古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

舞木長良神社

『日本歴史地名大系』「舞木(まいぎ)村」の解説
 [現在地名]千代田町舞木
 南を利根川が流れ、東は赤岩村、西は古海(こかい)村(現大泉町)、南は武蔵国幡羅郡葛和田(くずわだ)村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は新福寺(しんぷくじ)村・福島(ふくじま)村。貞観年中(八五九〜八七七)舞木氏の所領に由来する村名とされる(邑楽郡町村誌材料)。地元の伝承によれば、舞木村はもと中島村といい、貞観年中藤原長良がこの地に本拠を定め、武蔵国羽生(現埼玉県羽生市)の猪熊森高を討った際、春日社前で榊に祈り、帰陣の時にこの榊が空に舞上がり、中島に落ちたので舞木村と改めたという。応安七年(一三七四)下野小俣(現栃木県足利市)の鶏足(けいそく)寺二九世尊誉は「舞木駒形堂」で仏事を行っている。
『日本歴史地名大系』での、地元の伝承によれば、舞木長良神社の地域名「舞木(まえぎ)」の由来が伝わっている。貞観年間(85977年)に藤原長良が武蔵国羽生の猪熊森高を攻める際、春日社前で榊に四垂を掛け戦勝祈願を行った。その後、猪熊との戦いに勝利し再度訪れた時、榊が空中に舞い上がり隣地の中島村に落ちた。そこで中島村を舞木村と改めたという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町舞木267
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2138679,139.4306178,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸井長良神社から利根川沿いに通じる栃木県道・群馬県道足利千代田線を2㎞程西行すると、三叉路となるので、そこを左斜め方向に200m程も直進すると右手側に舞木長良神社の大きな朱塗りの鳥居が見えて来る。すぐ南側は利根川の堤防が東西に広がる地だ。
        
                  
舞木長良神社正面
 舞木長良神社北東方向近郊には「舞木城址」があり、現在は小さな公園になっていて、その遺構等は全くみえない。昭和44年までは小学校があったようだ。住宅地の中にポツンとあるので、あまり目立たないが、その公園内には「藤原秀郷公誕生之地」と刻まれた石碑がある。
 舞木城址 所在地 千代田町舞木五一
 舞木城は、面積およそ三ヘクタール、周囲に土居と溝〇をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年中(九三一〜九三七)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八〜一五三一)まで秀郷の子孫が居城していたという。また舘林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって舘林城(尾曳城)を築いたと記され、舞木と舘林とのつながりを浮き彫りにしている。
 この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。(千代田町教育委員会より掲示)

また
『千代田町HP』には藤原秀郷に関して以下の内容を紹介している。
 藤原秀郷
 平安中期東国の豪族藤原秀郷(俵藤太)(たわらのとうた)は、藤原北家房前の子左大臣魚名(さだいじんおうな)(川辺大臣)より三代下った村雄(むらお)(下野権大掾河内守)(しもつけごんだいじょうかわちのかみ)の子で、出生は舞木・赤岩他多説がある。
 成人して弓の名人となりその豪勇伝説はあちこちに残っている。主なものは、「三上山の百足(むかで)退治」と、「平将門(たいらのまさかど)の乱」の平定(天慶三年)である。
 その功により下野国押領使から從四位下野守(じゅうしいしもつけのかみ)(武蔵守も兼務)に任官し、功田も賜った。又、築城にも才能を発揮し、下野国唐沢山城が有名である。
 当地の伝承は「赤城山の百足退治」と舞木城の築城である。舞木城址は永楽小学校の敷地として六十年間使用された後、現在は「俵団地」としてその名を留め、一角に顕彰碑が建っている。秀郷の子孫は各地に亘り分布しているが、当地でも「秀郷流」を名乗ってその拡大をはかり、先の「小黒磨流」と複雑に絡み合いながら佐貫荘を維持した。
 藤原秀郷に関して幾多の伝承・伝説があるため、逆に史実としての人物像がかすんでしまっているのも確かで、謎の多き人物であることには違いない。この舞木の地が秀郷生誕の地であることも決して否定はしないが、客観的な事実として受け止めるには、まだ十二分な照明はされていないように見える。但し秀郷の子孫である藤原秀郷流の佐貫氏やその一族である舞木氏がこの地に存在していたことは、事実である。
        
