古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

黒浜稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜38341
             
・ご祭神 宇迦之御魂
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 初午 2月初午 春祭り 48日 秋祭り 1128
 蓮田市黒浜は南北に長い地域であり、黒浜稲荷神社が鎮座する字八貫野は地域最北端にあり、南新宿地域と接していて、実は南新宿久伊豆神社からも非常に近い場所に社はある。なんでも新宿は現在の行政区では大字西新宿と大字南新宿に分かれ、南新宿の一部は大字黒浜になっているようだ。「埼玉の神社」によれば、南新宿は、上宿・下宿・染谷・請野の四耕地からなり、当社の氏子区域は、この南新宿の全域で、ほかに鎮座地である大字黒浜の字八貫野の古くからの住民も当社の氏子に入っているという。なにより、社の境内で南側に隣接している建物の名が「南新宿自治会館」であることも、それを示していよう
        
                  
黒浜稲荷神社正面
 南新宿久伊豆神社の北側を東西に通る埼玉県道145号白岡停車場南新宿線を東行し、「南新宿」交差点を右折、その後道なりに南下すると、進行方向右手に黒浜稲荷神社の鳥居が見えてくる。ありがたいことに、道路沿いに駐車専用スペースも確保されている。
        
                   境内の様子
               左側に見える建物は南新宿自治会館
        
                    拝 殿 
 稲荷神社  蓮田市黒浜三八三四-一(黒浜字八貫野)
 南新宿は、白岡町の篠津の宿の南に開かれた宿であり、その地内には「殿様の通り道」が通っていたという。集落は、その道沿いに開け地内には今も「アブラヤ」「クシヤ」「フクダヤ」「ロクダナ」など、商売をしていた当時の屋号を残す家がある。当社は、この集落の西方にあり、集落の南西の外れには久伊豆神社が鎮座している。
 当社の勧請の年代は不明であるが、古くから南新宿の人々によって祀られてきた。『風土記稿』新宿村の項には、当社についての記述はない。境内地が黒浜の地内にあることから推測すると、黒浜村の項に「稲荷社 村民持」とある神社が当社のことと思われる。一方、久伊豆社については、城村の項に「当村及び新宿村の鎮守なり」と載っており、明治初年にはこの社を城村から譲り受け、南新宿村の村社とし、当社を無格社とした。しかし、実際は江戸時代以来今日に至るまで、当社が鎮守として意識されており、このことは、元旦には久伊豆神社の二倍ほどの参詣者が当社を訪れることにも表れている。
 とはいえ、太平洋戦争後の混乱期には当社の境内も荒廃し、正に無残な状況で、この折に絵馬や額などが薪として何者かに燃やされてしまった。しかし、戦後の復興に伴い、そうした状況から立ち直り、境内の整備も進められた。境内にある南新宿自治会館は、その一環として社有の山林を開いて建設されたものである。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                社殿の左側にある御神木
 かつて当社の境内には、樹齢約400年以上で、目通り5.8m、鷹さ40m以上という杉の巨木があり、氏子から御神木として大切にされてきた。地上2.8mのところから幹が二股に分かれたこの御神木の姿は、10㎞離れても分かるほどで、氏子の自慢の一つでもあったという。この古木は、昭和43年頃に至り老齢の為枯死寸前となったために伐採されたが、これを惜しむ氏子らによってその跡に記念碑が建てられている。
        
                  境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
 

拍手[1回]


黒浜諏訪神社

 蓮田市黒浜地域の南東部にある黒浜沼は、北部にある上沼(うえぬま)および南部の下沼(したぬま)の二つから成っていて、付近を流れる元荒川(かつての荒川)の洪水によって形成された自然堤防によって谷地が堰き止められて出来た沼と考えられている。寛永期に沼を横断する堤が築かれ、そこを往還としたことによって沼は上沼と下沼に分かれた。明治期の記録である武蔵国郡村誌には「上沼」は東西230間(約273m)・南北3町(約327m)・周囲1129間(約1253m)、「下沼」は東西50間(約91m)・南北130間(約164m)・周囲430間(約491m)と記されている。土砂の流入や埋め立てにより徐々にその面積を減らしてきている。
 1979年(昭和54年)に「埼玉県自然環境保全地域」に指定され、2009年度(平成21年度)からは緑のトラスト保全地第11号地に指定され保全されている。2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
 この自然豊かな田園風景の中、上沼と下沼の間にひっそりと黒浜諏訪神社は鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜5024
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧長崎村鎮守
             
