古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大谷沢白髭神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市大谷沢484
             ・ご祭神 猿田彦命
             ・社 格 旧上大谷澤村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お九日) 1017
 高萩白髭神社から一旦西行し、「高萩東」交差点を左折、国道407号線を南下する。2㎞程進んだ「大谷沢」交差点を左折し、すぐ先にあるY字路を右斜め方向に進むと、進行方向右手に大谷沢白髭神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 この幟旗ポール付近に若干の駐車スペースがあるので、そこに一時的に駐車し、急ぎ参拝を行った。地域のほぼ中央を旧日光脇往還、現在の国道407号線が南北に走っているにも関わらず、国道の近距離に鎮座する社周辺は田畑風景が広がる長閑な地帯である
        
             大谷沢白髭神社の一の鳥居と社号標柱
『日本歴史地名大系 』「上大谷沢村」の解説
 郷帳類には大谷沢村と記されることが多い。中沢村の南東にあり、東は下大谷沢村。北部を鎌倉街道が南東から北西へ、ほぼ中央を南北に日光脇往還が通る。長享三年(一四八九)四月二五日、下野国の渋垂小四郎は永享の乱中に押領された「武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村」など八ヵ所に上る所領の安堵を求めて本知行の目録を作成、古河公方足利政氏から安堵の証判を与えられた(「渋垂小四郎本知行目録写」渋垂文書)。永正二年(一五〇五)二月一五日にも同文の本知行目録を作成して古河公方足利高基の証判を受けている(「足利高基袖判渋垂小四郎申状写」同文書)。
 
       社周辺の長閑な風景と完全に同化している社の参道(写真左・右)
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上大谷澤村』
 白髭社 村の鎭守なり、寶藏寺持、下同、
 神明社 山王社
 寶藏寺 辨日山辨陽院と號す、新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院の末なり、本尊十一面觀音を安ず、開山開基詳ならず、


 白鬚神社(みょうじんさま)  日高市大谷沢四八四(大谷沢字宮)
 当地は第二小畔川と南小畔川に挟まれた農業地域である。
 社の創建は社記によると明徳年間と伝え、村鎮守であった。また、社蔵文書には、寛永一五年に村民金子惣兵衛が寄附した鰐口があったと記している。
 祭神は猿田彦命であり、村人は長く明神様の呼び名で親しみ、五穀の神として祭りを続けてきた。
 別当は真言宗弁日山弁陽寺で、神仏分離まで当社を管理していた。
 本殿は朱塗りの一間社流造りで江戸後期の建築であるが、覆屋は昭和四五年に改築されたものである。改築前の覆屋は草屋根で、傷むと「差し替え」と称して村人が麦藁を持ち寄り、修理を行っていた。
 境内社は、天神社・豊受社・山王社がある。このうち、天神社は古くからの末社で、他の二社は合祀社である。豊受社はお伊勢様と称し、大谷沢・馬引沢・中沢地区が祀る社で、字西原に鎮座していた。また、豊受社は山林を持っていたが、明治末期に社が合祀されたため、跡地は開墾され当社持ちの土地となった。しかし、これは戦後農地解放のため失った。合祀前の豊受社は、間口一間ほどの覆屋の中に小祠を置いたもので、毎年正月に幣束を新たにしていた。現在の石祠は跡地から移転されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は大字大谷沢全域となる。当地は急激な人口増加はみられないが、徐々に分家で増えている地域でもある。生業は農業が多く、米作を中心としておこなっている。
 当社は村鎮守として祀られ、氏子が五穀豊穣の祭りを行っている。祭典は質素で付け祭りもないが、豊作を祈る氏子の気持ちは強いという。
 
 社殿の左側に祀られている石祠群(写真左・右)。「埼玉の神社」において、石祠の末社は四柱配置されているのだが、ここには五柱ある。但し、一番左側の石祠は、基礎石垣部分の土の汚れが見られないので、つい最近祀られたと考えられる。残りの石祠は、左から山王社・天神社・神明社・神明社。
       
