古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高徳神社

 鶴ヶ島市は埼玉県の中部に位置する市で、人口は約7万人(推計人口、2024101日)。埼玉県の中央やや南寄りに位置しているが、通常は埼玉県西部と見なされている。入間台地(武蔵野台地の北端から入間川を挟んだ対岸)の先端部に位置しており、標高は30mから50m程度で、南西から北東に向けてなだらかに下っている。嘗ては畑・田・林が大部分を占めていたが、高度経済成長期以降人口の流入が著しく、現在も宅地化・商業地化が進展し続けている。また川越市・坂戸市とは連続した市街地を形成している。
 古墳時代にはいくつかの古墳が築造されており、なかでも鶴ヶ丘稲荷神社古墳は古墳時代末期としては大きなものである。富士見地区の若葉台遺跡は8 9世紀にかけて比較的大規模に発達した遺跡であり、律令体制下における地域拠点(一説には入間郡衙)となっていたことが想像されている。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市太田ヶ谷6171
             
・ご祭神 伊邪那美命  速玉之男命  事解之男命
                  
素戔嗚尊  櫛稲田姫命  猿田彦神
             
・社 格 旧指定村社
             
・例祭等 例大祭48日 夏祭り724
 高徳神社は関越自動車道鶴ヶ島JTの西側近郊にあり、埼玉県道114号川越越生線沿いに社は鎮座し、県道を少し東行すれば鶴ヶ島市役所に達する。高速道路や幹線道路に囲まれているにも拘らず、社の空間は至って静か。長い参道の両脇には杉の大木等の樹木が鬱蒼と繁っていて、昼でも薄暗いのだが、それが却って社の神聖さ・荘厳さを上げているようにも感じる。
        
                                 
高徳神社正面
 ここで失敗談を一つ。埼玉県道114号川越越生線からのアプローチで、実際社は目視にて社は確認できたのだが、「高徳神社」交差点がY字路となっていて、そのまま通り過ぎてしまい、市役所方向に達してしまった。地図を確認すると、上記交差点を左後方向に進み、曲がった直後の右側に専用駐車場がある事を知った。目標地までのルート設定において、ナビゲーションシステムは非常に便利ではあるが、細かい場所までの指定はできず、そこは本人の努力義務しかない。
 また駐車場に車を停めてから、改めて感じたことだが、駐車場から南東方向に200m程の長い参道があり、正面鳥居は圏央道に面した場所にあった。
        
                         令和5年3月に設置された社の案内板
 高徳神社
 高徳神社は、太田ヶ谷の熊野神社、三ツ木の白髭神社、藤金の氷川神社、上広谷・五味ヶ谷の鎮守である氷川神社が、大正二年(一九一三)、本殿内に合祀され、新たに創立した神社です。
 社地の多くは、当時、村長であった太田ヶ谷の
野重右衛門が自らの土地を寄進したものです。本殿裏手の境内社については、それぞれの母地の方向を向いて建てられているという特徴を持っています。
 また、この広い社叢林には、野鳥も多く生息し、武蔵野の面影を残す市民の憩いの場所となっています。

 当社の年間の祭事は、元旦祭、元始祭、祈年祭、例大祭、境内社祭、日待祭、新嘗祭の七回です。
 神職は創立以来、尾崎神社(川越市)宮司が兼務しており、太田ヶ谷、三ッ木、藤金、上広谷、五味ヶ谷の各地区から選出された氏子総代とともに、社の維持、運営にあたっています。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に記されている「内野氏」は、『鶴ヶ島村郷土誌』に「大字太田ヶ谷満福寺末寺常福寺は内野常福の発起にて創起す。元禄頃は満福寺現住兼勤せり」と記されている。また天正十八年前後に作成された「内野四十二軒」には「内野図書(本邑屋敷、文正元年死す、常福と号す)。〇長子三郎右衛門(相続人)―三郎右衛門、弟甚六、其の弟半助。〇二子亀之助―亀之助、弟元右衛門、其の弟平七―平七、弟安左衛門。〇三子半蔵―半蔵、弟重右衛門―重右衛門」と記され、「内野図書」なる人物は、文正元年(1466)室町時代中期頃に亡くなったといい、その後この内野図書一族が当村を開発し、天正末頃に「内野姓四十二軒」となったという。
 
               200m程ある長い参道(写真左・右)
 この神社の神域は広く、境、境外の面積は、5,619坪もある。広い境内は、杉・檜・赤松等の老樹が鬱蒼と生い茂り、清浄且つ森厳な聖域となっている。
 また、この広い神域を利用して、市の「野鳥の森」が設定されており、人の手によって造られた「人工の森」とはいえ、武蔵野の面影を残す樹林には、留鳥、漂鳥、旅鳥など野鳥の数も多い。この森のすぐ西側には清い小川があり、また、境のところどころに餌箱を設置してあるので、鳥たちの聖域となっている。
        
