古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金山町新田神社


        
            
・所在地 群馬県太田市金山町4044
            ・ご祭神 新田義貞公
            
・社 格 旧県社
            ・例祭等 元旦祭 建国記念祭 211日 春季例大祭 48
                 秋季例大祭 112
 群馬県太田市金山町にある新田神社は、国指定史跡「金山城跡」を大手虎口から日ノ池を進んだ先の金山の山頂にある新田金山城の実城(本丸)跡に鎮座する社である。新田神社建立の最初の動きはそう古くはなく、明治時代初期の明治6年(1873年)5月、金山山頂の金山城本丸跡に、地元有志の出願により創建の許可が下り、明治8年(1875年)に社殿が創建されたという。
 ご祭神は『太平記』の時代に清和源氏の頭領として、足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒した立役者の一人である武将である新田義貞公である。金山城を築城した岩松氏が新田氏の後裔一族であること、また新田義貞がこの地出身であることから、郷土の英雄として祀られた経緯がある。
 金山町新田神社自体が、金山城跡の一角に鎮座していることから、境内には社関連の石碑・案内板等は勿論であるが、金山城に関するものも多く設置されている。
 
  参道の手前に聳え立つ大ケヤキの御神木       金山の大ケヤキの案内板
 太田市指定天然記念物
 金山の大ケヤキ
 ・指定年月日 平成21520
 ・所 在 地 太田市金山町40132
 ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地(だんち)では丘陵部〜山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ2025mの大木となります。
 本樹木は金山山頂にある、樹高17m、目通り周6.79mの大ケヤキです。樹高はそれほど高くはありませんが、目通り周においては県内でも上位に位置し、枝張りも40mを超えます。
 金山山頂の金山城実城域にあり、推定樹齢800年ほどと伝えられる大木で、金山のシンボル的存在です。樹勢が良好で、まとまった幹を持っており樹形も大変趣があります。
 また神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。
 昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれていますが、現在は1本のみです。推定樹齢800年ほどであるとすれば、金山城の興亡を見てきた歴史の証人ともいえます。
 平成2431
日  太田市教育委員会                     案内板より引用
 
  金山の大ケヤキのすぐ先に石段があり、登り終えた正面に神明系の鳥居が建つ(写真左・右)
        
                    拝 殿
        
                    本 殿
 
     金山町新田神社・謹記               社の趣意書
 謹記
 一 ご祭神 贈正一位左近衛中将源朝臣新田義貞公
 二 ご由緒
 明治六年八月三日 栃木県知事鍋島幹神社創建を許可す
 同十三年四月八日 造営竣功

 昭和九年十二月九日 金城跡全域を文科省より名勝天然記念物として指定された。
 同五十四年五月八日 神社創建百周年記念式典が挙行され高松宮宣仁親王・喜久子妃殿下が参拝された。
 これまでに大正天皇・昭和天皇・秩父宮殿下・高松宮殿下・三笠宮殿下のご参拝を戴いて居ります。

 三 例祭
 一 月 一日 元旦祭 
 二 月十一日 建国記念祭 
 四 月 八日 春季例大祭
 十二月 二日 秋季例大祭
 初志貫徹を祈願して参拝する方が多い(以下略)                案内板より引用 
 
  境内に設置されている金山城主系図     系図の右側にある「史跡 金山城址」の標柱
 
 ご皇室の方々が腰掛けた石が展示されている。   腰掛石の右側にある社の由緒碑等
        
                金山城 天主曲輪の案内板
 天主曲輪
 本城最高位の郭で、戦前、本丸と言われたところである。
 西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は、金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は、「神水」と呼ばれていた。
 廃城後は、新田義貞を祀る新田祠と言う小さな石宮があった。
 構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。
 昭和五十五年三月(以下略)                         案内板より引用
        
                   境内の様子
        
           参道を戻るように進むと見えてくる一の鳥居



参考資料「太田市HP「太田観光物産協会HP「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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新田金山城跡を散策しました。

