古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

吉田白鬚神社

『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期、「後深草院二条」という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学である。このタイトルは問はず語り」とも表記され、「(他人に)問われなくても話し出してしまう語り」の意との事であるという。
 但しその内容に関しては、宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であるため、どこまで真偽を認めるかについては諸説あり、ここではそれ以上深くは追及はしない。
 この書物において、32歳で出家した彼女は、西行(さいぎょう)の跡を慕って諸国を旅した際に、各地の記録などを綴っている。その中に「正応二年、すだ川(隅田川)の橋とぞ申し侍る、この川の向へをば、昔は三芳野の里と申しけるが、時の国司・里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めらる」と載せてあり、この「吉田の里」が当地であるとの説があるという事だ。
        
              
・所在地 埼玉県川越市吉田192
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春祈祷 315日 秋日待 101617
 鶴ヶ島市役所から埼玉県道114号川越越生線を川越市方向に東行する。市役所から200m程先で、進行方向右手に見える高徳神社の社叢林や、関越自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が交わる「鶴ヶ島JCT」の巨大な高架橋を左手に眺めながら、更に1.7㎞程進み、十字路を右折する。右折後、すぐ進行方向右手に曹洞宗派の寺院である「萬久院」が、その南側並びに「吉田自治会館」があり、その自治会館の西側奥に吉田白鬚神社が鎮座している。因みに「吉田自治会館」には十分な駐車スペースが確保されていて、そこの一隅に停めてから参拝を行う。
        
                 
吉田白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉田村」の解説
 小堤(こづつみ)村の南、的場村の西、小畔川流域の低地に立地。高麗郡に属した。「とはずがたり」に「昔はみよし野の里と申しけるが(中略)吉田の里と名を改められ」とみえる吉田の里を当地に比定する説がある。小田原衆所領役帳に江戸衆の太田大膳亮の所領として「卅八貫九百十八文 川越吉田郷」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六八石余・畑高五九石余、ほかに永二貫九〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二三一石余、反別は田一六町五反余・畑二一町二反余、ほかに開発分高一三石余(反別田九反余・畑一町二反余)。
       
        
「白髭神社」と刻まれた石碑      鳥居の社号額「村社白髭神社」
 武蔵国は12世紀後半において大開拓時代にあり、児玉・入西(にっさい)の両郡領主であった児玉氏は、入西郡小代郷の空閑地を選定し、大規模に開拓を進めた。入西三郎大夫資行の次男である遠弘は小代郷を与えられ、小代氏となる
・武蔵七党系図
「有大夫別当弘行(弟有三郎経行)―入西三郎大夫資行―小代二郎大夫遠広―七郎遠平(弟小代八郎行平)―吉田小二郎俊平―二郎平内左衛門尉重俊―二郎重泰―又二郎伊重―彦二郎伊志」
 その後、小代遠広の子行平は、自分の養子となった小代俊平(としひら)に、入西郡小代郷の村々ならびに屋敷等を譲り、俊平は入西郡吉田の村に住んで、「吉田」と称したという。
・小代文書
「承元四年、小代行平は入西郡勝代郷よしたの村の四至を養子俊平に譲り与う」
 児玉党小代氏流吉田氏の誕生であり、その根拠地は、現吉田地域内の「堀の内」という。社から400m程北東方向で、現在「吉田堀之内公園」がある場所周辺との事だ。
        
             すっきり整備されている参道及び境内
 吉田白鬚神社の創建年代は不明である。716年(霊亀2年)の高麗郡設置の際に、郡内各地に創建された白鬚神社の一つといわれている。「西光寺」が別当寺であった。西光寺は明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれ、西光寺の僧侶は還俗して当社の神職となった。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により周辺の4社が合祀された。そのうちの1社「稲荷神社」は1941年(昭和16年)に地元の出征兵士が参拝できる神社が近くにないという理由により復祀されている。
        
