古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新町川岸町諏訪神社

 埼玉県は都道府県別の人口は東京都、神奈川県、大阪府、愛知県に次ぐ全国第5位であり、日本国の総人口の約5.91%を占める県であるのも関わらず、実は人口がゼロの大字が存在する。
 上里町毘沙吐(びさど)は、神流川と烏川の合流地点の南側に位置する、埼玉県の最北端の人口ゼロの大字である。 群馬県の高崎市と玉村町に接した地域で、弘化3年(1846年)の神流川・烏川の大洪水によって、 村のほとんどが流失してしまい、対岸の新町へ移転して今は誰も住んでいない人口ゼロの大字となっていて、毘沙吐に行く場合は、高崎市を経由しなければならない。
 毘沙吐の地名の由来は、村の神社で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の豊凶を占う「御歩射(おびしゃ)」と、 それを行う場所を示す「処(と)」を合わせた地名といわれている。また、金窪城の北に位置していて、 北の守護神である毘沙門天がここに祀られていたからという説もある。
 かつて江戸時代の毘沙吐村は、幕府の直轄領で、60軒程の家があり、村内に三国道の渡船場や藤ノ木河岸があった。 神流川・烏川を利用して舟で貨物を運んだり交通したりする舟運や漁業が盛んで、毎年鮎1200匹・鮭42本を献上していた。
        
              
・所在地 群馬県高崎市新町282
              ・ご祭神 建御名方神
              
・社 格 旧毘沙吐村鎮守 旧村社
              ・例祭等 不明
 新町八坂神社から自衛隊新町駐屯地を右に眺めながら玉村町方面に北東行する。その後、自衛隊新町駐屯地を過ぎたあたりから群馬県道40号藤岡大胡線となり、周囲も住宅街が建ち並ぶ景観を眺めながら、烏川に架かる岩倉橋に登る手前を右斜めに入って行くと、進行方向左手に新町川岸町諏訪神社の正面鳥居が見えてくる。
 地図を確認すると、「上武大学・高崎キャンパス」のすぐ東側で、すぐ北に烏川の土手が見える場所に社は鎮座している。
        
                新町川岸町諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「毘沙吐村」の解説
 金窪(かなくぼ)村の枝郷(天保郷帳など)。烏(からす)川と神流川の合流点南部に位置し、北は烏川を隔て上野国那波郡川井(かわい)村(現群馬県玉村町)、東は黛村。村内に三国街道の渡船場藤ノ木渡および藤ノ木河岸がある。神流川はかつて西の上野国新町宿(現群馬県新町)との間を流れていたが、寛政三年(一七九一)の洪水によって南の金窪村との境を流れるようになったといわれる(風土記稿)。明治一〇年代の二万分一迅速測図では合流点手前の神流川東岸に毘沙吐村地、西岸に旧毘沙吐村と記され、現在当地は合流点付近の河原となっている。戦国期よりその名がみえるが、正保国絵図・田園簿には村名はみえず、近世前期は金窪村のうちで、元禄一一年(一六九八)に分村したという(風土記稿)。
『新編武蔵風土記稿 金窪村』
古は上武の國界を流れ、本郡毘沙吐村と、上野國緑野郡新町宿の界にて、烏川に入しに、寛政三年の洪水に瀬替り、郡内を流れ、毘沙吐村と當村の界にて烏川に入れり、幅二百間許、

 上里町黛地域に鎮座する黛神社に関して「埼玉の神社」では、当社氏子区域は、近世の黛村を継承している大字黛は、烏川沿いに「川岸(かし)」と、南部の「元郷」に大別されていて、川岸は、かつて「藤の木河岸」があって、船稼ぎが主要な生業となっていたという。河岸の成立は、万治2年(1659)に黛村の百姓が毘沙吐村地内へ河岸場取り立てを願い出て、問屋を命じられたのが始まりという。文化7年(1810)の当社再建時の木札には、「天下泰平国家安隠氏子繁昌」に続いて「船中無難」の文字が見える。

『日本歴史地名大系』 「藤ノ木河岸」の解説
 毘沙吐村にあった利根川上流筋にあたる烏川の河岸場。「風土記稿」の同村の項に「河岸場アリ、藤ノ木河岸ト称フ、江戸マテ水路四十六里余」と記される。河岸の成立は、万治二年(一六五九)黛村の百姓が毘沙吐村地内へ河岸場取立てを願出て、問屋四軒を命じられたのが始まりといわれる。延宝七年(一六七九)頃に洪水で毘沙吐村から黛村へ河岸場を移転するが、両村は以前同様に船稼をするよう申渡されている(藤ノ木河岸問屋文書)。宝暦八年(一七五八)上州山中領(現群馬県の神流川上流域)の材木を烏川支流の神流川で流し、藤ノ木河岸から筏に組んで江戸まで輸送した(群馬県茂木家文書)。初期には年貢米や領主物資の輸送が中心であったが、農村における商品流通の発展に伴って繁栄し、安永三年(一七七四)の河岸問屋株設定時には四軒が公認され、同四年には上利根十四河岸組合の結成に参加(当時の船問屋は四軒)、無株の問屋や船頭が勝手に輸送に携わらないように申合せた(「上利根十四河岸組合船問屋規定証文」群馬県須賀家文書)。
        
