古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北浅羽八幡神社

 武蔵七党の一派で最大派閥といわれた「児玉党」は、藤原姓で武蔵国から興り、丈部氏後裔・有道氏族で、藤原鎌足十四代の孫遠岩を遠祖とし、武蔵国児玉郡を領知して在名をとって児玉氏を称したという。その児玉党の本宗家2代目で、児玉・入西(にっさい)の両郡を領有した児玉弘行は、入西郡小代郷に進出してきたが、その子、資行(すけゆき)は入西三郎大夫と称し小代郷地頭職を賜り分家、入間郡入西原はその住地であるという。
 浅羽(アサバ)氏は児玉党の出身で入西三郎大夫資行の長子浅羽小大夫行業を祖とする。行業の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいて坂東武者として活躍している。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏の祖)、五郎行直(粟生田氏の祖)の3人の子があり、みな在地の地名を名字にしている。
 このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯(入西地域)に勢力を持った豪族であった。
 北浅羽八幡神社は浅羽小大夫行業が当地を所領として与えられた際に、鎮めとして鶴岡八幡宮の勧請を許され、この地に祀ったという。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市北浅羽262
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭(秋祭り) 十月十七日
 北坂戸駅西口から駅前通りを西行し、高麗川に架かる「北坂戸橋」を渡り、関越自動車道を潜った先の越辺川右岸に沿った道路を道なりに2㎞程進む。周囲は長閑な田畑風景が一面に広がる中、進行方向右手前方に北浅羽八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
            道路から離れた場所に社号標柱は立っている。
        
                       
北浅羽八幡神社正面の社叢林遠景
『日本歴史地名大系』「浅羽郷」の解説
 浅羽・北浅羽を遺称地とし、高麗川流域に比定される。「和名抄」所載の入間郡麻羽(あさは)郷の系譜を引く中世郷で、児玉党浅羽氏の本領とされる。児玉党系図(諸家系図纂)には入西三郎大夫資行の子行業は浅羽小太夫と注記されている。浅羽氏は鎌倉幕府御家人となり、「吾妻鏡」には文治三年(一一八七)八月一五日の鎌倉鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で行業の孫小三郎行光が的立を勤め、同五年の奥州合戦には行光の兄五郎行長が出陣しているなど(同年七月一九日条)、浅羽氏の活動が記される。永源寺にある元弘三年(一三三三)五月二二日銘の板碑は鎌倉幕府滅亡の際、北条氏に従って死んだ浅羽氏の供養塔といわれる。文和元年(一三五二)閏二月新田義宗・脇屋義助らが上野から武蔵へ攻め上った際、浅羽氏も新田軍に馳参じた(「太平記」巻三一新田起義兵事)
        
                               
北浅羽八幡神社正面
        
                                   参道の様子
 参拝前の社叢林の様子からかなりの規模の社とは想像できたが、鳥居を過ぎて境内に入ると、参道の回りには豊かな杉林等が生い茂り、創建時期の古さと由緒の確かさも相まって、貫禄ある風情を匂わせるものがある。
 
              参道に聳え立つご神木(写真左・右)
        
           境内に設置されている「北浅羽の獅子舞」の案内板
 北浅羽の獅子舞 坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 北浅羽の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、八幡神社のお祭りに演じられます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、遠い土地から来る力の強い神のかたちを現します。 古来祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。北浅羽の獅子舞は、江戸時代の天保年間(一八三〇年~一八四三年)に、西戸村(現在の毛呂山町)から伝承されたと言われています。
 演目は「雌獅子かくし」と「竿がかり」があり、演者の構成は、天狗・花笠・雌獅子・みの獅子・ほうがん(雄獅子)・弊負・笛吹き・ほら貝です。「ほうがん」と「みの獅子」の呼び名は、市内の他の獅子舞にはないものです。天狗はもともと入り婿が務める役で、笛吹き・ほら貝は成人が務め、他は地元の小・中学生が演じます。
 獅子舞の奉納は、八幡神社の大祭(秋祭り)の十月十七日と決められていましたが、最近は第三日曜日に行われるようになりました。前日に、近くの万福寺に勢ぞろいして準備を行い、身支度を整えます。その後、八幡神社まで練り歩き、獅子舞を日没まで続けます。大祭の当日も万福寺で身支度を整え、一度「雌獅子かくし」を舞ってから八幡神社に向かいます。
 大しめ縄を先頭に、万灯、天狗、花笠、笛吹き、弊負、雌獅子、みの獅子、ほうがん、氏子の順に行列して神社まで練り歩きます。神社では社前に礼拝して、天下泰平と五穀成就に感謝して、勇壮な獅子舞が奉納されます。
 平成十九年三月 坂市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 北淺羽村 八幡社
 村の鎮守なり、中央は八幡左右に天照大神・津島天王・鹿嶋明神・天神の四座を相殿とす、満福寺の持なり、當社の縁起はかの寺の記にのせたり、下に出す,
 神楽堂 末社甲良明神社
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

 浅羽氏は武蔵七党のひとつ児玉党武士団の一員で、小大夫行成(行業とも書く)の時に「浅羽氏」を名乗っている。行成の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいる。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏)、五郎行直(粟生田氏)の三人の子がいて、みな在地の地名を名字にしている。
 このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯に(入西地域)に勢力をもった豪族であった。
        