           上り坂の参道を抜けると、一段高い所に社殿が鎮座
 決して規模は大きくはない社だが、きれいに整えられている。社殿は改築されているようで綺麗。また境内も手入れはしっかりとされている。自治会館が隣にあり、裏手に滑り台等の遊具もあり、地域の方々との一体感がある社という印象。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 吉田村』
平夷の地なり、民戸五十二、所々に散住す、土性赤黑粗薄なり、水田多く陸田は少し、用水は村内を流るゝ小畔川を引來て沃げども、土性惡き故動もすれば旱損を患へ、又此川溢るゝ時は水損のあり、
神明社 西光寺持、例祭七月廿七日、社は塚上にあり、塚の匝り凡四十間、高さ一丈餘、社邊は平坦にて十五六歩の地なり、
稻荷社 萬久院の持、
稻荷社 西光寺持、下の二社も同じ、
白髭社 例祭九月廿九日、
諏訪社 例祭七月廿七日 村の鎭守なり、
西光寺 吉田山と號す、天台宗、東叡山末なり、本尊大日を安ず、開山觀長天正十二年寂す、
萬久院 無量山と號す、曹洞宗、足立郡大久保村大泉院末なり、本尊彌陀を安ず、開山超嚴守宗寛永十年寂す、


 白鬚神社(みょうじんさま)  川越市吉田一九二(吉田字宮山)
 当地は、古くは高麗郡名細村吉田という。南に小畦川が流れ、流域には縄文中期の水神遺跡がある。鎌倉期の『とはずがたり』に「昔みよし野の里と申しけるが、いつか吉田の里と名を改めらる」と残り、早くに開発された所である。当社は、霊亀年中高麗郡設置により、郡内各所に鎮守として白鬚神社が祀られた折、その一つとして奉祀されたものと考えられる。
 当地の開発は、明応のころ上杉の家臣小島某が当社の所在地宮山の辺りから始め、東方の高台、堀の内へと進めたという。当時の開発には厳しいものがあったと伝えられ、今でも二メートルほど掘ると楢の木と真菰が層をなして埋まっている。
 神仏習合時代に当社の別当を務めた西光寺は、小島家が入植後二代目に当たる時に建てられたと伝え、神仏分離後は吉田姓を名乗り、神職となったが、昭和二年の火災により同家は焼失した。
 明治六年村社となり、同四五年に大字天沼新田字稲沢の村社稲荷神社を合祀し、続いて字伊勢山の神明社、諏訪の諏訪神社、稲荷山の稲荷神社を合祀した。
 なお、稲沢の稲荷神社は、昭和一六年、出征兵士が多くなり、兵士の参拝する神社が近くにないのは不都合であるとの理由で、旧社地に新しく社殿を造り、還された。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

『新編武蔵風土記稿 吉田村』に記されているように、吉田地域集落の下段を小畔川が流れているため、干害を受けやすく、戦前までは雨乞いが頻繁に行われた。社前にある湧水のそばにある龍神像を刻む「オタキサマ」と呼ばれる石碑を池に投げ込み、村中の者が水を掛けると同時に、獅子が池を回ったという。
*追伸
後で知ったのだが、正面鳥居のすぐ南側に「吉田白鬚緑地」や「倶利伽羅不動」があったにも関わらず、見落としてしまいました。残念であります。
 
 境内社 左から、稲荷神社・諏訪社・神明社         本 殿
       
                           社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」等

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平塚新田氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市平塚新田18
             
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
             
・社 格 旧平塚村・新田鎮守 旧村社
             
・例祭等 元朝祭 12日 春祈祷 412日 
                  例祭(お日待) 
101415
 川越市の北西部に位置する平塚新田地域は、入間川と小畔川の合流点周辺の狭い区域にあり、『新編武蔵風土記稿 平塚新田村』にも「此地本村の間に攝し、北の方に一區をなせり、民家僅に九軒、田圃は本村と駁雜(はくざつ)の地なれば四境の界は本村に屬せり」と載せるように、平塚地域北端部から分けられた地が当地域であり、更に東西・南北共に1㎞程程度しかない中で、3区の飛び地で構成されている。
 下小坂白鬚神社から小畔川に沿った道路を北東方向に進み、土手を登った先にある小さな冠水橋である「鎌取橋」を渡る。今時珍しい木製の造りで、更に道幅も狭いため、通る時はゆっくりと走行したのだが、昭和生まれの筆者にとって、昔の懐かしい臭いが周囲一帯漂う風景に自分の幼少期や青年期の思い出と重ね合わせながら、時間が過ぎるのも忘れて眺めていた次第であった。
 