           境内に入ったすぐ右手に設置されている案内板
        
                   高崎市指定文化財 東音頭(あずまおんど)の案内板
 高崎市指定文化財  東音頭(あずまおんど)
 東音頭は古くから伝承されてきた郷土芸能で横樽音頭(よこたるおんど)ともいわれている。
 発祥は神流川合戦の戦死者の御霊を慰めた盆踊り唄といわれ、お囃子の鉦に享保元年(1716)とあった事からそれ以前より唄い継がれてきたと思われる。
 祭文(祭祀の際、奉ずる中国風祝詞)から出たのを、明治初め現代風に唄い改めたともいわれている。
 毘沙吐村(現第7区)が安政4年(1857)まで神流川の東にあった事から東音頭と称された。
 大正10年新しく振り付けた踊りと共に藤岡町(現藤岡市)で披露された。代表的な唄は神流川合戦天正盛衰記で、昭和10年、NHK
前橋放送局より全国に放送され、その後レコード吹き込みも行われた。
 
     「笠付庚申塔・道標」の案内板        「諏訪神社の海老虹梁」の案内板
        
     
参道左側の奥の目立たない場所に道祖神や庚申塔などの石碑が建っている。

 川岸町の名は明治12年(1879)群馬県に所属することになってからのもので、以前は武州賀美郡毘沙吐村と称し、その位置は現在地より東で、現在の河原のあたりで当時は神流川の右岸にあった。弘化3年(184610月に毘沙吐村村民五名が連名で笛木新町地内の、以前神流川の川敷へ移転願を申し出ている。そのあらましは、
「当村は昔より烏川と神流川両川の落合う所で、前々は石高一五石あった。年々本流が畑をけずり取り、石高が九九石あまり川欠になり、残高が五〇石九斗九升になってしまった。民家は六〇軒あり難渋していた。然る処六月中旬より七月上旬迄大雨が打続き'近年稀の満水にて、両河川共本流が村中に流れ込み、神流川通で家数二五軒、烏川通にて家数二軒、都合二七軒流出した。残った家もすべての家が、家の中の諸道具を隣村々へ流されてしまったので村中で引っ越すことにきまったが、その日から住む場所もなく困っている。そこで上州緑野郡笛木新町宿地内で以前は神流川河川敷であった所に広い土地がある。この地に村中で住みたい……後略」
とある。やがてこれが認められ、安政5年(1858)までに神社・寺・墓地まで移転が完了した。その後、毘沙吐村の所管はしばしば変り、慶応4年(18686月大宮県に、同年10月に岩鼻県に編入、明治4年(1871)入間県、明治6年(1873)熊谷県、明治9年埼玉県、そして明治12年(187911月群馬県新町駅に移籍、この時から川岸町と改称したという。
             
                           参道を進んだ左側に建つ「沿革之碑」
この「沿革之碑」は、昭和10年(1935年)の建立で、延長3年(925年)に毘沙吐(びさど)村に創建されたと伝わることから、弘化3年(1846)に村を襲った大洪水のために境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築した等、細やかな沿革を刻印されているようだが、所々見ずらい為、このような簡潔な説明にかえさせて頂いた。
        
                 境内に聳え立つご神木
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 毘沙吐村』
 烏川 村の北國界にあり、川幅五六十間、此川に渡船場あり、三國海道の掛れる所なり、又河岸場あり、藤の木河岸と稱す、江戸までの水路四十六里餘、
 諏訪社 〇稻荷社 以上二社、村の鎭守にて、龍光寺持、 末社 大杉明神 水神
 龍光寺 禅曹洞派、金窪村雲陽寺末、藤木山と號す、開山文應は本寺四世の僧にて、享保八年示寂す、本尊釋迦を安ぜり、〇藥師堂 前寺の持、


 江戸期に(黛)村鎮守であった諏訪社は、かつて当地の名主を務めた小暮家の先祖が信濃国上諏訪から移り住む際に、諏訪神社を守護神として勧請したのが始まりと伝わる。本殿に納められた幣帛筥には正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から正一位を拝受したことが記されている。寛政元年(一七八九)には烏川決壊のため旧社地及び社殿が流され、文化七年(一八一〇)に字東耕地に遷座したという。
                         「埼玉の神社 上里町 黛神社」の項より引用
        
                    本 殿
   社の本殿は宝暦年間に造営されたもので「海老虹梁」部の彫刻は素晴らしいとのことだ。
 諏訪神社の海老虹梁
 この神社は延長三年(九二五)毘沙吐(びさど)村(埼玉県上里町)に造られたと伝えられます。弘化三年(一八四六)に村を襲った大洪水のために境内及び全村悉く押し流され、村は壊滅状態となり新町の下河原に移り、当社も現在地に移築されたと言われます。社殿は宝暦年間(一七五一〜六四)に造営され、中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社が置かれています。建築は精巧を極め、特に海老虹梁(エビの様に湾曲した梁)の「ぶどう」と「りす」の彫刻は、桃山様式を窺わせます。
                                   「境内案内板」より引用
 
