荒川日野弟富士浅間神社
なお、日野は、古くから雨や霧の多い地域として知られていたらしく、『新編武蔵風土記稿 日野村』にも「土地南に浦山及蟬笹(せみざさ)など云る嶮き山々聳へたれば、霧も深く又雨も多し、土人會て上野田野の私雨(わたくしあめ)と称せり、晴天にも俄に雨降り、他村の降らぬにも此村のみ降りしこと多し」と記されている。
・所在地 埼玉県秩父市荒川日野972-3
・ご祭神 木花佐久夜姫命
・社 格 旧日野村産土神・旧村社
・例祭等 春季大祭 4月13日 秋季大祭 11月23日
荒川上田野若御子神社から一旦北上して国道140号線に戻り、三峰方面に西行すること1.7㎞程、安谷川に架かる安谷橋を渡ったすぐ先にある「荒川中学校入口」交差点を左折する。道幅の狭い道路を南方向に進み、秩父鉄道の踏切を越えたすぐ先の路地を右折すると、正面に荒川日野弟富士浅間神社の鳥居が見えてくる。
荒川日野弟浅間神社正面
『日本歴史地形大系』「日野村」の解説
荒川の上流右岸に位置し、西は谷津(やつ)川を境に白久(しろく)村、東は安谷(あんや)川を境に上田野村。南に熊倉山・天目山が連なる。秩父甲州往還が荒川沿いに横断する。地名の初出は元亨四年(一三二四)一〇月日の秩父社造営料木注文案(秩父神社文書)に「日野村国光名分」とみえ、天井裏板一〇枚(各長さ一丈二尺・幅一尺一寸・厚さ一寸二分)・決込板一五枚(各長さ六尺・幅一尺二寸・厚さ二寸)などが秩父社(現秩父市)の造営料木として当村国光名に課せられていた。近世初めは幕府領、田園簿では高二四七石余・此永四九貫四〇五文とある。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同年の年貢割付状(新井家文書)によると高二一三石余、反別は田一町九反余・畑七二町三反余・屋敷三町余。
入口付近に設置されている社の由来書
浅間神社
浅間神社は、筑紫の国造の末えい石井大乗睦則という人が、富士山へ三十三度お参りをし、昌泰三年(九〇〇)六月十四日、その御分身をいただき、氏神として私有地の日野村座成山という山にまつったのが最初といわれています。
その後、石井道次という人の代になり天徳四年(九六〇)六月のある夜、神様よりおつげがありました。「この山は、私の住むべき山ではないから他の山へ移すように」しかし、どこへ移してよいのかわからないので、その山を教えていただきたいとたずねると、「しかるべき山に雪を降らせる」といわれたそうです。
十四日の朝、付近の人が騒いでいるので、何だろうかとあたりを見まわすと、頂上が雪で白くなった山がありました。これは神のおつげのあった山にちがいないとさっそく富士山に事の次第を報告しました。そして、富士山の神さまより弟の冠称をいただき、雪の降った山を弟富士山とよび、その頂上へ神社を移し、日野邑の神様としてまつるようになりました。
浅間神社の祭神は、木花佐久夜姫命、他で、ここに平将門、藤原秀郷、畠山重忠らが参拝したといわれ、熊倉城にこもった長尾意玄入道の祈願所であったともいわれます。
又、この山の北側に虚空蔵岩と呼ばれる大きな岩がありますが、神様がこの岩に縄をかけて頂上より現在の地まで引きおろしたという伝説が残っています。
由来書より引用
この由来書では、「筑紫の国造」の末裔である「石井」氏が浅間神社の創始に関わっているという。「筑紫の国造」「石井」、この二つのキーワードに合致する人物といえば、浅学な筆者には「筑紫君磐井」以外うかばない。
記紀によると古墳時代後期に相当する6世紀前半に北部九州に「筑紫 磐井」という豪族が登場する。この「磐井」は「いわい」と読み、古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏(ウジ、ウヂ、氏族)に与えられた称号であるカバネは「君」という。
『日本書紀』では「磐井」、『古事記』では「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」と表記され、『日本書紀』では磐井の官職を「筑紫国造」とも記している。
「日本書紀」では継体天皇21年(527)に、新羅からの賄賂を受けた磐井は、大和王権が朝鮮半島での失地奪回に差し向けた派兵を遮った。両者の戦闘は1年余りに及んだが、大和側の勝利に終わり、磐井は斬られたという。世にいう「磐井の乱」である。
