古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

矢島長良神社

 群馬県邑楽郡明和町矢島地域は邑楽郡明和町の西北部谷田川右岸の位置にある。この地域は、古くから開発されてきた地域である。というのも、昭和333月谷田川中小河川改良事業と併せて行われた明和村土地改良区の事業の際に発見された「矢島遺跡」は、縄文時代から古墳時代までにわたり当時の人たちが暮らす貴重な遺跡や遺物が多く発見されており、文化的価値が非常に高い遺跡として知られている。この遺跡は国道122号線を中央に挟み、西側に2か所、東側に1が所の合わせて3ヶ所にある。当時の明和村教育委員会が最初に現地を試掘調査したあと本調査が実施され、明和村立明和西小学校の児童による遺物採集の協力もあり、多数の深鉢、壷、貝輪状土製品、石器等が採集され、縄文時代中期末から古墳時代に及ぶ複合遺跡であることがわかった。その後、昭和59年千葉大学考古学研究室の麻生優氏により、前回の遺跡付近を発掘調査したところ、縄文時代晩期の住居跡と平安時代の住居跡などが発見された。
 平成元年、
2年と東京電力が送電線の鉄塔を立てることになり、その予定地を明和村教育委員会が試掘調査をしたところ、縄文時代晩期のさまざまな遺物が発見された。その後、本調査である発掘調査をした結果、縄文時代中期から晩期にかけての土器や石器等の多彩な遺物を採集することができた。その後、同教委は幾たびも発掘調査を行った。主なものをあげれば、平成144月矢島遺跡の隣接地に東京ガスの輸送導管を埋設する事業を行うことになり、その事前試掘調査をした後に本調査の発掘をした。遺跡からは、縄文時代中期後半から晩期にかけての土坑(人為的竪穴)、深鉢、土器破片、炉の跡、石器類等の遺物が採集できたという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町矢島14501
            ・ご祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 
                 菅原道真公 大山祇命 他八柱
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(天王祭) 715
                               秋祭り 1015日。(*それぞれ15日に近い日曜日) 
 国道122号線を北進し、「川俣駅入口」交差点で右折、群馬県道361号矢島大泉線を100m程進んだ十字路を左折し、「矢島公民館」が見えるすぐ先の十字路右手に矢島長良神社の正面鳥居が見えてくる。前出矢島公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
       
                  矢島長良神社正面
『日本歴史地名大系』「矢島村」の解説
 谷田(やた)川右岸にあり、東は南大島村、南は大佐貫村。村中を日光脇往還が通る。尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)によると、永禄三年(一五六〇)尭雅が上州佐貫遍照寺に逗留している。遍照寺は矢島村にあった寺である。天正一八年(一五九〇)榊原康政が館林に入封すると、遍照寺一三世宥円の徳を慕い、館林城に近い新宿村(現館林市)に遍照寺を移した。現在も遍照寺の地名が村北部に残る。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方四九四石四斗余・畑方一六八石三斗とある。天和二年(一六八二)の分郷配当帳には旗本山田・植村・井上領の三給となる。
        
                   境内の様子
        鳥居から社殿に向かう参道は、若干上り坂となっているようで、
      更に社殿前には石段があり、周囲より一段高いところに鎮座している。
             
                石段上にある「御大典記念碑」
『御大典記念碑』
 村社 長良神社
 祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 菅原道真公 大山祇命
       宇迦之御魂命 素戔嗚命 市杵島姫命 大海津見命
       久那戸神 八衢比古命 八衢比売命 木花開耶姫命
 御本社長良神社ノ沿革ヲ〇フルニ其由緒古クシテ舊記ニモ見エズ口碑二依レバ長良神
 社ハ瀬戸井村長良神社ノ分祀ナリト云フ而シテ文政六七年以前二ハ字大宮二在リシガ
 須賀村破堤ノ際荒蕪野地ト爲リ氏子参拝二不便ナル爲字北谷二輔祀セリ其後神社合祀
 ノ令二依リ明治四十二年縣ノ許可ヲ〇〇字北谷二祭祀セル村社長良神社及境内末社水
 神二社稲荷神社愛宕神社富士嶽神社〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 神社字遍照寺無格社長良神社及末〇稲荷神社道祖神愛宕神社厳島神社〇〇〇〇〇〇〇
 格社清瀧神社字南谷厳島神社ヲ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 合祀シ後二長良神社ト改稱セリト云(以下略)                       記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 
   拝殿左側に祀られている根本山神       社殿奥に祀られている石碑三基
                      出羽三山社、食行霊神・角行霊神、磐長姫命

