古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川島久伊豆神社

 蓮田市川島地域の「川島」の地名は、周囲を川に囲まれた島のような低地であったことに由来すると考えられている。というのも、昭和56年ごろの元荒川の大改修が行われるまでは、俗に「水っ場(みずっば)」とか、「蛙が小便しても水が出る」といわれるほどしばしば水害に悩まされ、台風が来ると一日くらい水が引かず、子供は舟で学校に通ったものであったらしい。従って、日常の生活でも舟に頼ることが多く、『郡村誌』に「戸数四十三戸(中略)伝馬船二十一、水害予備船二十一、漁船十四」とあるのも、そうした状況をよく物語っている。
 また、祭事が簡素なものとなっている理由も、こうした度々の水害による村の疲弊と深い関係があるという事だ。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市東3910
             ・ご祭神 大己貴命
             ・社 格 旧川島村鎮守 旧村社
             ・例祭等 初祈祷 1月 春祈祷 415日 例祭 725
                  お日待 109日 新穀感謝祭 1123日 大祓 11
 JR蓮田駅東口ロータリーから駅前通りを進み、埼玉県道154号蓮田杉戸線合流後東行し、元荒川に架かる「宮前橋」手前に社は鎮座する。この川島久伊豆神社は、江戸時代後期(1800年代)に創立されたもので、地域の人から農業の安全や豊作を祈る神である「作神」として信仰をあつめている。
        
 社は県道沿いに鎮座しているが、実際に当地に到着すると、丁度背を向けた配置となっている。宮前橋の手前の交差点を右折、元荒川沿いに境内は広がり、入口もこちら側からとなっている。また、道路沿いに社号標柱や案内板が設置されている。
 
        
                 川島久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「川島村」の解説
 蓮田台地の南東部に位置し、元荒川右岸の自然堤防上にある。東は元荒川を隔てて笹山村。同川に沿って水除堤があり、川島橋という土橋が架けられていた(風土記稿)。寛永期(一六二四―四四)に岩槻藩阿部氏の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高六五石余・畑高八五石余。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によれば高三一六石余、この間新田開発が盛んに進められたことがわかる。延宝八年(一六八〇)の人数は一七五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
 当地川島は、江戸時代の始めは岩槻藩領であったが、幕府領を経て、延享4年(1747)からは御三卿の一家一橋領となった。そのため、村民は自分たちの村に誇りを持ち、苦境にも負けずに農業に励んだという。

   参道左側に祀られている三宝荒神と並びに設置されている案内板、伊勢参宮記念碑。
 川島・久伊豆神社
 蓮田市東三丁目八百六十二の一
 この久伊豆神社は、江戸時代後期(一八〇〇年代)に創立されたもので地域の人から農業の安全や豊作を祈る神(作神)として信仰をあつめている。祭神は大己貴命である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、「久伊豆神社、村の鎮守にて地蔵院持」と記載されている。
 久伊豆神社は、元荒川流域にのみ分布しており、東の「香取」、西の「氷川」圏と並び一祭祀圏をなしている。
 市内には、久伊豆神社七社、系列の根金神社一社を加え合計八社が現存している。
「久伊豆」の読み方については、「ヒサイズ」と「クイズ」の両方があるが、この地方では、ほぼ「ヒサイズ」と読んでいる。
 また、近郷の人には当社を「ぬすっと宮」と呼ぶ人が多い。この由来については諸説あるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだ。慈悲深い神は、これをかくまい、追手から逃がしてやったという。以来だれとはなしにこう呼ばれるようになったといわれている。
 現在の拝殿は、昭和三年に改築されたものである。当時の工事費は八二五円であった(以下略)。
                                       案内板より引用
        
           境内社 左から稲荷神社・稲荷神社・雷電神社
 当社は、近隣の人々から「盗人(ぬすっと)宮」と呼ばれていたという。この呼称については諸説があるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだところ、慈悲深い神がこれを匿って追手から逃がしてやったとか、お供物が片っ端から盗まれてしまい、ついには御神体まで盗まれてしまったなどと言い伝えられてきたが、実際のところはよく分からなかった。
 ところが、平成41月にになって、ブラジルに住む当地出身の二世の方が、「家族に病人が出るのは、先祖が昭和8年に出国した時に御神体を無断で持って来たためと思われるのでお返ししたい」と、訪日する友人に託して像高11.5㎝の不動明王のような木造の立像を返しにきた。そこで、当社では壊れた光背と足先を新しく作って本殿に納め、御神体帰還祝いとして、久しぶりに神楽を奉納するなど、にぎやかに祭典を行った。なお、この話は、「五十九年ぶり神体里帰り」として同年四月十七日の『毎日新聞』で報じられたという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 川島村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、地藏院持、末社 天神 荒神 稻荷 雷電、
 地藏院 新義眞言宗、太田新井村安樂寺門徒、花德山延命寺と號す、本尊延命地藏を安ず、


