古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

正能諏訪神社

 玉敷神社は、埼玉県加須市騎西にある神社。式内社で、旧社格は県社。元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社的存在の神社である。
 社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。延喜式神名帳では「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載され、小社に列格している。江戸時代までは「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48箇村の氏神でもあって、広く地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。
 実は、この歴史ある社は当所からこの地に鎮座していたわけではなく、元は現在地より北方数百メートルの埼玉郡正能村(現:加須市正能)に鎮座していた。戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く消失した。『新編武蔵風土記稿 正能村』の「小名」には、その時の歴史の痕跡がしっかりと残されている。
「宮内 騎西町場久伊豆社元當村にありし頃、供免地のありし所故此唱あり、今も久伊豆神社河野穩岐此地を持とす」
「一夜塚 永祿五年謙信騎西の城を攻陥せし時、一夜に築て士卒屯せし地なるゆえかく唱ふと、或は戰死の屍を埋めし塚とも云ふ、」
 その後、江戸時代に埼玉郡根古屋村(現:加須市根古屋)の騎西城大手門前に再建された後、寛永4年(1627年)ごろに現在地に遷座したという。

 正能諏訪神社は旧正能村の作神で、創建年代等は不詳であるが、信州の諏訪大社より勧請したと伝えられている。別当は幕末まで真言宗竜花院が務めていた。現社殿は江戸時代終りごろの嘉永3年(1850)に再建された。明治維新後の明治40年には字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀している。
 毎年7月27日の例祭に行われる「カマドッカエ」は、作神であるお諏訪様に鎌を奉納して五穀豊穣を祈る行事である。
        
              
・所在地 埼玉県加須市正能2001
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧正能村鎮守
              
・例祭等 春祭り 427日 例大祭(夏祭り) 727日 
                   秋祭り 
1027
 戸崎日吉社から一面長閑な田畑風景が続く農道を800m程東行し、埼玉県道305号礼羽騎西線に達する路地を右折、旧騎西町市街地方向に南下する。500m程進んだ先のコンビニエンスストアが見える交差点の先に十字路があり、そこを右折すると正能諏訪神社が見えてくる。
 社の境内東側には適度な駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
正能諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「正能村」の解説
 騎西町場および外川村の北にあり、集落は騎西領用水に沿う自然堤防上に立地する。慶長七年(一六〇二)の正能村の年貢銭納状(正能家文書)がある。元和七年(一六二一)の武州崎西領正能村地詰帳(同文書)によれば検地役人は私市城主大久保家の家臣で、田方は一七町五反余であった。田園簿によれば田高・畑高ともに一八一石余、川越藩領。ほかに竜花寺(院)領二〇石があった。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三九五石余、反別は田方一九町一反余・畑方一九町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに一六〇石余があった。検地は正保四年(一六四七)実施。
        
                    拝 殿
 諏訪神社  騎西町正能二〇〇(正能字当開戸)
 当地は新川用水に沿う集落で、かつてここには式内社の玉敷神社も久伊豆神社という社名で鎮座していたことがある。『風土記稿』には、小名宮内とあり、これは当地に久伊豆神社の供免地があったために付けられた名で、久伊豆社移転後もここは河野隠岐持ちであった。
当社の創建は明らかではないが、口碑によれば信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝える。
 祭神は建御名方命であり、内陣には金幣を祀る。
 別当は、幕末まで真言宗竜花院が務めていたが、明治期に入り神仏分離となり、以来神職が奉仕するようになった。初め河野家が、次いで森野家が務め、現在は新横家が継いでいる。
 明治四〇年に字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀した。このうち、雷電社は現在も旧地に石宮が残っている。以前ここには松の大木が一本生えていたことから、この辺を一本木耕地と称し、雷が来る度に黒雲が松の上を覆い、よく雨を降らせたという。そのため、このあたりの地主三名は雷神に感謝し、明治一七年に石宮を建立している。
 当社境内には、明治から昭和にかけて奉納された伊勢太々講の記念物が多い。例えば、石灯龍・狛犬・社号標・玉垣などである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿向拝部、及び木鼻部の彫刻         境内には社の案内板も設置されている。

 当地は玉敷神社との結びつきが強い。これは「埼玉の神社」の興で挙げた通り久伊豆神社が奉遷されここに鎮座していたことと、玉敷神社の神楽師に正能の氏子が当たることになっていることを考えてもうかがうことができよう。現在、玉敷神社に所蔵されている文政五年の神道裁許状(神楽役)を見ると、中に神楽役の青木左近藤原貞勝・青木右門藤原保道・青木主馬藤原正直の三名が記されているが、いずれも正能の者と思われる・なお、現在の神楽師の中にも青木姓が多いとのことだ。
             
