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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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上野台八幡神社


  深谷上杉氏は、室町幕府の役職の1つである関東管領となった山内上杉憲顕が、14世紀後半頃に、北関東で勢力を持っていた新田氏やその残党を抑えるために、六男上杉憲英を派遣したことに始まり、およそ230年間に及び、第9代上杉氏憲まで続いたという。
 初代憲英から4代上杉憲信までは深谷城に近い庁鼻和城(こばなわじょう)に居城を構えたことから庁鼻和上杉氏と呼ばれていたという。その後、古河公方と関東管領との抗争が激化し、管領方の有力武将であった深谷上杉5代房憲(ふさのり)は、より一層の要害として深谷城を築きその後氏憲(うじのり、生年不詳 - 1637年(寛永14年))までの5代が深谷城に住んだので、総称して「深谷上杉氏」と呼ぶ場合もある。
 深谷市上野台地区に鎮座する上野台八幡神社は、深谷上杉氏の家臣で、武蔵国榛澤郡上敷免の城主であった岡谷加賀守清英が、天文19(1550)に、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請したのに始まるという。
所在地   埼玉県深谷市上野台3168
御祭神   品陀和気命
社 格    旧郷社 
例 祭    例大祭 10月中の吉日を含む3日間    1125  新嘗祭      
         


上野台八幡神社は深谷駅の西側を南北に通る埼玉県道62号深谷寄居線を深谷駅の踏切から寄居町方向へ南方向約2㎞進むと右側道路沿いに鳥居が見えてくる。すぐ先にはコンビニエンスがあり、その交差点手前のT字路を右折すると正面には広々とした駐車スペースがある社務所もあり、そこに駐車して参拝を行う。人見浅間神社の北側で、直線距離でも1㎞満たない場所にこの社は位置している。
         

           埼玉県道62号深谷寄居線沿いに鎮座する上野台八幡神社

   鳥居を過ぎるとすぐ右側にある案内板        東西に長い参道が広がる。
 八幡神社
当社は深谷市上杉三宿老の一人、皿沼城主岡谷加賀守清英が榛沢郡茅場村に清心寺を開基しましたが、その鎮守として境内に八幡神社をまつりました。清英は文武両道に秀でた良将で、上杉謙信は清英の武略に感じて、後奈良天皇から賜った仏工春日作の箱根権現の像を清英に贈りました。当社は天文十九年(1550)山城国石清水八幡宮より分祀したもので、御神体は応神天皇束帯塗金銅像です。天正十八年(1590)皿沼城落城と共に当社は衰退しましたが、正徳年中(一八世紀初期)上野台村の地頭大久保家が、この地を寄進し移しました。高蒔絵定紋入り岡谷加賀守清英使用の鞍、安部摂津守鉄砲隊の種ヶ島銃が市指定文化財です。
 昭和五十三年一月   深谷上杉顕彰会
                                                       案内板より引用
           
                              二の鳥居
       
                 二の鳥居の傍らに岡谷加賀守清英を祀った祠。
 石祠の横の石柱には「當八幡宮創始 岡谷加賀守清英公偲祠」「加賀守十二世孫 従五位岡谷繁實大人奉                            配」と刻まれている。
        
                   参道を進むと右側に御神木の大杉が聳え立つ。

    二の鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫         上記御神木の先で参道右側には神楽殿          
           
                               拝     殿
 岡谷加賀守清英の主である深谷上杉氏は、山内上杉家4代目当主の上杉憲顕の6男・憲英が庁鼻和上杉を立てたのが祖とする。憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任命されている。分家の扇谷上杉家と共に武蔵国を治めるが6代目・上杉憲賢(1498年?~1560年)の代に北条軍との戦いである河越夜戦によって最後の当主である上杉朝定が戦死して扇谷上杉家が滅亡すると、北条家に降伏する。
 憲賢の息子である憲盛(1530年~1575年)は父が降伏してなおも、関東管領山内上杉憲政と結んで武田信玄と笛吹峠で対戦したり、同族の長尾景虎(上杉謙信)と通じて徹底抗戦を続けるが復権はならないまま1563年、北条軍に敗れて降伏した。しかし1569年、越相同盟の締結によって深谷城が上杉家に戻った事により憲盛は深谷城へ帰参。そして甲斐武田家が攻めてきた際には防戦し勝利する。憲盛は1575年に46歳で死去するまで上杉配下として貫いた。
 憲盛の息子である氏憲(?~1637年)の代では深谷上杉家は北条家に帰参している。氏憲は小田原征伐でも小田原城に籠城しているが、元配下の秋元長朝に裏切られて小田原城は開城。

 氏憲はその後小久保と姓を改め、信濃国にて隠居した。ここに名族深谷上杉氏は歴史の表舞台から完全に姿を消した。
 上野台八幡神社は元々榛澤郡茅場の地に鎮座していたが、この天正十八年(1590年)小田原征伐の際、皿沼城落城と共に一旦は当社は衰退した。その後正徳年中(十八世紀初頭)上野台村の地頭大久保家がこの地を寄進し移して現在に至っている。

 拝殿上部に掲げてある立派な木製の社号標(写真左)。なんでも近隣に在住の方から寄付されたものだそうだ。そして拝殿左側には浅間大神の石標(同右)
        
                    本    殿
 ちなみに岡谷加賀守清英は深谷上杉家の三宿老の一人と言われていて、岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人が「三宿老」、これに上原出羽守を入れて「四天王」という。
 拝殿左側にある境内社。奥は天神社、手前は不明。       本殿奥にある末社群。詳細は不明。            
            
                    拝殿右側にある境内社である台天白神社。
 台天白神社の並びには天王宮、如幻庵東山稲荷、稲荷社があるのだが、カメラが充電の関係で今回撮影ができなかった。

 ところで境内社・台天白神社は「大里郡神社誌」によると以下の記述がある。
 末社臺天白神社本殿
 ・石宮流造間口一尺奥台行尺四寸安永元年(1772年)造営明治四十二年同所字天一白より移転
 ・(神話)旧来弓矢の神として衆庶の崇敬極めて深く又農作物の守護神として氏子崇敬者の信仰厚し。
       末社臺天白神社は小児の百日咳に霊験ありとて篠笛を納め来る賽客多し。