 根本山(ねもとさん)は、栃木県と群馬県に跨がる山で、標高1,199m。
 栃木県佐野市飛駒町と群馬県桐生市梅田町五丁目・みどり市東町沢入に跨がる。桐生市梅田町の最高峰である。桐生川の最上流部に位置する。中腹に根本山神社があり、江戸時代に山岳信仰の対象として庶民の信仰を集めた。江戸時代には信仰により多くの参詣者が訪れ、根本山の周辺地域には根本山への里程標「根本山道標」が設置され一部現存している。
 根本山の山気に浴して山霊を鎮魂することで神通力を得、心身の苦難を排除できるという民間信仰であり、江戸時代には参詣案内書が発行され、関東から東北方面にかけて広く信者が集うほどの盛んな講に発展したという。

 ところで、明和町矢島地域には、「御影田(みかげだ)」という地名に関しての伝説があり、『明和町の文化財と歴史』には「富士山供養塔」との名で紹介されている。どちらも話の内容は同じであるので、後者の話を全文紹介したい。
「富士山供養塔」
 矢島地区旧国道を横切る佐貫排水路の脇に高さ1m15㎝、幅35㎝の富士山供養塔が立っており、傍に植えた松が覆うように茂っている。昔、北国から富士登山を行う一行があった。
 その中に一人の年寄りがいたが、寄る年波に身体も意の如く動かず、ただお参りしたい一念で旅立ちはしたものの、一行より遅れて矢島村に差し掛かった時には、もはや力もつきはてて路傍に倒れてしまった。無念のあまり遠く富士を望んだところ、不思議にもその一念が通じたのか、水田の水面に鮮やかに富士山の霊姿が写り、有り難く伏し拝みながら遂に息絶えたと伝えられている。その後、人々はこれを非常に哀れみ、その弔意から路傍の一里塚に富士山供養の碑を建てて一句を刻んだと言われている。
 今でもこの地を御影田と呼んでいる。
「昔此の田に富士の影写りしかばふじの雲裾ひきあげて田うゑかな 翁(せいおう)

        
                境内より鳥居方向を撮影



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」    
        「Wikipedia」「境内記念碑文」等
                

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田島長良神社

 明和町は梨の産地である。社の鎮座する県道沿いにも梨園、及び直売店が数多く見られる。梨の栽培適地は火山灰土や砂地などといわれているが、この田島地域は他の明和地域より若干標高が高く、土壤も砂質で梨の栽培には適しているという。
「明和村の民俗」によると、田島地域の梨つくりは明治6年頃から明和村へ入ったといわれているが、そのころはそれほど盛んではなく、大正78年ころ陸稲つくりがひろがり、旱魃にあいやすいので、桐の木を畑に植える人が出たりしたが、その後、梨つくりが流行した。羽田(場所は不明)が先進地で、そこから大きい木を買い、植えて拡張したもので。それから苗木から仕立てるようになった。梨は旱魃の影響がほとんどなく、田島の梨は裁培を始めてから四代目となり、すっかり地域の特産になっている。
 因みにこの地域での梨の肥料には有機質を使用していたという。大豆粕・油のしめ粕・堆肥等で、堆肥は麦のから(麦わら)を積んで、利根川の草を刈り、人糞尿をかけて何回も積みかえをしてつくる。稲藁は梨畑の地面に敷く。そら豆をつくって緑肥としてふみこんだのは大正初年頃のことであるという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町田島165
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             ・社 格 不明
             ・例祭等 不明
 田島は、群馬県邑楽郡明和町を構成する地域の一つである。大部分が田畑となっているが、県道沿いには住宅などが集中する区域も見られる。また、邑楽郡明和町内の中央部に位置しているこの地域は、西側には新里、南は江口、北には南大島等の地域と隣接している。
 新里菅原神社から埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中進行方向左側に明和町立名和中学校が見え、そこから更に800m程進むと、県道沿い左手に田島長良神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する田島長良神社
『日本歴史地名大系』 「田島村」の解説
 南大島村の南に位置する。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、大荒木郡佐貫庄田島之郷検地帳(奈良文書)が残る。末尾が欠落しているため全容はわからないが、下田二一筆・上畠二七筆・中畠二四筆・下畠七四筆・屋敷五筆が数えられ、名請人のほかに分付百姓の記載がある。大荒木郡は邑楽郡の古訓表記である。慶安四年(一六五一)の検地帳写(同文書)によると、上田五町一反余・中田三町四反余・下田一五町五反余、上畑九町二反余・中畑八町五反余・下畑一六町三反余、屋敷一町六反余。名義人計六五、うち村内四五・村外二〇(江口村一七・新里村三)、屋敷三〇筆。寛文郷帳によると田方二三〇石余・畑方二四六石余、館林藩領。
        