  新田金山城跡がある「金山(かなやま)」は、群馬県太田市金山町にあり八王子丘陵の東南にある標高235.8mの独立峰であります。別名「太田金山」。現在、「ぐんま百名山」に選定されています。
 金山の名は室町期から見える地名であり、1404年(応永11年)9月の『村田郷地検目録(正木文書)』に「一所、金山御神田」の記述があり、当地が信仰の対象になったことがわかります。
 この地一帯には、金山丘陵北東部から八王子丘陵南端にかけて須恵器及び瓦の窯跡群があり、亀山窯跡・辻小屋窯跡・八幡窯跡をはじめ6世紀後半から7世紀後半の窯跡支群が確認されています。推定された数は12ヵ所で、関東地方の古墳時代窯跡群の中では最大のもので、9世紀後半までの存続が認められています。
 また、万葉集には「新田山」として次の二歌が詠まれています。
 「新田山(にひたやま) 嶺(ね)には着かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる児らし あやに愛(かな)しも」(巻14-3408
 ・「白遠(しらとほ)ふ 小新田山(をにひたやま)の 守(も)る山の 末(うら)枯(が)れ為(せ)なな 常葉(とこは)にもがも」(巻14-3436
 そもそも「金山」という名称自体、古代鍛冶集団との関連性もあるようで、金山の北東部、菅ノ沢遺跡で須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および7世紀中頃の古墳3基が見つかっています。製鉄炉は、半地下式であり、タタラによる鉄製鉄が行われていたのは、平安時代中期の10世紀頃と推定されています。金山山麓は古墳時代から平安時代にかけて全国的にも有数の窯業地帯であり、須恵器や埴輪の一大生産拠点であったようです。
        
             ・所在地   群馬県太田市金山町4098
             ・築城年   1469年(文明元年)
                         ・指定区分  国指定史跡[城館跡等]
             ・指定年月日 昭和91228日 追加指定 平成14920
 新田金山城は、金山城は文明元(一四六九)年、新田一族であった岩松家純によって築城されました。 一般的な城郭とは違い、標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城であります。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が、金山城跡の発掘調査で覆されています。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されていて、数々の城主を守り抜いてきた難攻不落の名城といわれています。
 山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定を受けています。
 太田市と太田市教育委員会では、平成4年度(1992)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした、遺構の保存整備事業を実施しています。戦国期、「関東七名城」の一つとされていた城であり、平成18年(2006)には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されています。
 
   駐車場付近に設置されている掲示板         金山城入口の石碑
 史跡金山城跡
 太田市のシンボルである金山に築かれた金山城は、文明元年(1469)から天正18年(1590)まで「難攻不落」を誇った名城です。昭和9年(1934)に県内で初めて城跡として国の史跡指定を受けました。
 平成6年(1994)からスタートした史跡金山城跡環境整備事業では、発掘調査結果に基づいて、敵を“惑わす”複雑な「通路形態」の復元を目指した整備を行っています。復元された戦国時代の通路を歩きながら、当時の山城の状況に想いをかせてみてください。また、通路周辺で発見された、中世における関東の山城ではきわめて珍しい「石垣」の復元整備も行っています。
 平成13年(2001)には、物見台から日ノ池までの1.4㏊の範囲における第1
期整備事業が完成しました。天守閣のある城とは違う雰囲気を持つ『石垣の城』金山城跡を、どうぞゆっくりご覧ください。
        
              入口から金山城実城方向に進みます。 
 入り口付近のみならず、至る所で岩盤が露出しています。金山の岩盤は「金山流紋岩類」と呼ばれ、熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっていて、金山城の石垣に利用されています。

 太田市の地形は市域の中央の東に位置する金山丘陵(最高点は金山239m)、市域の北部からみどり市・桐生市に延びる八王子丘陵(最高点は桐生市の茶臼山293.9m)とその周辺の台地・低地からなる平野から構成されています。
 金山丘陵は八王子丘陵などとともに、足尾山地から渡良瀬川の断層によって切り離された分離丘陵群のひとつであります。南北約3.8km、東西約3.1km、最高点は金山山頂の239m、平野との比高差は170190mで、複雑な山麓線を有しています。
 金山の地質は山頂を中心とした部分が新生代第三系の金山流紋岩類で、これを北から取り囲むような形で馬蹄形に中生代の足尾層群が取り巻いていまして、相対的に見ると前者が高く、後者が低くなっていて、また金山丘陵北西端には中新世の強戸礫岩層・新第三系の薮塚累層湯ノ入凝灰岩部層が分布しています。

 金山流紋岩類は流紋岩質火砕岩類で、熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっていまして、火砕流堆積物とは高温のマグマの砕屑物(主に火山灰や軽石)が火口から流出したもので、高温状態の砕屑粒子が熔結したものを熔結凝灰岩と呼びます。
 金山の主体部は金山流紋岩類3と呼ばれる流紋岩質熔結凝灰岩で、金山各所の石切場跡などで見事な柱状節理(ちゅうじょうせつり)を見ることができます。この中で、特に観音山(坂中)北東斜面の「長石(ながいし)」は有名です。かつては建物の基礎石や土木工事用の砕石として利用され、地元では「金山石(かなやまいし)」と呼ばれていたようです。
        