 この「大里郡神社誌」を詳しく読むとこの上野台地区の字名には「天一白」「大臺」「台前」「小台」という「大(臺)天白」を共通する地名が今だに残っているのも興味深い。現在でも「上野台」として地名の名残りとして残っているが、嘗て文字通りこの地域は「台(臺)」の地であったのだろう。
 また調べてから発見したのだが、「鼠」という地域もあり、興味がつきない。

 この上野台八幡神社は10月3連休の土曜日から月曜日かけて例祭が行われる。上野台地区の鼠・上宿・下宿・小台・大台・桜ケ丘の六地区の屋台が奉曳され、上柴町を含めた旧大字上野台の全域を夜間も含め3日にわたって渡御する神輿であり、悪魔払い福を招くと言われ、遷座の当初より行なわれていたという。神輿渡御は当時より、上野台の各字が年々交代に行う方法がとられていたようで、この交代制が今に続く「年番」という仕組みとなっている。

 例祭では他に、獅子舞(ささら)、棒術(棒づかい)、道化などの行事がある。獅子舞は深谷市の無形文化財に指定される。祭典の中日には八幡様の社殿で、浦安の舞・豊栄の舞が奉納される。この舞は、3月の祈年祭、11月の新嘗祭でも行われる。平成20年代は「体育の日」を最終日とする3日間であることが多い。 


 




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飯塚太田神社


太田神社は旧大田村の総鎮守である。大正四年村民の総意により二十一郷社を合祀して此の聖地に勧請鎮座し奉った。爾来地区の守護神とし敬神崇祖の象徴として氏子の信仰篤く遍く神徳を施して今日に到った。
 創建以来八十年にたらんとする歳月と風雪を経て、社殿及び付属設備は老化損傷を来し予て改修を要望されていた。偶々本年は皇太子殿下御成婚の好機に際会し奉祝記念として屋根替工事等を実施するの議が盛上り氏子総代区長ら有志を以て改修委員会を組織し、直ちにその趣意を各区に伝え早急に全戸の理解と協讃を得て壱千二百余万円の寄進を申し受け着工の運びとなった、役員を始め氏子及び工事担当者の熱意と努力により短期間に見事な改修事業を完成し聳える甍の壮麗な社殿を中心に神苑諸施設も整然と修復され氏子の心に宿る尊厳と崇敬の至情が護持され高揚された事は実に意義深く慶賀の至りである。
 茲に記念碑を建て社殿修理の経緯を誌し神社と地区民の弥栄を祈り永く後昆も傳える。
 平成五年六月吉日
                                             太田神社改修事業記念より引用
所在地   埼玉県熊谷市飯塚1431 
御祭神
  大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
        ・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
        ・菅原道真公(すがわらみちざねこう)
        ・別雷命(わけいかづちのみこと)          他21柱
社  格   旧村社
例  祭   10月13日


       
  飯塚太田神社は国道407号を熊谷警察署交差点を北上し、「道の駅 めぬま」の交差点を左折し、しばらくまっすぐすすむとT字路にぶつかる。右方向に進み、最初の路地を左折すると正面に飯塚太田神社の社葬が見えてくる。位置的には太田小学校の南西方向なので、その小学校を目印にすることをお勧めする。
 適当な駐車場はないようなので、路上駐車し、急ぎ参拝を行う。

        道路沿いにある社号標                   社号標の先に参道がある。
 「大里郡神社誌」によれば、大正三年六月三十日に大里郡太田村飯塚字飯塚前に817坪を新設し、社殿を新設し、全村にある大小神社を移設・合祀し、社名も太田神社としたとのこと。社としての歴史は決して古くはない。


         参道左側には神楽殿            参道沿いにある太田神社改修事業記念石碑         


           
                             拝     殿  
 飯塚太田神社の地名「太田」の由来として、嘗てこの地には「太田氏」一族が移住していたという。
太田氏は武蔵七党の横山党の流れを汲む一派である猪俣党の末裔とも、旧埼玉郡北部や大里郡にその勢力を誇った私市党の後裔、また清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とも、はたまた藤原秀郷流太田氏の末とも言われていて、その出自ははっきりしない。室町時代関東管領上杉扇谷氏の家宰であった太田道灌は通説では摂津源氏の流れを汲み、源頼光の玄孫頼政(源三位頼政)の末子である源広綱を祖と言われているが、一説によるとこの武蔵国大里郡太田村から発祥した猪俣党太田氏の後裔ともいわれている。
              

                             本     殿
 猪俣党太田氏は幡羅郡太田村より起こったという。大里郡神社誌に「幡羅郡太田村に字高城城跡あり、太田六郎宗成が居住すと云ふ」と記述されている。
 
猪俣党とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり、武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族である。 分布地域は二つに分かれ、神流川扇状地の条理地域と利根川南岸の旧河道の間の台地上で、当時の条里地域にその一党は勢力を伸ばし土着したと考えられる。

                     社殿の奥にある合祀社群(写真左、右)
 「大里郡神社誌」によると、飯塚太田神社に合祀された二十一社の内の二社の神職は「天田氏」、「大井氏」であったことが記述されている。
 ・ 天田氏 山城国醍醐三宝院の修験なり富瑠輪山大乗院と号し(中略)、代々富瑠輪明神の別当たり。当山修験にて維新後復飾して天田貢内と改め神職となり、大正三年太田神社の社掌を拝命す。
 ・ 大井氏 大重院と号し、富山派の修験なり崎玉郡酒零村酒零寺の配下に属す(中略)。明治維新後復職して大井中と改め諏訪社の神職たりしが大正四年天田氏の死亡後太田神社の社掌を拝命す。



