古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

堀切駒形神社

 嘗て武蔵国は土地が平坦で良質な牧草の生育に適していたので、各地に官牧・勅旨牧(御牧)、私牧が発達し、良馬を産した。このうち官牧・御牧は、皇室や朝廷が使用する料馬を飼養し、武蔵・甲斐・信濃・上野の四ヵ国に置かれたという。
 武蔵国には「石川牧」(東京都)、「小川牧」(東京都)、「由比牧」(東京都)「立野牧」(東京都)などの官牧のほか、「秩父牧」「小野牧」「石田牧」「阿久原牧」の名が見え、他に文献に現れない小規模な牧や私的な牧があったと考えられている。
 秩父には10世紀に畿内政権が必要とする馬を生産する「秩父牧」が置かれている。この牧は、秩父郡から児玉郡の一部にまたがる広大な地域に所在していたと推定される牧である。延喜3年(903)貢馬の記録が初見。皇室の料馬を供給する勅旨牧で、年貢馬は20疋、貢馬日は813日と定められていた。天暦5年(951)には父馬2疋が下賜されている。
 秩父市・堀切地域には、「駒形社」が鎮座しているが、この社名は、牧馬と関係のあり、地形も小丘や台地が連続して牧場に相応しい地勢を示しているといわれている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市堀切368
              
・ご祭神 誉田別命 神功皇后 高良玉垂命
              
・社 格 旧堀切村鎮守
              
・例祭等 例祭 319日 秋祭り 108
 小柱諏訪大神社から一旦南下し、埼玉県道43号皆野荒川線と交わる丁字路を右折、県道を南西方向に進行し『新編武蔵風土記稿 堀切村』に載っている赤平川支流の澤川に架かる長坂橋を渡り350m程進んだ先にある丁字路を右折し、暫く北上すると進行方向右手にこんもりとした堀切駒形神社の社叢林と鳥居が見えてくる。
        
                  堀切駒形神社遠景
『日本歴史地名大系 』「堀切村」の解説
 太田村の北東にあり、東は小柱村、南は蒔田村・品沢村。北端は赤平川を境に大淵村(現皆野町)。田園簿には高四六石余・此永九貫三八七文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高六八石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復す。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領となる(「風土記稿」「郡村誌」など)。
「埼玉の神社」によると、
当所は江戸期には「堀切村」と呼ばれ、一村を成していたが、明治期には太田村に属した。更に太平洋戦争中に太田・三沢・日野沢・国神と合併し「美野町」と号し、その大字となっていたが、数年にして各大字が不和となり、旧に復し、昭和20年代秩父市に合併、現在に至っているという。
        
                鳥居正面から境内を撮影
        
                    拝 殿
 駒形神社 
埼玉県秩父市堀切三六八
 社伝によると「冷泉天皇の代、奥州安倍貞任征討の折、源頼義親子膽沢郡延喜式内駒形神社に誓い誓書を捧げ勝利有りて、臣秩父十郎武綱当村へ右社分霊を勧請す、其後天正三年武田信玄当郡に襲来し処々に放火す、此折当社も消失、里人これを嘆いて宮殿を再営し、奥州駒形神社より遷座す、天正一〇年鉢形北条氏崇敬厚く太刀一口を献上す」という。
 当地は秩父駒の産地といわれ、昭和初期に酪農が普及するまではどこの家にも馬を飼っており、台所脇に馬屋を設け、人馬共一つの棟に住んでいた。社前に二つの小山(念仏宇根・ねんぶつおね)・炭釜(すみがま)があるが、この小山の西側には馬捨て馬があったという。現に鳥居前にある二群の萱(かや)は「駒形様の萱」と呼ばれ、神馬の秣(まぐさ)ゆえに刈ることが禁じられている。社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があり、神馬の水飲み場・足洗い場とされている。内陣には木製彩色の神馬一対が奉安され、拝殿には石猿一対が飾られている。このほか、村内通行の危険な所数カ所には馬頭尊が祀られている。当社の創建は、このようなところから推察すべきかと思われる。また「駒形」が「高麗方」と通じるところから、高麗王との関係を説くものもある。
 祭神は、誉田別命・神功皇后・高良玉垂命の三柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿手前で向かって左側に鎮座する境内石祠群
         左側より大黒・八坂社・稲荷社・三島社・熊野社・諏訪社
        
  「埼玉の神社」では、社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があるとの
      ことであったが、草木で覆われている状態では池があるかどうかも不明。
     
             社殿の右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
        注連縄等はないが、御神木であっても申し分ない程の貫禄ある姿

 当所は古くから「水旱の地」といわれ、「観天望気」が広く行われ、今も「岳(たけ)の権現様(武甲山)に霧が掛かると、二・三日中に必ず雨が降る」などといわれている。このため、嘗ては雨乞いが盛んに行われていた。まず梵天を神社の神水・榧(かや)に立てる。次いで武甲山・城峯山、遠くは赤城山・榛名山とその年に合わせて方向を定めて代参し水を頂く。これは若者の役目で、一番から三番まで班を決め、リレー式に水を受け継いで神社まで運ぶ。水が村に着くと、神社の境内に円を画くように撒いて雨を待つ。この間は、雨が降るまで仕事にもならず村人は幾日も酒を飲んで過ごしたという。

