古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

冠稲荷神社 (2)


        
        
拝殿に向かう参道右手の小高い丘上に鎮座する摂社・聖天宮日高社
          御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・神倭磐余毘古神・大雷神・水分神 
 聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。県指定重要文化財指定
          因みに聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。
     
      
聖天宮は比較的小規模な建物であるのだが、本建物の彫刻や装飾は
    内部天井の龍を始めとして大変質の高いもので見ごたえある。(写真左・右)

 聖天宮は正面(2.89m)、側面(3.88m)と比較的小規模な建物でありながら屋根が複雑で、四方入母屋造正面唐破風付という特徴的な造をしている。当初から日本瓦で葺かれており、棟札によると安政4年(185710月上棟で大工棟梁として「弥勒寺河内 守藤原照房」となっている。これは境下渕名の弥勒寺音次郎の事で、大工でありながら彫工としても名 を馳せている。本建物の彫刻は内部天井の龍を始めとして大変質の高いものである。
 また彫工は音次郎の息子「弥勒寺音八とその弟子の諸貫万五郎」である。弥勒寺音八は一時期飯田仙之助の養子弟子となった岸亦八の弟子となり、常陸の天引観音や笠間稲荷を手掛けるようになる。音八の名声は広く響き、明治に移るころ音八は宮中に召し抱えられ賢所の玄関正面の菊の紋を彫刻した人物である。

 参道右側には実咲稲荷社や聖天宮が鎮座しているのに対して、左側には七福神殿・諏訪社と八坂社(神楽殿兼ねる)・厳島社・菅原社・いなり白狐社・琴平社と、並列するように祀られていて、どの社も絢爛豪華である。
        
         人形代社の並びに祀られている七福神殿 御祭神は七福神
『七福神殿』に祀られている七福神彫刻は、名工・新井清尚、明和2年(1765)の作。一幅の絵馬に収められている極彩色の七福神絵馬で、海辺の雄大な松のもとに福々しい神々が集い喜遊するという珍しい構図との事だ。
       
          七福神殿の右並びには神楽殿も兼ねた諏訪社と八坂社
         諏訪社のご祭神は建御名方神で、八坂社のご祭神は素盞嗚神と奇稲田比賣神 
       
                   摂社 厳島社
        厳島社のご祭神である宇賀弁才天は、宇賀神と市杵島毘賣神が融合した女神で、
     左右に毘沙門天と大黒天を配し、さらに十六童子を従えた、大変珍しい神坐像である。
          厳島社の前にはご神木が聳え立っている(写真左・右)      
       
               菅原社 ご祭神は菅原道真公
       
              いなり白狐社 ご祭神は命婦専女神
   横に伸びた社殿には小さなお狐様がこれでもかと並んでいて、ある種異様な眺めだ。 
 いなり白狐社
 御祭神 命婦専女神
 氏神からの返戻白狐を祀る。
 我が国の神社では、伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩のように、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれている。しかし、お稲荷さんの狐は単なる神使ではなく、眷属そして神様の一部のような資格を与えられている為、狐こそが稲荷神という考えを持つ人々も多いようである。
 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係を持つに至った由来としては、諸説があるが、稲荷の神が「食物の神」つまり「みけつかみ」であり、御狐(おけつね)三狐(みけつね)に転じたという説、あるいは稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説がある。
                                    境内案内板より引用

 古くから狐は霊的動物として「稲荷(いなり)神の使いないしは稲荷神そのもの」と信仰されるなど深く広い各種の信仰があり、狐憑きは「御先稲荷」(オサキドウカ)や「オサキ」という名前で、関東から東北にかけて伝承されている。実際、日本全国に存在する三万社以上の稲荷社が狐像を備えており、「狐」自体を「稲荷神」として信仰する場所も少なくない。しかし、総本社である伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのものではないと述べており、また岡山市北区にある日蓮宗の寺院である最上稲荷山妙教寺は白狐を稲荷神(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べている。
 日本では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、伏見稲荷大社が鎮座している神体山である「稲荷山」は古くは蛇神信仰の中心地であったようだが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まったという。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)あるいは白狐神と呼ばれて祀られるようにもなったという経緯もある。

