古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栗坪厳島神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市栗坪129
              
・ご祭神 三姫命(湍津姫神 田心姫神 市杵島姫神)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 元旦祭 大遊び 310
 埼玉県日高市栗坪地域は、同市南西部にあり、曼珠沙華の名所として知られる「巾着田」の東側で高麗川右岸に位置する。「栗坪(くりつぼ)」という地名の由来には、当地は栗の名産地で、栗を坪の中に保存したことによるか(新編武蔵風土記稿)という説と、坪には村落の意がある(日本の地名)ので栗を産する村の意であろう(地名誌)という説とあり、また条里制に由来する地名とも考えられるという。
 *参照 『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 高麗領高麗鄕に屬せり、村名の起る所はさだかならぬと、當村の栗は名産にして、是を坪内に貯れば、翌年仲春に至りても其味かはらざれば、それより起りしならんと云、(中略)

        
                  栗坪厳島神社遠景
 途中までの経路は高麗本郷九万八千神社を参照。「巾着田」のすぐ北側で、日高市を東西に横断する埼玉県道15号川越日高線の「カワセミ街道」との交点である「高麗本郷」交差点を東方向に進む。その後、進行方向左側に「高麗公民館」、右側には「高麗郵便局」を見ながら900m程東行した丁字路を左折、そのまま道なりに進むと小高い山が見え、その山頂付近に栗坪厳島神社の鮮やかな赤色の社殿が小さく見えてくる。
        
               遠目からでも目立つ赤色の鳥居
『日本歴史地名大系』 「栗坪村」の解説
 梅原村の東、高麗川右岸にあり、東は野々宮村・楡木(にれぎ)村。西方高麗川対岸は高麗本郷。東から西へ川越から秩父への道が通る。高麗郡高麗領に属した。村名は栗の名所で、壺内に蓄えた栗が翌春まで味が変わらないことに由来するという(風土記稿)。慶長二年(一五九七)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失したため、当村内梅原村境近くに移った。同様に市も当村内に移転したことから町場化し、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。これにより高麗町の名称も当地に移り、同町のうち下町が当村内にあった。陣屋諸用向・割元は高麗町名主に命じられ、慶長二年・寛文八年(一六六八)の検地の際の案内も町名主が勤めた(文化二年「市再興諸書物控并訳」堀口家文書)。近世中期までは人別五人組帳などは高麗町分は村分とは別になっていた(元禄一四年「高麗町人別・高之儀ニ付口上書下書」同文書)。田園簿では田二一石余・畑一三四石余、幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり、翌四年幕府代官からの引渡しが行われた(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書)。 


   鳥居の左側に設置されている案内板     鳥居をすぎてすぐ右側にある庚申塔と
                       その左側には龍泉寺住職の墓石もある。
       
    小高い山のようだが、よく見ると所々むき出しの岩盤(チャート)が見える。
      山頂に向かう足元の石段もこのように岩盤を利用して削って造られているようで、
           岩肌が荒々しく、意外と急勾配であるため、手すりが設置されている。
       
             山頂手前に祀られている三峯社の石祠
       
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 高麗郡栗坪村』
 辨天社 龍泉寺の持、下同,
 龍泉寺 高岡山と號す、新義眞言宗、新堀村聖天院末なり、當寺はもと高岡村にありしが 何の頃かこヽに移せしと云、慶安年中高岡村にて、地藏堂領三石の御朱印を賜ふ、この堂は今も高岡村にあり、開山詳ならず、中興開山承慶は延享三年九月廿三日寂す、本尊不動を置、

