古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

安比奈新田八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市安比奈新田287
             
・ご祭神 誉田別尊 神功皇后 比賣神
             
・社 格 旧安比奈新田村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 祈年祭 414日 例祭(秋祭り) 1014
 川越市安比奈新田、この「安比奈」は「あいな」と読み、なかなか個性的な地名である。この地域名は、かつて的場村と柏原村(現狭山市)とに挟まれた(間 あいだ)からきた名という。
 途中までの経路は的場若宮八幡神社を参照。この社から埼玉県道
114号川越越生線に一旦戻り、南西方向に進路を取り、「的場上」交差点をそのまま直進、同県道260号鯨井佐山線に線路変更となるのだが、750m程進んだ信号機のある十字路を右折する。道幅の狭い昔ながらの道路の両側には民家が並ぶ中、すぐ先に見える丁字路を右折すると安比奈公民館、その並びに安比奈新田八幡神社が見えてくる。
        
                
安比奈新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「安比奈(あいな)新田」の解説
入間郡増形(ますがた)村の北、入間川左岸低地に立地。高麗郡に属する。村名は的場村と柏原村(現狭山市)とに挟まれた小村に由来するという(風土記稿)。寛永年中(一六二四―四四)に川越藩主松平信綱が新田取立てを行った際に郡奉行の三浦十右衛門と三芳与左衛門の下屋敷が置かれた頃に開発され、当時本百姓一三・名主一・寺院一・神社一があったという(霞ヶ関の史誌)。
        
                 趣のある静かな境内
        
                 参道右側にある手水舎
 手水舎の水面には数種類の華やかな花が活けてある。日頃世知がない忙しい毎日に追われている筆者にとって、心癒される一瞬である。このような洒落た気持ちを常日頃から持ち合わせたいものである。
          
           境内社・稲荷神社             境内社・八坂神社
        
 
                                      拝 殿
 八幡神社  川越市安比奈新田二三(安比奈新田字宮久保)
 当社は、慶安元年九月に豊前国の宇佐八幡宮から、当時開墾された安比奈新田の鎮守として勧請した社である。祭神は誉田別尊・神功皇后・比賣神の三柱で、内陣に高さ三五センチメートルの八幡神座像を安置している。この神像は胡粉彩色の木像で、神社の創建当時からあるものといわれている。
 当社には五枚の棟札が現存しており、その中では享保一四年の「奉再造八幡宮成就所」とあるものが最も古い。現在の本殿は千鳥破風、向拝の付いた一間社流造りで、棟札から安政四年八月に建造されたものであることが知られる。
 境内は杉・松などの混淆林に囲まれ、社殿の周りには末社として八坂神社・稲荷神社・浅間神社・天満天神社・御嶽神社の五社がある。このうち、稲荷神社においては毎年三月一〇日に祭典が行われているが、ほかの末社については行われていない。
 また、かつて境内には観音堂があり、集会や祭典後の直会の会場などとしても利用されていたが、大正六年に社務所兼公会堂の建設のため、境外に移転した。
 なお、安比奈新田には寺院がなかったため、江戸時代には笠幡の延命寺が当社の別当であった。神仏分離の後は、笠幡の尾崎神社の社家である伊藤家が祀職として奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
  社殿左側奥に祀られている浅間・御嶽社   社殿右側奥に祀れている天神社

 安比奈新田地域は柏原と的場両村の間に開かれたことから「あひな」と称したという。口碑によれば、昔は「安比奈千軒」といわれるほど家数も多く、繁盛した村であったが、入間川の氾濫で家が流されたため、家数の減少をみたという。
また、この地域は、
入間川北岸に開かれた農業地帯で、かつては氏子のほとんどが養蚕を主体とした農家であった。戦後、養蚕が振るわなくなってからは、作物も米や野菜が中心となり、高度経済成長期以降は兼業へと変化していった。また、近年、団地や住宅地の造成が進み、他地域からの転入者が相次いだため、明治4年にはわずか36戸、戦前でも65戸しかなかった住民は昭和53年には200戸近くにまで増加したという。
        
