古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新町八坂神社

 中山道の宿駅が整えられ始めたのは慶長7年(1602)からであるが、当初神流川と烏川の間は洪水に遭いやすい地形のため、現在の国道17号線のように素直に北西方向に進むのではなく、一旦北行し、本庄より北側に流れる烏川を渡り、玉村を経由して西に進み、倉賀野に向かったという。
 新町宿は慶安4年(1651)落合村と笛木村が伝馬役を命ぜられ、宿場を成立させた。温井川は鏑川乱流の跡であり、往古鏑川は温井川の流路を流れていたと思われる。その鏑川(温井川)と烏川の合流点、すなわち落合(おちあう)から落合の地名は来たものと思われる。落合新町は承応元年(1652)、笛木新町は笛木村本屋敷からの移転に手間どり、承応2年(1653)より伝馬役を勤めている。
 このように新町宿は江戸寄りの笛木新町と、高崎寄りの落合新町とから成る。笛木新町は天領、落合新町は旗本領であり行政的に統一されたのは明治8年(1875)のことであったとのことだ。
        
             
・所在地 群馬県高崎市新町27573
             
・ご祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神
             ・社格・例祭等 不明
 新町笛木諏訪神社の一の鳥居がある旧中山道を200m程徒歩にて南行すると、進行方向左手に新町八坂神社の一際目立つケヤキのご神木と社の赤い鳥居が見えてくる。
 周囲一帯宅地化され交通頻繁な群馬県道131号線(旧中山道)の角地に鎮座する社。規模は小さいながらもこじんまりと纏まっていて、何といっても、周囲を威圧する程の存在感もあり、樹勢も益々盛んなご神木が社を包みこんで守っているようにも見える。
        
             旧中山道沿いに鎮座する新町八坂神社
 かつての宿場町、新(町)宿の東入口に位置するこの神社の鎮座地は旧中山道沿い、武蔵国から上野国への玄関口に位置していて、疫病の侵入や蔓延を防ぎ、人々の身を護る長寿祈願の神様として建立されたという。
 
       境内の手前には、在りし日の柳の茶屋と八坂神社のイラスト(写真左)
          や社の由緒を記す案内板(同右)が設置されている。
       
                    拝 殿
 新町八坂神社
 八坂神社は明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主が新羅国牛頭山に祭られる素戔鳴尊を山城国愛宕郡坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まりとしている。一般に祇園社の創立は貞観十八年(八七六)とされている。 ご祭神は素戔鳴尊を主神とし櫛稲田姫命と八柱御子神を祭る。
 著名な祇園祭は清和天皇の貞観十一年(八六九)、疫病が大流行した際、天皇の遊覧の場所である神泉苑に鉾六六本を建て御霊会を行ったのを起源とし、天禄元年(九七〇)から恒例となった。『弘文堂 神道辞典』
 祇園社では、疫病を防ぐ事から転じて諸悪から身を護る神とされ、 悪鬼を祓う神としても信仰された。
 新町八坂神社は、中山道沿いに武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に至る玄関口に位置し、疫病の侵入と蔓延を除ぎ、諸悪から身を護り、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられている。
 柳の茶屋
 新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に「傘(からかさ)におしわけみたり柳かな」の芭蕉の句碑が立っている。高さ八十cm横五十cmぐらいの雲母岩に陰刻され、新町の俳人、小渕湛水と笛木白水が建てたと「諸国翁墳記」に記載されているが、寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間といわれている。
 宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ばれるようになった。「中山道を行く 荻野 悌著』
                                       案内板より引用

        
            社殿の手前付近に芭蕉句碑が建っている。
 柳茶屋の芭蕉句碑
『諸国翁墳記』に「翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建」「傘におしわけ見たる柳かな」とあります。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲と芭蕉の墓がある)で出版されました。
 この句碑は寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間に、近くに柳の大木があることから、「柳茶屋」と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水白水が建てたと思われます。
                                       案内板より引用