 富瑠輪神社の由来は要約すると『嘗て日本武尊が東征の折、この地を過ぎた時に「御保呂」を置かせたのを村人がこの「御保呂」を祀り、「保呂輪宮」と敬祭したのが始まりで、後年「富瑠輪明神」と改めた』と伝えている。つまり富瑠輪とは「保呂輪」=「ほろわ」であり、嘗て戦国時代に常陸の豪族佐竹氏が深く信仰したようで、関ケ原合戦後出羽に転封になった後は、出羽国保呂羽波宇志別神社を藩主が参詣し、これをまた厚く保護し信仰したという。更には関東・東北中心に数十の同名の「ほろわ」神社が存在する。この「ほろわ」神社は本来の信仰形態は山岳信仰であったようだが、羽生市駅の北側には「保呂輪堂」という名の古墳もあり、時代が下り、地方に広がった過程で本来の信仰形態から違った方向で信仰されたものと考えられる。

           
                  参道の傍らにある「塞神」と彫られた標石

 

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西城大天獏神社


熊谷市の北側に位置する妻沼地区一帯は平安時代、長井庄と言われる荘園が広がり、平安時代後期に活躍した藤原北家斎藤別当実盛の本拠地でもある。
 斎藤氏は、中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない
。一説では藤原北家・鎮守府将軍藤原利仁の流れを汲む斎藤氏一族と言われ、子・藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮(さいぐうのかみ)を務めた際に、「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から主として越前国を本拠地にして主に北国に栄え、平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名である。
 長井斎藤氏は源頼義に従い前九年の役の合戦にて齋藤実遠が奥州で手柄を立て、長井庄を恩賞として賜ったのが始まりという。この長井庄は豊富な福川の水を利用して拓いた土地であり、北側には利根川もあり、交通や水運の拠点でもあった。
 当初、この地は西城があり、成田氏の本拠地があったらしい。当主は西城主であり武蔵国司成田助高。斎藤氏が長井庄を賜り、着任に際しては争いもなく直ちに城を明け渡して東側の成田の地に転出したという。その後斎藤氏は地形上領内支配に適している自然堤防上高台にある広大な大我井(現聖天院)の地に移転したとのことだ。

 所在地  埼玉県熊谷市大字西城字本郷2
 御祭神  大山祇命、豊受比
賣命、市杵島姫命
 社 格   旧村社
 例 祭   春季祭 (旧暦)215

       
 西城大天縛神社の鎮座する熊谷市妻沼地区西城は、国道407号を北上し、西野交差点を右折する。そして埼玉県道263号弁財深谷線を東方向道なりに約2㎞程真っ直ぐ進むと、左側道沿いにこの社は鎮座する。ちなみに「西城」と書いて「にししろ」と読む。
 地形を見ると、当社は西城地区の東端に位置し、すぐ北側には福川が県道に並行して流れている。その自然堤防上に鎮座している模様。
 
 今では辺り一面長閑な田園風景が続く静かな農村地帯だが、「西城」地域の歴史は意外と古い。西城神社のすぐ南側には嘗て「西城城」が存在し、 平安中期の天禄年間(970年~973年)に藤原左近衛少将義孝が居館を築いたといわれているが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の藤原(成田)道宗が幡羅郡に土着して構えたとか幾つか説があり、実際はよくわからない。その後成田助高の代に「前九年の役」で武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ西城に居館したという。
 成田氏といい、斎藤氏もそうだが、本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件がこの地にはあったのだろう。

       
          埼玉県道263号線沿いに鎮座する西城神社。ほ朱色の鳥居が印象的だ。
            またこの社は福川に並行して鎮座していて、珍しく「西向き」の社だ。

       
            鳥居の扁額には「西城神社」と明記されている。
 明治九年に村社となった際に村名をとって西城神社と社名を改めたものであり、大里郡神社誌によると旧名は「大天獏社」、つまり天白を祭る社ということだ。

       
                   拝     殿
 桜の季節がやや過ぎた時期に参拝したため、参道一面散った桜の花びらが広がる。ただその風景もまた美しく、暫し時間も忘れさせてくれる。社と桜のコントラストはやはり良いものだ。
 拝殿前には石の階段がある。おそらく北側にある福川の自然堤防からつくりだされた高台、もしくは妻沼低地に点在する台地のひとつであろう。現在の西城神社のご祭神は大山祇命、豊受比賣命、市杵島姫命であるが、すぐ北側に福川があり、旧社名も「大天獏社」ということから、本来のご祭神は「水神」ではなかったのではないだろうか。
                            


  西城神社拝殿内部(写真左)とその上部に掲げてある社号額に記されている「大天獏」(同右)

  妻沼地区には字名では「市ノ坪」、また小字名で「切通の坪」、「城山の坪」、「築地之内の坪」、「宿場の坪」、「長安寺の坪」等がある。この「坪」は「じょう」とも読め、古代奈良時代律令制度の「条里制」の名残がこの地域には現在でも字、または小字名として残っている。
 「西城」という地名も、条里制における区画・面積の単位である「坪」が地名として現代に残ったものであると考えられる。現在でもこの地域一帯には、東別府地域では「条里再現の碑」があるし、
熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。大和政権による中央集権的律令政治が確立する8世紀初頭のある時期、この地域は大和政権の支配下地域として、条里制を積極的に推進していた。


  「大里郡誌」には、西城神社の信仰について「気管支病に霊験ありと言ひ奉賽に麦煎粉を献じ祈願するもの頗る多し」、また祭祀行事について「古来御祭神の好ませ給ふところとて角力の行事あり現に他の行事は一切行われず」と掲載されている。信仰についての記述では、「気管支病」と書かれているが、おそらくこれは「気管支炎」であろう。この気管支炎は外界からの塵や微生物を含んだ空気が気管支を通過した際に、気管支粘膜に炎症が起こり、痰を伴う咳がみられる状態を一般的に気管支炎という。気管支炎の病態は微生物の感染のほかに、喫煙、大気汚染、あるいは喘息などのアレルギーによっても起こるという。
 西城地域は嘗て気管支炎の症状をもつ人が多かったといわれている。ここで思い返す伝説がこの西城地域の近郊の聖天院に残されている。昔、妻沼の聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で左目を突いてしまい、呑龍様を討ち取ることができなった。それ以来、聖天様は松が嫌いで、妻沼地方では松を植えなくなったという話だ。俗にいう「片目伝説」の妻沼地域版ともいえるこの伝承だが、タタラ製鉄による疾患は片目だけではない。鉄製造から発生する粉塵等から肺疾患に陥るケースも決して少なくない。気管支炎、気管支喘息の類だ。

