古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

野本日枝大神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本906
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧中妻鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020192,139.4194096,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本利仁神社同将軍塚古墳から埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東行し、「中妻」交差点の次のT字路を左折し北上する。260m程進むと路面は上り坂となり、「無量寿寺」の看板が見える三叉路に達するので、そこは一番右側のルートを進む。左手方向に注意しながら進むとすぐに左折する道幅の狭い道路が見え、その道路横に野本日枝大神社の朱の鳥居が見えてくる。
 左折した先で、社に隣接している「中妻公会堂」があり、そこには駐車できそうな僅かなスペースもあるので、通行車両の邪魔にならない場所に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                              住宅街の中に鎮座している社
 低地の多い東松山市下野本地域でありながら、県道沿いの標高が19m20m程に対して、社周辺は29m程の標高となっている。この中妻地区から以北は一段高い場所となっていて、中妻公会堂に進む道は傾斜のある上り坂となっている。
        
                      拝 殿
     周囲は住宅が立ち並んでいるが、この社周辺はひっそりと静まり返っている。

 日枝大神社 東松山市下野本九〇六(下野本字下川入)
『明細帳』によれば、当社は下野本の小字の一つである中妻の鎮守として寛文二年(一六六二)に創建され、初め「日吉山王権現」と称した。更に、貞亨三年(一六八六)に社殿の再建が行われたという。
 天明元年(一七八一)の棟札には「別当下野本村聖徳寺」や「大願山三十三世法印舜源」などの名が見える。聖徳寺は、『風土記稿』に「元は寺と云べき程にあらざりしを、元禄十一年(一六九八)一寺となり」と記される天台宗の寺院で、『郡村誌』には既に見当たらず、明治初年に廃寺となった模様である。その跡地は、当社から南西に六〇〇メートルほど離れた所にあり、墓地が残されている。また、「大願山」とは、聖徳寺の本寺であった下青鳥村の浄光寺のことで、寺領二三石・末寺三九か寺を有する大寺であった。
 天台宗総本山延暦寺の護法神・守護神として崇められていた日吉山王権現を、同じ宗派の聖徳寺(あるいはその本寺の浄光寺)の僧がこの地に勧請したことは、十分に考えられよう。当社は聖徳寺(あるいは浄光寺)の寺領に文殊堂(当社南側にある堂)と共に祀られていたものであろうか。
 明治十年、諏訪神社・神明神社・天神社の三社が当社に合祀された。当社が合祀の中心に選ばれた理由は、水害に遭いにくい高台に鎮座していたことによるという。
                                  「埼玉の神社」より引用



 山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
 入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていて、日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が唐から帰国し、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
 音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮であり、同時に天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた

 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。
 その後明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃されたという。

           本 殿                拝殿右側に鎮座する境内社
                        諏訪神社・神明神社・天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等  

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下押垂氷川神社

 東松山市下押垂、聞きなれない不思議な地域名だ。この下押垂は「しもおしだり」と読む。この地域は東松山市南部を東西に流れる都幾川東部河川沿いに位置する。東西約2.4㎞に対して南北は広くても地域西側にある「都幾川リバーサイドパーク」付近で、650m程しかなく、東西が極端に長い長方形の形で形成されている。そのことは『新編武蔵風土記稿』にも同様に「東西の経り二十町、南北は纔三四町にすぎず」との記載もある。
 嘗て都幾川は東松山橋の上流と下流で大きく蛇行していたが、河川改修が行なわれ、下押垂地域に流れる現在の河道は直線化されていて、まさに「都幾川と歩んできた地域」なのでであろう。
下押垂氷川神社は「河川の神」として当地住民の方々に厚く信仰され、都幾川の堤防傍に境内はあり、社殿は水塚の上に鎮座しているという。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市下押垂526
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0120368,139.4116512,16z?hl=ja&entry=ttu
 下押垂氷川神社が鎮座する
下押垂地域は、下野本地区の南側に接し、都幾川左岸の低地で構成される一面田園風景が広がる地域である。社は丁度野本利仁神社から直線距離にして1㎞弱程真南に鎮座していて、途中までの経路は野本利仁神社を参照。国道407号線の東側を国道に沿って南北に通じる農道を南下し、「野本さくらの里」付近から進路が南東方向に変わり、その道を都幾川左岸の堤防方向に進むと、右手に下押垂氷川神社が見えてくる。
 社の東側に隣接している「下押垂公会堂」正面入り口手前には適当な駐車スペースもあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                 下押垂氷川神社正面
 都幾川堤防のすぐ外側で、北側に目を転ずれば、一面田園風景が広がる長閑な場所にひっそりと鎮座している。境内参道左側には桜の樹木が、そして社の後背には杉の木々が並んで植えられている。
この社は嘗て、度々襲った都幾川の水難から村の鎮守として1700年代、大宮の氷川神社の分霊を祀った事から始まったと言われている。創建当時は国道407号線の東松山橋あたりにあったが、昭和50年河川改修と共に現在地に移ったという。
 