『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道』における「新町宿」の解説では、「八坂神社のかたわらに芭蕉句碑がある。古くは南側に建てられていた。茶屋の傍らに柳の大木があったことから柳茶屋の句碑と呼ばれている。「傘におしわけ見たる柳かな」の句が刻まれ、建立年代はないが、俳人湛水・白水によって天保十(一八三九)年に建てられたと推定される。新町には一茶をはじめ著名な俳人が通りすぎた。その度に句会が催されたであろう。新町から多くの俳人を輩出し、遊女に至るまで発句を詠み文化水準は高かった。」と載せている。
        
             社の境内に聳え立つケヤキのご神木
     境内の一角には、大六区公民館と共に祭り用の山車を保管する倉庫もある。

 8月中旬、隔年ごとに開催されている「新町ふるさと祭り(山車まつり)」では、新町内110区の各山車・屋台が日中は地元を廻り、夕方から駅前通りに集結しお囃子の競演、叩き合いを行っているという。  
 明治16 東京上野駅より新町駅まで鉄道が開通することになり、開催記念の大祭を開催するため各町内が屋台を調えた経緯がある。なお、2区(仲町)の山車と3区(橋場町)の踊り屋台は、明治15年に東京日本橋の原舟月(人形師)により作成されたもので、ともに昭和551月から高崎市の重要有形民族文化財に指定されている。



参考資料「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「ぐんま地域文化マップHP」
    「境内案内板」等

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新町笛木諏訪神社

 群馬県新町(しんまち)は群馬県中南部にあった町で、利根川の支流烏川と神流(かんな)川にはさまれた低地を占め,埼玉県に接している。現在は高崎市の一部になっている。面積3.74km2は東日本最小(高崎市への編入前の時点)で、北関東では最大の人口密度を誇った(1平方キロメートルあたり3,359人)。
 古くは、当町北部を「落合」、南部を「笛木」と呼んでいて、慶安4年(1651)に落合村(旗本領)と笛木村(天領)が合体して宿が形成される。その後、元禄年間(16881704)頃までは新宿(しんしゆく)といわれ、中山道の宿場町として栄えていた。
 2006年(平成18年)123日に群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村と共に高崎市に編入された。当初は隣接する藤岡市と合併交渉を行っていたが交渉が決裂。のちに隣接していない高崎市との合併が決まり、現在は高崎市の飛び地となっている。
        
             
・所在地 群馬県高崎市新町557
             
・ご祭神 建御名方神 八坂刀売神
             
・社 格 旧緑埜郡笛木村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 初午祭 2月 春季大祭 43日 
                  秋季例祭 
1017日 新嘗祭 1123日 他
 埼玉県上里町から国道17号線を北西方向に進み、県境に流れる神流川を越えると群馬県となり、その玄関口にあたる所が高崎市新町地域である。その新町に入り、国道を新町駅方向に進む手前にある「笛木」交差点を右折し、群馬県道40号藤岡大胡線に合流後北東に進む。その後300m程先で進行方向右手に「新町郵便局」が見え、その先に「浄泉寺」「専福寺」、更にその南側に新町笛木諏訪神社が寺社区画のように整然と並ぶように建てられている。
        
                新町笛木諏訪神社 一の鳥居正面
          一の鳥居、社号標柱がある場所は社の境内から一本南側で国道17号線から
              分岐して走る旧中山道沿いに建っている。
『日本歴史地名大系』「新町宿」の解説
 中山道の上州七宿の一つ。江戸より二四里、東の本庄宿(現埼玉県本庄市)より二里、西の倉賀野宿(現高崎市)へ一里半に位置する。西部を温井川が北流して烏川に合して東流し、東部を北流する神流川を東北部で合する。慶安四年(一六五一)落合村(落合新町)と笛木村(笛木新町)が伝馬役を命ぜられて宿場を成立させ、両町を併せた新宿は新町・新宿などとよばれていたが、元文年間(一七三六―四一)に新町宿とされたという。烏川を渡り倉賀野宿と結ぶ渡船場があった。
「寛文郷帳」には幕府領・旗本稲垣領の二給の笛木村、幕府領・旗本加藤領の二給の落合新町が記され、「元禄郷帳」では落合新町は同様であるが笛木村はみえず、幕府領の笛木新田となっている。その後も両町は行政上では半ば独立していたらしく、「天保郷帳」などにも両町を別に記す。
 また神流川の流路が変わるため、その度に橋や渡船場の位置が変更し、白昼でも道筋がわかりにくいということで宿端に常夜灯が置かれていた(文化五年「常夜灯再建願」田口文書)。
        