 因みに境内の「白狐社」では白狐霊である「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」をお祀りしてある、ということである。この命婦神は、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号である。
        
                琴平社 ご祭神は大物主神
        
         境内北西部にも参道があり、その先には戌亥鳥居が建つ。
 
  戌亥鳥居への参道の両側には数多くの石祠が並んで祀られている。(写真左・右)

 当神社は創建も古く、新田源氏の守り神として厚く信仰されてきたことから、建物のみならずその他の文化財も多く残されてきた。そればかりでなく地域とのつながりも古くからあり、聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。建物には棟札も残されていて建造年代もはっきり分かり、携わった大工もはっきりしている。大工の多くは地元大工が多いが 妻沼聖天堂を手掛けた林兵庫正清の影響も強く、利根川を挟んでの交流が深かったことも理解できる。本殿の胴羽目の彫刻の裏から飯田仙之助の墨書が発見され、それには石原吟八郎の初代と二代目の名が記されていたことから、18世紀から19世紀の花輪彫刻師の流れを知る上での手掛りとなった。さらに聖天宮の弥勒寺音八につながる彫刻師の流れが分かる様な神社であるという。 
       
 


参考資料群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    ウィキペディア(Wikipedia「境内案内板」等

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冠稲荷神社 (1)

 太田市細谷地域は、利根川中流左岸の洪積台地の宝泉(由良)台地の南端にあたり、東に蛇川が南流し、中央を聖川が貫流していて、地域西側は低地帯で水田が広がっている。「細谷」地名の由来としては、太田市から細谷までの地形が、川谷に沿って細長く伸びた地形であったところから細谷ともいわれている。
 この地域には、かつて鎌倉時代初期に上野国新田郡細谷村(太田市)を拠点とした河内源氏流新田氏一門である一族が居を構え、在地名「細谷氏」を名乗る。この一族は新田氏本宗家の5代当主新田政氏の庶長子の細谷国氏を祖とした。細谷村は新田荘由良郷の発展により派生し成立した村で、本宗系一族の細谷氏が由良郷内の一村を所領としていたのも自然な流れともいえる。
『新田族譜』(埼玉苗字辞典より)
「〇新田又太郎政氏―細谷弥太郎国氏―又二郎秀氏―右馬助秀国(義貞に従ひ、後に脇屋義助に属して、暦応二年九月越前府城にて打死)―房清(義興自殺の後、出家法名念道)―兵庫助清房―又四郎保房―刑部丞為房―刑部丞資房(北条氏康家臣)―三河守資遠(武州湯島庄三河島十七貫五百文を領し、併せて五十七貫文の地を領す。大永元年正月二十四日、足立郡木崎村に等覚寺を建立)―三河守資実(太田十郎氏房に属し、武州岩槻城にて、春日左衛門尉・河合出羽守と共に三家老と称す。天正十八年小田原没落後、氏房の墓前にて自害)―源左衛門資光(秀忠に召され、大阪町与力)―善兵衛資勝―善之助資信(子孫本多中務大輔家臣)、弟郷右衛門資永(火消役与力)―郷大夫資政―平次兵衛資陳。○為房の弟兵庫助邦房―兵庫邦氏―五郎兵衛邦通―丹丁広通(大道寺駿河守に仕へ、松枝打死)」

        
            