            社殿奥に祀られている末社石祠群(写真左・右)
        
            石祠群のすぐ右側にある
笠付庚申塔・道標
 笠付庚申塔・道標
 人体には三種の虫(三尸 さんし)がいて、六十日ごとに来る庚申(かのえさる)の夜寝入った人体を抜け出し天帝に日頃の罪業を報告すると言われます。三尸が登れない様に寝ずに酒盛り飲食をして夜を明かし、治病・長寿を得る庚申待(こうしんまち)という行事がありました。この庚申待を記念として建てたのが庚申塔です。
 庚申塔の正面には「正徳二年 本ふじの木 奉建立庚申供養 施主村中 辰十月十日」、そして右側面に「従是(これより)右本庄宿」、左側面に「これより 加し加い道」と刻まれています。このことから、道標として街道の辻に建てられたことがわかります。「従是本庄宿」と刻まれていることから、安政七年(一八五七)まで神流川の東にあった毘沙吐村が、度重なる洪水で新町に村移りする以前に造立され、村移転の際に当所に移建されたことを示しています。
                                   「境内案内板」より引用
        
        社殿右側に祀られている古峯社、その隣には山岸町 山車庫
        
                   境内の一風景


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」
     「
埼玉の神社」「ぐんま地域文化マップHP」「境内案内板」等

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於菊稲荷神社

 新町小学校西には稲荷神社が鎮座する。この社は通称お菊稲荷と呼ばれている。お菊の伝説は角渕のお菊.南部藩のお菊、大黒屋のお菊など諸説あるが、霊験あらたかにして参詣者が絶えなかった。特に文化.・文政頃から嘉永初めまで隆盛を極めた。参詣者は上野国内にとどまらず吉原の遊女・歌舞伎役者・両国力士など江戸の人々も多かった。特に遊女の参詣が多かった。遊女達によって数百の絵馬が随神門に奉納されたが、昭和三十六年老朽のため随神門は取り壊され、その内の二十数点が本殿内に納められている。そこには文久二年猿若町三丁目三茶屋.当所近江屋以久•当所松本屋重のなどの文字が見られる。幅一間の大型のものが多く、金井研香や、石川梅英など当時の名のある画家の作である。
 於菊稲荷の繁栄を物語るものに水屋と神楽殿がある。水屋の彫刻は極めてすばらしい。水鉢には大窪詩仏の筆蹟で「冰香」のゆったりとした文字が記されている。文政九(一八二六)年宿の有志によって奉納されたものである。神楽殿は妻入りで唐破風型である。太々神楽の額の文字は永平寺管長の直筆である。今なお住民の信仰が厚く、普段の日も参詣者があり、子供や自動車のお払いなどしてもらう人も多い。
                       『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道』より引用
        
             
・所在地 群馬県高崎市新町247
             
・ご祭神 宇迦之御魂 大己貴命 大田命 大宮姫命 保食命
             ・社 格 不明
             
・例祭等 福だるま市 18日 例大祭(春祭り)4月上旬 他
 新町八坂神社から旧中山道を600m程北西方向に進んだ先の十字路を右折し、住宅街の中新町カトリック教会の北側隣に於菊稲荷神社の入口の赤い鳥居が見えてくる。地図を確認しると、「新町第一小学校」の西側に位置している。社の境内西側にある高崎市指定文化財である「橋場町の屋台」が見える向かい側に駐車スペースあり
        
                  於菊稲荷神社正面
 
入口付近に設置された社の境内案内及び経路図     南北に長い参道には多くの
                          赤い鳥居が奉納されている。
        正面入り口のすぐ脇に祀られている雷電神社(写真左・右)
雷電神社
御祭神 火雷大神・大雷大神・別雷大神
諸願成就・火水疫難除け・子供の健全育成・知恵勇気育成の神様
【雷電神社由来記】
 当社は、元禄の昔より此の地に鎮座ましまし、諸願成就、火水病○難除け神として、又、非常に気性激しく強き神なれば開運を○り、子供の健全育成 知恵と勇気を授ける、いとも霊験あらたかなる大神です。
 氏子崇敬の信仰厚く、毎年祭典が盛大に執行され、子供の楽しい催し、色々ありましたが、大戦事中に神社は荒廃し祭典も途絶しておりました。
 昭和五十一年度、三区神社総代、祭典役員等発起人となり、区長区民に回り協力を得て、又、地区の篤志家の御奉納もあり、茲に神社の再建を致しました。

