古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下新田大物忌神社

 大物忌神(おおものいみのかみ)は、山形県の鳥海山に宿るとされる神である。
 鳥海山は古代のヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。鳥海山は火山であり、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた。
 更に大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。
 鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている。
 手長足長の悪事を見かね霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市下新田1314
             
・ご祭神 大物忌神
             
・社 格 旧上新郷新田下新田鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 本祭り 715
                  
秋祭り 1015
 国道125号線行田バイパスを東行し、「下新郷(西)」交差点を右折すると下新郷天神社に到着するのだが、その手前の「下須戸(北)」交差点を左折し北上すると、周囲一帯田園風景が広がる風景の中にポツンと下新田大物忌神社が見えてくる。
        
             県道沿いに鎮座する
下新田大物忌神社
 社の東側を南北に縦断する道路は埼玉県道364号上新郷埼玉線で、平日でもけっこう交通量は多い。社の周囲には駐車スペースはなく、とはいえ県道に路駐はできない。今回は北側に流れている用水路の脇にある舗装されていない路地に駐車させ、急いで参拝を開始した。
        
                 下新田大物忌神社正面
『日本歴史地名大系』 「下新田村」の解説
 上新郷村に続く会の川右岸の村。忍おし領に所属(風土記稿)。もと同村のうちにあったが分村し、「寛文朱印留」に村名がみえる。元禄郷帳では上新郷之新田下新田と記されるが、持添新田ではない。同帳によると高六九〇石余。忍藩領で幕末まで変化なし。同藩の谷郷組。元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人五九人、馬二八、用水は北河原きたがわら堰(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には田方三五町三反余・畑方二七町六反余、本人五六(忍領石高社寺人別帳)。
        
           「羽黒神社」と表記されている社号額がある鳥居
 神仏分離後に現在の名称に神名は改称されたが、本来の名は「湯殿權現社」で羽黒系の社。
地域内の氏子の方々は今でも「権現さん」「たんなか権現」「湯殿山」と呼び親しまれているという。
        
             社殿はなく、石祠にて祀られている本殿
『新編武蔵風土記稿 上新郷新田下新田』
 下新田は古上新鄕の内なりしを、元祿九年阿部豊後守檢地のときより裂て一村とせり、故に今も上新鄕の新田と唱へ、枝鄕の如き村なれば、庄名用水領主の遷替等、すべて本村に同じ、
 湯殿權現社 村の鎭守なり、村持、

 大物忌神社(たんなかごんげん)  羽生市下新田一三一四(下新田字野分)
 埼玉の穀倉地帯下新田は元禄九年に上新郷から分村し、古くは上新郷の新田、新宿新田などと呼ばれていた。当社の鎮座する地は野分と呼ばれ、行田市との境にある。
 創始は明らかではないが、口碑に「昔この地には忍城の出城があり、古利根川を境に羽生の殿様とよく戦をしたために忍の本城に恨みを持って死んだ者が多く出て、これらの人々を祀ったのが当社である」という。また「この社を大事にしないと、偉くなってから間が悪くなる」ともいわれている。
 本殿は石祠で、「大物忌大神」の神名が刻まれた石版がはめられている。この石板の裏には「往古湯殿山大権現之神号□□置候処明治二己巳年御一新付天朝之御沙汰□相成□物□□□□□」とある。更に石板に隠された石祠の正面には、本来の社号である「湯殿大権現」が刻まれている。また鳥居には天保七年の「羽黒神社」の社号額が掛かる。
 以上のことから当社は江戸期において羽黒修験が何らかの形で関与し祀っていたが、神仏分離により出羽国一の宮の社号大物忌神社への改称を余儀無くされたものと考えられ、当時の氏子たちの苦心がしのばれる。
                                 「埼玉県の神社」より引用
 
