古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

荒川日野弟富士浅間神社

 荒川日野弟富士浅間神社が鎮座する「日野」という地域名は、『秩父誌』によれば、郡中で最も先に朝日が昇ることに由来するという。開村の年代はハッキリと分かっていないが、当社創建の伝説や、既に鎌倉時代の文書にはその名が見えることから、かなり古いと思われる。
 なお、日野は、古くから雨や霧の多い地域として知られていたらしく、『新編武蔵風土記稿 日野村』にも「土地南に浦山及蟬笹(せみざさ)など云る嶮き山々聳へたれば、霧も深く又雨も多し、土人會て上野田野の私雨(わたくしあめ)と称せり、晴天にも俄に雨降り、他村の降らぬにも此村のみ降りしこと多し」と記されている。
        
            
・所在地 埼玉県秩父市荒川日野9723
            
・ご祭神 木花佐久夜姫命
            
・社 格 旧日野村産土神・旧村社
            
・例祭等 春季大祭 413日 秋季大祭 1123
 荒川上田野若御子神社から一旦北上して国道140号線に戻り、三峰方面に西行すること1.7㎞程、安谷川に架かる安谷橋を渡ったすぐ先にある「荒川中学校入口」交差点を左折する。道幅の狭い道路を南方向に進み、秩父鉄道の踏切を越えたすぐ先の路地を右折すると、正面に荒川日野弟富士浅間神社の鳥居が見えてくる。
        
                荒川日野弟浅間神社正面
『日本歴史地形大系』「日野村」の解説
荒川の上流右岸に位置し、西は谷津(やつ)川を境に白久(しろく)村、東は安谷(あんや)川を境に上田野村。南に熊倉山・天目山が連なる。秩父甲州往還が荒川沿いに横断する。地名の初出は元亨四年(一三二四)一〇月日の秩父社造営料木注文案(秩父神社文書)に「日野村国光名分」とみえ、天井裏板一〇枚(各長さ一丈二尺・幅一尺一寸・厚さ一寸二分)・決込板一五枚(各長さ六尺・幅一尺二寸・厚さ二寸)などが秩父社(現秩父市)の造営料木として当村国光名に課せられていた。近世初めは幕府領、田園簿では高二四七石余・此永四九貫四〇五文とある。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同年の年貢割付状(新井家文書)によると高二一三石余、反別は田一町九反余・畑七二町三反余・屋敷三町余。
        
             入口付近に設置されている社の由来書
 浅間神社
 浅間神社は、筑紫の国造の末えい石井大乗睦則という人が、富士山へ三十三度お参りをし、昌泰三年(九〇〇)六月十四日、その御分身をいただき、氏神として私有地の日野村座成山という山にまつったのが最初といわれています。
 その後、石井道次という人の代になり天徳四年(九六〇)六月のある夜、神様よりおつげがありました。「この山は、私の住むべき山ではないから他の山へ移すように」しかし、どこへ移してよいのかわからないので、その山を教えていただきたいとたずねると、「しかるべき山に雪を降らせる」といわれたそうです。
 十四日の朝、付近の人が騒いでいるので、何だろうかとあたりを見まわすと、頂上が雪で白くなった山がありました。これは神のおつげのあった山にちがいないとさっそく富士山に事の次第を報告しました。そして、富士山の神さまより弟の冠称をいただき、雪の降った山を弟富士山とよび、その頂上へ神社を移し、日野邑の神様としてまつるようになりました。
 浅間神社の祭神は、木花佐久夜姫命、他で、ここに平将門、藤原秀郷、畠山重忠らが参拝したといわれ、熊倉城にこもった長尾意玄入道の祈願所であったともいわれます。
 又、この山の北側に虚空蔵岩と呼ばれる大きな岩がありますが、神様がこの岩に縄をかけて頂上より現在の地まで引きおろしたという伝説が残っています。
                                      由来書より引用

