古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山崎浅間神社

 いにしえの歌人である山上憶良は万葉集で「銀(しろがね)も黄金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」と詠んだように、いつの時代も子をいつくしむ気持ちは変わらないものだ。現在のように医学が進歩していかなった昔は乳幼児の死亡率は高く、「七歳までは神の子」「七つ前は神のうち」といわれ、神仏の御加護なくして育たないと言われてきた。七つを迎える帯解きの祝いまでに様々な儀礼を行い、神仏に感謝し、その後の無事な成長を祈ったという。初山の行事も重要な儀式のひとつである。
 初山は初山参り・浅間様などといわれ、生まれて初めて七月一日を迎えた子供が浅間神社にお参りする行事である。浅間神社の多くは、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社を勧請したもので小高い丘の上に祀られている。この丘は富士山を模しているもので富士塚ともいう。昔は自然の塚の頂上に神社を祀っていたが、江戸時代後期になると富士信仰の高揚により、塚を造ることが流行した。赤ちゃんが「初めて山に登る」ことから、その名前が付けられたといわれるこの行事では、その年に生まれた赤ちゃんのおでこに赤い神社印を押して、その健やかな成長を祈るとの事だ。
 子供の額に印を押してもらって御札とうちわをいただく地域の伝統的な行事だが、このほのぼのとした行事は大切に受け継いでもらいたいと真に願う次第だ。
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎744
            
・ご祭神 木花之佐久夜毘売
            
・社 格 不明
            
・例祭等 浅間様(初山行事) 71
 山崎重殿社の北側には、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林が存在し、その場所一帯は「山崎山の雑木林(緑のトラスト保全第5号地)」として、宮代町と埼玉県が購入し、さいたま緑のトラストボランティア第5号地支部(里山守り隊)を中心に、保全活動や自然観察会が行われているという。この雑木林を含めた里山の風景を愛でながら東行すると、進路左手にこんもりとした社叢林が見え、道路沿いには神明系の鳥居が見えてくる。
        
              
山崎浅間神社(赤間浅間神社)正面
 神社というよりこんもりとした古墳か塚のようなこじんまりとした社だ。後日調べたところでは以前、赤松の大木が多数あった事から赤松浅間社と呼ばれ、江戸時代後半に造られたものという。
 
 鳥居の先で参道右側に設置されている案内板     案内板の並びに祀られている二十三夜塔
                           の石碑と小宝仙元宮の石祠
 山崎浅間神社
 浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落(かさはらおとし)を眼下に見る築山の頂上に祭られていまる。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
 祭神は木花之開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
 富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(一八四三)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
 毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
 また、当社の西方には山崎の村社である重殿社があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡である山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいたことが知られている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
           境内に設置されている赤松浅間池生類供養塔
「埼玉の神社」によると、かつて
参道の南側には30坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のような景観であったようだが、昭和57年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。
        
               石階段の右側下にある石碑等
 
 参道を進んだ先には石階段があり、
その先頂上には「浅間大菩薩」の石碑がその代わりとなっている。(写真左・同右)
 浅間神社(あかまつせんげん)  宮代町山崎七四四(百間村字山崎)
 当社が鎮座する山崎は、江戸時代における百間村の南部に相当し、笠原沼落の右岸に位置する農業地域である。その村落の北端に鎮座する当社の境内は、かつては大人でも一人では抱えきれないほどの太い赤松が十数本も生い茂り、参道の脇には三〇坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のようであった。しかし、赤松は神社の賄いに充てるために昭和五十年ごろまでに順次伐採され、池も昭和五十七年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。ちなみに、「赤松浅間」の通称は、この境内の赤松にちなんだものである。
 当社には建物がなく、塚の上に建立された「浅間大菩薩」の石碑が社である。(中略)境内に文化十一年(一八一四)建立の「小御嶽再建同行中」碑があり、当時既に富士講が行われていたと推測される。
 一方、氏子の間では、境内にあった池は、当社で祀られている塚を作るために土を掘った跡であると伝えられている。このことと、『風土記稿』百間村の項に当社についての記述がないことを考え合わせると、当社が現在のような姿を整えたのは、文化年間(一八〇四〜一八)以降のことと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                  塚上からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「「宮代町HP」「さいたま緑のトラスト協会HP
    「埼玉の神社」
境内案内板」等
        

