古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高萩神明山王神社・下高萩新田八幡神社

【高萩神明山王神社】
        
             
・所在地 埼玉県日高市高萩20354
             
・ご祭神 大日孁貴尊
             
・社 格 旧下高萩下組産土神
             
・例祭等 神明講 110
 編集上の失敗談を一つ。実は、高萩白鬚神社の後にこの社を参拝したのだが、パソコンに画像を送る際に、間違って先に大谷沢白鬚神社や田木高根神社の画像を編集してしまって、後で気が付いた次第である。それゆえに社紹介の順序がかなり前後してしまったことを深くお詫びした次第である。
 高萩白鬚神社から埼玉県道15号川越日高線を東行し、首都圏中央連絡自動車道の高架橋を潜った先の丁字路を左折、JR川越線の踏切の先にある小畔川に架かる「中田橋」を越え、下高萩公会堂先の丁字路を左折すると高萩神明山王神社が見えてくる。
 社とはいっても、鳥居のない規模は決して大きくはないが、名称が「神明」「山王」と格式が高そうな名称に惹かれて今回の参拝を決めていた次第だ。
 
集落に囲まれた中心部に鎮座する地域の鎮守様という第一印象。今時珍しく舗装されていない道の脇に路駐し、急ぎ参拝開始する。
        
                 高萩神明山王神社正面
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
 高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
        
                    拝殿覆屋
 神明山王神社  日高町高萩一七(高萩字猿ヶ谷戸)
 当地は小畔川上流に位置し、高麗郡のうち、川越領に属した。初めは、高萩村と称していたが、享保四年に分村して下高萩村となった。また、当地の鎮守は、白鬚神社で、当社は下高萩下組の産土神(うぶしなのかみ)として祀られている。
『風土記稿』に、神明社と山王社は分かれて載り、両社共に「村持なり」とある。
 山王社は、『山王宮・東照宮』と刻まれた石祠で、元和二年の建立である。この社の創建については、当地が川越領であったことから、江戸を意識して建立したものと考えられる。
 神明社の創建は、山王社の創建より年代が下り、おそらく当地が分村した享保年間のころと思われ、五穀を守護する神として祀られたものと考えられる。祭神は大日孁貴尊で、村人の信仰心が厚いために、当地においては未だに大きな旱ばつや水害にみまわれたことがないという。
 社名が神明山王社となったのは、昭和四〇年ごろで、山王社を神明社の境内に合祀してからである。山王社のもとの鎮座地は、当社から二〇メートルほど離れた小畔川北側の竹林の中であった。合祀の理由は、従来、神明社正面には参道がなかったので、これを設けるために氏子持ちの土地と山王社境内地を交換したためである。
                                     「埼玉の神社」より引用
 旧下高萩村において、氏神という鎮守社として白鬚神社であるのに対して、当社は産土として氏子の方々から親しまれている。このため、宮参り・帯解き・新嫁参りなどの氏子の参詣は、当社を詣でてから白鬚神社に参でるのが習わしであったという。
 
    社殿の右隣に祀られている天神社            社殿の東側には覆屋があり、左から
                        庚申塔、山王宮・東照宮が祀られている。
 120日に行われる唯一の祭事である神明講は、豊作を祈る祭りである。この日、境内には当番が藁で葺いたお仮屋を二社造り、中に幣束を祀る。神は当番が蒸した赤飯で、神前に供えるとともに、お仮屋にも榊の葉に載せて供える。なお、参詣者には一箸ずつ神前の赤飯がお供物として分けられる。120日に藁でお仮屋を建てる意味は、氏子を豊かにするために外へ働きに出かける神明様が籠もる社であるといわれている。因みに、二つのお仮屋のうち、一つは東を向き、一つは西を向いており、これは、恵比須講の送迎行事(朝恵比須・宵恵比須)の変化したものと考えられるという。
 また神明講当日は、氏子の家では恵比須講があり、恵比須棚から恵比須様を奥座敷に下ろしてきて祀る。供え物は、朝が御飯・味噌汁・さんま、昼が赤飯におはぎ、夜がそばというように御馳走を作り、働きに出かける恵比須様に家業繁栄を祈るという。