 この由来書では、「筑紫の国造」の末裔である「石井」氏が浅間神社の創始に関わっているという。「筑紫の国造」「石井」、この二つのキーワードに合致する人物といえば、浅学な筆者には「筑紫君磐井」以外うかばない。
 記紀によると古墳時代後期に相当する6世紀前半に北部九州に「筑紫 磐井」という豪族が登場する。この「磐井」は「いわい」と読み、古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏(ウジ、ウヂ、氏族)に与えられた称号であるカバネは「君」という。
『日本書紀』では「磐井」、『古事記』では「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と表記され、『日本書紀』では磐井の官職を「筑紫国造」とも記している。
「日本書紀」では継体天皇21年(527)に、新羅からの賄賂を受けた磐井は、大和王権が朝鮮半島での失地奪回に差し向けた派兵を遮った。両者の戦闘は1年余りに及んだが、大和側の勝利に終わり、磐井は斬られたという。世にいう「磐井の乱」である。
 この「磐井」は、古事記では「石井」とも記されていて、どちらも同じ音であり、意味であろう。考えてみたら「磐」は「石の大きいもの」をいうが、「石」との間には明瞭な大きさの基準はない。加えて筑紫君磐井の墳墓とされる北部九州では最大、かつ当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の「岩戸山古墳」には有名な「石人・石馬」を含む多くの石製品が出土していて、謂わば「磐(石)」を象徴する『君』なのであったのだろう。
 荒川日野弟浅間神社に関しては、『秩父志』には、「日野村浅間社、祭主は石井氏祭り」と見え、「イワイ」と註しているが、現存は「イシイ」氏を称している。
         
                                   参道の様子。   
 嘗ての北九州の王者の末裔が、この縁もなさそうな遠い武蔵国にいること自体、筆者の妄想の類なのかもしれない。但し、考えてみると、この武蔵国には「宗像神社」や「壱岐天手長男神社」等数多くの九州本家の社が鎮座していることも事実である。
 ともかく筆者としては、この由来書を読んでいるうちに湧き上がってきた妄想に似た考察を、ふと記したくなった次第で、何の根拠も一次資料による証拠もない。
        
                    拝 殿
 
 拝殿手前の参道左側には移築紀記念がある。      拝殿上部の色鮮やかな彫刻

 浅間神社移築紀記念
 當社は傳聞の処筑後國造の末裔石井大乗睦則冨士に登拜すること三十三度御分霊の允許を受け石井家氏神として私有山林座成の岩上に奉斎時維昌泰三庚申年六月十四日創祀という其后石井道次天徳四年六月十四日霊夢の顕示を受く即ち富士山の嶺に時ならぬ降雪あり人々其奇観に驚き冨士本山に事の次第を報告す弟の冠稱を與えられ爾来弟冨士山と稱す邑人相議り降雪を境に社地に奉納日野邑産土神として社宇建立御遷座祭日を六月十四日と定め聖域女人登山を禁じたり明德三年四月弟富士山麓より風穴下原を経て村男迠縦百八十間杉並木を以って奥宮に通ずる参道を定む寛文年中下原に社殿建立女人参籠所となり祭日を七月二十一日に改め下浅間と稱す明治二年下日野二十四人持雑種地を奉納神楽殿を建立同五年入間県の許可により日野村々社となり大正四年御大典記念事業として本殿拜殿社務所新築境内取擴め大六天社諏訪社合祀同五年二月神饌幣帛供進神社の指定を受く大正十二年奥宮再建昭和九年本拜殿屋根改膳並に社務所新築同二十二年弟富士山嶺全域社有に復元同二十四年植樹祭同四十一年二月体育館建設用地として村當局の要請に依り神域の尊厳保持と時代の変遷に想を練り氏子総意に基く現地を選定移築御遷座同四十三年神域整備祭器庫建設行て明治百年を記念し神社由緒来歴の梗概を刻し後代に傳う(以下略)
                                  移築紀記念碑文より引用

