古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

雀神社

 足利成氏 (あしかがしげうじ)は、室町中期の武将。足利持氏の子。幼名は一般に万寿王丸とされている。後に初代の古河公方(こがくぼう)となる。1440年(永享12)の結城合戦に兄安王丸,春王丸らとともに参加する。兄2人は捕らえられ上洛の途中美濃で殺害されたが,成氏は逃れて信濃に入ったともいわれる。その後数年を経て鎌倉に戻り,幕府から正式に許されて鎌倉府を再建した。49年(宝徳1)には,将軍義成(後の義政)の偏諱(へんき)を得て成氏と称した。54年(享徳3)関東管領上杉憲忠を西御門の御所で謀殺した。以後,幕府・関東管領上杉氏と対立すること約30年に及んだ。この乱を『享徳の乱』と呼ぶ。成氏は,下総古河を本拠地として北関東の伝統的豪族層の支持を得た。俗に古河公方と呼ばれ,伊豆堀越(ほりごえ)に入部した堀越公方足利政知と対峙する。71年(文明3)下総古河を一時追われたが,再び回復し,その後上杉氏勢力の分裂をふまえて幕府との和睦を図る。82年都鄙和睦が成立し,享徳の乱に終止符を打った。その後,成氏は家督を嫡子政氏に譲った。
 足利成氏の反乱の余波は京都そして全国まで及び、後の応仁の乱や戦国時代の始まりとなる。
「享徳の乱」が始まると、すぐに当時の天皇である「後花園天皇」から、足利成氏の追伐命令が正式に出され、足利成氏は朝敵(朝廷の敵)として扱われることになったが、滅亡もしくは降伏せずにしぶとく生き残り、1497930日、成氏は64歳で天寿を全うした。まさに波乱に満ちた人生であった。成氏の法号は「乾亨院殿久山昌公」。墓所は栃木県野木町野渡地域にある曹洞宗西光山満福寺で、古河公方ゆかりの寺院である。
 茨城県古河市宮前町に鎮座する雀神社は、成氏ら歴代古河公方から崇敬された神社で、長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。
        
            
・所在地 茨城県古河市宮前町452
            
・ご祭神 大己貴命(大国主命) 少彦名命 事代主命
            
・社 格 旧古河町総鎮守・旧郷社
            
・例祭等 春祭り 48日 例大祭 81日 秋祭り 118
 野木町・野渡熊野神社一の鳥居から西行し、古河公方ゆかりの寺院である曹洞宗満福寺の門が見える路地を左折する。因みに満福寺は戦国時代の明応元年(1492年)に初代古河公方となった足利成氏が建立し、この寺に葬られているという。
 進路方向右手には渡良瀬川の堤防が見える。この道は嘗て「野渡河岸」という年貢米専用の河岸として使われていて、渡良瀬川支流である思川にあった「友沼河岸」と共に高瀬舟が行き交い、荷物の陸揚げや積み込みが盛んな地あったという。そのような郷愁に浸りながら、今では至って静かなこの道を800m程南下すると、進行方向右手に雀神社の社叢林が見えてくる。
        
                   雀神社正面
                参拝日 2025年1月21日
『日本歴史地名大系』 「古河町」の解説
 渡良瀬川東岸に所在。中世の古河町は古河城と雀神社の間、当時の奥州街道沿いにあったといわれ、宿の北は野渡(現栃木県下都賀郡野木町)に接していた形跡がある。しかし古河御城内外総絵図(佐藤洋之助蔵)などによって知ることができるのは近世に再開発された後の姿である。「古河志」の引く「小山家記」に「奥平千福代、是迄の町家侍小路となり、今の町屋は其時の替地也。元和六年庚申の事とみゆ」とあり、「古河旧記」の「同(元和)六年庚申五月より御家中町屋敷割有之、同七年酉三月家作出来」や、古河古来仕来覚(千賀忠夫文書)の奥平忠昌の項に「此の御代、長谷曲輪・辰崎曲輪出来、先年町屋敷侍小路と成ル」とあることから近世古河町の大改造は奥平忠昌が城主であった元和六年(一六二〇)五月から翌年三月にかけて行われ、中世以来の古河町は後に侍屋敷となった所にあったことがわかる。
 武家屋敷は城のある半島状の台地の根元の位置(ここが旧古河宿)と、諏訪郭(俗に出城)を取巻く位置にあり、小砂(こすな)町・桜町・観音寺町・片(かた)町・厩(うまや)町・中(なかの)町・白壁町・代官町・鳥見町・四丁屋敷(しちようやしき)・天神町・杉並町が前者内に、六軒(ろつけん)町・四軒(しけん)町・鷹匠(たかじよう)町・長谷町などの侍屋敷町が後者内にみられる。足軽屋敷七ヵ所などはいずれも町外れにみえる。
       
            社の入口に聳え立つ大欅(写真左)  鳥居の反対側にも立派な欅が
       古河市指定文化財(天然記念物)       聳え立つ
       
                 
雀神社の大欅の案内板 
 神社の入口にあり御神木とされている。2本の欅が接着・合体しており「夫婦欅(めおとけやき)」とも呼ばれている。樹高は25.0m、目通り周囲は8.8mにも及ぶ。煙草の投げ捨てによると考えられる火災で一部が焼かれ、1995年(平成7年)に樹勢回復が試みられたが、片側の1本はあきらめざるを得なくなり、強化繊維プラスチックの被覆により腐朽進行を防いでいる。
       
