古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中島若宮八幡神社


        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町中島382
            
・ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祭礼 720日 おびしゃ 915
 宮代町中島地域は、町東部に位置し、大落古利根川右岸の周囲一帯長閑な田畑風景が広がる地域で、地形を確認すると、大落古利根川のすぐ南側で河川に沿うように細長く形成されている微高地に集落は集中していて、社もその集落内に鎮座している。
 道佛稲荷神社から埼玉県道85号春日部久喜線を街中方向に進行し、東武伊勢崎線の線路下にある「みやしろ地下道」を潜るように進んだ先にある「中島」交差点を更に直進する。宮代町の繁華街も南北に縦断する東武伊勢崎線を境にその先は風景が一変し、広大な農地の中に住宅が点在する長閑な風景となる。その後3本目の十字路を右折し、暫く進むと右手に「若宮集会所」があり、その集会所の南側に隣接するように中島若宮八幡神社は静かに佇んでいる。
        
                 中島若宮八幡神社正面
 
        鳥居の手前で参道の左右にある庚申塔や青面金剛(写真左・右)
             なお右側写真の左側にあるのは「力石」と思われる。
        
          入口付近に設置されている社の案内板(まちしるべ)
 まちしるべ 42
 若宮八幡神社  所在地 宮代町字中島
 若宮八幡神社は、字中島の若宮地内に所在し、誉田別命を祀る。祭礼は、七月二〇日と九月一五日の年二回である。
 言い伝えによると、今から四〇〇年ほどの音(江戸時代の初め)高橋七郎兵衛という人によって鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を屋敷内に祀った。その後、農耕神として当所の人々からも信仰され、江戸時代の中ごろ当地の鎮守として祀ったのがその起こりといわれている。
 本殿は権現造で、本殿内に納められている箱には宝暦六年(一七五六)三月の絡が記されている。また、当社には祭礼に用いられる二対の幟旗がある。一つは天保六年(一八三五)八月のもので町内の川島で私塾を開いていた尾花善貞、もう一対は、慶応四年(一八六八)正月のもので、爪田ヶ谷村(現白岡町)の医師富沢永惇の筆になるものである。
 境内には、天神社、稲荷社が祀られ、また、江戸時代の宝永四年(一七〇七)から安政二年(一八五五)までの四基の庚申塔や力石などがある。
 なお、この神社の近くにある青蓮院は、本尊十一面観音像を祀る寺院で、明治時代から大正時代まで百間小学校の校舎の一部として使われていた。明治四三年六月には「若宮分校舎修繕記念句集」の俳額が奉納されている。
                                      案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 八幡神社  宮代町中島三八二(百間村字中島)
 鎮座地の中島は古利根川右岸に沿って位置する。「風土記稿」中島村の項によれば、開発は天正十八年(一五九〇)に島村出羽宗明によって行われ、最初は道仏村と称していたが、元和五年(一六一九)の検地の際、中島と改めたという。また、当村は初め百間村に属し、元禄八年(一六九五)に分村した。当社については「若宮八幡社東村西光院持」とある。
 口碑によれば、大阪夏の陣で豊臣方に就いて敗れ、落人となった高橋七郎兵衛が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を頂いて当地で帰農し、その分霊を作神として屋敷内に祀った。その後、当地の人々からも作神として崇敬されるようになったことから宝永年間(一七〇四-一一)に東村の西光院を別当とし、当地の鎮守となったという。別当の西光院は、養老年間(七一七-七二四)に行基によって開基されたといわれる古刹で、京都醍醐三宝院の直末であった。
 神仏分離により当社は西光院の管理を離れ、明治六年六月に村社に列せられた。
 本殿内には「奉建立若宮八幡宮 宝暦六丙子年(一七五六)三月吉祥日 施主高橋七郎兵衛」銘の八幡大明神立像が奉安されている。また、拝殿内には「奉納八幡神社御祭礼天保六乙未年(一八三五)秋八月吉日武州百間領若宮村子供中」銘の幟旗が納められている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   参道左側に祀られている境内社・天満宮    社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社
当社の氏子区域は江戸期の中島村字若宮で、明治二十二年に中島村のほか六ヵ村を合併すると百間村大字百間中島字若宮となった。その後、昭和五年に大字が廃止されたことから、若宮の地名は廃の方々が氏子となっているとの事だ。
        
