古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

熊井毛呂神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1742
             
・ご祭神 大己貴命 天之穂日命
             
・社 格 旧熊井村産土神 旧村社
             
・例祭等 例大祭(熊井毛呂神社屋台囃子)7月第3土・日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9803065,139.32176,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢山町役場西側にある通称「椎ノ木通り」を800m程北西方向に進むと、丘陵地斜面上に熊井毛呂神社の鳥居が見えてくる。大豆戸三島神社からは北西方向で直線距離にして1㎞程しか離れていない。熊井地域の集落から離れた丘陵地の外れにひっそりと鎮座していて、まさに地域の産土神の如き社。
 駐車用専用スペースは周囲にはなく、鳥居のすぐ東側に1台分駐車可能な路肩があるのみ。そこに停めてから参拝を行う。
        
                  熊井毛呂神社正面
 熊井毛呂神社は、小鷹玄播が松山城落城後に帰農して当地を開拓、出雲伊波比神社を勧請して創建したと伝えられ、その年代は旧別当寺西福寺の開創と同じ慶長年間(1596-1615)前後と推定される。下熊井地区の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年(西福寺が別当を務めていた)日枝神社・山神社を合祀している。
              
                                                                    社号標柱 

              鳥居前で一礼してから参拝スタート。 舗装された参道を登るように進む。 
 参道は当所南方向に進むが(写真左)、途中から右方向に曲がるように進路が変わる(同右)。何か地形上の関係で参道の方向が変わるのか、とも考えたが、より深く考えてみると、参道正面延長線上に社殿を配置すると北向きとなるので、一旦参道を右方向に変えることにより、東向きにしたのではなかろうか。あくまでも筆者独自の憶測の域ではあるが。
        
                                     境内の様子
 下熊井の産土神的な社。参道の周囲が鬱蒼とした森を進む中、しっとりとした雰囲気の中、社殿に近づくにつれて、自ずと厳粛な気持ちが湧き上がるのを五感で感じる取ることができる。
        
                奥ゆかしい雰囲気のある拝殿
 毛呂神社 鳩山町熊井一七四二
 当地は、岩殿丘陵の南西部に位置し、中央部を鳩川が流れる。中央南部の丘陵上に鎮座するのが当社である。一帯は、大久保加賀守配下の小鷹玄播が松山城落城後に帰農して開いたとされる。平地が少ないため、当時は丘陵斜面を利用した焼畑耕作が主で、水田に転作する際には、最も良さそうな地を開いて平地に居住し始め、村として形を整えた。旧名主家の小鷹進家の伝えでは、先祖が名主になったのは玄幡の帰農後、比較的早かったというから江戸初期であろうか。
 当社の創建は、入間郡毛呂の臥龍山に鎮座する出雲伊波比神社の祭神大己貴命と天之穂日命の分霊を勧請したことによると伝える。別当の西福寺が元様八年(一六九五)と文化元年(一八〇四) の二度にわたり火災に遭い焼失したため、旧記・記録類が残っておらず、詳細は不明である。『風土記稿』熊井村の項に、「毛呂明神社 村の産神なり」と記されるのみである。西福寺は、開山の堯栄が慶長年間(一五九六-一六一五)の示寂と伝える真言宗の寺院である。
 明治四十年四月に、日枝神社と山神社を合祀した。日枝社は『風土記稿』に「山王社 慶安二年(一六四九)社領七石の御朱印を附せらる」と記され、地内では大きな社であった。合祀後、空になった同社の社殿は社務所に利用されている。ただし、昭和五十五年ごろに公会堂を建設してからは、祭典後の直会を公会堂で行うようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用


 鳩山町周辺には、小鷹(オダカ)姓が現在でも多く存在しているという。由緒によると、「小鷹玄播」なる人物が松山城落城後に帰農して当地を開拓し、出雲伊波比神社を勧請して創建したとされているが、元々この地域出身の土豪と解釈すれば、他地方出身者として、わざわざ苦労して幾多の候補地からこの地域を選び、開拓をする心身的な苦悩をする必要はない。

    拝殿の手前で左側にある神楽殿        「毛呂神社屋台囃子」の案内板
 町指定無形文化財 毛呂神社屋台囃子
 年代は詳らかではないが、この屋台囃子は悪魔退散、無病息災を願い創始されたと云われ、群馬県世良田より八坂神社の分身を勧請したのが始まりとされる。七月の例大祭には氏子の安全と繁栄を祈願し、囃子が奉納される。雅子は、「太鼓」「あたり鉦」「笛」、踊りには、「仁羽」「屋台」「数え唄」「子守唄」「祇園囃子」「鎌倉」「昇殿」「四丁目」などがある。現在、保存会を結成し伝統芸能の継承に努めている。
 昭和五二年五月一八日指定 鳩山町教育委員会
                                      案内板より引用
  
             本 殿                       拝殿左側に鎮座する境内社          
                      左側から稲荷社・天神宮。一番右側の石祠は不明 

    拝殿右側にも境内社が鎮座しているが(写真左・右)、どちらも詳細は不明だ。
       「埼玉の神社」では、明治404月に、日枝神社と山神社を合祀したという。
             これらの二社はそれらどちらかであろうか。

       
                 参道から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等        
  
 
 

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