古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

江面久伊豆神社

 久喜市江面、この「江面」は「えづら」と読み、地名由来として、 「川・入り江などの水面(江)のほとり・広がり」を意味する語から生まれたとされ、特に埼玉県久喜市江面などでは低湿地の水辺地形を表す地名と考えられている。
 この地は、新川用水路と備前前堀川の間に位置する農業地域で、その地内は、北部の本田と南部の新田に二分される。かつては、本田と新田の間には水田が広がっていたが、東北自動車道の久喜インターチェンジがこの水田の中に建設されたため、景観は大きく変わってしまっている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市江面1345
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧江面村鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 120日 白山様燈籠 7月第2日曜日 
                  秋季例祭(お日待) 
1018日 大被式  1228
「久喜菖蒲公園」から久喜・菖蒲公園通りを東行し、東北縦貫自動車道に達する信号のある丁字路を右折、その後すぐ先にある右斜め方向に伸びる路地を進むと、ほぼ正面に江面久伊豆神社の入口である一の鳥居が見えてくる。
        
                 江面久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「江面村」の解説
 北は新川用水を境に上早見村、南から西は河原井沼新田、台村(現菖蒲町)および所久喜村。騎西領に所属(風土記稿)。寛永九年(一六三二)の年貢割付状(内田家文書)によると、田方二四町七反余・畑方三六町一反余・屋敷一町七反余(以上新田分を含む)、幕府領。同一六年川越藩領になり(同年「年貢割付状」同文書)、田園簿によると田高三〇八石余・畑高一五二石余。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高九七六石余、反別は田方六一町三反余・畑方三二町九反余、ほかに新開高三九〇石余、田方二四町五反余・畑方一三町一反余があった。

 
          二の鳥居                       きちんと手入れされた参道
 当社は、加須市騎西の玉敷神社を総本社とし、元荒川流域に分布する久伊豆神社の一社で、大己貴命を祭祀とし、創建以来、江面の鎮守として祀られてきた。古くは、本社の玉敷神社、岩槻と越谷の久伊豆神社と共に四大久伊豆神社の一つに数えられたという。
 創建年代は不明であるが、当地の旧家は平家の落人で、秩父地方から来て土着したという伝説を持っており、これらの旧家によって創建されたものと推測される。近くの善徳寺が別当寺であった。
 明治6年(1873)近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、同41年(1908)の神社合祀により、周辺の5社が合祀された。なお、その内2社は後に旧地に戻されている。また合祀された神社に「白山社」があり、その例祭を引き継いでいることから、別名「白山様」とも呼ばれている。
       
                  広々とした境内
             拝殿の右側手前の建物は
江面新田集会所で、元神楽殿。
       
                    拝 殿
「新編武蔵風土記稿 江面村」
 小名 石神井 前谷 合ノ谷 河島 原 小谷 志部 橋爪
 久伊豆社 村の鎭守とす、社傍に庵を結び、社を守る者居れり、〇白山社 〇神明社 〇第六天社 〇女體權現社 以上五社善德寺持、 〇稻荷社 寶光院持ち
 善德寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、安養山彌陀院と号す、本尊阿彌陀、鐘樓 天明三年の鐘を掛、

 
  拝殿に掲げてある「久伊豆大明神」の扁額      境内に設置されている案内板

 久伊豆神社(はくさんさま)   
久喜市江面一三四五(江面字宮前)
 越谷・岩槻の久伊豆神社、騎西の玉敷神社と共に「四大久伊豆神社」の一つと並び称されるという当社は、大己貴命を祭神とし、創建以来、江面の鎮守として祀られてきた。江面の旧家は、名主であった伊呂原家をはじめとしていずれも平家の落武者を先祖に持ち、秩父から当地に来て土着したと伝えられており、当社の創建にはこうした家々が大きくかかわっているものと思われる。
「風土記稿」江面村の項を見ると、当社について「久伊豆社 村の鎮守とす、社傍に庵を結び、社を守る者居れり」と記されている。この庵についての詳しいことや、庵のあった位置については今ではわからなくなっているが、現存する文化十年(一八一三)の本殿及び拝殿の再建時の棟札に「別当善德寺住法印来賢代」と記されていることから、江戸時代の当社の祭祀には真言宗の善徳寺の僧が関与していたものと思われる。なお、当社の南側の畑は、この善徳寺の土地になっているため、その土地の一角に庵が営まれていた可能性は高い。
 神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となり、村内にあったその他の社は無格社となったため、政府の合祀政策に従って明治四十一年にはそれらの無格社が合祀された。合祀された神社は、字小谷の白山社、字相野谷の神明社、字中河原の厳島社、字川島の第六天社、字志部の女体社の五社で、第六天社と女体社はその後旧地に戻された。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社の氏子区域は、この江面の全域で、本田には上根・橋川(橋詰・川島)、新田には小谷・大原・社宮司といった集落がある。氏子は全体で400戸程。
 古くは、氏子の間では「神様が嫌うから」という理由で、小豆や麻を作る事、昆布を料理に用いることが禁忌とされていたが、江戸時代半ばごろからこの禁忌は一般生活の支障を来すようになり、延享二年(1745)正月に吉田家から発給された宗源祝詞の中に、この禁忌の解除を求める文書が記されていて、当時の氏子の生活の一端が伺えよう。
 
