古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

道佛稲荷神社

 
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町宮代2817
            
・ご祭神 宇迦之御魂大神
            
・社 格 旧中島村鎮守
            
・例祭等 元旦祭 夏越の祭り 720
 宮代町道佛地域は、同町の中央部に位置し、東武動物公園駅からおおよそ1 kmほど南の距離にあり、また宮代町役場やコミュニティーセンター進修館など、町の主要施設が集まっている利便性の高い地域でもある。因みに地域名「道佛」は「どうぶつ」と読む。
 
埼玉県道85号春日部久喜線を宮代市街地方向に進み、姫宮落川に架かる「道佛橋」を渡り切った先にある信号のある十字路を左折すると、進行方向左手に「道佛集会所」が見え、その奥に道佛稲荷神社は鎮座している。
        
                  
道佛稲荷神社正面
 宮代町道佛地域の東部は東武伊勢崎線の線路を、西部及び南部は姫宮落川を境界としている。区画整理事業が行われた道佛地区は近年新築住宅が多く建設され、若年層が多く流入して人口が増えている。また、町丁部分の北部および西部に住居表示未実施の字道佛があり、西部は主に水田などの農地で、南西端を笠原沼落が流れる。三角形の区域を有する北部は、住宅地となっている。
 
 社号標柱のすぐ先で、参道左側にある庚申塔      右側にも庚申塔等が並んである。
        
                                参道の先にある一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「中島村」の解説
[現在地名]宮代町百間(もんま) 中島・道仏(どうぶつ)
百間村の東に位置し、古利根川右岸に沿う。同川の東対岸は葛飾郡堤根村(現杉戸町)。天正一八年(一五九〇)島村出羽守宗明が開発して道仏村と称したが、元和五年(一六一九)の検地で中島村と改称、のち百間村のうちとなり、元禄八年(一六九五)同村から分立したという(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、古くは道仏村と注記され高三一六石余、旗本池田領(国立史料館本元禄郷帳)。
        
           一の鳥居の先に見える朱を基調とした二の鳥居
 江戸時代、この地域一帯は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいて、中には自国領を「私称」するようになった。「道佛」地名も、天正18年(1590)島村氏の先祖がこの地に移住・土着し、その二子である出羽宗明が開発し、その際に道佛村と称したという。その後、元禄8年(1695)の百間村分村のときに中島村と改めたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 開發は天正一八年(一五九〇)島村出羽宗明なるもの開發して、道佛村と云ひしと云、然るを元和五年險地の時、今の村名に改めしと土人の傳れど、所以はしらず、されど正保國圓この名を載せず、元祿國圓初て中島村とのせ、古は道佛村と唱へしことをのせたれば、天正の開發にもせよ、舊くは百間村に屬し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元祿八年に至て一村とはなれり、

 
 参道左側に祀られている境内社・阿夫利神社   
阿夫利紙社の先で並んで祀られてい天満宮
        
  参道を挟んで
阿夫利神社・天満宮の対側にある伊勢参宮記念碑二基。その間には力石あり。
        
         拝殿を前に
立ち並ぶ二柱のクスノキの御神木。壮観な眺めだ
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 稻荷社 村の鎭守なり、元和五年の勸請と云、村持、末社 石尊 辨天 庵如意觀音を安ず、
 醫王院 新義眞言宗、東村西光院末、稻荷山宗祐寺と號す、當寺は名主德右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云、宗明が先祖嶋村彈正左衛門高智と號す、近江國に住し細川高國に仕へ、享祿四年(一五三一)六月廿四日攝州尼崎に於て入水して死せり、其子近江入道道明東國へ下りて當村に住し、天正一二年八月一五日卒す、出羽宗明は其二子にして、寛永元年十月五日卒す、法名を宗祐と云、本尊不動、