 社殿前の巨木(写真左)、また鳥居前の立派なイチョウの大木(同右)は、御神木かどうかは不明だが、周囲の風景とは違う雰囲気を醸し出していたので、撮影してしまった。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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高萩白鬚神社

『新編武蔵風土記稿 高萩村』
 
往昔は上下高萩の分ちなく一村なりしが、寶永の頃上下の二村となれり、然れども元一村の地を分ちしなれば、上下の界區定かならず、民家田畠ともに打交れり、又上下に分鄕せしとはいへども、上高萩村は上の字を冠せず、唯高萩村と唱へ、下高萩のみ下の字を冠せり(中略)
 水田少く陸田多し、用水は村の西の方女影村千丈ヶ池より出る水を引沃げり、又村の巽にあたり溜池あり、これも用水の助とす、旱損場にて水損なし、

        
             
・所在地 埼玉県日高市高萩1608
             
・ご祭神 猿田彦大神
             
・社 格 上・下高萩村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 310日に近い日曜日
                  
秋祭り 1015日前後の日曜日
 森戸新田八幡神社から国道407号線を南下し、3㎞程進んだ「高萩東」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、東行すること500m程で、進行方向に対して左手に高萩白鬚神社が横を向くように見えてくる。
 旧高麗郡には多くの白鬚神社・白髭神社が祀られていて、この高萩白鬚神社もそのうちの一社。
 久しぶりに見る西向き社殿。県道に対して並行に参道や境内等が配置されていて、丁度社殿付近に県道から駐車スペースに入る脇道があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  高萩白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「高萩村」の解説
 上大谷沢(かみおやざわ)村・下大谷沢村の北にあり、東は下高萩村。小畔川が北部を東流、その南方を同川支流下小畔川・南小畔川が北東流する。日光脇往還がほぼ南北に通り、小名宿(しゆく)には同往還の宿駅が置かれていた。東方の下高萩村に対し、上高萩村とも称された。文安元年(一四四四)一二月一三日の旦那譲状写(相馬家文書)に「筥根山御領属高萩駒形之宮二所」とみえ、相模箱根山領である高萩駒形宮二所の旦那職が山本坊(現越生町)から豊前阿闍梨へ譲渡されている。永正一四年(一五一七)五月一四日には「高萩之実相寺」等に入西(につさい)郡の内出戸より上の修験支配の権利を返したことが山本坊に伝えられている(「出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写」同文書)。同一六年四月二八日の伊勢宗瑞知行注文(箱根神社文書)では、宗瑞(伊勢長氏)から子息菊寿丸(北条長綱)に譲られた箱根山領のうちに「むさしたかはき」五一貫文があった。
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
 高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
        
                   結構長い参道
   参道右側は民家が建ち並んでいるが、対する左側は昔ながらの緑豊かな杉並木が並ぶ。
 
 参道途中左側に祀られている境内社・愛宕社  参道の先の境内に入ったすぐ左側にある手水舎
                         手水舎の右奥には社務所も見える
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下高萩村』
 八幡白髭兩社相殿 上下高萩村の鎭守にて、例祭九月二十九日なり、本山修驗白鈴寺持、
 愛宕社 神明社 山王社 村持なり、不動堂
 白鈴寺 吟松山と號す、本山修驗、上高萩村高萩院配下なり、相傳ふ當寺の持なる八幡白髭の社を勸請せし時、社の上を鶴が〇翔するを以て、山を吟松、寺を鶴齡と名づけしが、いつの頃かいかなる故にや今の寺號にあらためしと、いとおぼつかなき説なれど、姑く傳のまゝを記す、