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金原稲荷神社(保食社)


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町金原43
             
・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧百間金谷原組鎮守
             
・例祭等 例祭(稲荷神社の祭礼) 720
 金原稲荷神社(保食社)は、山崎地域に鎮座する重殿社から直線距離にして1㎞程南にあり、真言宗智山派金谷山遍照院のすぐ西側に鎮座している。
 山崎重殿社から一旦東行し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に達した十字路を右折する。その後、1.3㎞程進んだ「中」交差点を右折し、300m程先にある丁字路を右折すると左側に社は見えてくる。
        
                
金原稲荷神社(保食社)正面
 当社の祭神は倉稲魂命であるが、社頭に掛かる明治18年の社号額には「保食社」とあり、この保食神が祭神として意識された時期があったことをうかがわせる。もともとは西光院の末寺である宮崎坊の境内社であった。安永4年(1775)に京都の伏見稲荷大社から正一位の位階を与えられたことがわかる文書が残されている。本殿は慶応3年(18675月の再建で、内陣には全高25㎝の白狐に乗った荼枳尼天像が納められている。
        
      鳥居を過ぎて当初はそのまま参道を進むが、途中で直角に右に曲がる。
             その先に社殿がある配置となっている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 百間村』
 一は百間金谷原組新田と云、享保九年の新開とのみ傳へて、検地は詳ならず、
 遍照院 金屋山と號す、天正九年造立せり、開山祐源と云ふ、 地藏堂 宮崎坊 稻荷山と號す、 稻荷社 雷電社

 稲荷社  宮代町金原四三(百間村字金谷原)
 百間村は大落古利根川の右岸に沿って位置する。「風土記稿」によれば、古くは太田庄百間領に属し、村の鎮守であった姫宮神社の応永二十一年(1414)の鰐口には「大田庄南方百間」とあり、足立郡鴻巣宿の農民が来て、切り開いた土地であるという。
 当社は、この百間村の金谷原に鎮座する。金谷原とは鋳物師に関係の深い地名で、この辺りに鍛冶屋がいたことから付いたという。ちなみに当社の南三○○メートルほどの所に鍛冶屋屋敷跡があり、当地では「川口の鋳物師の本家」であるといわれている。
 口碑によれば、江戸初期に金谷原の「七郎名主」と呼ばれた関根家では金山大神を鎮守としていた。村には上の上寺(宮崎坊か)と下に遍照院があった。当時村では上下の対抗意識が強く、名主の関根家は下に居を構えていた。安永年間(一七七二〜八一)以前に、名主が関根家から上の折原家に替わるや、上では金山社を鎮守として祀るのを嫌い、新たに京都の伏見より稲荷を勧請した。そこへ下の金山神社を合祀したという。また、社伝には「安永四年(一七七五)羽倉摂津守が山城国伏見稲荷より五穀豊穣を願い勧請した」とある。「風土記稿」に見える上の寺と思われる宮崎坊は稲荷山と号し、遍照院は金谷山と号し、稲荷社・金山社それぞれの別当であったことが推測される。
                                  「埼玉の神社」より引用
 現在の金原は、「金谷原」を継承する地域名で、上・下・新田の三つの地区に分かれている。明治九年の『郡村誌』には、当地の地味について「色赤野土なり質悪しく稲麦に宜しからず茶甘藷に適し水理便ならず時々水旱に苦しむ」と記され、昭和十年代ごろまで旱魃に見舞われるたびに雨乞いを行っていたといい、その祈願は群馬県板倉町の雷電神社に「お水」をもらって祈願をしたという。
 
     拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部
        
                     本 殿
 かつて金原では、ムラの鎮守である稲荷神社の祭りを二月の初午に行い、この時甘酒を造る。この日には、稲荷神社に各家で藁のコモに豆腐を二丁くらい入れて供える。また、事前に当番の家で造っておいた甘酒を稲荷様の境内に置き、参拝者に振る舞った。この甘酒は、稲荷様の田んぼからあがる小作の米の一部を、糀と交換して造るものである。甘酒を造った当時は、当番が一〇軒くらいで、当番の家で造り、神社に運んで神主に拝んでもらった後に振る舞うのであった。男の人たちは、御神酒で宴会を行った。この行事は、第二次世界大戦後もいくらか行ったが、現在は行われていないとの事だ。
        
             境内にある稲荷神社二百年祭記念の石碑
 稲荷神社二百年祭記念
 保食社は安永四年九月本宮正官攝津守によって分社、現在の地に鎮座された氏神樣です。
 約六百坪の境内には杉の大木が茂り百間杉と愛称されておりましたが大東亜戦争の供木になり放置されておりましたが幸い町当局の好意により公園と集会所が完成し社殿補修工事は氏子一同の協力によってなされたものであります。(以下略)
                                      石碑文より引用

        
              境内西側に祀られている境内社四基
       左より金山大神・天満宮・雷電宮・金谷権現神社が祀られている。
 因みに金山大神は、明治41年に字金谷原前から移転したという。この社は鍛冶屋集団が信仰する職業神を祀る社である。金谷または金屋(原)と称する地名は、かつて鍛冶・鋳物師の居住地であったことを示す場合が多い。金原という地域名や、境内社に金谷権現社や金山大神を祭ってあるところから、近隣で製鉄、あるいは金属加工が行われていたらしいことが伺えよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」
    「境内石碑文」等
     
        

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蓮谷稲荷神社

 宮代町百間地域の「百間」は「もんま」と読む。なかなかの難解地名である。この百間の地名については、行基(ぎょうき)菩薩が当地を舟で訪れた際に、上陸した地に地蔵尊を安置し、ここから神外(じんが)の地(聖域)までの距離をはかったところ一〇〇間あったことによる(高野村誌稿)といったような伝承が残っている。また、西光院の西の神外堀までを陣内といい、そこには百軒の家があったので「百間」という名が付いたという。
 さらに、行基が船でこの地を訪れたとする記述が着目される。現在でも百間地域には川島・平島・松の木島といった小名が残っており、周囲が川に囲まれていたことが容易に想像できる。また、百間の字逆井(あざさかさい)も、その語源は「百間記」によれば、若狭国からの船着場があり、その船頭が井戸を掘ったことに由来すると云う。古代には「万葉集」に「埼玉の津」がうたわれていることもあり、百間の地が古来から利根川水上交通の要所であったことがうかがえよう。
 一方、『埼玉県地名誌』では、アイヌ語との関連記述があり、「百間の名は湖沼よりおこるとみられる。マがアイヌ語の湖沼の意であることは柳田国男氏がすでに指摘したところである。(中略)北海道地名の紋別(モンベツ)のモンはアイヌ語の「モ」、静かなの意である(「地名アイヌ語小辞典」)。このように解するとき紋別が静かな川であるのに対して、百間は静かに水をたたえた沼の意となろう。」と載せている。
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町百間1093
            
・ご祭神 宇迦之御魂命
            
・社 格 旧蓮谷村鎮守 旧村社
            
・例祭等 元旦祭 2月初午祭 例祭 722日 お日持 1019
 宮代町役場の南側で、東武動物公園東園門や宮代町立笠原小学校のすぐ北側に鎮座している。当地はかつて蓮谷村として一村であったが、明治22年に百間村大字蓮谷となり、続いて昭和5年の大字の廃止に伴い、字百間に含まれた。この旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形であるという。
        
                 
蓮谷稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「蓮谷(はすや)村」の解説
 百間村の北西、古利根川右岸に沿って位置。南部を姫宮落堀川が流れ、台地と低地が錯綜している。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。田園簿によると田高六八石余・畑高三四石余、旗本水野領。元禄三年(一六九〇)代官八木仁兵衛長信らにより検地が実施された(風土記稿)。
 
