古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大野原愛宕神社

 
        
             
・所在地 埼玉県秩父市大野原3391
             
・ご祭神 軻具土命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭 424日 七五三祈願祭 1115日 
                  新穀感謝祭 
1124日 大祓いの式 1231
 秩父市黒谷地域に鎮座する聖神社から国道140号線で南下すること4㎞程、「愛宕神社前」交差点の斜向かいに大野原愛宕神社は鎮座する。この社は秩父鉄道大野原駅から徒歩5分程度の国道沿いにあり、遠目から見ても境内一帯に広がる豊かな社叢林は、その社の神聖さを物語ると同時に、地域の方々が如何にこの社を大切に守っているかを推し量ることができよう。
 境内北側には社務所があり、「愛宕神社前」交差点を右折し、すぐ先には交差点角地付近に設置されている「多機能トイレ」と社務所との間に境内に入る道が見え、そこに入ると広々とした駐車スペースも確保されている。一応他の参拝等の客(と言っても参拝する者は筆者だけだが)に迷惑のかからない場所に停めてから参拝を開始した。
        
             大野原愛宕神社入口付近の社号標柱と鳥居
 交通量もそこそこに多い国道沿いに鎮座しているのも関わらず、境内はひっそりと静まり返っている。境内周囲を覆っている豊かな社叢林が下界との境界線を敷いているようにも感じた。午後の参拝時間で学生の帰宅時間に重なり、帰路を急ぐ学生や、境内の一角で語り合う数名の姿も見られたが、騒ぐこともなく雑談を交わしながら過ごされていて、何とも微笑ましい風景がそこにはある。不思議とこれ程広い境内にも関わらず、境内にはゴミ等も落ちていなく、日々の手入れも行き届いているようだ。
        
               参道途中に設置されている案内板
 御由緒
 愛宕神社は、一六一九(元和五)年未歳正月二十四日に現在地に建立し、杉や檜を植えて愛宕の森を作った 。祭神には、軻遇突智神と伊邪那美神を祭っている 。その後検地により、東西四十間南北五十二間の五反九畝十一歩に縮小された。
 そして、一七五五(宝暦五)年に現在の上屋を造営し、一八七一(明治四)年に大野原村の村社となる。また、一九二八(昭和三)年に拝殿を建設した。当神社は、大野原の鎮守として信仰されるとともに、火防火傷除けの神として近郷近在から信仰を集めてきた。
 当社の年中行事は、元旦祭・追難祭 (節分)・祈年祭・例大祭(四月二十四日)・七五三祈願祭(十一月十五日)・新穀感謝祭(十一月二十四日)・大祓いの式(十二月三十一日)となっている。中でも一番賑やかなのが、毎年四月二十四日の例大祭で、神楽などが行われる。
                                    境内案内板より引用
 大野原愛宕神社のご祭神である「軻具土命」は、日本神話にみえる神の名であり、火の神。『古事記』では迦具土神と記し、『古事記神話』ではヒノカグツチノカミ,ヒノカカビコノカミ,ヒノヤギハヤオノカミなど,火の光輝,燃焼などの機能に基づく異名を掲げる。
 この火神は伊奘冉尊(イザナミノミコト)が神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死ぬ。夫の伊邪那岐尊(イザナキノミコト)は怒って火神を斬る。その血(火の色)から刀剣,雷神,水神が生まれ,また死体から山の神々(山焼きの表象か)が生まれたという。
 母神に大火傷を負わせただけでなく、死に至らしめた神であり、生まれてすぐに父神に殺されてしまう、可哀想な神であるのだが、後世において火を扱う業者からの崇敬が高く、鍛冶業や焼き物業といった業者から高く崇敬され、防火の神、鍛冶の神、陶器の神の神格を持つ特異な神である。
 秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社や愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。
       
           参道途中には1本の御神木が聳え立つ(写真左・右)
 
       参道左手にある神楽殿           右手には社務所もある。
『日本歴史地名大系 』「大野原村」の解説
 [現在地名]秩父市大野原
 
横瀬川を境に黒谷村の南、荒川右岸に位置する。南は大宮郷、東は山田村、西は荒川を境に寺尾村。秩父往還・川越秩父道の分岐点にあたる。地名は、原野が多かったことに由来するとされる(秩父志)。縄文時代中期・後期の集落跡、古墳群などがある。田園簿では高一八七石余・此永三七貫五八九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同領で幕末に至る。元禄郷帳では高四一七石余。天明六年(一七八六)秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田三町一反余・畑一四七町五反余。
        
                                  静かな境内
 案内板によると嘗てはもっと広い社地であり、その後検地により縮小されたと記載があるが、今でも十分に広い。
 鎮座地大野原の地名は、『秩父志』に「此村古昔ヨリ原野多ケレパ名トナルベシ」とあり、また、『風土記稿』に「墾開の年代を伝へずといへども、原野の地をひらきし村なり」とあるところから、古くはこの地に原野が広がっていたことにちなんだものという
        