 稲荷神社  宮代町道仏二三一(百間字道仏)
 当社が鎮座する道仏の開発について、『風土記稿』中島村の項には、「開発は天正十八年(一五九〇)、島村出羽宗明なるもの開発して、道仏村と云ひしと云、然るを元和五年(一六一九)検地の時、今の村名に改めしと土人の伝れど、所以はしらず、されど正保国図この名を載せず、元祿国図初て中島村とのせ、古は道仏村と唱へしことをのせたれば、天正の開発にもせよ、旧くは百間村に属し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元禄八年(一六九五)に至て一村とはなれり」と記されている。昭和五年の大字廃止により字道仏となった。
 創建については、同書に「稲荷社 村の鎮守なり、元和五年の勧請と云、村持、末社 石尊 弁天 庵如意観音を安ず」と記録され、村の開発から間もなくのこととしている。また、この文中「村持」とあるが、地内の医王院について、「新義真言宗、東村西光院末、稲荷山宗祐寺と号す、当寺は名主徳右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云」とあり、「稲荷山」の山号から、当社の別当寺であったと思われる。更に、村の開発と寺の建立の関係から推測すると、 当社の創建にも島村出羽宗明がかかわった可能性がある。
 昭和四十二年、社有地を売却し、本殿の大修理と、末社天満宮・阿夫利神社・弁天社の三社を再建した。その後、平成五年に、今上天皇の即位大礼記念事業として、本殿の屋根の葺き替えを行った。
 
                                  「埼玉の神社」より引用 
        
             拝殿に掲げてある「蒼福魂神」の扁額
        
               拝殿内に祀られている五柱の御幣
      参拝日は正月5日。御幣の前には、神様への捧げ物、お供え物があった。
 御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると
    同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持つという。
 
       
                    本 殿
 氏子区域は、道佛と中島(通称中洲)で、昭和5年まで、共に中島村の小名であった。当社は、「五社稲荷神社」とも呼ばれ、これは、中島地域の稲荷神社を合祀して五社となったというが、詳しいところは分からないという。三間社流造りの本殿内陣の奥は五座に分かれ、その一座に「稲荷大明神、天保十(1839)亥四月吉日、関根氏」と刻まれた石祀が奉安されている。あるいは、これが中島地域で祭られていたものであるかもしれない。
 現在の本殿について、文化年間(1804~18)に焼失し、それを再建したものと伝えている。
        
                 社殿付近からの眺め
       ご神木の根部位の圧力からか、参道の敷石が微妙に変形している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                 

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山崎重殿社・神明神社

 山崎地域内は、嘗て星谷・中山・前田・山ノ下・京塚・笠原・蓮田・第六天・南第六天等と共に百間村の小字であったが、昭和52月の大字廃止に伴い字名の一つとして用いられるようになった。
 山崎地域の歴史は古く、近年の発掘調査の成果から旧石器時代約20,000年前から人々が住んでいたことが明らかになっている。縄文時代にも多くの遺跡があり、山崎遺跡では縄文時代草創期約12,000年前の尖頭器なども発見されている。また、縄文時代早期7,000年前や後期3,500年前の住居跡や土器や石器などの遺物も数多く発掘されている。
 古墳時代には、宿源太山遺跡から34世紀頃の住居跡や土器が、山崎山遺跡では埼玉県最古の4世紀後半の鍛冶工房跡が発掘されている。中世(鎌倉・室町時代)には、宿源太山遺跡で板石塔婆や宋銭が発見され、山崎遺跡や山崎南遺跡でも甕や土鍋等が出土している。
 江戸時代には、山崎地域は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいた。一方、笠原沼新田の開発が享保13年(1728)に行われている。また、宿地内には「源太山」と呼ばれる松永源太左衛門の屋敷跡がある。 明治時代以降は、百間村・百間西原組等に属し、明治22年には百間村、そして昭和30年百間村が須賀村と合併して宮代町の一地域となっていて、現在山崎地内には行政区として、宿と山崎がある。
 なお、山崎地内には重殿社・神明神社・浅間神社・御嶽神社や、松永坊などの社寺があり、また、東村の神社であった第六天神社も山崎地域の西側にあった。
【山崎重殿社】
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎2446
            
