荒木天満天神社
・所在地 埼玉県行田市荒木2091
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧荒木村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 雹除け 3月25日 天神様のお祭り 7月25日
荒木愛宕神社から南下し「荒木」交差点をそのまま直進、栃木県道・群馬県道・埼玉県道7号 佐野行田線を400m程進むと、進行方向左手に荒木天満天神社が見えてくる。地図を確認すると、秩父鉄道・武州荒木駅のぼぼ北側500m程の場所に鎮座している。
県道沿いに鎮座する荒木天満天神社
『日本歴史地名大系』 「荒木村」の解説
主として見沼代用水左岸に位置し、小名八王子と新田が同用水右岸にある。北は須賀村、西は斎条・白川戸・小見各村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。「風土記稿」は当村の旧家益次郎の「先祖荒木兵庫頭ハ伊勢新九郎長氏ト共ニ関東ヘ下リタル七人ノ其一ナリ、子孫荒木越前ノトキ当所ニ住シテ忍ノ城主成田下総守ニ属シ、八十貫文ヲ所務セシ由」という。
また村内東部の長善沼は、越前の子兵衛尉長善の居所であり、長善は成田氏長と小田原に籠城して討死したとも伝えている。「増補忍名所図会」は長善沼周辺で鏃・銃弾・武具類多数が出土したといい、天文五年(一五三六)八月、忍城主成田長泰が上野国青柳城(現群馬県館林市)の城主赤井勝元と戦ったと伝える古戦場は(成田記)、ここであったろうとする。
荒木天満天神社正面一の鳥居
二の鳥居 赤を主とした両部鳥居
祭神は菅原道真公で、高さ一七センチメートル程の座像を祀っている。言い伝えによると、いつのころか荒木の字裏郷地の天神社が水害により字宿の内に流れ着いて、これを祀ったのが始まりであるといわれていて、創建年代の不明な時によく言われる形を残している。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 荒木村』
小名 八王子 鄕地 横町 上宿 中宿 下宿 はひ塚 行人塚
長善沼 村の東にあり、今は大抵開發して水田となれり、此地古へ荒木兵衛尉長善なるもの住せし所なれば、此名ありと云、
天神社 村の鎭守とす、
舊家者益次郎 傳云先祖荒木兵庫頭は、伊勢新九郎長氏と共に關東ヘ下りたる七人の其一なり、子孫荒木越前のとき、當所に住して、忍の城主成田下總守に屬し、八十貫文を所務せし由、其家の分限帳にも見ゆ、其子兵衛尉(初め四郎と云)長善は、天正十八年下總守と共に、小田原の城に籠りて打死せり、後忍の城も降りしかば、長善が居所も破却せられぬ、今村内長善沼と云は、其居蹟なりと云、長善が遺腹の子を村民等養ひ、長じて八左衛門と名乗り、氏を北岡と改めたり、此八左衛門村内天洲寺を開基せり、これより子孫當村へ土着し、今の益次郎に至ると云、されど今舊記等も失ひ、唯口碑に傳ふるのみなれば、其慥なることをしらず、
天満天神社 行田市荒木二〇九一(荒木字宿之内)
市の北東部、見沼代用水と上星川の合流点に位置し、水田の広がる農業地域である。
『風土記稿』には「或書に武州荒木の住人安藤駿河守隆光、法心して親鸞の弟子となり、名を源海と号せし事をのす、当国別に荒木の名を唱ふる所あるを聞ざれば、当所のことならん、古くより開けし地なることしらる」とあり、鎌倉初期にはすでに荒木の地名が見えることを記している。
当社の創立は、口碑によると、いつのころか、荒木の字裏郷地の天神社が水害により字宿ノ内に流れ着いて、これを祀ったのが始まりであるという。『明細帳』には「創立年月不詳明治四亥年四月社殿再築スト云且往古ヨリ該社ノ祭祀等一切当村東福寺住職二於テ執行ナシ来リシカ明治二年神仏混淆分離ノ際同寺ノ所轄ヲ離レ其後明治六年八月村社ニ申立済」と記す。
『風土記稿』によると別当の真言宗薬王山東福寺は、開山賢真が天正二年寂し、本尊大日を安置していると記している。
一間社流造りの本殿内には、高さ一七センチメートルの天神座像と鏡を安置する。座像の底部には「京七條大佛師□花□善之亟作之今□□上野下」とあり、鏡には「奉納文化十五年十二月国島なふ」と記す。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
当社は学問の神として信仰され、戦前までは旧暦一月二五日に勧学祭と称して小学校入学児童が参列し、学業成就の祈願を行っていた。
社殿には、江戸期から明治期にかけて奉納された多数の絵馬が掲げられ、信仰の厚さを物語っている。また「天満宮」の額は金網で覆われているが、これは、昔天神様のそばを馬が通る度に暴れて怪我をすることが重なったため、この額に金網を張ったところ、以来、馬が暴れることがなくなったという。また、神仏習合時代の名残として、三三年ごとに本殿に安置する天神座像の御開帳の行事がある。
本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社 社殿右側手前に祀られている境内社・石祠
左側の石祠は天照大神宮、右側の境内社は不明
境内右手に祀られている石碑群
中の三基は、左から塞神・塞神・辨才天(?)。
塞の神(さいのかみ)とは、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで,道祖神,道陸神 (どうろくじん),たむけの神,久那土(クナド)の神などともいう。村落を中心に考えたとき,村境は異郷や他界との通路であり,遠くから来臨する神や霊もここを通り,また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り,また防ぐために設けられた神であるが,種々の信仰が習合し,その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として,伝説と結びついた樹木や岩石があり,七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり,また流行病のときには道切りの注連縄 (しめなわ)を張ったりする。また、行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え,また子供の神としてよだれ掛けを下げたり,耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある。
境内社・浅間神社
境内の出入り口のすぐ右側には小さな塚があり、この塚は「浅間塚」と呼ばれ、俗に富士山を象ったものである。大東亜戦争頃までは「浅間講」が組織され、旧暦七月二一日には「火祭り」が行われていたという。この祭りでは、「オネリ」と称し、白装束姿で講元の家から行列を組んで浅間塚まで行き、境内に積み上げた薪に火をつけ、その明かりの中で祈祷が行われていた。
鳥居のすぐ手前で、一際目立つイチョウのご神木(写真左・右)
当社の祭りに関して、3月25日に行われる「雹除け」は、境内のイチョウの木の頂きに、竹を付けた梵天を立てるものである。また、7月25日の「天神様のお祭り」は、古くは舞台を掛け、地元の歌舞伎芝居が演じられていたが、現在はカラオケ大会がこれに代わっている。また、子供の担ぐ樽神輿が地域内を練っているという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」
「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「Wikipedia」等