古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉川春日神社

 玉川春日神社が鎮座する旧玉川村は、東松山市によって東西に分たれた比企郡のうち、西半の中央南部に位置し、西・北は小川町、南は都幾川村、東は嵐山町・鳩山町。外秩父山地の東縁を占め、東方の一部は岩殿丘陵にかかる。
 最高点は西方の雷電山(
418.2m)で、同山から北方および東方へ尾根が延び、その山間を都幾川・槻川・雀(すずめ)川が流れる。北西部の村境を流れる槻川が南へ大きく蛇行する田黒(たぐろ)には、戦国期に小田原北条氏の支城松山城(現吉見町)に属した遠山光景の居城であったと伝える小倉城がある。都幾川は村域の南方を流れ、支流雀川を南東部で合せる。
 村域の中心集落であった玉川郷は都幾川の谷口集落で、山地と平地を結ぶ交通の要地にある。
 明治22年の市町村制の施行により、玉川郷・田黒村・五明村・日影村が合併して玉川村が誕生し、その後平成18年(200621日、旧都幾川村・旧玉川村が合併して新しい「ときがわ町」が誕生した。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町玉川4015
            
・ご祭神 武甕槌命 天児屋根命 経津主命 迦具土命
                 
伊弉再尊 速玉男命 事解男命
            
・社 格 旧玉川村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春季例祭 2月中旬
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0129728,139.2928284,16z?hl=ja&entry=ttu
 嵐山町・鎌形八幡神社から埼玉県道173号ときがわ熊谷線を南下し、1.4㎞程進んだ三又路を右斜め方向に進む。進行方向右手には岩殿丘陵地面を見ながら道なりに進み、龍福寺の先に玉川春日神社が見えてくる。
       
                                  玉川春日神社正面
       
          鳥居手前で右側に聖徳太子石碑        社号標柱
 社は丘陵地斜面上に鎮座していて、社のすぐ傍には旧名玉壺川(現雀川)が流れ、この玉川春日神社の周辺の約300mの区間だけ渓谷となっているという。これが名勝玉壺であり、武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の比企郡玉川郷(第6巻、201ページ)には、「名勝 玉壺とは、春日神社の前面にあり、この付近の地形の総称を玉壺という」と記載され、玉川の名前の由来ともなっている。
 
 一旦境内に入る前に、鳥居の左側に流れる雀川の渓谷を眺める(写真左・右)。社周辺の300mの区間にだけこの
渓谷があるという事だが、逆を解せば、先人は後世の我々にも分かるように、この区間内に社を鎮座させたとも解釈することができる。
『新編武蔵風土記稿 玉川郷』
 春日社
 村の鎮守とす、慶安二年社領五石一斗の御朱印を賜ふ、當社は貞和三年の勧請なりといへど、正き證はなし、社は山上にありて、社前に古松など繁茂せり、麓に少き並木あり、此邊に古木多し、傍を玉壺川流る、其兩岸岩石なるがうへ、川の中にもこゝかしこと、大石さし出たれば、流木これにせかれ、屈曲して流るゝさまなど、社前より望むに尤も勝景と云べし、
 名勝玉壺の巨岩が織り成す渓谷美と相まって、この境内全体には厳かな雰囲気が漂っている。まさに隠れたる名社と称しても過言ではあるまい。
        
                                玉川春日神社正面鳥居
        
                                      境内の様子 
 玉川郷の鎮守社であり、社一帯の森は、鎮守の杜として人々に親しまれてきた。冬でも豊かな緑の葉を具えたスダジイやアラカシ、タブノキ等の大木がこんもりと繁り、林内にはヤブツバキやサカキ等が多数育って風格のある照葉樹林となっている。この照葉樹林は、遠い昔の玉川地域の自然の姿を今に留めている、ふるさとを代表する自然の森であり、現在埼玉県の「ふるさとの森」に指定されていて、案内板も設置されている。
        
