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古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群(4)

武蔵国造の乱」と埼玉古墳群との関係      

      
                             丸墓山古墳
            笠原氏の後裔の王者が埋葬されているとされているが真相は・・・・

 
日本書紀 第27代 安閑天皇の代(534年)、世にいう「武蔵国造の乱」が起こったという。この文献の年代の真偽は事実と見るか否か、様々な意見があるが今回その正否は論じない。

 ところでこの乱の年代はまさにさきたま古墳群の築造時期内に起こっている。
古墳群の築造順は5世紀末に築造された稲荷山古墳を初めに二子山古墳丸墓山古墳愛宕山古墳鉄砲山古墳瓦塚古墳奥の山古墳将軍山古墳中の山古墳浅間塚古墳戸場口山古墳の順で歴代のさきたまの豪族の古墳つくりの約150年間の歴史は終わる。そして
武蔵国造の乱は年代でいうと愛宕山古墳築造時期に相当する。
 「武蔵国造の乱」は時代や登場人物等、安閑紀の記述を全て鵜呑みには出来ないが、何がしかこの記事のモデルとなるような事件はあったのではないか、という各歴史学者の見解は状況的に見て的を得ているように思われる。

 それではまず最初に『日本書記』の記事の全文を引用してみよう。

日本書紀 第27代 安閑天皇

武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族(うがら)小杵(をき)と、国造を相争いて、
使主・小杵、皆名なり。年経(としふ)るに決(さだ)め難し。小杵、性(ひととなり)(うぢはや)くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて走げ出づ。 京に詣でて状を言(まう)す。朝庭臨(つみ)(さだ)めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅(ころ)す。国造使主、悚(かしこまり)(よろこび)(こころ)に交(み)ちて 、黙已(もだ)あること能はず。謹みて国家の為に、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)、四處の屯倉(みやけ)を置き奉(たてまつる)る。是年、太歳甲寅(きのえとら)


現代文訳

 武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おぎ)とは、国造の地位を争って長年決着しなかった。小杵は性格が激しくて人にさからい、高慢で素直でなかった。ひそかに上毛野小熊(かみつけぬのおぐま)に助力を求め、使主を殺そうと図った。使主はそれに気づき、逃げ出して京に到り、実状を言上した。朝廷では裁断を下され、使主を国造とし、小杵を誅された。国造使主は恐懼感激(喜懼交懷)して、黙し得ず、帝のために横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(たひ)、倉樔(くらす)、の4ヶ所の屯倉を設けたてまつった。 この年、太歳甲寅。 

  このどの一族ならばなにかしらありそうな内部対立の抗争で、この笠原使主、笠原小杵2名は国造の地位を争い、お互い後ろ盾(盟主か?)を立て最終的には使主の勝利となったわけであるが、この文面では疑問を感じてしまう様な表現が幾つかあり、それを検証してみたいと思う。

1 まず最初にこの文面に出てくるそれぞれの名前にそもそも違和感を感じる。それぞれ「オミ」、「オキ」という似たような音韻であるにも関わらず、一方は一族の長のような「使」、それに対してもう一方は一族の傍流のような「杵」。第三者が客観的に見ても「小杵」には絶対的不利な表現だ。
 またこの二人は武蔵国造の地位を争って長年決着しなかったと記載されているにも関わらず、笠原直使主の前にはちゃんと「武蔵国造」と記述されている。この時期はお互い「武蔵国造」を自称している時期だったはずで、使主にだけこの名称がつくことはアンフェアである。

2 また日本書紀における笠原小杵が故意に卑しく表現している書きたてられているということだ。

 *  小杵は性格が激しくて人にさからい、高慢で素直でなかった。ひそかに上毛野君小熊(かみつけぬのおぐま)に助力を求め、使主を殺そうと図った。

 大体日本書紀は天皇家側の利益を考えて書かれた史書である。自然と自国に有利である相手に対しては甘く擁護的で、敵対関係にある勢力に対しては筑紫君磐井や山背大兄皇子、蘇我入鹿など、故意に卑しく表現している傾向がある。この笠原小杵のに関しての記述は安閑天皇前々の代の武烈天皇の悪口や非道ぶりを綿々と書き連ねられていることを思い起こしてしまう。

① 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
② 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
③ 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
④ 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
⑤ 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
⑥ 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

 日本書紀における武烈天皇は非常に悪劣なる天皇として描かれているに対して、『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。同じ時期に完成した二書であまりに違いすぎる記述だ。
 つまりこの相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたというものだ。この場合、言葉に表現できない残虐なことを記述すればとするほど、次代の正当性も中国の歴代の王朝交代のように、天命に依り仕方なくそれに代ったという正当化をし、下剋上をごまかして表現を粉飾しているにすぎないということだ。