・例祭等 春祭り 127日 例祭 827日 秋祭り 1227
 黒浜久伊豆神社から「黒浜南小学校(南)」交差点を左折し、埼玉県道154号蓮田杉戸線に合流したすぐ次の新郷を右折する。右手に蓮田市立黒浜南小学校を見ながら道なりに進むと民家もほぼなくなり、周囲一帯田畑風景の中更に東行する先の暴風林に囲まれた集落があり、その南端部に黒浜諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  
黒浜諏訪神社正面
『日本歴史地名大系 』「長崎村」の解説
 元荒川の左岸、黒浜村の東にあり、東は江ヶ崎村。古くは黒浜村に含まれたが、江ヶ崎村の村民が開墾して一村をなしたといわれ(風土記稿)、元禄期(一六八八-一七〇四)までに分村したと考えられる(貞享三年の岩槻藩領郷村高帳など)。岩槻藩領で幕末まで変わらず。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)に村名がみえ、高二三石余、家数七(すべて本百姓)、人数七〇。元禄郷帳・天保郷帳では村名に黒浜村枝郷と肩書される。
 
     参道右側にある石碑三基          石碑三基の並びに祀られている
 左から御嶽講・伊勢参宮・富士登山各記念碑        庚申・天神・荒神
       
          参道左側に設置されている「
諏訪神社竣工記念」碑
 諏訪神社竣工記念
 御由緒
 當社は寛永四年七月二十六日当地増田善右衛門直吉氏信州諏訪大社より勧請す
 建御名方命を祭神として祀り篤く崇敬されて来ましたが昭和四十九年十二月八日災禍により焼失し同月二十日仮宮建立同月二十二日長野県諏訪大社より再勧請今般氏子中の奉賛により昭和五十年十二月二十七日當社遷宮す
 ここに記念として永遠に御神徳を讃えるものであります(以下略)
                                      記念碑文より引用
 
        
                    拝 殿 
『新編武藏風土記稿 笹山村』
 諏訪社 長崎村の鎭守とす、當社の緣起とて僅に記せしものあり、其に寬永四年村民增田善右衞門なるもの、此社を勸請せしよし見ゆ、江ヶ崎村南學院と黑濱村實藏院との持なり、〇荒神社 〇天神社 〇雷電社 以上三社村民持、

 諏訪神社  蓮田市黒浜五〇二四(黒浜字日野手)
 当社の鎮座する長崎は、台地が岬のように細長く突き出ていることから付いた名で、黒浜の中でも谷に隔てられ孤島のようになっている。
『風土記稿』笹山村の項に当社が見え、「諏訪社 長崎村の鎮守とす、当社の縁起とて僅に記せしものあり、其に寬永四年(一六二七)村民増田善右衞門なるもの、此社を勧請せしよし見ゆ、江ヶ崎村南學院と黒浜村宝蔵院との持なり」と記している。ただし、ここでいう当社の鎮座地は、長崎の南端にあった笹山村の飛び地を指している。
 善右衞門の子孫にあたる増田正男家には当社の勧請について記した「諏訪大明神縁起」(寛永四年)がある。これによれば、善右衞門が長崎村の開発の大願を果たすために諏訪神社を祀ることを思い立ったところ、七月二十六日の夜に光り輝く神が現れ、信州諏訪の社地から土を持って来て社殿を建てるように告げられた。そこで、善右衞門は早速翌日に信州に旅立ち、お告げの通りにして社殿を建立したのが当社の始まりであるという。同家の先祖は信州の出身で、天正十八年(一五九〇)に小田原北条氏の足軽として岩槻城に来たと伝えられる。
 神仏分離後は大きな変化はなかったが、昭和四十九年十二月八日に火災によって社殿を消失した。しかし、早くも同月二十日には仮宮を建立し、二十二日に長野県の諏訪大社から再勧請を行い、翌年十二月二十七日には再建され本殿への遷座が行われた。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        
                     本 殿
 長崎村は、元禄期(16881704)以降に黒浜村から分村したが、これは隣村の江ヶ崎村の村民と笹山村の増田善右衞門によって開発されたものである。『風土記稿』長崎村の項には「今も村内皆耕地にして、民家二十余は黒浜村に在り」とあり、江戸期は、集落を村内に構えず、村の南端にある黒浜村の境界辺りに集落を置いた。古くからの住民は現在もこの辺りに住んでいる。
 長崎村は、明治七年に黒浜村に合併され、その後地名は抹消されている。現在、旧長崎村辺りを継承する地域には約三百戸の住民がおり、奉賛会も昭和五〇年ごろに組織されているが、神社運営の中心は古くからの住民三七戸程で、家並び順で三・四戸が月交代で神社の清掃を行うほか、特に古い家の一二戸が三戸ずつ交替で年番を務めているという。
        
