古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瓜田ヶ谷稲荷神社・愛宕神社

瓜田ヶ谷稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県白岡市瓜田ヶ谷214
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧瓜田ヶ谷中通組鎮守・旧無格社
             ・例祭等 初午 2月 十日祭り 310
 瓜田ヶ谷諏訪神社から一旦姫宮落川方向に南下し、すぐ先の路地を右折、長閑な農道を300m程進んだ先にある十字路を右折すると、すぐ右側にこぢんまりとした稲荷神社が見えてくる。
       
                 瓜田ヶ谷稲荷神社正面 
       
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 瓜田ヶ谷村』
 諏訪社 村の鎭守、觀音寺の持、下同じ、〇愛宕社 〇稻荷社
 觀音堂 新義眞言宗、新井村安樂寺末、慈眼山と號す、開山宥範寶永六年五月二十八日寂す、本尊十一面観音を安置せり、寮 不動を安ず


 稲荷神社  白岡町瓜田ヶ谷二一四(瓜田ヶ谷字中通)
 瓜田ヶ谷はかつて埼玉郡百間領に属し、瓜田ヶ谷の「爪」は百間領の隅に位置していたことを意味する「ツマ」が転訛したものとされている。
 村の開発年代は明らかではないが、賀島・八木橋・富沢・板垣・斎藤の五軒が草分けであると伝えられる。『風土記稿』によると、寛永五年(一六二八)に当地の検地が行われた。また、延宝八年(一六八〇)の「岩付領内村名石高家数人数寄帳」(吉田家文書)には、家数三二戸と載る。
 当地には、中通・新田・上組・原組・下組の五つの村組があり、このうち中通の鎮守として祀られているのが当社である。拝殿の正面には「正一位稲荷大明神」の社号額が掛かり、本殿には金幣を筥に納めて奉安する。その創建については明らかではないが、『風土記稿』によれば、別当であった真言宗慈眼山観音寺は、開山の宥範が宝永六年(一七〇九)に寂している。
神仏分離により別当観音寺から離れた当社は、社格制度に際し無格社とされた。

 祭神は倉稲魂命である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿に掲げてある「正一位稲荷大明神」の扁額
 氏子は瓜田ヶ谷の村組の一つである中通りで、『明細帳』では「崇敬者五拾二人内戸主九人」と載っており、現在の戸数は15戸程。3月の「十日祭り」は中通組の重要な祭りで、氏子全員が神前にそろい参拝する。その後、氏子の一軒を宿にして集まり、祝宴をお紺った後にその年の組長や班長の役員選出を行うという。因みに、「十日祭り」で宿を決める際には、東から順次西へ家並み順となっているようだ。
 瓜田ヶ谷の鎮守は諏訪神社であることから、中通組の人々は元旦にはまず諏訪神社に詣で、次に当社に参詣するのが通例であるという。


【瓜田ヶ谷愛宕神社】         
        
             
・所在地 埼玉県白岡市瓜田ヶ谷401
             
・ご祭神 火之迦具土神(推定)
             
・社 格 旧瓜田ヶ谷新田組鎮守・旧無格社
             
・例祭等 祭礼 415
 瓜田ヶ谷稲荷神社から直線距離にして400m程北西側に鎮座している愛宕神社。瓜田ヶ谷「新田」で組の鎮守として祀られてきた社である。
        
                 
瓜田ヶ谷愛宕神社正面
 社殿は、高さ2m程の盛り土の上に建立されており、その周囲は現在杉を含めた雑木林となっている。そのため、当社の境内は子供たちの格好の遊び場であり、氏子の間では「神様は子供がよくなじむ」とか「愛宕様で遊ぶと怪我をしない」といわれてきたという
        