                   境内の様子
 藤原秀郷流佐貫氏一族に舞木氏がいた。上野国邑楽郡佐貫庄舞木村(千代田町)より起ったという。元々佐貫荘(現・群馬県館林市周辺)は、藤原秀郷流の佐貫氏が拠った土地であったが、室町時代以降は佐貫氏庶流である舞木氏が支配しており、15世紀前半には舞木駿河守持広が登場する。この舞木駿河守持広は岩松満純(持国の伯父)の追討では、被官の赤井若狭守とともに参加し、永享の乱で活躍した。
『国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙』
 応永二十三年(1417)千葉介兼胤岩松治部大輔入道天用両人は禅秀のむこなれば不及申、渋河左馬助舞木太郎児玉党には大類・倉賀野・丹党の者ども其外荏原蓮沼別府玉井瀬山甕尻、甲州には武田安芸入道信満には禅秀の舅なれば最前に来る(中略」 
 応永二十四年(
1418
)卯月二十八日、禅秀聟岩松入道天用は禅秀が残党を集め上野国岩松に蜂起しけるを舞木宮内丞馳向合戦してこと/\く追散しお天用を生捕にして鎌倉へ奉りければ五月十三日瀧口へ引出首をはねられけり
 その後、永享12年(1440年)結城合戦では結城方にくみし、山内上杉家の家宰・長尾忠政(忠綱の子)により謀殺され舞木氏は没落、代わって上野赤井氏の赤井照光が舞木佐貫一族を打倒し庄頭の地位を得る。しかし舞木氏は決して滅亡したわけでなく、足利鑁阿寺文書にも「弘治二年(1556)舞木兵庫太夫景隆花押。永禄三年(1560)舞木兵庫太夫定綱花押」等の書状が今でも残っている。
        
                    拝 殿
       瀬戸井長良神社と同じく、拝殿は利根川に対して正面を向いている。
 瀬戸井長良神社の項において、説明を既にしているが、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来である。
 舞木長良神社もこの「十八長良」の一社と推測され、瀬戸井長良神社から勧請して、当地に鎮座したと考えられる。
        
                    本 殿
        
   拝殿左側前方には不思議な巨石があり、その巨石の奥には境内社二社が祀られている。
 この巨石は元からここにあった物であろうか。かなりの大きさだ。ご神体ともいえそうな貫禄ある外観だ。奥に祀られている境内社は、左側は不明。右の境内合祀社は 左から水天宮・戸隠神社。
        
                                 社殿左側に並ぶ石碑群
 左から金刀比羅宮・庚申供養塔・道祖神・不明・不明・雷電宮・不明・石仏・権現・弁財天。実は後列にも石祠三基あるのだが、この石祠の詳細は不明。
 権現と弁財天の間には「権現・弁財天の遷宮 舞木権現地区の区画整理にともない、町田〇宅(舞木二一四)に奉られていた権現・弁財天を長良神社境内に移転した。平成十六年九月吉日 権現地区 氏子一同」と刻まれている石碑がある。
              
      社殿の右手には石碑が六基あり、一番左側には「神域整飾記念碑」がある。
                  「神域整飾記念碑」
           千古の歴史とともに奉安しこの地に鎮座まします長
          良明神は盛運なり このたび利根川改修に当り〇舞木
          地先利根堤防の拡張が計画され昭和四十八年三月神域
          の整備を計ることとなった 神殿並びに境内の整飾と
          〇か活用について神社総代等鳩首協議を重ねた結果永
          く祀る歴史の尊厳を基調とし恵まれた環境を考慮し境
          内を将来に託す子供達の良き運動の場とすることに決
          した 国の補償費四百万円をあて昭和四十八年十月着
          工同五十年十月完工〇此の間工事の掌に当る一同の献
          身的奉仕による計画実践督励によって社殿神徳の高揚
          に努めここに斯くの如く感性を見たのである 壮麗な
          る社殿と明るく崇高なこの神域こそ利根河畔に当村氏
             の生活の拠点たることを念じて之を記す
                   江沢卓郎撰並書
       
        左側三番目にある大黒天の線刻画碑   右端の石碑は御嶽山大神御璽
        
    石碑群の右手には祭祀用の用具がある殿であり、中に神興舎が保管されている。



参考資料「国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙」「日本歴史地名大系」
    「千代田町HP」「埼玉苗字辞典」「舞木城址 案内板」「Wikipedia」「境内石碑文」等
    

