古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西大輪神社(雷電社)

 鷲宮砂丘は新井砂丘・西大輪砂丘とも称され、内陸河畔砂丘・内陸砂丘・河畔砂丘と区分されることもある砂丘である。中川低地の河畔砂丘群の1つである。砂丘は古利根川(現:葛西用水路)の旧河道沿いに発達している。この砂丘は全体として北北西より南南東へと発達し、微高地は主に二条あり、1つは長さ約1000 m・幅約200 m・高さ約5 m、もう1つは長さ約700 m・幅約250 m・高さ約5 mのものとが所在している。これらはその形状と構成する物質から三ヶ月形の河畔砂丘とされている。これら二条の砂丘の他に、この西方にも小規模かつ未発達な三ヶ月形砂丘が確認されている。鷲宮砂丘の断面の勾配は風上側(北西側)は約30度、風下側(南東側)が50度〜60度となっているが、西方の未発達砂丘についてはこの特徴は確認されていない。鷲宮砂丘は中世の時期より形成期に入ったと推定されている。
 この砂丘上に西大輪神社(雷電神社)等は鎮座している。
 

        
             
・所在地 埼玉県久喜市西大輪243
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧西大輪村鎮守
             
・例祭等 獅子舞 7月25日(近日の日曜日) 神幸祭 1015
 西大輪稲倉魂神社から一旦東行し、埼玉県道3号さいたま栗橋線に合流後右折、400m程北上した先の路地を左折すると、なだらかな斜面の砂丘上に西大輪神社(雷電社)は鎮座している。
        
                西大輪神社(雷電社)正面
『日本歴史地名大系』 「西大輪村」の解説
 鷲ノ宮村の南東、久本寺(くほんじ)村の東方にある。天文二三年(一五五四)一二月二四日の足利梅千代王丸印判状(野田文書)に「大輪」とみえ、古河公方義氏が重臣の野田左衛門大夫に御料所とされる当地を宛行っている。もと東大輪と併せ大輪と称していたことが知られるが、その西端は利根川の旧流路筋で、古くから奥州道の渡場で霞ヶ関という関所が設けられていた。対岸が鷲ノ宮であるため鷲ノ宮関所とも称された(「萱氏系図」鷲宮神社文書)。田園簿に村名がみえ、田高四五二石余・畑高四六七石余で、幕府領。
        
                   境内の様子    
   境内は明るく、手入れも行き届いていて、快晴の天候の中気持ちよく参拝ができた。
       
             境内の設置されている「西大輪神社由来記」 
西大輪神社由来記
当社 寛永十八年大輪村 東西に分村の後 西大輪村鎮守鷲大明神御仮屋として建立すと伝う 嘉永二年御仮屋再建棟札に元禄六年頃建立とあり 例祭として東より御神霊お迎えし 村内安全 子孫繁栄を祈念し 旧暦九月十四日より十九日ににわたり氏子当番にて執り行う
明治八年からは御神輿造営し行い三百六十有余年にわたり引き継がれ氏子の拠所となれり
時代の変遷に伴い次第に御祭礼の簡素化やむなく 平成に入り継続し難きに至る 一方 御神霊勧請の声高まり 平成十七年三浦宮司指導のもと西大輪三区役員氏子崇敬者等四十有余名によりなる西大輪神社氏子役員会を結成し推進す 西大輪神社増改築 御神輿修繕神社飛び地境地へ交換等なす
平成十九年十月二十八日大輪神社より御神霊を勧請 粛々と分祀し遷座祭齋行す 氏子永年の悲願果せり
ここに勇壮華麗なる西大輪獅子舞を奉納し御祝儀とす(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
           