                    拝 殿
 愛宕神社  白岡町瓜田ヶ谷四〇一(瓜田ヶ谷字荻原)
 当社がこの地に勧請された時期は定かでないが、当地の草分けの一人で永代総代を務める家は、「お友様」と呼ばれ、武士であった先祖が当地で帰農したとの伝えがあり、当主で一六代目となることから、恐らくは近世の初期にこの地を開発するに当たって草分けたちが守護神として祀ったのが当社の創建であると思われる。江戸時代までは、観音寺という真言宗の寺院の持ちであったが、当社の境内の東隅にある薬師堂(通称は「寮」)にいた僧が祭祀にかかわっていた時期もあったらしく、堂のそばの共同墓地には元禄から享保(一六八八〜一七三六)にかけての僧の墓石数基が残っている。
 神仏分離によって当社は別当の観音寺から離れ、地域住民の手で管理されるようになった。社格は無格社であったが、住民の厚い信仰があったことから合祀の対象となることもなく、今日に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 当社は新田の組の鎮守であるが、新田の住民のみならず、他所からの参詣者も多い。とりわけ、古くから「お腹に御利益がある」といわれており、腹が痛む時には境内にある杉の皮をむしり取って患部に当てておくと治るといわれている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等


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瓜田ヶ谷諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市爪田ヶ谷585
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧爪田ヶ谷村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祭礼 727
 白岡市爪田ケ谷(つめたがや)地域は、市東部に位置し、大宮台地慈恩寺支台にあり、地域の中央を東西に姫宮落川が流れ西・南で上野田・下野田、北で南埼玉郡宮代町西粂原・東粂原、東で同町逆井に接している。爪田谷のツメはツマの転じたものと思われ、ツマは隅の意味。また当地の水田は田植えをしない直播を行う「摘田(つみた)」が行われたので、これがなまって「つめたがや」との説もある。爪田ケ谷の笠原田んぼにも 堀上げ田があった。現在、笠原田んぼ付近は東武動物公園となり、かつての面影は少なくなっているという。
 この
東武動物公園の西ゲート手前に瓜田ヶ谷諏訪神社は鎮座している。
        
                 
瓜田ヶ谷諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「爪田ヶ谷村」の解説
 姫宮堀川の流域に位置し、南は下野田村、西は同村と上野田村。「ツメ」は隅を意味し、「ツマ」の転訛したものとみられる(埼玉県地名誌)。大宮台地慈恩寺支台にあり、北・東は開析谷が深く潜入し、溺れ谷を形成している。笠原沼用水・爪田ヶ谷堀・野牛高岩落堀が流れる。百間領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定される(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一八石余・畑高四九石余、同藩領。
        
    参拝日は雲一つない冬空の快晴日、参道一帯日差しが眩しく明るい社という印象

 爪田ヶ谷諏訪神社の創建年代は不明であるが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、寛永5年(1628)に検地が実施されたから、その頃には既に存在していたものと推測される。当地の近くには笠原沼があり、その景観があたかも諏訪湖がある諏訪地方に似ていることから、諏訪大社より分霊を勧請して創建されたという。明治初年、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
       
      参道右側に設置されている社の案内板と文化財の大杉を記している標柱
 諏訪神社
 南埼玉郡白岡町大字爪田ヶ谷
 諏訪神社は当地の鎮守として村民の崇敬を集めているが、その由緒は不詳である。祭神には建御名方命が祀られている。
 長野県の諏訪大社を総本社とする諏訪神社は、全国的に分布しており、爪田ヶ谷の諏訪神社もその分社として祀られたものと思われる。
 また、この神は古くは狩猟の神とされてきたが、次第に農耕の神、あるいは武神として崇拝されるようになった。
 社殿裏に鬱蒼と茂る杉の大樹は町随一で、町の天然記念物に指定されている。また、社殿をとり囲むナラやクヌギ、ソロなどの木々が暗い神社の杜をつくり、古社の風格を偲ばせている。
 昭和六十三年三月  白岡町教育委員会                    案内板より引用
        
           案内板等の並びに建つ伊勢参宮記念碑と手水舎
        
                    拝 殿
 諏訪神社  白岡町爪田ヶ谷五八五(爪田ヶ谷字諏訪)
 爪田ヶ谷の開発は明らかでないが、賀島・八木橋・富沢・板垣・斎藤の五軒が草分けであると伝えられる。『風土記稿』によると、寛永五年(一六二八)に当地の検地が行われた。また、延宝八年(一六八〇)の「岩付領村名石高家数人数寄帳」(吉田家文書)には、家数三二戸と載る。
 当社の鎮座地は、爪田ヶ谷の中でも高台に当たり、かつては南東に広がる沼(現在は埋め立てて東武動物公園になっている)を望める場所であった。口碑によると、この辺りの景観が信濃国の諏訪の地に似ていることから、沼を諏訪湖に見立て、その辺りの高台に諏訪大社の分霊を奉斎したことに始まるという。
『風土記稿』には「諏訪社 村の鎮守なり、観音寺の持」とある。これに見える観音寺は太田新井村の真言宗安楽寺の末寺で、開山の宥範が宝永六年(一七〇九)に寂している。本寺の安楽寺がある太田新井村には鎮守として村民持ちの「諏訪社」が見えることから、当社の勧請に安楽寺がかかわっていたことも考えられる。ちなみに、現在爪田ヶ谷の人々は安楽寺の檀家が多い。
 明治初年の神仏分離を経て、当社は村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用 
       