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瀬戸井長良神社

 藤原長良(ふじわら ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。
 家督は同母で次男の良房が継いでいるとはいえ、名門藤原北家の長男という毛並の良さからか、高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。
 不思議な事に、藤原長良は、加賀権守(834年)、相模(権)守(843年)、讃岐守(846年)、伊勢守(850年)と幾多の国守に任命されているが、上野国の国主を務めたという事実は無く、またその国守に任命されている場所も、ほとんどが西日本であり、唯一相模(権)守のみ。またこの翌年承和11年(844年)に従四位上・参議に叙任され、公卿となっているので、たとえ相模国に赴任したとしても、せいぜい1年程度しかいなかったことになろう。
『日本歴史地名大系 』には「長良神社」の解説を載せている。
 瀬戸井(せどい)の西端、字宮下(みやした)にあり、祭神は藤原長良。この地方がしばしば乱れたとき、藤原長良が鎮撫したという。帰京して没したが、その恩徳を慕い神として祀るようになった。当社は貞観一一年(八六九)邑楽郡赤岩(あかいわ)城主赤井良遠が勧請し、社殿を造営、遷宮の式を行い郡中総鎮守としたのが祭祀の始まりといわれる。
 長良神社は邑楽・新田両郡一帯に二八社存在しているが、長柄(ながら)神社と同一とみる、つまり長良は長柄の誤りとする説もある。
『日本歴史地名大系 』によると、「東国平治の為、当地に下向し、衆庶を憐み仁恵を施し 任満ちて帰京」したとするが、現実の史実にそのような官歴はない。何とも不思議な社である。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町瀬戸井7971
            
・ご祭神 天照皇大神 藤原長良公
            
・社 格 旧佐貫荘宮付十二ヶ村総鎮守邑楽郡長良社本宮・旧郷社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.203088,139.4433439,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を2.3㎞西行すると、県道から少し離れた奥に見える社叢林と共に瀬戸井長良神社の石製の鳥居が見えてくる。
 正直一見派手さはない。しかしながら旧郷社の格式が示すように、県道から見ても社叢林は奥まで広がり、社全体の規模は大きく感じる。周囲には社の看板があるわけでもなく、時にお約束事ではないが、登り旗等で意識的に自らの存在をアピールする様子もない。それでいてその地にしっかりと根付いているような風格や存在感を漂わせているような重厚感ある社である。
        
                                 瀬戸井長良神社正面
      鳥居の右側に社号標柱が建ち、その手前には「猿田彦太神」の石碑がある。
         社殿は南向きで、鳥居の目の前には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「瀬戸井村」の解説
 南に利根川が流れ、東は上五箇(かみごか)村、西は赤岩村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・北河原村(現埼玉県行田市)、北は赤岩村・萱野(かやの)村。休泊(きゆうはく)堀の用水が赤岩村から当村の中央を東流して上五箇村に入る。「吾妻鏡」に記す宇治橋渡河にみえる藤原秀郷の後裔佐貫広綱の子瀬戸井五郎が当村に住したと伝える。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)は、小泉城(現大泉町)の城主冨岡氏の所領を示しており、そのなかに「館林領之内」として瀬戸井がみえる。近世は初め館林藩領。正保元年(一六四四)から寛文元年(一六六一)までの大給松平氏が藩主の期間は幕府領。
        
                               真っ直ぐな参道が続く。
     以前の参道の両側には桜並木となっていたようだが、今は伐採された模様。
千代田町 HP」には、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来であるという。
        
       拝殿までの参道左側には途中三本の脇道があり、境内社や石碑等が祀られている。
 一番手前の脇道に祀られている「御嶽三柱大神」、その両側にはそれぞれ「豊斟渟尊・国狭槌尊」「天御中主神」の石碑が祀られている。
「御嶽三柱大神」なる神はともかく、天之御中主神・豊斟渟尊・国狭槌尊は日本神話における「天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に生まれた別天津神(ことあまつかみ)、並びに神代七代のうちの二柱の神である。
 
 その先に祀られている境内社。詳細不明。   一番先に祀られている「千勝大神」の石柱
本来は二社あったのであろうが、今は右側のみ。
 
   境内社・石碑等の先にある神楽殿         境内に設置されている由緒板
        
                                   拝 殿
                  主 神 天照大神
                  御祭神 藤原長良公
          藤原長良嘗て東国平治の為め 当地に下向あり 衆庶を
         憐み仁恵を施し 任満ちて帰京後薨去し 貞観十一月三月
         十八日大和国春日神社の末社に列祀す 時に上野の住人赤
         井良遠なる者 長良公の餘徳を慕い之を本国に勧請せんと
         浴し 其の旨を奏聞しけるに叡感浅からず 即ち上野国佐
         貫荘本村に社殿造営の勅許あり 因りて翌年九月九日遷宮
         式を行なう 爾来佐貫荘の人民一向に信仰して宮附十二ヶ
          村の総鎮主とす 其の後文明年間より分社するもの多く
                             之を邑楽郡長良社の本宮と稱する
                            「境内 由緒板より引用」