 つまり、笠原小杵を悪ざまに描くことで、朝廷側の笠原使主の武蔵国造の正当性を強調しているということだ。もっと突っ込んで言えば、本来の正当である系統は笠原小杵ではなかったのか、ということである。それに対して「性格が激しくて人にさからい、高慢で素直でなかった」
笠原使主が都の権力を利用して、武蔵国造の地位と権力を乗っ取った事件ではなかったのかと。

 また「小杵を誅された」と書かれているが、だれが直接手を下したのか。朝廷なのか笠原使主なのかその文面における主語がだれなのか判らないし、誅した方法も全く不明でいきなり「誅す」となっている。最終的に4か所の屯倉が手に入ったわけで朝廷側には勝利の戦いであり、得るものも多かったわけであるからもっと詳しい記述があってもいいはずだが、それがない。この点も不可解だ。

3 上文でも紹介したが、「武蔵国造の乱」はさきたま古墳群を造っている最中に起こっている。 この古墳群は笠原氏の築造した古墳と言われている説が大多数であるが、一方で一族同士の戦いをしながら、片方で自分の一族の墓を造る、そんな余裕のある裕福な一族だったのだろうか、また戦略的に見ても二方面を同時に進行することは愚の骨頂と言われる。普通ではとても考えられない。

 『日本書記』には
「国造の地位を争って長年決着しなかった」と記述され、長時間緊張状態があったことがはっきり記述されている。また「(笠原小杵は)ひそかに上毛野小熊に助力を求め、使主を殺そうと図った。使主はそれに気づき、逃げ出して京に到り、実状を言上した」というように笠原使主にとって一時期不利な状況に陥ったことも簡潔だが克明に記されている。

 またこのことについて、こう反論するかもしれない。「この乱の最中は古墳建造を一時中断していたから決して記述は矛盾していない」と言われるかもしれない。がこの説明は正直厳しい。6世紀中に築造されたさきたま古墳群の数は実は大変多い。この時期に築造された古墳は以下の通りだ。
・ 二子山古墳
・ 丸墓山古墳
 愛宕山古墳
・ 鉄砲山古墳
・ 瓦塚古墳
 奥の山古墳
 将軍山古墳
 この期間だけでも7基築造され、最後の前方後円墳である中の山古墳を築造中という状況だった。驚くことに丸墓山古墳と二子山古墳はほぼ同時に造られたという。武蔵国最大の古墳と、日本最大の円墳がほぼ同時期とは!客観的に考えて、平素中でもこの築造ペースは速く感じるし、なにより大量の財と人員が必要である。地方の一豪族である笠原一族にとてもそれだけの力があったとは思えない、というか正直言って不可能だ。



つまり結論から言うと前回「埼玉古墳群(3)」で紹介したが、

この地を含め広範囲に有力な勢力が現れたことを示すと共に、その勢力は埼玉郡内の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたことを推察させるものであることが逆に「武蔵国国造の乱」によって証明させられたようなものではなかろうか。








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埼玉古墳群 (3)

武蔵国各郡おける古墳の状況      

                        
                           行田市八幡山古墳石室
                        埼玉郡には古墳時代多種多様な古墳が出現したが、埋葬者は全くの不明
                                                    な古墳が大半を占めている。

そもそも古墳の定義とはなんであろうか。

古墳
 一般的には古代の墳墓という意味をもっているが、日本の考古学研究ではもうすこし、限定的な用い方をしている。「墳」の字には土を盛り上げた墓という意味があるから、「古」の字が単に古い時代であるとしても、中世や近世の盛り土の墓を古墳とはよばない。それは中世墳墓、近世墳墓と称している。したがって古墳とは、日本の古代、ことに弥生(やよい)時代終末の西暦3世紀後半に出現し、7世紀末ごろまでに築造された高塚の墳墓を古墳とよんでいる。

 古墳は規模の大小は別として、土もしくは石を積んだ墳丘を有し、その内部に遺骸(いがい)の埋葬施設をもっている。また質・量に関係なく副葬品が添えてあることが基本的な姿である。この遺骸埋葬施設を、古墳の内部主体あるいは内部構造とよんでいる。古墳にはまた外部施設として墳丘に段築を設けて、二段もしくは三段築成とした例がある。大型墳丘の古墳に段築が多い傾向が認められる。墳丘やその周囲を巡る堀の中堤・外堤上などには、円筒埴輪(はにわ)、器財・人物・動物などの形象埴輪が立て巡らされている古墳もある。墳丘の傾斜面には葺石(ふきいし)が敷かれ、墳丘の土の崩落を防ぐためと、古墳の聖域化を意図したことに始まったものと思われる。

