古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

熊井黒石神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1015
             
・ご祭神 日本武尊
             
・社 格 旧熊井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9862534,139.311396,16z?hl=ja&entry=ttu
 熊井毛呂神社から進路を北西方向にとると、埼玉県道41号東松山越生線に合流、更に西方向に進む。途中左手方向で、小高い丘上に上熊井農産物直売所「ちょっくま」が見えるが、そこからは200m程先に上熊井集落センターがあり、その右隣に熊井黒石神社の石製の鳥居が見えてくる。
 熊井毛呂神社同様、熊井地域は周囲一面豊かな緑が生い茂り、田畑風景が広がる長閑な空間。熊井黒石神社正面は丘陵地面となっているようだ。
        
                  熊井黒石神社正面
『日本歴史地名大系 』「熊井村」の解説
 [現在地名]鳩山町熊井
 大豆戸の北西、越辺川支流鳩川の流域に位置し、東は大橋村、西は高野倉村。応安元年(一三六八)七月、越生兵庫助は当地などの本知行分を報恩(法恩)寺(現越生町)に寄進している(報恩寺年譜)。田園簿によれば田高四〇一石余・畑高二三九石余で幕府領。元禄郷帳では高六六三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領。ほかに万願寺領がある。「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。本検地は元和六年(一六二〇)・貞享元年(一六八四)に行われ、天明六年(一七八六)には持添新田(幕府領)の検地が行われた。
               
『新編武蔵風土記稿 熊井村条』
「按に入間郡今市村法恩寺の年譜録、慶安元年七月越生兵庫助田畑を以て、法恩寺へ寄付せし條に云、武蔵国比企郡内熊井云云、田畑在家等事、越生兵庫助本知行分也と見えたれば、当村は貞治・応安の頃越生氏の領地にして、後報恩寺領たりしこと知るべし」
 黒石明神社
 村の鎮守なり、本地佛十一面觀音を安ず、妙光寺持、下三社同、
 妙光寺
 慶安二年寺領九石の御朱印を賜ふ、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、熊井山不動院と號す、開山竺翁は弘安九年の示寂にて、其月日は失へり、本尊不動を安ず、傳教大師の作れる所と云、
 熊井地域には、黒石神社と毛呂神社が二社地域の鎮守様として鎮座している。そのうち、黒石神社が村の鎮守社、一方毛呂神社は産土神(うぶすなかみ)として、大切に今でも祭られている。他の地域でもあまり見られない祭祀体系だ。
        
                            鳥居前で一礼してから参拝開始
 熊井黒石神社の参道の隣には車でも通行可能なルートも存在しているのだが、ここは基本通り徒歩にて参拝。なだらかな登り斜面ではあるが、疲れる程ではない。しかし思っていた以上に長い参道ではある。
 
 参道は長く、100m程あるのではなかろうか(写真左・右)。しかし途中踊り場も設置されているので、気持ちよく参拝に望めた。当日雨交じりの天候ではあったが、それが却って参道両側に広がる豊かな森林浴を体全体浴びながら、少しずつだが確実に近づく神様への崇拝の念が高まるような面持ちとなるのだから不思議な感覚だ。
        
                 目の前に見えてくる社殿

 熊井黒石神社の創建年代等は不詳であるが、『明細帳』は祭神を日本武尊とし、由緒は「尊東夷征伐還御ノ還御休憩アリシト依テ勧請スト云、創建不詳、思フニ其頃村落未開ナリシモ尊ヲ勧請、未開土地モ開キ居民モ繁殖ニ至ヤ、因テ尊ヲ鎮守ト崇ムト右旧記ナシト雌モ古来人口ニ伝テ存ス」と記している。
 当社の別当を務めていた妙光寺は、熊井太郎忠基の子孫が開基、竺翁(弘安
91286年寂)が開山したとされることから、熊井氏が当社の創建に関与したことが推測されている。

 熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう。
「本朝武功正伝」によると一ノ谷の戦いで功を立てた。『武蔵国郡村誌』によると熊井(現在の埼玉県比企郡鳩山町)には忠基の館跡があり、そこには忠元が甲冑を埋めた鎧塚がある。義経が頼朝と不仲になり奥州に逃れたため、忠基は奥州藤原秀衡の元へ向かったというが、詳細は不明。但し、宮城県には今も熊井忠基の子孫を名乗る熊井姓の人たちがいるとの事だ。
        