        黒浜久伊豆神社から当社に行く途中の道沿いに設置されていた
            「
蓮田市下沼県自然環境保全地域」の案内板
 蓮田市下沼県自然環境保全地域
 昭和五十四年三月二十日指定
 指定面積 二・五〇ヘクタール
 この沼は、谷地(低地に浅く水がたまり草が茂っている湿地)の開口部が元荒川の運んだ土砂の堆積によりせき止められてできたもので、慈恩寺台地の南西部、標高8メートルの地に位置しています。
 岸辺には、ヨシ、マコモ等の挺水植物が繁殖し、水面には、ヒシ、トチカガミ等の浮葉植物が敷きつめ、一部には、オニバスも見られます。
 また、鳥類、昆虫類の生息密度も高く、人為の影響の少ない地域であり、湖沼特有の生態系を維持しています。
 このように、自然度が高く、学術的にも貴重なものであることから、本地域を上沼と共に県自然環境保全地域に指定し保全を図っています。
  昭和六十一年三月  埼玉県
 
           黒浜沼周辺の長閑な田畑風景を望む(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文」「地内掲示板」等 

拍手[0回]


黒浜久伊豆神社

 8世紀の奈良時代には、『奈良の大仏』に象徴される大規模な国家的事業が推し進められ、諸国には国分寺や国分尼寺が建てられ、各地に瓦(かわら)や須恵器(すえき)を焼く窯などが作られた工房が設けられた。蓮田市内でも、鉄の生産が行われていたことが荒川附遺跡や椿山遺跡などで判明している。市内では奈良時代の遺跡が9ヶ所、平安時代の遺跡が18ヶ所、貝塚2ヶ所も確認されているが、その多くは『製鉄』に関連した遺跡である。出土している鉄の分析結果では、砂鉄を原材料とした製品であると判明していて、全国的な鉄生産と同じ形態であることがわかっている。市内で発見されているのは小鍛冶(こかじ)工房跡が多く、砂鉄から鉄の塊(かたまり)を作る大鍛冶(おおかじ:製鉄炉)や、燃料となる木炭を焼く窯などは多くは発見されていない。この砂鉄は台地が洗われ流れ出た砂鉄が蓮田の地の川辺で堆積し、これを活用していたものと考えられる
 因みに、市内の製鉄集落でも椿山遺跡は、平将門の乱が起こった頃にピークがあり、勢力下にあったことから、その時期には武器製造の一翼を担っていた事も推測 されている。
「黒浜(くろはま)」の地名の発祥は、砂鉄の黒に由来するとも考えられるという。発掘では「金屎(かなくそ)」と呼ばれるものが多く出土するが、小鍛治精錬の際に発生するもので、実際には『ゴミ』である。一部は再利用され、製品の形状を整える際の台座として利用されているものもあるようだ、また、この時代には土錘(どすい)と呼ばれる土製の錘(おもり)が出土し、玉状と管状に分類される。漁労用や編み物用と考えられ、ここにも水の恩恵が推察される。市内で出土する多くは、玉状を中心に小型のものが大部分を占めるが、荒川附遺跡(あらかわづけ:関山34丁目)では流れの速い上流域で発見されるような大型の土錘も出土している。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市黒浜1346
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧黒浜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春季例祭 415日 天王祭 714
                                    十五夜祭 915日 秋季例祭 109日 他
 蓮田駅東口から駅前通りを東行し、川島久伊豆神社の先にある元荒川に架かる宮前橋を越え、更に道なりに進む。その後、「藤ノ木坂」交差点のある路地を右折、埼玉県道162号蓮田白岡久喜線を500m程南下すると、「黒浜南小学校(南)」交差点に達するその手前で進行方向右側に黒浜久伊豆神社の鳥居や社号標柱が見えてくる。
        