 古墳の築造に際しては、相当量の人力を投入する必要があり、大規模な土木工事となるため、労働力を集中・管理することが可能な社会的地位の人物の存在を推定できる。遺骸に添えた副葬品もまた、古墳被葬者の生前の財力・権力などを具体的に表現しているものと解釈できる。古墳は死者に対する手厚い埋葬の方法であり、だれもが古墳に埋葬されたものではなく、ある特定の人物のための墓であり、一般民衆の墓ではない。つまり政治的権力者あるいは社会に君臨した支配者のための墓であって、それ自身が墓であると同時に、一種の歴史的・社会的な記念物である。したがって古墳の出現は政治的権力者の登場、政治的社会への変質を意味しているので、前の弥生時代と区別して、古墳がつくられていた時代すなわち「古墳時代」とよんでいる。

1 埼玉県の古墳の出現時期

 埼玉県域では、古墳は4世紀中頃から出現する。最古の古墳は児玉、男衾、比企地方を中心に築かれた。塩古墳群(熊谷市江南)、山の根古墳(吉見町)、根岸稲荷古墳(東松山市)、鷲山古墳(児玉町)などである。

 4世紀後半になると、古墳が造られる地域は拡大した。この頃造られたものに、例えば熊野神社古墳(桶川市)、三変稲荷神社古墳(川越市)、高稲荷古墳(川口市)などがある。熊野神社古墳は、円墳でありながら、畿内大和政権との結びつきを抜きにしては考えられないほど豪華な副葬品が埋葬されていた。三変稲荷神社古墳は方墳で、碧玉製石釧や白銅製の四神四獣鏡を出土している。高稲荷古墳、4世紀後半~5世紀前半頃に築かれた全長75mの前方後円墳だったが、現在はすでに破壊されていて、その姿を見ることができない。その後も、埼玉県域にあたる北武蔵の各地で古墳が造られたが、その規模や墳形をみると、直径50m前後の円墳や中規模の前方後円墳がほとんどである。

 5世紀末~6世紀初めになって、行田市周辺の古代埼玉(さきたま)地方と東松山市周辺の古代比企(ひき)地方で、はじめて全長100mクラスの巨大な前方後円墳が出現する。

 古代埼玉地方では西暦500年前後に全長120mの稲荷山古墳が出現し、それに続いて、かっての武蔵国(むさしのくに)で最大規模の全長138mの二子山古墳、日本最大の円墳である丸墓山古墳(102m)が築かれ、6世紀後半からは、鉄砲山(112m)、将軍山(95m)と大型古墳が相次いで築造された。比企地方では、6世紀末ごろに全長115mの野本将軍塚古墳が出現した。だが、なぜかその後は周辺の古墳は再び60m前後へと規模を縮小してしまう。

 一方、東京都から横浜市、川崎市周辺の南武蔵では、4
世紀の後半から5世紀の前半にかけて全長100mを超える大古墳が出現している。(全長125mの芝丸山古墳はその最大)。上毛野地域では、5世紀中頃に東日本で最大といわれる全長210mの天神山古墳が太田市で築かれている。その被葬者の先代の墓とされる全長168mの別所茶臼山古墳もある。だが、南武蔵でも上毛野でも、5世紀の中頃を境にして、それ以後の古墳の規模は小さくなってしまう。

武蔵国の古墳体系を古い順で追うと
 ① 男衾、比企、児玉地方  4世紀中頃          約30m~60m位の小、中規模古墳         
 ② 東京都、横浜地方    4世紀後半~5世紀半ば    約80m~120m位の中、大規模古墳                 
 ③ 埼玉郡、比企郡            5世紀前後                      約100m位の大規模古墳                        
 ④ 埼玉郡                        5世紀中頃~6世紀後半    約80m~140m位の中、大規模古墳                
 ⑤ 比企郡                        6世紀後半~6世紀末       約115mの大型古墳
                                           
 このように、武蔵国北部で4世紀中に初期古墳が児玉、男衾、比企地方から発生し、時代が下るに従い周辺に広がったようだ。大型古墳の出現時期は南武蔵地方(4世紀後半~5世紀半ば)、埼玉地方(4世紀後半~6世紀後半)、比企地方(5世紀中~6世紀前半)と時期が限定される特徴がある。