 つまりこの妻沼地域にもタタラ製鉄を生業とする地域が存在していて、その中心地域が西城地域、また妻沼聖天院がある大我井地域の2か所だったのではないだろうか。成田氏や斎藤氏もそうだが、一時的とはいえ本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件のひとつが製鉄に関するものではなかったのではなかったのか。その伝承の痕跡が「聖天様の松嫌い」や「西城神社の気管支病」にあたるものであったと筆者は考える。
 また西城神社の御祭神の大山祇命は製鉄に関連する神と考察する学者もいる。大山祇命は日本神話にも登場する有名な山の神である。「古事記」では、大山津見神と表記され、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神であり、「日本書紀」では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。思うに日本は山の多い土地条件をもつ国であり、この神は各地に祀られている。記紀に登場する神というより、それ以前の縄文時代から各地に自然発生的に登場した神と考えるほうが自然のことではないだろうか。

 ところで大山祇命は別名和多志大神とも表記されている。「和多」や大山「津見」神から海に関連した神と考える人も多い。山の神でありながら同時に海に関連する神というのも不思議な疑問だが、四方海に面し、同時に平野部が少なく、海岸線に直接的に山々を配する日本独特の地形ならば、そのような考察も可能かとも思われる。
  但しこの大山祇命と大天獏との因果関係が今一つはっきり解らない。西城大天獏神社は決して規模が大きな社ではないが、西城という地域の歴史が奈良時代以前とかなり古く、「大天獏」という名称も相まってその考察も自然と慎重となってゆく。歴史の重みを肌で感じた、そんな参拝だった。





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埼玉古墳群の謎(14)村君王子と永明寺古墳

 羽生市下村君地区には「おかえり」といわれる里帰りの神事が古くから伝えられている。

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日命()をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島王()の子・御室別王()の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興

 この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
 文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国し、北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物という。


 この、「廻国雑記」には上野国から武蔵国に入国しその後のルートは大体岡部の原(深谷市岡部)→成田(行田市?)→(浅間川)→むら君→古川(茨城県古河付近)を通過したと記述されている。利根川流域であり、武蔵国北岸東行のルートだ。少なくとも室町時代には現在でいう国道17号線から同125号の原型ともいうべきルートが存在していたということになる。
 ところで「廻国雑記」の旅は修験道の回国巡礼を目的に行われたものであり、私事の旅行見聞録ではなく、聖護院宗門としての政治的意図も含めた公的な回国であったものであると思われるが、その記述の姿勢には、古くからの情報に捕らわれず、俳諧性に基づいてその土地の由緒を里人に尋ねたり、みずからの直接的感懐を述べるなどの、従来の「歌枕」として知られる名所として古代・中古から知られる土地に限らず、従来の文学とは無縁の地(「歌枕」に関して無縁の地であること)に関する記述を多く含む紀行文である。その道興准后が「村君」の地を通過地点の一地点に選び、尚且つ歌を詠んだ、この意味は非常に重いと思われる。もしかしたら道興准后はこの永明寺古墳を実見したかもしれない。

 この村君地区一帯は、古墳時代時の集落跡も発掘されていて、相当の人口があったと推定でき、豊富な水資源による稲作や利根川、荒川の水運を支配した豊かな先進地帯だったのではなかったのではなかろうか。


        
                   永明寺古墳遠景

 
近世以前の利根川は「暴れ川」として流域に幾度となく大きな被害を与え、洪水の度に流路が複雑に変遷する河川であった。また多くの支流が周辺に流れ、それがクモの巣を張らすように幾重にも乱流していて、流域は度重なる水害に襲われていた。その水害が多発していた周辺地域の中で、この村君地区は利根川のすぐ南岸でありながら、自然堤防の微高地という地形的特徴により、また永明寺古墳自体が洪水の影響をあまり受けていないことから、比較的被害は他地域に比べて洪水等自然災害をまともに受けにくい地域だったのではないだろうか。

 羽生市周辺地域には、埼玉古墳群ほどの規模ではないが、それでも多くの古墳が存在する。
   今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
   尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
   羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
   小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
   村君古墳群

 村君古墳群は利根川の自然堤防上に形成された古墳群で、かつては7基ほどあったらしいが、多くの古墳は破壊され、現在墳丘の残っている古墳は永明寺境内の永明寺古墳、御廟塚古墳、稲荷塚古墳の3基のみ。

        
                 永明寺正面にある真浄門

 
永明寺古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。埋葬者は不詳。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が 祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。

 不思議なことだがこの古墳から出土されたものはほとんど甲冑類であることから、この古墳に埋葬された人物は、生前平和時に君臨していた王ではなく、常に鎧を纏い、兜をかぶって戦っていた戦乱中の王と考えられる。また出土した埴輪の形態が埼玉古墳群の稲荷山古墳と同型であることから、稲荷山古墳と密接に関係していた(同盟していた、又は同族)豪族の主であった可能性も高い。
 時代はかなり下るが、前出の道興準后が武蔵国から下野国へ巡ったルートはその当時確かに存在していた正規の路であることは確かだ。
聖護院宗門としての政治的意図も含めた公的な回国という表向きの顔とは別に、多分に俳諧師としての一面がこの諸国巡回のルートを少なからず変えたであろう。しかし、土地の案内人からの立場から考えれば、皇室に準ずる高貴な人物を案内するのだから、少しでも安全なルートを選ぶであろう。岡部の原から古河までのルートはそのような意味も含んだ路だったと思われる。そのルートの中に村君地区は存在する。残念ながら村君地区には土地の由緒を里人に尋ねたり、みずからの直接的感懐を述べている一文は存在はないが、和歌自体も調べると何とも意味深長な内容となっている。