                  社殿からの一風景
社の西側に隣接して
安比奈公民館があるのだが、そこの西側端にはお地蔵様や供養塔、馬頭観音等がある。
         
            馬頭観音(左)    月待供養塔(左)、他の二基は
        秩父西国坂東巡拝供養塔(右)     お地蔵様 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等 
   

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的場八坂神社

 中世において、武蔵国を代表する豪族の一派に「河越氏」がいた。河越氏は平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を張った豪族で、坂東八平氏秩父氏の嫡流であり、河越館(現埼玉県川越市上戸)を拠点として国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を継承し、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を取りまとめていた。
 因みに、河越氏の発祥地は『吾妻鑑文治二年条』に「新日吉領武蔵国河肥庄地頭云々」と見え、高麗郡上戸村(川越市)の山王社及び常楽寺附近といい、今の入間郡河越宿は太田道灌の築城後に河越と呼んだそうだが、『新編武蔵風土記稿 高麗郡的場村(川越市)』には「此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、(中略)三芳野塚 村の艮に當り、陸田の中にあり、匝三四十間、高さ三間餘、塚上には雑木生茂れり、是ぞ三芳野鄕の基本にして、今川越の城中に鎭座せる、三芳野天神の舊地なりと云」。
 また『同風土記稿 上ハ戸村』には「もと川越三芳野里と云るは、この上ハ戸・的場村等をさして云、山王社 大廣院持、當社は上ハ戸・鯨井・的場の三村、惣鎮守にして、(中略)西に續きて丸山と云るは、砦の跡なりと云、此所は草木生茂りて、土手堀切等の跡あり。又當社の古鐘、今川越の養寿院にあり、何故に移せしやその來由を傳へず、銘文の略に曰、武藏國河肥庄新日吉山王宮、奉鑄推鐘一口・大檀那平朝臣経重、文應元年云々」「常樂寺 川越山と號す、(中略)土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、」「大廣院 本山修驗、日吉山と號す、日吉山王の別當なり、(中略)【回國雑記】に河越と云る所に至り、最勝院(大広院先祖)と云山伏の所に、一夜宿りて、此所に常樂寺と云る時宗の道場はべる云々」として、
坂東八平氏秩父氏の嫡流である河越氏は「三芳野里河肥庄的場村」に居住して河越氏を称したという。
 さて事実は如何なものであろうか。

        
             ・所在地 埼玉県川越市的場1874
             ・ご祭神 須佐之男命
             ・社 格 旧的場村下組鎮守
             ・例祭等 例祭(天王様) 415
 的場若宮八幡神社から埼玉県道114号川越越生線を再度的場駅方向に進み、「的場」交差点をそのまま直進、JR川越線の「的場県道踏切」の手前で、進行方向右手に的場八坂神社は鎮座している。
 踏切手前には、社に隣接している「的場下組自治会館」に通じる道幅の狭い路地があり、そこから自治会館へ入り込み、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  的場八坂神社正面
 的場地域は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、当社の鎮座する下組は、地域の中でも古墳等の遺跡も多数あり、古くから開けたところとされている地でもある。的場八坂神社の創建年代等は詳らかではないが、旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、的場村下組の鎮守として祀ったといい、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。その後、明治年間に糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀している。
        
                                    境内の様子
    参道両側に並ぶ桜の木々の青葉が引き立ち、交通量の多い県道沿いに鎮座している
                 にも関わらず、落ち着いた境内の雰囲気にマッチしている。
        