     長い参道を抜けるとポッカリと明るい空間となり、奥に社殿が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 太田ヶ谷村』
 熊野社 村の鎭守なり、例祭三月十六日、萬福寺持、稻荷社
『同 三ツ木村』
 白髭社 村の社守にて、例祭三月十五日なり、慈眼寺の持、下の四社も皆同じ、
『同 藤金村』
 氷川社 村の鎭守なり、例祭三月十四日、法昌寺持、下同、辨天社、稻荷社、
『同 上廣谷村』
 氷川社 當村及五味ヶ谷村の鎭守なり、例祭八月廿五日、正音寺持、
天神社、
 嘗ては風土記稿に記されたように、各村に祀られていた社であった。その後、大正2年(19136月に創立した高徳神社は、現在の鶴ヶ島市の南東部地域の神社を1つに纏めたという経緯がある。それ故に、鶴ヶ島市内の神社として最も規模の大きい神社であるという。
 
      参道左側にある神楽殿        境内に設置されている「御大典記念事業碑」
 御大典記念事業碑
 高徳神社は鶴ヶ島市 太田ヶ谷 三ツ木 藤金 上広谷 五味ヶ谷の各地区内に鎮座していた神社を大正二年太田ヶ谷の富豪内野重右衛門翁の境内地寄贈により合祀して創立したものである
 爾来郷人はもとより近隣住民の深い崇敬を集め老樹鬱蒼とした広大な神域は埼玉県指定「高徳神社ふるさとの森」野鳥の森として親しまれている
 此の神域に建設省の計画による首都圏中央連絡自動車道の建設とこれに伴う県道川越越生線拡幅用地に境内地の一部を提供する事になり役員氏子総代相計り拝殿幣殿社務所改築境内整備工事を御大典記念事業の一環として二ヶ年の歳月を以てここに竣工する
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 高徳神社の氏子区域は、いわゆる一村一社制により神社合祀が行われた結果、鶴ヶ島村全域となるはずであったが、実際は合祀社の多くが書類上の合祀に終わったため、現在は太田ヶ谷・三ッ木・藤金・五味ヶ谷・上広谷の五地域となったという。
 ところで、創立時、新しい神社名が話題となったようだ。最初鶴ヶ島神社案があったが、他からの反論があり取りやめとなり、南鶴ヶ島神社名も話題にのぼったがこれも他から適当でないとの声があがった。結論として、多くの神社が1ヶ所に集まるので、神徳の高いのをたたえて高徳神社と社名が決定したのだと、地元の古老は語っている。
        
                    本 殿
 また、高徳神社は合祀されたそれぞれの神社が母地の方角を向いて建てられているという特長を持っている。中央に太田ヶ谷の神社が太田ヶ谷に向き、その左側に三ツ木の神社が西方三ツ木を向き、右側に藤金・上広谷・五味ヶ谷の神社が東方藤金・上広谷・五味ヶ谷の方向を向いて建てられているのである。
 
           境内社・氷川神社                           境内社・天満天神社
 
      境内社・熊野神社               境内社・白髭神社 
      境内社・浅間神社                    社殿東側には合祀記念碑が立つ
       
                  社殿からの風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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堤崎愛宕神社


        
               
・所在地 埼玉県上尾市堤崎329
               
・ご祭神 軻遇突知命 倉稲魂命
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 八雲神社例祭(祇園祭)714日 例大祭 724日 他
 上尾市・堤崎地域は上尾市南部の大宮台地指扇支台上に位置し、地域の南端を鴨川の支流の浅間川が東に流れ、さいたま市西区との境界となっていて、西側から北側にかけて地頭方地域と隣接している。
 国道17号バイパス上尾道路が地域中央を南北に走っているのだが、国道を挟んで地域北部・東部の市街化区域にはUDトラックスやその関連工場があり、区域内の都市化がはかられるのに対して、国道西側は全体的に田畑が多く、住宅はまばらのようだ。
        
                  
堤崎愛宕神社正面
 上尾市地頭方地域の東側に走っている国道17号バイパス上尾道路を南下し、「堤崎」交差点を右折、すぐ右側に堤崎自治会館があり、その隣に堤崎愛宕神社が見えてくる。
 堤崎地域西部から南部にかけては田畑が多く、また南部には
浅間川が東西に流れていて地域境を形成しているので、道路も微妙に入り組んでいている。
 正直いうと、地頭方氷川神社から当社まで直線距離で500m程しか離れていないのだが、入り組んだ道ゆえにかなり細かく説明する必要があるため、分かりやすい国道17号線ルート説明に代えた次第だ。
        