                社殿から鳥居方向を撮影
           社の南側には広大な田畑風景が広がっている。

 当社は古くから「作神」(さくがみ・つくりがみ)として崇敬されてきたという。この作神とは、日本の農耕民の間で古くから稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神で、田の神・農神・百姓神・野神と呼ばれることもある。
 また、起源の異なる他の信仰と結びついて、東日本では「えびす」、西日本では「大黒」をそれぞれ田の神と考える地域が多く、さらに土地の神(地神)や稲荷神と同一視されることもあり、その一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神であるという。
 作神は山の神とも深い関係があるといわれ、山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた。その一方で、稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰もあり、これを、田の神・山の神の「春秋去来の伝承」といい、この伝承は全国各地に広くみられている。
 春秋去来の伝承は屋敷神の成立に深いかかわりをもっているとみられ、屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘されている。
 因みに、大国主の国づくりの説話に登場する「久延毘古」(クエビコ)は、「かかし」が神格化されたものであるが、これもまた作神(農耕神)であり、地神であるともいう。



参考資料「埼玉県の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「世界大百科事典(旧版)」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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道佛稲荷神社

 
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町宮代2817
            
・ご祭神 宇迦之御魂大神
            
・社 格 旧中島村鎮守
            
・例祭等 元旦祭 夏越の祭り 720
 宮代町道佛地域は、同町の中央部に位置し、東武動物公園駅からおおよそ1 kmほど南の距離にあり、また宮代町役場やコミュニティーセンター進修館など、町の主要施設が集まっている利便性の高い地域でもある。因みに地域名「道佛」は「どうぶつ」と読む。
 
埼玉県道85号春日部久喜線を宮代市街地方向に進み、姫宮落川に架かる「道佛橋」を渡り切った先にある信号のある十字路を左折すると、進行方向左手に「道佛集会所」が見え、その奥に道佛稲荷神社は鎮座している。
        
                  
道佛稲荷神社正面
 宮代町道佛地域の東部は東武伊勢崎線の線路を、西部及び南部は姫宮落川を境界としている。区画整理事業が行われた道佛地区は近年新築住宅が多く建設され、若年層が多く流入して人口が増えている。また、町丁部分の北部および西部に住居表示未実施の字道佛があり、西部は主に水田などの農地で、南西端を笠原沼落が流れる。三角形の区域を有する北部は、住宅地となっている。
 
 社号標柱のすぐ先で、参道左側にある庚申塔      右側にも庚申塔等が並んである。
        
                                参道の先にある一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「中島村」の解説
[現在地名]宮代町百間(もんま) 中島・道仏(どうぶつ)
百間村の東に位置し、古利根川右岸に沿う。同川の東対岸は葛飾郡堤根村(現杉戸町)。天正一八年(一五九〇)島村出羽守宗明が開発して道仏村と称したが、元和五年(一六一九)の検地で中島村と改称、のち百間村のうちとなり、元禄八年(一六九五)同村から分立したという(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、古くは道仏村と注記され高三一六石余、旗本池田領(国立史料館本元禄郷帳)。
        
           一の鳥居の先に見える朱を基調とした二の鳥居
 江戸時代、この地域一帯は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいて、中には自国領を「私称」するようになった。「道佛」地名も、天正18年(1590)島村氏の先祖がこの地に移住・土着し、その二子である出羽宗明が開発し、その際に道佛村と称したという。その後、元禄8年(1695)の百間村分村のときに中島村と改めたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 開發は天正一八年(一五九〇)島村出羽宗明なるもの開發して、道佛村と云ひしと云、然るを元和五年險地の時、今の村名に改めしと土人の傳れど、所以はしらず、されど正保國圓この名を載せず、元祿國圓初て中島村とのせ、古は道佛村と唱へしことをのせたれば、天正の開發にもせよ、舊くは百間村に屬し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元祿八年に至て一村とはなれり、

