古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

外野香取神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市外野66
             
・ご祭神 経津主大神
             ・社 格 旧外野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初会合 11日 春祭り 415日 夏祭り 719
                  秋祭り 1019
 久喜市外野地域は、旧利根川である中川と葛西用水に挟まれた低地帯で、元来、稲作が主体とした農業地域であり、氏子も数十戸あまりと少なかったのだが、昭和30年代以降は、東鷲宮駅ができたことにより転入者が相次ぎ、また、従来水田であった地域北部には、近年東鷲宮ニュータウンが造成されたことにより、昔からの景観も大きく変わってきているという。
 外野の鎮守社である外野香取神社は、JR東日本・東鷲宮駅から直線距離にして1㎞程南側にある「成立学園鷲宮グランド」に隣接してひっそりと鎮座している。
       
                  外野香取神社正面
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 外野村は、古へ西大輪村の内なり、元祿の改に始て西大輪村の枝鄕と載たり、其後又枝鄕の唱をすてゝ、全く別村となれり、
『日本歴史地名大系』 「外野村」の解説
 西大輪村の南東にある同村枝郷。元禄一〇年(一六九七)に分村したという(郡村誌)。元禄郷帳に高二八三石余とあり、国立史料館本元禄郷帳によれば旗本三浦領。
 
    左側の狛犬の隣に祀られている弁才天       右側の狛犬の隣に
祀られている稲荷大神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 香取社 村の鎭守なり、勝藏院持、下同じ、 末社稻荷 辨天
 勝藏院 新義真言宗、東大輪村密藏寺末、慈光山と號す、本尊不動、辨天社

 香取神社  鷲宮町外野六六(外野字前)
 鎮座地の外野は、中川と葛西用水(いずれも旧利根川)に挟まれた低地であるため、太平洋戦争後、河川改修が行われるまでは、しばしば洪水に悩まされた。しかし、その洪水は当社の創建と深くかかわっており、氏子の間では次のような話が伝えられている。
 当社の南側を流れる川(葛西用水)が、まだ利根川の本流だったころのある年、大水があった。その後、下総国の香取神社から神体が丸木舟に乗って川を遡り、この地に漂着した。村人は有り難く思い、その神体を、当時はまだ真菰(まこも)の生い茂る原野であったこの地の中でも最も高い所を選んで、小さな茅葺きの祠を建ててお祀りした。これが香取様の創祀である。当時の外野は、家がたった六軒しかない小さな村であったが、開発が進んで村が大きくなるにつれて家数が増え、社殿も大きくなって今日のようになった。
 この話がいつごろのことで、また、漂着した神体がどんなものであったかはわからないが、『風土記稿』には「香取社 村の鎮守なり、勝蔵院持、下同じ、末社稲荷 弁天」とあることから、江戸中期には現在のような姿で祀られていたものであろう。また、本殿には幣束のほか、神祇管領により調進された「香取大明神勧請安鎮座」の霊璽が納められている。この霊璽に年紀は見られないが、卜部兼雄の名が記されていることから、江戸中期に受けたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社は村の鎮守として氏子からの信仰も厚く、祭典に当たっては五穀豊穣・家内安全が祈願されている。また、婦人からは安産の神としても信仰されており、祭典で使用されたろうそくの燃え残りは安産のお守りとされているようである。
        
                  境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
    
        


 