        
                         拝殿向排部に精巧に施されている彫刻
 
         本 殿           本殿奥にポツンと祀られている一基の石祠
        
                  社殿からの一風景
 群馬県千代田町瀬戸井地域に鎮座している長良神社は、邑楽郡下や一部旧新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十二ヶ村の総鎮守であったという。長良神社はご祭神を藤原長良公としており、冒頭に述べたように、東国平治のためにこの地域に来て善政をしたので、土地の人々はその徳を慕って、既に春日神社の本社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。
 しかしそもそも東国とは無縁な藤原北家の長男が、この地に祀られていること自体、歴史的な事実ではないことであるので、実際は別の伝承が根底に隠されている可能性が高い。
「長良」は「長柄(ながら)」と同名ともいう。奈良市御所市名柄の旧名は大和国葛上郡長柄庄といい、同じ「長柄」を共有していて、『延喜式神明帳』に葛上郡長柄神社を載せている。『姓氏録・大和国神別』には「長柄首、天乃八重事代主神の後なり」と記載がされていて、ここのご祭神は「事代主神」である。事代主命の子孫が大和国葛上郡吐田郷長柄(現 奈良県御所市長柄)に移り住み、氏神として式内長柄明神を祀ったと云う。
 ところで、群馬県邑楽郡邑楽町には「長柄神社」が鎮座している。この社は、事代主命を祭神といるのだが、社伝によると、長柄一族が1400年前の飛鳥時代に利根川北岸の邑楽郡西南部に長柄郷を開発し、氏神の長柄明神を祭り草創したのがこの長柄神社という。
 この長柄神社には「長柄神社由緒」が設置されている。内容は以下の通りだ。
「長柄神社由緒」
当社は千四百年前、大和から邑楽郡に来て長柄郷を開発した長柄氏が始祖事代主命を祭神として草創しました。上野国神名帳に「正一位 長柄明神」と記された邑楽郡一ノ宮がこの社です。元慶五年(881
)に藤原長良公を合祀し、近郷の首社として崇拝され(以下略)
        
            利根川の度重なる洪水被害から身を挺して人々を守ろうと
          あえて河川堤防のすぐ北側に鎮座しているようにも見える。

 利根川中流域沿いに数十社点在する長良神社。鎮座地域が限定されているこの社は埼玉県元荒川左岸に鎮座している「久伊豆神社」と同様に、ある特定の一族で信奉されたお社である可能性が高い。そう考えると、事代主命の子孫である「長柄氏」の渡来地を「長柄」「長良」「永良」と称し、社をつくり、祖神の事代主命を祀った。
 本来は「長柄氏」のいずれかがこの地域に善政をした事項、恐らく利根川治水関係で業績を上げた人物と思われる(瀬戸井北の大沼の大蛇伝承を参照)が、時代が下るにつれて、年代が比較的近く、また藤原北家という毛並の良さも手伝って、いつの間にか「藤原長良公」が鎮撫したと書き換えられたのではなかろうか。
 何となく、この邑楽町の長柄神社由緒に記されている内容のほうが、筆者にはよりリアルに感じるのだが、如何であろうか。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田町 HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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堤根伊奈利神社天神社合殿・樋上天満天神社

堤根伊奈利神社天神社合殿
        
               
・所在地 埼玉県行田市堤根742
               
・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
               
・社 格 旧堤根村鎮守
               
・例祭等 初午祭 3月初午 獅子祭 75日 例大祭 828
                                        大祓 1224
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1119305,139.4734587,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市旧吹上町内の下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北東方向に進み、新忍川を過ぎて最初の信号のある十字路を左折、200m程北上すると進行方向右手に堤根伊奈利神社天神社合殿が鎮座する場所に到着する。但し社が鎮座している場所から道路はやや離れていて、丁度民家が数件建っているので、やや目視しづらい場所にはある。
 社の北隣には「堤根農村センター」があり、その脇には駐車可能なスペースもあるので、そこに停めてから参拝を行う。
 渡柳常世岐姫神社とは南北に流れる武蔵水路を挟んで北西方向、直線距離にして700m程で、比較的近い位置関係にある。
        
                             
堤根伊奈利神社天神社合殿正面
『日本歴史地名大系』 「堤根村」の解説
 北から東へは渡柳村、北から西は樋上(ひのうえ)村、南は袋村(現吹上町)。古墳時代後期の円墳と集落遺跡がある。「風土記稿」は編纂当時、当村の属した郷庄名が不明であり、慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「向箕田郷ノ内忍領堤根村」と書かれたものがあったので、古くは足立郡であったかとする。
 村の西側にある古堤は天正一八年(一五九〇)石田三成が忍城を水攻めにした堤で、それが村名になった(風土記稿)。三成は「樋上邑・堤根村ヘ新堤ヲ築、袋・鎌塚・門井・棚田・大井村ノ古堤ヘ築合」(武蔵志)したという。石田堤として県の史跡に指定される。
        