                  雀神社 一の鳥居
           僅かに参道の先には渡良瀬川の堤防が見えている。
       
        参道は途中で右側に曲がり、その正面に二の鳥居が見えてくる。
       
                   広大な境内
 雀神社とは、茨城県古河市宮前町(厩町)にある神社。社名の「雀」は、昔この辺りを「雀が原」と言ったことからその名がつけられたとも、「鎮め(しずめ)」が変化したものとされ、旧古河町の総鎮守である。かつては茨城県西部の猿島郡で唯一の郷社であった。
 社伝によれば、崇神天皇の御代に豊城入彦命が東国鎮護のために勧請した「鎮社(しずめのやしろ)」に始まるとされる。一方、清和天皇の貞観年間(859年〜877年)に出雲国出雲大社の分霊を祀ったことに始まるとする伝承もある。室町時代・戦国時代には、足利成氏ら歴代古河公方家の崇敬を受けた。長禄元年(1457年)に成氏が参拝し、「天下泰平国土安穏」を祈願したと伝えられている。
 弘治2年(1556年)、第3代足利晴氏室の芳春院と思われる「御台様」が鰐口を寄進している。(『古河志』) 天正19年(1591年)には、第5代足利義氏の娘であり、古河足利家を継承していた氏姫が、市内駒崎の田地を寄進している。
 江戸時代も引き続き歴代古河城主に崇敬されており、現在の社殿は慶長10年(1605年)に松平康長が造営したものである。その前は古河城桜町曲輪の茂平河岸のほとりにあり(『古河志』)、かつての別当寺だった神宮寺と並び建っていたと考えられているが、康長による城の拡張に伴い現在地に移転した。慶安元年(1648年)には、幕府から15石の朱印地が寄進されている。
 
明治 5年(1872年)、猿島郡・西葛飾郡の郷社に指定された。1912年(明治45年)、渡良瀬川の改修工事のため、古河の北西端にある悪戸新田が河川敷に変わることになり、この地域の氏神だった第六天神社が合祀された。1953年(昭和28年)の河川改修工事では、境内地が縮小され、社殿も約50m東に移転している。
        
                                       神楽殿
 当社では「悪戸新田獅子舞」が奉納されていて、毎年、7月下旬の夏祭りの際に市内を巡行している。地元では「ササラ」と呼ばれていて、室町時代に初代古河公方・足利成氏の命により始められたと伝えられている。当時流行していた悪疫の退散と平癒を祈願するため、悪戸新田の家々の長男から選ばれた子供たちに獅子頭をかぶらせ、各戸を巡り舞わせた。踊り手は3人、囃子は4人、用いる楽器は踊り手が鼓、囃子が笛である。のちには悪戸新田だけではなく、旧古河町内を巡るようになった。1910)(明治43年)に開始された渡良瀬川の改修工事により、悪戸新田は河川敷に変わり、人々は移転したため、しばらく取り止められていたが、1926年(昭和元年)の伝染病流行を機に、翌年、出身者により保存会が結成され復活した。古河市指定文化財(無形民俗)に指定されている。
 また、悪戸新田獅子舞に使用されている獅子頭も古河市指定文化財(有形民俗)。         
           神楽殿の奥に建つ神興庫らしき建物(写真左・右)
        
                    拝 殿
        
              境内に設置されている社の案内板
 武家時代文化ライン 雀神社
 雀神社の祭神は、大己貴命・少彦名命・事代主命の三神であるが、その創立は明らかでない。伝承によれば、貞観年間(859876)に出雲大社から勧請したものだという。その社名については、鎮宮が転化して雀宮になったという。その後、康正元年(1455)足利成氏が古河公方となってから、初代成氏はもとより代々の公方の崇敬が高く、また、徳川将軍家、並びに累代古河藩主の崇敬もあつく、御朱印地十五石を賜った。したがって、社殿の造営修理なども累代の藩主が行ない、現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長の造営したものである。
                                      案内板より引用

        
                                      本 殿
 流造銅板葺の本殿、および本殿の前に建つ拝殿と幣殿から構成される社殿に関して、棟札銘によれば、慶長10年(1605年)の古河城主・松平康長による造営。その後、本殿の銅板葺替え、拝殿の入母屋化、向拝(こうはい)取付けなどの改修が施されて現代に至る。建物の特徴としては、本殿には、頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)・化粧棟木の実肘木(さねひじき)・海老虹梁(えびこうりょう)などに見られる唐草絵様繰形、大瓶束(たいへいづか)に豕扠首(いのこざす)の妻飾(つまかざり)があり、拝殿には、大面取(おおめんとり)の柱、二重虹梁(こうりょう)に蟇股(かえるまた)の架構形式、舟底形の天井などがある。桃山期の特徴が見られ、当地方でも有数の古建築である。古河市指定文化財(建造物)。
 