 皆様の守護神として御信仰してください。
        
               手入れも行き届いた雰囲気の良い社
        
                             赤い鳥居の先に鎮座する拝殿 
 於菊稲荷神社の創建年代は不明ながら、天正10年(1582)の神流川の戦いで、北条氏政公が守護神の稲荷大明神に戦勝祈願をしたところ、白いキツネが現れて、戦いに勝利したことから、そのころ小祠だったこの神社を立派な社殿に再建したという。
 その後、江戸時代中期の宝暦年間(17511764)、新町宿に「於菊」という美しい娘がいた。ところが重病に罹り療養生活を送っていた。於菊が当社に病気平癒を祈ったところ、病気が治り元気になった。その際に「人のために尽くせ」という霊夢を見、後の半生を当社の巫女として生きることになった。於菊は予知能力を授かり、様々な物事を言い当てるようになった。そのことが評判を呼び、いつしか「於菊稲荷神社」と称されることになったという。
 
       高崎市指定文化財「
於菊稲荷神社水屋 附手水鉢石(写真左・右)
          (高崎市指定重要文化財
昭和55110日指定)
 宝暦年間(175164)落合新宿大黒屋の娼婦於菊のうえに奇跡的な霊験が顕れて以来、於菊稲荷の通称で遠近から多くの信者を集め、新町の名所としておおいに賑わいました。
この水屋は、文政61823)年、新町の人々の浄財により創建されたもので、手水鉢石の「冰香」の筆跡は寛政の大詩人・大窪詩仏の書によるもので、デザイン的にも優れています。
                                      
高崎市HPより引用
         
             高崎市指定文化財 
於菊稲荷神社 絵馬
 於菊稲荷神社絵馬二面(高崎市指定重要文化財 昭和55110日指定)
 武者絵・村上義光奮戦記(板面著色・額装)
・作者:石川梅英
・制作年代:文政31820)年
・奉納者:不明
 若々しい中央の若者が、右手で一人の鎧武者を高々と差上げ、足下にはもう一人の武者を踏み敷くという勇ましい絵柄で、若武者のりりしい表情と足下の武者の絶望的な顔とが対照的に面白い。
 遊女参詣(板面著色・額装)
・作者:狩野美信
・制作年代:明治81875)年
・奉納者:丸富楼の遊女
 遊女6人と妓楼の者4名を描き、羽織の紋に源氏名がある貴重なもので、当時の風俗を知る格好の資料です。作者の狩野美信は幕末から明治にかけて活躍した新町宿の絵師で、本姓は石川であるといいます。
 いずれも大型で遊女が奉納したもので、新町宿在住の絵師によって描かれています。
                                      高崎市HPより引用
        
              社殿の左側に祀られている白狐社
        
                    神楽殿
   太々神楽の額は埼玉県にある大乗寺の愚禅和尚の筆で、江戸時代の神仏習合を今に残す。
    昔より神楽が奉納されてきたが、近年では例大祭時に巫女舞が奉納されるという。
        
              社殿の右側にある白狐塚と太子堂
 
 社のすぐ西側にある橋場町(三区)の屋台    屋台の脇には案内板も設置されている。

 高崎市指定文化財 橋場町(三区)の屋台
 新町に鉄道が開通することになり、祝賀のために明治十五年、製作費五五〇余円(平成十五年現在で二.二〇〇万円相当)かけて、東京日本橋ね人形師 原舟月に注文し、製作したものである。
 仲町(二区)の山車とともに、同時期同じ作者に注文して建造したものであるが、まったく異なる様式であるところに両町の心意気がうかがわれる。
 屋台の屋根や妻に意匠をこらしてあり、とくに正面を飾る上り下り龍の柱の彫刻は造形美を極める。江戸後期に流行した神社建築の彫刻装飾の系譜をひくものである。
                                       案内板より引用




参考資料「公式HP」「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「高崎市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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新町八坂神社

 中山道の宿駅が整えられ始めたのは慶長7年(1602)からであるが、当初神流川と烏川の間は洪水に遭いやすい地形のため、現在の国道17号線のように素直に北西方向に進むのではなく、一旦北行し、本庄より北側に流れる烏川を渡り、玉村を経由して西に進み、倉賀野に向かったという。
 新町宿は慶安4年(1651)落合村と笛木村が伝馬役を命ぜられ、宿場を成立させた。温井川は鏑川乱流の跡であり、往古鏑川は温井川の流路を流れていたと思われる。その鏑川(温井川)と烏川の合流点、すなわち落合(おちあう)から落合の地名は来たものと思われる。落合新町は承応元年(1652)、笛木新町は笛木村本屋敷からの移転に手間どり、承応2年(1653)より伝馬役を勤めている。
 このように新町宿は江戸寄りの笛木新町と、高崎寄りの落合新町とから成る。笛木新町は天領、落合新町は旗本領であり行政的に統一されたのは明治8年(1875)のことであったとのことだ。
        