『新編武蔵風土記稿 堤根村』には村名の由来として、「
村内の西方に古堤あり、袋村より起り樋上村に續けり、此堤は天正十八年石田三成忍城を水責にせんと、久下堤を切て荒川の水を堰入し時、新に築し所なりと云、後この堤の下に村落をなせし故、たゞちに村名とせり」と記されていて、石田三成が忍城を水攻めにした際の「堤」下に集落が形成され、その「堤下」が「堤根」に名称が転訛したという。
        
                              石段上に鎮座する拝殿覆屋
 周辺は元荒川流域周辺の低地帯であり、洪水対策の為の盛り土上に鎮座しているのであろう。

『新編武蔵風土記稿 堤根村』
 稻荷社二宇 一は本村にあり、一は新田にあり。共に鎭守とす。永徳寺の持、
   
 伊奈利神社
 当社は、往古より堤根の鎮守として祀られている。「明細帳」によれば、元禄期に堤根村が本村と新田に分かれたことにより、当社もまた両村に分かれ、本村のものは本田鎮守、新田のものは新田鎮守と称して祀られていたという。共に永徳寺を別当とし、享保1032日に神祇管領兼敏より正一位に叙され、この時贈られた神位の入った神璽筈は現在も両社に祀られている。
 明治初めの神仏分離によって永徳寺の管掌から離れたため、創建以来永徳寺の境内にあった本田鎮守を新田鎮守の境内に移し、新たに覆屋を造り、その中に両社の本殿を納め、今日の形となった。本殿は両社とも同一のもので、享保2年に建築された一間社流造りである。
 また、覆屋の中にはこの両社のほかに、天神社がある。この天神社は享保2年に、伊奈利神社の新築を契機に合祀されたものというが、資料を欠くため、元はどこにあったのかは不明である。
 現在、境内に樹木は少ないが、かつては鞍・櫓の大木が鬱蒼と茂っていた。しかし、昭和23年の永徳寺新築の際、これらの樹木を資材として提供し、その後植林した樹木も相次ぐ台風で倒れてしまったため、往時の面影はない。昭和53
年、境内地を利用した堤根農民センターの建設に伴い、境内の整備が行われ現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 石段を上った境内左側で、狛犬の右手には塞神の石碑がある(写真左)。またその石飛の右並びには、石碑二基(宇賀神・塞神、塞神)を祀っている屋根付きの「囲」、その隣には境内社がある(同右)。境内社の詳細は不明。

 塞神は、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神という。別名「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」といい、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
        
                       社殿から見た参道周辺の風景


樋上天満天神社
        
              ・所在地 埼玉県行田市樋上187
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧樋上村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1181384,139.4717502,17.33z?hl=ja&entry=ttu
 堤根伊奈利神社天神社合殿から南北に通じる道路を450m程北上すると、樋上天満天神社に到着する。『新編武蔵風土記稿 樋上村』においても、「正保の頃堤根村と一村なりしに、元祿の改めに分て二村とせり、されば領主の遷替、檢地の年代、用水等凡て堤根村に同じ」と記載され、元禄年間(16881704)前までは堤根村と一村であったという。
 それにしても昔から日本人は記録を小まめに残す几帳面な民族であったことが、このような文書一つ取ってみても分かる。そのおかげで、現代に生きる我々にも、祖先が辿った歴史の原風景が少しは分かるので大変ありがたい。
        
              道路沿いに鎮座する樋上天満天神社
『日本歴史地名大系 』「樋上村」の解説
 北は佐間村、西は下忍村、南は堤根村に接している。村域には古墳・方形周溝墓を含む集落跡の鴻池(こうち)・武良内(むらうち)の二遺跡がある。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に「堤根樋上」とみえ、幕府領で役高九一七石余。同一六年忍藩領となり、幕末まで変わらず。田園簿によると「樋上堤根村」の村高は高辻帳と同じ、反別は田方六九町二反余・畑方三五町二反余。元禄郷帳では樋上・堤根・堤根新田の三村に分けられ、いずれも三〇五石余に三等分されている。

 行田市下忍・樋上地域には、「高畑遺跡・武良内遺跡・鴻池遺跡」と呼ばれる古墳時代前期の遺跡が発掘されている。国道17号バイパスの建設に伴って昭和50年(1975)から翌年にかけて発掘された。北から南に三遺跡は並び、この順に調査は行われた。高畑遺跡は微高地上に立地し、古墳時代前期の住居跡や方形周溝墓などが発掘されている。武良内遺跡は忍川に接した自然堤防上に立地し、古墳時代前期の住居跡、方形周溝墓、埴輪をもつ古墳跡などが発掘されていて、早くから人の手による開発が進められた地であることが分かる。
        