・所在地 群馬県太田市細谷町1
            
・ご祭神 宇迦御魂神 大穴牟遅神 太田神 大宮能売神 他十三柱
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 初午大祭(3月下旬の日曜日) 他
 国道407号線を熊谷から太田市方面に北上し、西矢島地域で国道354号線の東毛広域幹線道路と交わる「西矢島町南」交差点を左折し伊勢崎方面に西行する。その後蛇川を渡り、細谷地域に入ると冠稲荷神社の立看板が見えてくる。境内は南北に長く大変広大で四周を道路が囲んでいる。
 広大な専用駐車場が社の東側にあるので、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
              国道354線沿いに見える社の立看板
『日本歴史地名大系』「細谷村」の解説
 蛇(へび)川の右岸に位置し、地勢は平坦で、対岸東は岩瀬川村、北は由良村、西は西野谷村・上田島村。応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)に「細谷村由良郷内」とあり、一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「細谷郷」とある。年未詳三月一〇日了泉書状(同文書)で、了泉は祖母より譲られた地として「細谷村」の領有を岩松能登守に主張している。寛文二年(一六六二)の知行割帳(金谷文書)では「世田郡新田庄細谷村」とあり、高一千五六七石余で田方七〇町六反余・畑方六三町余(うち萩畑三町余・屋敷四町余)で、大坂定番の安部信盛領・旗本筒井領などの六給。

        
                 東側に建つ甲大鳥居
 甲大鳥居  稲荷鳥居
 昭和六十三年(一九八八)建之
 高さ 十二・五米 幅 十八米
 規模、量感ともに県下有数である。
 様式は稲荷鳥居といい、明神鳥居の発達したもの。明神鳥居とは、特に霊験著しく、由緒正しいとの意である。鳥居は華表といい神の斎(居付き)給う清浄な神域の結界(境)を示す第一の標である。
 甲とは、東の僅か北寄りを示し、また「最初のもの」の意でもあり、日の昇る東の神の座への門である。円塗りの朱は神明の徳を表わし、魔除けのの効験を顕す。鳥居の空高く聳えるは、神霊の天降りを請い祀るものであり、ときに緑に映え、ときに夕景に浮び上がるさまは、神々しくもまた幻想的である。
 当神社の鳥居は境内の四方位に在り、これを四方鳥居という。それぞれを潜ると、魔除の効験一層あらたかなりという。                         境内案内板より引用
        
     実際には東側駐車場からは甲大鳥居(写真奥)と東鳥居(同手前)が見える。
          二基の鳥居の間には案内板が3枚展示されている。
        
         「最上流算額文化十一年銘附関流算額文化九年銘」案内板
        
        「冠稲荷神社本殿並びに聖天宮」・「冠稲荷神社拝殿」案内板
『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「冠稲荷神社の本殿並びに聖天宮(昭和47926日指定)。本殿は三間社流造、千鳥破風向拝唐破風付、享保7年(1767年)の建築。聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申」「冠稲荷神社の拝殿(平成2326日指定)。寛政11年(1799年)の建築[3]2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申。最上流算額文化11年銘 附関流算額文化9年銘(昭和5157日指定)- 冠稲荷神社には3面の算額が奉納されており、文化9年(1812年)3月に関流の金井良之が奉納したものと、文化11年(1814年)に最上流の大川栄信門人の大川直信ら3名が奉納したものが文化財指定を受けている」との説明だある。
       
               「細谷冠稲荷獅子舞」案内板
 こちらも『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「細谷冠稲荷の獅子舞(太田市指定重要無形民俗文化財 平成6325日指定)。新田義貞が重箱獅子を奉納したことに由来するとされ、初午大祭で奉納される。一時中断したが再興された。系統は箱田流とされ、一人立ち3頭獅子で雄獅子、雌獅子、法眼から成る」と載せている。
        
            甲大鳥居の左側に祀られている猿田毘古社
                左側に見えるのはペット社殿
 
 甲大鳥居から通称「甲(きのえ)参道」を通る途中にも社の御由緒(写真左)や年間行事等を記した案内板(同右)案内板が多数展示されている。
        
                  甲大鳥居の案内板
        
             改めて南側の正面鳥居から南参道を進む
 冠稲荷神社は、群馬県太田市細谷町にある神社であり、日本七社(日本七稲荷)の一つを称している。
 1125年(天治2年)、新田義重の父である源義国によって創建されたと伝えられる古社。承安4年(1174)源義経は奥州下向の途中、冠の中に奉持してきた伏見稲荷大明神等の御分霊・神札を社に収めた故事により、冠稲荷大明神と呼ばれる様になったとされている。
 また、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉へ軍を進める途中に戦勝祈願をしたところ偉功を上げることが出来たので重箱獅子を奉納すると共に金木犀一株を植えて記念とし、神領も寄進したと伝わる。
 降って江戸時代には、細谷に知行地を持つ大久保・赤井氏の旗本を始め、武州岡部藩主阿部摂津守らが当神社を厚く信仰し、御供米の寄進や社殿の改築、修理に奉仕したという。
        