                    拝 殿
 八坂神社  川越市的場一八七四(的場字下宿)
 的場は川越市西部の入間川と小畦川に挟まれた所で、数多くの遺跡や古墳が点在する。中でも当社の鎮座する下組は、的場の中でも古くから開けたところとされ、的場三十塚または糠塚と呼ばれる古墳が見られる。
 当社は、本来隣接する旧名主加藤家の屋敷鎮守であった牛頭天王社を、字の鎮守として祀ったものとされる。当社創建を示す記録はないが、戦前、氏子が調べた際、三三〇年前になるといわれ、現存する最古の棟札が、貞享二年であることから江戸初期にはすでに鎮座していたものと思われる。このほか、安永八年、文化元年、明治一五年の再建の棟札が現存する。
祭神は須佐之男命である。本来、当社は牛頭天王と称していたが、明治二年の神仏分離により社号を八坂神社と改めた。
 境内社の稲荷社は、糠塚の上に祀られていた稲荷社を、明治期当社に合祀したものである。社般もその時に移したものであるが、跡地には、この稲荷社を古くから祀ってきた一二、三軒により新たに社殿が造営され、跡宮稲荷と称して現在も祭りを続けている。
                                   「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 的場村』には加藤氏に関して以下の説明文を載せている。
「舊家者八三郎 加藤を氏とす、天正の頃より累世里正たり、是村草創五軒の百姓と云る其一なり、鞍・鐙・槍等先祖より傳來の品持せり、七右衛門も亦その一軒なりといへり、其餘の三軒は今つまびらかならず、」
 
   拝殿前に設置されている社の案内板                        本 殿 
 当社の祭りは、『新編武蔵風土記稿』に「天王社 例祭六月十五日」と載せているように、長く615日に祭りが行われていた。その後、大正期に入り、祭りが春蚕の上がりと時期を同じくするため、415日に変記された。
 氏子はこの祭りを「天王様」と呼び、大正期までは法城寺に保管されている獅子でササラ獅子が奉納されていたが、現在ではその伝承者もいなくなっている。また、この祭りの際には、神楽が下組の南・東・北・西の順に神職の先導で練り歩き、最後に入間川の中に入って揉んだというが、戦後、神輿の行列が地域の交通の妨げになるという事で通行許可が下りなくなり、現在では古い朱塗りの女神輿と明治2312月に造られた白木の男神輿が社務所前に飾られるだけとなっている。
 
        拝殿の左側に祀られている境内社・糠塚稲荷神社(写真左・右)
        
                境内右側隅にある薬師堂
 当社では、91日に境内の薬師様と初雁塚上に祀られている浅間神社の祭りが境内で行われている。薬師様は現在の霞が関北から出土したものといわれ、明治期当社の境内に移されたものである。現在は、旧神職家の吉田家が薬師様を保管し、祭り当日堂内に祀るとの事だ。
        
                       社殿より参道方向を望む。
 下組の曹洞宗的場山三芳院法城寺境内には、三芳野天神社が祀られ、神体は一寸八分の金の天神様で、白檀で作られた渡唐天神像の腹籠(はらご)もりとなっているという。祭日は425日(以前は225日)で、神職が出向して八坂神社役員の参列により祭典を行っている。なお、廓町の三芳野神社はこの社から文明五年に勧請したものであるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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的場若宮八幡神社

『伊勢物語』とは、平安時代に成立した日本の歌物語で、別名『在五が物語』『在五中将』『在五中将の日記』。和歌を中心とし,それにちなんだ短編約125話からなる。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られ、作者不詳。
 この『伊勢物語』は、『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作で、また現存する日本の歌物語中最古の作品であり、後世への影響力の大きさでは同じ歌物語の『大和物語』を上回り、『源氏物語』と双璧をなすとも言われる。
この『伊勢物語』第十段には「みよし野の里」が登場する。
「むかし、をとこ、武蔵の国までまどひありきけり。さてその国に在る女をよばひけり。父はこと人にあはせむといひけるを、母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほびとにて、母なん藤原なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。住む所なむ入間の郡、みよし野の里なりける(以下略)」
この入間の郡「みよし野の里」の遺跡について、いくつかの意見があり、一説として、『新編武蔵風土記稿』では、川越市上戸(うわど)・的場(まとば)両地域あたりという。
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 相傳ふ昔大道寺駿河守この隣里上戸の城に在し時、是邊に弓・銃等の的場ありしと、今も楢的場と云ものあり、故に村名とせりと云、又此地は當國の名蹟三芳野の里にて、今も小名に三芳野とよべる所あり、又三芳野塚も遺れり、元より此邊之村里すべて三芳野郷の唱あり、

