古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

羽生護国神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市北1517
                
・ご祭神 日清戦争から大東亜戦争までの羽生地区出身
                                    戦没者の方々

             
・例祭等 祭日 43
        
                         羽生護国神社の鳥居
        社名は護国神社だが、社号標柱には「忠魂社」と刻まれている。
 大天白公園から徒歩にて南下、その後「プラザ通り」と接する歩道橋の脇に羽生護国神社は鎮座。
        
          護国神社本殿、その右側に祀られているのは厳島神社 
 護国神社  羽生市北一-七(羽生字大道)
 日清戦争以来、全国的に戦没者を顕彰、慰霊する気運が興り、各地で神社境内や小学校内に忠魂碑を建立し招魂祭が行われた。
 当地においても日清・北清・日露の各戦役で、七名の戦没者を出し、これらの英霊に対し、帝国在郷軍人会羽生町分会の主催で毎年招魂祭と墓参が行われていた。この御霊(みたま)を迎え、子々孫々に至るまで守り仕え奉らんと、遺族をはじめ在郷軍人会、住民らが英霊の誠忠を偲び、永遠に亀鑑として敬迎すべく社殿の奉建を画した。
 昭和七年一月一三日、起工の運びに至り、四月二九日、天長節の佳日を卜して厳かに鎮座祭が挙行された。社地は明治四十一年一一月八日古城天神社に合祀された厳島神社の跡地があてられ、現在、昭和三二年七月二日に厳島神社が氏子の総意により旧地に遷座したため、二社並立の形となっている。厳島神社は弁天様と称し、社記に「寛永年中該町悪水堀四円空地ヲ見立テ弁財天ヲ勧請ス」と伝える。護国神社は元来、忠魂社と称していたが、昭和一四年に政府は指定・無指定護国神社制を定め、当社はこれを機に、現社名に改めた。
 祭神は先の七名に加え、太平洋戦争に至るまで、各地で戦陣に倒れた羽生地区出身者であり、その名を名簿に記して奉安する。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                  合祀社 厳島神社
        
           道路沿いに設置されている厳島神社の由緒と起文
 由緒
 寬永年中羽生町市街ノ西北隅悪水四方ヲ圍統スル一空地ヲ見立弁財天ヲ勧請ス明治四年神仏混淆御取分ノ節嚴島社ト改稱シ無格社タリ
 明治四十一年政府ノ勧誘ニ基キ信徒等相謀リ村社天神社へ合祀出願同年十一月廿八日許可翌明治四十二年三月廿五日合祀セリ
 備考本文中ノ悪水四方ヲ圍統スル一空地ハ現今ノ字大道壱番地ナリ(以下略)
 起文
 昭和三十二年三月三日午前二時頃高橋工業有限会社足袋工場ヨリ出火池浦内田大沢川野辺長谷川五月女ノ六世帯類焼浅井小火偶々浅井義松氏ノ夢枕ニ弁財天ノ存立ニ思ヲ致サレ宮司柳八重氏ニソノ旨報告確ニ天満社ニ合祀トノ事種々協議ヲナシ直ニ獨立安置サル可キ気運ヲ主張サレ上町委員会ニ上申上町氏子中挙ツテ社殿建立ヲ決議宮大工入江瀧治郎氏ニ依頼シ昭和三十二年七月二日由緒アル現位置ニ厳島神社ヲ鎮座イタシ毎年五月九日ヲ祭日トシテ町内安泰財宝護持火災除トシテ御守護セラル(以下略)
                                      案内板より引用
        
 護国神社という特殊な社であるだけに、一般の神社と異なり、氏子区域及び氏子は存在しない。ただ、身をもって国難に殉じた英霊を祀り、国家の礎となった人々を軍神として崇め、その御霊を慰め誠を尽くすことは、神道として欠くべからざる要素である。当社を含めて全ての護国神社の拠って立つ由縁はここに存するものである。尊い生命を捧げた英霊勇士を慰霊することは、仇や疎かにできないことであろう。

 戦後も既に80年の歳月が流れ、当時の大戦を知る方々も少なくなり、遠い昔の出来事となってしまっている。今ここで再び、戦前・戦中・戦後を見直すとともに、新たに護国神社の来し方、行く末を改めて考えなければならない時であると言える。ここで、英霊のご遺族の減少や、世代交替による意識の変化なども重要な問題となっている。静かに英霊の声に耳を澄ませて聞き入る心境はいつの時代も変わらずにありたいと筆者は切に願う。



