古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西久保町大雷神社

 淵名荘(ふちなのしょう)は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになった。
 西久保町大雷神社は、平安時代の中頃、足利又太郎兼行が淵名荘を領有するに当たり、「雷電宮」として社殿を造営したことに始まると伝えている。
        
           ・所在地 群馬県伊勢崎市西久保町3859
           ・ご祭神 大雷命 高龗命 大山祇命
           ・社 格 旧赤堀十二郷総鎮守 旧郷社
           ・例祭等 元旦祭 春季例祭 45日 秋季例祭 105
 国道50号を桐生から前橋方面に向かと「西久保」交差点がある。主要地方道伊勢崎大間々線が交わっている。その昔、あかがね街道の桐原宿にあかがね街道大原宿方面と伊勢崎街道の分岐点があり、伊勢崎方面に進んだ道である。西久保町大雷神社は西久保の交差点から400m程伊勢崎方面に向かった東側に西久保町大雷神社は鎮座している。
 現在は市町村合併で伊勢崎市西久保町となっとぃるが、当社はかつての赤堀十二郷の総鎮守であった。
        
               
西久保町大雷神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「赤堀郷」の解説
 秀郷流藤原氏の末裔で、のちに東上野の有力国人に成長する赤堀氏の本拠地。文和二年(一三五三)七月一三日の足利尊氏下文(赤堀文書)によると、赤堀三郎左衛門入道が代々の証文に任せて「上野国赤堀郷、同貢馬石村」などの地頭職を安堵されている。この時期の赤堀氏は二流があったが、東上野における反上杉勢力の一翼を担っており、宇都宮氏・新田氏などと結んでいた。享徳の乱で「深須・赤堀・太胡・山上」など東上州が戦場となった時にも(享徳四年三月一五日「足利成氏書状写」正木文書)、初期には足利成氏方に参じていたが、時綱の子政綱はのち上杉方に転じた(年欠一〇月一七日「足利成氏書状」穴沢吉太郎氏所蔵文書)。
『日本歴史地名大系』 「赤堀町」の解説
 
佐波郡の北端に位置。東は新田郡笠懸村、北は勢多郡新里村・粕川村、西は前橋市、南は伊勢崎市・東村。東方を早川・岡登用水が、西方を粕川が支流鏑木川・蕨沢川・桂川を集めてそれぞれ南流する。赤城山の南麓、渡良瀬川がつくった扇状地の西端にあたり、小丘陵地と畑地が広がる。国道五〇号が中央を東西に通る。西半部には古墳群が分布し、南方には女堀の跡が残る。近世は勢多郡の磯村、新田郡の間野村を除き佐位郡に属し、御改革組合ではほとんどが伊勢崎の組合に属した。
        
                 参道途中にある二の鳥居
 二の鳥居の先の参道右側に土俵が見える。
4月の例祭時には、子供相撲なども行われるようだ。
        
           三の鳥居の先の石段上には社殿が見えている。
        
       旧赤堀の総鎮守で、旧郷社の社格らしく重厚な雰囲気がある拝殿
 当社の
創立・沿革として、平安時代の中頃、藤原秀郷5世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行(藤姓足利氏)が淵名荘を領有するに当たり、社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝える(雷電宮)。後に淵名氏が滅亡し由良氏の領地となり、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府追討の 挙兵の際、当社に戦勝を祈願したと伝える。さらに 元亀2年(1571)領主の崇敬篤く、市場に鎮座していた当社を現在の西久保に遷座したという(『赤堀村誌』『伊勢崎佐波の神社誌』)。
        
                    本殿覆屋
 この
覆屋の中に納められている本殿は、『赤堀村誌(下)』によると、建造年代として「寛政10年(179812月領主加納氏、本殿・拝殿共に改築し、更に昭和5年(1930)に今の本殿様式に改築した。」とある。昭和3年(1927)の改築前の古写真に以前の拝殿(覆屋)が写り、内部に当本殿があったものと思われる。腰から胴、軒廻りまで嵌め尽くされた彫刻の数々や装飾性を見ると、江戸後期の神社建築の様相を伝えるが、極彩色が組物以外のすべての部材に施されており、素木造が流行する前の江戸後期の建築として、その建築様式から、18世紀後期の建築と推定する。棟札等の古資料が無く工匠は不明との事。
        
