古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上鹿山高麗川神社

 上鹿山地域は、新田氏あるいは武田氏の家臣が住み着いて開発した村であるといわれ、南北朝時代には家も六軒しかなかったと伝えられている。当社が隣接する猿田の人々によって勧請された社であることから推察すると、上鹿山よりも猿田の方がより早く開けた場所であったと思われる。
 当社は、武運の神として知られる日本武尊を主祭神とし、また、武士によって勧請されたとも伝えられていることから、創建当初は土着の武士の氏神として、あるいは守護神として信仰されたものと思われる。その後、村の発展に伴い、村の鎮守としても性格を強め、今日においては、明治42年に合祀した諸社が旧地に復したにも関わらず、旧高麗川村の鎮守として広く信仰されている。
 もともと、この辺り一帯は、中世においては鹿山村と呼ばれていたが、近世に至って現行の大字に相当する上鹿山・中鹿山・下鹿山・鹿山の四つに分かれた。しかし、この分村の理由は明らかでないという。
        
             
・所在地 埼玉県日高市上鹿山170
             
・ご祭神 日本武尊 橘姫命
             
・社 格 旧上鹿山村鎮守・旧指定村社
             
・例祭等 初午祭 2月初午 春祭り 41415日 祇園祭81415
                  
秋祭り 111415
 JR八高線「高麗川駅」ロータリーから駅前通りを西行し、最初の十字路である「高麗川駅」交差点を左折し、道なりに南下する。途中、埼玉県道15号川越日高線の高架橋を潜るのだが、そのまま200m程進むと、進路右側に上鹿山高麗川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場は境内北側隣に確保されていて、わかりやすく便利である。
              
                道路沿いに建つ社号標柱
       
                 上鹿山高麗川神社正面
『日本歴史地名大系』による「上鹿山村」の解説
 野々宮村・猿田(やえんだ)村の東にあり、東は女影・中鹿山・鹿山・原宿の各村。ほぼ中央を小畔(こあぜ)川が北東へ流れる。南北に相模国から上野国への道が通る。古くは中鹿山村・下鹿山村・鹿山村と一村であったといわれる。小田原衆所領役帳には、他国衆の三田弾正少弼の所領として高麗郡の「賀山」がみえる。近世には高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田七四石余・畑六四石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本雨宮領。
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
 高麗川神社
 当初は八剣神社と称し上鹿山村社でしたが、明治11年に同じ上鹿山の八坂神社、稲荷神社が移されました。明治42年には中鹿山村社の熊野神社、下鹿山村社の白幡神社、鹿山村社の熊野神社、原宿村社の稲荷神社など15社を合祀して高麗川神社と改めました。しかし、昭和15年ごろに旧村社を分祀したため、合祀前の状態に戻りました。
 高麗川神社は、日本武尊、橘姫命の2柱、八坂神社には素戔嗚尊、稲荷神社には倉稲魂命を祀っています。
 境内の中央に四方に広げてたたずむ「タブの木」は、根本近くから二股に分かれ、2本の木のように見えます。幹回りは北側で5.2m、南側で5.3mです。樹高はともに約22mをはかります。樹齢は約300年と言われ、御神木として大切にされています。
 境内入口には大正5年頃に青梅農林学校より当時の上鹿山青年会が苗木を分けてもらい植樹した「ゆりの木」があります。北米原産の木蓮科の樹木で、成長が早く平成21年に伐採しました。現在の幹周りは3.4m、樹高は約10mをはかり、樹齢は90年になります。

 八坂神社の祭ばやし   市指定文化財 無形民俗文化財
                 昭和62427
日 指定
 毎年81415日に行われるギオンマツリと呼ばれている八坂神社の例祭で、豊作祈願と安全祈願、悪疫退散の願いを込め、祭りばやしを奉納しています。
 本社の囃子は、福原村中台(川越市)に伝わる王蔵院(世田谷区)の王蔵院流旧祭囃子を教わったのが始まりだと云われています。
 お囃子は山車の上で演奏され、子どもたちが曳き綱を引いて上鹿山地区を一巡します。山車は江戸時代末から明治時代の半ばに北多摩郡砂川村(立川市)で使われていたもので、飯能市宮本町に渡り、大正時代になり上鹿山で使われるようになりました。
 編成は笛1、締め付け太鼓2、大太鼓1、金15人で演奏します。代表的な曲は屋台、昇殿、鎌倉、子守、ニンバなどです。獅子、三番叟、にんば、おかめ、ひょっとこ、外道、白狐などの踊りに合わせて次々と曲が変化しています。
 平成222月 日高市教育委員会
                                      案内板より引用 