 社殿の左側に置かれている奉納石(力石か)  奉納石の奥に石碑等三基が祀られている。
       
        石碑三基の奥に祀られている石祠。左側から女
體宮・社宮神・志羅山。
 
  社殿右側に祀られている稲荷・〇・天神宮     境内北側奥に祀られている弁天社
                          弁天社の左側にある石祠は不明
        
                              社殿からの一風景

 氏子の間で行われる大きな行事に、「お獅子様」がある。これは、疫病除けとして春の伝染病を防ぐ目的で行うもので、騎西の玉敷神社から借りて来た獅子頭と、当社で古くからある獅子頭の二つを持って地内を回るものである。この祭りは、江面が本家と言われており、420日に行われている。また、白山様燈籠 (夏祭り)には、「江面祭囃子」や演武等が奉納されているという
 当社の祭事の中で78日に行われる「白山様」は、当社に合祀された白山社の例祭を引き継いだもので、田植え後に行う豊作祈願の祭りである。当社が久伊豆神社であり、白山社は一合祀社であるにも関わらず、「白山様」と呼ばれるこの祭りが村一番の賑やかな行事で有名であったためであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
 

拍手[0回]


青毛五柱神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市青毛1140
             
・ご祭神 天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命
             
・社 格 旧青村鎮守
             
・例祭等 元旦 御影供養 425日 大洲(おおや) 7月初酉日
                  
夏祭り 725日 祭礼 1019
 久喜市青毛地域は、栗原諏訪社が鎮座する栗原地域と埼玉県道153号幸手久喜線を境として北側にあり、北東方向に流れている葛西用水路の右岸に位置する東西に長い地域である。栗原諏訪社から一旦北上し、上記県道に戻り久喜市が一方向に西行、「青葉公園」の先にある「青毛橋」交差点を右折し、300m程進んだ突き当たり付近に青毛五柱神社は鎮座している。
 東西に長い青毛地域にあって、県道沿いは宅地化が進んでいるのに対して、社が鎮座する地域西側は葛西用水路がすぐ北側に流れ、周囲一帯長閑な田園風景が広がる地域でもある。
        
                  
青毛五柱神社正面
 久喜市青毛(あおげ・おおげ)地域は、葛西用水路(旧:古利根川)沿いに自然堤防や河畔砂丘(青毛砂丘)などの微高地がみられ、平沼などはその後背湿地の低地となっているが、概しておおむね平坦である。中島と川原に挟まれた低地(流作)は自然堤防と対を成す形で形成されており、古利根川(現:葛西用水路)の旧流路を示している。
              
          一の鳥居の手前で参道右側に建つ「五柱神社改築記念碑」
        
             鬱蒼とした社叢林の中に建つ一の鳥居
 久喜市青毛、この『青毛』の読み方は、今日において行政・郵便などでは「あおげ」が用いられているが、旧来からの住民の間では「おおげ」という発音が定着していて、米作を主体とした農業地域として発展してきた。そのため、地内では農業用水が縦横に走っていて、このうちの一本は当社の境内を横切っている。大字の中には当社のある上育毛をはじめ中村・中島・川原・本郷の五つの耕地があり、現在の氏子数は旧家を中心とした200戸余りである。神社運営も、耕地を単位として行っており、各耕地から総代は一名ずつ、年番は五名ずつ出るという。
 社名を示すように、当社には天穂日命・菅原道真公・誉田別命・倉稲魂命・猿田彦命の五柱の神々が祀られている。本殿には、元々当社の神像であった鷲宮明神像(天穂日命)と天満天神像(菅原道真公)及び弓矢を持った随身像二体と共に、字川原の稲荷神社から移された京都伏見稲荷神社別当愛染寺祈祷札と幣帛を納めた厨子も安置されている。
 
   一の鳥居の先にある青面金剛二基      神橋を越えた先に朱色の二の鳥居が見える。
 左側の青面金剛は寛文12年と刻まれている。     神橋の下には
農業用水が横断している。
       