  左から境内社・松尾社・第六天宮・楯縫社                境内社・三峯神社
 三峯神社の手前に記念碑があり、そこには「本講ハ文政年間ノ創立ニ係リ初メ御船手講ト稱シ專ラ舩戸及ビ其ノ附近ノ講員ヲ以テ組織〇〇〇アリシモ時勢ノ推移ニ〇〇改稱ノ必要ヲ認メ大正五年三峯山古河文政講ト改メ創始ノ紀念ヲ保有シ益講ノ隆昌ヲ圖リツ〇アリシガ星霜ヲ歴ルノ久〇〇遥拝所〇ル石宮ノ漸ク破〇セルヲ以テ〇ニ改築ノ議ヲ起〇タルニ偶三峯本社ニ叅詣ノ〇リ社務所ニ懇望〇タル結果御神木ヲ授與セラルゝノ好機ニ際會シ本年陽春〇季ヨリ之ガ造營ニ着手〇今日竣工ノ式ヲ舉ケ遷宮シ奉ルニ至ル是實ニ神徳加護ノ賜ニ〇テ講員一同ノ深ク感銘スル所以ナリ
茲ニ本講ノ由来ト社殿造營ノ記ヲ録シ永久ニ傳フト云爾 昭和七年十月十四日 古河文政講」と刻まれていた。
        
               旧古河町総鎮守の風格漂う立派な社




参考資料「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」「古河市観光協会HP
    「雀神社
HP「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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秩父市黒谷 和銅採掘遺跡を訪れました。

 11月下旬ですが、秋の風に誘われて、目的もなく、ぶらりと秩父路のドライブを楽しみました。長瀞の岩畳周辺の木々を鑑賞し、秩父市黒谷地域に鎮座している聖神社に参拝、その後、埼玉県指定旧跡に指定されている「和銅遺跡」を訪れました。
「和銅遺跡」は別名「和銅採掘遺跡」とも呼ばれ、埼玉県秩父市黒谷地域に所在する、銅の採掘露天掘跡を中心とする遺跡であります。

 まずは秩父市黒谷地域に鎮座している聖神社に参拝を行いました。
        
                   聖神社正面
        
                     拝 殿
        
       聖神社の石段手前には「和銅露天掘り跡と聖神社」の案内板がある。
  聖神社は和銅元年の創建といわれ、和銅献上に関係が深いと伝えられている社である。
 和銅露天掘り跡と聖神社
 和銅(自然銅)がここ黒谷で発見され、奈良の都へ献上されたのは慶雲五年(七〇八年)一月十一日のことでした。このことを非常に喜ばれた元明天皇は年号をすぐに和銅と改め、国を挙げてお祝いをし、「和同開珎」を発行しました。「和銅露天掘り跡」はこの先六百メートルほど、徒歩約十五分で到着します。
 祝典のために「祝山」に建てられたお宮を今の地に移し、聖神社と称して創建されたのが同じ年の二月十三日でした。
 和銅石十三個をご神宝として祀り、また蜈蚣が「百足」と書かれることにちなんで、文武百官(たくさんの役人)を遣わす代わりにと朝廷から戴いた雌雄一対の蜈蚣をご神宝として併せ祀りました。
 以来、里人は、黒谷の鎮守様として千三百年の長い歳月「この上なく耳聡く口すべらかな」(何を言ってもそのことをよく理解してくれ、人の心に染み入る言葉をかけてくれる)神として崇拝してきました。
 その間、今までに五回、社殿建替えが記録に残っています。現在の社殿は、昭和四十年一月二十五日秩父市有形文化財に指定されたものです。
 境内には宝物庫・和銅鉱物館があり、自然銅、和同開珎、和銅製蜈蚣、数百種の和銅関連鉱物、当地出土の蕨手刀などが見学できます(以下略)。
                                      案内板より引用

 
 聖神社から東方向に通じる山道を進むと、途中
5・6台分駐車可能な専用駐車場があり、そこに停めてから遺蹟に通じる地点に到着、そこから山道を降りるように進みました(写真左)。そこの降りる入口付近には和銅遺蹟の案内板も設置されています(同右)。
        
                             和銅遺蹟に向かう途中の様子
 最近の熊出没騒動の関係で、当初は心細く感じられましたが、聖神社の参拝客の中には、筆者と同じく、当遺跡に立ち寄る観光客も数名いたので、その点は心強かったです。
        
             和銅遺蹟に設置されているモニュメント
 飛鳥時代末の元明天皇の時代に武蔵国秩父郡(現:埼玉県秩父市)から自然銅(ニギアカガネ)が発見され、708年(慶雲5年)正月11日に朝廷に献上されました。これを大いに喜んだ元明天皇は、同日に元号を「和銅」に改元し、その後日本最初の流通通貨となる和同開珎を発行したといいます。当地には、銅の産出や献上・鋳造・運搬などにちなむとされている地名や言い伝えが多く残されているとのことです。
       
  沢沿いに岩肌があらわになった2か所の「和銅採掘露天掘跡」が見えます(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿 黒谷村』項では、「箕山 土人或は金山とよび、或は和銅山と云、往古和銅をほり出せしは、卽此山の内なり、元明天皇慶雲四年武藏國秩父郡より始て和銅を獻り、よりて改元和銅元年としたまう、此事は國史に載する所なり、さて其和銅を出せし地は、當村の箕山なりとも云へど凡千年餘の星霜を經ぬれば、其所も定に知りがたし、たゞ土人の傳へをとれるのみ、茲に銅山の形勢を見るに、東向して巖徑を〇ること八九町、盤回して頂に至る、巨岩往々に突兀として峙立せり、其色頗る赤氣を帯びて、銅色を含めり、往古〇ちしと云へる所は、盤岩の山を南北にほり盡して中斷し巨巖東西に對峙せり、中斷せし所を和銅澤とよべり」と載せていますが、現実ここの岩盤を仰ぎ見るに、嘗て1300年前の奈良時代の息吹を感じられるような不思議な感傷に浸ってしまいました。