                     拝 殿
        
  境内には新しく改築した社殿のみ。その社殿右側に「黒石神社竣工記念碑」が立っている。

 黒石神社竣工記念碑
 黒石神社は熊井村氏子に敬われてきた鎮守である。 創立年代は未詳であるが「鳩山風土記稿」等によると明治四十年に愛宕社 八幡社 神明社の三社を本社に合祀 八幡社の社殿を移築し従来の拜殿につなげ社務所とした。
 更に大正三年に境内にあった愛宕社 天神社の二社を本社に合祀 その後 維持管理を行ってきたが歴史ある社殿 鳥居も老朽化が進み、このたび氏子の総意により改修工事を実施 財源は上熊井大字会計より充当した 社殿 参道 鳥居 幟旗竿その他の附帯工事など施工し ここに完成を祝し記念碑を建立して後世に伝えるものとする。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                      拝殿から下界を見下ろすような位置から撮影

 境内周囲は手水舎と社殿のみであり、さっぱりとした印象。但しそれがこの社の神聖性を増しているようにも感じた。何もないと言ってしまえばそれまでだが、「余計なものは取り払う」精神も日本独特の考え方である。
 それ以上にこの長い参道には深い感銘を受けた。古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。また神は目に見えないものであり、元来神の形は作られなかったことを考えてみると、この長い参道をも含めたこの広い空間こそが神が宿るお社でもあるのだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等

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小島智方神社

『日本歴史地名大系』 「小島村(おじまむら)」の解説
本庄台地の末端から烏(からす)川・利根川の沖積低地にかけて位置し、東の本庄宿から続く中山道が台地の末端部を通る。「和名抄」にみえる賀美郡小嶋郷の遺称地とされ、中世には小嶋郷に含まれていた。村域の北部を元小山川が東流し、北部の低地部と西の下野堂(しものどう)村地内に複雑な小字境界が入交じっている。下野堂村のなかに飛地がある一方、北側の低地には同村・杉山村・新井村の飛地があり、飛地の中にさらに飛地があるなど、それぞれ村の成立からみて分村を繰返した結果であると考えられる。
『新編武蔵風土記稿 小島村条』
「小島村は古へ賀美郡に屬せしにや、【和名鈔】賀美郡鄕名の條に小島と載たり、又【廻國雑記】にさまざまな名所を行々て、をじまの原といへる所に休てよめる、けふこゝに小島ヶ原を來てとへば云々とあれば、古き地名なる事知らる」

 古代賀美郡は、新田郷・小島郷・曽能郷・中村郷の4郷で構成されていた。『和名抄』に賀美郡小島郷を載せ、「乎之万(おしま)」と訓じていて、現在の小島地域とその周辺地域が古代の小島郷にあたると思われる。
 また古代末期頃に出現した武蔵七党丹党一族に小島氏があり、この小島地域周辺を書領していたという。
*丹党小島氏 武蔵七党系図
「秩父黒丹五基房―小島四郎重光―五郎光成―六郎光高―五郎左近光頼(弟光泰)―五郎左衛門経光―六郎光重(弟に五郎光綱、二郎光行、四郎経定)―六三郎末光(弟六郎入道宗光)。光高の弟四郎俊光―四郎二郎光村―小三郎信俊(弟経時)―孫六郎光経(弟七郎季光)」
 道興准后の文明十八年廻国雑記に「をしまの原」と見える。嘗て児玉郡小島(尾島とも記す)は賀美郡石神・七本木各地域に接していたので、この地のことであろう。
        
               
・所在地 埼玉県本庄市小島179
               
・ご祭神 天児屋根命
               
・社 格 不明
               
・例祭等 春祭り 423日 大祓式 720日
                    
秋の大祭 1123日 奉告祭 125日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2555494,139.160708,17z?hl=ja&entry=ttu
 田中一之神社から一旦南下し、国道17号に合流後右折し、上里方向に進む。その後上里町との境近くにある「万年寺」交差点を右折、200m程先にある元小山川に架かる橋を渡る手前の路地を左折する。元小山川沿いの道を進み、農業用ハウスを左手に見ながら暫く進むと、浄水場付近で周囲が田畑風景に代わり、左側遠方に小島智方神社が見えてくる
 駐車スペースはないので、社号標柱北側の路肩に停めてから急ぎ参拝する。
        