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上清久白幡雷電神社

 かつて葛飾郡大川戸村(松伏町)は大河戸御厨(伊勢神宮領)の地であった。吾妻鑑卷三に「寿永三年正月三日、武蔵国崎西・足立両郡の内にある大河土の御厨あり、外宮に寄進す」とあり、建久三年伊勢大神宮神領注文写に大河土御厨給主外宮権神主光親と載せている。
その後、平安時代末期に藤原秀郷流である下野国都賀郡三毳崎太田村(藤岡町)出身の大田行広がこの地を本拠地としたため大河戸氏と称したという。
『尊卑分脈』
「大田大夫行尊―大田大夫行政(改宗行)、弟大田四郎行光(或行政子)―行方(号大河戸、下総権守、母秩父太郎重綱女)―太郎広行、弟清久二郎秀行、弟高柳三郎行基、弟大川戸四郎行平(神人の頸を切るにより大田庄を召放たる)、行方の弟大河戸次郎行広―小次郎行朝―四郎行茂―兵部光基」
 大河戸行方(重行)には4人の子供がいて、長子広行が大河戸氏を継ぎ、その三人の弟はそれぞれ本貫とした地の名をとり、おのおの清久氏(次郎秀行)、高柳氏(三郎行基)、葛浜氏(四郎行平)を名乗った。
 清久郷を領して清久氏の祖となった二男次郎秀行は、頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(京都府福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができ、幕府の御家人として活躍したことが記録されている。また清久氏の館は、現在の常徳院と上清久白幡雷電神社がある楕円形の台地付近に構えられていたと伝えられている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久668
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 雷除祈願 41日 初山 71日 例祭 1125日 他
 上早見千勝神社から埼玉県道146号六万部久喜停車場線を西行し、「六万部橋(東)」交差点を右折する。その後、進行方向右手奥に埼玉県立久喜特別支援学校が見えてくる先の路地を左折したそのすぐ東側に上清久白幡雷電神社は鎮座している。
        
               
上清久白幡雷電神社正面附近
     社号標柱があるその北側にある白壁は、
常德院持ちの白幡山墓地である。
        
               
上清久白幡雷電神社正面鳥居
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。

         静まり返った境内          参道左手に設置されている案内板

 常徳院は「曹洞宗 白幡山権現寺」と号し、当院から雷電神社にかけての境内は楕円形の小高い台地の上にある。周囲は構え堀のごとく水路がめぐり、戦前までは白幡沼と呼ばれる広大な湿地帯が南東方向に広がっていた。
 中世には奥州へと伸びる鎌倉街道(奥大道)が南北につらぬき、また武蔵国と下総国の国境であった川口の渡し(旧利根川)を北方4kmに臨んでいた。天然の要害・交通の要衝を兼ねたこの地に、平安時代末期から南北朝時代までの約170年間、在地領主であった清久氏が館を構えていたとされている。
 清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野国の小山氏・下総国の下河辺氏とは同族にあたる。大河戸御厨(松伏・吉川・三郷・八潮)を治めた大河戸行方(重行)の子息で太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏を〈加須〉、四郎行平は葛浜氏〈羽生〉をそれぞれの領地名から名乗った。治承五年(1181)大河戸四兄弟は三浦介義澄に伴われて源頼朝に拝謁、「皆勇士の相を備えている」と頼朝に気に入られたと『吾妻鏡』に記されている。清久次郎秀行は頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘京都府福知山市を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができる。
 また『太平記』には中先代の乱(1335)で北条氏に従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
 その後は阿波国(徳島県)に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582)中富川の戦いで十河存保に従って長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子で知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。
 常徳院に残る永仁六年(1298)銘の板石塔婆や応安元年(1368)銘の宝篋印塔の残欠などは清久氏一族の供養塔とされ、旧本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代末期から南北朝時代の造像で清久氏の守本尊と伝わっている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
 白幡權現社 白幡光明雷王大權現と號す、古へ足利高興白幡を納めしより、かく號せし由をいへど、高興の名聞くことなし、傳への訛りしならん、祭神は雷電神本地十一面觀音、立像にて丈七寸餘、行基の作、常德院の持、
什物 雷槌一本 龍ノ牙一 石一 弘法大師、雨乞の石と云、
 常德院 禪宗曹洞派鷲宮村靈樹寺の末、白幡山權現寺と號す、開山起屋庭宗天正十五年四月七日示寂、本尊彌陀は慈覺大師の作にて、立像一尺餘、此外聖德太子自作の壽像及虛空藏、且運慶の作、毘沙門天春日の作、千壽觀音を安ず、當寺境より白幡權現社地の邊、淸久次郞城蹟なりし由、今もこの邊を掘れば、矢の根など出ることありと云、