             境内にある丸正講先達富士登山成就記念碑
 丸正講先達富士登山成就記念碑は、丸正講の青木先達家(正能)が、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもので、市有形文化財に指定されている。
       
                   丸正講先達富士登山成就記念碑の案内板
 町指定有形文化財 
 丸正講先達富士登山成就記念碑
 江戸時代、富士山に集団で登拝する信仰が隆盛し、富士講(浅間講)と呼ばれた。この講は先達を中心に組織され、そのひとつが丸正講の青木先達家(正能・青木浩家)であった。
 青木先達家は、一行初山の行者名を名乗る半右衛門を講祖に、元禄十二年(一六九九)には富士登山三十三回の大願を成就、以後、二代誠行二山、三代三行鏡山、四代泰行清山と続き、五代正行信山、六代正行生山の頃には傘下に四、五千人を有する関東屈指の大講社となった。
 ここに造立する碑(嘉永五年(一八五二)十月二十六日銘・総高四一二センチメートル)は、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもの。台石には建碑に関係した村名や人名が刻まれ、その影響力は五十里(約二〇〇キロ)四方に及んだという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
        
       境内には石碑等並んでいて、その中に「水天宮」が祀られている。

この水天宮に関しては、「加須インターネット博物館HP」の中の「昔ばなし」において「新川(にっかわ)べりの水天宮」として以下のように紹介している。
「新川(にっかわ)べりの水天宮」
正能・諏訪神社に水天宮があります。水天宮はお産の神様で妊娠すると、安産を願ってお参りをしました。水天宮は、むかしは龍花院の南、ちょうど鐘楼堂近くの新川べりにありました。この神様は、第2次世界大戦の後、ここへ引っ越してきました。
むかしは川で溺れる人や水の事故で亡くなることが多かったようです。特に水の犠牲<ぎせい>になった人を探すのは大変難しく、どうやっても見つからないことがありました。そんな時、有り難いおまじないがありました。水天宮のお札です。このお札をお盆にのせ、川上から流します。不思議なことに、人が沈んでいるところに来るとお盆がグルグル回りだしたといいます。
こうして何人もの人が見つけだされたということです。しかし、川の改修で水の事故も減り、このお札もいつしか使われなくなりました。
 諏訪神社の境内に立つ水天宮は、高さ約80センチほどの石の祠で、正面に「水天宮」と書かれている。江戸時代の安政2年(1855)、正能村の人たちによって建てられたとのことだ。


【戸崎八坂神社】
        
              ・所在地 埼玉県加須市正能88付近
              ・ご祭神 素盞鳴尊(推定)
              ・社格・例祭等 不明
正能諏訪神社のすぐ東側で、埼玉県道305号礼羽騎西線沿いにあるコンビニエンスの道を隔てた反対側に戸崎八坂社は鎮座している。江戸期には「牛頭天王社」として『新編武蔵風土記稿 戸崎村』に記載されていて、明治40年戸崎諏訪神社に合祀されたが、現在も元地(字下耕地)で祀られているという。
       
                  戸崎八坂神社拝殿
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
 諏訪社 村の鎭守なり 〇牛頭天王社 以上寶光寺持
 寶光寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、諏訪山瑠璃院と號す、開山空鑁、本尊不動は智證大師の作、長二尺の坐像なり 薬師堂

「埼玉の神社」による戸崎八坂神社の由緒(戸崎諏訪神社項から)
 明治四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「玉敷神社HP」「埼玉の神社」
    「加須インターネット博物館HP」Wikipedia」「境内案内板」等
      

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小島諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市小島4414
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 春祭り 43日 大祭 827
 本庄市小島地域は、元小山川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。
 この地域は、本庄市街地から西側に位置し、古代のある一時期は上里町全域と児玉郡神川町の一部を合わせた区域である賀美郡に属していたらしい。
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる、
        