              
南参道を進むと見えてくる二の鳥居
        
                二の鳥居の先にある手水舎
        
           手水舎の先の祀られている
摂社・実咲稲荷神社
 鳥居の右側にある立看板によると、こちらの御祭神は宇迦之御魂大神と塞神(久那戸大神・八衢彦命・八衢姫命)、大宮能賣神で、永禄年間(15581570)鎮座であるという。
        
                
人形代社(ひとかたしろしゃ)
 祓戸四柱大神を祀る。「人形代(ひとかたしろ)」とは、飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し、現代にまで受け継がれてきた災いを祓い福を求める祓い祈祷であるという。
       
                    拝 殿
        
                     色鮮やかで精巧な彫刻が施されている拝殿向拝部
 拝殿は正面(10.18m)、側面(7.64m)入母屋造 の平入で正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風としている。背面には正面(4.54m)、側面(5.70m)の切妻の幣殿を設け、本殿とは接続はしていないが、社殿として権現造に準ずる形態を示している。
 向拝の柱は几帳面・地 紋彫りとし、中備や兎毛通の龍の彫物を施し、木鼻 は獅子である。向拝を始めとして拝殿の彫刻は18世紀末から19世紀初期以降の物と思われ棟札の年代と 一致する。大工は上州山田郡沖之郷村の中村兵部と武州幡羅郡小暮村の田中治助とあり、鯖尻の刎ね上げが見られるところから林兵庫の系統と思われる。棟札に彫工の名はないが、妻沼の聖天堂の影響を受けた「唐子遊び」が欄間彫刻に残されていることから花輪系の彫工である可能性が高く、場所、経歴からも飯田仙之助が拝殿も手掛けた可能性が高いと推定される。
        
                    本 殿
               
                 本殿 西側からの眺め
 本殿は正面3間(2.74m)、側面2間(1.70m)、 向拝1間(2.74m)、三間社流造といわれ正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風の造りになっている。向拝柱は几帳面取の角柱で水引虹梁、海老虹梁、中備は蟇股、手挟は牡丹の籠彫でそれほど大きくはない。木鼻は正面が獅子で横が獏であるが獅子は後補の物である。前方に浜縁・浜床を設け、身舎の四方の大床跳高欄、正面の階の両側には擬宝珠付きとしている。胴羽目には中国故事を高肉透彫、脇障子は昇降の龍としてある。妻飾は二重虹梁大瓶束の笈方を始めとして全体に彫刻を施し、彫刻には極彩色で彩られ、大変見事な造りであるという。
 本殿には建造年の他、複数の棟札が保管されていて、背面の彫刻板の裏には明和4年(1767)前原藤次良他3名の名が記されていた他、向かって右側の2枚からは文化12年(1815)石原吟八藤原義武、同吟八藤原明義、門人飯田仙之助藤原義棟と書かれた墨書が発見された。建造年は水引虹梁の唐草絵様や蟇股の彫刻からも棟札通り享保7年(1767)と推定できる。建造年の享保7年は関東の彫刻の祖といわれる高松又八が亡くなっていることや大工との関係から初代の石原吟八郎の作品であると推定できる。当初年には胴羽目に彫刻がなく、46年後に吟八郎の弟子の前原藤次郎が手掛け、さらにその50年後に飯田仙之助が手掛けたのではないかと考えられる。作品を見ると、両脇の4枚と後ろの3枚は明らかに時代が違うことが分かる。また、蟇股は当初のものである可能性が高いが、向拝の獅子頭等は明らかに後補の作であるという。したがって本建物は、18世紀前半から中半さらに19世紀の彫刻の流れが分かる複合的な遺構で他に類を見ない貴重なものであるという。
        
