古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大田天神山古墳

 かつて深谷市の北部に位置する利根川右岸一帯は低地地帯で、利根川の洪水によりできた氾濫原にあたり、瀬(水の流れが急な所)や島(中州のこと)という地名が多く、俗に『四瀬八島』という言葉も残っていて、南西島・北西島・大塚島・内ヶ島・高島・矢島・血洗島・伊勢島と瀧瀬・小和瀬・横瀬・中瀬の地域名をもつ地域とされている。
 この地帯は、利根川のしばしばの氾濫により、常に被害を受けた為、旧郷社で、旧榛沢郡総鎮守社である島護産泰神社をこれらの守護神として信仰したことにより「島護」の名がついたという。地名にはその土地の歴史が刻まれていて、風土や歴史を物語るという。大事にしたいものである。
 女体山古墳や太田天神山古墳(男体山古墳)がある地域名も「内ヶ島」といい、かつては渡良瀬川や利根川、またその各河川の支流等が入り乱れていた地域であったと推測できる。そして、その一帯の水運流通(経済)を一手に管理する集団のトップがこの古墳に埋葬されている人物であったのかもしれない。
        
            
・所在地 群馬県太田市内ケ島町16061ほか
            
・形 状 前方後円墳
            
・規 模 墳丘長210m
                 
後円部径120m 高さ16.5m 前方部幅126m 高さ12m
            
・築造時期 5世紀前半-中期頃(推定)
            
・史 跡 国指定史跡 年月日 昭和16127
                       
平成2285日(追加指定)
            
※参拝日 2026111
 大田天神山古墳は、東武伊勢崎線太田駅の東約1.2kmにある古墳で、女体山古墳のすぐ南西側にあり、両古墳はほぼ同じ時期に造られていることや、同じ方向を向いて造られていること、設計企画に同じ尺度を用いている可能性があることなどから、2つの古墳の葬られた人たちの間には密接な関係があったと考えられている。
        
             
太田天神山古墳中央部東側にある入口道からスタート
            写真左側のくびれ部付近には鳥居が見える。
 
    入口に対して左側が前方部        同じく入り口に対して右側は後円部
 さすが墳丘長210㍍の大きさを体感できるスケールのある古墳。東日本では最大、全国でも30位以内(近畿地方を除くと3位)の規模を誇る大前方後円墳で、東日本では墳丘長が200㍍を超す唯一の古墳として知られている。また、大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされているが、他の説もあり明らかではないとの事だ。
        
             東側のくびれ部に建つ目塚天満宮の鳥居
       
            鳥居の左側に設置されている当古墳の案内板
 史跡 天神山古墳
・所 在 地 太田市大字内ケ島字天神1606ほか
・指定年月日 昭和16年(1941127
 別名男体山とも呼ばれ、東日本最大、全国でも27.8位の規模を誇る大前方後円墳である。
 墳丘の全長210m、後円部直径120m、同高さ16.8m、前方部前端幅126m 高さ12mである。
周囲には二重の周堀が巡らされ、墓域は長さ364m、幅288mに及ぶ。また北東と西に陪塚を持つ。
 墳丘は三段築造で、表面を渡良瀬川系の川原石で葺き上げている。
 主体部は堅穴式であるが、既に盗掘を受けており、後円部南鋸付近に大型の長持形石棺の一部が露出している。
 墳丘部及び中堤帯には円筒埴輪が、また後円部墳頂には器材埴輪が樹立していたと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃と推定され、被葬者は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
 平成元年331
日                              案内板より引用

 天神山古墳
 平地ニ營造セラレタル前方後圓墳ニシテ略西南ニ面シ封土全長約六百九十三尺、後圓部徑約五百十四尺、前方部幅四百三十二尺ヲ有シ群馬縣下ニ於ケル最大ノ古墳ナリ表面ニ葺石存シ周圍ニ幅約百二十尺ノ環隍阯アリテ現在水田ヲナシ其ノ外側ニモ環隍阯ノ一部存シ二重隍ヲ示セリ封土ハ少シク毀損セラルル所アリト雖尚ヨク舊態ヲ保テリ
                             「文化遺産オンラインHP」より引用