 参道左側にある皇太神宮参拝記念碑と力石     参道左側には三基の記念碑等がある。
                          真ん中には「
新築記念」の石碑
                    新築記念
         蓮谷稲荷神社の創建年代は詳かでないが樹齢凡そ五百年の神
         木があった事でも古くから当地の鎮守であったと推定される
         明和三年に神階を授けられたが旧社殿はその頃の建設であろ
         う之は年を経たので朽損しておった たまたま境内の巨松が
         枯損した際に之を資材として改築の議が起り氏子一同が協賛
         して数年間資金を蓄積し労力を奉仕して遂に総工費金五拾萬
         圓を以て瓦葺の神殿拜殿を完成し旧観を一新した之は神徳の
          加護によって平和な郷土を築こうとする努力の結晶である
          工事は総務鈴木清吉吉岡勇吉会計加藤佑輔補佐加藤旭委員
         加藤平次郎加藤豫鈴木相三が担当した 茲に父祖三代に亘り
            て奉仕する宮司服部誠一欣然文を作りて書く

 蓮谷では、毎年米一俵、麦一俵と一〇年間くらい積み立てをして、積み立てをした全員で伊勢講を行ったものである。近年では、昭和二五年や昭和四五年に伊勢講で伊勢参りをしている。こうした伊勢参りをしてくると、記念として蓮谷の鎮守・稲荷神社に常夜灯や敷石、石碑などを奉納するものであった。現在、稲荷神社境内には、嘉永五年四月吉祥日建立の常夜灯があるが、これには「伊勢太々連」と刻まれている。これは、伊勢講による参宮記念の奉納物とみられる。また、昭和五年一二月二六日建立の伊勢太々記念碑もある。これによると、参宮は大正七年二月一五日に行われ、その後昭和三年二月一〇日、稲荷神社に敷石一七枚を奉納したことが刻まれている。
 昭和二五年の伊勢講は、昔ながらの伊勢講で、旅行会社などを頼らずに一〇日~二〇日くらいの旅をした。行き先は伊勢だけでなく、お金の続く限り、旅を続けたもので、関西を皮切りに九州の別府まで行って帰ってきたという。これに対して、昭和四五年の伊勢講は、旅行会社に手配をしてもらったもので、それでも四国を一廻りしてきたという。なお、この昭和四五年の伊勢講の際の「皇太神宮参拝記念」の碑が鎮守の稲荷神社境内にある。
        
                    拝 殿
        
          拝殿に掲げてある社の由緒が記述されている奉納額
 蓮谷稲荷神社  南埼玉郡宮代町百間一〇九二鎮座
 祭神 宇迦之御魂神 (穀物の神)(稲の精霊)
 縁起 
 旧蓮谷村は古利根川右岸に位置し、南部には姫宮落川が流れ、台地と低地が複雑に入り組んだ地形である。当社の鎮座地は姫宮落川の北の辺りの低地で、現在は東武動物公園の駐車場や民家に囲まれているが、かつてこの地は笠原沼を開拓した水田地帯であった。
当社は「風土記稿」蓮谷村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、村民持」とあり、その創建については二つの説がある。
 一説は口碑によるもので、豊臣家の家臣であった加藤外記(加藤壽一家の祖)が大阪城落城の後、京都の伏見稲荷神社の分霊を自らの守護神として受け、当地まで落ち延び帰農して開拓するに当たり、その守護神を作神として祀ったという。もう一説は「明細帳」によるもので、元禄三年(一六九〇)に伏見稲荷神社の分霊を遷し祀ったという。村の草分けである加藤家の子孫は、江戸時代を通じて村の名主であった。当社は初め加藤家の氏神として江戸の初期に創建されたが、その後、村人から厚く信仰されるようになったため、村の鎮守として祀るために元禄三年に再勧請されたのであろう。
当社は更に明和三年(一七六六)に名主の加藤平右衛門が願主となり、伏見稲荷神社から「正一位稲荷大明神」の神璽を拝受した。当社は明治六年に村社に列した、
 信仰
 祭事は元旦祭、二月の初午祭、七月二十二日の例祭、十月十九日のお日持の年四回である。初午祭は昭和三十年頃までは三月に行われていた。その当時は小学生の子供たちが朝から各戸を回り「油っこください」と言ってお金を集め、灯油の油、お供え、食料を買い、神前に明かりを灯し、「お籠り」と称して拝殿に一晩泊まり込んだ。翌朝は朝早くから大人たちが参拝し、赤飯や五目飯を供え、子どもたちはそれを食べて学校へ行った。現在は火災等の心配から行われていない。
                                      掲示板より引用
 