               鳥居の左手にある庚申塔等
   左側の祠には庚申塔と青面金剛像、右隣の祠には不動明王座像が納められていた。
        
             国道が近くにあるのも関わらず静かな境内
『新編武蔵風土記稿 堤崎村』
 神社 稻荷社三宇 共に村民の持、 熊野社 持同じ、社は破壊して未だ再建せず、
 寺院 
 地藏院 
 禅宗曹洞派、中釘村永昌寺末、寶珠山と號す、開山を一線斎と云、明暦三年四月朔日示寂す、本尊は地蔵の坐像を安置せり、
 十王堂
 愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり、

        
                     拝 殿
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 愛宕神社  上尾市堤崎三二九
 祭神…軻遇突知命 倉稲魂命
 堤崎村は天正の末徳川氏の有となり、代官が所轄した。寛永二年(1625)安部備中守の領地となっている。
 当社は、社伝によると、元禄十年(1697)のころ、村内に悪病が流行した折、これを鎮めるために創祀したものであるという。また、「風土記稿」堤崎村の項には、当社は地蔵院の境内社として載り、「愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり」とある。
 地蔵院は、宝珠山と号した曹洞宗の寺院で、開山と伝わる一線斎は明暦三年(1657)四月に示寂している。神仏分離に伴い、明治五年(1872)に廃寺となり、現在、堤崎自治会館前に建つ地蔵堂(「本尊様」と呼ぶ)の中に、地蔵尊座像が、閻魔大王・大日如来像と共に納められている。
 また、当社の神楽殿に掛かる消防の半鐘として使用されている鐘には「武州足立郡堤崎村 本山永昌現住百川朝叟代 宝珠山地蔵院什物 世話人安藤善右衛門 天保十二辛丑年(1841)十一月吉祥日」と刻まれており、往時を偲ばせる。
 当社は、明治初年に稲荷社三社、熊野社を合祀し、同六年四月に村社となった。昭和三十六年(1961)、旧来の社殿の傷みが著しかったため、氏子全員の協力により本殿・拝殿を新築した。
 祭礼は一月の歳旦祭、三月の初午祭、七月の八雲神社例祭(祇園祭)、同二十四日の例大祭、十月のお日待ちの年五回である。
 境内社として「疱瘡社」「八雲社」を祀っている。(以下略)
                                      案内板より引用

 
   拝殿に対して左側に設置されている       「堤崎の祭りばやし」案内板
  「堤崎の祭りばやし」の案内板と標柱       上尾市指定無形民俗文化財に指定

 上尾市指定無形民俗文化財  堤崎の祭りばやし
 (保持団体) 堤崎はやし連

 上尾市やその周辺地域には、江戸の神田ばやし系統の祭りばやしが伝承されており、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組で編成されている。
 堤崎の祭りばやしは、神田ばやしの系統の一つである木ノ下流祭りばやしをもとに、明治時代の初めに堤崎の吉沢菊次郎が手を加えて編み出したと伝えられている。独自の流派として形成された堤崎流のはやしは、市内西部や川越地方の祭りばやしの中心的存在の一つとして、市内では畔吉、中新井、平方新田などに伝授されている。演奏曲目には、屋台、鎌倉、四丁目、神田丸、昇殿、宮昇殿、岡崎、数え歌、子守唄があり、付属機能として、獅子やひょっとこなど、神楽の面芝居のような寸劇もある。
 現在、堤崎の祭りばやしは、七月一四日に近い日曜日に行われる堤崎の天王様などで上演されている。また、堤崎地区では山車を1基所有しており、この山車の上で演奏することも可能である。
                                      案内板より引用

       
                     本 殿
       
             本殿奥に聳え立つ巨木(写真左・右)。
 
      境内社  八雲社・疱瘡社           境内に奉納されている力石


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等

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地頭方氷川神社

 上尾市・地頭方(じとうかた)地域は、上尾市南部の大宮台地指扇(さしおうぎ)支台上にあり、『日本歴史地名大系』での 「地頭方村」の解説によると、南側を堤崎村、西は南北に流れる堀を隔てて平方領の領家村に隣接し、嘗ては足立郡平方領に属していた。村名の由来は、建武元年(1334410日の足利直義下知状(宇都宮文書)にみえる大谷郷地頭職にかかわると考えられる。鎌倉時代に荘園領主と地頭が土地の所有権を争い、地頭方と領家方に分けた名残の地名といわれていて、北側に隣接する壱丁目地域は、嘗て地頭に与えられた土地を意味する「壱町免」が変化した地域名と言われているそうだ。
 上尾市内の地名には、中世以降の古文書にその名が残っているものが幾つかあり、「地頭方」もそのうちの一つであろう。
 因みに「地頭方」という地域名は吉見町にもあるが、そちらの名称は「じとうほう」と読み、若干の読み方の違いはある。
 当時の村高は正保年間の『武蔵田園簿』では173石(田45石余、畑127石余)、『元禄郷帳』によると145石余、『天保郷帳』によると149石余であった。検地は寛永7年(1630)・元禄7年(1694)、新田検地は延享元年(1744)に実施されている。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市地頭方113
              