 久伊豆神社御由緒   蓮田市川島八六二(川島字宮面)
 □御縁起(歴史)
 元荒川にかかる宮前橋のそばに鎮座する当社は、大巳貴命を祭神とし、川島の鎮守として奉斎されてきた。落ち着いた雰囲気の境内には松がよく茂り、その中の一本には、珍しく「宿り木」が寄生している。昔から見れば、松も随分少なくなったといわれるが、それでも元荒川の水面に影を映す美しい社叢は、神の坐す所にふさわしい景観であるように感じられる。
 また、明治初期までは、川島の集落から社殿に向かって、八〇メートルほどの一直線の長い参道がついていた。そのころは鳥居の手前(南側)には堀があり、太鼓橋が架かっていた。しかし、参道の辺りにも民家が増え始め、ついには参道そのものも住宅などの敷地になってしまい、昔の面影は失われてしまった。元荒川の揚水機小屋のある、境内南側の低くなっている所は、かつての堀の跡である。
『風土記稿』に「久伊豆社 村の鎮守なり、地蔵院持、末社 天神 荒神 稲荷 雷電」とあるように、当社は地内の地蔵院の持ちであった。神仏分離後、地蔵院は廃寺となり、その草葺きの建物は村の集会所として各種の会合の場として長い間使われ、太平洋戦争中は疎開者の住居にもなっていたが、老朽化が進んだために取り壊され、昭和四十年に公民館として生まれ変わった。公民館の中には、地蔵院の名残として本尊の延命地蔵が祀られている。
                              「埼玉の神社」「案内板」より引用
 
         本 殿                  境内社・天神様
 当地はJR蓮田駅からも比較的近く、地内を東北自動車道も通ることから、近年住宅地として再開発が進んでいる。多くの転入者を迎え、昔からの集落である上(かみ)・下(しも)に加え、団地と呼ばれる新しい地区ができ、200戸程の住民の過半数が氏子となっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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下蓮田八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県蓮田市東6917
            ・ご祭神(主)応神天皇 (合殿)仁徳天皇
            ・社 格 旧下蓮田村鎮守 旧村社
            ・例祭等 初拝み 115日 春祈祷 4月上旬 祭礼 725
                 新穀祭 1123日 大祓 12月中旬 
 蓮田市の南部に位置する東(ひがし)地域は、蓮田駅に近く交通の便もあり、また、太平洋戦争後の宅地化推進により、かつてこの地域周辺に広がっていた「鎮守の森」は徐々に消えていき、景観も大きく変わってしまったという。
 蓮田駅の南西部にある「蓮田市立蓮田南小学校」のすぐ西側に鎮座している社。確かに周囲は開発によって多くの住宅街等に囲まれているが、社の入口から参道周辺にはまだこんもりとした社叢林は今尚健在で、氏子の方々の日々の崇敬の厚さを感じずにはいられない。
        
                 下蓮田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「下蓮田村」の解説
 上蓮田村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。古くは上蓮田村と一村であったとみられ、同村の久伊豆神社は両村の鎮守となっている。寛永年間(一六二四―四四)検地があり(風土記稿)、田園簿では田高二一〇石余・畑高二〇九石余、岩槻藩領。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高四七七石余。延宝八年(一六八〇)の人数は二一〇、新田の家数一四(うち本百姓九)、人数九四(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。
 
    比較的長い参道を進むと一の鳥居(写真左)、その後二の鳥居(同右)に達する。
        
           二の鳥居の右側に祀られている境内社・金刀毘羅宮
この金刀毘羅宮は、古くから境内社として祀られている。かつては、毎年2月10日に、社の前に浅敷を作り、紅白の幕を張って盛大に祭りをして、当社の祭りより人出が多かったというが、戦後には衰退してという。
        
             二の鳥居近くに設置されている案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下蓮田村』
 八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稻荷社 以上の神社慶福寺持、
 慶福寺 天台宗、入間郡古尾谷村灌頂院末、中應山蓮臺院と號す、開山慶蓮は慶安年中寂せしと云、本尊三尊の彌陀を安ず、地藏堂二宇 一は立像、丈二尺許、定朝の作、一は秘佛にして見ることを許さず、

 八幡神社  蓮田市東六-九(蓮田字神原)
 JR蓮田駅の東口を出て、南西に約一〇分ほど歩くと、当社の境内がある。この辺りは、元来は「鎮守の森」の言葉がふさわしいような山林であったが、交通の便がよいため、太平洋戦争後は宅地化が進み景観は大きく変わった。また、当社の境内の東側は蓮田南小学校に隣接しているため、子供たちからも「八幡様」の通称で親しまれており、境内で遊ぶ子供たちの姿もよく見受けられる。
 当社の創始については明らかではないが、古くから下蓮田の鎮守として祀られてきた。西南西四〇〇㍍ほどの所には、中世武士の城館跡を示す「堀の内」の地名があり、武神とされる八幡神の勧請に、この城館に居住した武士がかかわっていたとも推測される。
 祭神について『明細帳』は「祭神応神天皇、合殿仁徳天皇」としており、一間社流造りの本殿には金幣が大小一体ずつ安置されている。また、鎮座地付近は当社にちなんで「若宮」と呼ばれ、鳥居に掛かる社号額にも「若宮八幡宮」と刻まれていることから、当社は古くは「若宮八幡」を号していたことがわかる。
 明治四十一年七月十八日、政府の合祀政策に従い、下蓮田では、村社であった当社に字桑原の無格社神明社と字綾瀬附の無格社稲荷社の両社を合祀した。しかし、旧氏子の強い要望によって両社共昭和十年ごろ旧地に復し、合祀前のように祀られるようになった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿内部                   本 殿
 現在では、行政上は大字蓮田及び御前橋一と末広一丁目と東六丁目の各一部となっているが、当社の氏子区域である下蓮田は、江戸時代には独立した一村であり、「前口」「桑原」「新田」という現在も存続する三つの村組からなっていた。『風土記稿』下蓮田村の項では、村内の神社について「八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稲荷社 以上の神社慶福持」と載せている。文中の慶福持は、阿弥陀三尊を本尊とする天台宗の寺院で、古くから下蓮田に住む人々の檀那寺でもある。
        