        
             
・所在地 埼玉県川越市的場529
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧的場上組鎮守
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 1015
 JR川越線的場駅から南方向に走る埼玉県道114号川越越生線を900m程南行すると「若宮八幡神社入口」の立看板がある丁字路があり、そこを左折、そこから道なりに300m程進むと正面やや左側に的場若宮八幡神社が見えてくる。
        
                 的場若宮八幡神社正面
        規模は決して大きくはないが、コンパクトに纏まったような社   
『日本歴史地名大系 』「的場村」の解説
 笠幡(かさはた)村の東、入間川と小畔(こあぜ)川に挟まれた低地および台地に立地。高麗郡に属した。牛塚古墳群と三芳野塚・初雁塚などとよばれた古墳があり、とくに三芳野塚の存在は当地が「伊勢物語」に記された「みよしのの里」に比定される根拠とされる。村名は戦国時代に隣村上戸に拠った大道寺氏の的場があり、後まで的塚が残されたことに由来するという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に江戸衆の山中内匠助の所領として「七拾八貫五百五拾八文 川越的場」とみえる。
        
         道路沿いに設置されている「的場八幡神社本殿」の案内板
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 的場村』
 八幡社 法城寺の持、
 法城寺 的場山と號す、曹洞宗、鯨井村長福寺末、此寺往古三芳野塚の傍にありて、三芳野山寶常寺と唱へしに、何の頃よりか山號を改め、寺號を書替しと云、起立の年詳ならず、中興開山撫州舜道、正保三年七月廿五日寂す、開基は神山七左衛門なり、寛文八年九月四日歿す、本尊は正觀音を安ず、緣起の略に曰、法成寺者、則三芳野天神・若宮八幡宮兩宮之別當、而古代三芳野塚麓有之、幾年歷事不審、上戸大道寺家落城之時及廃壊事久、略本寺長福寺三世、撫州和當寺中興、則今開山也、此時神山七左衛門開基成建立、其時三芳野塚之天神宮境内移、寺地四段四畝二歩、天神宮地一段二畝、若宮八幡宮地五畝六歩、到今御除地也、當所本名三芳野也、大道寺家上戸居城之頃、當地弓鐡炮武術之稽古場也、故里人皆的場云、依之後的場村成、三芳野塚麓池有、天神御手洗是三芳野初雁池也、謂雁此國初來、池上三度飛回初鳴云傳、又此池常櫻花水底浮故、是櫻池共云傳也、

 八幡神社  川越市的場五二九(的場字若宮)
 
的場は入間川の西岸に位置し、村名は昔大道寺駿河守が隣村の上戸の城にある時、弓や銃の的場をこの地に設けたことに由来する。この村は水田が少なく、陸田のほかに粟・稗・麦などの雑穀を栽培していた。また、ここは上・中・下と分かれ、当社の氏子はこのうち上に当たる。上はほかよりやや土地が高く、通称新開といわれ、中・下より後から開けた所である。これは水の便からきており、中・下が早く開けたのは、当社前方五〇〇メートルほどの所にある蟹淵という冬でも枯れない泉を灌漑用として利用できたからである。
 当社の創立は、口碑によると氏子窪田家の屋敷神であったものが、いつのころか現在地に移転され、村を守護する社になったという。窪田家については、現在資料はなく村における往時の位置は定かではないが、村の開発にかかわった家であったと思われる。
『風土記稿』によると、江戸期は曹洞宗的場山法城寺が別当を務めていた。
 明治に入り神仏分離のため、当社は法城寺の管理を離れたが、神仏習合時代の影響は明治末期まで続き、一〇月一五日のお日待の時には寺から獅子が三頭繰り出し当社でササラを行った。また、現在でも社務所には観音像のほか四体の仏像が祀られており古くからの姿をとどめている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 昔からの氏子参拝作法は、神社の裏手から山榊の小枝を取って来て拝殿正面で一拝し、更に末社に参拝し、次に本殿裏の壁に榊を差し込んでトントントンと三回たたくものであるという。
 氏子区域は、的場上組と一丁目の一部である。この地域は嘗て養蚕と畑作を中心とする農業地帯であったが、昭和48年頃から急激にサラリーマンの増加をみた所で、以前は氏子数は900戸程であったが、このうち祭典費を納めている昔からの住民は500戸位である。
 霞が関公民館の文化祭での書道展や短歌俳句の文化展や盆栽展・農産物品評会等が地域住民の結びつけを強め、氏子の目は社の慣習的な祭りから公民館が企画する祭りへと関心が移行したことにもよる。
 