                    拝 殿
            この社も創立年代・由緒・社格・例祭等不明
 
 拝殿の左側に祀られている境内社・八幡社      社殿奥に祀られている石祠二基
                               詳細不明
 田島長良神社の詳細は不明であるが、「明和町HP 明和町の文化財と歴史」によると、この地域には「正和の板碑」と称する鎌倉時代後期に造られた板碑が田島地域の青木氏屋敷内で出土している。
 この板碑は井戸掘りをしている途中出土したものといわれ、高さ89㎝、幅29㎝、鎌倉時代後期の正和4年(131536日に造立したものである。板碑は鎌倉時代中期から造立された塔婆形式の一つで、関東地方では埼玉県秩父郡長瀞町付近から産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)が主として用いられている。その始まりについては五輪塔の地輪を長くした板塔婆、あるいは長足塔婆の形状を木製から石材にしたものと推察できる。この造立の目的は、亡者の追善供養に建てたものは墓地に、生前に後生を願うために建てたものは路傍などが多いようである。この板碑の梵字は阿弥陀仏を表している。阿弥陀仏は平安時代末期、法然上人によって立教開宗(りっきょうかいしゅう)された浄土宗によって広められたものであるが、身分の高下、職業の貴賤を問わず、またどのような罪深い人でも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は阿弥陀仏の救いにあずかり、必ず極楽往生できるという平易な教えであったため、庶民の間に急速に浸透していき法然死後も浄土真宗を開いた親鸞上人等によって後生次第に発展していったようである。
 正和の板碑は、明和町の文化財に指定されている。
        
                             境内に祀られている富士塚
      塚上に石祠が一基、塚の左右に「烏帽子磐」と「小御岳」の石碑がある。



参考資料「日本歴史地名大系」「
明和町HP 明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

        


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新里菅原神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町新里113−1
             
・ご祭神 菅原道真公(推定)
             
・社 格 不明
             
・例祭等 石経様 527日 厄神除け 628 
 東武伊勢崎線川俣駅から350m程東側の地に位置し、埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線沿いに鎮座する社である。熊野那智大社文書に「永正二年(1505)、上野国佐貫庄新里雅樂助・同名太郎左衛門」とあり、嘗て新里地域には、佐貫氏族新里氏がおり、邑楽郡佐貫庄新里村に移住し、当地名「新里」を名乗ったという。因みに「新里」と書いて「にっさと」と読む
        
                
新里菅原神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「新里村」の解説
中谷村の東に位置する。永正二年(一五〇五)八月二一日の旦那願文写(熊野那智大社文書)によると佐貫庄の新里雅楽助・同名太郎左衛門らが紀州熊野那智山に参詣している。両人は新里の住人であろう。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三二六石余・畑方一八四石余。弘化三年(一八四六)の国役金掛高帳(「明和村誌」所収)によると利根川国役普請役を課せられていた。
        
                          一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
                  二基の鳥居の社号額には「天満宮」と表記されているが、
                グーグル等の地図等には「菅原神社」として案内されている。