            境内右側に設置されている「春日神社御由緒」
『春日神社御由緒』
 当社の創立は、第九十七代後村上天皇の正平二年(北朝光明天皇の貞和三年(西暦一三七四))、字堀の内に館を構え、龍福寺を建立した藤原盛吉が、奈良の春日明神を勧請したと伝え、慈眼寺の開基玉川郷御陣屋の先祖寿昌院が社殿を建立し、江戸時代慶安二年(一六四九)徳川幕府より社領五石一斗の朱印を賜った。元禄五年(一六九三)、江戸神田明神式年遷宮の際、その旧本殿の用材を拝戴して社殿を修建し明治四十五年(一九一二)字細山の愛宕社、字地家の熊野社を合祀した。代々慈眼寺が別当として之を管掌したが明治初年の神佛分離の政令により今日に至り、また大正五年(一九一六)神饌幣帛指定村社に指定された。
 本殿は、間口奥行各一間(一・八メートル)流れ造り杮葺向拝付、拝殿は、間口三間(五・四メートル)奥行二間半(四・五メートル)切妻造り、これらの上覆は、間口三間半(四・五メートル)奥行六間(一〇・八メートル)切妻造り瓦葺向拝付である。
 当社は古来武神として武門の崇敬厚く、戦捷・出征将兵の祈願所として栄え尚武の神事として、毎年十月初九日古式流鏑馬の神賑行事を執行したが、日露戦争の頃馬不足のため休止し、その後これに替えて地方競馬を挙行したが、昭和十年以降休止した。
 第二次世界大戦後四十有余年を経て、近時漸く社殿の老朽神域の荒廃が目立つに至ったので、氏子相謀り、春日神社社殿等改修実施委員会を結成してその整備を計ることとし、村内外の有志に資金の寄進を呼びかけ、幸い全員の賛同を得てここにその目的を達成することが出来た。
 時あたかも平成元年、玉川村制施行百年に当り、この事業を記念して当社の御由緒を録し、併せて浄財を寄進された人々の氏名を刻して、いよいよ御神徳を敬仰するとともに、その芳志を後世に伝えるために、この碑を建立するものである。
                                      石碑文より引用

 現在この社は同町萩日吉神社が管理しているようだ。この萩日吉神社では3年に1回流鏑馬祭りが奉納されているが、この社も嘗て明治時代まで祭礼には古式流鏑馬の神賑行事があったが、日露戦争の頃馬不足のため休止し、その後これに替えて地方競馬が行われていたと伝えられ、未だにその馬場跡が残っているという
 また当社では、毎年211日に、「団子投げ」という神事がおこなれる。これは、集落ごとの氏子らによって、団子が供えられ、ご祈祷後に、太鼓を合図とともに、その団子を参拝者に向かって投げ与えるというもので、その拾った団子を、持ち帰り、食ことで、家内安全を祈念する独特の神事となる。
        
                     拝 殿
                この拝殿の奥には本殿はない。
                         拝殿と本殿が別になっている珍しい社。
       
 拝殿左側には雀川の渓谷で形成された岩石、巨石があり、その異様な光景は圧巻である(写真左)。本殿は拝殿左側の石段を登った上に鎮座している(同右)。
        
 磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののことをいう。
 日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代と共に、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 この玉川春日神社にしても、社としての創建は南北朝時代であったのであろうが、そのはるか以前より、この地域の守り神としての原始的な祭祀が執り行われていたのではなかろうか。
        
           石段を登り切るとやや広い空間があり、そこに本殿が鎮座している。

「埼玉の神社」によると、『明細帳』には「貞和丁亥年当郷古陣屋祖壽昌公之建立」と記されている。古陣屋とは、当社の東方三〇〇Mほどの地にあった館を指すものと思われ、『風土記稿』には「塁跡小名堀ノ内にあり(中略)爰は竜福寺を開基せし藤原盛吉の居蹟なりと云」とある。しかし、「壽昌公」と「藤原盛吉」の来歴については確かな史料が存しないので、明らかではない”と記している。
 ここに記されている、龍福寺を建立した「藤原盛吉」、慈眼寺の開基玉川郷御陣屋の先祖「寿昌院」という人物に関して、筆者も資料等で調べたが、素性等全く不明な人物である。推測の域は出ないが、「藤原」姓故に奈良の春日明神を勧請し、社名を「春日神社」としたのであろう。