 昨今の橋にはみられない風情のある
鎌取橋      この橋は水面にも非常に近い。
 土手を下ると、平塚新田地域の民家が数軒見えてくる。この地域は飛び地が3カ所あるのだが、一番南東に位置するこの区域は一番狭いのだが、民家は集中しているようだ。そして、入間川方向に伸びる道を進むと、同河川土手手前に平塚新田氷川神社はひっそりと鎮座している。
        
                        
平塚新田氷川神社正面
              入間川の堤防がすぐ右手に見える。
『日本歴史地名大系』「平塚新田村」の解説
 平塚村の北東、入間川・小畔川と旧小畔川の合流点付近の低地に立地。高麗郡に属した。平塚村新田とも記す。入間郡網代(あじろ)村の百姓又左衛門が開発したと伝える(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高七五石余、反別田三町六反余・畑一二町二反余、幕末まで川越藩領。
 
  平塚新田自治会館の手前に立つ社号標柱    無駄なものがない、さっぱりとした境内

 この社の創立時期はハッキリとは分からないが、『風土記稿』によると、「入間郡網代の百姓、又左衛門なるもの来て、新墾せしと云、」また社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とあり、万治二年(1659年)の棟札があるということなので、江戸時代初期にはこの社は祀られていたことになる。
        
            参道右側に並んで祀られている境内社や石碑
         左から境内社・稲荷社、天魔大王の石碑、境内社・御嶽社
        
                    拝 殿
 氷川神社  川越市平塚新田一二(平塚新田字氷川前)
 当地は川越市の北部にある水田地帯である。口碑に、川越の殿様が松平信綱の時、武蔵野の開発が行われ、その折、山田のうち北山田の次男・三男が入り草分けとなった所であり、当時二六戸であったという。当地は古くから洪水の多い所で、小畔川・入間川・越辺川の三河川が地内落合橋の所で合流する低湿地であり、俗に「小畔のコシロ」「伊草のケサ坊」と呼ばれる二匹の大蛇が暴れた所であるという。
 当社は草分けの入職時に川越の氷川様(現宮下町の氷川神社)の分霊を受け、川を治める神様として祀ったものといわれている。
『風土記稿』に「平塚村及び新田の鎮守なり、例祭六月一五日 入間郡網代村本山修験、教学院の持なり」と載せる。
 社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とある。
 本殿は一間社流造りで、明和七庚寅年九月再営の銘がある棟札を蔵する。内陣に、「明和七庚寅年六月二十日・川越本町高田長左衛門願主」と幣芯に銘がある金幣を祀る。口碑に、この金幣は川越の氷川神社に祀ってあったものであるという。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、口碑によれば、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによるという。後に水害により新田地域の戸数は減り、平塚地域の方が大きくなっている。
 祭礼日412日は、「春祈祷」と呼び、古くは幟を立て、神楽の奉納があり賑わった。神楽師は勝呂村塚越(現坂戸市塚越)から三名頼み、太々(だいだい)神楽であった。また、山田村福田の若衆が囃子を奉納したともいう。塚越の神楽は有力者の寄附により賄ったのでハナカグラとも呼んでいた。この神賑いも戦争の激化により中止されてしまった。現在は祭典があり、同時に村境四ヶ所にフセギと称する神札を立てる行事だけである。
        