 神橋を渡った先が境内となり、日を浴びた明るい境内の中に二の鳥居・社殿が見えてくる。

 当社はかつて鷲宮神社・天満宮・八幡様・猿田彦・稲荷神社という5つの神社が、当地域に所在していたものを含め、集められ合祀されているために「五柱」という名称がついた。このうち八幡様(字中村)・猿田彦(字中村)・稲荷神社(字川原)は1907年(明治40年)51日に合祀されている。こうした経緯から、青毛五柱神社は五柱神社(ごはしらじんじゃ)・五柱社(ごちゅうしゃ)・青毛神社(おおげじんじゃ)とも称されている。

      境内南側にある旧本殿           境内北側には社務所があり、
                        その傍に道祖神が祀られている。 
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 青毛村』
鷲宮天神合殿 村の鎭守なり、常樂寺の持、
常樂寺 葛飾郡内國府間村正福寺の末、護摩山光明院と號す、本尊大日、開山弘賢慶長十七年十月朔日示寂、當寺元は阿彌陀堂にて、行基菩薩彫刻の本尊を置き、大同二年の造立といへど、定かなる傳へはなし、堂の軒に享保三年鑄造の鐘を掛く、 十六羅漢堂

 青毛五柱神社  久喜市青毛一一四〇(青毛字上青毛)
『風土記稿』青毛村の項に「鷲宮天神合殿 村の鎮守なり、常楽寺の持」とあるように、当社は 鷲宮神社と天神社の合殿であったが、明治四十年に地内の無格社三社を合祀したのを機に、現在の名称となった。参道の脇に立つ「五柱神社改築記念碑」には、青毛の村の歴史と当社の由緒が刻まれているが、それを要約すると次のようになる。
 青毛の地名は、この地が古利根川に沿った沃野で、農耕に適し、穀物が青々とよく育つことに由来する。伝説によれば、氏を異にする一七戸の人々がこの地を理想の郷と定め、相互に協力して開拓したのが村の始まりであった。この人々は、古来、敬神の念が厚く、神社を中心としてあたかも一家のように親睦を深めていた。当社の母体となった鷲明神社は、この育毛の村の総鎮守として祀られてきた社で、その創建は鎌倉時代初期以前のことであり、文治年間(一一八五-九〇)に源義経がこの地を通過する際、利根の激流に阻まれて川を越えられなかったため、弁慶に護摩を焚かせて当社に祈願したところ、波が静まり、無事に渡りきれたという。その後、享保五年(一七二〇)三月に荘厳な社殿を建立したのを機に天満社を勧請して鷲宮天満社と改称した。更に、明治四十三年五月一日に字中村の八幡社と猿田彦社、字川原の稲荷社の三社を合祀し、これに伴って社号も青毛五柱神社と再度改められ、現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用

五柱神社改築記念碑」の内容も基本「埼玉の神社」と変わらないのだが、追加事項として、大正12年9月1日、南関東(震源地は相模湾北西部)を中心に発生した巨大地震である「関東大震災」において、当社の社殿が倒壊したため、震災の後の数年間は境内も荒廃する一方であったが、人心も落ち着いた昭和11年に再建の準備に取り掛かり、翌年には早くも拝殿の竣功、14年には本殿、15年には幣殿や社務所なども竣功し、盛大に遷座式が執り行われた、という事側も刻まれている。
 氏子の間では、当社は心の拠り所として信仰され、大切にされていたのであろう。このように、短期間で大きな事業を全うすることができたのは、氏子の方々の敬神の念が強かったからなのであろう。
五柱神社改築記念碑 原文一部抜粋」
 大正十二年九月一日午前十一時四十八分突如トシテ関東一帶ノ地大ニ震ヒ本社モ其ノ災害ニ遭フ爾來十有餘年今ヤ著ク荒廢シテ復昔日ノ観ヲ呈セズ氏子一同粛然トシテ神徳ヲ黷サンコトヲ恐レ爰ニ皇紀二千六百年記念トシテ再建ヲ企圖シ昭和十一年三月之ガ資金ノ募集ヲ開始ス遠近傳ヘ聞キ浄財ヲ寄進スルモノ踵ニ接シテ到リ〇ニシテ所要ノ金額ヲ調達スルコトヲ得タリ是ニ於テカ翌十二年二月着工奉告祭次デ地鎮祭執行五月拜殿竣工十三年境内擴張記念植樹并神橋改修十四年二月本社建築ニ着手十二月竣工十五年三月幣殿玉垣等ノ建築ヲ終リ續テ社務所改築更ニ舊本社ヲ改修シテ寶物殿ト為シ貴重品ヲ奉安ス其ノ他御神苑内ノ整備改善ヲ終リ爰ニ本月十五日ヲ以テ盛大ナル正遷座祭ヲ擧行スルコトヲ得タリ
        