                                小島智方神社正面 
 鳥居前面には、正面の社殿が見えない位に、欅の大木が聳え立つ。樹齢は想像もつかない位に古そうで、まさにご神木そのもの。他のサイトを確認すると700800年ともいう。幹の中心部は既に枯てしまっていて、幹が割れるのを防ぐためのベルトが締められている。但し周りの枝葉は元気に伸ばしていて、その生命力には驚きを感じる。年鳥居前で一礼して、更にご神木にもお礼せざるをえない程の貫禄と存在感がこのご神木にはある。
            
                         小島智方神社・大欅のご神木 
                   
               大欅のご神木の近くにある「智方神社新築記念碑」
 智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられ、さらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の社「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                               境内に設置されている案内板
 智方神社 御由緒
 ▢御縁起(歴史)  本庄市小島一七九
 聖護院門跡道興が、『廻国雑記』に綴る東国巡遊の旅に出て、北陸から上野国(現群馬県)を経て武蔵国に入り、「けふ愛におしまか原をきてとへはわか松しまは程そ遥けき」と詠んだのは、文明十八年(一四八六)のことであった。この歌にある「おしまか原」と伝えられてきたのが、当社の鎮座する大字小島であり、その地名については、村が幾つかの川に囲まれ、島のような形であったことから起こったものであるとの口碑がある。
 当社の創建について、詳しいことは伝えられていないが、一説によれば、字万年寺の茂木家が下野の方から当地に移住して来た際に建立し、以来、同家の氏神として祀られていた社であるという。それが、村の発展に伴い、字全体で祀るようになっていったものと思われる。また、江時代には正一位の神階を受けたものらしく、本殿に安置されている白幣の幣串には「正一位智方大明神」と記されている。ちなみに、当社の祭神は天児屋根命である。
『風土記稿』小島村の項に、当社は「智方明神社 村民持」と載るが、古くはこの地内に万年寺という寺があり、その寺の持ちであったとする伝えもある。字の名称の起こりにもなっている万年寺については、『風土記稿』にも記載がなく、詳細はわからないのが残念であるが、当社と深い関係があったことが推測される。(以下略)
                                      案内板より引用
 道興准后(どうこうじゅごう)は室町時代の僧侶で、関白近衛房嗣の子である。文明18年〜19年(148687年)にかけては聖護院末寺の掌握を目的に東国(若狭国から越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国、其の後武蔵国、甲斐国、奥州)を廻国し、後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。
 当時小島地域は上野国に属していて、「おしまの原」という所で休んだという。この「おしまの原」が本庄市小島地域といわれていて、冒頭紹介した『新編武蔵風土記稿』にもそのことは記載されている。
 因みに案内板に記載されている「茂木氏」は、児玉郡誌に「字万年寺の智方神社は徳川時代に至り、豪士茂木伊賀守・社殿を改築せり」と記載されている。
 
      拝殿左側に石祠が二基           拝殿右側にも石祠が二基
            これらの境内社・石祠の詳細は不明である。
        
                            社殿右側奥にある御嶽社
 塚頂の石碑には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が、その右側の石碑に不動明王が祀られている。左側の石祠は詳細不明。
        
                  御嶽神社遷座記念碑
 御嶽神社遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の時に盛んに信仰された。
 創建は定かではないが、ここ本庄、万年寺の地においても、木曽御嶽山登拝できぬ人々の遥拝所として、御嶽神社が奉斎され、毎年327日には氏子のみなが集まり参拝するのを恒例としてきた。
 しかし平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林1391番の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。 

                                     記念碑文より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄市の地名」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
  

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田中一之神社


        
              
・所在地 埼玉県本庄市田中134
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧田中村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 319日 夏祭り 715日 
                   秋祭り 
113日 新嘗祭 1219
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527484,139.1883378,18z?hl=ja&entry=ttu
 久々宇稲荷神社の信号のある十字路を左折し、西方向に850m程進んだ先の細い十字路を右折するとすぐ左手に田中一之神社が見えてくる。
 隣接している医王寺の北側にある専用駐車場をお借りして、参拝を行う。
        