           本殿奥にある小高い塚上に祀られている石祠四基
       境内には古墳が数基あるというので、これも古墳の可能性は高い。 




参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia
    「境内案内板」等

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瓜田ヶ谷稲荷神社・愛宕神社

瓜田ヶ谷稲荷神社】
        
             ・所在地 埼玉県白岡市瓜田ヶ谷214
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 旧瓜田ヶ谷中通組鎮守・旧無格社
             ・例祭等 初午 2月 十日祭り 310
 瓜田ヶ谷諏訪神社から一旦姫宮落川方向に南下し、すぐ先の路地を右折、長閑な農道を300m程進んだ先にある十字路を右折すると、すぐ右側にこぢんまりとした稲荷神社が見えてくる。
       
                 瓜田ヶ谷稲荷神社正面 
       
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 瓜田ヶ谷村』
 諏訪社 村の鎭守、觀音寺の持、下同じ、〇愛宕社 〇稻荷社
 觀音堂 新義眞言宗、新井村安樂寺末、慈眼山と號す、開山宥範寶永六年五月二十八日寂す、本尊十一面観音を安置せり、寮 不動を安ず


 稲荷神社  白岡町瓜田ヶ谷二一四(瓜田ヶ谷字中通)
 瓜田ヶ谷はかつて埼玉郡百間領に属し、瓜田ヶ谷の「爪」は百間領の隅に位置していたことを意味する「ツマ」が転訛したものとされている。
 村の開発年代は明らかではないが、賀島・八木橋・富沢・板垣・斎藤の五軒が草分けであると伝えられる。『風土記稿』によると、寛永五年(一六二八)に当地の検地が行われた。また、延宝八年(一六八〇)の「岩付領内村名石高家数人数寄帳」(吉田家文書)には、家数三二戸と載る。
 当地には、中通・新田・上組・原組・下組の五つの村組があり、このうち中通の鎮守として祀られているのが当社である。拝殿の正面には「正一位稲荷大明神」の社号額が掛かり、本殿には金幣を筥に納めて奉安する。その創建については明らかではないが、『風土記稿』によれば、別当であった真言宗慈眼山観音寺は、開山の宥範が宝永六年(一七〇九)に寂している。
神仏分離により別当観音寺から離れた当社は、社格制度に際し無格社とされた。

 祭神は倉稲魂命である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿に掲げてある「正一位稲荷大明神」の扁額
 氏子は瓜田ヶ谷の村組の一つである中通りで、『明細帳』では「崇敬者五拾二人内戸主九人」と載っており、現在の戸数は15戸程。3月の「十日祭り」は中通組の重要な祭りで、氏子全員が神前にそろい参拝する。その後、氏子の一軒を宿にして集まり、祝宴をお紺った後にその年の組長や班長の役員選出を行うという。因みに、「十日祭り」で宿を決める際には、東から順次西へ家並み順となっているようだ。
 瓜田ヶ谷の鎮守は諏訪神社であることから、中通組の人々は元旦にはまず諏訪神社に詣で、次に当社に参詣するのが通例であるという。


【瓜田ヶ谷愛宕神社】         
        
             
・所在地 埼玉県白岡市瓜田ヶ谷401
             
・ご祭神 火之迦具土神(推定)
             
・社 格 旧瓜田ヶ谷新田組鎮守・旧無格社
             
・例祭等 祭礼 415
 瓜田ヶ谷稲荷神社から直線距離にして400m程北西側に鎮座している愛宕神社。瓜田ヶ谷「新田」で組の鎮守として祀られてきた社である。
        
                 
瓜田ヶ谷愛宕神社正面
 社殿は、高さ2m程の盛り土の上に建立されており、その周囲は現在杉を含めた雑木林となっている。そのため、当社の境内は子供たちの格好の遊び場であり、氏子の間では「神様は子供がよくなじむ」とか「愛宕様で遊ぶと怪我をしない」といわれてきたという
        