                        「大神宮 出雲大社 太々記念碑」
『風土記稿』にみえる諸社のうち、天神社は前口、神明社は桑原、稲荷社は新田で祀る社である。下蓮田では、村全体の鎮守として当社を祀ると共に、このような小規模の社を組ごとに祀ってきた。神社運営も、これらの組を単位として行われており、各組から年番が二名ずつ出て、祭典の世話役を務めるほか、総代も各地区から一名ずつ適任者が互選で選出されるという。
        
                  社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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立石新田伊勢島神社

「群馬県気象災害」をみると県下では近世江戸期、頻繁に水害が起きている。特に寛保2年(1742)の水害は広範囲に大きな被害をもたらした。その時の模様が埼玉県の「中瀬村誌」に記されている。
 寛保二戌ノ年八月朔日の大満水は七月廿七日申刻より大雨降続、同廿九日卯ノ刻より水増酉刻には畑並居屋敷迄押開、戌ノ刻より風強く吹出し、家或は四五尺に余る廻りの,木とも所にて吹たおす事其数多し(中略)西上州山川の咄筆紙に尽しがたく、新町在立石新田、家数五十七軒の所七軒残皆押流され死おびただし、村々に止り命助かる人も有よし也。(後略)
 この時の新町宿大洪水の被害は、流出家屋九十七軒、半潰百十四軒、大破家七十七軒、合計二百八十八戸が大被害を受け、流死人五十四人と大変な状況であった。
 この寛保二年(一七四二)の大洪水の折、温井川の増水が早く、橋も流出し逃げ場を失って立石新田の婦女子が多く死亡した。そして二十一年後の宝暦十三年(一七六三)、寺や村人達等によって立派な石橋が架けられその橋の供養をした。昭和五年コンクリート橋に架け替えられた時に石橋の石は立石新田に返され、神社や寺の境内に保存されているとの事だ。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市立石新田3
              
・ご祭神 天照皇大神 素盞嗚尊 月読命
             
・社 格 旧立石新田村鎮守
             
・例祭等 春祭り 3月 秋祭り 1016日に近い日曜日
 新町八幡神社の北側を通る中山道を北西方向に進み、温井川に架かる弁天橋を渡ると藤岡市立石新田に入る。間もなく三差路となり、左への広い道は昭和5年(1930)に造られた道である。しかし昭和40年(1965)バイパスが造られたため、現在は群馬県道178号中島新町線となり静かな通りとなった。
 右の道が中山道でやや右へヵーブし間もなく集落に入る。ここが通称「砂原」と言われる70戸程の立石新田であり、道なりに進むと、地域
の中程東側に立石新田伊勢嶋神社の鳥居が見えてくる。
        
            中山道沿いに鎮座する立石新田伊勢嶋神社
 烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から通称である「砂原」といっていたが、この名の通り、この地域は洪水の常襲地帯であった。古くはお伊勢の森から付いたのか、「伊勢島村」とも呼ばれていた。度重なる水害から村民が離散し廃村となり立石村に合併された。その後、立石村や烏川左岸の八幡原や角渕の人々が再び開拓して天和年間(16811683)には立石新田が開発されたという。
『日本歴史地名大系』 「立石新田」の解説
 北境を烏川が東流し、東から南は新町宿(現多野郡新町)、南から西は立石村・中島村、北は群馬郡八幡原村(現高崎市)・同郡宇貫(うぬき)村・那波郡角淵(つのぶち)村(現佐波郡玉村町)と接する。古くは伊勢島村・砂原村と称したが、烏川の度重なる水害を避け他村へ移住、延宝年間(一六七三―八一)に立石村の人々が再開発したという。
 元禄郷帳では前橋藩領、後期の御改革組合村高帳では幕府領、家数四九。中山道新町宿の助郷高一四四石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御両懸人足割入場に人足三一人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。寛保二年(一七四二)八月の大洪水では田畑残らず永川砂入となり、民家六〇軒ほどが流れ、残るは一〇軒余という有様で、流死八〇人余、流馬三〇疋余の大被害を受けた(「大洪水被害記事」須賀文書)。
 