             
・所在地 群馬県高崎市新町27573
             
・ご祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神
             ・社格・例祭等 不明
 新町笛木諏訪神社の一の鳥居がある旧中山道を200m程徒歩にて南行すると、進行方向左手に新町八坂神社の一際目立つケヤキのご神木と社の赤い鳥居が見えてくる。
 周囲一帯宅地化され交通頻繁な群馬県道131号線(旧中山道)の角地に鎮座する社。規模は小さいながらもこじんまりと纏まっていて、何といっても、周囲を威圧する程の存在感もあり、樹勢も益々盛んなご神木が社を包みこんで守っているようにも見える。
        
             旧中山道沿いに鎮座する新町八坂神社
 かつての宿場町、新(町)宿の東入口に位置するこの神社の鎮座地は旧中山道沿い、武蔵国から上野国への玄関口に位置していて、疫病の侵入や蔓延を防ぎ、人々の身を護る長寿祈願の神様として建立されたという。
 
       境内の手前には、在りし日の柳の茶屋と八坂神社のイラスト(写真左)
          や社の由緒を記す案内板(同右)が設置されている。
       
                    拝 殿
 新町八坂神社
 八坂神社は明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主が新羅国牛頭山に祭られる素戔鳴尊を山城国愛宕郡坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まりとしている。一般に祇園社の創立は貞観十八年(八七六)とされている。 ご祭神は素戔鳴尊を主神とし櫛稲田姫命と八柱御子神を祭る。
 著名な祇園祭は清和天皇の貞観十一年(八六九)、疫病が大流行した際、天皇の遊覧の場所である神泉苑に鉾六六本を建て御霊会を行ったのを起源とし、天禄元年(九七〇)から恒例となった。『弘文堂 神道辞典』
 祇園社では、疫病を防ぐ事から転じて諸悪から身を護る神とされ、 悪鬼を祓う神としても信仰された。
 新町八坂神社は、中山道沿いに武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に至る玄関口に位置し、疫病の侵入と蔓延を除ぎ、諸悪から身を護り、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられている。
 柳の茶屋
 新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に「傘(からかさ)におしわけみたり柳かな」の芭蕉の句碑が立っている。高さ八十cm横五十cmぐらいの雲母岩に陰刻され、新町の俳人、小渕湛水と笛木白水が建てたと「諸国翁墳記」に記載されているが、寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間といわれている。
 宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ばれるようになった。「中山道を行く 荻野 悌著』
                                       案内板より引用

        
            社殿の手前付近に芭蕉句碑が建っている。
 柳茶屋の芭蕉句碑
『諸国翁墳記』に「翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建」「傘におしわけ見たる柳かな」とあります。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲と芭蕉の墓がある)で出版されました。
 この句碑は寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間に、近くに柳の大木があることから、「柳茶屋」と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水白水が建てたと思われます。
                                       案内板より引用

『群馬県歴史の道調査報告書11:中山道』における「新町宿」の解説では、「八坂神社のかたわらに芭蕉句碑がある。古くは南側に建てられていた。茶屋の傍らに柳の大木があったことから柳茶屋の句碑と呼ばれている。「傘におしわけ見たる柳かな」の句が刻まれ、建立年代はないが、俳人湛水・白水によって天保十(一八三九)年に建てられたと推定される。新町には一茶をはじめ著名な俳人が通りすぎた。その度に句会が催されたであろう。新町から多くの俳人を輩出し、遊女に至るまで発句を詠み文化水準は高かった。」と載せている。
        
             社の境内に聳え立つケヤキのご神木
     境内の一角には、大六区公民館と共に祭り用の山車を保管する倉庫もある。

 8月中旬、隔年ごとに開催されている「新町ふるさと祭り(山車まつり)」では、新町内110区の各山車・屋台が日中は地元を廻り、夕方から駅前通りに集結しお囃子の競演、叩き合いを行っているという。  
 明治16 東京上野駅より新町駅まで鉄道が開通することになり、開催記念の大祭を開催するため各町内が屋台を調えた経緯がある。なお、2区(仲町)の山車と3区(橋場町)の踊り屋台は、明治15年に東京日本橋の原舟月(人形師)により作成されたもので、ともに昭和551月から高崎市の重要有形民族文化財に指定されている。



参考資料「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「ぐんま地域文化マップHP」
    「境内案内板」等

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新町笛木諏訪神社

 群馬県新町(しんまち)は群馬県中南部にあった町で、利根川の支流烏川と神流(かんな)川にはさまれた低地を占め,埼玉県に接している。現在は高崎市の一部になっている。面積3.74km2は東日本最小(高崎市への編入前の時点)で、北関東では最大の人口密度を誇った(1平方キロメートルあたり3,359人)。
 古くは、当町北部を「落合」、南部を「笛木」と呼んでいて、慶安4年(1651)に落合村(旗本領)と笛木村(天領)が合体して宿が形成される。その後、元禄年間(16881704)頃までは新宿(しんしゆく)といわれ、中山道の宿場町として栄えていた。
 2006年(平成18年)123日に群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村と共に高崎市に編入された。当初は隣接する藤岡市と合併交渉を行っていたが交渉が決裂。のちに隣接していない高崎市との合併が決まり、現在は高崎市の飛び地となっている。
        