         本 殿                本殿内部
 的場八幡神社本殿  
 市指定・建造物
 この地の開発にかかわった窪田家の屋敷神を現在地に移し、村を守護する社にしたのがはじまりといい、江戸期は法城寺が別当をつとめていました。
 本殿は小型の一間社流造で覆屋内の石造基壇上にたち、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けます。精巧で複雑な架構と余すところ無く埋めつくされtら彫刻が見所となっています。とくに圧巻は身舎側壁と正面の扉・脇壁にはめ込まれた彫刻です。扉に花鳥、脇壁に鯉の滝のぼり、左側面に神功皇后と赤ん坊(応神天皇)をだく武内宿彌、右側面に司馬温公の甕割、背面に波・松・鷹の丸彫彫刻をはめ込んでいます。いずれも壁面から飛び出た肉厚の彫刻で、人物や事物が大きく彫られています。これらの彫刻は補助的に建築に付加して装飾するという程度をこえ、建築の壁面を借りて彫刻を作品として展示するかのようです。背面は神社本殿の壁面としては高さに比べて幅がかなり広く、彫刻の寸法が建築に先行した可能性も考えられます。
 造営年代を直接示す棟札などの史料はありませんが、基壇に嘉永五年(一八五二)八月吉日の刻銘があり、本殿の造営年代も同じころと思われます。
                                    境内案内板より引用
 
       
                  境内社・稲荷神社 
 社の祭りに関して、春祭りは春祈祷との呼ばれる豊作祈願祭で、大正期までは巫女が拝殿前で春神楽を舞った。時期的にも霜が降りなくなるので、夏作が始まり養蚕の準備も行われる。
 秋祭りはお日待とも呼ばれる豊作感謝祭であり、氏子の家では親類を招き、けんちん汁・赤飯・うどんを作って豊作を祝った。祭典後の直会は、古くから生姜に味噌をつけて肴とし、酒を飲むもので、この行事が終了するとこの地では本格的な稲刈りが始まるという。
 また古くから地域住民が行われている行事には、211日の春日待・43日のお犬講(宝登山講)があり、女衆は「おしら講」を行っていた。
        
                   境内の一風景


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉県の不思議事典」  
    Wikipedia」「境内案内板」等
             

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瑳珂比神社(石剱稲荷大権現)

 旧境町は群馬県佐波郡に属し、県の東南部に位する。海抜4050m程で、一帯はほぼ平担地で、面積は 31.59²。町の西端を粕川が北より南下して広瀬川にそそぎ、広瀬川は町を西から東南に流れて利根川に合流する。
 利根・広瀬両川の河川交通の便があったので古くから住民の土着があったと考えられ、繩文文化時代や弥生土師住居趾が多数あり、何百の古墳群が存在している。奈良朝時代には附近の三村を含めたこの一帯を「朝日の里」といった。鎌倉時代には隣村世良田にあった新田氏の領有するところであり、戦国時代には太田金山の城主由良氏に属している。由良氏の部将小此木左衛門長光が境城に拠った。この城はまた仮宿城とも呼ばれるが、その頃、境、仮宿の両地名が使われていたとみられ、境という名称はこの頃にいたって唱えられたと考えられる。
 江戸時代には半分を伊勢崎藩酒井氏が領有、半分は旗本領および天領であった。
 赤城山噴火の火山灰が降り積った大間々扇状地帯の南端にあたるため、町の大凡70%を占める北部地帯が関東ローム層で、水利を得る水田と桑園であり、米麦二毛作と養蚕を行う。南部の30%に当る地域は広瀬川氾濫原の堆積地で沖積底地にのぞむため、肥沃な畑地や桑園をなしている。特に養蚕と野菜栽培には最も適した地であったという。
 188941日、市制町村制施行により、境町、境村と下武士村の一部が合併して佐位郡境町が誕生し、その後、平成17年(200511日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、東村とともに新設合併し、伊勢崎市となったため消滅した。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境493
             