                 拝殿左側にある鳥居
 
      並んで石積上にはたくさんの末社石宮が立ち並ぶ(写真左・右)。
        
                  境内の一風景
 社の創立は平安時代中期まで遡り、時の領主が雷除けや農耕神として雷電宮を祀り、その後も領主の篤い信仰により守られてきた古社である。そして何よりもその装飾性の高さが目を惹く。軸部を構成するほぼ全ての直線材には、網代や紗綾紋、組亀甲など、さらに身舎丸柱にはグリ紋の地紋彫が施される。また腰から胴、軒廻りに多くの彫刻が嵌め込まれ、その全てが極彩色で彩られる。彫刻の細やかさだけでなく、彩色も手が込み、古くから覆屋で守られ良くその色味を残す。建造年代のさらなる究明を含め、江戸後期の当地における神社建築の装飾性の高まりや変遷を探る上で貴重な建物であるとの事だ。


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」等

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倉賀野浅間山古墳

 倉賀野浅間山古墳が所在する前橋・高崎台地は、火山性泥流堆積層(前橋泥流)により形成された台地で、北西から南東へ緩やかに傾斜している。台地は榛名山南麓に沿って東流する烏川、榛名山南東麓斜面に発し東流する井野川等の河川や支流の影響を受け開折された自然堤防が発達した幅広い微高地や後背湿地を形成し、微高地には集落跡や古墳・館跡などが立地し、後背湿地には水田跡などが数多く点在する。
 当古墳は烏川左岸段丘上にあり、烏川の形成した崖線から800m北方に位置し、西側を烏川の支流である粕沢川に東側を無名小河川に画された北西から南東に伸びる幅300mほどの微高地上に立地している。
 国指定史跡に指定されている当古墳は全長約171.5mの前方後円墳で、標高85mの平坦地上に立地している。築造は4世紀後半から5世紀初頭と推定され、県内最大の太田市天神山古墳(全長210m5世紀中頃)に次ぐ規模を誇り、ひいては関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に次ぐ第3位の規模の古墳で、築造された当時は東日本最大の古墳であった
        
             
・名  称 浅間山古墳
             
・所 在 地 群馬県高崎市倉賀野町313ほか
             
・形    状 前方後円墳
             
・規    模 墳丘長171.5m 高さ14.1m
             
・指定種別 国指定史跡 昭和248日 令和3326日(追加指定)
                                
令和31011日(追加指定)
 大鶴巻古墳・小鶴巻古墳の北西方向に位置する全長171.5mの前方後円墳。一旦上記2古墳から北上し、「上町西」交差点を左折、群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流後し350m程進んだ丁字路を左折すると、進行方向正面にこんもりとした林の囲まれた当古墳が見えてくる
 因みに「浅間山」の名称は、明治時代まで墳頂に富士浅間社を祭っていたのがその由来となっているようだ。
『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』において、この古墳は『県下では太田天神山古墳に次ぐ大前方後円墳で、墳丘全長一七四㍍、後円部径一〇八㍍、同高一四㍍、前方部前幅七八㍍、同高七㍍、幅三〇㍍の周堀をめぐらせており、形は大変優美な姿をしている。主体部は未発掘だが、五世紀代の古墳と推定されている。前述の大鶴卷・小鶴卷古墳等と共に、千数百年以前にこの地方に君臨した大豪族の墳墓と考えられる。あるいは、山ノ上碑等にその名を見せる「佐野三家」一族に関係あるかと思われるが、今後の研究に俟つ』と、この古墳の規模について若干の差異はあるものの、上記のような説明文を載せている。
        
                倉賀野浅間山古墳後円部正面
              
 令和4年度から令和6年度までの調査成果により、浅間山古墳の外堀はほぼ全周することが確認された。形状は墳丘の東西側の幅が狭く、後円部の西側が大きく外に広がっていた。外堀の一部が広がる理由については、墳丘を構築する際に追加で土が必要になったため余分に掘削したことなどが考えられるが、今後の検討課題となっているという。いずれにしても、4世紀後半頃において二重の周堀は全国的にも最先端の構造であり、墳丘の規模や形状も含めた研究から、ヤマト王権と深い関わりがあったことが推察されているという。
        
