古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下須戸御嶽神社

 明治期以前の「神仏習合」の色合いの深い社である。この「神仏習合」とは、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた信仰であり、思想である。
 本来は別な宗教である仏教と神道の一体化をはかったもので,奈良時代頃に出現した神宮寺にその起源をみることができる。越前国気比(けひ)神宮寺や若狭国若狭彦神宮寺が代表例であり,平安時代にかけて全国的な広まりをみせた。平安時代になると,仏が仮に神の姿で現れて功徳(くどく)を示すとする本地垂迹(すいじゃく)説が唱えられ,習合神道や仏教を中心にこの思想が展開され,祇園信仰や八幡信仰などの僧による神祇信仰も一般化した。これに対し,鎌倉時代以降は神道側から神を主とする神本仏迹説や種々の神道説が提唱された。習合思想は近世まで継承された。
 明治1 1868))年、王政復古の実現とともに、復古神道(ふっこしんとう)を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に何の違和感なく、自然と広く浸透していたのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸1284-2
             
・ご祭神 天御中主神
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 獅子回し 71415日 9月十五夜の日
 行田市街地を東西に走る埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に東行し、見沼代用水に架かる「須戸橋」を越えた用水沿いの路地を左折すると、すぐ右手に下須戸御嶽神社の社殿が背中を見せるように鎮座している。
        
                 
下須戸御嶽神社正面
『日本歴史地名大系』 「下須戸村」の解説
 北は荒木村に続き、西は見沼代用水を隔てて若小玉・小針の両村。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領で役高一千二九九石余。同一六年忍藩領となり、田園簿によると高一千六四八石余、反別は田方一一九町六反余・畑方五三町九反余。元禄一二年(一六九九)幕府領になったと思われ(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書など)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。
        
                  東向きの社殿
 下須戸御嶽神社の創建年代は不詳だが、見沼用水開発以前、星川が下須戸を流れていた五百年以上前に獅子頭が漂着した際に、当社に獅子舞を奉納したと伝承があり、古くから当地に鎮座、蔵王権現社と称していたという。
        
                      参道右側に祀られている浅間塚の石碑
 塚上には「浅間大神」が祀られ、その下には左から「辨財天」・「食行〇〇碑」・「富士登山記念碑」・「白蛇大明神」や「登山三拾三度大願成就」等の石碑がある。
        
                    浅間塚の先に祀られている境内社二基と石碑三基
       赤い鳥居がある社は稲荷社と思われるが、その左側の境内社は不明。
 一番右側にある石碑には「湯祈祷 釜唸 冬至哉」等の文字が刻まれている。「埼玉の神社」によると、昭和の初めまで境内にある御嶽山の信仰があったとの事。44日の祭りに宮司が社前に鎌を据え、これに沸騰させて手でかきまぜた後、笹の葉を浸し、参拝者にかけた。これを受けると無病息災となるという。この行事に関する石碑であろうか。
        
                    拝 殿
 御嶽神社(みたけじんじゃ)  行田市下須戸二七二七(下須戸字天王前)
 当社創立の記録は残っていないが五百余年前、見沼用水開発以前、すなわち德川入府百余年前星川本流が当下須戸を流れていた時に獅子頭三頭が漂着し、これを喜んだ村人が当社に獅子舞を奉納したとの伝承がある。これは鼻の穴から外を見る形式で、この獅子頭の古さからも伝承を肯定できよう。
「風土記稿」には「蔵王権現社二宇 一は宮本院、一は医王寺の持」とあるが、当社がいずれなのかは不明である。
 入母屋造り板葺きの本殿には、彩色四三センチメートルの蔵王権現像を安置し、わきに正徳三年十一月七日付けの卜部兼敬武州埼玉郡下須戸村正一位蔵王権現の宗源宣旨がある。
 境内にある御嶽社の碑(山岡鉄舟篆額)には、文化三年に改築した社殿が、明治一三年の暴風雨により境内の大木が倒れ破損したので新築したと記されている。明治初頭、現社名に改め、天御中主神を祭神とする。
 明治末期の神社合祀の際、当社は無格社であったため、合祀される予定であったものを四集落(現氏子区)挙げて反対し中止され今日に及んでいる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                拝殿向拝部の精巧な彫刻  
        拝殿の木鼻部位にも細やかな彫刻が施されている(写真左・右)。
             
