古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

森飯玉神社


        
             
・所在地 群馬県藤岡市森1391
             
・ご祭神 倉稲神 菅原道真公 素戔嗚命 大穴牟遅命 
                  
建御名方命 大日孁命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春季例大祭(獅子舞奉納) 315日に近い日曜日
 国道17号線「立石北」交差点を左折し、「第二拾弐踏切」を越え、更に250m程南西方向に進むと、進行方向左手に森飯玉神社の境内に入る事が出来る細い路地があり、そこから社の境内に入る。この場所は境内裏手にあたり、社は丁度背を向けたような配置になっている。境内の反対側である南側には鳥居と社号標柱、そしてその鳥居の先の敷地内には「森公会堂」もある。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線沿いに鎮座し、「森」という地域名に反して、社の周囲は閑静な住宅街に囲まれている。
        
                  
森飯玉神社正面
       境内は綺麗に整備されていて、社殿も新しい。鳥居の左に見えるのが森公会堂。
『日本歴史地名大系』 「森村」の解説
 立石(たついし)村の西、南は中栗須(なかくりす)村、西は中村に接する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎が上州で給された地に「五拾貫文 森之内中村郷」があり、同六年に武田信玄との申合せによって「森郷内小林右馬允分」は安保氏に与えられている(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。
 寛文郷帳では幕府領、田方一八四石八斗余・畑方五二四石八斗余、元禄郷帳では前橋藩領。後期の御改革組合村高帳では幕府領と旗本水上領の二給、家数五八。中山道新町宿(現多野郡新町)の助郷高七一一石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御用物御継立場に人足三四人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。
        
                 境内東側にある神興庫
 森地域には、約270年以上の歴史がある「森の獅子舞」が当社の春季例大祭にて奉納されている。「ぐんま地域文化マップHP」によると、この森の獅子舞は、江戸時代中期の1712315日(正徳2年)、当時森村神宮であった塚越大和守正屋は、稲の精霊とされる穀物の神様である「倉稲魂命」を祭神とする神社の建立を時の中御門天皇に申し出て裁許状を下賜され、塚越家の所有地である森村飯玉久保にお宮を安置し、飯玉大明神と命名した。大明神の神前には村民が五穀豊穣と無病息災を祈願する姿が絶えなかったそうである。
 17504月、隣村の神明宮の春祭りで神楽や獅子舞を見るにつけ、森村も獅子頭を購入して大明神に奉納しようと気運が高まり、村民が出し合った金子を元に、村役が内山峠を越えて信州佐久から獅子頭を購入し、舞形や笛は和紙に認めていただき、近隣師匠の応援を得て1751315日の大明神の春祭りで獅子舞を奉納したのが始まりである。以来、舞い手はその家の跡継ぎとし、笛吹は各家庭から1名が参加して現代まで伝承され、江戸時代から明治、大正、昭和と受継がれ、本年で265年の歴史を刻むそうだ。
 流派は「稲荷流」で、カンカチ1人、前獅子(雄)1人、中獅子(雌)1人、後獅子(雄)1人の4人構成で舞を行う。舞は全部で27舞あり、獅子頭は当初の物と平成19年に新調した物と2組ある。 全て漆塗りで髪の毛は馬の毛である。
 昭和12年から昭和21年まで時の大戦により休止となっていたが、 昭和22年、獅子舞の経験者である針谷弁三氏を師匠として青年団を中心に復活、昭和50年からは、森子供育成会の協力を得て、従来の仕来りを排除して希望する子供達全てに舞や笛を伝授しているとの事だ。
        