                  立ち並ぶ民家の間に通る参道
 現在もそうだが、江戸時代当時も神流川は武州と上州の国境をなしていた。普段の神流川の流量は少ないが、しばしば氾濫し大きな被害を出していた。現在両岸の堤防の間隔は約700㍍であるが、明治の頃の堤防の間隔は約1㎞あった。国境は新町側堤防より、わずか150㍍程の所にある。かつてはここに本流があったのであろう。
 現在の神流川橋が架けられたのは昭和九年の天皇陛下行幸の年である。それ以前の道は上流50㍍程の所にあり、盛土もなく河原を整地して作ったもので、現在も一部使用されている。その当時の橋は板橋で増水時は流されないように取りはずしておいたという。
 江戸時代この河原は、散流で水の流れもいくつにか分かれ、道も整備されず迷いやすかった。そこで旅の安全のため見通し燈籠が造られていた。この常夜燈もしばしば洪水により流された。そこで洪水に強い石造の燈籠が文化12年(1815)両岸に建てられた経緯があった。
        
                 二の鳥居及び境内入口
 因みにこの新町地域内の神流川原は天正10年(1582)関東管領として厩橋城にあった滝川一益が、本能寺の変に接して上京しようとし、これを阻止しようとした北条氏直の大軍と戦った神流川合戦の戦場であった。胴塚稲荷や首塚の石祠が今日もまつられている。昭和40年神流川古戦場跡の大きな碑が堤防脇に建てられ、その隣には馬頭尊がまつられている.
        
          境内に設置されている社の高崎市指定文化財の案内板
 新町笛木諏訪神社には多くの文化財が指定を受けている。
 ・諏訪神社の石鳥居 -元禄15年・享保16-明神鳥居-高崎市指定重要文化財
 ・諏訪神社の獅子舞- 安政3 高崎市指定重要無形民俗文化財
 ・小林譲洲先生壽蔵之碑- 高崎市指定重要文化財
 ・諏訪神社の御輿 享和元年-35寸・破風・総漆・金箔押し-市指定重要有形民俗文化財
 
境内入口の左側に手水舎、その奥にある境内社   拝殿手前にある「諏訪神社之由来」碑
        
           境内入口から左側に折れ曲がるような配置の参道
 新町笛木諏訪神社の創建は天正年間(15731593)に諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。当初は笛木村の鎮守として本屋敷(現在の新町駅周辺)に鎮座していたが宝永5年(1708)に火災にあった祭、御神木から光が発し一点を示したので霊地と悟り現在地に遷座している。享保4年(1747)と明治39年(1906)に火災により社殿が焼失しその都度再建されている。
        