       河川近郊の社故か、          参道堤防側に設置されている
   参道の周りの雑草が生い茂っている。       「社殿移転新築記念碑」

この石碑によれば、建設省の河川改修工事により、本来字「宮の脇」に鎮座していた下押垂宮を昭和50年2月20日に社殿一切現在地に移ったという。移転した際には上下押垂地域の氏子の方々は新しい社の前で奉迎遷の祭りを施行し、御祭神である素戔嗚尊をお迎えしたという。
       
                              拝 殿
        水塚と云われる洪水の際に避難する水防施設上に鎮座している。

 氷川神社 東松山市下押垂三六四-七(旧下押垂字宮の脇)
 創建以来、「水の神」として厚く信仰されてきた社にふさわしく、当社の境内は都幾川の堤防の側にあり、その社殿は水塚の上に設けられている。元来、社地は、現在よりも二五〇メートルほど上流の字宮の脇(国道四〇七号東松山橋付近。現在は河道)にあったが、建設省による都幾川改修工事に伴う換地の結果、昭和五十年、字金塚にある現在の社地に遷座し、同年四月二十日に氏子を挙げてその遷座祭が斎行された。現在の境内の配置は、字宮の脇の境内の配置をそのまま復元したものであるが、地形の関係上、参道の長さが宮の脇にあったころに比べて三分の一程度になっている点が異なる。
 当社は、大宮(現大宮市)に鎮座し、武蔵国一の宮として信仰の厚い氷川神社の分霊を享保元年(一七一六)に祀ったことに始まるとされ、文化三年(一八〇六)には神祇伯から大明神号を受けている。それを記念して作られた社号額は現在も拝殿内に掛けられているが、その表には「氷川大明神」、裏には「西福寺五十四世義観受之 文化三年四月十六日 神祇伯資延王謹書印之 武州比企郡下押垂村」と彫り込まれており、大明神号の拝受は別当の西福寺により行われている。その後、当社は神仏分離を経て、明治六年に村社となり、同四十年四月十日、字山王塚から無格社日枝神社を合祀し、従来の祭神須佐之男命に加えて大山咋命が併せて祀られるようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用



 下押垂地域の北側面には下野本地域が接して存在しているが、鎌倉時代この地域には藤原利仁流野本氏が本拠地としていた。
 下野本地域にある「野本将軍塚古墳」の北側には無量寿寺が建っているが、嘗て野本氏の館がその地にあり、後代無量寿寺が建てられたという。野本氏の初代である野本左衛門尉基員は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり子孫は執権北条氏に重用されている。
 野本氏は藤原利仁流の系統で、元々京都出身でもあった。藤原基経に仕えていたというが、武蔵国野本に移り住んで「野本氏」を名乗ったという。本編には直接関係ないので、あまり深くは詮索しないが、如何なる経緯でこの野本の地に移り住んだのであろうか。
 その野本一族の一人に「押垂氏」がいる。押垂地域は本拠地の南側に接している地でもあり、また野本氏は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり、その子孫は執権北条氏に重用されているところからも所領地は少なからず増えたのであろう。押垂地域を一族が賜っても少しもおかしくない。武家政権であった鎌倉幕府を顕彰する歴史書である「吾妻鑑」には「押垂氏」に関して以下の記載がある。