                倉賀野浅間山古墳の案内板
 国指定史跡 浅間山古墳
 浅間山古墳は、烏川左岸の台地上に位置する四世紀後半から五世紀初頭に築造された前方後円墳です。墳丘は前方部が二段、後円部が三段の築造で、斜面には葺石があります。墳丘周囲には内堀と外堀の二重周堀があります。内堀は馬蹄形で、その外側に葺石を持つ中堤(ちゅうてい)が築かれ、さらにその外側に外堀が廻っていることが確認されています。
 同一段丘上には、前方後円墳の大鶴巻古墳・小鶴巻古墳、円墳の大山古墳・庚申塚古墳などの古墳及び方形周溝墓が多数築造されており、浅間山古墳周辺地域が古墳出現期から五世紀後半にかけて充実した墓域を形成していたことがわかります。
 浅間山古墳は築造時、東日本で最大の前方後円墳でした。現在も太田市に存在する太田天神山古墳(墳丘長210m)に次いで県内第二位の規模を誇り、高崎市内で最大規模のものです。
 浅間山古墳の規模
 墳丘長 :171.5m
 前方部 :長さ66.3m、高さ5.5m
 後円部 :長さ105.0m、高さ14.1m
 内堀の幅:30.8m(前方部)、31.3m(後円部)
 中堤の幅:910m
 外堀の幅:5665m
 全  長:南北332m、東西210m(外堀を含む古墳の全体の規模)
 ※ 令和35月現在の調査結果による推定規模(以下略)
                                       案内板より引用
 
            後円部(写真左)から前方部(同右)を望む。
 倉賀野浅間山古墳は、大和の佐紀楯列古墳群の佐紀陵山古墳(奈良市・全長209m)と親和性の高い類似形の平面形を呈しており、また、近郊の下佐野遺跡群などで滑石や緑色凝灰岩を用いた玉造製作工房跡が確認されたことによって、当古墳の築造時期とほぼ同時期の、倉賀野地域に早い段階で玉造集団が移住・定着し、新たな祭祀体制への備えが存在していたことが考えられているとの事だ。
 どちらにしても、当古墳は、現在の群馬が古墳時代において「ヤマト」との関係をより強固に結び付ける歴史を物語る古墳であり、それが一地域の力の結集によって具現化された大型前方後円墳の一つである。このような重要な古墳が、その全貌を今もほぼ形状を保ったままで残存していることに大きな価値がある。市街地化が急速に進む現代にあって、これだけの大型古墳が周堀の形状も綺麗に地割として残っている点は、群馬県でも稀有といい、古墳時代からの歴史を如実に伝えることのできる歴史文化遺産といえよう。 


参考資料「
高崎市文化財調査報告書429:倉賀野浅間山古墳HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「遺跡案内板」等   
                     

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大鶴巻古墳・小鶴巻古墳

 かつて古墳時代、高崎市東南部の烏川流域の下佐野町地域から倉賀野町地域にかけての左岸段丘上には、300基近い大型の前方後円墳・円墳が広く分布しており、特に烏川左岸の粕沢川流域には『倉賀野古墳群』と総称される古墳群が形成される。近接する東方井野川下流域の古墳群ともあわせると、付近一帯は古墳時代のほぼ全期間にわたるきわめて大規模な古墳分布地帯である。
 この大規模古墳群には、突出した規模を誇る前方後円墳である倉賀野浅間山古墳を盟主墳とし、粕沢川左岸に築造時期が近接する前方後円墳である大鶴巻古墳が、右岸には同じく前期円墳と考えられる庚申塚古墳・大山古墳等が築造されている。古墳時代前期において大型墳が集中する現象は稀有であり、倉賀野古墳群の優位性が際立っているのだが、古墳時代中期になると、5世紀後半に築造されたと推測される主体部に舟形石棺を有する小鶴巻古墳等幾らかの遺跡は確認できるが、倉賀野浅間山古墳周辺において遺跡数は大幅に減少し、烏川左岸縁辺部においても同様な傾向となる。
        
            ・名  称 大鶴卷古墳
            
・所 地 群馬県高崎市倉賀野町661番地ほか
            
・形  状 前方後円墳
            
・規  模 墳丘長123m 高さ10.5m
            
・指定種別 国指定史跡(昭和248日指定)
 倉賀野神社の南西方450㍍ほどに大鶴卷・小鶴卷の二大古墳がある。『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP』による「鶴巻」という名称の由来は、弓弦を巻く弦巻であるとか、鶴舞の転訛などの説があるが定かでない。古老の話では、この辺一帯は鶴の飛来地であったというから、あるいは「鶴舞」説が正しいかも知れないとの事だが、真偽の程はわからない。
 大鶴卷古墳は、墳丘全長123㍍、後円部径72㍍、同高さ10.5㍍で、2段築成(後円部は3段の可能性有り)で葺石・埴輪を備え、幅約25㍍の周堀をめぐらせる大前方後円墳である。4世紀から5世紀前半頃の築造と推定されている。
        