 
  くびれ部頂上付近に鎮座する目塚天満宮     天満宮近くに祀られている石祠等
 くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の古墳名は同神社に由来するとの事だ。
 因みに当古墳は、1938年(昭和13年)の『上毛古墳綜覧』では「九合村69号墳」として登載されていたが、1941年(昭和16年)127日に「天神山古墳」として国の史跡に指定されている。
        
             目塚天満宮から一段高い後円部を望む。

 上毛野地域(かみつけの 現・群馬県域)では、太田天神山古墳登場以前までは東毛の首長(別所茶臼山古墳)と西毛の首長(浅間山古墳・白石稲荷山古墳)とが個々に存在したが、やがて東毛の首長が伸長し、女体山古墳や天神山古墳が出現するに至り、上・下毛野地域のみならず北武蔵地帯に及ぶ支配を確立して築造した古墳と筆者は推測している。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「文化遺産オンラインHP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等

        

 

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太田市内ヶ島町 女体山古墳


        
            
・所在地 群馬県太田市内ケ島町15061
            
・形 状 帆立貝形古墳(又は造り出し付き円墳)
            
・規 模 墳丘長106m
                 
後円部径84m 高さ7m 造り出し部幅18m 高さ1m
            
・築造時期 5世紀中頃(推定)
            
・史 跡 国指定史跡 (指定年月日) 昭和248
                   ※参拝日 2026111
 国道407号線を北上し、「太田市役所南」交差点を右折、1.7㎞程東行した「内ケ島」交差点を左折し群馬県道2号前橋舘林線を右側に女体山古墳が見えてくる。ざっくりいうと「大田イオンモール」のすぐ西側にある。古墳前に駐車スペースが若干あるということのようだが、交差点の向かい側にはコンビニエンスもあり、そこの一角をお借りし、買い物をしてから古墳散策を行った。
        
                           県道沿いにある
女体山古墳
 太田市内ケ島町地域は、市東南側に位置し、金山丘陵の南に広がる沖積平野に残るローム層からなり、古代の行政区分である新田郡と山田郡の境界付近に位置しており、奈良・平安時代には新田郡に属していたものと考えられている。
        
              
女体山古墳正面造り出し部を撮影
               
造り出し部は幅18m、長さ16m
 
   古墳正面前部に設置されている案内板         案内板の右側にある標柱
 国指定史跡 女体山古墳
 所 在 地 太田市大字内ケ島字女体1506ほか
 指定年月日 昭和2年(192748
 隣接する男体山(天神山古墳の別名)に対して女体山と呼ばれる円丘部に方形の造り出し部を付けた形で帆立貝形古墳という形式である。
 墳丘の全長106m、円丘部直径84m、高さ7m、造り出し部は幅18m、長さ16mである。帆立貝形古墳としては奈良県北葛城郡河合町の乙女山古墳(墳丘全長128.6m)に次いで全国第2位の規模を有する。周囲に幅1119mの周堀を持つ。墳丘表面には川原石が葺かれ、円筒埴輪が巡らされている。
 主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと推定される。未発掘と伝えられるが、墳頂付近に削平の跡があり盗掘を受けているものと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃で、天神山古墳よりやや先行する時期と考えられている。
 平成2年(1990331
日 太田市教育委員会                      案内板より引用
 
   墳頂部はなだらかな平面が続く。            
墳頂部に祀られている石祠二基
 周囲に幅1119mの周濠をもち、墳丘表面には河原石が葺かれ、円筒埴輪がめぐらされている。主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと思われ、墳頂付近に削った跡があることから盗掘を受けていると推定される。築造時期は5世紀中ごろで、天神山古墳よりやや先行する時期。天神山古墳と女体山古墳はともにきわだった規模をもち、ほぼ同一時期に、同一方向を向いて築造されていることから、両古墳の被葬者には密接な関係があると考えられている。1927年(昭和2)に国の史跡に指定された
        
          女体山古墳から東方向を望むと、太田天神山古墳が見える。


参考資料「
国指定史跡ガイド」「日本歴史地名大系」「太田市HP」「太田市観光物産協会HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「古墳内案内板」等