 この地は、秋のお彼岸時期になると、河川の土手周辺や水田の畔に曼珠沙華が一斉に咲き誇るという。
 埼玉で曼珠沙華の観光名所と言えば、日高市高麗本郷の巾着田や幸手の権現堂堤が有名であるが、ここ川越市平塚新田の入間川の土手の曼珠沙華も、国道254号線に架かる落合橋から平塚橋まで土手の約700mに渡って群生していて、社の境内には、「埼玉県自然100マンジュシャゲ群生地」の看板と、「堤防を 緋の帯びにして 曼珠沙華」の句碑が設置されている。
 参拝時期が5月中旬と時季外れではあったが、いずれはこの真っ赤に咲き誇る曼珠沙華の風景を堪能したいものだ。
        
                 入間川堤防の眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
   

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笠幡尾崎神社

 寛永一三年の棟札に「高麗郡笠幡之鄕惣社大明神」とあるように、当社は笠幡地域(川越市合併前の笠幡村)の総鎮守で、芳地戸・新町・山伝・倉ヶ谷戸・協栄・本町・西部から成り、当社は芳地戸に鎮座する。また、各字ごとに字鎮守の社があり、新町は三島日光社、山伝は御嶽社、倉ヶ谷戸は箱根神社、協栄は八坂社、本町は宣言者、西部は金比羅社を祀っている。各社ごとに祭典が行われ、殊に浅間社は七月一四日に初山と称して母親が子供に連れて参詣し、その子の丈夫な成育を祈る信仰がある。
 当所は高麗から川越に通じる高麗街道が村内を通るため、大町・新町・本町に宿があった。一方、小畔川沿いには水田が広がり、ほかは陸田で養蚕が盛んな頃は一面の桑畑であったという。
 社の裏手には幹回り6m余りの大杉があり、御神木にしていた。その根本には50㎝位の空洞があり大蛇が住んでいると伝えられ、周囲を3回まわると大蛇が出るといわれていたため、氏子は近寄らなかった。なお、その大蛇は当社の神の使わしめであるといわれていた。しかし、この木も昭和四六年に枯死し、伐採してしまったという。
        
              
・所在地 埼玉県川越市笠幡1280
              ・ご祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫命
              ・社 格 旧笠幡村総鎮守 旧村社
              ・例祭等 元旦祭 道饗祭 321日 春祈祷 415
                   秋日待 1015日 例祭 1115
              (*秋日待は川越市合併前には17日。例祭は従来の929日の九日
               祭りをこの日に移したという)
 笠幡箱根神社から南北に通じる道路を北上し、小畔川に架かる「田谷橋(たやはし)」を渡る。小畔川流域周辺の肥沃な田畑風景を愛でながら200m程北上し、住宅街が並ぶ十字路を右折、小畔川と並行して暫く進むと、信号のある十字路に達するので、そこを左折する。緩やかな上り斜面を進むと、すぐ左手に笠幡尾崎神社の入口、及び駐車場が見えてくる。因みに、社に面した道路は通称「さざんか通り」というようだ
 参拝日は20255月中旬で、建て替え工事を行っていた関係で、正面参道入口に通じる駐車場一帯にはバリケードが敷いてあり、また境内も一部散策できなかった場所もあって、その点は少々残念。
 この社には「正面参道入口」「北側参道入口」、そして一番西側にある「西側参道入口」と、それぞれ鳥居が設置されているのだが、建て替え工事の関係や、駐車場から一番近いところから「北側参道入口」から出発することになった。
        
                                                     笠幡尾崎神社北側参道入口
『日本歴史地名大系』 「笠幡村」の解説 
 [現在地名]川越市笠幡・的場・川鶴・三芳野・伊勢原町、鶴ヶ島市太田ヶ谷
 安比奈(あいな)新田の北西、小畔川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。貞治二年(一三六三)六月二五日の鎌倉府政所執事奉書(町田文書)に「武蔵国高麗郡笠縁」とみえ、年貢帖絹代を長井庄の定使給物として森三郎に給付し、残余および未進分などについては直納すべき旨が北方地頭に命じられている。また翌年九月一八日にもほぼ同内容の命令が高麗彦四郎経澄に下されている(「鎌倉府政所執事奉書」同文書)。「笠縁」は「笠幡」の誤記と考えられる。地内の尾崎神社に伝存する天文二〇年(一五五一)六月一五日の年紀がある懸仏の銘に「武州高麗郡笠幡尾崎宮」とみえ、また同年六月吉日の年紀がある懸仏銘には「大日本国武州高麗郡笠幡郷尾崎」とみえる。