・ご祭神  (主)倉稲魂命
                                   (配)火産霊命 建御名方命 素盞鳴命 大物主命 
                                         
菅原道真命 鎮西八郎為朝 誉田別命 大日孁命
                     ・社 格 旧境村鎮守・旧村社
             ・例祭等 瑳珂比夜まつり(酉の市) 1210
 県道142号線と同県道14号線が旧境町市街地で交わる「境萩原」三又路を東行し、その後「境町駅入口」交差点を右折し250m程直進すると、正面に瑳珂比神社が見えてくる。地図を確認すると東武伊勢崎線境町駅の南側にあり、社の東側には長光寺が、また社の北側と南側にそれぞれ小学校・高校とに囲まれた場所に社は鎮座している。
 因みに、長光寺は、「天台宗・小柴山」と号し、江戸時代には札所として観音霊場めぐりの巡拝者でにぎわったという。寺宝としては鎌倉期の作と伝えられる県の重要文化財に指定されている「懸仏」がある。さらに境内には、有名人の墓も多く蘭医の村上随憲や儒家の常見浩斉の墓石、芭蕉の句碑、酒井忠国の寄贈になる1681年(延宝9)の大きな石燈籠などがある。
        
                  瑳珂比神社正面
『日本歴史地名大系』「境村」の解説
 新田郡に属し、西は佐位郡境町で、日光例幣使街道が通る。平坦地。元亨二年(一三二二)一一月二〇日の尼浄院寄進状案(長楽寺文書)にみえる「新田庄南女塚村」は当地に比定される。元禄郷帳では高二六八石余、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では上総貝淵(請西)藩領、家数五一。世良田村(現新田郡尾島町)に東照宮が創建されると、その火防役を課せられた。足尾銅山役も勤め、大原(現同郡藪塚本町)の銅問屋まで人馬を出し利根川の前島河岸(現尾島町)に銅を運んだが、文政九年(一八二六)免除された。村内を日光例幣使街道が通っていたため、東隣の女塚(おなづか)村との境界にある土橋の普請・整備役も課役されていたという。
 江戸時代当時、境は例幣使街道の宿場町(境宿は間の宿)としてより、六斉市(糸市)が開かれた市場町として近在の伊勢崎と共に産業経済の発達していた地域であった。これは、宿の南を流れる利根川沿いに平塚河岸中瀬河岸などが設けられ、水運を利用して江戸との物質交流が盛んであったためと思われている。
       
             入り口付近に設置されている社の案内板 
       
             正面一の鳥居とその先に見える二の鳥居
          遠くに見える社殿は、参道に対して横を向いている。 
       
                    拝 殿
瑳珂比神社
一、所在地 佐波郡境町大字境四九三番地
一、祭神
  主祭神 倉稲魂命
  配祀神 火産霊命  建御名方命
      素盞鳴命  大物主命
      菅原道真命 鎮西八郎為朝
      誉田別命  大日孁命
一、由緒
 当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(一五二一~二七)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀三年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。後陽成天皇の天正八年(一五九〇)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めた。
 後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり後光明天皇の正保四年に例幣使街道が開設され宿場町になると次第に町並みも形成され慶安年間(一六四八~五一)には境町となった。
 桃園天皇の宝暦十一年(一七六一)拝殿が造営され後桜町天皇の明和三年には石鳥居が建立された。後桃園天皇の安永二年社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され光格天皇の享和元年(一八〇一)には氏子の発起により現在の社殿が建設されている。その後も神域は整備され明治七年には村社に列された。明治四十年九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社、八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社、神明宮、琴平宮、秋葉神社を合祀し現在の瑳珂比神社と改称し今に至る。
                                    境内案内板より引用
 