   本殿の左側にある欠けた石碑の奥に     本殿の右側には白山神社の石碑あり
     祀られている浅間神社
        
                 参道右側に設置されている記念碑
            記念碑の奥に祀られている石祠は稲荷神社

 この記念碑には「獅子頭太鼓装束奉納」と刻まれた一文がある。これは、当社の本祭りで下新郷の真言宗大光院が管理している「獅子舞」関連の一文であろうか。『埼玉の神社』によれば、この獅子は、大正末期までは、舞が数庭伝えられていたが、今は年番によって獅子が各家を回り、悪病除けのお祓いを行うことだけとなっているという。



参考資料「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

   

 

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下新郷天神社

 現在の利根川の流れは主に江戸時代に人工的に川の流れを変えたり、改修を行ったりして、形つくられたといい、羽生市・加須市を流れる会の川は文禄3年(1594)に忍藩によって締め切られるまでは利根川中流域の主要分流の一つであった。
 江戸期以前までの利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口で向かう会の川筋と、現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年(1592)忍城主となった松平定吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同3年に利根川本流を東流させたと伝えられている。この工事は困難を極め、僧侶が人身御供として入水したという伝説も残されている。
 この締切工事は、以降徳川幕府によって、半世紀以上にわたって段階的に行われたのであるが、会の川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域の広大な新田開発が進められていった。
 会の川流域は古くから利根川の乱流の最も甚しい地帯で、自然堤防、河畔砂丘が存在し、一様な平坦でなく、高い部分を畑・宅地に使い、湿地を水田等に利用してきた。しかし、昭和30年代より土地改良事業、区画整理事業により整備され、県北の穀倉地帯・居住地として用水路、排水路が縦横に走り、往還地が良い地形をなしている。
 下新郷地域も、土地改良事業により周囲一帯長閑な田畑景観と居住区域がうまい具合に隔てられ、その豊かな農耕地と南北に通る道路の東側に点在する民家の中の自然堤防上に下新郷天神社は静かに地域の鎮守様として人々を見守っている。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市下新郷1831
             
・ご祭神 菅原道長公
             
・社 格 旧下新郷村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 12日 大祭 225日(3年に一度)
                  春のお日待 415日 秋のお日待 1015
 羽生市下新郷地域は、同市南西部にあり、会の川右岸に沿って長く延びた自然堤防上に位置している。国道125号線行田バイパスを東行し、「下新郷(西)」交差点を右折する。進行方向に対して右手は一面の田畑風景が広がる長閑な景観が広がる一方、道を隔てた左手方向はまばらながらも住宅地が点在する等、何かしら人の手の加わった活動エリアのような区別がしっかりとされているようで、目視ながらも田園風景のある区域は居住空間がある場より若干標高は低く感じる。
 右折後、750m程南下した先の丁字路を左折すると、進行方向右手に下新郷天神社の境内が見えてくる。
        
          「村の鎮守様」という表現がピッタリな下新郷天神社
『日本歴史地名大系』 「下新郷村」の解説
 会の川右岸に沿って長く延びた自然堤防上に位置する。北は自然堤防に沿い下新田村に連なり、東は会の川を挟んで砂山村・小松村。忍領に所属(風土記稿)。天正一九年(一五九一)六月、忍城(現行田市)の城主松平家忠に宛行われた一万石のうちに「新郷・下新郷・荒木・別所」の四千七二四石余があった(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領分の役高六一六石余。同一六年忍藩領となり、田園簿によると高九〇四石余、反別は田方二九町五反余・畑方七七町九反余。元禄一二年(一六九九)上知となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書など)、国立史料館本元禄郷帳では旗本七家の相給。
        