参考資料「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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藤井上組香取神社

 羽生市藤井上組地域には、曹洞宗の寺院である源長寺(げんちょうじ)がある。この寺院は、室町時代末期、羽生城主である木戸伊豆守忠朝が城主だった頃に当寺を創建したという。
 1574年(天正2年)に後北条氏の猛攻に耐え切れず退去し、その後、1590年(天正18年)、徳川家康が関東地方に転封された際に、大久保忠隣は羽生領の領主となった。ただ忠隣は羽生城には入城せず、城代として鷺坂(不得)道可を任じた。
 不得道可は俗名を「鷺坂軍蔵」といい、羽生城主木戸忠朝の家臣で、『新編武蔵風土記稿』よると、「(鷺坂軍蔵は)羽生城没落の後浪人となり、後法体して道可と云い、大久保相模守に仕へ、旧主追福の為として当寺を再興せしと云」と載せている。旧主の忠朝やその家臣の菩提を弔うべく、忠朝が創建した当寺を中興したという。

        
             
・所在地 埼玉県羽生市藤井上組778
             
・ご祭神 経津主神・武甕槌神・天児屋根命・比賣神
             
・社 格 旧上・下藤井村鎮守
             
・例祭等 お獅子様 52 
 大天白神社及び大天白公園の正面入り口から一旦北上して埼玉県道60号羽生外野栗橋線に合流後、東方向に進路をとり、1.3㎞程進んだ丁字路を右折し南下、羽生中央公園の北側に藤井上組香取神社は静かに鎮座している。
        
                 藤井上組香取神社正面
『日本歴史地名大系』 「上藤井(かみふじい)村」の解説
 尾崎村・稲子村などの南にあり、洪積台地の埋没台地と、利根川の乱流路によって形成された後背湿地からなる。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る譜代侍藤井宮内(永三一貫文)・藤井大助(永一〇貫文)を当地出身とする説がある(風土記稿)。古くは南に続く下藤井村と一村で、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに藤井村で高付される。田園簿によると田高七九一石余・畑高六七六石余、幕府領で、ほかに源長寺領二〇石があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)から下総佐倉藩領となり(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)、化政期の上・下両村の家数一六〇(風土記稿)。
 
 鳥居前にて一礼する前に、鳥居の手前で左側にこんもりとした林があり、その奥に石碑・石祠等3基が祀られている(写真左)。一番左側の石碑は御嶽霊神、それ以外は判別できない。また、その右隣には、左から石碑(富士山頂上 浅間大社 〇〇〇神社 参拝記念)・伊勢参宮記念碑がある(同右)。
        
                  趣きのある境内
        よく見ると一対の石灯籠の先には石製の鏡餅が奉納されている。
 
  参道左側に祀られている金毘羅大権現    金毘羅様の右並びに祀られている記念碑・
                            普門品供養碑等
        
         社殿に通じる参道途中には多くの石灯籠が奉納されている。
「埼玉の神社」によると、当地では昭和30年頃までは、同年代で気の合った者同士が積み立てをして伊勢神宮に参詣する伊勢講が盛んに行われていたようで、境内には神宮参詣を記念して奉納された石灯籠や石碑が、拝殿には絵馬や奉納額が数多くあり、当時の信仰の厚さを偲ぶことができよう。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 上藤井村下藤井村』
 香取社 上村にあり、下同じ、上下の鎭守なり、松林院の持、
 源長寺 禪宗曹洞派、上野國邑樂郡堀工村茂林寺末、大鷲山と號す、慶安元年寺領二十石の御朱印を賜ふ、本尊釋迦を安ず、開基は羽生の城主木伊豆守忠朝、天正三年六月朔日卒し、法謚を久昌院源心長公居士と號す、開山正甫は永正十三年三月三日入滅す、中興開山を正道と云、元和二年八月二十六日寂す、中興開基を不得道可と云、文祿四年二月十八日卒す、此人俗稱を鷺坂軍藏と號し、木伊豆守が家人なりしが、羽生城沒落の後浪人となり、後法體して道可と云ひ、大久保相模守に仕へ、舊主追福の爲として當寺を再興せしと云、(以下略)
 松林院 天台宗、東叡山末、藤井山泉光寺と號す、本尊正觀音を安ず、開山光盛慶長十九年十二月八日寂す、〇地藏堂 村民持、

