古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

根金神社

 顕彰碑
 私達の郷土根金は根金村と称し、寛永七年上関戸から三十余戸で分村し、十羅利社を氏子の象徴として、凡そ三百五十年の長きに亙って今日に至った。元来矢水の地で、米作に恵まれず、そのため村は経済的基盤が弱く、神社も幾度かの変遷を経た。折しも昭和七年敬神の念厚き大久保伝吉は、村民有志に働きかけ、境内の設置に尽力し、自から一二六坪の土地を寄進、続いて杉山与次郎も二十五坪を寄進、茲に根金神社発祥の地が決り爾来幾歳の永きに及び村民信仰のところとなった。その後村民の協力で昭和廿一年に拝殿を昭和五十五年には公民館を相ついで建設し、文化的面目を施した。いま私達は大久保伝吉・杉山与治應の先人に心から敬意を表し、其の行跡を偲び地域発展の礎とし之を永く後世に伝える(以下略)
                                *句読点等は、筆者加筆による。
        
            
・所在地 埼玉県蓮田市大字根金1006
            
・ご祭神 大己貴命
            
・社 格 旧根金村鎮守
            
・例祭等 春祭礼 426日 大祓 630日・1231日 例祭 718
                 
秋祭礼 1019日 例大祭 1130
 根金新田稲荷神社から一旦北上して埼玉県道87号上尾久喜線を西行し、国道122号線との交点である「根金」交差点手前の狭い路地を右折すると根金神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
                   根金神社正面 
『日本歴史地名大系』 「根金村」の解説
 蓮田台地の北部にあり、元荒川の右岸に位置する。南は上閏戸村、東から北は根金新田村。古くは閏戸郷に属したという(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)までは閏戸村に含まれたといわれるが(同書)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)に臨時の助人馬指定村として「新根金村」と記されており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。岩槻藩領で、同一二年の岩付御領分石高覚(吉田家文書)によると根金村の高一四六石余。延宝八年(一六八〇)には家数二一(うち本百姓二〇)、人数一一一(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」同文書)。国立史料館本元禄郷帳では旗本万年・米津・会田の相給。

 蓮田市の「根金(ねがね)」という地域名の由来は、ハッキリとは分からないが、一説によると、かつて当地には、江戸時代初期に矢作(やはぎ)伊賀守という刀鍛冶がいたと伝えられ、地内の沼から砂鉄が採れたという話や、集落の北側辺りから金糞(*かなくそ・鉄を鍛えるときに落ちる浮きかすや不純物)がよく出土することから、刀鍛冶のみならず、かなり以前から金属に関わる職人たちが居住していたことがうかがわれよう。
        
                    拝 殿
 根金神社  蓮田市根金一〇〇六(根金字後塚)
 根金は、元荒川の自然堤防上の集落で、かつたは閏戸村に含まれていたが、元禄十一年(一六九八)に閏戸村が上閏戸・中閏戸・下閏戸村・貝塚村・根金村・根金新田村の六か村に分村した。
 当社は、『風土記稿』根金村の項に「十羅刹社 村民持」と載り、江戸期から鎮守として祀られていた。明治七年に根金新田村と合併したことから、村社決定の際、神仏分離・廃仏毀釈の直後だけに、仏教色の強い社名の社を村社とすることをはばかり、新田の稲荷社を村社とすることになった。これに伴い、翌年に十羅刹社は稲荷社へ合祀されることになった。しかし、時の戸長杉山又右衛門は、合祀に異議を唱え、十羅刹社の木像を自宅納戸の唐櫃の中へ隠し、木像を受け取りに来た稲荷社の使者に目掛け、座敷から三俵もの豆を投げ付けて追い返したという。こうして木像は同家に残されたが、同九年に合祀の手続きが取られ、字二本木の社地を失った。よって杉山家では畑の一隅に十羅刹の祠を建て、旧根金村の人も変わらぬ信仰を続けた。
 その後、昭和七年に氏子の大久保伝吉が境内の狭さを憂え社地を寄進、これに応じた杉山与二郎も土地を寄進し、現在の境内地ができ、祠が遷された。更に同二十一年に拝殿を建設して施設を整えたが、正式に神社として承認を得るために、古くから獅子を借りている騎西町の玉敷神社から分霊を奉斎し、同二十七年に根金神社が設立された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 当社は、昭和27年に、玉敷神社より分霊(大己貴命)を奉斎して設立した神社ではあるが、氏子の意識の上では、『新編武蔵風土記稿 根金村』の項に載り、先祖より祀り伝えた「十羅刹社」の存在は大きく、かつては旧根金村の鎮守社でもあった。因みに十羅刹とは、十羅刹女といい、元来人の精気を奪う鬼女であったが、仏の説法により法華経を読誦する行者守護、又は流行病を司る神となった仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神と共に法華経を守護する諸天善神である。この辺りでは当地のほか、貝塚・下閏戸の隣接した村だけに祀られていることから、かつて何かしらの関連した信仰があったことがうかがえる。
 内陣には、頭髪をなびかせ、宝冠をかぶり、左手に宝珠を載せ、右手には鎌を持ち、岩座に立つ木像一体が奉安されている。
       
