古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

出塚町飯霊神社・出塚町大和神社(行者堂)

【出塚町飯霊神社】
        
             ・所在地 群馬県太田市出塚町122
             ・ご祭神 保食神(宇気母智命)(推定)
             ・社 格 旧村社(推定)
             ・例祭等 不明
 国道17号上武道路を伊勢崎市方向に進み、「阿久津」交差点で左折、群馬県道298号平塚亀岡線を1.4㎞程西へ向った丁字路を右折すると、周囲一帯田畑風景の中、ポツンと社の社叢林が見えてくる。
  社叢林の手前に鳥居が建ち、その手前は参道が伸びていて、一般道と参道の間には細長い路肩がある。よく見ると、その空間は駐車スペースにもなっていて、そこの一角に停めてから参拝を開始する。  (参拝日 2023年7月11日)
               
                 出塚町飯霊神社正面
『日本歴史地名大系』 出塚(いでづか)村」の解説
 北境を石田川が東流し、東は粕川(かすかわ)村・安養寺村、西は世良田村・徳川郷。南方の出塚本村(いでづかほんむら)、北方の出塚新田からなる。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)には、空閑の郷々一九ヵ郷の一として「いてつか」がみえ、義重の庶子らいわう(義季)の母へ譲られている。同所はその後大館(おおたち)郷に属したらしい。観応三年(一三五二)六月一八日、尼了観は大館郷内出塚村半分北方の所当一八貫文の地を長楽寺へ寄進した(年月日未詳「長楽寺寺領目録案」長楽寺文書など)。
 寛永二年(一六二五)当村内三〇〇石が天野小三郎に与えられる(記録御用所本古文書)。
                
                 鳥居の左側にある社号標柱
 この標柱の側面には「鎭座地 上野國新田郡世良田村大字出塚字飯靈壹〇貳番」と刻まれている。
        
                                     拝 殿 
             案内板等がないので、由緒等の詳細は不明
     拝殿右側奥に境内社があり、社殿奥にも石祠群があるが、これも詳細不明

 飯玉神社(いいだまじんじゃ)は、保食神(宇気母智命)を祭神とする神社である。旧上野国(群馬県)の利根川流域、利根川と烏川の分岐点を中心にこの川沿いに新田郡、那波郡、群馬郡東部にかけて分布する神社で、その他、旧武蔵国(埼玉県北部)に数社程度、旧信濃国(長野県東部)の地域に一社鎮座している。群馬県伊勢崎市堀口町四七二番地に鎮座する飯玉神社(那波総社飯玉神社)が先述の地域に鎮座する飯玉神社・飯福神社の総本宮である。
        
                          拝殿に掲げてある「飯霊神社」の扁額
 中世鎌倉時代に当地域を領した那波氏が飯玉神社(伊勢崎市堀口町鎮座)を氏神とし、領有した地域に分霊を勧請したと推察されている。江戸時代には九十九社の分社が存在していたとされるが、明治時代に神社の統廃合が政府によって行われており、現存する神社数は減少しているが、伊勢崎神社(伊勢崎市本町鎮座)は旧飯福神社、倉賀野神社(高崎市倉賀野町鎮座)は旧飯玉神社であり、行政の流れの中で社名を変更した神社も存在する。
 上野国神名帳には「国玉明神」と掲載されており、主祭神はおそらく保食神との二柱と推察できる。
 太田市出塚町に鎮座する飯霊神社の「飯霊」も「いいたま」といい、位置的にも那波郡から近く、飯玉神社系列の社と考えられる。
       

【出塚町大和神社
(行者堂)
        
             
・所在地 群馬県太田市出塚町641
             
・ご祭神 役君小角
             
・例祭等 八丁〆 71日 夏祭り 867
 国道17号上武道路を伊勢崎市方向に進み、「阿久津」交差点で左折、群馬県道298号平塚亀岡線を1.4㎞程西へ向うと進行方向左手に出塚町大和神社が見えてくる。
        
                 
出塚町大和神社正面
        
               境内に設置されている案内板
        
                    拝 殿
 大和神社(行者堂)案内
 所在地 新田郡尾島町大字出塚字本村六四番地ノ一
 祭 神 役行者 疫病除け・子育ての神
 もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置する。役行者は役君小角・役小角・役の優婆塞・神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳呪術者で、修験道の祖とされる。僧衣をまとい、頭巾をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、足には一本歯の高下駄をはき、左右には、前鬼・後鬼という二体の鬼を従者として伴う。
 寛平年間、大和から来た僧が、この像を背負って長福寺に入ったという。其の後文化十二年(一八一五)、徳川から発した大火災で長福寺は全焼し、この像も半焼となったものを家中から搬出した。そこで村民相談の結果、新たに同じ像一体を彫刻させ、半焼の古い像は御隠居様と呼んで、別に厨子に保存し、現在にいたっている。
 行者堂は、もと現在地より南西役五十メートルの地にあり、萱葺の東向き建物だったが、明治二十九年(一八九六)いまの堂が南向きに建てかえられ、さらに昭和十四年(一九三九)もと揚伝寺敷地である現在地に移築された。この際、大和から運ばれた像に由来するところから、大和神社と呼ばれるようになったが、村民の間では古くから行者堂、行者様の名で通っている
 祭日 七月一日   八丁〆
    
