古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山田八坂神社


        
              
・所在地 埼玉県秩父市山田1591
              
・ご祭神 素戔嗚尊 (社格 不明)
              
・例祭等 例大祭 7月第3日曜日
 栃谷八坂神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南西方向に600m程進むと、「八坂神社」Y字路の交差点があり、交差点の北側に山田八坂神社は鎮座している。因みにこのY字路を右折すると聖神社が鎮座する黒谷方面に達する。
 当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。また、地形を確認すると、秩父大宮から来ると社の前で「わかされ(分岐点)」となっており、左が黒谷方面、右が皆野町三沢方面となり、社は交通の要衝地に鎮座しているもいえる。
        
                                   山田八坂神社正面
 嘗てこの地域に武蔵七党・丹党が入植し、在名である「山田」を称し、その後も子孫世々ここに居住したという。
『武蔵七党系図(冑山本)』
白鳥七郎基政―山田八郎政成(岩田、井戸)―五郎直家―丹五郎直時・弟六郎直綱―時員」
『新編武蔵風土記稿 山田村』
往古丹黨山田八郎政成この地に住し、在名を稱し、子孫世々こゝに居れり、今もその舊跡のこれり、村名の名義これによるなるべし(中略)
 屋敷跡五ヶ所 一は小名向殿にあり、山田志摩守居住せし所なり、東西二町許、南北一町餘、東は山、南西は道を隔て畑なり、北は木戸原澤を構へり、東よりに山神社あり、一は小名向木戸にあり、遠山山城守居住せし所なり、其の地は三四十間四方許にて、字を内手と云ふ、神明の小社あり、此邊を向城門と云へるは、山田志摩守が門に對せし所なれば、かくは名づけり、
『秩父風土記』
「山田村小名山田下郷、山田志摩守・丹ノ党」
        
                                       拝 殿
        
                              境内に設置されている案内板
 八坂神社 御由緒  秩父市山田一五九-一
 ◇疫病祓いの天王樣
 鎮座地は山田地区の中でも北に当たり、栃谷と境を接する桑原沢にあり、当社の近くには、横瀬川と定峰川が流れている。また、この地は当社の前で道がわかされ(分岐点)となっており、西側が皆野方面、東側が小川方面である。
 当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。なお、社地には、疫病を外へ追いやることから村のはずれのわかされが選ばれ、以来、毎年賑やかに例大祭 (夏祭り)が執り行われている。また、例大祭に高らかに打ち上げられる花火は「木原の花火」と呼ばれ、昭和初年までは、氏子が手作りの花火を奉納し、互いに腕を競ったという。
 祭神は、素盞鳴尊で、社記によると、当社の神は勇猛で情けが厚く、疫病の地域への侵入を防ぐと共に地域外へ追い払う御利益があるという。
 社殿は、平入りの入母屋造りで、その中に白木の本殿と神輿が納められている。神輿は大正期の製作で、一時期、飾り置きの時代もあったが、再び大祭での巡行が行われている。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に載せられている「原の花火」は、当社の例祭として7月21日に行われるお祇園の進上花火で、近在でも特に有名であったという。「東西、東西、ここに砲発火述の玉名は、『黄煙遊竜十段四方引き』この玉製造人は山田の八兵衛、これを八坂神社に奉納す」などと口上があり、高らかに花火が打ち上げられたとの事だ。
 
 拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。   拝殿手前道路側には境内社が祀られている。
                            但し、詳細は不明。

 当地では、村鎮守のほかに各地域持ちの社が多数あり、恒持神社宮司の坂本氏が出社して祭典を行っている。
「山田の春祭り」と呼ばれ、秩父地方で最初に山車の出る、恒持神社の例大祭は、秩父路に春を告げるお祭りともいわれている。午前11時前に恒持神社に3台の山車(笠鉾1台・屋台2台)が集合し、その後祭典が行われる。午後になると各山車が御旅所へ出発し、午後3時ごろ御旅所である八坂神社で祭典が行わるという。
 この神社はグーグルマップでは「八坂神社(恒持神社 御旅所)」と記載されているが、この「山田の春祭り」に関係していることもあるであろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等