 白鬚神社(みょうじんさま)  日高町高萩一六〇八(高萩字白髭)
 高萩は小畔川上流域に位置する。地名の由来は丈の高い萩が茂っていたことによる。村は地形平坦で地質は赤土である。このため水田は少なく陸田が多い。しかも、用水は村の西方、女影村千丈ヶ池から引水するとともに南西の溜め池も利用していた干損の地である。
 当社はこの村の字白髭に鎮座している。
『風土記稿』には、八幡白髭両社相殿とあり、上高萩村・下高萩村の鎮守として祀られ、例祭は九月二九日であったことが記されている。なお、当時の別当は本山派修験白鈴寺であった。
 白鈴寺は、上高萩村の聖護院末寺で、吟松山と号していた。同寺の伝承では、往古、八幡白鬚社を勧請した時、社殿の上を鶴が飛び交ったため奇瑞として、鶴瑞寺と名付けたが、いつのころか現在の寺名になったという。
 祭神は猿田彦大神である。本殿は一間社流造りで、内陣に金幣を祀る。また、社務所には、白鬚明神座像と騎乗の八幡明神像を奉安しており、祭りの時のみこれを社殿に祀る。
 明治期の神仏分離によって、別当は廃され、当社は社名を白鬚神社と改めた。また、これとともに神職を置くようになり、当社の初代神職は、村人から法印と呼ばれていた人物が奉仕することとなった。明治五年に村社となった。
   
                               「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 氏子区域は下高萩と上高萩の小字上宿・中宿・下宿・富士見町(六郎ヶ谷戸)の御組である。氏子は、当社を明神様と呼び、村鎮守、又は氏神として親しみ、祭りを続けているという。
        
               境内北側に祀られている金精様
 金精神(こんせいしん)は、男根に似た自然木や自然石を神体として信仰する性崇拝の一種である。金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされていて、子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。
 金精神を祀った神社は全国各地にあるが、特に東日本の東北地方から関東地方にかけての地域に多くみられる。
 高萩白鬚神社の境内社には、愛宕社と金精様の二社がある。愛宕社は火防の神として信仰され、金精様は子授けの祈願・縁結び・夫婦円満の御利益があり、願がかなうと穴あき石を奉納する。金精様に安置する石棒は、ある氏子の方のは畑から出土し奉納されたものである。元はこれとは別の、長さ30㎝程の石棒があったが、終戦後盗難に遭い、現在はないという。
        
                                社殿から参道への眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

                 

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森戸新田八幡神社


        
                        ・所在地 埼玉県日高市森戸新田31
                        ・ご祭神 誉田別命(推定)
                        ・社 格 旧森戸新田村鎮守・旧村社
                        ・例祭等 元旦祭 春の例祭 315日 秋の例祭 1123
 国道407号線を坂戸市から鶴ヶ島市方向に南下し、日光街道との交点である「高倉天神」交差点を直進する。国道407号鶴ヶ島日高バイパスを更に1.5㎞程進み、道が大きく左カーブに入り始めるすぐ左側に森戸新田八幡神社が国道を背にしてポツンと佇んでいる。
        
                 森戸新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「森戸新田」の解説
 下高萩(しもたかはぎ)新田の西にあり、本村は北方二〇町ほどの所にある入間郡森戸村(現坂戸市)。入間郡河越領に属した。享保年間(一七一六―三六)に原野を開墾して成立した(風土記稿)。明治期の始めは高麗郡となり、高萩村に属し、二十九年入間郡に復す。
        
