新町八坂神社
新町宿は慶安4年(1651)落合村と笛木村が伝馬役を命ぜられ、宿場を成立させた。温井川は鏑川乱流の跡であり、往古鏑川は温井川の流路を流れていたと思われる。その鏑川(温井川)と烏川の合流点、すなわち落合(おちあう)から落合の地名は来たものと思われる。落合新町は承応元年(1652)、笛木新町は笛木村本屋敷からの移転に手間どり、承応2年(1653)より伝馬役を勤めている。
このように新町宿は江戸寄りの笛木新町と、高崎寄りの落合新町とから成る。笛木新町は天領、落合新町は旗本領であり行政的に統一されたのは明治8年(1875)のことであったとのことだ。
・所在地 群馬県高崎市新町2757-3
・ご祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神
・社格・例祭等 不明
新町笛木諏訪神社の一の鳥居がある旧中山道を200m程徒歩にて南行すると、進行方向左手に新町八坂神社の一際目立つケヤキのご神木と社の赤い鳥居が見えてくる。
周囲一帯宅地化され交通頻繁な群馬県道131号線(旧中山道)の角地に鎮座する社。規模は小さいながらもこじんまりと纏まっていて、何といっても、周囲を威圧する程の存在感もあり、樹勢も益々盛んなご神木が社を包みこんで守っているようにも見える。
旧中山道沿いに鎮座する新町八坂神社
かつての宿場町、新(町)宿の東入口に位置するこの神社の鎮座地は旧中山道沿い、武蔵国から上野国への玄関口に位置していて、疫病の侵入や蔓延を防ぎ、人々の身を護る長寿祈願の神様として建立されたという。
境内の手前には、在りし日の柳の茶屋と八坂神社のイラスト(写真左)
や社の由緒を記す案内板(同右)が設置されている。
拝 殿
新町八坂神社
八坂神社は明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主が新羅国牛頭山に祭られる素戔鳴尊を山城国愛宕郡坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まりとしている。一般に祇園社の創立は貞観十八年(八七六)とされている。 ご祭神は素戔鳴尊を主神とし櫛稲田姫命と八柱御子神を祭る。
著名な祇園祭は清和天皇の貞観十一年(八六九)、疫病が大流行した際、天皇の遊覧の場所である神泉苑に鉾六六本を建て御霊会を行ったのを起源とし、天禄元年(九七〇)から恒例となった。『弘文堂 神道辞典』
祇園社では、疫病を防ぐ事から転じて諸悪から身を護る神とされ、 悪鬼を祓う神としても信仰された。
新町八坂神社は、中山道沿いに武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に至る玄関口に位置し、疫病の侵入と蔓延を除ぎ、諸悪から身を護り、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられている。
柳の茶屋
新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に「傘(からかさ)におしわけみたり柳かな」の芭蕉の句碑が立っている。高さ八十cm横五十cmぐらいの雲母岩に陰刻され、新町の俳人、小渕湛水と笛木白水が建てたと「諸国翁墳記」に記載されているが、寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間といわれている。
宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ばれるようになった。「中山道を行く 荻野 悌著』
案内板より引用
社殿の手前付近に芭蕉句碑が建っている。
柳茶屋の芭蕉句碑
『諸国翁墳記』に「翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建」「傘におしわけ見たる柳かな」とあります。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲と芭蕉の墓がある)で出版されました。
この句碑は寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間に、近くに柳の大木があることから、「柳茶屋」と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水白水が建てたと思われます。
案内板より引用
『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道』における「新町宿」の解説では、「八坂神社のかたわらに芭蕉句碑がある。古くは南側に建てられていた。茶屋の傍らに柳の大木があったことから柳茶屋の句碑と呼ばれている。「傘におしわけ見たる柳かな」の句が刻まれ、建立年代はないが、俳人湛水・白水によって天保十(一八三九)年に建てられたと推定される。新町には一茶をはじめ著名な俳人が通りすぎた。その度に句会が催されたであろう。新町から多くの俳人を輩出し、遊女に至るまで発句を詠み文化水準は高かった。」と載せている。
社の境内に聳え立つケヤキのご神木
境内の一角には、大六区公民館と共に祭り用の山車を保管する倉庫もある。
8月中旬、隔年ごとに開催されている「新町ふるさと祭り(山車まつり)」では、新町内1~10区の各山車・屋台が日中は地元を廻り、夕方から駅前通りに集結しお囃子の競演、叩き合いを行っているという。
明治16年 東京上野駅より新町駅まで鉄道が開通することになり、開催記念の大祭を開催するため各町内が屋台を調えた経緯がある。なお、2区(仲町)の山車と3区(橋場町)の踊り屋台は、明治15年に東京日本橋の原舟月(人形師)により作成されたもので、ともに昭和55年1月から高崎市の重要有形民族文化財に指定されている。
参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「ぐんま地域文化マップHP」
「境内案内板」等