                    拝 殿
新編武藏風土記稿 下新鄕村』
 小名 花見原 東の方にあり、昔牡丹畠ありし所なりと云、
 會川 村の東を流る、川幅二間、此川に花見橋と云すこしの土橋あり、小名に出せる花見原の花みえしゆへ、此名ありと云、
 天神社 村の鎭守なり 久伊豆社 第六天社 白山社 十二所社 愛宕社 雷電社 以上七社大光院持
 大光院 眞義眞言宗、下總國匝瑳郡橫須賀村長德寺末、花見山正福寺ト號ス、本尊大日を安ず、中興開山賴辨大永元年十一月六日寂す、後大河金兵衞秀綱再興せし故、秀綱を開基と稱す、法名本光院法林宗無居士、正保三年四月三日卒す、
 子安辨天社 弘法大使作の像を安ず、此辨天は享保年中旗下の士、服部半藏幸隆、當寺へ納めしより、堂宇を建立して安置せり、傍に毘沙門・大黑の二像を安ず、鐘樓 寬政六年鑄造の鐘をかく、
 天神社  羽生市下新郷九五二(下新郷字中耕地)
 当社の鎮座する下新郷は会ノ川右岸の自然堤防上に位置する。
 社記によると「往昔該村新井美成ナルモノ中国勝地二参籠シ就中本村字中耕地二小池アリ此二一七日祈喜セラル則チ菅公ノ霊状ヲ夢ミ種々ノ奇瑞アリシヲ感得シ歓喜ノ余リ自ラ社殿ヲ勧請シ其後大永年中二到リ村内一般ノ尽力迄今ノ社殿ヲ建立ス然リ而爾来鎮守ト崇敬セリ明治五年中村社二申立済」とあり、別当を大光院が務めていた。
 本殿には天神座像を厨子に納めて安置し、座像台座底部には「武州忍領下新郷大光院講中敬者嚴誌中奉寄進御厨子斗張享保十四巳酉天正月廿五日」の墨書が、厨子底部には「別當華見山大光院」と記されている。
 明治四一年、下新郷に祀られる一二社の神社が当社の境内社として合祀されるが、このうち、字小々松の白山神社、字東の愛宕神社、字藤兵衛の鷲神社の三社は、そのまま現地に残されたり、あるいは旧氏子の要望により旧地に戻されたりしている。そのため現在合祀されているのは、字藤木の久伊豆神社・同境内社稲荷社、同字大電社・同境内社秋葉社、字小々松の白山社境内社雷電社、字東の季神社・同境内社秋葉社、同字三峰社、字中耕地の浅間社の九社である。
 本殿は一間社流造りで、建築年代は不詳であり、覆屋・幣殿・拝殿は昭和一三年の再建である。
                                  「埼玉の神社」より引用
    
       拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 下新郷は小々松・東・藤木・藤兵衛・中耕地の五耕地からなる。祭りの準備を行う番は、耕地ごとに年番制であたるため、住民のほとんどが村付き合いで氏子に入る。これは新しく入居した方々も同じようだ。
 古くから各耕地で祀られていた地蔵様は、現在では藤兵衛を除き大光院境内に集められている。地蔵様の祭りの前日、世話人は白米を五合ずつ毎戸から集めて、当日宿で串に刺した団子を作り、大光院に運び込み、参詣者に振る舞うのが通例であるという。
 
       社殿の左側には幾多の石碑や庚申塔、記念碑が並ぶ(写真左・右)。
 左より、季神社、白山神社、鷲神社、三峰神社、秋葉神社と刻印された石碑・富士仙元大菩薩・庚申供養塔・(?)・稲荷社・久伊豆(写真左)・稲荷社・大雹大神・(?)・(?)・伊勢参拝記念碑(同右)。
        
                  社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「県指定旧跡川俣締切跡案内板」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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今泉八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市今泉265
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 旧今泉村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春の例祭 41415日 秋の例祭 101415
 羽生市東側に位置する弥勒地域に鎮座する長良神社の南側には埼玉県道60号羽生外野栗橋線が東西に走り、東北受動車道を越えて1.3㎞程西行した進行方向右手に今泉八幡神社は鎮座している。
        
