古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

拂田稲荷神社


        
             ・所在地 埼玉県東松山市高坂12321
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 3月二の午 冬至祭 1222
 東武東上線高坂駅東口から南側の線路近くで、民家が建ち並ぶ中に拂田稲荷神社は鎮座している。社の基檀部自体が古墳になっていて、直径約30m、高さ約2mの円墳で、通称「高坂13号古墳」別名「拂田稲荷神社古墳」と呼ばれている。
        
                  拂田稲荷神社正面 
 拂田稲荷神社は、戦国時代の混乱で荒廃した当地を見かねた僧誠誉が、村民に呼びかけて天文3年(1534)に創建、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったことから拂田稲荷と称されるようになったという。 
        
                                道路沿いに建つ鳥居
 当社は、五穀豊穣の神として崇敬されていたが、その後、高坂の発展や養蚕の振興と共に、商売繁昌の神・養蚕守護の神としても信仰されるようになる。とりわけ、養蚕守護の神としては近郷の人々の信仰も厚く、「巳の日」には「御縁日」といって参詣者も多く、大正時代の始めごろまでは、その晩にお籠りが盛んに行われたほどであったという。
        
                   鳥居のすぐ右側で、社号標柱の両側には石室の天井石
                              とも思われる石碑が
2つある。
        
                一の鳥居から撮影した、石段の先にある朱色の二の鳥居と社殿

 嘗て東松山市を含む比企地域は養蚕業が盛んな地域であった。当地域においても、養蚕が盛んであった頃は、近郷にも崇敬者が多く、中でも近隣の三・四十か村の間では拂田講もしくは穂蚕講と呼ばれる講が結成され、春蚕の始まる前(34月頃)、とりわけ「お蚕祈祷」とも呼ばれる当社の春祭りには講中の人々が参詣し、掃き立て紙を受けて帰ったものであったという。この掃き立て紙は、縦長の紙の中央に繭の形が描かれ、その中に「拂田神社守護」の文字の印が押された紙であり、この紙の上で蚕種を孵化させるとその蚕は丈夫に育つといわれていた。
 
拂田講は戦後に廃絶し、掃き立て紙も昭和43年頃まで配布されていたらしい。拂田稲荷といえば養蚕の神の印象が強い。
        
                    拝 殿
 拂田稲荷神社(ほったいなりじんじゃ)  東松山市高坂一二三二(高坂字稲荷林)
 応仁年間(一四六七〜六九)の後、戦乱が相次ぎ、田畑はすっかり荒廃してしまい、民衆は苦難にあえいでいた。そのころ、当地を訪れた誠誉という僧が、この惨状を見るに見兼ねて、住民に五穀成就と万民安堵の守護神として京都の伏見稲荷大社から倉稲魂命の神霊を勧請することを勧めた。これが当社の創建であり、社記によれば、天文三年(一五三四)のことであったとされている。
 ちなみに、当社の社号の「拂田」とは、人や場所の名前などではなく、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったため「田を拂って作った」という意味であるという。このように、社名の由来にも、戦乱による荒廃からの復興を願う当時の人々の心情が込められているように感じられる
 その後、住民や領主の努力も実って、高坂は再び活気を取り戻し、当社は村鎮守の八剣明神社(現高坂神社)と共に高坂の人々から厚く信仰された。とりわけ、文化文政のころ(一八〇四〜三〇)には霊験が殊に著しく、境内及び正面参道が拡張され、石段・石灯籠などが奉献され、更に文久二年(一八六二)には社殿も改築された。江戸時代を通じて、当社は、地内にある浄土宗の長松寺の持ちであったが、神仏分離によってその管理を離れ、代わって澤田家が神職として奉仕するようになった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 現在、当社で行われている祭事は、元旦祭・春祭り(3月二の午、三の午がある年は三の午)・例祭(10月17日)・秋祭り並びに冬至祭(12月22日)・大祓(12月31日)の年6回であるのだが、氏子区域が高坂神社と重なる為、総代以下氏子が参列するのは、元旦祭・春祭り・冬至祭の3回で、それ以外は宮司が祭典を奉仕するだけの祭りとなっている。
        