          参道が左側に曲がる地点に聳え立っているご神木
        
                    拝 殿
諏訪神社之由来
一、御祭神 建御名方神 八坂刀売神
一、諏訪大明神が緑埜郡笛木村の鎮守として今の元宮の地を卜して始めて奉祀されたのは天正の頃か
一、慶安四年(一六五一)室賀下総守により検地あり 中山道筋に街並みの区画が行われ宿場町「新宿」が新たに造成された
一、承応三年諏訪大明神は村社に加列し 元禄十五年(一七○二)に石鳥居成る。この頃には笛木新町が街道筋に繫栄してきた
一、宝永五年(一七○八)御神木が焼けた
この時光物が飛び来たり落ちた処を神威と定め大明神を御遷座した これが現在の社地である由
一、享保九年二月(一七二四)社殿の中へ宮殿を奉納し 京都へ赴き吉田家に願い正一位の神位を授与され 御位をお宮へ納める
一、享保の頃二畝歩の土地を買いとり鎮守の大門を作るという 同十七年に石鳥居成る
一、延享四年正月(一七四七)新町宿の大火に遭い社殿 稲荷社 津島社等烏有に帰した。十年後 宝暦七年にこけら葺の荘厳なる社殿再建成り 同年六月二十四日御遷座する 同十一年九月には銅葺の稲荷社成り全く同状態に復した
一、明治三十九年(一九○六)失火により社殿を全焼したが、同四十三年に先ず拝殿を再興し 昭和十年(一九三四)に至り御本殿が完成され 以来神徳はいよいよ明らかに氏子の尊崇は日をおつて篤く現在に及ぶ。(以下略)
                               「諏訪神社之由来」碑文より引用

        
                    本 殿
 本殿は一間社流造りで、壁面には木彫りで左側面には児島高徳公、背面には楠木正成公、右側側面には新田義貞公等の多くのシーンが彫刻(彫師士 深谷市岡部在住 佐藤正貫氏)で飾られ、玉垣で囲まれている
        
  拝殿手前で左側にある高崎市指定文化財    拝殿の左側にも高崎市指定文化財である 
       「諏訪神社の獅子舞」の標柱       「小林穣洲先生壽蔵之碑」の標柱あり。
 高崎市指定文化財
 ①諏訪神社の獅子舞
 安政3年(1856)に創られ、氏子によって伝承されてきた稲荷流・阿久津派の獅子舞。かつては諏訪神社の祭礼に神業芸能として天下泰平・五穀豊穣を祈りながら天狗の先導により雄二頭、雌一頭とカンカチが加わり、横笛の音に合わせ町内を舞い歩いた。最近では春、秋の祭典、正月(元旦祭)に獅子舞を奉納している。
 ③小林穣洲先生壽蔵之碑
 文政9年(1826
)新町生まれの書家で、隷書、草書に名品を残す。小学校の前身となる「墾信社(こんしんしゃ)」を浄泉寺に開設し、多くの子弟の教育に情熱を注ぐ。門弟、知己がその高徳をたたえ、この碑を建てる。
        
                本田の裏奥にある神興庫
 高崎市指定文化財
 ④諏訪神社の御輿
 享和元年(1801)ころの製作。台輪寸法は35寸(約106㎝)、屋根は唐破風型、総漆塗りおよび金箔押しで、造りは古風御輿。唐戸四面、内堂天井には極彩色鳳凰図が描かれている。この御輿は、明治中ころまで獅子舞が先導して、四神旗・太鼓等を連ね、およそ100
名の行列で氏子町内を渡御した。
        
         社殿から向かって右側に祀られている「正一位稲荷大明神」          
    社殿の手前で右側にある神楽殿         神楽殿の左側脇にあった年中行事等
  神楽殿の右奥に5 山車庫が見える。      記された古い木製の案内板あり。
        
    神楽殿の脇の道を進むと、左手に土に柱が覆われた鳥居が一基保存されている。
 高崎市指定文化財
 ②諏訪神社の石鳥居
 諏訪神社は新町の前身、笛木村の鎮守として本屋敷(駅周辺)に祀られていたが、宝永5年(1708)現在地に移された。一基は元禄15年(1702)の銘のある新町で最も古い鳥居で、もう一基は24
年後に氏子により建造された。ともに明神鳥居の特色である笠木の曲線が美しく、現在は境内に保存されている。
                     以上高崎市指定文化財①から④まで境内案内板より引用
        