2 南武蔵地域の古墳

 
南武蔵地方に出現した荏原(台)古墳群。この地方は4世紀後半から5世紀にかけて築造された亀甲山古墳、宝来山古墳(大田区)、野毛大塚古墳(世田谷区)や芝丸山古墳(港区)、白山古墳(川崎市・加瀬、消滅)などの大古墳がある。今では地域的に二分して、田園調布古墳群野毛古墳群に分けられている。現在の大田区内には弥生遺跡も多く、4世紀末から5世紀前半には、その首長は宝来山や亀甲山古墳に埋葬された。出土品は祭祀型のものが多い。また東京都港区芝公園、東京タワーから見下ろせる芝公園の中に、5世紀築造と考えられている南武蔵最大の前方後円墳「芝丸山古墳」がある。

 都内の前方後円墳順位は以下の通り
    1 全長125m  芝丸山古墳        前期  4世紀後半                        
    2 全長107m  亀甲山古墳        前期  4世紀後半                        
    3 全長97.5m  宝来山古墳                 前期  4世紀中葉                        
    4 全長70m   擂鉢山古墳                 前期?                        
    5 全長60m   浅間神社古墳       5世紀末~6世紀初頭

① 芝丸山古墳
  築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125m(案内板では106m前後)、前方部前端幅約40m、後円部直径約64mで、都内では最大級の規模。くびれ部幅約22mの前方後円墳である。明治時代に調査されたが、後円部に存在したと思われる埋葬施設は確認されず、詳細は不明である。出土遺物に埴輪片などがあり、5世紀代の築造と考えられている。
最近では4世紀台築造の、武蔵国最古級の前方後円墳であろうという見解が有力になってきている。

 その後
5世紀前半に、現在の世田谷区に武人型の首長が現れ、武器を中心とする出土品を多出する野毛大塚古墳が出現した。

② 野毛大塚古墳
 
墳丘長82m、後円部径60m、高さ10m、前方部幅40mの帆立貝形古墳である。後円部は3段になっており、前方部は極端に短く低い。現在、世田谷野毛公園の一部となっている。墳丘、葺石、埴輪配置、左くびれ部に一段と低い造出部、周囲に最大幅13mの馬蹄形周濠が復元されている。5世紀前半の築造であり、出土品より、武人である首長が埋葬されたと思われる。畿内中枢・倭王権の力が強くなってきた5世紀では、権力構造に見合う墓制を作り、前方後円墳を最上とし、前方部の長さの短い帆立貝式前方後円墳、帆立貝形古墳、造出付円墳と階層化したと発掘報告されている。

 第一主体部より、長方板皮綴短甲1、頸項、肩項、三角板皮綴衝角付冑1、鉄剣・鉄刀19、鉄続鏃25以上、刀子1、鉄鎌2、銅剣1、内行花文鏡1、石製模造品18、堅櫛30以上、勾玉4、管玉40、丸玉2、小玉・白玉2000以上など、第二主体部より、鉄刀、甲冑、石製模造品243、勾玉12、白玉37、第三主体部より、鉄剣・鉄刀32、鉾2、鉄鏃約200、石製模造品14、第四主体部より、直刀1、鉄剣1、丸玉2の出土があった。


 この古墳は、武器や生活用品に関しては、模造品で、上野毛国・白石稲荷山古墳でも同じセットが出土しており、上毛野国から持ちこまれたもの、出土した甲冑は、武蔵で最古のもので、これも上毛野から与えられたらしいと推定され、同時に、野毛大塚古墳の第一主体部の石製模造品は畿内から持ち込まれたこと、大量の武器・武具の副葬品の品目と配列状況は、むしろ畿内の古市・百舌鳥古墳群を形成する中規模古墳と一致し、上毛野勢力でなく、畿内中枢と直結する説もある。どちらが真相であろうか。


3 比企、男衾地方の古墳

 埼玉県の比企地方は、今でこそ東京や埼玉新都心といわれる埼玉の中心地から離れているが、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、北武蔵の中心地であったと想定される歴史をもっている。
 この地域は大略的に武蔵国の比企郡、男衾郡、横見郡に相当する地域で、歴史的にみて古代の比企郡・横見郡と男衾郡をまとめた地域を一つの文化圏と考えてもいいと思う。