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栃谷八坂神社

 修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教の密教的信仰が結びつき、さらに神道儀礼なども取り入れた宗教である。その行者である修験者は、山野に臥し苦修練業(くしゅれんぎょうして)呪術を体得した者である。従って修験は山岳地帯を中心に発達したが、関東平野に展開する武蔵国では平地に寺院を構えていた点に特色がある。彼らは中世から近世にかけて村落に定着し、神社の勧請(かんじょう)や民間信仰に深く関係したため、里修験・里山伏などと呼ばれた。
 その流派は、中世には本山派(天台系)と当山派(真言系)に大きく二分され、並び称されるようになったが、いち早く室町時代に地方の修験を掌握し、全国的な勢力を確立したのは本山派で、このことは、武蔵国も同様で、早くから展開し盛行したのは本山派の修験寺院であった。
 秩父地域でも当山派に比べ、本山派の里修験の坊数が圧倒的に多いことがわかっていて、数でみると,当山派の7坊,羽黒派の3坊に対して、本山派は40坊を数える。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市栃谷404
             
・ご祭神 伊弉諾命 素戔嗚尊 建御名方神 崇徳天皇
             
・社 格 旧栃谷村鎮守 旧村社
             
・例祭等 例大祭 七月最終日曜日
 皆野町三沢八幡大神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南下すること2㎞程、進行方向右手に「秩父三十四ヶ所観音霊場札所一番 四萬部寺」の駐車場が見え、そこを通り過ぎた直後のY字路を右折すると、すぐ右側に栃谷八坂神社が見えてくる。地図を確認すると四萬部寺とは隣接している位置関係にあるといえよう。
 社の西側近隣に「栃谷集会所」があるが、正面駐車スペースにはロープが敷かれているため駐車不可能。そのため、社の正面鳥居前の僅かな路肩に急遽路駐して急ぎ参拝を開始する。
        
                  栃谷八坂神社正面
『日本歴史地名大系 』「栃谷村」の解説
 山田村の北に位置し、東は定峰村、北は三沢村(現皆野町)。川越秩父道が通る。かつて栃の木の多かったことが村名の起りと伝え、橡谷とも記した(風土記稿)。田園簿によれば高一三八石余、此永二七貫七六〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同藩領で幕末に至った。元禄郷帳では高二四七石余、寛文三年・同七年・同九年と新田検地が行われ、享保二〇年(一七三五)には定峰村入山続きの二四町二反余の地が開かれ高入れされている(風土記稿)。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田四町四反余・畑六四町五反余。
 
鳥居を過ぎた先の石段手前で左側に設置された       綺麗に整備された石段を上り終えた先に
   栃谷の笠鉾三基の有形文化財指定碑          正面に社殿が鎮座している。

 当社の大祭は、創建当時は6月25日であったと伝えられるが、その後、長い間旧暦の正月7日に行われるようになり、更に、大正期に現在の7月30日(最終日曜日)に変更された。
 大祭は俗に「栃谷の祇園」と呼ばれ、多数の参詣者でにぎわうという。祭礼の中心は上郷・中郷・下郷の三基の笠鉾の引き回しである。各組ごとに飾り花が違い、上郷は梅、中郷は桜、下郷は桃で笠鉾を飾る。依代(よりしろ)としては、上郷は幣束、中・下郷はお天道様を立て、万灯には「八坂神社」「産業振興」「五穀豊穣」など、その年の祈願文が書かれる。
 笠鉾は当日の午前8時ごろに各組の笠鉾蔵を出発し、札所一番の下の辻に三基が出会う。ここで神職のお祓いを受けた後、各組の笠鉾に神職・総代が乗り込み、上郷の笠鉾を先頭に秩父囃子の調べにのって栃谷八坂神社に向かう。午前11時、曳き付けと称して笠鉾が神社境内に並び、祭典が執行され、午後からは舞台で歌舞伎芝居が上演される。夕闇の中、笠鉾のボンボリに一斉に灯がともされ、露店の裸電球にも灯が入れられるころ、にぎわいは最高潮に達する。夜9時になると、花火が打ち上げられる中。笠鉾は再び札所一番の辻へ曳き返され、祭りは終焉を迎えるという。
 栃谷の笠鉾三基は、昭和59年6月27日、秩父市指定有形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
             見晴らしの良い高台に鎮座している社殿
   この辺りは如何にも山国の秩父の雰囲気が感じられる長閑で美しい風景が広がっている。
        