      文化財の鳥居の奥に境内社・合祀社が祀られているが、詳しい所は不明
        
 諏訪神社の東にある元修験堂の境内に、『竹本百合太夫の辞世の碑』がある。百合太夫は義太夫の大家で、文化年間に江戸から新町宿へ来て、稲荷横丁の金子屋横山定右衛門の養子となり、天保3年(183251歳で歿している。この碑は江戸の知人や門弟が建てたものである。
 辞世の句 〝物いひし土人形も名残かな〟
 案内板によれば、この碑は昭和633月に新町指定文化財と指定をうけているようだが、高崎市の文化財一覧には載せていないようだ。
        
               しっとりとして落ち着いた境内
 新町地域の中心に位置し、住宅街にありながらも、西に専福寺、浄泉寺と並ぶ、神社仏閣の一帯にあり、緑豊かな境内。とてもひっそりとした佇まいで趣があり、ゆっくり参拝できた。
          



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「日本歴史地名大系」「高崎市HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・由来等碑文」等
 

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西城天満神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市西城181
             
・ご祭神 菅原道真公・面足命・訶志古泥命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 422日 例祭 725日 秋祭り 123
 南新宿久伊豆神社の西側にある埼玉県道3号さいたま栗橋線との交点「西新宿2丁目」を左折し、同県道に合流、1㎞程南下すると、「城」交差点の西側角に西城天満神社が見えてくる。
        
                  西城天満神社正面
『日本歴史地名大系』「城村」の解説
白岡台地の中央部西端にある。元荒川の左岸に位置し、北は新宿(しんしゆく)村、西は同川を隔てて下閏戸村。村内に元荒川の枝流があり古川と称されるが、村内で再び元荒川に合している。小名の丸城(まるじよう)は一名を城といい、古くは城のあった所と伝える。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば同藩領で、田高七石余・畑高六〇石余。延宝八年(一六八〇)の家数一五(うち本百姓一〇)、人数一一五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
『新編武蔵風土記稿 城村』
 小名 丸城 一に城と云、四方沼田なり、古へは城ありし處なるべし、されど何人の居し事を傳へず、此邊に廣さ八反程の所水殊に深き沼あり、向山屋鋪 城に對しての名なるべし、
 久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持


「埼玉の神社」の解説によれば、かつては、周囲が23m程もあった大杉が56本も茂り、鬱蒼とした社の境内であったというが、時の流れにつれて周囲の環境も変化し、とりわけ、昭和42年の埼玉県道さいたま栗橋線の開通による変化は大きく、県道敷設の為当社の参道は半分以下となり、社殿の南側にあった沼も埋め立てられた。更に、区画整理によって昭和50年頃には杉の大木も伐採され、本来あった社の景観も失われたという。
        
           境内に設置されている社の由来等を刻印した碑
 天満神社
 歴史
 口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという
『風土記稿』城村の項では、明治六年に天満社が村社になっており本来は現在地から百米ほど北西に祀られており現在地に第六天社があった
 大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより村社天満神社とし崇拝された。
 昭和二十一年二月宗教法人となり、天満神社と改称される。
 信仰
 天満社の祭神であった、菅原道真公と第六天社の祭神であった面足命・訶志古泥命の三柱が当社の祭神であるが、既に天満天神の信仰が定着しており、入試祈願の絵馬が数多く掛けられる。
 四月二十二日の春祭りは、氏子から「神社の祭礼」と呼ばれている
 なお、昔農作業の関係で別の日に祭りをしたことがあったが、その年には、雹が降って作物に大被害があったため、以来この日以外に春祭りを行った事はない(以下略)
        