八月六~七日 夏祭り
 八丁〆は珍しい祭りで、竹縄(若竹を薄く割り、より合わせた縄)を輪にして、中央に修験者が坐り、般若心経を唱えながら太鼓を打つ。村人はそれを囲んで竹縄の輪を左に回しながら「ナイダー、ナイダー」と唱えて三まわりし、一同総立ちになる。つぎに竹縄を柱の角で、「ナイダー、ナイダー」と唱えながら交互に引き合い、摩擦して短く切る。その切れはしを各戸に一片ずつ持帰り、それを輪にして入り口や床の間に書け、疫病除けのお守りとする。疫病にかかって高熱が出た時、これを煎じて飲むとふしぎに熱が下がるという。竹は本来、漢方の解熱剤でもある。
 八月六日の宵祭りは、かつては大変な人出でにぎわい、七日には神輿が各戸を巡って、疫病除けを願ったものである。(以下略)                       案内板より引用
       
                                   拝殿内部
     「大和神社」と書かれた社号額の奥には「
役行者小角」の奉納額もある。
   
      拝殿の右側から県道沿いにかけて、L字状に庚申塔や二十二夜塔、
       馬頭観音、青面金剛などが並んでいる。(写真左・右)



参考資料「日本歴史地名大系」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
         

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二ッ小屋町稲荷神社・武蔵島町二柱神社・武蔵島町花見塚神社

【二ッ小屋町稲荷神社】
        
             
・所在地 群馬県太田市二ツ小屋町1
             
・ご祭神 稲荷神(推定)
             
・社 格 旧村社(推定)
 埼玉県深谷市と群馬県太田市との境を雄大に流れる利根川の左岸に位置する太田市二ッ小屋町地域。嘗て平成の大合併前には新田郡の最南端に当たっていたようだ。国道17号上武道路を北西方向に進み、利根川に架かる新上武大橋を渡り、群馬県に入った土手の袂に二ッ小屋町稲荷神社は鎮座している。
 但し、社は新上武大橋の下にあり、一旦利根川を渡り切った先にある「尾島パーキング 下り」から一般道に移る道に移動し、そこから右回りに回り込み、国道17号上武道路を潜るように向かう。その後、群馬県道・埼玉県道275線由良深谷線を南東方向に進行し、突き当たりの丁字路をまた右折、二ッ小屋町地域の集落方向に進むと社が背を向けた配置で見えてくる。
 車両で進行するとこのようにまどろっこしい説明となるので、「尾島パーキング 下り」の専用公衆トイレで車を停めてから、国道から下がる階段があるので、そこからアプローチしたほうが良いかもしれないと痛切に感じた次第だ。
        
                
二ッ小屋町稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「二ッ小屋村」の解説
 新田郡の最南端、利根川左岸に位置し、東は前小屋(まえごや)村、西は武蔵島(むさしじま)村、南は武蔵榛沢郡高島村・同幡羅郡石塚村(現埼玉県深谷市)と利根川中央の国境を限り、北は前島村および堀口村の耕地。北方を早川が東流する。寛文郷帳に村名がみえ、幕府領で畑方のみ。慶応三年(一八六七)前橋藩領となる。大間々(現山田郡大間々町)、木崎(現新田町)より武蔵高島、熊谷(現埼玉県熊谷市)に至る往来があり、村西方の武蔵島境に高島と結ぶ渡船があった。

 
         正面鳥居                     境内にある社号標柱
      鳥居の社号額には「正一位 稲荷五社大明神」と刻まれている。
          由緒書き等が見当らないのでその詳細は不明
        
                    拝 殿
 
右の祠は大杉神社。左側の石祠二基の詳細は不明        社の北側にある地蔵堂 
        
                 社を本殿側から撮影
             国道17号上武道路がすぐ近くを通る。

武蔵島町二柱神社】
        
              ・所在地 群馬県太田市武蔵島町1
              ・ご祭神 不明
              ・社 格 旧村社(推定)
 二ッ小屋町稲荷神社から群馬県道・埼玉県道275線由良深谷線を北上し、早川に架かる「前島橋」を越えた西側に鎮座している。所在地は「太田市武蔵島1」、つまり当地域の中心に位置している社といえよう。
 因みに早川は、群馬県東部を流れる利根川水系利根川支流の河川であり、群馬県桐生市新里町奥沢付近に源を発し南へ流れ、太田市堀口町付近(地図上では埼玉県熊谷市)で利根川に合流している。利根川水系で直接利根川に流入する河川としては、赤城山南麓でもっとも東端に位置し、渡良瀬川水系に関係しない河川である。このため水利権調整上の制約から、利根川上流から取水している群馬用水、大正用水の放水河川となっているという。
        