                 境内社・
子持稲荷社
 境内に祀られている子持稲荷社(通称・お子持様)は、子育ての神として信仰されており、特に小児の夜泣きには参詣すれば必ず御利益があるといわれている。また、氏子の間では、子供が生まれると参詣し、眷属像を納めて成長の無事を祈願する風習もある。なお、この「お子持様」は煙草を好むといわれており、昔は、願の叶った人は、感謝の印に煙草を奉納したとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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元宿天神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市本宿1324
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭初天神 春の祭礼 3月第4日曜日 
                                                                
秋の例祭 10月第3日曜日  冬至祭 123日曜日
 東武東上線高坂駅西口の駅前通り「高坂駅西口」交差点を左折し、450m程南下する。コンビニエンスストアのある十字路を左折、埼玉県道212号岩殿観音南戸守線に合流し、高架橋を下るように進むと進行方向左手に元宿天神社の境内が見えてくる。
        
                  元宿天神社正面
『日本歴史地名大系』 「本宿村」の解説
 [現在地名]東松山市元宿・西本宿
 岩殿村の東、都幾川の右岸に位置し、松山領に属した(風土記稿)。古くは東隣の高坂村と一村で、高坂郷と称していたが、承応年間(一六五二―五五)に分村したという。また、高坂村は近世、日光脇往還の宿駅であったが、同村の宿場は古く当地にあって、このことが村名の由来ともいう(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月、徳川氏は「本宿村高四百五拾石」「五百石高坂・小代・本宿・早俣・悪戸開発地」などを旗本加々爪民部少輔(忠澄)に与えている(記録御用所本古文書)。

『新編武蔵風土記稿 高坂村』
「當所は古へ隣村元宿村と一村にして、広き地なれば鄕名にも唱へしならん、其内元宿の方は古の宿驛なりしゆへ、昔は高坂の元宿の呼びしを、後二村に分れしと云、現に郡中奈良梨村諏訪社に掛たる、延徳三年の鰐口の銘に、武州入間郡高坂郷〇王山常安禪寺と見えたり、この寺今も元宿村あれば、当時高坂と一村なりしこと明けし、」
 この古くからあった「高坂の元宿」という呼び名が、後に村名となったという。
 
   道路沿いに設置されている社の掲示板    鳥居の右側に「村社」と刻まれた社号標柱あり

 元宿天神社は、学問の神、村の守り神、農業の神、そして通称を「火蕾天神」という武の神として祀られている当地で盛んに信仰されていた北野天満宮を勧請して永享年間(14291441)に社殿を建立、天正年間には戦乱により焼失したものの元和8年(1622)に再建、明治維新後には龍圓寺境内に祀られていた愛宕社を当社境内に移したという。
        
                    拝 殿
 天神社(からいてんじん)  東松山市元宿一-三二-四(毛塚字西久保)
 東武東上線高坂駅から線路に沿って少し南に向かった所に当社の境内がある。付近は、最近区画整理がされ、住宅化が進んでいるが、境内は周囲よりも幾分高くなっており、しかも杉や檜がよく茂っているため、その位置は遠方からでもよくわかる。
 言い伝えによれば、この地では、どのような理由からか京都の北野天満宮の御神徳を慕っており、村内に遥拝所が設けられ、礼拝が行われていたという。時が経つにつれて、北野天満宮に対する信仰はいよいよ高まり、ついに永享年間(一四二九〜四一)には社殿を建立し、北野天満宮の分霊を奉斎するに至った。これが当社の始まりで、のち天正年間(一五七三-九二)、戦乱のため村もろとも焼失の憂き目に遭ったが、元和八年(一六二二)には再建が果たされ、一層の信仰を集めるようになったという。
 また、明治二年九月には、龍円寺の境内に祀られていた愛宕神社が当社に移された。これは、明治維新の際積極的に推進された神仏分離によって、神仏混淆が許されなくなったことに伴う措置で、愛宕神社は以後、当社の末社として祀られている。なお、『風土記稿』では、「田木村慈眼寺持」の神明社が毛塚村の鎮守とされ、当社は単に「龍円寺持」の社となっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             社殿のすぐ左手に祀られている愛宕社
         愛宕社の奥は何やら塚のような雰囲気のあるふくらみがある。
          後日地図を確認すると、やはり「高坂51号墳」であった。