 因みに「観天望気」とは、自然現象や生物の行動の様子などから天気の変化を予測すること。また広義には経験則をもとに一定の気象条件と結論(天候の変化の予測)の関係を述べたことわざのような伝承のことをいう。 昔から漁師、船員などが経験的に体得し使ってきた。
(例)
「太陽や月に輪(暈)がかかると雨か曇り」
   「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
 この観天望気は科学的な観測に基づく公式な天気予報に代替できるものではないが、天気の変化の参考になるものもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「越谷市デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」等

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小柱諏訪大神社


        
               
・所在地 埼玉県秩父市小柱23
               ・ご祭神 建御名方神
               ・社 格 旧小柱村鎮守
               ・例祭等 例祭(春祭り) 45日 秋祭り 105
 皆野町・大淵熊野神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南西方向に1㎞程進む。荒川とその支流である赤平川の合流地点に架かる郷平橋を過ぎると、進行方向右側が河川の浸食によりできた段丘崖面となっていて、その頂上部に小柱諏訪大神社が僅かに見えてくる。
 但し県道から直接社に通じる道路はなく、一旦南下して「小柱」交差点を右折、その後すぐ先にある丁字路をまた右折し、道幅の狭い緩やかな上り坂の道を暫く直進する。その後、目の前には長閑な田畑風景が広がる河岸段丘特有の段丘面に到着し、その道路右側端に小柱諏訪大神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「小柱」と書いて「おばしら」と読む。「小柱」と言う地域名は、諏訪大社の神事である「御柱(おんばしら)祭」からきていると伝えられているという。
 また当社は信州・諏訪大社の御分社であり、大社には御分社が多く、明治時代の調査では、全国で
12,000余社とされている。分社の社名は「諏訪神社」「諏訪社」が多く当社のように「大神社」と讃えているのは秩父郡内では二社で全国でも11社だけであるようだ。
        
                小柱諏訪大神社 一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「小柱村」の解説
 堀切(ほりきり)村の東にあり、東は荒川を境に皆野村(現皆野町)、北は赤平川を境に大淵(おおふち)村(現同上)。田園簿では高一二九石余・此永二五貫八六二文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高一七一石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復した。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領(「風土記稿」「郡村誌」など)。
        
             河岸段丘により形成される段丘面に鎮座する社。
        現地で実見すると、平坦部の広がりをより感じることができる

  因みに写真右側は崖となっていて、バリケード等の安全面は考慮されていないようだ
        
                                   真っ直ぐな参道途中に立つ二の鳥居
 小柱諏訪大神社は、荒川と赤平川が合流する地点の南側の河岸段丘上先端部に鎮座している。西側には篠葉沢、南東には蒔田川が流れ南側には南北に細長い丘陵地帯で囲まれるという立地条件で、自然の要害に囲まれた要衝地であることが、地形上から見てもよくわかる。
 それに対して、社の周囲はなだらかな段丘面が広がり、現在では大半は畑や宅地となっているのだが、この地から周囲を見回せ、特に北側・東側が一望できる地形となっている。
        
                     拝殿覆屋
 諏訪大神社   埼玉県秩父市小柱二三(小柱字合川)
 当地は、東に荒川、北は赤平川を境としている。この両河川は村の北端で合流しており、当社はその合流地点に鎮座している。
 社記によると、創立年代は不明であるが、村の開発にあたり、氏神として信州の諏訪大社の分霊を祀ったものと思われる。諏訪大社では七年に一度御柱を立てているが、小柱の地名はこの神事に由来するという。平良文を祖とする秩父別当武網は深く当社を崇敬し、後三年の役の出陣の際には戦勝を祈願し、功あって源義家から白旗一流を賜ったことから、これを諏訪大明神の御利益と弓矢八幡の加護によるものと信じて境内に八幡宮を造営し、白旗一流と三本の傘紋印の乗鞍を奉納した。以後秩父氏累代の崇敬をうけ、秩父庄司重忠が諏訪八幡両社に武運長久を祈願した折の駒繋松、御手洗井戸等の伝説が今に残っている。
『風土記稿』小柱村の項には「諏訪社、例祭七月廿七日、村中の鎮守なり、村持」とある。明治四二年には、地内の字秋葉から秋葉社及び同境内社の竜神社を合祀し、現社号の諏訪大神社に改めたが、この後、秋葉社は旧地である秋葉山の山頂に戻された。
 現在の祀職は、金子安英が務めるが、江戸期には、慶安三年を初めとする吉田家から裁許状九通を所有する半藤家が代々努めていた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               境内に設置されている案内板
 お諏訪様の神使は白蛇といわれ、神社境内で蛇を見ても決して殺してはならないとされている。また、言い伝えに「往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたが、地鎮祭の竜柱に白蛇が巻き付いたため中止となった」とか「白蛇が通る道は決まっていて、通ると必ず神社からその南西にあたる金四塚(『風土記稿』には「金四社」とある)にかけて草は倒れ伏して枯れてしまう」等ある。
 
 社殿の奥である北側は崖面となっていて、赤平川が東西方向に流れている風景を見ることができる(写真左)。また東側も眼下の荒川や集落を見渡す事ができる(同右)。
言い伝えではあるが、往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたことも、この地を実際にきてみると、なるほどと納得してしまう絶好の場所である。因みに社殿北側にはしっかりとネットフェンスが設置されている。
        