                 武蔵島二柱神社正面
『日本歴史地名大系 』「武蔵島村」の解説
 南東は二ッ小屋村、北東は前島村・亀岡村字本村、北西は阿久津村元地(現荒久)、武蔵榛沢郡高島村(現埼玉県深谷市)の飛地。北西阿久津村元地より、村の中央を横切り南東に早川が流れ、前島村にかかり、南東境二ッ小屋地先より古利根川に流入している。北方亀岡村字軽浜の銅問屋より銅山街道が村央を通り南方二ッ小屋に至る。早川河口付近に前島河岸の船積場があった。天正一〇年(一五八二)九月一一日の日付のある某判物(宮下文書)によれば、「武蔵嶋」四貫九〇〇文の地が宮下又左衛門に渡されている。
 
        境内の様子            境内道路脇に設置されている社号標柱
        
                    拝 殿
            創建・由緒等の案内板がないため、詳細不明。
       
                 左から湯殿山大権現・弁才天


武蔵島町花見塚神社】
 勾当内侍 (こうとうのないし)は、南北朝時代の女性。生没年不詳。後醍醐天皇に仕え,勾当内侍の職にあったので,その名をもって呼ばれる。一条経尹の三女,行房の妹。新田義貞に見そめられ,天皇の許しを得て義貞の妻となった。1338年(延元3・暦応1)義貞が越前で戦死すると,尼になって洛西嵯峨に住み,夫の菩提をとむらった。これは《太平記》の伝えるところで,一説には琵琶湖に身を投げて義貞のあとを追ったともいう。
 江戸時代に講釈として『太平記』が広まると、各地に勾当内侍の墓所が作られ、そのうちの一つは当地である群馬県太田市武蔵島町の花見塚神社近くにある。
        
             ・所在地 群馬県太田市武蔵島町87
             ・ご祭神 後醍醐天皇 神武天皇
             ・社 格 不明 
 武蔵島二柱神社から早川の畔沿いに北西方向に進むと、「花見塚公園」が見え、その公園内北側端部に武蔵島花見塚神社が静かに鎮座している。 
        
                 武蔵島花見塚神社正面
 
           社殿の正面上部に掲げてある掲示板(写真左・右)
花見塚神社の由来
新田義貞は元弘三年(一三三三)五月八日生品明神の御前に旗を挙げ十五日鎌倉幕府を倒し建武の中興に大きな功績を上げた。義貞が入洛したのは元弘三年七月で、論功行賞で従四位上に叙せられ上野・播磨両国の国司となる。同年八月五日であった。此の頃から建武二年(一三三五)十一月十九日、義貞、尊氏追討のため、京都を出て鎌倉に向かうまでが国宣の発給や内部調整御所の警備など多忙であったので故郷を立って二年八ヶ月余りその間一度も帰国することは出来なかった。此の後は箱根、竹の下の戦に敗れて京都まで退却、各地の戦いを経て、比叡山で立て篭もり、和解による北陸落ち義貞は北陸の地で討死した。 匂当内侍は藤原の経尹(ツネタダ)の三女一条行房の妹、名前は不明、匂当内侍は単なる官女ではなく内侍を尚侍・典侍・掌侍に分け各正四人権二人、合計十八人其の第一位を匂当内侍という、匂当は事務を担当して処理する。奏請は天皇に奏上して裁可を請うこと、伝宜は勅旨を伝達すること等を掌る。女官の中でも天皇に一番近い重要な役職であった。
義貞と匂当内侍の出会いは義貞が入洛して建武二年義貞の尊氏の追討軍をだすまでの間で早い段階ではなかったか。年若く美人で教養が豊富、特に琴の演奏などには素晴らしいものがあった。気脈が通じ合うのも早かった。お互いに御所のなかでの勤務が幸いした。天皇の一声で目出度く結ばれた。
運命の悪戯か戦いが休みなく続き義貞最後の日がきた。例に依て都大路を引き回され晒首になっていた。匂当内侍は悲嘆にくれその場に崩れ伏した。お供の衆に助けられ首を持ち去った。髪を剃り墨染の衣に身を包み義貞の故郷えの旅は長かった。漸く目指す武蔵島ゆかりの地にたどり着き、柊の木を植え其の傍らに義貞の首を埋め、成仏を念じた。
その傍らに簡素な庵を建て以来三十年に及ぶ仏道修行の日が続く。毎日一本の躑躅の木を近くの山林から取り集め植えることにした。これが花見塚の基礎になった。
正平元年八月十六日(一三四六)宗良親王は南朝の忠臣の多くが戦死しその勢いが衰えるさまを心配され御父後醍醐天皇と皇祖神武天皇を合祀した花見塚神社を建てられ南朝の皇運を祈られた(宮下相伝記)
然し宝暦元年四月(一七五一年)火災により焼失して今日に至る。
このゆかりを以て昭和四十五年(一九七〇)下野入道南順の後裔宮下一族相集まって花見塚神社を再建するに至った。
以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族会議のうえ多数の賛助者、協力者を得、上屋の新築、宮殿改築完成の運びとなった。(以下略)