                  
小島諏訪神社正面
 途中までの経路は小島唐鈴神社を参照。小島唐鈴神社の参道入口の一の鳥居から南下し、「小島4丁目」交差点を右折、埼玉県道392号勅使河原本庄線を北西方向に進む。ちなみにこの県道は、旧中山道であり、国道17号から県道に降格された路線で、起点である上里町大字勅使河原から終点の本庄市諏訪町の「日の出」交差点に至るまで、国道17号および高崎線に並行しているとの事だ。
「小島4丁目」交差点から県道沿いに300m程進み、路地を右折する。道幅の狭い道路と住宅がそれなりに並び、四方見通しがきかないため気をつけながら北上すると、正面にこんもりとした如何にも古墳らしき塚とその塚全体を囲む社叢林が眼前に広がり、その入り口には真新しい小島諏訪神社の鳥居や狛犬が見えてくる。
 
  鳥居の社号額には「諏訪大明神」と刻印     鳥居の手前で左側にある由緒の案内板
        
                            石段上に鎮座する小島諏訪神社
                    社殿前で右側には五重の石塔が立っている。
       
                  
小島諏訪神社社殿 
『新編武蔵風土記稿 小島村』
 諏訪社 長松寺持 下同じ、〇稲荷社二 〇牛頭天王社 〇愛宕社 〇智方明神社 村民持、
 長松寺 新義眞言宗、江戸護持院末、唐鈴山藥師院と號す、開山宥海正保四年十月十六日化す、
     本尊藥師、

 諏訪神社 御由緒  本庄市小島四--一四
 ▢御縁起(歴史)
 小島は、利根川の右岸に位置する。集落は本庄台地上にあり、低地から見ると島のようであったので小島の名が付けられたという。地内には、多数の古墳(旭・小島古墳群)が存在していたが、昭和三十年代後半からの急激な宅地造成によって、その数も激減してしまった。
 当社は、そのうちの一つの円墳上に祀られる。創建については伝えられていないが、地内の今井達雄家には、享保十二年(一七二七))に長松寺の住僧慶尊が新兵衛と名乗る者に宛てた文書が保管されている。その内容は、享保十二年より長松寺が諏訪大明神の別当となり、願いにより畑一反一畝一一歩の年貢上納を行うが、「神前之義」は新兵衛らが行うようにというものである。これに続いて、「寛永五年(一六二八)新兵衛ト改名ス、明暦四年(一六五八)此所へ移ル、万治二年(一六五九)此所へ諏訪大明神鎮座ス」と記されている。
 今井家には新兵衛と名乗っていた伝承はないが、同家は古くから「お諏訪様」と呼ばれている。口碑によれば、当社の氏子 の先祖たちは信州から移住した時は台地の下に住んでいたが、中山道整備に合わせて台地上に屋敷を構えるようになり、諏訪神社も今の場所に鎮座することになったという。前記今井家文書に「元禄十一年(一六九八)面地ヲ買置」と書いてあるのも注目される。
 明治に入り、長松寺の管理下を離れた当社は、無格社とされた。(以下略)
                                                                    案内板より引用
        
              社殿の左側に祀られている稲荷社
        
  鳥居の右側に並列し祀られている六基の庚申塔や二十二夜塔、一番右側には
御手長大明神。

 社の氏子は『明細帳』によれば「氏子六十七人、内戸主十四人」と載るように、古くからの一四戸が氏子であるという。ゆえに、氏子区域は、字元屋敷の中でも社の南側の一部の範囲に限られている。
 この限られた氏子を三組に分け庚申講を結成していた。一年の最後の庚申の日に持ち回りの宿に集まり、「庚申祭り」と称して床の間に猿田彦のお姿を描いた掛軸を下げ、その前にお供え物をしてから揃って手を合わせ、その後、料理を御馳走になりながら皆で酒を酌み交わす。この庚申講は歴史が古く、社の鳥居脇には享保七年(一七二二)の庚申塔をはじめとして、各年代の庚申塔が六基立っている。
 六基の庚申塔の一番右側には廿二夜塔が立っている。上記の男性が集まる庚申講に対して、氏子の女性だけで二十二夜講を結成し、かつては、毎月二十二日の日中に宿に集まり、二十二夜様の掛軸の前にお供え物を上げ、お茶を飲みながら雑談していたというが、今は春・秋の年二回だけとなっている。
 社が鎮座している地名は字元屋敷という。この字名の由来として「本庄の地名」では、中世の豪族の屋敷があった場所という。古い集落があったと思われ、江戸時代になって中山道が村内を通過すると、街道沿いに集落が移動していったのではないかと思われる、と載せている。
        