 この元宿天神社周辺には古墳や塚が多く存在し、「毛塚古墳群」と称する古墳群を初めとして塚が非常に多い。地域名「毛塚」由来も、髪の毛のように塚がたくさんあるという意味があるともいわれている。そのため、氏子の間でも裏庭などに塚がある家が多く、そういう家では「氏神様は自分の寝ている所よりも高い所に祀れ」と言い、屋敷神を塚の上に祀っている。また、当社の境内も塚の跡であろうといわれているほどであるという。
        
                        社殿からの一風景
 昭和56年度から平成5年度にかけて行われた「高坂駅西口土地区画整理事業」に伴い、高坂駅西口が新設され、西口一帯が市街化区域と指定変更された。周囲の風景もそれまでは養蚕が盛んに行われ、桑畑と麦畑が混在する長閑な風景が残っていたのだが、その後の開発により、住宅街に大きく変貌したという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
        

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毛塚神明社


        
            
・所在地 埼玉県東松山市毛塚349
            
・ご祭神 天照皇大神(推定)
            
・社 格 旧毛塚村鎮守
            
・例祭等 元旦祭 春祈祷 43日 お日待 1017日
                 
新嘗祭 1217
 東松山市毛塚地域は越辺川の左岸に沿った低地や自然堤防から高坂台地の南斜面にかけて展開していて、同川の下流域にある宮鼻地域の西側に接している。この二つの地域にはどちらも小規模の飛び地があり、『新編武蔵風土記稿 毛塚村』に記載の如く「犬牙の地」として、宮鼻地域は東武東上線西側に一カ所と九十九川付近に複数、毛塚地域は越辺川沿いで、島田橋のすぐ東側に一カ所とお互いの地域内に入り込んでいる。
 途中までの経路は宮鼻八幡神社を参照。社を南行し、300m程先の丁字路を右折、越辺川左岸に広がる周囲一帯の田畑風景を愛でながら西行し、東武東上線の踏切を過ぎて300m程先にある十字路を左折する。田んぼの畔のような道幅の狭い農道を300m程、車一台分しか道幅がないので、暫く対向車が来ないことを祈りつつ安全に進むと、目の前に密集している民家が見え始め、進行方向左手に、社務所兼集会所と毛塚神明社の朱色の鳥居が見えてくる
        
                  
毛塚神明社正面
『日本歴史地名大系』「毛塚村」の解説
 [現在地名]東松山市毛塚・大黒部・元宿
宮鼻村の西、越辺川の左岸にある。村域は同川に沿った自然堤防・低地から高坂台地の南斜面にかけて展開し、日光脇往還が通る。松山領に属した(風土記稿)。現岩殿の正法寺に残される天正三年(一五七五)一〇月二一日書写の舎利口決奥書に「小代之郷ケツカノ村」、同五年閏七月一二日書写の寛正六年(一四六五)記奥書に「小代ケツカの村」、同月一五日書写の松橋流印信奥書に「小代之一門毛塚之村」などとみえ、中世には小代(しようだい)郷のうちであったと思われる。