 
 参道左側に祀られている境内社・阿夫利神社   
阿夫利紙社の先で並んで祀られてい天満宮
        
  参道を挟んで
阿夫利神社・天満宮の対側にある伊勢参宮記念碑二基。その間には力石あり。
        
         拝殿を前に
立ち並ぶ二柱のクスノキの御神木。壮観な眺めだ
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 稻荷社 村の鎭守なり、元和五年の勸請と云、村持、末社 石尊 辨天 庵如意觀音を安ず、
 醫王院 新義眞言宗、東村西光院末、稻荷山宗祐寺と號す、當寺は名主德右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云、宗明が先祖嶋村彈正左衛門高智と號す、近江國に住し細川高國に仕へ、享祿四年(一五三一)六月廿四日攝州尼崎に於て入水して死せり、其子近江入道道明東國へ下りて當村に住し、天正一二年八月一五日卒す、出羽宗明は其二子にして、寛永元年十月五日卒す、法名を宗祐と云、本尊不動、


 稲荷神社  宮代町道仏二三一(百間字道仏)
 当社が鎮座する道仏の開発について、『風土記稿』中島村の項には、「開発は天正十八年(一五九〇)、島村出羽宗明なるもの開発して、道仏村と云ひしと云、然るを元和五年(一六一九)検地の時、今の村名に改めしと土人の伝れど、所以はしらず、されど正保国図この名を載せず、元祿国図初て中島村とのせ、古は道仏村と唱へしことをのせたれば、天正の開発にもせよ、旧くは百間村に属し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元禄八年(一六九五)に至て一村とはなれり」と記されている。昭和五年の大字廃止により字道仏となった。
 創建については、同書に「稲荷社 村の鎮守なり、元和五年の勧請と云、村持、末社 石尊 弁天 庵如意観音を安ず」と記録され、村の開発から間もなくのこととしている。また、この文中「村持」とあるが、地内の医王院について、「新義真言宗、東村西光院末、稲荷山宗祐寺と号す、当寺は名主徳右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云」とあり、「稲荷山」の山号から、当社の別当寺であったと思われる。更に、村の開発と寺の建立の関係から推測すると、 当社の創建にも島村出羽宗明がかかわった可能性がある。
 昭和四十二年、社有地を売却し、本殿の大修理と、末社天満宮・阿夫利神社・弁天社の三社を再建した。その後、平成五年に、今上天皇の即位大礼記念事業として、本殿の屋根の葺き替えを行った。
 
                                  「埼玉の神社」より引用 
        
             拝殿に掲げてある「蒼福魂神」の扁額
        
               拝殿内に祀られている五柱の御幣
      参拝日は正月5日。御幣の前には、神様への捧げ物、お供え物があった。
 御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると
    同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持つという。
 
       
                    本 殿
 氏子区域は、道佛と中島(通称中洲)で、昭和5年まで、共に中島村の小名であった。当社は、「五社稲荷神社」とも呼ばれ、これは、中島地域の稲荷神社を合祀して五社となったというが、詳しいところは分からないという。三間社流造りの本殿内陣の奥は五座に分かれ、その一座に「稲荷大明神、天保十(1839)亥四月吉日、関根氏」と刻まれた石祀が奉安されている。あるいは、これが中島地域で祭られていたものであるかもしれない。
 現在の本殿について、文化年間(1804~18)に焼失し、それを再建したものと伝えている。
        
                 社殿付近からの眺め
       ご神木の根部位の圧力からか、参道の敷石が微妙に変形している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                 

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山崎重殿社・神明神社

 山崎地域内は、嘗て星谷・中山・前田・山ノ下・京塚・笠原・蓮田・第六天・南第六天等と共に百間村の小字であったが、昭和52月の大字廃止に伴い字名の一つとして用いられるようになった。
 山崎地域の歴史は古く、近年の発掘調査の成果から旧石器時代約20,000年前から人々が住んでいたことが明らかになっている。縄文時代にも多くの遺跡があり、山崎遺跡では縄文時代草創期約12,000年前の尖頭器なども発見されている。また、縄文時代早期7,000年前や後期3,500年前の住居跡や土器や石器などの遺物も数多く発掘されている。
 古墳時代には、宿源太山遺跡から34世紀頃の住居跡や土器が、山崎山遺跡では埼玉県最古の4世紀後半の鍛冶工房跡が発掘されている。中世(鎌倉・室町時代)には、宿源太山遺跡で板石塔婆や宋銭が発見され、山崎遺跡や山崎南遺跡でも甕や土鍋等が出土している。
 江戸時代には、山崎地域は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいた。一方、笠原沼新田の開発が享保13年(1728)に行われている。また、宿地内には「源太山」と呼ばれる松永源太左衛門の屋敷跡がある。 明治時代以降は、百間村・百間西原組等に属し、明治22年には百間村、そして昭和30年百間村が須賀村と合併して宮代町の一地域となっていて、現在山崎地内には行政区として、宿と山崎がある。
 なお、山崎地内には重殿社・神明神社・浅間神社・御嶽神社や、松永坊などの社寺があり、また、東村の神社であった第六天神社も山崎地域の西側にあった。
【山崎重殿社】
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎2446
            
