古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

彦兵衛浅間神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市彦兵衛159
             ・ご祭神 木花咲耶姫命 岩長姫命
             ・社 格 旧彦兵衛新田村鎮守
             ・例祭等 元旦祭 夏の祭礼 71日 秋の祭礼 9月の二百二十日
 彦兵衛地域は白岡市南東部に位置し、幕末の時点では「彦兵衛新田」と称し、埼玉郡に所属していた。現在、地域は南と北に大きく大小二つに区域に分かれていて、北部は上野田・下野田・太田新井に囲まれ、南部は岡泉・太田新井の間にあって南でさいたま市岩槻区鹿室に接している。地内は住宅地と工場が混在するが、主に農地となっている。
 途中までの経路は岡泉鷲神社を参照。「岡泉」交差点を左折し、埼玉県道65号さいたま幸手線を1km程北上した進行方向左側に墓地があり、その手前の舗装されていない路地を進むと彦兵衛浅間神社の鳥居が見えてくる。
        
                彦兵衛浅間神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「彦兵衛村」の解説
 隼人堀川の左岸、下野田村の南に位置し、西は同村と岡泉村、中央に上野田村の飛地がある。村内を日光御成道が走る。百間領のうち。もと上野田村の持林で三卿の一家である一橋領であった(風土記稿)。一橋家では町人請負で新田開発を進めることとなり、宝暦一二年(一七六二)に入札が行われ(「入札書付控覚帳」富士庫家文書)、幸手領の彦兵衛・新平・忠左衛門・吉右衛門・友七の五人に落札した。五人共同で開発を開始し、入植者を募りながら逐次進められ、寛政五年(一七九三)までに開発を完了している。
 また『白岡町史』に「此の地は鷲の郷と唱え、上野田村の飛地にして一橋中納言の林なりしが、宝暦13年(1763)武州葛飾郡幸手領の民、彦兵衛、新平の二人これを新墾し、彦兵衛新田と称せり」とあることから、開墾者の名をとったものであるという。
        
        舗装されていない参道を進むと小高い塚上に社は祀られている。
    積雪が残る周囲の雰囲気が却って幻想的で、身が引き締まった心持で参拝を望めた。
        
                 彦兵衛浅間神社社殿
『新編武蔵風土記稿 彦兵衛新田村』
 淺間社 村の鎭守とす、玉寶院の持、 末社 下淺間(中略)
 玉寶院 羽黒行人派修驗、足立郡小針領家村大聖院の配下、本尊不動を安ず、〇不動堂 玉寶院持

 浅間神社  白岡町彦兵衛一五九(彦兵衛字清左衛門)
 当社の鎮座する彦兵衛は、白岡町の南東部に位置し、南側の太田新井・岡泉の間に飛び地がある。
 当地は、元来彦兵衛新田と称していた。『風土記稿』の彦兵衛新田の項には、「此地は昔上野田村の持地にて、一橋殿の林なりしを、宝暦十三年(一七六三)葛飾郡幸手領の民、彦兵衛・新平と云二人にて新墾し、其頃は猶上野田村にて、進退せしが、其後一村に分かちしと云」と記され、東北に隣接する上野田村から分村して成立した様子がうかがえる。
 創建については、『郡村誌』彦兵衛新田の項に「浅間社(中略)安永三年(一七七四)の創立(以下略)」とある。また、本田が富士山を模したものと思われる小高い塚の上に建てられている。江戸期には、富士山に登拝する「お山参り」が広がり、江戸を中心にして、各地に富士講が結ばれ、富士山を象った富士塚が造成された。この塚に登ることによって、富士山を登拝するのと同じ御利益があるとされた。当社の場合も、この信仰によって祀られたと考えられる。
 また、明治期前には、羽黒派修験の玉宝院が別当を務めていたが、廃寺となり現存していない。当社参道の入口に墓地があり、この寺の跡地と思われる。
 内陣には、明治十五年の年紀が刻まれた石祠が奉安されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 彦兵衛新田村』には、末社として「下浅間」を載せている。この社について『明細帳』には「往古末社二下浅間神社アリシカ祭神一ナルヲ以テ本社二合社スト言云フ」と記されている。 
 
  塚下に祀られている高屋坐大神の石碑       境内南側にある伊勢参宮記念碑

 現在境内にある明治四十年の「伊勢太々記念碑」は、かつて当地で行われていた伊勢講の名残であり、伊勢の神宮に参拝し、太々神楽を奉納するもので、大正初期まで行われていたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP
    「
ウィキペディア(Wikipedia)」等
 

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太田新井 太田神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市太田新井334
             
