宝永七年棟札写しに「別当真言宗萬福山長寿寺法印秀傳」とある。現在は無住の寺で改築して地域の集会所として使用している。社名九万八千は珍しい名であるが、一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。この高麗地域は上古渡来人の住居した場所であることから興味深い説ではある。
 社地は杉や楠の大木が茂り、更に茅葺の社殿であるため一層神さびた印象を与える。付近の日和田山・巾着田は行楽地であり、神社の傍らの道は自然遊歩道として休日の散策を楽しむ人が多い。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              社殿上部には社号額が飾られている。
 社のご祭神である「八千矛命」は大国主の別名の一つとされている。大国主は日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正文によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。
 このように日本神話の中でも一際目立つ神であるにも関わらず、多くの別名を持つ。大穴牟遅神・大穴持命・葦原色許男・葦原醜男・葦原志許乎・三諸神・宇都志国玉神・大国魂神・伊和大神・国堅大神・占国之神・所造天下大神・杵築大神等で、これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっているといわれているようだ。
 八千矛命も別名の一つとされている。この八千矛命は「多くの矛」の意味で、記では「八千矛」、紀では「八千戈」と表記されることから武神と解釈もされるが、男根を象徴するという説もある。
        
                   社からの風景
「埼玉の神社」によると、社名「九万八千」の由来の一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。
 716610日(霊亀2516日)、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされ、初代郡司は高麗若光である。この高麗若光は高句麗王族で、高句麗の宝蔵王の息子という。
 日本書紀に書かれた記録の一部では、天智5年(666年)「百済人男女2千余人東国移住」天武13年(684年)「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」持統元年(687年)「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」と記され、百済人・新羅人・高麗人はしっかりと移住の場所を区別されている。日高市を含む嘗ての高麗郡には、新羅人の移住はほぼなかったか、ほとんどいなかったと思われる。
 そもそも朝鮮半島では、高句麗国・新羅国・百済国の三国時代から新羅国の統一という時代背景がある中で、高句麗国や百済国と新羅国は敵対関係にあったのであるから、「埼玉の神社」で述べている九万(高麗)・八千(新羅)との並立表記は成り立たないと思われる。

 筆者は八千は社のご祭神である「八千矛命」からくるものと考える。つまり、高麗(九万)地域に(八千)矛命を祀る社、と推測するのだが、いかがであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
世界大百科事典(旧版)」
    「
日高市・曼珠沙華の里「巾着田」公式HP」「Wikipedia」等

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中沢向郷神社

「倶利伽羅(くりから)」は、サンスクリット「kulihah」に由来する不動明王の化身とされる竜(竜王)の名で「倶梨迦羅」とも表記される。倶利伽羅剣に絡みついた黒い竜の姿で表されるのだが、この剣は、不動明王の立像が右手に持つ剣とされる。密教に於いて、仏を表す象徴物とされる「三昧耶形」では不動明王の象徴そのものであり、貪瞋痴の三毒を破る智慧の利剣である。倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって剣に巻き付いた姿で描かれることからこの名がある。この倶梨迦羅竜王を俗に倶梨迦羅不動と称し、この竜身呑剣(どんけん)の図柄は、わが国における不動信仰の隆盛と共に広く親しまれるようになる。
 日高市中澤地域字向郷に鎮座する中沢向郷神社は「埼玉の神社」にも紹介されていない小さな社であるが、境内には「倶利伽羅不動」があり、宝永七庚寅(1710)年正月二十八日の造立という珍しい供養塔でもある。
        
             
・所在地 埼玉県日高市中沢625
             
・ご祭神 白髯大神 諏訪大神 愛宕大神 白山二柱大神 
                                    滝大神 稲荷大神
             
・社 格 旧向郷村鎮守(推定)
             