               境内に設置されている顕彰碑

 社の規模は決して大きいものではなく、当初は、根金新田稲荷神社と共に掲載する予定であった。しかし「根金」という地域名の由来といい、当社の現在の社名に至る経緯も考慮すると、独立した社として掲載したほうが良いと判断し、今回掲載した次第である。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内顕彰碑文」等 

   

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根金新田稲荷神社


        
             
・所在地 蓮田市大字根金436
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧根金新田鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 二月初午 春祭り 428日 天王祭 714
                  お日待 1018日 大祓 1224
 井沼久伊豆神社の鳥居がある埼玉県道87号上尾久喜線を北東方向に進行し、国道122号線と交わる「根金」交差点を更に直進、650m程進んだ丁字路を右折して暫く進むと、進行方向斜め左側には田畑風景の中、根金稲荷神社の社叢林と鳥居が見えてくる。 
        
                  根金稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「根金新田村」の解説
 蓮田台地の北部にあり、元荒川の右岸に位置する。西は根金村および元荒川を隔てて荒井新田村・柴山村(現白岡町)、東は貝塚村、北東は元荒川を隔てて篠津村(現白岡町)。古くは閏戸郷に属したという。村の開発は足立郡別所村(現伊奈町か)の九十郎によって行われたと伝える(風土記稿)。元禄一一年(一六九八)まで閏戸村に含まれたとされるが(風土記稿)、寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)に臨時助人馬指定村として「新根金村」がみえ、この頃から分村化が進んでいたと考えられる
        
                   境内の様子
 蓮田市根金地域に鎮座する稲荷神社の創建年代は不明である。ただ根金新田村が成立したのが1698年(元禄11年)であること、別当寺の「法性院」の開山の真智が1700年(元禄13年)の寂であることから、その頃に創建されたものと推測される。元々は開拓者の「九十郎」が創建した屋敷神で、九十郎の子孫である内村家が管理していたが、後に村人の信仰を集め、村の鎮守になったという。
 1876年(明治9年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
 
 鳥居の脇に建つ碑は(写真左)、当地出身であんま業を営みながらも、東北の飢饉の折や地元や岩槻の学童のために寄附を続け、当社に鳥居を奉納した関口平太郎氏を、大正6年に氏子一同が発起人となり顕彰したもので、氏と親交のあった芥川龍之介が起草した一文の肉筆を刻んだ石碑となっている。全国各地に所在する芥川の石碑の中でも最古のものとされ、「自撰自筆の碑」となると唯一と言われている。そして、石碑のすぐ右側側には「関口平太郎顕彰碑」が設置されている(同右)。
 この芥川龍之介による自撰(じせん)自筆の碑文は、有形文化財・歴史資料として平成28330日指定を受けている。
        
                     拝 殿
 稲荷神社  蓮田市根金四三六(根金字東浦)
 根金は、かつて根金村・根金新田村の二か村で、いずれも元禄十一年(一六九八)に閏戸村から分村し成立した。このうち根金新田村は、足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。
『風土記稿』根金新田村の項に「稲荷社 村の鎮守なり、法性院の持」とあるのが当社である。別当の法性院は、足立郡別所村法性寺末で、開山僧真智は元禄十三年寂である。口碑によれば、当社の創建は当村の草分けの九十郎が、別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初は、その子孫である内村家の氏神であったが、いつしか村人の信仰を受けるようになり、村の鎮守となったという。一方、根金村の鎮守であった十羅刹社(じゅうらせつしゃ)は、村民持の社で、創建については不詳である。
 神仏分離後、法性院は廃寺となった。その後、明治七年に根金新田村は根金村に合併され、当社と十羅刹社も『郡村誌』に「稲荷・十羅刹社合殿」とあるように合併され、当社の社殿に村の鎮守として祀られた。しかし、『明細帳』によれば、当社が明治九年に村社に列したのに対し、十羅刹社は当社の境内社とされた。十羅刹社は、元々、法華行者を守る神女の十羅刹女を祀る社である。村社に列せられるに当たって、神仏分離令をはばかり、仏教色の濃い十羅刹社を本社から分祀したのであろう。その後、十羅刹社は大正四年に境内社である天神社に合併されたが、昭和二年に旧地へ復された。
                                   「埼玉の神社」より引用
          