                    拝 殿
 飯玉神社改築記念碑
 所在地 藤岡市森字飯玉久保一三九番地の一
 祭 神 倉稲神 菅原道真公 素戔嗚命 大穴牟遅命 建御名方命 大日孁命
 神道は天地悠久の大道であって崇高なる精神を培い太平を開く基である
 当社に明和二年八月 京都神祇管領卜部家より認可を得て 村社正一位飯玉大明神と号したに創まる 星霜は移ろい明治四十二年十二月 政府の合祀政策により 村社飯玉神社の境内末社三社の他に森郷内に鎮座された無格社茂木神社の祭神二社 同郷無格社神明宮一社を合祀し 〇〇〇〇あるものは合霊の上 六柱を以て現飯玉神社の祭神とした
 由緒に 中御門天皇の御宇正徳三年三月 時に塚越大和守藤原正屋が正一位飯玉大明神を奉祭し 裁許状を下賜されたことに遡る 正屋の義父塚越正重は神位を尊重し 桃園天皇の御宇寛延二年十二月産子と相計り新宮を造営した
 爾来 孝明天皇御宇文久三年十月に本殿 幣殿 拝殿を改築し 大正六年に到り氏子五十八戸 崇敬者十三人の寄進を得て社殿の補修整備を行い 今日まで護持されてきた
 今般 社殿の老朽するに当たり 氏子崇敬者はここに真意を披瀝し神殿の造営と神域の整美を行い 神の恵みと祖先の恩とに感謝を捧げ国家の隆昌と郷土の繁栄と世界の平和とを祈念するものである ここに永久の記念と刻す。(以下略)
                                      記念碑文より引用

 
  境内に設置された飯玉神社改築記念碑            本 殿
        
                           本殿奥に祀られている石祠三基
              
                        社叢林も境内東側に広がり、住宅街に鎮座し
            ながらも落ち着いた雰囲気も醸し出している。
        
              境内北側の道路沿いにある庚申塔等


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「地域文化資産ポータルHP
    「境内記念碑文」等

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立石琴平神社


        
            
・所在地 群馬県藤岡市立石1400
            
・ご祭神 大物主神
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春季例大祭 429日 秋季例大祭 113日 
                 越年祭 
1231日 他
 立石新田伊勢島神社の南側を国道17号線が通っており、一旦国道に合流し、「北藤岡駅」方向に進行、「立石」交差点を左折し、路地を南へ入り高崎線の踏切を渡り、道幅の狭い農道のごとき道を道なりに南下、その後右方向進むと、立石地域の集落の中に立石琴平神社は鎮座している。昔懐かしい地域の鎮守様のような雰囲気を醸し出している社。なお、
社の北側に専用駐車場あり。
        
                 
立石琴平神社正面
『日本歴史地名大系』「立石村」の解説
 北境を烏(からす)川が東流、東境を温井(ぬくい)川が北流し、北部を中山道が東西に抜ける。古くは立石・和泉の二村であったといい、村名は「立石様」と称する自然石にちなむともいわれる。永禄六年(一五六三)に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「立石村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。同年閏一二月一四日の某禁制(写、飯島文書)で、木部(現高崎市)在城衆および番手衆の「泉・立石両郡」での乱妨・竹木伐採を禁じている。
 
    鳥居の先で左側にある手水舎              手水舎の並びに祀られている道祖神
        
                 参道右側にある神楽殿
     
110日・429日・1231日の年3回「立石神社太々神楽」を奉納している。
 この立石神社太々神楽は、400年程の歴史を誇る伝統芸能で、日本神話に基づき奉納される古式豊かな神楽で「大和舞太々里神楽」と称し、天正9年(158110月に立石神社の源惣兵衛と松本連が上京し、京都の神祗宮領長(吉田殿)より裁許状を得て、伊勢より勧請して始められたといわれ、舞は36座伝わる。
 
  神楽殿と拝殿の間にポツンとある「立石様」といわれる石とその案内板(写真左・右)
「立石様」の伝説
 江戸時代の始め頃、立石あたりは前橋藩の酒井雅楽頭(うたのかみ)の領地でありました。北に烏川が流れている立石には、江戸時代の主要な街道である中山道が通っていました。
 三角道の道端の大きな杉の木の下に「立石様」という石がありました。「立石様」は濃い緑色をした高さ1メートルほどの細長い自然石で、不思議な霊験がある石ということで、石神様として祀られていました。
「立石様」の評判をきいた雅楽頭は、きれいなこの石を欲しくなり前橋の城へ運ぼうとしました。重さ200貫(750キログラム)ほどの石ですが、やっとのことで船に乗せました。城の影が映る利根川の深い淵にまで来ると、船がぐらりと傾いて、ひっくりかえりそうになりました。「これは「立石様」が城に行くのを嫌がっているのに違いない。無理して動かすと船が沈んでしまう」と人々は恐ろしくなりました。
 雅楽頭は、せっかく城の近くまで来たのに残念だと怒って、長槍で石の背中部分を2回続けて突きましたが硬くて刃が立ちません。仕方なく、元の位置に戻すことにしました。
 帰りには嘘のように船が軽くなり、容易に元の場所に戻すことができました。立石様は立石の土地を守る神様なので、やたらに他所に動かしてはいけないのだと人々に思われました。
 永らく「立石様」は立石地内の個人宅に置かれていましたが、令和6105日にこの地に移設しました。
                                       案内板より引用