                  史跡 大鶴卷古墳
              案内板は西側前方部と後円部とのくびれ部付近に設置されている。
        
                 大鶴卷古墳の案内板
 史跡 大鶴巻古墳
 この古墳は、烏川左岸の段丘上に築かれた全長一二三mの前方後円墳で平坦地に土地を二段に盛り上げてつくられています。ただし、後円部の墳頂下五mのあたりで等高線の間隔がゆるやかになる部分が見られることから三段築成の可能性もあります。後円部の径が七二m、高さ十.mであるのに対し、前方部の長さ五一m、前端幅五四m、高さ六.mと、後円部に比較して前方部の幅が狭く、未発達という特徴を持っています。墳丘のまわりには楯型の周濠をめぐらし、地割りにその痕跡が残るなどよく原型をとどめています。墳丘の表面には埴輪や葺石として用いられた川原石が認められます。主体部は明らかにされていませんが、竪穴系の埋葬施設があったと考えられ、墳丘・周堀りの形状や採集された埴輪の特徴から四世紀から五世紀初頭にかけてつくられたことが推測されます。
 所在地 高崎市倉賀野町六六一番地ほか
 指 定 昭和二年四月八日
 高崎市教育委員会                               案内板より引用

        
                   後円部を撮影
 
  後円部の楯型の周濠も綺麗に保存されていて、よく原型をとどめている(写真左・右)。

 大鶴巻古墳の出土品として、円筒埴輪や鰭付き円筒埴輪があるが、これらは黒斑を有し突帯突出率も高いものになる。これら埴輪や墳丘・周堀の形状から、大鶴巻古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけての築造と推定されている。

        
             
・名 称 小鶴卷古墳
             
・形 状 前方後円墳
             
・規 模 墳丘長87m 後円部径約50m 前方部幅約40m
 小鶴卷古墳は大鶴卷古墳の北に接し、墳丘全長約87㍍、後円部径約50㍍、前方部前幅約40㍍、幅約20㍍の周堀を有する前方後円墳で、一見するだけでは87㍍という墳丘長には正直見えない程、採土のためかなり変形しているようだが、貴重な歴史的な遺物であるため大鶴卷古墳と併せて末永く保存してほしいものである。後円部墳頂において凝灰岩製刳抜式石棺が見つかっており、これを基に大鶴巻古墳に続く5世紀後半の築造と推定されている。
        
             後円部付近に設置されている案内板
 小鶴卷古墳
 この古墳は大鶴卷古墳と共に、五世紀後半のものと推定される前方後円墳で、倉賀野古墳群を代表する首長墓の一つでもあります。墳丘全長約87m、後円部径約50m、同高約6m、前方部は前幅約40m、同高約2.5mで、幅約20mの周堀を有しています。
 後円部蓋の頂上中心部に舟形石棺と考えられる凝灰岩製の刳抜式石棺が安置されております。その石棺の蓋の部分の既掘穴(盗掘の穴)から見ると、内部には赤色塗彩がなされているとの報告もありますが、詳細は不明です。
 前方部は現在、共同墓地、畑地となっていますが、後円部高と比較して低平です。周堀は在宅化で原型の把握が困難ですが、堀と墳丘を一周していることは確認できます。出土する埴輪片は窖窯(あなかま)焼成で、外面に縦ハケの調整が施されています。
                                       案内板より引用
        
               道路沿いから眺めるように撮影


参考資料「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「案内板」等

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倉賀野神社(2)

 当社の創建時期は古く、第十代崇神天皇の御代、皇子の豊城入彦命は父帝から東国を平定するよう命ぜられ、出立の時に御愛石(亀形の自然石)を授けられた。倭大國魂神の御分霊といわれ、命は当地に至るや、御愛石を御魂代として祭祀をされたという。今もご本殿に奉安されている
 大同2年(807)、坂上田村麿は東征凱旋の途中、この地で造営舞楽を奏上した。この時の翁面が社宝として伝わる。建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となった。
        