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境島村諏訪神社

 境島村(さかいしまむら)は、伊勢崎市東南部の利根川沿岸に位置する。治水目的の河川改修により、地域は利根川を隔てて南北に分断され、埼玉県に接する地区南部は河川飛び地となっている。地域東部には深谷市横瀬地区の飛び地が存在する。
=保泉(ほずみ)武士(たけし)は粟がら育ち 米のなる木はわしゃ知らぬ=
 と、この地方の桑つみ唄に唄われるよぅに、境町を折半して、およそ東武鉄道伊勢崎線以南、部落では、保泉・上(下)武士以南・小此木・中島・米岡・平塚・利根川をはさんだ旧島村の地域は、全くの畑作地帯であった。水利に恵まれなかったからである.
しかしここの砂質の壌土は、桑の生育には最も適した。とくに旧島村の土地が、しばしば利根川の洪水に見舞われた結果、土壌中に微粒子病の病源菌を保たず、そのために蚕種に向く蚕飼育が可能であったと、同地の専門家に聞いたことがある。ともかくもこの地帯は、本県における蚕の本場であり、蚕種地帯でもあって、大がかりな養蚕が行なわれ、そのために、家々の造りも立派であり、「新地・島村屋造りはよいが」と桑つみ唄にも謡われるのである。そしてまた、明治初年に、単身、蚕種を持ってイタリアに渡った田島弥平翁の出身地でもあったのである。
        
            ・所在地 群馬県伊勢崎市境島村373277
            ・ご祭神(主)建御名方命
            ・社 格 旧島村鎮守 旧村社
            
例祭等 例大祭 43日 夏祭り 8月第1土日 秋季例祭 113
 境島村地域を起点として同市今泉町に至る群馬県道295号境島村今泉線を西行する。雄大な利根川の風景を愛でながら長閑な田畑風景の中県道を1㎞程進むと、県道沿いの進行方向やや右手に境島村諏訪神社が見えてくる。
 実はこの社には去年何度かアプローチをしたのだが、社周辺の道路工事・整備中により社に近づくことが出来ず、断念せざるをえない状況であったのだが、今回偶々近場での用事を済ませ、心向くままに立ち寄った次第である。
        
                 境島村諏訪神社正面
    道路沿いや境内にはまだ道路工事用のカラーコーンが整然と建ち並んでいる。
『日本歴史地名大系』 「島村」の解説
 小此木(おこのぎ)村の南に位置し、南は武蔵国榛沢郡横瀬村(現埼玉県深谷市)、同郡宮戸村(現同県本庄市)。現在、利根川が中央部を西より東へ貫流し、南北に二分されている。「島村郷土誌」の利根川流路変遷図によると、近世から大正三年(一九一四)の河川改修まで、村内を流れる利根川の偏流蛇行ははなはだしい。洪水に度々襲われ、その度ごとに水脈が変わっていたことが知れる。現利根川の中央部に字前島または本野(ほんの)と称する集落があり、当村の中心部であった。度重なる洪水・川欠けによりしだいに居住者が利根川の南・北岸に移転。北岸に北向・西島、南岸に新地・新野・新田・立作(りゆうさく)などの集落がある。大正三年の河川改修により字前島は河床となった。利根川の往来は竿漕ぎ渡船による。渡船の創始時期は近世からといわれるが不詳。この渡船は現在も続けられ北向と新野を結び、県道扱いとなっている。無料。
 天正二年(一五七四)北条氏繁は当地に長期在陣していた(同年閏一一月五日「北条氏繁書状」鶴岡八幡宮文書)。
 上記『日本歴史地名大系』には「渡船(島村渡船)」の事も載せている。
島村渡船(しまむらとせん)は利根川によって分断されている群馬県伊勢崎市境島村内を結んでいた渡船。約400メートルの航路を5分ほどで渡していた。伊勢崎市の市道の一部として(18年度以降は春から秋のみ)無料で運航されていた。しかし、2019年の令和元年東日本台風で船着き場等の設備が被害を受けて休航となり、そのまま20224月に廃止された。
       