・ご祭神 建御名方命 天穂日命
             
・社 格 旧太田新井村鎮守
             
・例祭等 お歩射(オビシャ) 115日 火防の祭礼 327
                  
祭礼 721
 太田新井地域は、白岡市南東端に位置する。西で岡泉・彦兵衛、北で上野田・下野田、東で南埼玉郡宮代町逆井・金原および春日部市内牧、南でさいたま市岩槻区鹿室に接する。地内は主に大宮台地の慈恩寺支台(内牧台地)の北端に位置し、一部で住宅地も見られるが、主に耕地や水田などの農地が占める地域である。
        
 太田新井 太田神社はこの地域の更に南部に鎮座している。途中までの経路は岡泉鷲神社を参照。埼玉県道78号春日部菖蒲線を南東方向に進行し、同県道154号蓮田杉戸線が交差する「岡泉」交差点から直線距離にして1㎞程南東方向の集落からはかなり離れた場所に社は静かに鎮座している。
        
               太田新井 太田神社参道入口
『日本歴史地名大系』 「太田新井村」の解説
 彦兵衛(ひこべえ)村の南にある。黒沼用水・隼人堀川が流れ、また日光御成道が通り道幅四間に杉並木があった。百間(もんま)領のうち。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏による検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高一九石余・畑高二八二石余、同藩領。同藩の高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数四四(うち本百姓三一)・人数二一六、太田新井新田の家数一六(うち本百姓一一)・人数九一(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
 

      一の鳥居から真っ直ぐに伸びる参道の先にある二の鳥居(写真左・右)
       二の鳥居の左側には「合祀 太田神社」と刻印された標柱がある。
 南西方向に伸びる参道ゆえに社殿は西向きとなっているかと思いきや、二の鳥居の先には
   社殿は見えず、右方向に参道は曲がっていて、実は社殿はすぐ右側に見えている。
        
         二の鳥居と背を向いている社殿の独特の配置が特徴的な社
        
                      二の鳥居の先に配置されている狛犬
 狛犬は、獅子に似た日本の想像上の動物で、通常神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多いのだが、この社の狛犬は守るべき社殿が後ろ側になく、どことなく寂しそうである。
 
  二の鳥居の手前で参道左側にある青面金剛    狛犬の先で参道左側に密られている天王宮
 
    天王宮から参道は右に曲がり、       再度曲がる地点に祀られている
 石碑が建つところで再度右に折れ曲がる。   大黒天・稲荷大明神、と従軍記念碑二基
        
                    拝 殿
 太田神社 白岡町太田新井三三四(太田新井字原)
 太田新井の地名は、一説には村内にあった岩付太田誌の陣屋に住んだ太田道灌により名付けられたという。村の開発の年代については明らかでないが、開発当初は六軒であったと伝えている。
『風土記稿』には、太田新井村の神社について「鷲明神社二宇 共に安楽寺の持なり、〇諏訪社 村民の持、〇天神社 太田道灌の草創と云伝ふ、〇八幡社 以上村民持」と載せ、鷲明神社二社と諏訪社の計三社が村の鎮守であった。しかし、実際には、この三社は村内の三つの耕地(村組)のそれぞれの鎮守で、本田-鷲明神社、宿新井-鷲明神社、原-諏訪社という形で祀られ、村の鎮守として位置付けられる神社はなかった。このうち、原の「土橋(どばし)山」と呼ばれる高台に鎮座する諏訪神社が元々の当社で、元は旧家の氏神であったが、後に原の鎮守になったと伝えられており、恐らく『風土記稿』に見える「村民の持」は旧家の土地に祀られていたことを示すのであろう。ちなみに、同家は当社の参道入口の手前に居を構え、当主は一五代を数える。
 大正二年に本田と宿新井のそれぞれの鷲ノ宮神社(旧鷲明神社)を合祀した。この時の合祀先の選定は籤引きにより決したという。大正五年には社号を地名にちなんで太田神社と改めた。この時に総代の一人が境内東側の山林を寄附して境内を広げたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
         本 殿                本殿内部
        
             二の鳥居から正面一の鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
ウィキペディア(Wikipedia)」

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岡泉鷲神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市岡泉11211
             
・ご祭神 天穂日命
             
・社 格 旧岡泉村鎮守 旧村社
             
・例祭等 オビシャ 119日 天王様 714日 例祭 723 
 実ケ谷久伊豆神社の南側正面鳥居がある農道を東行する。周囲一帯田園風景が広がる長閑な農村風景を愛でながら、1㎞程進行した先にある三叉路の真ん中の道を進み、埼玉県道78号春日部菖蒲線に達する手前で、進行方向左手に岡泉鷲神社が見えてくる。
 社に隣接した岡泉集会所前にある適度な駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始した。
 