【下高萩新田八幡神社】
・所在地 日高市下高萩新田101
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭 4月15日
 高萩神明山王神社の北西側には下高萩新田地域があり、この地域にも八幡神社が鎮座している。この地域は江戸期・享保年間に高萩村の新田として開発された。氏子は四軒ながら、現在まで善村民という形で、また社格も旧村社として守り継がれ、当社を「八幡さん」と敬愛を込めて呼ばれているという。
 但し、実際に参拝してみると、道を隔てて南側には団地が立ち並び、狭い境内に一基の鳥居と小さな社殿のみ。また適当な駐車スペースもないため、一時的に路駐し、すぐに手を合わせて即座に出発するという忙しさでもあった。
        
                下高萩新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「下高萩新田」の解説
 下高萩村の北にある。東は笠幡村(現川越市)。享保一〇年(一七二五)検地を受けて成立した幕府領の新田。化政期の家数八(風土記稿)。
『新編武蔵風土記稿 高萩新田村』
 高萩新田は本村の北にあたりし地なり、四境、東は笠幡村、西南は本村、北は三ッ木村なり、戸數八軒、この新田享保十巳年萩原源八郎檢地して、貢税を定めしより御料所にて、今御代官川崎平右衛門支配せり、
        
                下高萩新田八幡神社社殿
 八幡神社(はちまんさん)  日高市下高萩新田一〇一(下高萩新田字熊野)
 下高萩新田は、享保年間、高萩村の新田として開発された。江戸末期では戸数八戸であったが、のち新田村となり、明治二二年高萩村の大字となるまで、わずか四軒で行政村を形成していた。
 古くは当所の中央部にある墓地の南側に集落があったと伝えられ、元屋敷の耕地名がある。現在、最北部には旧来からの四軒が居住し、南部に昭和三十九年から入居が始まった日高団地が広がるが、その他の土地は畑となり、武蔵野の名残ともいえる雑木林が所々に残っている。
 当社は日高団地に面した雑木林の中にあり、本殿は一間社流造り見世棚(みせだな)で、内陣には白幣を祀り、祭神は誉田別命である。
 現在の拝殿は昭和二五年に建て替えられた。それ以前は藁葺きで七尺四方のものであったという。建て替えた拝殿は、当初杉皮葺きであったが、現在トタン葺きとなっている。また、鳥居は昭和四一年に奉納されたものである。
 祀職は、氏子の平井家が携わっていたと伝えられるが、同家は二度の火災に遭っているため、古記録が一切失われ、当社に関する資料も現存していない。明治五年に村社となり、以降は、三島神社の社家が務めている。
                                  「埼玉の神社」より引用 


 当地は住宅急増地域であるのも関わらず、氏子が旧来の四軒のままでいるのは、この四軒が当地開発時からの氏子でもあり、古くからの結びつきが強く、行政的にも一体となっていたため、本家・分家の関係こそないが、一家に近い付き合いを行っていることから、ここで祭る神は氏神のように大切にされているためであろう。
因みに、其の四軒とは、「平井家」「田中家」「島村家(本家)」「島村家(分家)」という。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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田木高根神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市田木198
             
・ご祭神 木花開耶姫命 誉田別命 建御名方命
             
・社 格 旧田木村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 4月第3日曜日 秋祭り 10月第3日曜日
                  稲荷祭(稲荷講) 211
 大谷沢白髭神社から一旦「大谷沢」交差点に戻り、国道407号線を250m程南下する。「JAいるま野高萩南農産物直売所」がみえるY字路を右斜め方向に進路を移し、400m程先の十字路を左折、南小畔川左岸沿いに迂回するような進路を進むと、進路左手の河川が形成したような段丘面沿いに田木高根神社の鳥居が見えてくる。
        
                  田木高根神社正面
『日本歴史地名大系』 「田木村」の解説
 大谷沢村の南にあり、日光脇往還がほぼ南北に通る。高麗郡加治領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月、加々美金右衛門(正吉)は「大谷沢之内田木村」五五石を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田六四石余・畑四〇石余、旗本三枝領(五五石)・同加々美領(五〇石)。旗本加々美領は以後幕末まで続く。三枝領分は国立史料館本元禄郷帳では旗本野呂領、化政期には旗本山本領となっており、以後幕末まで変わらない。検地は延宝三年(一六七五)に行われた。南方にある持添新田は享保一〇年(一七二五)に検地が行われ、幕府領(風土記稿)。
        