・ご祭神 金山彦命
            
・例祭等 例祭 724
 宮代町山崎地域は大宮台地北東部にある慈恩寺(じおんじ)支台の東側縁辺部にあたり、古利根川右岸に位置している。現在の「東武動物公園」の南東部で、昭和59年に県民主体の運動の推進組織として発足し、平成24年に公益財団法人に移行した「さいたま緑のトラスト協会」が認定した緑のトラスト保全第5号地である「山崎山の雑木林」のすぐ南側に山崎重殿社はひっそりと鎮座している。
        
              山崎集会所に隣接した山崎重殿社
 社の後方には「山崎山の雑木林」が一帯を覆っている。大宮台地の端が低地と接する位置にあり、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林で、隣接する水田には、江戸時代中期の開墾当時の様子を残す「ほっつけ」が現存し、周辺を含む一帯は、雑木林、水田、集落(屋敷林)がバランス良く配置され、多様な生物が生息するとともに、ふるさと埼玉の東部地域における原風景を感じさせてくれる景観だ。
 因みに「ほっつけ(掘上田)」とは、沼地など水がたまりやすい地域の水田開発の手法。沼底を更に掘り込み、そこからでた土を周囲に盛り上げ耕作面のかさ上げをして、排水不良による水腐れ等の被害を軽減させたという。
 
    すっきりとして落ち着きのある境内       境内に設置されている社の案内板
        
                    拝 殿
 重殿社
 重殿社は山崎地区の鎮守で、地元では「権現様」とも称されている。金山彦命を祭神としており、祭礼は毎年七月二十四日に行われている。また、拝殿に多数のぞうりが見られるが、足の病に対する信仰のため奉納されたものという。
 覆屋の中にある本殿は、小規模で簡素ではあるが町内でも数少ない江戸時代の「見世棚造り」と呼ばれる造りの建物である。「見世棚造り」とは神社建築の一種で、店の棚のような形をしているのでその名がある。
 境内には、明和二年(一七六五)二月に建てられた稲荷社の祠や、文政十二年(一八二九)十月に建立された高さ約二メートルほどの大きな二十三夜塔がある。二十三夜塔とは、二十三夜に講の人々が集まり飲食をともにして、月の出を待ち拝んだりして夜を過ごすという行司で、そうした行事の記念として建てられたものである。
 また、当社には明治八年に作られた市川節堂の筆による幟旗がある。市川節堂は、群馬県に生まれ、清地村(現杉戸町)に招かれて付近の子弟の教育にあたった。
 重殿社のある山崎地区では、旧石器時代約一万数千年前から人々が住んでいた事が近年の発掘調査によって明らかになっている。以降、縄文時代後期約三千五百年前の集落や古墳時代四世紀後半の鍛冶工房跡なども発掘されており、古い歴史と文化を持っていることが知られている。
 一方、重殿社の周辺は「山崎山」と呼ばれる雑木林が広がっており、平成十三年度にさいたま緑のトラスト保全第五号地として取得され、管理。保存されている。現在、雑木林にはイヌシデやクヌギ、コナラなどがあるが、以前は赤松も多く見られた。こうした雑木林の北側には、かつては笠原沼の堀上田が広がっており、現在その一部が残されている。
                                      案内板より引用

        
             社殿右側奥に祀られている稲荷大明神と、その奥にある二十三夜塔


【山崎神明神社】
        
             ・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎64
             ・ご祭神 大日孁貴命
             ・例祭等 神明様の祭礼 726
 山崎重殿社から直線距離にして400m程南東方向で、字山崎にある「宿」と呼ばれる集落内に山崎神明神社は鎮座している。
        