  社の入口である鳥居の両側には幾多の石造物や石祠等が置かれている(写真左・右)
 鳥居に向かって左側には、庚申塔(万延元年 1860)・二十二夜塔(慶応2年 1866)・御岳山大神(弘化2年 1845)・他巳待講等(写真左)。鳥居の右側には、社号標柱の他に猿田彦大神(慶応2年 1866)・大巳貴尊・蚕影山太〇・榛名山〇〇大神や、琴平大神入口の道標石も見える(同右)。
        
      参道を進むと左側に立石新田公会堂が境内に割り込むように建っている。
 立石新田伊勢島神社自体は明治42年(19097月、地域内に祀られていた神明宮等七社を現社地に当時鎮座していた稲荷神社社殿に合祀して、「伊勢島神社」としたという比較的歴史は浅い社である。但し、この社の創建に至る経緯は、この地域一帯の宿命といえる水害等の自然災害を抜きにしては語れないものである。
 社の西側で、地域の集落を越えて直ぐに関越自動車道が横切ったその先に広大な烏川の河川敷が広がり、その一角に「烏川緑地スポーツ広場」が、その公園の東側隅にポツンと『神明宮元宮』、別名『お伊勢の森』と呼ばれる石祠と数本の立木が祀られている。
 ※時間等の都合で、当地を見学・散策できず、写真に納めきれませんでした。
 その石祠の近くに「中山道お伊勢の森」の案内板があるのだが、その案内板によれば、この辺り一帯は、昔から砂原村と言っていて、いつの頃か伊勢島村というようになり、村の北端に、伊勢大神宮を奉斎して、神明宮社殿を建立し。村の鎮守として崇敬していたようだ。その後、寛文年間の水害により、村民が離散し廃村となり、立石村に合併、但し立石村民が再開発して、伊勢島新田村と仮称する(*天和年中 正式に分村して立石新田村となる)。
 時代は下り、明治42年(19097月、神明宮・稲荷神社・琴平社・諏訪社・菅原社・秋葉社・ 戸隠社を稲荷神社社殿に合祀して、伊勢島神社と改称し、鎮守様として専崇したという。
        
                    拝 殿
 中山道お伊勢の森
 このあたりから烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から砂原村と言っていたが、何時の頃からか年代は詳らかでは無いが、伊勢島村と言うようになり、村の北端に伊勢神宮を祀り、村の人々は大神宮さまと称して崇敬した。しかし度々の水害によって村勢が衰え、江戸時代始めの頃には隣村の立石村に合併となった。
 慶安(一六四八)から承応(一六五二)の頃、加賀藩の意向によって、中島村から新町宿に至る中山道としての新しい道が出来たので、立石村の人々により再開発され、道の両側に沿った集落が形成され、その中程に立石村の政所稲荷社を勧請し、その北隣地に教養寺を創建した。
 その時境内に建てられた石造塔には、
 西上刕緑埜郡、伊勢嶋新田 寛文十年 十一月吉日 などの文字が刻まれている。
 天和二(一六八二)年、前橋藩主酒井忠挙が村名を立石新田村改め現在に至っている。中山道は、始めお伊勢の森の北側を通っていたが、寛保二(一七四二)年の大洪水以後川の浸蝕により、文化年中に森の南側を通るようになった。
 広重の浮世絵(中山道六十九次新町宿)はこの辺りの風景を画いたものである。
 昭和元年、御神木とされていた﨔の大木の落札価格が壱千五円参銭であったことからもその大きさが想像される。現存の神明宮元宮の社殿は、昭和六十二年、村の篤志家の寄進であり、河川敷側に保存されているのは極めて稀なことである(以下略)

                                                                              案内板より引用
 ※この案内板は、地域の歴史や水害等の様子を伝えているだけでなく、間接的にも立石新田伊勢島神社の創建にも関わっていると思われ、敢てこの文書を掲載している。
       拝殿に掲げてある社の扁額               本 殿
 天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、「立石新田獅子舞」が他の区より伝承されたという。
立石新田獅子舞」
 天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、他の区より伝承されたものと考えられます。流派は稲荷流阿久津派とされ、羽根獅子3(先獅子、中獅子、後獅子)、カンカチ1、花笠2、笛数人の構成に、天狗(猿田彦大神)が加わった珍しい構成です。
 継承されてきた獅子舞も太平洋戦争終戦後30年間も途絶えましたが、有志の人たちが獅子舞の復活に情熱を注ぎ、寄付金を集め、衣装も整え、昭和54年(1979)に復活されました。しかし、平成2年(1990)後継者不足で再度休止に追い込まれてしまいましたが、平成29年(2017)立石新田の伝統芸能を絶やしてはいけないとの機運が高まり、保存会準備委員会を立ち上げ、平成30年(2018)正式に「砂原獅子舞保存会」(会長 金井聡明)を発足させました。舞一人、笛一人の経験者しかいない中、参加者の募集から始め、この活動は上毛新聞に紹介されました。
 文久2年(1862)、藤岡太音次塗師により獅子頭塗替えを実施後、長期に渡り修理されていないため傷みが著しく、獅子頭等の修復作業から取り掛かり、住民の皆様、企業の方々からのご寄付により、平成30年(2018)、中獅子(女獅子)の頭を修復することが出来、令和元年(2019)の伊勢島神社秋祭りにて披露、そして令和4年(2022年)、43年ぶりに伊勢島神社秋祭りにて区内を巡行する事となりました。
                             「ぐんま地域文化マップHP
」より引用
      