       すぐ後ろ側には国道が走っているにも関わらず、至って静かな境内
  
享保年間(1716―36)まで原野であったというのも何となく理解できるような、長閑な風景
        
                    拝 殿
 八幡神社  日高町森戸新田三一(森戸新田字熊野)
 当地は入間川の支流である小畔川の流域に開ける。
 口碑に「万治のころ近江源氏の流れをくむ吉野氏の先祖がこの地に土着し、氏神八幡社を祀る」という。更に別の口碑に「この村の開発は享保のころで、現坂戸森戸の人たちが新田開発に移住したのに始まり、開発の折、森戸に祀る鎮守熊野社を勧請した」という。
『風土記稿』森戸新田の項には「八幡社 村の鎮守にして、村民の持」とあるだけで熊野神社についての記載はない。更に『明細帳』には、八幡神社の境内社として熊野神社を載せている。
古老は、当社の鎮座地には、大正の頃まで「オクマンサマ」の社もあり、祭り日も決まっていて、子供たちが太鼓をたたいたと伝えている。
 以上のことと、当社の鎮座地の小字を熊野と呼ぶことを勘案するに、新田開発に当たり、親村の鎮守であった熊野神社の分霊を枝村に祀り、下って一村を形成するに従い、氏子の吉野家の氏神であった八幡神社が信仰を集めるようになり、いつのころか鎮守が入れ替わったものと推察される。
 明治五年に村社となり、明治末期に村内鎮座の軻遇突智神社を合祀する。なお、現在では熊野神社の所在については不明である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は森戸新田の字熊野で、一五戸程。氏子は当社の信仰を「村が平和に暮らせるのが一番の御利益」という。終身性の濃い氏子総代四名と年交替で努める行事当番一名が神社運営に当たり、運営費は、昭和末期時点で一戸1,000円宛を神社費として支出し、充てているという。
        
                 東側より境内を撮影
 氏子の年中行事は、115日の繭玉、同20日のお恵比須様に始まる。また、節分の唱え言葉は「マメモナン二モムシタカンナ」で、古い姿を残しているという。
 119日・10日は「亥の子」で、まず、9日の夕方には、おはぎを作り一升枡に入れて縁側に設けた机の上に進ぜる。10日には、うどんを上げる。ただし、おはぎとうどんとどっちが旨いか神様に比べてもらうためにと9日のおはぎも10日の夜まで下げないで飾って置く。なお、これを供える机には、菊の花を飾ることになっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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古谷上古谷神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市古谷上3564
             ・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命 彦狭島命
             
・社 格 旧古谷上西部半村産土神・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 祈年祭 46日 八坂祭 71415
                  例祭 1014日 新穀感謝祭 1215
 今回、川越市旧県社三社(川越氷川神社・三芳野神社・古尾谷八幡神社)の参拝を終え、川越市街地方向に戻るその途中、国道16号線を西行し、伊佐沼付近でこんもりとした社叢林が見えたので、急遽参拝を行った社である。
 境内東側に参拝用の駐車場も完備されている。
 明治期まで「赤城神社」として旧古谷上西部半村の産土神として崇敬された社。創立年代は不詳ながら、当地は古くから人々の開発が進んでいた地でもあり、当社は古墳とも塚ともいえる高台上に鎮座する。荒川や入間川の合流地点にある地域でもあり、『新編武蔵風土記稿』にも「水損あり」との記述あり、当時の人達はたびたび起る洪水に悩まされていた為に、群馬県三夜沢鎮座の赤城神社に勧請、鎮座当時すぐ西側にあった伊佐沼が荒れ狂わない様お願いする為に赤城神社をお祀りしたのではないかといわれている。以降、河川と沼の守り神として信仰された。
 因みに、嘗ての氏子区域は、古谷上東半村が一ノ宮神社、古谷上全域は八坂神社と分かれていたが、大正2年に当社に合祀し、古谷上全域が当社の氏子区域となる。
        
                                  古谷上古谷神社正面
      写真左側にある社号標柱には「上郷鎮守 古谷神社」と刻まれている。
『日本歴史地名大系』 「古谷上村」の解説
 鴨田(かもだ)村の南、入間川右岸の低地に立地。東は入間川を隔てて足立郡上宝来(かみほうらい)村。古谷上郷ともいう。中世古尾谷庄の内。慶安元年(一六四八)の検地帳(川越市立図書館蔵)には「河越領上郷村」とみえ、田八四町二反余・畑四〇町三反余、このほか蔵根(ぞうね)・中嶋など荒川の堤外に田一五町一反余・畑六一町一反余。田園簿に古谷上郷とみえ、田高九九四石余・畑高五八〇石余・野高一五八石余、ほかに野銭永二貫文を上納、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一千六七〇石余、反別田九二町八反余・畑九八町二反余、ほかに開発分高一〇八石余(反別田六町余・畑六町三反余)。
        