須賀神社由来
祭神 宮下筑後守正繁
   横瀬信濃守泰繁
宮下筑後守正繁公は天文十四(一五四五)年四月小田原の城主北條氏康の旗下武蔵国忍の城主成田下総守氏長の軍勢が当新田領へ侵攻して来た事を岩松の住人森隼人、古海の住人小島三郎両人より注進を受けた、依って直に幕僚長尾新六郎渕名上野介、白石豊後守等を横瀬信濃守泰繁と共に従えて武蔵国(現・妻沼聖天様南)堰宮に出陣した。防戦大いに努めると雖も敵勢剛強にして激闘遂に利なく堰宮の陣を退き払い、羽生より新田庄南田島東南武蔵島村の飛地、須賀山村に退いた。然るに俄に前後より伏勢起こり善戦遂に空しく正繁、泰繁の両将相共に此処に自刃して果てられた。
正繁公の嗣子又左衛門繁貞は天正元年(一五七三)年十月父正繁公と泰繁公の両霊を祀り須賀大明神と号して社殿を討死の地須賀山に建立した。又泰繁公の嗣子由良成繁は社領を寄進した。其の寄進状には「須賀社領の事。新田堀口領分の内六石弐斗を祭祀料として…天正元年十月二日由良信濃守成繁(花押)宮下又佐尉殿」とある(以下略・宮下相伝記)
以来須賀神社は同郷鎮守の如くに祭祀されて来たが、弘化三年(一八四六)の利根川大洪水の為社殿も神域も荒廃に帰したので二柱神の境内に遷座されたが幾星霜を経るに従い社殿等は損壊して形を止めぬようになった。
昭和四十五年十一月三日(一九七〇)下野入道南順の子孫宮下一族相集まって花見塚神社を再建するにあたり同社に合祀した。
下野入道南順の女は宗良親王の第一子国良親王の室(母は匂当内侍の女山吹姫となり宮の一字を賜り下野の下と合わせて宮下となり国良親王の第一子正治の時始めて宮下を名乗りました。(宮下家正系図)以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族合議のうえ多数の賛助者、ご協者を得た。そして上屋の新築、宮殿の改築、完成の運びとなった。(以下略)

 掲示板に載る宮下家は「群馬県立文書館HP」によると、中世以来の系譜を引く旧家として知られており、明治18年(18858月下旬には太政官修史館の編輯副長官重野安繹らが古文書調査に訪れ、戦国期から江戸初期の古文書の一部を借り出すと共に、その所蔵目録を作成している。安政2年の過去帳(宮下家所蔵)によれば、戦国期から江戸初期にかけて宮下筑後守正繁(天正元年没)などの名前が見えることから、宮下家の先祖はおそらく中世武士の系譜を引き、戦国期には金山城主由良信濃守の幕下として仕え、江戸時代に土着したと推定されているという。
 なお、
宮下家屋敷の南側には花見塚公園があり、園内には匂当内侍に縁のある墓石や花見塚神社などの史跡もある。なお、江戸時代は正徳年間に二家に分かれ武蔵島村の名主を務めている。
        
                 花見塚公園の案内板
 花見塚公園
 江戸時代初期の頃まで、この地には、名木のつつじが一面に咲き乱れていた。
 建武の中興に功績のあった新田義貞は、後醍醐天皇のおそばに仕えた匂当内侍を、その恩賞として賜った。当代一の美人と言われた内侍のために、義貞はこの地に新しい館を構え、その庭に各地から集めたつつじの名木を植えたと言う。義貞の没後、内侍は尼となってここで義貞の菩提を弔ったと伝えられ、柊塚とか花見塚と呼ばれていた。
 寛永四年(1627)、当時の領主榊原(松平)忠次は、ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、今のつつじが岡公園の古木がそれで、樹齢八百余年を経ているのもあると言う。公園は、世界一のつつじの名所となっている。
 その後の当地は、義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘と、当花見塚に至る道筋に、小字「花見道」の地名が残るのみで、わずかに往時を偲ばせていたが、全町史跡公園化整備計画の一環として、ゆかりの地館林から若木のつつじを求め、公園として整備したものである(以下略)。



参考資料「群馬県立文書館HP「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」
    「ウィキペディア(
Wikipedia)」「境内案内板」等

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西大輪神社(雷電社)

 鷲宮砂丘は新井砂丘・西大輪砂丘とも称され、内陸河畔砂丘・内陸砂丘・河畔砂丘と区分されることもある砂丘である。中川低地の河畔砂丘群の1つである。砂丘は古利根川(現:葛西用水路)の旧河道沿いに発達している。この砂丘は全体として北北西より南南東へと発達し、微高地は主に二条あり、1つは長さ約1000 m・幅約200 m・高さ約5 m、もう1つは長さ約700 m・幅約250 m・高さ約5 mのものとが所在している。これらはその形状と構成する物質から三ヶ月形の河畔砂丘とされている。これら二条の砂丘の他に、この西方にも小規模かつ未発達な三ヶ月形砂丘が確認されている。鷲宮砂丘の断面の勾配は風上側(北西側)は約30度、風下側(南東側)が50度〜60度となっているが、西方の未発達砂丘についてはこの特徴は確認されていない。鷲宮砂丘は中世の時期より形成期に入ったと推定されている。
 この砂丘上に西大輪神社(雷電神社)等は鎮座している。
 

