古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

千駄野八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市千駄野1291
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧千駄野村(下耕地)鎮守 旧村社
             
・例祭等 百万遍 718日近くの日曜日 例祭 915
 実ヶ谷久伊豆神社の西側に南北に通る「白岡パークライン」を600mほど北行した道路沿い左手に千駄野八幡神社は見えてくる。周囲には適当な駐車スペースはないようなので、北側にある交通量の少なめな農道に路駐し、急いで参拝を行った。
        
          白岡パークライン沿いから参道は伸びているのだが、
          途中から参道が右側に曲がるような配置となっている。
『日本歴史地名大系』 「千駄野村」の解説
 実ヶ谷村の北に位置する。西部の微高地は大宮台地白岡支台の東端にあたり、中央部から東部にかけては旧日(につ)川流路の低地である。悪水堀は菱沼(ひしぬま)落堀・下沼落堀、用水は黒沼用水を利用。水利はよいが水旱に苦しむこともあった。村の西方小久喜(こぐき)村境から東方岡泉村境に至る粕壁杉戸(かすかべすぎと)道と、小久喜村から実ヶ谷村境に至る岩槻道がある。岩槻領のうち(風土記稿)。利根川の数次の改修により日川の流水が涸渇し、耕地が可能となった。
        
                              
千駄野八幡神社 両部鳥居
 白岡市千駄野(せんだの)地域は、白岡市中部に位置し、地域内には白岡市役所がある。東境は大字界が錯綜しているとはいえ、大略として岡泉・実ケ谷両地域に接し、地区の中央を南北に東北自動車道が縦断し、その西側は南部を除き主に住宅地で、東側は公共施設が立地する以外は主に水田などの農地となっている。
 千駄野という地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
 江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
        
            社殿左側手前に祀られている境内社・石碑等
            左から天満宮・両部稲荷社・稲荷神社・?
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 千駄野村』
 稻荷社 德性寺の持 末社 山王 天神 〇八幡社 村民持以上二社當村の鎭守なり 末社 稻荷
 德性寺 新義眞言宗、足立郡倉田村明星院の末、天滿山と號す、本尊地藏、〇泉福寺 淨土宗高岩村忠恩寺の末、龍池山と號す、本尊彌陀、〇阿彌陀堂 忠恩寺持


 八幡神社  白岡町千駄野一二九(千駄野字迎)
 鎮座地である千駄野の地名は、村内に荒れ地が多く、領主に納める貢租が茅一千駄に過ぎなかったことにちなむとも、かつて一千駄の木や萱を焚いて雨乞いをしたことに由来するともいう。この千駄野の村の名が文献上に見えるのは、寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」に収められる阿部伊予守宛の朱印状目録からで、このことから考えると、村が成立したのは慶安から万治にかけて(一六四八〜六一)のころと推測される。
 当社は、稲荷社(現稲荷神社)と共にこの千駄野の村の鎮守として祀られている神社で、創建についての伝えは詳らかではないが、恐らく村の開発と相前後して勧請されたものであろう。村の鎮守が二社あるのは、千駄野の村が大きくは上耕地と下耕地に分かれており、それぞれで鎮守の社を祀ってきたためで、稲荷神社は上耕地の鎮守、当社は下耕地の鎮守である。なお、『風土記稿』千駄野村の項によれば、稲荷神社は地内の徳性寺の持ち、当社は村持ちとなっているが、立地からすれば泉福寺が当社の祭祀に関与していた可能性がある。
 明治六年には村社となり、氏子の崇敬はますます厚く、境内には様々な石造物が奉納されていった。幟立は明治十一年、社号標は昭和十五年に奉納されたものであり、末社の稲荷社の祠は昭和四年に建立されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
 千駄野地域の南部に当たる下耕地が当社の氏子区域であり、下耕地の中にも「迎」「四谷」の二組に分かれている。千駄野の名前の起こりの一つとされている雨乞いは、通称「千駄焚き」といい、嘗て山上に松の枝・藁・麦稈(むぎから)・萱を各自が持ち寄って焚き上げるというものであったらしいが、現在は行っていないようだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」等