                         境内に設置されている案内板
 八坂神社御由緒   秩父市栃谷四〇四
 ◇修験が祀った栃谷を護る天王様
 社記によると、当社は、元は榛名神社と称し、神亀元年(七二四)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の森谷某が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まるという。その後、歳月を経るとともに里人の信仰は益々厚くなり、氏子繁栄・五穀豊穣の守護神として仰がれて来た。更に一千有余年の歳月を経た寛政二年(一七九〇)のころ、参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、山上の榛名神社には伊弉諾尊のみを残し、素戔嗚尊並びに境内末社をこの地に遷座し、末社琴平神社を新たに加え、「天王社」と称するようになったという。
 明治四年に村社となり、社号を八坂神社と改めた。また、同四〇年(一九〇七)には、旧社地に残した字曾根坂の榛名神社をはじめ、字腰の山ノ神社・字島府の諏訪神社・字越腰山の琴平社などを合祀した。
 例大祭は、「栃谷の祇園」とも呼ばれており、三基の笠鉾が曳き回され、多くの参詣者で賑わいをみせている。(以下略)
 
   社殿手前左側にある石製五重塔        石製五重塔の右隣に祀られている磐座
   
      社殿の左側隣に祀られている境内社・稲荷 秋葉社(写真左・同右)
 
      社殿の右側隣に祀られている境内社・三社社 天神社 琴平社(写真左・同右)

 ところで、秩父地域における本山派の里修験は、おおよそ越生(硯・越生町)の山本坊・秩父大宮(硯・秩父市)の今宮坊・三峰山観音院の3坊の先達の配下となっていた。先達は,本山の聖護院と霞内に居住する里修験との取り次ぎ役であり,霞内の里修験から上納金などを取り立てる権利をもっていた。
 因みに本山派修験における霞とは、個々の山伏の活動圏(縄張り)を「霞」と称し、その上に地方行政上の一〜二郡ごとに郡内の霞を統括する有力な山伏を年行事として聖護院門跡が補任した。「年行事」山伏は、郡内の山伏を形式的に支配するのみならず、彼等が熊野先達として民間に檀家を持っていた関係上、その檀家相互の契約得分についても管理権を持っており、当該地域において絶大な支配権を握っていた。年行事以下の山伏の霞の範囲は基本的に聖護院門跡によって定められ、奏者が伝える御教書形式で代々安堵されていた。
このような地方組織の掌握に努めたことから勢力拡大が進展したが、これに圧迫された真言宗系の当山派との対立が深まっていく。
 慶長年間に袈裟を巡って本山派と当山派が対立を起こすと、慶長18年(1613年)に江戸幕府から聖護院と当山派が本寺と仰ぐ三宝院に対して修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは「霞」に対する規制をかけたもので、本山派には不利であったが、それでも江戸時代を通じて本山派の方が優勢の状態が続き、法頭とされた聖護院の下に院家-先達-年行事-直末院-准年行事-同行といった序列が整備されたという。
        
             高台に鎮座する社殿より石段下の様子
             鳥居のほぼ正面の先には武甲山が見える。

 社記によると、当社は神亀元年(724)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の「森谷某」が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まったという。その後、寛政2年(1790)参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、修験の「森谷栄長」が村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、建速素戔嗚尊と境内末社を当地に遷座、末社琴平神社を新たに祀り天王社と称したという。
 創建時期とされる神亀元年(
724)の真偽はともかく、この森谷家はこの栃谷地域に代々土着していた一族であることは間違いない。そして、どの時代においても「修験」と明記されていて、この地の有力な山伏(霞)であったのであろう。
 というのも、「埼玉の神社」において、森谷家は、『新編武蔵風土記稿』に載る本山派修験大宮郷今宮坊配下の大宝院において、神仏分離まで当社の祭祀を続けたと伝えられ、現在でもその跡地には法印屋敷と呼ばれる地名が残っている。なお、当社には、享保四年・宝暦七年・天明元年の聖護院発給による院号・着衣の許状八通が所蔵されという。
        
