古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

赤沼氷川神社

 鳩山窯跡群は鳩山町全域に散在する古代の窯跡群で、比企南丘陵の東西約5㎞・南北約4㎞に分布する律令制期東国屈指の大窯跡群である「南比企窯跡群」の東側の一画を占める。
 当窯跡群は所在する大字名を冠した大橋・赤沼・泉井・奥田・熊井等の幾つかの支群に分けられている。
 赤沼古代瓦窯跡は、7世紀に使われた窯の跡で、埼玉県内でも最古の部類に入る窯だと言われていて、埼玉県の史跡に指定されている。当初は武蔵国分寺の建立の為の窯だと考えられていたが、ここから出土した瓦との照合により、坂戸市にある勝呂廃寺の建立のために造られた瓦窯であることが分かっている。さらに、生産された瓦は小用廃寺(鳩山町)や山王裏廃寺・大西廃寺(東松山市)などの周辺寺院にも供給されたようだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町赤沼894
             
・ご祭神 建速須佐之男命 迦具土之神 大雷神
             
・社 格 旧赤沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9760478,139.3438963,17z?hl=ja&entry=ttu
 鳩山町役場から東南東方向で、鳩川左岸に鎮座する。直線距離で大体1.2㎞程。今宿八坂神社から一旦埼玉県道171号ときがわ坂戸線に東行し、その後「今宿交差点」を右折する。
 同県道343号岩殿岩井線を500m進んだ十字路を左折し、鳩川に架かる「亀甲橋」を渡り、「花見堂通り」に沿って進路をとると、赤沼氷川神社の登り旗ポールが右側に見えてくるので、そこを右折し、直進すると正面に社の鳥居が見えてくる。
        
                  赤沼氷川神社遠景
      社の周辺は豊かな自然が残り、所謂「里山」の景観を成しているようだ。
『日本歴史地名大系』 「赤沼村」の解説を紹介
 [現在地名]鳩山町赤沼
 石坂村の西、越辺川の左岸に位置し、村内を南東方に流れる同川支流鳩川の流域に耕地が広がる。北は大橋村、西は大豆戸村など、越辺川対岸南東方は入間郡長岡村(現坂戸市)など。永正一四年(一五一七)五月一四日、出雲守直朝・弾正忠尊能は越生(現越生町)の山本坊に証状(写、相馬文書)を送り、入西郡出戸より上の支配を「赤治(沼カ)之今蔵坊」などに返還することを証している。田園簿によれば田高二一四石余・畑高一七七石余、幕府領。ただし、この高には南方今宿村分も含まれていたと考えられる。
 元禄郷帳作成時までに同村は分村し、元禄郷帳では高二六六石余、国立史料館本元禄郷帳では米津氏など旗本三家の相給。

『新編武蔵風土記稿 赤沼村条』
氷川社 村内の鎮守なり、實蔵院持、
雷電社 密蔵院持、
八幡社 朝日八幡と號す、村民持、
愛宕社 實蔵院持、
稲荷社 櫻木稲荷と云、村民持、
實蔵院 新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺末、氷川山と號す、本尊不動を安ず、開山は本寺十七世權大僧都秀長、寛文七年九月廿五日寂す、
密蔵院 同宗同末なり、赤沼山と號す、本尊大日を安ず、開山權大僧都榮瑜、延寳九年八月十八日示寂す、
「村
の四隣、東は石坂村に隣り、南は今宿及び越辺川を隔てゝ、入間郡北浅羽村に境ひ、西は大豆戸村、北は今宿の條にいへる、七ヶ村入会の秣場に接せり」