                                      拝 殿
 大野原愛宕神社は、口碑によれば、元来は村の東に位置する字峰沢にある前山の山上に祀られていたが、1619年に字宮崎にある現在の境内へ遷座したという。この話に出てくる前山には、往古、妙見宮(現秩父神社)が祀られていたと伝えられ、妙見宮は、その後、宮崎、柞の森と社地を移していったという。これらの伝説と、秩父神社文書の「嘉禎の火雷後妙見宮を柞森に祭祀されその宮籬の辺りに火神愛宕の神祠を営みける」という記事と合わせて考えると、当社は、四条天皇の嘉禎元年(一二三五)九月の落雷による秩父神社が社殿焼失のために遷座した妙見宮の跡地に火防の神として祀られた社で、妙見宮がその土地を移すにしたがって、当社も前山から宮崎に社地を移したと見ることもできるが、いまだ推論の域を出ないとの事だ。
 
          本 殿             本殿東側奥には秩父鉄道の線路が見える。
        
                 社殿を横側から見る。
 拝殿は基壇上にあり、また本殿に移るにつれて高台となっている。調べてみるとこの高台は古墳のようで、周辺には「大野原古墳群」と呼ばれる古墳群が存在している。
 大野原古墳群は、横瀬川左岸の段丘上に形成され、78基の古墳が確認されている。かつては「百八塚」とも呼ばれ、立地する地区の名前をとって「黒草支群」、「大野原支群」、「蓼沼支群」、「下小川支群」の4支群に分けられている。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られている。黒谷に鎮座する聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。
 この古墳群の一つである大野原愛宕神社の基壇下周辺には「大野原24号墳」があり、径13.0mの円墳という。
        
             境内南東部に鎮座する境内社・王子稲荷社
 
  稲荷社特有の赤い鳥居の列が目を引く。          王子稲荷社
        
        鳥居の右側並びに祀られている「弁財天」「浅間大神」の石祠。
 屋根付きの「囲」に丁重に祀られている。「囲」と表現したが、正式名は何であろうか。知っている方はご教授願いたい。それにしても意外と立派である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父鉄道HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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大宮住吉神社

『日本歴史地名大系』 「大宮住吉神社」の解説
 [現在地名]坂戸市塚越
 越辺川右岸台地上にある。祭神は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命・息長帯比売命・品陀和気命。旧郷社。中世には大宮、近世には住吉大明神などとよばれた。天徳三年(九五九)長門国豊浦とようら郡楠乃(くすの・現山口県下関市)の住吉神社を当国住人山田長慶が勧請したと伝え、北武蔵一二郡の総社とされた(神社明細帳)。江戸時代に作成された「住吉社覚」には、源義家が奥州出陣の際に簸川大明神を勧請したこと、治承四年(一一八〇)に千葉常胤が参詣し歌を一首奉納したこと、永享元年(一四二九)足利持氏が社殿を再建したことなどが記録される。

       
              
・所在地 埼玉県坂戸市塚越254-1
              ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命)
                   神功皇后 応神天皇
              ・社 格 旧北武蔵十二郡総社 旧郷社
              ・例祭等 祈年祭 223日 例大祭 4月第1日曜日
                   新嘗祭 1123
 坂戸市石井地域に鎮座する勝呂神社から南東方向に直線距離でも500m程しか離れていない社である。石井勝呂神社散策中、偶々近所の方にこの社の由来等をご享受頂いた際に、大宮住吉神社が近くにある事を初めて聞いた次第だ。
 案内板によれば、大宮住吉神社は、天徳3年(959)当国の山田長慶が長門国の官幣社住吉神社をこの地に奉遷して創建、文治3年(1187)には源頼朝の命により北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭を務めたという由緒正しい社。江戸期には徳川家光より慶安2年(1649)社領6石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格、大正15年郷社に昇格した。
        
                  大宮住吉神社遠景
 冒頭では「大宮住吉神社」の紹介をしたが、『日本歴史地名大系』には「塚越村」の解説が載っている。
 [現在地名]坂戸市塚越・栄・千代田五丁目
 石井村の南にあり、北部を飯盛川が東流する。南は高麗郡戸宮村、南東から北西へ江戸秩父道が通る。古くは塚腰といい、奥州出陣の途中源義家が当地に陣して西方にあった古塚に腰を掛けたことから起こった地名だと伝える(風土記稿)。この古塚は現在義家塚とよばれる直径八メートル、高さ一・四メートルの円墳で、墳頂に源義家を祀る塚越神社がある。天文二四年(一五五五)四月一五日の紀年のある坂戸薬師堂の薬師如来立像の胎内首裏墨書銘に「武州入西郡勝郷之内塚越村小河新右衛門尉法名善了旦那也」とある。小田原衆所領役帳には、江戸衆伊丹右衛門太夫の所領として「入西勝之内 大宮分藤井共」一九貫一三二文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。
 上記の解説では大宮住吉神社が鎮座する「塚越」の地名由来に関しての説明があり、康平年間(105865)、八幡太郎義家が奥州征討の際此地に訪れたが、越辺川・荒川の増水により、渡ることができぬまま滞陣し、村の西方にある古塚に腰をかけた。このため、此の地を「塚腰」と呼ぶようになり、後に変じて「塚越」と書くようになったと伝えている。
        