                    拝 殿
 天満神社(だいろくてんさま)  蓮田市西城一-八一(城字柳原)
 城は、源平時代に戦に敗れた七人の落武者が住み着いて開発したと伝えられる古い歴史を持つ村で、小島・斎藤・内田・岩崎・山田・野口・宮澤の七家が、その七人の落武者の子孫であるといわれている。地内には市指定史跡にもなっている室町時代の平山城跡があり、「城」の地名は、この城にちなんだものではないかと推測される。
 元来、この城の地内には、久伊豆社・大六天社・天満社の三社があった。そのうち久伊豆社が城村及び新宿村の両村の鎮守であったが、城で祀っていくことが困難になったため、いつのころか新宿村に譲渡されたと伝えられる。『風土記稿』城村の項では、久伊豆社と第六天社の二社だけ載り、天満社の名が見えないにもかかわらず、明治六年に天満社が村社になっていることを考えるなら、久伊豆社が新宿村に譲渡されたのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことであり、その代わりに、新たな村の鎮守として天満社が勧請されたものと想像できる。口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという。
 村社であった天満社は、本来は現在地から一〇〇㍍ほど北西に祀られていて、現社地には元々は『風土記稿』に載る第六天社があった。ところが、大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより、大六天社は天満神社と改称され、村社となった。天満社よりも第六天社の方が境内が広かったことも考慮した合祀であった。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 面足(オモダル)命・訶志古泥(カシコネ)命は、日本神話に登場する兄妹神であり、『古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記する。天津神であり、神武天皇は直系8親等で7代目の子孫にあたる。
『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。
 また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる。中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界の六欲天の最高位である「第六天魔王」の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称したという。
 
  社殿左側に祀られている天神社・庚申塔など    社殿右側にも庚申塔が祀られている。
        
              本殿奥に聳え立つイチョウの大木
              蓮田市の保護樹林に平成2年6月指定


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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南新宿久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県蓮田市南新宿783
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧新宿村・城村両村鎮守 旧村社
              
・例祭等 春祭り 48日 秋祭り 1128
 下閏戸伊夜彦神社から一旦東行し、旧国道122号線に合流後右折する。その後、埼玉県道3号さいたま栗橋線と交わる「関山(北)」交差点を左折、同県道を北上し、「西新宿2丁目」交差点を右折した同県道145号白岡停車場南新宿線の南側にある「上島公園」の道を隔てた反対側に南新宿久伊豆神社は静かに鎮座している。
        
                 
南新宿久伊豆神社正面
            久伊豆神社には珍しい石段上に鎮座する社
 南新宿地域は、蓮田市の東部に位置していて、かつては新宿村といっていたが、明治12年に郡内の他の新宿村と区別するために南新宿村と改められたという。
 この南新宿村は、明治22年に黒浜村と合併、黒浜村大字南新宿となり、昭和29年には新たに成立した蓮田町の大字となった。この南新宿地域の中にあって元荒川沿いにある低地は元水田地帯であったが、昭和30年代になると農家が減少し、土地区画整理事業の対象地域となって都市基盤整備が行われ、昭和48年には、当地から分離して大字西新宿となった。
 そのため当社の氏子区域は、現在の南新宿のみとなる。氏子数は約150戸であり、総代は染谷・請野・上宿・下宿の四つの村組から一名ずつの計四名が、任期四年で神社運営に当たっているという。    
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
「南新宿の久伊豆神社」  蓮田市南新宿七八三二
 蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。したがって、「久伊豆」の神は、農作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
 この「南新宿の久伊豆神社」は、各講地、上宿・下宿・染谷・請野の各講地から選出の氏子総代・各講地二名、任期二年 神社総代・各講地一名で構成され、年間祭事を運営しております。
                                       案内板より引用
        
       
旧新宿村・城村両村鎮守であり、旧村社の格式の割りにやや小規模な社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 城村』
 久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持
 城觀寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、東光山と號す、本尊阿彌陀、 〇阿彌陀堂 同寺の持