                                  
田中一之神社正面
 本庄市田中地域は仁手地域の西側で、利根川南岸の自然堤防上に位置し、『新編武蔵風土記稿 田中村』において民戸80戸余、村の北境を流れる利根川に沿って「川除(かわよけ)」の堤があった。この「川除」とは、堤防などの水害防止施設をいい、この一之神社の由緒にも「真近に烏川・利根川が流れる氾濫原」「昔利根川大洪水のとき」と記されていて、大河川近くにある地域だけに昔から水害多発地帯であったのであろう。
 正保国絵図に田中村のみが記されるが、元禄年中改定図には田中村と「田中村内前田村」がみえ、後者は前田中集落をさしている。前出「風土記稿」には小名として「川岸田中」「前田中」を載せている。この小名の「前田中」について、同署には「元禄図には田中村の内前田村と記し、其のさま一村の如くなれど、小名前田中のことにて、別に一村をなせしにはあらず」と記している。寛永18年(1641)の検地帳(本庄市立歴史民俗資料館蔵)によると検地代官は南条金左衛門で、田三町一反余・畑一六町余・屋敷七反余、利根川に接しているものの畑地の圧倒的に多い村である。
 
     鳥居の左側に並ぶ庚申塔群        
鳥居の向かい側にある御嶽塚

 田中村の小名には「古社(ふるやしろ)」があり、以前ここに神社があったことを示しており、嘗て村の鎮守社である一之神社がここにあったのではないかと推定される。「地名と歴史」によれば、昔は正月十四日に子供達の祭りである「ドンド焼き」が行なわれたという。
        
                     拝 殿
 一之神社の創立年代は不詳ながら、嘗て利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体が流れてきて、当地の川岸に打ち寄せられたのを村人が発見し、その地に小祠を立て「一宮明神」と称して鎮祭した。
 その後、江期の社号額に「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されていたが、明治初期に、一宮明神社の社名では本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。
        
                境内に設置されている案内板
 一之神社 御由緒   本庄市田中一三四
 ▢御縁起(歴史)
 当社の鎮座する田中は、真近に烏川・利根川が流れる氾濫原に開けた集落で、寛永年間(一六二四~四四)に烏川の瀬替えによって上野国那波郡より武蔵国に所属したという。
 その創建については『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳かならざれども、往昔利根川大洪水のとき、上野国一の宮貫前明神の御神体流れ来り、当地川岸に打寄られ有りしを発見し、里人小祠を造って一宮明神と称し、鎮祭せりと云伝ふ」と記されている。また、『本庄市史』には、田中の地内にある「古社」の地は現在の一之神社があった所と伝える旨が載せられている。
『風土記稿』田中村の項には「医王寺 新義真言宗、賀美郡七本木村西福寺末、蓮台山弥勒院、本尊は不動、一宮明神社 村の鎮守 稲荷社 薬師堂 大日堂」と記されており、化政期(一八〇四~三〇) には医王寺の境内に祀られていたことがわかる。また、享保十七年(一七三二)の「(梵字)奉造立一宮大明神御宸殿一社」と記される棟札には、医王寺の住職と思われる「願主法印賢清」の名が見える。
 社頭に掲げられている江期の社号額には、「正一位稲荷大明神 一宮大明神」と二柱が並記されているが、明治初年の書き上げの際に一宮明神社の社名で
は本社の一宮貫前明神に対して恐れ多いとの村人の意見で一之神社に改められたという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
  拝殿左側には石祠や庚申塔・道祖神       道祖神等の右並びにある境内石祠群
      が祀られている。                右端は戸隠神社
        
                  境内社・稲荷神社
       
                  境内社・稲荷神社の右奥にあるご神木(写真左・右)
           ご神木の根本付近には石祠・社日神が祀られている。
        
                         一之神社と別当寺である醫王寺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄市の地名」
    「境内案内板」等
 

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久々宇稲荷神社

本庄市の地名」によると、本庄市久々宇地域は、北に利根川が東西に流れ、東側から南側が仁手地域、非市側は田中地域に接していて、利根川支流である烏川の氾濫原に位置している。
 因みに「久々宇」と書いて「くぐう」と読む。これも難解地名の一つに挙げられる。
 久々宇の地名は歴史が古く、戦国時代頃より名前が見える。「地名と歴史」には、忍城主成田氏の家臣団を記録した「成田家分限帳」に、久々宇の地名が見えるとある。地名の由来として「地名と歴史」では、ククヒ(くぐい・鵠)からきたもので、それは白い白鳥の古い呼び方という。
 北側を利根川が流れることから、昔は白鳥が沢山渡来した土地で、そこからついた地名かもしれない、との事だ。
 江戸時代後期に書かれた『新編武蔵風土記稿』によれば、戸数が68戸で、用水は小山川から引き入れたという。村鎮守社は当稲荷社と記載されている。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市久々宇172
              