    社の北側に隣接している下須戸自治会須戸橋集会所付近に聳え立つイチョウの大木
     集会所近くのイチョウの根本付近には「鹿島神宮参拝記念碑」が建ったいる。
        
                                社殿から参道方向を撮影
 氏子は下須戸地域の下分にあたり、兼業農家が半数を占める。当社の信仰の中心は9月の十五夜に行われてる獅子舞である。十五夜前は農作業も一段落するので10日間かけて練習をする。この獅子はよそより姿勢が低いので練習はきついようで、トイレの際も、窓に手拭を縛っておかなくては用も足せない程であったという。
 舞の種類は「橋渡り」「しめくぐり」「花遊び」「笹掛(ささがかり)」「鐘巻」等あり、この他に包み金を多く出さないと行われない舞や、特別な場所等でしか舞われない舞もあるという。但しこの獅子舞は笛方がいなくなってしまったため、近年は中止されているらしい。
       
           社の西側には見沼代用水が南北方向に流れている。


 下須戸御嶽神社から見沼大用水の1㎞程上流域には、同名の社が鎮座する。『新編武蔵風土記稿 下須戸村』に蔵王権現社が二社あると載せ、当社はその二社のうちのいずれかであるという。
        ・所在地 埼玉県行田市下須戸2727 下須戸農村センター内 
                 
                   
御嶽神社正面
 
     
社殿手前で参道左側にある         社殿手前で参道右側に祀られている
        「上組大正昭和史」の石碑          天神社・稲荷〇・庚申塔の石碑三基
                  
上組大正昭和史
           大正から昭和初期にかけて下須戸上組地区より
          
村長‣助役‣収入役の三役の方々が役職に就き長い間
        村政はもとより地区の発展のために尽くしてくださいました。
           村 長 村社新兵衛
           助 役 村社 正市
           収入役 渡辺萬三郎
          なお地域は違いますが旧太田村信用農業協同組合長。
           そして行田市農業協同組合長の田島実衛氏の農業
                  発展のため特に上組地区への指導力は偉大でした。
               近年においては教育者でした渡辺彰吾氏は文部大臣より
              表彰され、後年太田公民館運営委員長及び地区内子供たちの
           勉学に多大な貢献をされました。今日までに例のない
         上組の偉人のみな様の功績を讃えここに記するものです。
     
       
                    拝 殿
               
                   境内の様子


 下須戸御嶽神社から一旦「行田市 太田公民館」へ東行し、埼玉県道364号上新郷埼玉線に合流後、そこを左折、国道125号行田バイパスに到着する300m程手前で、進行方向左手の道路沿いに下須戸天満社が鎮座している。 
       
              ・所在地 埼玉県行田市下須戸1600
              ・ご祭神 菅原道真公(推定)
              ・社格 例祭等 不明
 下須戸天満社の創建、由来等は不明であり、『風土記稿』に載る「天神社」が当社かどうかもハッキリしないが、「埼玉の神社」による下須戸八坂神社の由緒によると、「明治期に現社殿を建造し、天神社・御嶽神社二社の計三社を合祀したが、三社とも戦後旧地に復した」と記載されていて、下須戸地域にこの天神社に相当する社は天満宮しか見当たらなく、推測ではあるが当ブログで紹介する次第だ。
        
              県道沿いに鎮座する下須戸天満社
                拝殿等なく、本殿のみの社
    県道沿いに鎮座している所から、江戸時代以前からこの道は続いていたと考えられる。

 一般的に、天満宮や天神社は、どちらも「天神信仰」で、『天神さま』という。
「天満宮」とは、菅原道真公を祭神として祀っている神社のことで、「天満天神の宮」といった意味の表現であるといえ、一般的には「天神様」と呼び親しまれていることが多い。
 一方「天神」信仰は、日本における天神(雷神)に対する信仰のことであり、菅原道真が後から結びついた。本来、「天神」とは「国津神」に対する「天津神」のことであり、特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばれるようになり、後に『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まったという。
 つまり、もとは「天津神」での雷神信仰と、菅原道真の怨霊信仰と結びつき、共に「天神さま」と称され、後代には怨霊や怨念の部分が薄れ、学者の神である道真が残り、今では天神・天満宮が学問の神様となったということのようだ。
 
   拝殿に掲げてある「天満社」の扁額     社殿の右側に祀られている石碑や石祠
                      左から辨才天・?・稲荷大明神・(稲荷、八幡)石祠
『新編武蔵風土記稿 下須戸村』
 天神社 常光寺持、
 常光寺 禪宗曹洞派、上州矢場宿恵林寺末、金昌山と號す、開山大庵文恕慶長十五年十二月廿五日寂す、開基榮覺常光は里正右衛門が先祖なり、寛永十三年正月十三日死す、本尊藥師を安ぜり、
 西光院 常光寺の末、瀧藏寺と號す、本尊彌陀、阿彌陀堂


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「山川 日本史小辞典 改訂新版」「Wikipedia」等


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