                         社の西側にある栃谷八坂神社舞台
 栃谷八坂神社舞台 (国)登録有形文化財 令和2910日登録
 この建物は、地芝居(農村歌舞伎)のための舞台で、八坂神社境内西側の広場に建っており、棟札から明治32年の建築であることが読み取れる。建物は、寄棟造桟瓦葺の平屋建、正面は出桁造とし、差物を通して全面開放が可能である。舞台は前二間を表、奥三間を裏とし、裏には可動式の二重舞台を備えている。二重舞台は土台下端に車輪が設けられ、中央は前後、両脇は左右に動くようになっている。また、舞台両側面の框(かまち)には下座(本芸座・仮芸座)を設けるための枘穴(ほぞあな)
が確認できる。様々な舞台設定・演出を可能とする二重舞台や、他の舞台に見られない豪華な彫刻が施されている下座の意匠など、市内に現存する数少ない歌舞伎舞台の一つとして、地域の地芝居舞台の変遷を追う上で貴重な存在である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
            

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七輿山古墳

 七輿山古墳(ななこしやまこふん)の名称の由来には次のような悲しい伝承が伝わっている。
 七輿山古墳からほど近い群馬県高崎市吉井町池字御門にある日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる「多胡羊太夫」の伝承・伝説に基づいている。
 天児屋根命の子孫、大織冠鎌子5世の孫である藤原将監勝定の嫡男である八束羊太夫宗勝は、和銅7年(714年)に元明天皇より片岡・緑野・甘楽郡より300戸を賜った。
 それまでに毎日、奈良まで(和銅を持って)天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復していた。それは斉明天皇の御代から元正天皇の養老元年(717年)まで63年間に及んだ。
 太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣した。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と呼ばれるに至ったという
        
               
・名 称 七輿山古墳
               
・所在地 群馬県藤岡市上落合8311
               
・規 模 全長145m 高さ16m 形 状 前方後円墳
               
・築 造 6世紀前半
               
・指 定 国指定史跡 昭和21927)年614
                    
*追加指定 平成81996)年926
 七輿山古墳は、上落合地域西境から北境を流れる鏑(かぶら)川と、同地域東境を北流する鮎(あゆ)川に形成された河岸段丘上に造られた三段築成の大型の前方後円墳で、全長150m、前方部幅106m、後円部径87m、前方部と後円部の高さは16mを計る
 藤岡市上落合地域は、藤岡市の北西寄りに位置し、古墳の東側には鮎川に沿って南北方向に群馬県道173号金井倉賀野停車場線が延びていて、また美土里・小野地区と高崎市吉井町を繋ぎ甘楽方面へ抜ける同県174号道下栗須馬庭停車場線が「上落合」交差点にて交わっている。その交差点からすぐ南側にある「上落合南」交差点を西行し、暫く進むと、左側に「七輿の門」という専用駐車場があり、七輿山古墳はその専用駐車場から正面に見えてくる。
        
        「
七輿の門」駐車場のすぐ東側にある「七輿山 宗永寺」の社号標柱
               正面参道から徒歩にて出発する
『日本歴史地名大系』 「上落合村」の解説
 鏑(かぶら)川が西境から北境を流れ、東境を北流する鮎(あゆ)川を東北端で合する。南は三木村・白石村、西は多胡郡岩井村(現多野郡吉井町)と接する。村名は両河川の合流(落合う)地にちなむといい、東方の烏川と神流川が合流する落合村(落合新町、現多野郡新町)に対し上落合としたという(「国志」など)。南部に国指定史跡の七輿山古墳、北部に県指定史跡の伊勢塚古墳があり、ほかに六〇基余の古墳が確認されており、南接する白石にも多数の古墳があるので、古代豪族が居住していたと推定される。
 