 社殿の手前に祀られている境内社・天神社      木製の案内板も設置されている。
        
                      本 殿
        
                  社殿からの一風景
 当社の内陣には、鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三(一七八三)癸卯九月廾□(梵字)奉造立稲荷本地十一面観世音 武州埼玉郡岩槻領根金新田村 別堂法性院法印清春代」の墨書があり、往時、内陣には倉稲魂命の本地仏である十一面観音が奉安されていたことがわかる。
 神仏分離によって、十一面観音がいずれかに移され、代わって、古くから当社に寄せられた作神の信仰にふさわしい神像を彫像し奉安したのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
                         

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井沼久伊豆神社

 改修記念之碑
 神祇を敬い祖先を崇ひ、良風美俗を顕彰し以てこれを子孫に伝承することは、わが国民の伝統である。往時よりわが国いたるところ神社を奉建し、斉しく氏神を祀り氏子これに奉仕して、里人一体となって繁栄して来たのは自然の美風と云うべきであろう。
 ここ蓮田市大字井沼に鎮座まします久伊豆神社は、須佐之男命。大己貴命。猿田彦命。迦具土命。市杵島姫命の五柱が奉祀されている。今から凡そ六百有余年前土地の開拓と共に社が創建され、里人の心のよりどころとなった。後、宝永七年三月社殿を再建し騎西領玉敷神社より勧請して御霊を祀り、明治六年村社に列格され同四十五年五月的場の無格社久伊豆社、同境内社の庚申社、須賀社、愛宕社、及び後塚の厳島社を合祀されて今日に至る。
 社殿は文化五年及び大正十二年の大改修を経たるも、漸く破損甚だしく敬神の念に添はざるものあり、ここに於いて昭和六十三年正月氏子諸氏相謀り、神殿の改修並に境内社の改築を企画せり。用材は耐久力のある境内地の杉材及び寄進された地元杉材合せて五十立法米を使用し、予算は神社会計より百万円、自治会より七十万円、篤志家より百五十四万円、氏子より七百二十五万五千円、総額実に壱千四十九万五千円の浄財を仰ぎ、工を起こすこと同年二月、この役に從うもの四百人有余、改修委員の献身的な奉仕により翌年三月を以て竣工を見たり。
 茲に社頭を一新して崇敬の念一段と加わる。社威永く輝き、民力益益豊かなるものあらん。誠に神に仕うるの道厚く亦深しと謂うべし。予 里人の災禍を除き福祉の多かるべきを願い、以て記念となす(以下略)。
                                   改修記念之碑文より引用

        
            
・所在地 埼玉県蓮田市大字井沼759
            
・ご祭神 大己貴命
            
・社 格 旧井沼村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭礼 4月第1土・日曜日 夏祭礼 7月第1土・日曜日
                 
観音様灯籠 815日 秋祭礼 10月第二日曜日
 駒崎久伊豆神社から埼玉県道87号上尾久喜線を1㎞程北上すると、コンビニエンスストアのある十字路の手前に井沼久伊豆神社の鳥居はあるのだが、境内はその鳥居から北側に真っ直ぐ伸びる狭い参道を150m程歩かなくてはいけない。前出のコンビニエンスストアに買い物をしたのち、徒歩にて参拝を行った。
        