                 
黒浜久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「黒浜村」の解説
 城(じよう)村の南、元荒川左岸に位置する。東は長崎村など、西は同川を隔てて上蓮田村、南は笹山(ささやま)村。村の南東に上沼(二〇町余)と下沼(五〇町余)がある。下沼は笹山・長崎二村にまたがり、溜井としても利用された。元荒川には水除堤があり、南の川島村に通じる道に土橋が架けられている(風土記稿)。戦国期頃に成立したとみられる市場之祭文写(武州文書)に「武州崎西郡黒浜市祭」とみえる。小名に堀ノ内があり、野口氏館があったと伝える。永禄七年(一五六四)太田資正が国府台合戦で小田原北条氏に敗れた後、資正の郎党野口多門が帰農して居住したといわれる(岩槻巷談)。
江戸時代初期には笹山村・長崎村を含んだといわれ(風土記稿)、元禄期(一六八八―一七〇四)までに両村が分村したと考えられる。
 
   鳥居の左側に設置されている案内板        文化財の標柱も設置されている。

 左側の文化財には「円空作佛像」と記されている。
この円空(16321695)は、江戸時代前期、美濃国(岐阜県)に生まれた僧侶であるが、詳しい生い立ちについては、いまだに多くの謎が残されている。彼は不幸な人々を救うため、12万体の仏像を残すことを誓い、旅に出て数多くの仏像を彫り続けた。
 岐阜を出発した円空は、青森を経て北海道に渡る。そして北国の旅を終えて故郷に戻り、40代半ばを過ぎるまでの10数年間、更に仏像づくりに打ち込んで、ごつごつした彫り痕を特徴とする、一刀彫り(いっとうぼり)の手法を確立した。独自の手法を確立した後は、岐阜、滋賀、愛知などに活動範囲を広げ、さらに関東に足を延ばし、日光を訪れる。関東地方にはおよそ4年間滞在する。この際、蓮田の黒浜、江ケ崎にも立ち寄り、仏像を残した。市内には今も24体の像が残されていて、そのうちの観音菩薩立像など18体が、久伊豆神社の宮司である矢島家で発見された。矢島家の円空仏は、埼玉県の指定文化財(「矢島家円空仏群(やじまけえんくうぶつぐん)」)になっており、大部分が埼玉県立博物館で保管されている。
 円空の手による仏像は、今のところ全国で4,500体あまりが確認されていて、埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿いの地域で集中的に見つかっているという。
        
                参道途中にある二の鳥居
 蓮田市の黒浜の地は、元荒川の左岸に位置する農業地域で、元荒川に面する台地上には「黒浜遺跡…縄文時代の貝塚群および環状集落の遺跡」「雅楽谷(うたや)遺跡…埼玉県の縄文時代後期・晩期(約40002500年前)を代表する遺跡のひとつ」「椿山遺跡…古墳時代末期、7世紀ごろのものと思われる古墳があり、直刀や勾玉などが数多く出土」など、考古学上重要視されている遺跡が数多い。また、字堀ノ内は、永禄7年(1564)の国府台合戦で小田原北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門が帰農して居住した所といわれ、更に、戦国期ごろに成立したと推定される「市場之祭文写」にも「武州崎西郡黒浜市祭」と載るところから、室町時代後期には相応の村落が形成されていたことが推定されている。
        