                    本 殿
        
              二の鳥居から参道入口方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内改築記念碑文」等

拍手[0回]


栗原諏訪社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市栗原242
             ・ご祭神(主)建御名方命
                 (合)伊弉冉命 速玉男命 事解男命 菅原道真公 市杵島姫命
             ・社 格 旧栗原村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 421日 例祭(甘酒祭り) 1027
 久喜市栗原地域は、JR東日本・東武鉄道の2路線が乗り入れている久喜駅から東側に在り、北東方向に流れている葛西用水路が右方向に楕円を描いて南側方向に流路を変える右岸側に位置する平均標高9m程の低地帯地域である。この地域は久喜駅から近いこともあり、大部分住宅街が建ち並んでいるのだが、地域南部は住宅地が途切れて「栗原なかよし広場」というグランドゴルフに適した広場や、その周囲には田畑等の農地が未だに広がっている場所もある。
       
                  栗原諏訪社正面
               すぐ北側が住宅街とは信じられない程静かで雰囲気のある社
 因みに社の左側にあるのは嘗ての別当であった多門院の墓地。今でも寺院と社は隣接している。

久喜駅東口の北側に久喜から幸手方面へと伸びる埼玉県道153号幸手久喜線がほぼ東西に走り、幸手方向に東行し、青毛堀川、青葉公園を過ぎて700m程進んだ十字路を右折、その後は道なりに真っ直ぐ南下すると、それまでの軒を連ねていた住宅街から田畑風景が主となり、進行方向左手に栗原なかよし広場と同時に「諏訪神社入口」の看板が見えてくる。その看板通りに左方向に舗装されていない路地を進むと、広場に対して反対側にこんもりとした社叢林が見えて来て、その中に社がポツンと鎮座している。
 
 一の鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     周囲一帯広場や田畑風景が広がる中、
社号額の周囲には精巧な龍の彫刻が施されている     孤高な存在感ともいえる社叢林
       
            参道を進んだ先の社叢林の中に建つ二の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗原村」の解説
 青毛(あおげ)村、下川崎村(現幸手市)の南にあり、東は葛西用水を境に上高野村(現同上)。騎西領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によれば田高三二石余・畑高九七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一家である一橋領となり、幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)。東村境を流れる葛西用水に琵琶溜井がある。長さ四七五間・幅四七間、三分の二は当村、三分の一は上高野村の所有であった。万治三年(一六六〇)に関東郡代伊奈忠克によって幸手領用水が利根川から取水、会の川筋に合流されたが、この時に溜井が造成され、享保四年(一七一九)に伊奈忠逵・石川伝兵衛らにより掘広げられている。 

        
        二の鳥居を進んだ先で参道右側に祀られている稲荷大明神・天満宮の石碑
                 石祠の右側にある力石
 久喜市栗原に鎮座する諏訪社の創立年月は不詳だが、口碑によれば、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていて、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったのが始まりという。明治6年(18736月村社に列し、明治40年(1907530日に行われた合祀では、熊野社(字前)・天神社(字川原)が集められ、大正元年(19121213日には厳島社(字川原)が合祀された。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 栗原村』
 多門院 新義眞言宗、葛飾郡内國府間村正福寺末、明王山と號す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中鑄造の鐘をかく、 諏訪社 村の鎭守なり、稻荷社 阿彌陀堂


 諏訪社  久喜市栗原二四二(栗原字前)
 栗原の村の開発にすいては明らかでないが、慶安二-三(一六四九-五〇)の『田園簿』には、既に一村として記されている。
 当社は『風土記稿』栗原村の項に「多門院 新義真言宗、葛飾郡内国府間村正福寺末、明王山と号す、本尊不動を安ず、本堂の軒に、安永年中(一七七二-八一)鋳造の鐘をかく、諏訪社 村の鎮守なり、稲荷社 阿弥陀堂」と記されており、江戸期に多門院の境内に村の鎮守として祀られていたことがわかる。その創建の年代は明らかでないが、口碑によれば、名主の高橋家と組頭の宮崎家の両名が代官所に願い出てお諏訪様を祀ったという。高橋家・宮崎家はいずれも当主で一一-一二代を数える。
 本殿には甲冑を着けた神像が奉安されている。これは「諏訪□(大カ)明神 奉納主 武蔵葛飾郡幸手領栗原村 施主大久保惣右衛門・同汰良兵衛・勧施伊藤吉之蒸 元禄十四年辛巳(一七〇一)九月卄七日」の墨書が見られる。また、境内の石碑には「天下泰平五穀成就 鎮守安政四丁巳(一八五七)季再建四月吉祥日 武州埼玉郡栗原村」と刻まれ、この年に社殿が再建されたことがわかる。
 明治初年の神仏分離により多門院の管理下を離れ、明治六年に村社となった。更に同四〇年には字前の無格社熊野社と字川原の無格社天神社を合祀し、大正元年には字川原の無格社厳島社を合祀した。
                                                                      「埼玉の神社」より引用
        