        
             
・所在地 埼玉県久喜市西大輪243
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧西大輪村鎮守
             
・例祭等 獅子舞 7月25日(近日の日曜日) 神幸祭 1015
 西大輪稲倉魂神社から一旦東行し、埼玉県道3号さいたま栗橋線に合流後右折、400m程北上した先の路地を左折すると、なだらかな斜面の砂丘上に西大輪神社(雷電社)は鎮座している。
        
                西大輪神社(雷電社)正面
『日本歴史地名大系』 「西大輪村」の解説
 鷲ノ宮村の南東、久本寺(くほんじ)村の東方にある。天文二三年(一五五四)一二月二四日の足利梅千代王丸印判状(野田文書)に「大輪」とみえ、古河公方義氏が重臣の野田左衛門大夫に御料所とされる当地を宛行っている。もと東大輪と併せ大輪と称していたことが知られるが、その西端は利根川の旧流路筋で、古くから奥州道の渡場で霞ヶ関という関所が設けられていた。対岸が鷲ノ宮であるため鷲ノ宮関所とも称された(「萱氏系図」鷲宮神社文書)。田園簿に村名がみえ、田高四五二石余・畑高四六七石余で、幕府領。
        
                   境内の様子    
   境内は明るく、手入れも行き届いていて、快晴の天候の中気持ちよく参拝ができた。
       
             境内の設置されている「西大輪神社由来記」 
西大輪神社由来記
当社 寛永十八年大輪村 東西に分村の後 西大輪村鎮守鷲大明神御仮屋として建立すと伝う 嘉永二年御仮屋再建棟札に元禄六年頃建立とあり 例祭として東より御神霊お迎えし 村内安全 子孫繁栄を祈念し 旧暦九月十四日より十九日ににわたり氏子当番にて執り行う
明治八年からは御神輿造営し行い三百六十有余年にわたり引き継がれ氏子の拠所となれり
時代の変遷に伴い次第に御祭礼の簡素化やむなく 平成に入り継続し難きに至る 一方 御神霊勧請の声高まり 平成十七年三浦宮司指導のもと西大輪三区役員氏子崇敬者等四十有余名によりなる西大輪神社氏子役員会を結成し推進す 西大輪神社増改築 御神輿修繕神社飛び地境地へ交換等なす
平成十九年十月二十八日大輪神社より御神霊を勧請 粛々と分祀し遷座祭齋行す 氏子永年の悲願果せり
ここに勇壮華麗なる西大輪獅子舞を奉納し御祝儀とす(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
           
西大輪神社由来記に並列されて設置されている
      「
中川低地の河畔砂丘群  西大輪砂丘」と「西大輪の獅子舞」の案内板
 埼玉県指定天然記念物  中川低地の河畔砂丘群  西大輪砂丘
 指定年月日  平成二十八年三月十五日
 所在地 久喜市西大輪
 西大輪砂丘は、榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が、寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘である。平安時代から室町時代にかけて形成されたと考えられており、羽生市から越谷市にかけての中川低地に点々と分布する内陸性の河畔砂丘群は、全国的にみても珍しい。
 西大輪砂丘は、利根川の旧河道東側に分布する四列からなる大規模な砂丘列であり、東側の二列の規模が特に大きい。東から順に、長さ千六百メートル・幅百五十メートル、長さ九百八十メートル・幅二百メートルの大きさを誇る。
 指定地は標高約十四メートルに位置する西大輪神社・雷電社の境内であり、西大輪砂丘中で最も保存状態の良い場所の一つである。周辺の低地部との高低 差は約六メートルあり、砂丘の高まりや砂の堆積状況を明確に観察することができる。
 平成二十九年三月二十二日  久喜市教育委員会  
埼玉県教育委員会

 久喜市指定無形民俗文化財 西大輪の獅子舞
 指定年月日 昭和五十二年七月十八日
 所在地   久喜市西大輪
 西大輪の獅子舞は約三百年前から伝わるとされ、七月二十四日には村内の神社や村の境などで、七月二十五日には民家の庭で舞われていた。
 現在では、七月二十五日に近い日曜日に、五穀豊穣・病魔退散・悪病除けを祈念して村回りを行いながら、村の辻々を清め、 西大輪神社・雷電社・胡禄社・金毘羅社・天神社・稲荷社など で舞っている。
 獅子は、大獅子・中獅子・女獅子からなる一人立ち三匹獅子であり、笛方・おか獅子・万灯持ちの諸役がある。
 曲目は、門掛り・すりこみ・もんぜん・花・弓・橋掛り・女獅子隠しとよばれるものなどがあり、躍動感のある勇壮な舞である。
 地元では獅子舞のことを、竹で作った簓という楽器の名にちなみ、「ささら」と呼んでいる。
 平成二十九年三月二十二日 久喜市教育委員会
                                                                    案内板より引用
 この300年の歴史ある旧鷲明神社の獅子舞は、今でも氏子の間に伝えられており、毎年725日(現在ではそれに近い日曜日)に、西大輪地域の三耕地(原・下出・河原)の有志の手により行われている。町指定無形文化財となっているこの獅子舞の詳しい由来はわからないが、五穀豊穣・病魔退散・悪病除け等のために行われるものといわれ、雨が降っても中止したことがないとの事だ。
        