 ときがわ町内で「藤原氏」に関連する名所・旧跡は幾つか存在する。
①多武峰(とうのみね)神社…社を管理する武藤家は「元藤原姓」。706年この地を管理する武蔵国の藤原氏が大和国桜井の多武峯(現談山神社)より藤原鎌足の遺髪をいただき多武峯大権現を建立し守護神としたという。
②小倉城城主遠山氏…戦国時代の山城で、居城主は小田原北条氏の重臣遠山氏(或いは松山城主上田氏)とされる。この城主遠山衛門大夫は藤原光景といい、遠山氏の遠い祖先は美濃国遠山荘(現在の岐阜県恵那郡の南部)の出身で、大永年間(1521年~1528年)美濃国恵那郡遠山荘の明知城主の遠山景保の子の遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされる。藤原利仁を祖とする加藤氏一門の美濃遠山氏の分家である「明知遠山氏」の支流家。
③別所八剣神社再建した加藤隼人宗正…『新編武蔵風土記稿 別所村』において、「此に記せし加藤隼人宗正も、いかなる人なりしにや、其傳を失へり、按に田中村の舊家東吉が家系に帶刀先生義賢討れし後、其家名の此邊に落来りて、住するもの八人あり、其内に加藤内蔵助貞明と云もの見えたり、宗正は此人の子孫なるにや、今腰越村に加藤氏の土民あれど、是も先祖のこと詳ならず」とある。また小川町・腰越地域の旧田中村市川氏系図に「源義賢家臣、大職冠鎌足公孫田原秀郷八代後胤東国安房之住人加藤内蔵助藤原貞明あり、腰越郷に居住す」と記され、加藤氏も藤原氏である。

 ときがわ町周辺でも、毛呂山町の在地豪族である「毛呂氏」は、藤原北家小野宮流でもあり、筆者が調べた以上に藤原氏の残した痕跡はもっとあるはずである。その中に「藤原盛吉」や「寿昌院」に該当する人物はいるのであろうか。
        
                    本殿右側奥にこれもまた静かに祀られている境内社
                                詳細不明
 
 本殿の敷地には、拝殿に通じる南北の石段の他に、東側にも石段があり(写真左)、その先には古く、今にも崩壊しそうな両部鳥居が立っている(同右)。因みにこの鳥居の右手奥に境内社が鎮座している。
        
 写真の順番が前後してしまうが、本殿から東側にある石段を下る際に、振り返り撮った一枚である。正面の巨石はかなりの崩壊が進んでいるが、一枚岩のようでもある。この巨石の左側に拝殿があるわけであるが、拝殿と本殿を分断するかのようにどっしりとした重厚な存在感は、写真以上にかなりのインパクトがある。
 
 境内東側隅に設置されている「玉川村里山文化圏」と「玉川村春日神社ふるさとの森」の案内板

 玉川村春日神社ふるさとの森
 平成三年三月二十九日指定
 身近な緑が姿を消しつつあるなかで、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
 この森は、玉川村の中心地域にある春日山の南麓斜面上に広がり、鎮守の森として永く人々に親しまれてきました。多くの樹木が冬でも緑の葉をつける照葉樹林で、高くそびえるモミの木と、豊かな枝葉を具えたスダジイアラカシ、タブノキの大樹が風格のある森を形作り、その中にヤブツバキ、サカキ、モチノキ等が多数生育しています。私たちの先祖が遠い昔からあがめ、大切に守ってきた自然の森、ふるさと玉川を代表する森です。
 平成四年三月 埼玉県・玉川村

平成18年(200621日、旧都幾川村・旧玉川村が合併して新しい「ときがわ町」が誕生しているが、ここでは案内板通りの表記をしている。


参考ぢ領「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ときがわ町HP」
    「Wikipedia」「境内記念碑文」等