・ご祭神 素戔嗚尊 天照大御神 大雷命
              
・社 格 旧地頭方村鎮守・旧村社
              
・例祭等 お神楽 722日 お日待 1014
 平方八枝神社正面鳥居に沿って東西方向に走る道路を東行すること500m程、途中平方橘神社を左手に見ながら道なりに進むと、埼玉県道51号川越上尾線のY字路に達するので、そこを左折する。同県道を1.5㎞程進行し「地頭方」交差点を右折、その後800m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ左手に「地頭方公民館」が見え、その建物奥に地頭方氷川神社が背を向けたように鎮座している。
        
                
地頭方氷川神社参道正面
  この社にはお決まりの鳥居が設置されていないため、正面を目視する目印的な物がない。
        また正面周辺には
適当な駐車スペースがないため、100m程歩いた
                「
地頭方公民館」の駐車場に車を停めてから、参拝に臨む。
 
 正面には鳥居はないものの、参道は比較的長い(写真左)。社殿に至る長い参道は、1950年(昭和25年)に時の総代島田道教から寄付された土地を氏子総出で整備したものであるという。
 また、社には大きな狛犬が鎮座している(写真左・右)が、これは前出の島田家が運送業で財を成したことに対する神恩に感謝して、1895年(明治28年)に奉納されたものである。
        
                                       拝 殿
         道路から離れている場所にひっそりと佇んでいるような印象
       
                           境内に設置されている案内板 
 氷川神社  上尾市地頭方一一三
 祭神…素戔嗚尊、天照大御神、大雷命
 南北朝-室町期ごろ市域には大谷郷が成立していた。地頭方の地名は、建武元年(一三三四)四月十日の足利直義下知状(宇都宮文書)に見える大谷郷地頭職にかかわると考えられ、中世村落の系譜を引く村であることが推測される。
 当社の創建の年代は明らかではないが『風土記稿』地頭方村の項に「氷川社 村の鎮守なり 正円寺持」とあり、当村の鎮守として祀られてきた社であることがわかる。ここに見える別当の正円寺は、当社の西方一〇〇メートルほどの所にあった蓮華山と号する真言宗寺院で、開山秀賢は、寛正三年(一四六二)に没したという。
 神仏分離後、正円寺は廃寺となり、当社は明治六年四月に村社に列した。また、年代は不詳であるが、地内にあった神明社・雷電社を合祀したと伝える。なお、現在正円寺の跡地には地頭方公民館がある。
 当社の参道を進んで社前に至ると、まず目につくのが、見上げるばかりに堂々とした体格を誇る狛犬である。これは、江戸末期から明治期にかけて氏子の島田鶴吉が運送業で財を成したことから、神恩に感謝して同氏により明治二十八年に奉納されたものである。また、一〇〇メートルほどの参道は、昭和二十五年に時の総代島田道教から寄付された土地を氏子総出で整備したものである。島田道教は、先の島田鶴吉の子に当たり、島田家の当社に寄せる崇敬の厚さをうかがわせる。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、例祭、十月のお日待ちの年五回である。七月の例祭には「雨降り神楽」と呼ばれたお神楽が作物の無事生育を願って奉納されていた。
 境内社に「稲荷社」「疱瘡社」、境外社に「天神社」「八雲社」を祀る。
                                      案内板より引用 

 
 「伊勢参宮記念碑」の並びで、拝殿左側手前に    参道を挟んで疱瘡社の向かい側に
    祀られている境内社・疱瘡社         祀られている境内社・稲荷社
        
                   境内社・疱瘡社の手前には「力石」も奉納されている。

 ところで、この地域には「地頭方の祭りばやし」が上尾市に民俗文化財・無形民俗文化財として指定を受けている。
民俗文化財・無形民俗文化財 地頭方の祭りばやし
【登録年月日】 平成20115
【保持団体】  地頭方囃子連
 地頭方の祭りばやしは、神田ばやし系統の一つである桑屋流の祭りばやしです。始まりは不詳で加茂宮(さいたま市北区宮原)の囃子連が師匠で、加茂神社の祭りのときには応援に駆けつけたといいます。
 祭りばやしの編成は、笛1人・小太鼓2人・大太鼓1人・鉦1人の51組です。
 曲目には、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「神田丸」「ひょっとこ囃子」「ねんねん子守」「ヒトツトヤ」がある。「屋台」は、「ブッツケ」「切り」「地」「新切り」「乱拍子」で構成しています。
 上演の機会としては、722日の氷川神社例祭があります。かつては1014日のお日待ちの夜にも上演していました。
 付属芸能として、以前はひょっとこ踊りなどがありましたが、今日では踊る人がいません。
                              「上尾市教育委員会HP
」より引用
        
                                 静かな境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
上尾市教育委員会HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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平方八枝神社