吾妻鑑卷十三「建久四年十月十日、野本斎藤左衛門大夫尉基員が子息元服し、将軍家より御鎧以下重宝等を賜る」
卷二十一「建暦三年五月六日、和田の乱に、幕府方の討たれし人々に、おしたりの三郎」
卷二十五「承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に押垂三郎兵衛尉の郎等敵一人を討つ」卷三十「文暦二年六月二十九日、押垂左衛門尉時基」
卷三十一「嘉禎二年四月二十三日、押垂左衛門尉・御使たり。八月四日、若宮大路の新造御所に御移徒の儀あり、押垂三郎左衛門尉晴基・これを役す。同三年六月二十三日、押垂左衛門尉時基」
卷三十二「嘉禎四年二月十七日、将軍頼経入京す、随兵に押垂三郎左衛門尉」
卷三十六「寛元二年八月十六日、的立押垂左衛門尉、射手子息次郎」
卷四十「建長二年三月一日、押垂斎藤左衛門尉が跡」
卷四十二「建長四年四月十四日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉基時。十二月十七日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉時基」
卷五十「弘長元年十一月二十二日、押垂斎藤次郎を小侍番帳に加ふ」
卷五十一「弘長三年二月八日、掃部助範元等は北条政村亭において和歌会を催す」
卷五十二「文永二年五月十日、押垂掃部助・御使たり。十二月十四日、掃部助範元最前に御所に参ず
        
                              拝殿部から見た参道の一風景


『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』では野本押垂氏の系譜を「藤原利仁流、疋田斎藤為頼(越前国惣追捕使)―竹田四郎大夫頼基―基親―野本左衛門基員(住武蔵国)―野本左衛尉時員(従五位下能登守・摂津国守護)―(義兄)野本次郎時基(左衛門尉)―押垂十郎重基(実笠原親景子)、弟三郎景基」と記している。
 
初代野本左衛門基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子の時員を養子とした。時員は『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、野本の隣の押垂に住して押垂を名乗り押垂氏の祖となったという。但し時基は父である基員と同じく「左衛門尉」を称していて、従五位下の官位を賜り、能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している時員に代わって本拠地である野本を守っていたのではなかろうか。
        
                 
下押垂地域の南側で都幾川堤防から見る高坂地域の遠景

 下押垂地域の南側は都幾川右岸である高坂地域であるが、土手から幾多の建築物が見え、「高坂ニュータウン」等の開発が進んでいる地域だ。左岸にひっそりと鎮座している氷川の神様はどのような面持ちでこの開発が進んだ地域を眺めているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吾妻鑑」「
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」「埼玉の神社」
    「
高坂丘陵ねっと」「Wikipedia」等


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羽尾諏訪神社

 滑川町は南北約7.2km、東西は約4.8kmとやや南北に長く、全町域の60%がなだらかな丘陵地から形成されている。町の北端熊谷市との境付近を和田川、町南部を市野川、ほぼ中央を滑川が流れ、この三本の川はほぼ平行に東西方向に流れていて、滑川は町名の由来にもなっている。
 中央に流れる滑川は、町を南北に二分しているが、南部地区はつきのわ駅開業(2002年)と周辺の土地区画整理事業に合わせ東武鉄道が住宅開発を行ったことや、それに伴うショッピングセンターの開業で人口がかなりの伸び率で増加していて、2000-2005年の出生率は埼玉県内一、人口増加率は全国の町村のうち第3位であったという。
 対して北部地区はほとんど手つかずで自然が残されており、田園風景が広がっている。その自然や田園風景(里山)を活かした観光施設(森林公園、谷津の里など)も存在していて、また溜池も北部を中心に非常に多く、関東随一の多さを誇っている。
 滑川を境に北部は農業地帯、南部は住宅と工業地帯が存在する滑川町の中央部で川沿いには町役場等の官公庁施設が立ち並んでいるが、その片隅に羽尾諏訪神社が小規模ながら地域の鎮守様の如く、官舎と肩を並べて鎮座している。
        
           
・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4973
           
・御祭神 建御名方命 八坂刀売命
           
・社 格 旧無各社
           
・例 祭 春祭 326日 己の晩祭 5月上旬の己の晩 例祭 826
                
秋祭 1126日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0654093,139.3594039,18z?hl=ja&entry=ttu
 和泉八宮神社から一旦埼玉県道47号深谷東松山線に戻り、森林公園駅方向に3㎞程南下する。滑川に架かる「新庭橋」手前地点には町役場や総合体育館、図書館等の官舎が川沿いに立ち並んでいるが、川を越えるとすぐ左側に滑川町中央公民館や滑川町コミュニティーセンターが見え、その手前には羽尾諏訪神社が鎮座している。
        