    社殿の左側奥に祀られている雷電宮      鳥居を過ぎたすぐ右側に
祀られている天満宮
 蓮谷の稲荷神社の境内には、雷電社がある。この雷電社では、特に祭りは行われないが、雷電様の祠を沼の水で洗うと雨が降るという。昔、雨が降らないので、笠原沼の船着き堀に雷電様を落として見つからなくなってしまった。すると雨が降りすぎて困ったという。その後掘上田で土を上げていて、見つかったとのこと。
        
                さ殿から見た境内の様子
        
               社の右手に祀られている庚申様


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
     HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
  

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和戸宇宮神社

 宮代町の北西部に位置する和戸地域は、『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代に国納村と一村であったのが、正保期(164448)以前に分村したという。但し、和戸地域の北部を中心に国納の飛地が大小複数個所存在していて、地域として和戸のほうが遙かに面積が広いのであるが、地図上では遙かに狭い国納地域に南北が挟まれている上、中央部にも国納の飛び地が何カ所点在する、独特な特徴を持つ地域となっている。
『東武鉄道HP』による「和戸」の地名由来によると、「和戸には、上河原があり、その名のとおり磔地または川床等の意味があります。地質図でみると、入河内と沖野山の間に川の流路跡がみられ、かつては古利根川と合流していた事がわかります。」と載せ、『埼玉の神社』によると、「烏戸宮(和戸神社の改名前の名称)の社名は、ウドが川岸の窪んだ所を示す言葉であり、古利根川がこの辺りの台地をえぐるように曲流していることから、このように称したのであろう」と記述されている。本来「和」は「輪」の佳字で、川の曲がりくねった. 土地で、やや広い丸みのある平地と表すといい、一方「戸」は「土」とも書き、昔入りくんだ地で河岸のあった所という、どちらも河川が関連した地域名であることには変わりないようだ。
        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町和戸846
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧和戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 祭礼(天王祭) 715
 東武伊勢崎線和戸駅前通りを北上し、「和戸駅入口」交差点を左折、埼玉県道85号春日部久喜線を北西方向に進行する。備前堀川に架かる「和戸大橋」を渡り、更に650m程進んだ押しボタン式交差点を右折し、その後西方院の墓地を右手に見るように北上し暫く進むと、正面に和戸宇宮神社の鳥居が見えてくる。
        
                  和戸宇宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「和戸村」の解説
 国納村の北にあり、もとは同村と一村であったという(風土記稿)。東は古利根川を境にして葛飾郡下高野村(現杉戸町)と対し、西は太田袋村(現久喜市)。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)に岩付領「和戸之内」とみえ、二貫文の地が鷲宮神社(現鷲宮町)領で、北条氏より同宮甲斐守・同満寿に安堵されている。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達家の鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。