 上尾市平方(ひらかた)地域は、市南部の主に大宮台地上に位置し、畑や田んぼが広がり、広大な河川敷もある等、近年開発が著しい同市に在って、農業的土地利用の比重が高い地域である。
 東側を平方領領家や上野、南側を西貝塚やさいたま市西区宝来、西側を荒川およびその旧流路を挟み川越市東本宿・上老袋・中老袋や比企郡川島町出丸中郷、北側を畔吉や小敷谷と隣接する。因みに地域の面積は3.2521 km2で上尾市の町・字では最も広い。
「平方」の地名由来として、地域一帯荒川流域の平坦な地が地名の起源であると言われている。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市平方488
             ・ご祭神 素戔嗚尊、狛狗大神
             ・社 格 旧無格社
             ・例祭等 ふせぎ 334 例大祭 420日前後の日曜日
                  夏季大祭(祇園祭) 7月中旬日曜日 お日待ち 1015
 平方橘神社が鎮座する「上尾橘高入口」交差点を荒川方向に西行すること200m程、進行方向左側に平方八枝神社は見えてくる。この両社は距離が非常に近い。
        
                  平方八枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「八枝神社」の解説
 八枝神社は荒川東岸、嘗ての平方河岸近くの川越上尾道沿いにある。祭神は素盞嗚尊。創建の時期は元禄年中(一六八八―一七〇四)と伝える(神社明細帳)。江戸期には「牛頭天王社」と称し、別当は天台宗正覚寺が勤めた。明治初年現社名に改称.
 天保13年(1842
)正覚寺が社殿造営のため護摩を勧募した時の千座護摩募縁誌(八枝神社文書)には、除病祈願・悪疫退散のために当社が村々に貸出す、お獅子様とよばれる獅子頭の霊験が語られている。往昔正覚寺中興の真鏡は御正体の霊験の発揚を祈り、当社で法華経を読誦したという。
 なお、明治維新後に京都八坂神社の枝社という意味を込めて、八枝神社と改めたという。
        
           鳥居の左側で、道路沿いに設置されている案内板
 八枝神社  上尾市平方四八八
 祭神・・・素戔嗚尊、狛狗大神
 上尾市の平方は、荒川の舟運における主要な河岸の一つである平方河岸があった所として知られている。当社は、この河岸の近くに鎮座している。
 当社の創建について、『明細帳』は、「元禄年中(一六八八~一七〇四) の創立にして正徳元卯年(一七一一)六月十五日再建其他不詳」と記している。しかし、明治時代に廃寺となった正覚寺に所蔵されていた元禄七年(一六九四)の「平方村寺社地御改之覚」(福田家文書)に、当社の社地が古くから除地とされていた旨が記されているため、ささやかな祠や仮宮などの形で、それ以前から何らかの祭祀が行われていた可能性が考えられる。
 江時代までは「牛頭天王社」として祀られ、江時代後期には御獅子を奉斎し、悪疫退散の守護神・疫病除けの神として地元の上尾地区を始め、足立郡内、比企、入間、南埼玉の県内各郡、現東京都の西北部、旧多摩地方に信仰が広まり、村々では「平心講」という信徒組織が結成され、一時は講員数三万余人に達したと言われている。
 明治初年、京都の「八坂神社」の御祭神と同じ牛頭天王をお祀りしていることから、八坂神社の枝社として「八枝神社」と改称している。
 祭神は、「素戔嗚尊」並びに「狛狗大神」で、一般には「平方のおししさま」として親しまれ、各地への渡御(御獅子の巡回) は年間を通して行われてきた。この獅子頭は一説には左甚五郎の作とも伝えられるが、その確証はない。
 境内にある大樹は、創建当時からあるものと伝えられ、樹齢五〇〇年から六〇〇年以上と推定さ れる古木で、上尾市指定天然記念物として大切にされている。
 また、毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥()と人とが一体となる奇祭、「どろいんきょ祭り」が、各地より沢山の見物客を集めて盛大に執り行われ、埼玉県指定無形民俗文化財に指定されている。 境内社に「疫神社」「八幡社」を祀る。
                                      案内板より引用

        
                                     拝 殿
 例祭日は、「ふせぎ 334日」 「例祭 420日前後の日曜日」 「夏季大祭 7月中旬日曜日」等である。「ふせぎ」は氏子区域の悪魔祓いの行事であり、当社に伝わる「お獅子様」を若衆が担いで平方の四町村を一軒一軒回っていく。「お獅子様」の回る順路は、上宿⇒南⇒下宿⇒新田と決まっていて、3日の午前8時頃から回り始めるが、昔は各戸に上り込んで「お獅子様」で家内を祓い清めたという。
 例祭は「太々」とも呼ばれ、この日は各地から集まって来る「平心講」の人々が太々神楽を奉納するのが例となっていることからその名がある。神楽は、元来大宮市の杉山家に頼んでいたが、同が神楽をやめたため、現在は大宮市清河寺の島村家に頼んでいる。
 夏季大祭は、平方の四町内挙げての祭りである。この行事は、牛頭天王の霊威によって悪疫退散 を祈願するもので、古くから大切な行事として続けられたが、近年では勤める人々が多くなった関係で、714日に近い日曜日に実施している。
        