                                 大手虎口の見事な石垣
 金山各所の石切場跡に取れる熔結凝灰岩を利用した石垣や石敷きの通路、さらには石積みされた土塁等、あらゆる所に石を用いた総石造が特徴的な山城跡。現在、通路が石で埋め尽くされた大手虎口や南曲輪などが復元整備されています。
 
        大手虎口の脇にある月ノ池(写真左)とその案内板(同右)
 
             土塁石垣(写真左)とその案内板(同右)
 
           金山山頂にある日ノ池(写真左)とその案内板(同右)
 15m×16.5mの円形の池。生活用水の確保のほか、戦勝や雨ごいを行った儀式の場と考えられています。
        
 金山城は平安時代末期の新田氏が防御施設として構築したとも伝えられていますが、その歴史は文明元年(1469)に新田氏の後裔、岩松家純(いわまついえずみ)の命により築造されたことに始まったと考えられています。最初に金山城主となった岩松氏は下剋上によって横瀬氏(後に「由良」と改姓)と交代し、その後北条氏の支配となりましたが、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めによる北条氏の敗北によって、金山城も天正18年(1590)に廃城となりました。
 現在の整備は、戦国時代の後半に造られた城内を再現したものといわれていますが、山中の至るところに約120年ものあいだ落城することのなかった金山城の痕跡が、石垣や堀切、土塁として今でも残されています。



参考資料「太田市HP 金山の地形と地質」「ウィキペディア(Wikipedia)」「城跡内案内板」等                            
        

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沖野増殿神社


        
             
・所在地 群馬県太田市沖野町4751
             
・ご祭神 (主)大穴牟遅命
                  
(配)新田義重・宇迦之魂命・菅原道真・誉田別命
                                         大日霊命・大物主命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 秋季祭 1029
 反町館跡(反町薬師堂)沿いに南北に縦断する群馬県道332号桐生新田木崎線を1㎞程南下した丁字路を左折、その後周囲を田園に囲まれた静かな道を東行し、利根川水系の石田川支流である高寺川に架かる「八重橋」の手前の十字路を右折する。進行方向右手には綺麗に整備されている「沖野公園」が河川に沿って南北に広がり、更に進むと公園に隣接するように沖野増殿神社が見えてくる。ありがたいことに、社の正面入り口付近には数台分駐車できる専用スペースも完備されている。
 
           田園に囲まれた静かな沖野公園(写真左・右)
 因みにこの沖野公園には、コンビネーション遊具等の遊具のほか、健康遊具などもあり、広い芝生広場、丸太で作られた休憩場なども設置されている。また、ゲートボール場やサッカーコート、バスケットポストなど充実した施設もあり、何より明るく開放的な雰囲気が大変良い。 
        
                               沖野増殿神社正面
『日本歴史地名大系』 「沖野村」の解説
 太田市沖野地域は、大間々扇状地扇端の沖積地に位置している。北は別所、東は由良、南は西野谷(にしのや)町、西北は小金井(こがねい)各地域(現新田郡新田町)と接していて、地域の中央は「田島堀」が南北に流れている。
 応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)にみえる「奥村由良郷内」は当地に比定され、同一五年九月一五日の由良郷奥村地検目録(同文書)によれば御料所分として、田数七町九反半(うち不作一町六反)・畠数八町三反半(うち不作九反)、年貢三〇貫三四三文で在家一〇宇があり、「四郎二郎かき内」などとみえ、ほかに佃五反(年貢一貫五〇〇文)。
        
                    拝 殿
       創建や由緒等は案内版もなくインターネット等を調べても全く不明。
        但し、現在は冠稲荷神社の兼務社であり、そちらのHPを見ると、
                                    1029日に「秋季祭典」なる祭事が行われいる。
        