   正面参道の右側並びに建つ社号標柱     社号標柱の右並びに設置された案内板
        
                  社の参道正面入口
『日本歴史地名大系』「岡泉村」の解説
 太田新井村・彦兵衛(ひこべえ)村の西、上野田村・下野田村の南に位置する。北境の一部を隼人堀川、地内を黒沼用水が流れる。太田新井村との境に彦兵衛村の飛地がある。岩槻領のうち。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一〇石余・畑高七六石余、同藩領。幕末まで同藩領として続く。同藩の高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数一八(うち本百姓一一)・人数一一八、岡泉新田は家数一一(うち本百姓八)・人数五七(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。貞享三年(一六八六)には高一三五石余、ほかに新田二二石余、野銭永二貫六九五文半、見取場田畑三一町六反余となる(岩槻藩領郷村高帳)。
 岡泉(おかいずみ)地域は、白岡市東南部に位置する農業地域である。『日勝村誌』によれば、村名の由来は、昔(正慶の頃・1332年頃)、野田とこの地の間に沼があり、岡泉と称したといわれている。岡泉新田は江戸時代に開発された。村の中心部には鎮守の鷲神社、丸山共同墓地、観音堂などがある。明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
        
              参道を進むと見えてくる一の鳥居
 当社の創建について『風土記稿』岡泉村の項に「村の鎮守なり、村持、天和元年(一六八一)十月勧請す、神体は丸き板にて、本地仏薬師の像あり」と記す。一方、『明細帳』には、「創立年月不詳従前村内字戸崎耕地二在リシヲ天和元年十二月転社ス」とある。氏子の伝えによると、旧鎮座地は現在地の北西一キロメートルの隼人堀川と黒沼用水に挟まれた場所で、水害を受けやすいために当地に遷したという。
 
  一の鳥居の先にある木製の二の鳥居      二の鳥居を過ぎたすぐ左手に見える
     朱を基調とした両部鳥居              浅間大神
        
              参道を隔てて浅間大神の向かいにある神楽殿
 当社で723日に行われる
例祭である「祭礼」は、豊作祈願の祭りとされ、この日は、神楽殿で囃子と神楽(巫女舞)が奉納される。
 当地の囃子と神楽は天保年間(一八三〇〜四四)に春岡村(現さいたま市大宮)から習ったものと伝えられる。その後、昭和初期には神楽を舞える人がいなくなり、改めて大宮の杉山社中に教わり、現在は白岡市指定文化財となっている。戦前までは里神楽として、囃子方や神楽舞方を要し「天の岩戸」「おろち退治」「源平盛衰記」などの演目を上演しており、現在でも神楽面が数多く保存されている。囃子は、これらの日のほかに元旦の初詣と五月八日の岡泉観音堂の花祭りにも奉納されている。この囃子は「大尽囃子」とも呼ばれているが、その由来は明らかではないという。
種   別 市指定無形民俗文化財
指定年月日 昭和55111
        
        長く続く参道の中、今では珍しく三の鳥居も建てられている。
         ただ周囲の雰囲気はやや寂れているような雰囲気もある。
 
              社殿の手前に聳え立つケヤキの御神木(写真左・右)
 当社の勧請は天和元年(1681)と伝えられることから、このときある程度の大きさの苗木を植えたとすれば、樹齢は350年近くと推定されようか。幾多の風雪に耐え、村のさまざまな歴史をつぶさに見てきた証人として、ぜひ大切に守りたい木である。
        