                                拝殿の手前にある神楽殿
        
                  拝殿の右側に祀られている境内社「疫神社」「八幡社」
 
         拝殿右側に聳え立つケヤキ、エノキの巨木(写真左、右)
         左側に注連縄が巻かれているのはケヤキのご神木である。
 
          拝殿と神楽殿との間にあるケヤキの巨木2本(写真左・右)
        
               境内に設置されている案内板
 上尾市指定天然記念物  八枝神社の境内ケヤキ・エノキ群
   八枝神社(大字平方488)
「ケヤキ・エノキ群」は合わせて6本の単木から成り、八枝神社の鳥居をくぐって左手の神楽殿から右手の拝殿・本殿の一帯にかけて生育している。ケヤキ(3) が拝殿東側の2本と、拝殿すぐ北側の「御神木」1本で、幹周りは約5.6m~6.9mであり、エノキ(3)が拝殿・本殿の南側の1本と、同北側の2本で幹周りは約2.4m~3.9mである。樹高は約30mで、樹齢は400~500年と推定され、市内の神社や寺院でこれだけの大木が群生しているのは珍しい。指定の「エノキ」の名称は学術的にはムクノキであるが、地元では古くからエノキと呼称していることに倣ったものである。
 明治期、神社合祀を進める政府に対し、明治三九(1906)11月に埼玉県知事大久保利武に提出した文書には「境内樹木ハ槻榎杉等ニシテ(中略)風致近郷二稀有ノ境内ナリ」とあり、地元では古くから榎と呼称していたことをうかがわせる。

 上尾市指定無形民俗文化財   武州平方箕輪囃子
  (保持団体)武州平方箕輪囃子連
 上尾市とその周辺地域には、江戸ばやしの系統を引く祭りばやしが伝承されている。江戸ばやしは、葛飾ばやしと神田ばやしの二つの系統に分かれるが、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組で編成されている。
 武州平方箕輪囃子は、神田ばやし系の古っぱやしで、元は上宿・下宿・南の3地区で三好連といい、川越市の鹿飼から伝承された。
 祭りばやしの編成は、大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組である。曲目には「屋台」「昇殿」「鎌倉」「神田丸」「仁羽(ひょっとこ囃子)」「子守歌」「数え歌」がある。「仁羽」は踊りをまじえながら演奏することもある。
 上演の機会としては、七月七日の御仮屋、七月中旬の八枝神社祇園祭りであるどろいんきょ祭り、一〇月中旬の橘神社お日待ちがある。
 タカウマに乗せての移動しながらの演奏や、櫓の上での演奏など多様な演奏形態を維持していること、戦争により一時の中断をしているが、その後に復活し、古くから継続的に伝承されていることは市内でも貴重である。また、県指定無形民俗文化財である「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の付属芸能としても欠かせない要素となっている。
                                       案内板より引用

 ところで、
平方八枝神社のご祭神は素戔嗚尊と狛狗大神(はっくだいじん)。この「狛狗大神」とは大きな獅子頭の事で「平方の御獅子様」として知られており、悪疫退散のご利益があるとされ、年間を通じて貸出されている。
 またこの社は、『平心講』(八枝神社の崇敬者団体)の本社として、埼玉県内各地並びに東京都内に数多くの講社を持ち、「平方のお獅子さま」として親しまれている。毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥()と人とが一体となる奇祭「どろいんきょ」として有名である。
        
