古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中町雷電神社

 現在の利根川は、川幅が約500m程だが、昔から流路が一定していたわけではない。旧流路と確認できるものでは、伊勢崎市街地を西から東に流れる広瀬川の川筋があり、江戸期の宝永2年(1705)以前には、柴宿南から戸谷塚、福島、富塚、長沼本郷、 国領などの集落を北岸として流路があった。
 しかし、この利根川は、たびたび洪水を起こすため新水路として、一部の水を現流路に沿い流した。この流路を三分川、前述の流路を七分川と呼んだ。しかし、天明3年(1783)の浅間山大噴火により七分川には、水が流れぬようになり、三分川が主流となった。今でも柴宿西岸に小さな段丘崖を確認することができ、南には旧流路(七分川)であった低湿地が帯状にみられる。
        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市中町57
              
・ご祭神 大雷命
              ・
例祭等 例祭 915
 福島町八郎神社から群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線を北西方向に600m程進むと、国道354号線との交点である「堀口町」交差点に達し、その交差点を左折する。国道354号線は通称「日光例幣使街道」とも呼ぶようだが、この国道を西行し、750m程先で国道が右カーブに入り始め、幹線道路と交わるY字路の内側に中町雷電神社は鎮座している。
 境内北側には駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。 
        
                 中町雷電神社正面
 伊勢崎市中町は、利根川左岸に位置し、現在の行政区域では南北900m程・東西1㎞程の区域の他、その東側に一カ所、及び南側にも一カ所と、飛地があり、中町雷電神社はその南側飛地に鎮座している。嘗ては現在の地よりも北側の今井地域に鎮座していたらしいが、文政三年(1820)にこの地に移ったという。
        
           豊かな木々に囲まれた中に社殿は建てられている。
     周辺一帯宅地化が進んでいる中、この境内には一時の静寂感が広がっている。

中町地域の西側には「柴町」地域があり、この地はかつて柴宿(しばしゅく)という日光例幣使街道の宿場町であった。この柴宿を調べるとその記述の中に中町という地名が出てくる。
 柴宿は、宿場町としては4町から5町程度の小規模なものであった(1町は約100m)。しかし、柴宿の東側に「加宿」と呼ばれる付帯的な宿場町として中町・堀口が連なり、全体として14町余りのかなりの規模の宿場町を構成していた。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。問屋場は、柴宿および加宿中町・加宿堀口が10日ごとの持ち回りで負担したという。当初、柴宿付近の日光例幣使街道は一直線であったが、1729年(享保14年)に柴宿が北に移転し、中町・堀口との間で枡形が構成された。宿場町の成立時期が明確になっていることは珍しく、またこの経緯から、柴宿エリアは自然発生的な宿場町ではなく都市計画に基づいて作られたという特徴を持つ。        
        
        境内に設置されている「中町雷電神社建設寄付者御芳名」碑
          この石碑の裏面には社の簡単な由来が記載されている。
 改築に寄せて
 雷電神社(祭神・大雷命)文政三年(一八二〇年)に中町字北川原(現在の今井町)から現在地へ奉還されて以来一八〇年余り 中町は雷電様のご加護の下に平和と繁栄が守られて来ました 社殿の老朽化のため改築をする事に成り平成十八年十月建設委員会を設置し、多くの皆様のご協力により完成する事が出来ました。
 ここに関係者各位のご協力と努力に対しまして御芳名を石碑に刻し謝意といたします(以下略)。
                                   改築記念碑文より引用

        
                    拝 殿
        
       拝殿正面の左右の壁には龍が浮き彫りされている(写真左・右)
 
     拝殿左側に祀られている石祠       社殿左側奥に纏めてある庚申塔群等
         詳細不明          庚申塔の他に馬頭観音・道祖神・石祠もあり。
        
             参道を入ってすぐ右側にある巨大な溶岩塚
     塚上には石祠もあり、昔から氏子の方々にとって祀る対象であったのだろう。

 この塚は、天明3年(1783)の浅間山が大噴火した際の溶岩塚であり、頂上に石祠が建立されている。この地域周辺の至るところに浅間山の溶岩と思われるものが見られるのだが、いかに浅間大噴火の規模の大きさが想像できよう。このような大噴火の痕跡を先人が大切に残してくれたことに対して感謝の念を感じずにはいられない。