・ご祭神 金山彦命
            
・例祭等 例祭 724
 宮代町山崎地域は大宮台地北東部にある慈恩寺(じおんじ)支台の東側縁辺部にあたり、古利根川右岸に位置している。現在の「東武動物公園」の南東部で、昭和59年に県民主体の運動の推進組織として発足し、平成24年に公益財団法人に移行した「さいたま緑のトラスト協会」が認定した緑のトラスト保全第5号地である「山崎山の雑木林」のすぐ南側に山崎重殿社はひっそりと鎮座している。
        
              山崎集会所に隣接した山崎重殿社
 社の後方には「山崎山の雑木林」が一帯を覆っている。大宮台地の端が低地と接する位置にあり、埼玉県東部地域に残された数少ない雑木林で、隣接する水田には、江戸時代中期の開墾当時の様子を残す「ほっつけ」が現存し、周辺を含む一帯は、雑木林、水田、集落(屋敷林)がバランス良く配置され、多様な生物が生息するとともに、ふるさと埼玉の東部地域における原風景を感じさせてくれる景観だ。
 因みに「ほっつけ(掘上田)」とは、沼地など水がたまりやすい地域の水田開発の手法。沼底を更に掘り込み、そこからでた土を周囲に盛り上げ耕作面のかさ上げをして、排水不良による水腐れ等の被害を軽減させたという。
 
    すっきりとして落ち着きのある境内       境内に設置されている社の案内板
        
                    拝 殿
 重殿社
 重殿社は山崎地区の鎮守で、地元では「権現様」とも称されている。金山彦命を祭神としており、祭礼は毎年七月二十四日に行われている。また、拝殿に多数のぞうりが見られるが、足の病に対する信仰のため奉納されたものという。
 覆屋の中にある本殿は、小規模で簡素ではあるが町内でも数少ない江戸時代の「見世棚造り」と呼ばれる造りの建物である。「見世棚造り」とは神社建築の一種で、店の棚のような形をしているのでその名がある。
 境内には、明和二年(一七六五)二月に建てられた稲荷社の祠や、文政十二年(一八二九)十月に建立された高さ約二メートルほどの大きな二十三夜塔がある。二十三夜塔とは、二十三夜に講の人々が集まり飲食をともにして、月の出を待ち拝んだりして夜を過ごすという行司で、そうした行事の記念として建てられたものである。
 また、当社には明治八年に作られた市川節堂の筆による幟旗がある。市川節堂は、群馬県に生まれ、清地村(現杉戸町)に招かれて付近の子弟の教育にあたった。
 重殿社のある山崎地区では、旧石器時代約一万数千年前から人々が住んでいた事が近年の発掘調査によって明らかになっている。以降、縄文時代後期約三千五百年前の集落や古墳時代四世紀後半の鍛冶工房跡なども発掘されており、古い歴史と文化を持っていることが知られている。
 一方、重殿社の周辺は「山崎山」と呼ばれる雑木林が広がっており、平成十三年度にさいたま緑のトラスト保全第五号地として取得され、管理。保存されている。現在、雑木林にはイヌシデやクヌギ、コナラなどがあるが、以前は赤松も多く見られた。こうした雑木林の北側には、かつては笠原沼の堀上田が広がっており、現在その一部が残されている。
                                      案内板より引用

        
             社殿右側奥に祀られている稲荷大明神と、その奥にある二十三夜塔


【山崎神明神社】
        
             ・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町山崎64
             ・ご祭神 大日孁貴命
             ・例祭等 神明様の祭礼 726
 山崎重殿社から直線距離にして400m程南東方向で、字山崎にある「宿」と呼ばれる集落内に山崎神明神社は鎮座している。
        