                  社殿からの一風景
 当地では、昭和初年まで、日照りが続くと雨乞いが行われていた。この行事は「ハマヤ」と呼ばれる村の共有林から松を切り出すことから始まる。この松の木は神社境内まで引かれ、手作りの竜をからませる。竜の頭は竹で編んだもの、胴体は蛇籠に新聞紙を貼り、色を塗った精巧なものである。
 なお、この頭には釜山神社から受けた水の入った竹筒を麻組で下げる。宮司の祈祷後、これを笠鉾の台車に載せ、囃子連が同乗して村内を曳き回す。秩父囃子の演奏の台詞に、音頭取りの「フップヤマノクロクモ、アメダンベエ、リュウゴウナア」の掛け声に合わせて全員で雨を呼ぶ雨乞い歌が唱えられる。願いが叶って雨が降ると、耕地ごとにお湿り祝いを催した。
 この雨乞い行事には、本社の諏訪大社の神事である御柱祭りを彷彿させるところがあり、諏訪信仰を考える上で興味深いものであるという。



【蒔田諏訪神社】
 小柱諏訪大神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南下し、秩父市小柱地域と蒔田地域の境に流れている荒川支流である蒔田川を過ぎたすぐ先に諏訪神社は鎮座している。
        
              ・所在地 埼玉県秩父市蒔田3353
              ・ご祭神 建御名方神(推定)
              ・社格、例祭等 不明
 所在地以外、創立年代や社格、例祭等不明。ご祭神は、諏訪神社という事で、建御名方神と記したが、あくまで推定。
        
           拝殿覆屋  拝殿脇に祀られている境内社は詳細不明。
         小柱諏訪大神社もそうであったのだが、この社には壁一面に
          奉納札等がびっしりと張り付けてある。地域の風習なのであろうか。

『新編武蔵風土記稿 蒔田村』には「諏訪社 村持」としか載せられていない。但し、社に隣接している建物の名前が「森公会堂」ということで、この「森」地名は『風土記稿』にも同名が載っていて、この地が旧蒔田村字森ということは間違いないであろうと思われる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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両神薄両神神社

 両神村は、埼玉県西部、秩父郡にあった旧村名で、秩父郡の西部中央、秩父盆地の西端に位置し、北・東は小鹿野町、南は荒川村・大滝村、西は大滝村。2005年(平成17)秩父郡小鹿野町へ合併し、小鹿野町の南部を占めることになる。
 荒川水系の薄(すすき)川、小森川の流域を除くと、旧村域の総面積の約90%を山林が占める。採石や林業が盛んだったが、最近ではコンニャクイモ・シイタケ栽培とワイン製造が行われ、観光農園がある。
 旧村域東部を主要地方道皆野両神荒川線が走る。村の最西端には標高1724mの両神山がそびえ、同山よりやや北寄りの東に延びる尾根上にある天理岳(1083.6m)、さらに東に向かう尾根が北の村境となり、南東方の御岳山(1080.5m)に続く尾根が南の村境となっている。この二つの尾根にほぼ並行して、両神山より分岐した尾根が東に延び四阿屋山(772m)に続き、村を南北に分断している。
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄2267
            
・ご祭神 罔象女神 他五十余柱
            
・社 格 旧両神村総鎮守・旧村社
            
・例祭等 例大祭 928
 国道299号線と埼玉県道37号皆野両神荒川線が交わる「黒海土バイパス前」交差点を県道に合流して南方向に3.5㎞程進むと、進行方向右側に両神薄両神神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
        
                 両神薄両神神社正面
『日本歴史地名大系 』「薄村」の解説
 四阿屋山の北、赤平川支流薄川の流域に位置する。現両神村域の北半を占め、南は小森村。「風土記稿」によれば、古くは薬師堂村ともいわれたという。村内は上・中・下の三郷と薬師堂組の四区に分れ、それぞれに名主が置かれ、高札場も上郷の竹平、中郷の穴辺、下郷の前原、薬師堂組の上宿と四ヵ所にあった。また承応二年(一六五三)当村新小森組分が分れ、同組分は小森村と一村になったという。地内法養寺薬師堂の天正一三年(一五八五)五月四日銘の棟札に「武州秩父郡薄谷盤戸村大檀那猪俣丹波守本願円覚」「願主竹内某」「大工荒舟藤五郎、同和田太郎等」などとみえ、盤戸村は現在の字坂戸にあたる。また同一五年一一月一五日銘の同堂鰐口には「秩父郡薄之郷薬師堂」「願主聖乗坊成範大旦那北条安房守氏邦」などとある。
 近世初めは幕府領、天明四年(一七八四)から同七年まで下総関宿藩領となるが、その後再び幕府領となり幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「寛政重修諸家譜」など)。
        