        
               上鹿山高麗川神社 境内の様子
 高麗川神社の創建年代等はハッキリと分かっていないが、『新編武蔵風土記稿』において「八劔社」と称し、猿田村のものが日本武尊を讃えて祀ったとも、元亨2年(1322)に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請したとも伝えられ、どちらの伝承にしても猿田村の人が創建に関わっていたとされている。
 江戸期には上鹿山村の鎮守として祀られ、慶安2年(1649)には江戸幕府より社領3石の御朱印状を受領している。明治11年に上鹿山の八坂神社・稲荷神社を当社境内へ遷座、明治42年には中鹿山の熊野神社、下鹿山の白幡神社、鹿山村社の熊野神社、原宿の稲荷神社など15社を合祀して高麗川神社と改称したとの事だ。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上鹿山村』
 八劔社 日本武尊・橘姫命を祭ると云、慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、村の鎭守なり、例祭九月廿九日、社の傍に橘の樹あり、圍二丈許、神職田中賴母吉田家配下なり、
 稲荷社 西光寺持、下皆同じ、天王社 山神社 二月初午の日例祭あり、辨財天社 丹生社
 花木明神社 中鹿山村泉乘院の持、
 愛宕社 村持
 
 拝殿にある廻りの外廊下正面左側には4枚のパネルが展示されていて、左側から県知事より神饌幣帛供進神社の指定を受けた書面(写真左)、その右隣には高麗川神社(旧社号 八剱神社)の案内板(同右)が設置されている。
        
  高麗川神社の右隣には、明治23年10月30日に発表された「教育勅語」の全文が、一番右側には「八劔神社」の由来・案内板が展示されている。
 
         本 殿               本殿右側にある「山車庫」
 当社において、最も賑わっているのは、8月14・15日に行われる「八坂神社の祭ばやし」である。八坂神社の例祭でもあり、嘗ては「天王様」と呼ばれていた。この行事は、本来は疫病除けとして執行されていて、境内社の八坂神社の例祭でもあった。しかし、現在では夏の風物詩的な行事となり、祭り本来の意味は薄れてしまったようだは、年々賑わいを増しており、氏子のよき親睦の場となっているようだ。
 
    拝殿から一番左側に祀られている       八坂神社の右隣に祀られている
       境内社・八坂神社              境内社・稲荷神社
        
                   境内中央に孤高の如く聳え立つ椨(たぶ)の古木
 この古木は、根本近くから二股に分かれ、如何にも2本の木のように見える。幹回りは北側で5.2m、南側で5.3mで、樹高はともに約22mをはかる。樹齢推定400年とも推定され、老樹の根株のひこばえから成長したものであると伝えられている。勿論当社のご神木である。
        
           
椨(たぶ)の古木の根元に祀られている丹生宮の石祠



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
 

拍手[0回]


女影霞野神社

 中先代の乱 (なかせんだいのらん)とは、1335年(建武27月北条高時の次男北条時行が建武政権に抗して起こした反乱である。当時執権北条氏を「先代」、室町幕府の足利氏を「当代」とよぶのに対し、その再興を図った時行を「中先代」と称された。この年6月、北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが、公宗と呼応するはずであった時行は、旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し、武蔵に進んで女影原,小手指原,府中に足利軍を破った。直義は監禁中の護良(もりよし)親王を殺害したのち三河まで退去し、時行軍は鎌倉を占拠した。最終的にこの反乱は、東下した足利尊氏に討たれ、20日程鎌倉を占領しただけで敗走した。乱後、尊氏は朝廷からの帰京命令に従わず、関東にとどまり、南北朝内乱の端緒となった。
 日高市女影霞野神社境内には、嘗て鎌倉幕府復興のために信濃で挙兵した北条時行軍が、武蔵国へ入り、鎌倉将軍府軍と最初に戦った女影ヶ原古戦場跡碑がある。720日頃に女影ヶ原にて鎌倉将軍・成良親王の近衛組織である「関東廂番」の筆頭である渋川義季や関東廂番の二番頭人を務める岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を破り、両人はそれぞれ自害・打死をしている。この女影原の合戦の場となったのが、現在の女影霞野神社周辺と言われている。
        
             
・所在地 埼玉県日高市女影444
             
・ご祭神 建御名方命
                        
・社 格 旧女影村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例祭 1010 
 鶴ヶ島市立中央図書館から国道407号線を南下し、2.5㎞程先にある「高萩北杉並木」交差点を日光脇往還(にっこうわきおうかん)道方向に進む。因みに、日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号線沿いには「日光街道杉並木」という名称で杉並木が今でも残っている場所がある。その後、JR川越線踏切を越えた「高萩」交差点を右折、同県道15号川越日高線に合流し、西行すること1㎞程先にある「女影」交差点を左折し、暫く道なりに進むと、女影霞野神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。 
        
