山田八坂神社
・所在地 埼玉県秩父市山田159-1
・ご祭神 素戔嗚尊 (社格 不明)
・例祭等 例大祭 7月第3日曜日
栃谷八坂神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南西方向に600m程進むと、「八坂神社」Y字路の交差点があり、交差点の北側に山田八坂神社は鎮座している。因みにこのY字路を右折すると聖神社が鎮座する黒谷方面に達する。
当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。また、地形を確認すると、秩父大宮から来ると社の前で「わかされ(分岐点)」となっており、左が黒谷方面、右が皆野町三沢方面となり、社は交通の要衝地に鎮座しているもいえる。
山田八坂神社正面
嘗てこの地域に武蔵七党・丹党が入植し、在名である「山田」を称し、その後も子孫世々ここに居住したという。
『武蔵七党系図(冑山本)』
「白鳥七郎基政―山田八郎政成(岩田、井戸)―五郎直家―丹五郎直時・弟六郎直綱―時員」
『新編武蔵風土記稿 山田村』
「往古丹黨山田八郎政成この地に住し、在名を稱し、子孫世々こゝに居れり、今もその舊跡のこれり、村名の名義これによるなるべし(中略)
屋敷跡五ヶ所 一は小名向殿にあり、山田志摩守居住せし所なり、東西二町許、南北一町餘、東は山、南西は道を隔て畑なり、北は木戸原澤を構へり、東よりに山神社あり、一は小名向木戸にあり、遠山山城守居住せし所なり、其の地は三四十間四方許にて、字を内手と云ふ、神明の小社あり、此邊を向城門と云へるは、山田志摩守が門に對せし所なれば、かくは名づけり、」
『秩父風土記』
「山田村小名山田下郷、山田志摩守・丹ノ党」
拝 殿
境内に設置されている案内板
八坂神社 御由緒 秩父市山田一五九-一
◇疫病祓いの天王樣
鎮座地は山田地区の中でも北に当たり、栃谷と境を接する桑原沢にあり、当社の近くには、横瀬川と定峰川が流れている。また、この地は当社の前で道がわかされ(分岐点)となっており、西側が皆野方面、東側が小川方面である。
当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。なお、社地には、疫病を外へ追いやることから村のはずれのわかされが選ばれ、以来、毎年賑やかに例大祭 (夏祭り)が執り行われている。また、例大祭に高らかに打ち上げられる花火は「木戶原の花火」と呼ばれ、昭和初年までは、氏子が手作りの花火を奉納し、互いに腕を競ったという。
祭神は、素盞鳴尊で、社記によると、当社の神は勇猛で情けが厚く、疫病の地域への侵入を防ぐと共に地域外へ追い払う御利益があるという。
社殿は、平入りの入母屋造りで、その中に白木の本殿と神輿が納められている。神輿は大正期の製作で、一時期、飾り置きの時代もあったが、再び大祭での巡行が行われている。(以下略)
案内板より引用
案内板に載せられている「木戶原の花火」は、当社の例祭として7月21日に行われるお祇園の進上花火で、近在でも特に有名であったという。「東西、東西、ここに砲発火述の玉名は、『黄煙遊竜十段四方引き』この玉製造人は山田の八兵衛、これを八坂神社に奉納す」などと口上があり、高らかに花火が打ち上げられたとの事だ。
拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。 拝殿手前道路側には境内社が祀られている。
但し、詳細は不明。
当地では、村鎮守のほかに各地域持ちの社が多数あり、恒持神社宮司の坂本氏が出社して祭典を行っている。
「山田の春祭り」と呼ばれ、秩父地方で最初に山車の出る、恒持神社の例大祭は、秩父路に春を告げるお祭りともいわれている。午前11時前に恒持神社に3台の山車(笠鉾1台・屋台2台)が集合し、その後祭典が行われる。午後になると各山車が御旅所へ出発し、午後3時ごろ御旅所である八坂神社で祭典が行わるという。
この神社はグーグルマップでは「八坂神社(恒持神社 御旅所)」と記載されているが、この「山田の春祭り」に関係していることもあるであろう。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等