                 石段上に鎮座する社
 当社は、はじめ「丹生明神」と称し、丹党薄氏の氏神社であった。一方、四阿屋山中腹に「四阿屋明神社」及び「四阿屋権現社」の二社があり、明治期に、四阿屋山の二社に村名を冠して両神神社と改称した。その後、山上のため氏子が不便を感じていたことと、大正六年に、国策により、各耕地に鎮座する社、計四十四社を麓の「丹生明神」に合併して村社とした。その結果、奥社は四阿屋山に、里宮は薬師堂に置くこととし、大胡桃耕地の稲荷神社の社殿を移し、更に社務所、神楽殿を造り両神神社と改称したという。
 当社の眷属が犬といわれるのは、四阿屋山権現及び四阿屋山明神のお犬様の信仰が合祀と共に当社に集合したからという。
 因みに、隣接する法養寺薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山・四阿屋山(あずまやさん)の麓に平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といった。
        
                    拝 殿
 両神神社 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄二二六七(薄字並木)
 四阿屋山(771.6m)の名は、その山容が東屋のような形をしていることによる。古くから「お犬様」の信仰を伝えるこの山は修験を感じさせる。『風土記稿』は四阿屋山中腹に四阿屋明神社及び四阿屋権現社の二社があり、日本武尊・乙橘姫尊、あるいは伊弉諾・伊弉冉の二柱を祀るという。
 一方、四阿屋山の麓には、丹党の薄氏が祀ったと伝える丹生神社が鎮座していた。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)で、水とかかわりのある信仰であったと思われる。なお、薄氏の館跡は、一説には当社近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)としている。
明治期、まず四阿屋山の二社に村名を冠して両神神社と改称し、村社として長く当村繁栄の祭祀を行うことを定め、祭りは山上で執行していた。しかし、山上のため氏子が不便を感じていたことと、当時の時勢により、大正六年、村社両神神社も含め、各耕地に鎮座する社、計四十四社を麓の丹生神社に合祀、丹生神社を両神神社に改称、山上に残された社は、両神神社の奥社となり、現在の当社が成立した。なお、この時当社覆屋として字大胡桃(おおぐるみ)の宇賀神社覆屋が移設された。
 当時の合祀の模様については古老の話に、猿田彦の面をつけた者が神輿の戦闘をし、笛や太鼓を奏しながら神様を迎えにいったという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額           境内に設置されている案内板

 当地で大正期実施された合祀の経緯についての詳細は明らかではないが、村内各耕地の社を四十四社合祀する大規模なものであった。しかし、この時、合祀祭は行ったものの遷座したのは御幣のみで、各耕地には依然社が残り、昔ながらのお日待が続けられていた。なお、当社の祭事には、戦前までは両神村総鎮守として、村内各耕地より氏子が参列したが、戦後は宮本である字薬師堂の氏子が中心となっている。
 年中行事
 元旦祭 節分祭 祈年祭 春祭り 大祓 例大祭 新嘗祭 大祓の計8回。
 春祭りは416日。以前は151617日と3日間かけて行っていた。
 15日は「お旗立て」と呼び、幟立ての後、社務所で前日待と称して会食する。夕刻から境内に丹生神社と書いた行灯を飾り付けて灯をともす。
 16日は「本祭り」で祭典があり、この後、薬師堂耕地内の役員引継ぎを行う。
 17日は「お旗返し」といわれ、幟を納める。
 例大祭は928日。
 花火が打ち上げられ、盛大に祭りが行われる。以前は付け祭りとして柏沢と浦島の太々神楽を一年交替で頼んでいた。
 
   社殿に向かって右側手前には神楽殿     神楽殿の参道を挟んで反対側には社務所
        
                社殿から参道方向を望む。
 嘗て、畑作地の多い当地では、6月から7月にかけて降雨が少ない時、雨乞いの行事があった。これには二通りのやり方があり、薬師堂の境内に村人が集まり、輪になって親方が幣を担ぎ、鉦や太鼓を鳴らしながら「雨だんべい、竜王なあ、降るだんべい」と唱えてぐるぐる回る。
 もう一つは、白井差(しろいざす)の不動滝まで、お水をもらいに出かけ、リレー式に竹筒に水を入れて運び、当社に供えてから境内に水を撒くものである。
 更にこれでも雨が降らない時は、小森の諏訪神社の氏子と合同で四阿屋山に登り、祈雨祈願を行ったという。
 雨乞いとは逆に、雨が降り続くと、小麦がダメになるので、「天気祭り」を薬師堂で行った。この時は、薬師様に麦こがしを供え、止雨祈願の後、男衆が境内で百万篇の数珠を回しながら「サンセン、ショウブツ、ナンマイダ」と唱えた。


 両神神社と法養寺薬師堂は隣接している法養寺薬師堂は秩父十三仏・第7番札所でもあり、日本三大薬師尊ともいう。
        
                       法養寺薬師堂仁王門 小鹿野町指定有形文化財
        
           法養寺薬師堂 埼玉県指定有形文化財(建造物)
        