       
             鳥居の右側にある社号標柱には    正面参道の様子。この参道は途中で
           「笠幡郡惣社」と表記されている。
     左側に曲がり、社殿に達する。
        
                 西側にある参道入口
 笠幡尾崎神社は古社であるのだが、その創建年代等はハッキリとは分からない。日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。当社には宝徳4年(1451)銘・大永8年(1528か?)銘の板碑や天文20年(1551)銘の懸仏など中世の信仰が残されており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものとして、共に市指定文化財となっていて、近世・江戸時代には笠幡村の鎮守社として祀られてきた。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 尾崎明神社 素戔嗚尊を祭と云、神體は圓鏡に鑄造す、その銘に武州高麗郡笠幡鄕尾崎、于時天文二十年六月吉日敬白とあり、外に慶長十二年の棟札あり、猶舊き棟札もあれど文字分たず、村中の鎭守なり、例祭九月二十九日、神職伊藤長門なり、
 稻荷社、疱瘡社
『入間郡誌』
 尾崎神社
 古社なれど勧請年暦不明、棟札の文字読むべからず。 但社号に大日本国高麗笠幡大明神と記し、又一の棟札には慶長十二年修理を記し、又一棟札に寛永十三年十二月笠幡郷惣社大明神とあり、同十五年の棟札には笠幡郷惣社尾畸大明神とあり。 其他寛文九年十二月再興元禄二年修理の棟札あり。 之れ現今の社殿也。 尚古来円経六寸表に仏体を凸出せる鋳板に天文二十年鋳造と記せる掛物二面あり。

        
       西側鳥居を過ぎて、参道を進むと両部鳥居の二の鳥居が見えてくる。
 両部鳥居の両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残というのだが、この鳥居があるという事は、この社も神仏習合系の社であったのであろうか。
        
                                 社殿に続く参道の様子
                       老杉古檜が豊かに茂る尾崎の森
 
        参道途中にある手水舎                境内に入り、すぐ右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
 尾崎神社(みょうじんさま)  川越市笠幡一二八〇(笠幡字宮前)
 当社は南に小畔川を臨み、老杉古檜が茂る広大な境内は野鳥の楽園ともなっている古社である。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命で、その創始については、日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。
 宝徳四年及び大永八年の銘がある五〇センチメートル余りの板碑と、市指定文化財となっている「大日本國武州高麗郡笠幡尾崎宮」と刻む天文二〇年の懸仏二面を蔵している。このほか神宝として天文五年銘祐定作の太刀、榎本武揚奉納の銅製社号額がある。
 棟札も数枚あり、最も古いものは「慶長拾二年三月十五日禰宜伊藤刑部」と判読でき、以下、寛永一三年・貞享二年・元禄二年・寛文九年と続く。また、『明細帳』には天保九年にも再興したとある。現在の社殿は明治一八年に再営したもので、この時に草葺き屋根を瓦葺きとし、更に近年老朽化が進んだため昭和五六年に修復した。
 祀職は神社に隣接している伊藤家である。同家は室町時代より二〇代以上続く社家であり、当社とともにその歴史は古く、慶長の棟札に伊藤刑部とあり、『風土記稿』にも「神職伊藤長門なり」とあるほか、元禄七年・享保九年・延享四年・寛政七年・文政八年・嘉永三年・慶応三年の裁許状が残っている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
【参考 埼玉苗字辞典より】
・入間郡塚越村大宮住吉神社文書 「貞享三年・笠幡村尾崎社家伊藤刑部」
・尾崎神社文書「元禄七年・高麗郡笠幡村尾崎大明神之祠官伊藤長門守藤原吉勝、享保九年・祠官伊藤播磨守藤原好博、延享四年・祠官伊藤長門守藤原安清、嘉永三年・神主藤原安武、慶応三年・神主藤原安教」
        