                 大宮住吉神社正面鳥居
        
              入り口付近に設置された大宮住吉神社の案内板
 大宮住吉神社 坂戸市塚越二五四-一
 社伝によると当社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っています。
 当社は、室町時代中期(永享元年・一四二九年)に、鎌倉公方の足利持氏によって社殿が再建されたといわれており、永享元年銘の棟札が現存しています。後に、江戸入府を果たした徳川家康からは、自社の所領を確定させた公的文書の御朱印状を賜り、以後代々の将軍に社領を認められ、将軍家光の代には朱印高六石を賜わったといいます。
 当社は、かつては、北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめており、江戸時代には、武蔵国の総社である府中市の大國魂神社の祭事に出席し、神楽を奉納した記録があります。近代には、近隣で唯一の郷社となり、氏子を中心に広く信仰を集めてきました。主な祭りは、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)であり、中でも例大祭は最も盛大で、多くの神楽が奉納され、午後に行われる「天下祭」では、天狗(猿田彦命)を先頭に行列が参道を歩み、神話の天孫降臨になぞらえて五穀豊穣・家内安全を祈願します。
 境内には、本社とは別に、複数の神社が合祀されている「境内社」があり、合わせて十七社が祀られています。道を挟んで境内の南側にある「神泉」といわれる池には中央に島があり、「市杵島比売命」を祀る厳島神社が鎮座しています。厳島神社の石祠(ほこら)には水の神ともいわれる「弁財天」の文字が刻まれており、かつては干ばつが続くと氏子が桶を持ち寄り雨乞いをしたといいます。
                                      案内板より引用

        
             同じく入り口付近にある坂戸の大宮住吉神楽の案内板
 坂戸の大宮住吉神楽 (坂戸市塚越二五四-一)
 国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財
 大宮住吉神楽は、江戸里神楽の影響を色濃く残した神楽で、物語を身振り手振りで表現する無言の劇のようなところがあり、演劇性の高い神楽です。神楽の持つ豊かな物語性によって、永く土地に根付き、人々に伝承されてきたものと考えられます。
「坂戸の大宮住吉神楽」は、埼玉県指定無形民俗文化財(昭和五十二年三月指定)であるとともに、平成二十二年三月十一日には、国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択を受けた大変貴重な神楽です。
 大宮住吉神楽は、天照大神までの神話を題材にした「十二神楽」とその他の神話や茶番狂言のような十座の「座外神楽」の演目で構成されています。
 古い記録によると、県内の児玉郡神川町の金鑽神社を中心とした金鑽神楽が、宝暦年間(一七五一~一七六四)に大宮住吉神楽から古代神楽を伝授されたと伝わっており、大宮住吉神楽の成立は少なくともそれ以前にさかのぼるものと考えられます。
 当初は神主によって神楽が奉納されていましたが、明治以降、氏子男子の有志によって引き継がれ、現在は「大宮住吉神楽保存会」が組織されて氏子を始めとした神楽師によって、神楽の保存・継承が図られています。
 神楽の奉納は、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)で行われ、中でも四月の例大祭は最も盛大で、午前中から夕方まで様々な神楽の座(演目)が色とりどりの面と衣装を身に付けた神楽師により奉納されています。(以下略)
                                      案内板より引用
        
             鳥居上部に掲げられている「北武蔵総社 大宮住吉大明神」の社号額
        
               鳥居を過ぎた直後の参道の様子
       嘗ての北武蔵総社という格式からか、風格が漂う荘厳たる境内が広がる。
       
                         鳥居を過ぎるとすぐ右手にある手水舎
        
   参道は鳥居を過ぎて暫く真っ直ぐ進むが、左側に神楽殿がある地点で右側直角に曲がる。
 国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財「坂戸の大宮住吉神楽」を奉納する舞台であり、神楽殿は社殿に対して正面にある。
     
  神楽殿付近で参道は曲がるが、その参道右手にはご神木が聳え立っている。(写真左・右)
       
                     拝 殿 
 塚越村 住吉社
 村の鎮守なり、慶安二年社領八石の御朱印を賜ふ、祭神は表筒男中筒男底筒男三神にて、村上天皇の御宇天徳三年己未二月二十三日長門國山田邑より爰に遷し祟り、其後永享元年己酉九月十五日、關東管領左兵衛督持氏再興ありし時、底通日女明日登日止の神を配祀す、此若三神は普通に祀ると異なりといへども、當社神秘にて斯の如しと云、村内に永享元年の棟札及び慶長十五年、地頭村越與惣左衛門と記せし棟札あり、永享の棟札は左之如し(中略)
此紗は古へ勝呂郷の惣鎮守にて、勝呂大宮と唱へしと云傳ふ、前にも出せし如く【北條役帳】に入西郡勝之内大宮分と有は、當社の事なるべし、
本社。中央に住吉明神、右に和歌三神、左に東照宮鎮座あり、(以下略)
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 
         拝殿内部            拝殿に掲げてある特徴ある扁額