 廻国雑記のルートは岡部の原から行田を経て、村君地区、古河方面へと続く。不思議と埼玉古墳群から村君古墳群に行くルートと共有している所も多い。埼玉古墳群や村君古墳群が築造された時期は67世紀であり、道興運后が廻国雑記はつくられたのは15世紀、両者にはかなりの時間的な隔たりがあるし、15世紀当時には道幅12m程の大通りである東山道武蔵路は見る影もなく変容して単なる小道となっていただろう。しかし規模の大小ではなく、67世紀に存在していたルートが15世紀まで継続していた可能性は否定できない。洪水による河川の変容によって路自体のルートの変更はあっても、埼玉郡としての中心は絶えず忍地方に存在していた。延喜5年(905年)に作成された延喜式神名帳に記載されている「前玉神社」は埼玉郡総鎮守ともいい、戦国時代の成田氏の忍城、江戸時代の忍藩十万石と、戦略上この地は北武蔵の重要地点であったことは揺るぎないものであった。

  
時代が遡り、中世の古道として鎌倉時代には鎌倉政庁を中心に放射線状に延びる鎌倉街道といわれ、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた軍事用の道路が整備されていた。この鎌倉街道は「上道」、「中道」、「下道」という3つの主要道があったとされているが、主として

 上道  鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道
 中道  鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道
 下道  鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、
      常陸国に向かうとされている古道

 この上道、中道、下道が中世の主要幹線路として伝えられてきているが、その他にも秩父道、羽根倉道、山ノ道などが通っていたことも知られている。この中の羽根倉道は鎌倉街道上道の支道にあたる道路で、所沢から分岐して富士見、浦和、大宮、上尾、白岡、加須市大越地区を通り 「中道」に繋がるルートといわれている。この加須市大越地区は村君地区に隣接し、樋遣川古墳群も真近の距離にある。ちなみに樋遣川古墳群の御諸塚古墳は御諸別王の墓といわれ、明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるが、群馬県に6基、栃木や茨城にも同様の伝承のある古墳が存在するらしい。
 さらに村君周辺地域は利根川水運の泊り地ともいわれ、鎌倉街道上道・羽根倉道にも通じ、埼玉古墳群方面のルートもあり、北側の古河を含めた下野国、更には奥州まで多方面と関係を結んでいて、何となく意味深い地域と思われる。

 江戸時代の文化・文政年間(1804年~1829年)に編集された、武蔵国内22郡の郡村概況を記した地誌で、新編武蔵風土記稿という書物がある。幕府の大学頭で、昌平坂学問所地理局総裁の林述斎(はやしじゅっさい)らが建議し、文化7年(1810)から11年にかけて編纂し, 1828年の成立。勿論歴とした江戸幕府官選の地誌である。
 新編武蔵風土記稿・巻之二百十五、埼玉郡之十七)には下村君村(当時)の記述がある。以下の一文だ。

下村君村
 鷲明神横沼明神合社
 
村の鎮守なり、 社地は少く高ふして且古杉繁し、いとものふりたるさまなり、 相伝ふ当所は村君王子と云人の住せし地なれば、後年村名にも唱へ、又其霊を祀りて経江明神と号せしに、後故ありて鷲明神と改め称すといへり、 されど村君王子のこと未だ他に考る処なし、 或説に景行帝五十六年八月、御諸別王に詔して東国を治めさせ給ひし事ありて、樋遣川村三室社は、御諸別王の霊を祀りし社なりと伝ふえば、当村に彼神孫住せしといはんも據なきことにはあらじといへり、(中略)又横沼明神は御諸別王の息女を祀る所といへど、是も定かなる據をきかず、 例祭十一月上の申日樋遣川村三室社へ神輿を渡し、その時榊に神鏡をかけ、別当馬上にて是を持、 又巫女一人馬に乗て蒸飯一駄を斎せゆくを例となせり、 榊に掛る神鏡の銘によれば、鷲明神と改め称すは近き世よりのことゝ見えたり(中略)


 この新編武蔵風土記稿・下村君村の項では、昔村君王子がこの地に住んでいて、そこからこの地域一帯が「村君」という地名となったと謂われ、その人物の死後、「経江明神」として祀ったという。この「明神」とは別名「名神」ともいい、一般的な解釈では、神仏習合説による、神様の尊称であり、少なくとも9世紀ごろには使用されていたという。言葉通り、「神威明らか」という意味で、神の尊称の一つ。文献上は、「日本後紀」弘仁5年9月15日条に豊稔を感謝して「明神」に奉幣したと記述されているのが所見だそうだが、この時期には、「名神」と「明神」が同義として使用されており、独立した号として「明神」が使用されていたようではなかったという。中世以降に成立した吉田神道において、神に対する「明神号」の授与が行われるようになり、近世には吉田家が明神(大明神)号を乱発するに至り、本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した神が増えていき、本来の名称ではなく「鹿島大明神」「香取大明神」等と称されるようになったらしい。

 この「大明神」が純粋な敬称であるに対して、単に「明神社」はある説によると、祟り鎮めの神社であるともいう。非業な最後を遂げた人物に対して、為政者側がその鎮魂の意味も込めて祀った社を「明神社」といわれている。有名なところでは、平将門は、平安中期、関東一円に勢力を伸ばしたものの朝廷軍に討たれ、死後、祟りが絶えず、神田明神という名称で祀られているが、この平将門は祟る神として、菅原道真、崇徳上皇とともに象徴的な存在として知られている。怨霊としての現実感とパワーが強ければ強いほど人々は恐れおののき、怨霊を慰め供養し、神として祀ることで、マイナスパワーをプラスに変換させるという、ある意味不思議で曖昧な、ご都合主義的な方法を、時の為政者や民衆は真剣に信じたわけだが、その考え方は、筆者も含めて今の日本人でも今なお受け継がれていると思われる。
 「明神社」が祟る神を鎮めるために祀られた社であった場合、この「経江明神」もおのずから鎮魂の社ということになる。新編武蔵風土記稿・鷺明神横沼明神合社の説明書きには、昔村君王子がこの地に住み、死後経江明神として祀られたという。明神として祀られたのであれば、この村君王子は決して往生しておらず、この世に恨みを残して一生を閉じたと思われる。
 話は変わるが「明神」が非業な最後を遂げた人物に対して、鎮魂の意味も含め祀った「神」であるが、同じく「若宮」も同様な意味が込められた名称であるという。三省堂 大辞林には「若宮」について以下のように記述されている。