                    拝 殿
 愛宕神社  白岡町瓜田ヶ谷四〇一(瓜田ヶ谷字荻原)
 当社がこの地に勧請された時期は定かでないが、当地の草分けの一人で永代総代を務める家は、「お友様」と呼ばれ、武士であった先祖が当地で帰農したとの伝えがあり、当主で一六代目となることから、恐らくは近世の初期にこの地を開発するに当たって草分けたちが守護神として祀ったのが当社の創建であると思われる。江戸時代までは、観音寺という真言宗の寺院の持ちであったが、当社の境内の東隅にある薬師堂(通称は「寮」)にいた僧が祭祀にかかわっていた時期もあったらしく、堂のそばの共同墓地には元禄から享保(一六八八〜一七三六)にかけての僧の墓石数基が残っている。
 神仏分離によって当社は別当の観音寺から離れ、地域住民の手で管理されるようになった。社格は無格社であったが、住民の厚い信仰があったことから合祀の対象となることもなく、今日に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 当社は新田の組の鎮守であるが、新田の住民のみならず、他所からの参詣者も多い。とりわけ、古くから「お腹に御利益がある」といわれており、腹が痛む時には境内にある杉の皮をむしり取って患部に当てておくと治るといわれている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等


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瓜田ヶ谷諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県白岡市爪田ヶ谷585
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧爪田ヶ谷村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祭礼 727
 白岡市爪田ケ谷(つめたがや)地域は、市東部に位置し、大宮台地慈恩寺支台にあり、地域の中央を東西に姫宮落川が流れ西・南で上野田・下野田、北で南埼玉郡宮代町西粂原・東粂原、東で同町逆井に接している。爪田谷のツメはツマの転じたものと思われ、ツマは隅の意味。また当地の水田は田植えをしない直播を行う「摘田(つみた)」が行われたので、これがなまって「つめたがや」との説もある。爪田ケ谷の笠原田んぼにも 堀上げ田があった。現在、笠原田んぼ付近は東武動物公園となり、かつての面影は少なくなっているという。
 この
東武動物公園の西ゲート手前に瓜田ヶ谷諏訪神社は鎮座している。
        
                 
瓜田ヶ谷諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「爪田ヶ谷村」の解説
 姫宮堀川の流域に位置し、南は下野田村、西は同村と上野田村。「ツメ」は隅を意味し、「ツマ」の転訛したものとみられる(埼玉県地名誌)。大宮台地慈恩寺支台にあり、北・東は開析谷が深く潜入し、溺れ谷を形成している。笠原沼用水・爪田ヶ谷堀・野牛高岩落堀が流れる。百間領のうち(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)陸奥仙台伊達氏の鷹場に指定される(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。寛永五年(一六二八)岩槻藩阿部氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によれば田高一八石余・畑高四九石余、同藩領。
        
    参拝日は雲一つない冬空の快晴日、参道一帯日差しが眩しく明るい社という印象

 爪田ヶ谷諏訪神社の創建年代は不明であるが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、寛永5年(1628)に検地が実施されたから、その頃には既に存在していたものと推測される。当地の近くには笠原沼があり、その景観があたかも諏訪湖がある諏訪地方に似ていることから、諏訪大社より分霊を勧請して創建されたという。明治初年、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。
       
      参道右側に設置されている社の案内板と文化財の大杉を記している標柱
 諏訪神社
 南埼玉郡白岡町大字爪田ヶ谷
 諏訪神社は当地の鎮守として村民の崇敬を集めているが、その由緒は不詳である。祭神には建御名方命が祀られている。
 長野県の諏訪大社を総本社とする諏訪神社は、全国的に分布しており、爪田ヶ谷の諏訪神社もその分社として祀られたものと思われる。
 また、この神は古くは狩猟の神とされてきたが、次第に農耕の神、あるいは武神として崇拝されるようになった。
 社殿裏に鬱蒼と茂る杉の大樹は町随一で、町の天然記念物に指定されている。また、社殿をとり囲むナラやクヌギ、ソロなどの木々が暗い神社の杜をつくり、古社の風格を偲ばせている。
 昭和六十三年三月  白岡町教育委員会                    案内板より引用
        