 案内板に登場する「酒井雅楽頭」は、徳川家の祖父方である松平家と同祖とされる酒井広親(ひろちか)の次男とされる酒井家忠からの家系で、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれていた。
 酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561)もしくは永禄5年(1562)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた。
 慶長6年(1601)、その子酒井重忠は当時の厩橋城に3万石で入封してから9150年にわたり前橋を治め、前橋の町割りの基礎を築き上げたという。
        
                    拝 殿
 烏川・神流川・鏑川に囲まれた藤岡市の北東部に位置する神社。安土桃山時代の天正9年(1581)創建といわれ、村の五穀豊穣、村民の無病息災、厄除け、家内安全を祈願する村社として存在している。後年、立石琴平神社(立石金毘羅神社)と合祀され現在に至る。古くは「金毘羅さん」の愛称で村人から親しまれていた。
        
            拝殿中央上部に掲げてある扁額と奉納額
 皆野町国神神社の項でも説明しているが、金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と称し、明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」として親しまれている。
 この金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があるが、金刀比羅宮は自身の由緒で大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとしている。大宝年間に修験道の役小角が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。
 
   中央の扁額等の左側にある奉納額(写真左)、右側には絵馬(同右)も掲げてある。

 大物主神(おおものぬしのかみ、大物主大神)は、日本神話に登場する神で、『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
 ところで、大物主神の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて古来見解が分かれてきた。『古事記』においては出自について詳しい説明が無く、大国主命とは別の神である様に述べられている。
 一方『日本書紀』では先述の大己貴神の別名とする説、大己貴神の幸魂奇魂とする説と、別個の国津神とする説が併記されている。 例えば異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されている。
 明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされている。
        
             社殿左側に祀られている八幡宮天満宮
             
           境内南側の道路沿いに聳えたつイチョウのご神木 


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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江ヶ崎久伊豆神社

『日本歴史地名大系』 「江ヶ崎村」の解説
 元荒川左岸の白岡台地南東端に位置する。西と南は黒浜村、東から南にかけての開析低地(もともと平坦だった扇状地・段丘・平野等の低地が、河川などの侵食作用によって谷や斜面が刻まれ、起伏のある地形へと変化した場所)を日(につ)川が流れる。
 鎮守の久伊豆神社境内から同社に納めたとみられる鰐口が出土しており、正和三年(一三一四)三月九日の紀年銘に「檀那江崎(弥)沙弥行蓮」とみえる。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があった(宝暦八年「検地帳」荒綾文化叢書)。田園簿によれば同藩領で、田高四七石余・畑高一五二石余。延宝八年(一六八〇)の家数三五(うち本百姓一九)、人数三〇四、新田の家数五(すべて本百姓)、人数三〇(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。

        
             
・所在地 埼玉県蓮田市大字江ケ崎1202
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧江ヶ崎村鎮守 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 313日 例祭 107日(旧暦 99日) 他
 江ヶ崎は、蓮田市中心部の約四㌖北西に位置し、その地域名は、かつてこの付近が海であったころ、古東京湾の入り江であったことにちなむものである。地内は、白岡台地の南東端を成す畑や山林の多い北部と、元荒川左岸の低地帯の東部から南部にかけての地域に二分され、北部の台地の先端部には新羅三郎義光の子孫か家臣もしくは鬼窪尾張守繁政の居城と伝えられる江ヶ崎城跡があったが、瑞穂団地の造成によってごく一部を残して消滅してしまった。当社はこの二つの地域の接点ともいえる村の中央部に、鬱蒼たる樹木の生い茂る閑静な社叢に包まれて鎮座し、旧江ヶ崎村の鎮守として祀られてきた社である。
        
