古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西ノ谷久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市西ノ谷1141
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧西谷村鎮守(推定)
             
・例祭等 例大祭 415
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0974608,139.5782791,17z?hl=ja&entry=ttu
 鴻茎久伊豆神社が鎮座する場所から一旦国道122号線「鴻茎立山」交差点に戻り、国道に合流後北西方向に進む。この地域は旧騎西町内で、国道左手には多くの工業団地が立ち並んでいて、通称「騎西藤の台工業団地」という。この工業団地の整備に関しては、生産活動及び周辺に及ぼす影響を考慮し、適正かつ合理的に土地利用を図り、質の優れた良好な地区環境の形成保持をするために、公共緑地及び民有緑地を十分に確保し自然と調和のとれた工業地の形成を図っているようで、事実団地内には多くの緑地や公園も整備されている。
 国道を700m程進んだ「西ノ谷」交差点を左折し、その後150m程進んだ最初の十字路を右折すると、西ノ谷久伊豆神社の鳥居及びその社の境内一帯が進行方向右手に見えてくる。
 後日地図を確認すると、騎西藤の台工業団地の北西部に位置しているようだ。
 社の東側に隣接して「西ノ谷十二区集会所」があり、そこの駐車スペースに停めてから参拝を開始する
        
                 西ノ谷久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「西谷村」の解説
 備前堀川を挟んで騎西町場(きさいまちば)の南、上崎村・下崎村の東に続く埋没台地の東端に位置する。田園簿によると田高・畑高ともに一〇二石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一九九石余、反別は田方・畑方とも一一町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに四七石余があった。
『新編武蔵風土記稿 西谷村』において、村名の由来として「當村の地形低くして、鴻茎村の方高ければ、其西の谷と云へる意にてかく名づくるよし、今その地形を見るにさもあらんと思はる」と当時の風土記稿編者の認識として記されていたようだ。
        
               鳥居の右側に設置されている案内板
        
                参道から二の鳥居を望む。
 埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
 加須市には、旧騎西町に鎮座する久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社を含め、市内7社あるうちの1社で、玉敷神社に最も近い社。
        
                    二の鳥居
       
       二の鳥居の先で、参道右側に聳え立つケヤキの大木(写真左・右)
        加須市保存樹木(ケヤキ・幹回り245.173㎝)で、指定番号 30
        
               参道左側に祀られている石碑二基。
 左側には「青龍大日大聖不動明王」、右側の石碑の中央部には「開聞覺明靈神」と刻印されている。
      
   石碑二基の並びは、解読不明の石碑(写真左)と青面金剛の庚申塔(同右)が建つ。
 庚申塔基壇部の一対の彫刻が興味を引く。火を起こしているのか、それとも笛を吹いているのか。
日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多いのだが、この像はそれに該当しない。不思議な像である。
        
                                                              拝殿兼本殿覆屋 
 久伊豆神社 例大祭 四月十五日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬され、くいず神社とも呼ばれる。
 当社の由来は不詳であるが、一説には加藤家の先祖が祀った神を、いつの頃からか村人が敬うようになったという。加藤家の先祖は北条氏の家臣であったが、小田原落城後、当地に住みついたと伝えられる。宝暦六年(一七五六)に社殿を再建した棟札があったことから、その創建はかなり古いものと思われる。
 拝殿は入母屋造りで、明治四十一年に合祀した八幡神社と大六天社が祀られている。
 境内には享保八年 (一七二三)銘の庚申塔がある。これは一つの顔と、八本の腕を刻む、 特異な青面金剛像となっている。
                             正面鳥居右側にある案内板より引用
『新編武蔵風土記稿 西戸村』には案内板に記されている「加藤氏」に関して詳しい記載がある。原文にて紹介する。
 當家者次郎左衛門
 加藤を氏とす、先祖は源左衛門と稱し、小田原北條家に仕へしが、北條家滅亡の時討死す、よりてその甥源次郎をして、源左衛門が娘福の後見すべき旨、氏政より文書を與へられしかば、源次郎福を伴ひて民間に跡か隱し、夫より當村に來り住せり、其後寛永九年八十餘にして卒す、福その跡を相續し、夫より連綿して今の次郎左衛門に至れりと云、その所藏の文書左の如し、
 今度上總行之砌、於殿太田源五郎越度割、其方伯父賀藤源左衛門見討死候、誠忠節不淺候、於氏政感悦候、然間一跡福可相續、然共只今爲幼少間福成人之上、相當之者妻一跡可相續條、其間者源次郎可有手代者也、仍如件
 永禄十年丁卯九月十日 氏政(花押)
           賀藤源左衛門息女
            
           
賀藤源次郎殿
        
                                     
拝殿覆屋内部
 
 西ノ谷十二区集会所の南側には「いぼとり地蔵」というお地蔵様がポツンと祀られている(写真左・右)。
 町指定有形民俗文化財 いぼとり地蔵
 この地蔵は、いぼとりに効用があることから「いぼとり地蔵」とよばれ、信仰されている。
 像容は、半跏像(左足を垂れ下げた形)で、京都壬生寺(みぶでら) 地蔵の系統を受け継ぐものと考えられる。
 銘文から、享保(きょうほう)三年(一七一八)に長谷川弥市という鋳物師(いもじ)の手によって造られたことがわかる。
 また、衣の部分が鋭く刻まれていることなどから、原型は木製であったらしく、原型の作者も相当な仏師であったことがうかがえる。
 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                            拝殿覆屋から境内を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    Wikipedia」「境内案内板」等

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