                   地域の鎮守様という表現がふさわしい佇まいのある社 
        
                    二の鳥居

    鳥居の先で左側にある手水舎        石段の手前で参道右側にある案内板
 古谷神社の由来
 新編武藏風土記稿 (天保元年「一八三〇年」江戸幕府編さん)に伊佐沼は長さ十七町、巾三町余とあり、メートルに直すと長さ約一八五〇米、巾約三三〇米となり、県道川越上尾線から十六号国道迄伊佐沼だった事が記されています。
 赤城山の沼の霊を祀った群馬県勢多郡宮城村三夜沢鎮座の赤城神社をこの塚上に勧請(文和年中一三五一年)した時はここの西側は伊佐沼でした。当時の人達はたびたび起る洪水がこの伊佐沼辺では荒れ狂わない様お願いする為に赤城神社をお祀りしたのではないでしょうか。又本殿西側にお祀りして居ります水神様は元荒川の上江橋 (古谷小学校の南東側)脇からお移ししました。 この辺では他にも古谷本郷上組、大宮市西遊馬高木などにも水の神弁財天(嚴島神社)をお祀りしています。水難の多い地方ならではの事でしょう。
 又この塚は古墳と云う方が多いのですが、発堀した記録もなく確定出来ません、ここのすぐ南東五十米位の所に熊野神社を祀った塚がありました。その跡から墳輪、直刀、土器が出ていますし古谷上蔵根二一五からも埴輪、土器が出て居り、県内行田市の古墳とほぼ同年代(六世紀末か、七世紀始め)のもので同じ水田地帯で条件もよく似ていますが何とも云えません。(以下略)
                                      案内板より引用
 案内板において、この塚は古墳というが、発堀した記録もなく確定できてはいないとの事。但し『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』によると、「赤城神社古墳」という名称にて「円墳」「径30m」として登録されている。但し築造年代は記載されていない。
        
 案内板の右側に祀られている末社合祀殿。 境内の案内板には「前庭」と表示されている。
菅原天神社(三ヶ戸)・菅原天神社(古川端)・稲荷神社(赤城神社境内社)・稲荷神社(一宮神社境内社)・一本杉稲荷神社(上ヶ谷戸)・金刀比羅神社(一本杉稲荷神社境内社)・稲荷神社(屋敷)・金刀比羅神社(上谷)・白山神社(八坂神社境内社)・愛宕神社(蔵根)・日枝神社(古川端)。
 
  手水舎の左側奥に祀られている浅間社        末社合祀殿の右手前方にある神楽殿
    および、富士講に関わる石碑等
        
                 石段上に社殿は鎮座する。
 古谷神社(あかぎさま)  川越市古谷上三五六四(古谷上字赤城)
 古谷上は入間川右岸の低地にある。当社は『風土記稿』に「赤城社 この辺土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚をきづき上に社を建つ、この辺の鎮守なり」とある。
 社記によると、当社は赤城古墳の上に祀られ、大正九年に境内地より埴輪が出土し帝室博物館に寄贈したという。この古墳は明治期まで当社の祀職であった宮崎某が遠祖を葬るといわれ、同家に「当家者豊城入彦命御子八網田王従者母比取乎計良之後裔也王依父命開拓武蔵野到古尾谷有一族歿而葬之是則赤城塚也乎計良請守之是我家之大祖也」の文書を蔵する。
『明細帳』に「創立年紀詳ナラズト雖トモ寛文ノ頃迠ハ全村挙テ当社に属シ氏神ト仰ギ尊敬シ来リシガ年暦不詳村中両分シテ西部半村ノ産土神ト崇敬セリ然ルニ明治四年同郡古谷本郷古尾谷八幡神社ノ氏神トナリシヨリ当社ハ只信仰社トナレリ」とある。
 当地は古くから開かれた所であり、開拓時に群馬県の赤城神社を鎮守として勧請したものであろう。祭神は大己貴命・豊城入彦命・彦狭島命である。
 大正二年に堤外の一ノ宮神社・堀ノ内の八坂神社・同境内社韓神社を合祀し、社名を赤城神社から古谷神社に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                               本 殿
『新編武蔵風土記稿 古谷上村』
 赤城社 この邊土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚をきづき上に社を建つ、この邊の鎭守なり、
 熊野社 塚上にあり、村内善仲寺持、
 一ノ宮社 此邊の鎭守なり、稻荷社
 天滿宮
 稻荷社 村内善行寺の持、
 姥神社 村持、
 稻荷社 實相院の持、

