中島若宮八幡神社
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町中島382
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧村社
・例祭等 祭礼 7月20日 おびしゃ 9月15日
宮代町中島地域は、町東部に位置し、大落古利根川右岸の周囲一帯長閑な田畑風景が広がる地域で、地形を確認すると、大落古利根川のすぐ南側で河川に沿うように細長く形成されている微高地に集落は集中していて、社もその集落内に鎮座している。
道佛稲荷神社から埼玉県道85号春日部久喜線を街中方向に進行し、東武伊勢崎線の線路下にある「みやしろ地下道」を潜るように進んだ先にある「中島」交差点を更に直進する。宮代町の繁華街も南北に縦断する東武伊勢崎線を境にその先は風景が一変し、広大な農地の中に住宅が点在する長閑な風景となる。その後3本目の十字路を右折し、暫く進むと右手に「若宮集会所」があり、その集会所の南側に隣接するように中島若宮八幡神社は静かに佇んでいる。
中島若宮八幡神社正面
鳥居の手前で参道の左右にある庚申塔や青面金剛(写真左・右)
なお右側写真の左側にあるのは「力石」と思われる。
入口付近に設置されている社の案内板(まちしるべ)
まちしるべ 42
若宮八幡神社 所在地 宮代町字中島
若宮八幡神社は、字中島の若宮地内に所在し、誉田別命を祀る。祭礼は、七月二〇日と九月一五日の年二回である。
言い伝えによると、今から四〇〇年ほどの音(江戸時代の初め)高橋七郎兵衛という人によって鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を屋敷内に祀った。その後、農耕神として当所の人々からも信仰され、江戸時代の中ごろ当地の鎮守として祀ったのがその起こりといわれている。
本殿は権現造で、本殿内に納められている箱には宝暦六年(一七五六)三月の絡が記されている。また、当社には祭礼に用いられる二対の幟旗がある。一つは天保六年(一八三五)八月のもので町内の川島で私塾を開いていた尾花善貞、もう一対は、慶応四年(一八六八)正月のもので、爪田ヶ谷村(現白岡町)の医師富沢永惇の筆になるものである。
境内には、天神社、稲荷社が祀られ、また、江戸時代の宝永四年(一七〇七)から安政二年(一八五五)までの四基の庚申塔や力石などがある。
なお、この神社の近くにある青蓮院は、本尊十一面観音像を祀る寺院で、明治時代から大正時代まで百間小学校の校舎の一部として使われていた。明治四三年六月には「若宮分校舎修繕記念句集」の俳額が奉納されている。
案内板より引用
拝 殿
八幡神社 宮代町中島三八二(百間村字中島)
鎮座地の中島は古利根川右岸に沿って位置する。「風土記稿」中島村の項によれば、開発は天正十八年(一五九〇)に島村出羽宗明によって行われ、最初は道仏村と称していたが、元和五年(一六一九)の検地の際、中島と改めたという。また、当村は初め百間村に属し、元禄八年(一六九五)に分村した。当社については「若宮八幡社東村西光院持」とある。
口碑によれば、大阪夏の陣で豊臣方に就いて敗れ、落人となった高橋七郎兵衛が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を頂いて当地で帰農し、その分霊を作神として屋敷内に祀った。その後、当地の人々からも作神として崇敬されるようになったことから宝永年間(一七〇四-一一)に東村の西光院を別当とし、当地の鎮守となったという。別当の西光院は、養老年間(七一七-七二四)に行基によって開基されたといわれる古刹で、京都醍醐三宝院の直末であった。
神仏分離により当社は西光院の管理を離れ、明治六年六月に村社に列せられた。
本殿内には「奉建立若宮八幡宮 宝暦六丙子年(一七五六)三月吉祥日 施主高橋七郎兵衛」銘の八幡大明神立像が奉安されている。また、拝殿内には「奉納八幡神社御祭礼天保六乙未年(一八三五)秋八月吉日武州百間領若宮村子供中」銘の幟旗が納められている。
「埼玉の神社」より引用
参道左側に祀られている境内社・天満宮 社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社
当社の氏子区域は江戸期の中島村字若宮で、明治二十二年に中島村のほか六ヵ村を合併すると百間村大字百間中島字若宮となった。その後、昭和五年に大字が廃止されたことから、若宮の地名は廃の方々が氏子となっているとの事だ。
社殿から鳥居方向を撮影
社の南側には広大な田畑風景が広がっている。
当社は古くから「作神」(さくがみ・つくりがみ)として崇敬されてきたという。この作神とは、日本の農耕民の間で古くから稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神で、田の神・農神・百姓神・野神と呼ばれることもある。
また、起源の異なる他の信仰と結びついて、東日本では「えびす」、西日本では「大黒」をそれぞれ田の神と考える地域が多く、さらに土地の神(地神)や稲荷神と同一視されることもあり、その一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神であるという。
作神は山の神とも深い関係があるといわれ、山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた。その一方で、稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰もあり、これを、田の神・山の神の「春秋去来の伝承」といい、この伝承は全国各地に広くみられている。
春秋去来の伝承は屋敷神の成立に深いかかわりをもっているとみられ、屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘されている。
因みに、大国主の国づくりの説話に登場する「久延毘古」(クエビコ)は、「かかし」が神格化されたものであるが、これもまた作神(農耕神)であり、地神であるともいう。
参考資料「埼玉県の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「世界大百科事典(旧版)」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