    宗永寺参道から七輿山古墳を撮影           後円部に近づく。        
    写真の左側は後円部にあたる。             
 墳丘には自由に登る
ことは出来たのだが、今回は時間の関係で周濠付近の散策のみ。それでも、河岸段丘という地形を利用して造られた三段築成の大型の前方後円墳は、周囲一面周濠を巡らせているため、その大きさを認識しやすい。
        
                      後円部に設置されている案内板
 国指定史跡 七輿山古墳
 所在地 群馬県藤岡市上落合八三一-一ほか
 所有者 国ほか
 この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。 大きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、高さは前方部・後円部高さは16mです。 四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴輪列が明らかになりました。 また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。 出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪のほかに人物・馬・盾などの形象埴輪があります。 特に、円筒埴輪は七条凸帯を融資、径50㎝、高さ1.1mの大型品です。
古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
        
   後円部の中腹で、先端部にあたる場所は古墳が削られていて、石仏が安置されている。
       よく見るとどの石仏の首はない状態で、近くで撮影しようとしたが、
           薄気味悪さも手伝い、この位置からの撮影となった。
        
                             後円部から前方部を撮影
 群馬県藤岡市が県立歴史博物館と早稲田大学との合同調査を行っていた七輿山古墳について、墳丘の長さは6世紀代の古墳としては全国3位規模の150mだったことが判明した。合同調査は平成30年、最先端のGPS(衛星測位システム)測量と地下探査レーダーを駆使して実施。2日には、正式な学術報告が公開されている。
 七輿山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、規模はこれまで145mとされていたが、27万ヶ所を測定するなどして5m長かったことが明確になったという。
        
         前方部。この古墳が三段築成の大型の前方後円墳であることが分かる。
        
                        前方部から後円部を撮影。
 古墳の墳丘は緑地で松・桜等の疎林で覆われていて、地元の協力により美観が保たれ、「藤岡八景」の一つになっている
 昭和47年から4回にわたる範囲確認調査で、内堀・中堤・外堀・外堤・葺石・埴輪列が確認されている。特に、中堤は古墳主軸線の前方部方向と前方部南西方向の隅に方形状の造り出しが付設されていた。また、中堤の平坦面には2列の埴輪列が検出されているという。
        
                       「七輿の門」付近に設置されている案内板

『武蔵国造の乱』は、『日本書紀』安閑天皇元年(534?)条の記載によれば、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていて、小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。
 更に、『日本書記』によれば、安閑天皇2年(5355月には大和朝廷から上毛野国の「緑野屯倉」を設置したと載せていて、この「緑野屯倉」は現藤岡市緑野・倉屋敷付近と推測されている。
 
 
         「七輿の門展示室」に解説・展示されているパネル板

 当時、「上毛野君氏」の勢力の中心地であったと推定される高崎市周辺の南東約10㎞の地内にあたり、これは前年の武蔵国造の乱で敗北した上毛野君氏が、大和政権に屈服した結果として設置されたものであるという説もあるが、ハッキリとは解明されてはいない。

 というのも『日本書記』では、上毛野君小熊が助けの求めに応じた記載はなく明らかでないこと、小熊が処罰を受けた記載がなく、むしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないこと等の反論もある。
               

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朝子塚古墳

 群馬県は、嘗て「上毛野国(かみつけぬのくに)」と称し、東国有数の古墳王国であった。群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告が纏めた県内の古墳の総数は13249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。特に、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた埴輪に関して、唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土していて、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土しているように、群馬県は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の「メッカ」とされているという。
 このように東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇り、古墳時代から平安時代にかけて、現在の関東地方で栄えた「東国文化」の中心地でもあった。
             