西大輪神社由来記に並列されて設置されている
      「
中川低地の河畔砂丘群  西大輪砂丘」と「西大輪の獅子舞」の案内板
 埼玉県指定天然記念物  中川低地の河畔砂丘群  西大輪砂丘
 指定年月日  平成二十八年三月十五日
 所在地 久喜市西大輪
 西大輪砂丘は、榛名山や浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が、寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘である。平安時代から室町時代にかけて形成されたと考えられており、羽生市から越谷市にかけての中川低地に点々と分布する内陸性の河畔砂丘群は、全国的にみても珍しい。
 西大輪砂丘は、利根川の旧河道東側に分布する四列からなる大規模な砂丘列であり、東側の二列の規模が特に大きい。東から順に、長さ千六百メートル・幅百五十メートル、長さ九百八十メートル・幅二百メートルの大きさを誇る。
 指定地は標高約十四メートルに位置する西大輪神社・雷電社の境内であり、西大輪砂丘中で最も保存状態の良い場所の一つである。周辺の低地部との高低 差は約六メートルあり、砂丘の高まりや砂の堆積状況を明確に観察することができる。
 平成二十九年三月二十二日  久喜市教育委員会  
埼玉県教育委員会

 久喜市指定無形民俗文化財 西大輪の獅子舞
 指定年月日 昭和五十二年七月十八日
 所在地   久喜市西大輪
 西大輪の獅子舞は約三百年前から伝わるとされ、七月二十四日には村内の神社や村の境などで、七月二十五日には民家の庭で舞われていた。
 現在では、七月二十五日に近い日曜日に、五穀豊穣・病魔退散・悪病除けを祈念して村回りを行いながら、村の辻々を清め、 西大輪神社・雷電社・胡禄社・金毘羅社・天神社・稲荷社など で舞っている。
 獅子は、大獅子・中獅子・女獅子からなる一人立ち三匹獅子であり、笛方・おか獅子・万灯持ちの諸役がある。
 曲目は、門掛り・すりこみ・もんぜん・花・弓・橋掛り・女獅子隠しとよばれるものなどがあり、躍動感のある勇壮な舞である。
 地元では獅子舞のことを、竹で作った簓という楽器の名にちなみ、「ささら」と呼んでいる。
 平成二十九年三月二十二日 久喜市教育委員会
                                                                    案内板より引用
 この300年の歴史ある旧鷲明神社の獅子舞は、今でも氏子の間に伝えられており、毎年725日(現在ではそれに近い日曜日)に、西大輪地域の三耕地(原・下出・河原)の有志の手により行われている。町指定無形文化財となっているこの獅子舞の詳しい由来はわからないが、五穀豊穣・病魔退散・悪病除け等のために行われるものといわれ、雨が降っても中止したことがないとの事だ。
        
                 西大輪神社 お仮屋
            このお仮屋の中に神興が納められている。
        
                    雷電社
 雷電社(西大輪神社)  鷲宮町西大輪二四三(西大輪字原)
 当社の境内には、社殿が二つある。一つは、別雷命を祀る雷電社のもので、もう一つは大輪神社の「お仮屋」と呼ばれているものである。嘉永二年(一八四九)再建されたと伝えるこのお借り屋は、老朽化が甚だしいかったため、昭和三十年、桜田・鷲宮の町村合併を記念して改築された。その際、同一境内にあるこの両社を総称して西大輪神社と呼ぶことが氏子一同で決議されたが、まだ正式名称にはなっておらず、今も「雷電様」「お仮屋」と各々の通称で呼ぶことのほうが多い。
『風土記稿』西大輪村の項に「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持 末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、この鷲明神社がお仮屋である。お仮屋の起こりは、明治の合祀によるもので、鷲神社と改称した鷲明神社は、明治四十二年五月五日東大輪の八幡社へ合併し、大輪神社と改称している。この合祀により氏神を失った西大輪では、古くからの祭礼日に大輪神社へ遷された神霊(みたま)を迎えて祭典を行うことを決め、お仮屋として社殿を残したものである。
 したがって、お仮屋とは、例祭の期間だけ東大輪の大輪神社から旧鷲神社の神霊を西大輪の地に奉遷するための建物であり、雷電社は、元来、鷲神社の末社であったが、合祀の際に残されたものである。このほか往時の境外末社である大六天・天神・稲荷も残されているが、これはそれぞれ異なる祭祀組織を持っていたことによると考えられる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 雷電社は、古くから雷の神様といわれ、降雨や雷除けなどが祈願されてきた。水田の広がる農業地域である当地では、夏にはよく雷雲が発生し、落雷もしばしば起った。雷の落ちた田には注連縄をめぐらしたり神職にお祓いしてもらう習慣が、かつては広く見られ、こうした雷に寄せる古い信仰から、当社が勧請されたのであろう。但し、雷電社としての恒例の祭事は昔からなく、お仮屋で鷲神社の例祭である神幸祭が行われる時、併せて祭られているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内記念碑文・案内板」等