                 江ヶ崎久伊豆神社正面
 
 入口にある神明系の一の鳥居から二の鳥居に向かう参道一帯は、鬱蒼たる緑の森に包まれ(写真左)、二の鳥居手前の舗装されていない参道付近の路面には苔生が自生していて、厳かな雰囲気を醸し出しているようだ。
 因みに、
参道の入口から二の鳥居までの部分を昔から「大門」と呼び、参道入口の社号標の裏辺りには、かつて「一本杉」と呼ばれた巨大な杉の古木があったという。
「大門」の呼称は、元来は一の鳥居と二の鳥居の間に大門があったことによるもので、「三社御修覆帳」にも「御神体神興二而大門大杉本ヨリ」との記述が見える。「一本杉」は、「記録年鑑」に「久伊豆宮大門先二古来ヨリ大ナル杉ノ木アリ是ヲ世挙テ一本杉ト云先戌年折レ申候依之寛延三年(一七五〇)三月右一本殖カヘ」とあり、現存すれば相当の大木であったことがうかがえる。なお、社殿の北側には、これとは別に樹齢約400年の大杉があり、御神木として大切にされてきたが、枯死したため、昭和47年に惜しまれつつ伐採されたという。
        
             参道の進んだ先にある朱色の二の鳥居
      但し正面からでは鳥居の両側には樹木もあり、裏側から撮影している。
 
 二の鳥居付近には平成2年3月31日に指定された「蓮田市江ヶ崎久伊豆神社社叢ふるさとの森」(写真左)・「江ヶ崎の久伊豆神社」(同右)の案内板が設置されている。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 江ヶ崎村』
 久伊豆社 村の鎭守にて、祭神大己貴神、勸請は嘉吉年中なりと云、
 別當 南學院 本山派修驗、幸手小渕村不動院の配下、九雲山と號す、開山賴奚永祿六年起立す、本尊不動、


 久伊豆神社(みょうじんさま)  蓮田市江ヶ崎一二〇二(江ヶ崎字前側)
 勧請の年代については、先祖代々、当社の祭祀に当たってきた社家の矢島家に所蔵されている「太雲山社領」に「一、久伊豆大明神嘉吉三癸亥歳勧請 当貞享元甲子(一六八六)迄弐百四拾弐年二罷成候」とあることから、嘉吉三年(一四四三)の勧請と伝えられている。更に『風土記稿』江ヶ崎村の項にも「久伊豆社 村の鎮守にて、祭神大己貴神 勸請は嘉吉年中なりと云」とあることや、白岡町実ヶ谷の鎮守である久伊豆神社が嘉吉元年(一四三一)であることなどからみて、嘉吉三年という勧請の年代はまず間違いないであろう。
 ちなみに、久伊豆神社は、武蔵七党の私市党や野与党によって信仰されたといわれ、その勢力が及んでいた南・北埼玉郡に特に多く分布しており、蓮田市内や隣接する岩槻市・白岡町などにも多くの久伊豆神社が祀られている。
 当社の勧請から一二〇年を経た永禄六年(一五六三)に至って、本山派修験の太雲山南学院(『風土記稿』では「南覚院」と記されている)が別当として開基された。南学院は、小淵村(現春日部市)不動院の末寺であり、開山は権大僧都法印頼憲であった。(中略)矢島家には役行者像をはじめとする一八体の円空仏が現存しており、元禄二年(一六八九)ごろに円空がこの南学院に立ち寄った際に彫刻したものと伝えられている。なお、この円空仏は、「矢島家円空仏群」として県指定文化財になっている。