        
        境内社 左から十二社神社・稲荷大神・春日大神・天満天神宮
              右側に見えるのも境内社・八坂社
 
              社務所               社務所の東側にある神楽殿
        
                 鳥居の右側に設置されている浅間神社神楽の案内板

 秩父市指定無形民俗文化財
 浅間神社神楽
 公開日   二月節分・四月第二日曜日・十一月二十三日
 指定年月日 昭和四十五年十一月三日
 浅間神社の昔は、日野の産土神として弟富士山頂に祀られたのが始まりだといわれる。
 寛文年間(十七世紀半ば)には荒川中学校体育館付近に社殿を建立、昭和四十一年には弟富士山麓の現在地に遷座された。
 浅間神社神楽が始められた時期は定かではないが、神社の神主を代々務めた石井氏によって、神子神楽が奏されてきたといわれる。
 その後、安政年間(十九世紀半ば)、上州新町(群馬県高崎市新町)の車大工徳丸により、それまでと異なる神楽が伝授されたと伝わる。こうして始まったのが現在の神楽で、白久神明社神楽、大滝滝ノ沢神楽、三峯神社神楽と同系統の神楽である。
 神楽は全部で十八座、座外として「狐狩り」、「蚕神」の二座がある。
 同系統の神楽と異なる特徴は、最初と最後に素面の神官が舞う「奉幣」と、二月三日節分祭の時だけ行なう拝殿での「神前神楽」である。(以下略)

                                      案内板より引用
 祭事に関して、節分祭(310日)・例大祭(413日)・収穫感謝祭(1123日)には、氏子の間に伝承されている神楽が付け祭りとした奉奏される。もともと当社の神楽は旧社家の石井家によって行われる神子神楽であったが、安政年間に上州新町の神楽師徳丸によって徳丸神楽が伝えられたことから、氏子の娯楽を兼ねた芸能として、盛んになったという。曲目は全部で一八座あり、歌舞伎の技法を採り入れた大きい動作を特徴とし、かつての神子神楽の名残で、神職による奉幣が行われる。
 因みに、例大祭の祭日は、当所は弟富士山に降雪のあった614日であったが、その後、寛文年間以降721日、更に時代が下って413日となり、現在に至っている。
        
           社のすぐ北側には秩父鉄道の線路が近くに見える。
            周辺は至って長閑な里山風景が広がっている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内掲示板・案内板」等

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久那葛城神社

 秩父市・久那地域は、荒川を挟んだ中心市街地の南西に位置し、埼玉県道72号秩父荒川線沿道を中心に集落や農地が広がり、荒川と丘陵部の森林に囲まれている地域である。地域の南西から北東にかけて伸びる長尾根丘陵等約5割が森林で占めていて、農地などを含めると約7割が自然的な土地利用で占められていて、この地域の全域が県立武甲自然公園に属し、長尾根丘陵には都市公園として秩父ミューズパークが整備されている。
 地域内には、秩父札所24番法泉寺と25番久昌寺をはじめ、各地区には神社や寺が分布し、久那諏訪神社のジャランポン祭りなどユニークな祭りや久那葛城神社の獅子舞などの先人が残してくれた貴重な文化遺産が引き継がれている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市久那2274
              
・ご祭神 一言主命
              
・社 格 旧中久那鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 418日(久那の獅子舞)
 国道140号線を南西方向に進み、秩父市街地を通り過ぎ、上・下影森地域が微妙に入り組んでいる「秩父県土整備事務所前」交差点を右折する。北西方向に進む埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を2㎞程進行し、「ミューズパーク入口」交差点を直進、埼玉県道72号秩父荒川線に合流し、暫く道なりに進む。進行方向左手には秩父のシンボルと言える武甲山が、いつも秩父に向かう際に見る姿とは違う山容を仰ぎ見るにつれ、不思議な感動に浸りながら1.6㎞程進むと、進行方向右手には長尾根丘陵の切り立つ崖面となる。そして、右カーブにかかる手前にある路地を右斜め方向に進むと、その正面に久那葛城神社の鳥居が見えてくる。
        
                              
久那葛城神社の両部鳥居
 社の案内板によると、葛城の社名については口碑に「当社の祭神である一言主命が大和国の葛城山に現人の姿で現れ、雄略天皇と対話したという故事に因んで付けられたものである」という。この話に出てくる葛城山麓には古社の一言主神社があり、修験の本山である吉野の金峰山寺を開いた役小角が修業した場所であり、秩父郡においても役小角に関する伝説が多く伝えられていることから、当社の創建には修験が関わっていたものと思われる。
        