 厳島神社  日高町栗坪一二九(栗坪字御蔵)
 栗坪は古くから栗の産地であることから付けられた名であるといわれる。『風土記稿』には、慶長二年に大久保石見守が高麗本郷にあった陣屋を当村に移した時に、民戸も移り、二町余りも家居をつらねて高麗町と唱え、毎月四・八の日に市を開くようになったが、元文二年に陣屋が廃され、延享年中、一橋家の領地の時、陣屋跡が開墾されるに及び市も寂れ、ついに廃されてしまったことが記されている。
 当社は、神仏分離以前は真言宗高岡山竜泉寺内に、村社であった諏訪神社と共に祀られていたが、以降それぞれ独立した社となった。竜泉寺は山号が示すように隣村である高岡村にあったといわれ、火災のために現在の地に移転したと伝えられている。現在も高岡には慶長年中三石の朱印を受けた同寺持ちの地蔵堂が残る。
 祭神である市杵島姫神は市神として祀られることが多く、当社も、とくに竜泉寺内に祀られていた当時は市神として信仰されたことが推察される。しかし、江戸中期に市が廃されると、市神の信仰から技芸神と信仰が移り、また、神仏習合時に水の神である弁財天と凝せられたことから、神仏分離時に高麗川に近い当地に祀られたと考えられる。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                 山上から眼下を望む。

 ところで、社の北側は断崖絶壁となっていて、高麗川がすぐ近くを流れている。当社は、水に関係の深い場所の岩場に建てられ、水の神である弁財天に関係があることから、地元では古くから弁天様の名前で親しまれているという。
  
   社から高麗川沿いには遊歩道が整備され、   高麗川の流れが社が鎮座する岩場で遮られ
  参拝中も数名散歩をする様子が見られた。    折れ曲がるように流れが変わっている。

 栗坪地域は高麗川右岸という地形でありながら、実は昔から旱魃に悩まされていた地で、大正時代末期までは、日照りが続き作物に被害がでるようになると「雨乞い」が行われたという。その際には、青梅の「タカミズサマ」へ若者が水をもらって行き、神前に供えて雨乞い祈願を行った。その後、高麗川の弁天淵という所で、村の男たちが川に入り、竜泉寺にある大きな数珠を持ちだして、川の中でこの数珠を皆で回したという。
 このあと、字の者たちで集まり、お日待ち(庚申待ともいう。村の人たちが一ヵ所に集まって食事や談笑しながら、共同祈願をするという習俗)を行ったということだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「角川日本地名大辞典」
    「境内案内板」等

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日吉神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市日吉町1028
             
・ご祭神 大国主命 大山咋命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 春季例大祭 4月初旬 秋季例大祭 9月第1土曜日
 埼玉県東松山市にある灌漑用水のため池を再生した公園が「下沼公園」で、その650mほど北にある「上沼公園」と共に、東武東上線・東松山駅に近い市街地内にあり、周囲に桜が植栽され、絶好の散策・お花見スポットになっている。
        
                   上沼公園北側入口付近
 この2つの沼には伝説があり、それがそのまま「松山の女沼男沼の由来」ともなっている。
=戦国時代の永禄12年(1569)、与四郎が戦場から逃げて家に帰ったら、与四郎の母と新妻は下沼に身を投げていたので、自身も上沼に身を投げて死んでしまった。以後、それぞれを女沼・男沼と呼ぶようになったという『女男沼伝説』があり、桜のライトアップ時には、両方の沼をつなぐ遊歩道1600mに灯籠が灯される『東松山夢灯路』も行なわれているという=
 同じ東松山市で高坂地区には「大沼」「小沼」があり、そこにも『高坂氏息女の悲恋物語』として、恋慕う仲を裂かれた二人は大沼・小沼に身を投げてしまうという悲しい伝説が今でも語り継がれていて、真偽の程は不明であるが同じ形態の伝説として残されている。
 この上沼公園の道路を隔てた西側に日吉町日枝神社は鎮座している。
        