               県道沿いに鎮座する羽尾諏訪神社
 官公庁が近隣に隣接しているせいか、境内は人気はないが、手入れは行き届き、さっぱりしている。
 
     参道沿いに設置された案内板          
朱が基調の木製の両部鳥居

 諏訪神社 滑川町大字羽尾
 祭神   建御名方命 八坂刀売命
 由緒
 当社は往古この地方干ばつの際、信濃国諏訪神社に雨を祈ったところ、その霊験が顕著であったので文亀二壬戌(西暦一五〇二)年七月その分霊を勧請したと縁起書にある。雨乞いの神でもありまた養蚕繁昌の神として多くの信仰を集めた。
 当社に「竜神渡り」の伝説がある。八月二十六日の例祭前夜に信濃の本社よりこの神社に竜神が渡御するので中尾耕地に竜の通った跡が見られたという。
 祭日
 節分祭  二月節分の日    春祭 三月二十六日
 己の晩祭 五月上旬の己の晩  例祭 八月二十六日
 秋祭   十一月二十六日
 平成二十七年三月 吉日 滑川町観光協会・滑川町教育委員会
                                      案内板より引用
        
                参道の先に拝殿が鎮座する
 
  参道途中にある「暗渠排水工事記念碑」   記念碑の右並びには八意思兼神・彦狭知神・
                            手置帆負神の石碑あり。

『新編武蔵風土記稿』には「市ノ川・滑川の水を引て用水とすれど、動もすれば皐損あり」とみえ、また『郡村誌』羽尾村の項に「色赤黒稲梁に適せず水利不便時々旱に苦しむ」との記載があり、古くから水利・干ばつには苦労していたようである。「暗渠排水工事記念碑」には嘗てこの地域に居住していた方々の苦難が短い文章ながら綴られている。

 熊谷市須賀広地域の八幡神社で、1014日の夜に、文化元年(1804)に滑川町羽尾の諏訪神社から伝わったという「ささら獅子舞」が奉納されているという。
 このささらの役者は、仲立・代頭・雌獅子・後頭・花笠・棒使い・唱・笛・獅子世話で構成されているようだが、嘗ては羽尾諏訪神社でもこの「ささら獅子舞」が舞われていたのだろう。
        
                     拝 殿
 諏訪神社 滑川町羽尾九七三(羽尾字市場)
 当地は滑川右岸・市野川流域の低地・台地上に位置し、羽尾の地名は粘土・赤土を示す「はに」の意で当地の地質に由来する。このことは『郡村誌』羽尾村の項に「色赤黒稲梁に適せず水利不便時々旱に苦しむ」と載ることからもうかがえる。
 また、旱のことは『風土記稿』にも「市ノ川・滑川の水を引て用水とすれど、動もすれば皐損あり」とみえ、古くから水利・干ばつには苦労していたようである。
 地内の小林家の口伝によると、文明年間(一四六九-八七) の数年にわたる大干ばつの際、小林家の氏神である諏訪神社に雨乞いの祈願をしたところ霊験あらたかに大雨が降り、以来村人の崇敬を得るようになった。文亀二年(一五〇二)七月に村人の強い願望により信州諏訪大社から分霊を勧請したのが当社の創祀で、鎮座祭は金剛院声俊法師によって執り行われたという。
 天和元年(一六八一)の棟札には「奉再建諏訪大明神一宇」村内惣氏子安全」「金剛院祐円謹白」とみえ、『風土記稿』には「金剛院持」と載ることから、創建当時から一貫して金剛院が別当であったことが知られる。
 明治初年の神仏分離令により、金剛院の管理下から離れた当社は、大正二年に村内の琴平社を、同四年には愛宕御獄社を合祀している。なお、現在の社殿は大正三年に再建されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿左側手前にある銀杏の大木(写真左・右)
 
       拝殿に掲げてある扁額               本 殿

 ところで滑川に纏わるこんな昔話がある。松山城のお姫様が、いいなづけの鉢形城の殿様が来るというので、滑川の水鏡に自分の姿を映して髪をすいていた時、大切な櫛を川に落としてしまった。川の中をいくら探してもみつからなかったので、「櫛がみつからないうちは、このなめがわの水は澄んではならない。」といって怒った。それ以来、滑川は澄まなくなったという。滑川には、こんな昔話が伝わっていて、不思議なロマンを与えてくれる。
 