                    拝 殿
        
                           境内に設置されている案内板
 葛城神社御由緒 秩父市久那二二七四
 ◇秩父修験が祀った一言主命
 秩父盆地の南西端に位置する当地は、古くから秩父大宮郷(市街地)と三峰・小鹿野方面とを結ぶ交通の要所であった。当社の社殿は天狗山を背に、荒川の清流を挟んで武甲山と向かい合うように建てられており、境内の近くには鬼が淵や乳繰山などの奇勝がある。
 当社は江戸中期・明和五年(一七六八)現在地に奉斎され、明治五年(一八七二)に地の八幡神社と諏訪神社を合祀して村社となりました。
 関東地方において葛城神社が祀られることは極めて珍しい為、その勧請について興味深いが、残念ながら当社の創祀を伝える記録や伝承は失われている。但し、葛城の社名については口碑に「当社の祭神である一言主命が大和国の葛城山に現人の姿で現れ、雄略天皇と対話したという故事に因んで付けられたものである」という。この話に出てくる葛城山麓には古社の一言主神社があり、修験の本山である吉野の金峰山寺を開いた役小角が修業した場所であり、秩父郡においても役小角に関する伝説が多く伝えられていることから、当社の創建には修験が関わっていたものと思われる。
 当社の大祭には古くから獅子舞が氏子により奉納され、現在は保存会により隔年に行われている。舞は静かで優雅なことから『座敷獅子』または『御殿ザサラ』と呼ばれ「鶯が梅の小枝に昼寝して笛や太鼓に目をさましくる」「野辺に咲く花に迷うて飛ぶ蝶も社の庭にやすむる」など風情ある歌が歌われる。
 ◇御祭神 ・一言主命
 ◇御祭日 ・大祭(四月十八日)
                                      案内板より引用
 
    拝殿の右側に祀られている石碑                合祀社二基  稲荷社・八坂社
『日本歴史地名大系』による「久那(くな)」の地域名由来として、「くな土」(薄地の意)に由来するとか(増補秩父風土記)、地内に小名が九つあったので九名といったから(秩父志)などと伝えていて、「埼玉の神社」によると、村の堺や分かれ道に祀られ、悪疫を防ぐ「岐神(くなど)神」と関連しているのではないかと記されている。
 また、『郡内誌』では、当社を「山神社」と記しているが、これは現在も社殿奥に聳える天狗山上にある奥宮が氏子から「山の神様」と呼ばれているところより、山上に奉斎されていた当時の通称を記したものであるという。
        
                 社殿から参道を望む。
    秩父の信仰の中心にある武甲山と向かい合うように建てられているのが分かる。

 久那地域では、4月の例大祭に「久那の獅子舞」が葛城神社に奉納されている。この獅子舞は、市の指定無形民俗文化財の指定を受けている。
・久那の獅子舞  市指定無形民俗文化財 昭和3228日指定
・所在地  秩父市久那2276番地2(葛城神社)
・保持団体 久那獅子舞保存会
「七ッ子が今年初めてささらする、よくはなけれどほめてくだされ。」これは、久那の葛城神社で行われる獅子舞の歌詞である。
 この獅子舞は、往時駿府(静岡市)から伝えられたという。岡崎という演目や「岡崎ひーひゃら」「駿府の城で殿様は」と唄われることからも想像される。
※公開日:4月第3
日曜日。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
    「境内案内板」等

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栄鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市栄2167
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧大曾村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭(大杉囃子) 415
 麦倉八坂神社から利根川に沿って走る埼玉県道368号飯積向古河線を程東行する。進行方向右手には利根川の土手が延々と続き、対して左手は民家が点々と見える以外は長閑な田畑風景が広がる里風景を眺めながら、1.2㎞程行った先の十字路を左折し、北上する。暫く進むと進行方向右手前方に、田畑風景の中にポツンとこんもりとした栄鷲神社の社叢林が見えてくる。
 正面鳥居の向かい側に専用駐車スペースあり。
        
                  
栄鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「大曾村(おおぞむら)」の解説
 利根川左岸に位置し、東は前谷村と飯積村の飛地高野新田、南は利根川を隔てて弥兵衛村(現大利根町)。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に、当日入洛した将軍源頼朝の随兵としてみえる大曾四郎を当地出身の武士とする説(風土記稿)がある。田園簿では水損場と記され、田高七五石余・畑高六二石余であるが、明和九年(一七七二)七八石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
        
             社は標高12m程の低地上に鎮座している。
      水害を避けるためなのだろうかか、小高い盛り土の上に建てられている。
 加須市栄地域は、明治98月に嘗ての前谷村と大曽村が合併したときに定められた名称であり、現在の「栄東」は旧前谷村、「栄西」が旧大曽村にあたり、旧大曾村鎮守であった栄鷲神社は別名栄西鷲神社とも称していて、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。
        