       
                     本 殿 
 ネットで覆われている為見ずらいが、一間社流造りの本殿には精巧な彫刻が施されている。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社      稲荷神社の右側には庚申塔等が並ぶ。
 
 庚申塔の右側に祀られている石製の天王宮。その隣には「
例幣使道と六斉市」と表記されている案内板がある(写真左・右)。
 例幣使道と六斉市
 境宿は、柴宿と木崎宿の間の宿でした。文久三年(一八六三)幕府から日光例幣使道の宿場に取り上げられました。
 当時の町並みは、四百六十三メートル余り、道幅は十四メートル余りあったようです。
境宿では、二と七の付く日の月六回糸市が開かれ「六斉市」と呼ばれていました。この市では、「さかいさげ」と賞された生糸の取引が盛んでした。その様子は、境島村の画家金井研香の「境街糸市繁昌図」(市指定重要文化財)に描かれています。江戸の学者寺門静軒は「外貨は地にあふれて限りない水のようだ」と讃しています。
 高札場には、この市の守護神として天王宮が祀られていました。この宮の祭りは盛大で、近郊の村々から見物客が多く訪れたということです。祭りは、現在の「境ふるさとまつり」に引き継がれています。
                                      案内板より引用

        
      
例幣使道と六斉市」案内板の右隣に祀られている境内社。詳細不明。
 
  境内北西側に祀られている招魂社の鳥居           招魂社
       
         招魂社の鳥居の左側に高く聳え立つご神木(写真左・右)
       
                 社殿を側面から望む

 瑳珂比神社の南側に隣接している「群馬県立伊勢崎高等特別支援学校」の南側に小さな池があり、その中心部に瑳珂比弁天宮が祀られている。
        
                  
瑳珂比弁天宮正面
 社が祀られている場所は、池の中にポツンと島状となっていて、南側にある橋が架かっており、その橋を通る事により社殿に近づくことができるのだが、残念な事に施錠されているため、遠方よりの撮影となった。
 案内板等もなく、由緒等は不明である。
        
                  右側後方より撮影


参考資料「群馬県民俗調査報告書第五集 境町の民俗」「改訂新版 世界大百科事典」
    「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等

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境萩原諏訪神社


        
           
・所在地 群馬県伊勢崎市境萩原1784
           
・ご祭神 建御名方命
           
・例祭等 歳旦祭 初祭祀 17日 節分祭 23日 豊川稲荷祭 315
                
春季例祭 43日 夏祭り 8月第一土・日曜 秋季大祭 113
 境小此木菅原神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を東行する。広瀬川は現在川幅120130m程であるが、江戸時代当時は約40mで、「竹石の渡し」という渡し場があり、対岸には「相生の松」という大きな松があって、舟がその付近に向い渡ったと言う。残念ながら日光例幣使街道の渡し場の跡は、小さな案内板が建っているだけで残っていないのだが、この「竹石」という名はこの一帯の地域名である「武士」の当て字と言われていて、この「武士」は「たけし」と読む。
 広瀬川に架かる「武士橋」を渡り、更に東行し旧境町市街地方向に進む。県道142号線と群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が交わる「境萩原」三叉路を左折し、北西方向に進んだすぐ先で、進行方向左側に境萩原諏訪神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する境萩原諏訪神社
    境内は南北に長く、幅は狭い。よく確認するとこの社は北向き社殿となっている。

 ここのところ群馬県道142号綿貫篠塚線周辺の社を散策していると、嘗て「日光例幣使道」と呼ばれていた街道と、上記県道の多くが重なっていて、周辺には現在でも往時を偲ばせる名所や旧跡が残されている。社が鎮座する伊勢崎市境萩原地域も同様である。
        