 雷電神社
 祭神 別雷命―気象と五穀を護る神
 神社起源、由来
 言い伝えによればその昔、行基菩薩が、この地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社といわれる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奧州を平定した義家は、戦のお礼に源氏の白幡を奉納したという。
 雨乞、雷除、虫封じ、子孫繁栄の祈祷神社と知られ「光明電王宮・白幡権現社」と称し、地元近隣はもとより、遠方の人々からも大いに信仰された。明治初年の神仏分離令により、雷電神社と隣の常德院に分離された。 義家白幡奉納伝や地名が白幡であることから、地元や近隣の人々から白幡さま白幡神社と呼ばれた。(十一面観音像は常德院に祀られている)
昭和二十年代頃までは、社寺の三方は田んぼと沼(白幡沼)
に囲まれ、神社は小高い台地の杜のなかに鎮座していた。周囲は開発され今は昔日の面影はない。
 最後の雨乞
 大正十三年夏、日本全国は大干ばつにみまわれ、この地方も深刻な被害があり七月十九日から一週間の雨乞が行われ、満願の二十五日雷鳴とともに恵みの雨が降り農作物は甦り豊作となったと云われている。 (徳富蘇峰揮毫記念碑あり)
 白幡城と赤幡城
 むかし、沼に囲まれた白幡城の対岸に赤幡城があり、ある時戦いがおこり白幡側が不利になった時、突然大蛇が現われ、赤幡側の舟と兵を攻撃し白幡側が勝利したと言う。(旧久喜市の唯一の民話)
 境地末社  浅間神社、厳島神社、弁財天社(以下略)            境内案内板より引用
        
                    本 殿
 
   社殿左手奥に祀られている弁財天社      社の手前に設置されている弁財天碑

 かつて、氏子・崇敬者の間で「雨乞い組合」が結成される程、当社への信仰は厚いもので、旱魃が続くとしばしば雨乞いが行われたようだ。中でも大正13年7月の雨乞いは、6月初旬から降雨がなく、深刻な状況の中で行われた。7月25日を満願の日と定め、19日から一週間にわたり祈願を続けた。この時の祈願は、当社で神職が降雨を祈ると同時に常德院でも住職が本堂で読経をし、若い者たちは褌(ふんどし)一つで当社の裏手にある弁天様の池に入り、バケツでその水をくみ出して本社めがけて浴びせかけるというものであったという。
        
               弁財天社の隣に祀られている厳島神社 
       
               本殿奥に祀られている浅間神社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等 
        

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中島若宮八幡神社


        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町中島382
            
・ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祭礼 720日 おびしゃ 915
 宮代町中島地域は、町東部に位置し、大落古利根川右岸の周囲一帯長閑な田畑風景が広がる地域で、地形を確認すると、大落古利根川のすぐ南側で河川に沿うように細長く形成されている微高地に集落は集中していて、社もその集落内に鎮座している。
 道佛稲荷神社から埼玉県道85号春日部久喜線を街中方向に進行し、東武伊勢崎線の線路下にある「みやしろ地下道」を潜るように進んだ先にある「中島」交差点を更に直進する。宮代町の繁華街も南北に縦断する東武伊勢崎線を境にその先は風景が一変し、広大な農地の中に住宅が点在する長閑な風景となる。その後3本目の十字路を右折し、暫く進むと右手に「若宮集会所」があり、その集会所の南側に隣接するように中島若宮八幡神社は静かに佇んでいる。
        