 「若宮」
①幼少の皇子。また,皇族の子。
②親神にする御子神とその社。
③非業の死をとげたり人柱になった人間の霊をまつって怒りをやわらげると共に,強力な神の支配下に置いて祟りを封じこめようとした社。

 関連性があるのか、村君地区の利根川を越えたすぐ北側には、下野国旧郷社野木神社が鎮座する。その伝承によると下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる奈良別王が、下毛野国に赴任する際に、仁徳天皇の命により莵道稚郎子命の遺骸を奉じてこの社に祀ったという。
 この莵道稚郎子命とは、第15代応神天皇の皇太子でありながら、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したといわれている人物だ。但しこの説話は「日本書紀」にのみ記載された説話で、「古事記」では単に夭折と記されていて、この人物もあくまで歴史上実在した人物かどうかも現在の通説では不明な点も多く、ハッキリ言うと解っていない。
 応神天皇が薨去し、大鷦鷯尊が即位するまでの間、3年以上もの間皇位を譲り合っていたという。最終的には莵道稚郎子命の自殺(日本書紀による)により、大鷦鷯尊が即位したという潤色じみた話の顛末だが、お互いに譲り合ったのではなく、対立関係にあって、最後は仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されていて、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという見解もあるらしい。また「播磨国風土記」には「宇治天皇の世」という記載があり、この「宇治天皇」は菟道稚郎子を指し、皇位に就いていたという説もある。
 記紀の応神天皇没後から仁徳天皇即位までの記述は常識的に考えても(?)と考えてしまう内容で、その他にも矛盾を感じてしまう箇所も見られる。ここではその詳細を論じることはあえて避けるが、素直に読めば、大鷦鷯尊一派と莵道稚郎子命一派が権力闘争を3年以上もかけて繰り返され、最終的に大鷦鷯尊側が勝ちを収めたのだろう。

 莵道稚郎子命は宇治地方で王者には君臨していたのだろうが、 大鷦鷯尊側の攻撃で徐々に没落し、戦死したか、攻撃の最中で暗殺されたか、猛攻を受け自害したか、どちらにしても負けたことは間違いない。筆者は莵道稚郎子命は暗殺され、怨霊となり、鎮魂の対象となったと考える。なぜならば
 1 莵道稚郎子命の死後即位した仁徳天皇は皇后である磐之媛命の反対を押し切って、莵道稚郎子命の同母妹の八田皇女を妃とした。これは完全な莵道稚郎子命側の和邇氏への懐柔策であり、鎮魂のための政策と考えられる。
 2 莵道稚郎子命は万葉集等で別名莵道若郎子命と記述されている。「若」と表記されている本来の意味である「祟る神」を知っている人々が万葉集編集の際にも多数いたのではないだろうか。

 ところで、『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されおり、また『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見えるが、問題はそこに登場する奈良君の弟君の名前である。   「真若君」だ。
 

 想像を逞しくすることを敢えて勘弁願いたいが、「村君王子」は死後「経江明神」として祀られた。そしてこの村君地区一帯に伝承される「おかえり神事」を共有する文化圏内にある下野国旧郷社野木神社の御祭神は「莵道稚郎子命」で、別名「莵道若郎子命」とも言われ、「明神」と同じく非業の最期をとげた人物を祀る「若」の宮ともいう。そして野木神社の伝承に登場する「奈良別君」の弟君の名は「真若君」である。

 推測でしかないが、永明寺古墳の真の埋葬者は「真若君」、別名「村君王子」であり、何かしらの戦争により戦死、もしくは暗殺され、死後「経江明神」として祀られたのではないだろうか。



 


  

 

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埼玉古墳群の謎(13)村君王子とは

 埼玉県羽生市の北東部で、利根川が群馬県側に張り出した突出部の南岸部、自然豊かな自然堤防上に位置する地域は昔から「村君」と謂われている。羽生市は標高が平均14、5m位で概ね平坦地が多いが、この村君地区は下村君鷲宮神社に隣接した村君公民館一帯の標高が18,3mと、すぐ北に目を移せば利根川の土手が見え、周辺地域は加須低地の中にありながら比較的小高い地域であり、嘗て縄文時代のこの辺りは起伏のあるローム台地で、台地上に竪穴住居で暮らしていたらしい。
 この「村君」の地名の由来説はいろいろあり、新編武蔵風土記稿の下村君村には、村社である鷲神社は、村君王子と云う人の住んでいた地であり、後年これが村名となったとあるという。この村君王子という人物は古藤の由来の案内板に引用された彦狭島王ともその子供である御室別王、または「村君太夫」や「御諸別王の娘」とも言われ、どちらにしても古くから高貴な人とゆかりのある伝承が存在する土地ということは確かなようだ。

        
                下村君地区に鎮座する下村君鷲宮神社

 この下村君地区の南東部には加須市上樋遣川地区があり、そこには樋遣川古墳群がある。かつては7基古墳が存在していたらしいが河川の氾濫や開墾などでほとんどの古墳は削平され、現在は3基残っているのみである。この古墳群の一つに諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明されたようなものだと思われる。

 御諸別王は「日本書紀」によれば、景行天皇56年8月条によると、任地に赴く前に亡くなった父・彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが実際には東国には至ってはいないらしく、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、三世孫の御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といわれている。

