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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

埼玉古墳群の謎(13)村君王子とは

 埼玉県羽生市の北東部で、利根川が群馬県側に張り出した突出部の南岸部、自然豊かな自然堤防上に位置する地域は昔から「村君」と謂われている。羽生市は標高が平均14、5m位で概ね平坦地が多いが、この村君地区は下村君鷲宮神社に隣接した村君公民館一帯の標高が18,3mと、すぐ北に目を移せば利根川の土手が見え、周辺地域は加須低地の中にありながら比較的小高い地域であり、嘗て縄文時代のこの辺りは起伏のあるローム台地で、台地上に竪穴住居で暮らしていたらしい。
 この「村君」の地名の由来説はいろいろあり、新編武蔵風土記稿の下村君村には、村社である鷲神社は、村君王子と云う人の住んでいた地であり、後年これが村名となったとあるという。この村君王子という人物は古藤の由来の案内板に引用された彦狭島王ともその子供である御室別王、または「村君太夫」や「御諸別王の娘」とも言われ、どちらにしても古くから高貴な人とゆかりのある伝承が存在する土地ということは確かなようだ。

        
                下村君地区に鎮座する下村君鷲宮神社

 この下村君地区の南東部には加須市上樋遣川地区があり、そこには樋遣川古墳群がある。かつては7基古墳が存在していたらしいが河川の氾濫や開墾などでほとんどの古墳は削平され、現在は3基残っているのみである。この古墳群の一つに諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明されたようなものだと思われる。

 御諸別王は「日本書紀」によれば、景行天皇56年8月条によると、任地に赴く前に亡くなった父・彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが実際には東国には至ってはいないらしく、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、三世孫の御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といわれている。

 またこれも伝承の域でしかないが、この御諸別王には2人の子どもがいて、その娘は下村君の豪族“村君大夫”のもとへ嫁ぐ。下村君にはこの姫を祀った神社があり、御廟塚古墳のすぐ近くに鎮座する“鷲宮神社”、かつては“鷲明神横沼明神合社”と称えられ、横沼明神は、御諸別王の息女を祀ったということだ。また村君に隣接する“発戸”や“名(みょう)”にも、桑原大明神と八幡神社に祀られた一位社、二位社、三位社などの高貴な人にまつわる伝説が残っている。このように下村君地区の伝承、伝説範囲は思っていた以上に広範囲であり、そこにはある共通で特定の文化圏が存在し、それがこの地域の伝承として後世に語られているように感じられる。


              
                     下村君鷲宮神社拝殿 拝殿は古墳上に鎮座している。

 ところで前出の横沼明神は、現在村君鷲宮神社の境内社となっているが、この横沼神社には天穂日命の子孫の彦狭島王の子・御室別王の姫(娘)を祀った社で、父・彦狭島王を祀る樋遣川村の御室社へ、「おかえり」という里帰りの神事が明治時代まで行われていたという。この「おかえり神事」とは、その昔、村君大夫に嫁いだ娘が、父の眠る御室神社へ、「おかえり」と称して毎年里帰りをしていたという伝承を形式化した神事であり、先頭に神主、姫の代わりの神輿をかつぎ、御鏡と赤飯を乗せた馬を引き、鷲宮神社から御室神社へ里帰りをしたという。
 この「おかえり」神事は、利根川北岸の栃木県野木町鎮座の野木神社や、足利市板倉地区の板倉神社、同市松田町地区の松田神社にも同名の神事が存在している。各地域の神事の詳細には相違点がかなりあり、上野国那波郡を中心に広がる伝承・伝説の「那波八郎大明神事」と同じ形態と思われる。伝説、伝承が周辺地域に広がるにつれ細部に微妙なズレが生じることは今も昔も変わりはない。いわゆる伝承のドーナツ化現象のひとつであろうか。


                                
                                             栃木県下都賀郡野木町に鎮座する旧郷社 野木神社

 野木神社の伝承によると下野国造の祖で、豊城入彦命(崇神天皇第1皇子)の4世又は6世の孫とされる奈良別王が、下毛野国に赴任する際に、莵道稚郎子命の遺骸を奉じてこの社に祀ったという。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。弘安年間(鎌倉時代)に配祭の五神(応神天皇、神功皇后、宗像三女神)が祀られた。

 奈良別王は「記紀」等には事績は記されていない人物であるが、「先代旧事本紀」国造本紀・下毛野国造では、仁徳天皇時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。また「新撰姓氏録」大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。