                  山崎神明神社本殿
 神明神社  宮代町山崎六四(百間村字山崎)
 当社は『郡村誌』百間村の項に「相伝ふ元和中(一六一五〜二四)松永弾正落来たりて本村に居住を定め」とあり、土地の口碑にも「落武者の松永源太左衛門一族と家来が京都から来てこの辺りに住み付いたことに始まる」という。
 当社は、この松永源太左衛門が祀ったと伝えられている。『風土記稿』百間村の項に「神明社 松永坊持」とあり、当社は往時、松永坊という黄檗宗の僧坊の管理するところであった。この坊も松永坊という名が示す通り、寛永年中(一六二四〜四四)に松永氏の墓守として建てたといわれるもので、松永坊と称するようになったのは元禄年中(一六八八〜一七〇四)のようである。明治初期には「松永庵」又は「寮」と呼ばれていたが、昭和四十年代初めに宿集会所として建て替えられた。この集会所の辺りは、今も「源太山」と呼ばれて、かつての源太左衛門の屋敷があったと伝えられている。なお、松永坊の本尊であった阿弥陀如来は、集会所になってからも一隅に安置されていたが、近年、青林寺に移された。
 昭和十五年には、皇紀二千六百年に際し、伊勢神宮参拝記念として参道の敷石が奉納された。また、同五十年には、木造の鳥居が老朽化したことから、コンクリート造りのものに再建され、併せて本殿の修理が行われ、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   境内の様子
 祭神は大日孁貴命である。古くから五穀豊穣・無病息災・商売繁盛の神として崇められている。氏子は、願いがかなうと、紅白の鈴縄に奉納者氏名を記して社頭の鈴に下げたり、お神酒を上げてその奉賽としているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「宮代町デジタル郷土資料」「埼玉の神社」
    「宮代紀行 山崎地区を行くHP」「境内案内板」等

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東粂原鷲宮神社


        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町東粂原367
            
・ご祭神 天穂日命 宇迦能御魂命
            
・社 格 旧久米原村鎮守 旧村社
            
・例祭等 元旦祭 例祭 716日に近い日曜日 秋例祭 109
 東粂原地域は、大宮台地の東縁部に位置し、概ね「東武動物公園」以北(中央部の「ふれあい動物の森」等の周辺部は同地域に属しているが)から北西方向に伸びる細長い地域である。
 途中までの経路は、瓜田ヶ谷愛宕神社を参照。社の西側で、南北に通じる道路を600m程北上した先にある十字路を右折し暫く進むと、進行方向左手に東粂原鷲宮神社の朱の鳥居が見えてくる。
        
                東粂原鷲宮神社参道入口
『日本歴史地名大系』 「久米原村」の解説
 須賀(すか)村の西に位置し、日光御成道が西部を通過する。大宮台地の東縁に位置し、台地と低地が入組み複雑である。比高は一―三メートル。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられ、戦国時代頃の成立と推定される市場之祭文写(武州文書)に「武蔵州太田庄久米原市」がみえる。天正一八年(一五九〇)六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)に岩付領「久目原之内」とみえ、三貫文が鷲宮神社(現鷲宮町)の社領で、北条氏から鷲宮甲斐守・同満寿に安堵されている。田園簿によると田高二九〇石余・畑高三七〇石余、うち岩槻藩領三一一石余・旗本水野領三五〇石。同藩領分は城付地で、高岩筋に属し、延宝八年(一六八〇)の家数四五(うち本百姓二〇)・人数二七八(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。
        
 鎮座地の東粂原地域は、昔は隣接する西粂原地域と一村で、「久米原村」と称していた。それが、江戸時代の化政期(180430)頃、村内のうち、一橋家領分を西粂原、下総佐倉藩領及び旗本渥美・細井相給分を東粂原と私称するようになり、幕末に至って分村したという
『新編武蔵風土記稿 久米原村』
 久米原村は日光御成道の係れる地なり、江戸よりの里數庄名用水等前村に同じ、今村内を私に二分して、一橋殿領知の方を西久米原村と唱へ、私領の方を東久米原とも呼べり、(中略)今は一橋殿の領知と堀田相模守・渥美九郎兵衛・細井金之丞の知る所なり、 
        
 社殿に通じる参道左側の一区画には、多くの庚申塔や灯籠・石祠等が固まって祀られている。
 
    並んで祀られている庚申塔五基        明治八年(1875)造立の常夜灯二基と
                        その隣にある天明(1783)造立の手洗石
 庚申塔五基は左三基の青面金剛には案内板によれば、左から元禄9年(1696)・貞享3年(1686)・寛永5年(1628)と造立年代が記載されている。因みに残りの二つの庚申塔は、左から天保10年(1839)・文化8年(1811)に造立。

