新町川岸町諏訪神社
上里町毘沙吐(びさど)は、神流川と烏川の合流地点の南側に位置する、埼玉県の最北端の人口ゼロの大字である。 群馬県の高崎市と玉村町に接した地域で、弘化3年(1846年)の神流川・烏川の大洪水によって、 村のほとんどが流失してしまい、対岸の新町へ移転して今は誰も住んでいない人口ゼロの大字となっていて、毘沙吐に行く場合は、高崎市を経由しなければならない。
毘沙吐の地名の由来は、村の神社で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の豊凶を占う「御歩射(おびしゃ)」と、 それを行う場所を示す「処(と)」を合わせた地名といわれている。また、金窪城の北に位置していて、 北の守護神である毘沙門天がここに祀られていたからという説もある。
かつて江戸時代の毘沙吐村は、幕府の直轄領で、60軒程の家があり、村内に三国道の渡船場や藤ノ木河岸があった。 神流川・烏川を利用して舟で貨物を運んだり交通したりする舟運や漁業が盛んで、毎年鮎1200匹・鮭42本を献上していた。
・所在地 群馬県高崎市新町282
・ご祭神 建御名方神
・社 格 旧毘沙吐村鎮守 旧村社
・例祭等 不明
新町八坂神社から自衛隊新町駐屯地を右に眺めながら玉村町方面に北東行する。その後、自衛隊新町駐屯地を過ぎたあたりから群馬県道40号藤岡大胡線となり、周囲も住宅街が建ち並ぶ景観を眺めながら、烏川に架かる岩倉橋に登る手前を右斜めに入って行くと、進行方向左手に新町川岸町諏訪神社の正面鳥居が見えてくる。
地図を確認すると、「上武大学・高崎キャンパス」のすぐ東側で、すぐ北に烏川の土手が見える場所に社は鎮座している。
新町川岸町諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「毘沙吐村」の解説
金窪(かなくぼ)村の枝郷(天保郷帳など)。烏(からす)川と神流川の合流点南部に位置し、北は烏川を隔て上野国那波郡川井(かわい)村(現群馬県玉村町)、東は黛村。村内に三国街道の渡船場藤ノ木渡および藤ノ木河岸がある。神流川はかつて西の上野国新町宿(現群馬県新町)との間を流れていたが、寛政三年(一七九一)の洪水によって南の金窪村との境を流れるようになったといわれる(風土記稿)。明治一〇年代の二万分一迅速測図では合流点手前の神流川東岸に毘沙吐村地、西岸に旧毘沙吐村と記され、現在当地は合流点付近の河原となっている。戦国期よりその名がみえるが、正保国絵図・田園簿には村名はみえず、近世前期は金窪村のうちで、元禄一一年(一六九八)に分村したという(風土記稿)。
『新編武蔵風土記稿 金窪村』
古は上武の國界を流れ、本郡毘沙吐村と、上野國緑野郡新町宿の界にて、烏川に入しに、寛政三年の洪水に瀬替り、郡内を流れ、毘沙吐村と當村の界にて烏川に入れり、幅二百間許、
上里町黛地域に鎮座する黛神社に関して「埼玉の神社」では、当社氏子区域は、近世の黛村を継承している大字黛は、烏川沿いに「川岸(かし)」と、南部の「元郷」に大別されていて、川岸は、かつて「藤の木河岸」があって、船稼ぎが主要な生業となっていたという。河岸の成立は、万治2年(1659)に黛村の百姓が毘沙吐村地内へ河岸場取り立てを願い出て、問屋を命じられたのが始まりという。文化7年(1810)の当社再建時の木札には、「天下泰平国家安隠氏子繁昌」に続いて「船中無難」の文字が見える。
『日本歴史地名大系』 「藤ノ木河岸」の解説
毘沙吐村にあった利根川上流筋にあたる烏川の河岸場。「風土記稿」の同村の項に「河岸場アリ、藤ノ木河岸ト称フ、江戸マテ水路四十六里余」と記される。河岸の成立は、万治二年(一六五九)黛村の百姓が毘沙吐村地内へ河岸場取立てを願出て、問屋四軒を命じられたのが始まりといわれる。延宝七年(一六七九)頃に洪水で毘沙吐村から黛村へ河岸場を移転するが、両村は以前同様に船稼をするよう申渡されている(藤ノ木河岸問屋文書)。宝暦八年(一七五八)上州山中領(現群馬県の神流川上流域)の材木を烏川支流の神流川で流し、藤ノ木河岸から筏に組んで江戸まで輸送した(群馬県茂木家文書)。初期には年貢米や領主物資の輸送が中心であったが、農村における商品流通の発展に伴って繁栄し、安永三年(一七七四)の河岸問屋株設定時には四軒が公認され、同四年には上利根十四河岸組合の結成に参加(当時の船問屋は四軒)、無株の問屋や船頭が勝手に輸送に携わらないように申合せた(「上利根十四河岸組合船問屋規定証文」群馬県須賀家文書)。
境内に入ったすぐ右手に設置されている案内板
高崎市指定文化財 東音頭(あずまおんど)の案内板
高崎市指定文化財 東音頭(あずまおんど)
東音頭は古くから伝承されてきた郷土芸能で横樽音頭(よこたるおんど)ともいわれている。
発祥は神流川合戦の戦死者の御霊を慰めた盆踊り唄といわれ、お囃子の鉦に享保元年(1716)とあった事からそれ以前より唄い継がれてきたと思われる。
祭文(祭祀の際、奉ずる中国風祝詞)から出たのを、明治初め現代風に唄い改めたともいわれている。
毘沙吐村(現第7区)が安政4年(1857)まで神流川の東にあった事から東音頭と称された。
大正10年新しく振り付けた踊りと共に藤岡町(現藤岡市)で披露された。代表的な唄は神流川合戦天正盛衰記で、昭和10年、NHK前橋放送局より全国に放送され、その後レコード吹き込みも行われた。