                 西大輪神社 お仮屋
            このお仮屋の中に神興が納められている。
        
                    雷電社
 雷電社(西大輪神社)  鷲宮町西大輪二四三(西大輪字原)
 当社の境内には、社殿が二つある。一つは、別雷命を祀る雷電社のもので、もう一つは大輪神社の「お仮屋」と呼ばれているものである。嘉永二年(一八四九)再建されたと伝えるこのお借り屋は、老朽化が甚だしいかったため、昭和三十年、桜田・鷲宮の町村合併を記念して改築された。その際、同一境内にあるこの両社を総称して西大輪神社と呼ぶことが氏子一同で決議されたが、まだ正式名称にはなっておらず、今も「雷電様」「お仮屋」と各々の通称で呼ぶことのほうが多い。
『風土記稿』西大輪村の項に「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持 末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、この鷲明神社がお仮屋である。お仮屋の起こりは、明治の合祀によるもので、鷲神社と改称した鷲明神社は、明治四十二年五月五日東大輪の八幡社へ合併し、大輪神社と改称している。この合祀により氏神を失った西大輪では、古くからの祭礼日に大輪神社へ遷された神霊(みたま)を迎えて祭典を行うことを決め、お仮屋として社殿を残したものである。
 したがって、お仮屋とは、例祭の期間だけ東大輪の大輪神社から旧鷲神社の神霊を西大輪の地に奉遷するための建物であり、雷電社は、元来、鷲神社の末社であったが、合祀の際に残されたものである。このほか往時の境外末社である大六天・天神・稲荷も残されているが、これはそれぞれ異なる祭祀組織を持っていたことによると考えられる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 雷電社は、古くから雷の神様といわれ、降雨や雷除けなどが祈願されてきた。水田の広がる農業地域である当地では、夏にはよく雷雲が発生し、落雷もしばしば起った。雷の落ちた田には注連縄をめぐらしたり神職にお祓いしてもらう習慣が、かつては広く見られ、こうした雷に寄せる古い信仰から、当社が勧請されたのであろう。但し、雷電社としての恒例の祭事は昔からなく、お仮屋で鷲神社の例祭である神幸祭が行われる時、併せて祭られているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文・案内板」等

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西大輪稲倉魂神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市西大輪2094
             
・ご祭神 稲荷神(推定)
             
・社 格 旧西大輪村河原鎮守 旧無格社
             
・例祭等 初午祭 3
 JR東鷲宮駅の西側にある「東鷲宮駅入口」交差点を右折し、埼玉県道3号さいたま栗橋線を250m程北上した先にある「久喜市こかわ歩道橋」手前の路地を左折する。道路幅が狭い上に意外と民家が立て並ぶ道路に対して、運転速度に気を付け、急な子供たちの横断や対向車との接触等気をつけながら安全に進み、「葛西用水路」を越えたすぐ先に西大輪稲倉魂神社は道路に対して背を向けたような配置で鎮座している。
 但し周辺には適当な駐車スペースはなく路駐となり、尚且つ、道路側からは参道正面が見ずらい場所にある。境内はフェンスで仕切られており、よく見ると社の西側に入口に通じる細い道があり、回りこむように進み、参拝を開始した。
        
                 西大輪稲倉魂神社朱面
 氏子は西大輪地域内の河原地区に古くから住む数十戸である。社の規模は決して大きくはないが、氏子の方々からは「お稲荷様」と呼ばれ、河原地区の全てにわたってお守りくださる有難い神様であるといわれている。種々の祈願の中でも特に子供に関わる願い事に霊験あらたかで、ある時、子宝に恵まれない婦人が男の子を授けてほしいと願を掛けたところ、三人の男児に恵まれ、以後この家は栄えたとの話も伝えられている。また、お稲荷様のお使いは白狐であり、何かの霊験を示す際には、必ずその姿を現すといわれている。
        