             段丘面上の石段を登ると拝殿が見えてくる。
「埼玉の神社」による田木という地域名は、地域の南側に流れる南小畔川が嘗ては激しい流れであり、その急流を示す「激つ(たぎつ)」から来たという。一方、「日本歴史地名大系」では、東松山市田木村の紹介があるのだが、その村の由来でも、高坂台地からの水を集める急流九十九(つくも)川が東部を南流していて、この九十九川のタキ(滝)が地名の由来ではないかと解説されていて、どちらの地域も河川形態からくる由来であるという。
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高麗郡田木村』
 高根權現社 玉泉寺持、村の鎭守にて、例祭九月廿九日なり、藥師堂 村持
 玉泉寺 高根山と號す、本山修驗、篠井村觀音堂の配下なり、地藏堂 村持、

 高根神社(みょうじんさま) 日高市田木一九八(田木字高根越)
 当地は日高町東南部に位置し、南は狭山市に接している。田木の地名は、急流を示す「激つ(たぎつ)」から来たといわれ、南西から北東に流れる南小畔川は、下流に谷津・大谷沢といった地名を残すことからも、以前はこのような激しい流れがあったものと思われる。
 当社の境内は、田木の北部にあり、小畔川を挟んで集落に面している。
 創建は、社記に正徳二年三月と伝えられている。『風土記稿』には「高根権現社 玉泉寺持、村の鎮守にて、例祭九月廿九日なり」と見え、江戸期、本山派修験の高根山玉泉寺が管理していたことがわかる。また、文政三年の上屋再建棟札に、「神主杉山因幡正」と見え、修験とは別に神職の関与もあったものと思われる。
 現在の高根家は、長く本山派修験の玉泉寺として、別当職を務めていたが、明治五年に復飾し、以来神職として当社の祭祀を行っている。なお、当家の系譜は、永禄六年初代良円までさかのぼると伝え、現在まで四百年に渡り祀職を続けているという。
 祭神は、木花開耶姫命・誉田別命・建御名方命である。なお、本殿は二間社流造りで、内陣には崇敬の厚かった加賀美金右衛門源遠方により文化元年に奉納された、祭神三柱の神像が安置されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿            本殿奥に祀られている稲荷・琴比羅社
 日高市田木地域は、台東・台西・下・東。原南・原北・新田の七組に分かれていて、各組二名から四名の当番が家順に二年任期で当たる。当番は、社の祭典準備・直会準備等を行い、稲荷祭のあとの役員改選の際に交替するという。
 当地は水道が整備されるまでは、日照りになると富士見町の榛名神社に水をもらい、頂いた水を当社に供えて神職が祈願すると雨が必ず降ったといわれている。
        
             境内に設置されている「地所獻納之碑」
 この「地所獻納之碑」の碑文は、見ずらい箇所がほとんどであるのだが、最初の行に創建時期が「明徳二年(1391)」とハッキリと刻まれていた。一方「埼玉の神社」によると、この社のそれは「正徳二年(1712)三月」となっていて、「〇徳」のちょっとした違いではあるが、時期的にかなりの歴史年代のズレがある。
「埼玉の神社」では、神職である高根家に関しては、その系譜は、永禄六年(1563)初代良円までさかのぼるというので、時系列的にみると、「正徳二年」創建のほうが辻褄が合うようにも思われるが、そこは断言できない。さらなる詳しい資料の出現を望みたい。
        
                社殿から鳥居方向を望む


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴地地名大系」「埼玉の神社」「境内記念碑文」等
 

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大谷沢白髭神社


        
             
・所在地 埼玉県日高市大谷沢484
             ・ご祭神 猿田彦命
             ・社 格 旧上大谷澤村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お九日) 1017
 高萩白髭神社から一旦西行し、「高萩東」交差点を左折、国道407号線を南下する。2㎞程進んだ「大谷沢」交差点を左折し、すぐ先にあるY字路を右斜め方向に進むと、進行方向右手に大谷沢白髭神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 この幟旗ポール付近に若干の駐車スペースがあるので、そこに一時的に駐車し、急ぎ参拝を行った。地域のほぼ中央を旧日光脇往還、現在の国道407号線が南北に走っているにも関わらず、国道の近距離に鎮座する社周辺は田畑風景が広がる長閑な地帯である
        