                                     本 殿
  すぐ北側には越辺川が東西に流れているためか、基壇には高い石垣が築かれている。

 八幡神社から350m程西側に浅羽氏一族の菩提寺である「福寺」がある。福寺」は、源頼朝に仕えて当地を領有した淺羽小大夫行成の三男五郎兵衛行長が当寺を創建、浅羽氏一族の菩提寺として栄え、建武年間(1334-1336)には足利尊氏より田地の寄進を受けている。その後永享年間(1429-1441)に淺羽下野守・同左衛門大夫等が戦死、檀越を失ったことから衰退したものの、俊誠(元和元年1615年寂)が中興開山したという。
『新編武蔵風土記稿・満福寺条』
今市村法恩寺の門徒なり、天徳山地蔵院と號す、相傳ふ當寺は當所の名家淺羽氏の菩提寺なりと、淺羽氏の事は【東鑑】等の書にも見えて、當國七黨の内の侍なり、猶上淺羽村の條見合すべし、されば古は當寺も然るべき古刹なりしならん、永禄の頃戰争の世に、上田周防守松山城を守りて落城の時、敵兵境内へ亂妨して放火せし後、一旦廢絶せしを、後に至りて俊誠と云僧再建せり、故に今此僧を中興開山とせり、寺傳に曰俊誠元和元年九月二十三日寂せり、寛文十年九月十三日淺羽三右衛門と云者の記せしものに當寺正八幡建立の来由を尋ぬるに、昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて、關東へ下向す、是を有道貫主遠峯と號す、其子を武蔵守惟行と云延久元年七月七日卒す、其庶流淺羽小大夫行成と云もの、右大将賴朝の時功ありて、兩淺羽・長岡・小見野・粟生田等の地を賜はる、又賴朝の命によりて、鶴岡正八幡を淺羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は、賴朝の供奉して奥州へ下り戰功ありしものなり、此人當寺を再建す、當寺昔は眞言律宗なり、後改て眞言宗となる、其後建武年中尊氏田地寄附の條あり、其文に曰く、
自元弘到建武戰死亡卒之幽靈數萬也、不弔者不可有因、茲淺羽之庄之中水田十町、畠田十町、永代寄進之、香花灯明誦經等、聊懈怠不可有者也、
建武三年七月十三日 源尊氏(以下略)」
 
      拝殿手前にある神楽殿           神楽殿右側に鎮座する若宮八幡社
 
    本殿左側奥に鎮座する三峯神社             拝殿右手前に祀られている高良神社

 ところで児玉党の本宗家2代目児玉弘行は、「有貫主・阿久原(あくはら)牧別当」という肩書の他に、「武蔵守(かみ)」という地方にあっては最高官職についていたというが、本拠地から遠く離れた「入西(にっさい)」郡を何時領有したのであろうか。
 児玉弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた「後三年の役」に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 但し一応断っておくが、これらの伝聞はあくまで「伝承」の類であり、史実だったかどうかもあやふやともいわれ、実際には「後三年の役」に児玉弘行は参戦していなかったのではないかという説もある。
        
            社の北側には越辺川の静かな風景が広がる。
 越辺川右岸の河川敷には「北浅羽桜堤公園」といわれる緑地公園となっていて、坂戸市内を流れる清流越辺川沿いに総延長1.2㎞にわたり約200本の「安行寒桜」の桜並木が植樹されているそうだ。

 児玉弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた後三年の役に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 源氏と児玉(遠峰)氏は密接な関係だったようだ。伝承では、後三年の役において軍功を上げたとして、源義家から団扇を賜ったとされる。これが後に児玉党の軍旗に描かれた唐団扇の由来であり、家紋が軍配団扇紋となった由来とされる。また後三年の役後の活動としては、伝承として、源義家が弘行の領有する武蔵国児玉郡に隣接する上野国多胡郡に住む多胡四郎別当大夫高経が、義家の命に従わないので、児玉有大夫広(弘)行に討手を命じたところ、広行は弟の有三別当経行を代官としてさし向け、高経を討ち取り、その首を武蔵国足立郡にある義家の宿所に届け、椚(くぬぎ)にかけたという。
 後三年の役に義家の副将軍として参加したという記事と合せて、義家に関連した後三年の役・多胡高経征伐による論功行賞として、所領が拡大したのではないかと推測される。
『小代行平置文』によれば、奥州征伐後に弘行と弟の有三別当太夫経行(有道児玉経行)は児玉郡を屋敷として居住する様に命じられ、弘行は児玉・入西の両郡の他、久下、村岡、忍などを領有したとされている。
 同時に惟行の次男で弘行の弟である児玉経行の娘は、源義朝の嫡子・義平の乳母となり、「乳母御所」を称したと『武蔵七党系図』には記されている。児玉党が早い時期から河内源氏(清和源氏の一流)に従属していた事が分かり、中央政府と繋がりのある河内源氏を棟梁と仰ぐ事で、政治的保護を求めたものと推測でき、この事から児玉党本宗家3代目(家行)の時代には源氏との繋がりが強くなったものと見られる。
        
                   静かに佇む社

 後三年の役に関して、朝廷は戦役を義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。更に義家は陸奥守を解任されている。義家はこの戦いの間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、そのため義家は新たな官職に就くことも出来なかった。
 結果として義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したわけだが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。当然、児玉氏は治承・寿永の乱(源平合戦)の時、源氏側に参戦しているが、児玉氏からみれば、源氏側参戦理由の一つに、義家への恩義が多分に入っていたであろうことは想像に難くない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」「Wikipedia」等


拍手[1回]