古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大宮住吉神社

『日本歴史地名大系』 「大宮住吉神社」の解説
 [現在地名]坂戸市塚越
 越辺川右岸台地上にある。祭神は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命・息長帯比売命・品陀和気命。旧郷社。中世には大宮、近世には住吉大明神などとよばれた。天徳三年(九五九)長門国豊浦とようら郡楠乃(くすの・現山口県下関市)の住吉神社を当国住人山田長慶が勧請したと伝え、北武蔵一二郡の総社とされた(神社明細帳)。江戸時代に作成された「住吉社覚」には、源義家が奥州出陣の際に簸川大明神を勧請したこと、治承四年(一一八〇)に千葉常胤が参詣し歌を一首奉納したこと、永享元年(一四二九)足利持氏が社殿を再建したことなどが記録される。

       
              
・所在地 埼玉県坂戸市塚越254-1
              ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命)
                   神功皇后 応神天皇
              ・社 格 旧北武蔵十二郡総社 旧郷社
              ・例祭等 祈年祭 223日 例大祭 4月第1日曜日
                   新嘗祭 1123
 坂戸市石井地域に鎮座する勝呂神社から南東方向に直線距離でも500m程しか離れていない社である。石井勝呂神社散策中、偶々近所の方にこの社の由来等をご享受頂いた際に、大宮住吉神社が近くにある事を初めて聞いた次第だ。
 案内板によれば、大宮住吉神社は、天徳3年(959)当国の山田長慶が長門国の官幣社住吉神社をこの地に奉遷して創建、文治3年(1187)には源頼朝の命により北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭を務めたという由緒正しい社。江戸期には徳川家光より慶安2年(1649)社領6石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格、大正15年郷社に昇格した。
        
                  大宮住吉神社遠景
 冒頭では「大宮住吉神社」の紹介をしたが、『日本歴史地名大系』には「塚越村」の解説が載っている。
 [現在地名]坂戸市塚越・栄・千代田五丁目
 石井村の南にあり、北部を飯盛川が東流する。南は高麗郡戸宮村、南東から北西へ江戸秩父道が通る。古くは塚腰といい、奥州出陣の途中源義家が当地に陣して西方にあった古塚に腰を掛けたことから起こった地名だと伝える(風土記稿)。この古塚は現在義家塚とよばれる直径八メートル、高さ一・四メートルの円墳で、墳頂に源義家を祀る塚越神社がある。天文二四年(一五五五)四月一五日の紀年のある坂戸薬師堂の薬師如来立像の胎内首裏墨書銘に「武州入西郡勝郷之内塚越村小河新右衛門尉法名善了旦那也」とある。小田原衆所領役帳には、江戸衆伊丹右衛門太夫の所領として「入西勝之内 大宮分藤井共」一九貫一三二文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。
 上記の解説では大宮住吉神社が鎮座する「塚越」の地名由来に関しての説明があり、康平年間(105865)、八幡太郎義家が奥州征討の際此地に訪れたが、越辺川・荒川の増水により、渡ることができぬまま滞陣し、村の西方にある古塚に腰をかけた。このため、此の地を「塚腰」と呼ぶようになり、後に変じて「塚越」と書くようになったと伝えている。
        
                 大宮住吉神社正面鳥居
        
              入り口付近に設置された大宮住吉神社の案内板
 大宮住吉神社 坂戸市塚越二五四-一
 社伝によると当社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っています。
 当社は、室町時代中期(永享元年・一四二九年)に、鎌倉公方の足利持氏によって社殿が再建されたといわれており、永享元年銘の棟札が現存しています。後に、江戸入府を果たした徳川家康からは、自社の所領を確定させた公的文書の御朱印状を賜り、以後代々の将軍に社領を認められ、将軍家光の代には朱印高六石を賜わったといいます。
 当社は、かつては、北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめており、江戸時代には、武蔵国の総社である府中市の大國魂神社の祭事に出席し、神楽を奉納した記録があります。近代には、近隣で唯一の郷社となり、氏子を中心に広く信仰を集めてきました。主な祭りは、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)であり、中でも例大祭は最も盛大で、多くの神楽が奉納され、午後に行われる「天下祭」では、天狗(猿田彦命)を先頭に行列が参道を歩み、神話の天孫降臨になぞらえて五穀豊穣・家内安全を祈願します。
 境内には、本社とは別に、複数の神社が合祀されている「境内社」があり、合わせて十七社が祀られています。道を挟んで境内の南側にある「神泉」といわれる池には中央に島があり、「市杵島比売命」を祀る厳島神社が鎮座しています。厳島神社の石祠(ほこら)には水の神ともいわれる「弁財天」の文字が刻まれており、かつては干ばつが続くと氏子が桶を持ち寄り雨乞いをしたといいます。
                                      案内板より引用