             
・所在地 群馬県高崎市新町557
             
・ご祭神 建御名方神 八坂刀売神
             
・社 格 旧緑埜郡笛木村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 初午祭 2月 春季大祭 43日 
                  秋季例祭 
1017日 新嘗祭 1123日 他
 埼玉県上里町から国道17号線を北西方向に進み、県境に流れる神流川を越えると群馬県となり、その玄関口にあたる所が高崎市新町地域である。その新町に入り、国道を新町駅方向に進む手前にある「笛木」交差点を右折し、群馬県道40号藤岡大胡線に合流後北東に進む。その後300m程先で進行方向右手に「新町郵便局」が見え、その先に「浄泉寺」「専福寺」、更にその南側に新町笛木諏訪神社が寺社区画のように整然と並ぶように建てられている。
        
                新町笛木諏訪神社 一の鳥居正面
          一の鳥居、社号標柱がある場所は社の境内から一本南側で国道17号線から
              分岐して走る旧中山道沿いに建っている。
『日本歴史地名大系』「新町宿」の解説
 中山道の上州七宿の一つ。江戸より二四里、東の本庄宿(現埼玉県本庄市)より二里、西の倉賀野宿(現高崎市)へ一里半に位置する。西部を温井川が北流して烏川に合して東流し、東部を北流する神流川を東北部で合する。慶安四年(一六五一)落合村(落合新町)と笛木村(笛木新町)が伝馬役を命ぜられて宿場を成立させ、両町を併せた新宿は新町・新宿などとよばれていたが、元文年間(一七三六―四一)に新町宿とされたという。烏川を渡り倉賀野宿と結ぶ渡船場があった。
「寛文郷帳」には幕府領・旗本稲垣領の二給の笛木村、幕府領・旗本加藤領の二給の落合新町が記され、「元禄郷帳」では落合新町は同様であるが笛木村はみえず、幕府領の笛木新田となっている。その後も両町は行政上では半ば独立していたらしく、「天保郷帳」などにも両町を別に記す。
 また神流川の流路が変わるため、その度に橋や渡船場の位置が変更し、白昼でも道筋がわかりにくいということで宿端に常夜灯が置かれていた(文化五年「常夜灯再建願」田口文書)。
        
                  立ち並ぶ民家の間に通る参道
 現在もそうだが、江戸時代当時も神流川は武州と上州の国境をなしていた。普段の神流川の流量は少ないが、しばしば氾濫し大きな被害を出していた。現在両岸の堤防の間隔は約700㍍であるが、明治の頃の堤防の間隔は約1㎞あった。国境は新町側堤防より、わずか150㍍程の所にある。かつてはここに本流があったのであろう。
 現在の神流川橋が架けられたのは昭和九年の天皇陛下行幸の年である。それ以前の道は上流50㍍程の所にあり、盛土もなく河原を整地して作ったもので、現在も一部使用されている。その当時の橋は板橋で増水時は流されないように取りはずしておいたという。
 江戸時代この河原は、散流で水の流れもいくつにか分かれ、道も整備されず迷いやすかった。そこで旅の安全のため見通し燈籠が造られていた。この常夜燈もしばしば洪水により流された。そこで洪水に強い石造の燈籠が文化12年(1815)両岸に建てられた経緯があった。
        
                 二の鳥居及び境内入口
 因みにこの新町地域内の神流川原は天正10年(1582)関東管領として厩橋城にあった滝川一益が、本能寺の変に接して上京しようとし、これを阻止しようとした北条氏直の大軍と戦った神流川合戦の戦場であった。胴塚稲荷や首塚の石祠が今日もまつられている。昭和40年神流川古戦場跡の大きな碑が堤防脇に建てられ、その隣には馬頭尊がまつられている.
        
          境内に設置されている社の高崎市指定文化財の案内板
 新町笛木諏訪神社には多くの文化財が指定を受けている。
 ・諏訪神社の石鳥居 -元禄15年・享保16-明神鳥居-高崎市指定重要文化財
 ・諏訪神社の獅子舞- 安政3 高崎市指定重要無形民俗文化財
 ・小林譲洲先生壽蔵之碑- 高崎市指定重要文化財
 ・諏訪神社の御輿 享和元年-35寸・破風・総漆・金箔押し-市指定重要有形民俗文化財
 
境内入口の左側に手水舎、その奥にある境内社   拝殿手前にある「諏訪神社之由来」碑
        
           境内入口から左側に折れ曲がるような配置の参道
 新町笛木諏訪神社の創建は天正年間(15731593)に諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。当初は笛木村の鎮守として本屋敷(現在の新町駅周辺)に鎮座していたが宝永5年(1708)に火災にあった祭、御神木から光が発し一点を示したので霊地と悟り現在地に遷座している。享保4年(1747)と明治39年(1906)に火災により社殿が焼失しその都度再建されている。
        