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境上矢島勝手大明神

 伊勢崎市境上矢島地域は、同市南東部にあり、早川右岸に位置する。国道17号上武バイパスと同354号線が交わる西側の、東西約1.2㎞・南北約1.5㎞の地域であり、その中央部付近に集落が集まっていて、周囲一帯田畑が続く農業地域である。かつて新田政義の三男谷島信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。一面水田に囲繞された村で、北方を流れる早川に水利を得る。やがて利根川に合流する早川はまだ小さい流れで、集落から北方に広がる大水田地帯を満たすには不充分なので南方長溝川からも水利を得ていた。
 文政年間この長溝川の堰堤をめぐって、木島・百々・ 境各村を相手に大きな水出入りがあった。いわゆる「四寸ロ騒動」で、今も故老の語り草になっている。この騒動は長溝川から取り内れる堰の水口の寸法をきめたもので、水口四寸の堰が決まったのであるが、上矢島村で堰の下に別のトンネルをつくって水を引いたのが判明して大騒動になったといい、水に深い執着をもつ村の成り立ちを知ることが出来る。
 また一畝一歩耕作地を潰したくないという村人の思いがあるので、トラックや観光バスを貫通する道路を設けることも許さなかったという。集落が非常な不便を感じながら、その不自由に甘んじている姿も由なしとしない。稲作と養蚕が主で、蔬菜類の栽培は比較的少ない。
 

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境上矢島955
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 旧矢島村鎮守
             
・例祭等 秋祭り(上矢島獅子舞) 11月第1日曜日
 東武伊勢崎線「境町」駅北口から駅前通りを北上し、国道354号線に達した丁字路を左折する。その後、すぐ先に見える「境百々」交差点を右折し350m程北上、変則的な十字路を右折して暫く道なりに進むと、周辺一帯田畑風景が見え、所々に民家が点在する一角に境上矢島勝手大明神が静かに鎮座している
        
             南向きに鎮座する境上矢島勝手大明神
『日本歴史地名大系』 「矢島村」の解説
 新田郡に属し、早川右岸に位置。西は佐位郡木島村。平坦地。永禄年間(一五五八〜七〇)頃には、由良氏に仕えていた南小二郎が住んでいたという。永禄八年の「長楽寺永禄日記」正月五日条に「南小二郎方ヘモ泉書記ヲタノミ、境ニテ礼ヲノベツル」とあり、南氏は長楽寺(現新田郡尾島町)住持義哲と交際のあったことが知られる。「寛文朱印留」に村名がみえ、武蔵忍藩領。寛文郷帳では田方二九五石余・畑方一六〇石余、元禄郷帳では旗本桑原・高屋領の二給。
 この上矢島地域は、粕川と東を流れる早川の間に開けた淵名台地先端部にあり、平安時代の遺跡が発見されていて(上矢島遺跡)、30軒程の竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが出土され、台地の最も高い部分を溝が台地走向に沿って走り、その両側に住居が集中している。また、住居や溝の中から50点以上の墨書土器が出土している。
        
                 こじんまりとした境内
 当地域には上矢島獅子組」と呼ばれる
鎮守勝手神社に附属する獅子組があったが、明治時代末以降は徳蔵寺に引継がれて、113日の秋祭りにて五穀豊穣や家内安全を祈って奉納されてきたと伝えられていた。流儀を明らかにしないが東新井・下淵名獅子組と同じ火挾流と推定されるが、前託二者に比して新しく江戸中期の創設であろう。毎年旧暦九月二十九日(クンチ)と十月二十五日両度演舞されたが、今は十月十七日の村祭りに徳蔵寺境内で公開演舞される。雄獅子・雌獅子・老獅子(ホーガン)の一人立連舞で、獅子舞の前に祭礼棒がある。
 先の
戦争により、演舞者及び笛吹き等、後継者がいないため、休止状態になっていた。戦後復活したが、再び獅子頭が古く傷んでいたことや後継者不足等により、約半世紀にわたり途絶えていたが、令和4年度の獅子頭と太鼓の修繕を機に、令和6年度、「上矢島獅子舞保存会」を発足。そして東新井獅子舞保存会の指導を得て、令和711月「上矢島秋まつり」にて約50年ぶりに演目「岡崎」(無病息災と家内安全を祈る)を勝手大明神に奉納、復活となったという。
        