        
             同じく入り口付近にある坂戸の大宮住吉神楽の案内板
 坂戸の大宮住吉神楽 (坂戸市塚越二五四-一)
 国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財
 大宮住吉神楽は、江戸里神楽の影響を色濃く残した神楽で、物語を身振り手振りで表現する無言の劇のようなところがあり、演劇性の高い神楽です。神楽の持つ豊かな物語性によって、永く土地に根付き、人々に伝承されてきたものと考えられます。
「坂戸の大宮住吉神楽」は、埼玉県指定無形民俗文化財(昭和五十二年三月指定)であるとともに、平成二十二年三月十一日には、国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択を受けた大変貴重な神楽です。
 大宮住吉神楽は、天照大神までの神話を題材にした「十二神楽」とその他の神話や茶番狂言のような十座の「座外神楽」の演目で構成されています。
 古い記録によると、県内の児玉郡神川町の金鑽神社を中心とした金鑽神楽が、宝暦年間(一七五一~一七六四)に大宮住吉神楽から古代神楽を伝授されたと伝わっており、大宮住吉神楽の成立は少なくともそれ以前にさかのぼるものと考えられます。
 当初は神主によって神楽が奉納されていましたが、明治以降、氏子男子の有志によって引き継がれ、現在は「大宮住吉神楽保存会」が組織されて氏子を始めとした神楽師によって、神楽の保存・継承が図られています。
 神楽の奉納は、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)で行われ、中でも四月の例大祭は最も盛大で、午前中から夕方まで様々な神楽の座(演目)が色とりどりの面と衣装を身に付けた神楽師により奉納されています。(以下略)
                                      案内板より引用
        
             鳥居上部に掲げられている「北武蔵総社 大宮住吉大明神」の社号額
        
               鳥居を過ぎた直後の参道の様子
       嘗ての北武蔵総社という格式からか、風格が漂う荘厳たる境内が広がる。
       
                         鳥居を過ぎるとすぐ右手にある手水舎
        
   参道は鳥居を過ぎて暫く真っ直ぐ進むが、左側に神楽殿がある地点で右側直角に曲がる。
 国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財「坂戸の大宮住吉神楽」を奉納する舞台であり、神楽殿は社殿に対して正面にある。
     
  神楽殿付近で参道は曲がるが、その参道右手にはご神木が聳え立っている。(写真左・右)
       
                     拝 殿 
 塚越村 住吉社
 村の鎮守なり、慶安二年社領八石の御朱印を賜ふ、祭神は表筒男中筒男底筒男三神にて、村上天皇の御宇天徳三年己未二月二十三日長門國山田邑より爰に遷し祟り、其後永享元年己酉九月十五日、關東管領左兵衛督持氏再興ありし時、底通日女明日登日止の神を配祀す、此若三神は普通に祀ると異なりといへども、當社神秘にて斯の如しと云、村内に永享元年の棟札及び慶長十五年、地頭村越與惣左衛門と記せし棟札あり、永享の棟札は左之如し(中略)
此紗は古へ勝呂郷の惣鎮守にて、勝呂大宮と唱へしと云傳ふ、前にも出せし如く【北條役帳】に入西郡勝之内大宮分と有は、當社の事なるべし、
本社。中央に住吉明神、右に和歌三神、左に東照宮鎮座あり、(以下略)
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 
         拝殿内部            拝殿に掲げてある特徴ある扁額

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川(こまがわ)が市の南西から北東へ流れ、越辺川(おっぺがわ)に注がれる。 
 坂戸市の北東部に広がる坂戸台地は古くから開けた土地だったようで、古代官道である東山道武蔵路が南北に通っているといわれ、台地上は古くから古墳が数多く築かれた場所でもあったようだ。
 東山道武蔵路の成立は7世紀後半という。埼玉県下でその遺構として発掘されている場所は、所沢市内「久米・東の上遺跡」「下富・柳野遺跡」、川越市内「的場・八幡前、若宮遺跡」「的場・女堀遺跡」で、この女堀遺跡が現在確実に武蔵路の遺構として考えられている最北の遺跡との事だ。
 比企郡吉見町南吉見地域で2001年(平成13年)発掘された「西吉見条里遺跡」は、官道級の幅員を持つ古代道路跡で、その後も道路跡の延長上の遺跡で同様の発見があった。武蔵路の遺構との推測がなされているが、向きが北東に傾いているため、郡衙同士の連絡道、または常陸国へ通じる間道という説もあって確定していない。
        