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萩日吉神社

 比企郡は小川町、川島町、滑川町、鳩山町、吉見町、嵐山町、そしてときがわ町の7町で構成されている。このときがわ町は埼玉県中部にある人口約1万3千人の町で、2006年2月1日に比企郡玉川村と比企郡都幾川村が合併して成立した。都幾川が町を南北に二分するように東西に流れ、その流域の大半の地域は外秩父連山に囲まれた地形だが、南西部のみ岩殿丘陵の西端に位置し街並みもそこに多く存在している。町の面積は約56k㎡で、この面積のおよそ7割が山林という大きな特徴があり、建具の里としても有名で水と緑に囲まれた自然豊かな町である。
 またときがわ町には慈光寺という寺院がある。慈光寺は埼玉県比企郡ときがわ町に国宝のある開山1,300年の歴史の名刹として有名 なお寺で、山号は都幾山。院号は一乗 法華院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第9番札所としても有名で、関東屈指の大寺院である。また埼玉県では数少ない国宝である「法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 33巻」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として知られている。
 このときがわ町の町中から西側に大きく離れた西平地区に萩日吉神社は静かに鎮座している。別当寺であった慈光寺の鎮護のため、日吉大神のご分霊を勧請し現在の形となったという。

       
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町西平1198
            ・ご祭神 大山咋命 国常立尊 天忍穂耳尊 国狭槌尊  伊弉冉尊
                 瓊々杵尊 惶根尊
            ・社 挌 旧平村鎮守・旧郷社
            ・例祭等 例大祭(流鏑馬・神楽)1月第3日曜日 
                 春季大祭(太々神楽)4月
29 他      
 萩日吉神社は、埼玉県道172号大野東松山線を白石峠方面に向かい、「宿」交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進んだ西平地区、萩ヶ丘小学校の南側にある。萩ヶ丘小学校の校門の向かい側に専用駐車場があるが、そこから萩日吉神社の鳥居が見え、説明しやすい。                  
「埼玉の神社」によれば、「都幾川上流の山間部に位置する西平は、「首都圏の奥座敷」に例えられる美しい自然環境に恵まれた場所である。その地内には、天武天皇二年(六七三)創建と伝えられる天台宗の古刹慈光寺や、八〇〇年も続く禅道場の霊山院、そして流鏑馬で名高い当社など、長い歴史を持つ社寺が集中しており、古くから聖地として知られてきた」と記載されていて、この地に来て実際に参拝すると、やはり周辺の雰囲気、なにより空気が違うと感じざるを得ない。
            
                            正面一の鳥居
 萩日吉神社      
 社記によれば、当社は人皇第二九代欽明天皇六年(544年)十一月、大臣正二位蘇我稲目宿禰によって創建されたと伝えられ、当時は萩明神と称したが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山の鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山から日吉(ひえ)大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮と改称したという。
 更に、『平村弓立山蟇目の由来』と称する伝書によれば、天慶八年(945年)に武蔵国司源経基が慈光寺一山の四至境界を定め、神境龍神山にて蟇目の秘法を習得させ、以来、当山を弓立山と呼ぶようになり、当社の祭礼には蟇目の神事に倣って四方に鏑矢を放つようになったと伝える。
                                                                                                          「埼玉の神社」より引用
          
          一の鳥居の左側、裏手にある社号標    鳥居の右手先にもある木製の社号柱                                      
          
           ときがわ町指定天然記念物で御神木の児持杉(こもちすぎ。写真左・右)      
             
 児持杉 村指定天然記念物
 男杉と女杉があり男杉の根回り6.4mで三本に幹が分かれている。女杉は根回り8.89mあり24本に分かれている。
 二本とも樹高が約40mあり樹齢はおよそ800年位といわれる。なお、この杉は古来よりニ樹を祈念する時は幼児を授けられるとの伝説あり、遠近男女の信仰があつい。
  昭和56年4月1日 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 児持杉を右手に見ながら石段を上がると一旦平らな空間が広がり、そこには二の鳥居、その左側には平忠魂社、またその参道の途中には萩日吉神社の由来を記した案内板がある。
                          
                                二の鳥居
 
       二の鳥居の左側にある平忠魂社            参道の途中に掲げてある由来を記した案内板 
萩日吉神社の由来
 「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇6年(544)12月に蘇我稲目により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治5年(1189)6月、奥州の藤原泰衛追討に際し、慈光寺に戦勝祈願しその宿願成就の後、慈光寺へ田畑1200町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑1町7畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄10年(1696)以降は牧野家の崇敬が厚く、「風土記稿」には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
 当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成3年3月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、1月の例大祭の日に本殿いおいて「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 
        手水舎の先 石段の両側には                   石段の先に社殿が見える。
       狛犬ではなく狛猿の石像がある。                 石段を上るにつれて神々しさすら感じる雰囲気。
            