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川(こまがわ)が市の南西から北東へ流れ、越辺川(おっぺがわ)に注がれる。 
 坂戸市の北東部に広がる坂戸台地は古くから開けた土地だったようで、古代官道である東山道武蔵路が南北に通っているといわれ、台地上は古くから古墳が数多く築かれた場所でもあったようだ。
 東山道武蔵路の成立は7世紀後半という。埼玉県下でその遺構として発掘されている場所は、所沢市内「久米・東の上遺跡」「下富・柳野遺跡」、川越市内「的場・八幡前、若宮遺跡」「的場・女堀遺跡」で、この女堀遺跡が現在確実に武蔵路の遺構として考えられている最北の遺跡との事だ。
 比企郡吉見町南吉見地域で2001年(平成13年)発掘された「西吉見条里遺跡」は、官道級の幅員を持つ古代道路跡で、その後も道路跡の延長上の遺跡で同様の発見があった。武蔵路の遺構との推測がなされているが、向きが北東に傾いているため、郡衙同士の連絡道、または常陸国へ通じる間道という説もあって確定していない。
        
                                    本 殿

 女堀遺跡以北の地域では、古代道路跡の遺構はまだ発掘はないが、遺構の北方向延長線上は勝呂廃寺や宮町遺跡がある。
 勝呂廃寺は坂戸市石井に所在し,
7世紀末から9世紀までの寺院跡で、県内最古・最大級の古代寺院跡と言われている。金堂や講堂などの主要建物とは異なる寺院の関連施設と考えられている。大溝は寺の周囲を巡るように掘られていると考えられているが、調査範囲が限られているため寺域の確認はできていない。大型の堀立柱建物跡は大溝同様に全体の調査が行われていないが、四面庇の建物であったと確認されていて、この寺の創建は渡来系氏族の勝氏が深く関わったものと考えられていて入間郡寺に比定され、武蔵路の延長ライン上にあるこの寺は駅路に近接して建てられたのではないかと考えられている。
 というのも、塔の相輪の一部や多量の瓦が出土していて、この寺跡の瓦は7世紀から南比企窯跡群で生産されている。南比企窯跡群は、各時期、上野国からの影響を受けるが、同時に武蔵国分寺の瓦を焼成している所から、上野国一勝呂廃寺(南比企窯跡群)一武蔵国分寺の関係は道路跡を介していたことが想定できよう。
 また坂戸市大字青木字堀ノ内の「宮町遺跡」では、平成元年(1989)に発掘調査が行われていて竪穴住居跡や堀立柱建物跡などが発見されているが、そこでは「樟秤」の金具とそれに使用した石製の錘が出土して注目されたが,墨書土器の中に道路を推定する「路家」が11号住居跡から出土していて、おそらく宮町遺跡付近を道が走っていたと推測されている。
        
                       参道の左手には境内社が纏めて祀られている。
 荒掃除神・荒神社・山王権現社・和歌宮神社(若宮明神社)・東照宮・木造神社・杉本神社・八重垣神社・子安神社・八坂稲荷社・天神社(天満宮)・国分神社(国分明神社)・疱瘡神社・総前神社・塚越神社・八幡神社等。

 東山道武蔵路は文献において、続日本紀』神護景雲2年(768)の奏勅、その後『続日本紀』にみえる宝亀2年(771)大政官の奏により、武蔵国は東山道から東海道へ所属替えとなり、東海道も相模国から海路で上総国に向かうルートから武蔵国の沿岸を通るルートに変更されて国府への支道もつくことになることにより、東山道武蔵路は官道から外れ、間道に降格されることになった。また律令制度の衰退により、道路の整備も行き届かなくなり、次第に道としての機能を果たさなくなったが、11世紀頃までは道として使用されていたようで、中世には、嘗ての東山道武蔵路と並行するような形で鎌倉街道上道が主要な道路として利用されたという。

 どちらにせよ、律令制度時期当時は、坂戸市北東部一帯は市内でも古くから開発されていた地域であり、その中に塚越地域は内包されており、北武蔵総社として大宮住吉神社がこの地に鎮座していることの意味は大変大きいと筆者は考える。
 
 境内一帯には深い社叢林が覆っており(写真左・右)、また社殿の右手には屋根付きの休憩スペースも設置されていて、地元の方々にとって憩いの場ともなっているようだ。 

 大宮住吉神社・正面鳥居の道路を挟んで反対側には「弁天池」があり、その赤い神橋を渡った先には厳島社が鎮座している。大宮住吉神社の境内社であろう。
       
                              厳島社正面 

   赤い神橋の先に厳島社は鎮座する。         弁天池の一風景

 追伸にて
 大宮住吉神社と関連する項目として、『増補忍名所図会』には平安時代後期の武士で、寿永
3年一ノ谷の戦いに弟の河原盛直とともに源範頼に従い、兄弟で平氏の陣に迫ったが、備中の真名辺(まなべ)五郎の矢に射られ、同年27日ともに討ち死にした「河原(川原)兄弟」に関して以下の気になる記載がある。

「勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり」

 河原明戸諏訪神社で取り上げた「河原兄弟」の出身地が実は「摂津国生田庄」付近で、この兄弟の祖先が武蔵国に目的を以って東行する際に、住吉神社の海上ネットワーク、または当時の武蔵国塚越地域に一大拠点を築いていた大宮住吉神社に神職、または社人(今でいう事務職員)として派遣されたのではないか、と推測している。
 もしこの推測が正しければ、平安時代当時の住吉神社系列のネットワーク網は現代を生きる我々が考えている以上に規模大きもので、驚かされるばかりだ



参考資料「新編武蔵風土記稿」「増補忍名所図会」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「武蔵国内の東山道について」「境内案内板」等    
   

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中小坂神明神社

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教思想形体である。
 その神仏習合形体の一つが「両部神道(りょうぶしんとう)」といい、仏教の真言宗(密教)の金剛界・胎蔵界の両部の理論をもって,日本古来の神と仏の関係を位置づけた思想である。真言の哲理をもって神道の神,神話,神社,および行事を説明しようとする。すなわち,大日如来を本地とし,諸神はその垂迹であるとする。両部とは不壊と智を意味する金剛界と,育生と理を意味する胎蔵界の大日であるとし,二でありつつ一体不二であると説き、日本特有の神仏調和を基として,中世以降,国民の思想と生活に大きな影響を与えた一連の宗教思想といえる。この思想は近世以降,新たに提示された神道説の基本と位置づけられたが,明治期になると神仏分離政策により衰退した。
 坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社は、今でこそ「神明神社」との名称であるが、嘗ては「天照大神春日八幡相社」と称し、『新編武蔵風土記稿』中小坂の項には、「天照大神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。
 この中の「雨宝童子」とは「両部習合神道」の神であり、天照坐皇大神が日向に下生した際の姿とされ、大日如来が化現した姿とされることもあり、神仏習合思想の影響を未だに色濃く残している社ともいえよう。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市中小坂1
              
・御祭神 天照皇大御神
              
・社 格 旧中小坂村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
 埼玉県道269号上伊草坂戸線沿いに鎮座している横沼白髭神社から西方向に進路を取り、「三芳野小前」交差点を左折する。道沿いを1.6㎞程南下し、「さかど療護園」の看板が左側にある十字路を左方向に進み、100m程でT字路に到着するので、そこを右折すると、進行方向左手に「中小坂下集会所」があり、そのすぐ隣に中小坂神明神社の社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは「中小坂下集会所」に数台可能であるので、そこに停めてから参拝を開始した。集会所の奥には緑豊かな社叢林が広がり、「神明社」の称号も合わさって、参拝も自然と厳かな気持ちとなった。
        
                  中小坂神明神社正面
                           こんもりとした社叢林が一際目立つ社
『日本歴史地名大系』 「中小坂村」の解説
 [現在地名]坂戸市中小坂・東坂戸一―二丁目
 紺屋(こうや)村の南にあり、南は高麗郡下小坂村(現川越市)、北西は同郡下広谷(しもひろや)村(現同上)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田六九石余・畑八八石余・野高一石余、水損場と注記される。
 幕府領(一二八石余)・川越藩領(二一石余)・旗本設楽領(一〇石)の三給。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二七石余、反別は田一町七反余・畑一町五反余。元禄一五年(一七〇二)以前に全村が川越藩領となるが、村高は九四石と減少している(河越御領分明細記)。秋元家時代の郷帳では高九四石余、検地出高二〇四石余、反別は田一四町五反余・畑五一町余。

        
                        道路から少し入った場所に鳥居は立っている。
 所在地は「坂戸市中小坂1」。この中小坂地域において、東側端に位置していながら、まさにこの地域の始点となる場所にこの社は鎮座している。
 参拝中は全く気付かなかったが、後日グーグルマップで確認すると、この社は西向き(正確には南西方向)に社を構えている。
 中小坂地域は東西が2㎞程で、南北に比べて非常に長い地域である。社の東方向には入間川や越辺川が合流する地点でもあり、肥沃なデルタ地域を形成する場所でもある。しかし肥沃な地域であるのも関わらず、『新編武蔵風土記稿・中小坂村条』にも記されているように「水田少なく陸田多し、天水場なれど村内に溜井あり、是をも用水の助とす、旱損あり」と、河川等の恩恵は少なく、むしろ干ばつ等の被害が出やすい地域でもあったようだ。
 その地域において、この東端という位置に社が鎮座していることは非常に意味があり、嘗ての旧中小坂村の鎮守様であり、地域住民の方々の生活が困らないように日々見守ることができるこの西向き配置は納得できよう。
        