                   
東松山市の中心街である日吉町に鎮座する日吉神社
        
 
 鳥居のすぐ左手に祀られている弁財天の石祠     鳥居の右手に設置されている御由来の案内板
 日吉神社  一御由緒一
 祭神 大国主命 大山咋命
 創建
 江戸時代文化一五年二月(一八一八年)近江国日吉山に鎮座する地主神・安産子育て・家内安全・学業成就の守護神日吉山山王大権現を当地に勧請、社殿を建立する。
 *日吉町の地名はここより始まる。(中略)
 祭典日  毎年
 元旦祭
 春季例大祭 四月初旬
 秋季例大祭 九月第一土曜日
 *神社の呼称を日枝から日吉に改める。(以下略)                案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 松山町』
眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
 松山日枝神社  東松山市日吉町一〇—二八(松山町字日吉町)
 旧松山宿の北部に位置し、「職人の町」として知られる日吉町に当社は鎮座している。町場の神社らしく、境内の両脇には家が建て込んでおり、神木に準じた扱いを受けている銀杏を除いてはこれといった樹木もないが、向かい(南側)が上沼公園という大きな池を中心とした公園になっているため、環境は比較的よい。
 日吉町は、江戸時代の中ごろに、染色に関係した職人が住み着くようになったことから発展した。当社は、神仏分離まで境内の西隣にあった天台宗の真福寺の守り神として勧請され、それが日吉町に住み着くようになった人々によって町内の守護神として護持されるようになったものであろうといわれている。ただし、この真福寺の開山については伝えられていない。また、内陣には、金幣のほかに、「文化十五戌寅年(一八一八)二月吉祥日 山王大権現 松山住人山王産野村主計久信」と記された木札が納められている。あるいは、近江の日吉神社に参詣し、その記念のためにでも上げられた納め札であろうか。
 この木札にもあるように、当社は元来は「山王大権現」と称していたが、明治に入ると神仏分離によって真福寺の管理を離れると同時に、社号を現行の日枝神社に改めた。しかし、改称の後も住民の間では「山王様」の通称で呼ばれることの方が多く、現在でもなお、「日吉町の山王様」として市民に知られている。                             「埼玉の神社」より引用                              

    
 当地名「日吉町」は、日枝神社から(日吉神社とも呼ばれていた)名付けたとの事の様で、近くに湧き水もあり、その為に地域近郊には染色業や織物業に関連した職人の住居が多くあったという。日枝神社は天台宗系の山の神を祀る神社でありながらも、同時に水の守り神でもあった。また、近くには湧き水からの上沼があり、湖畔の北側には松山神社が鎮座する。境内には水の神である弁財天も祀られており、当地が水利の便が豊かな地域であった証しでもあったのであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」郷土の民話を探して - 東松山市」

    「境内案内板」等


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本町八雲神社


        
            ・所在地 埼玉県東松山市本町158
            ・ご祭神 倉稲魂命
            ・社 格 旧無格社
            ・例祭等 例祭(天王祭) 7月最終土・日曜日
 東松山市役所の東側で、本町地域を南北に縦断する埼玉県道66号行田東松山線沿いで、「上沼公園」交差点を直進し、松山宿上宿(上町)の上沼公園を過ぎたすぐ右手に社は鎮座している。
 旧松山宿の総鎮守として創建された氷川神社(現在は松山神社に改称)の末社として、安政6年(1859)再建のために金品を募り、明治7年(1874)に再建されたという。
        
              県道沿いに鎮座する
本町八雲神社 
『日本歴史地名大系』 「松山町」の解説
 現市域の中央やや東寄り、東松山台地上にあり、北部・東部は市野川低地、南部は都幾川低地によって区切られる。東は根小屋(ねごや)村・流川村(現吉見町)、西は石橋村、羽尾村(現滑川町)、南は柏崎村・野本村、北は市ノ川村・平村・野田村。古くから交通の要地で、中世には松山本郷とよばれていた。戦国期には、武蔵八王子・河越、岩付(現岩槻市)などと鉢形(現寄居町)や秩父地方・上野国方面とを結ぶ街道の宿駅、また東方に位置した松山城(現吉見町)の城下として発達し、町場も形成されていた。慶長五年(一六〇〇)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、引続き日光脇往還・川越秩父道の宿場町として賑いをみせ、江戸時代も比企郡域の商業・交通の中心地であった。
        
                 正面一の鳥居より撮影
                鳥居前には鉄鎖が張られ中に入りにくい雰囲気がある。
 現在の市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、元を辿れば1333年に上杉氏麾下の上田友直によって築城されたとされる松山城の城下町として発展した街である。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。室町時代から戦国時代にかけて扇谷上杉氏が松山城一帯を支配するが、上杉朝定が川越夜戦で敗死すると、松山一帯は北條氏の領土となる。
 慶長5年(1600)松山城の廃城により、城下町としての性格は失われたが、江戸幕府によって五街道と脇往還といった主要道路の整備が進められ、当市域でも、八王子から日光に至る日光脇往還道の宿場として松山宿と高坂宿が八王子千人同心によって整備され、また江戸から上州に至る川越児玉往還(川越道)の宿場として高坂宿が江戸幕府・川越藩合同によって整備され、その中でも川越・熊谷を結ぶ「本町通り」が商業の中心地として、発展し栄えた。
 現在の埼玉県道66号線沿いの「上沼・下沼」区間に「本町通り」を形成し、江戸時代から明治・大正・昭和30年代後半まで、中心的な役割を担ってきた商店街として、現在でもその町並みはその面影を留めていて、大正・昭和初期は全盛期であったという。
        