比企郡

 古代の郡の位置では「下」の位にあったが、郡家郷・渭後郷(ぬのしり)・都家郷・鹹瀬郷(からせ)の4郷で、今の東松山市と鳩山町・川島町・玉川村・都幾川村など比企郡の南部一帯が中心であった。
  有力な首長墓としては4世紀中ごろの前方後方墳である諏訪山29号墳が最も古いものであり、これに続いて4~5世紀初頭頃に前方後円墳の諏訪山35号墳が築造されている。諏訪山35号墳は足立郡の高稲荷古墳と共に県内では最も古い前方後円墳であるとされている。
 5世紀に入ると、荏原郡と同様に、比企郡においても最有力の古墳は帆立貝式の雷電山古墳となり、築造された場所も同様に、諏訪山29、35号墳が築造された諏訪山からやや離れた地域に移動しており、荏原郡と共通する部分が多い。ただし比企郡では、埼玉郡の稲荷山古墳と同時期に墳丘規模においてこれに肉迫する野本将軍塚古墳が築造されており、この時代迄は埼玉郡の勢力と拮抗する力を有していたのではないかと推察される。しかし、埼玉郡のように100m級の前方後円墳が相次いで築造されるような事はなく、6C前半に築造された帆立貝形のおくま山古墳を最後に、以後目立った首長墓が築かれる事はなかった。



 諏訪山29号墳 前方後方墳 50.0m 4世紀中頃
 諏訪山35号墳 前方後円墳 66.0m 4世紀末~5世紀初頭
 雷電山古墳 帆立貝式 76.0m 5世紀前半~中頃
 野本将軍塚古墳 前方後円墳 115.0m 5世紀末~6世紀初頭
 おくま山古墳 前方後円墳 62.0m 6世紀前半

 ① 雷電山古墳
 東松山市の北部、大谷の丘陵(森林公園の北側)につくられた前方後方墳だが、前方部の張り出しが短い、いわゆる帆立貝式と呼ばれる形式の古墳で、全長76m、高さ7m。築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。
   野本将軍塚古墳
 松山台地の先端につくられた古墳で、全長115m、後円部の高さ15m、前方部の高さ8m。武蔵國でも最大の埼玉古墳群(行田市)の二子山古墳に匹敵する大きさである。築造時期は、5世紀後半といわれている。5世紀末から6世紀はじめにかけて比企地方では前方後円墳の築造が急速に進んだが、野本将軍塚古墳はその巨大なつくりからも、この地域の支配者としての古墳ではなかったかと想定されている。
        
                       野本将軍塚古墳 案内板
 ③ おくま山古墳
 全長62m、後円部の径が41・5mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と判明している。


横見郡

 横見屯倉が置かれた。当時の資料では「小」郡で、高生郷(たけふ)・御坂郷・余戸郷(あまるべ)の3郷で、今の比企郡吉見町にあたる。以下の古墳、古墳群が有名である。
 ① 山の根古墳   
 前方後方墳。全長約65m、後方部の高さ約5・5m。前方後方墳という古墳形式は、古墳時代の早い時期のもので、4世紀代につくられたものといわれ、比企地ではもっとも早い時期に出現した古墳。
 ② 久米田古墳群 
 6世紀以後の終末期の古墳群で胴張りのある横穴式石室があった。この近くには、埴輪をつくっていた和名埴輪窯跡がある。
 ③ 御所古墳群
 横見神社(式内社)の本殿は、古墳のうえに建てられているように見える。また、横見神社の左手にも円墳があって、ここにも小さい社が置かれている。


男衾郡 

 「中」郡で比企地方ではもっとも大きく、榎津郷・カリ倉郷、郡家郷・多笛郷・川原郷・幡々郷・大山郷・中村郷の8郷で、今の大里郡江南町・寄居町・川本町など荒川右岸一帯の地域と小川町・嵐山町・滑川町など比企郡の北部地域にあてはめられている。


 ① 塩古墳群
 熊谷市旧江南町の塩にある古墳で、全長38mの前方後方墳1基と16基の方墳・円墳がある。いずれも古墳時代前期の4世紀につくられたもの。4世紀、北武蔵の古墳のなかでも最初の時期、山の根古墳(吉見町)、諏訪山29号古墳(東松山市)とならぶ古い時代の古墳群である。

 ② 野原古墳群
 熊谷市、旧江南町の野原にある古墳で、踊る埴輪が出土したことで有名な古墳。前方後円墳を含む20基以上の古墳群で、6世紀末から8世紀前半に推定されている。この地域の開発中に発見されたことからも、塩古墳群のようにきちんと保存されていない。

