真名板久伊豆神社
・所在地 埼玉県行田市真名板1312
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧上下真名板村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭 10月15日
行田市・真名板地域は同市東端部に位置していて、西で下須戸・藤間・小針、南で関根、北で羽生市下新郷、東で加須市串作・阿良川・外田ヶ谷に接する。埼玉県道32号鴻巣羽生線が縦断し、北端の概ね羽生市との境界線上を埼玉県道128号熊谷羽生線が通過していて、西端で見沼代用水に接している。
真名板高山古墳から南北に通じる埼玉県道32号鴻巣羽生線を隔てて北西方向で、目視でも確認できるくらい、近距離に鎮座している。周囲は一面広々とした田畑風景の中に、ポツンと社叢林が見えるので分かりやすい。
真名板久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「真名板村」の解説
西は藤間村、北は下新郷村(現羽生市)、東は串作(くしつくり)村(現加須市)。薬師堂境内に真名板高山古墳があり、墳丘には「吾妻鏡」寛元三年(一二四五)一月九日および同四年一月六日の弓始の条にみえる真板次郎、同五郎次郎の館跡土塁が一部残るという。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領分役高一一六石余、旗本領分役高四〇〇石余。
「真名板」という地域名は難解地名の一つといわれていて、調理で食材を切る際に台として用いる「まな板」を連想させる名前であるため、料理用具に関連する地名かとも思える。但し、『新編武蔵風土記稿』にもこの地名があるため、この地名は少なくとも江戸時代以前からあったと考えられる。また、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、「吾妻鑑」にも鎌倉幕府の御的始に十一回出場の弓の名手と云われた「真板五郎次郎経朝」が登場する。
・吾妻鑑巻三十五「真板五郎次郎経朝」
・ 〃 巻四十二「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」
尚、現行田市真名板地域には、新義真言宗花蔵院という寺院があって、明治時代に廃寺となっているのだが、吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑がある。
この「真板」氏は「まないた」氏とも読み、「真名板」とも表記する。
参道の様子
さて、この「真名板」地名由来として、地形に関係しているという説がある。つまり、「まな」=「まな+ご(真+砂)」という意味で、小石や砂利を指しているという。この地域の北側には古利根川(会の川)が流れていて、河川が運んできた小石や砂利が地形を形成し、そこから名前がおこったと考えられるとの事だ。
考えてみると、近くにある真名板高山古墳は、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3m埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約9~10m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明している。
「真名板」地名も当然地形を表す地名という事になろう。
参道右側にある伊勢参宮記念碑 参道左側にも伊勢参宮記念碑が建つ。
その左側には辨才天の石祠が祭られている。 この社には伊勢参拝記念碑が多くある。
拝 殿
久伊豆神社 行田市真名板一三一二
当社の由緒は不詳である。境内近くに真名氏の館跡と伝える花蔵院通称薬師堂があるが、社より寺の方が古いかもしれぬと氏子は言う。正式には真言宗薬王山花蔵院と称し、現在は曹洞宗全龍寺が管理している。「風土記稿」によると花蔵院が当社の別当であった。なお、明治年間に花蔵院が焼け、関係文書も焼失したので、近世以前の事が全く不明となってしまった。
「明細帳」によると、主祭神は大己貴命であり、明治四年に村社となり、同四一年に上・下耕地の八坂社、三ツ家の浅間社を合祀している。しかし、この合祀では、下耕地の八坂社は移転せず、浅間社は薬師堂隣接の高山古墳上に移されている。また、上耕地の八坂社は境内に合祀され、現在の社号標傍らに移されていたが、老朽化のため昭和二〇年に取り壊された。
社殿は明治二〇年に焼失し、その五か月後に仮殿を設け、同二八年に再建された。なお口碑によるとこの時、拝殿は他村より購入し、解体して運んできたという。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
社殿からの一風景
社から見た真名板高山古墳
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
「Wikipedia」等