『埼玉苗字辞典」によると、嘗て武蔵七党・児玉党の一派である一族が当地に移住し、「毛塚氏」を名乗っていた。
 ・紀州熊野那智山米良文書(室町時代)
「児玉の在所の御名字の事、おうかい(利根郡利根村追貝)、しまなき(高崎市島名)、たかい(前橋市高井)、ゆつりはら(鬼石町譲原)、うけつか、わかいつみ(本庄市若泉)、おうかふら(鏑川)」
・岩殿村正法寺天正三年奥書
「岩殿山修善院住持栄俊は、俗名武州児玉之一門、小代之郷ケツカの村新井主計助清泰末子也」
天正五年奥書
「法名栄俊、俗名小代之一門毛塚之村新井主計助清泰三男也」
正法寺伝
「新井主計介清泰の由来を尋るに、村上天皇第六の皇子赤松則景と云人、安芸国に居住し治承年中右大将頼朝公豆州より義兵を興し給う時、東国に下向して味方に属す。則景に二子あり、嫡子を定範と云う、赤松氏を継ぎ也。二男を秩父の彦流児玉庄左衛門氏行と云、彼の末流武州新井の所なり、居住す因を以て家の称とする。故有て世を遁れ、名を隠し、武州小代の郷毛塚村に閑居しける。児玉の一門、新井主計介清泰と云えり。日頃観音信仰の人なれば、住観房・俗姓は松山の城主上田家の家臣比企藤四郎の一族也。と心を合せ、千手院の跡を継、清信と名を改め、両人にて隣郷の民家を勧進して、天正元年に観音堂再興成就仕給う。清信は住観房の姉を閨守として男子三人あり、嫡子を正覚坊源清と云、千手院を継ぎ、次男を信栄と云、岩本坊を継ぎ、三男を栄俊と云う」
 本来の姓は新井氏であり、移住した際に在地名を苗字としたのではなかろうか。
        
                            ひっそりと静まり返った境内
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 毛塚村』
 神明社 村の鎭守なり、田木村慈眼寺持、
『新編武蔵風土記稿 田木村』
 慈眼寺 新義真言宗、入間郡上野村醫王寺末、普門山知勸院と云、本尊不動を安ず、中興の開山を秀榮と云、元祿四年示寂す、
 鍾樓 正德四年、鑄造の鐘を掛く、

 神明社  東松山市毛塚三四九(旧毛塚字八木沼)
 口碑によると、当社は寛永五年(一六二八)に岩殿村の真言宗正法寺境内に創建され、寛政三年(一七九一)にこの地に移された。その移転には氏子の金子家の先祖がかかわったと伝えている。ちなみに、同家の先祖で寛政八年(一七九六)に寂した「権大僧都法印慧日」は正法寺の僧侶であったとの伝承も残されている。
 この地に祀られた当初は、越辺川沿いの低地である字八木沼に鎮座していた。高さ一メートルほどの盛り土の上に南を向いて建てられ、傍らには榧(かや)の大木がそびえていた。
また、周囲は水田が広がることから、遠くからでもこの榧を望むことができ、当社のよい目印となっていた。
 氏子の集落もこの字八木沼の地にあって生活を営んでいたが、度重なる水害によって苦しめられ、いつしか人々はこれよりもやや高台の字川辺の地に移り住むようになった。こうして当社は氏子の集落と隔たり、参詣に不便を来すようになった。その後、長い間集落の近くに当社を移すことが氏子の懸案であったが、ついに昭和三十四年の土地改良事業を機に現在地への移転が果たされた。従来七三坪であった境内地は一五六坪に広げられ、社殿修繕と社務所建設が行われ、更に鳥居・参道が設けられるなど、その姿を一新した。更に平成二年の御大典を記念して、社務所の改築が行われた。
 なお、往時の別当は、隣村の下田木にある真言宗慈眼寺であった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 毛塚神明社は、寛永5年(1628)岩殿正法寺境内に創建、寛政3年(1791)当地に遷座、毛塚村の鎮守社として祀られていたという。
 当社は、大字毛塚の集落の一つである川辺の鎮守として祀られている。当社とかかわりの深いといわれる金子家では、かつて祭りの祝宴の宿の役割を担っていたほか、獅子頭や幟旗などの祭礼具の保管も行っていたという。また、同家で当社の正月飾りを奉仕したり、節分に境内に来て豆打ちを行うなどの習わしもあった。これらの事柄は、初め当社が金子家の氏神として祀られていたことを物語っているのかもしれないとの事だ。
        