        
                    本 殿
 また、口碑によれば、当社は初めは現在の境内地の近くにあり、「宮地」の屋号で呼ばれる関根昇司家辺りにあったとも伝えられ、この「宮地」の屋号は、そこに昔当社が鎮座していたことにちなむものであろう。その「宮地」に隣接して矢島家累代の墓所があるのも、かつて「宮地」に当社が存在していたことの名残であるといえよう。
 当社が「宮地」から現在の境内地に遷座したのは、矢島家に伝わる「三社御修覆帳」によれば延享三年(一七四六)のことである。ここでいう「三社」とは、久伊豆大明神・諏訪大明神・山王大権現の三社を指すものであるが、そのうち山王大権現は神仏分離の後、廃社となり、諏訪大明神は江ヶ崎に隣接する長崎の地内に鎮座する諏訪神社のことである。当社が「宮地」から現在の境内地に遷った理由は定かではないが、境内の拡張を意図したものと推測される。現在の境内が新たな社地に選ばれたのは、明治四十年に「法印様山」と呼ばれている矢島家の地内から「檀那江崎沙彌行蓮敬白」と刻まれた正和三年(一三一四)銘の鰐口(市指定文化財)が発掘されていることからすれば、古くより何らかの神仏が祀られていた聖地であったかもしれない。(中略)
 明治維新の後は、神仏分離を経て明治六年に村社となり、世襲神職家である矢島家や氏子・崇敬者らに支えられ、その信仰はますます厚いものとなっている。境内の随所に奉納された石造物や拝殿に掛けられた多数の絵馬や額は、当社への信仰の厚さを物語るものといえよう。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
 社殿の左側に祀られている境内社・天神社       本殿奥に祀られている石祠等
        
           「矢島家円空仏(秋葉大権現像)」の案内板
 社の神職である「矢島家」には一八体の円空仏が現存しており、元禄二年(一六八九)ごろに円空がこの南学院に立ち寄った際に彫刻したものと伝えられている。なお、この円空仏は、「矢島家円空仏群」として県指定文化財になっている。
       
           二の鳥居の北側に祀られている境内社・秋葉神社 
秋葉神社は、幕末の嘉永6年(1853)に現在の静岡県の秋葉山本宮秋葉神社より勧請したもので、火防の御利益があることから、地元の消防団が年2回の祭り(4月18日 12月18日)を行ってきたが、市制施行後は消防組織が改組されたため、消防団による祭典は廃止されたという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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黒浜稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜38341
             
・ご祭神 宇迦之御魂
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 初午 2月初午 春祭り 48日 秋祭り 1128
 蓮田市黒浜は南北に長い地域であり、黒浜稲荷神社が鎮座する字八貫野は地域最北端にあり、南新宿地域と接していて、実は南新宿久伊豆神社からも非常に近い場所に社はある。なんでも新宿は現在の行政区では大字西新宿と大字南新宿に分かれ、南新宿の一部は大字黒浜になっているようだ。「埼玉の神社」によれば、南新宿は、上宿・下宿・染谷・請野の四耕地からなり、当社の氏子区域は、この南新宿の全域で、ほかに鎮座地である大字黒浜の字八貫野の古くからの住民も当社の氏子に入っているという。なにより、社の境内で南側に隣接している建物の名が「南新宿自治会館」であることも、それを示していよう
        
                  
黒浜稲荷神社正面
 南新宿久伊豆神社の北側を東西に通る埼玉県道145号白岡停車場南新宿線を東行し、「南新宿」交差点を右折、その後道なりに南下すると、進行方向右手に黒浜稲荷神社の鳥居が見えてくる。ありがたいことに、道路沿いに駐車専用スペースも確保されている。
        