              遺跡付近にある案内板(写真左・右)
 和銅遺跡
 慶雲五年(七〇八年)今から千三百年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都に献上されました。これを喜んだ元明天皇は年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税の免除がされたと「続日本紀」に書かれています。
 その中に、和銅発見に関係したといわれる日下部宿禰老、津島朝臣堅石、金上元(金上无とも)の名前も見られます。
 都から遠く離れた秩父が、歴史の表舞台にあらわれ、一躍脚光を浴びました。
 催鋳銭司の長官に多治比真人三宅麻呂が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」が発行されます。国家の体制が整い、都城建設を進め、通貨時代の幕開けを告げることとなった献上和銅の初めての産出場所は、ここ「和銅露天掘り跡」なのです。地質学上「出牛―黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗堀まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。
 近くには和銅元年に創建され、和銅献上に関係が深いと伝えられる聖神社があり、大小二個の和銅石(自然銅)・和銅開珎・和銅製の雌雄一対の蜈蚣(ムカデ)がご神宝として収められています。なお、付近に散在する地名に和銅献上時を偲ばせるものが多いのも歴史の深さを物語っていると思われます(以下略)。
                                      案内板より引用
 また、この地には不思議な羽をもつ家来の助けにより、飛ぶ鳥より速く毎日奈良の都へ和銅を送り届けた「羊大夫の伝説」が残されていて、歴史のロマンが今尚広がる地でもあります。
        
             和銅遺跡周辺から見た秋の風景を撮影
 奈良県の遺跡から和同開珎よりも古いとされる「富本銭(ふほんせん)」が出土し、1999年に教科書を書き換えるニュースとなって、日本最古の貨幣が和同開珎ではない可能性がでたとはいえ、古代日本において、貨幣経済の流通を広めたという意味において、和同開珎の意義は非常に大きいことには変わりはないと考えます。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」「採掘遺跡案内板」等

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野渡熊野神社

 野木町煉瓦窯は「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」といい、ホフマン式の煉瓦窯で、明治23年(1890)から昭和46年(1971)までの間に多くの赤煉瓦を生産し、日本の近代化に貢献した。この煉瓦窯には16の窯があり、1つの窯で1回に約14,000本、全ての窯を連続して使用した場合には約22万本赤煉瓦を生産することが可能であった。また、この煉瓦窯は創業時から約130年経過した現在においても、ほぼ原型のままで存在しており、建造物として価値が高いものである。昭和54年(1979)に国の重要文化財に指定され、さらに平成19年(2007)には、「近代化産業遺産群」の一つに選定された。
 埼玉県深谷市上敷免地域にある「旧煉瓦製造施設」は、工場の一部として「ホフマン輪窯六号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに平成95月、国重要文化財に指定されていて、ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯六号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものである。
 この野木町煉瓦窯の300m程南側という近距離に野渡熊野神社は鎮座しているのだが、東側に隣接する光明寺と道路を挟んで社側の壁面には大正13年(19243月に野木町煉瓦窯で製造されたであろうレンガが道路沿いに南北に続いている。
        
            
・所在地 栃木県下都賀郡野木町野渡752
            
・ご祭神 伊弉諾尊
            
・社 格 旧野渡村鎮守・旧村社
            
・例祭等 例祭(ささら獅子舞) 415日 小祭 1115日 
                 神嘗祭 12月15日 
                  *2025121日参拝  
 栃木県野木町野渡地域は、渡良瀬遊水地の東側にあり、渡良瀬川とその支流である思(おもい)川の合流点南側に位置する。因みに「野渡」と書いて「のわた」と読み、古くは「野和田」と記していたという。
 野木神社の一の鳥居がある栃木県道・茨城県道261号野木古河線を600m程南下した丁字路を右折する。この丁字路の左側にはコンビニエンスストアがあり、反対側には「曹洞宗 満福寺950m」と書かれた看板も見え、分かりやすい。右折後、800m程進んだ「光明寺」の西側隣に野渡熊野神社の一の鳥居が見えてくる。野木神社から直線距離にして1㎞程南西方向に当社は鎮座していて、比較的近距離に位置している。
        
               野渡熊野神社 一の鳥居正面
『日本歴史地名大系』 「野渡村」の解説
 渡良瀬川と思(おもい)川の合流点左岸に位置し、北は本野木(ほんのぎ)町、南は下総国葛飾郡古河町。古くは野和田と記したといわれる。中世には小山庄に含まれた。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に上郷分として「のわた」とあり、伊勢役銭一貫三九〇文を負担している。
 慶安郷帳では田七四石余・畑四〇四石余、ほかに満福(まんぷく)寺領二〇石。享保八年(一七二三)野木宿の定助郷となり勤高四七八石(「日光街道野木宿助郷帳」坂本重通文書)。
 