                   境内の様子
 社叢林に囲まれていると社はいえ、境内によく見る玉垣や玉砂利が敷いてあるわけでもなく、鳥居や社号標柱の先に石灯籠と社殿が見える程度の余計なものを省いたような社。よく見ると、幡さし用の石製の柱が社殿の奥に横づけされている。
       
                      拝 殿
 当社は、正親町(おおぎまち)天皇の御代の天正年間(15731591)に武田信玄の遣臣だった粟原太郎左衛門が、信濃国の名神大社諏訪明神の御分霊を奉祀して氏神としたのを起源とする。
その後、島村の地が小此木から分離して一村をなす時に、中島の飯福社を離れて当社を村の鎮守社として村民の崇敬するところとなった。
 明治10年村社に列せられ、同42114日、字新地に祭祀してあった無格社稲荷神社・雷電神社・水神社、字新田に祭祀してあった無格社稲荷神社、並びに境内末社浅間神社、字立作に祭祀してあった無格社稲荷神社、字北向に祭祀してあった無格社神明宮、字西島に祭祀してあった無格社戸隠神社・大杉神社・三峯神社・手長男神社を合祀したという。
 大正3612日、河川改修によって州中の前島が廃されるとき、現在の字築場373番地の277に社殿を建築し、同5625日に遷座奉斎され、今に到る。
        
                    本殿覆屋
             
                                    本殿内部
 当地域は、利根川後背地という地理的条件から、農業が難しかったこともあり、地区では古くから養蚕が営まれた。明治期には田島弥平ら有力な養蚕農家、蚕種製造業者が現れ、蚕種を海外へ輸出するなど地区の養蚕業は繁栄を極めた。養蚕業衰退後の現在でも地区内の「島村養蚕業績之地」碑や、田島弥平旧宅をはじめとする養蚕農家群などから、かつての繁栄ぶりを窺い知ることができる。
 冒頭に紹介した田島弥平(たじま やへい、文政5815日(1822929日)―明治31年(1898年)210日)あるいは田島邦寧(たじま くにやす)は、明治時代前期に広く普及した養蚕技法「清涼育」(せいりょういく)を確立し、明治5年島村勧業会社を設立し,渋沢栄一らの協力で蚕種の輸出を成功させた。島村(現群馬県伊勢崎市境島村)の養蚕農家・蚕種製造業者である。主著に『養蚕新論』『続養蚕新論』があり、養蚕業・蚕種製造業への貢献によって緑綬褒章を受章した。太平洋戦争後まもない時期に群馬県が刊行した『上毛篤農伝』では、「群馬県の誇り」「蚕糸群馬が生んだ最大の巨人」等と賞賛されている。明治312月死去。77歳。名は邦寧。字(あざな)は子寧。号は南畬(なんよ)
 弥平が自らの理論に基づいて改築した住居(田島弥平旧宅)は国の史跡に指定されており、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。
 この住居は伊勢崎市境島村地域に現存していて、今も人が住む民家で、庭先までの見学は可能であり、伊勢崎市は田島弥平旧宅案内所を設置し、模型やパネルなどの各種資料によって、資産価値を解説している

         
                   社殿東側から撮影

          社殿の奥に祀られている石祠と庚申塔群(写真左・右)



参考資料「群馬県民俗調査報告書5:境町の民俗」「日本歴史地名大系」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 」等

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田部井町鹿嶋宮

 不思議な事だが、群馬県にかつて複数の東村(あずまむら、あづまむら)が存在していた。一つの県に同名の市町村があることは珍しいことであるようだが、群馬県では1889年の町村制施行に伴い、5ヶ所の「東村」が新設された。群馬・利根の2郡にあった東村は1950年代の昭和の大合併によって廃止されたが、佐波・勢多・吾妻3郡にあった東村は20052006年の平成の大合併で廃止されるまで存続していた。
・群馬郡東村 1954年(昭和29年)41日の前橋市への編入に伴い廃止された。今日の市の南西部、JR新前橋駅から南の一帯にあたる。
・利根郡東村 1956年(昭和31年)930日に利根郡赤城根村と合併し利根村(2005年に沼田市と合併)となり廃止された。
・佐波郡東村 2005年(平成17年)11日に伊勢崎市との合併により廃止された。
・勢多郡東村 2006年(平成18年)327日に山田郡大間々町、新田郡笠懸町と合併しみどり市となり廃止された。
・吾妻郡東村 2006年(平成18年)327日に吾妻郡吾妻町と合併し東吾妻町となり廃止された。読み仮名は「あづまむら」と表記された。
 このように多数の東村が設立されたのは、ヤマトタケルが東征の帰路で「アズマハヤ(わが妻よ)」と亡き妻を偲んだ伝説に由来すると考えられている。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市田部井町11126
             