             大谷沢白髭神社の一の鳥居と社号標柱
『日本歴史地名大系 』「上大谷沢村」の解説
 郷帳類には大谷沢村と記されることが多い。中沢村の南東にあり、東は下大谷沢村。北部を鎌倉街道が南東から北西へ、ほぼ中央を南北に日光脇往還が通る。長享三年(一四八九)四月二五日、下野国の渋垂小四郎は永享の乱中に押領された「武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村」など八ヵ所に上る所領の安堵を求めて本知行の目録を作成、古河公方足利政氏から安堵の証判を与えられた(「渋垂小四郎本知行目録写」渋垂文書)。永正二年(一五〇五)二月一五日にも同文の本知行目録を作成して古河公方足利高基の証判を受けている(「足利高基袖判渋垂小四郎申状写」同文書)。
 
       社周辺の長閑な風景と完全に同化している社の参道(写真左・右)
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上大谷澤村』
 白髭社 村の鎭守なり、寶藏寺持、下同、
 神明社 山王社
 寶藏寺 辨日山辨陽院と號す、新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院の末なり、本尊十一面觀音を安ず、開山開基詳ならず、


 白鬚神社(みょうじんさま)  日高市大谷沢四八四(大谷沢字宮)
 当地は第二小畔川と南小畔川に挟まれた農業地域である。
 社の創建は社記によると明徳年間と伝え、村鎮守であった。また、社蔵文書には、寛永一五年に村民金子惣兵衛が寄附した鰐口があったと記している。
 祭神は猿田彦命であり、村人は長く明神様の呼び名で親しみ、五穀の神として祭りを続けてきた。
 別当は真言宗弁日山弁陽寺で、神仏分離まで当社を管理していた。
 本殿は朱塗りの一間社流造りで江戸後期の建築であるが、覆屋は昭和四五年に改築されたものである。改築前の覆屋は草屋根で、傷むと「差し替え」と称して村人が麦藁を持ち寄り、修理を行っていた。
 境内社は、天神社・豊受社・山王社がある。このうち、天神社は古くからの末社で、他の二社は合祀社である。豊受社はお伊勢様と称し、大谷沢・馬引沢・中沢地区が祀る社で、字西原に鎮座していた。また、豊受社は山林を持っていたが、明治末期に社が合祀されたため、跡地は開墾され当社持ちの土地となった。しかし、これは戦後農地解放のため失った。合祀前の豊受社は、間口一間ほどの覆屋の中に小祠を置いたもので、毎年正月に幣束を新たにしていた。現在の石祠は跡地から移転されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は大字大谷沢全域となる。当地は急激な人口増加はみられないが、徐々に分家で増えている地域でもある。生業は農業が多く、米作を中心としておこなっている。
 当社は村鎮守として祀られ、氏子が五穀豊穣の祭りを行っている。祭典は質素で付け祭りもないが、豊作を祈る氏子の気持ちは強いという。
 
 社殿の左側に祀られている石祠群(写真左・右)。「埼玉の神社」において、石祠の末社は四柱配置されているのだが、ここには五柱ある。但し、一番左側の石祠は、基礎石垣部分の土の汚れが見られないので、つい最近祀られたと考えられる。残りの石祠は、左から山王社・天神社・神明社・神明社。
       
 社殿前の巨木(写真左)、また鳥居前の立派なイチョウの大木(同右)は、御神木かどうかは不明だが、周囲の風景とは違う雰囲気を醸し出していたので、撮影してしまった。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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高萩白鬚神社

『新編武蔵風土記稿 高萩村』
 
往昔は上下高萩の分ちなく一村なりしが、寶永の頃上下の二村となれり、然れども元一村の地を分ちしなれば、上下の界區定かならず、民家田畠ともに打交れり、又上下に分鄕せしとはいへども、上高萩村は上の字を冠せず、唯高萩村と唱へ、下高萩のみ下の字を冠せり(中略)
 水田少く陸田多し、用水は村の西の方女影村千丈ヶ池より出る水を引沃げり、又村の巽にあたり溜池あり、これも用水の助とす、旱損場にて水損なし、

        
             