「笠付庚申塔・道標」の案内板 「諏訪神社の海老虹梁」の案内板
参道左側の奥の目立たない場所に道祖神や庚申塔などの石碑が建っている。
川岸町の名は明治12年(1879)群馬県に所属することになってからのもので、以前は武州賀美郡毘沙吐村と称し、その位置は現在地より東で、現在の河原のあたりで当時は神流川の右岸にあった。弘化3年(1846)10月に毘沙吐村村民五名が連名で笛木新町地内の、以前神流川の川敷へ移転願を申し出ている。そのあらましは、
「当村は昔より烏川と神流川両川の落合う所で、前々は石高一五◦石あった。年々本流が畑をけずり取り、石高が九九石あまり川欠になり、残高が五〇石九斗九升になってしまった。民家は六〇軒あり難渋していた。然る処六月中旬より七月上旬迄大雨が打続き'近年稀の満水にて、両河川共本流が村中に流れ込み、神流川通で家数二五軒、烏川通にて家数二軒、都合二七軒流出した。残った家もすべての家が、家の中の諸道具を隣村々へ流されてしまったので村中で引っ越すことにきまったが、その日から住む場所もなく困っている。そこで上州緑野郡笛木新町宿地内で以前は神流川河川敷であった所に広い土地がある。この地に村中で住みたい……後略」
とある。やがてこれが認められ、安政5年(1858)までに神社・寺・墓地まで移転が完了した。その後、毘沙吐村の所管はしばしば変り、慶応4年(1868)6月大宮県に、同年10月に岩鼻県に編入、明治4年(1871)入間県、明治6年(1873)熊谷県、明治9年埼玉県、そして明治12年(1879)11月群馬県新町駅に移籍、この時から川岸町と改称したという。
参道を進んだ左側に建つ「沿革之碑」
この「沿革之碑」は、昭和10年(1935年)の建立で、延長3年(925年)に毘沙吐(びさど)村に創建されたと伝わることから、弘化3年(1846)に村を襲った大洪水のために境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築した等、細やかな沿革を刻印されているようだが、所々見ずらい為、このような簡潔な説明にかえさせて頂いた。
境内に聳え立つご神木
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 毘沙吐村』
烏川 村の北國界にあり、川幅五六十間、此川に渡船場あり、三國海道の掛れる所なり、又河岸場あり、藤の木河岸と稱す、江戸までの水路四十六里餘、
諏訪社 〇稻荷社 以上二社、村の鎭守にて、龍光寺持、 末社 大杉明神 水神
龍光寺 禅曹洞派、金窪村雲陽寺末、藤木山と號す、開山文應は本寺四世の僧にて、享保八年示寂す、本尊釋迦を安ぜり、〇藥師堂 前寺の持、
江戸期に(黛)村鎮守であった諏訪社は、かつて当地の名主を務めた小暮家の先祖が信濃国上諏訪から移り住む際に、諏訪神社を守護神として勧請したのが始まりと伝わる。本殿に納められた幣帛筥には正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から正一位を拝受したことが記されている。寛政元年(一七八九)には烏川決壊のため旧社地及び社殿が流され、文化七年(一八一〇)に字東耕地に遷座したという。
「埼玉の神社 上里町 黛神社」の項より引用
本 殿
社の本殿は宝暦年間に造営されたもので「海老虹梁」部の彫刻は素晴らしいとのことだ。
諏訪神社の海老虹梁
この神社は延長三年(九二五)毘沙吐(びさど)村(埼玉県上里町)に造られたと伝えられます。弘化三年(一八四六)に村を襲った大洪水のために境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築されたと言われます。社殿は宝暦年間(一七五一〜六四)に造営され、中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社が置かれています。建築は精巧を極め、特に海老虹梁(エビの様に湾曲した梁)の「ぶどう」と「りす」の彫刻は、桃山様式を窺わせます。
「境内案内板」より引用
社殿奥に祀られている末社石祠群(写真左・右)
石祠群のすぐ右側にある笠付庚申塔・道標
笠付庚申塔・道標
人体には三種の虫(三尸 さんし)がいて、六十日ごとに来る庚申(かのえさる)の夜寝入った人体を抜け出し天帝に日頃の罪業を報告すると言われます。三尸が登れない様に寝ずに酒盛り飲食をして夜を明かし、治病・長寿を得る庚申待(こうしんまち)という行事がありました。この庚申待を記念として建てたのが庚申塔です。
庚申塔の正面には「正徳二年 本ふじの木 奉建立庚申供養 施主村中 辰十月十日」、そして右側面に「従是(これより)右本庄宿」、左側面に「これより 左 加し加い道」と刻まれています。このことから、道標として街道の辻に建てられたことがわかります。「従是本庄宿」と刻まれていることから、安政七年(一八五七)まで神流川の東にあった毘沙吐村が、度重なる洪水で新町に村移りする以前に造立され、村移転の際に当所に移建されたことを示しています。
「境内案内板」より引用
社殿右側に祀られている古峯社、その隣には山岸町 山車庫
境内の一風景
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」
「埼玉の神社」「ぐんま地域文化マップHP」「境内案内板」等