                    拝 殿
 奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社(かつてじんじゃ)は、吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれていた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、辰巳(東南)の護法神でもある。
 
吉野の金峯山にある蔵王権現・子守権現(吉野水分神社)・勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている。
 鎌倉時代中期の武将で、新田宗家4代当主である新田政義の三男谷島(矢島)信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。その吉野の僧や山伏が上矢島に勧請し、谷島(矢島)氏の館の辰巳に祭られ、矢島氏からは弓矢の守護神として、農民からは農業用の水源を養う風雨の神として信仰されたといわれる。
 また別説では、徳蔵寺は太田金山城主由良氏に仕えた南氏が建立したという。
『矢島村南系図』
「永禄年間、京都北面の武士藤原姓南修理大夫義頼は牢人して上野国に下り、その子南小次郎頼広は新田郡上矢島村を知行し、佐渡守に任じ矢島城主となる」
 南氏は金山落城後に上矢島村に土着帰農したという。因みに家紋は丸に剣花菱。また、『世良田村長楽寺永禄八年日記』に金山城主横瀬氏(由良)家臣南小次郎佐渡守頼広の名は随所に見える。
 徳蔵寺の創建に矢島氏か南氏どちらが関わっていたとしても、勝手明神が辰巳の護法、軍将神であることは変わらず、徳蔵寺の地と関係は当然深いものがあったと思われる。
        
              社殿の右側奥にある不思議な建物
 手前には左から「喜心霊神」「〇嶽霊〇」「〇心霊神」「御嶽霊神」と刻まれた石碑がある。

『境町の民俗』には、この地域には「御嶽教荏原講」という講社があったという。この講社は、埼玉県深谷在に発詳し、文政年間上矢島村に流布された。木曾御嶽の山岳信仰で、講社は第一部より第三部まであって、第一・第二は埼玉県にあり、上矢島の結社は第三部に属する。さらに派生したものに新田町上中、伊勢崎市馬見塚に講社がある。村の講員は約六十人で、毎月の御縁日は九・十八・二十七の三日、この日講員が参会して、無病息災家内安全の読経をするという。
 御嶽教の行は主として水行で、入寒から寒明けまで寒中三十日の水行をする。いま水行をするものは五人で、毎日夕食後集まり、寒水をかぶり、沐浴潔済の後、神前で跋経を読誦し、自らの息災を願うと共に、行者としての修行陶冶を期す。その行は非常に厳しく、寒中肉、魚、ねぎを食うことを禁じ、女の肌にふれるのを許さない。境町に数多くの御嶽教講社があるが、荏原講ほど修行鍛練をするものはなく、活発な布教活動をなすものもないとのことだ。
 
     社殿の西側から北西部にかけて祀られている石祠群(写真左)と、庚申塔群(同右)
        