   入り口付近に設置されている案内板        趣のある鳥居付近の景観 
 宇宮神社・本覚院跡
 所在地 宮代町大字和戸字本郷
 字宮神社は旧和戸村の鎮守で、創建については明らかではないが、『新編武蔵国風土記稿』によると文明一六年(一四八四)に再建したと伝える古い社である。祭神は、天穂日命ほか三柱を祀る。かっては烏戸宮明神と称していたという。別当(神社を管理する寺)は、本山修験で字宮山宮本寺と称されていた本覚院である。明治初期に廃寺となったが、今も江戸初期に諸国遊行した僧円空によって刻まれた「円空仏」が伝わる。
 この宇宮神社のある本郷地区は、江戸時代和戸村に属しており、和戸村は江戸時代初期に国納村から分かれた。このため、両村が飛地状に入り交じっており、今も大字としてそうした状況が残っている。
 本郷地区周辺は、宇宮神社の他に愛宕社や胡録社、平安時代の創建と伝える西方院、観音堂(廃寺)などがあり、久喜道沿いに古くから開けたところであることがうかがえる。
                                      案内板より引用 

       
             緑豊かな長い参道の先に社殿が見える。
 宇宮神社は文明十三年(一四八一)に再建されたが、いにしえは「烏戸宮明神」と称していたといい、正徳(しょうとく)三年に神位を進めしときに、今のように改めたという。土地の人々は「明神様」「天王様」と称されていて、村の鎮守として氏子の方々に崇敬されたという。
 
  参道左側に祀られている石祠と境内社    参道の挟んだ反対側にも境内社が祀られている。
左の石碑は〇〇大明神、境内社は稲荷諏訪神社        真ん中の境内社は主夜神
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 和村』
 宇宮明神社 村の鎭守とす、文明十六年再建ありと云、社地に元享三年の古碑あり、是を勸請の年代といへど覺束なし、古は烏宮明神と呼しが、正德三年神位を進めしときより、いかなる故か今のごとく改むと云、 末社 守夜神 安永二年地頭、山本某勸請せりと云、
 別當本覺院 本山修驗葛飾郡幸手不動院配下 宇宮山宮本寺と云、本尊不動、


 宇宮神社(みょうじんさま)  宮代町和戸八四六(和戸字本郷)
 鎮座地の和戸は、天正十八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状に「弐貫文岩槻領和戸之内」(鷲宮神社文書)とあるのが初見で、中世末期に既に開発され、鷲宮神社の神領となっていた。『埼玉県地名誌』によると、ワドは谷間の意味で、当地の地名の由来も古利根川右岸の大宮台地の谷間にあるためであるという。
 当社は『風土記稿』和戸村の項に「字宮明神社 村の鎮守とす、文明十三年(一四八一)再建ありと云、社地に元亨三年(一三二三)の古碑あり、是を勧請の年代といへど覚束なし、古へは烏宮明神と呼しが、正徳三年(一七一三)神位を進めしときより、いかなる故にか今のごとく改むと云、末社守夜神、安永二年(一七七三)地頭、山本某勧請せりと云」とある。但し、元亨三年の古碑は現存しない。当地が中世より鷲宮神社の神領であり、当社の祭神が鷲宮神社と同じ天穂日命であることから、当社の創建は中世に鷲宮神社の分霊を当地に勧請したものであろう。また、烏戸宮の社名は、ウドが川岸の窪んだ所を示す言葉であり、古利根川がこの辺りの台地をえぐるように曲流していることから、このように称したのであろう。別当の本覚院は葛飾郡幸手の本山修験不動院配下で、当社の東に隣接していた。
 神仏分離により、本覚院は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列せられた。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            拝殿上部に掲げてある「正一位宇宮大明神」の扁額
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料
     HP 宮代町史 通史編」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
 

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和戸浅間神社


        
             
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町和戸24
             
・ご祭神 木花之咲耶姫命
             
・社 格 旧和戸村和戸宿鎮守
             
・例祭等 初山(ウラ浅間) 630
 国納雷電神社から一旦北上し、埼玉県道65号さいたま幸手線に合流後、東武伊勢崎線の踏切を越えたすぐ左側に社に通じる道幅の狭い路地がある。民家も立ち並び、また路地自体も目立たないので、そのまま通り過ぎてしまう可能性もあるが、その路地の両側には幟ポールが左右一対建っているのでそれが目印となっている。路地を進むと、そこは同時に社の参道ともなっていて、赤い鳥居を進んだ先の塚上に和戸浅間神社は鎮座している
        