・所在地 埼玉県日高市高萩1608
             
・ご祭神 猿田彦大神
             
・社 格 上・下高萩村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 310日に近い日曜日
                  
秋祭り 1015日前後の日曜日
 森戸新田八幡神社から国道407号線を南下し、3㎞程進んだ「高萩東」交差点を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、東行すること500m程で、進行方向に対して左手に高萩白鬚神社が横を向くように見えてくる。
 旧高麗郡には多くの白鬚神社・白髭神社が祀られていて、この高萩白鬚神社もそのうちの一社。
 久しぶりに見る西向き社殿。県道に対して並行に参道や境内等が配置されていて、丁度社殿付近に県道から駐車スペースに入る脇道があり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  高萩白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「高萩村」の解説
 上大谷沢(かみおやざわ)村・下大谷沢村の北にあり、東は下高萩村。小畔川が北部を東流、その南方を同川支流下小畔川・南小畔川が北東流する。日光脇往還がほぼ南北に通り、小名宿(しゆく)には同往還の宿駅が置かれていた。東方の下高萩村に対し、上高萩村とも称された。文安元年(一四四四)一二月一三日の旦那譲状写(相馬家文書)に「筥根山御領属高萩駒形之宮二所」とみえ、相模箱根山領である高萩駒形宮二所の旦那職が山本坊(現越生町)から豊前阿闍梨へ譲渡されている。永正一四年(一五一七)五月一四日には「高萩之実相寺」等に入西(につさい)郡の内出戸より上の修験支配の権利を返したことが山本坊に伝えられている(「出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写」同文書)。同一六年四月二八日の伊勢宗瑞知行注文(箱根神社文書)では、宗瑞(伊勢長氏)から子息菊寿丸(北条長綱)に譲られた箱根山領のうちに「むさしたかはき」五一貫文があった。
『日本歴史地名大系』 「下高萩村」の解説
 高萩村の東にあり、東は笠幡村(現川越市)。小畔川が東へ流れ、その南方を北東流してきた支流が東部で合流する。高麗郡川越領に属した(風土記稿)。宝永四年(一七〇七)に高萩村から分村した(天保五年「高萩村明細帳」武蔵国村明細帳集成)。だが天保郷帳に村名はみえない。前出高萩村明細帳によれば枝郷下高萩村は高七一石余、反別一九町七反余。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
        
                   結構長い参道
   参道右側は民家が建ち並んでいるが、対する左側は昔ながらの緑豊かな杉並木が並ぶ。
 
 参道途中左側に祀られている境内社・愛宕社  参道の先の境内に入ったすぐ左側にある手水舎
                         手水舎の右奥には社務所も見える
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下高萩村』
 八幡白髭兩社相殿 上下高萩村の鎭守にて、例祭九月二十九日なり、本山修驗白鈴寺持、
 愛宕社 神明社 山王社 村持なり、不動堂
 白鈴寺 吟松山と號す、本山修驗、上高萩村高萩院配下なり、相傳ふ當寺の持なる八幡白髭の社を勸請せし時、社の上を鶴が〇翔するを以て、山を吟松、寺を鶴齡と名づけしが、いつの頃かいかなる故にや今の寺號にあらためしと、いとおぼつかなき説なれど、姑く傳のまゝを記す、

 白鬚神社(みょうじんさま)  日高町高萩一六〇八(高萩字白髭)
 高萩は小畔川上流域に位置する。地名の由来は丈の高い萩が茂っていたことによる。村は地形平坦で地質は赤土である。このため水田は少なく陸田が多い。しかも、用水は村の西方、女影村千丈ヶ池から引水するとともに南西の溜め池も利用していた干損の地である。
 当社はこの村の字白髭に鎮座している。
『風土記稿』には、八幡白髭両社相殿とあり、上高萩村・下高萩村の鎮守として祀られ、例祭は九月二九日であったことが記されている。なお、当時の別当は本山派修験白鈴寺であった。
 白鈴寺は、上高萩村の聖護院末寺で、吟松山と号していた。同寺の伝承では、往古、八幡白鬚社を勧請した時、社殿の上を鶴が飛び交ったため奇瑞として、鶴瑞寺と名付けたが、いつのころか現在の寺名になったという。
 祭神は猿田彦大神である。本殿は一間社流造りで、内陣に金幣を祀る。また、社務所には、白鬚明神座像と騎乗の八幡明神像を奉安しており、祭りの時のみこれを社殿に祀る。
 明治期の神仏分離によって、別当は廃され、当社は社名を白鬚神社と改めた。また、これとともに神職を置くようになり、当社の初代神職は、村人から法印と呼ばれていた人物が奉仕することとなった。明治五年に村社となった。
   
                               「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 氏子区域は下高萩と上高萩の小字上宿・中宿・下宿・富士見町(六郎ヶ谷戸)の御組である。氏子は、当社を明神様と呼び、村鎮守、又は氏神として親しみ、祭りを続けているという。
        