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西大輪稲倉魂神社

 
        
             
・所在地 埼玉県久喜市西大輪2094
             
・ご祭神 稲荷神(推定)
             
・社 格 旧西大輪村河原鎮守 旧無格社
             
・例祭等 初午祭 3
 JR東鷲宮駅の西側にある「東鷲宮駅入口」交差点を右折し、埼玉県道3号さいたま栗橋線を250m程北上した先にある「久喜市こかわ歩道橋」手前の路地を左折する。道路幅が狭い上に意外と民家が立て並ぶ道路に対して、運転速度に気を付け、急な子供たちの横断や対向車との接触等気をつけながら安全に進み、「葛西用水路」を越えたすぐ先に西大輪稲倉魂神社は道路に対して背を向けたような配置で鎮座している。
 但し周辺には適当な駐車スペースはなく路駐となり、尚且つ、道路側からは参道正面が見ずらい場所にある。境内はフェンスで仕切られており、よく見ると社の西側に入口に通じる細い道があり、回りこむように進み、参拝を開始した。
        
                 西大輪稲倉魂神社朱面
 氏子は西大輪地域内の河原地区に古くから住む数十戸である。社の規模は決して大きくはないが、氏子の方々からは「お稲荷様」と呼ばれ、河原地区の全てにわたってお守りくださる有難い神様であるといわれている。種々の祈願の中でも特に子供に関わる願い事に霊験あらたかで、ある時、子宝に恵まれない婦人が男の子を授けてほしいと願を掛けたところ、三人の男児に恵まれ、以後この家は栄えたとの話も伝えられている。また、お稲荷様のお使いは白狐であり、何かの霊験を示す際には、必ずその姿を現すといわれている。
        
                    拝 殿
  拝殿の手前には狛犬はなく、その代わりに一対の石碑にそれぞれ狐像が彫られている。

 稲荷神社  鷲宮町西大輪二〇九四(西大輪字向天王)
 天王新堀と葛西用水に挟まれた地に鎮座する当社は、西輪の小大名の一つである河原地区の鎮守として祀られている。その創建については明らかでないが、本殿に納められている古色を帯びた三体の稲荷大明神像により、永い歳月を経てきたことがうかがえる。
『風土記稿』西大輪村の項には「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とあり、当社は鷲明神社の末社の内の一つとして載せられている。往時の本社であった鷲明神社は、明治四十二年に東大輪の大輪神社に合祀されたが、社殿はそのまま残され、「お仮屋」と呼ばれて現在に至っている。ただし、その所在地は、当社から北へ七〇〇メートルほど離れているところから、同書の記述は鷲明神社の境外末社であったことを示すものであろう。
 明治初年の神仏分離により円明院の管理から離れた当社は、社格制定に際して無格社となった。更に、明治四十年代に入り、村社大輪神社への合祀問題が生じたが、祟りを恐れた氏子は、特に崇敬の厚い槙島家が丁度神社裏手に居を構えていることから、その氏神として管理していく条件で合祀を回避した。その後も河原地区の人々の厚い信仰を基に祀り続けられ、平成元年には念願であった社殿の再建が行われている。なお、槙島家は、合祀回避の中心的役割を担った縁で、今も祭りの際の祝宴の会場となる習わしである。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                  すっきりした境内

