吉田白鬚神社
但しその内容に関しては、宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であるため、どこまで真偽を認めるかについては諸説あり、ここではそれ以上深くは追及はしない。
この書物において、32歳で出家した彼女は、西行(さいぎょう)の跡を慕って諸国を旅した際に、各地の記録などを綴っている。その中に「正応二年、すだ川(隅田川)の橋とぞ申し侍る、この川の向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、時の国司・里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めらる」と載せてあり、この「吉田の里」が当地であるとの説があるという事だ。
・所在地 埼玉県川越市吉田192
・ご祭神 猿田彦命
・社 格 旧村社
・例祭等 春祈祷 3月15日 秋日待 10月16・17日
鶴ヶ島市役所から埼玉県道114号川越越生線を川越市方向に東行する。市役所から200m程先で、進行方向右手に見える高徳神社の社叢林や、関越自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が交わる「鶴ヶ島JCT」の巨大な高架橋を左手に眺めながら、更に1.7㎞程進み、十字路を右折する。右折後、すぐ進行方向右手に曹洞宗派の寺院である「萬久院」が、その南側並びに「吉田自治会館」があり、その自治会館の西側奥に吉田白鬚神社が鎮座している。因みに「吉田自治会館」には十分な駐車スペースが確保されていて、そこの一隅に停めてから参拝を行う。
吉田白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉田村」の解説
小堤(こづつみ)村の南、的場村の西、小畔川流域の低地に立地。高麗郡に属した。「とはずがたり」に「昔はみよし野の里と申しけるが(中略)吉田の里と名を改められ」とみえる吉田の里を当地に比定する説がある。小田原衆所領役帳に江戸衆の太田大膳亮の所領として「卅八貫九百十八文 川越吉田郷」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六八石余・畑高五九石余、ほかに永二貫九〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三一石余、反別は田一六町五反余・畑二一町二反余、ほかに開発分高一三石余(反別田九反余・畑一町二反余)。
「白髭神社」と刻まれた石碑 鳥居の社号額「村社白髭神社」
武蔵国は12世紀後半において大開拓時代にあり、児玉・入西(にっさい)の両郡領主であった児玉氏は、入西郡小代郷の空閑地を選定し、大規模に開拓を進めた。入西三郎大夫資行の次男である遠弘は小代郷を与えられ、小代氏となる。
・武蔵七党系図
「有大夫別当弘行(弟有三郎経行)―入西三郎大夫資行―小代二郎大夫遠広―七郎遠平(弟小代八郎行平)―吉田小二郎俊平―二郎平内左衛門尉重俊―二郎重泰―又二郎伊重―彦二郎伊志」
その後、小代遠広の子行平は、自分の養子となった小代俊平(としひら)に、入西郡小代郷の村々ならびに屋敷等を譲り、俊平は入西郡吉田の村に住んで、「吉田」と称したという。
・小代文書
「承元四年、小代行平は入西郡勝代郷よしたの村の四至を養子俊平に譲り与う」
児玉党小代氏流吉田氏の誕生であり、その根拠地は、現吉田地域内の「堀の内」という。社から400m程北東方向で、現在「吉田堀之内公園」がある場所周辺との事だ。
すっきり整備されている参道及び境内
吉田白鬚神社の創建年代は不明である。716年(霊亀2年)の高麗郡設置の際に、郡内各地に創建された白鬚神社の一つといわれている。「西光寺」が別当寺であった。西光寺は明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれ、西光寺の僧侶は還俗して当社の神職となった。
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。そのうちの1社「稲荷神社」は1941年(昭和16年)に地元の出征兵士が参拝できる神社が近くにないという理由により復祀されている。
上り坂の参道を抜けると、一段高い所に社殿が鎮座
決して規模は大きくはない社だが、きれいに整えられている。社殿は改築されているようで綺麗。また境内も手入れはしっかりとされている。自治会館が隣にあり、裏手に滑り台等の遊具もあり、地域の方々との一体感がある社という印象。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 吉田村』
平夷の地なり、民戸五十二、所々に散住す、土性赤黑粗薄なり、水田多く陸田は少し、用水は村内を流るゝ小畔川を引來て沃げども、土性惡き故動もすれば旱損を患へ、又此川溢るゝ時は水損のあり、
神明社 西光寺持、例祭七月廿七日、社は塚上にあり、塚の匝り凡四十間、高さ一丈餘、社邊は平坦にて十五六歩の地なり、
稻荷社 萬久院の持、
稻荷社 西光寺持、下の二社も同じ、
白髭社 例祭九月廿九日、
諏訪社 例祭七月廿七日 村の鎭守なり、
西光寺 吉田山と號す、天台宗、東叡山末なり、本尊大日を安ず、開山觀長天正十二年寂す、
萬久院 無量山と號す、曹洞宗、足立郡大久保村大泉院末なり、本尊彌陀を安ず、開山超嚴守宗寛永十年寂す、
白鬚神社(みょうじんさま) 川越市吉田一九二(吉田字宮山)
当地は、古くは高麗郡名細村吉田という。南に小畦川が流れ、流域には縄文中期の水神遺跡がある。鎌倉期の『とはずがたり』に「昔みよし野の里と申しけるが、いつか吉田の里と名を改めらる」と残り、早くに開発された所である。当社は、霊亀年中高麗郡設置により、郡内各所に鎮守として白鬚神社が祀られた折、その一つとして奉祀されたものと考えられる。
当地の開発は、明応のころ上杉の家臣小島某が当社の所在地宮山の辺りから始め、東方の高台、堀の内へと進めたという。当時の開発には厳しいものがあったと伝えられ、今でも二メートルほど掘ると楢の木と真菰が層をなして埋まっている。
神仏習合時代に当社の別当を務めた西光寺は、小島家が入植後二代目に当たる時に建てられたと伝え、神仏分離後は吉田姓を名乗り、神職となったが、昭和二年の火災により同家は焼失した。
明治六年村社となり、同四五年に大字天沼新田字稲沢の村社稲荷神社を合祀し、続いて字伊勢山の神明社、諏訪の諏訪神社、稲荷山の稲荷神社を合祀した。
なお、稲沢の稲荷神社は、昭和一六年、出征兵士が多くなり、兵士の参拝する神社が近くにないのは不都合であるとの理由で、旧社地に新しく社殿を造り、還された。
「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 吉田村』に記されているように、吉田地域集落の下段を小畔川が流れているため、干害を受けやすく、戦前までは雨乞いが頻繁に行われた。社前にある湧水のそばにある龍神像を刻む「オタキサマ」と呼ばれる石碑を池に投げ込み、村中の者が水を掛けると同時に、獅子が池を回ったという。
*追伸
後で知ったのだが、正面鳥居のすぐ南側に「吉田白鬚緑地」や「倶利伽羅不動」があったにも関わらず、見落としてしまいました。残念であります。
境内社 左から、稲荷神社・諏訪社・神明社 本 殿
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
「Wikipedia」等