                    拝 殿
  拝殿の手前には狛犬はなく、その代わりに一対の石碑にそれぞれ狐像が彫られている。

 稲荷神社  鷲宮町西大輪二〇九四(西大輪字向天王)
 天王新堀と葛西用水に挟まれた地に鎮座する当社は、西輪の小大名の一つである河原地区の鎮守として祀られている。その創建については明らかでないが、本殿に納められている古色を帯びた三体の稲荷大明神像により、永い歳月を経てきたことがうかがえる。
『風土記稿』西大輪村の項には「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、当社は鷲明神社の末社の内の一つとして載せられている。往時の本社であった鷲明神社は、明治四十二年に東大輪の大輪神社に合祀されたが、社殿はそのまま残され、「お仮屋」と呼ばれて現在に至っている。ただし、その所在地は、当社から北へ七〇〇メートルほど離れているところから、同書の記述は鷲明神社の境外末社であったことを示すものであろう。
 明治初年の神仏分離により円明院の管理から離れた当社は、社格制定に際して無格社となった。更に、明治四十年代に入り、村社大輪神社への合祀問題が生じたが、祟りを恐れた氏子は、特に崇敬の厚い槙島家が丁度神社裏手に居を構えていることから、その氏神として管理していく条件で合祀を回避した。その後も河原地区の人々の厚い信仰を基に祀り続けられ、平成元年には念願であった社殿の再建が行われている。なお、槙島家は、合祀回避の中心的役割を担った縁で、今も祭りの際の祝宴の会場となる習わしである。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                  すっきりした境内

 かつて山城国南山城宇治(現在の京都府宇治市槇島町)近縁には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島氏(槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)という豪族が根を張り、城郭を築いていた。それが槇島城である。
 元亀4年(1573年)73日、時の公方・足利義昭は織田信長に対して兵を挙げ、藤原氏の流れで室町幕府の奉公衆の一員であった真木島(槇島)昭光を頼り、槇島城へ籠城した。だが、信長は即座に入洛し、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。その後、義昭は河内若江城へ退去させられ、室町幕府は終焉を遂げた。
 真木島昭光は、室町幕府滅亡後、細川越中守忠興に招かれ1,000石を給され、肥後熊本にて亡くなり、子孫は阿波徳島藩等に仕えたとされている。ところでこの昭光の三弟大膳昭久は、武州幸手郡西大輪邑に移り住んだという。
 一方、『新編武蔵風土記稿 権現堂村』条には「舊家者吉十郎 氏を卷嶋と云ふ。世々里正を勤む、先祖卷嶋主水助北条氏直に仕へ、氏直沒落の後當村に来りて村民となれりと云ふ、氏直より賜はりし感狀に、間釜之内十貫文之地を賜ひしことしらる」と載せていて、ここでの巻島氏は、源姓桃井氏流槙島氏として、一色氏・北條氏に仕え、幸手領に居住していた土着豪族であったようだ。
 槇島性は国内でも埼玉県が一番多く分布し、県内でも久喜・幸手両市周辺に集中して今でも現存しているのは事実である。当然、当社の創建にも深く関与している一族でもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」埼玉苗字辞典」等
    



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上川崎香取神社天満宮

「川崎」という地名は、日本人の多くは神奈川県川崎市を思い浮かべる方が多いと思うが、川崎市HPをみると、この川崎という地名由来として、多摩川のデルタ地帯であることに由来しているといい、「川」はそのまま多摩川を意味し、「崎」は砂が溜まり海側に出っ張った場所を指すという。また、「川崎」の「サキ」は、古くは「前」を意味する言葉であり、「川前」、つまり川に面した地域を指すという説もあり、日本全国に80ヶ所以上存在する「カワサキ」という地名の多くも、この「川前」が語源とされているという。
 久喜市にも「川崎」を冠した地域があり、やはり、古利根川の屈曲した地形から付けられた地名といわれている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上川崎479
             
・ご祭神 経津主命
             
・社 格 旧上川崎村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 灯籠 720日 秋祭り 1019
 久喜市上川崎地域は外野地域の南東に位置し、外野香取神社から北西から南東に流れる葛西用水路の左岸に沿うように形成されている農道を600m程東方向に進むと進行方向左手に上川崎香取神社天満宮が見えてくる。
        
                上川崎香取神社天満宮正面
『日本歴史地名大系』 「上川崎村」の解説
 外野村の南東に位置する。当地から正和五年(一三一六)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。当村渡辺氏の祖は幸手の領主一色直朝で、天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入国のときすでに隠居し、その子義直に家督を譲っていたが、義直は旧領のうち幸手領七千余石を安堵され、旗本一色家の祖となった(寛政重修諸家譜)。一方、当地に土着した直朝は慶長二年(一五九七)に死去したが、その次子政義からは渡辺氏を称して名主を世襲、旗本久津見氏より苗字帯刀御免の身分を与えられていた(「風土記稿」など)。中川崎村・下川崎村(現幸手市)とはもと一村で田園簿には三川崎村として田高六四六石余・畑高五六七石余とあり、幕府領。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡上川崎村』
 天神社 村の鎭守なり、藥王院持、下同じ、〇香取社〇山王社〇大六天社 正蓮寺持
 藥王院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺末、瑠璃光山と號す、本尊不動、開山秀專寬永六年七月寂す、藥師堂
 