・例祭等 不明
 田木高根神社北側にある農道を西方向に向かうこと650m程、「萩通り」との交点である信号のある交差点を右折する。日高市は都心から約40km圏内に位置しながら、豊かな自然に恵まれた魅力的な市であり、都会の利便性と適度な田園風景が共存する「程良い田舎」とも言われる。この「萩通り」には、嘗ての「武蔵野」と呼ばれた人々の生活と自然がかくもよく入り乱れて形成された里山の風景がこの通りにはある。
 
そのような感慨にふけりながら1㎞程北上すると、進行方向右手に向郷集落センター、そして向郷神社が見えてくる。
        
                   
向郷神社正面
『日本歴史地名大系 』「向郷村」の解説
 中沢村の西にあり、西・北は女影(おなかげ)村。天正一九年(一五九一)七月内藤織部(種次)は「むかいごう」三六石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。以後幕末まで旗本内藤領。田園簿には向郷とあり田五石余・畑三〇石余、日損場と注記される。元禄・天保両郷帳には中沢村枝郷として向郷村が記されるが、「風土記稿」では中沢村のうちに含まれており、幕末の改革組合取調書でも同村に一括されていることから、幕末までに中沢村に合併したとみられる。
『日本歴史地名大系 』「中沢村」の解説
 女影村の南東にあり、東は高萩村、西は枝郷の向郷(むかいごう)村。小畔川の小支流が北東へ流れる。高麗郡加治領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)七月内藤織部(種次)に中沢之郷一三一石余が与えられた(記録御用所本古文書)。以後幕末まで旗本内藤領。田園簿では田七七石余・畑五四石余で日損場と注記される。東・西・北に持添新田計三ヵ所があり、享保一〇年(一七二五)に検地が行われた。
   
    「萩通り」沿いにある庚申塔            こじんまりとした社
『新編武蔵風土記稿 中澤村』
 村の西北に續き向鄕と云る枝鄕、正保元禄の國圖に見えたりしが、今は此村に屬して小名となり、一村の體を失ふ、(中略)向鄕新田と唱ふる新田一ヶ所あり、享保十年萩原源八郎検地せし所にして、向鄕政右衛門と云へるもの縄うけなり、(中略)小名 向鄕 説前に辨ず、
 白髭社 村の鎭守にて、例祭九月廿九日、正法寺持、下の二社も同じ、
 愛宕社 天神社 白山社 村持
        
                    拝殿覆屋
        
              社殿の左側奥にある倶利伽羅不動
 この石碑の右側には「奉建立瀧不動」、左側には「宝永七庚寅年正月二十八日」と刻まれている。一方、境内にある「向郷神社建設記念碑」には、社の御祭神の一柱に「滝大神」を載せていて、どちらも同じ神と考えられるのだが、この地域南部に位置する田木高根神社の「田木」の由来として、地域の南側に流れる南小畔川が嘗ては激しい流れであり、その急流を示す「激つ(たぎつ)」から来たといい、河川に関連した地域名といえる。当然、田木の北側に位置する当社の近くにも河川もしくは「滝」のようなものが存在したからこそ、神様の一柱として祀っているのであろうと推測する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「境内向郷神社建設記念碑文」等

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高萩神明山王神社・下高萩新田八幡神社

【高萩神明山王神社】
        
             
・所在地 埼玉県日高市高萩20354
             
・ご祭神 大日孁貴尊
             
・社 格 旧下高萩下組産土神
             
・例祭等 神明講 110
 編集上の失敗談を一つ。実は、高萩白鬚神社の後にこの社を参拝したのだが、パソコンに画像を送る際に、間違って先に大谷沢白鬚神社や田木高根神社の画像を編集してしまって、後で気が付いた次第である。それゆえに社紹介の順序がかなり前後してしまったことを深くお詫びした次第である。
 高萩白鬚神社から埼玉県道15号川越日高線を東行し、首都圏中央連絡自動車道の高架橋を潜った先の丁字路を左折、JR川越線の踏切の先にある小畔川に架かる「中田橋」を越え、下高萩公会堂先の丁字路を左折すると高萩神明山王神社が見えてくる。
 社とはいっても、鳥居のない規模は決して大きくはないが、名称が「神明」「山王」と格式が高そうな名称に惹かれて今回の参拝を決めていた次第だ。
 