               
市指定文化財の本町八雲神社社殿
        
       指定年月日 昭和321129    
          
本殿保護のため屋根を掛けて保存が図られているようだが、
   周囲からの風雨や車両の排煙等に晒されてしまっていて、その点だけはやや残念。
        
                  八雲神社由来書
『新編武蔵風土記稿 松山町』
 天王社 眞福寺持
 眞福寺 祈願山法垂院と稱す、これも淨光寺の門徒なり、開山玄海寂年を傳へず、本尊觀音を安ず、
『埼玉の神社 日吉松山神社』
 八雲神社は、無格社であったのを大正三年一月十九日当社の境内社に編入したもので、市の文化財にも指定されているその社殿は、天保六年(一八三五)の再建時に河原明戸(熊谷市)の棟梁飯田仙之助とその弟子が精魂込めて造り上げたものであるという。

 八雲神社 市指定文化財
 社殿は、間口二・六m、奥行三・六m単層切妻で正面軒は唐破風となり、その下に千鳥破風がおいてあります。社殿は切妻の面もすべて彫刻で飾られています。正面は花鳥及竜と唐獅子・左側は神功皇后新羅征伐凱旋の場、右側は須佐之男命大蛇退治の場、背面は天照大神の天岩戸の場が刻まれています。
 他の神社の彫刻と異なり、伝統的なものに取材し、豊かな民俗的色彩を有する特色をもっています。
 昭和三十三年一月 境内より左記の銘文が発見されました。
 惟時安政六年四月奉再勧進者也
 法王祈願現住権律師亮覚敬白
 祇園牛頭天王
 この彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助が三人の弟子に技を競わせたものといわれています。                          案内板より引用
        
                   境内の様子
 この神社は元「天王社」と称し祇園牛頭天王を祀っていて、その後の明治期の神仏分離で八雲神社に改められているのだが、当初筆者はご祭神を素戔嗚尊であろうと普通に考えていたのだが、調べてみると、なぜか祭神が倉稲魂命というのが興味深い。
どのような経緯でご祭神が倉稲魂命となったのか、知っている方がいるのであれば、是非ともご教示願いたく思います。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

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境百々飯玉神社


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境百々90
             ・ご祭神 保食命
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 下武士三社神社の東方向にある「伊勢崎市境支所」を更に東行し、「境支所入口」の三叉路を左折する。群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北西方向に進行し、1㎞程進んだ右手に境百々飯玉神社の鳥居が見えてくる。後日地図を確認すると、「伊勢崎市消防本部 境消防署」がすぐ西側に見え、また社の北西方向には「境ふれあいパーク」もある。更に北東方向に目を転じれば、:境上矢島勝手大明神がそれ程遠くない場所に鎮座している。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようだ。そこで「境ふれあいパーク」の道を隔てた東側にコンビニエンスストアがあり、そこの一角に車を停めてから徒歩にて参拝を行う。
        
                境百々飯玉神社正面鳥居
                   鳥居前左側には庚申塔と地神等が祭られている。
『日本歴史地名大系』 「百々(どうどう)村」の解説
 北は新田郡矢島村、西は木島村。平坦地。村内を江戸道(現県道伊勢崎―深谷線)が走る。永禄八年(一五六五)頃には、金山城(現太田市)城主由良氏の配下、丸橋右馬助が領していた(長楽寺永禄日記)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二八石余・畑方六六石余。「伊勢崎風土記」に慶安二年(一六四九)村内に市を開こうとしたとある。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別田三町余・畑一一町三反余、ほかに新田として田五反余・畑一六町四反余、家数二九、馬八疋。
 伊勢崎市百々地域の「百々」は、なかなかの難解地名で、「百々」と書いて「どうどう」と読む。地名由来をインターネット等にて調べてみると、同じ名前の地名は全国に複数あるようで、いずれも水が盛んに流れる様子を表す擬音語である「どうどう」に由来するとされるという。
       