                
井沼久伊豆神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「井沼村」の解説
 蓮田台地の北西部にあり、元荒川の右岸に位置する。東は根金村・根金新田村、南は上閏戸(かみうるいど)村、北は元荒川を隔てて柴山村(現白岡町)。古くは伊沼とも記したという(風土記稿)。中央部の小字堀ノ内に館跡がある。東・西・北の三方に空堀と土塁跡が残り、「風土記稿」は佐藤内蔵助が住したといい、内蔵助は当村の斧右衛門の先祖とする。
『新編武蔵風土記稿 井沼村』
 古は伊沼村とも書せり、(中略) 
 小名 的場 馬洗戸 堀ノ内 土手 村の中程を云、此地は東西北の三方に、堀或は土手跡ありて古の壘跡と見えたり、當村に佐藤内藏助と云ものありしと、もし是等の住せし所にや、内藏助は村民斧右衛門が先祖なりしとのみいへど、慥かなることは詳にせず、
        
          細い参道の先の鬱蒼とした林の中に境内が見えてくる。
 井沼久伊豆神社の創建年代などは不詳であるが、室町末期に菖蒲城主佐々木氏綱の家臣の佐藤内蔵助という武将が井沼に居館(井沼館)を構えていて、元々当社の境内は佐藤家の敷地内であったということから、佐藤家の氏神として祀られていたのではないかという。
 その後、宝永7年(1710)に久伊豆神社の本社とされる玉敷神社から改めて分霊を受けて再建、井沼の鎮守として祀られてた。明治40年に字的場の久伊豆神社を合祀している。
 
   境内の右側に祀られている神明社        蓮田市に鎮座している久伊豆神社
      と愛宕神社の石碑           のみに設置されている特別な案内板
 七つの久伊豆神社めぐり
「井沼の久伊豆神社」  蓮田市井沼七五九
 蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。
 したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
 この「井沼の久伊豆神社」は、氏子数一一〇有余で構成され、元旦の四方拝の祭典で始まり四月第一土、日曜日に春祭礼、七月第一土、日曜日に夏祭礼、八月十五日に観音様灯籠、十月第二日曜日に秋祭礼を執行いたします。この間、総代三名、年当番六名を中心に拝殿及び境内の清掃等を行います。
 春祭礼には、騎西町の玉敷神社から明神様を借りてきて氏子各戸回り家内安全、無業息災を祈る行事がとり行われます。(以下略)
                                      案内板より引用
        
             参道左側に設置されている
改修記念之碑
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 井沼村』
 久伊豆社二宇 二社共に村の鎭守なり、いづれも本地佛正觀音を安ず、寶泉寺持、末社
 天照太神 八幡・春日の二神を相殿とす、稻荷社二宇 〇辨天社 神體は春日の作なり、同寺持
 寶泉寺 禪宗曹洞派、上閏戸村秀源寺末、愛辨山と云、開山梅眼香譽天正十二年三月朔日寂す、本尊如意輪觀音を安ず、


 久伊豆社  蓮田市井沼七五九(井沼字後塚)
 井沼の地内には、中央部の字堀之内に館跡があり、その東・西・南の三方に空堀と土塁跡が残る。この館には室町末期に佐藤内蔵助という武将が居城したと伝え、その子孫とされる佐藤清家は、当社の隣に居を構えている。
 当社は、口碑によると、宝永七年(一七一〇)三月に、騎西の明神様(玉敷神社)から分霊を勧請し、社殿を再建したという。『風土記稿』井沼村の項には、「久伊豆社二宇 二社共に村の鎮守なり、いずれも本地仏正観世音を安ず、宝泉寺持」と載る。また、口碑によれば、当社の境内は元々佐藤家の敷地内であったという。また、別当であった宝泉寺の住職は、しばしば佐藤家から輩出していたという。恐らくは、本来佐藤家の氏神であった社が、村の鎮守として信仰されるようになってきたことから、宝永七年に久伊豆神社の本社とされる玉敷神社から改めて分霊を受け、同家とも関わりの深かった宝泉寺住職の手により、本地仏が納められたものであろう。
 なお『風土記稿』に見える二社の久伊豆神社のうちのもう一社は、字的場に鎮座していたが、明治四十年五月、当社に合祀された。
 当社の社殿は、文化五年(一八〇八)及び大正十二年に改築が行われた。しかし、その後老朽化が激しくなり、昭和六十四年、氏子の協力により大修理され現在に至っている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
    社殿の左側奥に祀られている弁財天     社殿の右側奥に祀られている稲荷神社
        
             境内に祀られている境内社・稲荷大明神
             境内社の傍には力石を二基置かれている。
        
            どことなく昔の懐かしい雰囲気が漂う境内



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「蓮田市HP」「蓮田市観光協会HP」
    「埼玉の神社」「境内記念碑文・案内板」等