           案内板等の並びに建つ伊勢参宮記念碑と手水舎
        
                    拝 殿
 諏訪神社  白岡町爪田ヶ谷五八五(爪田ヶ谷字諏訪)
 爪田ヶ谷の開発は明らかでないが、賀島・八木橋・富沢・板垣・斎藤の五軒が草分けであると伝えられる。『風土記稿』によると、寛永五年(一六二八)に当地の検地が行われた。また、延宝八年(一六八〇)の「岩付領村名石高家数人数寄帳」(吉田家文書)には、家数三二戸と載る。
 当社の鎮座地は、爪田ヶ谷の中でも高台に当たり、かつては南東に広がる沼(現在は埋め立てて東武動物公園になっている)を望める場所であった。口碑によると、この辺りの景観が信濃国の諏訪の地に似ていることから、沼を諏訪湖に見立て、その辺りの高台に諏訪大社の分霊を奉斎したことに始まるという。
『風土記稿』には「諏訪社 村の鎮守なり、観音寺の持」とある。これに見える観音寺は太田新井村の真言宗安楽寺の末寺で、開山の宥範が宝永六年(一七〇九)に寂している。本寺の安楽寺がある太田新井村には鎮守として村民持ちの「諏訪社」が見えることから、当社の勧請に安楽寺がかかわっていたことも考えられる。ちなみに、現在爪田ヶ谷の人々は安楽寺の檀家が多い。
 明治初年の神仏分離を経て、当社は村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用 
       
            本殿内に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
 爪田ヶ谷の諏訪神社の社殿を取り囲むようにスギの古木が並ぶが、ひときわ大きく社殿のすぐ脇にそびえ立つ1本が指定樹である。落雷や酸性雨の影響も心配されるが、社叢(しゃそう)全体としては、他の落葉広葉樹などと相まって比較的健全な状態を保っている。
・種   別 白岡市指定天然記念物
法   量 幹廻3.6m、樹高24.1m
指定年月日 昭和56111
        
                    本 殿
 建御名方命を祀る当社は「お諏訪様」の通称で呼ばれ、爪田ヶ谷の鎮守として崇められている。氏子区域は爪田ヶ谷一帯で、その中に、中通・新田・上組・原組・下組の五つの村組で構成されている。また、氏子の間では「お諏訪様は百姓の神様」といわれ、五穀豊穣のご神徳が語られている。それゆえに「商売は当地では成り立たない」ともいわれてきたという。
        
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
      

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下野田鷲宮神社


        
            
・所在地 埼玉県白岡市下野田943
            
・ご祭神 天穂日命(推定)
            
・社 格 旧下野田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 410日 夏祭り 728日 二百十日 91
                 
お日待 1019
 上野田鷲宮神社から東行し、姫宮落川右岸で埼玉県道65号さいたま幸手線に合流する丁字路を右折する。その後、久喜警察署・下野田駐在所が見える「下野田」交差点の先の押しボタン信号のある丁字路を右折、400m程進んだ先を右折すると下野田鷲宮神社が見えてくる。地図を確認すると、「白岡市立菁莪中学校」の道路を挟んだ北側に位置しているようだ。
 境内は広く、敷地内にある下野田集会所(社の社務所も兼任しているようだ)周辺に駐車してから参拝を開始した。
        
                 下野田鷲宮神社正面
 白岡市下野田(しものだ)地域は、隼人堀川と姫宮落川の間にあり、北は上野田地域と複雑に交錯している。地域内には黒沼用水・笠原沼用水が流れ、南北に日光御成道が走り、県指定文化財である一里塚がある。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられ、古くからあるこうした交通路に沿って村落が発達してきた地であった。日勝地区に属し、『白岡町史』によれば、下野田は上野田とともに「野田村」と呼ばれていた。昔は騎西領に属し、上、下に分村したのは享保年間と考えられる。野田の意味の詳細は不詳であるが、「高燥(こうそう)の原野(土地が高く、低温の地)」の意味と考えられる。
 明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となった。
      