    社殿の手前で「天下泰平五穀成就 鎮守安政四年(1857)」と刻まれている石碑
        
                      本 殿
             
              精巧な彫刻が施されている本殿
       
                    社の遠景
 当社で1027日に行われる祭典(例祭)は「甘酒祭り」とも呼ばれ、この行事は前日から当番に当たった耕地(村組)では各戸から米を集めて麹屋から麹を購入し、四斗樽二本に甘酒を仕込む。こうして出来上がった甘酒を神社へと運び、神事の後、夕刻4時頃に鉦を叩き氏子を集める。氏子はお参りをした後に当番の家で甘酒と大豆・鰌・蒟蒻の煮物をいただくというものである。

 また、氏子の間では、春秋の祭りのほか、元旦のお神酒・オオヤ(七月初酉の日)・二百十日のお神酒(9月1日)・晦日お神酒(12月31日)がある。
 特にオオヤは、当番が社頭に二基の行灯を立てて神前にお神酒を供える行事であるが、元は境内に五〇ほどもの行灯を飾り付けたという。また、この日は、氏子の各家ではうどんを打って葦(よし)の箸で食べるのが習わしであったという。その由来は、昔ある侍が戦に敗れて当地の葦の生い茂る中に逃げ込んだ際、村人がこの侍にうどんを食べさせた。その時に箸を忘れたので、そこに生えていた葦を折って代用とした。以後、七月初酉の日に氏子は葦の箸でうどんを食べるようになったと伝えられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内石碑文」等

  

            

拍手[0回]


筑西市 村田三所神社

 筑西市(ちくせいし)は、茨城県の県西地域北部に位置する市。東京都心から北へ約70km、茨城県の北西部に位置し、つくば市の北西約25 km地点の筑波山の西側にある人口95,830人(202651日 人口統計調査による)の茨城県西部における行政の中核都市である。
 地形としては、東西は約15km、南北は約20kmで、面積は205.35 km2。北東端の一部に阿武隈山系に連なる標高200mほどの丘陵地帯がある他は、ほぼ全域が標高約2060m程度の平地又はなだらかな丘陵であり、可住地面積は茨城県内の市町村中2位、市の総面積のうち約95%で居住または耕作が可能という。
 北西を栃木県と接し、栃木県南部の諸都市に近いため、通勤・通学や買い物などの行動圏は比較的、茨城県内より栃木県側に向いているといわれている。
 中心市街地のある旧下館市は元々城下町で、江戸時代以降に商業都市として発展、その後の平成の大合併期までは県西地域で最多の人口を有する市であったため、国や県の出先機関が多く置かれて県西における行政の中核となっている。
 2005年(平成17年)に13町(下館市、関城町、明野町、協和町)が対等合併して新たに「筑西市」として誕生している。
 その筑西市の行政区域内にある明野地域は、同市東南部に位置していて、筑波山を間近に望み、東に桜川、西に小貝川が流れる水と緑豊かな地域である。旧明野町の総面積は4835平方㎞、肥沃な大地に恵まれた暮らしやすい田園都市を形成している。
        
             
・所在地 茨城県筑西市村田1700
             
・ご祭神 誉田別命 武甕槌命 経津主命
             
・社 格 旧村田庄鎮守 旧村社
             
・例祭等 元日祭 節分祭 23日 嵐除祭 315日 
                  例大祭 
113
 筑波山神社から茨城県道14号筑西つくば線を旧下館市街地方向に進み、村田郵便局の先にある「村田小入口」交差点のすぐ左側に村田三所神社の北側鳥居が見えてくる。
 正直なところ、筑波山神社からの帰路、本来は筑波山から南西方向に進路をとるつもりでいたのだが、自家用車のナビは北西方向に向かうルートを指定したため、やむなくこの道で帰路を急いだのだが、結果論から言うと、このルートは行きの距離より2時間以上も時間がかかってしまい大変な目にあってしまった。但しこのような予定外な出来事があった中にあってこのような社に巡り合えたのも何かの縁と感謝し、厳かな気持ちで参拝に臨んだ。
        