                    拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿』
 天神社 村内の守なり、寶珠院持、

 天満天神社
 樋上の地名は、用水の樋に由来するというが詳細は不明である。地内に古墳後期の集落遺跡がある。
 社記に「慶長十三申年十二月本村検地帳二天神前或ハ天神後、天神キワト載セタリ然レバコレ以前ノ勧請ナルべシ」とある。
 また、口碑に「樋上天神社は、寛永年中家数も少なかった氏子が厚い信仰心から、高いお金を出し合って造ったもの」とあり、昭和52年に本殿覆屋の屋根替えをした時、寛永と宝暦の年紀がある棟札が見つかった。その後、棟札は再び棟に納められている。
「風土記稿」に「天神社 村内の鎮守なり、宝珠院持」とあり、真言宗宝珠院が別当であったことが知られる。
 本殿の床板は張られていない。これは当地が日光街道聖裏街道に当たり博徒の往来が多く、氏子もこの影響を受け当社に集まっては博打をした名残である。本殿は手入れを受けた時の逃連用抜け穴の入日であった。幣芯を失った金幣が、穴の上に一枚の板を置いて祀ってある。
 本殿前に置かれた石製の牛像一対は「享和元年酉五月吉日」の銘があり、佳作である。
 境内社に、大己貴命を祀ると伝えられる松社と、少彦名命を祀るという梅社があるが由緒は不詳である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        境内社・梅社               境内社・松社 
       
                          境内東側隅にある石碑等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
       

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野氷川神社・野久伊豆神社

 野氷川神社
        
              
・所在地 埼玉県行田市野8851
              
・ご祭神 素盞嗚尊
              
・社 格 旧野村鎮守
              ・
例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1049547,139.4912071,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社正面鳥居前の埼玉県道77号行田蓮田線、通称「古墳通り」を鴻巣市方向に進行し、2.6㎞程先にある十字路を右折し暫く進むと、正面に野氷川神社の社殿が見えてくる。但しよく見ると社殿は背を向けているので、右回り方向に迂回して正面鳥居方向に進まなければならない。
 正面の鳥居がある右側には「野文化センター」があり、参道とセンターの間は大きな広場になっていて駐車可能なスペースは十分にある。そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                    野氷川神社正面
 野地域は行田市南部に位置し、鴻巣市と境を接している。この「野」という名前の由来は、『新編武蔵風土記稿』によると、「慶長年中(15961615)広野を開発したことに由来する」と伝えている。
 野氷川神社の創建年代は不詳だが、境内碑文によると天文年間に荒川が氾濫しないよう願い氷川様を勧請して創建したと伝えられ、野村原組の鎮守社であったという。明治41年には、野村に鎮座していた他の天神社(野天満大自在天神)・八幡社・新明社(野神明社)・諏訪神社を合祀、野村の鎮守となったという。
        
                   参道の様子
        
                    拝 殿
 野地域の伝統芸能として、行田市指定民俗文化財・無形民俗文化財(指定年月日:平成21730日)に「野の獅子舞」が奉納されている。
「行田市HP」
 野のささら獅子舞は市内野地区に伝わる民俗芸能で、現在は野村ささら獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、疫病退散、天下泰平、家内安全を祈願して、久伊豆神社、諏訪神社、聖天様(満願寺)、氷川神社などに奉納されています。
 起源については不詳ですが、確認されている最も古い記録には、諏訪大明神の「祭礼入用覚帳」の中で江戸時代後半の文政4年(1821)に「簓(ささら)」という言葉が記載されており、言い伝えでは約300年位前から始まったと言われています。
 獅子は太夫獅子(だゆうじし)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に先達(法螺貝)、幣束、万灯、面化(めんか)、歌、笛、獅子、花籠(はなかご)などで構成されています。
 ひとり立ち3頭のささら獅子舞とよばれ、獅子は腹に太鼓を結わえて叩きながら舞い、そこに4人の花籠がささらを持って舞いに加わります。曲目は「雌獅子隠し(めじしかくし)」で、3頭の獅子が花籠の周りを舞っているうちに雌獅子が隠れてしまいます。太夫獅子と雄獅子が探し回り、一方が先に見つけて楽しく遊び始めます。それを見た一方の獅子が怒って争いを始めるという筋書きです。一曲形式で勇壮な舞に特色があります。
 現在は10月下旬(第4
日曜日)に実施されています。
        