                  昭和4年の伊勢参宮記念略記を刻む石碑が左側に建つ。

 
4回行われる祭りの他に、3月中旬にはお獅子様の行事がある。これは、当番が獅子頭を持って氏子の家々を祓って回るもので、今は玄関先までであるが、元は土足のまま座敷を通り過ぎて行ったという。また、7月中旬には「お獅子様の土用干し」と称してこの獅子頭を公会堂に飾り、その前で酒宴を催しているという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等    

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大黒部愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市大黒部12
             
・ご祭神 軻遇突智命(推定)(本地)本地仏勝軍地蔵
             
・社 格 旧宮鼻村大黒部鎮守・旧無格社
             
・例祭等 天王様 715日 例祭 724 
 東松山市大黒部地域は、都幾川と越辺川に挟まれた台地上に位置する。この地域は嘗て『新編武蔵風土記稿 宮鼻村』の項において、小名として「大黒部」が載り「隣村毛塚村と入合の地なり」のただし書きがある一方、毛塚村の項にも「大黒部」の小名と「宮鼻村の地と犬牙なり」とあった。この「犬牙」とは、犬の牙が入りくんでいるように、土地の境などが互いに入りくんでいるさまという。現在、大黒部地域は南北520m程、東西120m程度の南北に細長い長方形の地形であるのだが、開発当時はどの程度両村の人々の移住等による土地の割り振りがあったのであろうか。
        
                 
大黒部愛宕神社正面
 東武東上線高坂駅東口から駅前通りを東行し、「高坂郵便局」のある十字路を右折する。川越児玉往還を600m程南下し、十字路を左折すると右手に大黒部愛宕神社が見えてくる。地図を確認すると、丁度高坂神社の南側で、直線距離にすると約500mのところに鎮座している。
        
                    拝 殿
 愛宕神社  東松山市大黒部一二(宮鼻字大黒部)
 当社は大黒部の鎮守として祀られている。『風土記稿』宮鼻村の項には「大黒部」の小名が載り「隣村毛塚村と入合の地なり」のただし書きがある。一方、毛塚村の項にも「大黒部」の小名が載り「宮鼻村の地と犬牙なり」とある。これらの記述は、大黒部の地が宮鼻・毛塚両村の出作地として開かれたことを物語る。その後、両村から人々が移り住むようになると、一村として意識されるようになり、当社が鎮守として祀られるに至ったのであろう。
 同書によれば、毛塚村の檀那寺であった真言宗愛宕山竜円寺の境内に愛宕神社が祀られており、恐らくこの社を勧請したものであろう。創建は、『武蔵志』の大黒部の項に「寺社ナシ」とあるが、『風土記稿』には一社として載ることから、享保二年(一八〇二)から文政十一年(一八二八)にかけてのことと推察される。
 明治初年の社格制定に際し無格社となった当社は、明治四十一年に宮鼻の本村にある村社八幡神社に合祀となった。これにより社殿は八幡神社に移され、愛宕山と呼ばれる小高い社地は切り崩された。この時、土中から金環が出たと伝えられる。その後、年を経るにつれて旧氏子の中から愛宕神社を再び鎮守として祀ろうとの気運が高まり、ついに昭和三十九年に遷座が行われた。更に同五十二年には社殿の新築がなされ、名実ともに大黒部の鎮守としての再興が果たされた。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 宮鼻八幡神社との合祀当時は、八幡神社の祭事の度に大黒部の代表が参列していたが、愛宕神社への信仰は、従来の祭日に地元の公民館に旧氏子が集い、掛け軸を掛けて祭事を行うという形で存続された。 この根強い信仰が社の再興へとつながっていったのであろう。
 なお、掛け軸は文政六年(1823)に大黒部村中によって奉納されたもので、愛宕大権現の本地仏勝軍地蔵とその眷属が描かれているという。
 