            ・名 称 朝子塚古墳
            ・所在地 群馬県太田市牛沢町11102
            ・規 模 全長123m 高さ11.8m 形 状 前方後円墳
            ・築 造 4世紀末〜5世紀初頭頃(推定)
            ・指 定 県指定史跡  昭和54年(1979年)102日指定
 熊谷市・小島神明神社から直線距離にして1.3㎞程北側で、群馬県道142号綿貫篠塚線沿いに朝子塚古墳はある。駐車スペースは残念ながらない。
 この古墳は、利根川左岸から1.5㎞北方の沖積地内にあり、低台地上に位置する。東毛地域に所在する前期古墳のうちでは最大級の規模を誇る前方後円墳。墳丘は三段築成で主軸を北西から南東にとる。全長123m、後円部径65m、前方部前幅48m、高さ後円部11.8m、前方部7.5mの規模を有し、後円部の発達した典型的な柄鏡式(えかがみしき)古墳である。
 因みに柄鏡式古墳とは、前方後円墳の一形態であり、古墳時代初期に多い古墳の形で、後円部の直径に比べて、前方部が細長く、あたかも柄のついた鏡のような形の墳形である古墳の事である。
        
                           石段の手前に設置されている案内板
 群馬県指定史跡 朝子塚(ちょうしづか)古墳
 指 定 昭和五十四年七月十一日
 所在地 太田市大字牛沢字朝子塚
 墳丘の全長約一二四mの大型前方後円墳で、後円部に比較し前方部が約五m程低く細長い形態を示している、このため古墳の造形は非常に優美である。周溝は墳丘にそって一周していると推定され、又、墳丘には川原石による葺石が全面にしかれている。
 墳丘裾部には古式の大型円筒埴輪の方形配列が認められ、その列中に埴輪の祖型と見られる底に孔をあけた壺形土器が発見されている。埴輪の種類には、円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪・家形埴輪等が認められている。
 主体部は竪穴式石室系のものと考えられ、群馬県における古式古墳の典形と見られている。古墳の築造年代は四世紀末~五世紀初頭頃であろうと推定されている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                          「後円部」にある真っ直ぐな石段を登る。
 群馬県における古墳の出現時期を時系列に考察すると、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)最初に出現した王者は前橋市・朝倉八幡山古墳(全長130m)の埋葬者である。同時期には元島名将軍塚古墳(全長96m)と藤本観音山古墳(全長117m)の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。朝倉八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。
        
                               墳頂部に鎮座する雷電神社
 その後、盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。
 佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か
5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市・白石稲荷山古墳(全長175m)や高崎市綿貫町・岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。
 実は、太田市強戸町には寺山古墳(全長約60m 前方後方墳)という太田市内における最古式の古墳(4世紀前半)が出現していて、古墳時代前期から中期まで一貫して勢力を維持してきた地域であったのであろう。 
        
                後円部から前方部にかけての墳丘とそれを巡る周堀跡が続く

 太田市地域の勢力は益々力を持ち、ついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。また太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。
 太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP国立歴史民俗博物館研究報告 211 20183PDF
    「
Wikipedia」「現地案内板」等
    

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中条大塚古墳

 埼玉県の北東部に拠点を置いたと思われる「さきたま古墳群」の王族たちは、5世紀後半から 7 世紀の中ごろまで約150年の間、現在の行田市埼玉の地に連続して大型古墳を造り続けたと考えられている。「オワケノオミ」の名を刻む金錯銘鉄剣を副葬した「稲荷山古墳」が最初の築造とされ、方形の周溝に取り囲まれた前方後円墳という特徴的な姿をしている。
 さきたま古墳群の時代、熊谷市域はいわばさきたま王権の傘下にあったと云思われる。市域からは荒川を介して石材や窯場で造られた埴輪や鉄製品などが運ばれたようだ。将軍山古墳出土の大形円筒埴輪の一部は、熊谷市千代所在の権現坂埴輪窯跡群で造られ運ばれたと思われる。
 中条中島遺跡の南方に位置する「中条大塚古墳」は発掘調査により 7 世紀代の横穴式石室を持つ円墳と判っている。盗掘のため少数遺物だけの発見であったが、「桂甲小札」という鎧の部品と金銅製の鞘尻金具(金銅製の「頭椎大刀」の一部)という豪華な武具が副葬されていたことが判っており、さきたま王権の一担を占めた人物と想像されていて、古墳時代の間、中条地域に一定の勢力を保っていたと推定されている。
       