            本殿内に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
 爪田ヶ谷の諏訪神社の社殿を取り囲むようにスギの古木が並ぶが、ひときわ大きく社殿のすぐ脇にそびえ立つ1本が指定樹である。落雷や酸性雨の影響も心配されるが、社叢(しゃそう)全体としては、他の落葉広葉樹などと相まって比較的健全な状態を保っている。
・種   別 白岡市指定天然記念物
法   量 幹廻3.6m、樹高24.1m
指定年月日 昭和56111
        
                    本 殿
 建御名方命を祀る当社は「お諏訪様」の通称で呼ばれ、爪田ヶ谷の鎮守として崇められている。氏子区域は爪田ヶ谷一帯で、その中に、中通・新田・上組・原組・下組の五つの村組で構成されている。また、氏子の間では「お諏訪様は百姓の神様」といわれ、五穀豊穣のご神徳が語られている。それゆえに「商売は当地では成り立たない」ともいわれてきたという。
        
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
      

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下野田鷲宮神社


        
            
・所在地 埼玉県白岡市下野田943
            
・ご祭神 天穂日命(推定)
            
・社 格 旧下野田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 410日 夏祭り 728日 二百十日 91
                 
お日待 1019
 上野田鷲宮神社から東行し、姫宮落川右岸で埼玉県道65号さいたま幸手線に合流する丁字路を右折する。その後、久喜警察署・下野田駐在所が見える「下野田」交差点の先の押しボタン信号のある丁字路を右折、400m程進んだ先を右折すると下野田鷲宮神社が見えてくる。地図を確認すると、「白岡市立菁莪中学校」の道路を挟んだ北側に位置しているようだ。
 境内は広く、敷地内にある下野田集会所(社の社務所も兼任しているようだ)周辺に駐車してから参拝を開始した。
        
                 下野田鷲宮神社正面
 白岡市下野田(しものだ)地域は、隼人堀川と姫宮落川の間にあり、北は上野田地域と複雑に交錯している。地域内には黒沼用水・笠原沼用水が流れ、南北に日光御成道が走り、県指定文化財である一里塚がある。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられ、古くからあるこうした交通路に沿って村落が発達してきた地であった。日勝地区に属し、『白岡町史』によれば、下野田は上野田とともに「野田村」と呼ばれていた。昔は騎西領に属し、上、下に分村したのは享保年間と考えられる。野田の意味の詳細は不詳であるが、「高燥(こうそう)の原野(土地が高く、低温の地)」の意味と考えられる。
 明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となった。
      
             社の正面近くには、案内板が設置され(写真右)、その案内板の中に
                     「女孝心」の石塔(銅左)の話も載せている。
下野田鷲宮神社
 鷲宮神社は大字下野田字宿赤砂利に位置し、祭神は天穂日命を祀ります。また、明治一〇年の創建とされる稲荷神社(祭神は倉稲魂命)を境内社として祀っています。
 当社の由緒について詳細は不詳ですが、江時代に編さんされた 『新編武蔵国風土記稿』には、「鷲明神社大光院の持、下野田村の鎮守なり」と記されています。なお、大光院は、明治年間に廃寺になっています。
 鷲明神社とは鷲宮町鷲宮神社を分社したもので、町内には上野田、岡泉、寺塚地区でも祀られています。
 境内には多くの記念碑や石塔が奉納されています。なかでも鳥居の側に建立されている天保二年(一八三一)九月銘の不二道 (富士講)の人々によって奉納された「女孝心」の石塔は、当時の民間信仰を知るうえで貴重な資料です。
石塔の右側面には、
「あしき事見る事いらす
  聞事もいわぬこえか
   すくに孝心  三志」
 と記されています。
 なお、三志とは不二道(富士講)の創始者で現鳩ヶ谷市生まれの小谷三志のことです。
 平成十五年三月 白岡町教育委員会。                   境内案内板より引用
        