 鳥居手前左側にある祭典日程を記した案内板     鳥居手前で右側にある由来を記した案内板
 御祭神   伊弉諾尊
 創立年月日 大宝三年(七〇三)と伝う
 御由緒
 紀州熊野の人 川島対馬 故ありて諸国を歴遊 当地に至りて 住居を定め 開墾して一村落を起こし次第に人口を増やしたるも 土地を鎮むる神社なきを以って 生国紀州なる熊野神社を分霊奉戴して此所に祀れるなりと
 熊野神社祭典日程
 三月十五日  事始めの祭
 四月八日   出社祭
 四月十四日  歸社祭
 四月十五日  例祭
 四月十六日  雹祈祷祭
 四月二十五日 後祭
 十一月十五日 小祭
 十二月十五日 神嘗祭
                                     各案内板より引用
        
                  南北に伸びる参道
 
     参道途中に建つ二の鳥居              三の鳥居
        
                しっとりと落ち着いた境内
 栃木県野木町野渡は、嘗て「野和田」と記していたという。行田市の和田神社でも紹介しているが、一般的に「和田(わだ)」は各地に存在する地名である。「和田」は現在、縁起の良い漢字を使っているが、輪(わ)や処(と)が訛った「わた」が語源で、周囲を山で囲まれた小平地や河川の曲流部にあたる場所で、曲がっている田、輪のような地形の田、丸田から来ているという。昔の人は海や川が湾曲しているところを「わだ(輪処)」と呼んでいたことから、この地名がうまれ、こういう場所は港に適していたことから各地に存在するのはある意味当時の人々の共通の認識だったのだろう。
 また「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じているらしく、例えば昔の大阪には「わたなべのつ(渡辺津)」があり、いまは「渡辺橋」に名残りをとどめている。さらに、海や川に祈りを捧げる場所である「わたらい(渡会、度会)」の地名ともつながっており、三重県には伊勢神宮にまつわるその地名がいまも残っている。
 それに対して、「野(の)」は、一般的に「平担な地形」と解釈するが、奈良時代以前には「奈良」の「奈」は「乃(な)」と書き、「野」も同義語で「な」と呼んでいた。日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり、一方、「和名抄」伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓じていた。このように、乃(な)は、ノに転訛して後代に佳字の野(の)を用いたようで、海洋民の渡来集落を「野」と記したかもしれない。
        
                    拝 殿
『下野神社沿革誌』四巻四五丁
 下都賀郡野木村大字大字野渡鎭座 村社 熊野神社 祭神 伊弉諾命 建物本社二間半四方 拝殿間口四間半奥行二間半 末社三社 氏子百四十八戸
 本社は大寶三年三月の創立にして川島對馬の勧請なり
 社傳に曰く 往古紀州熊野郷の人川島對馬(子孫今尚連綿たり)故ありて日本諸國を歴遊し下野の原野に至る 土地肥饒にして水運の宜しきを見て此土を開墾し泥濘を疎通し以て一の村落を起す 此時に當りて土地を鎭する神社なし 故に吾生國紀州熊野神社は氏神なるにより本社に到り自ら神璽に誓ひて御分霊を奉戴して土地鎭護の神と齋ひて祀りたる社にして累世閎村人民崇信して鎭守神とす 社域二千六百三十一坪宏寛の境を有し字神山の瀟洒の地に鎭す
       
                    本 殿
       
               境内にある神興庫らしき倉庫
             神輿や山車が納められているのだろう。
 野渡のささら獅子舞
 野渡の鎮守、熊野神社は約1200年前の文武天皇の大宝3(703)に紀州熊野から移されたといわれる由緒ある神社です。
 この神社の祭礼として披露される「ささら獅子舞」は、今から500年前の古河公方足利成氏の時代に、病気などの魔よけや豊作を祈って始められたという伝承があります。
 ささら獅子舞の行列は、毎年4月上旬に行なわれる春季大祭で、昔さながらの木ぐるまをつけた「山車」が、彩りも鮮やかに飾り立てた笠鉾を揺るがせながら先導します。
 獅子舞の獅子頭をかぶる踊り手や棒や太刀使いはすべて小学生で、昔は長男が獅子に選ばれました。最近では、この地区の小学生の数が減少してきており、踊り手が不足しています。少子化の波は少なからず伝統行事にも影響を与えているようです。
                                 「野木町観光HP」より引用
 
       
              本殿奥に祀られている石祠・石碑等
          左から羽黒山・湯殿山・月山、(?)、愛宕山・秋葉山、神明塚・帯屋塚 
                         稲荷神社、(?)、
伊勢太々御神楽講碑
 
      参道右手側に祀られている境内社・大玖(大杉)大神(写真左・右)
         大玖大神の石碑の台座にはレンガが使用されている。
        
                  境内社・神明宮
        
      参道左手側で、二の鳥居と三の鳥居の間に祀られている境内社・浅間神社
 境内は、笹林に覆われているので参道からは分かりずらいが、御嶽山大神・白龍神・冨士守稲荷神社等の石祠・石碑や、離れた場所には小御嶽神社石碑が祀られている。但し、浅間神社の左側奥にある古い建物は詳細不明。
 
       境内にある二宮金次郎像           参道左側にある力石(石神)
                       「當村住人長澤久藏持之」と刻まれている。
        
               一の鳥居から社殿方向を撮影
参道に沿って伸びる道との間には、高低差があり、その段差をレンガ壁にて補強・維持している。
    既に100年以上も経っている今でも健在で、一帯趣ある風合いを漂わせている。




参考資料「下野神社沿革誌」「日本歴史地名大系」「深谷市HP」「野木町観光HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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野木神社