                参道も空間も広々とした社
 村田三所神社が鎮座する旧明野町は、倉持遺跡などから貝塚や土器が発見されたように縄文時代より早くから開け、古代は狩や鳥羽の淡海での漁業が生活の中心であった。大和国家が成立した4世紀頃は新治国に属し、大化の改新以後は常陸国新治郡、白壁郡を経て延暦年間に真壁郡と改称された。平安時代は平将門にかかわる伝承が多く、平国香の墓と伝わる石塔が東石田にあり、承平の乱や天慶の乱の中心地であった。また、当時は石田荘、村田荘、大村荘、田中荘といった荘園が発達していた。南北朝時代は、小田、関、下妻、結城氏などの支配下におかれており、海老ケ島城は海老原右近将監輝朝によって築かれ、佐竹氏の援助を受けた宍戸義長が文禄4年(1561年)に入城してこの地域を整備した。
        
                 村田三所神社境内正面
 江戸時代に入るとこの地域は天領や旗本領になり、代官や知行によって治められ、支配者が異なる相給が殆どであった中でも名主、組頭、組が組織され、農民同志が援助しあう自治制度が確立していた。1868年の大政奉還後、常陸県、若森県を経て茨城県に編入され、明治時代中期の市町村制施行により、大村、上野村、鳥羽村、村田村、長讃村が誕生した。
 その後、大村が町制施行したのち長讃村の一部を編入(一部は真壁町に編入)し、昭和29113日にこの13村が合併して明野町が誕生したという経緯がある。
 
  鳥居の左側に設置されている社の案内板      鳥居の右側には社号表柱が建つ。

 神社由緒の案内板があるのだが、案内板の真ん中から下にかけての部分が薄くなって完全には判読できないため、筆者が要約すると、創建は古く平安時代初期の弘仁2年(811)藤原南家系の巨勢麻呂流である藤原村田によると伝わる。父は藤原鎌足から六世の藤原真作。鹿島神宮の御霊を芦間山に勧請、大欅の下に社殿を建立し、村田庄の鎮守とした。元暦(1184)の頃、大欅の下に村民が集いを雨乞いをし、龍神の石祠にて祀っている。延元の元年(1336)兵火による社殿の焼失があった。 寛永年間(16241643)村田庄にある海老江村の香取神社と、大林村の八幡神社を合祀し。以後「三所神社」と称するようなる。現在の社殿は大正元年に再建されたという。
         
                     拝 殿
三所神社由緒
三所神社
誉田別命 八幡大神 軍 神
武甕槌命 鹿島大神 武徳神
経津主命 香取大神 剣道神
弘仁二年(西暦八一一)鎌足六世孫藤原真作此の地を開拓し其の子村田に〇〇せし故に村田の名称あり 此の時鹿島神宮の御霊を芦間山に勧請し 大槻の下に〇〇神社村田の庄の鎮守とす 毎〇大祭事〇〇〇の〇〇〇〇村田〇〇〇〇は社北の丘地に今尚存す夫気集〇九條に舟と〇〇入江の〇のすみて〇〇〇〇〇まで吹く古歌に著されている 延元元年(西暦一三三六)の四月兵火に羅し本社及び摂社八坂神社鷲神社並びに〇〇〇〇〇〇神社皆灰燼〇寛永年間(西暦一六〇四)村田庄の内、海老江村 香取神祠 大林村八幡神祠水災〇〇〇当社へ合遷して三所神社〇〇〇
旧社領は先規之例に依り旧幕府徳川氏より朱印地高五石を寄付せらる。
明暦元年(西暦一六五五)社領の内より出火焼失す。同二年氏子信仰の徒の資金をもって社殿を再建す 亦寶永五年(西暦一七〇八)正一位の神位を受けた〇
後に神官滅家して其の証跡紛失すと雖も〇〇正一位三所宮筆記したる額尚 保存す。
元暦(西暦一一八四)年中大槻の下に村民集めて雨乞をしたあと、龍神の石祠あり。
明治四十三年に民家の出火の際に類焼し三度火災に合う。
大正元年現在の社殿を再建する。
昭和五十三年五月吉日  三所神社 宮司 浜田人司
大祭 一 月  元日  元日祭
    月  三日  節分祭
   三月十五日  嵐除祭
   十一月三日  例大祭
八坂神社 素戔嗚命 七月二十五日
鷲神社  天日鷲命 十二月酉の日                       案内板より引用
        
                  拝殿に掲げてある「正一位三所宮」と表記のある扁額 
           
                       拝殿に掲げてある御神木の幹の巨大な断面板
            この断面に記されている内容には、昭和54 1979 に枯れたため
          伐採されたと記述されている。推定樹齢
400年程の御神木であったという。
        
          拝殿の左側側面に置かれている
竜吐水(りゅうどすい)
 この竜吐水とは、江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具(火消しの道具)である。名称は、竜が水を吐く様に見えたことからとされる。18世紀中頃の明和元年(1764年)に江戸幕府より町々に給付されたポンプ式放水具であり、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったとされている。少なくとも国内で120年以上続いた消火道具であり、数は少ないが、現在も稼働可能な竜吐水や雲竜水は、各地に残っており、消防署のイベントなどでその稼働の様子を見ることが可能な機会があるという。
       