             拝殿に掲げてある「尾崎神社」の扁額
        
                境内に設置されている「芳地戸のふせぎ・懸仏二面」の案内板 

 芳地戸のふせぎ(市指定・無形民俗文化財)
 懸 仏 二 面(市指定・工芸品)
 悪魔払いの神事である「ふせぎ」を笠幡の芳地戸では、毎年春の彼岸の中日に行なっている。その日の午前中、神社でおみこしを作る。四角の木製の枠に榊や樫の小枝などを取付けただけの古風なもので中に神社の御本体を納める。神社でふせぎの祈禱を行なったあと、芳地戸の全部の家を廻る。村廻りの行列の先頭は太鼓である。「ヨーイド・マーダー」とはやし、「ドコデン・カッカ」と太鼓を打ちながら進む。次にみこし。昭和四十二~三年ぐらいまでは、一家の中まで入って清めていたが、今は庭まで。次に村境にたてる辻札八組と尾崎神社の幟一本。それに子供達が大勢従って行く。
 又、この神社に保管されている懸仏は、神の本体という意味の御正体を仏像で現したものである。二面ある懸仏はどちらも直径十八・六センチメートルの円板状の板金でつくられ、釣手が二つある。中央に鋳造した半肉の仏像一体が取付けられており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものである。
 昭和五十七年七月
 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 この「ふせぎ」は「道饗祭」とも称し、享保六年から始まった神事であるという。四角の木製枠に榊の枝を取り付けた神輿に神霊を移して担ぎ、男女の性器を模したわら細工をつるした竹の棒を先頭に、太鼓をたたきつつ、村境の八カ所にこの竹の棒を立てる行事とのことだ。
 
        境内社・祖霊社                            本 殿
                         (建て替え工事中にて遠くから撮影)
        
                綺麗に手入れされている社
 工事中のため、一部境内を散策することができなかったことは残念だったが、それ以外は気持ちよく参拝を行うことができた。改めて素晴らしい社との出会いに感謝した次第だ。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
 

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笠幡鏡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡282
             ・ご祭神 猿田彦命 大山祇命 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭(春祈祷) 415日 
                  秋祭(お九日) 
1015
 笠幡箱根神社から一旦南下、JR川越線の踏切を越えてすぐ右手に「川越警察署笠幡交番」がある十字路を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、暫く東行し、南小畔川に架かる田中橋を過ぎて1㎞程進んだ「霞が関小学校(東)」交差点を左折する。道なりに暫く進むと、南小畔川に架かる庚申橋が見えるので、その手前の十字路を右折して直進すると、正面やや右側に笠幡鏡神社の石製の鳥居が見えてくる。
        
                  笠幡鏡神社正面
 当社の具体的な創建時期は不明であるが、当地を開発したある村人が、一個の古びた鏡を発掘し、その裏に「猿田」の文字が読み取れたため、それを御神体として祀ったことに始まる。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 鏡宮 承應二年七月勧請の棟札あり、神職伊藤長門吉田家の配下、
『入間郡誌』
 猿田彦大神を祭る。 勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札 あり。 又延宝五年三月二日造立の棟札あり。 元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。
 古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。 依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。
今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。
 