・ご祭神 字迦之御魂命
              
・社 格 旧久々字村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 43日 例祭 113日 新嘗祭 1210
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2507151,139.2013579,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を本庄市街地方向に進行し、「東台5丁目」交差点を右折、850m程進んだ十字路手前の右側に久々宇稲荷神社は鎮座している。
 周辺には専用駐車場、社務所、自治会館等はないので、社のすぐ北側にある「円融寺」の駐車スペースを利用し、急ぎ参拝を行う。
        
                  
久々宇稲荷神社正面
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたと云われ、那波一族の流れを汲むという。久々宇氏の在所であり、天正10年(1582)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(1624~44)に烏川変流により武蔵国に属することになった。
        
               道路沿いに掲げてある古い案内板
 稲荷神社  所在地 本庄市大字
久々宇一七二番地
 祭神 
字迦之御魂命 外二柱
 当社、創立の時代はあきらかでないが、当所開拓のころから、村人たちの信仰あつく、祭神はまたの名を保食神(うけもちのかみ)といって、五穀の祖神といわれているので、開拓者の守護神として、まことにふさわしい社である。
 本社は徳川時代の建物であったが、その後幾度も改築され、明治五年に村社になった。
 昭和六十一年三月  埼玉県 本庄市
                                      案内板より引用
        
                           朱が基調である一の鳥居
 
    一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    南方向に参道が伸びるが、途中で右側に折れ       
                          曲がり社殿に至る配置となっている。
       
                                       拝 殿

 拝殿の左側には御嶽山大神社等の石碑が鎮座      拝殿手前で右側に設置されている案内板

 稲荷神社御由緒  本庄市久々宇一七二
  ▢縁起
 鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたが、烏川の変流によって寛永年問(一六二四~四四)から武蔵国に所属するようになった。この辺りは、中世には群馬県伊勢崎市を本拠にする那波一族の流れを汲む久々宇氏の在所であり、天正十年(一五八二)の『成田氏分限帳』にも「久々宇大和元昌」「久々宇八弥」の名が見えるが、度重なる利根川や烏川の氾濫で地形さえも変わっているためか同氏に関する旧跡や伝説など残っていない。
 このように、河川の氾濫に悩まされてきた土地柄であったためか、当社の創建にかかわるような資料は現存せず、口碑なども伝わっていない。しかし、祭神が五穀の祖神とされる字迦之御魂命であり、『風土記稿』久々字村の項にも「稲荷社 村の鎮守、村持」と記されているように、古くから村の鎮守として村民が大切に祀ってきたことなどから考えると、村の開発を行った草分けの人々が、村の発展を願って勧請したことに始まるものと推測される。
 明治五年には村社となり、同四十年には政府の合祀政策に従って字榎下の無格社皇太神社及びその境内社の琴平神社、字諏訪下の無格社諏訪神社及びその境内社の不二山神社と天神社、字諏訪下の浅間社の六社を合祀した。なお、これらの諸社の跡地は、今では畑となっており、神社のあった痕跡は見られない。(以下略)
                                      案内版より引用 
       
             社殿右側奥に屹立するご神木(写真左・右)
 社殿の右側は幾多の境内社・石祠・石碑が並んで祀られている。不思議とその境内社・石祠群は、南北に通る道路に対して背を向けるように配置されて祀られている。
 