                  小島諏訪神社遠景


参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等 
 

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上仁手諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県本庄市上仁手212
             ・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧上仁手村鎮守
             ・例祭等 歳旦祭 17日 祈年祭 43日 例大祭 113
                  新嘗祭 1127
 国道17号線を上里町方向に進み、「若泉2丁目」交差点を右折する。国道462号線に合流後北行し、利根川に架かる「坂東大橋」を越え、群馬県に入った最初の「坂東大橋北」交差点を右折する。群馬県道296号八斗島境線に合流後1㎞程東行し、右斜め手前方向に進む道を道なりに進むと、利根川の堤防が見える手前で、進行方向右手に上仁手諏訪神社が見えてくる。
        
              道路沿いに鎮座する上仁手諏訪神社
 本庄市の上仁手地域は本庄の最も北端に位置する地域である。現在利根川が南部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後、寛永年間の大洪水により、烏川の流路が南側に移って上仁手村は現在の群馬県側になったが、行政上は武蔵国に属している。
『日本歴史地名大系』 「仁手村」の解説
 かつては烏川の流路にあたり、慶長九年(一六〇四)代官頭伊奈忠次が同川に取水口(仁手堰)を設けて備前渠用水を開削した。寛永年間(一六二四〜四四)以前は上野国那波郡に属していたが、烏川の変流によって武蔵国所属となったとされる(上野国志)。幕末の関東川々御普請所絵図によると、利根川とみられる流路の南岸に元仁手、対岸に下仁手・上仁手があり、その北の島村(現群馬県境町)と長沼村(現同県伊勢崎市)との間に武蔵・上野の国境が引かれている。
       
                    境内の様子 
     
              境内に聳え立つご神木(写真左・右)
         ご神木の根元には戸隠神社の石祠がポツンと祀られている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 元仁手村』
 元仁手村は古當所及び上下仁手を合せて仁手村と唱り、正保の頃も楢然り、延寶五年五月中川八郎左衛門檢せし水帳に、上新田・下新田と載たれば、此頃より三村に分れしにや、既に元祿改の國圖に、仁手村及仁手村内上仁手村・仁手村内下仁手村と分ち記せり、元の字を添しは何の頃なりや詳ならず、當村及沼和田・山王堂・都島・杉山・新井等數村古上野國那波郡に屬せしが、寛永年中洪水の時、烏川の瀬替りてより當國に屬せし由、【上野國志】に記せり、
『新編武蔵風土記稿 上仁手村』
 利根川 村の南を流る、川幅近村に同じ、
 諏訪社 村の鎭守、圓融寺持、下同じ、〇稻荷社
 圓融寺 新義眞言宗、上野國那波郡堀口村滿善寺末、無量山と號す、阿彌陀を本尊とす、開山宥尊は寶永三年正月十六日示寂 觀音堂 地藏堂


 諏訪神社  本庄市上仁手二一二(上仁手字北土手)
 鎮座地の上仁手は、利根川北岸の群馬県側に位置する。かつては対岸の本県側の元仁手や下仁手と地続きで一村をなし、仁手村と称していたが、利根川の度重なる氾濫により同村が分断されて、現在のようになったという。この仁手村については、天正八年(一五八〇)に最後の鉢形城主北条氏邦が、長谷部備後守に出した「印判状」に、近くの栗崎・五十子(いかっこ)などとともに塩荷の押え所として載ることから、当時、武蔵から上野国へと至る重要な渡河点であったことがわかる。
 当社の創建については、口碑に「天正年間(一五七三〜九二)に北条氏の家臣であった茂木隼人の一族が来住し、氏神として祀った」とある。北条氏の鉢形城内にも諏訪大明神が城の鎮守として祀られていたことから、茂木氏が当地に来住するの当たり、城内の諏訪神社を勧請したものであろう。
『風土記稿』上仁手村の項には「諏訪社 村の鎮守、円融寺持」と載り、江戸期には、真言宗無量山円融寺が別当であった。この円融寺は、当社の北隣に本堂を構えていたが、明治十八年に焼失し、廃寺となった。
 本殿には、正徳六年(一七一六)に神祇管領吉田家から拝受した「正一位諏訪大明神幣帛」の筥(はこ)や、各々に梵字の墨書きされた多数の小石を納める桶などが奉安されている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