              県道沿いに鎮座する今泉八幡神社
『日本歴史地名大系』 「今泉村」の解説
 上羽生村・町場村から東に連なる洪積世のローム台地が沖積世すれすれまで沈下した埋没台地上に位置する。西隣の喜右衛門(きうえもん)新田村、前原村(古くは二十一人方村)はもとは当村の枝郷であった。当村の名主家である斎藤家の祖先は斎藤民部盛秋と称し、上杉謙信に仕えたが、近世以降土着して長男が当村名主となり、次男喜右衛門が今泉新田を開いたという(風土記稿)。同新田は寛永六年(一六二九)に独立して喜右衛門新田村となり、二十一人方村も化政期までには分れて前原村となったとされる(同書)。
『日本歴史地名大系』 「前原村」の解説
 今泉村の南に連なる。古くは「二十一人方村」と称し今泉村の枝郷であった(風土記稿)。田園簿によると田高一三二石余・畑高一一九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本七家の相給。享保一七年(一七三二)からと考えられるが一部が下野足利藩領となり、宝暦五年(一七五五)の同藩領村々明細帳(安田家文書)には前原村とみえる。同帳によると承応三年(一六五四)幕府領代官による検地があった。宝暦五年の高二二七石余、反別は田方一四町一反余・畑屋敷二一町三反余。

『新編武蔵風土記稿 前原村』
 前原村は正保の鄕帳國圖等に廿壱人方村と出し、元祿の改には今の名に改めて、側に古は廿壱人方村今泉村の枝鄕と記したれば、全く一村となりしは近き年のことヽ見えたり、
        
                   参道の様子
 当社は大字今泉が氏子区域であり、大きく今泉と前原に分かれていて、今泉は前西原・後西原・大口・北新田・外の内・夏見の六耕地に、前原は北前原・南前原の二耕地に分かれている。前原は江戸期の万治年間に今泉村から分村したが、明治八年に再び合併となったため、「分かれ組」と呼ばれている。
 嘗ての今泉村は、戦国時代に上杉謙信の命によって越後より羽生城に派遣されていた家臣の斎藤盛秋が、後北條氏や成田氏の攻撃で守備していた羽生城が陥落したため、この地で帰農し、その後、盛秋の長男である内左衛門が開基となって天正年間に創建された「曹洞宗鷲泉山長光寺」があり、内左衛門は後に今泉村の名主となっている。
 因みに内左衛門の弟は喜右衛門で、この人物は隣村を開発し、当初は「今泉新田」という名であったが、そののち「喜右衛門新田」と改めたという。(詳しくは喜右衛門新田八幡神社を参照)。
 謙信は上杉憲政より関東管領職を譲られたことにより関東地方領有の大義名分を得て、憲政を追い出した後北條氏と激しく戦うようになった。その過程で、上杉軍の一部の将兵は故郷の越後よりも温暖な武蔵の地を気に入り、土着する者もいた。斉藤家もそうした一族であったようだ。
 社の散策の中で、このような地域の歴史を感じることは大変意義深いことだ。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
 八幡社 村民の持 〇熊野社 長光寺持
 長光寺 禅宗曹洞派、藤井村源長寺の末、鷲泉山と號す、慶安二年寺領二十石六斗餘の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、又毘首羯磨の作と云傳る觀音あり、元は別に堂ありしと云、開山德巖正道元和三年八月二十六日寂す、是本山第三世の僧なり、開基は古へ名主を勤し左衞門と云ものにて、寬永十年六月九日死す、此家今は廢せり、前村喜右衞門新田を開きし喜右衞門は、卽ち此弟にて、家の由緖等は前村ニ辨じたれば、合せ見るべし、 藥師堂 定朝が作れる藥師を安ぜり、祕佛とす、白山社 金毘羅秋葉天神を合社とす 鐘樓 正德二年鑄造の鐘をかく、