                     本 殿
 
       本殿の奥に祀られている末社石祠(写真左・右) 詳細は不明。

「〇殿」という地名は、埼玉県に比較的多く点在する難解地名の一つである。熊谷市江南地方には「通殿」・「重殿」という地名があり、「通殿」は、ズードンと呼び慣らわせられ、「重殿」はジュードンといわれている。『熊谷Web博物館』では、この二つの地域名に関して、以下の解説を紹介している。
「通殿」・「重殿」
 書き表わされる文字により発音が異りますが、「通殿」と「重殿」は同様の意味を持つと考えられています。「通殿」は、塩地区の東端に当り、小江川、板井と境を接する場所で、県道熊谷・小川線が和田川を越える付近です。地形的にみると、ここは三方から流水の集中する場所です。北、西では、板井の耕地を通り抜けて来た和田川が、西・南から塩・小江川の丘陵より染み出る小川が流れ、雨水の一時に集中することもあるようです。川辺には、夜泣の激しい赤子を直す「夜泣地蔵」が建っています。「重殿」は須賀広にあり、大沼より下る用水と和田川の合流する付近に当っています。近くに「重殿」の名を持つ「重殿稲荷社」が重殿沼に面して祀られています。重殿地名の場所じたいは、江戸時代の代官田村氏の陣屋跡とされています。また、現在の小字地名に残っていない、いわば失われた地名の中に「通殿」があります。江戸時代の樋春(旧樋ノロ村)にあったことが町史調査による古文書調査から判っています。塩と須賀広に樋春を加え、旧江南町内に三ケ所の 「ズードン」地名があったことになります。
「通殿」、「重殿」は、地名辞典などによると水に関係した地名として説明されています。県内にもズードン地名が多くあり、ほとんどが江南地区のような場所を呼んでいます。表記される文字では、「通殿」・「重殿」の他に、上殿・尉殿・十殿・浄土野・頭殿と多く、これは地名の起源が古いことから様々の当て字が用られることになったと思われます。神名や信仰の正体もまちまちであることが多いようですが、古代に渡来した信仰に基づくと考えられ、溝や川、淵に関連した神やその居場所をよんだようです。
 
他の有力な説には「錠殿(鍵殿)」があります。これは奈良、平安時代に置かれた国府、郡郷の蔵を開閉する封印と鍵(印鎗:いんやく)の重要性から、印と鍵を神に祀ったのだろうといいます。河川、水路に面した場所に蔵を置くことは当時より一般的なことであり、岡部町で発掘された古代榛沢郡の正倉と推定される中宿遺跡の倉庫群の例があります。旧江南町の属していた男衾郡の蔵が周辺にあったとも考えられるかもしれません。蔵は収穫物、特に穀物を収蔵した蔵であり、穀物の神である稲荷神が結びつくことは容易なようです。新たな調査毎に、おぼろげに地名の由来が見えてきました。
        
                社殿からの鳥居方向を撮影
 今回紹介する「沖野増殿神社」に関していうと、この「増殿」は決して地域名ではなく、社の名称である。ただ、この地域周辺の地形を俯瞰するに、水上山系を源流とする利根川が、勾配の少ない沖積平野部で肥沃の大地を形成しながら、幾多の利根川支流の河川と合流する地域でもあり、一方赤城山南方の大間々扇状地扇端部にあり、扇状地特有の湧水が出現している地域でもある。




参考資料「
日本歴史地名大系」「熊谷Web博物館」「冠稲荷神社HP」等
  

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新田市野井町神明宮


        
            
・所在地 群馬県太田市新田市野井町30601
            
・ご祭神 天照大御神(推定)
            ・社格 例祭等 不明
 反町館跡の北側に鎮座している生品神社から群馬県道322号新田市野井線を北上し、同県道39号足利伊勢崎線と交わる交差点を左折する。その後500m程先の十字路を右折し、暫く進むと、「市多村新田多目的ホール」と同じ敷地内の一角に新田市野井町神明宮は鎮座している。
        
                新田市野井町神明宮正面
『日本歴史地名大系』 「市野井村」の解説
 大間々扇状地藪塚面の扇端部から、その南方の沖積低地を占め、東は村田村、北は市村、西は金井村。北部を足利街道が東西に通過する。当村付近を「和名抄」新田郡駅家(うまや)郷に比定する説がある。元久二年(一二〇五)八月日の源実朝下文写(正木文書)に、新田義兼が継目安堵された一二ヵ郷地頭職のうちに「一井郷」とある。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(同文書)に「一井の郷 田二十町八反十たい 畠二町 在家十一う」とある。その後の伝領関係は不明であるが、室町時代新田岩松氏の下で、室町幕府奉公衆で「京都祗候」の大館教氏が「大館郷四ケ村・一井郷四ケ村」を知行しており、庶子方所領として位置付けられた(年月日未詳「新田庄内岩松方庶子方寺領等注文」正木文書など)。新田庄域には、大間々扇状地上の標高六〇メートル線を中心に六〇余の湧水が分布しているが、そのうち一七が現市野井の中に集中している。元亨二年(一三二二)には一井郷の大館宗氏と田島郷(現太田市)の新田下野太郎入道(岩松政経)との間に相論があった。同年一〇月二七日の関東下知状写(同文書)によれば、田島郷の用水は往古から「一井郷沼水」を引いていたが、宗氏が用水堀を塞いだため水が来なくなったと田島郷側が訴え、幕府から認められている。
 