                 
和戸浅間神社入口付近
 社の
創建年代は明らかではないが、個人持ちであった社を、文化14年(1817)に富士信仰の集団である富士講持ちの神社としたと伝えられる。また、昔、和戸村に疫病が流行り、これを鎮めるために浅間様を迎えて祀ったという伝承がある。
 明治32年の東武鉄道の敷設に伴い、現在の場所に移転している。毎年630日の祭礼には「ウラ浅間」と呼ばれ、赤ちゃんの健やかな成長を願って、赤ちゃんとその親が山に登り、赤ちゃんの額に神社のはんこを押してもらう「初山(はつやま)」の行事として多くの参詣者で賑わうという。
        
             路地の途中に設置されている社の案内板
 和戸浅間神社
 所在地 宮代町大字和戸字宿
 和戸浅間神社の創建は明らかではないが、江戸時代の始め個人持ちの社であったものを、文化十四年(一八一七)に富士信仰の集団である富士講持ちの神社になったと伝えられている。明治三十二年東武鉄道の敷地となったため、現在地に移転した。
 祭神は木花之咲耶姫命を祀る。祭礼は六月三〇日で「ウラ浅間」と呼ばれ、文化十二年旧暦五月三十日に初めて行われたという。以来、子供の成長を願う初山の行事として毎年参詣者でにぎわう。祭礼当日には参道に灯籠が飾られ、大正時代の始めから昭和四十五年まで山車も曳かれている。また、当社では十一月初旬に七五三の行事も行われている。
 富士信仰は、富士山を中心とする山岳信仰の一つで古代よりあったが、特に江戸時代後期には庶民の間にも広がり絶頂を極め、各地で小富士も築かれた。天保十四年(一八四三)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村敷控には「和戸、西粂原、東粂原」等の村名もみられ、信者の分布の様子を知ることが出来る。
                                      案内板より引用
        
           赤い鳥居を過ぎたその先の塚上に社は見えてくる。
           社のすぐ近くに聳え立つ巨木も一際目立つ存在だ。
        
                    拝 殿
 和戸宿では、和戸宿の鎮守として浅間神社を祀っている。和戸の浅間神社の祭礼は六月三〇日に行われ、「うら浅間」といわれている。祭典は午前九時から行われ、県道岩槻幸手線から浅間神社までの参道に灯籠が灯る。境内ではお札、お守り、破魔矢などが販売される。なお、この日には、昭和四五年までは山車が出た。山車には祭り囃子の囃子連が乗って祭り囃子を演奏した。囃子は太鼓三人、笛二人、鉦一人ほどで、杉戸町茨島の囃子連を頼んだ。このほか、山車の前には、島田のかつらに化粧をして女装した若い衆が歩いたりした。
 御成道を曳航したもので、露天商も多く出て賑わったものである。この祭りは、周辺地域の夏祭りの先陣をきって行われるもので、この日までに田植えを終わらせたものである。また、「和戸が山車で高野は神輿だ」とか、「和戸が雨だと高野は天気だ」と七月中旬に行われる幸手市上高野の祭りと並び称せられたという。

 ところで、和戸浅間神社から県道を挟んだ東側には「和戸公民館」が建っているのだが、嘗てこの場所には「須賀村役場」があったという案内板が設置されている。
 
       現在の和戸公民館             須賀村役場跡の案内板
 この案内板によると、旧須賀村役場は明治22年(1889)、和戸・須賀・東粂原・西粂原・国納の五カ村が合併した際に、西粂原の宝光寺に置かれた。明治44年、現在の須賀小中学校の近くに庁舎が新築されたが、立地上に問題が生じた為、大正3年(1914)に大字和戸(現在の和戸公民館の場所)に新築移転した。木造二階建てで事務室は1階のみであったそうだ。その後、昭和307月、須賀村と百間村が合併し宮代町が誕生した後は須賀支所として使用されていたが、役場庁舎の新築に伴い昭和36年に須賀支所は廃止になったということだ。


参考資料「宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料HP 宮代町史 通史編」「境内等案内板」等

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