 香取神社  羽生市藤井上組七七八(藤井上組字鶴指)
 当地は市のほぼ中央に位置し、天正一九年の文書には既にその名が見え、地区内には、慶安元年に二十石の朱印地を寺領として賜った、曹洞宗源長寺(開祖羽生城主木戸伊豆守忠朝)がある。
口碑によれば、当社は弘治三年に羽生城の鬼門除けとして祀られた社であると伝え、享保一二年三月一三日には神祇管領卜部兼敬より正一位に叙されている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には香取神座像が納められている。
『明細帳』によれば、祭神は経津主神・武甕槌神・天児屋根命・比賣神の四柱で、境内社として琴平神社(文政七年建立)・八坂神社(天保八年建立)・厳島神社(文政一〇年建立)の三社が記載されているが、今日では琴平神社が現存するだけである。琴平神社は、金毘羅大権現と陰刻された石祠である。当社の拝殿には金毘羅大権現と書かれた縦四〇センチメートル、横二三六センチメートルの扁額(文政九年奉納)も残り、往時、信仰の厚かったことをうかがわせる。
 また、境内にはこのほか、当地方を治め善政を行った堀田相模守を祀った生祀、堀田宮(安政二年建立)がある。
 祀職は、神仏分離前は天台宗松林院が別当であった。現在、松林院は大日堂と呼ばれ、無住であるため、稲子の源昌院が管理している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
        拝殿に掲げてある扁額             境内整備事業記念碑
        
                    本 殿
 当社の氏子区域は、大字藤井上組と藤井下組の全域である。この二つの大字は、井福・上手・下手・東組(この四つを本田四組と称し、古くからある集落という)・出尾・北藤井上・北藤井下・南油ヶ谷戸・北油ヶ谷戸・前流・後流の一一耕地からなっており、それぞれの耕地から、お獅子様を行ったり境内の清掃などをする年番(世話人)が輪番あるいは推薦で一、二名ずつ出る。
 当社は昔から戦(いくさ)の神様として信仰されており、戦時中には盛んに武運長久の奇岩が行われた。その御利益からか、氏子の中からは日露戦争で戦死する者が一人もなく、その名を高め、先の大東亜戦争時にも戦死者は少なかったという。
        
                社殿の右側にある記念碑
                   左から本殿 大鳥居修復記念碑・伊勢神宮参拝記念碑
           鹿島神宮(御祓)香取神宮(御神楽奉奏)鳥栖神社(参拝)参宮記念碑

 嘗て、当社の祭りは、419日の春祭りと1019日の秋祭り(例祭)の2回あり、春祭りには小松神社から招いた神楽を奉納していた。しかし、いずれの祭日が農繁期に当たり、祭礼を行う余裕がなかったため、大正時代中頃にはやむを得ず中止し、その後は52日に行われるお獅子様の日を祭日としている。
 お獅子様は記載の玉敷神社かの獅子を借りてきて、氏子の家々を回り、悪魔を祓う行事である。獅子は一一耕地を順番に回るが、昔は一つの耕地を回り終えると、道切りと称して耕地の境に竹を二本立てて注連縄を張り、悪魔が入らないようにしていた。お獅子様は朝五時ごろから始まるが、祭典は九時から行われ、氏子の繁栄と五穀豊穣が祈願されるという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
  