                                法養寺薬師堂の案内板
 埼玉県指定有形文化財(建造物)
                              所在地 秩父郡小鹿野町両神薄二三〇一番一
                              指 定 昭和四十九年三月八日
 法養寺薬師堂 一棟
 薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山(一七二四メートル)・四阿屋山(あづまやさん・七七一・六メートル)の麓に平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といいます。山の薬師、目の病気に霊験あらたかな薬師として広く庶民の信仰を集め、日向薬師 (神奈川県伊勢原市)、鳳来寺薬師 (愛知県新城市) とともに「日本三体薬師」の一つに数えられています。
 縁日は毎年一月八日で多くの参詣者で賑わい、秩父神社大祭、飯田八幡神社祭りと並び「秩父三マチ(祭り)」といわれていました。
 建物は石積みの基壇上に建ち、間口十一・七メートル、奥行十一・二七メートルを測り、外廻りに幅一・三九メートルの縁・勾欄が付く三間四面の堂です。構造は、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)とも三間、一間の向拝(ごはい)が付きます。屋根は、建造当初は茅葺きと推定され ますが、享保年間(一七一六~三六)に向拝を付けた際、瓦葺きに改められ、その後昭和五十三年に銅板葺きに改修しています。
 建築様式は和様に唐様が入り交じり、寄棟造りで円柱が立ち並ぶ軸部の木割りは太いものですが、斗供(ときょう・柱上にあって軒を支える組み物)は繊細なものといわれます。木鼻(きばな・柱の上部をつなぐ貫の端)の文様や外壁に打ち付けられていた天正年間(一五七三~九二)の納札から天正頃の移築改造と推定されています。床は槍鉋(やりがんな)で仕上げられ、堂内外に残る墨書が注目されます。古い柱配置などの特徴をもち、県内に残る中世の代表的な建造物の一つです。
 薬師堂の由来については明らかではありませんが、永禄十二年(一五六九) から元亀元年(一五七〇)にかけての武田信玄の秩父侵攻の際、兵火で焼失したといわれています。その後、北武蔵の有力な軍事拠点であった鉢形城主の北条氏邦が由緒ある薬師堂を再建したといいます。(以下略)。
                                      案内板より引用
 

               法養寺薬師堂内部(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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下小鹿野小鹿神社

 小鹿野町には町名「小鹿」を冠した社が二社比較的近距離に鎮座している。一社は小鹿野地域に鎮座する旧郷社・小鹿神社で、こちらは格式の高さもあり町を代表する社で、オートバイの安全祈願を行っている全国でも珍しい社である
 もう一社は小鹿野地域の西側に接している下小鹿野地域に鎮座する小鹿神社である。この社は「紫陽花神社」と表記したほうがより有名な社のようで、社の近辺でアジサイの植樹活動している地元有志のみなさんの日々の努力で、町のHPにも7月の第1日曜日に開催される「あじさい祭り」が掲載されている。
 余談ではあるが、この「あじさい祭り」には歌舞伎も奉納されるようだが、その役者の中には現小鹿野町町長も参加されていて、なんでもこの町長は約25年の役者歴がある方だそうだ。
 小鹿野歌舞伎は、1975年には埼玉県無形民俗文化財の指定を受けている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1302
             
・ご祭神 諏訪尊(推定)
             
・社 格 旧下小鹿野村泉田鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 43日 秋祭り 1010
                  
*どちらも祭典日に近い日曜日
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程東行すると、国道沿いで進行方向左手に木製の鳥居と「小鹿神社」と表記された社号標柱が見えてくる。
 社の周囲が「あじさい公園」となっていて、近郊には専用駐車場があるようなのだが、今回は正面鳥居の東側200m程先にあるコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
             国道沿いに鎮座する下小鹿野小鹿神社
『日本歴史地名大系』には「下小鹿野村」の解説があり、「赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた」との記載がある。
 
   参道入口の右側に安政6年に建てられた      「安積良斎の小鹿野碑」案内板 
    「安積良斎の小鹿野碑」が立っている。
 小鹿野町指定史跡(昭和三十七年九月二十日指定)
 安積艮斎(あさかごんさい)の小鹿野碑
 両神山は、秩父を代表とする名峰として古くから親しまれ、人々の長く尊い信仰の歴史を伝える山です。山頂部には鋸(のこぎり)の歯のような険しい姿を見せますが、周囲の山々を従えて四季折々に美しい山容を見せる様は、地域の象徴的なものといえます。標高は一七二三m、一帯は秩父多摩甲斐国立公園として指定を受けています。両神山は古くは「八日見山(ようかみやま)」といわれ、その由来を伝える碑が下小鹿野の小鹿神社参道入口にある「安積艮斎の小鹿野碑」です。巨香郷と呼ばれた小鹿野・両神地域の美しい伝説を伝える石碑として知られ、
 「日本武尊神詠 つくばねをはるかへだててやふかみし つまこひかぬるをしかのの原(筑波嶺を遙か隔てて八日見し妻恋いかぬる小鹿野の原)
 と刻まれ、裏面に碑を建てた由来が漢文で記されています。これによると、安政6年(一八五九)下小鹿野村の森為美が日本武尊神詠の由来を伝えるため、安積艮斎に撰文を依頼し、碑を建てたものといいます。同じ歌を刻んだ碑は河原沢の龍頭神社境内にも建てられています。
 秩父地方には日本武尊に関する伝説が多く残されています。日本武尊は伝説上の人物で、景行天皇の命で東国の征伐におもむき、戦勝祈願のため常陸国筑波山に登りました。その折、西の方角に剣の形をした秀でた山が見え、この山を八日間眺めながら西へ向かい、秩父へたどりついたということから両神山は八日見山と名付けられたといいます。また、日本武尊が秩父に入る途中、道に迷った折、どこからか神鹿があらわれて一行の先頭に立って導いた後、小鹿野に至って精魂尽きて倒れたのでこれを哀れんで塚を作ったのが「小鹿塚」であるといいます。
 さて、碑の書と撰文を記した安積艮斎(一七九一〜一八六〇)は、江戸時代後期の儒学者で、岩代郡山安積(福島県郡山市)の出身で、佐藤一斎・林述斎に学び、詩文に長じ多くの著書を残しています。江戸幕府が江戸湯島に開いた官立の学問所「昌平黌」の教官になり、多くの門人を育てました。私財を投じて碑を建てた森為美は熱心な安積艮斎の門人で、当代一流の学者である安積艮斎に撰文を依頼し、永く後世に伝えようとしたものです。書は、幕府に仕える川上由之によるものです。当時名声の高い儒学者の撰文とともに、美しい小鹿野の伝説を伝える碑として広く親しまれています。
 昭和十七年三月三十一日に埼玉県史蹟として指定されましたが、現在は小鹿野町指定史跡となっています。幅六七㎝、高さ一二二㎝。
令和三年三月三日 小鹿野町教育委員会
                                      案内板より引用