                  社殿からの一風景
『境町の民俗』には、当地域の年間行事が載せられていて、幾つかを紹介する。
・八丁じめ
 6月に行われる悪病除けの行事。一丈ぐらいの高さのところで竹の芯を伐って、上から一節位のところにヨタレベエ(へいそく)をつけて、区長か村世話人が、村のはずれのところに立てた。矢島では七本立てた。北は花香塚、東は西今井、南は境、西は木島、西南は百々、北西は淵名、東南は三つ木・女塚との境界に立てて、小字の守りとした。
オクンチ
 10月の秋祭りの日を「オクンチ」という。昔は九月二十九日であったが、今では十月十七日。この日は鎮守様のお祭りである。赤飯を炊いて祝った。他所へ嫁いだものは、子供を連れて泊りこみでお客に来た。この日にお獅子を舞った。お獅子の稽古は、以前は九月二十三日から五晩、お寺を宿にしていた。お獅子は三つあり、やり手は決まっていた。お祭りには村中が出た。
オカマ様のルスンギョウ(旧十月中)
 旧十月の六日・十六日・二十六日、おはぎを作ってオカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)に上げた。オカマ様には三十六人の子供があるので、出雲へお客に行けないという。
 オカマ様については、つぎのような話がある。
 オカマ様はあるとき人の子を食ってしまった。そこで神様がオカマ様の子供を一人隠してしまった。するとオカマ様は心配のあまりきちがいになってしまった。そこで神様はオカマ様に、人の子を食べなければ子供をだしてやるといった。そんなに沢山子供がいるくせに、
一人ぐらい隠されてそんなことでは、これから人の子を食うなといわれた。そこで約束して、子供をだしてもらって、それからはオカマ様は、子供を食わなくなったという。

「オカマ様のルスンギョウ」の説話では「オカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)」と載せているのだが、三宝荒神は、神道において「竈三柱神(稀に三本荒神)」と名前を変えて祀られている。この神は「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
 この説話を見ると、この社のご祭神は竈三柱神とも勘ぐってしまうのだが、今のところはそれ以上の詳細は不明である。どなたか知っている方がいればご指導の程、宜しくお願いいたします。



参考資料「伊勢崎市HP」「境町の民俗HP」「ぐんま地域文化マップHP「日本歴史地名大系」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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七母女天宮


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井429
              
・ご祭神 天照皇大神(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 秋祭り(東新井の獅子舞) 11月第3日曜日
 境東新井神明宮から群馬県道2号線前橋舘林線に戻るように同じ道を北上、500m程進んだ十字路を右折すると七母女天宮が見えてくる。
 小さな社だが、「東新井の獅子舞」にも関連してくる社でもあり、意外と近距離でもある為参拝した。但し周囲に駐車スペースが全くないため、路駐をして急ぎ参拝を行う。
        
                  
七母女天宮正面
    鳥居前の石柱には左側に「七母女天」、右側に「大土神社」と刻まれている。
 それぞれの社名に対して調べてみると、大土神社は、神戸市灘区に鎮座する「大土神社(おおつちじんじゃ)」と社名が同じことから、ご祭神は天照皇大神と思われる。
 それに対して、七母女天(しちもみょうてん)とは、密教、特に天台宗の玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる「摩多羅神(またらじん)」の別神名とされている。つまり、摩多羅神の「Matarah」=摩怛利神=七母天と同体であると想定し、その上で七母天と北斗七星を結びつけたもので、七母天女の本地が吉祥天で、北斗七星の1つである文曲星を吉祥天とする説もある。
        
            鳥居に掲げてある「七母女天宮」の社号額
 因みに摩怛利神(摩怛哩神、摩怛曳とも)は、梵語で「母」を表すMatrの音写であり七母天のことである。七母天は閻魔天あるいは摩訶迦羅天(『理趣経』)の眷属で、両者に祈願して行疫神を宥め病疫を退散して一切の罹患者を救済せんとする行法が「摩怛利神法」と呼ばれるという
 七母女天宮は別名「妙見様」とも呼ばれている。「妙見」信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。元々、渡来人の多い近畿以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本、特に信濃から関東・東北にかけて広まったという。
 まあ、いろいろな説を載せているのだが、七母女や摩多羅神・摩怛利神、妙見信仰との関わり等、正直分からないことだらけの神である。
       