参考資料「日光例幣使街道」「Wikipedia」「境内改築記念碑文」等
 

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福島町八郎神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市福島町21
              
・ご祭神 群馬八郎満胤命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明
 国道462号線を北上し、群馬県内に入った「八斗島町」交差点を左折し、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流後、2㎞程進んだ「境橋」を渡った先の丁字路を右折すると、すぐ左手に福島町八郎神社が見えてくる。
        
                 福島町八郎神社正面
『日本歴史地名大系』 「下福島村」の解説
 利根川左岸、戸屋塚(とやづか)村の南にある。東は除(よげ)村・富塚(とみづか)村。寛文二年(一六六二)利根川の洪水により、村の中央を押抜かれた。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三一石余・畑方四七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別六町六反余、うち田方一反余・畑方六町四反余。新田高五石余。前年の年貢は米二石五斗余・永二貫六七〇文。
 
       
             拝殿。右側並びは社務所であるようだ。
 福島町八郎神社は、『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」に記載されている奈良時代、光仁天皇の御世(770-781年)における群馬八郎満胤の伝承にちなむ社。

 群馬八郎満胤は光仁天皇の御世(770781)、上野国群馬郡の地頭であった群馬大夫満行の八男で、容姿に優れ文武にも秀でていた為、満行は八郎を総領に立てて、その七人の兄を八郎に仕えさせた。
 
父満行が亡くなり三回忌の後、三年間精勤した後に目代(国司代理)の職を授かったが、七人の兄はこれを妬み、夜襲をかけて八郎を殺害。屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある鳥食池東南の蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
 それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。 神通自在の身となった八郎は七人の舎兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。 
 それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていたその頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。 宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。 宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。
そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら『法華経』を読誦して九月八日になり、宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って『法華経』の読誦を始めた。 やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
 宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて、「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。『法華経』の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
 この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。 尾幡権守宗岡は目代となった。

 明治42年(1909)の洪水の被害を受け、大正寺町の豊武神社へ合祀され、本殿は八斗島稲荷神社に譲り受け移築、その豪華な彫刻は近在に珍しく立派で榛名神社山門の彫刻と同型であるというが、本殿移転の夜に大風が吹き荒れ雷鳴が轟いたと伝えられているのだそうだ。その後、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ、
        
               拝殿の左側にある「不動堂」
        
            不動堂の右側奥並びにある石塔・石碑等四基
 左から「〇〇神」・「養大明神」 石塔・「二十三夜 月読尊」・「庚申」がある。養蚕に関わる地でもあったようだ。
             
                          正面の鳥居左側に聳え立つ欅のご神木
『伊勢崎風土記 下福島村』
 八郎祠 下福島村に在り。掌祭長松寺、群馬八郎満胤の霊を祀る、縁起の略に曰く、天平神護年時、上毛群馬の郡司群馬太夫満行、男八人を生む、季を八郎満胤と号す、容姿秀麗、才有り、而して多芸なり、満行鍾愛し、立てて嗣とす、満行卒し、満胤京師に朝覲す、帝之れをして国を監させ、威権隆盛なり。 是に於て七兄焉れを恚み、相与に図って之れを執らえて、石櫃に投じて、之れを池中の嶼窟〈小幡に在り。蛇喰池と呼ぶ〉に棄つ、其の霊魂化して蛇竜と為る、七兄及び宗族を鏖にし、妖崇は百姓に逮ぶ、国人懾慄し、犠牲を川上に供えて、而して之れを祀る、〈此の川を号して神名川と呼ぶ〉 瞬目の際、大風石を揚げ震電霹靂し、沛然として雨注ぎ、樹を抜き巌を砕き、谿振い、山動き、神竜冉々として東方に飛騰し、光采璨珊として那波郡下福島に現わる、因て叢祠を此の処に設けて之れを祀り、八郎大明神と崇号す、
 長松寺 下福島村に在り、真言宗満善寺末派 群馬八郎満胤開基す、 因て満胤山と號す、