・ご祭神 建御雷之男神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭等 例祭 410日 1017
 旧東村は群馬
県のやや南東部に位置し、伊勢崎市・前橋市など県内の主要な都市の通勤圏内にあり、発達した交通網と田園風景の広がる良好な居住環境を背景に、平成10年度には人口2万人を超えてなおも増加が続いていて、村としても全国で5番目に人口の多い村であったという。土地利用は雄大な赤城山の裾野に抱かれた平坦な耕地が多くを占めるが、最近では大規模小売店舗の出店も目立つ。
 2005年(平成17年)11日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、境町と共に合併し、伊勢崎市となり消滅した。
        
                 
田部井町鹿嶋宮正面
 市場町八坂神社から南下し「市場町1丁目」を左折、群馬県道102号三夜沢国定停車場線に合流後、南東方向に進み、JR 両毛線国定駅に至る。この国定駅より550m程南東方向に田部井鹿嶋宮は鎮座している。
社の境内西側には広い駐車スペースがあり、そこの一角を利用して参拝を開始。因みに東隣には「田部井上区会議所」が併設されている。
        
                手入れの行き届いた境内
 鹿嶋宮が鎮座する「
田部井」の地域名は「たべい」と表記する。詳細な時期は定かではないが、「たべい」と読むようになってからはむしろ日が浅いとのことだ。「田部井」は鎌倉時代に記録のある古くからある地域名で、鎌倉から室町期に「田部井郷」、又は「田部賀井郷」とも書かれたりしていた。古くは「ためかい・ためがい」と発音されていて、この「ためかい」は「溜が井」であり、水を溜めておく場所のことといい、昔から水に恵まれた場所であったようだ。難読地名の一つともいえよう。
『日本歴史地名大系』 「田部井(たべい)村」の解説
 村のほぼ中央を早川が南流し、東は新田郡田部村、北は佐位郡国定村、西は同郡上田村。村の北東部に小字水殿(ずうどの)があり、湧水地磯沼からの流水が早川とほぼ並行して南流し、水田地帯をなす。地元では現在も「ためがい」という人が多い。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「たへかいの郷 田一町七反廿たい 畠一丁」とある。応永二二年(一四一五)八月一〇日の称光天皇即位要脚段銭催促状(同文書)によると、当郷は公田二町七反二〇代分の段銭を負担しており、前掲目録の田畠合計反別に一致している。建保三年(一二一五)三月二二日岩松時兼に与えられた地頭職の一つに「田部賀井郷」がある(「将軍家政所下文写」同文書)。
        
                    拝 殿
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』による当社の創立・由来として、文治2年(1186)源頼朝の家臣安達藤九郎盛長が上野国守護となり太田市森田の吉沢に鹿嶋神宮の御分霊を奉遷し祠宇を創建した。その後、早川岸台、観音山などに移され、慶長(15961615)の頃和泉昭四郎氏宅地内に移り、寛文9年(1669)に現在地に造立され本日に及ぶ。この地には本殿だけがあったが、後に拝殿と幣殿が建造された。拝殿に関しては明治11年(1878)に作られた佐位那波郡神社明細表に記載されているものが現在のものと同規模である。しかし、明治43年の神社の合祀の際に拝殿と幣殿が建造された可能性もある。昭和25年(1950)に拝殿を萱葺から瓦葺に改修し、本殿も修理をしたという。
 