           社殿の右側奥に祀られている境内社(写真左・右)
        
             立石新田公会堂の奥に聳え立つ社の御神木



参考資料群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県立文書館 目録検索HP」
    「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」等
    

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新町八幡宮

 中世の江戸期に宿場として繁盛していた新町宿は、落合新町(落合宿)と笛木新町(笛木宿)の二つが集合した宿場であった。新町宿成立の経緯と地名の由来は、『多野藤岡地方誌』に示されていて、東から南部一帯を緑野郡笛木村、西から北にかけてが下落合村であった。この地域は烏川、神流川の合流し、氾濫原であるために洪水が多く、「落合」という名称も、烏・神奈の落ち合った地域からの地名であるという。下落合に対して旧美土里村(藤岡市)に大字上落合があるが、中山道が開通してからは下落合とはいわず、単に落合といい、落合新宿または落合新町といったという。
 このように新町宿は落合村と笛木村が合体してできた宿場であったのだが、実際は江戸時代を通して、両村の独立性は高かったようだ。地元に残る古文書・古記録には、新町宿をせずに、「落合新町」「笛木新町」と区別されているものが多い。
        
              
・所在地 群馬県高崎市新町2522
               
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧落合宿産土神 旧村社
              
・例祭等 不明
 新町八坂神社から旧中山道(現埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線及び、群馬県道178号中島新町線)を北西方向に進む。この旧中山道の道幅は昔とそれ程変わらないようだが、戦後の開発により新町駅前通りが出来たりして、昔の面影を探すのは困難であるが、町割り自体は昔のままであり、昔の絵図から現在の家を探すことができるという。
 その後、1㎞程進んだ丁字路を左折すると、すぐ右手に高尾山宝勝寺が見え、その隣に「指定村社 八幡神社」の社号標柱が建っている。
        
               新町八幡神社 正面社号標柱
 社の鎮座地は、別当寺である高尾山宝勝寺と共に、江戸時代の中山道新町宿・小林本陣跡の南側奥にあたり、旧中山道という主要街道の宿場町にある鎮守社として祀られていたのではないかと想像する。因みに小林本陣跡とは、「久保本陣」「三俣副本陣」と共に参勤交代の定宿だったといい、建坪135坪あまり、玄関は20畳、つづく広間が15畳といかにも本陣らしい造りとなっていたという。
 
    社号標柱から高尾山宝勝寺の南側脇の路地が参道となっている(写真左・右)。

 新義真言宗豊山派落合山宝勝寺は、森新田にあった地蔵尊を現在の地に移し、新町宿成立以前の慶長13年(1608)に僧堯運によって開山されたといわれる。何回か火災にあっているが、宝暦11年 (1761)に造られた鐘楼門が残っている。造りの立派なものである。鐘は太平洋戦争中供出されたが、昭和28年(1953)再び鋳造された。境内に安永4年(1775)に建立され百番供養塔と六地蔵がある。また墓地には多くの著名人が眠っているが、大和郡山城主柳沢甲斐守保興の室お貞の方が大和の国より江戸へ向かぅ途中新町の本陣で急病でなくなりこの寺に葬った。立派な石塔には「貞蓮院殿貴顔妙倫大姉」「寛政六甲寅年七月初三日」と記されている。
 また柳瀬川(烏川)に初めて船会所を創立して中山道の交通を容易にした事業寒であり、俳人でもあった小林伊左衛門(17221783)、医学者大久保適斎(18401911)、西ヶ原養蚕伝習所(東京農工大前身)に学び、新町養蚕伝習所を創設した境野清衛(18451913)の墓もあるという。
        
              朱を基調と下両部鳥居 これより境内
        
                    拝 殿
 宝勝寺に隣接する新町八幡宮の創建年代は鎌倉時代初期の建久年間(11901198)といわれ、その本殿は元禄4年(1691)に再建されたもので、鎌倉時代の建築様式を残し、柱の彫刻は精巧なものである。
 社の鎮座地は、江戸時代の中山道新町宿・小林本陣跡の奥にあたり、旧中山道という主要街道の宿場町にある八幡神社として賑やかだったことがうかがえる。
 拝殿には絵馬が奉納されているが、文久3年(1862)に新町宿の遊女達が奉納した三面の大作の絵馬は町の文化財に指定されている。一面は玉村の千揮玉斎が描いた「紅葉狩」、他の二面は境町出身の金井研香作の「勿来関」と「花木図」で横六尺縦三尺の大絵馬で保存状態が良い。「花木図」中には「丸富楼」の遊女達が作った俳諧が記されており、新町宿色街の繁栄と俳諧の普及の様子が偲ばれる。
        