                  山崎神明神社本殿
 神明神社  宮代町山崎六四(百間村字山崎)
 当社は『郡村誌』百間村の項に「相伝ふ元和中(一六一五〜二四)松永弾正落来たりて本村に居住を定め」とあり、土地の口碑にも「落武者の松永源太左衛門一族と家来が京都から来てこの辺りに住み付いたことに始まる」という。
 当社は、この松永源太左衛門が祀ったと伝えられている。『風土記稿』百間村の項に「神明社 松永坊持」とあり、当社は往時、松永坊という黄檗宗の僧坊の管理するところであった。この坊も松永坊という名が示す通り、寛永年中(一六二四〜四四)に松永氏の墓守として建てたといわれるもので、松永坊と称するようになったのは元禄年中(一六八八〜一七〇四)のようである。明治初期には「松永庵」又は「寮」と呼ばれていたが、昭和四十年代初めに宿集会所として建て替えられた。この集会所の辺りは、今も「源太山」と呼ばれて、かつての源太左衛門の屋敷があったと伝えられている。なお、松永坊の本尊であった阿弥陀如来は、集会所になってからも一隅に安置されていたが、近年、青林寺に移された。
 昭和十五年には、皇紀二千六百年に際し、伊勢神宮参拝記念として参道の敷石が奉納された。また、同五十年には、木造の鳥居が老朽化したことから、コンクリート造りのものに再建され、併せて本殿の修理が行われ、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   境内の様子
 祭神は大日孁貴命である。古くから五穀豊穣・無病息災・商売繁盛の神として崇められている。氏子は、願いがかなうと、紅白の鈴縄に奉納者氏名を記して社頭の鈴に下げたり、お神酒を上げてその奉賽としているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町デジタル郷土資料」「埼玉の神社」
    「宮代紀行 山崎地区を行くHP」「境内案内板」等

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東粂原鷲宮神社


        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町東粂原367
            
・ご祭神 天穂日命 宇迦能御魂命
            
・社 格 旧久米原村鎮守 旧村社
            
・例祭等 元旦祭 例祭 716日に近い日曜日 秋例祭 109
 東粂原地域は、大宮台地の東縁部に位置し、概ね「東武動物公園」以北(中央部の「ふれあい動物の森」等の周辺部は同地域に属しているが)から北西方向に伸びる細長い地域である。
 途中までの経路は、瓜田ヶ谷愛宕神社を参照。社の西側で、南北に通じる道路を600m程北上した先にある十字路を右折し暫く進むと、進行方向左手に東粂原鷲宮神社の朱の鳥居が見えてくる。
        
                東粂原鷲宮神社参道入口
『日本歴史地名大系』 「久米原村」の解説
 須賀(すか)村の西に位置し、日光御成道が西部を通過する。大宮台地の東縁に位置し、台地と低地が入組み複雑である。比高は一―三メートル。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられ、戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄久米原市」がみえる。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)に岩付領「久目原之内」とみえ、三貫文が鷲宮神社(現鷲宮町)の社領で、北条氏から鷲宮甲斐守・同満寿に安堵されている。田園簿によると田高二九〇石余・畑高三七〇石余、うち岩槻藩領三一一石余・旗本水野領三五〇石。同藩領分は城付地で、高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数四五(うち本百姓二〇)・人数二七八(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
        
 鎮座地の東粂原地域は、昔は隣接する西粂原地域と一村で、「久米原村」と称していた。それが、江戸時代の化政期(180430)頃、村内のうち、一橋家領分を西粂原、下総佐倉藩領及び旗本渥美・細井相給分を東粂原と私称するようになり、幕末に至って分村したという
『新編武蔵風土記稿 久米原村』
 久米原村は日光御成道の係れる地なり、江戸よりの里數庄名用水等前村に同じ、今村内を私に二分して、一橋殿領知の方を西久米原村と唱へ、私領の方を東久米原とも呼べり、(中略)今は一橋殿の領知と堀田相模守・渥美九郎兵衛・細井金之丞の知る所なり、 
        