 赤沼村には、周囲七村共同の「秣場(まぐさば)」があったという。この秣場とは、山野の採草地であり、ここで刈り取られる草は、近世農業にとって主要な肥料源であった。また同時に牛馬の飼料でもあった。
 これらの秣場は、数カ村の入会地(いりあいち)となっている場合が多く、秣場利用をめぐっての争論はしばしば起こっている。また千葉周辺での新田開発は、おもに秣場として利用されていた原野を開発するかたちで進められたために秣場を必要とする村々にとって、秣場面積の減少は、生活にかかわる大問題であった。このために争論も多かったという。
千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」より引用
 この秣場を巡る騒動は、江戸時代の正徳5年(1715年)、武蔵国多摩郡府中領(現・東京都府中市および小金井市付近)において発生した府中秣場騒動(ふちゅうまぐさばそうどう)を初めとして、伊豆国加茂郡・田方郡、上総国市原郡、武蔵国都筑郡、常陸国多河郡、下総国香取郡といった関東一帯で、秣場や入会をめぐる争いがあったことが、享保5年から14年までの評定所の記録「裁許留」で確認されている。
 それを受けて、享保8年(1723年)5月、町奉行所は武蔵野地域に宛てた触で、武蔵野周辺やその他の芝地・空地での農民たちの勝手な秣採取を戒めている。
 そして、元文元年(1736年)に、大岡忠相の主導で行われた武蔵野新田の検地により、周辺の住民が秣を採取する入会地であった武蔵野は、村別所持、個人別所持へと分割され、新たな地域秩序が形成されたという。
        
                 赤沼氷川神社正面鳥居 
 赤沼氷川神社は鳩川左岸の高地に鎮座する。この鳩川(はとかわ)は、埼玉県比企郡鳩山町を流れる荒川水系の一級河川で、鳩山町大字高野倉の岩殿丘陵にある通称「笹沼」(正式名称「新沼」)に源を発し、鳩山町役場など鳩山町の中心部を東西に流れ、鳩山町大字石坂で越辺川に合流する。
 元々は農業用排水路として整備された河川であるため、蛇行は少ない。1974年(昭和49年)9月の台風被害が契機となり、河川改修事業が行なわれた。
 鳩川の名前は近年の河川改修の際に名付けられ、当時の鳩山村の「鳩」の字に因む。それまでの旧名は「赤沼川」であったという。
       
                                    境内の様子
       
                境内に設置されている案内板
 御社名  氷川神社
 御鎮座地 鳩山町大字赤沼宮山台八九四
 御祭神  建速須佐之男命
         迦具土之神
           大雷神
 御由緒
 至徳元年(一三八三)甲子八月十八日関東管領上杉安房守憲方創建して村内八十余戸の鎮守社と称す。
 貞享元年(一六八四)幕府より除地明神免として畑二反一畝二十五歩(二一六一、五平方メートル)を寄附せられる。
 明治四年(一八七一)奉還する。
 明治四十一年(一九〇八)五月九日字内峰愛宕神社を、同免山大雷神社を合祀する。
 火防の神として崇敬篤し。
 境内末社
 菅原神社・稲荷神社・三浦神社 (他二社不詳)
 比企郡神社誌より

 案内板に記載されている「上杉 憲方(うえすぎ のりまさ/のりかた)」は、南北朝・室町時代の武将。関東管領。安房守。
 父憲顕に従って成長し、その死後は兄弟の能憲・憲春と共に公方足利氏満を補佐。康暦
1/天授5(1379)年に憲春の跡を継いで関東管領となり、武蔵・上野・伊豆の守護を兼ねる。翌年には下野の小山義政討伐の大将として出陣し、永徳2/弘和2(1382)年にこれを滅ぼした。一時期辞任していたこともあるが、結局15年の長きにわたって管領の職にあり、鎌倉府の政務を主導した。鎌倉北辺の山内に住んでいたといい、憲方の流れを山内上杉氏と呼ぶが、この家の基礎は憲方の代に固まったという
       
                     拝 殿
 
          本 殿              本殿奥に祀られている石祠群
        
                              拝殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「千葉市/千葉市地域情報デジタルアーカイブ」「境内案内板」等
        

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