          境内に掲示されている「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の案内板
 埼玉県指定無形民俗文化財  平方祇園祭のどろいんきょ行事
   八枝神社(大字平方488)
「平方祇園祭のどろいんきょ行事」は「天王様」や「夏祭」とも呼ばれ、悪疫退散などを祈願した祭りである。本来は七月一四日、一五日を祭日としたが、現在は七月下旬の日曜日に行われている。古くは旧平方村全体の行事で、上宿・下宿・南・新田の4地区を順番に神輿が渡御する形で行われてきた。大正一二(1923)年の渡御を最後に、4地区合同でのどろいんきょを含む神輿渡御は行われなくなった。その後、天王様は、4地区それぞれで神輿渡御が行われ、どろいんきょも各地区で小規模に行われる程度であった。こうした中、上宿地区は、昭和四八(1973)年にどろいんきょを本格的に復活させた。
 天王様の行事では、主として八枝神社から出る普通の神輿1基と、装飾のない白木作りの隠居神輿1基の合計2基が神酒所を巡りながら渡御する。神酒所とは、渡御の途中に立ち寄り、休憩する場であり、この中で実施可能な場所を選び、どろいんきょが行われている。休憩の後、あらかじめ水を撒いてある庭などで、神輿の担ぎ手である若衆たちが、さらに水を掛けられながら隠居神輿を地面に転がし倒し、どろいんきょが始まる。隠居神輿の由来は定かではないが、この隠居神輿も担ぎ手も泥だらけになることから「どろいんきょ」と呼ばれている。
 祭り当日、昼過ぎに神輿が八枝神社を出発する「お山出し」で、神輿の渡御が始まる。神輿・隠居神輿・囃子連の順に進み、神酒所のうち5か所程度で、どろいんきょを行う。
 渡御の途中、隠居神輿を垂直に立て、この上に役者に扮した若者が乗り、これを曳き歩く「山車の曳廻し」や、垂直に立てた隠居神輿の上での「ひょっとこ踊り」なども行われる。
 午後9時ごろ、最後の神酒所を出た一行は「お山納め」となり、八枝神社に帰り神輿を返して、祭りは終了となる。
 平方祇園祭のどろいんきょ行事は、いんきょ神輿を泥だらけにして転がす等、他に類例を見ない内容で伝承されており、地域的な特色を持った行事として、夏祭りの民俗的要素やその変遷を考える上で貴重な民俗行事である。
                                      案内板より引用

        
                   境内の一風景


 

       

 

 

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平方橘神社

 上尾市平方地域は、嘗て「平方河岸(ひらかたがし)」という荒川の舟運で栄えた河岸場の一つで、 昭和初期まで大きな繁栄を誇っていた。
 この平方河岸は、入間川と荒川の合流点の約600m下流にあった荒川の河岸場で、江戸浅草への川路23里余に位置する。川越上尾道筋にあたり、荒川対岸老袋(おいぶくろ)村(現川越市)とを結ぶ渡船場も併設されていた。寛政10年(1798)の寺尾川岸場由来書(河野家文書)に、寛永15年(1638)川越仙波東照宮再建用材の輸送のため「老袋・平方川岸」の利用が川越藩から命じられたが、渇水時であったため命を請けなかったとあり、川越藩は最寄りの村々の江戸廻米をすでに平方河岸にゆだねていたことをうかがわせる。
 河岸の成立にあたっては、寛永期から平方筋三六ヵ村を領した岩槻藩のほか柴田氏など有力旗本の要請もあったとみられる。岩槻藩主阿部重次は寛永15年から慶安4年(1651)まで老中を勤めており、この間有事の川船徴発年貢米回漕の基地を平方に整備したのであろう。寛文9年(1669)には「川船運漕ノ定」を記した高札が、おそらく幕府によって立てられたという。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市平方2124
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧平方村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 正月 祈年祭 2月 例大祭 1015
                   
新嘗祭 11
 畔吉諏訪神社から南側に位置する「上尾丸山公園」は南北に長い公園で、荒川河川敷すぐ近くに横たわる大きな池を配した上尾市の自然公園である。テーマは「水と緑の調和」。2.4haの長い池を始め、児童遊園地やバーベキュー場、広い運動公園、小動物コーナー、更には天文台もあり、桜やアヤメなど、季節毎に様々な花を楽しむこともでき、次々と展開する園内の風景は多彩で、厭きることがない。
 この公園南部にある南口第一駐車場脇の南北に走る道を1㎞程進むと「上尾橘高入口」交差点となり、その交差点手前右側に平方橘神社は鎮座している。
        
                  平方橘神社正面
『新編武蔵風土記稿 平方村』の項によると、「氷川社 村の鎮守なり」と記されており、江戸期には氷川社と称して平方村の鎮守社として祀られ、橘神社は大字平方のみの鎮守であったが、1907年(明治40年)に平方内の稲荷社・神明社、西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、新たに社号を「橘神社」に改称した。
 この「橘」という名称に関して、もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡平方領に属する平方村であった。古くは中世末期より見出せる橘里三輪荘(みわのしょう)に属したと云い、平方村・領家村(上尾市)は「橘ノ里」と称した時期があり、その故事を参考にして名付けられたようだ。
『新編武蔵風土記稿 上寶來村』
「上寶來村は江戸よりの行程九里、橘庄と唱ふ、此村古は寶來野と稱して荒川の岸に傍ひ水災ある地なり、故に差扇領の村々より秣などかりとり野錢を貢たりと云う」
        
                   道路沿いに設置された「
平方河岸」に関する案内板
 
   鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎     参道右側には、戦前の機雷が奉納されている
                         案内板では日露戦争時頃のようだが…
        