        蓮田市の指定を受けた保護樹林の参道の先に社殿が見えてくる。
          保護樹林 指定番号 第3号 指定年月 平成2年4月
        地域の方々にとっても大切な鎮守の森として保存されている。

『風土記稿』にも記されているように、江戸時代の初期までは笹山村・長崎村も黒浜村のうちであった。黒浜村の鎮守であった当社の氏子区域は、かつての黒浜・笹山・長崎の三か村にわたっているが、このことは、笹山・長崎の両村が分村する前から当社が黒浜の鎮守として信仰を集めていたことを示すものといえよう。元来は農業地域であったこれらの地域も、今では住宅地として開発が進み、多くの転入者を受け入れるようになった。そのため、三地域合わせて世帯数は三千戸を超えるが、氏子に入っているのは旧家を中心とした九百戸程である。但し、長崎では歴史的な経緯もあり、諏訪神社を祀っており、黒浜の中でも八貫野は南新宿の稲荷神社の氏子に入っている。

   参道沿いに設置されている社の案内板      参道右側に祀られている稲荷神社
                        稲荷神社の左側にある富士登山記念碑

 参道左側には「伊勢参宮記念碑」が4基あり(写真左)、対する参道右側には奉納碑や伊勢参宮記念碑、富士登山記念碑、甲子待講碑等(同右)がある。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 黒濱村』
久伊豆社 寶藏院持、下同じ、末社 稻荷社 〇天神社 〇神明社二 一は同寺持、一は村民持、 〇稻荷社 村民持
 寶藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、花盛山と號す、開山隆意享祿四年十二月二十七日寂す、此隆意は上總國に住せし眞里谷三河守信重が子孫、勝頼母介常秋が子にて、信濃守景勝と云、後修驗となりて當所に住せし由、所藏の系圖に見えたり、

 久伊豆神社  蓮田市黒浜一三四六(黒浜字天神前)
『明細帳』によれば、当社は室町時代の享禄年間(一五二八-三二)に、本山派修験の大泉院が騎西町の玉敷神社から分霊を勧請したことに始まる。大泉院は、文明十三年(一四八一)に上総国久留里城主勝(すぐれ)信濃守源景勝という者が修験者となり、当地に土着して花盛山神宮寺と号したが、その子俊正の代に大泉寺と改めた。その後、大泉院は江戸時代に宝蔵院と再度寺号を改めた。また、慶長十六年(一六一一)に、右の勝俊正ほか五八名が願主となって社殿が建立されたという。以上の記録から、創建当時の当社は大泉院の一角に祀られた小祠であったが、慶長十六年に現在地に鎮守にふさわしい社殿を設け、村全体で祀るようになったと思われる。その後、宝暦二年(一七五二)に神祇管領ト部兼雄から「久伊豆大明神幣帛」を受け、数度の再建・営繕を経て、明治維新を迎えた。ちなみに、現在の本殿は、棟札によれば天明八年(一七八八)九月に竣功したものであり、昭和五十八年には市の有形文化財に指定された。
『風土記稿』黒浜村の項に「久伊豆社 宝蔵院持」と載るように、江戸時代の当社は宝蔵院が別当であったが、明治になると神仏分離によってその管理を離れて村社となり、明治四十三年には字天神前の菅原神社と字前原の神明社を合祀した。一方、廃寺となった宝蔵院は勝姓を名乗って復飾し、その後は氏子として神社運営に協力している。
                                   「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
        
              境内に設置されている本殿の案内板
 蓮田市指定有形文化財 建造物
 黒浜久伊豆神社本殿
 昭和五十八年四月一日指定
 黒浜久伊豆神社は、室町時代の享禄年間(一五二八年頃)に騎西町の玉敷神社を勧請したといわれ、その祭神は大己貴命である。
 流造り銅板葺の本殿は、保存状態がたいへん良く、江戸時代後期の神社建築の様式がよく分かる貴重な資料となっている。また、その一部に施された彫刻も優れた作風を示すものである。
 この流造りというのは神明造り・大社造りなどといった神社建築の中で、正面の屋根だけを長く伸ばすもので、全国の神社に多く見られるスタイルである。
 本殿の大きさは、幅二m、奥行き一・八m、五段ある正面階段は、幅二m、奥行き一・六五mを測り、その基礎は、江戸時代後期の亀腹式の礎石である(以下略)。
                                       案内板より引用
        