              社の北側を流れる滑川(写真左・右)。
         昔話がふと頭によぎってしまい、感慨深く暫く眺めていた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「滑川町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「滑川ふるさと散歩道」等

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和泉八宮神社

 滑川町北西部北端と同時に北武蔵丘陵の北端にも位置する和泉地域、この地域の歴史は古く、今から七千年ほど前の縄文時代早期には、既にこの地域の船川遺跡からは土器の欠片等によって人間の生活していた痕跡が認められる。その後、同じ船川遺跡では弥生・古墳の両時代も引き続き人々がくらした住居跡が発掘されている
 和泉地域が文献に最初に見えるのは、鎌倉幕府が編んだ「吾妻鏡」という歴史書の中の建久4年(1193210日の記述である。そこには鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝が嘗て世話をしてくれた毛呂季綱へ褒美として「武蔵国泉勝田」の土地を与えたことが記してある。泉は今の和泉のことで、勝田のことと考えられる。このことと直接関係があるか不明であるが、和泉には三門という地名があり、そこには中世頃と思われる館跡が残っている
 この三門舘跡と田んぼを挟んだ向い側に、北から南の滑川沖積地へ伸びるなだらかな丘陵があり、その先端近くに泉福寺がある。この寺院には「阿弥陀如来像」と、その脇侍の「観音・勢至の立像」(いわゆる阿弥陀三尊)があり、阿弥陀は国指定重要文化財で、観音・勢至は県指定有形文化財となっている。阿弥陀の胎内(ここでは像の腹部の中)には132文字の墨書がある。それによると鎌倉時代の中ごろの建長6年(1254)に阿弥陀三尊を修復したことがわかる。亡き母の霊たましいが成仏して極楽へ行けるように、また、自らの現世の無事と来世の安楽を願って修理されたのだという
このように古い時代からのさまざまな文化財が和泉には散在している。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡滑川町和泉1573
             
・ご祭神 素盞嗚尊 大己貴命 火産霊命 倉稲魂命 大山祇命
                  
稲田姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 419日 新嘗祭 1127日 大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0884183,139.3259285,17z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を森林公園方向に南下する。この県道沿い、またはその近辺には三ヶ尻八幡神社田中神社飯玉神社高根神社が鎮座していて、古くからこの道路が存在し、人々の日々の生活の為に、同時に経済活動の為に活用されていたことを伺わせる。
 高根神社の鳥居を遙か右手に見ながら更に2㎞程南下すると、「泉福寺入口」の立看板が信号のある変則的な十字路手前に見えるので、そこを右折する。長閑な田畑風景が続く道路を1.7㎞程進むと「泉福寺」と表記された木製の看板板があるT字路があり、その先の路地を右折し、上り坂を道なりにのぼりつめたところに八宮神社の鳥居が見えてくる。
 
     鳥居は道路沿い右側にあり、         森林の中に目立つ朱色の鳥居
      高台上に設置されている。

鳥居の社号額には「八宮大乃神」と記されている。 鳥居の先 真直ぐ参道が深い森林の間を通り
                           その先には広大な境内が広がる。
        
                                   和泉八宮神社境内
 滑川村史によると八宮神社は「勧請年期未詳寛永二年(一六二五)三月鎮守社とす。また、明治四年三月村社の格に列する。」とある。隣接する菅田地区は以前一つの村で鎮守として厳島神社を祭っていたが、戸数が少ないため、大正年間に八宮神社を鎮守とするようになったといわれる。
        