                                 拝 殿
            
                          萩日吉神社の祭りを記した案内板
 萩日吉神社の祭り
 萩日吉神社ではこれまで、1月15日、16日に例大祭、4月26日に春季大祭、10月17日に秋季大祭の行事が行われてきました。
 1月の例大祭には流鏑馬祭りと神楽が奉納されます。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われましたが、県内でも現在毛呂山町出雲伊波比神社と当社の2ヶ所のみとなり、その貴重さが認められて平成17年3月に県指定無形民俗文化財に認定されました。当社の流鏑馬は、天福元年(1233)に木曾義仲の家臣七苗によって奉納されたことが始まりと伝えられています。その七苗とは、明覚郷の荻窪、馬場、市川氏、大河郷(現小川町)の横川、加藤、伊藤、小林氏です。現在は、三年に一度の1月第3日曜日、それぞれの郷から流鏑馬が奉納されています。
 神楽は、昭和52年に県指定無形民俗文化財に指定されました。1月例大祭には小神楽が、4月29日の春季大祭には太々神楽が神楽殿で舞われ、その厳かな調が神社の森に木霊します。
境内社の八坂神社の祭礼は、7月15日に近い日曜日に行われます。神輿の渡御があり、氏子各組より担ぎ番、行事、世話方が選ばれ行事を執り行います。この祭礼のとき、西平・宿地区では屋台囃子が奏でられます。
 また、西平・上サ地区氏子の行事として、10月17日に近い日曜日に、ささら獅子舞が奉納されます。屋台囃子もささら獅子舞も、それぞれ村指定無形民俗文化財に指定されています。
平成17年3月 都幾川村教育委員会
                                                             案内板より引用
 萩日吉神社を崇敬していた木曽義仲が戦死した後の天福元(1233)年、家臣七苗が明覚郷(荻窪・市川・馬場氏)と大河郷(横川・小林・加藤・伊藤氏)に移住し、義仲の霊を祀り流鏑馬を奉納したことに始まるという。鎌形八幡神社も同様だが、この比企地方には源氏3代(義賢、義仲、義高)の遺跡や伝承が数多い。
            
               社殿の右手には御井社(御神水)・釣取社・合祀社が鎮座している。
                        
      御井社(御神水)の奥に聳える御神木(写真左・右)。児持杉とはまた違う荘厳さをここでも感した。               
          社殿の左手にある神楽殿                     社務所だろうか
 
    社殿左手に鎮座する境内社・八坂神社等                石祠、詳細不明 

 ところで、由緒等の案内板で登場する蘇我稲目という人物は、6世紀に実在した豪族、政治家(506年~570年)で、蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。二人の娘(堅塩媛かたしひめ,小姉君おあねぎみ)を欽明天皇の妃(きさき)とし、天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにして、蘇我氏全盛期の礎をつくった。
 この蘇我稲目の時代は、氏姓制度の全盛期で、一族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度で、この時代の有力豪族は、大伴氏・物部氏・平群氏・葛城氏、そして蘇我氏が他の豪族をリードしていた。
 この豪族の中で、早くも衰退したのが、平群・葛城両氏で、その後、大伴金村が朝鮮半島の外交政策の失敗を糾弾され失脚すると、大連の物部氏(物部尾輿)と蘇我稲目の2大勢力の一巨頭となり、両氏の熾烈な権力闘争が繰り広げられた。
            
                         
 両氏の闘争で特に有名なものが、仏教受容問題で、物部氏は廃仏派、蘇我氏は崇仏派で、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、最終的には587年(用明天皇2年)の丁未の役という諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。

 ということは、少なくとも萩日吉神社に記されている蘇我稲目という人物は、崇仏派であり、寺院を創建するならまだしも、神社の創建に関連する人物とは考えにくいと一般的には思われてきた。
 但し、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られているようだ。逆にいうと、蘇我氏も日本古来の神々や社を敬っていた可能性も捨てきれないとおもわれるのだが。
 さて真実はいかなることだったのだろうか。
  

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