 久伊豆社  蓮田市南新宿七八三(南新宿字染谷)
 鎮座地の南新宿は、かつての新宿村で、明治十二年に郡内の他の新宿村と区別するために南新宿村と改められた。口碑によれば、地名の由来は、岩槻城主が当地を訪れた際、岩槻城と宿(白岡町篠津)を結ぶ岩槻道沿いに立ち並ぶ集落を見て名付けたものであるという。
 当社は、この集落の西の外れに鎮座し、境内の南端は大字城(旧城村)との境に接している。『風土記稿』城村の項に「久伊豆社 城観寺の持、当村及新宿村の鎮守なり、末社 稲荷」とあるのが当社である。別当の城観寺は足立郡倉田村(桶川市倉田)真言宗明星院末で、東光山と号した。当社が城村の項に記されたのは、城観寺の所在が城村であったためであろう。当村及び城村は、いずれも江戸中期まで岩槻城付の村で、岩槻道を通じて城下との結び付きも強かったことから、当社は江戸初期には既に岩槻城の鎮守であった久伊豆神社の分霊を当地に勧請し、両村の鎮守として創建されていたと思われる。
 神仏分離後、城観寺は廃寺となり、当社は新宿村の鎮守として明治六年に村社に列した。
 現在の社殿は、明治三十九年に再建されたもので、昭和三十年には傷んだ箇所の改修が行われた。また、境内にはかつて樹齢二千年ともいわれ、樹高三〇㍍の偉容を誇る杉の御神体が聳えていたが、昭和五十四年に落雷に見舞われ、著しく衰えたことから伐採された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
               境内に祀られている稲荷大神
 当社は江戸期を通じて新宿村・城村両村の鎮守であったが、当地では別に稲荷神社を祀り、村内の安全や五穀豊穣を祈願していた。当社が新宿村の村社に列せられてからも今でも稲荷神社は当地の鎮守として信仰されている。そのため、当社の初詣は、最初に稲荷神社、次に当社の順で参拝するのが習わしとなっており、総代は、南新宿自治会館に詰めて参拝者と新年の挨拶を交わし、お神酒を振る舞う。
 また、
714日は「宮薙(みやなぎ)」と称して、四つの村組のうち請野と染谷が当社を、上宿と下宿が稲荷神社を、それぞれ清掃すると「埼玉の神社」には載せている。
 
       稲荷大神の北側隣にある神木跡(写真左)と、手前に設置されている
               「為後日記之」の碑(同右)
                    
為後日記之
             
此所に在りし御神木は杉の大木にて樹齢
             約二〇年と云れ目通三米余樹高三十米に
             て一本にて伸長し其の偉容は近隣の目標
             とされ当久伊豆神社の象徴として南新宿
             氏子の信仰の的で有ましたが昭和五十四
             年八月不慮の落雷に見舞れ枯化状態とな
             り止なく昭和五十五年一月人々に惜まれ
             伐採其の優美の姿を消しましたしたがっ   
             て其址に代の木を植て在り日の面影を偲
               
び後世に傳るため之を記します
             
昭和五十五年一月吉日 一九八〇年(以下略)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「さいたまの神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板・記念碑文」等
 

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下閏戸伊夜彦神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市閏戸99
             
・ご祭神 天香久山命 素戔男尊
             
・社 格 旧下閏戸村鎮守 旧無格社
             
・例祭等 元旦祭 禦(ふせぎ) 415日 夏祭り 714
 上閏戸愛宕神社から旧国道122号線を南下し、中閏戸久伊豆神社に達する前に右折した「蓮田北小学校入口」交差点を更に1.4㎞程直進し、「蓮田市浄水場」の看板が設置されている信号のある十字路を右折するとこんもりとした下閏戸伊夜彦神社の社叢林が見えてくる。
 
社の周辺には残念ながら適当な駐車スペースはない。そのため手押し信号のある十字路左手にコンビニエンスストアがあり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                
下閏戸伊夜彦神社の社叢林
『日本歴史地名大系』 「下閏戸村」の解説
 蓮田台地の中央部、元荒川右岸、綾瀬川の左岸に位置し、北は中閏戸村、南は上蓮田村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)によると、臨時助人馬指定村として下閏戸村があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。岩槻藩領で、同一二年の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高一八〇石余。
 