              境内に設置されている社の沿革碑
        三所神社沿革碑   前茨城縣知事正五位勲四等森岡二朗題額
       傳云常陸國真壁郡村田郷社藤原鎌足五世之孫巨勢麿之子真作〇〇      
       創也弘仁二季設立社殿祀武甕槌命稱鹿島宮興國五季羅兵〇應永中
       再建寛永中合祀大林八幡宮海老江香取宮稱三所宮為十六郷鎮守寛
       文九季改築社殿寶暦五季授神階正一位明治維新稱神社然神社維持
       法未〇氏子當時衆議院議員尾見濱五郎外一同慨之百方斡旋得境〇
       上地林〇〇矣是實四十三季一月也同季五月又羅災〇茲氏子一同協
       力以社木拂下代金新築神社敢雖無輪〇之美構造堅牢保存維持法亦
       得完備矣頃曰有志等相謀欲勒神社沿革傳諸不朽需文〇予予嘗承之
       宰于本郡粗知其事由諠不可〇乃敍其梗槩云爾(以下略)
       
                    本 殿
 
  社殿の左側に祀られている境内社二社     そして社殿の右側にも境内社が二社鎮座。
        
           参道は思った以上に長く、200m程あるのであろう。
     嘗てこの社はどの位の参道があったのであろうかと想像を逞しくしてしまったほどだ。
    その参道沿いに社叢林が聳え立ち、その中には旧明野町指定保存樹が三株ある。
       
      旧明野町指定保存樹と記されたケヤキの巨木が祖ビア建つ(写真左・右)
       
               旧明野町指定保存樹の案内板
 案内板の近くにある巨木の他にも巨木が二株   参道の最終地点であろう地点に祀られている
    程あるのが目視でも分かった。         社が一基あり。詳細不明。



参考資料「筑西市 沿革HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」「境内案内板」等

拍手[1回]


筑波山神社(2)

『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。
 元明天皇の詔によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。
 編纂者は不明。現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合であるという説もあり、また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説もある。
 因みに、現在各令制国で編纂されたであろう風土記は、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ伝わっているが、いずれも原本ではない。
       
                拝殿の右側にあるご神木のマルバクス(丸葉楠 写真左・右)
 マルバクスはクスノキの変種で、葉が著しく丸く、この木をもとに牧野富太郎博士により命名され、昭和15年『実際園芸』二六巻十一号に発表された。このマルバクスは当神社の他に福岡県太宰府に一本確認されているという。標本木として、市指定天然記念物に指定されている。

 常陸国風土記における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。
「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
 また、『常陸国風土記』が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。
 ところで『常陸国風土記』筑波郡には、登る人もなく供物もない「福慈の岳(富士山)」と、人々が往き集い舞い踊る「筑波岳(筑波山)」が、対比的に語られる説話が収録されている。当然、この対比の背景には、常陸国の「筑波岳」を積極的に賛美する編集側の意図があるわけであるが、比較の対象を「福慈岳」を持ち出すところに、当時の律令官人が東国における代表的山が「福慈岳」「筑波岳」であるという認識が見て取れよう。
        
  筑波山神社の拝殿のすぐ右側隣に鎮座する春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)の拝殿
        
                拝殿の奥に祀られている春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)
 この春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)及び拝殿は、寛永10年(1633年)の3代将軍徳川家光による寄進とされる。春日・日枝両社本殿は規模・構造とも同一の三間社流造で、間口2間・奥行2間。向背中央の蟇股には、それぞれ日枝神社は猿、春日神社は鹿の神使が彫られている。拝殿は割拝殿形式、桁行5間・梁間2間の入母屋造で、正面と背面に軒唐破風がつく。両社本殿と拝殿は合わせて茨城県指定文化財に指定されている。
       
 筑波山神社境内にはご神木である大杉や夫婦杉のみならずの多くの巨木・老木が屹立している。
春日神社(西殿)・日枝神社(東殿)の脇道を進むと、一際目立つ巨木があり(写真左・右)、注連縄等はないようだが、林に群生している樹木とはかけ離れた威容であったので、写真に納めてしまった。

『常陸国風土記 筑波郡』の条には、遠い昔、諸国をめぐり歩いていた神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は、「…天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになったという。