 清瀧不動尊と階段上に祀られている天地開闢       紙垂が巻かれている石碑は川大神
 天地開闢は国狭槌尊・国常立尊・豊斟渟尊       右側にあるのは伊勢参宮記念碑
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 久米原村』
 鷲明神社 二宇 是も一は明智寺持、一は大聖院持、末社 稻荷 諏訪
 明智寺 新義眞言宗、東村西光院末、久内山平等院と號す、開山祐源寂年を知らず、本尊藥師を安ず、
 大聖院 同末なり、明王山と號す、本尊不動を安ず、
       
      社殿の左側に祀られている雷電宮 雷電宮の隣に祀られている神明宮
        
                  神明宮の右側に設置されている案内板と獅子蔵
 まちしるべ23
 東粂原鷲宮神社  所在地  宮代町大字東粂原字宿屋敷
 東粂原鷲宮神社は、かつて東粂原村の村社で、祭神は天穂日命・宇迦能御魂命の二柱を祀る。
 当社には、延享二年(一七四五)頃より始まったと伝えられる、町の無形民俗文化財に指定されている獅子舞が、毎年七月十六日(現在はその日に近い日曜日)に行われている。 三頭の獅子を中心に、 梵天を始めとし八通りからなる優雅な舞が社前にて奉納される。かつては、村内にあった雷電社や稲荷社の祭礼にも奉納されていたという。
 鷲宮神社のある東粂原地区には、中世(鎌倉時代・室町時代)奥州への本道である鎌倉街道(中道)が通っており、延文六年(一三六一)の「市場之祭文」には、久米原に市が立ったことが記されている。
 また、付近にある大聖院は、明治初頭に廃寺となったが、 その後、 須賀小学校の前身である西條学校(久米原学校)の校舎として利用された。
                                       案内板より引用

        
                                    本 殿
 東粂原地域は、中世には鎌倉街道の宿場として栄えていたといわれ、当社の境内がある字を「宿屋敷」というのもその名残りであるという。戦国時代ごろに成立したと推定される「市場之祭文写(武州文書)」にも、「武蔵州太田庄久米原市」と記されていることから、当時既に村として開けていたことがうかがえる。東粂原の地内は、大きくは「前組」と「後組」の二つに分けられ、前組は入ノ前耕地・前川耕地・渋谷耕地、後組は寺前大崎耕地・大崎団地・宿屋敷耕地・堀口耕地と、更に細分されている。
 
氏子の間では「わしっさま」の通称で親しまれている当社は、天穂日命を祭神とし、現在では、神仏習合の名残はあまりないが、昭和48年に焼失した社殿には卍の紋が刻まれており、別当であった大聖院との関わりを伺わせるものであったようだ。
      
      本殿左側奥に鎮座する御手洗神社   
本殿右側奥に鎮座する稲荷神社

 当社の例祭には、氏子自慢の獅子舞の奉納がある。この獅子舞は、江戸時代の延享2年(1745)頃、古利根川が氾濫し、作物はとれず疫病も流行する状況に至った時、当地の氏子らが、神々の怒りを招いたためと考え、その怒りを鎮めるために獅子舞を習いうけ、奉納したことに始まるといわれている。以後山王様・雷電社・鷲宮の三社に獅子舞を奉納。明治以降、三社は鷲宮神社に合祀され、716日を祝日と定めて奉納し、現在に至っている。
 これに対して、秋例祭は通称「甘酒祭り」といい、当番が甘酒を作って参詣者に振る舞う。甘酒は宿の家で前日の8日に「ハンギリ」という直径1m、深さ50㎝程の桶に米と麹を入れて作ったが、昭和48年の火災によって「ハンギリ」も消失してしまったという。
       
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「
宮代町HP」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等
   