                   境内の様子
               左側に見える建物は南新宿自治会館
        
                    拝 殿 
 稲荷神社  蓮田市黒浜三八三四-一(黒浜字八貫野)
 南新宿は、白岡町の篠津の宿の南に開かれた宿であり、その地内には「殿様の通り道」が通っていたという。集落は、その道沿いに開け地内には今も「アブラヤ」「クシヤ」「フクダヤ」「ロクダナ」など、商売をしていた当時の屋号を残す家がある。当社は、この集落の西方にあり、集落の南西の外れには久伊豆神社が鎮座している。
 当社の勧請の年代は不明であるが、古くから南新宿の人々によって祀られてきた。『風土記稿』新宿村の項には、当社についての記述はない。境内地が黒浜の地内にあることから推測すると、黒浜村の項に「稲荷社 村民持」とある神社が当社のことと思われる。一方、久伊豆社については、城村の項に「当村及び新宿村の鎮守なり」と載っており、明治初年にはこの社を城村から譲り受け、南新宿村の村社とし、当社を無格社とした。しかし、実際は江戸時代以来今日に至るまで、当社が鎮守として意識されており、このことは、元旦には久伊豆神社の二倍ほどの参詣者が当社を訪れることにも表れている。
 とはいえ、太平洋戦争後の混乱期には当社の境内も荒廃し、正に無残な状況で、この折に絵馬や額などが薪として何者かに燃やされてしまった。しかし、戦後の復興に伴い、そうした状況から立ち直り、境内の整備も進められた。境内にある南新宿自治会館は、その一環として社有の山林を開いて建設されたものである。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                社殿の左側にある御神木
 かつて当社の境内には、樹齢約400年以上で、目通り5.8m、鷹さ40m以上という杉の巨木があり、氏子から御神木として大切にされてきた。地上2.8mのところから幹が二股に分かれたこの御神木の姿は、10㎞離れても分かるほどで、氏子の自慢の一つでもあったという。この古木は、昭和43年頃に至り老齢の為枯死寸前となったために伐採されたが、これを惜しむ氏子らによってその跡に記念碑が建てられている。
        
                  境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
 

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黒浜諏訪神社

 蓮田市黒浜地域の南東部にある黒浜沼は、北部にある上沼(うえぬま)および南部の下沼(したぬま)の二つから成っていて、付近を流れる元荒川(かつての荒川)の洪水によって形成された自然堤防によって谷地が堰き止められて出来た沼と考えられている。寛永期に沼を横断する堤が築かれ、そこを往還としたことによって沼は上沼と下沼に分かれた。明治期の記録である武蔵国郡村誌には「上沼」は東西230間(約273m)・南北3町(約327m)・周囲1129間(約1253m)、「下沼」は東西50間(約91m)・南北130間(約164m)・周囲430間(約491m)と記されている。土砂の流入や埋め立てにより徐々にその面積を減らしてきている。
 1979年(昭和54年)に「埼玉県自然環境保全地域」に指定され、2009年度(平成21年度)からは緑のトラスト保全地第11号地に指定され保全されている。2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
 この自然豊かな田園風景の中、上沼と下沼の間にひっそりと黒浜諏訪神社は鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜5024
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧長崎村鎮守
             
・例祭等 春祭り 127日 例祭 827日 秋祭り 1227
 黒浜久伊豆神社から「黒浜南小学校(南)」交差点を左折し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に合流したすぐ次の新郷を右折する。右手に蓮田市立黒浜南小学校を見ながら道なりに進むと民家もほぼなくなり、周囲一帯田畑風景の中更に東行する先の暴風林に囲まれた集落があり、その南端部に黒浜諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  
黒浜諏訪神社正面
『日本歴史地名大系 』「長崎村」の解説
 元荒川の左岸、黒浜村の東にあり、東は江ヶ崎村。古くは黒浜村に含まれたが、江ヶ崎村の村民が開墾して一村をなしたといわれ(風土記稿)、元禄期(一六八八-一七〇四)までに分村したと考えられる(貞享三年の岩槻藩領郷村高帳など)。岩槻藩領で幕末まで変わらず。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)に村名がみえ、高二三石余、家数七(すべて本百姓)、人数七〇。元禄郷帳・天保郷帳では村名に黒浜村枝郷と肩書される。
 
     参道右側にある石碑三基          石碑三基の並びに祀られている
 左から御嶽講・伊勢参宮・富士登山各記念碑        庚申・天神・荒神
       
          参道左側に設置されている「
諏訪神社竣工記念」碑
 諏訪神社竣工記念
 御由緒
 當社は寛永四年七月二十六日当地増田善右衛門直吉氏信州諏訪大社より勧請す
 建御名方命を祭神として祀り篤く崇敬されて来ましたが昭和四十九年十二月八日災禍により焼失し同月二十日仮宮建立同月二十二日長野県諏訪大社より再勧請今般氏子中の奉賛により昭和五十年十二月二十七日當社遷宮す
 ここに記念として永遠に御神徳を讃えるものであります(以下略)
                                      記念碑文より引用
 