  左から境内社・八坂神社と愛宕大神の石碑         境内にある「記念碑」

 記念碑
 当地区は古墳時代より開拓され、此の地は愛宕山と称され、愛宕神社を奉斎し、崇敬の誠を捧げて来たるも明治四十二年一月神社振興の国策により宮鼻八幡神社境内に合祀となる。
然るに氏子総意により昭和三十九年三月六日旧地大黒部に再び遷座す。其後氏子は益々発展するにより、社殿新築をなし祭儀を厳修し、神社本然の姿にすべしと、本殿、幣殿、拝殿、鳥居を建て、昭和五十二年三月六日御遷宮奉祝大祭を執行す。

然るに氏子総意により昭和三十九年三月六日旧地大黒部に再び遷座す。其後氏子は益々発展するにより、社殿新築をなし祭儀を厳修し、神社本然の姿にすべしと、本殿、幣殿、拝殿、鳥居を建て、昭和五十二年三月六日御遷宮奉祝大祭を執行す。
        
                 大黒部愛宕神社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内記念碑文」等

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岩殿熊野神社

 地主神(じぬしのかみ、ぢぬしのかみ)は、日本の宗教(特に神道)における神の一類型である。
 日本の神道などでは、「土地ごとにそこを守護する地主神がいる」とされている。土地は神の姿の現れであり、どんな土地にも地主神がいる、とする説もある。神社や寺院に祀られることが多く、その地主神は、その神社、或いは寺院が建っている場合は、寺社創建以前に鎮座した神のことをいい,地主大明神,地主権現などと呼ばれることもある。
 古くは『古語拾遺』(9世紀成立)にあり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を営むとある。『延喜式』(10世紀成立)では、神祗五(神祗編第五巻)二十二条にて斎宮祈年祭に関して地主神の記述があるほか、同巻六十条にて記述がある。
 地主神への信仰の在り方は多様であり、荒神・田の神・客人神・屋敷神の性質がある地主神もいる。一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもある。地主神を祀る(まつる)旧家からの分家に分祀されたり、屋敷の新設に伴い分祀されることもある。御神体も多様で、自然石、石塔、祠(ほこら)、新しい藁束、御幣(ごへい)などがある。祀る場所もまた多様で、神社、寺院のほか、丘や林の祠(ほこら)、屋敷、屋敷の裏山で祀り、一族の墓が神格化する地域もある。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市岩殿1239
             
・ご祭神 大山咋命
             
・社 格 不明
             ・例祭等 
ケツアブリ行事 71
 東武東上線高坂駅西口から通称「彫刻通り」を西行し、「西本宿」交差点を左折し、埼玉県道212号岩殿観音南戸森線を1㎞程西行する。埼玉県こども動物自然公園の駐車場が見える「こども動物自然公園」交差点を右折、1.5㎞程先にある綺麗に岩屋観音の参道を進むと、進行方向右手に岩殿熊野神社の鳥居が見えてくる。 
        
                  
岩殿熊野神社正面
 この岩殿観音(巌殿山正法寺)の参道は600m程あるのだが、正法寺へ続く道は真っ直ぐ続く門前通りの参道で、道路もただ舗装されているのではなくて、ちょっと洒落た石畳調となっている。更に参道の両側には典型的な門前町を形成していて、嘗ての店や宿坊など屋号の看板があり、門前町としての歴史や昔の賑わいを感じることができる場所である。