 社殿に通じる参道左側の一区画には、多くの庚申塔や灯籠・石祠等が固まって祀られている。
 
    並んで祀られている庚申塔五基        明治八年(1875)造立の常夜灯二基と
                        その隣にある天明(1783)造立の手洗石
 庚申塔五基は左三基の青面金剛には案内板によれば、左から元禄9年(1696)・貞享3年(1686)・寛永5年(1628)と造立年代が記載されている。因みに残りの二つの庚申塔は、左から天保10年(1839)・文化8年(1811)に造立。

 清瀧不動尊と階段上に祀られている天地開闢       紙垂が巻かれている石碑は川大神
 天地開闢は国狭槌尊・国常立尊・豊斟渟尊       右側にあるのは伊勢参宮記念碑
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 久米原村』
 鷲明神社 二宇 是も一は明智寺持、一は大聖院持、末社 稻荷 諏訪
 明智寺 新義眞言宗、東村西光院末、久内山平等院と號す、開山祐源寂年を知らず、本尊藥師を安ず、
 大聖院 同末なり、明王山と號す、本尊不動を安ず、
       
      社殿の左側に祀られている雷電宮 雷電宮の隣に祀られている神明宮
        
                  神明宮の右側に設置されている案内板と獅子蔵
 まちしるべ23
 東粂原鷲宮神社  所在地  宮代町大字東粂原字宿屋敷
 東粂原鷲宮神社は、かつて東粂原村の村社で、祭神は天穂日命・宇迦能御魂命の二柱を祀る。
 当社には、延享二年(一七四五)頃より始まったと伝えられる、町の無形民俗文化財に指定されている獅子舞が、毎年七月十六日(現在はその日に近い日曜日)に行われている。 三頭の獅子を中心に、 梵天を始めとし八通りからなる優雅な舞が社前にて奉納される。かつては、村内にあった雷電社や稲荷社の祭礼にも奉納されていたという。
 鷲宮神社のある東粂原地区には、中世(鎌倉時代・室町時代)奥州への本道である鎌倉街道(中道)が通っており、延文六年(一三六一)の「市場之祭文」には、久米原に市が立ったことが記されている。
 また、付近にある大聖院は、明治初頭に廃寺となったが、 その後、 須賀小学校の前身である西條学校(久米原学校)の校舎として利用された。
                                       案内板より引用

        
                                    本 殿
 東粂原地域は、中世には鎌倉街道の宿場として栄えていたといわれ、当社の境内がある字を「宿屋敷」というのもその名残りであるという。戦国時代ごろに成立したと推定される「市場之祭文写(武州文書)」にも、「武蔵州太田庄久米原市」と記されていることから、当時既に村として開けていたことがうかがえる。東粂原の地内は、大きくは「前組」と「後組」の二つに分けられ、前組は入ノ前耕地・前川耕地・渋谷耕地、後組は寺前大崎耕地・大崎団地・宿屋敷耕地・堀口耕地と、更に細分されている。
 
氏子の間では「わしっさま」の通称で親しまれている当社は、天穂日命を祭神とし、現在では、神仏習合の名残はあまりないが、昭和48年に焼失した社殿には卍の紋が刻まれており、別当であった大聖院との関わりを伺わせるものであったようだ。
      
      本殿左側奥に鎮座する御手洗神社   
本殿右側奥に鎮座する稲荷神社

 当社の例祭には、氏子自慢の獅子舞の奉納がある。この獅子舞は、江戸時代の延享2年(1745)頃、古利根川が氾濫し、作物はとれず疫病も流行する状況に至った時、当地の氏子らが、神々の怒りを招いたためと考え、その怒りを鎮めるために獅子舞を習いうけ、奉納したことに始まるといわれている。以後山王様・雷電社・鷲宮の三社に獅子舞を奉納。明治以降、三社は鷲宮神社に合祀され、716日を祝日と定めて奉納し、現在に至っている。
 これに対して、秋例祭は通称「甘酒祭り」といい、当番が甘酒を作って参詣者に振る舞う。甘酒は宿の家で前日の8日に「ハンギリ」という直径1m、深さ50㎝程の桶に米と麹を入れて作ったが、昭和48年の火災によって「ハンギリ」も消失してしまったという。
       
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
宮代町HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等
   

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