  綺麗に手入れされている参道、及び境内    境内の一角には案内板も掲示されている。
        
                                      拝 殿
      南小畔川のすぐ東側に位置している為か、石段上に社殿は鎮座している。
 鏡神社(みょうじんさま) 川越市笠幡282(笠幡字後大町)
 当社の創建は不詳であるが、かなり古くから信仰されていたことは、社蔵の承応二年の棟札により明らかである。棟札はそのほか延宝五年・元禄四年・宝永五年・宝暦八年・万延元年・明治八年のものを蔵する。古来、笠幡の伊藤家が祀職に預かり、承応の棟札にも「禰宜伊藤刑部」と見える。
 鏡神社という社名は古老の伝えに、昔土地開拓の折に鏡一面を発掘し、その鏡の裏面に「猿田」と字が彫ってあったのでこの鏡(承応のころ紛失したという)を奉斎して「鏡宮」としたという。祭神は、猿田彦命・大山祇命・菅原道真公である。
 古くは笠幡大町の神明地(現社地より五〇〇メートル南方)に鎮座していたが、明治初年に大室家の山林であった現在地を境内として移した。この理由は不明であり、旧地は現在、学校の敷地となっている。
『明細帳』には、境内神社として「神明宮祭神伊勢大御神、由緒不明」とあるが、現在はなく、本殿に合祀してしまったとも伝える。氏子は神明地にあった当時は神明様と呼んでいて、鏡宮ではなかったというが、『風土記稿』には「鏡宮」と載り、伊藤家の裁許状には「尾崎明神鏡宮両社」と記すことから社名に変遷のあったことがうかがわれる。古来当初の産土であったことから、明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          拝殿上部に掲げてある扁額
  拝殿は坂戸市の厚川大家神社のように、正面が見開き状態で、特徴的な構造をしている。 
        
                     本 殿
 氏子区域は笠幡の大町地区で、氏子戸数は『明細帳』によれば二四戸であるが、現在はかなり多くなった。当地は畑作を中心とする農業地帯であるが、近年、川越線の開通により、交通の便がよくなり、急速に宅地の造成が進められている。  
 鏡神社はお産の神様であるといわれ、古来この地域ではお産で亡くなった者がいないのは、鏡神社のお陰であるといわれている。昔は婦人が願を掛けるためか、中剃りの長い髪の毛が神社の拝殿に沢山結んで奉納されていたという。
        
                                 社殿からの一風景

 神社とは別に村の行事として「二百十日のお日待」を91日に行ったという。これは、回り番が事前に宿を決めて、雨風が荒れず、順調に収穫できるようにと祈願の意を込めて飲み食いする行事であり、このような行事のお触れを出すのは神社の年行事担当の役目で、日が決まると手分けをして触れ歩いたので、大変だったとの事だ。
 このように氏子の日々は鏡神社と密着した生活が延々と営まれていたのであろう



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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笠幡箱根神社

 古代より箱根山は、山岳信仰の一大霊場であり、『筥根山縁起并序(はこねさんのえんぎならびにじょ)』(1191年成立)によると、孝昭天皇の時代に聖占が駒ケ岳において神山を神体山として祀って以来、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。因みに、地名「箱根」は古くは「函根」と記したが、同じく「箱根山」は函根山と記し、函嶺(かんれい)ともいったようだ。
 天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、神仏習合の魁として活躍し、神と仏を結ぶ聖僧(しょうそう)である『万巻上人』が箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、神山や駒ケ岳で3年間修行して、三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得し、夢の中の神託により、箱根権現を祀る社殿(現・箱根神社)を建立したという。神仏習合の流れの中で、箱根権現への信仰は東密の影響を大きく受け、多くの修験者が箱根山に入山して関東の修験霊場として栄え、鎌倉時代には、源頼朝の篤い崇敬を受け、鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集め、鎌倉幕府歴代将軍による当社への参詣は幕府の恒例行事となり、当社は「関東守護」「関東鎮守」といわれ、鎌倉幕府の祈願所として尊崇された。その後、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えたという。
 江戸時代には、箱根の関所が置かれて東海道が整備されると、東部交通の要(道中安全の守護神)に位置する箱根権現は、庶民信仰の聖地と共に一層篤い信仰を受けるようになった。
 その後、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、関東総鎮守箱根大権現は箱根神社へと改称され現在に至っている。
 川越市笠幡地域には、その「箱根」を冠した小さな社が静かに鎮座している。