      社叢林に囲まれた境内           境内にあるご神木の切り株
 御神木根保存由来
 この巨大な杉の根は参百数拾年の昔当時の氏子により奉納そして境内に植樹されたものと伝承され以来歴代氏子の手厚い保護のもと成長を続け御神木として大切にされてきましたが昭和三十年頃より成長が止り成長芯が徐々に枯れ始め心配されていた
 偶々昭和四十年九月本州を襲った記録的な台風に依り隣りの杉の木が倒れるに当り危険の為協議の結果昭和五十七年十一月二十七日伐採され後世に伝える為保存するものなり
 昭和五十八年四月吉日 神明宮氏子一同
 
        
                                   拝殿内宮
       創建や由緒は案内板等がないため不明。因みに奥に見える社は外宮。

 新田市野井町神明宮が鎮座している当地は、
大間々扇状地藪塚面の扇端部から、その南方の沖積低地を占めている地域で、大間々扇状地の東部扇端湧水帯には昭和43年(1968)当時で大間々扇状地上の標高60m線を中心に60余の湧水が分布しているが、そのうち17が現市野井の中に集中している。
 この地域には、湧水に纏わる逸話がある。
元亨2年(1322)の「関東裁許状」によると、新田氏一族の大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れ出た「用水堀」を巡って争いを起こしたことに対して、鎌倉幕府が判決を下したという。
 この争いは、大館宗氏が一井郷沼水(現在の国指定史跡新田荘遺跡の一つ重殿水源)を塞いだことによって、岩松氏の所領田崎郷の耕作が不能になったというものである。田嶋郷は一井郷招水によって成り立っており、水を再び流すべきことを鎌倉幕府に訴えた。大館氏は、岩松政経の代官謁海と散しく争ったものの、結果的に岩松氏の勝訴に終わった。大館氏側が本当に用水を塞いだのかどうかは不明であるが、この訴訟の勝利から、岩松氏の新田荘内での勢力拡張の一端を垣間見ることはできる。
 このように大館宗氏側は岩松政経の代官藷海と争ったものの、敗訴している。新田荘の開発が進んだことによって、農作業の命ともいえる用水の確保という問題が、深刻になっていたことを指摘できる。大間々扇状地の東部扇端湧水帯には昭和43年(1968)当時で60近い湧水が分布し(新田町誌)、市野井のほかにも新田町には金井・小金井、太田市には寺井など井のつく地名が帯状に並んでいて、水にまつわる多くの地名が残り、水利に乏しかった扇状地に住む人々の水に対する執着を伺わせよう。
 