         鳥居の右側に設置されている「渡良瀨川重助裏護岸工之図」
 加須市指定文化財 渡良瀨川重助裏護岸工之図
 種番号 歴史資料第四号
 指定年月日 昭和五十六年三月九日
 管理者 栄西・鷲神社
 縦九一・三センチ、横一三六・五センチ。露月樓穣窓の筆になる絵馬である。現在の旧川が「く」の字形にまがった地点における護岸工事を描いたもので、右下の紅白の内務省旗をかかげたところで二人の監督官と三十人の工夫が土俵・石・その他の資材を積んだ舟を左右に動かして水制工事を進めている。河道には通運丸・高瀬舟・渡舟が描かれ、小段を石で強化した堤防上の馬踏には道が通じ通行人が描かれ、堤防に膚接して並ぶ農家のたたずまいにも注目に値するものがあり、遠景に富士山を配して方角を表わしている。写実的筆致で保存状態も良い(以下略)
                                      案内板より引用

 当地は古くから水場で村人は最近まで洪水に苦しめられていた。拝殿に掲げる明治一八年の「渡良瀬川字重助裏護岸工事之図」を見ると、何百人もの人夫が護岸工事に携わり、帆掛け船や外輸船の姿もあることから、これが大工事であったことと、当時の水害がいかに大きなものであったかを知ることができよう。
       
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町栄二一六七(栄字西沼田耕地)
 栄の地は南に利根川が流れ、集落部は東西に分かれている。これは明治九年、大曾村・前谷村二ヶ村が合併した経緯による。
 当社は大曾分に鎮座し、社記は、この地が再開発される江戸初期、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。また一説に大曾の地は度重なる出水により荒地となっていたものを、足利からこの地に隠棲した多田某が草分けとなって開拓し、元和元年古河領(現横山町)雀宮神社を勧請して鷲神社を称したとも伝えている。なお、『風土記稿』には万治二年の勧請で、万松寺持と記している。
 万松寺は慶長元年の開基で、境内の老松に大鷲が飛来したことを伝え大鷲山大曾院と号し、曹洞宗である。
 明治五年に村社となり、同一六年には本殿・拝殿の改築を行い、近くは昭和三三年に氏子一同の寄進により改築を行っている。
 祭神は天穂日命と武夷鳥命の二柱である。境内には旧村内から集められたと思われる弁財天・稲荷社・天満宮の石祠と大杉大明神石祠が祀られている。 

 神仏分離により、万松寺の手を離れた当社は、大字飯積の本山派修験金剛院が服飾して神職となって奉仕し、今日に至っている。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えず記載する。
                                  「埼玉の神社」より引用
 例祭は四月一五日。例祭前日をイバン(宵祭り)と呼び、疫神除けとして拝殿に集まり、御神酒を飲みながら過ごす習慣が昭和二四年ころまで行われていたという。
一五日当日は午前中に祭典が執行され、午後一時ころから神輿がでる。神輿は氏子の青壮年や篤信家に担がれ氏子中を回る。神幸にはお囃子が付き、笛・太鼓・鼓・鉦の音に合わせ一四、五曲囃される。道中「サギリ」「ヤギリ」と呼ぶ曲があり、俗に『大杉囃子』と呼ばれている。神輿は氏子の各家の玄関口に仮安置され、お供えがあげられ、囃子が行われたという。
 
拝殿左側には正一位稲荷神社・伊勢太々御神楽碑    拝殿右側に祀られている石祠二基
         の石祠・石碑あり               天満宮・大杉大明神
 旧別当万松寺境内には薬師堂がある。この縁日は四月八日で、近郷からの参詣客でにぎわっていた。薬師堂には井戸があり、昔、老婆が重い眼病にかかり苦しんでいたため、薬師を熱心に信仰したところ、ある晩、薬師の井戸水で目を洗えば治ると夢に出て、翌日僧侶から水を分けてもらい目を洗ったところ、立ち所に治り、以来眼病の霊水として広く知られるところになり、薬師堂はにぎわったと伝えている。
 当地は、度重なる水害で古い記録類に欠けるが、嘉永元年銘のある当社にかかわるといわれる随身画像軸が、萩原家に保管されているという。
        