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稲子諏訪神社

 『羽生市HP 羽生昔がたり』
 ネネゴ
 稲子の東はずれに「ネネゴ」といわれる淋しい所があります
 むかし、そう二百六十年も昔のおはなしです
 その年は、どうしたことか雨が多くくる日もくる日も雨が降っていました。そしてついに八月十日午前二時ネネゴの奥の土手が百八十メートルも切れてしまいました。村中の人々が力を合わせ土手の修理にかかるのですが水の勢いは少しも弱くならず、トウトウと家・田・畑を押し流していくのです。どうしても切所がふさがらないので、昔からのいい伝え通り「女の人柱をたてねば駄目だ」という事になってしまいました
 丁度その様な時、何もしらない「おたまさん」は赤坊を背負って「ネンネンヨー」とあやしながら、なかなかふさがらない切所を見にやって来たのです。それを見つけた村人達は、「それっ」とばかり泣きわめき、暴れ叫ぶおたまさんを捕まえて、赤坊を背負ったまま切所に投げこんでしまいました
切所はふさがりました。水も引きました……。
 でも、そこには、夜な夜な恐ろしいほど悲しげな、うらめしげな女の声が聞こえる様になりました。
 「ネンネンヨー」「ネンネンヨー」……。
 人々は恐ろしがって、この辺りを「ネネゴ(*赤ちゃんのこと)」と呼び、あまり近寄らなくなってしまいました。そばにはいつだれが建てたのか、「ガキ(*子供のこと)つか」という石塚がポツンとあったそうですが、今はもうどこにも見当たりません。
 このような悲しい昔話のある稲子地域に鎮座する稲子諏訪神社は、古くは明神様と呼ばれ、ネンネコ伝説のある旧境内地にあったイネゴ塚(餓鬼塚)と習合し、治水の神として信仰されていたという。
        
              
・所在地 埼玉県羽生市稲子1241
              
・ご祭神 健御名方命
              
・社 格 旧稲子村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
 国道122号線を北上し、埼玉用水路を越えた直後の「別所橋」交差点を右折する。この用水路沿いに東西に伸びた道路を3.5㎞程東行した先の丁字路を左折すると、進行方向左手に綺麗に整備されている稲子諏訪神社が見えてくる。
 
 境内の東側隅にある社号標石から社殿を撮影        稲子諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「稲子村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置する村。「いなこ」は砂の入交じった土の意で、同川沿岸の地味をさすという(埼玉県地名誌)。西は同川堤に沿って上流の本川俣村と接する。利根川岸に河岸があった。検地は承応三年(一六五四)幕府領代官が実施したほか、
新田分につき貞享四年(一六八七)、享保一八年(一七三三)と延享元年(一七四四)にも実施されたといわれる(風土記稿)。田園簿によると田高一三八石余・畑高五一八石余、幕府領、ほかに野銭永一貫六〇〇文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)。
『日本歴史地名大系』 「稲子河岸(いなごがし)」の解説
 江戸時代の稲子村利根川岸にあった河岸。元禄三年(一六九〇)の関東八ヶ国所々御城米運賃改帳(千葉県伊能家文書)によると、江戸まで水路二七里、二分七厘(百姓から六厘足す)が定められている。問屋株は稲子村喜右衛門の持分であったが、寛保二年(一七四二)には同村新助が預り勤めることになった(「稲子河岸場并問屋役預証文」栗原家文書)。安永年間(一七七二―八一)と推定される利根川沿岸絵図(群馬県前橋市立図書館蔵)に問屋としてみえる源右衛門は、前掲新助と同家。近世後期に至ると江戸十組奥川積問屋仲間として江戸小網町二丁目利根川屋多吉の配下となった(文化八年「十組奥川積問屋場所附」東京都立中央図書館蔵)。
        
              綺麗に整備されている境内や社殿
 社殿手前にある「移転授業記念碑」によれば、当社は、国土交通省の利根川堤防拡幅事業により境内地の一部が事業対象となり、移転することが決まり、令和2124日に竣功することとなったという。
        
                    拝 殿
 諏訪神社(みょうじんさま)  羽生市稲子一二四一(稲子字諏訪)
 当所の歴史は利根川決壊との戦いといっても過言ではない。地名の由来についても、昔、堤防の決壊が何度も続き、ついに村の貧しい家の女が人柱にされることとなり、女は赤子を背にして犠牲となった。以来この所に夜な夜な「ネンネンコ、ネンネンコ」の声を聞くといわれ、ネンネコ転じてイナゴとなるという。
 当社の創建もまた治水にかかわる。一説に草分けの諏訪氏(別当大教院先祖)が天正年間この地に来た時、利根の治水を祈請し、生国の氏神を勧請したと伝え、また、一説には寛永年間幕府の代官某がその父祖の地である信州諏訪明神を祀り、治水に功をなすと伝える。 祭神は健御名方命である。
 享保二十年九月九日、卜部兼雄より正一位の神階を受けている。
 造営は社記によると棟木に万治二年七月再建の墨書を見るとあり、現存棟木は延享元年甲子年再建と天保一〇年修復の二枚あり、現在の一間社流造りの本殿は、延享元年のものと思われる。
 旧社地は北に八〇メートルほど利根川寄りであったが、昭和三四年の堤防改修により現在地に移転した。
 明治五年に村社となり、同四〇年には字神明の神明社を合祀した。
 神仏分離以前の本地仏は、二三センチメートルの普賢菩薩の木像であり優れた作である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は、塚原・前稲子・三本木・諏訪・道原の五耕地であり、主に米麦と養蚕を営み、往時から裕福な土地柄であったという。このうち、塚原耕地は昭和三〇年代から他所からの転入があったが、その他の耕地はほとんど移動がないため、高度経済成長期に石尊講・三峰講・榛名講等の代参講などは廃されたが、春日待(327日)・神明様のお祭り(お日待 1015日)には今も、春は草餅、秋はあんびん餅を作ることが行われ、比較的古い習慣が今でも残している地域であるという。
        