       
             社殿の奥に祀られている養蚕神社の石祠
         よく見ると、養蚕神社の左側隅には稲荷社の石祠もある。
 氏子区域は大字上仁手で、氏子数は五〇戸余である。古くから養蚕育成の先進地として知られ、養蚕の盛んな土地であったが、昭和四十年始め、隣接する群馬県伊勢崎市八斗島に工業団地が造成されたことから、次第に工場へ勤めに出る氏子が増えてきている。
 氏子が今も続けている行事に二の午に行う「初午祭」があり、当地では、明治18年の折の大火災が、二の午の夜に起きたことから、毎年二の午に初午祭りを行う習わしになったという。かつては当日早朝から、多くの氏子が当社境内の稲荷社へ繭玉団子を供えた。また、各家の屋敷稲荷でも赤い幟を立てて祭りを行っていた。養蚕農家の中には、養蚕倍盛を祈願し、一日を農休みにして、自分の家の稲荷社へ参拝者を呼び寄せ甘酒を振る舞ったりした。但し、このような行事も、昭和四十年代半ばからの養蚕の衰微に伴い、現在は行われていないとのことだ。

        社のすぐ北側には悠然と利根川の大河が流れる。(写真左・右)
 古老の話によると、当地は水害を被りやすい位置にあり、水難者がしばしば出る事から、昭和初年までは、八月のお盆に、川施餓鬼(かえあせがき)が行われていた。氏子は、麦藁で編んだ小船や紙灯籠を作り、夕方になると、利根川の川辺から蝋燭を灯して流したものであった。川面を照らしながら静かに流れていく様子は、何か物悲しく、大変に風情があったという。 
       
               利根川の堤防から見る社の遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄の地名」「埼玉の神社」等   
        
 

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城山稲荷神社

 本庄城は、武蔵七党・児玉党出身の本庄宮内少輔実忠が古河公方家を迎え撃つために、弘治2年(1556)に構築し、元の本拠地であった東本庄館から移動した。『児玉記考』によると、「本庄氏滅亡の前は大池形をなせる凹地をはさんで左右に城郭を構え」とある。本庄城は、当初、久城掘りの東側から現在の本庄自動車学校付近までの大規模な範囲にあった。本庄城址は、現在の本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺(久城堀西側)を指すが、この辺り一帯だけではなく、本庄城址とされる地域は、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であった。城の北の崖下には小山川が流れ、東の地は窪んでおり、西の地はまた少し土地が高く、南は宿(城下町)の裏に続く。元の本拠地であった東本庄館より北方に位置し、より国境に近い位置に築かれた。
 天正18年(1590)に後北条氏傘下として豊臣秀吉と対立し、小田原城へ籠城するも開城に際して自害した。同年527日には本庄城も落城しており、鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡した。本庄氏による本庄城在城期間は、実忠とその嫡子・本庄隼人正近朝2代合わせて34年であった。
 天正188月、徳川家康に旧北条領が与えられ、その家臣である信州松尾の小笠原掃部大夫信嶺が9月に本庄一万石を配領した。小笠原氏により本庄城は改築され、信嶺の養嗣子となった信之により、本庄藩が立藩したが、慶長17年(1612年)に古河へ加増移封され、これにより本庄藩は廃藩となる。以後、本庄城の城下町付近には本庄宿が形成されていくこととなった。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市本庄3544
            ・ご祭神 倉稲魂命(城山稲荷神社) ・応神天皇(八幡神社)
                 建速素盞嗚命・牛頭天王(八坂神社)
            ・例祭等 祈年祭 315日 例大祭 412日 八坂祭 715
                 新嘗祭 1124
 本庄市役所の東側で、台町八坂神社からは北側にある「城下公園」から徒歩にて移動するとすぐ西側に城山稲荷神社が見えてくる。この地域は、北側の段丘の直下を小山川が流れ、南東は久城堀で切断されるという地勢は、自然の要害であったため、嘗ては本庄城が築造されていた地であり、江戸時代初期に本庄城を領有していた小笠原氏の本丸の位置は、城山稲荷神社の南西部一帯と推定されている。
        
                  城山稲荷神社正面
 
 鳥居近くにある「本庄新八景 本庄城跡と    標柱の先に設置されている社の案内板
     城山稲荷神社」の標柱
        
      社の案内板に対して、参道の反対側に設置されている本庄城跡の案内板
 本庄城跡  所在地 本庄市本庄三‐五
 本庄城は、弘治二年(一五五六)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。
 本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(一五六七)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。
 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(一六一二)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。
 元禄十三年(一七〇〇)の城跡検地表には三町四反五畝二九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。
 なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
    本庄城跡の案内板のすぐ先にある「城山稲荷神社創建四百五十年記念碑」の石碑
 城山稲荷神社創建四百五十年記念碑
 城山稲荷神社が当地に鎮座されて四百五十年を迎える。
 今を去る弘治二年(一五五六)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄台地の北端、字天神林に城を築き、守護神として稲荷神社を勧請した。本庄城の築城を機に本城村も誕生した。
 天正十八年(一五九〇)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事無く開城した。
 新たに本庄領一万石の城主となった小笠原信嶺は、天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。
 その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。
 また、町が全国有数の繭の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍盛の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊り、サーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。
 現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治四五年(一九一二)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。
 平成十八年(二〇〇六)、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建四百五十年を祝して、ここに石製大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
          参道を進み、石段を下るその先に社殿等が見えてくる。
              県内には珍しい「下り宮」の配置
       