                 静まり返っている社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「蓮田市HP
    「はすだ観光協会HP」「境内案内板」等

拍手[0回]


川島久伊豆神社

 蓮田市川島地域の「川島」の地名は、周囲を川に囲まれた島のような低地であったことに由来すると考えられている。というのも、昭和56年ごろの元荒川の大改修が行われるまでは、俗に「水っ場(みずっば)」とか、「蛙が小便しても水が出る」といわれるほどしばしば水害に悩まされ、台風が来ると一日くらい水が引かず、子供は舟で学校に通ったものであったらしい。従って、日常の生活でも舟に頼ることが多く、『郡村誌』に「戸数四十三戸(中略)伝馬船二十一、水害予備船二十一、漁船十四」とあるのも、そうした状況をよく物語っている。
 また、祭事が簡素なものとなっている理由も、こうした度々の水害による村の疲弊と深い関係があるという事だ。
        
             
・所在地 埼玉県蓮田市東3910
             ・ご祭神 大己貴命
             ・社 格 旧川島村鎮守 旧村社
             ・例祭等 初祈祷 1月 春祈祷 415日 例祭 725
                  お日待 109日 新穀感謝祭 1123日 大祓 11
 JR蓮田駅東口ロータリーから駅前通りを進み、埼玉県道154号蓮田杉戸線合流後東行し、元荒川に架かる「宮前橋」手前に社は鎮座する。この川島久伊豆神社は、江戸時代後期(1800年代)に創立されたもので、地域の人から農業の安全や豊作を祈る神である「作神」として信仰をあつめている。
        
 社は県道沿いに鎮座しているが、実際に当地に到着すると、丁度背を向けた配置となっている。宮前橋の手前の交差点を右折、元荒川沿いに境内は広がり、入口もこちら側からとなっている。また、道路沿いに社号標柱や案内板が設置されている。
 
        
                 川島久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「川島村」の解説
 蓮田台地の南東部に位置し、元荒川右岸の自然堤防上にある。東は元荒川を隔てて笹山村。同川に沿って水除堤があり、川島橋という土橋が架けられていた(風土記稿)。寛永期(一六二四―四四)に岩槻藩阿部氏の検地があり(同書)、田園簿では同藩領で、田高六五石余・畑高八五石余。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によれば高三一六石余、この間新田開発が盛んに進められたことがわかる。延宝八年(一六八〇)の人数は一七五(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
 当地川島は、江戸時代の始めは岩槻藩領であったが、幕府領を経て、延享4年(1747)からは御三卿の一家一橋領となった。そのため、村民は自分たちの村に誇りを持ち、苦境にも負けずに農業に励んだという。

   参道左側に祀られている三宝荒神と並びに設置されている案内板、伊勢参宮記念碑。
 川島・久伊豆神社
 蓮田市東三丁目八百六十二の一
 この久伊豆神社は、江戸時代後期(一八〇〇年代)に創立されたもので地域の人から農業の安全や豊作を祈る神(作神)として信仰をあつめている。祭神は大己貴命である。
「新編武蔵風土記稿」によれば、「久伊豆神社、村の鎮守にて地蔵院持」と記載されている。
 久伊豆神社は、元荒川流域にのみ分布しており、東の「香取」、西の「氷川」圏と並び一祭祀圏をなしている。
 市内には、久伊豆神社七社、系列の根金神社一社を加え合計八社が現存している。
「久伊豆」の読み方については、「ヒサイズ」と「クイズ」の両方があるが、この地方では、ほぼ「ヒサイズ」と読んでいる。
 また、近郷の人には当社を「ぬすっと宮」と呼ぶ人が多い。この由来については諸説あるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだ。慈悲深い神は、これをかくまい、追手から逃がしてやったという。以来だれとはなしにこう呼ばれるようになったといわれている。
 現在の拝殿は、昭和三年に改築されたものである。当時の工事費は八二五円であった(以下略)。
                                       案内板より引用
        