        
    周囲が長閑な田畑風景の中、真っ直ぐに伸びる参道の先に社殿が見えてくる。

 安積安積艮斎の小鹿野碑に載っている「小鹿塚」とは、下小鹿野小鹿神社から南東方向で直線距離にして600m程の場所にあり、同じ下小鹿野地域内にある「小鹿塚古墳」で、小鹿原古墳群を構成する1基といわれている。
 古くから日本武尊の伝説を顕彰する聖地として親しまれていて、昭和29年(1954)には秩父宮の染筆による「小鹿野碑」が建立され庭園として整備され、その際に大刀が出土している。また嘗て墳丘西側の畑から平板石が大量に掘り出され、大刀が出土したとの記録がある。小鹿野の歴史の深さを物語り、町民の誇りとする美しい場所でもあるという。
 小鹿塚古墳が前方後円墳であるか否かについては、現状では公園化され不明であるが、1994(平成6)1221日付けで町指定史跡に指定されている。
 
 境内に入る手前にあるあじさい公園のマップ     マップの近くにある「黒澤の池」
        
                                       拝 殿
 小鹿神社   埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野一三〇二(下小鹿野字春日山)
 天正十八年、東から前田利家、南から上杉景勝、西から本多忠勝、更に対岸の寄居から真田昌幸らの大軍に包囲された鉢形城は、籠城1ヵ月を経てついに落城し、多くの武士たちは散り〃に落ち延びていった。
 この落ち武者の一人に、当地の泉田耕地に住んでいた「小菅(こすげ)」氏がいる。小菅氏は、敗戦後土着し、氏神としてここに諏訪神社(当社)を祀った。この小菅氏の子孫は、「お諏訪氏子」と称する小菅一家で、先祖の徳を偲びつつ祭りを行っていた。
 当社について『風土記稿』は、「諏訪社 祭神諏訪尊、例祭二月二七日、七月二七日、小名泉田の鎮守なり、同配下、泉蔵院持」と載せている。なお、文中の「同配下」というのは、入間郡越生郷にあった本山派修験山本坊配下を示す。
 明治に入り、神仏分離により当社は泉蔵院から離れ、明治六年に村社となり、社名も小鹿(おじか)神社と改められた。次いで同四十一年には、小鹿原(おかはら)の八幡社・豊受社、金園の山の神社、春日山の豊受社・春日社・高良社、西宿後の山の神社、同天山の十二天社を、大正二年には黄金平の琴平社、東宿後の納蔵社を合祀した。また、大正九年には、神饌幣帛料供進神社に指定され、境内整備を進められた。しかし、終戦を機に、各耕地持ちの合祀社は次々と旧地に戻され、統合された氏子も離れてしまった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

        
                        社殿右側並びに鎮座する境内社・諏訪社
 当社は、明治期に社名を変更し、下小鹿野にある各耕地の社を合祀して村社となったが、終戦を機に社格も廃され、合祀された社も戻っていった。しかし、当社は元来お諏訪氏子と称する一族が氏神として祀っていた社であるが、所謂「一村一社制」によって形式的に村社にされたことを考えると、今日の姿が本来に近いともいえる。
 年間の祭事は、春祭りが四月三日、秋祭りが一〇月一〇日と定められていたが、昭和五五年からは氏子の都合により、祭典日に近い日曜日が祭日とされている。
 春祭りには、氏子から赤飯や煮しめを重箱に入れて持ち寄り、赤飯は、作物が良く実ることを祈って柏の葉に盛って神前に供えられる。付け祭りは村社であったころは盛んで、境内に麦藁屋根の立派な歌舞伎舞台を掛け、長若の大和座などを頼んで歌舞伎を行っていた。お日待(おひまち)と呼ばれる直会は、社務所で行われ、二十人鍋と称する大きな鍋を掛けて、煙い思いをしながらまぜ飯を作った。一人宛三合の米を集めるが、以前は、すぐに食い帰ってしまい、三合では足らない程であったという。こうした、本来のお諏訪氏子の祭りの名残を留めたお日待も、昭和五〇年を最後に行われなくなった。なお、秋祭りにもお日待が行われた。
 