 外宮裏手に祀られている末社三基。詳細不明       内宮手前右側に祀られている天神宮
                                      
胴部側面に「天明三癸卯年二月二十五日」と刻印 
        
                              境内に祀られている八坂神社
          神明宮よりこちらの社の方がより立派に見えてしまう。
       
                八坂神社内部(写真左・右)
       社の内部には本殿(写真左)の他に、祭り用の神輿(右)が見える。
        
                      八坂神社の奥に祀られている石祠等
        
         八坂神社に隣接している山車の保管庫。その隣には薬師堂がある。

 鎌倉時代、この市野井地域には、源姓新田氏流一井(イチノイ)氏が居を構えていた地であった。
〇新田族譜「新田政義ー大館次郎家氏(住新田郡大館)―一井孫三郎貞政(延元二年金崎自害)―一井左近将監政家(弟金谷刑部少輔重氏)―一井兵部少輔氏政(興国四年本国上野討死)―一井兵部大輔義時」
〇永禄二年新田家臣祖裔記「市野井兵部大輔義時、本国越後頸城郡に蟄居したが暦応年中の後、新田義宗・義治兄弟に組して再び信州上州へ帰住、末流金山の勇士市野井左兵衛と申也」
 一井氏は「一井郷沼水」から流れ出た「用水堀」を巡って争いを起こした新田氏一族の大館宗氏の親戚筋にあたり、鎌倉時代末期から南北朝時代前期、この一族から一井貞政が登場する。
 一井貞政は、元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉攻めに加わる。後醍醐天皇の建武の新政では、武者所一番頭人新田義顕のもとで寄人になっている(『建武記』)。新田一門の中では堀口貞義(武者所二番頭人)、江田行義(三番頭人)、脇屋義治(五番頭人)らに次ぐ高い地位を占めていたと考えられる。
 新田義貞は建武政権下で上野・越後・播磨の守護に任ぜられたが、貞政はこのうち越後の守護代を務めたとされる。建武2年(1335年)に越後国内の武士に対して軍勢催促状を発していることから、貞政は義貞の持つ越後守護としての権限を代行していたと思われる。
 建武政権崩壊後は義貞に伴い北陸に移り、越前金ヶ崎城に拠った。しかし同城は足利方の斯波高経、高師泰らの大軍に包囲されて孤立し、延元2/建武4年(1337年)36日、尊良親王、新田義顕、そして子息・政家と共に自害したという。
        
                  社殿からの一風景 



参考資料「日本歴史地名大系」「日本歴史地名大系ジャーナル」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「埼玉苗字辞典」「境内石碑文」等 
 

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反町館跡(反町薬師)に参拝しました。


        
             
・所在地 群馬県太田市新田反町町896
             
・宗 派 高野山真言宗
             
・正式名 瑠璃山妙光院照明寺
             
・創建年 伝・和銅元年(708年)
 反町館跡(反町薬師)に参拝しました。ジョイフル本田新田店の北側を東西に通じる群馬県道2号前橋舘林線を東行し、「反町薬師入口」交差点を右折し、暫く進むと、進行方向右手に反町館跡(反町薬師)が見えてきます。
 
  社号標柱の先で、
館跡南側にある土塁     東側には大規模な堀を巡らせている。
 
    
瑠璃山妙光院照明寺入口正面          参道途中にある手水舎
        
                    本 堂
 高野山真言宗・瑠璃山妙光院照明寺のあるこの地は嘗て「反町館跡」と呼ばれる新田荘を代表する館跡でありました。昭和33年(1958)に群馬県史跡に指定されていますが、新たに平成12年(2000)に新田荘遺跡として国史跡に指定されています。
照明寺の創建は不詳でありますが、平安時代の和銅元年(708)に行基菩薩(奈良時代の高僧)によって開山されたのが始まりと伝わっています。
照明寺の境内は元徳年間(1330頃)に新田義貞によって反町館が築かれた場所で、戦国時代には3重の堀をもつ金山城の支城でしたが、天正19年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶと廃城となっています。
照明寺の方は戦国時代の永禄年間(15581570)に反町館の二ノ丸に移り、さらに江戸時代中期の正徳4年(1714)に火災にあった後の享保元年(1716)に現在地に移され再建されています。照明寺の本尊である薬師如来像は反町薬師として厄除・開運・子育に利益があるとして広く信仰を集め縁日には近郊から多くの人達が参拝に訪れるそうです。
 
     参篭堂の左隣にある大師堂          本堂と太鼓橋で通じている
参篭(こもり)堂
        
             南側の
土塁付近に設置されている案内板等
 国指定史跡 新田荘遺蹟
  反町館跡
 指定年月日 平成十二年十一月一日
 所 在 地 群馬県太田市新田反町町八九四
 反町館跡は、江田館跡と共に太田市を代表する館跡で、大規模な堀や、土塁が残されています。土塁は基底部で十〜十三メートル、高さ四〜六メートルあり、堀は幅十〜二十メートルあります。(ただし、東側の堀は道路改修の際に拡張されたものです。館跡の平面形は凸字型で、南側で約百二十メートル、北側で約七十三メートルあり、東西両側に「折」を持っています。出入口は南東角と西の二箇所にありました。
 築造は、鎌倉時代から南北朝時代と推定されます。その後戦国時代になって三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと考えられます。新田義貞がここに移り住み、その後大舘氏明、新田義興、矢内時英が住んだという伝承もあります。天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の北条攻めで廃城したと伝えられます。
 現在の照明寺は、以前は、堀の西側にありましたが、正徳四年(一七一四)火事にあった際にここへ移転したと伝えられています。照明寺の本尊は厄除け薬師として有名で、毎年一月四日の縁日には大勢の参詣人でにぎわいます。
 平成二十年(二〇〇八)三月 太田市教育委員会                案内板より引用
        
               境内に聳え立つクスノキの巨木



参考資料
「太田市HP」「反町薬師尊HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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