 またこれも伝承の域でしかないが、この御諸別王には2人の子どもがいて、その娘は下村君の豪族“村君大夫”のもとへ嫁ぐ。下村君にはこの姫を祀った神社があり、御廟塚古墳のすぐ近くに鎮座する“鷲宮神社”、かつては“鷲明神横沼明神合社”と称えられ、横沼明神は、御諸別王の息女を祀ったということだ。また村君に隣接する“発戸”や“名(みょう)”にも、桑原大明神と八幡神社に祀られた一位社、二位社、三位社などの高貴な人にまつわる伝説が残っている。このように下村君地区の伝承、伝説範囲は思っていた以上に広範囲であり、そこにはある共通で特定の文化圏が存在し、それがこの地域の伝承として後世に語られているように感じられる。


              
                     下村君鷲宮神社拝殿 拝殿は古墳上に鎮座している。

 ところで前出の横沼明神は、現在村君鷲宮神社の境内社となっているが、この横沼神社には天穂日命の子孫の彦狭島王の子・御室別王の姫(娘)を祀った社で、父・彦狭島王を祀る樋遣川村の御室社へ、「おかえり」という里帰りの神事が明治時代まで行われていたという。この「おかえり神事」とは、その昔、村君大夫に嫁いだ娘が、父の眠る御室神社へ、「おかえり」と称して毎年里帰りをしていたという伝承を形式化した神事であり、先頭に神主、姫の代わりの神輿をかつぎ、御鏡と赤飯を乗せた馬を引き、鷲宮神社から御室神社へ里帰りをしたという。
 この「おかえり」神事は、利根川北岸の栃木県野木町鎮座の野木神社や、足利市板倉地区の板倉神社、同市松田町地区の松田神社にも同名の神事が存在している。各地域の神事の詳細には相違点がかなりあり、上野国那波郡を中心に広がる伝承・伝説の「那波八郎大明神事」と同じ形態と思われる。伝説、伝承が周辺地域に広がるにつれ細部に微妙なズレが生じることは今も昔も変わりはない。いわゆる伝承のドーナツ化現象のひとつであろうか。


                                
                                             栃木県下都賀郡野木町に鎮座する旧郷社 野木神社

 野木神社の伝承によると下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる奈良別王が、下毛野国に赴任する際に、莵道稚郎子命の遺骸を奉じてこの社に祀ったという。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。弘安年間(鎌倉時代)に配祭の五神(応神天皇、神功皇后、宗像三女神)が祀られた。

 奈良別王は「記紀」等には事績は記されていない人物であるが、「先代旧事本紀」国造本紀・下毛野国造では、仁徳天皇時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。また「新撰姓氏録」大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。

  奈良別王は別名「奈良君」と呼ばれていたという。この「君」という称号は古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示すカバネ、又は氏姓制度と言われるの一形態という。カバネの由来はかなり古くまで遡り、ヤマト王権が成立する以前から、在地の豪族や団体名に使われたと思われ、代表的な原始的カバネとしては、ヒコ(彦、比古、日子)、ヒメ(比売、日女、媛)、ネ(根、禰)、ミ(見、美、彌、耳)、タマ(玉、多模)、ヌシ(主)、モリ(母理、守)、コリ(古利、凝)、トベ(戸部、戸畔)、キ(岐、支)などがある。これらの原始的カバネは名称の語尾に付くもので、今日でも「ヒコ」や「ミ」など、人名の語尾によく使われるものもある。

 その後ヤマト王権が勢力を拡大し、王権を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与された称号と言われている。この制度は世襲制で、臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・直(あたい)・首(おびと)・史(ふびと)・吉士(きし)など三十種余に及ぶ。古くは氏人が氏の長(おさ)に付した尊称であったが、朝廷のもとに諸豪族が組織づけられるにつれて政治的・社会的な序列を示すものとなったという。これらはのちの天武天皇の代、684年(天武13年)に、整理されて8種類の「八色の姓〔やくさのかばね〕(=「真人〔まひと〕・朝臣〔あそみ〕・宿禰〔すくね〕・忌寸〔いみき〕・道師〔みちのし〕・臣〔おみ〕・連〔むらじ〕・稲置〔いなき〕」)」に移行し纏められた。

 「君(又は公)」のカバネを持つ氏族の多くは第9代開化天皇以降の王室を祖先と称する氏族で、概ね、畿内の中小豪族(例えば犬上公、大三輪君等)、または、倭王権下にきっちりと取り込まれてはいない地方の独立的大豪族と言われている。
 遠隔地の地方豪族は筑紫君、大分君、火(肥)君、阿蘇君、上・下毛野君というように地名を氏の名としており、多くは国造(クニノミヤッコ)として、巨大な地方勢力を擁し、ヤマト王権から半独立の関係にあったといわれている。特に筑紫国・肥国・備国・越国・総国・丹国・毛国は上、下国と別れる過程においても古代倭国の中でも有力豪族が存在していたからこそ国を分けられたのであろう。(備国は3国に分割されるのだから別れる前はもよほどの大国だったのだろうか)君の称号を持つ地方豪族のほとんどは、令制国と言われた7世紀中頃から明治時代まで続く地方行政区分で上、下2か国に分かれた国の出身者である。

 開化天皇の時期(4世紀前半)に遠くの地方豪族に派遣できる勢力を当時の大和王権が保持していたと思えず、いわば体裁上天皇家を祖先にしているようにも思え、恣意的な印象を拭えない。通説においてもこのカバネ制度と言われる発祥の経緯は明確ではなく、また大化以前に制定されたとされる政治制度が存在していた確証もない。記紀等の文献には、各天皇の治世時に、氏の名に付属して一般にカパネの称号といわれているものが多数記載されているのみで、その呼称が当時大和王権の政治的地位や身分をあらわすように見えるところから、カパネの制度が想定されているが実情だ。例えば大和王権の最高位の位である「大臣大連」でも、日本書紀では世襲制と記述されておらず、あくまで個人名が記されているのみである。確かに大臣には平群臣・許勢臣・蘇我臣などの臣姓氏族が、大連には大伴連・物部連などの連姓氏族がついているが、そのうち明瞭に世襲制とみられるのは大連では大伴氏(室屋→談→金村)、大臣では蘇我氏(稲目→馬子→蝦夷)ぐらいで、他は全く世襲制では記載されていない。また王権内の職掌としての氏族的な意味合いもまた不鮮明で、軍事的氏族が大伴・物部氏であったことは記されているが、それ以外の氏族は明瞭でないのもまた事実である。筆者が一言いわせていただけるのであれば、答えは簡単で、王権配下の最高位の実力氏族の権力闘争の過程において、勢力の消長があたかも制度上世襲制に見えるだけではないのか、ということだ。
 
