古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

おくま山古墳


        
            ・所在地  埼玉県東松山市古凍86
            ・形 状  帆立貝形古墳
            ・規 模  墳丘長62m。後円部径40m・高さ7.0m、
                  前方部幅20m・高さ1.5m
            ・築造年代 六世紀前半(推定)
            ・指定日  昭和46年(1971年)64日(東松山市指定文化財-史跡)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0194596,139.4279718,17z?hl=ja&entry=ttu

 おくま山古墳は、国道254号線と埼玉県道27号東松山鴻巣線が交わる「柏崎」交差点の約200m東に位置している。埼玉県道27号東松山鴻巣線から国道に合流する約100m手前には「おくま山古墳」の標識が見えるので、すぐ先の路地を左折する。道幅の狭い道路に変わり、300m先の路地を右折、その後200m程南下してからT字路を右折してから暫く進むと右側におくま山古墳の案内板と鳥居が見えてくる
「柏崎」交差点の東側200m程しか離れていないが、進路を説明するとこのようなややこしくなってしまうのは、この交差点から直接古墳に進む単純な道がなく、上記のように右回り方向に進むか、又は国道254号線を直進してから左斜め方向に進む道を進んでから、その先の変則的なT字路を左折、北上し、その後左方向に進むルートの2パターンしかないためである。筆者が紹介したルートは県道沿いに「おくま山古墳」の標識もあったので、今回はそのルート紹介をしたが、国道からアプローチするほうは距離的には短いし、決して難しくないので、もし行く機会があった場合は、どちらでも良いので是非お試しして頂きたいと思う
        
                  おくま山古墳正面
 おくま山古墳は都幾川と市野川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しているという。都幾川と市野川が過去どのような流路であったかは、考古学的な詳しい調査が必要だが、古墳がどのような場所に築造されたかは何百年経とうが決して変わるのもではない普遍的な存在だ。謂わば古墳は「生きた歴史の証人」ともいえよう。
        
                           「市指定史跡 おくま山古墳」の標柱
        
                     案内板
 東松山市指定文化財
 おくま山古墳  昭和四六年六月四日指定
 この古墳は、都幾川と市ノ川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しています。周辺には円墳など十三基の古墳が残っており、柏崎古墳群と呼ばれています。この古墳を代表する古墳のひとつです。
 古墳は、丸く高い後円部(円丘)と低く裾を拡げる前方部(方丘)からなる、前方後円墳と呼ばれるものです。墳丘の規模は全長六二m、高さ七m、この周りに幅が広い濠(約一〇m、深さ一.七m)が巡らされ、現在でもその西側には、濠跡が窪んでみえています。 昭和六一年と平成七年の二回、濠の部分の発掘調査が行われ、人物埴輪(盾持ち人四体)や円筒埴輪が出土しました。盾を構えて立つ武人の埴輪は、この古墳に葬られた主人を守っていたと考えられます。
 平成七年の調査では、群馬県榛名山二岳の噴火による火山灰が、古墳を巡る濠跡に薄く積もっていたことが確認されました。この火山灰は六世紀のはじめ頃、関東の南東地域に広く積もったことがわかっています。 この火山灰や出土した埴輪などから、この古墳が造られたのは、六世紀はじめ頃までと推定されています(以下略)
                                        案内板より引用
        
             鳥居を過ぎると真っ直ぐな参道が続く。
        
       参道の先はおくま山古墳の墳頂部にあたり、古凍熊野神社が鎮座する。
 古凍熊野神社の創建年代等は不詳ながら、「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請したという。

「おくま」という名称由来は、当所全く分からなかったが、古墳墳頂に鎮座している社が古凍「熊野」神社であり、この古墳の別名も「熊野神社古墳」というところから、
「おくま」⇒「①おん+②くま」
敬意やていねいさを表す接頭辞である「御(おん)」の省略形。
熊野神社の頭字である「熊」。
 ではないかと勝手ながら推測した。
        
                後円部から前方部を撮影

 東松山市には古墳時代に築造された古墳が多数確認されている。その多くは高坂台地・松山台地・大谷丘陵地に築造されている。東松山市を含む比企丘陵地内には、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であった。多くは10m30m程の小古墳であるが、その中にあって大型と言われる古墳もある。
野本将軍塚古墳 前方後円墳  全長115m。後円部の高さ15m、前方部の高さ8m
雷電山古墳   帆立貝形古墳 全長85m。高さ7m、後円部径73m、前方部幅39m
諏訪山35号墳  前方後円墳   全長68m。後円部径40m・高さ9m、前方部幅30m
おくま山古墳  帆立貝形古墳 全長62m。後円部径40m・高さ7.0m 前方部幅20m
天神山古墳   前方後円?  全長57m。後円部高さ2.4m 前方部高さ1.4m

 これらの古墳は台地・丘陵地上に築造されているケースが多いが、何よりも「河川」に近い場所に古い古墳は造られている。筆者の勝手な推論だが、嘗て東京湾から荒川の支流を遡った集団がいた。東海地方(現在の岐阜、愛知、静岡)の集団が、小さい舟に乗って東京湾に入り、荒川を遡って、更にその支流を遡って居を定めたのではないだろうか。そこが小規模ながらまとまりのよい耕地を見つけることができる場所だった。

 というのも比企地域に築造された前期古墳はふじみ野市の権現山古墳や東松山の根岸稲荷神社古墳ら「前方後方墳」であるが、この「前方後方墳」の起源は東海地方であるという。
 また東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」で発掘された土器から、また古墳時代前期に県内最大規模の集落だった反町遺跡からは、東海地方で作られた外来系土器などが水運を通じて搬入されていて、東海地方や西日本の影響が強く反映されて成立したと考えられている。

 移動手段として「船」の活用はある程度の集団ならば、陸上より容易であるし、食料等の運搬も遥かに便利である。当時の船がどの程度の技術であったかは別問題として、現代の我々が考えている以上に海上や河川を利用した移動・運搬・交易は盛んであったと考えられる。
 さて真相や如何に。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「現地案内板」等
             

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