舊家者傳左衛門 
 世々名主を勤む、氏を渡邊と號す、所藏の系圖に、祖先は一色公深七代の孫、一色宮内大輔直朝、天文中足利晴氏及義氏二代の間隨從し、後に幸手庄に蟄居し、慶長二年十一月十四日卒す、法〇大虚院月庵蘆雪と號す、村内正蓮寺の開基たり、其子義直は義氏逝去の後東照宮に召出され、旗下の士一色右京某が祖なり、弟政義は當村に住し、渡邊をもて氏とし、元和二年三月朔日死す治林寺輔翁正輪と法〇す、これ傳左衛門が祖なり、所藏の武器等は享保中火災に罹れり。
        
       拝殿の開き戸の左右には「天満天神社」「香取大明神」の札がある。
 香取神社  鷲宮町上川崎四七九(上川崎字屋敷前)
 上川崎は、『風土記稿』に「上川崎村は、田宮庄に属す、も上・中・下は都(すべて)一村にして、正保改定の国図には三川崎村と記し、『元禄国図』に、初て上・中・下三村を分ち記せり」とあるように、元禄八年(一六九五)に三つに分村した三川崎村の西の部分である。
当地域は、古くは利根川・権現堂川・島川・古利根川をひかえる水害地帯であった。殊に川崎の地は、その名が古利根川の屈曲したところから付けられているように、水害を受けやすい所であった。
 当社本殿裏に、元宮と呼ばれる「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、共に寛政元年(一七八九)の銘がある。一方、内陣には、寛政三年の墨書銘がある香取大明神像と天満天神像が安置されている。更に、寛政三年四月七日付けの卜部良倶の宗源祝詞が保管され、その祈奉斎の神輿形に納めた卜部の霊璽を二筥安置し、これに伴う幣帛を納めている。また、本殿正面には、この卜部良倶が染筆した「香取大明神・天満天神」の社号額を掲げている。ちなみに神輿形に納めた霊璽は、別当が同じである隣村中川崎の香取神社にも祀られている。
 口碑によると、昔、香取神社は「古香取(ふるかんどり)」、天神社は「天神」と呼ぶ古利根川縁の田の中に、それぞれ祀られていたが、水害を被ったことから、土手上にある旧別当薬王院に隣接した現在地に移されたという。
        
                    本 殿
 当地は、寛政元年に元宮の石祠を建立した時から三年前に当たる天明六年(一七八六)に「七十人余も流死」(『鷲宮町史』)するほどの大洪水に見舞われている。この時、古利根川の川辺にあった香取神社と天神社の二社は流失し、元地に石祠を建立したが、更に、その後の水害を恐れて、寛政三年に現在地に両社合殿の社殿を新築したものであろう。同時に造立の香取大明神像と天満天神像には、施主渡辺多門とあり、これは当時の名主で幸手城主一色氏の末である。
 現在、当本殿は三間社であり、内陣には、先に記した史料のほかに「未(ひつじ)ノ年・木村幸右門」と背部に刻んだ石製の香取・天神の二神像があり、更に寛政三年、施主渡辺多門が倉稲魂神像とその本地である荼枳尼天(だきにてん)像を奉納している。このうち、石製二神像は、三川崎村分村時に旧神像として納めたものであろう。また、倉稲魂神像と荼枳尼天像は、一つは旧別当薬王院の鎮守として内寺に祀られ、一つは名主渡辺家の鎮守で屋敷内に祀られていたものが、明治初めの転換期に当社の内陣に納められたものと想像する。
 本殿の裏にある元宮と呼ぶ二基の石祠は、大正三年に村内の小祠を合祀した時、元地の「古香取」と「天神」から移したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      境内にある力石数基          本殿左側裏手にある庚申塔と青面金剛
        
              本殿の正面奥に祀られている元宮
 元宮の内部には
「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、元宮の左側奥には見ずらいが「大六天」「山王大権現」と刻まれた石祠、元宮のすぐ右側には「八海山神社」の石碑が祀られている。
        
      元宮の右側に並んで祀られている「御嶽大神」「辨財天」「猿田毘古大神」

 年3回の祭りのうち、一番賑やかなものが720日に行われる「灯籠」である。いわゆる夏祭りであるが、境内に灯籠を立て、その明かりのともる中を夕方に氏子が参詣し、総代からお祓いを受ける行事である。現在は諸般の事情で、灯籠は十基程立てるだけとなっているが、昭和54年ごろまでは、鉄枠・ガラス張りの灯籠五十基が境内や参道を飾ったものであったという。
 また、戦前頃までは「万作」という行事が神社の所在する上川崎で710日の灯籠と1019日の秋祭りで奉納されていた。これは青年団員を中心として「川崎階和倶楽部」というものを組織し、当香取神社の他、現在の幸手市の不動様や八幡様に赴くというものである。段物に、お半長右衛門・細田川・笠松峠・白桝粉屋などの曲目があり、伊勢音頭・くどきなどの手踊りがある。行事としては1931年・1932年頃(昭和6年・7年頃)より5年ほどが全盛であったのだが、1945年頃以後(昭和20年代以後)は行われていないという。
        
                    社の全景
        
               社の東側に隣接している薬王院


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川崎市
HP」「埼玉の神社」等

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