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小久喜久伊豆神社

 嘗て白岡市を取り巻く地域は「鬼窪郷」と云い、実ヶ谷・新宿・小久喜・白岡・黒浜・江ヶ崎等がこの地域内にあたる。その由来として、平安後期から鎌倉期に活躍した武蔵七党の野与党(のいよとう=のよとう)系の一族である野興四郎胤宗が、篠津村(現在の白岡市篠津)に居住した後に分派して名乗った「鬼窪」氏の在地名から来ているという。
 この鬼窪氏には南鬼窪氏と北鬼窪氏と二つの流れがある。 北鬼窪氏の祖は、野与六郎基永の系譜をひき、野与小六郎行基の嫡男である鬼窪六郎定綱で、南鬼窪氏の祖は北鬼窪氏の野与小六郎行基の弟九郎大夫経長の孫にあたる鬼窪四郎行親であり、南鬼窪氏の拠点は小久喜久伊豆神社周辺といわれている。
『新編武蔵風土記稿 小久喜村』には、「旧家者文平、氏を鬼窪と称す、先祖を鬼窪尾張守と呼び、天正十九年正月八日歿し、寿光院秋月斉孤居士と号す、今の文平迄十代当村に住し、名主役を奉り、彼が家より別れし家五軒在りと云、家系を伝へざれば其の家の事実、詳ならず」と記されていて、『風土記稿』の編集された時期に、既に五軒の分家があったと記載されていて、現在でも「鬼久保」を称する旧家が存在するという。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市小久喜2
             
・ご祭神 大己貴命 豊宇気姫命 南方刀美神
             
・社 格 旧小久喜村鎮守 旧村社
             
・例祭等 臨時大祭 4月第2日曜日(小久喜ささら獅子舞)
 小久喜(こぐき)地域は、白岡市中部に位置する概ね「C」の字の形をした地域で、南部など一部は大宮台地上(白岡支台)に位置する。地域内の南部から北部にかけてJR東日本東北本線(宇都宮線)が通り、白岡駅が置かれている。東で岡泉・千駄野に、南で実ケ谷・蓮田市黒浜に、西で白岡・蓮田市南新宿に、北で白岡・寺塚に接する(大字界が錯綜しているため、飛地との隣接は省略)。東部の低地周辺などの一部を除き住宅地となっている。
 因みに、
「小久喜」の地名の由来としては、「クキ」は小高い場所を指し、小高い地で薪などの燃料がとれたことからという。
 JR白岡駅西口の埼玉県道145号白岡停車場南新宿線を南西方向に進み、「ファッションセンターしまむら 白岡店」を通り越した先の十字路を左折すると、すぐ右手方向に小久喜久伊豆神社は見えてくる。
        
          白岡駅西口から直線距離にして500m程しか離れておらず、
          周囲を住宅街・商業施設等に囲まれた中に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「小久喜村」の解説
 千駄野村の西に位置し、西は新宿村(現蓮田市)。大宮台地白岡支台に位置し、地内の西山が標高一七メートルと現町内で最も高く、北東部に向けてゆるやかに傾斜している。東側は旧日(につ)川流路跡の低地であり、台地と低地との区分は一〇メートルの等高線とほぼ一致する。隼人堀川が北境の寺塚(てらつか)村からくる庄兵衛(しようべえ)堀川と篠津村境からの栢間堀を合流し、下野田村に流下する。黒沼用水は北西の白岡村から北東に流れて屈曲し、少し南に流れて岡泉村に流れる。西から北東に向かって幸手道が通る。
       
            鳥居の両脇に守り神のように設置されている石碑 
          左側には庚申塔(写真左)、右側には青面金剛(同右)
        
    かつて白岡駅の駅舎が西口のみだったことから商業施設は駅西側に集中している
     地域内にあって、鬱蒼とした社叢林に囲まれた中に社は静かに鎮座している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 小久喜村』
 箕輪郷私市庄と唱ふ、當村元は古久鬼と記せしが一旦荒廢し、寛永年中再起して村落をなせし時、今の如く改しと云、
 久伊豆社 村の鎭守なり 〇諏訪社 〇稻荷社 以上の三社村持
 壽樂院 禪宗曹洞派、白岡村興善寺末、大高山と號す、本尊釋迦を安ず、