        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡4431
             
・ご祭神 天津彦火火出見尊
             
・社 格 旧笠幡村倉ヶ谷戸鎮守
             
・例祭等 天王祭 715日 お日待 1014
 川越市の西側にある笠幡地域。この「笠幡」の地域名は、嘗て「陸奥国齋藤文書」に正慶二年(1333)「武蔵国高麗郡賀作波多村」と記載されていて、かなり古くからあった地名であったようだ。この地域中央部やや東側で、小畔川右岸の自然堤防上に笠幡箱根神社は静かに鎮座していて、JR川越線笠幡駅からでも北東方向で直線距離にして500m程しかない。
 駅周辺には住宅地や学校・病院等が建ち並ぶのだが、駅から北側に流れる小畔川付近は、一面長閑な田園風景が広がっていて、住宅街と昔ながらの風景が共存する地域ともいえよう。
        
                  笠幡箱根神社正面
 笠幡箱根神社の創建年代等は不詳であるが、倉ヶ谷戸地区を開拓した発知(ほっち)氏の先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えられ、慶安年間(1648-1652)に再興したという。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 舊家者啓次郎 
 發智を氏とす、先祖は六郎次郎と稱して、永正の頃より代々この村の里正たり、古器舊記等も傳へしに、文化年中火災にかゝりて烏有となれり、
 高倉村高倉寺燈籠(*もとは笠幡村発知家にあったという)
「発地氏曩祖曰、植田太郎源公光・仕鎌倉右府、五世孫光規・弘安八年十一月有武功、北条貞時賞賜以信濃国佐久郡発知之郷因称発知太郎、後更発地。正安年間有故来于此地、世為里正。光規二十四世之孫為光正性直而淳朴産益優富有田畝山林三百余町、明治六年区長兼戸長。明治十一年発地庄平光正建」
        
                   境内の様子
        
                    拝殿覆屋 
 箱根神社(ごんげんどう)  川越市笠幡四四三一(笠幡字倉ヶ谷戸)
 当社の創立は口碑によると、この笠幡の倉ヶ谷戸地区を開拓したという発知氏の遠い先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えている。『風土記稿』には「箱根権現」とあり、別当が修験大泉院であったことがわかる。古くから当社の通称は権現堂で更に老朽化した権現堂と箱根神社が並立していることから、一所、別個の社が混同視されていたのかもしれない。『明細帳』には「当社勧請年暦詳ナラサレドモ慶安年中頃発地庄平ノ祖先再興ナリ」と記してある。
 祭神は天津彦火火出見尊である。境内社は『明細帳』に「八坂神社 祭神素盞鳴尊、天保年中勧請明治十六年六月再興、琴平神社 大物主命、文政年中勧請明治十四年三月再建、稲荷神社 倉稲魂命、発地庄平の先祖某が祭る、蚕守神社 宇気母智命」と四社を載せるが、各社殿が老朽化したため、昭和五五年に本社を改築した際、本殿覆屋内に合祀した。同時に三峰社・御嶽社も合祀している。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神輿が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神興が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 嘗て境内にあったとされる権現堂は既に取り壊されていて、駐車スペースとなっているようだ。また「埼玉の神社」に載せられている別当・大泉院は『風土記稿」によると「本山修驗、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す」と記されていて、修験道一派が開山した寺院ということから、箱根権現との関連性は十分に頷けられよう。
 
  拝殿に掲げてある「箱根神社」の扁額          本殿覆屋内に合祀されている社あり

   本殿に合祀されている社は、御嶽社・三峰社・養蚕社・八坂社・稲荷社・琴平社。
        
               境内にある「廻国供養塔」等
 供養塔の並びには、嘗て「蚕影社」が祀れれていたのだが、今はないようだ。この地域は、昭和30年代まで氏子のほとんどは養蚕に従事していて、毎年10月2日に蚕影社の祭りがあったが、養蚕農家の減少により、廃されたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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