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駒崎久伊豆神社


        
            
・所在地 埼玉県蓮田市大字駒崎271
            
・ご祭神 大己貴命
            
・社 格 旧駒ヶ崎村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭礼 4月第1日曜日 夏祭礼 714日に近い日曜日
                 
秋祭り 1215日に近い日曜日 他
 上平野八幡神社から埼玉県道77号行田蓮田線を1.7㎞程東行し、「井沼」交差点を右折する。同県道87号上尾久喜線に合流後、南西方向に進み、見沼代用水に架かる徒行橋を越えた先にある「駒崎自治会館」のすぐ東隣に駒崎久伊豆神社は鎮座している。
 因みに参道の東側に隣接して嘗ての別当寺であった新義真言宗・星久院(しょうきゅういん)の広大な墓地がある。この寺院は新義真言宗足立郡倉田村(桶川市)明星院の末、仏光山遍照寺と号し、本尊は弥陀。開山 は祐長文安3年(1446年)で、江戸期に建てられた堂宇はことごとく火災にあう焼失したと言われ、当時をしるす古文書は残っていないが、火災のとき持ち出したと言われる須弥檀(しゅみだん)と仏像は大きく立派なもので、残された仏像から観音堂もあり、当時の寺院が大伽藍や堂を持った寺であったことを知ることができるという。
        
            駒崎久伊豆神社境内に通じる南北に長い参道
『日本歴史地名大系』 「駒崎村」の解説
 綾瀬川の左岸、井沼村・上平野村の南に位置する。正和四年(一三一五)四月一三日、伊賀光貞は父頼泰から武蔵国「駒前」等を譲られ、嘉暦二年(一三二七)八月二四日幕府より外題安堵を受けた(正和四年四月一三日「伊賀頼泰譲状写」楓軒文書纂)。検地は寛永七年(一六三〇)岩槻藩阿部氏が行っている(風土記稿)。田園簿では同藩領で、田高一六三石余・畑高一二四石余.
 
 
150m程の長い参道が南北に伸びていて、途中に朱を基調とした一の鳥居(写真左)、二の鳥居(同右)が建っている。
        
         県道沿いに鎮座しながら境内は静かで落ち着いた雰囲気
 駒崎久伊豆神社の創建年代は不明である。ただ別当寺だった星久院の開山の祐長が1446年(文安3年)の寂であることから、そのころに創建されたものと推測されている。1846年(弘化3年)に神祇管領長上吉田家より正一位に叙せられた。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、「八幡社」が合祀された。
        
              境内に設置されている社の案内板
「駒崎の久伊豆神社」  蓮田市駒崎二七一
蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。
 したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。
 この「駒崎の久伊豆神社」は、室町期に創建されたと推測されており、現在氏子数八十有余名で構成され、元旦の四方拝の祭典で始まり、四月第一日曜に春祭礼、七月十四日に近い日曜に夏祭礼があり四月と七月の祭には獅子頭をかついで氏子各戸を回り五穀豊穣・病魔退散を祈ります。十二月十五日に近い日曜には秋祭りがあり、婦人会中心の踊りを奉納します。各行事とも総代三名、年番八名を中心に執行しております。又境内の清掃は老人会が行うなど村の鎮守様として信仰を集めている。(以下略)
                                       案内板より引用

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 駒ヶ崎村』
 久伊豆社 村の鎭守なり、社内に元祿四年再造の棟札をかく、星久院持、
 星久院 新義真言宗、足立郡倉田村明星院末、佛光山遍照寺と號す、本尊彌陀を置り、開山祐長文安三年の寂なり、