                  神明系の一の鳥居
        
下野田のほぼ中央にある鎮守で、祭神は天穂日命(あめほひのみこと)。
        
                                    二の鳥居
 当社の境内には、昭和42年に地元の公民館兼社務所として「日勝農民センター」が建設されているが、この「日勝」とは白岡市の前身となった村の一つであった日勝村の村名を採ったものである。日勝村は、明治28年に岡泉・実ヶ谷・千駄野・小久喜・上野田・下野田・爪田ヶ谷・太田新井・彦兵衛の九か村が合併して成立した村で、『日勝』という名は、日清戦争における日本軍の連勝を記念し、これを永遠に銘記しようとの主旨で付けたものであるという。
        
                    拝 殿
 鷲宮神社  白岡町下野田九四三((下野田字赤砂利)
 当社が鎮座する下野田は、元は隣接する上野田と共に一村であったが、江戸時代の初期から中期にかけて分村したものと思われる。地内には鎌倉街道中道が通り、また、戦国時代ごろに成立したと推定される「市場之祭文写」に「武蔵州太田庄野田市」とあることから、室町時代には既に村が相応の形を整えていたものと推測できる。
 上野田・下野田は各々で鷲宮神社を鎮守として祀ってきた。下野田の鎮守として祀られてきた社が当社であるが、『風土記稿』では、下野田村の項ではなく、上野田村の項に「鷲明神社 持前に同じ(注・大光院持ち)、下野田村の鎮守なり」と記載されている。このように、当社が上野田村の項に記されているのは、上野田と下野田ではその境界が複雑に交錯し、しばしば変更もあったためで、両村の境界付近に位置する当社の境内は、『風土記稿』が編集されたころは上野田の内に含まれていたものと思われる。なお、上野田の鷲宮神社は、古くは高祖明神社と称しており、『風土記稿』にも「高祖明神社」と記されている。
 当社の創建を伝える文書などはないが、口碑によれば、鷲宮町(現久喜市鷲宮)に鎮座し、かつての太田庄の総鎮守であった鷲宮神社の分霊を祀ったものであるという。明治六年二村社となり、以後、伊勢参宮や皇紀二六〇〇年などの機会に氏子が石造物を奉納し、境内の整備を進めてきた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
   社殿の左側に祀られている境内社             社殿の右側手前には石碑二基あり
     稲荷神社・竈三柱大御神
 竈三柱大御神は、「かまど神」とも称し、竈・囲炉裏・台所などの火を使う場所に祀られる神である。火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。竈神、久那土神とも呼ばれることがある。
 日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られ、一方、神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もあるという。
        
                   境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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上野田鷲宮神社

 
        
             
・所在地 埼玉県白岡市上野田535
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧上野田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 秋祭り 919
 白岡市役所から埼玉県道78号春日部菖蒲線を南下し、白岡市総合運動公園が正面に見える「南中学校入口」交差点を左折する。その後、隼人堀川に架かる「赤砂利橋」を越えて160m程先にある丁字路を左折し、そのまま道なりに北上すると上野田鷲宮神社の一の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居のすぐ脇に駐車場らしき場所があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                 上野田鷲宮神社正面
     一の鳥居から先に朱を基調とした二の鳥居があり、その後、比較的長い参道が続く。
『日本歴史地名大系』「上野田村」の解説
 隼人堀川の左岸にあり、西は寺塚村・千駄野村、北は高岩村、東は下野田村など。飛地が彦兵衛村にある。日光御成道が南北に貫通、笠原沼用水・高岩落・姫宮落川・隼人堀川が流れる。大宮台地慈恩寺支台に位置し、地内東部の茅場は茅葺屋根の材料供給地として利用されてきた(明治一六年迅速測図)。戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄野田市」がみえる。百間(もんま)領のうち。享保(一七一六―三六)の初め頃まで下野田村と一村であった(風土記稿)。
        