           境内社 左から稲荷神社・稲荷神社・雷電神社
 当社は、近隣の人々から「盗人(ぬすっと)宮」と呼ばれていたという。この呼称については諸説があるが、昔、川上の方から追われてきた義賊が神社の森に逃げ込んだところ、慈悲深い神がこれを匿って追手から逃がしてやったとか、お供物が片っ端から盗まれてしまい、ついには御神体まで盗まれてしまったなどと言い伝えられてきたが、実際のところはよく分からなかった。
 ところが、平成41月にになって、ブラジルに住む当地出身の二世の方が、「家族に病人が出るのは、先祖が昭和8年に出国した時に御神体を無断で持って来たためと思われるのでお返ししたい」と、訪日する友人に託して像高11.5㎝の不動明王のような木造の立像を返しにきた。そこで、当社では壊れた光背と足先を新しく作って本殿に納め、御神体帰還祝いとして、久しぶりに神楽を奉納するなど、にぎやかに祭典を行った。なお、この話は、「五十九年ぶり神体里帰り」として同年四月十七日の『毎日新聞』で報じられたという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 川島村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、地藏院持、末社 天神 荒神 稻荷 雷電、
 地藏院 新義眞言宗、太田新井村安樂寺門徒、花德山延命寺と號す、本尊延命地藏を安ず、


 久伊豆神社御由緒   蓮田市川島八六二(川島字宮面)
 □御縁起(歴史)
 元荒川にかかる宮前橋のそばに鎮座する当社は、大巳貴命を祭神とし、川島の鎮守として奉斎されてきた。落ち着いた雰囲気の境内には松がよく茂り、その中の一本には、珍しく「宿り木」が寄生している。昔から見れば、松も随分少なくなったといわれるが、それでも元荒川の水面に影を映す美しい社叢は、神の坐す所にふさわしい景観であるように感じられる。
 また、明治初期までは、川島の集落から社殿に向かって、八〇メートルほどの一直線の長い参道がついていた。そのころは鳥居の手前(南側)には堀があり、太鼓橋が架かっていた。しかし、参道の辺りにも民家が増え始め、ついには参道そのものも住宅などの敷地になってしまい、昔の面影は失われてしまった。元荒川の揚水機小屋のある、境内南側の低くなっている所は、かつての堀の跡である。
『風土記稿』に「久伊豆社 村の鎮守なり、地蔵院持、末社 天神 荒神 稲荷 雷電」とあるように、当社は地内の地蔵院の持ちであった。神仏分離後、地蔵院は廃寺となり、その草葺きの建物は村の集会所として各種の会合の場として長い間使われ、太平洋戦争中は疎開者の住居にもなっていたが、老朽化が進んだために取り壊され、昭和四十年に公民館として生まれ変わった。公民館の中には、地蔵院の名残として本尊の延命地蔵が祀られている。
                              「埼玉の神社」「案内板」より引用
 
         本 殿                  境内社・天神様
 当地はJR蓮田駅からも比較的近く、地内を東北自動車道も通ることから、近年住宅地として再開発が進んでいる。多くの転入者を迎え、昔からの集落である上(かみ)・下(しも)に加え、団地と呼ばれる新しい地区ができ、200戸程の住民の過半数が氏子となっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

拍手[1回]


下蓮田八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県蓮田市東6917
            ・ご祭神(主)応神天皇 (合殿)仁徳天皇
            ・社 格 旧下蓮田村鎮守 旧村社
            ・例祭等 初拝み 115日 春祈祷 4月上旬 祭礼 725
                 新穀祭 1123日 大祓 12月中旬 
 蓮田市の南部に位置する東(ひがし)地域は、蓮田駅に近く交通の便もあり、また、太平洋戦争後の宅地化推進により、かつてこの地域周辺に広がっていた「鎮守の森」は徐々に消えていき、景観も大きく変わってしまったという。
 蓮田駅の南西部にある「蓮田市立蓮田南小学校」のすぐ西側に鎮座している社。確かに周囲は開発によって多くの住宅街等に囲まれているが、社の入口から参道周辺にはまだこんもりとした社叢林は今尚健在で、氏子の方々の日々の崇敬の厚さを感じずにはいられない。
        