参考資料『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」伊勢崎風土記」「日本歴史地名大系」
    「日本の伝説27 上州の伝説」等

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長沼八幡宮


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市長沼町231
             
・ご祭神 誉田別命(第15代応神天皇)
             
・社 格 旧長沼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭(元旦) 節分祭 2月上旬 春季例祭 43
                  
水神祭 7月中旬 例大祭 1017日 秋葉祭 1123
 国道462号線を本庄市街地から北上し、利根川に架かる「坂東大橋」を渡り、群馬県に入る。その後、「八斗島町」交差点の先にある信号のある十字路を右折し、1㎞程東行したのち、十字路を左折する。暫く道なりに進み、韮川に架かる「八幡橋」のすぐ先に長沼八幡宮は鎮座している。
        
                  
長沼八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「長沼村」の解説
 下道寺(げどうじ)村の南にあり、北方を韮(にら)川が東流する。西は八斗島(やつたじま)村、南に武蔵国児玉郡上仁手村(現埼玉県本庄市)があり、南東部は烏川に面する。寛文二年(一六六二)以降は利根川(のちの七分川)が地内を貫流していた。中世には首切(くびきれ)沼という河跡沼があったが、のち長沼と改めたという。明暦年間(一六五五―五八)川南の地五六町余を開発、向長沼(むこうながぬま)と称したという(伊勢崎風土記)。
        
           鳥居を過ぎた参道右側に設置されている案内板
 長沼八幡宮は康平5年(1062年)に源頼義が奥州平定のおり、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をし、後鳥羽天皇の建久6年(1195)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると社殿を造営した。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住み、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。その後時代が下るなかで、郷土鎮護の神として氏子の方々に崇敬されたという。
 創建当初は長沼邑字四ツ矢に鎮座していたのだが、天明3年(1783)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座したとの事だ。
 
     参道を進んだ左側にある神楽殿     参道を挟んで神楽殿の向かい側にある手水舎
        
                    拝 殿
 八幡宮由緒書
 祭神 誉田別命(第十五代応神天皇)
 当社の創建は、後冷泉天皇の御代、康平五年(一〇六二)源頼義が奥州鎮定の途中、山城国石清水八幡宮の御分霊を祀り戦勝祈願した地といわれ、後鳥羽天皇の建久六年(一一九五)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると神威を畏み社殿を造営したと伝わる。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住むに当たり、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。さらに、正親町天皇の天正十一年(一五八三)皆川山城守広照が長沼城を築いたときに社殿の大修理が行われ、皆川氏滅亡の後は、郷土鎮護の神として崇敬されることとなった。
 当社はかつて長沼村字四つ矢という地に鎮座していたが、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座された。
 明治八年(一八七五)に村社となり、同四十一年(一九〇八)に字八幡道下の八幡宮(分社)を合祀し、大正三年(一九一四)には社殿の回収が行われた。
 昭和四十七年(一九七二)には社殿、神楽殿、水舎の回収と鳥居、社務所が新築され、同六十二年(一九八七)に境内社秋葉神社の遷座祭が斎行され今日に至る。
 八幡道下の遺跡には、明治十二年(一八七九)に産土神と神武天皇陵の遙拝所として、天明の大洪水で流れついた溶岩により築かれた養気山がある。住民の敬神崇祖融和団結の象徴として今日までその遺風は守られ、昭和五十四年(一九七九)十一月三日には創築百年祭が盛大に執り行われた。傍らにには、速秋津姫命を祀った水神宮の小祠があり、水神祭はここで斎行される。
 祭日
 一月  一日  歳旦祭
 二月  上旬  節分祭
 四月  三日  春季例祭
 七月  中旬  水神祭
 十月 十七日  例大祭
 十一月二十三日 秋葉祭
 境内社
 秋葉神社 火産霊命
 稲荷神社 宇迦之御魂命
 飯玉神社 宇気母智命
 熊野神社 櫛御気野命
 伊 宮   大日孁命
                                    境内案内板より引用
        