   左側から琴平神社・水神社・皇太神宮           諏訪神社・八坂神社・天手長男神社
 
    天手長男神社の右隣にある社は不明        天神社・白山神社・不明
        
                       一番右側には「稲荷神社由来」の石碑がある。
 稲荷神社由来
 当村は元来、上野国に属していたと云われ、那波一族の流れを汲む、久々字氏の在所であり、天正十年(一五八二)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(一六二四~四四)に烏川変流により武蔵国に属することになったと云う。この様な状況から当社の創建年代は明らかではないが、祭神が「五穀の祖神」とされる「宇迦之御魂 」であり、古くから村の開拓を行った人々が五穀豊穣と村の発展を願って建立し、大切に祀ってきたと推測される。
 明治五年村社となり同四十年合祀令により字榎下の皇大神宮と琴平神社、字諏訪下の諏訪神社、不二山神社、浅間神社、天神社の合祀した。又、その他の諸社もその時に合祀したと推測される。
 又、現在の社殿の建立年代は資料がないので不明であるが平成七年(一九九五)に改修した。大幟は平成二年に再調、平成十七年水道の設置、同二十二年に天手長男大神の幟を再調した。
 今年(
平成二十四年氏子の賛同を得て大幟竿のアルミポールに改修し、併せて浅間神社、鳥居、末社上屋の修復、諏訪神社、皇大神宮、水神社、琴平神社を新調し先人の徳に感謝し今後の村の発展と平安を願うものである。(以下略)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名」「境内案内板・石碑文」等

 

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深谷富士浅間神社

 深谷城は埼玉県深谷市にあった平城(ひらじろ)で、山内上杉氏支流の深谷上杉氏(庁鼻和(こばなわ)氏)の居城である。山内上杉家の上杉憲顕の六男である上杉憲英が庁鼻和上杉を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。
 第4代当主の上杉房憲は康正2年(1456)、享徳の乱が起こって古河公方足利成氏との軍事対立が激化すると、庁鼻和城(同市)西方の唐沢川近くに新たに深谷城を築城して居城を移した。これにより庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺の国済寺が建立された。1552年(天文21)、北条氏の上野侵攻により、関東管領上杉憲政が居城の平井城(群馬県藤岡市)を捨てて、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃亡すると、深谷上杉氏は北条氏に降伏・臣従したが、謙信が関東に侵攻すると、謙信に与して北条氏に敵対。上杉氏の力が弱まると再び北条氏に臣従し、鉢形城(大里郡寄居町)の北条氏邦の城代として引き続き深谷城を居城とした。しかし、1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、城主の上杉氏憲は小田原城(神奈川県小田原市)に籠城したが、城と領地を奪われて深谷上杉氏は滅亡した。この戦いの後、深谷城は関東に入部した徳川氏のものとなり、松平康直が1万石で入城。その後、松平忠輝、松平忠重が居城としたのち、1622年(元和8)には酒井忠勝が同じく1万石で入封したが、1624年(寛永1)に忍藩5万石(忍城、同県行田市)に移封になったことに伴って、深谷城は廃城となった。
 現在嘗ての城域のほとんどが市街地になっているため、遺構はほとんど残っておらず、深谷上杉氏の祈願社だった富士浅間神社(別名・智形神社)の社殿をめぐる池と水路などに、僅かに当時の姿をとどめるのみである。また城跡の一角が城址公園となっており、石垣や城壁などの模擬構造物がつくられているが、これらはかつての深谷城を復元したものではない。
 因みにこの城は城域の形が木瓜の花、あるいは木瓜の実の断面に似ていたことから、木瓜(ぼけ)城とも呼ばれる。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市本住町16
              ・ご祭神 木花開耶姫命 瓊瓊杵尊
              ・社 格 享保6・宗源宣旨「正一位智形大明神」 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 221日 例祭 113日 新嘗祭 123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1994444,139.2870901,18z?hl=ja&entry=ttu
 深谷城址公園のすぐ東側で、南北に流れる唐澤川左岸に鎮座する。地図を確認すると稲荷町末広稲荷神社の北側近郊にある。創建は不詳だが、社記に「当社は、康正二年(1456)深谷城築造以前から当所の氏神として祀られ、智形大明神と称えていた。下って、深谷城上杉氏時代には城の鎮守となり、以後、代々の城主に崇敬され、寛永年間(16241644)酒井讃岐守城主の時、社殿を再建した」とある。
 社の周囲には前出の城址公園を始め、深谷図書館・市民文化会館・保健センター・生涯学習センター等が立ち並び、深谷市の開発が進んだ地域の一つでもあるが、社周辺にはそれらの建物群と一線を画すが如き静かな空間が境内に広がっていて、神社を囲む深谷城の外濠跡が歴史の深さを無言で語っているようでもある。
        
                                    深谷富士淺間神社正面
 
 社号標には「富士浅間神社」であるが、明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享12年(1440)勧請と伝えられている。また社号標の右側には「深谷市指定文化財 深谷城外濠跡」と表記された標柱が立つ(写真左)。鳥居の手前にある趣ある神橋(同右)。神橋の下には水路があり、この場所も外濠跡という。
        