『明和村の民俗』によると、
嘗ての新里の村構成は以前六〇戸で、「本当の新里は六〇戸」等という言い方をする。三十年程前までは、地縁により東ドウバンと西ドウバンの二つに新里を分け、東ドウバンがギョウバン様(地蔵寺)の祭を担当し、西ドウバンが天満宮の祭を担当した。その後三つの地域に分けて、それぞれ一番組、二番組、三番組とよび、祭り番はギョウバン様、天満宮ともに一年交替で行っていた。
 ドウバンの中は、さらに組合に分かれていたが、現在でも冠婚葬祭はこの組合を中心に行う。組合とは別に十戸単位で隣組というのがある。隣組は納税組合と回覧板をまわす単位になっているという。
        
                         綺麗の手入れされた境内
        
                    拝 殿
 拝殿の規模といい、境内に祀られている境内社や庚申塔の数からみても、旧
新里村鎮守社・旧村社の社格如きは当然であろうと思われるのだが、創立年代や由緒を記した物が手元になく、残念ながら社格には「不明」と記してしまった次第だ。
    
拝殿向拝部や木鼻部に施された色鮮やかな彫刻    拝殿手前で左側にある力石、手水舎・石燈籠
                                        石燈籠は「嘉永六昭陽赤奮若 龍集九月下荀五日」
        
             境内にある記念碑・庚申塔・石碑など
  左から凱旋記念碑・庚申・庚申・庚申塔・(?)・庚申・羽黒山 湯殿山 月山の石碑
        
      社殿左側横にある明和町指定史跡である「経塚附石経圓塔」を納めた祠
 明和町指定史跡 経塚附石経圓塔
  昭和五十六年四月七日指定
  所在地 明和町新里一一三番地
  所有者 菅原神社
 新里地蔵寺中興の祖、行鑁上人が疫病退散を祈願、心身を清め一石一字真心を込めて大般若心経を書写し正徳三年(一七一三)神社の北西に埋めた。
 明和八年(一七七一)地蔵寺僧慶陳がこの圓塔を建て所在を明らかにした。
 昭和五十六年十一月 明和町教育委員会 
                                                                             案内板より引用
 また、令和2331日発行の『明和町HP 明和町の文化財と歴史』には「「ぎょうばん様」を以下の記述により紹介されている。
「ぎょうばん様」
 小比叡山地蔵寺の中興開山行鑁上人(ぎょうばん様)の略伝には、「寛永 17年(1640年)に奥州白河(福島県)に生まれ育ち、才智が非常にすぐれており、仏の教えをよく守り、徳行ともに人並みより優れ、希にみる高徳の僧であり、永く仏徒・村民の模範とすべきである」と記されている。
 ある時上人は、一石一字、大般若経六百巻、光明真言百万遍を書写して、この世の疫病による災難を救おうと一大念願を起こした。近隣教化の途中淨石を拾ってきて、その石に一字を書くごとに三礼をしながら書写した。それが終ったのは正徳3年(1713年)527日、その石を鎮守社(新里天満宮)の北西の隅に埋め、石経圓塔と称する塔を建てた。その後は、毎年病にならないよう法要(石経様)を行うようになった。これ以降、その功徳により村は永いこと疫病の憂いから解放された。たまたま近隣に悪疫が流行した時には、石経圓塔を発掘して村人に拝ませると悪疫は去っていったと伝えられる。この石経圓塔は町の指定史跡に定められている。上人は臨終に「67月は疫病の流行する時期であるので、我が法要は6月に行うように。」と遺言して息絶えた。時に享保2年(1717年)927日、享年77才だった。以降、上人の遺徳を偲び、毎年527日には法要(石経様)を天満宮にて続けている。また、7月下旬には行鑁堂で法要を行い、境内にて行鑁祭(夏祭り)が盛大に
経塚附石経圓塔行われている。
『明和町の昔話』にも「行ばん上人と厄よけだんご」として上記と同じような話が掲載されている。
        