        境内から道を隔てた北側に纏めて祀られている石祠・石碑・庚申塔
 前列左から石碑(羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社)、石碑(小御嶽神社・浅間神社・邇ゝ藝命)、(?)、庚申塔。中列左から太々御神楽碑、日露戦争戦没記念碑、(?)。後列左から合祀記念碑、石碑(湯殿神社・月山神社・出羽神社)、(?)。
        
                   社殿左側に祀られている境内社・石祠
「埼玉の神社」には移転前の境内図が載せられているが、移転後は配置が変わっているので、詳細は不明であるが、それでも左から二番目は稲荷大明神、4番目は石碑(天満宮・伊奈利神社)。
        
                  現在の境内の様子
          社号標柱の左側に置かれている石2ケは力石と思われる。
 また孤高の如き屹立する松の位置と、グーグルマップの過去の画像を確認すると、以前の社殿と参道はこの松の左側にある道路と思われ、その先にある土手手前に社殿が鎮座していたと思われる。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等
 

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羽生市の大天白公園にて藤の花を観賞しました。

 羽生市の大天白神社に隣接する大天白公園は、藤の花が綺麗な公園として知られていて、園内にある面積770㎡もの藤棚には約60本の藤の木があり、4月下旬から5月上旬に掛けて紫と白の花が開花し見ごろとなっています。同時期には「大天白藤まつり」も行われていました。
        
         この公園は大天白神社の一の鳥居が入口となっています。
        
 公園中央の噴水池の周りを囲むように約60本の紫と白の藤が藤棚を優雅に伝い、立ち藤やダルマフジも見ることができます。
               
 藤棚や藤が有名な公園で、ゆったり癒やされる空間です。年配の方や子連れも若いカップルも来ていた。色んな年代の人が楽しめる場所なのではないでしょうか。
        
                 大天白神社 二の鳥居
 大天白神社にも参詣しています。写真も納めましたので、改めて編集することに致します。
       

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上新郷天神社


        
             
・所在地 埼玉県羽生市上新郷1996
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧上新郷中新田鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春日待 425日 例祭(夏祭り) 725
                  
感謝祭 12月最終日曜日
 下新田大物忌神社から埼玉県道364号上新郷埼玉線を北西方向に進路をとり、2㎞程進んだ秩父鉄道新郷駅左側にある踏切を越えるとすぐ先に上新郷天神社は見えてくる
        
              県道沿いに鎮座する
上新郷天神社
 近世において新郷村の総鎮守は愛宕神社であるのだが、耕地ごとにも鎮守社があり、このうちの当社は中新田の最寄り鎮守として祀られ、江戸中期には創建されたという。
        
          社の入口付近に設置されている市指定文化財の案内板
 指定文化財
 当社は、中新田地区の最寄り鎮守として祀られたと伝えられており、江戸中期には創建されていました。多くの文化財のうち、2件が指定を受けています。

 河川改修図(有形民俗文化財 羽生市指定第53号 平成元年711日)
 明治23年(1890年)823日に、下中条地先で、利根川の堤防が59間(約107メートル)決壊し、このとき、上新郷別所地内白山社叢の堤防も破損しました。
 新郷地区内は224軒が浸水し、田畑への被害も甚大でした。この復旧のため、埼玉県より災害救助費が交付され、翌年4月から5月にかけて修築を行いました。
 この記念として絵馬を奉納したもので、縦120センチメートル、横182センチメートルの大きさで、絵師は玉川堂水玉です。一列になってドハ(土端、土羽)打ちをしているのは女性で、男衆はもっこかつぎや地固めの作業を行っています。災害の記録となるとともに、当時の土木技術を知ることができる貴重な資料です。