 かつて山城国南山城宇治(現在の京都府宇治市槇島町)近縁には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島氏(槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)という豪族が根を張り、城郭を築いていた。それが槇島城である。
 元亀4年(1573年)73日、時の公方・足利義昭は織田信長に対して兵を挙げ、藤原氏の流れで室町幕府の奉公衆の一員であった真木島(槇島)昭光を頼り、槇島城へ籠城した。だが、信長は即座に入洛し、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。その後、義昭は河内若江城へ退去させられ、室町幕府は終焉を遂げた。
 真木島昭光は、室町幕府滅亡後、細川越中守忠興に招かれ1,000石を給され、肥後熊本にて亡くなり、子孫は阿波徳島藩等に仕えたとされている。ところでこの昭光の三弟大膳昭久は、武州幸手郡西大輪邑に移り住んだという。
 一方、『新編武蔵風土記稿 権現堂村』条には「舊家者吉十郎 氏を卷嶋と云ふ。世々里正を勤む、先祖卷嶋主水助北条氏直に仕へ、氏直沒落の後當村に来りて村民となれりと云ふ、氏直より賜はりし感狀に、間釜之内十貫文之地を賜ひしことしらる」と載せていて、ここでの巻島氏は、源姓桃井氏流槙島氏として、一色氏・北條氏に仕え、幸手領に居住していた土着豪族であったようだ。
 槇島性は国内でも埼玉県が一番多く分布し、県内でも久喜・幸手両市周辺に集中して今でも現存しているのは事実である。当然、当社の創建にも深く関与している一族でもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」埼玉苗字辞典」等
    



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上川崎香取神社天満宮

「川崎」という地名は、日本人の多くは神奈川県川崎市を思い浮かべる方が多いと思うが、川崎市HPをみると、この川崎という地名由来として、多摩川のデルタ地帯であることに由来しているといい、「川」はそのまま多摩川を意味し、「崎」は砂が溜まり海側に出っ張った場所を指すという。また、「川崎」の「サキ」は、古くは「前」を意味する言葉であり、「川前」、つまり川に面した地域を指すという説もあり、日本全国に80ヶ所以上存在する「カワサキ」という地名の多くも、この「川前」が語源とされているという。
 久喜市にも「川崎」を冠した地域があり、やはり、古利根川の屈曲した地形から付けられた地名といわれている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上川崎479
             
・ご祭神 経津主命
             
・社 格 旧上川崎村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 灯籠 720日 秋祭り 1019
 久喜市上川崎地域は外野地域の南東に位置し、外野香取神社から北西から南東に流れる葛西用水路の左岸に沿うように形成されている農道を600m程東方向に進むと進行方向左手に上川崎香取神社天満宮が見えてくる。
        
                上川崎香取神社天満宮正面
『日本歴史地名大系』 「上川崎村」の解説
 外野村の南東に位置する。当地から正和五年(一三一六)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。当村渡辺氏の祖は幸手の領主一色直朝で、天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入国のときすでに隠居し、その子義直に家督を譲っていたが、義直は旧領のうち幸手領七千余石を安堵され、旗本一色家の祖となった(寛政重修諸家譜)。一方、当地に土着した直朝は慶長二年(一五九七)に死去したが、その次子政義からは渡辺氏を称して名主を世襲、旗本久津見氏より苗字帯刀御免の身分を与えられていた(「風土記稿」など)。中川崎村・下川崎村(現幸手市)とはもと一村で田園簿には三川崎村として田高六四六石余・畑高五六七石余とあり、幕府領。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡上川崎村』
 天神社 村の鎭守なり、藥王院持、下同じ、〇香取社〇山王社〇大六天社 正蓮寺持
 藥王院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺末、瑠璃光山と號す、本尊不動、開山秀專寬永六年七月寂す、藥師堂
 