 
       境内社・姥神社           水神・韓天神社・〇・〇の石祠
        
              高台上の鎮座する社殿からの眺め
        


  

 

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古尾谷八幡神社

 古尾谷八幡神社は入間川と荒川の合流地点の南西岸の平坦地に鎮座する。当社のご祭神は品陀和気命・息長帯姫命・比売神の三柱で、旧県社の格式。江戸時代末まで別当は天台宗の灌頂院であった。元暦元年(1184)源頼朝が山城石清水八幡宮を勧請、弘安元年(1278)に当地を領していた藤原時景が社殿を再興したという(正保四年「梵鐘銘」灌頂院蔵)。古尾谷灌頂院縁由(同院蔵)によれば、貞観年中(859877)の創建で、頼朝により復興されたという。山城石清水八幡宮領の古尾谷庄の鎮守として勧請されたものとみられる。永禄四年(1561)長尾景虎(上杉謙信)が小田原城を攻略する際、古尾谷氏は岩付城(現岩槻市)城主太田資正とともに上杉方の先鋒を務めたため、当社および別当灌頂院は小田原北条氏に焼打ちされ焼失した。平安時代から古尾谷庄13カ村(古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・古市場・渋井・古谷上)の総鎮守として崇敬を集めた
 川越市には、平安時代初期に編集された『延喜式神名帳』に記載された神社はないが、調べてみると、古社が多数鎮座している。
 特に、江戸期には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持ち繁栄する。江戸幕府にとって北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。
 そのためか、明治維新後には一地域としては異例の三社(川越氷川神社・三芳野神社・古尾谷八幡神社)が県社に列格していた
        
            
・所在地 埼玉県川越市古谷本郷1408
            
・ご祭神 品陀和気命 息長帯姫命 比売神
            
・社 格 旧古尾谷荘総鎮守・旧県社
            
・例祭等 元旦祭 節分祭 2月節分 祈年祭 43 
                 
例祭 9月敬老の日前日 新嘗祭 1116
 初雁公園東側に面している国道254号線を南下し、「小仙波」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流し、荒川方面に3.5㎞程東行した先の「古谷上」交差点を右斜め前方方向に進路変更する。その後、通称「古谷八幡通り」を荒川沿いに進行、2㎞程過ぎた埼京線と接するトンネルを潜った先に古尾谷八幡神社は静かに鎮座している。
       