  鳥居から真っ直ぐに伸びる参道の先に神橋がある(写真左)。但しそこから参道は一旦
  左側に曲がり込み(同右)、その後一対の狛犬付近で元にもどるような境内配置となる。
        
                    拝 殿
 飯玉神社 采女村大字百々 祭神 保食命
 大字百々の中央に在り往古領主那波氏堀口飯玉大明神の分霊を奉遷創建したもので明治六年(1873)村社に列した
 經藏寺 眞言宗元新義派 大字百々の東方に在り世良田惣持寺の末寺なりと謂ふ本尊は虚空藏菩薩である
 妙眞寺 眞言宗新義派 大字下淵名に在り正慶二年(1333
)七月十七日淵名妙眞尼の開基に係る尼は淵名實秀の女にして嘗て北條氏に嫁き其の滅ふるに及ひ生地に歸り一庵を創立し剃髪して妙眞尼と稱す寺號は之に起因せるものなりと言ふ十二世に正空坊日昭なる者あり下野國小俣邑鶏足寺住職宥範より慈猛流を受け當寺を中興し弘化二年式色着用を許可せられ且小本寺に昇格して新田郡四格院の一となつた本尊は正觀音菩薩である若心經偈文、弘法大師眞蹟を藏すと謂ふ
 
縄に紙垂を巻いているところから神興庫と推察          本 殿
        
                    
社殿左側には境内社・高尾山神社が祀られている。
         
           高尾山神社社殿     高尾山神社の奥の小高い丘上
                        に鎮座する社。元宮か。
       
             本殿奥に祀られている石祠群。詳細不明。 

『境町の民俗』によれば、「百々(どうどう)は昔村高九四石八斗、家数二九軒、人別一〇〇人程の小村で、東端に郷蔵があり、岡崎・羽鳥姓が多かった。小村であるから経蔵寺は無住で、下淵名妙真寺が兼務する。百々という川のせせらぎを音柴する地名だが、この地区を流れる長溝川は下淵名に源をなす小川で、村の南部を流れる世良田用水は慶長十三年に掘り開かれた水流である。経蔵寺墓地には境城主小此木長光一族の墓碑があるが、由来を明らかにしない」との事だ。


参考資料「
 

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下武士三社神社


        
               
・所在地 群馬県伊勢崎市境下武士1055
             ・ご祭神 大日孁命   天児屋根命  誉田別命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 歳旦祭 春季例祭 4月吉日 秋季例祭 7月吉日
                  例大祭(陰陽額御開帳) 1123日 他
 当社が鎮座する下武士地域は、上武士地域の南東に位置し、ほぼ平坦地ではあるが嘗て古利根川と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の緩やかな起伏地帯も多い地域である。
 境保泉勝山神社から東方向に進行し、粕川に架かる「粕川橋」を越え500m程先の十字路を左折し、そのまま北上すると武士神社に到るが、今回は十字路を左折せずにそのまま直進、700m程先の十字路を右折すると下武士西区会館が、そして隣接するように下武士三社神社の鳥居と広い境内が見えてくる。
        
                 下武士三社神社正面
『日本歴史地名大系』 「下武士村」の解説
 上武士村の東南に位置し、広瀬川が南端を東流する。ほぼ平坦地ではあるが緩やかな起伏地帯も多い。明治頃まで古墳が多く残り、優れた形象埴輪を出土。日光例幣使街道は那波郡柴宿(現伊勢崎市)から武士渡(竹石渡)で広瀬川を渡り、当村内を抜けて隣接する境町(宿)に達する。古くは上武士村と一村で慶長(一五九六〜一六一五)の頃二ヵ村に分れたという(佐波郡誌)。「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)四月二八日条などに下武士とみえる。寛文郷帳では高四〇〇石で畑方のみ、旗本加藤・宮崎領の二給。近世後期の御改革組合村高帳では上総一宮藩領、旗本加藤・宮崎領の三給、家数二二三。
        