舊家者傳左衛門 
 世々名主を勤む、氏を渡邊と號す、所藏の系圖に、祖先は一色公深七代の孫、一色宮内大輔直朝、天文中足利晴氏及義氏二代の間隨從し、後に幸手庄に蟄居し、慶長二年十一月十四日卒す、法〇大虚院月庵蘆雪と號す、村内正蓮寺の開基たり、其子義直は義氏逝去の後東照宮に召出され、旗下の士一色右京某が祖なり、弟政義は當村に住し、渡邊をもて氏とし、元和二年三月朔日死す治林寺輔翁正輪と法〇す、これ傳左衛門が祖なり、所藏の武器等は享保中火災に罹れり。
        
       拝殿の開き戸の左右には「天満天神社」「香取大明神」の札がある。
 香取神社  鷲宮町上川崎四七九(上川崎字屋敷前)
 上川崎は、『風土記稿』に「上川崎村は、田宮庄に属す、も上・中・下は都(すべて)一村にして、正保改定の国図には三川崎村と記し、『元禄国図』に、初て上・中・下三村を分ち記せり」とあるように、元禄八年(一六九五)に三つに分村した三川崎村の西の部分である。
当地域は、古くは利根川・権現堂川・島川・古利根川をひかえる水害地帯であった。殊に川崎の地は、その名が古利根川の屈曲したところから付けられているように、水害を受けやすい所であった。
 当社本殿裏に、元宮と呼ばれる「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、共に寛政元年(一七八九)の銘がある。一方、内陣には、寛政三年の墨書銘がある香取大明神像と天満天神像が安置されている。更に、寛政三年四月七日付けの卜部良倶の宗源祝詞が保管され、その祈奉斎の神輿形に納めた卜部の霊璽を二筥安置し、これに伴う幣帛を納めている。また、本殿正面には、この卜部良倶が染筆した「香取大明神・天満天神」の社号額を掲げている。ちなみに神輿形に納めた霊璽は、別当が同じである隣村中川崎の香取神社にも祀られている。
 口碑によると、昔、香取神社は「古香取(ふるかんどり)」、天神社は「天神」と呼ぶ古利根川縁の田の中に、それぞれ祀られていたが、水害を被ったことから、土手上にある旧別当薬王院に隣接した現在地に移されたという。
        
                    本 殿
 当地は、寛政元年に元宮の石祠を建立した時から三年前に当たる天明六年(一七八六)に「七十人余も流死」(『鷲宮町史』)するほどの大洪水に見舞われている。この時、古利根川の川辺にあった香取神社と天神社の二社は流失し、元地に石祠を建立したが、更に、その後の水害を恐れて、寛政三年に現在地に両社合殿の社殿を新築したものであろう。同時に造立の香取大明神像と天満天神像には、施主渡辺多門とあり、これは当時の名主で幸手城主一色氏の末である。
 現在、当本殿は三間社であり、内陣には、先に記した史料のほかに「未(ひつじ)ノ年・木村幸右門」と背部に刻んだ石製の香取・天神の二神像があり、更に寛政三年、施主渡辺多門が倉稲魂神像とその本地である荼枳尼天(だきにてん)像を奉納している。このうち、石製二神像は、三川崎村分村時に旧神像として納めたものであろう。また、倉稲魂神像と荼枳尼天像は、一つは旧別当薬王院の鎮守として内寺に祀られ、一つは名主渡辺家の鎮守で屋敷内に祀られていたものが、明治初めの転換期に当社の内陣に納められたものと想像する。
 本殿の裏にある元宮と呼ぶ二基の石祠は、大正三年に村内の小祠を合祀した時、元地の「古香取」と「天神」から移したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      境内にある力石数基          本殿左側裏手にある庚申塔と青面金剛
        
              本殿の正面奥に祀られている元宮
 元宮の内部には
「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、元宮の左側奥には見ずらいが「大六天」「山王大権現」と刻まれた石祠、元宮のすぐ右側には「八海山神社」の石碑が祀られている。
        
