間鎌稲荷神社
・所在地 埼玉県久喜市間鎌159
・ご祭神 保食命
・社 格 旧間鎌村鎮守 旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
間鎌八幡神社から北西行すると500m程、「間鎌稲荷会館」の東側隣に間鎌稲荷神社は鎮座している。
間鎌稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌村」の解説
松長村の南東に位置する。天正一七年(一五八九)五月晦日の某印判状写(武州文書)によると、先年下総関宿(せきやど・現千葉県関宿町)で戦功があったとして巻島主水助が「間釜之内にて十貫文」を小田原北条氏(氏照か)より宛行われている。田園簿に村名がみえ、田高九石余・畑高一〇八石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一四一石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっており、天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)などでも一橋領。
開放感のあり境内も手入れの行き届いた社
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌村』
稻荷社 村の鎭守なり、村持、
稲荷神社 栗橋町間鎌一五九(間鎌字砂畑)
当社は、栗橋町の中央や北西寄りの間鎌にある。間鎌の地名は、島の中の淵を表す、あるいは淵のあった所であるなどの説がある。
神社の辺りの集落を本田と呼び、当地の草分けで「長屋門」の家号を持つ籠宮(こみや)家がある。当社は籠宮家の先祖が氏神として祀ったものを、後に本田の鎮守にしたものであるという。口碑に「籠宮本家に屋敷神がいないのは本田の鎮守に祀ってしまったからだ」とある。籠宮家については明らかにできないが、同家のある耕地は本田のうち砂畑という所で、八軒で入植したと伝えている。
『明細帳』に「元祿十丁丑歳(一六九七)十二月中除税地トナリ鎮座有之、其ノ前鎮座ノ年暦干支記録伝聞等詳ナラズ」とある。
当社の本殿棟札に「奉再建稲荷大明神社一宇 右天下泰平国土安全氏子安隠也 天明八戌申歳(一七八八)九月 武州葛飾郡間鎌村氏子中 遷宮導師迎盛院快興」がある。これによると、当社は字本田の鎮守というよりも、大きく間鎌村の鎮守であったと思われる。
嘉永三年(一八五〇)、当所氏子中奉納の農作業風景を描いた絵馬は、牛での耕作・田植え・草取り・刈り取り・振り棒打ち・風選(ふうせん)・懐詰めと、順序を追って描かれ、往時の様子をうかがわせる。
なお、境内には寮と呼ぶ建物があり、阿弥陀如来と不動明王を安置している。
「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」によると、当社の祭りには「おおぜいれ」と「こぜいれ」があり、各々「大祭礼」「小祭礼」の意味とも思われ、「おおぜいれ」は間鎌全体の祭りであり、「こぜいれ」は字本田のみの祭りであるという。この区別の起こりは、当社が本田の鎮守であると共に間鎌全域の鎮守としての位置付けられていることに関係するとみられるが、明治期に村社となったことによるものかそれ以前かは不明である。
「おおぜいれ」は、4月15日の春祭りと10月15日の秋祭りをいい、秋祭りは特に「秋のおおぜいれ」と呼んでいる。春秋共に本田の当番が赤飯を炊き、本田の氏子が上げる赤飯と一緒に神前に供え、これを下げて子供たちにお供物として配る。また、直会には間鎌全戸が参加する習わしがある。因みに直会の会場は、昭和34年に境内に大ケヤキを売却し、稲荷会館を建ててからは、こちらで行っている。
水塚上で拝殿前左側に祀られている地神尊
地神尊の奥に見える建物は、阿弥陀如来と不動明王を安置している「寮」であろうか。
一方、「こぜいれ」は、初午や3月17日の地神尊をいう。初午は、子供達を集めて太鼓をたたかせ、菓子を配り、大人たちは当番を中心に、神前でお神酒上げと称して神饌(しんせん)とお神酒を供えて拝礼し、稲荷会館で直会を行うという。また、地神尊は、境内にある石祠「地神尊」を祭るもので、作神として敬い、お神酒上げと直会をするという。
稲荷会館の南側に隣接して祀る幾多の供養塔や地蔵様
左から念仏供養塔・地蔵様・十九夜塔・甲子待供養塔・光明真言供養塔
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