          参道の先には石段がありその石段上に二の鳥居が建つ。
 群馬県には、3,500余の古墳があるが、その内の約1,000基は伊勢崎市に存在する。下武士三社神社の基礎部となっている土台も三社神社古墳(前方後円墳 全長54.5m 後円部高さ6.3m 前方部高さ3.6m)」と呼ばれ、本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、6世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた中規模の前方後円墳という。
        
                    拝 殿
        
          境内に設置されている「三社神社神殿 新築記念碑」
 三社神社
 鎮座地 伊勢崎市境下武士一○五五番地
     旧上野国佐位郡下武士村大神一○五五
 主祭神 天児屋根命
     誉田別命
     大日孁命
 配祀神 須佐之男命 菅原道眞命 倉稲魂命 火産霊命
 境内社 八坂神社  菅原神社  稲荷神社 秋葉神社
 社殿新築にあたり
 当社が鎮座する地域は、かつて比刀禰川(古利根川)と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の小丘が累々としていた。
 このような場所ではあるが、縄文時代には、石器加工の場など、人の営為の痕跡が僅か見るかっている。その後、五世紀終末から六世紀には、前方後円墳五基を含む八十数基もの古墳群が築造された。一方、境剛志小学校から北にかけては、その集落跡が発見されている。当社が鎮座する「三社神社古墳」は、本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、六世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた前方後円墳である。このように、この地域は古墳時代には伊勢崎地域でも有数な地域であったと考えられる。 社伝によると、武士は古代から栄えた土地であった。当社が鎮座する高台は、かつて通称五郎助峠と呼ばれ、後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186)鎌倉幕府を樹立した源頼朝の有力御家人である安達藤九老盛長の子、景盛が上野国守護人として、この地で武を練ったことから「武士」と呼ばれ始めたという。その際、領地の安全を神明に祈願し、神社を奉祀したのが三社神社の始まりであると云う。また村を縦貫する「日光例幣使道から三丁ほど引っ込んだ字大神に村中が見渡せる高台に三社宮が鎮守している」と古い記録にある。
 このように、当社は、古くから下武士村の鎮守として位置し、永く村民から尊崇されてきた。
 明治維新後、社寺併合により、明治十年(1877)下武士村の村社に格付けられた。同四十年に、近傍の四社を合祀した際、村民によって本殿が大改築された。
 それから九十有余年、建立から二百五十年を経過し、本殿、拝殿ともに老朽化が著しいため、境下武士の氏子が神社改修を図り、平成十五年(2003
)に「三社神社奉賛会建設委員会」を設立した(以下略) 記念碑文より引用
        
                    本 殿
『群馬県佐波郡誌 剛志村』
 村社 三社神社
 祭神誉田別命 大日孁命  天児屋根命  配祀神三柱 大字下武士に在り後鳥羽天皇の御宇文治二年七月源頼朝の臣安達盛長の子景盛上野の守護たるに依りて此の地に來り武を練り神明に祈願し領土の安全を祈つたと謂ふ其の後民産土の神と崇めて祭祀怠りなく明治十年村社に列せられたのてある氏子数二百四十七戸

 
     社殿裏に祀られている石祠          参道右側にある八坂神社神輿殿
     一番左側にある双体道祖神

     境内社・正一位稲荷大明神         稲荷大明神の並びにある石祠等
                       左より猿田彦大神・神社昇格紀年・千勝○等
        
                境内に設置されている案内板 
 三社神社
 由緒
 当社は縄文狩猟時代の住居跡が散在し武士古墳群と稱され多数の古墳地帯で縄文時代・弥生時代より栄えた土地であった村の中央高台通稱五郎助峠・東前方考円墳の前地に後鳥羽上皇の御代・文治二年一一八六年七月総追捕使源頼朝の臣安達藤九郎盛長の子・景盛が上野の守護として此の地に赴き武を練った時神明に領土の安全と郷民の安泰を祈願して奉祀したと伝えられている。
       
                  社殿からの一風景


参考資料群馬県佐波郡誌境町の民俗HP」日本歴史地名大系伊勢崎市HP
        「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内由緒案内板」等  


           

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