 久伊豆神社  蓮田市駒崎二七一(駒崎字中郷)
 鎮座地の駒崎は、古くは「駒前」とも書き、正和四年(一三一五)の「伊賀頼泰譲状写」にその名が見えるように、古くから続く村である。当社の創建の時期は定かではないが、江戸時代に別当であった真言宗星久院の開山の祐長が文安三年(一四四六)寂であることから、当社の創建も室町期には行われていたことが推測される。
『風土記稿』駒ケ崎村の項に、当社は「久伊豆社 村の鎮守なり、社内に元禄四年(一六九一)の棟札をかく、星久院持」と記されている。この記事に記されている棟札は、現存こそしていないが、本殿には「奉僧永海」「(梵字)元禄十四年(一七〇一)十一月吉日」と刻まれた金幣が納められているので、この時期に社殿の再建がなされたことがうかがわれる。また、昭和五十五年に総代の箕田賢一がまとめた『久伊豆神社之記』によれば、昭和五十五年二月に本殿東側の大杉を伐採したところ、その年輪が二百九十余年であったことから、この杉は元禄の再建の際に植樹されたものではないかという。
 その後、弘化三年(一八四六)八月には、神祇管領の吉田家から正一位の神位に叙せられた。本殿には、この時に拝受した宗源宣旨・宗源祝詞・幣帛が奉安されている。また、極位を受けたのを契機に本殿の修復と覆屋の新設が行われたと伝えられる。
 明治六年に村社となり、同四十年には無格社八幡社を合祀した。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
                    本 殿

  社殿奥に祀られている境内社・八坂社       社殿右側手前にある力石四基
        
                社殿から参道方向を望む

 駒崎地域には、上・中・下・向山の四つの組があり、当社はそのうちの中にある。氏子の数は、現在140戸程あり、その9割が農家である。綾瀬川左岸の平野に位置し、見沼代用水が地内を貫流するこの地域は、従来は稲作や養蚕を中心にしていたが、戦後は果樹栽培が盛んとなり、今では梨が特産物となっている。春祭りは、昭和40年頃迄は4月15日が祭日であったのだが、梨の交配の為早く行うようになったのは、生業の変化に対応したものである。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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上平野八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県蓮田市上平野692
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧上平野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 元旦 防疫祭 45日 例大祭 412日 913
                  
大祓 614日 1227日 他
 蓮田市上平野地域は、元荒川右岸に位置し、南は綾瀬川を境として高虫地域のすぐ東側にある農業地域である。この地域は、『新編武蔵風土記稿 上平野村』に(「當村元は平野村とのみ唱へり、然るに元荒川の下流に同名ありて、彼川浚の時両村呼び分がたしとして、當村上流にあるを以て上の字を加ふべき山、沙汰ありしより起れりと」)と載せているように、かつては「平野村」とのみ唱えていたのだが、元荒川下流域にも同名村があるので上平野村と称するようになったという。
        
                  上平野八幡神社正面 
 この上平野地域にあって鎮守社として信仰のある八幡神社は、地域の西端に鎮座していて、高虫氷川神社から埼玉県道77号行田蓮田線を500m程東行すると、それまでの田畑風景の中に点在する雑木林とは明らかに違う緑豊かな森が出現し、その森の中に上平野八幡神社の赤い鳥居が見えてくる。因みに、後日地図を確認すると、この鳥居は珍しく北向きである。
 上平野八幡神社の正面に対して県道を挟んだ左側(地図でいうと北側)には、バスの折り返し場であろう空間があり、そこの奥にある集会所の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
           社叢林の中にひときわ目立つ朱を基調とした鳥居
    高虫氷川神社同様にこの社の社叢林も蓮田市の保存樹林の指定を受けている。
『日本歴史地名大系』 「上平野村」の解説
 元荒川右岸に位置し、南は綾瀬川を境にして足立郡に対する。東は井沼・駒崎の二村、北は元荒川を境にして柴山村(現白岡町)。元荒川の下流域に同名村があるので上平野村と称するようになったという(風土記稿)。戦国期頃に成立したとみられる市場之祭文写(武州文書)に「武州崎西郡平野宿市祭」とある。岩槻領に所属(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)と推定される一二月二〇日、「平野之内平原寺」に宛てた全阿弥の書状がある(平源寺文書)。慶長三年(一五九八)正月五日の芝切に関する傘型連署起請文(同文書)に平野村がみえる。
 
          正面の鳥居のすぐ左側の大木の根元にある庚申塔。
       その先に真っ直ぐに伸びる畦道の先に見える境内社(写真左・右)
        
   社叢林は思った以上に懐が深く、日中参拝で晴天にも関わらず、薄暗く静かである。
     深い林の中から日が差す木洩れ日が不思議な神々しさをも感じさせてくれる。

 蓮田市上平野に鎮座する上平野八幡神社の創建年代は不明である。ただ上平野村が成立したのが慶長年間(1596年-1615年)であること、当地にある平源寺も同時代の開山であることから、その頃に創建されたものと推測される。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。1944年(昭和19年)、「八幡社」から「八幡神社」に改称したという。