                    拝 殿
 この社の創建や由緒等は、境東新井神明宮同様どう調べても分からない。但し『境町の民俗』において七母女天宮に関連する記述があるので箇条書きにて紹介する。
・妙天様
(東新井)は七母妙天で一切の病疾に御利益があるといわれる。お礼には三角の布袋に綿をつめた匂袋を三つか五ツ、多いのは十数個糸でつなぎ合わせてあげる。
境東新井地域は、数十年前まであった道化芝居は有名で、芝居に使われたカツラ小道具の類は最近まであった。七母女天は厄神として今も信仰され、実相院と称した寺は廃されたが、御本尊木彫聖観音は今も残され、つぎの台座墨書銘がある。
 奉造立観音尊像二世
 圓満子孫繁昌之所ヲ守護シ給也
 天正十七年己霜▢▢▢▢▢宝前

 実相院趾には大きな百万遍珠数が残されており、例年行ってきた天道念仏は廃された。
        
                 南側から境内を撮影


参考資料「境町の民俗」「境まちの史跡と景観写真集HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」等


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境東新井神明宮


        
             ・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井150
             ・ご祭神 天照皇大神(推定)
             ・社 格 旧東新井村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 417日 秋祭り 11月第3日曜日
 冠稲荷神社参拝後、一旦ジョイフル本田新田店にて買い物を行った後、群馬県道2号線前橋舘林線を3.5㎞程西行し、「境東新井」交差点を左折する。一戸建ての住宅が立ち並ぶ一直線の道を南下すること700m程、周囲が田畑風景にかわり、右手方向にポツンと境東新井神明宮の社叢林が見えてくる。
 社周辺には専用駐車場はないようなので、社の北側にある霊園の駐車スペースをお借りしてから、参拝を開始する。
       
                  境東新井神明宮正面
『日本歴史地名大系』 「東新井村」の解説
 上淵名村の東に位置し、南は新田郡花香塚(はなかづか)村(現太田市新田)。寛文郷帳では淵名村に含まれたが、元禄郷帳には村名がみえ高二〇九石余、伊勢崎藩領。近世後期の御改革組合村高帳では同藩領、家数三〇。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によると反別田一二町七反余・畑一一町九反余、新開田畑のうち田一町四反余・畑八町九反余。家数四一、馬一七疋。天保郷帳では淵名村に含まれた。水利は用水に頼るところが大きく、山中沼(一千一四八坪)、中ノ沼(七千八四〇坪)、上ノ沼(六千二七二坪)などがあった。当地は地下水が浅く低湿地帯をなしており、北部の矢ノ原も湿地帯のため開発が遅れ、上・下淵名村と当村三村の入会秣場となっていた。
         
       鳥居の左側先に祀られている石祠   石祠の先に建つ社号標
 境東新井地域は、古くは上淵名村に属していたが、江戸時代にいたって一村をなした。 村高二〇九石余伊勢崎領で、この集落は畑より水田が多い。伊勢崎から太田を結ぶ線上には「井」のつく地名が数多くあるが、いずれも大間々扇状地の下にあった清水湧出源がこのあたりで頭を出しているので水利に便である。但しこの集落は湿地帯に属し、一たび降雨にあうと農家の庭先は泥濘と化してしまう。純農村地帯で北部矢ノ原の開墾されたのは最近であり、米作と養蚕および生姜、大根等の生産が主である。
 
 鳥居右側横には石碑、庚申塔等が祀っており(写真左)、中には安永四年に建立された抱擁双体道祖神が祀られていた(同右)。
 道祖神は境界に建てられ、村へ疫病が入り込まないよう信仰した石造物である。通常、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどが多いのに対して、この道祖神は男女が肩を組むもので平野部では珍しく、境地区の道祖神は文字塔ばかりで男女の神像を刻んだものはこれ一基だけという。
        
          周囲樹木に囲まれ、厳かな雰囲気を醸し出している社
 
 境内左側に並んで祀られている石祠・境内社    境内右側には塚上に祀られている社あり
                            浅間社、または富士塚か
 