        
                    拝 殿 
『新編武藏風土記稿 笹山村』
 諏訪社 長崎村の鎭守とす、當社の緣起とて僅に記せしものあり、其に寬永四年村民增田善右衞門なるもの、此社を勸請せしよし見ゆ、江ヶ崎村南學院と黑濱村實藏院との持なり、〇荒神社 〇天神社 〇雷電社 以上三社村民持、

 諏訪神社  蓮田市黒浜五〇二四(黒浜字日野手)
 当社の鎮座する長崎は、台地が岬のように細長く突き出ていることから付いた名で、黒浜の中でも谷に隔てられ孤島のようになっている。
『風土記稿』笹山村の項に当社が見え、「諏訪社 長崎村の鎮守とす、当社の縁起とて僅に記せしものあり、其に寬永四年(一六二七)村民増田善右衞門なるもの、此社を勧請せしよし見ゆ、江ヶ崎村南學院と黒浜村宝蔵院との持なり」と記している。ただし、ここでいう当社の鎮座地は、長崎の南端にあった笹山村の飛び地を指している。
 善右衞門の子孫にあたる増田正男家には当社の勧請について記した「諏訪大明神縁起」(寛永四年)がある。これによれば、善右衞門が長崎村の開発の大願を果たすために諏訪神社を祀ることを思い立ったところ、七月二十六日の夜に光り輝く神が現れ、信州諏訪の社地から土を持って来て社殿を建てるように告げられた。そこで、善右衞門は早速翌日に信州に旅立ち、お告げの通りにして社殿を建立したのが当社の始まりであるという。同家の先祖は信州の出身で、天正十八年(一五九〇)に小田原北条氏の足軽として岩槻城に来たと伝えられる。
 神仏分離後は大きな変化はなかったが、昭和四十九年十二月八日に火災によって社殿を消失した。しかし、早くも同月二十日には仮宮を建立し、二十二日に長野県の諏訪大社から再勧請を行い、翌年十二月二十七日には再建され本殿への遷座が行われた。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        
                     本 殿
 長崎村は、元禄期(16881704)以降に黒浜村から分村したが、これは隣村の江ヶ崎村の村民と笹山村の増田善右衞門によって開発されたものである。『風土記稿』長崎村の項には「今も村内皆耕地にして、民家二十余は黒浜村に在り」とあり、江戸期は、集落を村内に構えず、村の南端にある黒浜村の境界辺りに集落を置いた。古くからの住民は現在もこの辺りに住んでいる。
 長崎村は、明治七年に黒浜村に合併され、その後地名は抹消されている。現在、旧長崎村辺りを継承する地域には約三百戸の住民がおり、奉賛会も昭和五〇年ごろに組織されているが、神社運営の中心は古くからの住民三七戸程で、家並び順で三・四戸が月交代で神社の清掃を行うほか、特に古い家の一二戸が三戸ずつ交替で年番を務めているという。
        
        黒浜久伊豆神社から当社に行く途中の道沿いに設置されていた
            「
蓮田市下沼県自然環境保全地域」の案内板
 蓮田市下沼県自然環境保全地域
 昭和五十四年三月二十日指定
 指定面積 二・五〇ヘクタール
 この沼は、谷地(低地に浅く水がたまり草が茂っている湿地)の開口部が元荒川の運んだ土砂の堆積によりせき止められてできたもので、慈恩寺台地の南西部、標高8メートルの地に位置しています。
 岸辺には、ヨシ、マコモ等の挺水植物が繁殖し、水面には、ヒシ、トチカガミ等の浮葉植物が敷きつめ、一部には、オニバスも見られます。
 また、鳥類、昆虫類の生息密度も高く、人為の影響の少ない地域であり、湖沼特有の生態系を維持しています。
 このように、自然度が高く、学術的にも貴重なものであることから、本地域を上沼と共に県自然環境保全地域に指定し保全を図っています。
  昭和六十一年三月  埼玉県
 
           黒浜沼周辺の長閑な田畑風景を望む(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文」「地内掲示板」等 

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