               本殿奥に祀られている合祀社
        諏訪大明神・稲荷大明神・長良大明神の額が掛けられている。
        
                   静かに佇む社



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「
明和町HP」「明和町の文化財と歴史」等

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千津井三嶋神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町千津井5152
            
・ご祭神 大山祇神(推定)
            
・社 格 旧千津井村産土神・旧村社
            
・例祭等 春祭り 315日 夏祭り 7232425
                 
秋祭り 1115
 群馬県邑楽郡明和町千津井地域は、利根川中流域左岸にあり、江口地域の東側に接している。途中までの経路は江口諏訪神社を参照。そこから、東方向に進む道を650m程進むと、左手に千津井三嶋神社の鳥居が見えてくる。
「千津井」、なかなかの難解地名であるのだが、鎌倉時代に記録のある地名のようで、「せんづい」と読む。因みに、埼玉県旧騎西町には苗字として「泉津井(せんづい)」と名乗っている家が数戸あるというのだが、何か関連性があるのであろうか。
        
                 
千津井三嶋神社正面
            参道や鳥居も新しく整備されているようだ。
『日本歴史地名大系』 「千津井(せんづい)村」の解説
 江口村の東、利根川左岸に位置する。中世は佐貫庄に含まれ、嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書)に添えられた弘願寺寺領注文に千津井郷がみえる。下って天正一五年(一五八七)一一月一九日の北条家朱印状写(「紀伊続風土記」所収)には館林領千津井郷とみえ、梶原源吉に郷内八八貫八二〇文の知行を与えている。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方一四四石余・畑方三五〇石余。
        
                    拝 殿
              この社は南向きで、利根川に向かって社殿は配置されている。
   境内周辺には由緒等記している案内板はなく、創立年代等はハッキリとは分からず。

 千津井の産土神は三島神社で、明治の神社合併で愛宕様・天神様・八幡様・戸食様・稲荷様・雷電神社も合祀されている。三島神社は梅原にも一社あるが、あとは上の方に一社あるだけといわれている。昨年、本社に氏子たちが参拝に行って来た。御神体としては丸い鏡で、藤原という名のある柄鏡の柄をとって祀っている。河川改修で利根川の流れの中に入ってしまい、大正二 年に現在地に移転し今年完成した。
 三島神社の祭りとしては、春は三月十五日、夏は七月二十四日で、このときは二十三・四・五日の三日間あり、秋は十一月十五日の三回ある。七月の祭りは二十三日に神社で祭典があり、雹害と五穀豊穣の八丁締めを立てる。高い所へ立てるので氏子が梯子等を用意していて立てる。二十四日には早朝、有力者の先輩の家の庭で舞う。また希望を受けてやる。
 ニ十五日はササラをする。ササラに参加する者は、青年の場合と村全体の場合とがあった。
 ニ十六日は祭りに使った道具を整理、洗濯をして、収納箱に納めてから慰労会(直会)をした。例によってやることで、貰った御神酒なども処分した。残ると耕地毎に分けた。
                                 「
明和村の民俗」より引用
        
             拝殿には「正一位三島大明神」と表記

 嘗て利根川に橋がないころは、県の費用で渡し船を利用していた。渡し場は千津井・川俣・梅原・江口・斗合田と大体2㎞間隔位にあった。その中の「千津井の渡し」は、埼玉県と交代で人夫船(頭)に出て人々を渡した。斗合田境と江口境の二か所あり、その間は700mある。津井の渡し場には河岸があり昔は問屋が立ち並んだようだ。
        
             境内に祀られている庚申塔や馬頭観音等
 
        社殿横に祀られている末社群           末社群並びにお狐様が並んで祀られている。
  左から小天狗・大天狗・愛宕山神社・(?)        狐といえば稲荷神社であるが、
    辨財天・
(?)・庚申塔・道祖神        稲荷神社が近くに祀られているのであろうか。
        