 ③ 鹿島古墳群
 白鳥飛来地入り口に広がる古墳群。56基の小円墳が河岸段丘ぞいに広がっている。円墳には荒川の河原石を積み上げた横穴式石室が築かれており、太刀や弓矢など武具が多く出土している。 特徴として小さな円墳の群集墳。七世紀初頭から八世紀初頭に築造された、と推定される。

 比企丘陵(男衾地域を含む)は、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であった。武蔵国の主導権を握るためにはどうしても抑えていきたい重要地帯ではなかったか、と推測する。



4 埼玉地方の古墳
 
古代埼玉地方は、古墳時代すぐ東が東京湾につながる埼玉沼という大きな湖に突き出た半島だったという。そして銘文の入った鉄剣の出土で知られる稲荷山古墳を皮切りに、一辺40mの方墳である戸場口山古墳まで、5世紀末から7世紀初頭の時期に、有力な規模の古墳が継続して造営された。埼玉古墳群は現在9基の大型古墳が東西600m、南北900mの狭い範囲に、旧状をよくとどめながら隣接して群れをなしている。

埼玉郡(北部)の古墳ベスト14



二子山古墳埼玉古墳群138.0m6世紀前半
稲荷山古墳 埼玉古墳群 120.0m 5世紀後半 
小見真観寺古墳小見古墳群 112.0m 6世紀後半 
鉄砲山古墳埼玉古墳群 109.0m 6世紀前半 
真名板高山古墳真名板古墳群 104.0m(実測127m) 6世紀後半 
若王子古墳 若王子古墳群 103.0m 古墳後期(消滅) 
将軍山古墳 埼玉古墳群 90.0m6世紀末 
中の山古墳 埼玉古墳群79.0m 6世紀末 
永明寺古墳 村君古墳群 78.0m 6世紀前半 
瓦塚古墳埼玉古墳群 75.0m 6世紀前半  
奥の山古墳 埼玉古墳群 70.0m 6世紀中頃 
三方塚古墳若王子古墳群 70.0m 古墳後期(消滅) 
とやま古墳  69.0m 6世紀前半(消滅)
毘沙門山古墳 羽生古墳群 63.0m 6世紀後半 

(*赤く記載されているものは埼玉古墳群以外の古墳)

 埼玉郡内では前期の有力な首長墓は知られておらず、5世紀末に突然120mの稲荷山古墳が現れ、以後、埼玉古墳群やその周辺地域に100m級の前方後円墳が立続けに築造されるようになる。前方後円墳が廃れた後も、径80mの大円墳である八幡山古墳を築く等、稲荷山古墳以来、武蔵国において最も有力な地域であった。

 このように、古式の古墳から漸進的に大形前方後円墳へと移行する他地域に対し、5世紀末に至って突然、大形の前方後円墳が築造されるようになるのが埼玉郡の特徴である。

 また埼玉郡の古墳は、埼玉古墳群以外の場所にも、同時期に大型古墳が埼玉郡北部に多数存在している。 この事は5世紀後半頃に、この地に武蔵国で広範囲に有力な勢力が現れたことを示すと共に、
その勢力は埼玉郡内の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきた
ことを推察させるものである。

 ではその外部の勢力とは一体どの勢力だろうか。


 


 

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埼玉古墳群(2)


                埼玉古墳群 将軍山古墳
 二重の方形をした周濠を持ち、埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。 墳形は千葉県君津市内裏塚古墳群中の稲荷山古墳に類似し、後述の石室石材とともに埼玉古墳群を造成した武蔵国造と内裏塚古墳群を造成した須恵国造の親密な関係がうかがわれるという。

伊興の津

 伊興氷川神社があるあたり、足立区東伊興町一帯から古墳時代の大規模な集落/祭祀遺跡である「伊興遺跡」が発掘されました。住居跡の他に多量の土師器、滑石製の紡錘車、有孔円盤、剣形品、平玉、臼玉、ガラス小玉、銅鏡、須恵器、子持勾玉等が出土しております。これらは日常生活における実用品ではなく、水と関係する祭祀に使用された祭器であると考えられております。

伊 興遺跡は毛長川沿岸の自然堤防上に位置しますが、毛長川は当時この辺りで400m程度の河道を持ち、ゆったりとカーブしていたので、水上交通の停泊地として理想的な安定した流れと水量、深さを有していたと思われます。また、当時はすぐ近く迄東京湾が達しており、利根川や荒川の河口も近く、この事から伊興遺跡近辺には港(津)があり東京湾から関東平野内陸部へ人や物を輸送する為の中継地点として交通の要衝を為していたのではないかと推測されます。