 社殿の左側から斜面を登るルートがあり「名石参道」という立札が設置されていた(写真左)。暫く道なりに進むと縄で巻かれ、注連縄で祀られている「カメ石 オカメ石」と表記されている石も置かれていた(同右)。不思議な空間である。
        
                社殿から参道方向を望む。
 当社が鎮座する泉田地区には、上・下に分かれており、上にはお諏訪氏子の祀る当社が、下には高橋一家で祀る高良社が鎮座している。当地区の夏祭りは、七月二〇日に行われ、祭りの日になると氏子は「お祇園」と称して当社の社務所に祭壇を設け、これにキュウリを供えて無病息災を祈る。また、以前は神興を担いで各耕地を回って厄を祓い、最後は赤平川の中に入る「お川瀬行事」も行われていた。
 なお、その祭場は赤平川から一〇〇メートル上流の所であったという。
        
             一の鳥居の延長線上に聳える武甲山



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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飯田八幡神社

 小鹿野町の飯田八幡神社で開催される「鉄砲まつり」(県指定無形民俗文化財)は、江戸時代から秩父地方で数々行われる祭りの締めくくりの祭りともいわれ、地域の人々に親しまれてきた祭りである。
「鉄砲まつり」の始まりは200年以上前の江戸時代に遡ると言われている。当時、畑を荒らす鹿や猪に困っていた人々がそれらの獣を追い払う豊猟祈願として始めたという説や、猟師の試し撃ちが起こりとの説など、その起源には様々な言い伝えがある。
 1日目の宵宮(よみや)では、八幡神社への「若衆の宮参り」、笠鉾や屋台の曳き廻しが行われ、町の郷土芸能である、小鹿野歌舞伎も上演される。
 祭りの本番である2日目には、街を練り歩く大名行列や境内で奉納される神楽が見られる。夕方になると、メインの「お立ち」という、参道の両脇から火縄銃と猟銃の空砲が発せられる中、二頭の御神馬(ごじんば)が社殿への石段を一気に駆け上がるという名場面を見ることができる。
 因みに2日目に行われる「大名行列」は、元文年間(1740頃)上飯田領主の旗本古田大膳が行列を仕立てて参拝したのが起源とされている。
 その後も御輿渡御・川瀬神事が執り行われ、夜には歌舞伎の奉納、花火の打ち上げも行われ、秩父地方で開かれる一年間の祭りは幕を閉じる。
 このお祭りを一目見ようと例年、県内外から多くの参観者が訪れるという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田2756
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧上飯田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 315日 大祓 731日 新嘗祭 1123
                  
例大祭(鉄砲祭) 12月第2土・日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0286479,138.9648692,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程西行すると、進行方向右手に社の社号標柱がみえ、そこを右折すると、飯田八幡神社の石製の鳥居が見えてくる。
 概略としての国道299号線について、一般国道の路線を指定する政令に基づく起点は長野県茅野市であり、群馬県多野郡上野村、埼玉県秩父市を経由し、入間市が終点となる総延長 204.6 kmの国道である。しかし小鹿野町にとってこの国道は、地形的に見ても町の主要部を縦断している。またこの国道から何本もの県道や町道が枝分かれしていて、いわば町の大動脈的な役割があり、町民にとっても生活するための欠かせない重要な幹線道路となっている。
        
                県道沿いに立つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「上飯田村」の解説
 赤平川流域に位置し、北は中飯田村、東から南にかけて山の峰を境に薄村(現両神村)、西は三山村。中飯田村からの往還が村の中央を通り三山村に向かう。元文五年(一七四〇)飯田村が上・中・下の三ヵ村に分村して成立したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。同年、当村は旗本古田領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数六三、農間稼には男は山稼、女が養蚕や絹織を行い、産物には絹・煙草・大豆などがあった。
          
                            
飯田八幡神社 石製の大鳥居
 
  長閑な西秩父の風景を愛でながら200m程の     参道途中からやや上り斜面となり、
   長い参道を進むと社に行きつく。       進行方向右手に社務所が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 上飯田村』
上飯田村は、郡の中央より少し西北に寄れり、矢畑庄三山鄕に屬す、上中下飯田村は元一村なり、正保元祿の國圖にも一村に見へ、御入國より御料所にて正保の頃は伊奈半十郎支配し、慶安五年伊奈半左衛門檢地して貢を定む、夫より御代官遷替ありて、元文五年飯田村を上中下の三村に割て、上飯田村を吉田大膳采邑に賜ひ、中飯田村及び下飯田村の半を割て、深津彌七郎采邑に賜ひ、其半は元の如く御料所なりしが、明和二年松平因幡守采地に賜はり、今は上中下飯田の三村皆私領所となり、上飯田村は吉田大膳が子孫、吉田平三郎今も知行せり、元文五年の分鄕なれば、上中
の二村は民戸及び田畠駁雜せり、下飯田村は一村に區別せり、江戸日本橋を距ること中山道通り三十里、川越通り二十八里の行程なり、四比東より南に廻り、山を界として薄村に隣り、西は三山村に續き、北は中飯田村に接す、東西凡十町、南北七町許、民戸六十三、多くは北の方川根に因て所々に散住す、陸田多く、水田は陸田に比すれば、十が一なり山林尤多し、土症は東南の方は石交りの眞土、西北は黒眞土なり、地形西の方高く、東の方へ漸下し、南北に山々連れり、農の隙に男は山稼、女は蠶を養ひ絹織ることを業とす、土産には絹・煙草・大豆等なり、村内に一の街道係れり、北の方中飯田村より來り、凡十町許をへて西の方三山村に達す、道幅凡六尺、此道上州山中領にかゝり、信州への往來なり、村の西の方三山村界に、上中下飯田村三村の入會秣場あり、
        