                 下蓮田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「下蓮田村」の解説
 上蓮田村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。古くは上蓮田村と一村であったとみられ、同村の久伊豆神社は両村の鎮守となっている。寛永年間(一六二四―四四)検地があり(風土記稿)、田園簿では田高二一〇石余・畑高二〇九石余、岩槻藩領。寛文一二年(一六七二)の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると高四七七石余。延宝八年(一六八〇)の人数は二一〇、新田の家数一四(うち本百姓九)、人数九四(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。
 
    比較的長い参道を進むと一の鳥居(写真左)、その後二の鳥居(同右)に達する。
        
           二の鳥居の右側に祀られている境内社・金刀毘羅宮
この金刀毘羅宮は、古くから境内社として祀られている。かつては、毎年2月10日に、社の前に浅敷を作り、紅白の幕を張って盛大に祭りをして、当社の祭りより人出が多かったというが、戦後には衰退してという。
        
             二の鳥居近くに設置されている案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下蓮田村』
 八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稻荷社 以上の神社慶福寺持、
 慶福寺 天台宗、入間郡古尾谷村灌頂院末、中應山蓮臺院と號す、開山慶蓮は慶安年中寂せしと云、本尊三尊の彌陀を安ず、地藏堂二宇 一は立像、丈二尺許、定朝の作、一は秘佛にして見ることを許さず、

 八幡神社  蓮田市東六-九(蓮田字神原)
 JR蓮田駅の東口を出て、南西に約一〇分ほど歩くと、当社の境内がある。この辺りは、元来は「鎮守の森」の言葉がふさわしいような山林であったが、交通の便がよいため、太平洋戦争後は宅地化が進み景観は大きく変わった。また、当社の境内の東側は蓮田南小学校に隣接しているため、子供たちからも「八幡様」の通称で親しまれており、境内で遊ぶ子供たちの姿もよく見受けられる。
 当社の創始については明らかではないが、古くから下蓮田の鎮守として祀られてきた。西南西四〇〇㍍ほどの所には、中世武士の城館跡を示す「堀の内」の地名があり、武神とされる八幡神の勧請に、この城館に居住した武士がかかわっていたとも推測される。
 祭神について『明細帳』は「祭神応神天皇、合殿仁徳天皇」としており、一間社流造りの本殿には金幣が大小一体ずつ安置されている。また、鎮座地付近は当社にちなんで「若宮」と呼ばれ、鳥居に掛かる社号額にも「若宮八幡宮」と刻まれていることから、当社は古くは「若宮八幡」を号していたことがわかる。
 明治四十一年七月十八日、政府の合祀政策に従い、下蓮田では、村社であった当社に字桑原の無格社神明社と字綾瀬附の無格社稲荷社の両社を合祀した。しかし、旧氏子の強い要望によって両社共昭和十年ごろ旧地に復し、合祀前のように祀られるようになった。
                                   「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿内部                   本 殿
 現在では、行政上は大字蓮田及び御前橋一と末広一丁目と東六丁目の各一部となっているが、当社の氏子区域である下蓮田は、江戸時代には独立した一村であり、「前口」「桑原」「新田」という現在も存続する三つの村組からなっていた。『風土記稿』下蓮田村の項では、村内の神社について「八幡社 〇天神社 〇愛宕社 〇神明社 〇山王社 〇稲荷社 以上の神社慶福持」と載せている。文中の慶福持は、阿弥陀三尊を本尊とする天台宗の寺院で、古くから下蓮田に住む人々の檀那寺でもある。
        
                        「大神宮 出雲大社 太々記念碑」
『風土記稿』にみえる諸社のうち、天神社は前口、神明社は桑原、稲荷社は新田で祀る社である。下蓮田では、村全体の鎮守として当社を祀ると共に、このような小規模の社を組ごとに祀ってきた。神社運営も、これらの組を単位として行われており、各組から年番が二名ずつ出て、祭典の世話役を務めるほか、総代も各地区から一名ずつ適任者が互選で選出されるという。
        
                  社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

拍手[0回]