 久伊豆社  白岡町小久喜二(小久喜字西山)
 現在の白岡町に当たる地域は、中世に鬼窪郷と称し、鎌倉­―南北朝期にかけて活躍した野与党に属する鬼窪氏の本拠地であった。
 当社の氏子総代を務める鬼窪清家は、この鬼窪氏の末裔と伝え、『風土記稿』によれば、先祖の鬼窪尾張繁政が天正十九年(一五九一)に没したという。一説には、鬼窪家が屋敷を構える辺りは、鬼窪郷の南に住したとされる南鬼窪氏の居館跡とも伝えられている。
 当社は。鬼窪家の約二〇〇メートル南西に鎮座しており、古くから小久喜村の鎮守として祀られている。当社近くの曹洞宗寿楽院は、元亀二年(一五七一)に鬼窪尾張繁政によって開基されたと伝えられており、当社の創建も草分け名主である鬼窪家によって行われたことは想像に難くない。ちなみに、久伊豆という社名を『風土記稿』から拾うと、元荒川流域に南北六〇社が分布し、その範囲は武蔵七党の私市党・野与党の勢力範囲と一致し、久伊豆神社に私市・野与両党の武士団が関与していたことをうかがわせる。
『風土記稿』には小久喜村の神社について、「久伊豆社 村の鎮守なり、〇諏訪社〇稲荷社、以上の三社村持」と載せている。
 明治八年に村社となり、大正二年には字西山の稲荷社と諏訪社、字三谷の稲荷社の無格社三社を当社に合祀した。
 祭神は、大己貴命・豊宇気姫命・南方刀美神の三柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                     本 殿
          
                        社殿前に設置された社や当地獅子舞の案内板     
 小久喜地域には獅子舞が伝承されている。その起源は、大正十一年に鬼久保家が当社に奉納した「獅子連中例記」によれば、文政11年(1828)に、深作村(現さいたま市見沼区深作)から伝承されたものという。
 この獅子舞は別名「竜獅子」といい、この舞を奉納すれば雨が降ると伝えられ、日照りの続いたときは、付近の沼で雨乞いの獅子舞を奉納したことも度々あったという。
 
元々は大正期に合祀された諏訪社に伝わっていたもので、合祀後当社で行われるようになった。従って、かつては諏訪社の祭日であった7月27日に行われていたが、合祀により当社の9月27日の例祭に変更となり、更にこの日が台風の襲来に当たることが多かったので、昭和56年から花見の時期を選んで4月第2日曜日を臨時大祭と称して行われるようになったという経緯がある。
 獅子舞当日、大獅子・中獅子・女獅子の3頭の獅子と笛吹き、ささら摺(ず)り、天狗、歌方などで構成される。獅子舞の奉納は隔年の4月上旬に「ささら獅子舞保存会」によって行われる。舞の種類は「初手庭(しょてにわ)」「中庭」「幣掛(へいががか)り・鶴の巣籠(すごも)りの舞(女獅子隠{めじしかく}し)」「注連古喜(しめこぎ)・鶴の巣籠りの舞」などがある。
 午前中には社殿前で宮参りが行われ、午後からシバと呼ばれる土俵の上で獅子舞が奉納される。舞の間には地元の南小学校郷土研究部の子ども達による舞も披露される。最後に神社拝殿前で祈祷(きとう)獅子が奉納される。
 種   別 市指定無形民俗文化財
 指定年月日 昭和50111
        
                
社殿の左側に設置されている獅子舞等の文化財指定の標柱
  標柱の奥に見える公園らしき場所には、小久喜区民会館と共に獅子舞奉納時の舞庭がある。       
 
   社殿左側に祀られている石祠二基        本殿奥に祀られている愛宕大権現の石祠
    左から三峯大権現・天神宮
        
    社殿の右側には、元禄二年奉納の青面金剛・庚申塔・庚申塔が並び祀られている。
        
           境内にある神楽殿、左側奥に見えるのは祭具庫
        
                社殿から見た参道の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「白岡市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」

  

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