         境内の中央に威風堂々と聳えたつ城山稲荷神社のケヤキ」
 本庄市内で最大といわれる巨木。太い幹は空洞化しているものの、境内中央に堂々とした姿を見せている。樹勢は未だに旺盛な様子が見られ、強い生命力を感じさせてくれる。
        
                          
城山稲荷神社のケヤキ」の案内板 
 埼玉県指定天然記念物 
 城山稲荷神社のケヤキ
 昭和四十四年三月三十一日指定
 このケヤキは目通り六・三メートル、根回り十三・三メートル、枝張りは三十メートル四方に及び、姿態もみごとな樹で、この一本で神社の森をつくっているくらいである。
 樹令およそ四百年と推定される、ケヤキは戦時中特別なものを除きほとんど強制的に供出され、このような大木は、県下でも数少ない貴重なものである、弘治二年(一五五六)本庄実忠によって本庄城築城のとき献木されたと伝えられている。(以下略)
        
                ご神木の先に鎮座する社
 城山稲荷神社  本庄市本庄三—五—四四(本庄町城跡)
 本庄城は、弘治二年(一五五六)に、本庄宮内少輔実忠が築城したとされる平城である。
 利根川と烏川に削られた段丘上にあり、北側の段丘の直下を小山川が流れ、南東は久城堀で切断されるという地勢は、自然の要害であったが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の関東攻めによって落城した。 徳川家康の関東入国後、小笠原信嶺が新城主となったが、嗣子の信之が慶長十七年(一六一二)、古河城に移されて廃城となった。 現在、城跡は本庄市指定の文化財となっており、築城時に植えられたという欅の大木は県指定天然記念物になっている。
 当社は、本庄城の北東端にそびえるこの欅の大木の傍らに鎮座しており、社伝によれば、本庄城を築いた本庄実忠が、常々崇敬してきた椿稲荷明神を城の守護神として勧請し、城の丑寅(北東)の方角に社を建立して祀ったことに始まるという。 本庄氏は氏神として稲荷神を厚く信仰したといわれ、元の居城であった東本庄館跡をはじめ、本庄氏にかかわりの深い館跡の近くに稲荷社が祀られている例がしばしば見られる。また、天正十八年に新城主となった小笠原氏も、当社を厚く信仰して社殿を再興し、慶長三年(一五九八)には上州(現群馬県)赤城山麓から取り寄せた一〇〇本以上の松を境内に植樹したと伝える。
 江戸時代は、真言宗の慈恩寺が別当であり、現在の社殿は、天保十五年(一八四四)に再建したものである。
                                   「埼玉の神社」より引用
 当社の祭日は、祈年祭(315日)・例大祭(412日)・新嘗祭(1124日)及び、末社の八坂神社の例祭である八坂祭(715日)の年4回祭典を行っている。その中で、最も盛大に行われているのが、例大祭である。「大祭」とも称し、昔から「桜を楽しむ祭り」とされており、嘗ては42日であったのだが、昭和二十年代からは桜が満開となる十二日に行うようになり、参道付近には今でも露店が並び、相当な賑わいがあるという
 八坂神社は本庄宿時代には中山道の中央に市神様とし祀られていた。その後円心寺隣接の八幡神社内に移され、更に明治末期に八幡神社と共に城山稲荷神社境内に移り三社別々に祀られていたが、この度の社殿新築を機にこれを合祀し新社殿内に三神社を祀る事になった。
 八坂神社の例大祭は祇園祭り(天王様の祭り)として古くから伝えられてきたが、現在は本庄祇園まつりとして七月十五日に近い土・日曜日に全町参加の市民のお祭りとして盛大に行われている。本町には明和四年(一七六七年)造営の神輿が現在も残されており当時から神輿渡御が行われていた記録が残っている。
       