         拝殿側面に設置されている羅袈裟喜氏指定文化財の案内板
 高崎市指定文化財
 ①八幡宮絵馬
 一、「勿来関」(板面著色・額装)
 作者   金井 研香
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  高橋屋の遊女(7名)
「勿来関」は、郎党2名を従えた騎馬武者を中心の絵柄として、背景に桜花を配することで、華やかさと潔さを象徴している。
 一、「花草図」(板面著色・額装)
 作者   金井 研香
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  丸富楼の遊女(8名)
 遊女8人の俳句が書かれている。
「花草図」は、画面右から上部にかけて、八重かと思われる豪華な桜花でおおい、花影の下部にはひかえめに草花を配す、見事な画面構成である。
 一、「紅葉狩」(板面著色・額装)
 作者   千輝玉斎
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  絹屋の遊女(9名)
「紅葉狩」は、平維茂が鬼女を討たんとする瞬間をとらえており、逃れんとする鬼女の動きが劇的な効果を高めている。
                                       案内板より引用
指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財
名称:八幡宮絵馬 三面(はちまんぐうえま さんめん)
・指定年月日:昭和55110
 ②天神の獅子舞
 天神地区(現在の第2区周辺)の人達によって伝承されている稲荷流獅子舞で、雄2頭、雌1頭の一人立ち3頭獅子である。獅子は鳥総を飾った頭をつけ、タッツケ袴、白足袋、草鞋ばきで、腰太鼓をつける。元禄4年(1691)落合宿で八幡宮再建のおり、新町産の一本桐で獅子頭を新調したといわれている。獅子3頭のほか天狗とカンカチが加わり、笛の伴奏で舞全体をリードする。祭りの時は天神様・八幡宮を参拝し、神官に祓い清めてもらい、舞を奉納してから上三町(現在の第1区、2区、3区)の祭会所で舞を披露する。
                                       案内板より引用
指定種別:高崎市指定重要無形民俗文化財
名称:天神の獅子舞(てんじんのししまい)
指定年月日:昭和55110
        
                    本 殿
 
     社殿の右側にある神興庫         神興庫の右並びに祀られている石祠
 市指定文化財「八幡宮神輿」が大事にある。          詳細は不明
③八幡宮神輿
寛政5年(1793)宿場の大火によって焼失したものを、信仰の篤い宿場の人々の悲願によって享和元年(1801)に復元されたもので、渡御神輿と称される荘厳なつくりです。
落合宿の産土神、八幡宮の神霊を祭事に移して、宮本・仲町・橋場の各町内に御旅所を設け、年番の町内が奉仕した。神輿のほかに四神旗もあり、青龍・朱雀・白虎・玄武の信仰は中国から渡来して大和時代に定着したが、庶民に浸透したのはずっと後である。
                                       案内板より引用

・指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財
・名称:八幡宮神輿(はちまんぐうみこし)
指定年月:平成3127
        
            境内の東側隅に設置されている第一区花車庫
 八幡宮の氏子区域は宮元町(一区)、仲町(二区)、橋場町(三区)の三町から構成されていて、各区お囃子が異なるという。
「新町ふるさと祭り(山車まつり)」は、2年に1回の隔年開催の行事であり、8月中旬に町内110区の各山車・屋台が日中は地元を廻り、夕方から駅前通りに集結しお囃子の競演、叩き合いを行うものだ。
 
  帰り際に境内の一角から鳥居方向を撮影      鳥居の先にある特徴ある手水鉢
        
                   境内の様子


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県神社庁HP」「ぐんま地域文化マップHP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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新町川岸町諏訪神社

 埼玉県は都道府県別の人口は東京都、神奈川県、大阪府、愛知県に次ぐ全国第5位であり、日本国の総人口の約5.91%を占める県であるのも関わらず、実は人口がゼロの大字が存在する。
 上里町毘沙吐(びさど)は、神流川と烏川の合流地点の南側に位置する、埼玉県の最北端の人口ゼロの大字である。 群馬県の高崎市と玉村町に接した地域で、弘化3年(1846年)の神流川・烏川の大洪水によって、 村のほとんどが流失してしまい、対岸の新町へ移転して今は誰も住んでいない人口ゼロの大字となっていて、毘沙吐に行く場合は、高崎市を経由しなければならない。
 毘沙吐の地名の由来は、村の神社で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の豊凶を占う「御歩射(おびしゃ)」と、 それを行う場所を示す「処(と)」を合わせた地名といわれている。また、金窪城の北に位置していて、 北の守護神である毘沙門天がここに祀られていたからという説もある。
 かつて江戸時代の毘沙吐村は、幕府の直轄領で、60軒程の家があり、村内に三国道の渡船場や藤ノ木河岸があった。 神流川・烏川を利用して舟で貨物を運んだり交通したりする舟運や漁業が盛んで、毎年鮎1200匹・鮭42本を献上していた。
        