 例えば、西東海地方に多く出土する、口縁部断面がS字形になる「S字甕」という土器は、関東地方においては東京湾岸沿いでより古く、内陸部ではより新しい時代に出土する事が知られておりますが、埼玉県内でも事情は同様で、三ツ和遺跡からはS字甕が5世紀前半代の層から出土するのに対し、行田市近辺では5世紀後半から6世紀にかけての層から出土しております。またS字甕の分布の拡散は当時の川筋に従っておりますので、西方からの文物は当時の主要河川の河口が集中していた足立区の伊興遺跡を経由して、内陸部へとと伝播して行ったという事が推察されます。
 
伊興遺跡では、出土した祭器の多くは当時の川辺と思われる地域から多く出土していますので、豊漁や水上交通の安全を祈る祭祀が頻繁に行われていたのではないかと言われております




 つまり、毛長川流域の伊興地区は五世紀から七世紀にかけての約二百年間、この辺に大集落があったことが、ここ四十年来の調査で明らかになっており、関東地方の玄関口として、この地域を基点として各河川沿いに、旧入間川、元荒川、古利根川(中川)ルートに分かれ内陸各地へ至ったと推測される。

 また近郊には伊興古墳群が存在し、現在確認出来ているものは全て6世紀後半以降の円墳であり、古墳築造が各地域の首長クラスのみならず支配下のムラの有力者クラスにまで拡大した頃の群集墳であると考えられるこの古墳の出現時期6世紀後半はまさにさきたま古墳群の築造時期に重なり、当時の直接的にしろ間接的にしろ交易相手だった可能性が高いと思われる


 「埼玉の津」の近郊に「伊興の津」があり、その「伊興の津」を中心として舟運ネットワークによって情報を共有し形成されていたと推察される。その根拠として「埼玉郡」の存在があげられる。


 この「埼玉郡」は不思議なほど南北に長く、東京湾から行田市周辺名で島状に点在する集落が古利根川や元荒川を通じて、同一の地域的交易圏を形成していたのではないかと考えられる。伊興から埼玉に至る交通路(水路)はまさに埼玉郡の郡内にすっぽりと包括されているし、何より埼玉郡内に鎮座する久伊豆神社はこの元荒川流域内に分布するのは偶然ではなく、その埼玉郡のトップによって政治的で戦略的な意図をもって建てられたものと現時点で考える。



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埼玉古墳群(1)


 
      
                         丸墓山古墳前の桜並木

 埼玉古墳群は、埼玉県行田市にある、9基(*浅間塚古墳、戸張口山古墳を含めると11基)の大型古墳からなる古墳群である。利根川と荒川に挟まれたローム台地の北端に位置し、5世紀後半から7世紀前半にかけて約150年間継続的に築造された大型の前方後円墳が密集する日本有数の大型古墳群である。この古墳群は昭和13年8月に国の史跡として指定を受け、「さきたま風土記の丘」として整備された。


 さきたま古墳群

  関東平野の中央部に位置する埼玉古墳群は、日本有数規模の古墳群である。前方後円墳、円墳、方墳という多様な形態を示す大型墳が密集し、古墳時代の中期から終末期にかけて継続的に造営されており, 我が国の古墳文化の実相を端的に示す文化遺産である。また規格上の特徴として全国的にも稀な長方形二重周堀で、周堀間の中堤帯や後円部に造出しを有し、8基の前方後円墳は全て同じ方向軸であるなどの固有の特徴を有している。古墳群の出土品には、稲荷山古墳から出土した115文字の国宝・金錯銘鉄剣をはじめとして、銅鋺や馬冑・旗竿等、国内においても希少性の高い文物が多く含まれている。さらに、埼玉古墳群に供給された埴輪を生産した窯跡(鴻巣市 生出塚窯、東松山市 桜山埴輪窯、寄居町 末野窯)や石室に使用した石材も判明していることも貴重である。

 埼玉県はここを史跡公園「さきたま風土記の丘」として整備。県内の県立さきたま資料館には、金錯銘鉄剣をはじめとする貴重な出土品が展示してある。また、1997(平成9)年には将軍山古墳展示館がオープンし、復元された古墳内部の石室が実物大で見学できる。

                    