                 鳥居の右側に立つ案内板
 富士浅間神社
 この社の祭神は木花開耶姫命、瓊瓊杵尊で、社宝は宗源宣旨と宗源祝詞である。
 明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享十二年(一四四〇年)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。
深谷城は、上杉房憲が康正二年(一四五六年)古河公方との戦いに備えて築城したもので、天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、寛永十一年(一六三四年)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残りをとどめている。
 昭和五十九年三月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
                                 富士浅間神社正面鳥居
 深谷城主である深谷上杉氏の祈願社として、第4代当主の上杉房憲が古河公方足利成氏との軍事対立の中、康正2年(1456)築城してから豊臣秀吉によって落城される天正18年(1590)の間、134年間も深谷上杉氏の居城として活躍した歴史ある社。
 
    鳥居の日だ衛川に祀られている        琴平神社の並びに祀られている
       琴平神社の石碑               境内社・稲荷神社
        
                      境内社・稲荷神社の先にある「加藤省吾顕彰碑」
      童謡「みかんの花咲く丘」誕生地であり、立派な石碑には歌詞が刻まれている。
 加藤省吾(かとうしょうご 1914730日―200051)は静岡県富士市出身の作詞家。大正37月生年。深谷へ疎開中であった昭和21年(1946年)8月に「みかんの花咲く丘」を作詞した。なんでも加藤のご両親の出身地がこの深谷市本住で、疎開中に故郷静岡の情景に思いをはせながら作詞したという。
 この他に加藤省吾の主な作品には、「かわいい魚屋さん」「やさしい和尚さん」などの童謡をはじめ、「怪傑ハリマオ」「笛吹童子」「おらあ三太だ」などの主題歌、さらには深谷市立深谷小学校校歌、同校愛唱歌などがあり、そのジャンルは多岐にわたり、日本大衆音楽協会理事長も務めた

             参道途中にある一対の狛犬(写真左・右)
        
                   「加藤省吾顕彰碑」の奥に鎮座する境内社・厳島辨財天

   境内社・厳島辨財天の手前にも深谷城の外濠跡らしき遺構が見られる(写真左・右)
 今は時期的に水路に水は湛えていないが、それが却ってこの遺構の趣を深めているようだ。
        
       規模は決して大きくはないのだが、市街地の開発に無縁な空間が広がっている。
 何度もいうが、この境内のすぐ左手には深谷市民文化会館・コミュニティーセンター・保健センター等の建物が軒を並べて建てられている場所である。不思議な静けさが漂う空間。
 
 参道を更に進んでいくと、左側に石祠群が祀られている(写真左)。一番左にあるのが境内社・三峰神社であるが、それ以外は詳細は不明。その先にも境内社・琴平神社が鎮座する(同右)。
        
                     拝 殿
『大里郡神社誌 富士浅間神社』
 神社の所在地
 舊榛澤郡深谷宿字智形にして古來變遷なし
 當神社は創立年月不詳と雖も往古上杉氏在城の頃の鎭守にして寛永年間酒井讃岐守城主たりしとき再興すと言傳ふ當社は中世の頃より智形神社と稱し天兒屋根命を祀りしものと言傳へしも誤りなることを發見し明治十三年九月十三日祭神を木花開耶姫命社號を富士淺間神社と改む
 神社名稱
 智形大明神又は單に智形様と奉唱せしも明治十三年九月十三日富士淺間神社と改稱す
        
                    *境内東側から見た拝殿・幣殿・本殿の様子
 ところで、この深谷富士浅間神社に加え、境内に祀られている稲荷神社・三峰神社・厳島辨財天・琴平神社、これらは社の案内板に記されている「深谷城内鎮守五社」なのであろうか。
        
                            拝殿から見た境内の一風景
 

 深谷富士浅間神社の外周には深谷城の堀の一部と思われる「外濠跡」がある(写真左・右)。深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で、城の周囲は堀で複雑に囲まれていたと考えられるが、当時の景観はほとんど見ることはできない。富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往時の姿をとどめるのみである。
 深谷市指定文化財史跡 【指定年月日】 昭和33113
            【変更年月日】 平成3113
             (記号番号変更)   平成1811


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「深谷市HP」「Wikipedia
    「日本の城がわかる事典」等
 

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