                 中島若宮八幡神社正面
 
        鳥居の手前で参道の左右にある庚申塔や青面金剛(写真左・右)
             なお右側写真の左側にあるのは「力石」と思われる。
        
          入口付近に設置されている社の案内板(まちしるべ)
 まちしるべ 42
 若宮八幡神社  所在地 宮代町字中島
 若宮八幡神社は、字中島の若宮地内に所在し、誉田別命を祀る。祭礼は、七月二〇日と九月一五日の年二回である。
 言い伝えによると、今から四〇〇年ほどの音(江戸時代の初め)高橋七郎兵衛という人によって鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を屋敷内に祀った。その後、農耕神として当所の人々からも信仰され、江戸時代の中ごろ当地の鎮守として祀ったのがその起こりといわれている。
 本殿は権現造で、本殿内に納められている箱には宝暦六年(一七五六)三月の絡が記されている。また、当社には祭礼に用いられる二対の幟旗がある。一つは天保六年(一八三五)八月のもので町内の川島で私塾を開いていた尾花善貞、もう一対は、慶応四年(一八六八)正月のもので、爪田ヶ谷村(現白岡町)の医師富沢永惇の筆になるものである。
 境内には、天神社、稲荷社が祀られ、また、江戸時代の宝永四年(一七〇七)から安政二年(一八五五)までの四基の庚申塔や力石などがある。
 なお、この神社の近くにある青蓮院は、本尊十一面観音像を祀る寺院で、明治時代から大正時代まで百間小学校の校舎の一部として使われていた。明治四三年六月には「若宮分校舎修繕記念句集」の俳額が奉納されている。
                                      案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 八幡神社  宮代町中島三八二(百間村字中島)
 鎮座地の中島は古利根川右岸に沿って位置する。「風土記稿」中島村の項によれば、開発は天正十八年(一五九〇)に島村出羽宗明によって行われ、最初は道仏村と称していたが、元和五年(一六一九)の検地の際、中島と改めたという。また、当村は初め百間村に属し、元禄八年(一六九五)に分村した。当社については「若宮八幡社東村西光院持」とある。
 口碑によれば、大阪夏の陣で豊臣方に就いて敗れ、落人となった高橋七郎兵衛が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を頂いて当地で帰農し、その分霊を作神として屋敷内に祀った。その後、当地の人々からも作神として崇敬されるようになったことから宝永年間(一七〇四-一一)に東村の西光院を別当とし、当地の鎮守となったという。別当の西光院は、養老年間(七一七-七二四)に行基によって開基されたといわれる古刹で、京都醍醐三宝院の直末であった。
 神仏分離により当社は西光院の管理を離れ、明治六年六月に村社に列せられた。
 本殿内には「奉建立若宮八幡宮 宝暦六丙子年(一七五六)三月吉祥日 施主高橋七郎兵衛」銘の八幡大明神立像が奉安されている。また、拝殿内には「奉納八幡神社御祭礼天保六乙未年(一八三五)秋八月吉日武州百間領若宮村子供中」銘の幟旗が納められている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   参道左側に祀られている境内社・天満宮    社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社
当社の氏子区域は江戸期の中島村字若宮で、明治二十二年に中島村のほか六ヵ村を合併すると百間村大字百間中島字若宮となった。その後、昭和五年に大字が廃止されたことから、若宮の地名は廃の方々が氏子となっているとの事だ。
        
                社殿から鳥居方向を撮影
           社の南側には広大な田畑風景が広がっている。

 当社は古くから「作神」(さくがみ・つくりがみ)として崇敬されてきたという。この作神とは、日本の農耕民の間で古くから稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神で、田の神・農神・百姓神・野神と呼ばれることもある。
 また、起源の異なる他の信仰と結びついて、東日本では「えびす」、西日本では「大黒」をそれぞれ田の神と考える地域が多く、さらに土地の神(地神)や稲荷神と同一視されることもあり、その一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神であるという。
 作神は山の神とも深い関係があるといわれ、山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた。その一方で、稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰もあり、これを、田の神・山の神の「春秋去来の伝承」といい、この伝承は全国各地に広くみられている。
 春秋去来の伝承は屋敷神の成立に深いかかわりをもっているとみられ、屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘されている。
 因みに、大国主の国づくりの説話に登場する「久延毘古」(クエビコ)は、「かかし」が神格化されたものであるが、これもまた作神(農耕神)であり、地神であるともいう。



参考資料「埼玉県の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「世界大百科事典(旧版)」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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道佛稲荷神社

 
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町宮代2817
            
・ご祭神 宇迦之御魂大神
            
・社 格 旧中島村鎮守
            
・例祭等 元旦祭 夏越の祭り 720
 宮代町道佛地域は、同町の中央部に位置し、東武動物公園駅からおおよそ1 kmほど南の距離にあり、また宮代町役場やコミュニティーセンター進修館など、町の主要施設が集まっている利便性の高い地域でもある。因みに地域名「道佛」は「どうぶつ」と読む。
 
埼玉県道85号春日部久喜線を宮代市街地方向に進み、姫宮落川に架かる「道佛橋」を渡り切った先にある信号のある十字路を左折すると、進行方向左手に「道佛集会所」が見え、その奥に道佛稲荷神社は鎮座している。
        