                拝殿の手前にある「力石」
 
                             本 殿             社殿左側に設置されている石碑。                  
 氷川神社
 当地は元荒川の左岸に広がる農業地帯である。この元荒川は寛永六年に関東郡代伊奈半十郎忠道が河川改修を行うまでは、荒川の本流であった。それまでの荒川といえば、その名が示す通りの暴れ川で、四年に一度は必ず氾濫していたといわれている。そこで、こうした度々の災害に困窮した村人たちが川の神様であるという氷川様を祀り、川が荒れないように願ったのが当社の創建であると伝えられ、境内にある「氷川神社の碑」の碑文によると、それは天文年間のこととされている。祭神は素盞嗚尊で、本殿は「風土記稿」に載る「元和二年再建」のものと思われ、美しい彫刻が施されている。
 当社は元来、野村全体の鎮守ではなく、その一耕地である原組の鎮守であり、ほかの耕地では各々の鎮守を祀っていた。ところが、明治四一年の合祀により、周りの耕地の鎮守であった天神社・八幡社・新明社・諏訪神社を合祀したことから、村鎮守として祀られるようになった。ただし、合祀した諸社の社殿はそのまま旧地に残され、今もそれぞれの耕地の人々の手で祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
             社殿の右側奥にある石碑群(写真左・右)
        
                                  社殿からの一風景

 野久伊豆神社
        
               ・所在地 埼玉県行田市野647
               ・ご祭神 大己貴命
               ・社 格 不明
               ・例祭等 10月第4日曜日 野の獅子舞
        野氷川神社から南方400m程の場所に鎮座している野久伊豆神社。
        
                   境内の様子
『日本歴史地名大系』 「野村」の解説
 北は埼玉・利田(かがた)・渡柳・堤根(つつみね)の四村、南は元荒川を隔てて足立郡川面(かわづら)・箕田(みだの)両村(現鴻巣市)。洪積層微高地上にあり、地域内に縄文・古墳時代の集落遺跡が数ヵ所残る。地名は慶長年中(一五九六〜一六一五)広野を開発したことに由来すると伝えるが(風土記稿)、村内の正覚寺・満願寺とも開山は戦国期の僧であり、また満願寺には元亨四年(一三二四)建立の板碑がある。
 寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高六五七石余で、かつて忍おし城番であった旗本高木領。田園簿によれば田高四三〇石余・畑高五五四石余。
        
                                      拝 殿
 久伊豆神社
「風土記稿」によれば、当地は元は広い野原であったが、慶長年間開発し、野村と称したという。
 当社は天台宗正覚寺持であり、村鎮守は氷川社で、これも正覚寺持、元和二年の棟札が残っている。
 当地は、市の最東南端に当たり、戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させたと伝えられ、当時の記録を失った現在では、この迷路のような道が、唯一往時をしのばせるものとなっている。
 文久二年四月二五日付けで、伯家から正一位久伊豆大明神の神階を受けている。
 祭神は大己貴命であり、祭神について口碑はせっつぁま(久伊豆様)の鎮まる所を中耕地という。これはせっつぁまが情け深く、人の面倒みのよい神様で、そのお蔭で今まで耕地内でもめごとが起こったことがなく、仲がよい耕地ということで中耕地と呼ぶという。また中耕地の旦那寺満願寺は、妻沼聖天様の本家で仲がよい仏様であるから名付けられたともいう。
 拝殿を兼ねた覆屋の中に、一間社流造りの本殿と末社雷電社がある。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」によると、「戦国期は忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦の度に被害を受けた。よって、忍の殿様は戦に備えて、道を迷路のように屈曲させた」と記載され、実際地図を確認すると、野地域自体、円形の集落を成していて、その中心部に野久伊豆神社は位置している。
 確かに、埼玉の神社が解説したことも一因として考えられるが、この地は嘗て荒川本流が幾重にも乱流していた地域であったことは忘れてはいけない。この地形を鑑みれば、荒川氾濫後にできた自然堤防を道として人々は利用し、それが後に、忍城の防御線として、道を迷路のように屈曲させたのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
  

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渡柳常世岐姫神社

 豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した天正18年(1590年)の戦いの中で、616日から716日にかけて武蔵国の忍城(現在の埼玉県行田市)を巡って発生した戦いがあった。この戦いは「忍城の水攻め」といわれ、「備中高松城の戦い」「太田城の戦い」と共に日本三大水攻めのひとつに数えられている。
 75日、小田原城が降伏・開城し後北条氏は滅亡、他の北条方の支城もことごとく落とされながらも、忍城のみは頑強に抵抗し、後北条方で唯一落とせなかった城であった。結局忍城当主である成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に降伏を勧めたので、遂に716日、忍城は開城したという。
 ところで、行田市渡柳地域には「石田陣屋」と称する陣屋跡がある。石田三成が布陣し、指揮をとった場所は丸墓山古墳といわれている。実際丸墓山古墳上からの見晴らしは良く、作戦を練るには古墳に登上して周囲を見渡す必要があったであろうが、実際の起居や会議等は谷戸に面した僅かな比高差の段丘面であるこちらの陣屋で行われていたのであろう。残念ながら現在遺構らしきものはなく、墓地となっている。
 この大規模な合戦の指揮を執ったであろう「石田陣屋」南方近郊に、渡柳常世岐姫神社は厳かに、そしてひっそりと鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市渡柳1479
              