                     拝 殿
 神明神社 坂戸市中小坂一(中小坂字神明)
 当社は越辺川右岸、中小坂の東端に集落を望むように西南向きに鎮座し、境内は白樫・椚などからなるこんもりとした杜である。
『風土記稿』中小坂村の項には「天照太神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。なお、神鏡には「正徳三癸巳建立」の墨書が見られる。また、大昔は神明様一柱だけであったという口碑がある。
 このようなことから当社は、初め天照大御神一柱を祀っていたが、室町末期から広く庶民信仰として普及した三社託宣により、正徳三年に春日・八幡の二社を相殿に奉斎して三柱となったものと考えられる。『明細帳』では、社号を神明神社と改め、主祭神を天照皇大御神のみとして、ほかの二柱については載せていないが、これは明治維新の影響を受けた結果と推察される。
 明治五年に村社となり、同九年には慈眼寺境内の津島神社、同四〇年には字原の白山社・字中戸の愛宕社・同境内社の浅間社・字大滝の稲荷社を合祀したが、このうち津島神社と白山社はそのまま社殿が残り、祭りも続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
            社を覆うように広がる社叢林(写真左・右)
 この中小坂神明神社の社叢林は、埼玉県の鎮守の森リストにも登録されていて、高木層にシラカシが優占しているだけでなく、亜高木層や低木層に、シラカシの若木や、ツバキ、アオキ、ネズミモチ、ヒイラギ、サカキ、シロダモ等の照葉樹の小高木や低木が、それぞれの層に優占している。草本層にも、ジャノヒゲ、ヤブコウジ、ヤブラン、キヅタなどの照葉樹林の構成種が多い。林の規模が小さいため、シラカシ林構成種のほか、他の落葉樹等も混生しているが、森林の各層に照葉樹が優占したシラカシ林となっている。
 地域の貴重な一つの文化的遺産として、後世に残したいものだ。
 
 社殿左側奥には石祠群が祀られている(写真左)。また拝殿手前で左側には、3基の境内社が並列して祀られていて、一番手前には八坂神社・天神天満宮合祀社(写真右)が祀られている。
 
 八坂神社・天神天満宮合祀社の左隣の境内社    その隣には境内社・大口眞神が鎮座
         詳細不明 
        
                  静かな社の一風景

 冒頭にて両部神道の解説をしたが、これに関連した「こぼれ話」を偶然知るに至ったので、この項を拝読している方々にも共有したいと思う。
 鳥居とは、神社などにおいて「神域」と人間が住む「俗界」を区画する結界というものであり、神域への入口を示すものでもあり、一種の「門」である。
 神社における鳥居にはいくつかの形式があり、笠木のみで島木がなく、笠木に反りがない直線的な「神明鳥居(しんめいとりい)」と、笠木と島木があり、笠木に反りがある「明神鳥居(みょうじんとりい)」とに大別でき、神明鳥居からの派生として「靖国鳥居」が、明神鳥居からは「鹿島鳥居」「「春日鳥居」「八幡鳥居」等とに分派されたという。しかしながら、一つの神社で複数の形状の鳥居が存在する例があることからも祭神によって鳥居の形状が決まるものではなく、鳥居に定められた形状は無い。また寄進者の意向によっては特徴が融合していることもあり、それらの分別は目安でしかないので、あくまで参考知識として知るにとどめた方が良いと思う。
 鳥居の種類にも色々あるが、その中でも「両部鳥居」は一際目を引く外観である。この「両部鳥居」は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある構造の鳥居であるが、名称にある「両部」とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残りともいい、神仏混交の神社に多く建てられたようだ


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    日本歴史地名大系」「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」等

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横沼白髭神社

 横沼白髭神社のご祭神である猿田彦命は、日本神話に登場する神で、『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記されている。
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。ものごとの最初に御出現になり万事最も良い方へ“おみちびき”になる大神で、古事記、日本書紀などにも「国初のみぎり天孫をこの国土に啓行(みちひらき)になられた」と伝えられている。後には厄災から人命や家屋・田畑を守ってくれる神として、水害の多発地域内にて信奉される神となったという。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市横沼346
              
・ご祭神 猿田彦命
              ・
社 格 旧村社
              
・例祭等 例祭 315日・1015 
 戸宮八幡神社から
埼玉県道269号上伊草坂戸線に一旦戻り、1.5㎞程東方向へと進路をとり、「三芳野小前」交差点の先にある「坂戸市消防団三芳野分団第2部」の建物が右手に見える変則的な十字路を右折すると、その先に横沼白髭神社の境内や正面入り口にあたる鳥居が見えてくる。
 
駐車場はない。境内西側には隣接する「横沼集会所」があるようだが、この集会所も境内内部にあり、道路沿いにはポールが立ち、車両は中には入れないため、鳥居近くの路肩に路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                                  
横沼白髭神社正面
 入口に面している道路は狭いが、逆に境内は奥行きもあり比較的広い。正面鳥居を過ぎてから一旦行き止まりとなり、そこから右方向に90度曲がり、そこから北方向に拝殿へと通じる参道となる配置。
 
 鳥居を過ぎて参道を進むと、右並びに祀られ   参道が一旦行き止まりとなるその左手
    ている「
白髭大神」等の石碑。       にある、所謂「絵馬殿」の類か?
        