      元宮の右側に並んで祀られている「御嶽大神」「辨財天」「猿田毘古大神」

 年3回の祭りのうち、一番賑やかなものが720日に行われる「灯籠」である。いわゆる夏祭りであるが、境内に灯籠を立て、その明かりのともる中を夕方に氏子が参詣し、総代からお祓いを受ける行事である。現在は諸般の事情で、灯籠は十基程立てるだけとなっているが、昭和54年ごろまでは、鉄枠・ガラス張りの灯籠五十基が境内や参道を飾ったものであったという。
 また、戦前頃までは「万作」という行事が神社の所在する上川崎で710日の灯籠と1019日の秋祭りで奉納されていた。これは青年団員を中心として「川崎階和倶楽部」というものを組織し、当香取神社の他、現在の幸手市の不動様や八幡様に赴くというものである。段物に、お半長右衛門・細田川・笠松峠・白桝粉屋などの曲目があり、伊勢音頭・くどきなどの手踊りがある。行事としては1931年・1932年頃(昭和6年・7年頃)より5年ほどが全盛であったのだが、1945年頃以後(昭和20年代以後)は行われていないという。
        
                    社の全景
        
               社の東側に隣接している薬王院


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川崎市
HP」「埼玉の神社」等

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外野香取神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市外野66
             
・ご祭神 経津主大神
             ・社 格 旧外野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初会合 11日 春祭り 415日 夏祭り 719
                  秋祭り 1019
 久喜市外野地域は、旧利根川である中川と葛西用水に挟まれた低地帯で、元来、稲作が主体とした農業地域であり、氏子も数十戸あまりと少なかったのだが、昭和30年代以降は、東鷲宮駅ができたことにより転入者が相次ぎ、また、従来水田であった地域北部には、近年東鷲宮ニュータウンが造成されたことにより、昔からの景観も大きく変わってきているという。
 外野の鎮守社である外野香取神社は、JR東日本・東鷲宮駅から直線距離にして1㎞程南側にある「成立学園鷲宮グランド」に隣接してひっそりと鎮座している。
       
                  外野香取神社正面
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 外野村は、古へ西大輪村の内なり、元祿の改に始て西大輪村の枝鄕と載たり、其後又枝鄕の唱をすてゝ、全く別村となれり、
『日本歴史地名大系』 「外野村」の解説
 西大輪村の南東にある同村枝郷。元禄一〇年(一六九七)に分村したという(郡村誌)。元禄郷帳に高二八三石余とあり、国立史料館本元禄郷帳によれば旗本三浦領。
 
    左側の狛犬の隣に祀られている弁才天       右側の狛犬の隣に
祀られている稲荷大神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 香取社 村の鎭守なり、勝藏院持、下同じ、 末社稻荷 辨天
 勝藏院 新義真言宗、東大輪村密藏寺末、慈光山と號す、本尊不動、辨天社

 香取神社  鷲宮町外野六六(外野字前)
 鎮座地の外野は、中川と葛西用水(いずれも旧利根川)に挟まれた低地であるため、太平洋戦争後、河川改修が行われるまでは、しばしば洪水に悩まされた。しかし、その洪水は当社の創建と深くかかわっており、氏子の間では次のような話が伝えられている。
 当社の南側を流れる川(葛西用水)が、まだ利根川の本流だったころのある年、大水があった。その後、下総国の香取神社から神体が丸木舟に乗って川を遡り、この地に漂着した。村人は有り難く思い、その神体を、当時はまだ真菰(まこも)の生い茂る原野であったこの地の中でも最も高い所を選んで、小さな茅葺きの祠を建ててお祀りした。これが香取様の創祀である。当時の外野は、家がたった六軒しかない小さな村であったが、開発が進んで村が大きくなるにつれて家数が増え、社殿も大きくなって今日のようになった。
 この話がいつごろのことで、また、漂着した神体がどんなものであったかはわからないが、『風土記稿』には「香取社 村の鎮守なり、勝蔵院持、下同じ、末社稲荷 弁天」とあることから、江戸中期には現在のような姿で祀られていたものであろう。また、本殿には幣束のほか、神祇管領により調進された「香取大明神勧請安鎮座」の霊璽が納められている。この霊璽に年紀は見られないが、卜部兼雄の名が記されていることから、江戸中期に受けたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社は村の鎮守として氏子からの信仰も厚く、祭典に当たっては五穀豊穣・家内安全が祈願されている。また、婦人からは安産の神としても信仰されており、祭典で使用されたろうそくの燃え残りは安産のお守りとされているようである。
        
