古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鴻茎久伊豆神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市鴻茎3991
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧鴻茎村鎮守・旧村社
             
・例祭等 大祭 410
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0920274,139.5836529,18.5z?hl=ja&entry=ttu.
「モラージュ菖蒲」から国道122号線を旧騎西町方向に3.5㎞程進む。「鴻茎立山」交差点を右折し、すぐ先の右斜め方向に進む路地へ移動し、暫く道なりに進行すると、左手に鴻茎久伊豆神社が見えてくる。実のところ、国道122号線沿いに社は鎮座していて、交差点手前からでも目視できるのだが、どうやら社は国道から背を向けているような配置となっているようで、社の正面にたどり着くためには、国道から一旦回り込むような進路となる。
 周辺には適当な駐車スペースはない。隣には集会所、又は社務所らしい建物があり、そこの道路面にある適度な空間に停めてから参拝を行った。
        
                 鴻茎久伊豆神社正面
 1889年(明治22年)41日、町村制施行に伴い、北埼玉郡騎西町・外川村・下崎村が合併し、騎西町が発足する。同時に、田ケ谷村・種足村・高柳村と共に鴻茎村も誕生している。鴻茎村は、芋茎・牛重・根古屋を併せて成立したが、当初、合併案に鴻茎村、芋茎村、戸室村、中ノ目村の四村が反対した。そこで、戸室村、中ノ目村の二村を種足に組みかえて、騎西町への合併に反対していた根古屋村と、水深村への合併を反対していた牛重村を合併し鴻茎村が誕生した。
 その後1943年(昭和18年)41日北埼玉郡騎西町・田ヶ谷村・種足村・鴻茎村・高柳村が合併し、騎西町となったが、一旦1946年(昭和21年)51日には分離。昭和29101日、騎西町、田ケ谷村、種足村、鴻茎村、高柳村の14村の合併案が出され、再び騎西町が誕生する。但し、高柳村では加須町との合併を望む意見が出たため、高柳村を除いた一町三村が合併して新しい騎西町が誕生した。高柳村はその後、昭和30320日に騎西町と合併する。
 2010年(平成22年)323日、加須市・北埼玉郡騎西町・北川辺町・大利根町と合併し、新たに加須市となり、現在に至っている。
        
                                  境内の様子
『日本歴史地名大系 』「鴻茎村」の解説
 村の北部は騎西町場に連なる埋没台地に、南部は見沼代用水左岸の自然堤防上に立地する。北東は備前堀川を隔てて根古屋(ねごや)村など。村内を岩槻、菖蒲(現久喜市)から忍(現行田市)・羽生へ抜ける往還が通る。「鴻ヶ茎」とも書いた(風土記稿)。鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという(埼玉県地名誌)。
「風土記稿」によれば村内に享保一五年(一七三〇)に築造した利根川除騎西領本囲の堤があるという。芋茎医王(いもぐきいおう)寺蔵薬師如来坐像の弘治二年(一五五六)五月付修理墨書銘に「武州鴻茎郷戸塚村医王寺」とみえる。田園簿によると田高七八四石余・畑高二七五石余、川越藩領。
 当地「鴻茎」は「こうぐき」と読む。前回参拝した「割目久伊豆神社」の地域名「割目」と同様に、中々個性的な名称である。『日本歴史地名大系 』での由来説明では、「鴻茎のクキは小高い所、丘などの意で、利根川の乱流した低湿地の自然堤防・埋没台地上にあるのでこの名が生じたという」として、地形上の理由がこの地域名となったとの事である。
 また別説では、鴻茎は古くは鴻ヶ茎と言い、「くき」から出た地名で、燃料採取地を意味する地名で、「久木」や「久喜」とも書いたともいう。

 なお、正面に一対の灯篭があり、その傍らに「力石」があるのが見える。向かって左側の石には「享保三年(一七一八)」銘の力石である。右側の石は大きさはむしろ大きいが、刻印はされていないように見える。
 
   左側の灯篭の外側脇にある力石         右側の灯篭の手前側にある大石
「享保三年(一七一八)」銘が刻印されている。  一見刻印がされていないように見える。
        
        鳥居を過ぎた参道の左手に並んで祀られている庚申塔、石碑群
        
                    拝 殿
        
             拝殿の左側前方に設置されている案内板
 久伊豆神社  大祭 四月十日
 当社は大己貴命を主祭神とし、福徳を授ける神として崇敬される。慶長七年(一六〇二)の騎西・大英寺の寺領帳に「久いつまへ」と記されていることから、創建は江戸期以前と思われる。
 古くは地内にあった安養寺(現在は廃寺)の管理となっていたが、慶応元年(一八六五)銘の手洗石 に「寿昌寺」の名を刻むことから、いつの頃からか同寺の管理に移ったものと思われる。明治四十年には地内に鎮座した九社を合祀している。
 また、江戸時代には境内にあった池の水を氏子が桶で掻い出し、泥を投げつけ合って「雨乞い」をしたという。
 なお、久伊豆神社は元荒川流域に多く分布する神社であるが、当地では「くいず神社」と呼んでいる(以下略)
                                      案内板より引用
 
 社殿左側隅には石碑が四基あり、社殿側から「日露戦没記念碑」(写真左)、「敷石記念碑」、「大東亜戦争記念碑」(同右)、「久伊豆神社 大鳥居記念碑」が建っている。
        
                   境内の一風景
 国道沿いに鎮座し、また社の北側には民家が立て並んでいるにも関わらず、境内は静かな雰囲気に包まれている。お社には不思議な消音効果装置が設置されているのであろうかと、ふと神妙な面持ちで考えてしまう今回の参拝であった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」「埼玉県地名辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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