集落に囲まれた中心部に鎮座する地域の鎮守様という第一印象。今時珍しく舗装されていない道の脇に路駐し、急ぎ参拝開始する。
        
                 高萩神明山王神社正面
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
 高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
        
                    拝殿覆屋
 神明山王神社  日高町高萩一七(高萩字猿ヶ谷戸)
 当地は小畔川上流に位置し、高麗郡のうち、川越領に属した。初めは、高萩村と称していたが、享保四年に分村して下高萩村となった。また、当地の鎮守は、白鬚神社で、当社は下高萩下組の産土神(うぶしなのかみ)として祀られている。
『風土記稿』に、神明社と山王社は分かれて載り、両社共に「村持なり」とある。
 山王社は、『山王宮・東照宮』と刻まれた石祠で、元和二年の建立である。この社の創建については、当地が川越領であったことから、江戸を意識して建立したものと考えられる。
 神明社の創建は、山王社の創建より年代が下り、おそらく当地が分村した享保年間のころと思われ、五穀を守護する神として祀られたものと考えられる。祭神は大日孁貴尊で、村人の信仰心が厚いために、当地においては未だに大きな旱ばつや水害にみまわれたことがないという。
 社名が神明山王社となったのは、昭和四〇年ごろで、山王社を神明社の境内に合祀してからである。山王社のもとの鎮座地は、当社から二〇メートルほど離れた小畔川北側の竹林の中であった。合祀の理由は、従来、神明社正面には参道がなかったので、これを設けるために氏子持ちの土地と山王社境内地を交換したためである。
                                     「埼玉の神社」より引用
 旧下高萩村において、氏神という鎮守社として白鬚神社であるのに対して、当社は産土として氏子の方々から親しまれている。このため、宮参り・帯解き・新嫁参りなどの氏子の参詣は、当社を詣でてから白鬚神社に参でるのが習わしであったという。
 
    社殿の右隣に祀られている天神社            社殿の東側には覆屋があり、左から
                        庚申塔、山王宮・東照宮が祀られている。
 120日に行われる唯一の祭事である神明講は、豊作を祈る祭りである。この日、境内には当番が藁で葺いたお仮屋を二社造り、中に幣束を祀る。神は当番が蒸した赤飯で、神前に供えるとともに、お仮屋にも榊の葉に載せて供える。なお、参詣者には一箸ずつ神前の赤飯がお供物として分けられる。120日に藁でお仮屋を建てる意味は、氏子を豊かにするために外へ働きに出かける神明様が籠もる社であるといわれている。因みに、二つのお仮屋のうち、一つは東を向き、一つは西を向いており、これは、恵比須講の送迎行事(朝恵比須・宵恵比須)の変化したものと考えられるという。
 また神明講当日は、氏子の家では恵比須講があり、恵比須棚から恵比須様を奥座敷に下ろしてきて祀る。供え物は、朝が御飯・味噌汁・さんま、昼が赤飯におはぎ、夜がそばというように御馳走を作り、働きに出かける恵比須様に家業繁栄を祈るという。



【下高萩新田八幡神社】
・所在地 日高市下高萩新田101
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭 4月15日
 高萩神明山王神社の北西側には下高萩新田地域があり、この地域にも八幡神社が鎮座している。この地域は江戸期・享保年間に高萩村の新田として開発された。氏子は四軒ながら、現在まで善村民という形で、また社格も旧村社として守り継がれ、当社を「八幡さん」と敬愛を込めて呼ばれているという。
 但し、実際に参拝してみると、道を隔てて南側には団地が立ち並び、狭い境内に一基の鳥居と小さな社殿のみ。また適当な駐車スペースもないため、一時的に路駐し、すぐに手を合わせて即座に出発するという忙しさでもあった。
        