          参道が左側に曲がる地点に聳え立っているご神木
        
                    拝 殿
諏訪神社之由来
一、御祭神 建御名方神 八坂刀売神
一、諏訪大明神が緑埜郡笛木村の鎮守として今の元宮の地を卜して始めて奉祀されたのは天正の頃か
一、慶安四年(一六五一)室賀下総守により検地あり 中山道筋に街並みの区画が行われ宿場町「新宿」が新たに造成された
一、承応三年諏訪大明神は村社に加列し 元禄十五年(一七○二)に石鳥居成る。この頃には笛木新町が街道筋に繫栄してきた
一、宝永五年(一七○八)御神木が焼けた
この時光物が飛び来たり落ちた処を神威と定め大明神を御遷座した これが現在の社地である由
一、享保九年二月(一七二四)社殿の中へ宮殿を奉納し 京都へ赴き吉田家に願い正一位の神位を授与され 御位をお宮へ納める
一、享保の頃二畝歩の土地を買いとり鎮守の大門を作るという 同十七年に石鳥居成る
一、延享四年正月(一七四七)新町宿の大火に遭い社殿 稲荷社 津島社等烏有に帰した。十年後 宝暦七年にこけら葺の荘厳なる社殿再建成り 同年六月二十四日御遷座する 同十一年九月には銅葺の稲荷社成り全く同状態に復した
一、明治三十九年(一九○六)失火により社殿を全焼したが、同四十三年に先ず拝殿を再興し 昭和十年(一九三四)に至り御本殿が完成され 以来神徳はいよいよ明らかに氏子の尊崇は日をおつて篤く現在に及ぶ。(以下略)
                               「諏訪神社之由来」碑文より引用

        
                    本 殿
 本殿は一間社流造りで、壁面には木彫りで左側面には児島高徳公、背面には楠木正成公、右側側面には新田義貞公等の多くのシーンが彫刻(彫師士 深谷市岡部在住 佐藤正貫氏)で飾られ、玉垣で囲まれている
        
  拝殿手前で左側にある高崎市指定文化財    拝殿の左側にも高崎市指定文化財である 
       「諏訪神社の獅子舞」の標柱       「小林穣洲先生壽蔵之碑」の標柱あり。
 高崎市指定文化財
 ①諏訪神社の獅子舞
 安政3年(1856)に創られ、氏子によって伝承されてきた稲荷流・阿久津派の獅子舞。かつては諏訪神社の祭礼に神業芸能として天下泰平・五穀豊穣を祈りながら天狗の先導により雄二頭、雌一頭とカンカチが加わり、横笛の音に合わせ町内を舞い歩いた。最近では春、秋の祭典、正月(元旦祭)に獅子舞を奉納している。
 ③小林穣洲先生壽蔵之碑
 文政9年(1826
)新町生まれの書家で、隷書、草書に名品を残す。小学校の前身となる「墾信社(こんしんしゃ)」を浄泉寺に開設し、多くの子弟の教育に情熱を注ぐ。門弟、知己がその高徳をたたえ、この碑を建てる。
        
                本田の裏奥にある神興庫
 高崎市指定文化財
 ④諏訪神社の御輿
 享和元年(1801)ころの製作。台輪寸法は35寸(約106㎝)、屋根は唐破風型、総漆塗りおよび金箔押しで、造りは古風御輿。唐戸四面、内堂天井には極彩色鳳凰図が描かれている。この御輿は、明治中ころまで獅子舞が先導して、四神旗・太鼓等を連ね、およそ100
名の行列で氏子町内を渡御した。
        
         社殿から向かって右側に祀られている「正一位稲荷大明神」          
    社殿の手前で右側にある神楽殿         神楽殿の左側脇にあった年中行事等
  神楽殿の右奥に5 山車庫が見える。      記された古い木製の案内板あり。
        
    神楽殿の脇の道を進むと、左手に土に柱が覆われた鳥居が一基保存されている。
 高崎市指定文化財
 ②諏訪神社の石鳥居
 諏訪神社は新町の前身、笛木村の鎮守として本屋敷(駅周辺)に祀られていたが、宝永5年(1708)現在地に移された。一基は元禄15年(1702)の銘のある新町で最も古い鳥居で、もう一基は24
年後に氏子により建造された。ともに明神鳥居の特色である笠木の曲線が美しく、現在は境内に保存されている。
                     以上高崎市指定文化財①から④まで境内案内板より引用
        
      文化財の鳥居の奥に境内社・合祀社が祀られているが、詳しい所は不明
        
 諏訪神社の東にある元修験堂の境内に、『竹本百合太夫の辞世の碑』がある。百合太夫は義太夫の大家で、文化年間に江戸から新町宿へ来て、稲荷横丁の金子屋横山定右衛門の養子となり、天保3年(183251歳で歿している。この碑は江戸の知人や門弟が建てたものである。
 辞世の句 〝物いひし土人形も名残かな〟
 案内板によれば、この碑は昭和633月に新町指定文化財と指定をうけているようだが、高崎市の文化財一覧には載せていないようだ。
        
