荒木三十番神社
・所在地 埼玉県行田市荒木3633
・ご祭神 三十番神(推定)
・社 格 旧荒木村鎮守
・例祭等 不明
荒木愛宕神社の西側で、行田市立見沼中学校の北東方向に荒木三十番神社は鎮座している。社は集落の北端部に位置し、その先には加須低地特有の見渡す限りの長閑な田園風景が広がる静かな地でもある。
荒木三十番神社正面
この「三十番神」は聞きなれない名称である。調べてみると、「三十番神」とは、神仏習合の神様で、わが国の著名な30神が、1か月30日間を毎日一体ずつ交番で祭神様を祀っている。略して番神ともいう。旧暦では1ヶ月が30日であるため、それぞれに神が割り当てられていた。このような結番思想は、古代中国、五代のころに五祖山(ごそざん)戒禅師が制定した三十日仏名(さんじゅうにちぶつみょう)におこり、それがわが国の天台宗に取り入れられ、のちに日蓮宗において盛んとなったといわれる。一般には法華経守護神として著名で、本地垂迹説(すいじゃくせつ)によった考え方。第1日目から順に、熱田(あつた)・諏訪(すわ)・広田・気比(けひ)・気多(けた)・鹿島(かしま)・北野・江文(えぶみ)・貴船(きぶね)・伊勢(いせ)・八幡(はちまん)・賀茂(かも)・松尾(まつのお)・大原野・春日(かすが)・平野(ひらの)・大比叡(おおびえ)・小比叡(おびえ)・聖真子(しょうじんじ)・客人(きゃくじん)・八王子・稲荷(いなり)・住吉(すみよし)・祇園(ぎおん)・赤山(せきざん)・建部(たけべ)・三上(みかみ)・兵主(ひょうず)・苗鹿(のうか)・吉備津(きびつ)の各神をあてるという。
境内の様子
広い境内だ。手入れもされ、解放感もある。参道右手にはお子様用の遊具が数基あり、左側には「荒木郷地裏土地改良区・荒木郷地農村センター」が建っている。この「土地改良区」は農業用の用排水路等を維持管理するために、組合員が設立した公共の法人で、荒木地区では、平成 24 年から荒木郷地裏土地改良区による県営ほ場整備事業が実施され、平成26年には30a 区画の水田が整備され、更に翌年27年には、12.4haの大区画ほ場整備も実施している。丁度社の後ろ側にその広大な農地が広がっている。
区画が整備された水田地帯については、今後とも優良農地として確保し、米麦を中心とした土地利用型農業を推進しているとの事だ。
低地に鎮座している為、社殿は一段高い場所に鎮座している。
拝 殿
創立等由緒は不明な社。「埼玉の神社」にも記載がなく、ネット等にも詳しい情報を掲載しているものはなく、写真と簡単な説明がある程度。但し『新編武蔵風土記稿 荒木村』に「三十番神社。 是も村内の鎭守なり。もとは石川某の屋鋪の鎭守なりしと、石川某は元成田に屬せし由、成田分限帳に石川玄蕃・石川内匠・石川彌右衛門・石川隼人・石川新九郎等見ゆ、これ等の内なるべし。天正十八年落城の後、當村に土着すと云、」と載せており、村の鎮守社である事、また戦国時代、忍城主成田氏の家臣の一人である「石川氏」が、当地を領有し、小田原北条氏滅亡後、当地に土着して氏神として祀られていたのが、後代村の鎮守社となったようだ。
石段手前にある「大山阿夫利神社」 社殿手前で右側にある「伊勢参宮記念」の石碑
と記されている木製の灯籠 その隣には「社殿改築記念碑」もある。
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名: 雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。この大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、また、山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり(あふり)山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。
荒木愛宕神社の項でも記しているが、嘗てこの荒木地域は、干損の地で、雨水を貯える溜池が随所に見られた。また荒木愛宕神社や荒木天満天神社には「石尊講」が結成されていたというのだが、この「石尊講」は「大山講」であり、大山阿夫利神社を信仰する講である。また、石尊講の多いことは、雨が少なく、難儀をしている所を意味するともいう。
つまり、荒木三十番神社の「大山阿夫利神社」の灯籠は、灯籠行事を行うために建てられていると考えられる。
社殿左側に祀られている境内社・天神社。
天神社の並びには「菅公一千年記念碑」「伊勢参宮記念碑」の石碑、「天満宮」の石祠あり。
拝殿の向拝部には「梅鉢」のご神紋がある。 扁額には「正一位」の神階が表記。
荒木三十番神社の創立に関わった「石川某」は、わざわざ「三十番神」を信仰した由来は資料等がなく、不明である。しかし当地から近い距離に日蓮宗の寺院があり、そこには「三十番神堂」が存在している。
小見地域の小見真観寺古墳に隣接する真観寺から200m程北西方向に「法華寺」がある。この寺院は、「日蓮宗正法山」と号し、元忍「蓮華寺」の旧地である当地に、明治21年堂宇を建立し法華房と称していたという。昭和21年に本堂建立、昭和47年(1973)に法華寺と寺号公称している。
蓮華寺の創建年代は不詳だが、当初は小見村に創建していたのが、忍城主松平忠吉(尾張徳川家始祖の先代)の命により文禄年中(1592~1596)に忍地域へ移転したという。この寺院も日蓮宗であり、「日蓮宗妙法山龍花院」と号していた。
『新編武蔵風土記稿 忍村』
蓮華寺 長光寺橋の側にあり、當寺は谷之郷に屬すといへり、日蓮宗荏原郡池上本門寺末。妙法山龍花院と號す、昔は小見村にあり、文祿年中左中将忠吉卿の命によりて、ここに移せしと云。本尊釋迦を安置す、鬼子母神堂 三十番神堂
『増補忍名所図会』
法華坊
観音堂の西方四五十歩で、民家がある所。ここは北谷蓮華寺の旧地だった。三十番神(法華経を守護する神)の石詞が小高い所にある。元亀年間(1570~1573)に今の北谷に移ったと寺記に書かれている。
但し、あくまで全て状況証拠であり、万人が認める一級的な資料がない限りは、筆者の妄想的な推測でしかない。真相はどのような事であったのだろうか。
社殿からの眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「増補忍名所図会」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」等