                  女影霞野神社正面
 社が鎮座する地域名「女影」は「おなかげ」と読む。『新編武蔵風土記稿 女影村』によると、当地域の南西にある「
千丈ヶ池(現仙女ヶ池)」に投身して死んだ「せん」という女性の影が時として池に映ることから起こったという伝説じみた話を載せている。
新編武蔵風土記稿 女影村』
「村内に千丈ヶ池と云池ありて、往古せんと云ひし女此池に身を投げて死せしが、その後いう女性の影時として池中にあらはれしかば、土人これを女影と呼びしより、村名も起りしといへり、最妄誕のなることは齒牙を待ずして知られたり、千丈の名義據をしらず、この邊古戦場なれば、直ちに戦場ヶ池と號せしを、後世文字をかきかへしとみゆ、」
「千丈ヶ池 一に仙女ガ池とも云、西の方にあり、その名の起りは村名の條に辨ぜり、長六十間、幅四十間許、池中蓴菜を生ず、」
 また、
承久の乱の際、承久3年(1221)6月13日―14日の宇治橋合戦で死傷した幕府方の武士のうちに「女影四郎」・「女景太郎」の名がみえ(「吾妻鏡」同年六月一八日条)、ともに当地名を名乗る武士と推定されている。
「【東鏡】承久三年(一二二一)六月十四日、宇治橋合戦打死の中に、女影四郎と出し注に、武藏と書たり、是恐くは當所の人にて、在名を氏に名乗しならん又同時手負人の中に、女景太郎ありて假名をめかけと注せり、是恐らくは女影の誤寫にて、此人も四郎が一族なるべし、又女影原の事は【太平記】等にも載たれば、とにかく古き地名とみえたり、」
        
             歴史を感じながらも静かに鎮座する社
     100m程の参道の両側には大きな杉の木が立ち並ぶ。社殿は珍しい西向きである。
 社の入口には南北に走る道は「鎌倉街道上道」である。鎌倉街道には、信濃、越後方面を結ぶ「上道」、奥州方面を結ぶ「中道」、下総、常陸方面に向う「下道」の三本の幹線道路があり、日高市を通過している「上道」は狭山市柏原から入り、大谷沢、女影、駒寺野新田を経て毛呂山町大類へと向った。特にこの地は、周囲の展望が見渡せる交通の要地でもあった為、度々中世の合戦の舞台となった歴史ある道であった。
        
                   境内の様子
 もとは女影村鎮守社・諏訪神社であり、承久3(1221)年、信濃国諏訪頼重家臣の春日刑部正幸が兜の八幡座を祀り、その後、明治43年に中沢・女影地区の12社を合祀し霞野神社と称したという。「霞野」という社名は、「埼玉の神社」では、神社前面に広がる水田を霞野郷と称することによるといい、『風土記稿』には「霞郷 合村六、今栢原村の内霞ヶ関の名跡あり、これより起りし名なるべし、」と載せている。
 
 社殿に通じる石段の手前左側にある手水舎    参道右手に設置されている幾多の案内板
                        当地の歴史の深さを物語る案内板でもある。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
『新編武蔵風土記稿 女影村』
 諏訪社 村の鎭守とす、例祭は七月廿七日、常光寺の持なり、下同、天神社 稻荷社
 八幡社 長楽寺持、下同じ、 辨天社 八幡社
 白鬚社 これも村の鎭守なり、清泉寺持なり、下同じ、八幡社
 天王社 夏福寺持、下同じ、雷電社
 荒神社 此社の後に槻一株あり、圍三丈九尺餘、神職鈴木土佐吉田家の配下なり
 愛宕社 村持、

 霞野神社(おすわさま)  日高町女影四四四(女影字諏訪山)
 鎮座地女影の地名は、地内の千丈ヶ池に投身した女「せん」の影が池中に現れたことに由来するという。鎌倉と奥州、上州との交通の要所にあり、展望のきく地であるため、しばしば合戦が行われた。主なものに建武二年七月の北条時行軍と足利直義軍の激突、観応三年の南朝・北朝の合戦などがある。
 社記によると、当社は、承久三年五月一〇日に信濃国諏訪頼重の家臣春日刑部真幸が宇治川の出陣に当たり、この地に来て、守り神である諏訪明神に武運長久を祈って兜の八幡座を祀り、武門の神として社を建立したことに始まり、その後、領主逸見光之丞が武運長久を祈り毎年供米一俵ずつ奉納した旨が記されている。
『風土記稿』には「諏訪社 村内の鎮守とす、例祭七月廿七日、常光寺の持なり」とある。
神仏分離により別当の天台宗常光寺住職貫如は復飾して松浦頼清と名乗り、神職となる。明治五年、旧来の産土神であることから村社となり、同四十三年に地内の神社一二社を合祀、社号を霞野神社に改めた。霞野の名は、神社前面に広がる水田を霞野郷と称することによる。
 主祭神は建御名方命である。内陣には、厨子内に岩山を模した神座を設けて銅製の神像(高さ二・一センチメートル)を祀るが、この神像は、普段は神職家で保管し、祭りの時だけ本殿に安置している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 当地方一帯で養蚕が盛んであった戦前まで、当社は養蚕の守護倍盛の神として信仰され、その信仰圏は地元を中心として飯能の平松・川崎あたりまで及んだ。戦後、養蚕業は廃れてしまったが、代わって茶の栽培が盛んになったという。
       