               拝殿手前に設置されている案内板
 八宮神社   滑川町大字和泉
 祭神 
 素盞嗚尊 大己貴命 
火産霊命 倉稲魂命 大山祇命 稲田姫命
 由緒 
 当社は素盞嗚尊の広徳を仰ぎ奉りて、里民此の地に祭神として奉祀したと云う。
創立年代は不詳であるが、社地を含む小字の地名を八垣と云うのは命の詠歌の中の「八重垣」より選んだものと伝承され、当社の古社たるを知ることができる。神社前方には中世の城址や、建久二年に開山の泉福寺が在って往古より早く開けた地域と推察される。
 寛永二(西暦一六二五)年に村の鎮守となり、明治四年三月、村社の格に列した。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
 八宮神社 滑川町和泉一五七三(和泉字八垣)
 和泉の泉福寺は、国指定重要文化財の木彫の阿弥陀如来座像があることで知られている.
 当社は、この泉福寺の北東の丘の上に鎮座しており、境内はこんもりとした杜に囲まれている。鎮座地の字を八垣というが、それは祭神である素戔嗚尊の神詠「八雲起つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」にちなんだものであるという。
 当社の由緒について『比企郡神社誌』では「寛永二年(一六二五)三月鎮守社とす。元禄二年(一六八九)には氏子五十六戸とあり、明治二年の古書に依ると『一、社中神主寺山啓位階無之真言宗当村円福寺当社別当致し来候処王政復古神祇興隆の御布令ニ恭順当住弘洲儀明治二己巳年十二月中於神祇官復飾改名御開済』とあり。明治四年三月村社書上済」と記している。この出典となった文書の原本は未見であるが、氏子の某家にあるという。『風土記稿』和泉村の項では「村の鎮守なり」と記されている神社は見えず、「八幡社泉福寺持」とあるのがこの八宮神社のことと思われるため、『比企郡神社誌』に載っているこの文書が当社についての最も詳しい記録であろう。
なお、文中の円福寺は、神仏分離後廃寺になっているが、『風土記稿』の記事から泉福寺と同じ真言宗で、愛宕山地蔵院と号し、本尊は地蔵であったことなどがわかる。なお、別当が泉福寺から円福寺に変わった時期や事情はわからない。
                                  「埼玉の神社」より引用

 案内板にも記載されているが、この和泉八宮神社が鎮座する和泉地域の小字は「八垣(やえがき)」といい、日本最古の歴史書である古事記にその詠歌が出て来る。須佐之男命が妻の櫛名田比売と出雲の国を歩き、宮殿の敷地を探し求め、須賀という場所に来た時、 「わしの心はたいそう清しい」と感慨をもらし、建てることを決めたその時、そこから立ち上る雲をみて「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」と詠んだものといわている。
 
 社殿左側に並んで鎮座する境内社(写真左)、その並びには石祠等も祀られている(同右)。
 詳細は不明だが、明治40年字曲本の稲荷愛宕神社、字陣場の稲荷神社二社、字船川の権両神社、字後谷の八雲神社、字後谷の山神社、字向の稲荷神社、字向船川の稲荷神社、字畑中の熊野神社、字後谷の稲荷神社の10社を、大正3年には菅田の村社厳島神社を合祀しているようだ。
 
一番奥の社には男性器を象形した石器が祀られている。「金精様」の類であろう。(写真左・右)


『新編武蔵風土記稿 比企郡勝田村条』には以下の記載がある。
「按ずるに【東鑑】建久四年二月十日の篠に、毛呂太郎季網勤賞として、武蔵国泉勝田の地を賜ふよし見えたり、此勝田と云は、当地のことにて、泉は隣村和泉村なるべし、されば古くより開けし村なること知らる」
 建久四年(1190)毛呂太郎季網に武蔵国和泉・勝田を与えられていて、比企郡和泉村(滑川町)及び、その隣村の勝田村(嵐山町)を比定する説があるが、考えてみるとこの2か所は本貫地である武蔵国入間郡毛呂郷からはかなり遠方にある。
 吾妻鏡は諸本が刊行されているが、最も普及されているのが「北条本」である。「北条本」とは小田原北条氏が所蔵していた本であるために、こう呼ばれているそうだ。一方吾妻鏡の中で最も正確だと評価されているのが吉川男爵家所蔵の「吉川本」と言われており、その「吉川本」と「北条本」の間に不一致な所があり、その中には毛呂氏賜る「武蔵国泉勝田」についてもいえる。
 この「吉川本」には建久4210日の条に「武蔵国泉沙田」とあり。この地名は、毛呂本郷字和泉、字弥田(いよた)と比定し、この字弥田は隣村の岩井村字伊与田に亘る古の村名でもある。沙田は弥田の書誤りの可能性もある。本貫地からも隣接していて説得力もある。
 また正治元年十月二十八日条の「諸(毛呂)二郎季綱」と、翌二年二月二十六日条の「泉次郎季綱」は同人であるならば、この「諸(毛呂)」と「泉」は季綱系列の同族となり、関連性も十分にあろう。
        