 奈良別王は、下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる人物である。日本書紀には目立った事績は記されていないが、『国造本記』(『先代旧事本記』第10巻)下毛野国造条には、仁徳天皇年間に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫・奈良別を初めて下毛野国造に任じた旨が記されている。『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。
 伝承によるとこの奈良別王は下毛野国に赴任する際に、莵道稚郎子命の遺骸を奉じて当地野木神社に祀ったのに始まると伝える。
 野木神社はこの地方で最も古い由緒ある神社の一つで、藩政期には古河藩の領内にあって藩の鎮守・祈願所として歴代の藩主からの崇敬も厚く、一般に「神明様」として親しまれてきたという。下野国寒川郡七郷(迫間田、寒川、中里、鏡、小袋・井岡、網戸、下河原田)の総鎮守とされ、江戸時代には古賀藩主土井氏の崇敬を受けて古河藩の鎮守・祈願所とされた。明治5年に郷社に列した。
 余談になるが、明治時代には、音を同じくする乃木大将もたびたび野木神社を参詣したという。
        
            
・所在地 栃木県下都賀郡野木町野木2404
            ・ご祭神 (主)莵道稚郎子命
                 
(配)誉田別命 息長足姫命 宗像三女神
            ・社 格 旧寒川郡七郷総鎮守・旧郷社
            ・例祭等 春渡祭(お討鬼)322日 春の神楽祭 4月第二日曜日
                 例大祭 834日 冬季例祭 1223日 他
 野木神社が鎮座する下都賀郡野木町は栃木県の最南端に位置する町で、大部分が平均標高25m前後の宇都宮西台地上にある。台地上には谷底平野が入り込み水田化され、西端の低地を思(おもい)川が南西流して渡良瀬川と合流している。栃木県の南の玄関口とも呼ばれていて、地形を見ても北に位置する小山市や、南に位置する茨城県古河市と接していて交流も盛んである。また東京まで60㎞という地の利のため、通勤圏内としても発展していて、都心方面のベッドタウン化が進んでいる
 江戸期には古賀藩に属し、「古河の3宿」の1つ、日光街道の野木宿として発展を見た所でもあり、落ち着いたたたずまいも残っている。気候は温暖、地味も肥沃と、気候風土ともに恵まれているため、米・麦作のほか、果樹栽培、施設園芸が盛んで、1989年(平成1)からヒマワリの栽培が始まり、観光用のヒマワリ畑もつくられ、夏には「ひまわりフェスティバル」が行われている。1960年以降、南部と東部に工業団地が造成され、機械、化学、食品工業などが進出している。「旧下野煉瓦製造会社煉瓦窯」は重要文化財に指定されている
        
                 野木神社 一の鳥居
 野木神社は野木町立野木小学校の北西側に鎮座している。茨城県古河市市街地から栃木・茨城県道261号野木古河線を北上し、途中国道4号線古河バイパスと合流するY字路の手前で左側に野木神社の一の鳥居がある。この一の鳥居は、道路沿いに有り、なおかつ国道4号線と交わるところに近くにあるため、交通量も多く、写真撮影する時は周囲の道路状況を確認する必要はある。
 一の鳥居のすぐ先には神橋があり(写真左)、そこから北西方向に伸びる参道は長く、500m程あろうか、綺麗に整備されている。参道途中には二の鳥居が建つ(同右)。
        
                 三の鳥居周辺の様子
  参道左側に手水舎があり、参道に対して手水舎の向かい側は専用駐車場となっている。      
 
  鳥居の右側には社の「由緒沿革」や、町の鳥と指定された「ふくろう」説明板がある。
           このふくろうのオブジェが不思議と可愛らしい。 
 野木神社由緒沿革
 仁徳天皇の時代(31399)、下野国造奈良別命が当国赴任の折、莵道稚郎子命の遺骨を奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(782806)に坂上田村麻呂が蝦夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奏し、その報賽として現在の地に社殿を造り遷座したと伝えられる。
 鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元寇の際、北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合わせ祀った。
 文化三年(1806)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の協力を得、現在の社殿を再建した。
 明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所縁の品々を御神宝として奉納した。
 御祭神
 主祭神 菟道稚郎子命
 右 殿 息長足比売命 誉田別命
 左 殿 田心比売命 瑞津比売命 市杵嶋比売命
 境内社
 王子稲荷神社、厳島神社、雷電神社
 合祀社(天満宮、猿田彦神社、星宮神社、稲荷神社)
 主祭日
 三月二十二日 春渡祭(お討鬼)
 四月第二日曜日 春の神楽祭
 八月三、四日 例大祭
 十二月二、三、四日 冬季例祭(三日夜、提灯もち、神楽祭)
 他、諸例祭
 神宝、文化財等
 黒馬繋馬絵馬、算額、乃木大将遺品、本殿及び彫刻、芭蕉句碑、
 太々神楽、御神木の大公孫樹、大けやきの森(樹齢約五百年)          案内板より引用
        