『日本歴史地名大系』 「岩殿村」の解説
 葛袋(くずぶくろ)村の南西に位置し、村域は岩殿丘陵の中心をなす、なだらかな岩殿山(最高点は物見山一三五・六メートル)の北麓から西麓にかけてを占める。物見山を水源とする九十九川(越辺川支流)が村域を南東流する。松山領に属し(風土記稿)、北西は神戸村、西は本宿村。物見山の北方中腹には坂東三十三所の一〇番札所である正法寺(岩殿観音・岩殿寺)があり、集落は同寺の門前として発達した。西部には小名望月(もちづき)がある。正法寺蔵の元亨二年(一三二二)銘の梵鐘に「武州比企郡 岩殿寺」とみえる。康安元年(一三六一)八月二六日、「ひきのいわとの」の黒河正願が紀州熊野那智山御師村松盛甚に添状(熊野那智大社文書)を送っている。
 貞治二年(一三六三)下野の芳賀禅可(高名)は鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、基氏軍と禅可の子高貞・高家の軍勢が苦林(にがばやし)野(現毛呂山町)および岩殿山で戦っている(「鎌倉大日記」生田繁氏蔵、「源威集」東京大学史料編纂所影写本など)。同年一〇月日の中村貞行軍忠状写(集古文書)に「去八月廿六日、武州岩波(殿カ)山御合戦」、同年一一月日の畑野六郎左衛門入道常全軍忠状(畑野静司氏所蔵文書)には「同卅□(日カ)石殿山属当御手候」などとみえ、八月二六日から始まった岩殿山合戦は三〇日まで続き、基氏方の勝利に終わった。

 
岩殿観音の参道沿い、後方には鬱蒼とした森の中  勾配のある石段を登った山腹に社殿は鎮座 
     の間から石段や社殿が見えてくる。

 岩殿熊野神社は、岩殿山の地主神として養老年中(717724)に創建した岩殿観音堂とほぼ同時期に創建したものと考えられ、当時天台宗だった岩殿観音堂の影響で、比叡山の地主神である八王子権現社を祀ったのではないかと伝えられている。以來八王子権現社として祀られていたものの、明治維新後の神仏分離令に際して熊野神社と改称したという。
       
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 岩殿村』
 八王子權現社
 此社は古き鎭座なるにや、下に載たる天正三年上田案獨斎が出せし制札に、岩殿八王子山と見えたり、今も本堂の後を八王子野とも呼べり、