この「磐井」は、古事記では「石井」とも記されていて、どちらも同じ音であり、意味であろう。考えてみたら「磐」は「石の大きいもの」をいうが、「石」との間には明瞭な大きさの基準はない。加えて筑紫君磐井の墳墓とされる北部九州では最大、かつ当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の「岩戸山古墳」には有名な「石人・石馬」を含む多くの石製品が出土していて、謂わば「磐(石)」を象徴する『君』なのであったのだろう。
荒川日野弟浅間神社に関しては、『秩父志』には、「日野村浅間社、祭主は石井氏祭り」と見え、「イワイ」と註しているが、現存は「イシイ」氏を称している。
参道の様子。
嘗ての北九州の王者の末裔が、この縁もなさそうな遠い武蔵国にいること自体、筆者の妄想の類なのかもしれない。但し、考えてみると、この武蔵国には「宗像神社」や「壱岐天手長男神社」等数多くの九州本家の社が鎮座していることも事実である。
ともかく筆者としては、この由来書を読んでいるうちに湧き上がってきた妄想に似た考察を、ふと記したくなった次第で、何の根拠も一次資料による証拠もない。
拝 殿
拝殿手前の参道左側には移築紀記念がある。 拝殿上部の色鮮やかな彫刻
浅間神社移築紀記念
當社は傳聞の処筑後國造の末裔石井大乗睦則冨士に登拜すること三十三度御分霊の允許を受け石井家氏神として私有山林座成の岩上に奉斎時維昌泰三庚申年六月十四日創祀という其后石井道次天徳四年六月十四日霊夢の顕示を受く即ち富士山の嶺に時ならぬ降雪あり人々其奇観に驚き冨士本山に事の次第を報告す弟の冠稱を與えられ爾来弟冨士山と稱す邑人相議り降雪を境に社地に奉納日野邑産土神として社宇建立御遷座祭日を六月十四日と定め聖域女人登山を禁じたり明德三年四月弟富士山麓より風穴下原を経て村男迠縦百八十間杉並木を以って奥宮に通ずる参道を定む寛文年中下原に社殿建立女人参籠所となり祭日を七月二十一日に改め下浅間と稱す明治二年下日野二十四人持雑種地を奉納神楽殿を建立同五年入間県の許可により日野村々社となり大正四年御大典記念事業として本殿拜殿社務所新築境内取擴め大六天社諏訪社合祀同五年二月神饌幣帛供進神社の指定を受く大正十二年奥宮再建昭和九年本拜殿屋根改膳並に社務所新築同二十二年弟富士山嶺全域社有に復元同二十四年植樹祭同四十一年二月体育館建設用地として村當局の要請に依り神域の尊厳保持と時代の変遷に想を練り氏子総意に基く現地を選定移築御遷座同四十三年神域整備祭器庫建設行て明治百年を記念し神社由緒来歴の梗概を刻し後代に傳う(以下略)
移築紀記念碑文より引用
境内社 左から十二社神社・稲荷大神・春日大神・天満天神宮
右側に見えるのも境内社・八坂社
社務所 社務所の東側にある神楽殿
鳥居の右側に設置されている浅間神社神楽の案内板
秩父市指定無形民俗文化財
浅間神社神楽
公開日 二月節分・四月第二日曜日・十一月二十三日
指定年月日 昭和四十五年十一月三日
浅間神社の昔は、日野の産土神として弟富士山頂に祀られたのが始まりだといわれる。
寛文年間(十七世紀半ば)には荒川中学校体育館付近に社殿を建立、昭和四十一年には弟富士山麓の現在地に遷座された。
浅間神社神楽が始められた時期は定かではないが、神社の神主を代々務めた石井氏によって、神子神楽が奏されてきたといわれる。
その後、安政年間(十九世紀半ば)、上州新町(群馬県高崎市新町)の車大工徳丸により、それまでと異なる神楽が伝授されたと伝わる。こうして始まったのが現在の神楽で、白久神明社神楽、大滝滝ノ沢神楽、三峯神社神楽と同系統の神楽である。
神楽は全部で十八座、座外として「狐狩り」、「蚕神」の二座がある。
同系統の神楽と異なる特徴は、最初と最後に素面の神官が舞う「奉幣」と、二月三日節分祭の時だけ行なう拝殿での「神前神楽」である。(以下略)
案内板より引用
祭事に関して、節分祭(3月10日)・例大祭(4月13日)・収穫感謝祭(11月23日)には、氏子の間に伝承されている神楽が付け祭りとした奉奏される。もともと当社の神楽は旧社家の石井家によって行われる神子神楽であったが、安政年間に上州新町の神楽師徳丸によって徳丸神楽が伝えられたことから、氏子の娯楽を兼ねた芸能として、盛んになったという。曲目は全部で一八座あり、歌舞伎の技法を採り入れた大きい動作を特徴とし、かつての神子神楽の名残で、神職による奉幣が行われる。
因みに、例大祭の祭日は、当所は弟富士山に降雪のあった6月14日であったが、その後、寛文年間以降7月21日、更に時代が下って4月13日となり、現在に至っている。
社のすぐ北側には秩父鉄道の線路が近くに見える。
周辺は至って長閑な里山風景が広がっている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内掲示板・案内板」等