                    規模は小さいながらもコンパクトに纏まった社     
 何度も繰り返しとなって恐縮ではあるが、改めて「日光例幣使道」を説明すると、「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となったこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。
 例幣使は京を41日に出発、当時の人は1日約10里は歩いたようで、15日に日光に到着した。日光では、翌16日に厳そかな雰囲気の中で奉幣の儀式を執り行ない、同日正午すぎにはもう日光を発ち、日光道を江戸へ入り、そこから東海道を使って帰京するのを通例とし、往復に約30日を要したといわれていて、1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかったという。
 
   境内に入ったすぐ左手隅にある「萩原諏訪神社の道標」(写真左)とその案内板(同右)
 萩原諏訪神社の道標
 この道標は刻まれている文面から、文久元年(一八六一)に建て直されたものです。
 元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道三五四号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されました。丸い台石には、十二支と東西南北の方向が刻まれ、その上に台形の塔身が載っています。正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満(ま)やむし道」(前橋)とあることから、元あった場所では、東側に向いていたと考えられます。
 この分岐点は、当時の交通の要衝であり、正面と左面は日光例幣使道を示し、右面は伊勢崎から前橋に通じる道を示していました。(以下略)                 案内板より引用
 境萩原諏訪神社は境宿西はずれに位置し、案内板によれば、境内には年代不明で文久元年(1861)に建て直された「道しるベ」があり、元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道354号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されたという。また、例幣使の小休止場所は、この境宿では、境萩原諏訪神社の境内の他、すぐ東側にある「織間本陣」で小休止したという。
 
参道途中、左側に祀られている石祠群と大黒様等   参道右側には縁起に関する案内板あり
        
                    拝 殿
 拝殿の左側隣には「豊川社」の社号額のある鳥居、その奥には豊川稲荷社が鎮座している。
諏訪神社縁起
鎮座地 群馬県佐波郡境町大字萩原千七百八十四番地
祭 神 建御名方命
 事 一月一日   歳旦祭    四月三日     春季例祭
        一月七日   発祭祀        八月第一土・日曜 夏祭り
        二月三日  節分祭    十一月三日    秋季例祭
        三月十五日 豊川稲荷祭
 緒  祭神建御名方命は古事記に依るに大国主命の第二子にして出雲国を天照大神に立奉りた
        る後信濃国に降り、民を慈しみ良き政を為せるに依り近隣の諸民その徳を偲び五穀豊、
        
穣、家内安全、商売繁盛、開運招福の神とし諏訪大社にその霊を祀る。
     当社は天正年間(一五七三~一五九一)諏訪大社の分霊を奉遷し剛志村下武士に鎮祭せ
     
を天保九年(一八三八)萩原の有志相計り住民五十余戸の賛助を得てこれを譲り受け
        
現在地に鎮座せられる。
     明治の代になり神厳維持の為の一村一社主義に則り住民の協賛を得て金銭及び土地を拠
     
し定められた資格を具備し先に掲げたる御利益と共に永久の平和と文化の発展を祈念
     
し今日まで年々独自の祭祀を怠ることなし。
     
近年社屋の老朽著しきため区民並に近隣の崇敬者の奉賛に依り現在の社殿の建て替え並
        に豊川稲荷神社及び水舎の屋根の葺き替え等完成す。
境内社 稲荷神社 秋葉神社 八坂神社
        
大国神社 春日神社 八幡宮                   境内案内板より引用
        
                 境内社・
豊川稲荷神社
       
                 境内にある力石二基
 この力石は、案内板によると「貫目八十貫目、江戸は組 大願成就」と刻まれていて、今のキロ数に直すと300㎏以上もある石を、江戸から来た町火消しの「は組」の人が、見事に持ち上げた記念の石である。
 神社や寺院、道端に置かれたこの力石は、各地に見られるが、境地区ではただ一つのものであり、宿場であった旧境町が江戸時代に繫栄したことを示す貴重な石であるという。
       
                            社殿から見た境内の一風景


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書 2集 日光例幣使街道」「伊勢崎市観光物産協会HP」
    「境内案内板等」等

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