 熊野神社  東松山市岩殿一二三九(岩殿字藤井)
 岩殿観音堂別当正法寺の縁起は、岩殿山について「旧神仙遊栖ノ地ニシテ遠ク塵境ヲ阻チ玄ニ人跡ヲ絶ノ幽洞ナリ。塁塁壁立シテ四望楼閣ノ如クナレバ土人称シテ岩殿山ト云」と記している。これは比企丘陵の奥深い景勝地にある岩殿山をよく形容していると言えよう。
 岩殿山は古代、神々が依り給う盤座として祭祀が行われたと考えられるとともに、高坂を貫流する九十九川の水源に近いことから、水上信仰にも深いかかわりがあったことが想像される。
この岩倉山の北に鎮座し、古来、岩殿山の地主神とされてきた当社は、明治初年までは「八王子権現社」と呼ばれ、その勧請は岩殿観音堂の草創とほぼ同時期と伝えられている。寺伝によると、岩殿観音堂は、養老年中(七一七-二四)、沙門逸海によって創建され、当時は天台宗の寺院(中世、真言宗に改宗)であった。このことは近江国の比叡山延暦寺の法流を継ぐ逸海が比叡山の地主神である八王子権現社(現在の牛尾神社)と、延暦寺の護法神である山王権現社(現在の日吉大社)の二社を寺の創建に併せてこの岩殿に勧請したことが考えられる。ちなみに、比叡山の八王子権現社の霊威は、『梁塵秘抄』に「峰には八王子ぞ恐ろしき」と語られている。
 中世、岩殿観音堂は坂東三十三所霊場の札所十番に定められ、その本尊である千手観音詣の人々で栄え、「本坊六十六坊也、関東并北国ニモナラビナキ大ガラン、七堂悉皆カワラブキ也」と言われるほどであった。しかし、永禄年間(一五五八-七〇)の松山合戦の際に兵火に罹り、堂宇ことごとく灰燼に帰した。この時、岩殿山の鎮守である当社をはじめ、山内の諸祠も衰微してしまったのである。
 これを再興したのが栄俊で、天正二年(一五七四)、真言宗醍醐寺無量寿院の法流を継いで岩殿山中興の祖となった。当社もまた、これに時を経ずして再建されたものであろう。下って江戸時代、岩殿の観音堂は正法寺が別当として管理するところとなり、当社の祭祀や祈禱は、正法寺の配下で本山派修験の理音院(中の院)によって行われるようになった。
 明治に入ると、神仏分離の政府布達を遵守し、当社は社名を熊野神社と改め、理音院は復飾して児玉崖と名乗り、神職となった。歴史的な経緯から考えると、この際、当社は「八王子神社」と改称するのが妥当であり、熊野神社となるのはいささか唐突な感じがしないでもないが、理音院がいわゆる熊野修験であったことを考えると、神職となった児玉崖の意見が強く反映された結果によるものであろう。
 なお、明治期からの祭祀は、神前法楽などの仏教色が廃され、元旦祭・新年祭・祈年祭・春祭り・秋祭り・新嘗祭が神職の奉仕により行われている。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
                               境内社・雷電神社
       
                               社殿からの一風景

  岩殿山観音堂・正法寺は真言宗智山派の寺院で、岩殿山修善院といい、また、岩殿寺ともいう。
 源頼朝の命により、比企能員が復興した古刹であり、天正二年(一五七四年)僧栄俊が中興開山となっている。天正一九年(一五九一年)徳川家康より寺領二五石の朱印地を与えられた。
 観音堂は養老年間(七一七~七二四年)僧逸海の創立と伝えられ、正法庵と称し、鎌倉時代に坂東十番の札所となった。千手観音が祭られており、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番とセットされる札所の一つ。
 源頼朝の妻、政子の守本尊として信仰が厚かったといわれている。仁王門の仁王は運慶の作といわれている。
 当寺には、延暦一〇年(七九一年)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命によって奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治した伝説がある。
 なお、正法寺には、県指定史跡の六面幢、県指定歴史資料の銅鐘、市指定歴史資料の鐘楼がある。
        
       表参道から石段を少し登った所にある「巌殿山」の額を掲げた仁王門
        
                仁王門から石段を上り終えた右側にある鐘楼と銅鐘
 銅鐘は、元亨2年(1322年)に鋳造されたもので、外面に無数の傷が付いており、これは天正18年(1590年)に豊臣秀吉による関東征伐の際に、山中を引き回した時の傷だと伝えられる。鐘楼は、元禄15年(1702年)に比企郡野本村(現在の東松山市野本)の山田茂兵衛の寄進で建立されたと伝えられる草葺き屋根の建物で東松山市内では最も古い建造物として、東松山市有形文化財に指定されている。
        
                              観音堂
 養老年間の創建と伝える。寛永、天明、明治と3回再建され、現在の建物は明治11年(1871年)の火災により観音堂が焼失した為、翌年高麗村白子(現飯能市)の長念寺から移築されたものである。本尊の千手観音は、室町時代の作と伝えられる。
             
              東松山市指定天然記念物の大イチョウ 
        
       仁王門から東にまっすぐに延びる表参道の両脇には家が建ち並んでおり、
         嘗ての正法寺と門前町の繁栄の面影を残している風景である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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