『新編武藏風土記稿 岡泉村』
 鷲宮社 村の鎭守なり、村持、天和元年十月勸請す、神體は丸き板にて、本地佛藥師の像あり、

 岡泉鷲神社  白岡町大字岡泉字神台
 岡泉鷲神社は、天和元年(一六八一)に当地へ勧進されたと伝えられている。祭神には天穂日命が祀られている。境内には本殿、拝殿のほか、神楽殿がある。本殿右側には八雲社(祭神は素戔嗚尊)が祀られている
 七月十四日には八雲社の祭礼である「天王様」が行なわれる。山車が境内で組み立てられ、その上で祭り囃子(大尽囃子)が奉納される
 また同月二十三日は鷲神社の祭礼で、神楽殿にいて神楽と囃子が奉衲される。こえらは天保年間(一八三〇~四四)、若者の気風の荒廃を心配した村人が、春岡村(現大宮市)から師匠を招き、若者達に習得させ神社に奉納させたのが始まりという
 境内には二本の大ケヤキがあり、山車や大尽囃子、神楽とともに町の指定文化財となっている
 平成十年二月 白岡町教育委員会
                     境内案内板より引用
 境内には立派な御神木があり、神楽や囃子・市指定文化財もあり、敷地も広く、旧村社の格式以上に本来は大変立派な神社だったと思われる。
 他のHP等で見たのだが、この社の拝殿、特に屋根部位の損傷が著しく、大きな穴が開いており、このままでは風雨風雪が社殿に侵入してしまい、いずれ柱が腐って崩れ落ちてしまう事態となっていたという。現在の社殿の様子を確認すると、以前の拝殿は完全に解体され、一部使用できそうな部材に関しては、新しい社殿に出来る限り再利用してできたもので、社としての趣き、重厚さは以前と比べてかなり変わってしまっているであろう。
 この社だけでなく、県内外の神社には老朽化しているにも関わらず、改築もされず、風雨風雪にさらされているものも少なくない。
 
嘗て拝殿向拝部位等の材を使用したのであろう。        本 殿
 その思いは評価しなければいけないだろう。
        
     境内には、市指定文化財の標柱が建っていて、文化財保全という観点から
       でも、地方自治体を主体としたさらなる取り組みを期待したい。
       
              本殿の右側に祀られている八雲社
 714日に行われる「天王様」は疫病除けの祭りである。この日は境内に山車を組み立てて花を飾り、これに地元の囃子連が乗って囃子が奉納される。以前は氏子各戸から跡継ぎたちが山車を曳いて、氏子地内を巡っていたが、諸般の事情により、山車は境内に飾るだけとなったという。
 

  八雲社の並びに祀られている合祀社(写真左)。左から天満宮・天満宮・神明社・稲荷社。 
       合祀社の右並びには稲荷社・道陸社が祀られている(同右)。 
        
                   境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP
    「白岡市観光協会
HP」「境内案内板」等
         
   

  
        


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千駄野稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市千駄野814
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧千駄野村(上耕地)鎮守 旧無格社
             
・例祭等 初午祭り 2月初午
 千駄野八幡神社から直線距離にして500m程北西方向で、東北自動車道の西側の住宅街の一角に千駄野稲荷神社は鎮座している。但し地域の中央部を南北に縦断する東北自動車道を越える最短距離の道路がないため、一旦白岡パークラインを北西方向に進み、自動車道に沿った脇道を白岡市役所付近まで北上、その後、自動車道を潜るように通り抜けたのち、今度は自動車道に沿った脇道を南下するといったような回りくどいルート設定しかない。
 社の北側に隣接している「千駄野自治会館」の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                 
千駄野稲荷神社正面
 千駄野地域は、ほぼ東北自動車道を境にして上と下に分かれており、当社の氏子区域である上には、「加美耕地」「新田耕地」「丸谷耕地」「下沼耕地」の四つの耕地がある。
「埼玉の神社」によると、千駄野では下で祀る八幡神社が村社になっているため、当社は無格社となったが、この両社は共に村の鎮守で信仰の厚さに差はないとして、合祀が行われることもなく、現在に至っている。ただし、昭和四十八年には、道路拡張によって拝殿が取り壊され、同時に本殿の草葺き屋根が銅板葺きに改められたため、神社の趣は随分と変わったという。
        
                 千駄野稲荷神社全景
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持

 稲荷神社   白岡市千駄野八一四(千駄野字下手)
 千駄野は、日川の旧流路に位置する農業地域である。その地名は、昔、この辺は千駄の萱が取れる原野であったことに由来し、村人は取れた萱を岩槻城に納めていたという。そのため、昔の人は「千駄野は殿様村だ」とよく言ったものであった。
 数回にわたる利根川の改修によって日川の流水量が大きく減少し、千駄野でも耕作が可能になってきたのは江戸時代になってからのことで、検地帳などの古文書の記述から、少なくとも正保から寛文のころ(一六四四〜七三)には一村として成立していたものと思われる。
 こうして成立した千駄野の集落は、大きくは北部の上(かみ)と、南部の下(しも)とに分かれるが、当社は、上の鎮守として祀られてきた神社で、江戸時代には地内の徳性寺という真言宗の寺院が別当を務めていた。したがって、当社は、その創建の年代は不明であるが、日川の流水量が減り、耕作が可能となって人が住み着き、村の形が整えられていく中で、耕地の安泰を願って作神である稲荷神を勧請したものと推測される。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
              社殿の左脇に祀られている山王社
       