                           社殿から見た利根川堤防の一風景

「明和村の民俗」によると、明和町で獅子舞を伝承している地域は、斗合田・下江黒•千津井・江口・梅原の五ヶ所あるという。その中の千津井では、三島神社の夏祭に獅子を出した。神前で舞ってから、笛.太鼓を鳴らしながら各戸を歩いた。 雄獅子(2)、雌獅子(1)棒使い(2)で構成し、道具持ちが付いて行く。演じる人は長男が多く。小学校四、五年生のうちからやった。 最初に棒使いをしてから、獅子舞に移る。()は高さ1m程の草刈、菴形の菴の中に一人入って蛇を持ち、笛の曲に合わせて蛇を出し入れするが、しまいには回りで舞っている獅子が、その蛇を飲む所作をする。「カネマキ」という名称である。「花」は花笠を被った四人が四隅に立ち、互いに縫うように踊る。
        
            社の東側の道端に大切に祀れている地蔵様
    周囲の木々の手入れもしっかりとされ、地域の方々の篤い信仰心を物語るようだ。 

「弓くぐり」は二人で長さ2mの弓を引っ張って、くぐって踊る。獅子舞の笛は竹製で、朱塗りのいい笛があり、座敷に上って吹く。
 七月二十四日が三島神社夏祭の本番で、獅子舞は申し込まれた家々を回って演じた。悪魔除けのため、お祓いを持って座敷に上り奥まで一巡してから、庭へ出て踊って行く。家族が獅子頭をかぶってもらうと悪魔除けになるという。
        
               千津井地域の利根川堤防の眺め



参考資料日本歴史地名大系」明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

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江口諏訪神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町江口10181
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧江口村鎮守社・旧村社
             
・例祭等 例祭 727
 群馬県明和町江口地域は、利根川中流域左岸にあり、上州三島神社が鎮座している梅原地域の西側にあたる。途中までの経緯は上州三嶋神社を参照。この社から東側に走る道路を3㎞程進んですぐ南側には利根川の土手が見える場所に江口諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  江口諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「江口村」の解説
 田島村の南、利根川左岸に位置する。暦応四年(一三四一)二月一〇日および康永二年(一三四三)八月二〇日の寮米保西内島村注文(正木文書)にみえる佐貫江口又四郎は、当地に関係する人物であろう。応永三三年(一四二六)青柳綱政は「佐貫庄江黒郷之内近藤原之村」内の畠一町を江口なる者に売渡しているが(同年一二月一九日「青柳綱政畠売券写」同文書)、この江口も当地に関わりのある人物とみられる。

 社の北側には集落が東西に走る道路沿いに連なっているのだが、社そのものが集落ではなく利根川方向に向く南向きで、参道も土手へと続いている不思議な配置となっている。
       
     入口の一対の柱にはそれぞれ卵形の自然石を利用した力石がある(写真左・右)

 この力石は多田市蔵(いちぞう)という人が文政2年(1819年)に奉納したものである。多田氏の先祖の市蔵という人が千津井の日野見屋という酒屋で、この石を担げれば一升くれるといわれ、かついで持ってきたものという。市蔵は連氏の四代前。一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「二十九メ余」(メは貫目)、もう一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「奉納四拾貫目文政二己卯、願主江口村多田市蔵」
 力石は、関東をはじめ日本全国に見られるが、場所によっては「さいいし」と言っているところもある。その多くは神社の境内等にあるが、やはり、卵形の自然石を用いたものが多く、これを持ち上げた人の姓名、石の重量などが刻んである。また、病人のあるときは持ち上げれば全快、上がらないときは見込みが薄い等、石占いに使用した例もある。いずれにしても最初は神意を伺うものとして始まったようである。昔は村仕事として洪水による堤防の土端打作業等があったが、現代と違って作業が全て人力によって行われたので、一人前の人間として平素から身体を鍛えておく必要があった。また、同時に力のあるものはそれを誇りにするとともに、威厳を示したのである。そのために若者たちが正月、盆、農休み等の集会時に力を示すために担いだ石が力石と呼ばれている。
 30貫の力石を持ち上げると一人前と言われていたが、実際は力石に刻まれた重量より2割ほど軽いのが普通となっているという。
       