             拝殿向拝部等を飾る彫刻は江戸時代の名匠河内守弥勒寺音八の作
 河内守弥勒寺音八(音次郎ともいう)は旧長沼村の出身で、天保14年京都白川王殿に謁し、弥勒寺河内守の称を授けられたという。透し彫りの名人で、晩年郷土の安泰を祈願し、畢境の妙技を凝らして竜の透し彫を作り、八幡宮に奉納したという。
        
       拝殿正面に掲げる「八幡宮」の奉額は、幕末の書家三井親和の筆墨
                  厳然たる風格が漂う。
       
                    本 殿

 社殿左側奥に祀られている境内社・秋葉神社    秋葉神社の奥に祀られている石祠四基
秋葉神社の左側並びの建物は物置となっていた。        詳細は不明。
       
             石祠四基の並びに祀られている大黒天
       
                   境内の様子 
 長沼八幡宮の鎮座する地から1㎞程南側に「養気山」と呼ばれる溶岩に覆われている高さ8m程の築山がある。この溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火で噴出した溶岩をこの地に集めてできた小山ということのようだが、この公園は「養気山公園」というそうだが、八幡宮外苑という別名を持っていて、嘗て長沼八幡宮が鎮座していた地であるといわれている。氏子の方々もこの「養気山」に対する崇敬の念は今でも健在で、毎年春季例祭において、「養気山」の参拝を欠かさず行っているという。



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板」等 

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牛重天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市牛重3821
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧牛重村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 225日 例大祭 725日 秋祭り 1125
 日出安駒形神社の東側にある埼玉県道38号加須鴻巣線を南西方向に進み、騎西文化・学習センター内にある騎西城に一旦立ち寄る。史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館であったようで、現在の広く騎西城として認知されている天守風の建物は、1974年(昭和49年)8月に建設された模擬天守であるといい、道路を挟んだ反対側には。土塁の一部が唯一の遺構として残されている。
        
                 旧騎西城の復元店主
 この城は戦国最強武将である上杉謙信が本拠地である越後国から関東へ侵攻した際に、本来の目的である松山城救出に間に合わず、その報復として永禄6年(15633月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城を攻め、助三郎は自害し、騎西城は落城したという。この騎西城は本丸を沼に囲まれた堅牢なお城で、北条氏対上杉氏の覇権争いの最前線の城でもあったため、激しい戦いの舞台となってしまった悲しい歴史があるのだが、現在は、綺麗な図書館や公園内に天守があり、加須市騎西地域のシンボルとして存在している。
        
               公園内に設置されている案内板
 騎西城の見学後、改めて牛重天神社に向かう。騎西城の交差点を南下し、すぐ先の丁字路を左折、そのまま1㎞程道なりに進むと進行方向右手に牛重天神社が見えてくる。
        
               像路沿いに鎮座する牛重天神社
『日本歴史地名大系 』「牛重村」の解説
 根古屋村の南東方にあり、南西方は備前堀川を隔てて広く鴻茎(こうぐき)村に対し、東は油井ヶ島沼を隔てて油井ヶ島村(現加須市)。田園簿によれば田高三二〇石余・畑高一一二石余、川越藩領。ほかに妙光寺領三〇石がある。寛文四年(一六四四)の河越領郷村高帳では高八一六石余、反別は田方五二町七反余・畑方三三町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに三一九石余があった。明和四年(一七六七)の川越藩主秋元氏の転封に伴って出羽山形藩領になったと考えられ、化政期には同藩領と根古屋村金剛院領、妙光寺領(風土記稿)。同藩領は天保一三年(一八四二)上知となり(秋元家譜)、幕末の改革組合取調書では幕府領と川越藩領・旗本領。
 天神社が鎮座する「牛重」は「うしがさね」と読む。その地名由来は不明となっていて、筆者としては大変興味深い。
「牛重」(うしがさね)という地名は『新編武蔵風土記稿』にも載っていて、江戸期からあるようだが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は埼玉県北部に鎮座する金鑽神社の「さな」の同類後であるならば、「鉄」つまり「製鉄」に関連する地名とも思える。加えて、牛重地域に隣接する「種足」地域という名称も、どことなく古代の製鉄のイメージがする地名なのだが、それらを証明するしっかりとした書物や資料はないので、あくまで筆者の推測にすぎない。
        