 八幡神社  羽生市今泉二六五(今泉字大口)
 市の東部の農業地域である今泉に鎮座する当社は、戦国時代、忍領主成田氏長により、当社の南にある曹洞宗鷲泉山長光寺と共に、文禄二年四月に創建されたと伝えられる。
 祭神は誉田別命で神体は金幣を祀っている。また神宝として、今泉と前原の氏子が、金を出し合って作らせたと伝える騎乗八幡神像と同像を画いた御影軸がある。神像の台座には、製作年紀・寄進者などの記載があったというが、最近塗り直した折、記録せずに神像と台座を張り付けてしまったために、これらについては現在知り得ない。このほか寛文九年・宝永二年・元文元年・安永二年・文化六年・天保七年・明治三三年に鳥居が建て替えられたことが、昭和二年の『鳥居新築表』に載る。古くから村の鎮守として祀られている当社は、明治六年に村社になり、更にそれまで八幡社と号していたものを八幡神社と改めた。
 明治期の『神社書上げ』には、伊奈利神社二社と熊野社が合祀されているが、現在これらは当社にはなく各耕地に戻っている。
 また、近年になって北新田の秋葉神社が境内へ合祀され、耕地の祭りも、境内で行うようになっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額        社殿の左側にある「八幡神社新築記念之碑」
 八幡神社新築記念之碑
 当社八幡神社は戦国時代 忍領主成田氏長により文禄二年四月創建されたと伝えられる。祭神は誉田別尊で御神体は金幣を祀っている又神宝として今泉と前原の氏子が金を出し合って作らせたと伝えられる騎乗八幡神像と同像を描いた御影軸がある。大勢の先人氏子の宗敬の念厚く区民の守護神として祀られ幾重なる新改築を重ねながら護持承されて参りました。此の度社殿の老朽化が進み区民氏子の総意と協力を得てこゝに新築整備がなったのであります。(以下略)
       
             社殿左側に祀られている境内社・秋葉社
           その右側に祀られている社は三峰社であろうか。
 秋葉社は、今泉地域の北新田耕地で祀られている社で、近年合祀されたのだが、3月25日の梵天揚げ、11月18日は秋葉様のお祭りが、境内で行われているという。
        
             秋葉社改築記念の碑が設置されている。
 秋葉社改築記念の碑
 秋葉社には火伏せの神が祭られている。御本尊は三尺坊権現で信濃に生まれ、幼少の頃から聡明で七歳にして僧侶となり広く学問を修め後に神通を得、秋葉寺を開創する。
 静岡県の可睡寺に建立されている総本殿の碑によれば、「西暦七二〇年頃、行基菩薩が大登山霊雲院という寺を創立し、その後八〇八年項三尺坊神通力を得てこの寺に出現したので改めて秋葉山秋葉寺と名付けられた」と記されている。御本尊は鎮防火燭火伏せの神仙として尊ばれ各地に祭られている。当秋葉社もその一つである。
 この度、社殿老朽化に伴い北新田地区総意のもとに改築整備がなった。ここに記念として概要を記す。(以下略)
        
            秋葉社の左側奥に並んで祀られている石碑類
 左より青面金剛像 (庚申塔)・庚申塔・三山秩父西国坂東巡礼供養塔(*「埼玉の神社」を参考)・(?)。但し写真には写っていないが、青面金剛像の左並びには道陸神の石碑、右端に地荒神の石碑も祀られている。
       
                             静かに佇む社の一風景
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文」等
 

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筑波山神社を参詣しました。

 筑波山神社を参詣しました。        
 当日朝は雨交じりの天候故に、心配していましたが、1時間程で雨も上がり、3時間程ドライブを楽しんでから、まずは新緑におおわれた筑波山の景観を楽しみました。何といっても平野部に燦然と聳え立つ独立峰的なその荘厳な姿は、富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称され、山そのものが「神域」として崇められているのも頷けます。
        