                   栄鷲神社遠景


【栄八幡宮】
        
              ・所在地 埼玉県加須市栄3324
              ・ご祭神 誉田別命(推定)
              ・社格・例祭等 不詳
 栄鷲神社から南東方向で、直線距離にして350m程に栄八幡宮が鎮座している。
 但し、「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」にも解説等全くなく、残念ながら、創立年代・由緒等不明である。
        
                   栄八幡宮正面
 
   拝殿手前左側にある「青面金剛像」     青面金剛像」の右側に並ぶ菩薩像等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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小野袋鷲神社


        
               
・所在地 埼玉県加須市小野袋518
               ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
               ・社 格 旧小野袋村鎮守
               ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1123
 小野袋八幡神社の東側に北西から南東方向に通る市道162号線は通称「わたらせ通り」といわれていて、起点は、板倉町の行政界である柳生字下宿24906地先で、終点は県道佐野古河線に合流する柏戸交差点までの3㎞程の市道である。
 この「わたらせ通り」を東武日光線「柳生」駅方向に進行し、「小野袋」交差点を右折、200m程進んだ十字路を左折する。一面広がる田畑風景を愛でながら300m程進むと左手に小野袋鷲神社とすっかり葉を枯らしたイチョウの大木が2本見えてくる。
 東側並びには小野袋集会所があり、駐車スペースはあるようなのだが、今回正面鳥居の南側にある車道とは別の路駐可能な空間があり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  小野袋鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「小野袋村」の解説
 柏戸村の西にあり、北は渡良瀬川を隔てて下野国都賀(つが)郡下宮村(現栃木県藤岡町)、間の川跡を境に上野国邑楽郡海老瀬村(現群馬県板倉町)。「袋」に低地・低湿地の意もあることから、村名は蛇行した河川の湾曲した低地に位置したことに由来するという。田園簿では水損場と記され、田高一四二石余・畑高三一六石余、宝暦一一年(一七六一)には前々古新田改出高九二石余が加わり高五五二石余となる。同年の反別は田方三二町五反余・畑方六九町四反余(「村鑑帳」田口家文書)、安政三年(一八五六)には下田三二町三反余・下々田二反余、中畑一四町八反余・下畑四〇町九反余・下々畑一町二反余、屋敷三町九反余・葭畑五反余(「辰年貢割付状」同文書)。
        
       小野袋鷲神社は天正八年の創立と伝え、鷲宮町の鷲宮神社から分霊したという。
        
           正面の鳥居左側にある「
愛染明王像塔」の案内板
 加須市指定有形文化財 愛染明王像塔
   昭和五六年三月 指定
 像容は通形で、右に「造立者為妙色増長民屋豊穣」左には「寛政五丑十一月吉日願主当村中」と彫られている。
 この愛染明王像塔は二十六夜待供養のために造立されたものである。塔頂に笠付きであった痕跡をのこしている。愛染明王を刻むものは全国的にみてもその分布がかなり限られており、独尊として造立されたのは江戸時代中期に始まって文政頃に終わっているようである。愛染明王像塔の独尊としての希少価値と、二十六夜待の講中が小野袋にあったことを伝えるものとして重要である。
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 鷲神社  北川辺町小野袋五一八(小野袋字中通)
 小野袋は、北川辺町の最北で、栃木県藤岡町の下宮、群馬県板倉町の間々田に接する。長禄三年古河公方足利成氏と上杉教房両軍の戦場とまり、当社の西には、この時の戦死者を葬ったと伝える御檀塚(おだんづか)が残る。御檀塚にかかわる言い伝えに「小野袋の集落が滅びる時には御檀塚を掘ってみろ」がある。
 鷲神社は、天正八年の創立と伝え、鷲宮町の鷲宮神社から分霊したとされ、寛保元年社殿再建、宝暦一四年拝殿再建と伝えるが、昭和五八年火災により焼失したため、現在社歴に関する記録は失われてしまった。なお、社殿は昭和五九年に再建されている。
『風土記稿』には、「鷲明神社 村の鎮守なり、来福寺持」とあり、真言宗豊山派薬王院来福寺が江戸時代は管理していたことがわかる。祭神は天穂日命・武夷鳥命である。社殿は入母屋造り瓦葺き平入りで、内陣には白幣を祀る。
 境内は一九一坪で、戦前まで境内南に二畝ほどの神田があり、当番が耕地に当たり、取れた米で九月一五日の大祭に供える甘酒を作っていた。また、境内には、明治の神仏分離の際、村内から集められたといわれる庚申塔四基と町指定文化財の愛染明王像がある。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             
境内西端に並ぶ庚申塔と愛染明王像塔
          左から二番目が愛染明王像塔で、それ以外は庚申塔
 当社の祭りは、元旦祭・春祭り・秋祭り・新嘗祭の四回で、このほか、七月と一二月に人形を焼く大祓が行われる。
 元旦祭は、一日に早朝氏子が参集し、祭典のあと御神酒を頂き、神礼を受ける。
春祭りは、旧暦三月一五日に行っていたが、現在は新暦の四月一五日である。祭典は総代・区長の参列により行われる。
 秋祭りは、旧暦九月一五日であったが、現在は新暦の一〇月一五日である。一四日に当番が掃除を行う。昔はこの日の夜、当番が神社にお籠りをしたといわれ、一五日朝、氏子が赤飯・里芋の煮っころがしを神社に持参し、お籠りをした者がこれを頂く。一五日は朝、幟を立て、祭典を行う。戦前までは、神田でとれた米で当番が甘酒を作り参拝者に配ったことにより、この祭りを「甘酒祭り」とも呼んだ。この日の午後には、拝殿にお囃子の道具や幟を並べ、次の当番に道具確認の上、申し送りをした。これが済むと、区長が酒五升、現当番が各自で祭礼料理を持ち寄り、次の当番の者に振る舞うという。
 新嘗祭は、一一月二三日であり、総代・区長の参列により祭典が行われる。
        