                 正面の拝殿に通じる鳥居
    この鳥居の右隣には一基石祠があり、そこには「八幡型鳥居」と刻まれている。
 坂戸市横沼地域は東側に越辺川及び入間川が合流する場所でもあり、また『新編武蔵風土記稿』にも「水損多し」との記載がある通り、古くから洪水に悩まされた所である。同時に水害の規模は広く隣接する小沼や紺屋両地域にも及び、現在でも地域の東端にある水田地帯は往時河川が最も乱流したところであるという。
       
                   鳥居の社号額
 荒川中流域の右岸一帯には氷川神社が密集している中に、ここ横沼、下小坂、紺屋には三社白髭神社が鎮座している。通説では、白髭神社の建立については、朝鮮半島からの渡来人との関係性を指摘する説もあるが、民俗学者の柳田国男は『柳田国男全集第8巻』の中の「白髭水」の中で、「白髭様といふ神は、東京でも向島の堤の上に祭って居るように、主として水辺の神でありまして(中略)大水の出はなに、白い毛を長く垂れた神様が、水の上を下って来られる姿を見たとか、又は山から岩を蹴りながら、水路を開いて下れたとか謂って、以前は水のほとりに其祭をして居たらしいのであります…」と述べられて、水が白糸のように流れる姿を「白髭」と表現し、「水の神様」として祀られている。そして、その洪水等の厄災から人命や家屋・田畑を守ってくれる神として、猿田彦命を積極的に勧請して祀ったと推察する。

           参道左側には並んで祀られている境内社が鎮座する。
     合祀社・金比羅社・稲荷社・疱瘡社(写真左)、境内社・八坂社(写真右)。
        
                     拝 殿
 横沼村 白髭社
 村の鎮守なり、神體圓き銅の内に鑄いだしたる像にして、年號等も見えず、古き物には非るべし、此社内に氷川と八幡の二神を祀る、忠榮寺持,末社。稲荷社、牛頭天王社、疱瘡神社、金毘羅社、
 稲荷社 牛頭天王社 二社共に村民持、
                                  新編武蔵風土記稿より引用
 白髭神社 坂戸市横沼三四六(横沼字南方)
 当地は東に越辺川及び入間川が流れ、古くから洪水に悩まされた所である(中略)。毎年襲来する台風に村人は悩まされたが、一面、養分を含んだ土壌が堆積されたため他所より収穫の多い土地となっていた。
 当社は、この水田地帯から西にやや上がったところに鎮座し、創立についてはその史料を欠くため明らかではないが、おそらく五穀豊穣・村中安穏を祈り社を建立したものと思われる。
 主祭神は清寧天皇・猿田彦命で、合祀神は保食命である。『風土記稿』には「神体円き銅の内に鋳いだしたる像にして年号等も見えず」とあるが、現在は内陣にこの懸仏はなく、白髭神像を安置している。
 本殿は一間社流造りで、『明細帳』には「享保二丁酉年十一月再営なる由棟札現存す」とある。また、左右には、氷川社・八幡社があり、氷川社の幣串には「氷川文政八年酉四月再建之隆城代」の銘文がある。
 別当は、神仏分離まで真言宗忠栄寺が務め、境内には「別当 忠栄寺恵秀代」の銘文がある寛政一〇年に建立の石鳥居がある。
 明治五年に村社となり、同四〇年には字北登戸の稲荷社・字北方の八坂社を合祀し、更に大正期には字前原方の稲荷社を合祀している。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
              拝殿手前には「横沼白髭神社年中行事」の案内板も掲示されている。
        
                                       本 殿
 
 社殿右側に祭られている「富士仙元神社」石碑   その右隣には「白髭大神」の石碑あり。
        
               境内北側に祭られている庚申塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「国土交通省中部地方整備局HP」「埼玉の神社」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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戸宮八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市戸宮60
             
・ご祭神 (主)天御中主大神 (相)応仁天皇
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 225日 例祭 101日 秋祭り 1123
 片柳飯盛神社参拝後、一旦国道407号線に合流し、暫く南方向に進路をとる。約1㎞先にある「坂戸ろう学園前」交差点を左折し、埼玉県道269号上伊草坂戸線を東方向に道なりに進む。2㎞程進んで正面にコンビニエンスストアに到着するY字路手前の大きく右カーブする先の十字路を右折し、400m先にある信号のある交差点を左折すると左手に戸宮八幡神社の社叢林、及び社号標柱が見えてくる。
 グーグルマップを確認すると、そこは四差路の交点にあたり、社はその四差路の北側に鎮座している。社の東側には「戸宮東集会所」があるが、集会所沿いにはロープが張ってあり、駐車スペースはあってもそこに停めることができず、道路沿いにある集会所から社入り口の僅かのスペースに路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
戸宮八幡神社遠景
 戸宮地域は、坂戸市の南東部に位置する農業地域である。『風土記稿』によれば、本は「富屋」と書いたが、いつのころか「戸宮」の文字になったという。
 