 拝殿に掲げてある「鹿嶋大明神」の扁額      拝殿の左側にある
出羽三山石塔や五輪塔等
        
                    本 殿
     令和元年(20198月に本殿の傾きを修理し、床下の耐震補強をしたとの事。
 修復前の本殿は、一間社流造で、組物は身舎が出三斗、向拝が連三斗である。中備は身舎側面と向拝が板蟇股で、身舎正面と背面が実肘木付の間斗束である。妻飾は虹梁大瓶束笈形付で鰭付の拝み懸魚と、降懸魚がつく。虹梁の唐草紋様は17世紀代の特徴があるものの、海老虹梁の形態から建造年代は江戸中期と推定。

 本殿の奥にある石製の社号標や末社・石祠等   末社・石祠等の右側隣にある巨木の切り株
                         かつてご神木の類であったのだろうか
       
          正面入り口の鳥居の右側手前にある猿田彦大神と石祠
 猿田彦神は、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。この石碑もその類いであろうか。


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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市場町八坂神社


        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市市場町11593
            
・ご祭神 速素盞鳴命
            
・構造・形式 一間社流造、向拝付、柿葺
 西久保町大雷神社のすぐ西側には市場地域を縦断するように通る群馬県道73号伊勢崎大間々線に交わる十字路があり、そこを左折し200m程進むと、進行方向右手の県道沿いに市場町八坂神社の鳥居が見てくる。駐車スペースはないようなので、北側路地に急遽路駐して急ぎ参拝を行う。
        
                 
市場町八坂神社正面
 赤堀村は明治22年(1889)に、今井・五目牛・下触・堀下・市場・野・西久保・曲沢・間野谷・香林・西野(以上佐位郡)、磯村(勢多郡)の12ヶ村が合併して成立。はじめは佐位郡、村役場は大字西久保字田宿645に置かれる。その後、明治29年(1896)からは佐位郡と那波郡の合併に伴い、佐波郡に所属する。200511日に旧伊勢崎市、境町、東村と市町村合併を行い、伊勢崎市となったため、消滅した。
 「赤堀」の地名は鎌倉期から見え、赤堀氏の来歴は『上野国誌』によれば、「赤堀氏は、田原藤太秀郷の末葉であり、足利又太郎忠綱の弟、足利二郎泰綱4代の孫にして、孫太郎と称し、佐位郡赤堀を領し、初めて赤堀氏を称す」とある。
 当社が鎮座する「市場」という地域名は、中世から市が立っていたことを示していて、この市は江戸時代になっても続き、明治になっても雛市や桑市が、近在の人々を集めて開かれていたそうだ。
        
                    拝 殿
 当社の創立・創建に関する資料は、残念ながら調べてみても詳しい記事等ない。
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』には僅かに「当社は、赤堀十郷の領主が定まった頃(江戸時代中頃)、郷民相謀って市場を創立するに当たり、市場守護神として創建したものという(社伝による)」と載っているだけである。
        
                    本殿
覆屋
        
                    本殿内部
 上記『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』によると、本殿は、一間社流造、向拝付、杮葺の小振りな社である。土台上に身舎丸柱と向拝角柱を立て長押を廻し、柱上に直に妻虹梁、丸桁を載せる。妻飾は虹梁笈形付大瓶束である。向拝は柱頭に水引虹梁を渡し、木鼻に象頭と獅子頭を付ける。柱上連三斗出組で丸桁と海老虹梁を受け身舎柱と繋ぐ。
 当本殿は装飾性が少なく、身舎では虹梁の渦と離れている若葉の唐草絵様、大瓶束に付く笈形、脇障子の嵌込彫刻、大瓶束上組物(出三斗)のみに彩色がある程度で組物もない。向拝では水引虹梁のやはり渦と離れている若葉の唐草絵様、彩色された獅子と象の木鼻と三巴に雲の本蟇股程度である。海老虹梁の段差湾曲は小さく、唐草には渦のみで若葉はない。このような特性から、当本殿は創建当時の建築と考えられ、18世紀初期から中期の装飾性が高くなる以前の建築と推定する。古式を伝える貴重な建築であるとの事だ。



参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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