                  
道佛稲荷神社正面
 宮代町道佛地域の東部は東武伊勢崎線の線路を、西部及び南部は姫宮落川を境界としている。区画整理事業が行われた道佛地区は近年新築住宅が多く建設され、若年層が多く流入して人口が増えている。また、町丁部分の北部および西部に住居表示未実施の字道佛があり、西部は主に水田などの農地で、南西端を笠原沼落が流れる。三角形の区域を有する北部は、住宅地となっている。
 
 社号標柱のすぐ先で、参道左側にある庚申塔      右側にも庚申塔等が並んである。
        
                                参道の先にある一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「中島村」の解説
[現在地名]宮代町百間(もんま) 中島・道仏(どうぶつ)
百間村の東に位置し、古利根川右岸に沿う。同川の東対岸は葛飾郡堤根村(現杉戸町)。天正一八年(一五九〇)島村出羽守宗明が開発して道仏村と称したが、元和五年(一六一九)の検地で中島村と改称、のち百間村のうちとなり、元禄八年(一六九五)同村から分立したという(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、古くは道仏村と注記され高三一六石余、旗本池田領(国立史料館本元禄郷帳)。
        
           一の鳥居の先に見える朱を基調とした二の鳥居
 江戸時代、この地域一帯は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいて、中には自国領を「私称」するようになった。「道佛」地名も、天正18年(1590)島村氏の先祖がこの地に移住・土着し、その二子である出羽宗明が開発し、その際に道佛村と称したという。その後、元禄8年(1695)の百間村分村のときに中島村と改めたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 開發は天正一八年(一五九〇)島村出羽宗明なるもの開發して、道佛村と云ひしと云、然るを元和五年險地の時、今の村名に改めしと土人の傳れど、所以はしらず、されど正保國圓この名を載せず、元祿國圓初て中島村とのせ、古は道佛村と唱へしことをのせたれば、天正の開發にもせよ、舊くは百間村に屬し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元祿八年に至て一村とはなれり、

 
 参道左側に祀られている境内社・阿夫利神社   
阿夫利紙社の先で並んで祀られてい天満宮
        
  参道を挟んで
阿夫利神社・天満宮の対側にある伊勢参宮記念碑二基。その間には力石あり。
        
         拝殿を前に
立ち並ぶ二柱のクスノキの御神木。壮観な眺めだ
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 稻荷社 村の鎭守なり、元和五年の勸請と云、村持、末社 石尊 辨天 庵如意觀音を安ず、
 醫王院 新義眞言宗、東村西光院末、稻荷山宗祐寺と號す、當寺は名主德右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云、宗明が先祖嶋村彈正左衛門高智と號す、近江國に住し細川高國に仕へ、享祿四年(一五三一)六月廿四日攝州尼崎に於て入水して死せり、其子近江入道道明東國へ下りて當村に住し、天正一二年八月一五日卒す、出羽宗明は其二子にして、寛永元年十月五日卒す、法名を宗祐と云、本尊不動、


 稲荷神社  宮代町道仏二三一(百間字道仏)
 当社が鎮座する道仏の開発について、『風土記稿』中島村の項には、「開発は天正十八年(一五九〇)、島村出羽宗明なるもの開発して、道仏村と云ひしと云、然るを元和五年(一六一九)検地の時、今の村名に改めしと土人の伝れど、所以はしらず、されど正保国図この名を載せず、元祿国図初て中島村とのせ、古は道仏村と唱へしことをのせたれば、天正の開発にもせよ、旧くは百間村に属し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元禄八年(一六九五)に至て一村とはなれり」と記されている。昭和五年の大字廃止により字道仏となった。
 創建については、同書に「稲荷社 村の鎮守なり、元和五年の勧請と云、村持、末社 石尊 弁天 庵如意観音を安ず」と記録され、村の開発から間もなくのこととしている。また、この文中「村持」とあるが、地内の医王院について、「新義真言宗、東村西光院末、稲荷山宗祐寺と号す、当寺は名主徳右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云」とあり、「稲荷山」の山号から、当社の別当寺であったと思われる。更に、村の開発と寺の建立の関係から推測すると、 当社の創建にも島村出羽宗明がかかわった可能性がある。
 昭和四十二年、社有地を売却し、本殿の大修理と、末社天満宮・阿夫利神社・弁天社の三社を再建した。その後、平成五年に、今上天皇の即位大礼記念事業として、本殿の屋根の葺き替えを行った。
 