                  境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
    
        


 

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上清久白幡雷電神社

 かつて葛飾郡大川戸村(松伏町)は大河戸御厨(伊勢神宮領)の地であった。吾妻鑑卷三に「寿永三年正月三日、武蔵国崎西・足立両郡の内にある大河土の御厨あり、外宮に寄進す」とあり、建久三年伊勢大神宮神領注文写に大河土御厨給主外宮権神主光親と載せている。
その後、平安時代末期に藤原秀郷流である下野国都賀郡三毳崎太田村(藤岡町)出身の大田行広がこの地を本拠地としたため大河戸氏と称したという。
『尊卑分脈』
「大田大夫行尊―大田大夫行政(改宗行)、弟大田四郎行光(或行政子)―行方(号大河戸、下総権守、母秩父太郎重綱女)―太郎広行、弟清久二郎秀行、弟高柳三郎行基、弟大川戸四郎行平(神人の頸を切るにより大田庄を召放たる)、行方の弟大河戸次郎行広―小次郎行朝―四郎行茂―兵部光基」
 大河戸行方(重行)には4人の子供がいて、長子広行が大河戸氏を継ぎ、その三人の弟はそれぞれ本貫とした地の名をとり、おのおの清久氏(次郎秀行)、高柳氏(三郎行基)、葛浜氏(四郎行平)を名乗った。
 清久郷を領して清久氏の祖となった二男次郎秀行は、頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(京都府福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができ、幕府の御家人として活躍したことが記録されている。また清久氏の館は、現在の常徳院と上清久白幡雷電神社がある楕円形の台地付近に構えられていたと伝えられている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久668
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 雷除祈願 41日 初山 71日 例祭 1125日 他
 上早見千勝神社から埼玉県道146号六万部久喜停車場線を西行し、「六万部橋(東)」交差点を右折する。その後、進行方向右手奥に埼玉県立久喜特別支援学校が見えてくる先の路地を左折したそのすぐ東側に上清久白幡雷電神社は鎮座している。
        