                 古尾谷八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「古谷本郷」の解説
 古谷上村の南東、荒川右岸低地に立地。北東境で入間川が荒川に合流。東は荒川を隔てて足立郡下宝来(しもほうらい)村・遊馬(あすま)村。古くは古尾谷(ふるおや)と称し、中世古尾谷庄が成立。小田原衆所領役帳に他国衆の太田美濃守資正の所領として「七百七拾六貫四百文 入東古尾谷」とみえる。中世の古尾谷庄が近世初頭の村切により当村・古谷上・久下戸(くげど)・今泉・古市場・渋井・木野目・牛子・並木・大中居・小中居・高島・八ッ島の一三ヵ村に分村したとみられる。
 嘗て川越市古谷本郷の古尾谷八幡神社周辺を「古尾谷庄」、或は「古谷庄」と唱えていた。この「古尾谷庄」は、入間川右岸の現古谷本郷・古谷上辺りを中心とする地域に比定される山城石清水八幡宮領庄園。承元四年(一二一〇)一一月二七日の武蔵国古尾谷庄年貢運上注文案(山城醍醐寺蔵「諸尊道場観集」裏文書)に「□(武)蔵国入東郡 八幡宮御領古尾谷御庄」とみえ、見布三〇〇段・上品藍摺一〇段(代准布八一段)・上品紺布五段(代准布三九段)・巻布一段・□(卒カ)駄六疋(一疋別准布二五段)・夫三人(一人別准布一〇段)の計六四一段(史料ママ)を石清水八幡宮に送進している。当時の地頭は大内惟義で、彼は預所も兼務していたのではないかとされている。
 
    正面一の鳥居の先には二の鳥居(写真左)、そして朱を基調とした三の鳥居(同右)が建つ。
『新編武藏風土記稿 入間郡古谷本郷』
 八幡社 天正十九年社領五十石の御朱印を別當灌頂院に藏せり、古尾谷庄に屬せる本鄕上村・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高嶋・八ツ嶋・大久保・古市場・澁井十三村の惣鎭守なり、拜殿幣殿内陣皆銅瓦をもて作れり、神體は坐像束帶にして笏を持せり、本地佛は銕盤内に三尊の彌陀を鋳出せり、其さまいと古色なり、當社は元暦元年源頼朝勧請し玉へるよし、別當灌頂院に藏せる元文の頃當院學頭眞純が書ける記錄に、五十六代淸和天皇貞觀四年に八幡宇佐より移男山及至同朝に八幡與諏訪明神勸請武州古尾谷寬永十九壬午迄七百九十一年永祿六年に氏政氏康父子出馬此時大宮七社同古尾谷佐々目の兩八幡竝水判土の堂を燒右八幡社頭勸請及燒失之略者依廣海記錄中令筆記者者也とあり、もとより取べきことのみに非ざれども姑く其儘を記せり、さはあれ天正十九年の御朱印に寄進八幡宮武藏國入間郡古尾谷五十石如先規令寄附訖云云とあれば、先代より附せし地もありていと舊き鎭座なることはしるべし、
 神寳 太刀一腰 中筑後守が所持の品なりといへば、この人の歿後にこヽへ納めしものなるべし、兼光の銘あり、眞鍮をもてすべてのつくりをなせり、其さま天正年間の物ならんか、今は金具も大に破損し、古の形を失へり、(以下略)

        
             旧県社としての風格も漂う広々とした境内
 当地には、鎌倉時代に御家人として【太平記】等に古尾谷氏が在地領主として登場する。この古尾谷氏は内藤氏流といわれ、内藤系図に「関白道長―頼高―僧覚祐―祐寛―盛遠―盛定―盛家―肥後守盛時(建長六年卒)―左衛門尉時景(弘安八年卒)―景家―景幸―義景」と載っている。また、太平記巻三十一に「観応三年閏二月、新田義宗ら西上野に兵を上げる。鎌倉足利方に古尾谷民部大輔・古尾谷兵部大輔は従う」として活躍している。この後も、古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあったという。

  三の鳥居のすぐ先で、参道に対して左側に    同じく参道に対して右側にある手水舎
        祀られている境内社・天神社
        
                    拝 殿
 古尾谷八幡神社  川越市古谷本郷一四〇(古谷本郷字八幡脇)
 当社は古尾谷荘一三カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。
 社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。
 元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。
 正平七年に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を“瀬登の太刀”と名付け長男信秀に奉献させた。
        