             旧寒川郡七郷総鎮守の荘厳さが漂う境内
                        撮影日 2025年1月21日
        
                    拝 殿
 嘗て平安時代末期源平合戦(治承・寿永の乱11801185)が各地で繰り広げられた。この地においても同様で、源頼朝方の武将、小山朝政と志田義広(源頼朝の叔父)の間で戦われた野木宮合戦の舞台となったのがこの野木神社である。志田義広は源義朝の弟(為義の三男)で、頼朝の伯父にあたり、常陸国南部の信太郡信太庄に土着して勢力を振っていた。
 義広と義朝・頼朝親子が仲が悪かったという文献等の資料はないが、義広は初め同母の次兄・義賢と親しく、義賢とほぼ同時期に関東に下向したらしい。これは、当時相模国の鎌倉を本拠地として勢力を拡大、武蔵国方面まで進出していた源義朝や、下野、上野国に勢力を伸ばしていた足利義国への対抗として実父為義が送り出した策とも言われていて、政略的にみると源氏本家と義広は決して良好な関係ではなかったはずだ。久寿2年(1155)源義賢は大蔵合戦において義朝の長子義平に打ち取られたが、志田義広は平頼盛(平清盛の弟)に接近し、その後も関東において独自の勢力を保持していた。
        
        拝殿近くに展示されている「
黒馬繋馬絵馬(県指定文化財)」
            「野木神社本殿及び彫刻(県指定文化財)」
       「算額(町指定文化財)」「野木神社俳句奉納額(町指定文化財)」

 頼朝の挙兵時にも参加せず、「自主の志」を持っていた武将である。富士川の戦い後、頼朝の勢力が拡大する中で、危機感を感じた義広は頼朝打倒をめざし、足利庄の藤姓足利又太郎忠綱と同盟して下野に進出。義広は頼朝打倒を下野の豪族小山朝政に告げ、味方に引き入れようとしたが、偽って義広に従うと見せかけた小山朝政の謀略にかかり、野木宮に誘い出される途中、登々呂木沢や地獄谷で朝政軍の奇襲攻撃を受け、破れて敗走。その後義広は、木曽義仲のところに落ち延びた。義仲は義高を人質として鎌倉に出したが、 この事件をきっかけに、 頼朝と義仲の仲が一段と悪化する。その後志田義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれたという。
        
                              精巧な彫刻が素晴らしい本殿
        
                    神楽殿
        
            社殿の左手には稲荷神社・天満宮・星宮神社・猿田彦神社を合祀した
                               「合祀社」が祀られている。

     合祀社の奥にある神興庫         社殿裏手に祀られている王子稲荷神社
             
      坂上田村麻呂の手植えと伝えられる樹齢1200年の大公孫樹(イチョウ)
 町指定文化財 野木神社の公孫樹(大イチョウ)
 指定年月日 昭和五十二年十一月三十日
 所 在 地 野木町大字野木二四〇四番地
 この大イチョウは、今から約一二〇〇年前(平安時代延暦年間)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奏でました。
 その奉賽として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、記念にイチョウの木を奉植したものと伝えられています。
 この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳房で祈願する民間信仰があります。
 昭和五十七年 野木町教育委員会                       案内板より引用
 
       
            ケヤキの老木 樹齢650年くらいとの事。
       
   ケヤキの老木の傍には、倒壊した巨樹が横たわっていた。嘗ての御神木であろうか。

 野木神社は参道の回りや社殿の周囲には、樹齢1200年のご神木である大公孫樹以外にも多くの古木・老木があり、それらの木々に触れることで、周囲を威圧する独特の歴史的な重みも感じることもでき、社の参拝とはまた違った厳粛な面持ちで手を合わせて頂いた。
       
                      悠久の歴史を感じる古社 
 ところで1224日には、寒川郡七郷を神霊が巡行する祭事が行われる。竹竿の先に提灯をつけて火を灯し、これを互いにぶつけて火を消し合うという祭で、一般には『提灯もみ祭り』と呼ばれている。起源は古く、建仁年間(12011204)頃に始まったものと伝えられ、元々は神霊の巡行の際に、神霊を少しでも自分の村に迎えようと、それぞれの村の若者たちが裸で激しくもみ合ったことに由来するとされている。後にこれが提灯をぶつけ合う祭に変化したとのことだ。1127日に神主さんたちが馬を煌びやかに飾って、野木神社の七つの末社を11社ずつめぐり、7日後の123日に帰ってくる。七つの末社をめぐるので、「七郷めぐり」と呼ばれているという。

 この七郷めぐりと言われる祭事は別名「おかえり」とも言われているが、利根川対岸の埼玉県羽生市下村君地区にも同じく「おかえり」神事が存在する。何かしらの関連性があるのだろうか。
        
       境内西側隅に祀られている厳島神社と「二輪草の群生地」の案内板 
     春先に咲く白い可憐な花を今度は季節に合わせて見学に来たいものである。



参考資料「野木町HP」「日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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唐澤山神社(2)

 唐澤山神社の神橋付近は、城の山頂部を東西(西城域と帯曲輪以東)に大きく分断する重要な防御地点であったとされ、「四ツ目堀」といわれた。
        
                                             唐澤山神社 神橋付近
 今でこそ石製の橋となっているが、城として機能している時代、「堀のひろさ五間有り」と記録に残されていて、大きさの堀であった。また曳橋であったとされ、いざという時に橋を引き払い城の中心部への敵の侵入を防いだと考えられている。
 戦国時代に佐野氏が居城し、交通要衝の地にあるため、本城をめぐって何度も戦いがあった唐沢山城。そのため、攻撃に備えるいろいろな工夫が随所に見られる。この四ツ目堀も現在でも唐澤山神社本殿がある本丸を中心にその城跡が残されている。今の橋は大正15年時の皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として高齢者より寄与されたという。