               
上清久白幡雷電神社正面附近
     社号標柱があるその北側にある白壁は、
常德院持ちの白幡山墓地である。
        
               
上清久白幡雷電神社正面鳥居
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。

         静まり返った境内          参道左手に設置されている案内板

 常徳院は「曹洞宗 白幡山権現寺」と号し、当院から雷電神社にかけての境内は楕円形の小高い台地の上にある。周囲は構え堀のごとく水路がめぐり、戦前までは白幡沼と呼ばれる広大な湿地帯が南東方向に広がっていた。
 中世には奥州へと伸びる鎌倉街道(奥大道)が南北につらぬき、また武蔵国と下総国の国境であった川口の渡し(旧利根川)を北方4kmに臨んでいた。天然の要害・交通の要衝を兼ねたこの地に、平安時代末期から南北朝時代までの約170年間、在地領主であった清久氏が館を構えていたとされている。
 清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野国の小山氏・下総国の下河辺氏とは同族にあたる。大河戸御厨(松伏・吉川・三郷・八潮)を治めた大河戸行方(重行)の子息で太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏を〈加須〉、四郎行平は葛浜氏〈羽生〉をそれぞれの領地名から名乗った。治承五年(1181)大河戸四兄弟は三浦介義澄に伴われて源頼朝に拝謁、「皆勇士の相を備えている」と頼朝に気に入られたと『吾妻鏡』に記されている。清久次郎秀行は頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘京都府福知山市を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができる。
 また『太平記』には中先代の乱(1335)で北条氏に従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
 その後は阿波国(徳島県)に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582)中富川の戦いで十河存保に従って長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子で知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。
 常徳院に残る永仁六年(1298)銘の板石塔婆や応安元年(1368)銘の宝篋印塔の残欠などは清久氏一族の供養塔とされ、旧本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代末期から南北朝時代の造像で清久氏の守本尊と伝わっている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
 白幡權現社 白幡光明雷王大權現と號す、古へ足利高興白幡を納めしより、かく號せし由をいへど、高興の名聞くことなし、傳への訛りしならん、祭神は雷電神本地十一面觀音、立像にて丈七寸餘、行基の作、常德院の持、
什物 雷槌一本 龍ノ牙一 石一 弘法大師、雨乞の石と云、
 常德院 禪宗曹洞派鷲宮村靈樹寺の末、白幡山權現寺と號す、開山起屋庭宗天正十五年四月七日示寂、本尊彌陀は慈覺大師の作にて、立像一尺餘、此外聖德太子自作の壽像及虛空藏、且運慶の作、毘沙門天春日の作、千壽觀音を安ず、當寺境より白幡權現社地の邊、淸久次郞城蹟なりし由、今もこの邊を掘れば、矢の根など出ることありと云、

 雷電神社
 祭神 別雷命―気象と五穀を護る神
 神社起源、由来
 言い伝えによればその昔、行基菩薩が、この地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社といわれる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奧州を平定した義家は、戦のお礼に源氏の白幡を奉納したという。
 雨乞、雷除、虫封じ、子孫繁栄の祈祷神社と知られ「光明電王宮・白幡権現社」と称し、地元近隣はもとより、遠方の人々からも大いに信仰された。明治初年の神仏分離令により、雷電神社と隣の常德院に分離された。 義家白幡奉納伝や地名が白幡であることから、地元や近隣の人々から白幡さま白幡神社と呼ばれた。(十一面観音像は常德院に祀られている)
昭和二十年代頃までは、社寺の三方は田んぼと沼(白幡沼)
に囲まれ、神社は小高い台地の杜のなかに鎮座していた。周囲は開発され今は昔日の面影はない。
 最後の雨乞
 大正十三年夏、日本全国は大干ばつにみまわれ、この地方も深刻な被害があり七月十九日から一週間の雨乞が行われ、満願の二十五日雷鳴とともに恵みの雨が降り農作物は甦り豊作となったと云われている。 (徳富蘇峰揮毫記念碑あり)
 白幡城と赤幡城
 むかし、沼に囲まれた白幡城の対岸に赤幡城があり、ある時戦いがおこり白幡側が不利になった時、突然大蛇が現われ、赤幡側の舟と兵を攻撃し白幡側が勝利したと言う。(旧久喜市の唯一の民話)
 境地末社  浅間神社、厳島神社、弁財天社(以下略)            境内案内板より引用
        
                    本 殿
 
   社殿左手奥に祀られている弁財天社      社の手前に設置されている弁財天碑

 かつて、氏子・崇敬者の間で「雨乞い組合」が結成される程、当社への信仰は厚いもので、旱魃が続くとしばしば雨乞いが行われたようだ。中でも大正13年7月の雨乞いは、6月初旬から降雨がなく、深刻な状況の中で行われた。7月25日を満願の日と定め、19日から一週間にわたり祈願を続けた。この時の祈願は、当社で神職が降雨を祈ると同時に常德院でも住職が本堂で読経をし、若い者たちは褌(ふんどし)一つで当社の裏手にある弁天様の池に入り、バケツでその水をくみ出して本社めがけて浴びせかけるというものであったという。
        
               弁財天社の隣に祀られている厳島神社 
       
               本殿奥に祀られている浅間神社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等 
        

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