                                  「埼玉の神社」より引用 
        
             拝殿に掲げてある「蒼福魂神」の扁額
        
               拝殿内に祀られている五柱の御幣
      参拝日は正月5日。御幣の前には、神様への捧げ物、お供え物があった。
 御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると
    同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持つという。
 
       
                    本 殿
 氏子区域は、道佛と中島(通称中洲)で、昭和5年まで、共に中島村の小名であった。当社は、「五社稲荷神社」とも呼ばれ、これは、中島地域の稲荷神社を合祀して五社となったというが、詳しいところは分からないという。三間社流造りの本殿内陣の奥は五座に分かれ、その一座に「稲荷大明神、天保十(1839)亥四月吉日、関根氏」と刻まれた石祀が奉安されている。あるいは、これが中島地域で祭られていたものであるかもしれない。
 現在の本殿について、文化年間(1804~18)に焼失し、それを再建したものと伝えている。
        
                 社殿付近からの眺め
       ご神木の根部位の圧力からか、参道の敷石が微妙に変形している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                 

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山崎重殿社・神明神社

 山崎地域内は、嘗て星谷・中山・前田・山ノ下・京塚・笠原・蓮田・第六天・南第六天等と共に百間村の小字であったが、昭和52月の大字廃止に伴い字名の一つとして用いられるようになった。
 山崎地域の歴史は古く、近年の発掘調査の成果から旧石器時代約20,000年前から人々が住んでいたことが明らかになっている。縄文時代にも多くの遺跡があり、山崎遺跡では縄文時代草創期約12,000年前の尖頭器なども発見されている。また、縄文時代早期7,000年前や後期3,500年前の住居跡や土器や石器などの遺物も数多く発掘されている。
 古墳時代には、宿源太山遺跡から34世紀頃の住居跡や土器が、山崎山遺跡では埼玉県最古の4世紀後半の鍛冶工房跡が発掘されている。中世(鎌倉・室町時代)には、宿源太山遺跡で板石塔婆や宋銭が発見され、山崎遺跡や山崎南遺跡でも甕や土鍋等が出土している。
 江戸時代には、山崎地域は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいた。一方、笠原沼新田の開発が享保13年(1728)に行われている。また、宿地内には「源太山」と呼ばれる松永源太左衛門の屋敷跡がある。 明治時代以降は、百間村・百間西原組等に属し、明治22年には百間村、そして昭和30年百間村が須賀村と合併して宮代町の一地域となっていて、現在山崎地内には行政区として、宿と山崎がある。
 なお、山崎地内には重殿社・神明神社・浅間神社・御嶽神社や、松永坊などの社寺があり、また、東村の神社であった第六天神社も山崎地域の西側にあった。
【山崎重殿社】
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎2446
            
・ご祭神 金山彦命
            
・例祭等 例祭 724
 宮代町山崎地域は大宮台地北東部にある慈恩寺(じおんじ)支台の東側縁辺部にあたり、古利根川右岸に位置している。現在の「東武動物公園」の南東部で、昭和59年に県民主体の運動の推進組織として発足し、平成24年に公益財団法人に移行した「さいたま緑のトラスト協会」が認定した緑のトラスト保全第5号地である「山崎山の雑木林」のすぐ南側に山崎重殿社はひっそりと鎮座している。
        
              山崎集会所に隣接した山崎重殿社
 社の後方には「山崎山の雑木林」が一帯を覆っている。大宮台地の端が低地と接する位置にあり、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林で、隣接する水田には、江戸時代中期の開墾当時の様子を残す「ほっつけ」が現存し、周辺を含む一帯は、雑木林、水田、集落(屋敷林)がバランス良く配置され、多様な生物が生息するとともに、ふるさと埼玉の東部地域における原風景を感じさせてくれる景観だ。
 因みに「ほっつけ(掘上田)」とは、沼地など水がたまりやすい地域の水田開発の手法。沼底を更に掘り込み、そこからでた土を周囲に盛り上げ耕作面のかさ上げをして、排水不良による水腐れ等の被害を軽減させたという。
 