                下高萩新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「下高萩新田」の解説
 下高萩村の北にある。東は笠幡村(現川越市)。享保一〇年(一七二五)検地を受けて成立した幕府領の新田。化政期の家数八(風土記稿)。
『新編武蔵風土記稿 高萩新田村』
 高萩新田は本村の北にあたりし地なり、四境、東は笠幡村、西南は本村、北は三ッ木村なり、戸數八軒、この新田享保十巳年萩原源八郎檢地して、貢税を定めしより御料所にて、今御代官川崎平右衛門支配せり、
        
                下高萩新田八幡神社社殿
 八幡神社(はちまんさん)  日高市下高萩新田一〇一(下高萩新田字熊野)
 下高萩新田は、享保年間、高萩村の新田として開発された。江戸末期では戸数八戸であったが、のち新田村となり、明治二二年高萩村の大字となるまで、わずか四軒で行政村を形成していた。
 古くは当所の中央部にある墓地の南側に集落があったと伝えられ、元屋敷の耕地名がある。現在、最北部には旧来からの四軒が居住し、南部に昭和三十九年から入居が始まった日高団地が広がるが、その他の土地は畑となり、武蔵野の名残ともいえる雑木林が所々に残っている。
 当社は日高団地に面した雑木林の中にあり、本殿は一間社流造り見世棚(みせだな)で、内陣には白幣を祀り、祭神は誉田別命である。
 現在の拝殿は昭和二五年に建て替えられた。それ以前は藁葺きで七尺四方のものであったという。建て替えた拝殿は、当初杉皮葺きであったが、現在トタン葺きとなっている。また、鳥居は昭和四一年に奉納されたものである。
 祀職は、氏子の平井家が携わっていたと伝えられるが、同家は二度の火災に遭っているため、古記録が一切失われ、当社に関する資料も現存していない。明治五年に村社となり、以降は、三島神社の社家が務めている。
                                  「埼玉の神社」より引用 


 当地は住宅急増地域であるのも関わらず、氏子が旧来の四軒のままでいるのは、この四軒が当地開発時からの氏子でもあり、古くからの結びつきが強く、行政的にも一体となっていたため、本家・分家の関係こそないが、一家に近い付き合いを行っていることから、ここで祭る神は氏神のように大切にされているためであろう。
因みに、其の四軒とは、「平井家」「田中家」「島村家(本家)」「島村家(分家)」という。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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田木高根神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市田木198
             
・ご祭神 木花開耶姫命 誉田別命 建御名方命
             
・社 格 旧田木村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 4月第3日曜日 秋祭り 10月第3日曜日
                  稲荷祭(稲荷講) 211
 大谷沢白髭神社から一旦「大谷沢」交差点に戻り、国道407号線を250m程南下する。「JAいるま野高萩南農産物直売所」がみえるY字路を右斜め方向に進路を移し、400m程先の十字路を左折、南小畔川左岸沿いに迂回するような進路を進むと、進路左手の河川が形成したような段丘面沿いに田木高根神社の鳥居が見えてくる。
        
                  田木高根神社正面
『日本歴史地名大系』 「田木村」の解説
 大谷沢村の南にあり、日光脇往還がほぼ南北に通る。高麗郡加治領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月、加々美金右衛門(正吉)は「大谷沢之内田木村」五五石を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田六四石余・畑四〇石余、旗本三枝領(五五石)・同加々美領(五〇石)。旗本加々美領は以後幕末まで続く。三枝領分は国立史料館本元禄郷帳では旗本野呂領、化政期には旗本山本領となっており、以後幕末まで変わらない。検地は延宝三年(一六七五)に行われた。南方にある持添新田は享保一〇年(一七二五)に検地が行われ、幕府領(風土記稿)。
        
