上平野八幡神社
・所在地 埼玉県蓮田市上平野692
・ご祭神 応神天皇
・社 格 旧上平野村鎮守 旧村社
・例祭等 歳旦祭 元旦 防疫祭 4月5日 例大祭 4月12日 9月13日
大祓 6月14日 12月27日 他
蓮田市上平野地域は、元荒川右岸に位置し、南は綾瀬川を境として高虫地域のすぐ東側にある農業地域である。この地域は、『新編武蔵風土記稿 上平野村』に(「當村元は平野村とのみ唱へり、然るに元荒川の下流に同名ありて、彼川浚の時両村呼び分がたしとして、當村上流にあるを以て上の字を加ふべき山、沙汰ありしより起れりと」)と載せているように、かつては「平野村」とのみ唱えていたのだが、元荒川下流域にも同名村があるので上平野村と称するようになったという。
上平野八幡神社正面
この上平野地域にあって鎮守社として信仰のある八幡神社は、地域の西端に鎮座していて、高虫氷川神社から埼玉県道77号行田蓮田線を500m程東行すると、それまでの田畑風景の中に点在する雑木林とは明らかに違う緑豊かな森が出現し、その森の中に上平野八幡神社の赤い鳥居が見えてくる。因みに、後日地図を確認すると、この鳥居は珍しく北向きである。
上平野八幡神社の正面に対して県道を挟んだ左側(地図でいうと北側)には、バスの折り返し場であろう空間があり、そこの奥にある集会所の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
社叢林の中にひときわ目立つ朱を基調とした鳥居
高虫氷川神社同様にこの社の社叢林も蓮田市の保存樹林の指定を受けている。
『日本歴史地名大系』 「上平野村」の解説
元荒川右岸に位置し、南は綾瀬川を境にして足立郡に対する。東は井沼・駒崎の二村、北は元荒川を境にして柴山村(現白岡町)。元荒川の下流域に同名村があるので上平野村と称するようになったという(風土記稿)。戦国期頃に成立したとみられる市場之祭文写(武州文書)に「武州崎西郡平野宿市祭」とある。岩槻領に所属(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)と推定される一二月二〇日、「平野之内平原寺」に宛てた全阿弥の書状がある(平源寺文書)。慶長三年(一五九八)正月五日の芝切に関する傘型連署起請文(同文書)に平野村がみえる。
正面の鳥居のすぐ左側の大木の根元にある庚申塔。
その先に真っ直ぐに伸びる畦道の先に見える境内社(写真左・右)
社叢林は思った以上に懐が深く、日中参拝で晴天にも関わらず、薄暗く静かである。
深い林の中から日が差す木洩れ日が不思議な神々しさをも感じさせてくれる。
蓮田市上平野に鎮座する上平野八幡神社の創建年代は不明である。ただ上平野村が成立したのが慶長年間(1596年-1615年)であること、当地にある平源寺も同時代の開山であることから、その頃に創建されたものと推測される。
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。1944年(昭和19年)、「八幡社」から「八幡神社」に改称したという。
参道は途中でL字に右方向に曲がるのだが、その角付近には
一際高々と聳え立つ御神木が聳え立つ。(写真左・右)
南北に通じる参道の先に建っている2基の建物のうち、右側は神楽殿にも見える(写真左)。この建物には「令和八年度 上平野八幡神社 行事予定表」の紙が貼られている。そしてすぐ右手にあるのは神興庫(同右)。当社の夏の悪疫退散の行事である「天王様」に際に使用される山車や、かつて春の祭礼において各戸を練り歩いていた獅子頭等が保管されているのであろう。
『蓮田市HP』には上平野の天王様に関して、『「天王様」とは、夏の悪疫退散の行事で、神輿の渡御や山車の巡行を伴って開催されることの多い祭礼です。蓮田市内の天王様は、多くが7月14日前後に実施されてきました。かつての上平野の天王様は、神輿の後を山車が巡行するお祭りでした。その後、八幡神社で祭典後に大天狗、小天狗、獅子が全氏子の家を回る形になりましたが、近年では、神社本殿に大天狗・小天狗・獅子を飾り、軽トラックに祭囃子の録音再生機材を搭載し、上平野の地区内を祭囃子の演奏をスピーカーで流しながら巡行する形になっています。』と載せている。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上平野村』
八幡社 村の鎭守なり 末社 愛宕 稻荷 〇稻荷社 〇天王社 以上共に寶蔵寺持
〇雷電社 妙音寺持 末社 稻荷
八幡神社 蓮田市上平野六九二(上平野字上綾瀬)
鎮座地の上平野は、その名が示すように、元荒川右岸の平野部に位置する農業地域である。
元来は単に「平野」と称していたが、元荒川下流の同名の村と区別するために、元禄年間(一六八八-一七〇四)ごろ、「上」の文字を冠するようになった。その地内には、享保十三年(一七二八)に井沢弥惣兵衛が中心となって開削した見沼代用水が通っているが、元荒川の対岸の芝山とを結ぶ伏越は、その重要構造物として著名である。
当社は、この上平野の鎮守として祀られてきた社で、慶長年間(一五九六-一六一五)に、村の開発と同時に勧請されたものといわれている。このことは、戦国期ごろに成立したとされる「市場之祭文写」に「武州崎西郡平野宿市祭」との記載があり、また、地内の平源寺も戦国末期の草創といわれていることから、まず間違いないものと思われる。なお、『風土記稿』上平野村の項には、「八幡社 村の鎮守なり 末社 愛宕 稲荷」とあり、別当についての記載はないが、実際には真言宗の宝蔵寺が別当であった。
明治になると、神仏分離が行われ、宝蔵寺は廃寺となり、墓地と集会所にその跡を残している。一方、当社は明治六年に村社になり、同四十年に字長島谷の雷電社と字上綾瀬の須賀社を合祀した。なお、社名は、当初は八幡社であったが、昭和十九年に八幡神社と改めた。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
境内には石祠が2基祀られている合祀社がある(写真左)。
左側の石祠は稲荷大明神。右側の石祠は具体的な社名は彫り込まれていない。但し、天神(菅原道真)らしき人物が坐っている像に、なにやら梅(?)の木も彫られているようなので、天神社かもしれない。但し『新編武蔵風土記稿』には末社として天神社は載せていないので、あくまで推測に過ぎないことはお断りさせておく。
(*但し同地域にある平源寺項には天神社の記載があるので、合祀されている可能性はあろう)
鬱蒼とした森に囲まれた社
県道を挟んだ北側にはバスのロータリー場となっている広場がある。
埼玉県道77号線の北側にはかつて別当寺といわれた「宝蔵寺」があったという。
『新編武蔵風土記稿 上平野村』
寶藏寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院門徒、安養山と號す、本尊藥師、〇庵 正觀音を安ず、
この宝蔵寺は武蔵国足立郡倉田村(現・埼玉県桶川市倉田)の明星院を本寺とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれたといい、現在はかつての寺の名残として敷地内にあった墓地は残り、その他、地域の集会所やコンクリートブロックで仕切られているが、バスのロータリー場となっている。
そこの一角には石塔・墓石・五輪塔や宝篋印塔が並んで置かれている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「蓮田市HP」「埼玉の神社」
「ウィキペディア(Wikipedia)」等