               しっとりとして落ち着いた境内
 新町地域の中心に位置し、住宅街にありながらも、西に専福寺、浄泉寺と並ぶ、神社仏閣の一帯にあり、緑豊かな境内。とてもひっそりとした佇まいで趣があり、ゆっくり参拝できた。
          



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「日本歴史地名大系」「高崎市HP
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板・由来等碑文」等
 

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西城天満神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市西城181
             
・ご祭神 菅原道真公・面足命・訶志古泥命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 422日 例祭 725日 秋祭り 123
 南新宿久伊豆神社の西側にある埼玉県道3号さいたま栗橋線との交点「西新宿2丁目」を左折し、同県道に合流、1㎞程南下すると、「城」交差点の西側角に西城天満神社が見えてくる。
        
                  西城天満神社正面
『日本歴史地名大系』「城村」の解説
白岡台地の中央部西端にある。元荒川の左岸に位置し、北は新宿(しんしゆく)村、西は同川を隔てて下閏戸村。村内に元荒川の枝流があり古川と称されるが、村内で再び元荒川に合している。小名の丸城(まるじよう)は一名を城といい、古くは城のあった所と伝える。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば同藩領で、田高七石余・畑高六〇石余。延宝八年(一六八〇)の家数一五(うち本百姓一〇)、人数一一五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
『新編武蔵風土記稿 城村』
 小名 丸城 一に城と云、四方沼田なり、古へは城ありし處なるべし、されど何人の居し事を傳へず、此邊に廣さ八反程の所水殊に深き沼あり、向山屋鋪 城に對しての名なるべし、
 久伊豆社 城觀寺の持、當村及新宿村の鎭守なり、末社 稻荷 〇第六天社 同持


「埼玉の神社」の解説によれば、かつては、周囲が23m程もあった大杉が56本も茂り、鬱蒼とした社の境内であったというが、時の流れにつれて周囲の環境も変化し、とりわけ、昭和42年の埼玉県道さいたま栗橋線の開通による変化は大きく、県道敷設の為当社の参道は半分以下となり、社殿の南側にあった沼も埋め立てられた。更に、区画整理によって昭和50年頃には杉の大木も伐採され、本来あった社の景観も失われたという。
        
           境内に設置されている社の由来等を刻印した碑
 天満神社
 歴史
 口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという
『風土記稿』城村の項では、明治六年に天満社が村社になっており本来は現在地から百米ほど北西に祀られており現在地に第六天社があった
 大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより村社天満神社とし崇拝された。
 昭和二十一年二月宗教法人となり、天満神社と改称される。
 信仰
 天満社の祭神であった、菅原道真公と第六天社の祭神であった面足命・訶志古泥命の三柱が当社の祭神であるが、既に天満天神の信仰が定着しており、入試祈願の絵馬が数多く掛けられる。
 四月二十二日の春祭りは、氏子から「神社の祭礼」と呼ばれている
 なお、昔農作業の関係で別の日に祭りをしたことがあったが、その年には、雹が降って作物に大被害があったため、以来この日以外に春祭りを行った事はない(以下略)
        
                    拝 殿
 天満神社(だいろくてんさま)  蓮田市西城一-八一(城字柳原)
 城は、源平時代に戦に敗れた七人の落武者が住み着いて開発したと伝えられる古い歴史を持つ村で、小島・斎藤・内田・岩崎・山田・野口・宮澤の七家が、その七人の落武者の子孫であるといわれている。地内には市指定史跡にもなっている室町時代の平山城跡があり、「城」の地名は、この城にちなんだものではないかと推測される。
 元来、この城の地内には、久伊豆社・大六天社・天満社の三社があった。そのうち久伊豆社が城村及び新宿村の両村の鎮守であったが、城で祀っていくことが困難になったため、いつのころか新宿村に譲渡されたと伝えられる。『風土記稿』城村の項では、久伊豆社と第六天社の二社だけ載り、天満社の名が見えないにもかかわらず、明治六年に天満社が村社になっていることを考えるなら、久伊豆社が新宿村に譲渡されたのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことであり、その代わりに、新たな村の鎮守として天満社が勧請されたものと想像できる。口碑によれば、天満社は京都の北野天満宮から勧請したという。
 村社であった天満社は、本来は現在地から一〇〇㍍ほど北西に祀られていて、現社地には元々は『風土記稿』に載る第六天社があった。ところが、大正二年に無格社であった第六天社へ天満社を合祀したことにより、大六天社は天満神社と改称され、村社となった。天満社よりも第六天社の方が境内が広かったことも考慮した合祀であった。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 面足(オモダル)命・訶志古泥(カシコネ)命は、日本神話に登場する兄妹神であり、『古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記する。天津神であり、神武天皇は直系8親等で7代目の子孫にあたる。
『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。
 また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる。中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界の六欲天の最高位である「第六天魔王」の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称したという。
 
  社殿左側に祀られている天神社・庚申塔など    社殿右側にも庚申塔が祀られている。
        
              本殿奥に聳え立つイチョウの大木
              蓮田市の保護樹林に平成2年6月指定


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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