             段丘面上の石段を登ると拝殿が見えてくる。
「埼玉の神社」による田木という地域名は、地域の南側に流れる南小畔川が嘗ては激しい流れであり、その急流を示す「激つ(たぎつ)」から来たという。一方、「日本歴史地名大系」では、東松山市田木村の紹介があるのだが、その村の由来でも、高坂台地からの水を集める急流九十九(つくも)川が東部を南流していて、この九十九川のタキ(滝)が地名の由来ではないかと解説されていて、どちらの地域も河川形態からくる由来であるという。
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高麗郡田木村』
 高根權現社 玉泉寺持、村の鎭守にて、例祭九月廿九日なり、藥師堂 村持
 玉泉寺 高根山と號す、本山修驗、篠井村觀音堂の配下なり、地藏堂 村持、

 高根神社(みょうじんさま) 日高市田木一九八(田木字高根越)
 当地は日高町東南部に位置し、南は狭山市に接している。田木の地名は、急流を示す「激つ(たぎつ)」から来たといわれ、南西から北東に流れる南小畔川は、下流に谷津・大谷沢といった地名を残すことからも、以前はこのような激しい流れがあったものと思われる。
 当社の境内は、田木の北部にあり、小畔川を挟んで集落に面している。
 創建は、社記に正徳二年三月と伝えられている。『風土記稿』には「高根権現社 玉泉寺持、村の鎮守にて、例祭九月廿九日なり」と見え、江戸期、本山派修験の高根山玉泉寺が管理していたことがわかる。また、文政三年の上屋再建棟札に、「神主杉山因幡正」と見え、修験とは別に神職の関与もあったものと思われる。
 現在の高根家は、長く本山派修験の玉泉寺として、別当職を務めていたが、明治五年に復飾し、以来神職として当社の祭祀を行っている。なお、当家の系譜は、永禄六年初代良円までさかのぼると伝え、現在まで四百年に渡り祀職を続けているという。
 祭神は、木花開耶姫命・誉田別命・建御名方命である。なお、本殿は二間社流造りで、内陣には崇敬の厚かった加賀美金右衛門源遠方により文化元年に奉納された、祭神三柱の神像が安置されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿            本殿奥に祀られている稲荷・琴比羅社
 日高市田木地域は、台東・台西・下・東。原南・原北・新田の七組に分かれていて、各組二名から四名の当番が家順に二年任期で当たる。当番は、社の祭典準備・直会準備等を行い、稲荷祭のあとの役員改選の際に交替するという。
 当地は水道が整備されるまでは、日照りになると富士見町の榛名神社に水をもらい、頂いた水を当社に供えて神職が祈願すると雨が必ず降ったといわれている。
        
             境内に設置されている「地所獻納之碑」
 この「地所獻納之碑」の碑文は、見ずらい箇所がほとんどであるのだが、最初の行に創建時期が「明徳二年(1391)」とハッキリと刻まれていた。一方「埼玉の神社」によると、この社のそれは「正徳二年(1712)三月」となっていて、「〇徳」のちょっとした違いではあるが、時期的にかなりの歴史年代のズレがある。
「埼玉の神社」では、神職である高根家に関しては、その系譜は、永禄六年(1563)初代良円までさかのぼるというので、時系列的にみると、「正徳二年」創建のほうが辻褄が合うようにも思われるが、そこは断言できない。さらなる詳しい資料の出現を望みたい。
        
                社殿から鳥居方向を望む


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴地地名大系」「埼玉の神社」「境内記念碑文」等
 

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大谷沢白髭神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市大谷沢484
             ・ご祭神 猿田彦命
             ・社 格 旧上大谷澤村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お九日) 1017
 高萩白髭神社から一旦西行し、「高萩東」交差点を左折、国道407号線を南下する。2㎞程進んだ「大谷沢」交差点を左折し、すぐ先にあるY字路を右斜め方向に進むと、進行方向右手に大谷沢白髭神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 この幟旗ポール付近に若干の駐車スペースがあるので、そこに一時的に駐車し、急ぎ参拝を行った。地域のほぼ中央を旧日光脇往還、現在の国道407号線が南北に走っているにも関わらず、国道の近距離に鎮座する社周辺は田畑風景が広がる長閑な地帯である
        