 境内左側には数基の石祠が並んで祀られている(写真左・右)。左側の写真の赤い石祠は元々木製の合祀社であったようだが、老朽化の為改築されたものであったとの石碑に刻印されている。ご祭神は秋葉宮 火之迦具土之大神(火防の神)・天神宮 菅原道真命(学問の神)・機神宮 建葉槌命(機織の神)の三柱。この三柱の一柱である機神宮のご祭神である建葉槌命は当地では「機神様」と呼ばれ、嘗ては機仕事が上達するのを願い、お礼には残り糸や繭を捧げたという。
 また、右側写真の石祠は天王宮と屋根部正面に刻まれている。
        
             境内にある「東新井の獅子舞」の案内板
 伊勢崎市指定重要無形文化財 東新井の獅子舞
 平成十八年六月十五日指定
 東新井の獅子舞は、神明宮と七母女天宮の春と秋の祭り、旧暦十一月一日の神帰りの日に奉納されていました。五穀豊穣、家内安全、悪疫退散の願のほか、雨乞いに際しても舞いました。
 戦後しばらく途絶えていましたが、昭和五十三年に復活し、毎年十一月第三日曜日に奉納されています。
 舞は、近隣の下淵名、国定赤城神社、今は行われていない境上矢島と同じ栃木県日光市に起った文挟流の一人立三人連舞の獅子舞で、法目(老獅子)・雄獅子・雌獅子が連れ舞います。
 奉納は、神明宮で木刀と六尺棒を持った二人の剣士の祭礼棒術の後、社前で獅子舞が行われます。演舞を終えると、行列を成して、妙天様と呼ばれる七母女天宮へ向けて巡行します。
 演目は、平ざさら・橋掛り・ボンゼンの舞の三つで構成され、岡崎・向かい灯籠・ちょうちょう止まれ・おかち・ちいほほの五種類の口伝が伝承されています。
 平成二十二年三月 伊勢崎市教育委員会                     案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 創建や由緒等、調べてみたが全く不明だが、境東新井神明宮は鎌倉時代、藤原秀郷の孫の淵名太夫が東新井の地を領したとき天祖大神を此処に創祀し社領を寄進したのが始まりという。古くから七母女天宮とともに東新井の獅子舞が奉納されている。

    社殿の右側奥にある北側鳥居       境内北東部にある獅子舞等の倉庫らしき建物
       
                   境内の様子
       
                 社を南西方向から撮影 



参考資料「伊勢崎市HP」境町の民俗HP」境まちの史跡と景観写真集HP
    「日本歴史地名大系」「境内案内板」等
              

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冠稲荷神社 (2)


        
        
拝殿に向かう参道右手の小高い丘上に鎮座する摂社・聖天宮日高社
          御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・神倭磐余毘古神・大雷神・水分神 
 聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。県指定重要文化財指定
          因みに聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。
     
      
聖天宮は比較的小規模な建物であるのだが、本建物の彫刻や装飾は
    内部天井の龍を始めとして大変質の高いもので見ごたえある。(写真左・右)

 聖天宮は正面(2.89m)、側面(3.88m)と比較的小規模な建物でありながら屋根が複雑で、四方入母屋造正面唐破風付という特徴的な造をしている。当初から日本瓦で葺かれており、棟札によると安政4年(185710月上棟で大工棟梁として「弥勒寺河内 守藤原照房」となっている。これは境下渕名の弥勒寺音次郎の事で、大工でありながら彫工としても名 を馳せている。本建物の彫刻は内部天井の龍を始めとして大変質の高いものである。
 また彫工は音次郎の息子「弥勒寺音八とその弟子の諸貫万五郎」である。弥勒寺音八は一時期飯田仙之助の養子弟子となった岸亦八の弟子となり、常陸の天引観音や笠間稲荷を手掛けるようになる。音八の名声は広く響き、明治に移るころ音八は宮中に召し抱えられ賢所の玄関正面の菊の紋を彫刻した人物である。