 神橋手前に、さりげなく猫が写りこんでいる(写真左)。以前何度か参拝に来たことはあるのだが、その時より多くなってきている気がする。駐車場から参拝客のマスコットになっているのか、まったくこの地の猫は自ら近寄ってきたり、移動中も寄り添って歩いたりと、餌をおねだりしたりしているのか、警戒心が全くない様子だ。
 神橋を過ぎて進行方向左手で斜面上には和合稲荷神社が祀られている(同右)。
        
          嘗ての唐澤山城の大手道で、現在の唐澤山神社参道
 駐車場付近にある「くい違い虎口」から続く神社の参道が、嘗ての大手道にあたると考えられる。この道筋は、三ツ目堀を過ぎて、二の丸方面に折れて坂道を登るルートであり、そして二の丸から本丸(現神社社殿)に至る。唐沢山神社の参拝ではあるが、城の遺構をそのまま受け継いでいる型で社も配置されているので、拝殿に向かう参道も実は唐沢山城の本丸に通じるルートにもなっている。
 

    大手道終了地点にある手水舎         社の案内板も設置されている。
 唐澤山神社
 当神社は御祭神藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏により戦国時代初期に築城された本丸跡に建てられています。公は「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に優れていたことが知られています。また、この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。その後700年の間、多少の変遷はありましたが、江戸時代初期に廃城となりました。明治161883)年、佐野氏の一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐澤山神社を建てました。(以下略)
                                      案内板より引用

        
        参道の石段。この上に鳥居が建ち、その先に神門と社殿がある。
           写真左側には僅かに二の丸に通じる道が見える。
       
               石段を登った先に見える神門
            この神門付近が唐沢山城の本丸跡付近という。
       
                    拝 殿
 唐澤山神社由緒
 祭神 藤原秀郷公(田原藤太秀郷)
 神階 贈正二位 元別格官幣社
 秀郷公は天児屋根命二十二世の孫藤原鎌足を祖とし、数代を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け幼少の頃近江國(今の滋賀県)と山城國(京都府)の境にある宇治の田原という所に住んで弓馬の器量優れ 人々より田原藤太と慕われた。その頃近江は三上山に大むかで出没し人々を苦しめている事を聞き 得意の弓術にてこれを打つ、琵琶湖の 神・龍王はこの功を賞賛し 公はこの時神縁を受く。
 時の朝廷よりは従五位下に叙され下野國押領使に補される(延長五年四月九二四)よって居城を唐澤山に築く。第六十一代朱雀天皇の 御代天慶二年十二月(九四〇)平将門下野を始め関東各地を侵略 す。公平貞盛と共に下総國・幸島の北にて迎撃し将門を滅 す。時に天慶三年二月十四日(世に之を天慶の乱と云う)朝廷其の功を賞し従四位に叙し、武蔵・下野両國守に任じ鎮守府将軍とす。以来六百七十年間子孫善政をしいたが慶長七年(一六〇二)三十代佐野信吉公の時廃城となった。明治十六年八月六日特旨を以て正三位を追贈されるに及び後裔一族旧臣等、公の御遺徳を偲ぶ人々により明治十六年九月に本殿及拝殿を創建し 御鎮座申し上げた。更に明治二十三年十一月二十九日別格官幣社に列せられる。
 大正七年十一月十八日特旨を以て贈正二位とされる。
 例祭 425日 1025
                                大手道参道・案内板より引用 

        
                    拝殿内部
        
                    本 殿
        
                 二の丸跡にある神楽殿
 社殿の左手に鳥居がみえ、その石段を下ると、二の丸跡の広い空間がある。開けた場所ではあるが、周囲は木々に囲まれていて眺望はあまりない。かつては奥御殿直番の詰所があったそうなのだが、現在は詰所ではなく神楽殿となっている。
 一般的に、二の丸は本丸に次いで重要な空間とされている。本城でも本丸への主要な出入口は本丸と二の丸の間に設けられ、両者の深い関わりを示すものと理解できる。更にこの出入口は現在のように真直ぐ出入りするのではなく、以前は折れ曲がっていたともされ、技巧的で防御性の高い出入口であった可能性もあるという。
        
                  唐沢山城の高石垣
 本殿周辺には至る所に石垣が築かれている。この石垣は唐沢山城築城の時に築かれた当時のものらしく、実際に見てみればわかるが、山城であるにも拘らず多数の石垣が本丸周辺のみならず築かれていて、この城の見所の多さとその状態の良さは紹介するのに困るほどだ。当時江戸まで眺望がきいたというのも、あながち嘘ではないかと思われる。特に本丸南西の高石垣は約40m、高さ8mを越え、石組みは荒々しい野面積みであるが、規則正しくその美しさには一際目立つものだ。関東にも石垣を伴う城は意外と沢山あるが、中世山城でここまで規模の大きい高石垣は群馬県の太田金山城以外あまり見かけず、規模としてはこちらの方が遥かに大きい。
 聞きしに勝る堅城であり名城。この地にこれほどの城を築造した佐野氏の実力には恐れ入った次第だ。


参考資料「下野神社沿革誌」「佐野氏HP」「唐澤山神社HP」「Wikipedia」「境内案内板」
        

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