        参道は途中でL字に右方向に曲がるのだが、その角付近には
         一際高々と聳え立つ御神木が聳え立つ。(写真左・右)
 
 南北に通じる参道の先に建っている2基の建物のうち、左側は祭器庫、右側は社務所(写真左)。この建物には「令和八年度 上平野八幡神社 行事予定表」の紙が貼られている。そしてすぐ右手にあるのは神興庫(同右)。当社の夏の悪疫退散の行事である「天王様」に際に使用される山車や、かつて春の祭礼において各戸を練り歩いていた獅子頭等が保管されているのであろう。

『蓮田市HP』には上平野の天王様に関して、『「天王様」とは、夏の悪疫退散の行事で、神輿の渡御や山車の巡行を伴って開催されることの多い祭礼です。蓮田市内の天王様は、多くが714日前後に実施されてきました。かつての上平野の天王様は、神輿の後を山車が巡行するお祭りでした。その後、八幡神社で祭典後に大天狗、小天狗、獅子が全氏子の家を回る形になりましたが、近年では、神社本殿に大天狗・小天狗・獅子を飾り、軽トラックに祭囃子の録音再生機材を搭載し、上平野の地区内を祭囃子の演奏をスピーカーで流しながら巡行する形になっています。』と載せている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上平野村』
 八幡社 村の鎭守なり 末社 愛宕 稻荷 〇稻荷社 〇天王社 以上共に寶蔵寺持
 〇雷電社 妙音寺持 末社 稻荷

 八幡神社  蓮田市上平野六九二(上平野字上綾瀬)
 鎮座地の上平野は、その名が示すように、元荒川右岸の平野部に位置する農業地域である。元来は単に「平野」と称していたが、元荒川下流の同名の村と区別するために、元禄年間(一六八八-一七〇四)ごろ、「上」の文字を冠するようになった。その地内には、享保十三年(一七二八)に井沢弥惣兵衛が中心となって開削した見沼代用水が通っているが、元荒川の対岸の芝山とを結ぶ伏越は、その重要構造物として著名である。
 当社は、この上平野の鎮守として祀られてきた社で、慶長年間(一五九六-一六一五)に、村の開発と同時に勧請されたものといわれている。このことは、戦国期ごろに成立したとされる「市場之祭文写」に「武州崎西郡平野宿市祭」との記載があり、また、地内の平源寺も戦国末期の草創といわれていることから、まず間違いないものと思われる。なお、『風土記稿』上平野村の項には、「八幡社 村の鎮守なり 末社 愛宕 稲荷」とあり、別当についての記載はないが、実際には真言宗の宝蔵寺が別当であった。
 明治になると、神仏分離が行われ、宝蔵寺は廃寺となり、墓地と集会所にその跡を残している。一方、当社は明治六年に村社になり、同四十年に字長島谷の雷電社と字上綾瀬の須賀社を合祀した。なお、社名は、当初は八幡社であったが、昭和十九年に八幡神社と改めた。
                                   「
埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
           境内には石祠が2基祀られている合祀社がある(写真左)。
 左側の石祠は稲荷大明神。右側の石祠は具体的な社名は彫り込まれていない。但し、天神(菅原道真)らしき人物が坐っている像に、なにやら梅(?)の木も彫られているようなので、天神社かもしれない。但し『新編武蔵風土記稿』には末社として天神社は載せていないので、あくまで推測に過ぎないことはお断りさせておく。
(*但し同地域にある平源寺項には天神社の記載があるので、合祀されている可能性はあろう)
        
                鬱蒼とした森に囲まれた社
       県道を挟んだ北側にはバスのロータリー場となっている広場がある。
        
 埼玉県道77号線の北側にはかつて別当寺といわれた「宝蔵寺」があったという。
『新編武蔵風土記稿 上平野村』
 寶藏寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院門徒、安養山と號す、本尊藥師、〇庵 正觀音を安ず、
 この宝蔵寺は武蔵国足立郡倉田村(現・埼玉県桶川市倉田)の明星院を本寺とする真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれたといい、現在はかつての寺の名残として敷地内にあった墓地は残り、その他、地域の集会所やコンクリートブロックで仕切られているが、バスのロータリー場となっている。
 そこの一角には石塔・墓石・五輪塔や宝篋印塔が並んで置かれている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「蓮田市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
   

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