         石段上で、社殿の両側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        
            拝殿に掲げられている「霞野神社」の扁額
        
            拝殿左側手前には、幾多の記念碑が建つ。
一番右側には「女影ヶ原一の宮霞野神社合祀記念碑」、その左並びには「伊勢講記念碑」が2基。
        
                 社殿左側にある宝物殿
 当地には獅子舞があり、415日の春祭りに奉納されたという。獅子頭が竜に似ているところから「竜頭舞」また、雨乞いの霊験から「雨乞い獅子」とも呼ばれている。獅子頭は太夫・男獅子・女獅子の三頭で、曲目は「太刀」「願獅子」「追獅子」などである。14日は「ブッソロイ」と称し、神職家が保管する神像を神社へ納めて一同で拝み、午後同家から行列を組んで神社に向かう。まず「宮回り」を行い、次に境内中央に移り、若手・隠居の顔でそれぞれ太刀を舞うとのことだ。
 現在、獅子舞は行われていないが、獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝など使われていた諸道具が、氏子によりこの宝物殿に大切に保管されているのであろう。
        
                          社殿右側奥に祀られている境内社三社
               左から天神社・疫神社・御嶽社 
       
           境内社三社の右側にもご神木あり(写真左・右)
     またご神木の根元には「山〇〇」「雷神宮」と表記された石祠が祀られている。
   このご神木の奥にある「女影原古戦場碑」の撮影を忘れてしまったことが悔やまれる。
        
               境内より一の鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日高市HP
    「改訂新版 世界大百科事典」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

拍手[0回]


滝ノ入住吉神社

 ゆず(柚/柚子)はミカン科の常緑樹で,日本の代表的な調味用かんきつ類である。中国原産。長江(揚子江)上流が原産地といわれ、奈良時代に中国から朝鮮を経て渡来したと推定されている。古くから薬用として、また調味料として、ゆずの持つ独特な香りと酸味は人々に広く愛用されてきた。しかし、多くは屋敷の周りや畑の畦に実生のゆずが植えられ、本格的な栽培は、毛呂山町を始め、京都市水尾、大阪府箕面市止々呂美など、23の地域に限られていた。
 毛呂山町のなかでも、滝ノ入・阿諏訪・大谷木地域は、南斜面で風当たりが弱く、霜がほとんど降らない、ゆず栽培に適した条件がそろっていたため、ゆず栽培が盛んに行われてきたという。毛呂山町のゆず栽培の歴史は古く、『新編武蔵風土記稿』には、毛呂山町の滝ノ入地域(当時は瀧野入村)の土産として「柚子を数十駄(一駄は135g)を産出している」と紹介されていて、日本で最古の産地のひとつといわれている。
 昭和初期、ゆず栽培は、毛呂山町滝ノ入地区全域に広まる。毛呂山のゆずは、香りが強く「桂木ゆず」の銘柄として全国に名を売るまでになった。その後、阿諏訪・大谷木両地域の生産農家も本格的に栽培を行うようになり、昭和30年代には全国有数の産地となったという。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町滝ノ入909
            
・ご祭神 底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命
                 
神功皇后 大山津見命 菅原道真公
            
・社 格 旧瀧野入村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 211日 秋季例大祭 10月第3日曜日(古式ささら獅子舞)
                 
新穀感謝祭 1123
 毛呂山町・出雲伊波比神社の西側を通る埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を南西方向に進み、JR八高線の踏切を越えた先にある「毛呂本郷」交差点を更に直進する。因みにこの県道39号線は、「毛呂本郷」交差点で終点となり、民家の立ち並ぶその先の道路の道幅は地元の酒造会社までの約300m程までは狭くなるので、道路状況を確認しながら進む必要がある。
 酒造会社先の二又路を右斜め方向に進路変更し、「滝ノ入集会所」を右手に見ながら1㎞程道なりに進むと、「毛呂山町ゆずの里 オートキャンプ場」の看板があり、その先に滝ノ入住吉神社の社号標柱が見えてくる
        