 記紀の記述においても、崇神天皇前までのヤマト王権は大和国南部の三輪山麓一帯に逼塞していた一地方の小豪族でしかなかった。当然周辺地域にもいくつもの豪族がいたであろう。それら豪族には独自の氏(ウジ)やカバネが存在し、その一族の血統序列的統合構造が形成されていたのではないだろうか。その後ヤマト王権はいくつかの有力氏族と連合し勢力を拡大する。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしてもこの王権は、近畿地方だけではなく、各地の同等な力を持つ豪族と同盟関係を持つゆるやかな連合政権であったとみられている。その連合の過程で氏やカバネの本来の構造から、ヤマト王権から豪族へと付与される構造へと変貌したのではないだろうか。

 ところで君の称号を持つ地方豪族は記紀において、古代ヤマト王権の天皇家を祖に記述されている。
  ・ 筑紫君              孝元天皇第一皇子、大彦命
  ・ 大分君・火(肥)君・阿蘇君  神八井耳命(綏靖天皇同母兄)
   *但し肥君の祖先の別説には国津神である建緒組(たけおくみ)という人物ともいう。
     (肥前風土記・肥後風土記・先代旧事本記、国造本記)
  ・ 上・下毛野君           崇神天皇皇子、豊城入彦命

  この地方豪族の祖とされている神八井耳命や大彦命、豊城入彦命は、それぞれ現代でいう皇位継承権を持つ歴とした王権の一族を束ねる長として登場しているが、決して皇位にはついていない方々だ。

 神八井耳命 
  ・初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、『日本書紀』綏靖天皇即位前紀では、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、己卯年11月に片丘の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に死去したという。

 大彦命
  ・大毘古命とも書く。第8代孝元天皇の第1皇子で第9代開化天皇の実兄にあたる。母は欝色謎命。四道将軍に任命されて北陸道()を任される。他に、子供の武渟川別は東海道()、吉備津彦は西道()、丹波道主命は丹波道に遣わされた()。このとき天皇は詔して「もし教えを受けなければ討伐せよ」と言うと、印綬を将軍に授けたという。高志国に遣わされた大彦命と、東方に遣わされた建沼河別は相津で行き会った。それでその地を相津()(会津)という。大彦命の後裔の一族は北陸に特に多い。

 豊城入彦命
  ・第10代崇神天皇皇子。母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。豊城命と弟の活目尊の世継ぎ問題では、弟(活目尊=第11代垂仁天皇)を指名し、兄の豊城入彦は東国統治を命じられた。崇神天皇はこの命に先立つ30年ほど前にも四道将軍を派遣していて、2回目の東国派遣となる。ある説によると、豊城入彦命は実際には東国には至っていないと見られ、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは三世孫の御諸別王が最初ともいう。

 君の称号を持つ地方豪族は九州・関東に集中して分布している。なにか関連しているのであろうか。

  

 ところで隋書には「君」について興味深い記述がある。

 「隋書」東夷伝 第81巻列伝46 倭(俀)国

 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。

【現代語訳】

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。

 中国の歴史書である「隋書」には、推古天皇の時期に倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋王朝に朝貢した当時の日本(倭国)についての記述がある。遣隋使と謂われるこの朝貢使は600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されていて、上記の内容はその第一回にあたる。ちなみに有名な「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」という国書を隋王朝の天子(煬帝)に送ったのは第二回であり、中国は伝統的に中華思想という自国を世界の中心と考え、周辺諸国は中国に使いを出して朝貢(家来になる)し、中国皇帝より諸国の王に封じられて初めてお付き合いが出来るため、当時の天子である煬帝は立腹したという。

 話は戻るが、この開皇二十年の朝貢では、当時の倭王は姓が「阿毎(あま、天)」で、名前が「多利思比孤(タリシヒコ)」と言い、「阿輩雞彌(オオキミ、ワガキミ)」と敬称され、同様にその奥さんも「雞彌(キミ)」と呼ばれていた。「雞彌」が「君」であることには異論はなく、7世紀初頭に「君」の称号を使用していた確かな根拠といえる。
 また「大王」は「オオキミ」とも読み、別名「大君」と記述している書物も存在することから「王」=「君」ともいえる。「君」の称号は7世紀初頭の倭国にとって高貴な称号だったと思われる。

 この「君」の称号は684年(天武13年)に「八色の姓」が制定され、それまで「君・公」姓だった氏族のうちの有力な氏族は、第1位の「真人」や第2位の「朝臣」の姓を与えられたが、奈良時代になっても上毛野氏等は「朝臣」姓ではなく「君」姓を名乗っていたように、「君」の称号は一種特殊で、格式のある称号と地方の豪族は思ったのだろう。現に記紀に続く歴史書である続日本紀では「君」を使用した姓が非常に多かった為、この事態を重要視した時の朝廷は以下の勅命を下した。

   天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ。(続日本紀 天平寶字3年10月(759))

 つまり、「君」は古き遺産を象徴する憧れの的の称号であり、特別の証であったのではないだろうか。

 
 長々と「君」の称号について記述したが、その理由はほかでもない。武蔵国北東部の先端部に存在する「村君」という地名は、カバネとしての「君」に関連した称号名が後世土地名に変化したものではないだろうか。あくまで状況的な憶測にすぎないが、上記で紹介した樋遣川古墳群の一つ御室塚古墳は、上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として明治政府の調査があったことや、下村君村に伝承として残る村君王子等、ある特定時期に高貴な人物がこの地に君臨していた可能性は、ないとは決して言い切れない不思議な伝承ではあるまいか。

 その不思議な伝承に囲まれた下村君地区には有名な永明寺古墳がどっしりと構えている。

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