・ご祭神 常世岐姫命
              
・社 格 旧渡柳村鎮守・旧村社
              
・例祭等
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.120235,139.4786955,16.75z?hl=ja&entry=ttu
 前玉神社から400m程南方の洪積層微高地上に鎮座している渡柳常世岐姫神社。この地域は、北側から東側にかけては埼玉(さきたま)地域に接し、埼玉古墳群地帯にかかっていて、前方後円墳三、奈良・平安期集落三群の遺跡がある歴史的にも早くから開発がされていた地である。
 常世岐姫神社は、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族赤染氏の一族が大阪の八尾市に祀った社が本宮とされ、渡柳地域のこの社は、行田市荒木地域に鎮座する荒木常世岐姫神社を勧請したものとされている。
        
                 渡柳常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』
 渡柳村は江戸より十五里、民戸六十餘、四境東は和田村、南は袋新田、西は堤根・佐間の二村、北は埼玉村なり、東西廿五町、南北廿町、成田用水を引用ゆ、寛永正保の頃御料所の外阿部豊後守・芝山權左衛門・佐久間久七郎等の采邑なりしに、元禄十一年村内一圓阿部豊後守に賜はり、今子孫鐵丸に至れり、檢地は元禄十二年時の領主阿部氏にて糺せり、
 
   参道右側には塞神二基祀られている。      一直線に進む参道。社叢林の先に社殿は建つ。

嘗てこの地域には、地域名を冠した「渡柳氏」がさりげなく歴史の舞台に登場している。
・『平家物語巻第九、三草勢揃(みくさせいぞろへ)
「搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経、相伴(あひともな)ふ人々、渡柳弥五郎清忠」
・『源平盛衰記 寿永21183)年111日 木曾左馬頭義仲の追討軍』
「大手大将軍 蒲冠者範頼 相従輩・武田太郎信義等 大手侍 渡柳弥五郎清忠等」
 この渡柳弥五郎清忠という人物は、平家物語において畠山重忠等同様に、出兵した武士の一員として記載されていることから、当時渡柳地域のみならず、多くの狩猟を持つ武将であったと考えられる。
『新編武蔵風土記稿 渡柳村』には、この人物に関して以下の記載がある。
小名 陣場
村の西を云、天正十八年石田治部少輔三成、忍城を責し時、本陣とせし所なり、こヽに陳場の松とて大木ありしが、天明年中枯たりと云、又此邊に塚九つあり、是は石田三成忍城責の時、渡柳の地へ本陣をすゑ、城に向て伏椀の如くなる塚歎多築き仕寄となすと傳るは、此塚のことなり、其内戸場口山と呼塚あり、此塚の中より近き頃石棺を掘出せり、其中に九尺程の野太刀あり、今村内本性寺に納め置り、土人の話にこは當所に住せし渡柳彌五郎といへる人を、葬たる塚ならんといへり、成田分限帳に十八貫文渡柳將監と見えしは、在名をもて名とせしものにて、彼彌五郎の子孫ならんか、さあらば三成が築きし以前よりありし古塚なることしらる、
 八王子社 村の鎭守なり
 末社 八幡、渡柳彌五郎が靈を祀れる由、彌五郎八幡と稱す
 〇八幡社 〇諏訪社 〇稻荷社 〇二ツ宮 以上萬法院持
 〇神明社 〇天神社 以上長福寺持
        
         参道の先には高台があり、その高台上に社殿は鎮座している。
        
                    拝 殿
                     
                    境内に設置されている「御由緒」の碑
               村社 常世岐姫神社 御由緒           
                     由緒

        創立ノ年度詳ナラズ往古ヨリ村鎭守八王子大權現ト唱フ其他口
        碑ニダモ傳ハラズ現在ノ社殿ハ文政九年四月村内有志ノ醵金ヲ
        以テ再建ス其ノ後明治二年五月村社常世岐姫神社ト改称ス同六
        年中村社二申立濟 明治四十二年十二月十八日字久保無各社諏
        訪神社字内郷無各社天神社同字無各社伊奈利社字舟原無各社洗
        磯前神社字久保無各社八幡社字神明前無各社神明社同境内塞神
              
社合併許可  境内六百九十二坪

 拝殿に通じる石段上で、左側に鎮座する境内社       拝殿左側に祀られている石祠二基
         詳細不明                     ことらも詳しいことは不明
        
                           社殿手前の石段周辺から一の鳥居を望む



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内記念碑文」等
 

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