                    二の鳥居
 白岡市上野田地域は、市中東部に位置する。『風土記稿』において当初は上野田村と一村であり、野田村は江戸期の元禄~享保以前は埼玉郡百間領に属していたが、享保(171636)の初め頃に分村したという。昔から下野田地域との境界が入り乱れているために、例えば、下野田の鎮守社である鷲宮神社は上野田の地域内になってしまっている。
『新編武藏風土記稿 上野田村』
 元禄改定の国図郷帳には、上下を分たず、たゞ野田村と記したれば、分村せしは近き年のことゝ見えたり、昔は岩槻城附の地なりしを、前村と同く延享四年(一七四七)一橋殿の領地に進られしといへば、もしくは此頃より上下の二村になりしにや(中略)東西凡十七町、南北十六町許、されども上下一村なりし地なれば、詳に辨別し難し、
 おおむね東・南で下野田、東で爪田ケ谷、西で寺塚、南で岡泉、北で高岩・新白岡三丁目および南埼玉郡宮代町西粂原に接している。
        
             二の鳥居を過ぎた地点での参道の様子
 社の北側一帯には「宮山団地」が都市計画的に整然と立ち並んでいる。写真でも、参道の右側は、昔からの竹林が続いているが、左側は一戸建て住宅が建っている。
上野田の地域内は、第一自治会と第二自治会に分かれ、第一自治会は、古くからの集落である宮山・西ヶ崎・上原・下原等と、戦後開発された桜丘・緑丘からなっていて、総代は旧家の五軒が世襲で努めている。それに対して第二自治会は、戦後開発された宮山団地だけであり、総代は自治会長が兼任しているという。
        
                参道をすぎた境内の様子
   
  参道の両側にある灯籠と境内社・三峰神社         三峰神社の先にあった力石
        
               境内に設置されている案内板
 上野田  鷲宮神社
 鷲宮神社は大字上野田字宮山に位置し、祭神は天穂日命、別雷命、倉稲魂命を祀ります。大正二年には字西ヶ崎の雷電神社を合祀し、同三年には十二ヶ所稲荷を合祀しています。現在の社殿は昭和五十四年に再建されたものです。
 また、境には文化二年(一八〇五)創建とされる三峯神社、同十二年の創建とされる琴平神社を境内社として祀っています。
 当社の由緒について詳細は不詳ですが、江時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、「高祖明神社」と記され、次 のような記載があります。
 高祖明神社 村の鎮守にて大光院の持、祭神詳ならず。安永六年(一七七七)京都吉田家へ神職を乞し時、何なるゆえにや鷲宮大明神と書きて与えしより、土人鷲宮とも呼べり、社頭に天文二十三年(一五五四)の鰐口をかく、
 記載にある大光院は、明治時代に廃寺になっています。
 平成十五年三月 白岡町教育委員会                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 鷲宮神社  白岡町上野田五三五(上野田字宮山)
『風土記稿』上野田村の項に「高祖明神社 村の鎮守にて、大光院の持、祭神詳ならず。安永六年(一七七七)京都吉田家へ神職を乞し時、何なるゆえにや鷲宮大明神と書きて与えしより、土人鷲宮とも呼べり、社頭に天文廿三年(一五五四))の鰐口をかく」と記されているように、古くは高祖明神社と称していた。この社号は、右の「天文廿三年の鰐口」(戦後、台風の際に梁(はり)から落ち現在行方不明)の銘文にも「奉掛鰐口一口 高祖明神宝前」と記されているように古くから用いられているものである。別当の大光院は本山派修験の寺院で、神仏分離により明治初年に廃寺になったが、その開山は神教といい、天文二年(一五三三)に寂している。これらのことから、社名の「高祖」は別当から察するに、修験道の開祖、役小角を指すものと思われ、当社は、大光院が役小角を讃えて創建し、後に村の鎮守として鷲宮神社を勧請したものであるか、既に祀られていた鷲宮神社に役小角の御霊を祀り込んで「高祖明神」と称するようになったもののいずれかと思われるが、推測の域を出ない。
 神仏分離の後、当社は明治六年に村社となり、銅二十七年に本殿を改築し、大正二年に字西ヶ崎の雷電社、翌三年に字十二所の十二所稲荷神社を合祀した。その後、昭和五十三年二月、火災のため本殿と神楽殿は全焼したが、翌五十四年十月に再建が果たされた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿 
 当社の祭神は天穂日命で、氏子の間では「鷲宮町(現久喜市鷲宮)の鷲宮神社の分社である」と伝えられており、かつては「高祖明神社」と称していたことはほとんど知られていない。また、神仏分離まで別当を務めていた大光院の跡には、今もその後裔の家の住居があるが、特に当社の祭祀には関与していないという。
        