                    本 殿
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』によると、本殿は嘉永6年(1853)年に境内の社木を伐採して工事が開始された。嘉永7年(1854)に「飯玉宮御普請仕様書」と「飯玉宮御本社木割仕様帳」が作成され本殿と幣殿の見積がされた。安政3年(1856)の倉賀野宿の大火で工事は一時停滞するも、元治2年(18653月に上棟の儀式が行われ、慶応2年(1866)に完成した。柿師による慶応元年(18658月の棟札も残る。奉納額より明治24年(1891)に屋根修繕、明治33年(1900)の杮葺改修。群馬県知事への銅使用届より昭和12年(1937)に柿葺から特許山中式檜皮形銅板平葺へ改修。令和2年(2020)には御代替り奉祝記念事業として銅板葺替工事が行われた。
 
        境内には本殿に関する案内板が設置されている(写真左・右)。
 本殿と幣殿は工匠が同じで、大工は藤岡の宮寺大炊、彫工は、高崎市の新井金十郎、勘蔵、信州の北村喜代松である。宮寺大炊は倉賀野河岸鎮座の大杉神社拝殿・幣殿の普請にも関わり、建物は現在、榛東村の八幡宮社殿として移築されている。新井金十郎は榛名神社国租社の修復で腕を振るったという。
 現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿の屋根が連続する権現造であるが、本殿は一間社流造である。軒は二軒繁垂木であり、前面は地垂木、打越垂木、飛檐垂木と3段に軒を伸ばす。内部は未確認だが、『新編高崎市史 資料編14 社寺』より内陣と外陣からなる。組物は身舎が尾垂木付の四手先組で、腰組が拳鼻付出組である。向拝は連三斗積上変形で、斗・肘木が4段ある。中備や妻飾には嵌込彫刻や彫刻板支輪があり、壁や脇障子は鏡板張である。減り張りのある彫刻配置なので細やかな彫刻も目に付きやすいとの事だ。
 現在の本殿は元治元年(一八六四)に、拝殿は明治八年(一八七五)に再建されたものだが、建築の細部にわたる彫刻は見事なものであろう。

 ところで、境内には多くの境内社・末社の外、明治の神社合併により、横町の冠稲荷社、南町の白山社、田子屋の八坂社、田屋町の大杉社等の諸社が合祠されている。また境内南西隅にある北向道祖神は文化二年(一八〇五)の建立で、現在でも香煙絶えることなく尊信を集めている。
        
             本殿の南側奥に祀られている甲子大黒天
        
            甲子大黒天の北側隣に祀られている冠稲荷社
          例祭日 初午大祭(福投げ・湯立て神事) 211
        
      冠稲荷社の並びにある神興倉で、中に「天明神輿」が奉納されている。
 天明神輿
 天明四(一七四八)年十月大坂北御堂前宮屋九郎兵衛の作。翌年九月倉賀野宿須賀七代庄兵衛妻圓の奉納になるもの。寛政二(一七九〇)年宿内渡御の記録があり、平成二(一九九〇)年秋、御大典を記念して見事修復、御神幸祭が盛大に行われた。
 この神輿は、軒四隅のわらび手が、下の垂木(たるき)から出る関西型神輿の特徴をよく伝えており、枡組下の彫物は、梅、松、菊に牡丹。四面に下がる御鏡の裏には藤原の銘が入っている。
 天明神輿は、二百年前の関西と高崎を結ぶ「ひと・もの・文化」の流れを、はっきりと示す大切な記念宝物である。
                                       案内板より引用
 
 
        神興倉の隣に祀られている天神社・末社十社(写真左・右)
 末社は左から大歳御祖社 大歳御祖神・水神社 弥都波能売神・土神社 埴安神・木神社 久久能智神・山神社 大山祇神・金神社 金山彦神 金山姫神・火神社 火迦具土神・海神社 大綿津見神・雨神社 天水分神 国水分神・風神社 級長津彦神 級長戸辺神。
         
                本殿奥にある庚申塔や石祠
       
 庚申塔・石祠の傍には高崎市指定の保護樹木であるケヤキの大木が聳えている(写真左・右)
        