             社の正面近くには、案内板が設置され(写真右)、その案内板の中に
                     「女孝心」の石塔(銅左)の話も載せている。
下野田鷲宮神社
 鷲宮神社は大字下野田字宿赤砂利に位置し、祭神は天穂日命を祀ります。また、明治一〇年の創建とされる稲荷神社(祭神は倉稲魂命)を境内社として祀っています。
 当社の由緒について詳細は不詳ですが、江時代に編さんされた 『新編武蔵国風土記稿』には、「鷲明神社大光院の持、下野田村の鎮守なり」と記されています。なお、大光院は、明治年間に廃寺になっています。
 鷲明神社とは鷲宮町鷲宮神社を分社したもので、町内には上野田、岡泉、寺塚地区でも祀られています。
 境内には多くの記念碑や石塔が奉納されています。なかでも鳥居の側に建立されている天保二年(一八三一)九月銘の不二道 (富士講)の人々によって奉納された「女孝心」の石塔は、当時の民間信仰を知るうえで貴重な資料です。
石塔の右側面には、
「あしき事見る事いらす
  聞事もいわぬこえか
   すくに孝心  三志」
 と記されています。
 なお、三志とは不二道(富士講)の創始者で現鳩ヶ谷市生まれの小谷三志のことです。
 平成十五年三月 白岡町教育委員会。                   境内案内板より引用
        
                  神明系の一の鳥居
        
下野田のほぼ中央にある鎮守で、祭神は天穂日命(あめほひのみこと)。
        
                                    二の鳥居
 当社の境内には、昭和42年に地元の公民館兼社務所として「日勝農民センター」が建設されているが、この「日勝」とは白岡市の前身となった村の一つであった日勝村の村名を採ったものである。日勝村は、明治28年に岡泉・実ヶ谷・千駄野・小久喜・上野田・下野田・爪田ヶ谷・太田新井・彦兵衛の九か村が合併して成立した村で、『日勝』という名は、日清戦争における日本軍の連勝を記念し、これを永遠に銘記しようとの主旨で付けたものであるという。
        
                    拝 殿
 鷲宮神社  白岡町下野田九四三((下野田字赤砂利)
 当社が鎮座する下野田は、元は隣接する上野田と共に一村であったが、江戸時代の初期から中期にかけて分村したものと思われる。地内には鎌倉街道中道が通り、また、戦国時代ごろに成立したと推定される「市場之祭文写」に「武蔵州太田庄野田市」とあることから、室町時代には既に村が相応の形を整えていたものと推測できる。
 上野田・下野田は各々で鷲宮神社を鎮守として祀ってきた。下野田の鎮守として祀られてきた社が当社であるが、『風土記稿』では、下野田村の項ではなく、上野田村の項に「鷲明神社 持前に同じ(注・大光院持ち)、下野田村の鎮守なり」と記載されている。このように、当社が上野田村の項に記されているのは、上野田と下野田ではその境界が複雑に交錯し、しばしば変更もあったためで、両村の境界付近に位置する当社の境内は、『風土記稿』が編集されたころは上野田の内に含まれていたものと思われる。なお、上野田の鷲宮神社は、古くは高祖明神社と称しており、『風土記稿』にも「高祖明神社」と記されている。
 当社の創建を伝える文書などはないが、口碑によれば、鷲宮町(現久喜市鷲宮)に鎮座し、かつての太田庄の総鎮守であった鷲宮神社の分霊を祀ったものであるという。明治六年二村社となり、以後、伊勢参宮や皇紀二六〇〇年などの機会に氏子が石造物を奉納し、境内の整備を進めてきた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 
   社殿の左側に祀られている境内社             社殿の右側手前には石碑二基あり
     稲荷神社・竈三柱大御神
 竈三柱大御神は、「かまど神」とも称し、竈・囲炉裏・台所などの火を使う場所に祀られる神である。火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。竈神、久那土神とも呼ばれることがある。
 日本の仏教における尊像・三宝荒神は、かまど神として祀られることで知られ、一方、神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もあるという。
        
                   境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「白岡市HP」
    ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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