                境内から見た参道の様子



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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野牛久伊豆神社

 野与党(のよとう)は武蔵七党の1つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡の野与庄を中心に勢力のあった武士団で「のいよ」とも呼ばれる。この党は武蔵国埼玉郡(埼玉県東部)に勢力を持つ血縁によって結ばれた武士団である。野与党は忠常の乱の首魁であった平忠常の曾孫基永が野与庄の庄司となり、野与氏を名乗ったのに始まる。
 白岡市にも野与党諸氏が蟠拠しており、前期野与党である野与氏は篠津・野牛両地域に、鬼窪氏は白岡八幡宮付近に、また後期野与党に属する南鬼窪氏は小久喜地域に、佐那賀谷氏は実ヶ谷地域にそれぞれ居館を構えていたと思われる。
 白岡市に蟠拠した野与氏が何処に居を構えたかは、ハッキリとは分からないが、篠津から野牛に向かう道を今も「野与道(のよのみち)」といい、また、「のよの家」と云われる家も残るというので、野与氏の拠点は現在の野牛地域ではないかという説もある。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市野牛652
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧野牛村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 祈年祭 120日 追花 31日 
                  お日待 
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 白岡市・野牛地域は市北東部に位置し、現在の市の行政区画上では篠津地区に属している。かつて江戸時代には「柳生」とも書いていたようで、柳の生えていた土地の名と考えられる。野牛は珍しい地名であるが、いつごろから使用されたかはわからないとの事だ。
 六代将軍家宣の時、当地の野牛地域は、宝永2年(1705)より新井白石の所領となり、白石は領主として「白石堀」の開削など農業基盤の整備などに多大な業績を残した。野牛の観福寺には市指定文化財である白石の肖像画が伝えられている。
        
                 野牛久伊豆神社正面
 篠津須賀神社から一旦北上し、「新白岡柴山沼線」に合流後右折、途中東北自動車道の高架橋を潜り抜けながらも道なりに2㎞程進行すると左手にコンビニエンスが見え、そこから北方向に200m程北側に野牛久伊豆神社は鎮座している。

『日本歴史地名大系』 「野牛村」の解説
 東は高岩(たかいわ)村、南は爪田ヶ谷堀川・庄兵衛(しようべえ)堀川を限る。旧日川の流路にあたり、中央部に横たわる微高地はかつての自然堤防。騎西領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高一九一石余・畑高一〇九石余、同藩領。ほかに野銭永二五〇文があった。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高五六五石余、反別は田方四四町余・畑方二八町九反余、ほかに新開高二二六石余、田方一七町七反余・畑方一一町五反余。
        
      鳥居の右側に設置されている「野牛久伊豆神社と新井白石」の案内板
       案内板の左側には、「朝鮮通信使奉納扁額及び下書き」の標柱もある。
 野牛久伊豆神社と新井白石
 白岡町大字野牛字舞台
 野牛久伊豆神社の創建は不詳であるが、近世以前、野牛村は篠津村や柴山村などとともに「騎西領」に属していたため、 その総鎮守である騎西町の玉敷神社(=久伊豆大明神)を勧請(神を分霊してくること)し、村の鎮守として祀ったものと思われる。祭神は大己貴命である。また本殿右側には稲荷社など数社が合祀されている。
 本殿正面の扁額は、江戸時代の儒学者新井白石(一六五七~一七二五)が奉納したもので、朝鮮通信使の李礥(号は東郭)が、六代将軍徳川家宣の将軍宣下の式典(一七一一)に来日した際、白石のために書したものと伝えられる。
 野牛村は宝永六年(一七〇九)に、新井白石の領地となった。白石は領民の訴えに応じ、低湿だった当地に排水路を掘らせ、一帯を良田にしたという。この排水路は「白石堀」、「殿様堀」などとよばれ、現在は神社左側の道路歩道下を流れている。またこの付近に、飢饉に備えて(貯蔵庫)を建てさせたという。そのほか当地には、白石の堅実で誠意ある領民支配を伝える話が残っている。
 平成十二年二月 白岡町教育委員会                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 野牛村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、觀福寺の持、下同じ、末社 天神 〇稻荷社 〇駒形社
 觀福寺 新義眞言宗、ヶ崎吉祥院の末 大悲山興樂院と號す、第五世良榮寬永十八年八月七日示寂とのみ傳へ、これより前のことを傳へず、本尊十一面觀音、坐像一尺餘、行基の作、又不動を安ず、弘法大師の作にて、立像、丈〇に一寸餘、鐘樓 鐘は元祿十四年の銘あり、 不動堂 阿彌陀堂 前寺の持