         長閑な里山風景を眺めながら進む先に見える社の社号標柱
『日本歴史地名大系』 「滝野入村」の解説
 毛呂本郷の西、越辺川支流の毛呂川(滝ノ入川)上流域の山間村。慶長二年(一五九七)と思われる検地帳(毛呂山町史)は一部を欠くと思われるが、田・畑・屋敷合せて高辻四五貫三〇一文で、本辻三三貫九〇〇文。田園簿に村名がみえ、田高七〇石余・畑高一三五石余で幕府領、ほかに紙舟役一貫七四文がある。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高二三七石余。
 滝ノ入地域を含む毛呂山町西側は黒山自然公園に指定された外秩父山地、北東は岩殿丘陵にはさまれた地形により、町全体に美しい川や緑・田畑の景色が広がっていて、キャンプや川遊びなどを通じ、豊かな自然を満喫できる地である。またこの地域は、柚子の名産地としても知られ、日本最古の栽培柚子である「桂木ゆず」といった特産品もあり、町のトレードマークともなっている。
        
                道の傍らに建つ社号標柱
 周囲は山で囲まれ、社と道路の間を綺麗な毛呂川が沢となって流れていて、自然と一体化したような美しい場所。参拝した時期は2月中旬でありながら、天候も小春日和で風もあまり冷たくなく心地良い。参拝時、サイクリングで訪れていた方も、暫しその風景に眺めながら一時の休憩を楽しんでいる様子で、すれ違いざまに挨拶するその言葉一つにも温かさが感じられた。
 
 社に通じるルートは社号標柱がある場所の手前にある路地に入り、そこから下るように進む一本道があり(写真左)、そのすぐ先にある橋を渡る(同右)。橋を渡った先の二又路を右折すると、社の正面に到着する。因みに、橋の先に見える小高い丘上に建っている建物は社の社務所であると思われる。
 
   参道の橋上から眺めると、社殿の右側に綺麗な毛呂川が沢となって流れている(写真左・右)。
        
                 滝ノ入住吉神社正面
 鳥居の左に『滝ノ入・ローズガーデン』があり、右の木の奥に綺麗な毛呂川が流れている。

『滝ノ入ローズガーデン』は、平成12年(2000)に滝ノ入地域の活性化を目指した「もろもろ町おこし事業」の一環として、ボランティアによって始められたバラ園である。平成20年に現在の場所に移転し、平成21年にリニューアルオープンした。
・面積 約2,800平方メートル
・バラの本数 約1,500
・バラの品種数 約350
・バラの品種名 ダマスク、アルバ、ケンティフォリア、ガリカ、モス、チャイナ、ポートランド、ノアゼットなどのオールドローズやハイブリット・ティー、フロリバンダ、ポリアンサ、イングリッシュローズ等
 周囲の自然と一体になった美しいバラ園で、長いバラのアーチの中を歩いたり、変化に富んだ散策道を楽しめる。また期間中は、農産物の加工品販売、バラの苗木販売もあるという。
 暖かい季節となった時期にもう一度再来したいものだ。
 
   正面鳥居の手前で左側に建つ手水舎     手水舎の屋根上部に設置されている案内板
        
                    拝 殿
 滝ノ入住吉神社
 神社名 住吉神社 住吉さま
 祭神  底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命
     神功皇后 大山津見命 菅原道真公
 由緒

 創立未詳 神体はなく 古老の口碑に別当行蔵寺中興開山教由が永禄年間に勧請し村内鎮守として崇敬した 元和六年二月吉日造営 明暦元年九月造営 宝永三年九月造営 明治五年村社に列せられる 明治四十年字広見山神社 字谷ツ天神社を合祀す 元和六年西暦一六二十年
 入間神社誌より
 住吉神社祭典日 年五回
 一月一日    元旦祭 区長主催
 二月十一日   祈年祭 建国記念日
 十月吉日    秋季例大祭 十月第三日曜日 古式ささら獅子舞
 十一月二十三日 新穀感謝祭 勤労感謝祭
 十二月三十一日 大祓い(以下略)
                           手水舎に設置されている案内板より引用

『新編武蔵風土記稿 瀧野入村』
 住吉社 村の鎭守なり、神體はなく、本地正觀音の立像長五寸餘なるを安ず、慈覺大師の作と云、行藏寺の持、 末社 辨天社 稻荷社 天神社 百姓の持、
 行藏寺 新義真言宗、今市村法恩寺末、愛宕山清林院地藏坊と號す、当寺開基は應永二十一年正月十六日寂せし僧とのみ傳へて、法諡等は失せり、中興開山数祐永禄十一年二月十二日示寂せり、本尊地藏坐像にて、長一尺餘、定朝の作と云、この餘弘法大師彫刻の毘沙門あり、立像にて長一尺五寸、 藥師堂 長一尺餘、恵心の作なり、

        
             境内に祀られている境内社・雷電社

 毛呂山町では、獅子舞が町内4ヵ所の地域(大類地域・十社神社、葛貫地域・住吉四所神社、川角地域・八幡神社、滝ノ入地域・住吉神社)で、毎年10月に行われている。
 獅子舞は五穀豊穣や無病息災を祈願し、また人々の安全や幸運を守る地域信仰として、その土地ごとに伝えられてきた文化的にも貴重な財産である。
 滝ノ入獅子舞は、平成23322日 町無形民俗文化財に指定されている。
        