                   境内の様子
        
                                       拝 殿
 橘神社 上尾市平方二一二四(平方字箕輪)
 当社の本殿の背後には、樹齢約八〇〇年と推定され、幹周り五・七五メートル、高さ二〇メートルにも及ぶ欅の巨木(市指定天然記念物)がそびえている。遠望するとこの欅が当社の神籬のように見え、境内の三分の一を覆い尽くすその威容は、神木と呼ぶにふさわしい。
 元禄七年(一六九四)の「枚方村寺社地御改之覚」(福田家文書)によれば、当社には文明三年(一四七一)銘の額(現存しない)がある旨が記されていることから、それ以前の創立であることがわかる。また、口碑に創建当初は現在の平方小学校の東の「氷川山」と呼ばれる所にあったとも、平方新田の字在家にあったとも伝えられる。しかし、当社が当地に移った時期については伝えがなく、また、境内の大欅の樹齢から考えても、遷座があったとしても相当昔のことであろう。
『風土記稿』平方村の項に、「氷川社 村の鎮守なり」と記されているように、当社は元来は平方だけの鎮守であったが、明治四十年に平方地内の稲荷・神明の二社(共に無格社)及び西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、社号を橘神社と改めた。その社名はかつてこの辺りを橘里と称していたことにちなむものである。本殿及び拝殿はこの合祀を機に建立されたもので、古い本殿は同じ大字内の八枝神社に移され、今も同社の本殿として使われている。
 氏子区域は大字平方(上宿・下宿・南・新田)の四地区と、上野・平方領領家・上野本郷・西貝塚の合計八地区で、年間の祭典は正月の歳旦祭(さいたんさい)、二月の祈年祭(きねんさい)、十月の例大祭(お日待ち)、十一月の新嘗祭(にいなめさい)の四回である。
 境内社に「稲荷社」「三峯社」「天王社」「水神社」「神明社」「疱瘡社」「天神社」「雷電社」「琴平社」「愛宕社」を祀る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 本殿奥には、ご神木であるケヤキの大木が孤高の如く聳え立っている。このケヤキは、境内の地表面から50cmほど高く積み上げられた3m四方の土塁の上に立木し、周囲は透塀で囲まれている。中央の主たる幹は落雷のため上部を欠いているものの高さ20m余といい、嘗ては旧氷川神社のご神木として長い間住民の信仰の対象として敬慕されていたという。
 
幹周り5.75m、樹高24m、樹齢(推定)1000年といわれる立派な巨木・老木だ。
       
               ご神木のケヤキ(写真左・右)
              上尾市指定年月日 昭和42年5月1日
        
             境内に設置されている大けやきの案内板
 上尾市市指定天然記念物  大けやき
 橘神社(大字平方2124
 大けやきは、ニレ科の単木で、古くから地域の人々に「御神木」として親しまれている。昭和五四(1979)年の強風により、地面から7mほどのところの、二股に分かれたところで胴切りにされている。主幹の直径は1.8mあり、樹齢は800年と衰退されている。
 ケヤキは日本の代表的な広葉樹のひとつで、寿命が長い。山野に自生するほか、庭木・公園樹・街路樹として植えられている。特に関東地方に多く、「埼玉県の木」として指定されている。
 木目が美しく、かつ保存性が高いことから、社寺建築・臼・盆・漆器など用途が広い。樹皮は灰褐色で、老木になると麟片(りんぺん)状に剥がれる。葉は互生し、長さ2㎝〜7㎝の卵形または卵状鉢形で、薄い肉質である。花は四月〜五月に咲く。
 果実は長さ4mm5㎜の平たく歪んだ球形で陵があって固く、一〇月頃に暗褐色に熟す。
 上尾市教育委員会
                                      案内板より引用
        
    社殿の左側後方に祀られている境内社、及び平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
 
     平方村河岸出入商人衆奉納の石祠            石碑の案内板
上尾市指定有形文化財 平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
橘神社(大字平方2124
平方河岸は、荒川にあった河岸場で、近世には岩槻や原市方面から川越を経て多摩方面へ通じる、脇往還筋にある渡船場としても機能する交通の要衝だった。河岸場の歴史は古く、寛永一五(1638)年以前には既に成立していたと考えられている。
江戸へ送る年貢米の集荷先として、平方周辺の村々の他、南村、久保村、原市村などの幕府直轄地や、弁財村、戸崎村、上瓦葺村などの旗本知行地といった地域からも広く利用され、大正時代末まで大変栄えていた。
3基並んだ石祠のうち、中央の神明社が指定の石祠で、明治四〇年代に河岸場から橘神社に移された。左側面の銘文によると、平方村及び平方河岸に出入りする商人衆によって、享保二(1717)年に造立・奉納されたものであることが分かる。また右側面には、宝永六(1709)年に祈願して以来、平方河岸が大神宮の神徳により繁栄したことのお礼と、今後の輸送の安全と一層の発展を願う奉納の趣旨が記されている。
江戸時代中期からの江戸との経済関係、いわゆる江戸地廻り経済による商品流通によって発展した平方河岸の隆盛を伝える、数少ない貴重な歴史資料である。
上尾市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                        社殿右側に祀られている境内社。祖霊社か。
        
               綺麗に手入れされている境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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