 参道右側には実咲稲荷社や聖天宮が鎮座しているのに対して、左側には七福神殿・諏訪社と八坂社(神楽殿兼ねる)・厳島社・菅原社・いなり白狐社・琴平社と、並列するように祀られていて、どの社も絢爛豪華である。
        
         人形代社の並びに祀られている七福神殿 御祭神は七福神
『七福神殿』に祀られている七福神彫刻は、名工・新井清尚、明和2年(1765)の作。一幅の絵馬に収められている極彩色の七福神絵馬で、海辺の雄大な松のもとに福々しい神々が集い喜遊するという珍しい構図との事だ。
       
          七福神殿の右並びには神楽殿も兼ねた諏訪社と八坂社
         諏訪社のご祭神は建御名方神で、八坂社のご祭神は素盞嗚神と奇稲田比賣神 
       
                   摂社 厳島社
        厳島社のご祭神である宇賀弁才天は、宇賀神と市杵島毘賣神が融合した女神で、
     左右に毘沙門天と大黒天を配し、さらに十六童子を従えた、大変珍しい神坐像である。
          厳島社の前にはご神木が聳え立っている(写真左・右)      
       
               菅原社 ご祭神は菅原道真公
       
              いなり白狐社 ご祭神は命婦専女神
   横に伸びた社殿には小さなお狐様がこれでもかと並んでいて、ある種異様な眺めだ。 
 いなり白狐社
 御祭神 命婦専女神
 氏神からの返戻白狐を祀る。
 我が国の神社では、伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩のように、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれている。しかし、お稲荷さんの狐は単なる神使ではなく、眷属そして神様の一部のような資格を与えられている為、狐こそが稲荷神という考えを持つ人々も多いようである。
 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係を持つに至った由来としては、諸説があるが、稲荷の神が「食物の神」つまり「みけつかみ」であり、御狐(おけつね)三狐(みけつね)に転じたという説、あるいは稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説がある。
                                    境内案内板より引用

 古くから狐は霊的動物として「稲荷(いなり)神の使いないしは稲荷神そのもの」と信仰されるなど深く広い各種の信仰があり、狐憑きは「御先稲荷」(オサキドウカ)や「オサキ」という名前で、関東から東北にかけて伝承されている。実際、日本全国に存在する三万社以上の稲荷社が狐像を備えており、「狐」自体を「稲荷神」として信仰する場所も少なくない。しかし、総本社である伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのものではないと述べており、また岡山市北区にある日蓮宗の寺院である最上稲荷山妙教寺は白狐を稲荷神(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べている。
 日本では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、伏見稲荷大社が鎮座している神体山である「稲荷山」は古くは蛇神信仰の中心地であったようだが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まったという。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)あるいは白狐神と呼ばれて祀られるようにもなったという経緯もある。

 因みに境内の「白狐社」では白狐霊である「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」をお祀りしてある、ということである。この命婦神は、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号である。
        
                琴平社 ご祭神は大物主神
        
         境内北西部にも参道があり、その先には戌亥鳥居が建つ。
 
  戌亥鳥居への参道の両側には数多くの石祠が並んで祀られている。(写真左・右)

 当神社は創建も古く、新田源氏の守り神として厚く信仰されてきたことから、建物のみならずその他の文化財も多く残されてきた。そればかりでなく地域とのつながりも古くからあり、聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。建物には棟札も残されていて建造年代もはっきり分かり、携わった大工もはっきりしている。大工の多くは地元大工が多いが 妻沼聖天堂を手掛けた林兵庫正清の影響も強く、利根川を挟んでの交流が深かったことも理解できる。本殿の胴羽目の彫刻の裏から飯田仙之助の墨書が発見され、それには石原吟八郎の初代と二代目の名が記されていたことから、18世紀から19世紀の花輪彫刻師の流れを知る上での手掛りとなった。さらに聖天宮の弥勒寺音八につながる彫刻師の流れが分かる様な神社であるという。 
       
 


参考資料群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    ウィキペディア(Wikipedia「境内案内板」等

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