                社殿から見た境内の様子


参考資料「新編む先風土記稿」「入間神社誌」「日本歴史地名大系」「毛呂山町HP」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」「事典 日本の地域ブランド・名産品」
    「境内案内板」等
           

拍手[0回]


市場神社

『鎌倉街道』は、鎌倉時代から室町時代にかけて整備された鎌倉と関東諸国を経て各地を結んだ主要街道の総称で、鎌倉から武蔵国・上野国を経て信濃国・越後国へ向かう街道を「上道(かみつみち)」と呼んでいた。埼玉県毛呂山町の各所には、その遺構が残っており、2022年に埼玉県毛呂山町市場の上道約1.3㎞とその周辺の遺跡が国の史跡に指定された。宿場や墓域などが良好に保存されていることが評価されたとのことで、街道の遺跡が国の史跡になるのは初めてで、毛呂山町では初の国の史跡である。
 市場地域周辺で発掘された「仏坂遺跡」の街道跡は台地から高麗川に向かう地形の変換点にあたり、掘割の形を見ることができる。街道跡の西側にかつて三島社と呼ばれた市場神社が鎮座している。
 市場の由来は、九の日に市が立ったことによるといわれており、対岸にある四日市場地域と合わせて六斎市が開かれていたと伝わっている。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町市場51
             
・ご祭神 事代主神 大山祇神
             
・社 格 旧市場村鎮守 旧村社
             
・例祭等 勧学祭 33日(大利天神社) 天王様 728
                  
秋祭り 1028
 東武越生線川角駅出入口から北方向に進路をとり、350m程先の十字路を右斜め方向に進む。その後、道幅の狭い農道を周囲の状況を確認しながら道なりに進むこと500m程、周囲は長閑な田畑風景の中に時折民家がチラホラと見える中、丁字路の達するのだが、その左前方方向に市場神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                 市場神社正面一の鳥居
      周囲の長閑な風景にも溶け込んでいて、正に「村の鎮守様」の印象通りの社 
                 不思議と子供の頃を懐かしく思い起こしてくれるような感覚 
『入間郡誌』による「市場村」の解説
「市場は村の東南部に位し、古の鎌倉街道に沿ひて、宿駅たりしが如く、古九日市場の名あり。即ち九の日を以て市を開きし也。旧名主山崎氏に就て尋ね頗る該街道の跡と、当時の盛観を詳にすることを得たり」
「鎌倉街道は今の川角、西大久保境界に当れる、道幅五間の古道より東南に屈して、一たび低温なる水田地を通過し、現市場の中央を横断して東南南の方向を以て大家村四日市場、森戸の間に出づ。沿道に本陣たりし家あり。大林坊の跡あり。又市場神社あり。思ふに此街道は両上杉氏鎌倉を去れる後も多少人馬往来の存せしも、徳川氏江戸に入るに及て、漸く廃頽に帰したるものならん」
        
              一の鳥居を過ぎた先に建つ二の鳥居
      冒頭に紹介した「鎌倉街道上道」掘割の遺構はこの社の東側にあるのだが、
   市場神社は街道に対して背を向けるように社殿が建てられていて、西向き社殿でもある。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 市場村』
「當村昔は鎌倉街道に係れる處にして、其ころは九の日に市あるし故、中古までは九日市場村と唱へしよし古街道の蹟は今も残れり、されど舊くは川角村に屬せし地にて、當村應長十七年の水帳に、入西郡川門の内九日市場と載たり、正保の改には見えず、元祿中のものに始て市場と見えたれば、川角村に屬せし頃は、九日市場と唱へ、分村せしは正保の後元祿の前のことにして、」
「三島社 當村の鎭守なり、本地佛は眞鍮をもて造れり、圓鑑にて徑り八寸、内に三尊の彌陀を鑄出せり、武蔵國入西郡九日市場村山崎等奉修と彫たり、満願寺持、大利明神社、」

 
 市場神社  毛呂山町市場五一(市場字本村)
 市場は町の東部に位置し、南は坂戸市に接する。
 市場の地名については、村内を貫く旧鎌倉街道に沿って古くから九の日に市が開かれていたことに由来すると伝える。当社は明治四〇年に行われた合祀を機に三島神社を市場神社と改称したもので、旧名主家である山崎家(現当主まで一九代)の伝えに、先祖が鎌倉から三島様の神体を袋に入れて首に下げて持ってきたことに始まるという。その後、四代目が分家に出て以来、神体はこの家が預かり、祭りのたびに神社に納めるようになった。往時の神体は懸仏であったが、大正中期の火災により残片と化したため、神鏡を新調し、現在に至っている。
 祭神は事代主神・大山祇神で、三間社流造り柿葺きの本殿は、明治一四年の再建である。明治四〇年に森戸字台(現坂戸市森戸)の村社稲荷神社を合祀した。この社は本来、森戸の国渭地祇神社に合祀される予定であったが、お土産(財産)が無いとの理由から当社に合祀されることとなり、両社の氏子が協力して社殿を運んだといわれる。このほか、市場字大利原の村社大利神社・同境内社天神社・同八坂太神社、字本村の山王大神社、字光山の山神社、字谷ケ俣の愛宕神社を合祀し、更にその後、森戸字市場の神明神社・同境内社三峰神社を合祀している。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
 