    すっきりとして落ち着きのある境内       境内に設置されている社の案内板
        
                    拝 殿
 重殿社
 重殿社は山崎地区の鎮守で、地元では「権現様」とも称されている。金山彦命を祭神としており、祭礼は毎年七月二十四日に行われている。また、拝殿に多数のぞうりが見られるが、足の病に対する信仰のため奉納されたものという。
 覆屋の中にある本殿は、小規模で簡素ではあるが町内でも数少ない江戸時代の「見世棚造り」と呼ばれる造りの建物である。「見世棚造り」とは神社建築の一種で、店の棚のような形をしているのでその名がある。
 境内には、明和二年(一七六五)二月に建てられた稲荷社の祠や、文政十二年(一八二九)十月に建立された高さ約二メートルほどの大きな二十三夜塔がある。二十三夜塔とは、二十三夜に講の人々が集まり飲食をともにして、月の出を待ち拝んだりして夜を過ごすという行司で、そうした行事の記念として建てられたものである。
 また、当社には明治八年に作られた市川節堂の筆による幟旗がある。市川節堂は、群馬県に生まれ、清地村(現杉戸町)に招かれて付近の子弟の教育にあたった。
 重殿社のある山崎地区では、旧石器時代約一万数千年前から人々が住んでいた事が近年の発掘調査によって明らかになっている。以降、縄文時代後期約三千五百年前の集落や古墳時代四世紀後半の鍛冶工房跡なども発掘されており、古い歴史と文化を持っていることが知られている。
 一方、重殿社の周辺は「山崎山」と呼ばれる雑木林が広がっており、平成十三年度にさいたま緑のトラスト保全第五号地として取得され、管理。保存されている。現在、雑木林にはイヌシデやクヌギ、コナラなどがあるが、以前は赤松も多く見られた。こうした雑木林の北側には、かつては笠原沼の堀上田が広がっており、現在その一部が残されている。
                                      案内板より引用

        
             社殿右側奥に祀られている稲荷大明神と、その奥にある二十三夜塔


【山崎神明神社】
        
             ・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎64
             ・ご祭神 大日孁貴命
             ・例祭等 神明様の祭礼 726
 山崎重殿社から直線距離にして400m程南東方向で、字山崎にある「宿」と呼ばれる集落内に山崎神明神社は鎮座している。
        
                  山崎神明神社本殿
 神明神社  宮代町山崎六四(百間村字山崎)
 当社は『郡村誌』百間村の項に「相伝ふ元和中(一六一五〜二四)松永弾正落来たりて本村に居住を定め」とあり、土地の口碑にも「落武者の松永源太左衛門一族と家来が京都から来てこの辺りに住み付いたことに始まる」という。
 当社は、この松永源太左衛門が祀ったと伝えられている。『風土記稿』百間村の項に「神明社 松永坊持」とあり、当社は往時、松永坊という黄檗宗の僧坊の管理するところであった。この坊も松永坊という名が示す通り、寛永年中(一六二四〜四四)に松永氏の墓守として建てたといわれるもので、松永坊と称するようになったのは元禄年中(一六八八〜一七〇四)のようである。明治初期には「松永庵」又は「寮」と呼ばれていたが、昭和四十年代初めに宿集会所として建て替えられた。この集会所の辺りは、今も「源太山」と呼ばれて、かつての源太左衛門の屋敷があったと伝えられている。なお、松永坊の本尊であった阿弥陀如来は、集会所になってからも一隅に安置されていたが、近年、青林寺に移された。
 昭和十五年には、皇紀二千六百年に際し、伊勢神宮参拝記念として参道の敷石が奉納された。また、同五十年には、木造の鳥居が老朽化したことから、コンクリート造りのものに再建され、併せて本殿の修理が行われ、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   境内の様子
 祭神は大日孁貴命である。古くから五穀豊穣・無病息災・商売繁盛の神として崇められている。氏子は、願いがかなうと、紅白の鈴縄に奉納者氏名を記して社頭の鈴に下げたり、お神酒を上げてその奉賽としているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町デジタル郷土資料」「埼玉の神社」
    「宮代紀行 山崎地区を行くHP」「境内案内板」等

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