            境内南側には神楽殿・倉賀野上町山車庫が建つ。
 
 神楽殿・倉賀野上町山車庫の南側並びに祀られている境内社・北向道祖神(写真左・右)
            例祭日 大祭(どんど焼き) 115
 北向道祖神
 男女の双体道祖神で、もともと近くの倉賀野古城の辺りに北向きに祀られていたと言われます。
 石の台座には「上町惣子供 施主大島三右衛門 文化二年(一八〇五)乙丑正月吉日」と刻まれています。昭和十二年(一九三七)にこの場所に移転され、今日では倉賀野神社の境内社として祀られています。
 小正月・一月十五日が例祭日で古神札お焚き上げの「どんど焼き」が行われます。米粉でつくった「まゆ玉」やスルメなどを祭りに持ち寄り、忌火にかざして一年間の無病息災を祈ります。
 仲睦まじい双体道祖神の姿から、縁結び・夫婦和合の神様ともいわれます。また安政三年(一八五六)の倉賀野宿の大火のときには延焼を食い止めた「火伏せの神」として、今も語り継がれています。
                                       案内板より引用
 
       北向道祖神の東側にある「国魂池」と呼ばれる池(写真左・右)
        
              南側にもある朱を基調とした鳥居
『日本歴史地名大系 』「倉賀野村」の解説
 東南流する烏川の左岸際から北方へ向けて大きく広がる沖積平野に位置する。群馬郡に属し、北は矢中・中里の二村、西は下佐野村。「和名抄」の群馬郡小野郷に含まれたと考えられ、長元三年(一〇三〇)「交替実録帳」群馬郡の項に「小野院 北一板倉壱宇 東一板(倉脱カ)壱宇」とあり、この郡倉の所在にちなんでのちに倉賀野とよぶようになったともいわれる。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に倉賀野三郎(高俊)の名がみえ、以後中世を通じて倉賀野氏が当地を領した。「宴曲抄」(正和三年八月)に鎌倉から信濃善光寺に至る鎌倉街道の道中に「倉賀野」がみえる。永禄五年(一五六二)九月一八日の武田信玄書状写(小田部庄右衛門氏所蔵文書)には、武田軍が攻撃した郷村の一つに倉賀野があげられている。
 江戸時代には中山道の宿として、また烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄し、中山道からは日光例幣使街道が分岐した。「寛文朱印留」に村名がみえ、高崎藩領。寛文郷帳では田方一千三八六石余・畑方五六〇石余。
 


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」日本歴史地名大系」
    「倉賀野神社HP」「境内案内板」等

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倉賀野神社(1)

 倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する古来より交通の要地である。この倉賀野という地名由来は、「穀倉地帯・物流拠点としての性格を反映した地名」という説明が現在もっとも一般的のようだが、学術的には「有力説の一つ」とみなすのが妥当という。
 歴史を辿ると、『吾妻鏡』にその名が見える「武蔵七党」の支流である「藤原姓児玉党倉賀野氏」が,鎌倉時代に移住し、当地に城砦を構え、在地名を苗字としたのがその起源とされている。
『埼玉苗字辞典』
武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行(平児玉)―秩父平四郎行高―倉賀野三郎高俊―太郎兵衛尉秀行―太郎左衛門尉行澄―行泰(弟三郎左衛門尉光行、後閑三郎政行)―平太左衛門尉頼行(弟三郎俊行)。高俊の弟四郎高義―八郎公行」
 この倉賀野三郎高俊が倉賀野氏の祖と比定され、14世紀末(南北朝期)にその子孫が倉賀野城を築城し、以後、倉賀野氏は同城を本拠として室町時代、戦国時代を生き抜くことになる。戦国期には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。
 永禄4年(1561)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565)に落城、倉賀野尚行も上杉謙信を頼って越後に逃れる。
 その後、元亀元年(1570)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗る。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕え、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐において、秀景は後北条氏武将として小田原城に籠城し、結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。
 当社は、建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となる。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1263
             ・ご祭神 大國魂大神
             
・社 格 旧上中居・下中居・下之城等十二か郷総鎮守
             ・例祭等 春季例大祭 419日 秋季例大祭 1019日 他
 かつての「中山道倉賀野宿」であった付近を東西に通る群馬県道121号和田多中倉賀野線を西行し、「上町」交差点の先にある丁字路を左折し暫く南行すると、進行方向右手に倉賀野神社の正面鳥居が見えてくる。因みに旧中山道から曲がる路地には「鎮守倉賀野神社」の社号標柱も建っているので目印として分かりやすい
        