 久伊豆神社 白岡町野牛六五二(野牛字内舞台)
 野牛は、古くは「柳生」とも書いたといわれ、慶長六年(一六〇一)の奥州仙台(宮城県仙台市)伊達氏の鷹場に指定された。その後、川越藩領、幕府領を経て、宝永六年(一七〇九)に儒学者として著名な新井白石の領するところとなり、地内では白石の蔵屋敷の跡を示した碑が残っている。
 この、野牛の鎮守として祀られてきた神社が当社である。祭神は大己貴命である。久伊豆神社を鎮守として勧請した理由は定かでないが、一般に騎西町(現加須市騎西地区)に鎮座する玉敷神社の分霊を祀ったものと考えられている。玉敷神社は、古くは久伊豆大明神と称し、騎西領四八か村の総鎮守として信仰されていたため、騎西領内の村の一つであった野牛では、その分霊を勧請して鎮守として祀った可能性は高い。ただし、当社に関する明治以前の記録はほとんどなく、『風土記稿』野牛村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、観福寺の持、下同じ、末社天神」とあるのが最も古い記録である。
 神仏分離の後は、明治六年に村社となり、同四十二年七月に字中之宮から庚供巻神社、大正五年に字内谷から稲荷神社を合祀した。この両社は、いずれも規模の小さい無格社で、合祀後は境内社として当社に従来からあった末社と共に祀られている。また、当社の拝殿と幣殿は、老朽化が目立ってきたため、昭和五十一年四月に改築された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 この扁額には「久伊豆社 辛卯(しんう) 仲冬(ちゅうとう) 東郭(とうかく)」の文字が刻まれている。「辛卯 仲冬」とは正徳元年(1711)のことで、野牛村領主であった新井白石が朝鮮通信使応接役の功績を認められて知行を加増された年でもある。東郭とはこの時の朝鮮通信使で新井白石と親交のあった製述官の李礥(イヒョン)のことである。この扁額は欅材の1枚板に刻字されている。この書の下書きも軸装に仕立てられ代々の氏子総代宅で保管されている。
 白岡市指定文化財第51
 指定年月日 平成14126
 種   別  市有形文化財(歴史資料)
        
                    本 殿
 氏子は野牛地域全域が区域となっていて、その地内は、十二の耕地に分かれており、各耕地一名ずつ、計十二名の総代が出て神社運営を行うという。当社の祭りである31日に行われる「追花」は、豊作を祈願する祭りであるが、昔から「野牛の鎮守様は派手が嫌い」といい、総代が参列して祭典と簡単な直会をする程度で済ませている。それでも、かつては総代が甘酒を作り、参詣者に振る舞っていたが、太平洋戦争後は甘酒をやめてしまった。豊作を祈願する追花に対して、豊作を感謝する祭りである1019日に行われる「お日待」も、同様に総代が参列して祭典と簡単な直会を行う程度の行事である。ただし、お日待には前日の18日に灯籠番が境内に灯籠を飾り、夕方にはこれに灯明を入れ、当番らが簡単な祝宴をする。この時、昔は他所から素人芝居を呼んだり演芸会を開いたりしていたが、戦後はそれも行わなくなったという。
 
    本殿の奥で、南側にも鳥居が建つ。     南側鳥居の先に祀られている御嶽塚
                       三芝山・御嶽神社・八海山と刻まれている。
       
              社殿の右側に祀られている合祀社 
        左から庚供巻大明神・大黒天・稲荷神社・天満宮・五社大権現
        
                合祀社の奥に聳え立つ巨木



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    「越谷市デジタルアーカイブ」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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