 上新郷中新田の獅子舞(無形民俗文化財 羽生市指定第60号 平成17317日指定替え)
 当地の獅子舞は、明治30年ごろ西新田から習い受けたと伝わっています。いわゆる3匹獅子舞で、法眼、中獅子、後獅子と呼ばれています。
 奉納時期は725日の夏祭りで、疫神除けや五穀豊穣を願い行われていました。かつて舞われていた演目には、鐘巻、弓掛り、花笹、門掛り、雌獅子隠し、注連掛り、橋掛りがありました。現在は村回りのみが継承されています。
                                      平成22320
日 羽生教育委員会     案内板より引用
 当社で725日に行われる例祭は、夏祭り、または本祭りと呼ばれ、厄払いとしてササラ(獅子舞)が行われる。祭典の後、境内で一庭摺ってから神社を出発する。獅子舞は、法眼・中獅子・後獅子の三頭で、ほかにヒョットコ・オカメ・ハナが同行し、厄払いをしながら各戸を回る。以前は「獅子連」が主体となって行っていたが、現在は専門に継承する家柄もなく、年番という行事役員が村回りを奉仕しているという
        
                    拝 殿
 天神社  羽生市上新郷一九九六(上新郷字上出口)
 当地は、かつて広々とした田園地帯であったが、秩父鉄道の開通に伴い、住宅地として急速な発展を遂げている。ことに新郷駅に近い鎮座地付近は、近年急激に人口が増加しており、古くからの景観は一変している。
 新郷の総鎮守は愛宕神社であるが、耕地ごとにも鎮守があり、このうちの当社は中新田の最寄り鎮守として祀られたと伝えられる。
 当社は菅原道真公を祭神とし、内陣に天神座像及び同立像を安置する。座像は大正六年二月に当所関根猪之助が伊勢参宮記念として奉納したもので、立像については明治三年に忍藩神祇方、岡村政達が奉納したことが宮形厨子に記されている。
 現在の社殿は、本殿が流造り、覆屋と拝殿はそれぞれ入母屋造りで、昭和四六年老朽化のため土台の入れ替え等修繕を施した。なお、伝えによると、現社殿は明治期には既に造営されていたといわれる、「天満天神」の社号額には元治元年の年紀があり、奉納絵馬には嘉永五年の年紀がある。近年まで、樹齢二〇〇年近い欅・水楢の大木が社叢を形成し、江戸中期創建の歴史を物語っていた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
          境内に祀られている石碑(一番左側 御嶽)、庚申塔等
        
                  社殿からの眺め
 氏子区域は中新田で、社の維持運営は、上(かみ)・中(なか)・下(しも)・下西(しもにし)の四耕地より総代2名・年番4名の計6名ずつ出て、祭事一切を行う。特に総代は氏子の大雹として祭事に参列するほか、社の管理を行う。中でも共同祈願として3月に行われている「雹除け祈祷」は、総代が中心となり、作物の被害除けの祈願を行い、神札を各戸に配るという。


下宿天神社】
          
 上新郷中新田天神社から埼玉県道364号上新郷埼玉線を450m程北上すると、進行方向右手に下宿天神社が見えてくる。古保は小さいが、本殿のみの社だが、装飾も綺麗に施されていて目立つ社。この地域の鎮守様という印象。
        
                     本 殿
 上新郷愛宕神社の項において、明治45年(1912)に、下宿の天神社、上宿の寄木神社、小須賀道の道祖神社、西新田の諏訪神社を合祀し、更に大正12年(1923)に下宿の東照宮社を境内社として合祀している。右のうち天神社は、合祀後、旧氏子区に疫病がはやったため返還されたという。
        
                   境内の様子
「埼玉の神社」によると、下宿の天神様は元の愛宕様より社殿が大きく、東向きに神楽殿もあったという。この天神様には「天神講」の行事があり、これは児童の適当な家が宿になって、五人から十人くらいに集まり、米を二合ずつ持ち寄り朝夕と食事を作ってもらい、一晩中騒いで、朝明るくなると天神様を拝みに行ったようだ。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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