               参道を進む先に見える二の鳥居
 牛重天神社の創建年代は不明。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、そのころには既に存在していたものと推測される。隣の万福寺が別当寺であった。そのため、昭和後期の当社の氏子総代と万福寺の檀家総代は兼任している。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。そのうちの一つの「浅間社」は、当社の隣にある日露戦争を記念する「日露戦役記念碑」がある塚の上にあった神社で、萬福寺の山号が「浅間山」であることからもわかるように、当社とともに萬福寺と密接なつながりがあった。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 牛重村』
 天神社 村の鎭守とす、〇第六天社 〇淺間社 三宇共に萬福寺持、
 萬福寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、淺間山と號す、開山空鑁天正十三年十月十八日寂す、本尊彌陀を安ず、 鐘樓。寛政八年の鑄造なり、十王堂

 天神社  騎西町牛重三八二(牛重字中前)
 当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
 当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
 このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
 一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿上部に掲げてある凝った扁額      拝殿前には一対の力石が置かれている。
        
               境内に設置されている案内板
 天神社  例大祭 七月二十五日
 当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
 明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
 本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。
(以下略)
        
                    本 殿
        
              本殿の奥にある「日露戦役記念碑」
    「埼玉の神社」のよると、境内社・浅間社はこの記念碑のある塚上の一角で、
          南向きに祀られているようだが、今回確認はしなかった。
        
                                   社殿からの一風景
ところで、『新編武蔵風土記稿 牛重村』では、浅井長政の家臣であった黒川家の祖が、長政の嫡男・万福丸の菩提を弔うために当地にあった真言宗智山派である万福寺を創建したという。信憑性はとにかく、なかなかロマンある説話ではなかろうか。
『舊家者喜右衛門』
 黒川を氏とす、家系によるに祖先は村岡小五郎の後裔、會津新左衛門政義の嫡子にして、三郎左衛門忠重と云、忠重始て黒川姓を稱し、天文年中淺井備前守亮政に仕ふ、その子大助忠親の時、淺井家より藤丸の紋の陣羽織を興へし由、其子家忠淺井下野守久政備前守長政に仕へしが、久政長政信長の爲に生害せしかば、家忠も、薙染して僧となれり、又其子忠友は萬福丸を守護せしかども、萬福丸も又秀吉の爲に生害せられければ、これも出家せり、夫より家忠の二男忠晴より、この子實忠に至るまで、下野國にありしが、實忠の子忠好、天正年中故有て武州騎西に來り住す、夫より子孫連綿して今の喜右衛門に至れりと云、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」
    「境内案内板」等
        

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日出安駒形神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市日出安9701
             
・ご祭神 大日孁貴神
             
・社 格 旧日出安村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 714日 例大祭 1015
 戸崎八坂神社から埼玉県道305号礼羽騎西線を南下して新川用水(騎西領用水)に達する丁字路を左折、用水沿いの道幅の狭い道を900m程東行し、路地を右折すると、日出安集会所とその東並びに日出安駒形神社が進行方向左手に見えてくる
 社の西側に隣接する日出安集会所には広い駐車スペースあり。
        
               日出安駒形神社正面一の鳥居
            鳥居の左側にある石碑は「伊勢参宮記念碑」
『日本歴史地名大系』「日出安村」の解説
 正能村・外川村の東にあり、集落は騎西領用水右岸の自然堤防上にほぼ東西に連なる。田園簿によれば田高一九五石余・畑高二九七石余、川越藩領。ほかに根古屋村金剛院領三〇石、保寧寺領一〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六一〇石余、反別は田方二五町余・畑方三六町余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに二四六石余があった。
 