                 倉賀野神社正面鳥居
 高崎市南部、旧中山道の倉賀野宿であった地域に位置している。地図を確認すると、社の北側には東西に旧中山道が走り、西側には古墳群があり、南側には倉賀野中学校や倉賀野城跡があり、その先に烏川が東流している。
 倉賀野一帯は古く「宮原の庄」と呼ばれたが、大国魂社(飯玉社)鎮座の地の意であるという。またこの地は古くから開発が進んだ地域であったようで、この地は一大古墳地帯で、昭和十年の古墳調査によれば、後述の浅間山・大鶴卷・小鶴卷等の大前方後円墳を含む大小二〇七基もの古墳が、わずか一平方キロの内に密集しているのである。相当古くから政治権力が存し、開発が進められたであろうことは想像できよう。
『慶応四年文書』によれば、江戸時代には「飯玉社」と呼ばれ、近郷きっての名社であり、江戸時代を通じて、上中居・下中居・下之城・矢中・中里・栗崎・台新田・佐野・下和田・和田多中・上大類及び倉賀野の計十二か郷の総鎮守であったという。
 
  正面鳥居のすぐ左手には「常夜灯、王垣と倉賀野宿」の案内板と、市指定文化財である
        「
倉賀野神社本殿」の標柱が設置されている(写真左・右)
 常夜灯、王垣と倉賀野宿
 中町下町境にある太鼓橋は享和二年(一八〇二)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。
 その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(一九〇八)倉賀野神社に合併された。
 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き常夜灯と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
 天保時(一八三〇~一八四三)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
 本社前の常夜灯は文久三年(一八六三)「三国屋つね」が寄進したもの、玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やず、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。
また元紺屋町の「糀屋藤治郎」田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
 倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀歓を物語る貴重な石造文化財である。
(狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ馬のくらがのしゅくのめしもり」
十返舎一九-                                案内板より引用 
        
           古い歴史を感じさせてくれる雰囲気が漂う境内
 現在の本殿は元治元年(一八六四)に、拝殿は明治八年(一八七五)に再建されたものだが、建築の細部にわたる彫刻は美事なものである。境内には多くの境内末社の外、明治の神社合併により、横町の冠稲荷、南町の白山社、田子屋の八坂社、田屋町の大杉社等の諸社が合祠されている。また境内南西隅にある北向道祖神は文化二年(一八〇五)の建立で、現在でも香煙絶えることなく尊信を集めている。明治の合併以後同社を倉賀野神社と改称された。
        
                  趣のある手水舎
        
           一の鳥居を過ぎて参道左側脇にある「
神饌田」
 日本国はかつて「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」と称され、お米は古来より、日本人にとって大切な穀物であり、『日本書紀』の天孫降臨の場面で、三大神勅の一つである「斎庭〈ゆにわ〉の稲穂の神勅」にも記されている。この神勅は、天照大御神が高天原で召されている神聖な田の稲穂を我が御子に与えようという内容で、稲作と神道に深いつながりあることを伝えている。
 神饌田(しんせんでん)とは、「神田」「宮田」「御供田」ともいい、神に属し祭祀に供せられる稲を作る田の事。当社では、6月下旬に御田植祭、10月中旬に抜穂祭(ぬいぼさい)が行われている。
        
                    拝 殿
 
拝殿上部にある飯玉大明神・倉賀野神社の扁額  扁額の左側には由緒等記された奉納板あり
                   
                     拝殿前に設置されている「飯玉縁起」の案内板
 飯玉縁起
 光仁天皇(七七一-七八〇)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥琢池の岩屋に押しこめた。
 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
 やがて、小幡権守宗岡が海津姫が贄番に当たる年、十六歳の海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩の称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺りへ移り、「我が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起」のあらすじである。
 この話は、十四世紀半ばに編さんされた神仏習合を説く縁起物語集『神道集』巻八所載「上野国那波八郎大明神事」によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、江戸時代初期の寛文十二年(一六七二)すでに存在していたとされる伝来の社宝であり、唱導文芸『神道集』の研究にとっても欠かせない貴重な資料である。
 そして、今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴をかなでる彫刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからである。-(彫師は北村喜代松・石川兼次郎)-
 なお、この「飯玉縁起」は「神道大系」(神社篇二十五)に収載されている。
                                       案内板より引用


(2)に続く。


参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP
    「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「橿原神宮HP」「倉賀野神社HP」
    
「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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