              
・所在地 群馬県高崎市新町282
              ・ご祭神 建御名方神
              
・社 格 旧毘沙吐村鎮守 旧村社
              ・例祭等 不明
 新町八坂神社から自衛隊新町駐屯地を右に眺めながら玉村町方面に北東行する。その後、自衛隊新町駐屯地を過ぎたあたりから群馬県道40号藤岡大胡線となり、周囲も住宅街が建ち並ぶ景観を眺めながら、烏川に架かる岩倉橋に登る手前を右斜めに入って行くと、進行方向左手に新町川岸町諏訪神社の正面鳥居が見えてくる。
 地図を確認すると、「上武大学・高崎キャンパス」のすぐ東側で、すぐ北に烏川の土手が見える場所に社は鎮座している。
        
                新町川岸町諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「毘沙吐村」の解説
 金窪(かなくぼ)村の枝郷(天保郷帳など)。烏(からす)川と神流川の合流点南部に位置し、北は烏川を隔て上野国那波郡川井(かわい)村(現群馬県玉村町)、東は黛村。村内に三国街道の渡船場藤ノ木渡および藤ノ木河岸がある。神流川はかつて西の上野国新町宿(現群馬県新町)との間を流れていたが、寛政三年(一七九一)の洪水によって南の金窪村との境を流れるようになったといわれる(風土記稿)。明治一〇年代の二万分一迅速測図では合流点手前の神流川東岸に毘沙吐村地、西岸に旧毘沙吐村と記され、現在当地は合流点付近の河原となっている。戦国期よりその名がみえるが、正保国絵図・田園簿には村名はみえず、近世前期は金窪村のうちで、元禄一一年(一六九八)に分村したという(風土記稿)。
『新編武蔵風土記稿 金窪村』
古は上武の國界を流れ、本郡毘沙吐村と、上野國緑野郡新町宿の界にて、烏川に入しに、寛政三年の洪水に瀬替り、郡内を流れ、毘沙吐村と當村の界にて烏川に入れり、幅二百間許、

 上里町黛地域に鎮座する黛神社に関して「埼玉の神社」では、当社氏子区域は、近世の黛村を継承している大字黛は、烏川沿いに「川岸(かし)」と、南部の「元郷」に大別されていて、川岸は、かつて「藤の木河岸」があって、船稼ぎが主要な生業となっていたという。河岸の成立は、万治2年(1659)に黛村の百姓が毘沙吐村地内へ河岸場取り立てを願い出て、問屋を命じられたのが始まりという。文化7年(1810)の当社再建時の木札には、「天下泰平国家安隠氏子繁昌」に続いて「船中無難」の文字が見える。

『日本歴史地名大系』 「藤ノ木河岸」の解説
 毘沙吐村にあった利根川上流筋にあたる烏川の河岸場。「風土記稿」の同村の項に「河岸場アリ、藤ノ木河岸ト称フ、江戸マテ水路四十六里余」と記される。河岸の成立は、万治二年(一六五九)黛村の百姓が毘沙吐村地内へ河岸場取立てを願出て、問屋四軒を命じられたのが始まりといわれる。延宝七年(一六七九)頃に洪水で毘沙吐村から黛村へ河岸場を移転するが、両村は以前同様に船稼をするよう申渡されている(藤ノ木河岸問屋文書)。宝暦八年(一七五八)上州山中領(現群馬県の神流川上流域)の材木を烏川支流の神流川で流し、藤ノ木河岸から筏に組んで江戸まで輸送した(群馬県茂木家文書)。初期には年貢米や領主物資の輸送が中心であったが、農村における商品流通の発展に伴って繁栄し、安永三年(一七七四)の河岸問屋株設定時には四軒が公認され、同四年には上利根十四河岸組合の結成に参加(当時の船問屋は四軒)、無株の問屋や船頭が勝手に輸送に携わらないように申合せた(「上利根十四河岸組合船問屋規定証文」群馬県須賀家文書)。
        
           境内に入ったすぐ右手に設置されている案内板
        
                   高崎市指定文化財 東音頭(あずまおんど)の案内板
 高崎市指定文化財  東音頭(あずまおんど)
 東音頭は古くから伝承されてきた郷土芸能で横樽音頭(よこたるおんど)ともいわれている。
 発祥は神流川合戦の戦死者の御霊を慰めた盆踊り唄といわれ、お囃子の鉦に享保元年(1716)とあった事からそれ以前より唄い継がれてきたと思われる。
 祭文(祭祀の際、奉ずる中国風祝詞)から出たのを、明治初め現代風に唄い改めたともいわれている。
 毘沙吐村(現第7区)が安政4年(1857)まで神流川の東にあった事から東音頭と称された。
 大正10年新しく振り付けた踊りと共に藤岡町(現藤岡市)で披露された。代表的な唄は神流川合戦天正盛衰記で、昭和10年、NHK
前橋放送局より全国に放送され、その後レコード吹き込みも行われた。
 