          社殿の左側斜面上には幾多の白狐像が奉納されている。 
 城山稲荷神社は、本庄宮内少輔実忠が本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したにが始まりであったが、本庄城が廃城となった後は、一般の住民の方々によって商売繁盛・養蚕倍盛の神として信仰されるようになっていった。養蚕が盛んであったころは、春に当社に供えてある繭や白狐像を借りて帰り、秋に新繭や新しい白狐を添えて返納する習わしがあり、今でも本殿の脇には多くの白狐像が置いてある。
 
     社殿の右側にある手水舎           手水舎の並びにある銭洗弁財天   
手水舎の奥には市指定文化財「ヤブツバキ」あり   嘗て湧水が噴出していたのであろうか。

 市指定文化財のヤブツバキは、戦国時代に本庄城主本庄宮内少輔実忠が西本庄の地にあった椿稲荷を現在地に移転したという社伝が残っている。 目通り周囲は1.2メートル。
また、社殿のすぐ左脇にある湧水は、氏子の間で、七夕の日に、女性がこの水で洗髪すると災い除けになるとの信仰・風習があるという。
       
                   静かな境内
 境内の一角には神楽殿がある。かつて「太々神楽講(だいだいかぐらこう)」があり、旧本庄町内や伊勢崎方面に多くの講社を持っていたという。特に例大祭では、五穀豊穣・養蚕倍盛・家内安全・商売繁盛などを祈願しに、先達に連れられた代参が大勢来て、金佐奈神楽本庄組が奉納する神楽も見物していったとの事だ。但しこの「太々神楽講」は戦前に解散となっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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台町八坂神社

 八坂神社(つしまさま)  本庄市本庄三‐七-一一(本庄町字北久保原)
 本庄は、中山道の江から十番目の宿場であると共に、繭市が盛んであったことでも名高い。本庄の繭市は、毎月六回、二と七の付く日に市の立つ六斎市で、その最盛期には「本庄の繭相場が全国の中心」とまでいわれるほどであった。
 社伝によれば、当社は弘治二年(一五五六)の創立で、城下町の疫病除けの神として本庄城主の本庄宮内少輔寅実忠が勧請したと伝えられる。その後天正十八年(一五九〇)には、小笠原氏が城主となったが、慶長十七年(一六一二)に、下総国古河へ加増転封となったため、本庄城は廃城となった。その後、明暦二年(一六五六)に本殿を建立といわれ、『明細帳』には「明暦二年信徒にて本社を建立す」との由緒が記されている。このことは、本庄宿の人々が宿場の繁栄を願って社を整備したことを示すものと思われる。
 また、『風土記稿』本庄宿の項に「稲荷社 城跡にあり、城山稲荷と云、慈恩院持、○牛頭天王社 これも同じ処にあり、大正院持」と載るうちの「牛頭天王社」が当社のことであり、本庄城跡の一角にある当社の周辺は、かつては鬱蒼とした木立に包まれ、夜には大人でも怖くて一人では近づけないほどであったが、今では周囲は城下公園として美しく整備されている。 なお大正院は、天正十一年(一五八三)の創立という真言宗の寺院で、当社の四〇〇メートルほど南方にある。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            ・所在地 埼玉県本庄市本庄37−11
            ・ご祭神 健速須佐之男命           
            ・例祭等 初祈願 115日 祈年祭 412日 例祭 71415
                 
新嘗祭 1210
 JR高崎線本庄駅北口から駅前通りを北上すると本庄市役所に達するのだが、その手前の新郷のある交差点を右折する。市役所も近隣にあり、住所も「本庄」と市名を冠した市の中心的な地域故、多くの住宅街が建ち並ぶ道を約300m進むとすぐ左手に「八坂神社」の社号標柱のある路地が見え、そこを左折し真っ直ぐ進むと台町八坂神社に到着する。
 周囲には専用駐車場はないようなので、社のすぐ北側にある「城下公園」の駐車スペースに停めてから参拝を行った。
        
                 台町八坂神社正面
 本庄城址とされる地域は、元小山川の流れを北辺の天然の要害とした西側から続く本庄台地の東端部分に位置し、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であったという。弘治二年(1556)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折、鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社。嘗ての本庄城域の東端といわれる台町八坂神社の南側は一段下がっており、昔は堀であったと推測されている
            
             入口付近に一際目立ち聳え立つご神木
        
                                斜面上に建つ鳥居
 本庄市台町が氏子区域で、但し地図上では台町の代わりに「本庄」「東台」「日の出」の3地域に分かれているが、台町の名や自治会として現在も引き継がれており、そこに居住する約1400名が当社の氏子である。台町八坂神社は、「津島様」もしくは「台町の天王様」と呼ばれ、商売繁盛の神もしくは疫病除けの神として信仰されている。天王様の呼称は、神仏分離までは「牛頭天王」と号していたことに由来するもので、八坂神社には一般に「天王様」の通称があるが、旧児玉郡内に150社ある八坂神社のうち「津島様」と呼ばれるのは当社だけであるという。