  奈良別王は別名「奈良君」と呼ばれていたという。この「君」という称号は古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示すカバネ、又は氏姓制度と言われるの一形態という。カバネの由来はかなり古くまで遡り、ヤマト王権が成立する以前から、在地の豪族や団体名に使われたと思われ、代表的な原始的カバネとしては、ヒコ(彦、比古、日子)、ヒメ(比売、日女、媛)、ネ(根、禰)、ミ(見、美、彌、耳)、タマ(玉、多模)、ヌシ(主)、モリ(母理、守)、コリ(古利、凝)、トベ(戸部、戸畔)、キ(岐、支)などがある。これらの原始的カバネは名称の語尾に付くもので、今日でも「ヒコ」や「ミ」など、人名の語尾によく使われるものもある。

 その後ヤマト王権が勢力を拡大し、王権を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与された称号と言われている。この制度は世襲制で、臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・直(あたい)・首(おびと)・史(ふびと)・吉士(きし)など三十種余に及ぶ。古くは氏人が氏の長(おさ)に付した尊称であったが、朝廷のもとに諸豪族が組織づけられるにつれて政治的・社会的な序列を示すものとなったという。これらはのちの天武天皇の代、684年(天武13年)に、整理されて8種類の「八色の姓〔やくさのかばね〕(=「真人〔まひと〕・朝臣〔あそみ〕・宿禰〔すくね〕・忌寸〔いみき〕・道師〔みちのし〕・臣〔おみ〕・連〔むらじ〕・稲置〔いなき〕」)」に移行し纏められた。

 「君(又は公)」のカバネを持つ氏族の多くは第9代開化天皇以降の王室を祖先と称する氏族で、概ね、畿内の中小豪族(例えば犬上公、大三輪君等)、または、倭王権下にきっちりと取り込まれてはいない地方の独立的大豪族と言われている。
 遠隔地の地方豪族は筑紫君、大分君、火(肥)君、阿蘇君、上・下毛野君というように地名を氏の名としており、多くは国造(クニノミヤッコ)として、巨大な地方勢力を擁し、ヤマト王権から半独立の関係にあったといわれている。特に筑紫国・肥国・備国・越国・総国・丹国・毛国は上、下国と別れる過程においても古代倭国の中でも有力豪族が存在していたからこそ国を分けられたのであろう。(備国は3国に分割されるのだから別れる前はもよほどの大国だったのだろうか)君の称号を持つ地方豪族のほとんどは、令制国と言われた7世紀中頃から明治時代まで続く地方行政区分で上、下2か国に分かれた国の出身者である。

 開化天皇の時期(4世紀前半)に遠くの地方豪族に派遣できる勢力を当時の大和王権が保持していたと思えず、いわば体裁上天皇家を祖先にしているようにも思え、恣意的な印象を拭えない。通説においてもこのカバネ制度と言われる発祥の経緯は明確ではなく、また大化以前に制定されたとされる政治制度が存在していた確証もない。記紀等の文献には、各天皇の治世時に、氏の名に付属して一般にカパネの称号といわれているものが多数記載されているのみで、その呼称が当時大和王権の政治的地位や身分をあらわすように見えるところから、カパネの制度が想定されているが実情だ。例えば大和王権の最高位の位である「大臣大連」でも、日本書紀では世襲制と記述されておらず、あくまで個人名が記されているのみである。確かに大臣には平群臣・許勢臣・蘇我臣などの臣姓氏族が、大連には大伴連・物部連などの連姓氏族がついているが、そのうち明瞭に世襲制とみられるのは大連では大伴氏(室屋→談→金村)、大臣では蘇我氏(稲目→馬子→蝦夷)ぐらいで、他は全く世襲制では記載されていない。また王権内の職掌としての氏族的な意味合いもまた不鮮明で、軍事的氏族が大伴・物部氏であったことは記されているが、それ以外の氏族は明瞭でないのもまた事実である。筆者が一言いわせていただけるのであれば、答えは簡単で、王権配下の最高位の実力氏族の権力闘争の過程において、勢力の消長があたかも制度上世襲制に見えるだけではないのか、ということだ。
 
 記紀の記述においても、崇神天皇前までのヤマト王権は大和国南部の三輪山麓一帯に逼塞していた一地方の小豪族でしかなかった。当然周辺地域にもいくつもの豪族がいたであろう。それら豪族には独自の氏(ウジ)やカバネが存在し、その一族の血統序列的統合構造が形成されていたのではないだろうか。その後ヤマト王権はいくつかの有力氏族と連合し勢力を拡大する。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしてもこの王権は、近畿地方だけではなく、各地の同等な力を持つ豪族と同盟関係を持つゆるやかな連合政権であったとみられている。その連合の過程で氏やカバネの本来の構造から、ヤマト王権から豪族へと付与される構造へと変貌したのではないだろうか。