                     本 殿
 下って永禄四年に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正五年二月資信は当社を再建した。
 次いで天正一八年豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は五十石の社領を安堵される。
 天保四年、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄一一年には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保七年、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。
 明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治四年には川越県第五区の郷社、同五年には入間県の郷社となり、昭和四年には県社に昇格した。
 大正四年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿に対して左側にある祭器庫等         祭器庫の右側並びに設置されている   
  写真右側には力石らしき大石が二基ある。   「古尾谷八幡神社社殿、旧本殿」の案内板
        
                 古尾谷八幡神社旧本殿
 県指定有形文化財 建造物
 古尾谷八幡神社社殿  付享保7年棟札1
 古尾谷八幡神社旧本殿 付天正5年棟札1
 古尾谷八幡神社は、貞観年間 859~877 に慈覚大師が石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりと伝えられており、平安時代から古尾谷庄13カ村(古谷本郷・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高島・八ツ島・大久保・古市場・渋井・古谷上)の総鎮守として崇敬を集めた。社殿は享保7年(1722)、旧本殿は天正5年(1577)の造営であることが棟札により判明している。
 社殿は、本殿・拝殿を幣殿でつなぐ朱塗りの権現造で、周囲には透塀がめぐらされている。本殿の内陣内に安置された内殿は黒漆塗りで、牡丹や昇竜・降竜の彫刻などが極彩色で彩られている。本殿の各所に施された極彩色の彫刻や、幣殿の大虹梁の若葉文様、細部の手法等が、棟札に記された享保期の形式を示している。地方における普通神社として典型的な建造物であり、建築年代が明らかな基準例と言える。
 旧本殿は、享保7年に社殿が建築された際に西側に移築され、末社として境内の神社が合祀された。二間社流造、見世棚造で全体を朱塗りとしている。見世棚造は正面の階段を省略した小型簡易な建築であるが、このような大型なものは大変珍しい。地垂木の反りが極めて大きいこと、頭貫の鼻を木鼻とせず肘木とすることなどは、中世の建築に見られる古い手法である。室町時代の古式を遺しており、棟札に記された造営期と一致する安土桃山期の貴重な遺構である。
 平成7317日指定 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 
  旧社殿の右側奥に鎮座する春日神社      春日神社の奥に祀られている護国神社
 
 本殿奥には境内社である御嶽・三島神社が鎮座       境内社・若宮神社
 
      三の鳥居の左側奥に祀られている境内社・稲荷神社(写真左・右)
        
 当地の伝承されている代表的な祭りに、「母衣掛け祭り」がある。この祭りは古尾谷八幡神社915日の例祭をいうが、中心は衣母を背負った母衣背負子(ホロショイッコ)と称する子供が八幡様のお旅巡行のお供をすることにある。
 古谷本郷の上組・下組の双方から2人ずつ選ばれた小学生の男子(かつては長男)が、母衣背負子として神輿を先導する行事である。母衣は小さな背負い籠に紙花の付いた竹ひご36本を挿したものだが、籠の中には重しの石が入っているため、年少者にとっては辛いものとなる。
 母衣背負子は顔に化粧を施し、鉢巻に陣羽織という出陣衣装を着飾る。これを出す家では、かつては自宅に親類縁者を招いて祝宴を開き、衣装もすべて自前だったが、現在は公民館を「宿やど」とし、諸々の費用も地元が負担している。神社での祭典を済ませたのち、御旅所に向けて行列が出発する。天狗を先頭に4人の母衣背負子が縦一列に並び、そのあとに神輿が続く。母衣背負子は六尺棒を手にした青年2人に守られ、母衣を反転させながら「六方を踏む」動作で一歩一歩進む。一足ごとに周りから「よいしょーっ」という掛け声がかかる。200mほどの短い距離ではあるが、子どもにとっては苦行であり、元服式の意味合いをもつ全国的にも珍しい祭りといえる。
        
           境内に設置されている「
古尾谷八幡神社 略記」
        
                   境内の様子



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
川越市HP
    「埼玉苗字辞典」「
Wikipedia」「境内案内板」等

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