                          長閑な田畑風景が広がる小野袋地域


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

 

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小野袋八幡神社

 加須市小野袋。この地域名に「袋」が付く場合、低地・低湿地の意もあることから、村名は蛇行した河川の湾曲した低地に位置し、堤防決壊や越水が起こった場合に浸水しやすい土地のことを表すという。
 俗に「災害地名(さいがいちめい)」とは、現地で起こった自然災害が由来とされる地名のことであるのだが、過去の災害の経験を後世に伝える史料のひとつとしてしばしば評価される。特に、古来の地名には、その土地の特徴や大災害の歴史が秘められていることが多いとの事だ。
 但し、災害を思い起こさせる地名は、現代では良しとされないため、明るい意味の文字を用いた地名に変更されたケースも少なからず存在するし、また、物理的な実体を持つものではないゆえに、先人の経験を正確に伝えているとは言い難い場合があるため、その取扱には繊細な注意が必要であるとする意見も現実にはある。
 日本は火山や地震等の自然災害の頻発国である。災害が起きてから自然と生活環境を考えるのではなく、日頃から自分の暮らす地域の地名、土地柄および過去の災害などに注意を払うことで、突発的な災害に対応するための策を講じるきっかけになると考えられる。
 日頃の防災意識として、「土地の名前がもつ意味」を時には深く考えることも必要ではなかろうか。
        
             
・所在地 埼玉県加須市小野袋1653
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 324日 夏祭り 715日 十五夜祭り 旧915
 鎮座地である小野袋地域は、旧北川辺町の最北部で、嘗ての武蔵・下野国両国境沿いに位置する。栃木県道群馬県道埼玉県道茨城県道9号・佐野古河線沿いにある「道の駅かぞわたらせ」から北西方向で直線距離500m程の谷田川右岸に小野袋八幡神社は鎮座している。 
        