                                  筑波山全景
 その後、三千年以上の信仰の歴史を持つ霊峰「筑波山」を御神体と仰ぐ古社であり、山腹に鎮座する筑波山神社に参詣しました。
        
                  筑波山神社 参道
        
                  筑波山神社 拝殿
  また、
帰宅途中、筑西市村田地域に鎮座する三所神社にも立ち寄り、参詣しています。
        
                 
筑西市 三所神社正面
        
                  
三所神社 拝殿

逐次ブログにて紹介いたしますので、宜しくお願いします。
  

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山崎浅間神社

 いにしえの歌人である山上憶良は万葉集で「銀(しろがね)も黄金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と詠んだように、いつの時代も子をいつくしむ気持ちは変わらないものだ。現在のように医学が進歩していかなった昔は乳幼児の死亡率は高く、「七歳までは神の子」「七つ前は神のうち」といわれ、神仏の御加護なくして育たないと言われてきた。七つを迎える帯解きの祝いまでに様々な儀礼を行い、神仏に感謝し、その後の無事な成長を祈ったという。初山の行事も重要な儀式のひとつである。
 初山は初山参り・浅間様などといわれ、生まれて初めて七月一日を迎えた子供が浅間神社にお参りする行事である。浅間神社の多くは、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社を勧請したもので小高い丘の上に祀られている。この丘は富士山を模しているもので富士塚ともいう。昔は自然の塚の頂上に神社を祀っていたが、江戸時代後期になると富士信仰の高揚により、塚を造ることが流行した。赤ちゃんが「初めて山に登る」ことから、その名前が付けられたといわれるこの行事では、その年に生まれた赤ちゃんのおでこに赤い神社印を押して、その健やかな成長を祈るとの事だ。
 子供の額に印を押してもらって御札とうちわをいただく地域の伝統的な行事だが、このほのぼのとした行事は大切に受け継いでもらいたいと真に願う次第だ。
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎744
            
・ご祭神 木花之佐久夜毘売
            
・社 格 不明
            
・例祭等 浅間様(初山行事) 71
 山崎重殿社の北側には、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林が存在し、その場所一帯は「山崎山の雑木林(緑のトラスト保全第5号地)」として、宮代町と埼玉県が購入し、さいたま緑のトラストボランティア第5号地支部(里山守り隊)を中心に、保全活動や自然観察会が行われているという。この雑木林を含めた里山の風景を愛でながら東行すると、進路左手にこんもりとした社叢林が見え、道路沿いには神明系の鳥居が見えてくる。
        
              
山崎浅間神社(赤間浅間神社)正面
 神社というよりこんもりとした古墳か塚のようなこじんまりとした社だ。後日調べたところでは以前、赤松の大木が多数あった事から赤松浅間社と呼ばれ、江戸時代後半に造られたものという。
 
 鳥居の先で参道右側に設置されている案内板     案内板の並びに祀られている二十三夜塔
                           の石碑と小宝仙元宮の石祠
 山崎浅間神社
 浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落(かさはらおとし)を眼下に見る築山の頂上に祭られていまる。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
 祭神は木花之開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
 富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(一八四三)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
 毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
 また、当社の西方には山崎の村社である重殿社があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡である山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいたことが知られている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
           境内に設置されている赤松浅間池生類供養塔
「埼玉の神社」によると、かつて
参道の南側には30坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のような景観であったようだが、昭和57年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。
        
               石階段の右側下にある石碑等
 
 参道を進んだ先には石階段があり、
その先頂上には「浅間大菩薩」の石碑がその代わりとなっている。(写真左・同右)
 浅間神社(あかまつせんげん)  宮代町山崎七四四(百間村字山崎)
 当社が鎮座する山崎は、江戸時代における百間村の南部に相当し、笠原沼落の右岸に位置する農業地域である。その村落の北端に鎮座する当社の境内は、かつては大人でも一人では抱えきれないほどの太い赤松が十数本も生い茂り、参道の脇には三〇坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のようであった。しかし、赤松は神社の賄いに充てるために昭和五十年ごろまでに順次伐採され、池も昭和五十七年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。ちなみに、「赤松浅間」の通称は、この境内の赤松にちなんだものである。
 当社には建物がなく、塚の上に建立された「浅間大菩薩」の石碑が社である。(中略)境内に文化十一年(一八一四)建立の「小御嶽再建同行中」碑があり、当時既に富士講が行われていたと推測される。
 一方、氏子の間では、境内にあった池は、当社で祀られている塚を作るために土を掘った跡であると伝えられている。このことと、『風土記稿』百間村の項に当社についての記述がないことを考え合わせると、当社が現在のような姿を整えたのは、文化年間(一八〇四〜一八)以降のことと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                  塚上からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「「宮代町HP」「さいたま緑のトラスト協会HP
    「埼玉の神社」
境内案内板」等
        

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