               境内北側に祀られている金精様
 金精神(こんせいしん)は、男根に似た自然木や自然石を神体として信仰する性崇拝の一種である。金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされていて、子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。
 金精神を祀った神社は全国各地にあるが、特に東日本の東北地方から関東地方にかけての地域に多くみられる。
 高萩白鬚神社の境内社には、愛宕社と金精様の二社がある。愛宕社は火防の神として信仰され、金精様は子授けの祈願・縁結び・夫婦円満の御利益があり、願がかなうと穴あき石を奉納する。金精様に安置する石棒は、ある氏子の方のは畑から出土し奉納されたものである。元はこれとは別の、長さ30㎝程の石棒があったが、終戦後盗難に遭い、現在はないという。
        
                                社殿から参道への眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

                 

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森戸新田八幡神社


        
                        ・所在地 埼玉県日高市森戸新田31
                        ・ご祭神 誉田別命(推定)
                        ・社 格 旧森戸新田村鎮守・旧村社
                        ・例祭等 元旦祭 春の例祭 315日 秋の例祭 1123
 国道407号線を坂戸市から鶴ヶ島市方向に南下し、日光街道との交点である「高倉天神」交差点を直進する。国道407号鶴ヶ島日高バイパスを更に1.5㎞程進み、道が大きく左カーブに入り始めるすぐ左側に森戸新田八幡神社が国道を背にしてポツンと佇んでいる。
        
                 森戸新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「森戸新田」の解説
 下高萩(しもたかはぎ)新田の西にあり、本村は北方二〇町ほどの所にある入間郡森戸村(現坂戸市)。入間郡河越領に属した。享保年間(一七一六―三六)に原野を開墾して成立した(風土記稿)。明治期の始めは高麗郡となり、高萩村に属し、二十九年入間郡に復す。
        
       すぐ後ろ側には国道が走っているにも関わらず、至って静かな境内
  
享保年間(1716―36)まで原野であったというのも何となく理解できるような、長閑な風景
        
                    拝 殿
 八幡神社  日高町森戸新田三一(森戸新田字熊野)
 当地は入間川の支流である小畔川の流域に開ける。
 口碑に「万治のころ近江源氏の流れをくむ吉野氏の先祖がこの地に土着し、氏神八幡社を祀る」という。更に別の口碑に「この村の開発は享保のころで、現坂戸森戸の人たちが新田開発に移住したのに始まり、開発の折、森戸に祀る鎮守熊野社を勧請した」という。
『風土記稿』森戸新田の項には「八幡社 村の鎮守にして、村民の持」とあるだけで熊野神社についての記載はない。更に『明細帳』には、八幡神社の境内社として熊野神社を載せている。
古老は、当社の鎮座地には、大正の頃まで「オクマンサマ」の社もあり、祭り日も決まっていて、子供たちが太鼓をたたいたと伝えている。
 以上のことと、当社の鎮座地の小字を熊野と呼ぶことを勘案するに、新田開発に当たり、親村の鎮守であった熊野神社の分霊を枝村に祀り、下って一村を形成するに従い、氏子の吉野家の氏神であった八幡神社が信仰を集めるようになり、いつのころか鎮守が入れ替わったものと推察される。
 明治五年に村社となり、明治末期に村内鎮座の軻遇突智神社を合祀する。なお、現在では熊野神社の所在については不明である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は森戸新田の字熊野で、一五戸程。氏子は当社の信仰を「村が平和に暮らせるのが一番の御利益」という。終身性の濃い氏子総代四名と年交替で努める行事当番一名が神社運営に当たり、運営費は、昭和末期時点で一戸1,000円宛を神社費として支出し、充てているという。
        
                 東側より境内を撮影
 氏子の年中行事は、115日の繭玉、同20日のお恵比須様に始まる。また、節分の唱え言葉は「マメモナン二モムシタカンナ」で、古い姿を残しているという。
 119日・10日は「亥の子」で、まず、9日の夕方には、おはぎを作り一升枡に入れて縁側に設けた机の上に進ぜる。10日には、うどんを上げる。ただし、おはぎとうどんとどっちが旨いか神様に比べてもらうためにと9日のおはぎも10日の夜まで下げないで飾って置く。なお、これを供える机には、菊の花を飾ることになっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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