     「笠付庚申塔・道標」の案内板        「諏訪神社の海老虹梁」の案内板
        
     
参道左側の奥の目立たない場所に道祖神や庚申塔などの石碑が建っている。

 川岸町の名は明治12年(1879)群馬県に所属することになってからのもので、以前は武州賀美郡毘沙吐村と称し、その位置は現在地より東で、現在の河原のあたりで当時は神流川の右岸にあった。弘化3年(184610月に毘沙吐村村民五名が連名で笛木新町地内の、以前神流川の川敷へ移転願を申し出ている。そのあらましは、
「当村は昔より烏川と神流川両川の落合う所で、前々は石高一五石あった。年々本流が畑をけずり取り、石高が九九石あまり川欠になり、残高が五〇石九斗九升になってしまった。民家は六〇軒あり難渋していた。然る処六月中旬より七月上旬迄大雨が打続き'近年稀の満水にて、両河川共本流が村中に流れ込み、神流川通で家数二五軒、烏川通にて家数二軒、都合二七軒流出した。残った家もすべての家が、家の中の諸道具を隣村々へ流されてしまったので村中で引っ越すことにきまったが、その日から住む場所もなく困っている。そこで上州緑野郡笛木新町宿地内で以前は神流川河川敷であった所に広い土地がある。この地に村中で住みたい……後略」
とある。やがてこれが認められ、安政5年(1858)までに神社・寺・墓地まで移転が完了した。その後、毘沙吐村の所管はしばしば変り、慶応4年(18686月大宮県に、同年10月に岩鼻県に編入、明治4年(1871)入間県、明治6年(1873)熊谷県、明治9年埼玉県、そして明治12年(187911月群馬県新町駅に移籍、この時から川岸町と改称したという。
             
                           参道を進んだ左側に建つ「沿革之碑」
この「沿革之碑」は、昭和10年(1935年)の建立で、延長3年(925年)に毘沙吐(びさど)村に創建されたと伝わることから、弘化3年(1846)に村を襲った大洪水のために境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築した等、細やかな沿革を刻印されているようだが、所々見ずらい為、このような簡潔な説明にかえさせて頂いた。
        
                 境内に聳え立つご神木
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 毘沙吐村』
 烏川 村の北國界にあり、川幅五六十間、此川に渡船場あり、三國海道の掛れる所なり、又河岸場あり、藤の木河岸と稱す、江戸までの水路四十六里餘、
 諏訪社 〇稻荷社 以上二社、村の鎭守にて、龍光寺持、 末社 大杉明神 水神
 龍光寺 禅曹洞派、金窪村雲陽寺末、藤木山と號す、開山文應は本寺四世の僧にて、享保八年示寂す、本尊釋迦を安ぜり、〇藥師堂 前寺の持、


 江戸期に(黛)村鎮守であった諏訪社は、かつて当地の名主を務めた小暮家の先祖が信濃国上諏訪から移り住む際に、諏訪神社を守護神として勧請したのが始まりと伝わる。本殿に納められた幣帛筥には正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から正一位を拝受したことが記されている。寛政元年(一七八九)には烏川決壊のため旧社地及び社殿が流され、文化七年(一八一〇)に字東耕地に遷座したという。
                         「埼玉の神社 上里町 黛神社」の項より引用
        
                    本 殿
   社の本殿は宝暦年間に造営されたもので「海老虹梁」部の彫刻は素晴らしいとのことだ。
 諏訪神社の海老虹梁
 この神社は延長三年(九二五)毘沙吐(びさど)村(埼玉県上里町)に造られたと伝えられます。弘化三年(一八四六)に村を襲った大洪水のために境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築されたと言われます。社殿は宝暦年間(一七五一〜六四)に造営され、中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社が置かれています。建築は精巧を極め、特に海老虹梁(エビの様に湾曲した梁)の「ぶどう」と「りす」の彫刻は、桃山様式を窺わせます。
                                   「境内案内板」より引用
 
            社殿奥に祀られている末社石祠群(写真左・右)
        
            石祠群のすぐ右側にある
笠付庚申塔・道標
 笠付庚申塔・道標
 人体には三種の虫(三尸 さんし)がいて、六十日ごとに来る庚申(かのえさる)の夜寝入った人体を抜け出し天帝に日頃の罪業を報告すると言われます。三尸が登れない様に寝ずに酒盛り飲食をして夜を明かし、治病・長寿を得る庚申待(こうしんまち)という行事がありました。この庚申待を記念として建てたのが庚申塔です。
 庚申塔の正面には「正徳二年 本ふじの木 奉建立庚申供養 施主村中 辰十月十日」、そして右側面に「従是(これより)右本庄宿」、左側面に「これより 加し加い道」と刻まれています。このことから、道標として街道の辻に建てられたことがわかります。「従是本庄宿」と刻まれていることから、安政七年(一八五七)まで神流川の東にあった毘沙吐村が、度重なる洪水で新町に村移りする以前に造立され、村移転の際に当所に移建されたことを示しています。
                                   「境内案内板」より引用
        
        社殿右側に祀られている古峯社、その隣には山岸町 山車庫
        
                   境内の一風景


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」
     「
埼玉の神社」「ぐんま地域文化マップHP」「境内案内板」等

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