   手入れの行き届いた参道の両側      朱を基調とした両部鳥居である二の鳥居 
      には赤松林が並ぶ。
 嘗て当社の別当は旧根古屋村金剛院。この金剛院は、新義真言宗にて、旧山城国(現京都府)醍醐報恩院の末山という。この醍醐寺は真言宗醍醐派、別名当山派といわれ、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されている修験道の一派であるため、金剛院が別当として管理していたこの社の鳥居が両部鳥居であるのも納得できよう。
『新編武蔵風土記稿 日出安村』
 駒形權現社 村の鎭守なり、根古屋村金剛院持、もと金剛院は當社の傍にありしが、文祿の頃根古屋村へ移れりと云、已に寺領も當村にあり、當社も慶安五年の御朱印を賜ふ、神體は古き木塊の如くにて詳にのべがたし
『新編武蔵風土記稿 根古屋村』
 金剛院 新義眞言宗にて、山城國醍醐報恩院の末山なり、神光山大日寺と號せり、慶安年中寺領二十五石の御朱印を賜はれり、當寺は私市城築營の頃、日出安村より引移せりとされど當寺に所藏せる古器蓋の裏に、文祿五年住僧私源の時引移せしとあるは、城築營後のことならん、弘源は騎西町場寶乗院の開山にして、慶長年中寂せり、

 二の鳥居の右側で、道路沿いには「天保九年銘日出安邑扶助田記念碑」があり、加須市指定史跡に指定されているが、丁度参拝時間がお昼過ぎの休憩時間で、何台もの業者のトラック等が道路沿いに駐車されていて、撮影が困難であった。案内板も設置されており、その内容はここに明記する。因みに『加須インターネット博物館HP』の「昔ばなし」の項には、【39 日出安村の「扶助田」】として昔話調で内容で紹介している。
 町指定史跡
 天保九年銘日出安邑扶助田記念碑
 碑面上部に「積金贖質田記」(金を積み、質田を贖う記)とあり、以下にその由来が漢文で記されている。天保九年(一八三八年)正月造立。
 この頃日出安村では質入や売却した田畑が数百畝にも及んだ。これを憂えた篤志家らは、質金を蓄え生活に困窮する村民に貸し与えた。また、村民も日々節約し農業に励み、数年後には田畑を買い戻すことができた。その為、天保六・七年は全国で凶作による食糧難に苦しんだが、ここでは村を逃げ出す者がいなかった。そして同九年、生活に余裕のある人々が私財を出し合い、五十畝の麦田を設けることとした。これを扶助田とし、その収入をもって困窮する者を救い、零落者(落ちぶれる者)が出ないことを目指した。
 なお、当碑の書と撰文は幸手宿の儒者、金子竹香である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 駒形神社  騎西町日出安九七〇(日出安字中耕地)
 日出安は騎西町の北部、新川用水(騎西領用水)右岸に位置する農業地帯である。当社の境内は、八二〇坪と広く、脇を新川用水が流れる静閑な地にあるため、氏子の憩いの場となっている。
 当社の創建については、口碑に「上杉謙信が根古屋城を攻める時、乗って来た馬が死んだため、その馬を悼んで祀ったもの」と伝え、『明細帳』には「往古陸前園胆沢郡水沢町鎮座駒形神社の分霊を祭ると古老の口碑に有せり」とある。なお、この社の祭神は、往古駒形神あるいは神馬ともいわれ、馬を保護し、その病を治し給うとして厚く信仰された。
 慶安五年には五石の朱印を受けている。
 現在、祀職は新槙家が二代にわたって務めているが、神仏分離以前は現在根古屋にある金剛院が別当を務めていた。金剛院は、かつては当社と境内を同じくしていたが、いかなる理由からか慶長年間に根古屋に移ったという。
 なお『明細帳』による祭神は大日孁貴神で、内陣には三本の幣束と一体の神像(石造の座像)とが納められている。明治四〇年八月八日に字新道下の神明社と字中の稲荷神社が合併を許可されているが、実際には合祀は行われなかった模様である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある社の扁額       拝殿手前に設置されている社の案内板
 
                                   本殿(写真左・右)
 当社には特別な信仰やご利益はないが、昔から鎮守様として祀られている。この駒形様は相撲が好きだといわれ、かつては八幡講相撲と称して七月一四日の夏祭りには草相撲が行われていた。この八幡講相撲は幕末か明治の初めになくなったというが、拝殿内にある安政四年に奉納された絵馬から当時の様子を偲ぶことができる。
        
             境内に祀られている石祠四基と奉納碑


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
                  
  

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