『常陸国風土記 筑波郡』原文
古老の曰へらく、昔、神祖の尊、諸神の処に巡り行でまししに、駿河の国福慈の岳に至りたまひて、卒に日暮に遇ひ、寓宿を請欲ひたまひき。此の時、福慈の神答へて曰へらく、「新粟の初嘗して、家内諱忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ。」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひしく、「即ち汝が親ぞ。何ぞも宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極、冬も夏も雪霜ふり、冷寒重襲り、人民登らず、御食を奠るものなけむ。」とのりたまひき。更に筑波の岳に登りまして、亦容止りを請ひ給ひき。此の時、筑波の神答へて曰へらく、「今夜は新粟嘗すれども、敢へて尊旨に不奉ひまつらじ」とまをしき。爰に、飲食を設けて、敬拝み祇承へまつりき。是に、神祖の尊、歓然びて謌ひたましく、愛しきかも我が胤巍きかも神宮天地の竝斉日月と共同に人民集ひ賀ぎ飲食富豊に代代に絶ゆること無く日に日に弥栄え千秋万歳に遊楽窮らじとのりたまひき。是を以ちて、福慈の岳は、常に雪降りて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往き集ひ、歌ひ舞ひ、飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(以下略く)。

 有名な話だが、古事記・日本書紀(以下記紀)には、武内宿禰(たけうちのすくね)の東国見聞やヤマトタケルの東征など、東国に関する描写がいくつか見られるが、巨大な独立峰である富士山の記述が全くない。富士山は圧倒的な存在感を放つ山であり、旅人の目印としてはこの上なく、東国に足を踏み入れた者がこれを目にしないというのは、むしろ不自然とも言えよう。事実、記紀より少し後に編纂された「万葉集」には、約130年間に詠まれた約4,500首の和歌のうち、11首に富士山が登場していて、万葉集編集以前から当時の人々に深く根付いた存在だったことが伺える
 その原因として、まことしやかに謂われている説(遠距離にあった地形上の理由、大和王権により意図的に削除された説、大和王権側の神話に融合できず、削除された説)に関して、一々論じはしない。論点からずれるからである。

 巨木の奥にある楠木正成の孫の楠木正勝の墓   楠木正勝の墓の右並びに祀られている愛宕神社

『常陸国風土記』編集・成立時点で、富士山は「不二岳」「福慈の岳」と表記されている。この風土記を編集する時点での元ネタ(書簡・書物)があったことは確かだろうし、その書簡等は、その地域に住む人々の普遍的な常識や習慣を記述しているであり、伝承・伝説の類はもっと古いであろう。(但し部分的に後年に書き換えられた可能性は否定できないが、その主文に関しては、そのまま記述されていると思われる。)
 つまり、『常陸国風土記』の説話は、風土記成立時期より、少なくとも数百年単位前の現地で語られていたものであろうと考えられ、それは所謂「記紀」成立時点前の、当地では当たり前の伝説を載せたものと推測できよう。 
 それは、この風土記に載せている倭武天皇や土蜘蛛等といった人物や集団についても同じであろう。筆者のいつもの妄想の類で失礼するが、何となく、大和王権中心の歴史史観からは外れたというか、嘗てこの地に先住していた人々・集団の歴史的認識がこの説話に生き生きと描かれているようにも思えて仕方がない。
       
                随神門から見た境内の様子

 主祭神である「筑波男神」「筑波女神」も実をいうと、ハッキリ分からないという。現在は伊弉諾尊・伊弉冊尊二柱に比定していて、その理由が、筑波山は男体山・女体山からなる双耳峰で、峰が相並ぶ山容から、自然と男女柱の祖神が祀られるようになったともいわれるのだが、この二神の人格神をあてる説が江戸時代から散見される。
一社者日本武尊、一社者弟橘比売也、俗に陰陽二柱尊 (『神祇宝典』)
伊弉諾尊在陽峯、伊弉冉尊在陰峯 (『常陸国二十八社考』)
陽峯埴山彦神、陰峯埴山姫神 (『神名帳考証』)
祭神不詳とし、伝に「伊弉諾尊在陽峯、伊弉冊尊在陰峯、通謂筑波大明神」 (明治12年(1879年)の『筑波山神社明細調書』)
 その後、六国史の記載に基づき、明治42年(1909年)1月に祭神名は「筑波男神」「筑波女神」と定められた。そして大正11年(1922年)に交替した社司により、「筑波男神・筑波女神」に「伊弉諾尊・伊弉冊尊」を併記することが定められている。なお、伊弉諾尊・伊弉冊尊とする伝承の起源・経緯に関しては詳らかでないという。
        
              筑波山口バスターミナル近辺の鳥居
        
         平野地の多い茨城県にあって一際目立つ筑波山の美しいお姿



参考資料「常陸国風土記」「筑波山神社HP」「つくば市HP」「茨城県教育委員会HP
    「茨城県神社庁HP「茨城県生活環境部生活文化課HP「茨城県観光物産協会HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」「現地案内板」

拍手[1回]