                            拝殿より広大な境内を望む。

「和泉」苗字関連の氏族では以下の氏族があげられる。
〇比企郡の野本氏族和泉氏
・尊卑分脈 「野本乃登守時員―二郎行時―乃登守時光―乃登守貞光―四郎左衛門尉朝行」
常陸国鹿島神宮文書 「正中二年六月六日、野本四郎左衛門尉貞光及び和泉三郎左衛門尉顕助は、常陸国大枝郷給主鹿島大禰宜能親と相論す」
〇竹沢氏族泉氏
 比企郡和泉村(滑川町)より起り、竹沢郷木部村字宮ノ入集落(小川町)の地頭職という。
・鎌倉円覚寺文書 「応安七年十月十四日、比企郡竹沢郷・同郷宮入村等を竹沢二郎太郎・同修理亮入道・泉蔵人太郎等押領す」
〇羽尾七騎由来泉水氏
比企郡羽尾村(滑川町)の羽尾七騎由来書(小林文書)「文和二年より小田原出勤、御地頭所様上田能登守銅具、名主泉水路之助。波根尾七騎百姓と云、泉水淡路守。寛文四年古来居屋敷覚、泉水淡路子兵後、断絶」
羽尾七騎来歴書(小沢文書)「御地頭上田能登守朝直入道案獨斎宗調様、泉水淡路」

 上記「和泉」「泉」「泉水」苗字と表記方法は違うが、どちらにしても「和泉」地名由来であることには間違いない。上記氏族には全く関連性のない場当たり的に移住・土着した集団なのか、それとも何かしらの関係のある集団なのかは今後の課題ともなろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吾妻鑑」「尊卑分脈」「常陸国鹿島神宮文書」「鎌倉円覚寺文書」  
    「羽尾七騎由来書(小林文書)」「羽尾七騎来歴書(小沢文書)」「滑川ふるさと散歩道」
    「Wikipedia」等

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三品白髭神社

 日本古来の信仰である「神道」は、開祖や教典というものがなく、日本神話の物語である「古事記」・「日本書紀」を基本とした「自然信仰」となっている。これは「自然のものには全てに神が宿る」という「八百万の神(やおろずのかみ)」の教えが基本となっていて、この中で特に神聖視される「岩」が磐座である。
 この「磐座」の語源は、「神々が占める座」という意味から起こったものと考えられ、神を「依代」とした磐座に降臨させ、その神威を持って祭祀を行っていた。
 時代とともに、常に神がいるとされる神殿の建設が進むにつれ、祭祀自体は神社で行うようになっていたが、この磐座を元に建設された神社も多く存在し、境内に注連縄が飾られた霊石として残っている場合もある。
 現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町三品219
             ・ご祭神 清寧天皇 猿田彦命 天児屋根命 保食神 大山祇命
                  大日孁貴命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 220日 例祭 1020日 新嘗祭 1127
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0981573,139.1741538,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町三品地域は秋山地域の西側にあり、地域の西側には南北に秩父往還道が通り、南側に東秩父村大内地域と接している山に囲まれた山間地域である。
 途中までの経路は秋山羽黒神社と同じく、鉢形城公園から埼玉県道294号坂本寄居線を東秩父村方向に2㎞程西行し、「釜伏山参道」の標柱付近のY字路を右折すると秋山羽黒神社方向に行くが、そのまま県道沿いに進む。その後350m程進んだ先のT字路を左折し道幅の狭い長閑な農道を進んでいくと、「三品公会堂」の看板が見えるのでそこを右折すると三品白髭神社への参道が右手に見えてくる。
        
                  三品白髭神社鳥居
    三品白髭神社及び三品公会堂は鳥居左側に通る道路を右側に回り込む先にある。
        
                                    三品白髭神社正面
『大里郡神社誌』によれば、「古は森山と称し、境内は松檜等の森林なりしと云ふ、今尚大森山と唱へり、現境内千三百十七坪」「白髭大明神と称せしが、明治十年より白髭神社と改称す」と記されている。
        
               石段を登ると拝殿が見えてくる。
              『新編武蔵風土記稿 男衾郡三品村条』
           「白髭社 村の鎮守なり、本地十一面観音を安ず、村内修験常徳院持、」
       