                境内に入る手前にある石段
 飯田八幡神社が鎮座する飯田地域は、荒川水系赤平川の支流である河原沢に沿って位置し、その地名については『秩父志』に「八幡社、神饌田(しんせいでん)有之称」とある。
 この地域は、地形上、川が集落の下方を流れているため、『郡村誌』に「水利不便時々旱(ひでり)に苦しむ」とあるように、水利の整備がされるまでは干損の地であった。この為古くから雨乞いが盛んにおこなわれていたようだ。
「埼玉の神社」にはその経緯が記されてあって、雨乞いに当たっては、まず「お水借り」といい、武甲山か両神山に竹筒を持参し、水を受けに来る。これは夜中に行われ、若衆が三班に分かれ、一番手・二番手と中継地点を定めてリレー方式で水を運ぶものである。
 若衆が村に着くと、この水を八幡社の本来の社地であった「八幡淵」に注ぎ、藁で作った竜を入れ「アーメダンベエ、リュウゴーナー、アノクロクモヲコッチニヒキヨセロ」と叫び、鉦で囃し立てたという。
        
                     拝 殿
 当社は『新編武蔵風土記稿 上飯田村』の項に「八幡社 例祭二月・十一月十五日、村中の鎭守 神職近藤紀守吉田家の配下なり」とあり、『郡村志』には「八幡社、村社々地東北廿間南北十五間面積三百坪村の西にあり応神天皇を祭る、祭日一月十一日十五日」とある。
 創建を伝える社蔵文書としては、文化十三年に神主近藤紀守が差し出した『八幡宮由来並官職覚』があり、その中に次の文が見られる。
「大同年中播磨国より御鎮座有之と申伝謂三山郷半平村休石有之其村当社之氏子夫より一里程下村に休石有之其所に七軒当社の氏子夫より村内百姓万之助地内休石有之此所より当社江御鎮座毎年十一月十五日川瀬江鎮座之神事有之右万之助地内石に上下御休有之神轡伝母之犠者住 昔より播磨国より御供之氏子当村に七軒有之此者供其謂を以家名を播磨と申来り云々」
 
拝殿正面上部には細やかな彫刻が施されている。 側面部上部にはまだ彩色も残り、奉納された
                            額等も飾られている。

 一方、当社「鉄砲祭」の鍵取を務めている播磨家本家の播磨義男は、その私記である『昭和四六年 我が家の言ひ傳へと八幡様のお祭り』の中で、「吾祖先は平家の落人で、修験者となり、信州路・上州路と安住の地を求めて流浪し、やがて主従は当地に落ち着いた。氏神八幡神社は平氏の信仰した神で、落人となり神体を笈に入れ、「懺悔 懺悔」と唱えつつ旅したという」と、その創始を伝えている。
 大同年中(806年〜810)と平家の滅亡した文治元年(1185)とでは四百年近い隔たりがあるが、それは平安前期に勧請されたものに、平家落人伝説が付会したものであろうか、または大同年中がまったくの作為なのであろう。
        
                 重厚感のある神楽殿
           例大祭等では、歌舞伎が奉納されるのであろう。

 当地に着いた八幡神は人目を恐れて八幡淵の岩屋に密かに安置され、一族で祭祀を行って来た。その後風風雨の為、その岩屋が崩れたのを機に現在地に近い所に移し、更に月日が流れ、周囲の人も不審に思わなくなったので、天狗様の境内に社を移したものが現在の社殿である。
 この時、神社の傍らに「サフリト」と称し、代々神に仕える家があったので祭礼を依頼した。これが現在の「近藤宮司家」の祖先であるという。   
 神体については、戦後まで鍵取りであった播磨家に拝むと目が潰れるという言葉が残り、やむを得ず拝む時は片目を閉じるという。また明治期に御神体がどこかに飛んでしまったという話が伝わり、改めた時に御神体は尺二寸ほどの立像であったともいわれている。
        
             社殿の奥にある「神興庫」と「神札授与所」
        
                     社殿の右手奥に祀られている境内社・合祀社
 左より「住吉神社」「琴平神社」「正一位稲荷神社」「諏訪神社」「高根神社」「稲荷神社」。
       
           合祀社の右側に聳え立つ御神木の大杉(写真左・右)
 社殿に向かって右側に、注連縄のついた御神木である大杉が見える。樹齢は1,300年と伝えている。幹の中央部には、大きな焼け跡ある空洞が見える。昭和19813日の落雷により、中央部は裂けてしまい、幹下部は洞となったようだ。
 以来この813日を神木祭りとして祀っているとの事だ。
        
                              社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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