              ・名 称 大塚古墳
              
・所在地 埼玉県熊谷市大字大塚365
              
・規 模 基壇 直径59m、円丘 直径35
              
・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
              
・指 定 熊谷市指定史跡 昭和34年〔1959113日指定
 中条大塚古墳がある大塚地域は、現在熊谷市北部地区東部にある中条地域に属しているが、区域内の字(大字)は、上中条・今井・小曽根・大塚で、全域が旧北埼玉郡中条村の区域である。
 因みに、
この「中条」という地名は、古代の条里制(じょうりせい)によるものと推測される。条里制とは、大化の改新後布かれたもので、土地を区画するのに、縦区画の方向を里、横区画の方向を条とし、北から南へ一条、二条…と数えた。この条が地名となり現在に残ったものと考えられる。また平安時代末、藤原姓日野氏流の中条常光が上中条に館を構え中条氏を名乗った。中条氏からは鎌倉幕府初代評定衆中条家長などが輩出され、室町幕府でも奉公衆に取り立てられたが、戦国時代に入り松平氏宗家第4代松平親忠に敗れるなどし衰退したという
        
                              大塚熊野神社正面社号標柱
 中条大塚古墳は、7世紀初頭に造られた当地を支配していた豪族の墓で、直径59m、高さ1.2mの基壇上に、直径35m、高さ4mの半円の墳丘が乗った円墳らしいのだが、今では北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約4分の1が残っている状態という。2度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されている。墳頂には大塚村の村社の「大塚熊野神社」が鎮座している
        
                         参道に沿って進むと基壇部に到着する。
 中条大塚古墳は「中条古墳群」に属している。この古墳群は、上中条地区の中条支群(上中条支群)、大塚地区の大塚支群、今井地区の今井支群で構成されており、かつては前方後円墳2基、方墳2基、円墳32基、円墳と見られる古墳3基の計39基が数えられたが、その多くは開墾などにより破壊され、半壊した墳丘を留めるもの2基(小曽根神社古墳と中条大塚古墳)以外は、墳丘が削平されたもの28基、消滅したもの9基という状態にある。
        
                           参道右側で基壇部近くにある巨石
                           石室の天井石であったものであろうか
        
           大塚古墳の案内板(詳細は大塚熊野神社を参照)

古来より、「中条」という地域は、利根川と荒川という両大河川が最も接近する一帯に立地し、両大河川、及びその支流沿いに生まれた多くの微高地は生活に農耕に適しており、西側の台地を巡った伏流水が豊富に噴井する扇端部にも位置することから水利にも恵まれたようだ。このような環境があったことが、弥生時代来数多くの集落をつくり出したと考えられ、中条中島遺跡をはじめ、一本木前・根絡・池上・北島・前中西・諏訪木遺跡などからの古墳時代へ続く集落が確認されている。
       
                                南西部より撮影
 その後、5世紀中頃から7世紀前半頃まで「中条古墳群」が約 2×3 ㎞の広い範囲に造られる。上中条支群にあった鹿那祇東古墳(かなぎひがしこふん)から、国の重要文化財に指定されている埴輪「短甲の武人」や、「馬形埴輪」が出土した。今井支群の鎧塚古墳(よろいづかこふん)出土の土器群は熊谷市の有形文化財に指定され、大塚支群に属する大塚古墳(おおつかこふん)は熊谷市指定史跡となっており、古代から歴史的資料に富んでいる地でもある。
 さきたま古墳群から中条までの約8㎞圏内には盟主に相当する大型古墳は他になく、中条古墳群内にも大型の前方後円墳は見当たらないことから、さきたまの王に従属していたと思われる。
 中条古墳群の周辺では横塚山古墳(上奈良)、とやま古墳(行田市)が稲荷山古墳の出現とほぼ同時期とされることから、妻沼低地の一定の開発の進展が地域の政治力に安定と結合をもたらし、その象徴としてさきたま 王権の確立と古墳群の出現に至ったとする考えもある。


参考資料「熊谷市立江南文化財センター・中条古墳群、中条中島遺跡の製鉄遺構HP
    「熊谷デジタルミュージアムHP」「熊谷市 中条公民館HP」「Wikipedia」等   
                           

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