         拝殿に通じる石段手前に設置されている「社殿新築記念碑」
 社殿新築記念碑には「諏訪神社旧社殿は、安政年間の改築にかかるもので、既に百四拾数年を経て老朽化が激しく、そこで、氏子総会を開き、この対策を議し、氏子割寄付金と篤志寄付金を以て、新築することに決し、平成拾壱年、拾弐年の両年を以て、完成したものである。」との事が記されているが、創立年代等はこの碑には記されておらず、他の資料も調べたが不明である。
       
                    拝 殿
        
       石段上に祭られている境内社・子神社。その奥には神興庫がある。
 子神社は「権現様」とも称され、権現様は足の神様で、足の悪い人がお参りし、治ると金の草鞋をあげた。子の権現が権現様と呼ばれるようになったという。

 明和町の「町のトピックス」において、2023722日(土曜日)江口地域の諏訪神社において、保存会による「ささら舞い」が、家内安全・五穀豊穣を願い、4年ぶりに奉納されたという。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているという。この神興庫の中に獅子舞の道具が保管されているのであろうか。
        
            境内北側に並んで祀られている石祠・石碑群
 左奥から長良大明神、八幡大神・天照皇大神宮、前鬼宮、雷〇、奉納石燈籠一基と刻まれた石塔、熊(野?)宮、稲荷宮、神〇宮、戸隠大神、(?)、辨(財?)天・大(神?)宮・天満宮、(?)、(?)、水〇〇、水神宮、水神宮、(?)。
        
                             社殿から参道方向を撮影
    鳥居のすぐ先には利根川の堤防があり、石段がわざわざ堤防上まで伸びている。

 ところで、『明和村の民俗』において、江口諏訪神社の祭礼に関して以下の記載がある。(*カナ文字に関して、筆者が可能な限り漢字に直している)。

 江口地域の鎮守社である諏訪神社の祭日は七月二十七日。これが本祭りで、前日二十六日の晩は「宵祭り」、二十八日は厄神除けであって、昔は祭礼にはササラが出た。四つの耕地にササラ番があった。一年毎に上・中・新田・下組の順にまわる。昭和五十六年は上がササラ番である。
 七月二十六日の晩は旗を上げたり、花を拵えた。これはササラ番の人が中心になってやるが、各戸一人は必ず出ることになっていた。昔はササラをやった。獅子頭は三つあり、雄獅子・雌獅子・中獅子とあった。ササラは村の人がやったが、奉公人は参加できなかった。
 ササラをやる前にボウヅカイが木刀で踊った。二十六日の晩は境内でササラをやった。
 二十七日の朝早く神官が来て拝んでくれた。この時は氏子たちもいった。境内でササラやったあと、役員の家を一軒一軒回った。役員というのは、区長、社寺総代四人.協議員各(耕地に二人ずつ)八人の計十三人である。この役員の家をまわった。昔は夜が明けてしまうこともあった。
 二十八日は厄神除けで、厄神除けをやってもらいたいという希望の家だけを回った。これをウラザサラともいった。厄除けはカミからシモにすってきた。神官が切ってくれた幣束をムラ境の上梅原・古森との境と下千津井との境の2カ所に立てた。立てる時には社寺総代と評議員もついていった。厄神除けをすると村に悪いものが入って来ないという。厄神除けの道順はきちんと決まっていて間違わぬようにした。
 なお、ササラは笛が四、五人いた。戦後暫くやっていたが、現在はやってない。道具などは諏訪神社境内の蔵に保存されている。
 
  鳥居の先にある石段を上り終えると、そこには利根川の雄大な流れが広がる。(写真左・右)
        利根川の対岸は羽生市・発戸地域、及び上村君地域である。

 昭和29年までは、江口・千津井・斗合田各地域には、渡し場があり、渡し舟で利根川を渡り、対岸の羽生市との交流を深めてきた。嘗ては羽生から簔や唐笠や金物や魚類などの、多数の行商人が舟で利根川を渡って町へやって来た。 盆・暮れなどハレの日の買い物には、こちらから川を渡って埼玉県側 に出かけて行ったとの事である。
 商売上の取り引きばかりでなく、人間自体の交流も盛んであった。村人の中には、羽生の人と縁組をする者も多く、花嫁を乗せた渡し舟が毎年のように往復したとという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等
 

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