         鳥居の先に設置されている新旧の案内板(写真左・右)
 八坂神社  所在地 本庄市本庄三‐七
 八坂神社の祭神は、健速須佐之男命である。社伝によると創立は、弘治二年(一五五六)で、城下町の疫病除けの社として本庄宮内少輔実忠が勧請したと伝えられている。現在の本殿は、明暦二年(一六五六)再興されたものである。
 この神社の祭礼は毎年七月十四日、十五日に行われ、この両日台町の氏子の人々によって獅子舞が奉納されている。この獅子舞は、寛文三年(一六六三)榛沢郡元榛沢(現岡部町)で開かれていた六斎市を本庄宿に移した折に、天王祭(市神祭)のとき、台町有志によって始められたと伝えられている。歌人三、笛四、裃着用ほか手古舞姿で拍子木二、金棒引二、舞い三(法眼一、雌獅子一、老獅子一)で演舞されている。昔より旱魃時に当社の獅子舞を奉納すると必ず霊験あらたかに雨が降ると伝えられ、雨乞獅子といわれている。
 なお、この獅子舞は、昭和三十五年本庄市指定の無形文化財となっている。(以下略) 
                                      案内板より引用
 

 
    ご神木のすぐ先にある手水舎       台町八坂神社の由来等を記した石碑あり
 八坂神社
 祭神 健速須佐之男命  例祭 七月十四日、十五日
 由緒

 弘治二年(今より四二〇年前)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社で児玉郡並びに本庄市内に於いても八坂神社は当神社が唯一の社です 社殿は昭和四十八年に再建したものである
 本庄市無形文化財八坂神社獅子舞の由来
 寛文三年(今より三一三年前)の時代に本庄宿に生絹市場開設の折八坂神社氏子有志が舞いや唄を習い伝え八坂神社に奉納したのが始まりで爾来今日に及んで居る
 この獅子は龍頭と云い寛文三年に沼和田の雷電社の社木を以って作製したものでその龍頭の顎下に年号の彫刻がある
 此の獅子舞 唄は頗る古雅なもので疫病や雨乞に霊験あらたかにて雨乞獅子の名もあり戦火の中にも毎年休む事なく奉納され現在に至って居る
 獅子は法眼・女獅子・老獅子と呼び舞人は身を清め八坂神社宮司のお祓いを受け御幣を腰に差して舞う
 伝統ある獅子舞(橋渡り)の数十年来の再現奉納を記念し之を建立。
 昭和五十一年七月十五日竣工
        
                    拝 殿
        
         社殿の左側にある「燿龍殿」と表記された獅子舞道具収蔵庫
 71415日に行われる「祇園祭」は「夏祭り」ともいい、県指定無形民俗文化財である「台町の獅子舞」が奉納される。社の標柱には「八坂神社の例大祭及び雨乞い祈願の時に奉納される獅子舞で、その起源は寛文三年(1663年)に遡ると云われ、以降、毎年休むことなく祇園祭で奉納されている」と載せている。
              
 1415日と二日続きの祭りのうち、14日の晩は宵待(よいまち)、15日が本祭りであるが、勤め人の増加から土・日曜日を祭日とするようになり、平成3年から本来の祭日に近い土・日曜日に祭りを行っている。
 台町の獅子舞は、最も古い獅子舞に寛文三年の銘があり、同年に榛沢郡元榛沢の六斎市を本庄宿に移した際に始められたものといわれている。この獅子舞は、長唄一二曲、端唄一二曲に合わせて舞うところが特徴で、宵待で六ヵ所、本祭りで八ヵ所と地内各所で奉納する。いずれも大正院の薬師堂が出発点で、当社を経由して町内を回り、最後に大正院の薬師堂に戻る形で進行、順路途中で設けられた御仮屋ではきゅうり等の奉納があるという。
        
            燿龍殿の手前に祀られている雷電宮の石祠
 嘗て夏の渇水期には、台町の北にある沼和田の雷電神社の獅子舞の一行が出向き、一場所摺って降雨を祈願したものであるのだが、これが台町獅子舞の「雨乞獅子」という異名の由来となっている。
        
                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
本庄市観光協会HP」「境内案内板」等

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