 ところで君の称号を持つ地方豪族は記紀において、古代ヤマト王権の天皇家を祖に記述されている。
  ・ 筑紫君              孝元天皇第一皇子、大彦命
  ・ 大分君・火(肥)君・阿蘇君  神八井耳命(綏靖天皇同母兄)
   *但し肥君の祖先の別説には国津神である建緒組(たけおくみ)という人物ともいう。
     (肥前風土記・肥後風土記・先代旧事本記、国造本記)
  ・ 上・下毛野君           崇神天皇皇子、豊城入彦命

  この地方豪族の祖とされている神八井耳命や大彦命、豊城入彦命は、それぞれ現代でいう皇位継承権を持つ歴とした王権の一族を束ねる長として登場しているが、決して皇位にはついていない方々だ。

 神八井耳命 
  ・初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、『日本書紀』綏靖天皇即位前紀では、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、己卯年11月に片丘の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に死去したという。

 大彦命
  ・大毘古命とも書く。第8代孝元天皇の第1皇子で第9代開化天皇の実兄にあたる。母は欝色謎命。四道将軍に任命されて北陸道()を任される。他に、子供の武渟川別は東海道()、吉備津彦は西道()、丹波道主命は丹波道に遣わされた()。このとき天皇は詔して「もし教えを受けなければ討伐せよ」と言うと、印綬を将軍に授けたという。高志国に遣わされた大彦命と、東方に遣わされた建沼河別は相津で行き会った。それでその地を相津()(会津)という。大彦命の後裔の一族は北陸に特に多い。

 豊城入彦命
  ・第10代崇神天皇皇子。母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。豊城命と弟の活目尊の世継ぎ問題では、弟(活目尊=第11代垂仁天皇)を指名し、兄の豊城入彦は東国統治を命じられた。崇神天皇はこの命に先立つ30年ほど前にも四道将軍を派遣していて、2回目の東国派遣となる。ある説によると、豊城入彦命は実際には東国には至っていないと見られ、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは三世孫の御諸別王が最初ともいう。

 君の称号を持つ地方豪族は九州・関東に集中して分布している。なにか関連しているのであろうか。

  

 ところで隋書には「君」について興味深い記述がある。

 「隋書」東夷伝 第81巻列伝46 倭(俀)国

 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。

【現代語訳】

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。

 中国の歴史書である「隋書」には、推古天皇の時期に倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋王朝に朝貢した当時の日本(倭国)についての記述がある。遣隋使と謂われるこの朝貢使は600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されていて、上記の内容はその第一回にあたる。ちなみに有名な「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」という国書を隋王朝の天子(煬帝)に送ったのは第二回であり、中国は伝統的に中華思想という自国を世界の中心と考え、周辺諸国は中国に使いを出して朝貢(家来になる)し、中国皇帝より諸国の王に封じられて初めてお付き合いが出来るため、当時の天子である煬帝は立腹したという。

 話は戻るが、この開皇二十年の朝貢では、当時の倭王は姓が「阿毎(あま、天)」で、名前が「多利思比孤(タリシヒコ)」と言い、「阿輩雞彌(オオキミ、ワガキミ)」と敬称され、同様にその奥さんも「雞彌(キミ)」と呼ばれていた。「雞彌」が「君」であることには異論はなく、7世紀初頭に「君」の称号を使用していた確かな根拠といえる。
 また「大王」は「オオキミ」とも読み、別名「大君」と記述している書物も存在することから「王」=「君」ともいえる。「君」の称号は7世紀初頭の倭国にとって高貴な称号だったと思われる。

 この「君」の称号は684年(天武13年)に「八色の姓」が制定され、それまで「君・公」姓だった氏族のうちの有力な氏族は、第1位の「真人」や第2位の「朝臣」の姓を与えられたが、奈良時代になっても上毛野氏等は「朝臣」姓ではなく「君」姓を名乗っていたように、「君」の称号は一種特殊で、格式のある称号と地方の豪族は思ったのだろう。現に記紀に続く歴史書である続日本紀では「君」を使用した姓が非常に多かった為、この事態を重要視した時の朝廷は以下の勅命を下した。

   天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ。(続日本紀 天平寶字3年10月(759))

 つまり、「君」は古き遺産を象徴する憧れの的の称号であり、特別の証であったのではないだろうか。

 
 長々と「君」の称号について記述したが、その理由はほかでもない。武蔵国北東部の先端部に存在する「村君」という地名は、カバネとしての「君」に関連した称号名が後世土地名に変化したものではないだろうか。あくまで状況的な憶測にすぎないが、上記で紹介した樋遣川古墳群の一つ御室塚古墳は、上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として明治政府の調査があったことや、下村君村に伝承として残る村君王子等、ある特定時期に高貴な人物がこの地に君臨していた可能性は、ないとは決して言い切れない不思議な伝承ではあるまいか。

 その不思議な伝承に囲まれた下村君地区には有名な永明寺古墳がどっしりと構えている。

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