                                                      小野袋八幡神社正面
 
       
            入り口付近にある青面金剛像                  朱色が基調な両部鳥居の二の鳥居
        
                    拝 殿
 八幡神社  北川辺町小野袋一六五三(小野袋字八幡前)
 鎮座地である小野袋は、下野・武蔵両国境沿いに位置する。
 当社の創立は『明細帳』に「天正年間ノ創立ニシテ誉田別命ヲ祭ル寛永六年二至リ社殿ヲ再建ス村内上耕地ハ同社ヲシテ鎮守ト称ス」とある。また、口碑には「天正年間、豊後国の宇佐八幡から分霊を受けて、谷田川を隔て対岸の現在の板倉町大字峰に祀ったのが始まりであり、その後水害により当地に社殿が流れ着きこの地に祀るようになった」とあり、旧社地と思われる「宇佐下」の地名が今に残る。
 社殿造営の変遷は『八幡宮改築記念碑』に「神社造営は名主小衛門の発心と戒含寺住職淳澄の指導に依り延宝五年九月奉造となる爾来三百年氏子を守護し、又氏子の奉仕管理に依り永続せるも木造建物の命数尽き大東亜戦終戦後の混乱に加えて経済的変化と思想の激動期を迎え再建も困難なりしが鎮守の荒廃も著しく有志相諮り氏子の協讃を得て昭和三十五年度より耕地収入の全部と個人の寄附に依り改築に努力せり。以来四年間氏子の崇高なる敬神と郷土関係者の協力に依り改築竣工す」とある。内陣には三九センチメートルの騎乗の八幡明神像を安置する。
 神仏分離以前の別当は真言宗八幡山瑠璃光院戒含寺が務めたが、明治期に廃寺となっている。旧寺地は当社境内の南東の一角に当たり、境内には法印権大僧都淳澄の墓石が残る。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                   「埼玉の神社」を引用
 
  社殿左側に祀られている境内社・浅間社       社殿右側奥に祀られている
勝軍地蔵や石碑
 この勝軍地蔵は昭和5939日指定の加須市有形民俗文化財で、その右隣に並ぶ石碑は榛名神社・稲荷大明神。
             
             境内に設置されている「八幡宮改築記念」
 八幡宮改築記念
 神社造営は名主小衛門の発心と戒含寺住職淳澄の指導に依り延宝五年(1677)九月奉造となる。
 爾来三百年氏子を守護し又氏子の奉仕管理に依り永続せるも木造建物の命数尽き、大東亜戦終戦後の混乱に加えて経済的変化と思想の激動期を迎え再建も困難なりしが鎮守の荒廃も著しく、有志相諮り氏子の協讃を得て昭和三十五年(1960)度より耕地収入の全部と個人の寄附に依り改築に努力せり。以来四年間氏子の崇高なる敬神と郷土関係者の協力に依り改築竣工す。
                                     記念碑文より引用

 記念碑に載せられている「名主小衛門」は地元の旧家である田口家である。
 この地域には、開発当時より今に至るまで代々居住している旧家がいて、それぞれ田口家・岡田家・飯島家といい、この旧家が中心として地域の行事等を仕切っていた。
「埼玉の神社」によると、当地の行事は、主に村の旧家の人たちによって行われる旧暦915日の「十五夜の祭り」は別名「本家祭り」ともいうが、その代表的な行事であるという。
 この行事は、旧家である田口家三軒・岡田家・飯島家の当主五人だけが祭典に参加するのを習わしとしている。田口家三軒のうち二件はそれぞれの屋号を「本家」「オカシラ」と呼び、もう一軒は本家の位牌があることから本家から隠居をして分かれた家であると思われる。このうち本家の田口直哉家が、かつて名主を務めた家柄である。また、岡田家・飯島家も屋号を「本家」と呼び、それぞれ村の開発にかかわった家柄であると思われる。
       
                        小野袋八幡神社の並びに建つ「藤畑集会所」
 本家祭りは共同体としての村社会を再確認する場であると共に、旧家である五人が氏神の祭祀権を有し、村の開発にかかわった先祖を偲び、共同体の目的を想起させる役割をも果たしている。このような行事は古い祭りの祖型を残すものとして貴重であり、これと似た性格の行事は近隣の「柳生地域」の本家祭りも同様な形態をしているので興味深い。       
 
     「藤畑集会所」の南側にある戒含寺       戒含寺の前に「木造阿弥陀如来坐像」の案内板                                            
 加須市指定有形文化財 木造阿弥陀如来坐像
 昭和五三年三月 指定
 寄木造り・彫眼・白毫肉髻共に木製嵌入・像高二四センチメートル
 通肩の納衣を着け、上品下生印を結ぶ阿弥陀像である。頭部螺髪は彫出しであるが浅い。
面部は前後二枚矧合わせ、彫りは秀れている。体躯部は前後三枚の矧合わせで、手先・裾先は別に寄せている。体躯部に内刳は見られない。衣文部は全体的に彫りが甘いが秀れた面部などの彫りから推して江戸時代以前の作と考えられる。手首先、特に右手印相は後補のものと思われる。
 平成二四年三月
                                       案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内記念碑文」等

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