 社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社  八坂神社の右隣に祀られている大利天神社
        
                          社殿付近から眺める境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「毛呂山町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」等
        

拍手[0回]


菖蒲町小林神社

 久喜市菖蒲町の元荒川の左岸には「小林」という地域名がある。全国的にも有名なこの名称であるのだが、この「小林」という名称を調べてみると、苗字に関して、全国で苗字ランキング第9位の大姓で、中部日本を代表する苗字である。特に、関東・甲信越地方に多く、そのほとんどの県でベスト5に入っている(埼玉県でも4位)との事。なかでも長野県では第1位の苗字、長野県発祥の小林氏も確認されていて、江戸時代の俳人小林一茶も長野県の北国街道柏原宿(現信濃町)の農家の生まれである。
 その由来として、『地形』や『地名』由来からでは、「小林」という名称は、「小さな林」や「林の近くの土地」に由来すると考えられていて、日本は森林が多い国であり、古くから「林」に関連する地名が各地に存在していた。そのため、全国のさまざまな地域で独立して「小林」という地名や苗字が生まれたという。
 因みに、当地域名では「小林」と書いて「オバヤシ」と読むのだが、この「オバヤシ」の「小」=「オ」は「御」のことともいわれることから、「小林」とは「御林」つまり、神聖な林という意味で、森や林を切り開いて土地を開拓するとき、土地の神様の住処(すみか)として「鎮守の森」を残し、そこには神社が建てられた。小林氏には神官が多いといわれているが、それは小林という地名が神様の森に由来していることと関連性があるのかもしれない。
 祭りのお囃し(おはやし)に由来する「小囃子(こはやし)」にも「小林」と音が共通し、何かしら語源と関連あるそうだ。土地や家が栄えることをあらわす古代語の「栄し(はやし)」から来るものもあり、「小林」に関する由来にはとてつもなく深い日本独自のおくゆかしさを感じたものである。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市菖蒲町小林2482
             
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 慰霊祭 211日 春例祭 48日 灯籠 78
                  
秋季例祭 108日 新穀感謝祭 1123日 他
 上栢間神明神社から埼玉県道312号下石戸上菖蒲線を北西方向に進み、久喜市立小林小学校のある「小林小学校前」交差点を左折する。同県道310号笠原菖蒲線に合流し、350m程進むと、進行方向右側に菖蒲町小林神社の正面入口が見えてくる。
 県道周辺には専用駐車スペースはないので、社の正面入り口の東側手前の路地を右折し、その後左側に回り込むと、その正面に社の一の鳥居が見える。当初、県道沿いから見る正面入り口は民家に挟まれ、その奥も石壁によって見えないため、あまり期待していなかったのだが、一の鳥居から北側にかけて続く長い参道と深い社叢林に囲まれた荘厳な雰囲気が漂う境内が広がっていて、まさに地域の方々に大切に祀られている鎮守様という印象がピッタリなお社であった
        
                 
菖蒲町小林神社正面
『日本歴史地名大系』「小林(おばやし)村」の解説
見沼代用水の右岸、栢間村の北に位置する。菖蒲領のうち(風土記稿)。西側に小林沼がある。慶長一二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩があった折、鴻巣宿から笠原村(現鴻巣市)を経て騎西町場(現騎西町)への道筋を当村など九ヵ村の百姓が開いたという(風土記稿)。同一七年・寛永八年(一六三一)検地があり(同書)、田園簿によると田高七九五石余・畑高五八三石余、旗本内藤・天野の相給。ほかに正眼寺領一二石・妙福寺領二一石余がある。
              
                                神橋の右隣に建つ社号標柱
                            その手前には伊勢参宮記念碑がある。
        
        入口を越えると、まず神橋があり、その先に一の鳥居が見える。

 久喜市菖蒲町小林地域は「おばやし」と称しているが、当地には「こばやし」苗字が数十戸住んでいて、周辺地域にもこの苗字は多い。
『新編武蔵風土記稿 小林村』には「小田原北條家分國の頃は、小林周防守が領せしよしを傳へ、且村内妙福寺の鬼薄にも、小林周防守法名蓮心居士、小林圖書頭法名蓮宗居士とのせたるをもて見れば、是等當所を領し、則ちこヽに居住し、在名を稱せしなるべし、今村民に小林を稱するもの五軒あり共に周防守が家より分れしものなりと云、又成田分限帳に百貫文小林監物、拾貫文小林圖書などのせたり、是等も周防守が一族にて、當所に住せしなるべし」と「小林周防守」が領有・居住し、、その子孫がこの地域に今でも存在していることが記載されている。
          