 
 ところで、埼玉古墳群には他の地方の古墳群にはない不思議と謎が存在する

1 大型古墳(丸墓山古墳は除く)はなぜか後円墳の方向が全て北西に向いているのはなぜか。
2 丸墓山古墳だけ円墳なのはなぜか。
3 埼玉古墳群の埋葬者は本当に笠原氏一族なのか。
4 埼玉古墳群は5世紀から7世紀にかけて成立していたと考えられているが、狭い地域に大型古墳が周濠を接するような近さで、一貫した計画性をもって次々と築造されたのはなぜか。
5 大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない二重周濠が、一地方の古墳にすぎない前方後円墳のほとんどに巡らされているのはなぜか。
6 これほどの大古墳群を150年にわたり継続的に築造した一族が、その後歴史の彼方へ消えてしまったかのようにどの文献にも出てこない。それはなぜか。
7 この古墳群には大きな集落が見つかっていない。人々の生活の痕跡が見つかっていないのはなぜだろう。
8 そもそも、この古墳群をなぜこの埼玉の地につくったのか。

以下の項目について素人ながら検証したいと思う。


1 5世紀頃の古代埼玉郡の地形

 
嘗てこの地方は北の利根川と南の元荒川に挟まれた低湿地帯で池や沼が非常に多く、埼玉の津は元荒川に連なる沼の船着場だったようだ。小埼沼はここから南東2km程の元荒川の支流・旧忍川沿いの田園地帯の中に、宝暦3年(1753)年に忍城主・阿部正因に依って比定され建立された石碑と祠(ほこら)が立って居る。

 この地が嘗て沼地だった証拠の一つとして、旧忍川を越えて小埼大明神の北1km程の沼地は現在「古代蓮の里」になっている。ここの古代蓮は、ゴミ焼却場建設の際に出土した種子が発芽したものだそうだが、そもそも蓮は湿地帯の沼などに自生する植物で、古代蓮の種子が出土するということ自体、この地が古代から湿地帯だったことを意味する。

 「小埼沼」の歌 巻9-1744の雑歌(詠み人知らず)
  埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし  
 

 武蔵国を歌った相聞歌 巻14-3380(詠み人知らず)
 佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね

  

 
 このように行田市には沼地が多い。後世であるが永世6年(1509年)に武蔵国の忍城を訪れた連歌師・宗長が「城の四方は沼地にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水鳥が多く見え、まことに水郷である」と綴ったと書物に記されている。16世紀初頭でこのような状況であるならば、それからまた1,000年昔の埼玉地方はさらに多くの沼地、湿地帯が点在し、未開の原野が広がっていたのではないか、と推測するのは飛躍しすぎだろうか。

 嘗て万葉時代には「埼玉の津」と呼ばれたように、江戸湾が内陸部に大きく食い込み、水郷であり湿地が多かった。大小の河川が蛇行しながら流れ、東京湾に注ぎ込んでいた時代には、沼と沼を川や水路でつなげ、交通や荷物運搬の手段として舟を使用していたのである。主な河川は、利根川と荒川であり、流れの経路が変えられる以前は大きい舟でまとめて荷物を運び、いろいろな所に設けられた河岸場(やっちゃば)で荷物を小舟にわけて運んだといわれている。羽生や行田、熊谷にもやっちゃ場はあったと記されている。

 つまり万葉集に登場する「埼玉の津」は河港でかつて埼玉古墳群を築いた一族の対外的交流拠点として古墳に使われた石材や埴輪をはじめ多くの物資や文化が行き交った「内海の港(津)」だったと思われる。


 ところで、この時代の交通、交易のための船はどの程度の大きさだったのだろう

 日本の船舶は古代の丸木舟以来、外板が応力を受け持つモノコック構造だったのである。舟形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、平安時代の遣唐使船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬船など内水面で使用された船舶に至るまで、日本の船舶は全てこのような設計思想のもとに建造されていた。
                                    ウィキペディアより引用

 古墳時代当時に使用していた船は、全長5~8メートル程度の丸木船が主流ではなかったと思う。このような船は太平洋、日本海等、外洋航海には不向きで、主に河川での運用であった。埼玉県ではこのような丸木船の発見は25例あり、草加市立歴史民俗資料館の展示室には「縄文時代の丸木舟」が透明ケースの中に納められているので興味のある方は御薦めする。
 さてこの程度の規模の船による運搬では、食料補給の問題、漕ぎ手など人的問題等考慮すると、遠海航法は到底できず、陸地を離れずに見える範囲の地形や山を目視しながら航海するといった「地乗り航法」
が主流だった。また、通常は夜間航海は行わなず、天候など状況が悪化したらすぐに島影、岬、湾内のような安全圏に避難できるくらい慎重であったようだ。

 以下の点を踏まえると、「埼玉の津」に到着するためには、補給等の関係で、その前にも多くの「津」の存在がなければ到底実現できないと思われるが、武蔵国でそのような遺跡、痕跡はあるのだろうか





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