古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

白川戸五所神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市白川戸496
             
・ご祭神 月讀命 伊斯許理度賣命 天太玉命 宇氣母智命 日本武尊
             
・社 格 旧白川戸村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 お灯籠 725日 大祭 826
 行田市立長野中学校から埼玉県立進修館高等学校へと南北に通じる道路を北方向に進み、国道125号バイパス線との交点である「白川戸」交差点を過ぎて、更に500m程北行する道沿いに白川戸五所神社は鎮座している。
 戦国時代の天正18年(1590)石田三成らの軍勢により忍城は水攻めをされるが、その時に水をせき止めるために城の東側に半円形に取り囲むように堤を造った。南は熊谷の久下付近から東に進み、堤根より北方向に転じ、さきたま古墳軍の丸墓山古墳がある長野を経て白川戸に至る長大な堤であるが、堤の東北方向の端が、この白川戸地域となるのである。
        
                 
白川戸五所神社正面
『日本歴史地名大系』「白河戸村」の解説
 北は中世前期の荒川旧河道とみられる星川を隔てて斎条村、東は荒木・小見両村。西方に谷之郷(やのごう)・和田両村に囲まれて、当村の四四パーセントに及ぶ三六町歩の飛地があった(村誌書上取調帳)。村内に古墳時代後期の集落跡が存在する。成田氏の家人に白川戸隼人という者がいたという(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高五五〇石余。田園簿によると田高二六〇石余・畑高二九〇石余、旗本二家の相給。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで同藩領。
        
        
拝殿に通じる参道の左側には石碑が六基並んで祀られている。

 左側より、「天満宮・御所大明神・黄金大明神 常夜灯」と刻印されている石碑・(不明)・塞神・庚申塔・「三笠山大神・御嶽山大神・八海山大神」と刻印された石碑・白幡大神。
 一番右側に祀られている「白幡大神」は『増補忍名所図会 巻三 城東』に「白旗明神」として紹介されていて、天文年中(15321555)に上杉謙信が上野国より攻撃して来た時、ここで軍勢を揃えた。そのため今はその場所を馬揃(ばそろい)と呼んでいる。それからこの場所に白旗一流(ひとながれ)を取り落したのを、土地の人が拾いこれを石櫃(せきひつ)に入れ土の中に埋め杉の木を植えた。今でも白旗明神と崇(あがめ)祭られるが杉樹ばかりで神祠はない、と説明されている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 白河戸村』
 御所明神社 村の鎭守なり、黄金明神・三宮神・天神・稻荷の四座を配祀す、西明寺持

 五所神社  行田市白川戸四九六(白川戸字宮裏)
 当社の創建は今となっては全く不明となってしまっているが、昔から白川戸の鎮守として祀られ、今に至っている。文化八年の社号額や宝暦八年の石灯籠の銘から、当社は古くは御所大明神と称していたことが知られ、『風土記稿』にも「御所明神社 村の鎮守なり、黄金明神・三宮神・天神・稲荷の四座を配祀す、西明寺持」と記載されている。また『明細帳』によると主祭神は、月讀命・伊斯許理度賣命・天太玉命・宇氣母智命・日本武尊で、合祀神は大日孁貴命である。
 
明治初めの神仏分離によって、当社は別当であった西明寺から離れた。この時、従来から当社の神体とされてきた愛染明王像が政府に没収されるのを恐れた氏子たちは、これを西明寺に預け、新たに鏡の入った神璽筥(しんじばこ)を祀ったが、昭和一〇年ごろに再び愛染明王像を神社に戻し、現在のように神璽筥と共に内陣に納めるようになった。また、明治四二年には同大字内堤根にあった神明社を合祀している。
 本殿は三間社流造りであり、明治初期の建築と伝えられるが、棟札等の史料は無い。なお、かつて境内には樫や杉の大木が鬱蒼と茂っていたが、戦後の混乱期に燃料や材木が不足したため、やむを得ずこれを伐採して氏子の自家用に供した。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側に祀られている境内社・三峰神社

 当社の氏子区域は、かつての荒川の河道であったという上星川の南岸に位置する戸数七八戸の農村で、全戸が氏子となっている。
 年間の祭りは、一年の無事を祈願する元旦祭、境内に行灯をともす725日のお灯籠、氏子によるササラ(獅子舞)が行われていた826日の大祭がある。これらの祭事のうち、中心となるのは大祭である。この祭事は午前中に豊作を祈願する祭典があり、古くは午後からササラ獅子舞が行われていた。このササラは、最初に境内で一庭摺り、その後氏子区内の各戸を巡り歩く。獅子たちは、どの家にも立ち寄り酒を飲むため、村回りが終了する頃にはすっかり酩酊してしまうことから、氏子の間では「呑みザサラ」ともいわれた。
 現在では、このササラも行われなくなり、代わりに子供たちが獅子頭をかぶって村回りをしているとの事だ。
        
               社の北側に隣接してある
西明寺
 西明寺の創建年代は不詳だが、正嘉年間(12571259)に文殊堂として創建、慶長年間(15961615)に当地へ移転したという。
『新編武蔵風土記稿 白河戸村』
西明寺 新義眞言宗、長野村長久寺の末、天洲山種智院と號す、本尊文殊を安ず
 真言宗智山派西明寺
 天洲山種智院西明寺ト号シ創立年月日不詳。正嘉ノ頃、当地現文殊堂ニ一宇ヲ建立シ文殊菩薩ヲ安置スト伝ウ。後天正年間兵火ニ罹リ、慶長年間現在地ニ移築シ長久寺ヲ本寺トス。正徳四年本堂再建、昭和八年六月十四日雷火ニテ本堂庫裡全焼。昭和十二年再建ス。旧白河戸村ハ東西八町、南北四町、源頼朝ノ旗ヲ埋シト云ウ白幡塚、頼朝公供養塔等有源氏縁ノ地ト口碑ニ伝ウ
                                                                        境内掲示板より引用
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「増補忍名所図会 巻三 城東」
    「埼玉の神社」等

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