                                    本 殿

 女堀遺跡以北の地域では、古代道路跡の遺構はまだ発掘はないが、遺構の北方向延長線上は勝呂廃寺や宮町遺跡がある。
 勝呂廃寺は坂戸市石井に所在し,
7世紀末から9世紀までの寺院跡で、県内最古・最大級の古代寺院跡と言われている。金堂や講堂などの主要建物とは異なる寺院の関連施設と考えられている。大溝は寺の周囲を巡るように掘られていると考えられているが、調査範囲が限られているため寺域の確認はできていない。大型の堀立柱建物跡は大溝同様に全体の調査が行われていないが、四面庇の建物であったと確認されていて、この寺の創建は渡来系氏族の勝氏が深く関わったものと考えられていて入間郡寺に比定され、武蔵路の延長ライン上にあるこの寺は駅路に近接して建てられたのではないかと考えられている。
 というのも、塔の相輪の一部や多量の瓦が出土していて、この寺跡の瓦は7世紀から南比企窯跡群で生産されている。南比企窯跡群は、各時期、上野国からの影響を受けるが、同時に武蔵国分寺の瓦を焼成している所から、上野国一勝呂廃寺(南比企窯跡群)一武蔵国分寺の関係は道路跡を介していたことが想定できよう。
 また坂戸市大字青木字堀ノ内の「宮町遺跡」では、平成元年(1989)に発掘調査が行われていて竪穴住居跡や堀立柱建物跡などが発見されているが、そこでは「樟秤」の金具とそれに使用した石製の錘が出土して注目されたが,墨書土器の中に道路を推定する「路家」が11号住居跡から出土していて、おそらく宮町遺跡付近を道が走っていたと推測されている。
        
                       参道の左手には境内社が纏めて祀られている。
 荒掃除神・荒神社・山王権現社・和歌宮神社(若宮明神社)・東照宮・木造神社・杉本神社・八重垣神社・子安神社・八坂稲荷社・天神社(天満宮)・国分神社(国分明神社)・疱瘡神社・総前神社・塚越神社・八幡神社等。

 東山道武蔵路は文献において、続日本紀』神護景雲2年(768)の奏勅、その後『続日本紀』にみえる宝亀2年(771)大政官の奏により、武蔵国は東山道から東海道へ所属替えとなり、東海道も相模国から海路で上総国に向かうルートから武蔵国の沿岸を通るルートに変更されて国府への支道もつくことになることにより、東山道武蔵路は官道から外れ、間道に降格されることになった。また律令制度の衰退により、道路の整備も行き届かなくなり、次第に道としての機能を果たさなくなったが、11世紀頃までは道として使用されていたようで、中世には、嘗ての東山道武蔵路と並行するような形で鎌倉街道上道が主要な道路として利用されたという。

 どちらにせよ、律令制度時期当時は、坂戸市北東部一帯は市内でも古くから開発されていた地域であり、その中に塚越地域は内包されており、北武蔵総社として大宮住吉神社がこの地に鎮座していることの意味は大変大きいと筆者は考える。
 
 境内一帯には深い社叢林が覆っており(写真左・右)、また社殿の右手には屋根付きの休憩スペースも設置されていて、地元の方々にとって憩いの場ともなっているようだ。 

 大宮住吉神社・正面鳥居の道路を挟んで反対側には「弁天池」があり、その赤い神橋を渡った先には厳島社が鎮座している。大宮住吉神社の境内社であろう。
       
                              厳島社正面 

   赤い神橋の先に厳島社は鎮座する。         弁天池の一風景

 追伸にて
 大宮住吉神社と関連する項目として、『増補忍名所図会』には平安時代後期の武士で、寿永
3年一ノ谷の戦いに弟の河原盛直とともに源範頼に従い、兄弟で平氏の陣に迫ったが、備中の真名辺(まなべ)五郎の矢に射られ、同年27日ともに討ち死にした「河原(川原)兄弟」に関して以下の気になる記載がある。

「勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり」

 河原明戸諏訪神社で取り上げた「河原兄弟」の出身地が実は「摂津国生田庄」付近で、この兄弟の祖先が武蔵国に目的を以って東行する際に、住吉神社の海上ネットワーク、または当時の武蔵国塚越地域に一大拠点を築いていた大宮住吉神社に神職、または社人(今でいう事務職員)として派遣されたのではないか、と推測している。
 もしこの推測が正しければ、平安時代当時の住吉神社系列のネットワーク網は現代を生きる我々が考えている以上に規模大きもので、驚かされるばかりだ



参考資料「新編武蔵風土記稿」「増補忍名所図会」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「武蔵国内の東山道について」「境内案内板」等    
   

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