      
下閏戸伊夜彦神社正面鳥居           鳥居の掲げてある社号額
        
                    拝 殿
 伊夜彦神社(いやひこじんじゃ) 蓮田市閏戸九九(閏戸字野久保)
 閏戸は、蓮田台地の中央部に位置し、西は綾瀬川を隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡市に接する。その地内は、北から上閏戸・中閏戸・下閏戸の三地区に分かれ、上閏戸では愛宕神社、中閏戸では久伊豆神社、下閏戸では伊夜彦神社すなわち当社を祀っている。
 この閏戸が上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三つに分かれたのは元禄十一年(一六八九)とされている。当社の創建の年代は不明であるが、下閏戸では「七軒百姓」と呼ばれる原嶋・岩崎・小花・神田・森田・清水・花井の七家の先祖が開いたという。中でも草分けとされている原嶋家や岩崎家などの家々は、二五〇年ほど続いていることから考えると、当社もまた、江戸時代の初期に、これら草分けの人々によって勧請されたものと思われる。
 明治七年、上閏戸・中閏戸・下閏戸の三村は合併し、再び閏戸村となった。その村社には、最も規模が大きかった中閏戸の久伊豆神社がなったことにより、当社は他の諸社と共に無格社となった。そのため政府の合祀政策に従って、明治四十二年(『明細帳』では明治四十三年)に、村社の久伊豆神社に合祀された。その後、「やはり地元に字の鎮守を置きたい」という氏子の声が高まり「、合祀から半世紀を経た昭和三十三年五月、神社本庁の認可を得て、久伊豆神社からの分祀を実現した。更に、昭和四十九年には、氏子諸氏の奉賛により、老朽化した本殿及び拝殿の改築と境内の整備を実施した。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
          境内に設置されている「伊夜彦神社本殿拜殿竣工記念」
 伊夜彦神社本殿拜殿竣工記念
 御由緒
当伊夜彦神社は古くより此の地に祭神として創祀せられ由来郷邑の守護神として開運殖産災除の光被を賜り尊い崇敬をうけられておりましたが法令により明治四十二年中閏戸久伊豆神社に合祀せられて以来約五十年経過致しました
其の後昭和三十三年五月神社本庁の認可を受け現地に奉還されました
然るに社殿の老朽化のため氏子諸氏の奉賛により本殿並に拜殿を改築し神域を整い長えに御神徳を仰がんとするものであります
 昭和四十九年七月十四日                           記念碑文より引用
        
                    本 殿
 当社のご祭神といわれている「天香山命(あめのかぐやまのみこと/あまの-)」は、日本神話に登場する神で、高天原から天降った天津神に分類される。『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。
 また、新潟県の彌彦神社の社伝に、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝えている。
        
                 社殿から参道方向を撮影

「はすだ観光協会HP」において、「(伝)下閏戸村の開拓者・岩崎氏の郷里が越後ということで、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請して、一族の繁栄と安穏を祈願したという」と載っているが、筆者が調べた限りにおいて「岩崎氏の郷里が越後国」を証明する信用できる史料が見つからなかった。因みに『埼玉の神社』においては、当社は江戸末期から昭和15年頃までは岩崎氏が神職であり、元々は「修験者」であったという。考えるに修験者であるという事は、地元の人物ではない可能性は高いが、かといって、それだからこの人物は越後国出身であるというのはあまりに飛躍が過ぎよう。
 また、仮に上記の氏の故郷が越後国であったとして、己の故郷の弥彦(伊夜彦)神社をこの土地に勧請したというのであれば、当然ご祭神は「天香久山命」となるはずであると思われるのだが、「はすだ観光協会HP」でのご祭神は「素佐之男命(素戔男尊)」となっていて、矛盾が生じる。
 上記『埼玉の神社』においても、当社のご祭神は、『明細帳』においては天香久山命、『郡村誌』では素戔男尊とされていて、それ以上の詳しい説明はされていない。
 これらの全ての矛盾を合理的に解釈できる方法はないのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「はすだ観光協会HP」「埼玉の神社」
             「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等

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