古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新井諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市新井541
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧新井村鎮守
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2233881,139.3070021,17z?hl=ja&entry=ttu
 沼尻熊野神社から小山川沿いの道路を南下し、備前渠用水を越えた左手にある「新井東部集落センター」の北側隣に新井諏訪神社は鎮座している。
「新井東部集落センター」には適度な駐車スペースあり。
        
                
新井諏訪神社南側の社号標柱
 社号標柱の正面に見えるのは「
新井東部集落センター」で、このY字路の右方向に行った先に新井諏訪神社の鳥居が左側に見えてくる。この角度からは丁度境内は真横を向いている配置。
 周囲は一面に広がる田畑風景の中に民家が数件固まって存在する閑静な地。北方向に伸びる道がY字路となるその扇型に広がる内包部に社がおさまっているような印象で、まるで左右に広がる道路が俗世間と一線を画すような結界にも見えてくるから不思議だ。
        
                 東向きの新井諏訪神社
『日本歴史地名大系』の「新井村」を参考に解説すると、新井村は、小山川が利根川に合流しようとするその下流域右岸に位置し、平均標高は34m程の沖積低地にある。東は蓮沼、西は上敷免(じようしきめん)、北は沼尻・棒沢郡成塚各地域と接している。
『新編武蔵風土記稿』では幡羅郡原ノ郷永井庄深谷領に所属し、東西十五里、南北十里。村の北辺を備前渠用水が東流し、耕作用水として利用していたという。
 また「和名抄」にみえる榛沢郡新居(にいい)郷の遺称地とする説もあり、歴史好きの筆者にとって、なかなか魅力的な地域である。
 この榛沢郡新居郷は、「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠いているが、賀美(かみ)郡の新居郷と同じく古訓は「にひゐ」であるという。「大日本史」国郡志と「日本地理志料」は現深谷市の新井を中心とする一帯としている。
       
 鳥居の手前で左側にある看板(写真左)。由来等書かれていたのであろうが、今は解読不明となっている。右側には「諏訪神社」と刻印されている社号標あり(同右)。
      参道左側にある神楽殿             右側には手水舎あり。
 「武蔵国賀美郡新居郷」に関していうと、「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・名博本に新居とあるが、東急本・元和古活字本は新田とする。いずれが正しいか決めがたい。この「新居」郷は全国的な名称で、各地域にあるが、どの場所でも訓を欠いている。但し「延喜式」兵部省に伊予国の新居駅について「にひゐ」の古訓を伝えている。新田であれば多摩郡に同名郷があり、「迩布多」(高山寺本)、「尓布多」(東急本)の訓がある。
        
                                         拝  殿
               この社の創建時期、由緒等不明。
 新井諏訪神社から直線距離にして1.4㎞程南の明戸地域にも同名の諏訪神社が鎮座している。この社は元々「字新井」に鎮座していたが、明治四十二年近隣の社を合祀(字聖天木の住吉神社、字田中と字明ヶ塚の二社の稲荷神社、字新屋敷の神明社、字駒帰の市杵島神社、字本郷の大雷神社の六社)し、「字田中東」の八坂神社境内に遷座した。八坂神社はこの際、当社の末社となった。また、同時に社地が狭小であったために、氏子から土地の寄付を受けて拡張を行ったという経緯がある。
 
     拝殿、向拝部・木鼻部の彫刻        拝殿左側面には幾多の奉納札等がある。
                           この地域の信仰の深さであろう。
 筆者は当初この「字新井」は明戸村の小字と解釈していたが、『新編武蔵風土記稿』の小字名にはこのような名はない。一方「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」に紹介されている「大瓦堂明竹(たいがどうめいちく)」の出身地は「幡羅郡明戸村字新井(現在の深谷市新井)」と記載されているところから、この「字新井」は現在の深谷市新井と考えてよさそうである。
        
                                   本殿部を撮影
          本殿の左側には一基の石祠が祀られている。詳細は不明。
           また本殿奥にある「蔵?」は「神興庫」かもしれない。
 因みに1889年(明治22年)41 町村制施行により、蓮沼村、江原村、石塚村、沼尻村、藤ノ木村、堀米村、新井村、明戸村、上増田村、宮ヶ谷戸村が合併し幡羅郡明戸村が成立していて、その後、1896年(明治29年)41 幡羅郡が大里郡、榛沢郡、男衾郡と統合し大里郡となっているので、「幡羅郡明戸村字新井」の名称は、1889年から1896年の間となり、それ以降は「大里郡明戸村字新井」となる。この名称は1955年(昭和30年)11 深谷町、幡羅村、大寄村、藤沢村、明戸村と合併し深谷市を新設するまで続く。
 という事は、明戸諏訪神社の合祀が明治42年にあたるが、その年代はまさに「大里郡明戸村字新井」の頃であったと考えられる。
 
   社殿右側にも多くの境内社や石祠が祀られている(写真左・右)が、どちらも詳細不明。
 
          境内右側奥に鎮座する境内社・稲荷神社(写真左・右)
        
                   社殿からの風景

 総じて考えるに、明戸諏訪神社に関して、大里郡神社誌に「明戸村諏訪社は、慶長十六年、上野国高岡村の人田村外記・亀井宇丹なるもの奉授して、此の地に移住し来たって祠を建てたりと云ふ」とあるが、当初は「字新井」に鎮座していたわけであるので、その創建由来はそのまま「新井諏訪神社」の創建としてスライドできるのではなかろうか。
但しこれに関しては筆者の勝手な解釈であるため、真偽の程は現在全く分からない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」
    「埼玉の神社」Wikipedia」等

                      


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