             大谷沢白髭神社の一の鳥居と社号標柱
『日本歴史地名大系 』「上大谷沢村」の解説
 郷帳類には大谷沢村と記されることが多い。中沢村の南東にあり、東は下大谷沢村。北部を鎌倉街道が南東から北西へ、ほぼ中央を南北に日光脇往還が通る。長享三年(一四八九)四月二五日、下野国の渋垂小四郎は永享の乱中に押領された「武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村」など八ヵ所に上る所領の安堵を求めて本知行の目録を作成、古河公方足利政氏から安堵の証判を与えられた(「渋垂小四郎本知行目録写」渋垂文書)。永正二年(一五〇五)二月一五日にも同文の本知行目録を作成して古河公方足利高基の証判を受けている(「足利高基袖判渋垂小四郎申状写」同文書)。
 
       社周辺の長閑な風景と完全に同化している社の参道(写真左・右)
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上大谷澤村』
 白髭社 村の鎭守なり、寶藏寺持、下同、
 神明社 山王社
 寶藏寺 辨日山辨陽院と號す、新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院の末なり、本尊十一面觀音を安ず、開山開基詳ならず、


 白鬚神社(みょうじんさま)  日高市大谷沢四八四(大谷沢字宮)
 当地は第二小畔川と南小畔川に挟まれた農業地域である。
 社の創建は社記によると明徳年間と伝え、村鎮守であった。また、社蔵文書には、寛永一五年に村民金子惣兵衛が寄附した鰐口があったと記している。
 祭神は猿田彦命であり、村人は長く明神様の呼び名で親しみ、五穀の神として祭りを続けてきた。
 別当は真言宗弁日山弁陽寺で、神仏分離まで当社を管理していた。
 本殿は朱塗りの一間社流造りで江戸後期の建築であるが、覆屋は昭和四五年に改築されたものである。改築前の覆屋は草屋根で、傷むと「差し替え」と称して村人が麦藁を持ち寄り、修理を行っていた。
 境内社は、天神社・豊受社・山王社がある。このうち、天神社は古くからの末社で、他の二社は合祀社である。豊受社はお伊勢様と称し、大谷沢・馬引沢・中沢地区が祀る社で、字西原に鎮座していた。また、豊受社は山林を持っていたが、明治末期に社が合祀されたため、跡地は開墾され当社持ちの土地となった。しかし、これは戦後農地解放のため失った。合祀前の豊受社は、間口一間ほどの覆屋の中に小祠を置いたもので、毎年正月に幣束を新たにしていた。現在の石祠は跡地から移転されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は大字大谷沢全域となる。当地は急激な人口増加はみられないが、徐々に分家で増えている地域でもある。生業は農業が多く、米作を中心としておこなっている。
 当社は村鎮守として祀られ、氏子が五穀豊穣の祭りを行っている。祭典は質素で付け祭りもないが、豊作を祈る氏子の気持ちは強いという。
 
 社殿の左側に祀られている石祠群(写真左・右)。「埼玉の神社」において、石祠の末社は四柱配置されているのだが、ここには五柱ある。但し、一番左側の石祠は、基礎石垣部分の土の汚れが見られないので、つい最近祀られたと考えられる。残りの石祠は、左から山王社・天神社・神明社・神明社。
       
 社殿前の巨木(写真左)、また鳥居前の立派なイチョウの大木(同右)は、御神木かどうかは不明だが、周囲の風景とは違う雰囲気を醸し出していたので、撮影してしまった。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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