                  子育て地蔵堂
 当社の境内の南東隅には地蔵堂が祀られている。昔から「子育て地蔵」として信仰が厚いこの地蔵尊は、元来は徳性寺にあったが、廃寺となり、寺僧の末裔の邸内に移されていった。その後、昭和45年頃に自治会館の北側に移されたが、地蔵尊が建物の陰になって御利益を発揮しないという理由から、平成元年に現在の位置に祀られるようになった。724日に行われる縁日には、境内に80基程の灯籠が飾られ、灯籠が灯る夜には多くの参詣者があるという。
 当地では、他所から嫁に来るとまず家の荒神様を拝み、それから当社と子育て地蔵に子宝が授かるように祈願するのが習いとされていた。そうして子供が生まれると、願果たしたとして鈴緒に紅白の晒(さらし)を下げたものであったが、当地では子育て地蔵を祀ることから、昔から双子が多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「白岡市HP」「埼玉の神社」等

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千駄野八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市千駄野1291
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧千駄野村(下耕地)鎮守 旧村社
             
・例祭等 百万遍 718日近くの日曜日 例祭 915
 実ヶ谷久伊豆神社の西側に南北に通る「白岡パークライン」を600mほど北行した道路沿い左手に千駄野八幡神社は見えてくる。周囲には適当な駐車スペースはないようなので、北側にある交通量の少なめな農道に路駐し、急いで参拝を行った。
        
          白岡パークライン沿いから参道は伸びているのだが、
          途中から参道が右側に曲がるような配置となっている。
『日本歴史地名大系』 「千駄野村」の解説
 実ヶ谷村の北に位置する。西部の微高地は大宮台地白岡支台の東端にあたり、中央部から東部にかけては旧日(につ)川流路の低地である。悪水堀は菱沼(ひしぬま)落堀・下沼落堀、用水は黒沼用水を利用。水利はよいが水旱に苦しむこともあった。村の西方小久喜(こぐき)村境から東方岡泉村境に至る粕壁杉戸(かすかべすぎと)道と、小久喜村から実ヶ谷村境に至る岩槻道がある。岩槻領のうち(風土記稿)。利根川の数次の改修により日川の流水が涸渇し、耕地が可能となった。
        
                              
千駄野八幡神社 両部鳥居
 白岡市千駄野(せんだの)地域は、白岡市中部に位置し、地域内には白岡市役所がある。東境は大字界が錯綜しているとはいえ、大略として岡泉・実ケ谷両地域に接し、地区の中央を南北に東北自動車道が縦断し、その西側は南部を除き主に住宅地で、東側は公共施設が立地する以外は主に水田などの農地となっている。
 千駄野という地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
 江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
        
            社殿左側手前に祀られている境内社・石碑等
            左から天満宮・両部稲荷社・稲荷神社・?
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
 稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
 德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持


 八幡神社  白岡町千駄野一二九(千駄野字迎)
 鎮座地である千駄野の地名は、村内に荒れ地が多く、領主に納める貢租が茅一千駄に過ぎなかったことにちなむとも、かつて一千駄の木や萱を焚いて雨乞いをしたことに由来するともいう。この千駄野の村の名が文献上に見えるのは、寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」に収められる阿部伊予守宛の朱印状目録からで、このことから考えると、村が成立したのは慶安から万治にかけて(一六四八〜六一)のころと推測される。
 当社は、稲荷社(現稲荷神社)と共にこの千駄野の村の鎮守として祀られている神社で、創建についての伝えは詳らかではないが、恐らく村の開発と相前後して勧請されたものであろう。村の鎮守が二社あるのは、千駄野の村が大きくは上耕地と下耕地に分かれており、それぞれで鎮守の社を祀ってきたためで、稲荷神社は上耕地の鎮守、当社は下耕地の鎮守である。なお、『風土記稿』千駄野村の項によれば、稲荷神社は地内の徳性寺の持ち、当社は村持ちとなっているが、立地からすれば泉福寺が当社の祭祀に関与していた可能性がある。
 明治六年には村社となり、氏子の崇敬はますます厚く、境内には様々な石造物が奉納されていった。幟立は明治十一年、社号標は昭和十五年に奉納されたものであり、末社の稲荷社の祠は昭和四年に建立されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
 千駄野地域の南部に当たる下耕地が当社の氏子区域であり、下耕地の中にも「迎」「四谷」の二組に分かれている。千駄野の名前の起こりの一つとされている雨乞いは、通称「千駄焚き」といい、嘗て山上に松の枝・藁・麦稈(むぎから)・萱を各自が持ち寄って焚き上げるというものであったらしいが、現在は行っていないようだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」等


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