                       一の鳥居の先で、参道左側にある青面金剛像 
 嘗てその地域内には京手・下野寺・上手・木間ヶ根・本村・中上・大上・北東・小下・野々宮といった11の組がある。村の開発の時期はハッキリと分かっていないが、地内にある妙福寺は、応安元年(1368)に真言宗から日蓮宗に改宗したと伝えることから、当時既にこの地には相応の村が開かれていたものと推測される
 氏子の各組には、各々組で祀る神社があったが、それが大正二年に統合されて当社が誕生した。しかし、統合された後も、実際には旧地に社殿が残されたり、集会所に改築されたりして、各組の人々の拠り所となっていたようだ
 
 一の鳥居の先に朱を基調とした二の鳥居あり   境内には久喜市保存樹木であるクスの木
                          が聳え立つ。平成2年度指定を受けた。

     朱を基調とした二の鳥居          二の鳥居のすぐ先にある手水舎
 手水舎は古いが、柱に施された彫刻、木鼻の龍等の彫刻が素晴らしい。日本人の職人気質である匠の技が、このような場所にもさりげなく垣間見られる。
       
                    拝 殿
 小林神社(おばやしじんじゃ)  菖蒲町小林二四八二(小林村字京手)
 鎮座地の小林は、江戸時代には菖蒲領のうちで、慶長十二年(一六〇七)に徳川家康の鷹狩りがあった際、鴻巣宿から笠原村を経由して騎西に至る道筋を開いた九ヶ村のうちの一つであった。また、その地内にある妙福寺は、小林周防守忠宜を開基とし、三代将軍徳川家光から寺領二一石の朱印を受けた日蓮宗の大刹である。
『風土記稿』小林村の項によれば、村の鎮守は妙福寺の三十番神堂で、ほかに天神社・客人明神社(明治以降は白山社と改称)・三上明神社・稲荷社・平野明神社・八幡社・愛宕社・雷電社があった。これらの神社のうち、明治維新後の社格制度に当たり、三上明神社が三上神社と改称し、村社になった。一方、『風土記稿』で村の鎮守とされていた三十番神堂は、堂宇として扱われ、無格社にもなっていない。
 小林では、政府の合祀政策に従い、一旦は三上神社に村内の無格社を合祀したが、諸般の事情から大正二年二月二十日に改めて無格社白山社に字本村の村社三上神社、字森下の八幡社、字北東の稲荷社、字宮後の平野社、字小下後の水神社、字木間ヶ根の天神社、字中上の本宮社、字北東の雷電社・第六天社・稲荷社・妙見社、字野々宮後の愛宕社、字野々宮前の八雲社を各々の境内社と共に合祀し、社号を小林神社と改め、村社とした。このような経緯により当社は成立し、大正四年四月には境内を拡張、整備し、本殿及び拝殿が改築された。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
『新編武蔵風土記稿 小林村』
「客人明神社 元白山を勧請せしが いつの頃よりか 客人神に祀りかえしと云 是も妙福寺持なり」

        
          拝殿の右隣には廊下によって繋がれている社務所がある。
             旧村社レベルでは初めて見る配置である。
        
                    本 殿
 小林地域で古くからある伝統行事が春秋の例祭と灯籠で、春季例祭には氏子による獅子舞である「水ささら」が奉納されている。春季例祭の48日という祭日については諸説があるが、江戸時代からこの日には妙福寺の三十番神堂の前でササラの奉納があったというところから、三十番神堂の祭日を継承したものと思われる。
 春季例祭に奉納されるササラ獅子舞の起源は、口碑に「安政六年(1859)の大水害の際に、上流から三頭の獅子頭を納めた箱が流れてきて、これを妙福寺に奉納しておいたところ、いつのころか村人が摺(す)り方(舞い方)を覚え、三十番神堂の前で行うようになった」といい、「水ささら」の「水」とは、言い伝えにある獅子頭が流れ着く原因となった洪水に由来するものと考えられているという。
        
                              社殿から眺める境内の風景
 かつて小林神社の獅子舞「水ささら」は、戦前まで法眼(ほうげん)・中獅子(なかじし)・女獅子(めじし)の3頭獅子による庭場舞(にわばまい)、付属芸能の居合抜き・棒術、村内を摺り歩く道中舞(どうちゅうまい)が行われていたという。その後、昭和30年代以降に一時期途絶えたが、平成元年に復興し、現在は小学生を含む幾多の有志が稽古に励んでいるという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

拍手[0回]