                                         拝 殿
『大里郡神社誌  神異神話神助』
「往古神體木造の衣冠の彩色に井桁及び瓦の紋形ありしと云う、爾来氏子は居宅の屋根に瓦を用いず、又井戸等を設くることを厭ふ、神禁を犯すときは神罰ありとなし、今尚懼れ慎みつゝあり、又氏子村落には三本足の雉子、巴形の芝草、三本葉の松等を生ずと云う」     
 
  社殿正面には「正一位白鬚大明神」の扁額          本 殿

 三品白髭神社の傍らには畠山重忠にまつわる、周囲15m、高さ5m程の巨大な岩石があり、「畠山重忠乗り上げの岩」と伝わる。
        
          奥が白髭神社の社殿、手前の大岩上に鎮座する高山石尊神社
        
           巨石群の基壇上に鎮座する境内社・高山石尊神社
『大里郡神社誌』には「高山神社は日本武尊を祀り、明治四十五年二月二十四日同所字高山より移転す」と記載がある。

 今回事前の予備知識もなしに秋山羽黒神社近隣の社という事で、住所を登録して訪問したことも悪かったが、予想していた以上の巨石と巨木に圧倒された。紙垂等はなかったが、近郊にある磐座(いわくら)と比べても遜色ないか、それ以上の迫力がそこには存在していて、思わず手を合わせてしまう位の、所謂「神聖さ」というべき何かが周辺一帯に漂っていた。
 勿論「石」は所詮「石」でしかない。無機質な物体である事には違いないが、昔の人だけでなく、今現在生を受けている我々日本人ならば、こういう巨大な自然物に神聖なものを感じて、崇めたくなるのではなかろうか。実際そういうものを目の当たりにすると何となく理解できてしまう。
 寄居町にこんな立派な磐座があるとは、筆者にとって、予想外の驚きであり、これだからこそ神社を通じての歴史散策はやめられないのであろう。
       
巨石の間から聳えたつ大杉のご神木(写真左・右)。こちらには紙垂がしっかりと巻かれている。
    よく見ると巨石の重さに負けない位の根の力で、石を払いのけようととしている。
           何というパワー、何という生命力であろうか。
 
 境内巨石群の右側手前には折原郷土カルタに表記されている「し 重忠が 残す三品の ひずめ石」の立看板があり(写真左)、その蹄跡を探したのだが、一向に分からず、高山石尊神社の後ろ側にある巨石のなだらかな面にそれらしき跡があった(同右)。但し筆者の勝手な解釈であることはお断りしておく。
 大体馬上でこのような高い場所に登ることすら難しいのに、そこで練習すること自体おかしなことである。この逸話自体がどの程度信憑性があるかも謎であり、「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」にも畠山重忠関連の記載がないのも事実である。
 因みに「新編武蔵風土記稿」にはこの巨石は一切記載がされていない。これほどの規模で目立つ存在でありながら一言も記載されていないのは不思議である。

拝殿右側で石に挟まれた空間に鎮座する境内社    社殿の左側近隣に祀られている石祠
      稲荷神社であろうか。               詳細不明。
     
           境内に設置された「折原郷土カルタ」の立看板(写真左・右)

 立看板に書かれている「太鼓が祓う」とは、この地区で古くから伝承されている「三品石尊太鼓」である。「三品石尊太鼓」は、 三品地区にある「高山石尊神社」のお祭りの.呼び太鼓として昔から伝承されてきたものであり、 早いテンポで力強く. 太鼓を打ち込むのが特徴であるという。現在鉢形城公園で開催されている「寄居北條まつり」の際も市街地で太鼓の演奏を行っている。同時に獅子舞も伝承されているようである.
        
                           三品公会堂付近から見る社の風景
 
 社の東側を右回りに降りて路地で一般道と合流したところには、八坂神社と馬頭尊等の石仏群が並んで祀られている。
        
         道路の脇に並んで祀られている八坂神社と馬頭尊等の石仏群

 この八坂神社と馬頭尊等の石仏群がある場所は、位置的には社に対して南東方向にあるのだが、そこから直接石段等を設置して一本の参道を造らず、わざわざ回り込むように参道を造ったのには何か意図とすることがあったのであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「寄居町HP」「現地立看板」等

 

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