 南北に参道が通り、その間には社叢林が広がる。  参道を少し進むと石製の鳥居がある。
『日本歴史地名大系』 「戸宮村」の解説
 [現在地名]坂戸市戸宮・栄・千代田五丁目、鶴ヶ島市富士見六丁目、川越市下広谷(しもひろや)

 塚越(つかごし)村の南にあり、南は高麗郡下広谷村(現川越市)。川越秩父道が南東から北西に通る。小田原衆所領役帳に玉縄衆間宮豊前守の所領として「入西郡富屋」二一貫五六三文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡に属した(風土記稿)。田園簿には戸宮村とあり、高五九石余で皆畑、ほかに野銭永三貫八三文。川越藩領で幕末に至る。慶安元年(一六四八)・寛文元年(一六六一)に検地が行われた(風土記稿)。
        
     入口右側には戸宮八幡神社の由緒書きが記されている案内板が設置されている。
        残念なことに長い歳月により、字が薄くなり見えない所もある。
 八幡神社
 当社の祭神は天御中主大神であり、鎮座年代は不詳であるが、往古より一村一社の鎮守として創立され、永承七年(一〇五二年)二月十五日に社殿が再建されたと伝えられ、明治五年村社となった。明治四十三年、大塚野新田に鎮座した八幡神社、御嶽神社を合祀し、現在に至っている。
 またこの地には、昭和五十一年一月二十九日坂戸市の無形民俗文化財に指定された獅子舞が伝えられている。
 詳しい記録はないが、元治阿使用中の道具や古老の口伝えによれば、徳川中期頃から一村融和団結のシンボルとして華麗な装束によって行われたが、最近、時代とともにやや簡素化されたという。しかし獅子舞そのものの演技は、古い伝統をよく守って独特な郷土芸能として保存されている。
 毎年十月一日が例祭、一月一日が元朝祭、二月二十五日が春祭り、十一月二十三日が秋祭りである。
 獅子舞の実演は、毎年十月一日の例祭当日午後二時頃から社前で行われる(以下略)
                                      案内板より引用

        
                  鳥居の左側に設置されている「戸宮の獅子舞」の案内板
 戸宮の獅子舞(坂戸市指定無形民俗文化財)
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に八幡神社のお祭りに演じられたのが始まりと言われています。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に五穀豊穣を祈って八幡神社の例祭に奉納されるようになったと言われています。例祭は以前、十月一日でしたが、現在は十月の第三土曜日になりました。
 獅子舞の演者は、高張・天狗・花笠・笛吹き・仲立・雌獅子・中獅子・大獅子・唄うたいで、演目は「竿がかり」・「新ささら」・「角平」の三曲です。例祭の当日は、集会場で準備を整え、ほら貝の三つの合図で行列を組み、笛、太鼓をならしながら八幡神社に向かいます。この行列を「道中ささら」と呼びます。八幡神社の前で、獅子舞を奉納して、戸宮の地区内をゆっくり舞いながら集会場へともどります。夜、ふたたび集会場の庭で、獅子舞が行われます。
 獅子舞は、笛・唄・ささらに合わせて、太鼓をたたきながら踊ります。舞の内容は、仲立の先導で、大獅子と中獅子が花笠に隠れた雌獅子を探すというもので、神話を題材にしています(以下略)。
                                      案内板より引用
        
        豊かに生い茂っている社叢林の中に社殿は静かに鎮座している。
        自然と一体感となっているこの雰囲気が心地よく感じられる社。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市戸宮六〇(戸宮字屋原)
 当社は、この戸宮の鎮守として、開村と時を同じくして勧請されたと伝えられ、応仁天皇と天御中主大神を祀る
 社殿によると、永承七年二月一五日の再建というが、現存する棟札は、天保一二年・嘉永七年・安政四年の三枚だけで、残念ながら永承のものは失われてしまっている。
 明治五年に村社となり、同四三年には、大字大塚野新田から字八幡裏の村社八幡神社、字御嶽の御嶽神社の二社を合祀した。なお大塚野新田は八戸しかない小さな村で、昭和一五年に陸軍坂戸飛行場用地として、村全域が買収され、住民はことごとく代替地の鶴ケ島村脚折の一天狗地区に移住し、これを機に新しく神社を奉斎している。ちなみに、戦後、坂戸飛行場は廃止され、工業団地となっている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には幣束が納められている。境内には、様々な記念碑が立ち並び、社殿を取り囲むように杉・松・檜の混淆林がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
        社殿右側で、幣殿部近くに立派に聳え立つ大杉(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「境内案内板」等


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